非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 139-145

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第139章 身の置き場

 

「何もしないでね。」それが姜恒の最初の言葉だった。「絶対に何もしないで。あなたが危険な目にあったら私はどうなる?私にはもう何もなくなってしまうんだよ、兄さん。」

「わかっている。よくわかっているよ。」耿曙は悲し気に言った。

「でもどうしてなんだろう。」姜恒にはどうしてもわからなかった。道理ということであれば、理解できる。『素晴らしい始まりは往々にしてあるが、素晴らしいまま終わることはめったにない』(詩経大雅)というではないか。大臣殺しなど、よくあることだ。古今東西、どこででも起きている。汁琮が自分を殺したがるのはわかる。わからないのはなぜ今なのかだ。自分が汁琮ならこの時期に手を下しはしない。天下統一はまだ成し遂げられていない。自分の力を活用する場はたくさんあるのに。太子瀧はこのことを知っているのか?姜太后は?汁綾は知っているのだろうか?

 

耿曙は黙ったまま薬を飲み終えると立ち上がった。

「動かないで。」

「大丈夫だ、ハンアル。ちょっと外を歩きたい。一緒に行こう。王宮を出はしない。王宮内だけだ。」

姜恒は、最初の衝撃から次第に落ち着きを取り戻し、自らの知性を使ってこの問題を分析し始めたところだった。本当はじっくり考えていたいところだったが、耿曙は気持ちを入れ替えたいからと譲らなかった。そこで仕方なく付き合うことにした。耿曙は杖を使わず、少し歩くとすぐに腹部の内傷が痛みだした。それでも姜恒が処方した薬がよく効き、昨日よりはだいぶいい。彼は自分の状況を判断し、一月もしないうちに全快するだろうと考えた。ただ今の段階では気を付けなければならない。特にいつまた刺客が現れるかわからない内は。

 

「本当にどうしてなのかわからないんだ。彼との間には何の確執もないのに。ひょっとしたら玉壁関での暗殺未遂を恨んでいるのかもしれないけど、それを考えても、なぜ今なのか……。」姜恒が言った。耿曙は黙って聞きながら考えていた。今日はまだ更なる衝撃的な事実を姜恒は受け止めることはできないだろう。真相を知った時、何を思うだろうか。言うのも良くないし、言わないのも良くない。どちらも間違いであるのなら、一生隠しておきたいとさえ思ってしまう。だがそれでは彼を更に不公平に扱うことになる。俺は今、彼を騙している。いったいどうしたらいいのだろう。

「私を抑えきれないと考えたのかもしれない。彼が死んだら、汁瀧はきっと私の言いなりになるから、彼を守るために、私を殺そうと考えたのかも。」姜恒は独りつぶやいた。

「いや、違う。」耿曙も口ごもるようにつぶやいた。

 

一旦頭が冴えて来ると、様々な分析が止まらない姜恒だ。「あなたが私の傍にいる時は、私たちには『勤王之功』がある。彼の在位中に手を下さなければ、後になってからでは私をどうすることもできなくなるから……。」

「言っただろう、違うんだ、ハンアル。それだけではないんだ。」耿曙が言った。

二人は足を止め、見つめ合った。廊下の屋根から雨水が落ちている。雫が連なり、線のように見えた。言わんとしていることがわからず、姜恒は耿曙を見つめた。

「俺が悪いんだ。彼を信じるべきじゃなかった。俺が甘過ぎた。優しくされたし、お前が傍にいなかった。自分が誰かさえもわからなくなっていて、俺は……。」

「大丈夫だよ。」姜恒は逆に耿曙を慰めた。「あなたにとってはお父さんだったんだから。」

しかし耿曙は手を上げて、姜恒に支えなくていい、話し終えさせてくれと示した。一人で廊下に立ちすくみ、空から落ちて来る雨を見上げた。「あの夜、おれは突然あることに気づいたんだ。」

「いつのこと?」何を聞いていいかわからなかった姜恒は時間のことに触れてみた。

「お前が落雁城外で怪我をした日だ。あの日俺は郎煌と話した。部屋に帰るとお前は昏睡していて、逆に俺は全く眠れずにお前を見ていて、玉壁関での雪の夜のことを考えていた。

「ああ、私が彼を暗殺しかけたあの日だね。」

「ずっと何かがおかしいと思っていたんだ。今になって、今頃になって、ようやく思い出した。あの時、お前は太子霊に目隠しされていただろう?お前が前に話してくれたことを、もう一度言ってくれ。なるべく詳細を漏らさずにだ。」

姜恒は頷いて、当時の状況を耿曙に細かく説明してみせた。汁琮が彼を胸に抱いて、どんな風に彼の目隠し布をとって、双眸を見ていたかを含めて。

「あの時お前は感覚に頼っていて、彼が手の中に何を持っていたか知らなかった。」

姜恒は頷いた。耿曙は言った。「知っているか?あの時、彼はお前を抱きながら、短剣を握っていたんだ。あれは一番最初に彼に会った時に俺が彼に差し向けた兵器だ!」

姜恒:「!!!」

姜恒:「彼は知っていた!彼は私が刺客だと知っていたの?!」

「違う!彼は知らなかった。そこが肝心なんだ!もしお前が刺客だとわかっていたなら、お前を抱いたりするか?近くに寄せつけさえしなかったはずだ!」

あの時、汁琮が姜恒の本当の身の上を知っていたかはわからない。だが一つだけはっきりしているのは、汁琮は姜恒の言い分を全く疑わず、偽物でないとよくわかっていたことだ。それを前提に考えると、汁琮はあの夜、耿曙に知られずに自ら姜恒を殺そうと考えていたのだ。ただ彼は読み違えた。姜恒は耿淵の息子であるだけでなく、刺客でもあったことを。

結果、汁琮は殺す側から殺される側に立場が変わり、耿曙が部屋に入って来た瞬間に、短剣を見られたのだ。あの時は気づかなかったが、色々わかった後ではあれこそが鍵だったのだと思えた。

姜恒の方は逆に余計わからなくなった。汁琮とは最初からどちらかが死ななければならないような関係だったというのか。「どうしてなの?」それでは全く理屈に合わない。

「俺にもわからないが、不思議なのは、彼は俺に初めて会った時には殺そうとしなかった。」

「一つだけ説明がつくけど、いいや。やめておく。」姜恒は考えた末、そう言った。

耿曙は眉を上げて、物問いた気に彼を見つめた。

「いつか機会があったら、直接聞いてみるよ。これについては、私も確かではないから。」

耿曙は黙っていた。姜恒は何となくわかった気がした。自分がいなければ、耿曙の忠誠は汁家に余すところなく捧げられる。汁琮と太子瀧父子に、雍王室のために一生を捧げるだろう。

自分たちの父のように。だが、自分が戻った瞬間に事態は変わった。自ら育てた義子が太子瀧への忠誠を貫くか保証できなくなった。彼は姜恒のためなら死も厭わないからだ。それにしても急すぎる。なぜこうも急ぐ?根底にある原因がどうしてもわからない。

 

「お前はまた彼に会ってみたいか?」耿曙が尋ねた。

「あなたがいれば、私に恐れることなんてある?」姜恒は答えた。

その時、姜恒はもう一人の人物を思い出した―――界圭!

いつかの夜、落雁で、不合理にも界圭はいきなり彼を連れ去った。界圭がなぜ自分をどこかに連れて行きたかったのか、姜恒はついに理解した。当時は何の脅威もなかったが、界圭にはきっとわかっていたんだ。汁琮が彼を殺そうとしていると。

 

耿曙は何と答えていいかわからなかった。雍国の全勢力に対抗するには自分の力だけでははるかに及ばない。どんなに武芸に優れた刺客であっても万軍に攻め込まれたら一人の力が尽きるまで戦っても相手にはならない。だからこそ昭夫人はあの時命を失ったのではないか。それでも耿曙は真剣な表情で頷いた。―――これは二人の約束だから。

「うん。俺が守る。守りたい。」

「界圭は事情を知っていたに違いないね。」

「お前は帰って彼に聞いてみたいか?」耿曙は少し不安げに尋ねた。悔やんでいるような表情だ。だが姜恒は深く考えず、しばらくしてから、「それよりこれからどうしようかって考えているよ。」と言った。耿曙は言った。「俺はこの件を解決しに行きたいと考えている。」

そして彼は再び、ゆっくりと御花園の方に向かって回廊を歩き出し、支えないでいいと示した。「どうやって解決させる?」これまで長い間、二人が未来について語る時、主導権を持って二人の行く末を決める責任を負うのは姜恒の方で、耿曙はそれを受け入れてくれる、そうした関係性に慣れていた。

 

だが落雁城を出て以来、耿曙が変わったことに姜恒はだんだんと気づいてきた。決定権を担い、二人の命運を決める役になり始めた。二人の関係が以前とは違うかのように、どんなことでも耿曙が解決方法を考え出すのを待つようになった。

「恒児、俺の言うことを聞いてくれ。」

「私はあなたの言うことを聞きます。」姜恒は笑い出した。耿曙の姿を見て、確信した。耿曙は今まで通り、いつまでも永遠に一緒にいてくれる。彼の兄であり、彼の全てだ。

耿曙はゆっくりと庭園に向かって歩いて行った。体をまっすぐにし、怪我などしていないかのようだ。声音もとても落ち着いている。姜恒は鋭敏に感じ取った。彼は誰にも自分の怪我のことを知られたくないんだ。

書殿内で二人の幕僚と議事を行っていた太子安は、中に入って来た耿曙を見て頭を上げた。太子安は立ち上がって話しかけた。「刺客を二人捕らえたそうだね。状況についてはよく知らないが、項将軍が現在残党を捉えようと……。」

「太子、」耿曙が言った。

耿曙は手を背中に置き、雍国時代のような武将出身王子の風貌に戻っていた。彼がもう身分を隠すつもりがないことに太子安はすぐに気づいた。

「淼殿下はお決めになったのですか?」太子安が尋ねた。

耿曙は姜恒に目を向けることなく、言った。「決めました。貴国の軍隊をご準備下さい。三月三日、帰国のために出征します。」

耿曙は海東青を放って、嵩県に通知した。『全軍戦闘態勢に入るように。:太子安自ら、朝廷と父王を説得し、連合会議の前に、梁国の南半分を一挙に支配する。』

 

「ほお?」郢王熊耒は姜恒直伝の『神功』の第一段階を修練し終え、ここ最近、元気百倍だった。「子淼が我が国に助太刀して戦うって?そんなことがあるのか。条件は何だって?」

太子安は父親に向かって言った。「姜大人は彼の弟であるから、江州で我々が保護すること。郢雍には兄弟の盟があるので、それは当然でしょう。」

姜恒と耿曙は傍らに座って話を聞いていた。『子淼』はこの場にいるとは、太子安は言うわけにはいかない。「我が国は八万の兵馬を準備し、彼と落ち合った後、嵩県駐在の雍軍が本国の先鋒として戦います。」

姜恒は、「その時は私も嵩県に行って、あ……私と聶海は、兄の参軍として共に照水に出征します。」

郢王はすぐに表情を変えた。「それは駄目だ!絶対にダメだ!元々刺客に狙われているというのに、もし君に万が一のことがあったら、本王はどうすればいいと言うのだ?」

姜恒は一瞬判断しかねた。熊耒は本当に『神攻』の後継者を惜しんでいるのか、それとも人質を手元に置いておきたいのか。

 

「兄だけを行かせられません。」姜恒は言った。

「うん、彼の兄だけを行かせられない。我らは二人一緒であることが必須だ。」

耿曙はわざとかどうか、片手を烈光剣にのせ、横から口を出した。

姜恒は『ふざけないで』と目配せした。だがおそらく熊耒は既に耿曙の正体を疑っていたのではないだろうか。

熊耒:「それは……。」

「父王、姜大人は我が郢国がとても気に入られております。」

「必ず無事に戻って来ます。」姜恒は言った。利害関係のある中、熊耒の胸の内がはっきり読める。『汁淼はなぜ郢国の為に戦うのか?逃げ場を確保するためだろう。汁琮が彼らを殺そうとしているなら、雍国に戻ることなどできない。新たな身の置き場を探す必要があるのだな。』

 

大争の世においては、各国王族や公卿が難を逃れるために渡り歩くのはよくあることだ。汁琮の行いを太子瀧が賛成したはずがない。朝廷の大半も知らないのだろう―――それなら汁琮が死ねば、二人は大手を振って帰国することができる。ただ郢国に留まるためには、この国のために何かしなくてはならない。雍国の利益を損なわない限り、戦争に参加するのも全くアリだ。それが耿曙が初めて熊安に会って、この話を持ち掛けられた時に完全に拒否しなかった理由だ。あの時からずっと彼は考えていたのだ。二人の新たな身の置き場を探すために何ができるか。

 

「よかろう。」熊耒は少し考えて理解した。この二人は雍国には帰れないのだろう。だがなぜだろう。そっちの方面の情報はないが、あるとすれば、例の刺客の来歴だ。熊耒自身は国君として決して愚かではない。多少の疑問はあるが、まあ大丈夫だろうと考えて頷いた。「まあそれじゃあ、姜恒や、必ず無事に戻って来るのだよ。」

姜恒は笑顔で頷いた。

熊耒は立ち上がった。「ちょっと私に付き合え、姜恒。本王は最近考えていたことがあるのだ。」姜恒が耿曙を見ると、耿曙は頷いて、行けばいいと示した。

 

 

ーーー

第140章 武陵候:

 

それまでの陰鬱な雨があがり、春の日差しがまぶしかった。姜恒は裏切られた気分から抜け出ることができた。いつだって信じていたから。どこに行こうと耿曙さえ近くにいてくれれば自分は生きていかれる。生きていかれるだけではない。幸せに暮らしていけるのだ。

ただ、一度の誤判断がたくさんの面倒ごとを引き起こした。かつて海閣を出る時に、天下統一の決心をした。前途多難であることはわかっていたが、あの時想像したより事態は更に困難だった。

本当に難しい。あれほど心血を注いで雍国を変革させ、あの国に覇権争いできるだけの土台を作ったと言うのに、結果として汁琮に猜疑心を抱かせ暗殺されそうになるとは。これからいったいどうしたらいいだろう。二進も三進も行かない思いだ。雍を捨てて新たに郢を選ぶのか?それだと今まで支持していた雍国が敵になるのか?そんなことをすれば、天下をさらなる激烈な紛争に陥れるのではないか?強大な雍と、同じく強大な郢が戦えば、十万に上る規模の犠牲者が出るだろう。姜恒は途方に暮れていた。こんな話は誰にもできないし、耿曙の心配事を増やしたくない。

 

同じような迷いが熊耒の眼差しにも見られた。

「姜恒や、人は死んだ後、どこに行くと思うかね?」

姜恒は少し考えてから、気安い口調で言った。「王陛下、修練がうまくいけば、死ぬことはなくなるのですから、あなたがそれをご心配なさる必要はありません。」

「だがな、強風も豪雨もいつかは終わる。この世に永遠に続くものなどないだろう。」熊耒は全てを超越した者のように王袍の両袖を広げて、「天の神でさえ、永遠の命を持っているとは断言しないのに、国君という高貴な身ではあるが、一凡人にすぎない私が、口幅ったいことを言えるかね?」と笑った。

姜恒も笑顔を見せた。『あなたはやはり騙されてなどいなかったのですね。』と思いながら。「ですが今のところは、王陛下はご心配なさる必要はありません。」

 

熊耒は再び言った。「姜恒や、君は郢国に留まる気はないかね?初めて会った時から、君のことは気に入っていたのだ。かつてお母上が来た時のことは今でも覚えている。越人はずっと兄弟同然だった。残念なことにあの時、私は一番かわいがっていた息子を失った。今思えば、あの時認めるべきだったのだ。」

姜恒は思い出した。母の姜昭が復国を願い、最初に助けを求めた国君が郢王だった。姜昭は断られて国を出て行ったが、公子州は母のために王子の身分を捨てて江州を去ったのだ。

「私は郢国がとても好きです。兄もきっとここが気に入ると思います。」姜恒は言った。熊耒はしばらく考えて言った。「お兄上も越人だ、そうだろう?」

何が言いたいのだろう?姜恒は気を取り直して真剣に考えてみた。最初は暇つぶしのおしゃべりに付き合うだけかと思ったが、どうやら熊耒は何かとても大事なことを暗示しているようだ。

「はい。」姜恒は頷いたが、それもおかしな話だとは思った。

「あの時お母上は遠路はるばる本王に助けを求めに来た。助けたいのは山々だったが、時期が悪かったのだ。君は若いが、大局については誰より詳しいだろう。」

熊耒は意味深長な言い方をした。「君は聡明で鋭い。我が子の様にさえ思える。越人と郢人は、ずっと以前には血縁だった。決して死ぬんじゃないぞ。君等姜家は四百年もさかのぼれば、我が姻戚だった。私は君の叔父のようなものだ。生きて戻って来い!君にはまだやるべきことがたくさんあるのだからな。」

「陛下のご高配に感謝致します。生きて戻れるよう努力します。」姜恒は笑顔で言った。

「敵は面と向かってやって来るとは限らん。君の近くで、君が気づかないところに潜んでいるかもしれないぞ。行きなさい。私も修練をせねばな。」熊耒は最後にそう言った。

姜恒は、この話はきっと刺客は雍国が送って来ているのだと警告しているのだろうと考え、頷いてから、離席の挨拶をした。

 

「王は何だって?」耿曙が尋ねた。

初めて江州を離れることになって、姜恒は何だか離れがたい気持ちになった。河に落とされ、殺されかけたが、江州はそれでもたくさんの美しい思い出も作ってくれた。

少し離れたところに項余が兵を率いて彼らを護送しようと待っていた。熊耒は御林軍統領であり、上将軍でもある項余直々に二人を嵩県まで送らせることにしたのだ。姜恒を大事にし、重要視している証だろう。

「私に越復国を支持すると暗に伝えて来た。」姜恒は耿曙に言った。「かつて母が郢国に助けを求めた時に、力にならなかったために息子を失った。それをとても後悔しているんだ。」

「聞くだけ聞いておこう。」耿曙は今や国君というものに不信感を抱いている。今日受けた話を明日は翻すかもしれない。大争の世では、礼は崩れ、信頼は失われるものだ。

 

実は汁琮が彼に与えた心の傷は姜恒よりずっと深かった。彼は雍国のために体をはって尽くしてきた。軍を率いて戦うことも辞さず、家畜の様に生きた。唯一の心のよりどころが姜恒だったのだ。汁琮にもそれはよくわかっていた。姜恒が彼の命だとよく知りながらも、一切を顧みず、その命を奪おうとした。それが耿曙の怒りを燃え上がらせた。だが、姜恒の前ではそんな様子を見せないようにした。もし機会があれば、汁琮に復讐するだろう。だがそのために自分が死んで、姜恒が全てを失うことになったらと考えると、そんなことに耐えられるはずがなかった。

 

項余がやって来て、耿曙と姜恒に目をやった。「お送りしてからはしばらくお別れですね。」

姜恒は笑顔を見せた。「あなたは戦争にはいかなくていいのでしょう。」

「私は王の安全を守ります。照水の戦いの際にお目にかかることはないでしょう。お二人はお戻りになられるのですか?」

「多分。」姜恒は答えた。だが、項余は言った。「戻らない方がいいと私は思います。」

「どうして?将軍はもう私たちにはうんざりですか?実際確かにたくさんご迷惑をおかけしましたけど。」姜恒は笑って言った。

耿曙は目を細めて項余を見た。項余は両手で剣と鞘をもてあそびながら、気安い口調で言った。「刺客が次々に現れ、殺してもきりがないし、どこにいるかもわからないのでは確かにうんざりしますね。」

「どこかにはいるはずですから、『兵が来れば将で防ぎ、水が来れば土を盛る』だけです。」

項余は姜恒を見つめ、傍にいる耿曙は無視して眼差しに深い意味を込め、最後に言った。「前途は困難ですが、重々お気をつけて、姜大人。」

「青山つらなり、緑水たゆたう。また会う日まで、ごきげんよう。」姜恒は笑った。

 

耿曙と太子安は一つの約束を交わした。彼は軍を率いて郢国に替わり先鋒となって、連合会議の前に、梁地照水城を攻める。そこは姜恒が海閣を出てから最初に訪れた大城市だった。

交換条件として、太子安は、嵩県天子封地自治権を留め置く。この地への干渉は許さず、郢王へ一定の年貢を納めればいい。年貢は玉鉱の原石でもいい。

こうして耿曙は自分の封地保全し、飛び地である嵩県を、五か国の勢力の切れ目のような、『国の中の国』として残し、姜恒としばし住むことができるようになった。

勿論、人質として、姜恒は戦いの後、再び郢地に戻らなければならない。それは郢王の要求でもあったが、その後どうするかは彼に任される。

この軍事行動は雍国には全く知らされていない。意味するところは、耿曙が汁琮に対して命がけの挑戦を仕掛けたということだ。郢国軍を率いて郢国の戦争に加担する。朝廷に震撼と猜疑をもたらすのは必定だろう。

 

だが耿曙にはお構いなしだ。姜恒を除けば誰も信用できなくなった今、持てる力は何でも利用し、二人の安全を確保しなければならない。雍国が今後何を言おうと、しようと、後でまた話せばいい。耿曙は雍国を裏切ってどこかの国につくことも厭わないとさえ考えていた。

本来汁琮が何をしようが、耿曙は彼に背くつもりはなかった。だがこの仕打ちは耿曙の譲れない線を徹底的に超えていた。

 

「もし復国したら、あなたは国君だね。」姜恒は薄ら笑いを浮かべて言った。

「国君はお前だろう。お前は国君になりたいか?俺ならやはり界圭に戻ってもらって国君にさせるな。お前が忙しくなりすぎないように。」耿曙が言った。

姜恒は笑い出した。だが言うなれば、越人はもう歴史の塵に埋もれており、史書の中だけの存在だ。自国の土地は持たず、五国の民となった。過去のことは過去のこととしておくべきだ。虫の息を吹き返し、王族も貴族も殺戮された後で、『国』の概念だけが残ったところでいったい何になろう?

「なりたくないよ。本当にちっともなりたくない。」姜恒は言った。

耿曙は「うん。」と言った。二人は嵩県に帰って来た。姜恒にとっては4度めだが、やはりいつも美しい。宋鄒が既に来ており、自ら出迎えた。ここでの時間は全く変わらない。

二人を迎えた宗鄒は感無量といった感じで、「武陵候、姜大人、おかえりなさい。」と言った。宗鄒の呼び方が変わったことに気づいた姜恒は、何か聞いたのだろうかと疑問に思った。  (体をはって自治権を守ってくれたんだもんね。宋鄒から見れば。)

「出兵の準備をしろ。」耿曙は宋鄒に言った。「各級将校に伝えろ。三月三日に出征し、照水城外にて郢軍と落ち合う。」

宗鄒は頷いた。姜恒は自分の家に戻って来てようやくほっと息をついた。江州にいた時のように、作法に気を付けなくていい。ごろごろ横になったり、単衣に長袴のようなくだけた服装で歩き回れる。食事だって、襟を正してきちんと座り、最初に国君への感謝をしてから食べたりしなくていいのだ。

 

ここに来て姜恒が最初にしたいのは入浴だ。今回は耿曙も避けたりせず、全て脱ぎ捨てて、屋敷の裏にある温泉に行き、入浴した。

(本当にこの順番で書いてあった。温泉に着いて脱ぐじゃなくて、脱いで温泉に行った、となっている。将軍府だから、耿曙の家なのか。リビングで服を脱いでお風呂場にまっぱで行く感じか。でも確か、前回は外、結構歩いてたような……。)

 

「あなたはだんだん寡黙になってきている。心配事がだんだん増えてきているからだね。」姜恒は耿曙を見て言った。

耿曙は我にかえって、「出兵の詳細について考えていたんだ。心配事じゃない。」と言った。

「私はね、あなたはある人にだんだん似て来るって思っているんだ。誰だと思う?」

耿曙は眉を上げて「父さんか?」と尋ねた。

「ううん。私は会ったことないもの。趙竭将軍にだよ。」

「俺は別にしゃべれないわけじゃないぞ。」

姜恒は笑った。「あなたの態度が時々そっくりだと思うんだよ。そんなに眉を寄せないの。」そう言って、姜恒は手を伸ばして、耿曙のきりりとした眉を延ばした。

耿曙も笑顔を見せ、「来い。抱かせてくれ。」と言った。

姜恒は耿曙の胸にもたれ、二人は湯池の中に座って穏やかに晴れ渡った春の空を見上げた。

「趙将軍は王と一緒にいる時はきっとたくさん話があったが、他人に対しては話したくなかったんだろうな。」耿曙がふと独りつぶやいた。

「彼は話ができたの?」姜恒は驚いた。趙竭が口を開くのを見たことはなかったはずだ。

「いいや。だけど俺にはわかる。心の中にはたくさん話があったんだ。」耿曙が言った。耿曙には少しずつ趙竭のことがわかってきていた。なぜいつも重苦しい表情をしていたのかも。かつて人生の最も重要な段階である成長期に一番よく見ていた武人が趙竭だった。そして今の二人の状況も驚くほど彼らと似ていた。趙竭は姫珣を命のように大切に思っていた。彼の姜恒への思いと同じだ。天子と上将軍は大争の世では孤独だった。彼らにはお互いしかいなかった。:今の姜恒と自分も同じように孤独だ。

 

「恒児。」

「うん?」姜恒は耿曙の鎖骨の辺りを枕にして、ぼんやりしていた。

「言っただろう……ふざけるなと。」耿曙は姜恒の手をつまみ上げた。姜恒はこんな厳粛な様子を見る度に、ついからかいたくなってしまう。耿曙の唯一の弱点はあの辺りだけで、ちょっと触れるだけで、いつも大慌てになる。

耿曙は姜恒の足首をひっぱり、姜恒はびっくりして、湯池に滑り落ちて水を飲んでしまった。耿曙は彼を引っ張り上げたが、すぐに浴衣を着た。顔が真っ赤になっていた。

「俺は武将たちを招集して話をしてくる。」耿曙は姜恒を見ようとしなかった。心臓がどきどきしていた。「お前は好きなだけ湯につかってから来い。」

姜恒は顔にかかった湯を拭きながら言った。「そんなに急いでどうするの?」

耿曙はさっさと逃げてしまった。ちょっと急ぎすぎて、腹の患部が少し痛んだ。荒くなった呼吸を廊下に立ってゆっくりと収めていった。

 

自分たちは血のつながった兄弟ではないのだと姜恒に告げたかった。知ってほしいのに言えない。自分でも何を期待しているのかわからない。二人が兄弟でなければ、なれるかもしれない関係……今はまだ満たされない、もっともっとほしい。だが自分が欲しているものは、今まで姜恒が築き上げた全てを崩して、入れ替えることになる。それは耐え難いことだった。

耿曙は少し進んでは停まって、気持ちを収めようと努め、また少し進んでは停まった。事実を告げられた時の姜恒の顔を見たくない。きっととてもとてもつらい思いをするだろう。

 

武将たちが集まった場に着いた時にも耿曙はまだ少し上の空だった。

「間もなく出兵するのですね、殿下。」部下が言った。

庁に集まった将校たちは、皆、長年共に戦ってきた勇将ばかりだ。皆若く、雍国の方針で、結婚もせず、家も持っていない。幼少時に父母と別れ、軍寮で大きくなった。当然自分たちの両親が誰かも知らない。彼らは耿曙自らが、選んだ。王室から与えられた金はほとんどこの将校たちに分け与えた。彼らは落雁から耿曙に付き、玉壁関、洛陽、嵩県へと移動して、ここを拠点としてもう二年住んでいる。一人一人が彼に追随し、彼が行くところには彼らも行く。そして、牛や羊が、水と草を追うように、飛ぶ鳥が雲を追い、泳ぐ魚が水を追うように、耿曙は姜恒に追随している。

 

耿曙は王子としての威厳を取り戻して言った。「戦争はいいものではない。戦わなくて済むなら戦いたくはない。」

「兵の身で戦わなければ、何ができますか?」別の部下が言った。

「雍はいつ関に入るのですか?兄弟たちは当然のことながら待ちくたびれています。」

別の誰かが言った。

「わからない。」耿曙には事実を隠すつもりはなかった。「この作戦は、雍が要求したものではない。そして雍国には全く関係がないものだ。」

一同は静まり返った。皆、不審な表情をしている。

「この戦いは俺の一存で行う。そして、今後俺は雍国には留まらないかもしれない。」庁内は水を打ったように静まり返った。みなこれが意味することがはっきり分かっていた。耿曙は背反すると暗示しているのか?!しかも彼は雍国を裏切るかもしれないと、兵たちに隠すこともなく告げているのだ!

 

 

ーーー

第141章 晋廷の臣下

 

「照水城攻めに出たくない者については、俺も理解する。強制はしない。国に帰りたければ、帰っていい。明日、宗鄒に金を準備させるので、王室に従いたい者は、自分の兵をつれて、玉壁関に戻ってくれ。武英公主には俺が一筆記して、編入させてもらうようにする。俺に対してと同じようにそこで力を尽くしてくれ。」

誰も言葉を発しなかった。

 

入浴を追えた姜恒が、皮履をひっかけて髪を湿らせたまま現れ、一同を見渡した。一列五人、四列に座っている。兵役中の軍規は厳しく、座り方もしゃんとしている。耿曙も、兵たちも襟を正して座っていた。

長椅子に腰掛けた姜恒は、不思議そうな表情で、「皆に何を言ったの?」と尋ねた。「なんでもない。」耿曙は答えた。「お前は、侵攻路を考えて、線を引いてくれ。ほら。」

「先にちょっと見せて。」姜恒は照水の地図を広げた。「話を続けて。私にかまわないで。」

耿曙は将校たちに告げた。「お前たちには一晩、考える時間を与える。」

「私は王子殿下について行きます。去ったりしません。」すぐに誰かが声をあげた。

耿曙は、これがあたかも何でもない決定であるかのように表情を変えずに頷いた。

別の誰かも言った。「私も殿下について行きます。去る気はありません。」

姜恒は一同を見渡した。眼差しには笑みがあった。耿曙が何を言ったのかがわかったのだ。そのまま一人一人意思を表明した。二十名の千夫長の内、誰一人として帰国を望まなかった。

 

「よくわかった。それでは戻ってそれぞれの部下に問え。知らせていいのは百長までだ。今は、情報が漏れないように気をつけねば。照水城侵攻について、何か考えはあるか?」

姜恒は地図を持って、耿曙の膝を枕にして横になった。彼はいつもこんな感じなので、将校たちも慣れていて、特に変わらない。耿曙は自分の足を触り、姜恒に目を向けた。ちょっと気まずそうな顔をしている。

「考えはありません。いつも通りです。殿下の言うとおりにします。」万夫長が言った。

「そんなの駄目だよ。」姜恒が言った。耿曙はちょうど、「それでは解散」と言おうとして、ちょっと考えてから、頷いて言った。「そうだな。それでは駄目だ。」

姜恒は笑いながら耿曙を見上げると、手を伸ばして彼の耳を触った。耿曙は言葉に詰まり、「部下たちの前だ。ふざけるな。」とつぶやいた。

将校たちは笑った。それまで姜恒にあまり会ったことがなくても、耿曙の弟愛は有名だったので、誰も気にしなかった。

耿曙は姜恒が言わんとしていることがわかった。彼は汁琮から帯兵戦闘を学んだため、自然と汁琮のやり方をまねていた。作戦について、汁琮は部下たちの意見を聞かない。立てた計画を実行すればいい。このやり方では、すべての兵が駒になるが、いったん汁琮に何かあれば、全軍の崩壊をもたらしやすい。

「ダメだと言うなら、どうすればいい?」耿曙は姜恒に尋ねた。

姜恒は地図をぱっとおいて、顔を向けた。「一晩各自で考えてもらうんだ。話し合ってもいい。明日一番に各自が作戦計画を提出する。いくつかの作戦を合わせてもいいし、単独でもいいけど、意見を持ち寄ることはいつだって利益があるものだよ。」

「聞こえたか?」耿曙は一同に言った。一同はそれぞれ頷いた。耿曙は最後に言った。

「解散。」示し合わせたように千夫長たちは起立し、行礼して庁を出て行った。

 

「戦争のことは、お前は心配しなくていいぞ。」人がいなくなると、耿曙は姿勢を変えて、姜恒をもっといい体制で横たわれるようにし、下を向いて話しかけた。

「私が心配なのはあなたの怪我の方。」姜恒は目を上げて彼を見た。

耿曙は頭を下げて口づけしたいと切に思った。だが気持ちを押し殺し、唇をなめると、横を向いた。「もうだいぶいい。」

「戦場ではくれぐれも刺客に注意してね。」姜恒が言った。

「俺は手紙を書いて、界圭にお前を守りに来てもらうように頼んだ。」

「あなたの父王が知ったら、きっと……。」

「汁琮が怒り狂ったってかまうものか。お前も万夫長たちの態度を見ただろう?みんな俺について来ることを望んでいるんだ。」

「だけど、そんなことしたら、界圭にも累が及ぶのではない?」

姜恒は二人のために多くの人を巻き込みたくなかった。それに、界圭が事情を知って、自分を守ってくれたとしても、彼は太后の部下だ。言えないことも多いのではないだろうか。

「それは彼が自分で選ぶことだ。彼が来られないなら、項余に来てもらうさ。俺が出征する時に、お前を守るように言う。……だが先に言っておく。俺はなるべくお前を近くにいさせるが、どうしても守りきれない時には、お前もよくよく気を付けるんだぞ。」姜恒は少しつらい気持ちで耿曙を見た。急に胸が痛んできた。『戦いが始まれば、やるべきことがたくさんあると言うのに、私の身の安全にまで気を使わないといけないなんて。』

耿曙は姜恒が誤解したのかと思って慌てて言った。「お前を嵩県に置いて行きはしないぞ。そんなつもりはない。」

姜恒は悲しそうに微笑んだ。「違うよ。私は……逆に思ったんだ。私は家で待っていた方がいい。その方があなたに迷惑をかけずにすむでしょう。」

「そんなことがあるか。お前が必要なんだ。」

確かに姜恒も初めて耿曙と共に落雁城外で戦った時に力を証明してはいたが、耿曙の実力の方は前人未到とも言えるものだ。姜恒は疑うように耿曙を見た。「本当に?」

耿曙は真剣に頷いた。だが姜恒は見抜いていた。彼は一番安全だと思えるところに自分を置いておきたいのだ。憂慮を置き去って初めて、二人の未来のための戦いに専念できるからだ。

「でも何で項余なの?」姜恒は起き上がって座り、本気を出して耿曙のために作戦を立て始めた。「彼の武功が実際はかなりすごいってわかったから?」

ちょうどそう考えていた耿曙は問い返した。「お前も気づいたか?」

姜恒は項余が戦うところを見たことはなかったが、普通に考えても上将軍だ。実力はあるだろう。武芸は曾宇くらいか、耿曙ほどではないはずだが、御林軍を統率する者としての修練はしているはずだ。耿曙の場合は、元々の天才が幼少時より武を学んできたのだ。比べものにはならない。

だが、あの日、項余は二つの部屋をすり抜け、圧倒的な力で『給仕』を制した。拷問の仕方も手加減なしで、できることは何でもし、手段は残忍だ。最初の印象とは全く違う。あの時、姜恒は思った。項余はきっと見かけほど簡単ではないのだと。

「俺はただ、彼はお前を傷つけさせないだろうと思っただけだ。」耿曙はいやいやながらも本音を語った。「どうしてそう思うの?」

耿曙はそれ以上言いたくなかった。理由は項余が姜恒をやたらと見つめ、姜恒そっくりの少年を侍らしているからだ。姜恒はいつも項余に礼儀正しく接していたが、耿曙はいつも気分が悪かった。それが自分の欠点だと耿曙は少し反省もする。姜恒は、『愛、屋烏に及ぶ』を地で行き、耿曙に良くしてくれる人を大事に扱う。それなのに自分はどうだ?姜恒に少しでも好意を示す者を剣で刺してやりたくなるとは。自分は懐の狭い男だ。それはわかっている、わかっているがどうしようもできないのだ。

姜恒も別に答えを待ってはいない。地図を見てから、再び耿曙を見て、笑った。だが、すぐまた軽くため息をついた。「いつも天下が自分の家だって言っているでしょう。だけど何故か、天の神様は私たちを弄んでばかりで、安心して一所に留まらせてくれないって気がするんだよね。」

「その日はきっと来る。今回は以前とは違う。兄を信じろ、恒児。」

 

 

三日後、千夫長たちは計画をまとめ、姜恒は宋鄒を呼んで、詳細な報告を聞いた。

嵩県は二万八千人を出兵させる。耿曙の指揮の元、東に進み、沙江に沿って照水城を奇襲する。太子安は水軍を使い流れに逆らって北上させ、梁国南方のこの重要な城、照水を囲い込む。初めは耿曙の思いつきに過ぎない、衝動的過ぎないかと考えていた姜恒も、その日が迫るにつれ、だんだんとわかってきた――――。

 

この戦いは、勝ったようなものだ!耿曙から各国の情勢について聞かれたことはなかった。それは彼が既に五国都、六関に駐在する兵力を把握していたからだ。戦争とは外交と同じく、わずかな動きが全体を崩す。戦略に関して、耿曙は決して姜恒に引けを取らなかった。

郢国軍と嵩県軍が梁国南方の照水城に侵攻する。城には二万の駐留軍がいる。梁国はここを救うか、救わないか?救うとすれば、どこから兵を送るか?当然国内の兵馬をかき集め、南下させて、城攻めを解こうとする。だが軍を集めて送れば、国都安陽の守備は薄くなり、玉壁関にいる汁琮はすぐに安陽を取りに行くだろう。

「でも鄭国には気を付けてよね。太子霊が黙って見ているはずがないから。」姜恒が言った。「彼が崤山に兵を出すことはない。そこは把握できている。」耿曙が答えた。

耿曙は郢、梁、雍三国の均衡を考慮に入れているだけでゃなく、崤山以東の鄭国のことも考えていた。鄭国は黙っておらず、太子霊は梁国の包囲を解くために兵を送ろうとするだろう。

だが鄭国が兵を出せば、郢国は照水城包囲を耿曙に任せて、鄭軍の牽制に動く。太子安の主力部隊はすぐにでも方向転換し、潯陽三城を取りに向かう。

「そもそも雍国が安易に中原を攻めることができなかったのは、潼関で代国を押さえる必要があったからだ。留守に乗じて、李宏が攻め入って来ないようにだ。だが今、落雁は塞外三族を団結させたために、陥落の危険がなくなった。逆に郢国の方も北上できない。代国が虎視眈々と狙っているからな。」耿曙は説明した。姜恒は頷いた。

「鄭国は雍を攻められない。潯三城が郢に接しているために不安材料があるからか。」

「そうだ。この大戦での唯一の変数はあの国だ。」耿曙の思考は研ぎ澄まされたままだ。

姜恒にも言わんとすることはわかった―――巴郡にいる代国軍だ。郢国の主力部隊が梁国を攻めている間に、万が一代国が南下してきたらどうするか?

 

宋鄒が言った。「最近得た情報を集約するに、それはないと思います。」

耿曙と姜恒は一斉に宋鄒を見た。宋鄒はしばらく黙った後で言った。「情報の真偽は判断しかねると申し上げておかねばなりませんが……。」

「かまわないよ、言ってみて。」姜恒が促した。

「姜大人が人質となってまで結んだ雍郢、南北の盟ですが、完全に強固とは言えないようです。我らの商人からの情報では、郢王は代国とも秘密裏に協議を続けているそうです。」

耿曙は逆に重荷を下ろしたような表情で頷いた。「それで話が通る。後顧の憂いを無くすために郢国は大戦を始めるつもりなのだろう。」

郢国は未だ代国との連盟を放棄していなかった。郢雍、郢代、二つの戦いの可能性がある。誰が熊耒の仲間で誰が敵なのか、姜恒には判断がつかない。熊耒と李霄が同盟を組めば、自分の人質条項は破棄され、熊安の未来の太子妃は姫霜になる可能性が高い。

勿論今現在はっきり言えることは何もない。姜恒は項余の言葉を思い出した。

―――郢国王族に良い人間など一人もいない。

わかるのは、将来、熊耒と熊安は機会を見て、どちらかの同盟を破棄するということだ。ならば破棄される方にならないよう、気をつけなければならない。

「他には何だ?」耿曙は少しずつ人の表情を見ることを覚えてきていた。特に参謀の表情を。勿論姜恒が彼の首席参事だが、その姜恒が最も重きを置くのが宋鄒の意見だ。宋鄒の表情を見れば、何か言いたいことがあるのは明らかだ。

 

姜恒も地図を広げて宋鄒に言った。「話して。これまで長年に渡る、宋大人の私たち兄弟への恩顧には感謝して尽きないと思っています。かつて偶然お目にかかったご縁で……。」

宋鄒はすぐに「姜大人はご冗談を。お互い晋廷の臣下同士、恩顧などというものではありません。全ては生前の天子のご意向です。」と言った。

宋鄒は暗示していた。二人が何をどんな方法でしようが、目的は一つ。初心貫徹し、既に滅亡した晋王朝への忠義を忘れないなら、宋鄒は絶対的な忠誠を尽くすと言っているのだ。

「ただ属下は考えているのです。」宋鄒はしばらく考えたのち、慎重に話し始めた。

「既にあなたへの殺害計画が実行されている時に、姜大人が参戦されるのはあまりよくないかと。武陵候が気を付けられるとしても、やはり容易に……。」

耿曙は、そのことは姜恒と話し合って決定済みだと考え、立ち上がりながら答えた。

「心配するな。俺がしっかり看ている。」

「いらぬ話にお怒りになるかもしれませんが、戦場では一瞬にして全てが変わるもの。絶対的な把握など、誰ができましょうか。もしそうであれば、落雁城外であんな風に……。」宋鄒の態度はゆるぎなかった。いつもなら、彼は同じ話を繰り返すことなどしなかった。姜恒は頷いた。「そうだ。あなたの言うとおりだ。」

「恒児?」

「しばらく離れていよう、兄さん。私は江州に言って、あなたのために後方支援をする。」姜恒は真剣にそう言った。

耿曙は何も言えなかった。それが一番いいということは、二人ともよくわかっていたのだ。姜恒だって離れたくはなかったが、何を言おうと、耿曙は全力を尽くすはずだ。

「よく考えてみたか?」耿曙は尋ねた。姜恒は頷いた。

「この戦争は長引かない。長くて三か月、それで終結する。」

宋鄒はほっと息をついて頷いた。例え姜恒が嵩県に留まったとしても、彼にも全ては把握できない。だが郢王室の中にいれば、問題はないはずだ。耿曙が兵を率いて出て行く間、姜恒の身の安全を確保できる。

最後に姜恒は宋鄒に目をやって尋ねた。「宋大人、これが……うまくいくと思いますか?」

「琴鳴天下の変以降、五国は危うい実力の均衡を形成してきました。天子がいらした時にも長年の間にその均衡は何度か崩れかけ、極めて危なっかしいままに維持されております。李宏の逝去により、一年前から、その均衡が少しずつ打破されつつあります。今思えば、雍軍が本県に駐留し始めたことが、新たな天下百年の変化が始まる兆しだったのかも知れません。」

宋鄒は表面からの回答を避け、耿曙には彼の話の趣旨がわからなかったが、姜恒は理解した。

次に何がくるかは判断しかねても、破局の兆しがあり、各国が苦労しながら保っていた均衡は失われ始め、全ての国々が反目しあう全面戦争が始まるのだ。大争の世がついに最終局面に達し、決戦の火ぶたが切られようとしていた。

この決戦は五年、十年と続くかもしれない。だが、最後に勝ち残った者が、神州を統治し、全てに決着がつくのだ。

「そうして考えると、太子瀧が兄さんに嵩県を取りに行かせたのは、中原に打って出る重要な手だったってことだ。とても賢かったね。」姜恒が言うと、耿曙は「運だろう。」と軽く流した。         

 

 

ーーー

第142章 花を咲かせる方法:

 

三月三日、上巳の日の前日、翌日には約定通り、嵩県から出兵する。

姜恒も耿曙も節句を祝う気はなく、耿曙は一人、何もない部屋の中で烈光剣を置いた剣架の前に座って十二時辰の瞑想を行っていた。これは落雁城で身に着いた精神を養う習慣で、教えたのは汁綾だ。戦いに出る前に、心を静かに保つ。殺戮行為から精神を守り、覚醒状態を保つためだ。

姜恒は彼の邪魔をする気はない。この戦争の重要性はよくわかっている。二人の将来の行く末を左右する。宋鄒が姜恒に替わって監軍を行い、耿曙について出征する。姜恒は江州に戻り、耿曙のために後方支援をし、太子安との交渉や郢国兵の調整に協力する。姜恒は城主府に歩いて行った。正に有史以来最も厳格な守備体勢だ。三歩ごとに哨がおり、五歩ごとに守備兵がいる。更に宋鄒は府の外周一里以内を立ち入り禁止にした。次は侍衛に手をつながせるのではないだろうか。

 

「やはり早く出て行った方がよさそうですね。あなたにご迷惑をかけすぎるので。」姜恒は苦笑いした。

「万金の躯、座して堂に垂せず、理にかなっております。」

宋鄒は庭園で、彼が育てた芍薬を愛でていた。これは彼の瞑想の仕方だ。芍薬が天下に冠する出来栄えになっていなければ、職務を果たしていることにはならない。

「時々下官は考えるのです。嵩県も刺客を養成すべきだと。でなければ、こんな時に全くなすすべもありませんから。」宋鄒は姜恒に顔を向けて言った。姜恒は考えてみた。

「でも刺客を養成するということは、攻夫を修練するだけじゃない。一人の人間の命運を剥奪して、『忠誠』の名の元に、血を吐くような欲望を持たせることです。残酷すぎます。」

「そうですね。」宋鄒はこの点で、姜恒とよく似ていた。彼らは個人を尊重する。人の生命を、選択を、意思を尊重していた。似ているがゆえに理解できた。

 

彼は話題を変え、姜恒に言った。「今回、私は武陵候のために八千の兵を集めました。嵩県が出せる全てです。雍軍は候を尊敬しているとは言っても結局のところ汁家の兵ですから。」

「ありがとうございます。正に私が必要としていたことです。」姜恒は言った。

耿曙の二万の兵は征戦には長けているが、万一汁琮が雍軍を率いて来た場合、彼らはかつての同胞と戦うことができるだろうか?           (まじで宋鄒最高)

宋鄒はため息をついた。「あの時すぐにこうしていれば、洛陽は壊滅しなかったかもしれませんね。」

「来るべきものは来たでしょう。」姜恒は宋鄒の傍に座って彼を慰めた。「あの頃も嵩県は豊かだったでしょうが、八千の兵を持つ軍隊を集めるには十分ではなかったはず。」

七年前、嵩県は王都を養っていた。集めた金は全て朝廷に納めていたのにどこにそんな余力があったか。この七年県庫に納められた金が動かされることがなかったために今こうして兵を養い軍を出せるようになったのだ。

「姜大人の最終的な人選はまだ定まっておられないのですか?」

「まだです。定まったと思っていたのですが、今こうしてみるとまだだったようです。」姜恒は疲れたように言った。

宋鄒の言わんとすることが姜恒にはよくわかっている。洛陽を去ってから、彼らの目的はただ一つ。姜恒は金璽を受け取った。宋鄒は傍でそれを支える。姫珣の遺命に基づき、神州の統領たる者を選び、この大争の世を終結させる天子を選ぶことだ。

姜恒は最初に趙霊を選んだ。その後耿曙のために鄭国を諦めて雍を選ぶことにした。だが、汁琮の行いを見れば、彼を選ぶことはできなかった。汁琮が彼を殺そうとしているからではない。彼が目的のためなら、殺したいものを、それが誰であろうと殺す人間だからだ。それは決して容認できない。そんな者が権力を握れば政策を遂行できるはずがないからだ。

姜恒と宋鄒が直接この問題についてしっかりと話をするのは初めてだ。課せられた責任と目標を考えれば、彼らは役職の上下というより、戦友同士のようだった。この世に宋鄒ほど姜恒の苦労を理解できる者はいない。耿曙よりも彼の志向を理解していた。

 

「未来は霧に包まれている。」姜恒はやや茫然とつぶやいた。

宋鄒は芍薬を掘り起こして別の花壇に移し、振りむいて言った。「難しいなら、姜大人はご自分が名乗りを上げることもお考えになっては?」

姜恒は声を立てて笑った。「宋大人、本当は私に死んでほしいのでは?」

宋鄒が冗談を言っただけなのは彼にもわかっている。だが、姫珣は金璽を渡す時に、確かに言っていた。誰も見つからないなら、自分が天子として立ってもかまわないと。

姜恒はため息をついて如雨露を持ち、宋鄒が移植した芍薬の葉の上に水をかけた。

「国君に求める者は多いですが、色々考えると自分がなるのはどこかの王がなるより、更に良くなさそうです。本当に難しい。」

 

宋鄒はそれについては何も言わずに花を見ながら考えを巡らせていた。「姜大人、この芍薬ですが、西川で買って来させたものなのなのです。美しいと思われますか?」

「とても美しいです。宋大人がこういうことがお上手とは知りませんでした。」

「ですが、植えたばかりの時は、色も悪く、やせ細っていました。今ご覧になっているような、世にも美しい色とりどりで目を楽しませる花の色になるためには、一代また一代と、年を重ねるごとに、植え替えたり、剪定したりしてようやく今のようになったのです。」

姜恒は頷いた。宋鄒が花の育て方を通して、人選問題を討論しているのは明らかだ。

「一代ごとにより良くなっていった。そうでしょうね。最初私は国君を選ぼうとしましたが、後でそれは良くないと考えて、各国太子を見ることにしました。ですが、人は花と同じようにはいきません、宋大人。芍薬は自由自在に成長しますが、人はそうではありません。いつか影響を受けるからです。」

 

「私はいつも自分が欲しい花を植える時にはそれまであった株を抜いてしまうのです。労力には限りがありますし、土壌も、陽光も、養分には更に限りがありますから。」

姜恒は何も言わなかった。宋鄒は彼のやり方では手ぬるいと言っている。局面を打開する必要があると。「よく考えてみます。」と姜恒は答えた。

姜恒は各国の継承太子を比べてみた。梁国以外の太子たちには皆会ったことがある。実際一番ふさわしいのは汁瀧で、彼は将来相応しい国君になるだろう。だが、天子となるためには、まだまだ学ぶべきことが多かった。

目下の雍国の問題は、汁琮が我が子に変わってほしくないということだ。汁瀧には自分の信念を継承してほしい。姜恒の信念ではなく。

宋鄒の思考回路は簡単かつ直接的だ。あなたが汁琮を葬り去ればいいではないですか。何の問題があるのですか?とっとと汁琮に死んでもらえば、大手を振って汁瀧を担ぎ上げられる。問題は解決でしょう。

私の今の最重要目標は生き延びることだというのに。それを思い出すと泣き笑いするしかない。今は命の危険と隣り合わせだ。何とか生き延びられたら、汁琮をどうしようか考えよう。

 

次の日、大軍が出発する。姜恒を迎えに来た項余の軍も嵩県外に着いた。

嵩県は初めて県をあげての出兵を体験する。全県から軍に編入した成年男子たちは一年間の訓練を経て耿曙と姜恒のために戦闘準備を整えた。一声命令を出せば、質疑するものは誰もいない。なぜかと問う者もいないまま、人々は郢国を援護する任務についた。

「行ってくる。」耿曙は王軍の暗紅色の上に銀の鎧を身につけた。手には兜を持ち、重苦しい気持ちで、姜恒の視線を避けているようにも見える。

「がんばって戦ってきて。後方のことは、心配しないでね。」

耿曙は姜恒の唇をしばらく見つめたが、最後に大軍の面前でおかしなこともできまいと、ただ彼を自分に引き寄せて抱きしめた。「帰りを待っていろ。」耿曙は姜恒を抱いて、耳元で囁いた。「江州ではよく気を付けるように。既に風羽に手紙を送らせたから、界圭はすぐに来るはずだ。」

界圭が来ることを耿曙がこんなにも確信している理由が姜恒にはわからなかった。

「弟をよろしく頼む。」耿曙は姜恒を放して項余に向かって言った。

項余は頷いた。「ご安心を。太子安は彼が戻ると聞いて大変喜んでいました。」

「兄をよろしく頼みます。」姜恒も宋鄒に言った。

宋鄒は笑って「武陵候の安全は必ず守ります。」と言った。

 

耿曙は軍を率いて出発し、琴川を離れて行った。姜恒は二万八千人が遠ざかるのを見送った。すっかり見えなくなると、ため息をついた。これから耿曙は兵たちを連れて、梁、郢、代、三国に接する丘陵地を越え、漢中平原を北上する。さらに黄河岸に沿って東進し、広大な森林を越えて、一気に梁国境に攻め込み、照水に奇襲をかけるのだ。

再会してから二度目の大きな別れだ。姜恒が落雁城を出て歴訪の旅に出た時にはそれほどではなかった。だが今回、出征していく耿曙を見送った時、姜恒は、この長兄であり、彼の人生で一番大切な人が去って行ったことで、孤独の何たるかを感じていた。

 

今まで気づかなかった。耿曙は心の一番深いところに特別な孤独感と喪失感を残していった。その孤独感は野獣のような激しさで、徐々に心の中を食い荒らしていった。

「行きましょうか?」項余が声をかけた。「あなたが江州に戻ることにされるとは、思ってもみませんでした。」

「またあなたにご迷惑をおかけしたいと思いまして。」姜恒はからかうように言った。「迷惑なんてとんでもない。これは私の責任です。それにあなたがいれば楽しいですし。」姜恒は疑うように項余を見た。彼の話はいつも自分と少しかみ合わない気がする。二人は馬に乗って、山岳の間を越え、陸路江州城に向かった。(川はやめたのね)

 

項余は話題を変えた。「あなたの部下の宋鄒大人は大した方とお見受けしました。」「同僚です。階級の上下はあっても目標を同じくする同士です。ただ私が前面に出ていることが多いため、みんな彼を見くびってしまうのです。」

これは本当だ。五国中の人がみな宋鄒の力を見くびっている。そうでなければ玉壁関下にいた梁軍が宋鄒の罠にはまって全滅したりしないだろう。

「目標とは何ですか?」

「天下統一という目標です。」姜恒は馬の背からとうとうと流れる川の水に目をやった。項余は彼の左側に来て、騎馬の技術が至らないために滑落したりしないよう姜恒を守った。

「ほう?あなたは天下を統一したいと?」

「もちろん私がじゃないですよ。」姜恒は笑い出した。「それが私のいた師門が代々掲げている任務でしょう?」

項余は考えてから口を開いた。「海閣ですね。あなたの師父がそうさせたのですか?」

「いいえ。師父は私がこんなことをするよう求めませんでした。」

項余は手袋をした手を掲げて手綱を引き締め、何かを考えていた。

「師父はただ私を傍にいさせようとした。彼は兄さんと同じように、私を大事にして愛してくれました。だけど私は彼に頼ろうとしなかった……一緒に神州の地を離れて海の向こうに行こうとはしなかったんです。」

 

姜恒はなぜか、羅宣を思い出した。多くの人を敵に回してしまった今になってようやく、未来への道を進むのは苦しいと実感していた。羅宣はずっと自分を守りたいと思っていた。大争の世の終結も天下もどうでもいい。彼にとってはすべて屁みたいなものだ。姜恒が幸せに生きていくことだけが彼の望みだった。

 

「お兄上のためでしょう?当たっていますよね。どうあってもあなたは子淼殿下を放っておけなかったから。」項余が言った。

姜恒は笑った。「あの頃私は兄が生きていることは知りませんでした。ただ思ったのです。死んでいった人に替わって全てを終わらせたいと。行きましょうか。こんな風に進んでいたら、一月たっても江州にはたどり着けませんよね。ハアッ!」

項余は色を失った。「待って下さい!ここは塞外ではありません。滑りやすい山道だ!待ってください!姜大人!」

姜恒は耿曙から乗馬術を習っていて、山道を疾走し始めた。項余は驚き急いで追いかけた。

 

数日後、彼らは江州にたどり着いた。太子安は少し驚いたが、それも想定内だったようだ。姜恒が東宮に着いたのと時を同じくして耿曙が梁地侵入に成功したとの報告が届いた。

「漢中平原での初戦の結果です。」太子安は軍報を手に姜恒に言った。「王軍は大勝。梁国は手も足も出なかったそうだ。お疲れ様。」

熊耒が言った。「お兄上の行軍戦闘は噂通り素晴らしい!」

 

熊耒父子の姜恒に対する態度は前より親し気だ。耿曙が戦で勝利したことで、熊安さえ少し持ち上げるような態度をとっている。それはそうだ。耿曙の名声は知れ渡っている。五国でももっとも光り輝く将星なのだから。だが、姜恒は謙虚に言った。

「兄のやり方は粗野で、武芸に頼って、いつも先頭に立ち、身をもって統率するのが好きなのです。誰かが彼を見ている必要があります。本当は私が行けばよかったのですが。」

「さすがは汁琮の弟子だ。その名に恥じない。」熊耒が言った。

「太子殿下、これで落ち合う準備ができますか?」姜恒は尋ねた。

「急がなくていい。先に少し休んでくれ。それから話そう。しばらくの間、項余将軍についてもらって君の護衛をさせる。」熊安は慌てて言った。

姜恒は外套を脱ぎながら言った。「戦場では一瞬にして全てが変わります。なるべく早く動かなければ。」

項余は、「先に服を着替えて沐浴して下さい。少し気分よくなりましょう。」と言った。姜恒は言われた通り、寝殿に戻って沐浴をした。太子安は御林軍の中から何人か引き抜いて、姜恒の護衛を増やした。水も漏らさぬ体制にして彼の安全を絶対に確保するためだ。

項余は侍衛として彼に張り付くことになり、入浴中も台に腰掛けて傍に控えていた。

姜恒はやっていられない気分だ。そこまで神経質にならなくてもいいのに。

「誰かを遣わせてくれればそれで充分でしたのに。」姜恒が言うと項余は答えた。

「姜大人のお兄上は郢国のために戦っておられる。我が国としてはこのくらい当然です。もし私のことを気遣って下さるのなら、いつも安全に気を配って、あちこち動き回られないで下さると助かります。」

姜恒は笑った。入浴を終え、屏風の影で服を着ると、項余はそれを待って越服を持って来た。彼に外袍を着せて、まじめくさった顔で言った。

「あなたに何かあれば、兵を大勢連れた子淼殿下がどうなさるか心配ですので。」

姜恒は大笑いした。今や郢国の誰もが不安なのだ。万が一のことがあれば、耿曙は本当に兵を率いて戻って来て江州を攻撃してくるのではないかと。

 

姜恒が東宮に入って行くと、太子安が抱える策士たちが口々に「姜大人」と言って立ち上がって拝礼した。太子安は手招きし、笑顔で言った。「いらっしゃい。先に軍報を見てから、一緒に夕飯を食べましょう。」

何かちょっと恭しすぎるような……。だが軍報を見て理由がわかった。

耿曙が漢中平原から一千の兵馬を率いて梁国一万の守備兵を破ったのだ。敵軍の死者三千余り、捕虜七千!

そんなことがあり得るのか?!姜恒さえも衝撃を受けた。耿曙は一千の兵を連れて偵察に行き、深夜に敵軍に遭遇した。逃げなかっただけでなく、突撃して梁軍を嵩河岸まで追い詰め、疑いようのない大勝利を収めたのだった!

 

 

ーーー

第143章 夜の進軍:

 

軍報は宋鄒が自ら書いたものだ。耿曙がたった千人を連れていかにして敵陣を突破し、敵を壊滅させたかを描写していた。これ程の戦績をあげたのは最近百年では二人だけだ。一人はかつて梁国の軍神と呼ばれた重聞、彼は彼らの父、耿淵によって殺された。もう一人は代国の前国君李宏で、彼は耿曙に敗れた。

 

「わあ、前回より更にすごいですね。」姜恒は淡々と言った。

太子安が言った。「我が国の水軍は既に河をさかのぼって進んでおり、十日後には彼と落ち合うだろう。」

「私はあまり多くの死者が出ないことを願います。戦って死んでいくのは皆無辜の民ですから。」        

「それは当然だ。奪った時には城は空っぽじゃ、役に立たないからな。」太子安が言った。姜恒は数年前、照水を通ったことがある。洪水で川が氾濫したあの光景は未だ記憶に新しい。だが現実的には郢国がやらねば雍国がやるだけだ。汁琮が攻め入れば、兵の略奪を放任するが、耿曙が先に勝ち取ったことで、城内の民の命を守ることができた。ひょっとしたら五国が互いに最終決戦し、天下が混乱した時には照水が一番安全な場所かもしれない。

 

姜恒は嵩県で詳細な戦闘計画を立てている時に、絶対に放水によって城を破らないよう念をおし、耿曙は再三約束した。城を落とした後で、民の命に危害を加えてはならない。江州王宮についてから、太子安に詳細を説明した時、姜恒は太子に水軍が城を落とした後で、略奪させないよう約束させた。太子安は戦争に勝てさえすればよかったが、嵩県王軍が先鋒を果たしてくれたことに満足していたので快く承諾した。

姜恒の仕事は早く、一時辰ほどで補給の手配を全て終え、太子安に提出した。喜んだ太子安は宴を設けて姜恒を歓待しようとしたが、姜恒は軍法を収集し、「食事は結構です。戻って計画を練り直したいので。」と言った。太子安は引き止めようとしたが、項余が言った。

「殿下、姜大人は前線のことが心配なのです。今は考えをまとめていただきましょう。戦いが目標を達してから功を労うのでも遅くはありません。」

それもそうだと太子安は考え、それ以上強く求めなかった。

 

その夜姜恒は軍報を抱えて部屋に戻ると、宋鄒の蜘蛛の糸のような文字で書かれた報告書の中に、危険や変数、予期せぬ可能性がないかを探した。

項余が言った。「私がこの部屋で寝ても、姜大人はかまいませんか。いびきはかきませんので。」姜恒は笑って宮侍に言った。「上将軍のために寝台をもう一つ用意して下さい。」項余は辞退はせず、宮侍に屏風の外に小ぶりの寝台を置かせ、自分で布団を敷いて座った。

 

夜が深まったが姜恒はまだ眠らずに、十数通の手紙の一文字一文字を詳細に読んでいた。地形の描写や軍力の配置を包括する。

「国では皆、この一戦は避けられなかったと考えています。」

「うん。項将軍はどう見られますか?」

項余は寝台に腰掛けて、佩いていた剣を拭きながら、軽い調子で言った。「残念ながら、私は戦向きではないのです。」

「あなたは謙虚すぎます。」姜恒は笑った。

「本当です。私は御林軍を率いています。任務は王室を守ること。行軍作戦などの機会はあまりありませんでした。昔読んだ兵法書もすっかり忘れてしまいました。」

姜恒は何も言わずに、屏風に移った項余の影をちらりと見た。

「姜大人はどうです?あなたはどう見られます?」

「照水は問題なさそうですが、一番心配なのは雍国の動向です。」

耿曙が兵を率いて自ら郢国の為に戦えば、汁琮はきっと反応を示す。問題はどう反応するかだ。その予測が難しい。

「太子殿下が既に雍王に手紙を送っています。」項余が言った。

「うん、彼は汁琮と直接話し合うんだろうね?」

姜恒はあまり考えずに的を射てしまった。郢雍同盟について最大の立役者は郢王ではなく太子安のようだ。おそらく郢王熊耒はもともと反対だったが、最後に項余に説得されたのだろう。そう考えれば、太子安は実に野心的な人だ。

「あなたにはお見通しのようですね。ですが彼について私は多くを語れませんことを、姜大人はご了解ください。」項余が答えた。

それで欲しかった答えが得られた。やはりそうだったんだ。初め郢王と太子安は意見が合わず、国君と継承太子の間の隔たりは大きかった。太子安は汁琮と天下を二分することを望んだが、郢王はそれでは敵を助長させ、狼を引き入れることになるかもしれないと考えたのだ。

最後に太子安が項余に説得を依頼した。あの不老不死の話を使って熊耒が言わんとしていたのはそれだ。実の息子に王座を譲ってやると言い難い思いがあるのだ。

だったらあなたは誰の側にいるのですか?姜恒は心の中で問いかけた。最初は、項余は熊耒に忠実だと考えていた。だがこうしてみるとそうとも限らない。ひょっとしたら、本当に忠誠を誓う相手はその後継者の方なのかもしれない。

 

「彼は自国の兵とは戦わないという方に賭けます。でも私が汁琮だったら、この機会を利用して関を出る。そして、聶…汁淼と連携します。息子が南方の照水を打つなら、父親は北方の国都安陽を打つ。」

「理にかなっておりますな。彼は姜大人のおかげで儲かったと思うかもしれません。」

「そうなると、梁国は二つに切り分けられる。五国連合会議が始まるのを待つことなく、一夜にして全てが変わることになる。」

項余は「うん」と言った。

「だけど雍国が玉壁関を出たら向かう所は中原だ。郢が照水を占領すれば、黄河が新たな南北境界線になる。郢、雍は河を挟んで向かい合う。次には何が起こるだろう?」

「鄭、代もまだ滅びてはおりません。兄弟の盟が健在なうちは、姜大人はあまりご心配しなくていいのでは。」

「そうあることを願います。」姜恒は一字一句かみしめながら呟いた。

「まだお休みにならないので?もうとてもお疲れでしょう。」

姜恒はため息をついた。「休みます。」

項余は長剣を平らに持って横に伸ばし、灯の心を切って火を消した。室内は月光で満たされた。

 

 

―――

深夜、玉壁関にて。  

汁琮は手紙を手に取り言葉を失った。

「彼が何をしたって?」汁琮は信じがたい思いだった。

手紙は太子安の印により封じられており、同時に出兵することを求めている。雍は案陽を攻め、郢は照水を取る。数百年の歴史を持つ中原の大国梁は今、亡国の危機に瀕していた。

衛卓が言った。「殿下が突然出兵されるとは理屈に合いません。ひょっとして姜大人を押さえられているのでしょうか?」

「いや、ありえない!これが我が子の仕打ちとは?」

汁琮は最近耿曙が以前とは人が変わったようになったとは思っていたが、これはあまりにも異常な行いだ!

「王陛下、打って出ますか?」衛卓が尋ねた。

汁琮は何も言わなかったが、その時、戸外から太子の来訪が伝えられた。

「汁瀧か?」汁琮は我にかえった。これは彼らの計画なのか?

 

太子瀧は風塵にまみれていた。連夜玉壁関へと急いで来たのだ。本当なら落雁城にいるはずだ。汁琮は我が子を見てすぐに何かを疑い始めた。―――既成事実を先に作るなど、耿曙が自分で思いつくわけがない。  

「私も知ったばかりなんです。父王、関を出ましょう。」太子瀧は言った。

汁琮は冷ややかに尋ねた。「姜恒がお前に手紙を寄越したのか?彼は何と言っていた?」

太子瀧は首を振った。確かに彼らには既に連携する習慣ができていた。外で彼が何か行動をしたと知れば、太子瀧はまず疑問を抱くのではなく、その深意を探ろうとする。そしてすぐに行動を起こし、対策をとるのだ。事実、二人は何も言ってきていないし、手紙さえ送って来なかった。暗黙の了解がある今では、説明の必要がないからだ。

「私は既に連合会議に準備をした。」汁琮が言った。

「彼らが前に手をうったなら、絶対に何か理由があるはずです。絶好の機会を贈られたのなら、失うべきではありません、父王!」    (シルタキ立派になったなあ)

 

この時、太子瀧と汁琮の態度には大きな違いが見られた。

汁琮が最初に思ったのは、『我が養子が他人のために戦いに出ただと?』

太子瀧が思ったのは、『こんな絶好の機会を逃す手はない!』

汁琮は咆哮するように言った。「汁淼は気でも狂ったのか!手紙一つ寄越さないとは!」

「帰ったら話しましょう!父王!帰ってきたら話せばいい!あなたの覇業が今にも叶おうとしているのですよ!」

朝臣たちは皆事の重大さがわかり、太子瀧にしか汁琮を宥められないと考えた。それが夜を徹してここまで来た理由だった。

汁琮ははっと我にかえり、息子をじっと見た。「打とう。」汁琮は耿曙の裏切りについては後回しにすることにした。「私自らが兵を率いる。明日朝一番で出発だ。」

「兄には必ず納得のいく説明をさせます。父王。」どうやら太子瀧も先に事情を知らされていなかったようだ。だが国事が優先だ。今は兵を集めて出征しよう。

 

 

―――

月夜の漢中平原にて。

潜入には適さない夜だった。漆黒だったあの夜とは違い、狂風が雲を吹き飛ばし、明月が千里を照らしていた。

王軍は漢中が黄河に至る場所に来た。最後の軍営には一万の兵馬が駐留している。

平原での奇襲は難しい。馬蹄を木綿で包んだ三千の先鋒隊は先を急いでいた。地点に着くたびに簡単な調整をして、人家のある場所を迂回し、人里離れた丘陵の北側を選んで行軍した。

見張り台に向かって耿曙は長弓を引いて矢を放った。月に照らされ、百歩はなれたところで哨兵が喉を射抜かれ落下した。仲間はまだ気づいていない。また矢が放たれた。数か所ある見張り台の排除に成功した。風羽の偵察はない。耿曙はひたすら突撃を展開し、限られた条件の元、敵軍の壊滅に尽力する。

「命を受け、天子の怒りの火を与えに来た。火を放ち焼き払え!」耿曙は冷ややかに言うと、その身の後ろから火矢を取り出し、合図として天空に向けて放った。すぐに無数の火矢が天に放たれ、兵営に撃ち込まれる中、追い風に乗って耿曙は一騎で先導し、三千の兵が大営になだれ込んだ!

梁軍は熟睡していて無防備だった。慌てて武器を持って迎え撃とうとして出るも、流れ込んで来た鉄騎に切り殺された。

 

「私はただ偵察して欲しかっただけなのですが。」宋鄒が最後にやって来て、火の海となった敵営を見てやるせなさそうに言った。「殿下、あなたにはたったの三千しかいなかったのですよ。こんな風に突撃する必要はなかったのです。」

耿曙は遠くを見つめた。何年も前に洛陽を焼き尽くした火の海が一刻、まぶたの裏に蘇ってきたようだった。趙竭の怒りの炎が今になってもくすぶり続け、梁国に向かって渦巻いたかのようだ。                  (あんたら雍国は?)

宋鄒は最後尾で退きながら、「ですが、敵の力を消耗させるのはいいことです。これなら照水へ援軍を送れないでしょうから。」と言った。

「兵は数より能力だ。いつだってそうだ。ここの処理はあんたに任せて俺は別の所に行く。」

 

数日後早朝、風羽が江州に来た。海東青はまっすぐ東宮に飛んできた。あちこちで人々が驚いていたが、姜恒は頭を上げて呼びかけた。「風羽!」

風羽は姜恒の机に停まった。太子安が尋ねた。「君が飼っている猛禽か?」

太子安が手を伸ばして触ろうとすると姜恒は慌てて「殿下気を付けて。」と言った。

太子安は危うくつつかれて汁瀧のように机を血まみれにするところだったが、幸い姜恒が制止することができた。

「ちょっと見てみます。雍都から報せが届いたはず……。」そこで言葉が途切れた。

手紙がない。

風羽は耿曙が放った。界圭に知らせを届け、姜恒の護衛を依頼するためだ。だが風羽は戻って来たのに誰も来ず、手紙も持って来ていない。

いったいどういうことだろう?姜恒は眉をひそめた。

「どうしたんだ?」太子安が尋ねた。

姜恒は首を振った。「兄に手紙を送ってみます。」そう言うと、重苦しい気分で、風羽を抱いて寝殿に戻った。

 

 

ーーー

第144章 漫山树

 

風羽は飲食を終えると、再び翼を広げて飛んで行った。姜恒の手紙を付けて北方へと向かう。行先である耿曙の身辺では、王軍が既に陸路、照水を囲う配置についていた。

梁国の東、照水城付近に駐留していた四万の守備軍は耿曙によって、一隊、また一隊と取り除かれ、敗戦した梁軍兵は捕虜となるか、安陽へと逃げ帰った。

 

「これで大分楽になった。」耿曙は高所にある岩に座って烈光剣を弄び、剣を光らせながら振り回していた。下方に見える照水城を眺めながら。

現在城には三万の守備兵が残っている。郢国八万の水軍も河を上ってきており、城の水路を塞いでいた。照水城は背ろは山、前は河に面している。耿曙と宋鄒は城の突破方法を考えていた。風羽が戻ってきた。これで斥候の負担が減る。耿曙は鷹に城壁付近の兵力を偵察しに行かせ、自分は手紙を取って読みだした。

 

『照水城の地盤は粘り気のある泥が多い。春の初めには山岳の雪が解け、河の水位が上がる。くれぐれも注意して、準備なく攻めないように。』

耿曙は頭が痛くなってきた。姜恒は彼の見聞を知らせて来たが、どうするべきかは書いていない。短い文章の中にどういう方法をとるか書くのは難しい。それに可能な限り、損傷を少なくしなくてはならない。

だが行軍布陣、攻城の策を立てるのは姜恒の得意分野ではない。耿曙は自分で方法を考えねばならない。

「俺はちょっと出て来る。」耿曙は宋鄒に言った。耿曙には一人で静かに考える時間が必要なのだと宋鄒にはわかっていた。兵には彼の邪魔をしないように離れてついて行かせた。

 

溶けたばかりの氷水に満ちた瀧の中は骨身に滲みる冷たさだ。耿曙は山中の沢に来て、しばらく見つめた後、外袍を脱ぎ、袴一枚だけを身につけて瀧の下の岩まで歩いて行くと、座禅を組んで座り、体を打つ冷たい水の中で神経を集中させて考えた。      (ひえ~)

遠くから海東青の鳴き声が聞こえた。その時、耿曙の目は山岳を通り越して、密生して茂る森林を見ていた。一刻後、耿曙は瀧の中に歩いて行き、全身から水を滴らせて、下を向き、裸足の足が踏んでいる泥土を見た。

 

「策が見つかった。」耿曙が営帳に戻って来ると、郢国が派遣した上将軍屈分がちょうど宋鄒と話し合っているところだった。傍らにはあと何人か水軍の鎧をつけた将校たちがいた。

彼は屈分を何度か、主には王宮で見かけたことがあった。一番印象が深いのは初めて姜恒と水榭に行き、太子安と話し合った時だ。屈分の体は巨大で熊のようで帳篷に頭が届きそうだ。

粗野なだみ声で話し、腹に鎧を貼りつかせた大きな愚か者のようにも見えるが、言葉の中には耿曙に対する尊敬の念があった。

「殿下の戦い方はさすがです。これで我らが力を合わせれば照水城などた易く解決できますな。」

宋鄒は「屈将軍、私の見るところ、城内の士気は既に下がっております。城主への投降を勧めた方がいいかもしれませんね。」と言った。

屈分は手を振った。「随意に!随意に!出て来る時に王都から申し付かっております。淼殿下の言うとおりにするようにと!」

耿曙が「地図を広げて、見せてくれ。」と言った。一同は照水城付近の地形を見た。

「俺に策がある。山の雪が解けて水量が増している。濠を作って川の水を誘導し、城外の地まで送り込む。」

「前にも申し上げた通り、城に水を放つのは下策です。殿下。」宋鄒が言った。

「鄧水じゃない。」耿曙は言った。

照水城は二つの川と接している。北の山からは流れて来るのが賓河、南にあるのは長江支流の鄧水だ。古来より、照水は何度も河の反乱で城を壊されてきた。鄧水の水量は急に上がる。堤防を破壊する洪水で町全体が水没すると、死傷者は毎回10万人にもなった。耿曙が狙うのは、水量の少ない賓河の方だ。賓河は山から流れて来ると、城の前で湾曲し、鄧水に合流する。急に水量が増えれば、曲がり切れずに川岸を突き破って城壁に向かうはずだ。

「それはどうでしょうか。」屈分が言う。「賓河は水量が少なすぎて、城壁に達したとしても半丈程度です。城壁を破壊するには至りません。照水は水攻めを受けて何度も陥落しています。彼らも馬鹿ではないので、ずっと前に城壁を高くしているのです。」

宋鄒は何も言わずに耿曙を見た。彼がきっと答えを用意しているのがわかっているのだ。

耿曙は言った。「落雁城での一戦で学んだことは多い。山から四十万本の木を切って来るのに時間はどのくらいかかる?」

屈分は驚いて尋ねた。「四十万本ですか?何をする気で?」

宋鄒が言った。「水軍兵を皆来させなければなりませんね。切るのはすぐですが、運ぶのには時間がかかります。どこへ運ぶおつもりですか?」

「城壁前だ。」

「賓河を利用して運ぶことができるでしょう。ですが、そんなにたくさんの斧がありません。軍にあるのは三千くらいでしょう。」

「今から始める。このまま初めて輪番で行う。屈分、あんたの兵を全部呼んできてくれ。伐採した木は全て城壁前に置く。」

屈分の顔は疑惑に満ちていたが、江州からの指示なので黙って従った。

 

―――

江州城に海東青が飛んできて、耿曙からの手紙を届けた。姜恒は、「戦っている兄さんの傍にいてあげて、風羽。しばらくは来なくていいから。私はとても安全だから、兄さんを頼むね。」

と、耳元で優しく囁いて、風羽の羽毛を撫でてやった。それは耿曙に向けた言葉のようでもある。そして再び鷹を放ってやった。

 

項余はここ数日、姜恒の近くにいて、彼が文書を処理するのを見ていた。十万の大軍を管理するのはとても大変な任務だ。姜恒は長時間の囲い込みに備えて兵糧の手配もしなければならなかった。太子安は喜んで処理の全権を姜恒に与えた。たかが金じゃないか。王室は長年民から搾取しており、あまり戦はしていない。金ならいくらでもある。

 

項余が言った。「前線に行ってお兄上に会いたいですか?姜大人は王宮にじっと座っているのではなくて、軍に食料を届けに行きたそうですね。」

姜恒は笑って言った。「まだ本戦は始まっていないようです。」

「まもなくでしょう。ですが、あなたを護衛するはずの刺客はまだ現れていませんね。界圭でしたっけ?」

「彼には彼のしがらみがあるのでしょう。」姜恒はさらりと言った。

話し声が聞こえ、太子安の首席策士の羋羅が速足でやってきた。「姜大人、項将軍。」姜恒は目を上げて、羋羅の嬉しそうな顔を見た。「戦場で何か進展が?」

 

「進展と言ってもいいでしょう。」羋羅は机の上に手紙を置いた。「汁琮が部隊を率いて関を出て、梁国国都安陽への攻撃を開始しました。先鋒を務めるのは汁綾です。」

やはり来たか、と姜恒は思った。汁琮がこんな機会を逃すはずがなかった。

羋羅は嬉しそうだ。「現在、梁国は南北両面から攻撃されています。持ちこたえられないでしょう。」姜恒は羋羅の興奮に満ちた顔を見て、ただ、「ええ」と言った。

「太子殿下は真っ先にあなたに報告するようにと言いました。照水に動きはありません。私はこれで失礼します。東宮で郡の設置について協議せねば。」

羋羅が行ってしまうと項余が話しかけた。「あまりうれしくなさそうですね。」

「汁琮は兄とはちがいますから。国君の功績、即ち民の苦しみです。勿論喜べません。」本当は耿曙の出征だって姜恒から見たらいいことではない。ただ選択の余地がなかったのだ。

「この世は殺すか殺されるかではありませんか。殺されたくなければ殺すことを覚えるしかない。あなたの師父はそう教えなかったのですか?」項余は眉を上げた。眼差しは穏やかだ。 

「教えられましたが、私の性格では学べはしませんでした。」姜恒は笑った。

 

これからどうしたらいいのだろう。かつて梁軍は洛陽に侵攻した際、あちこちで大殺戮を展開した。天子さえも王座から引きずり降ろそうとした。:鄭軍が落雁城に攻め込んで来た時も手加減なしだった。大争の世では、王道は影をひそめ、殺戮によってのみ神州は平定される。「もう考えるのはやめます。できることは全てしました。結果を待つだけです。」

 

―――

四月五日、梁国南方の照水、北方の安陽が同時に急を告げた。郢、雍、二か国に攻撃され、代国は遅遅として兵を動かさなかった。鄭国は最速と言える速さで兵を集めて、救援と称して崤関を打ちに出た。これには郢国が反応し、精鋭部隊を派遣した。三国の兵馬を巻き込んだ前代未聞の大混戦が繰り広げられることとなった。

雍の参戦六万、梁国全域の兵馬は合わせて十万、郢水軍八万、耿曙率いる王軍約三万、鄭軍八万、合わせれば三十五万となる。

この規模は七年前の洛陽での一戦を上回るだけでなく、勢力の均衡を打破するものであり、天下は新たな局面を迎えていた。百年以上続いてきた大争の世の総決戦が、照水城陥落をもって、幕を上げようとしていたのだ。

 

四月六日早朝、一千万本もの材木が賓河を流れて、河の湾曲部にたどり着いた。郢国水軍がそれを押し上げ、嵩県騎兵が両岸に運んで縄でくくった。

木は次から次へと城壁にぶつかり、照水城守軍は騒然となった。城壁の高所より矢を放ったが、郢軍と王軍は材木の障壁に隠れて、木に当たった隙に逃げて行った。

照水城兵は最初、敵軍が木材を当てて城壁を破るのかと考えた。だが、城壁は堅固だったため、そのくらいの衝撃は恐れなかった。一日かけて、木は増え続け、夕暮れになると、城壁の下には40万本の大木が積まれていた。

夕闇が迫る頃、耿曙は武鎧をまとい、馬を城外に駐めた。兜を少し押し上げて、明るく澄んだ双眸を見せた。

「点火。」その時なぜか、項余に言った言葉が蘇ってきた。―――火遊びをする者は自分が滅せられる。俺は火遊びが好きなようだな。

 

耿曙は率先して長弓を引いた。一本の火矢が千万の火矢を率いて、城壁前の材木に飛んだ。河から上げられた時にすでに油を注いであった木は流星のように飛んで来た火矢が当たると、たちまち燃え上がった。東南から吹く晩春の強風に煽られ、炎は城壁に沿って立ち上ったが、高壁にさえぎられている。城の西側にいた人々は移動し、広大な城壁の様子を怯えながら見ていた。そこへ照水城主自らが様子を見にやってきた。

「既に二十年近く建っている城壁だ!」城主は梁国貴族で、名を遅昼と言う。かつて耿淵に殺された遅延訇は彼の伯父だった。その耿淵の子に城を攻められるとは。直接戦って、恨みをはらせないのを残念に思った。

「恐れることはない!」遅昼は天を見上げて言った。「まもなく雨が降る!一旦雨が降ってきたら奴らにはどうにもできない!」

火の勢いは激しいが、長くはもたない。例え付近の山林全ての木を持って来たところで、城内の民を焼き殺すことはできない。遅昼が恐れるのは城南にいる主力である水軍の方だ。

彼はもう耿曙の騎兵にかまうのはやめた。焼かれた城壁は熱く、誰もはしごを登ることはできない。兵力は城南に送り河側の守りを固めれば全てうまくいく。遅昼は冷笑した。「若き軍神だって?大したことはないな。」

火は一晩中燃え続けた。一方、賓川の上流、山腹の滝の下から流れ出る水は堰き止められて巨大な貯水湖と化していた。断木に阻まれ、水位が上がって、今にも崩壊しそうだ。

遅昼の判断は間違っていなかった。たくさんの木も一両日中には燃え尽きた。3日目の朝、城外は灰だらけとなり、黒煙が町全体に広がった。守備軍は咳こみ、目を燻され涙を流した。

 

空に暗い雲が垂れ込め、暴風雨の到来を告げる雷の音が聞えて来た。

「堤防を抽け。」耿曙は無表情のまま、第二令を発した。

哨が鳴り、山腹にいた三千近くの兵が谷間で水を堰止めていた断木を外した。人工堤が崩壊し、川の水が押し寄せて来た。

城を巡回していた遅昼は十里離れた山から響いてきた轟音と大地の震動に何が起きたのかわからなかった。

続いて、数日の間に貯めこまれた雪溶け水が、干上がった川床に沿ってゴオゴオと流れ落ち、河の湾曲部にむかって突き進んだ。そして一つの大波となって河を飛び出し、二日間焼かれた城壁に向かって吹き上がった。たった一波、それで十分だった。

真っ白い蒸気が天に向かって立ち上ったかと思うと、あちこちでピシピシと何かが裂けたような音がした。赤く焼けた石壁が急速に冷却され、一斉砲撃を受けたかのようにあちこちで音が鳴った。音はますます大きくなって、空の雷と混ざりあった。

 

落雁城崩壊の一幕が照水城外で再演されたようだ。太子霊は一月かけて十里の巨大な壁を崩した。それには及ばないが、五丈近くの壁が割れ、ガラガラ崩れ落ちる様もまた壮観だった。遅昼は目を見開いて、目の前の城壁がひび割れ、崩れ落ちていく様を目の当たりにした。

城外の青山、河湾、平原が眼前に広がっている。

耿曙は馬の上で無表情のまま、目の前に広がっていた高い壁が崩れ落ちて行く様を見ると、兜を引き下ろし、顔の上半分を隠し、温潤な唇を少し動かした。

遅昼は何をされたのかはっきりわからなかったが、城壁にできた巨大な開口部を前に、いかなる抵抗も無駄だと悟った。

つぎの瞬間、王軍騎馬兵たちが突進してきた。馬は瓦礫を踏みつけ、照水城へと突入していった。

 

 

―――

「これがその……実際の状況です。」

姜恒は耿曙からの手紙を手にして、朝廷の役人たちに初めから終わりまで説明し終えた。熊耒と太子安は全て聞き終えてもぽかんとしていた。姜恒の作り話ではないのか。

「実の所、私の想像より早かったようです。うん、確かに、確かに早い。当初の予測だと、五月初めか、一月はかかると思っていました。現在照水はもう郢国の属地です。屈分将軍が既に全城を管理しています。」

「ああ、……よかった。」太子安は夢でもみているかのようだった。

熊耒が突然大笑いした。「よくやったな!」熊耒はゆっくりと立ち上がるとため息をついた。「よかった、実によかった。」少しがっかりしているようにも聞こえる。

「若さとは、大したものだな。王児よ、後のことは頼んだぞ。」そう言って熊耒は行ってしまった。

太子安が近づいてきて、姜恒の手をとった。感慨深げだ。「すごいことだよ。郢国では十七年来こんな見事な勝ち戦は初めてだ。子淼の名声に嘘はなかったな。」

姜恒は笑顔で言った。「王の威光のおかげです」

「これからお二人は我が郢国の国士だ!」太子安は感動したように言ったが、眼差しには不自然な畏怖が見えた。

姜恒には一瞬彼が何を思ったかが分かった。:江州がこんな攻撃をうけたらどうすればいい?どうにもできないだろう!もし耿曙が同様の策を江州にしかけてきたら、城壁はもうどうにもならないだろう。

「実は、もし事前に知っていれば、火をつけさせはしませんでした。自然というのは計り知れません。万が一雨がふったら?雨がふらなくても城内に水車があったら火をつけ始めた時に、遠く離れたところから、城外に向かって水流を送れたはず……。」

「そうだ、そうだ。うまくいかなかっただろうな。うん。」太子安は少し安心したようだ。

「趙霊が落雁城を破った時と同様に、彼の策も、一度なら通用しますが、二度とは使えないでしょう。堤防を作っている時点で奇策とは言えないので、小手先の技として、考慮するに値しないと思います。」

姜恒は謙虚に言ったが、耿曙の策が見事だったのは明らかだ。軍神の名も言い過ぎではない。

今回の照水やぶりは、兵法で言う、天の時、地の利を最大級に生かしたもので、常人には到底思いつくものではない。戦場の地形を把握し、河川の湾曲を利用して大規模な洪水をおこし、長時間焼いた場所に堤防を壊して水を送れば熱い城壁も割れるのではと考えるところから、四十万の材木がどのくらいで燃え尽きるかにいたるまで。

耿曙は全ての手順を予測できた。それは長年の努力の積み重ねによって得られた力だ。思いついた作戦は例え利用できなそうでも書き付けておく。戦場に出ていない時の行動が物を言ったのだ。

 

 

ーーー

第145章 甘やかな場所:

 

「子淼殿にはお戻りいただこう。」太子安は落ち着きを取り戻すと、次の動きについて討論を始めるために、姜恒を伴って東宮に向かった。

「兄には別のところに行かせました。もう照水にはおりません。」

「え?」太子安は急に歩を止め、疑うように姜恒を見た。

姜恒には太子安の考えが読めた。耿曙の部隊は王軍と名乗ってはいても、大多数は雍国兵だ。郢国と連携して戦ったら、疑いを避けるためにもすぐに戻るべきだ。もしもそのまま彼が城内に駐留していれば、万一雍国が手のひらを反して照水を征服しだした時どうすればいい?

「どこへ行ったと?」太子安は不快に思った。姜恒が事前に相談してこなかったことが不満だった。だがすぐにいつもの笑顔を張り付けて、親し気な口調で、「雍王を支援しにいったとか?」と言った。

「照水での事後処理が終わったら、東北路を確保し、崤関から安陽に至る道に伏兵を置き、梁王を救いに行く趙霊を待ち伏せさせるようにしたのです。」姜恒は言った。「殿下、私たちはまだ完全勝利したわけではありません。成果を確固たるものにする必要があります。汁琮は何の予兆も見せず、突然南下して安陽城を攻撃し始めました。私は何の準備もしておらず、一か八か補助を試みたのです。事は急を要するため、あなたと協議する余裕はありませんでした。それにもし雍国が苦戦したところで、郢国軍は全て水軍ですから、彼らを救うことはできないでしょう。」

平たく言えばこういうことだ。あなたが私に黙って汁琮と連絡し合っていたことを責めないので、私が耿曙を指揮したことも責めないでほしい。だいたい耿曙は本来自分の側の人間だ。越権行為にすら当たらない。

姜恒は、太子安が彼の話を消化できるまでしばらく待って、話を続けた。

「照水は郢、雍、鄭にとって非常に重要な場所です。この城を手にすることによって、中原の主となりうる拠点を得たのです。だからこそ郢国が最初に狙ったのがここだったのですよね?」

「そうだ。」太子安は最初の計画のところに戻ってきた。心を落ち着け、「拠点はとても大事だ。」と言った。

雍も郢も中原人に言わせると『蛮夷』だ。一方は北、もう一方は南の。狭義での中原とは、洛陽、嵩県等の天子直轄地と、梁、鄭国の一部だけにすぎない。一般的には長江中流から下流の辺りを指すのだが、歴史上、それぞれが『蛮夷』の認識を持っている。黄河流域に拠点を持つことが重要なのだと姜恒にも当然理解できる。雍国なら嵩県、郢国は照水城というわけだ。この城を持つことで、郢国は中原の中央から軍を出し、四方を討伐でき、中原が長江と玉衡山に守られるという歴史に終止符を打つことができる。

「次は軍備増強ですね。一切の対価を顧みず、可及的速やかに照水を増強し、覇を争うための中原最大の拠り所として、この城を利用するのです。」

 

太子安は努めて表情を押さえ、うれしそうに頷いた。「君の言うとおりだ。慎重に行かなくてはな。ハハハハハ!」太子安が笑い終えるのを待ち、姜恒は再び言った。「私もこの二日で準備ができました。北上して、彼らと落ち合います。」

太子安はまた少し驚いたようだ。「君はこれで帰るのか?」

「帰ると言うよりも、兄が最も重要な任務を完了させられるように、彼を見に行かなくてはなりません。殿下に替わって軍を労いに行きたいのですか、いかがでしょうか?」

「それは……」太子安は少し疑わしそうに言った。「例の刺客のことは……。」

「秘密裏に出て行きます。誰にも知られないように。」

姜恒は変装術のことは言わないことにした。黙っていた方が無難だろう。耿曙の傍に行ったら変装は解くつもりだ。二人の関係はあまりにもよく知られているから、殺し屋が自分を認識できなくても耿曙を見れば、二人の態度でわかってしまうだろう。

太子安は心を決めたようだ。「それでは項余に君を遅らせよう。子淼の所まで送り届けられれば、私も安心できる。」姜恒もこの申し出は断らず、頷いた。

 

再び海東青が戻って来た時、姜恒は北に向かう準備を終えていた。項余が送ってくれるなら、変装の必要もないだろう。耿曙が手紙を送って来た。姜恒はうめき声をあげた。「また戻って来たのかい?もう来なくていいと言ったよね?早く行って。偵察の仕事があるんでしょう。」

姜恒が手紙を広げて字面を見ると、耳元に耿曙の声が聞えるような気がした。

『城攻め後、民は皆無事だ。俺が自分で見たし、略奪も殺人もするなと屈分にも言いつけた。恒児、安心しろ。お前に言われたことは俺はいつだって心に留めてある。』

 

門外で待っていた項余が姜恒に言った。「愚兄(私)はまだ少しやり残した仕事があるので、行って見て来ます。賢弟は侍衛を連れて先に出発していただいて結構です。」

姜恒は頷いて、門を出る前に、急ぎ、一言書き付けた。『私を待っていてね。』そしてすぐに門を出て馬に乗り、北に向かった。     (師父は何しに行ったのだ?)

 

 

河洛兵道。洛水が起伏にとんだ丘陵に続く、広々とした原野を抜け、黄河に合流する地。漢中と河套を離れ、将軍峰の麓に来た。耿曙は兵たちを率いて、再び一昼夜の急行軍を行い、鄭軍が必ず通る道で、部下たちを山林に散らして待ち伏せの準備をさせていた。

照水落城後、耿曙は金品を一切受け取らず、部下たちにも略奪を禁じた。最初の計画通り、八千の王軍は宋鄒に託して嵩県へと連れ帰らせ、直属の二万を連れて東中原に向かった。崤山から二百二十里の場所で、雍国のために、梁国唯一の希望である太子霊からの救援軍を寸断させるためだ。

 

海東青が戻ってきた。耿曙は布切れを広げて、姜恒からの一言を読むと、風羽に向かって言った。「こんなに急いでどうした?俺の恒児は元気だったか?」

風羽は勿論答えず、上を向いて不思議そうに耿曙を見た。耿曙は鷹を撫でてやった。二人は風羽の頭を同じように撫でることで、間接的に互いの手指を触れ合わせたようなものだ。

「何か食べたら、偵察に行ってくれ。いつもご苦労さん。一人で寂しいだろう。帰ったら嫁さんを見つけてやるからな。」

 

「よ!戻って来たな!」将校たちが神鷹を見に来た。みな風羽が大好きだ。この鷹が彼らの任務をかなり楽にしてくれるからだ。風羽なしでは戦地でどれだけの仲間を失ったかわからない。

一人の万夫長が耿曙の話を聞いて笑いながら言った。「嫁さんを見つけてやるべきですね。」

兵たちは渓谷で火を焚いて座り、海東青が食べる姿を見ていた。風羽は生肉をついばみ始めた。耿曙は心の中で呟いた。『俺たち皆未婚だというのに、お前の結婚の心配をしてやっているんだぞ。こんないい主人他にいないだろう?』風羽は食べ終え、渓水を飲み始めた。

耿曙は水に映る自分の姿を見た。皆自分は父に似ていると言う。だが彼は自分は刺客のようではなく、武将らしいと考えている。武将のような生活をし、武将のように飯を食う。

目下、自分は武将らしく石の上に両足を開いて荒々しく座り、片手を左膝に置き、背には一本の剣を背負っている。水の中の自分を見て思った。姜恒はこんな自分が好きだろうか?

聞いたことはなかったが、姜恒はどんな人が好きなんだろう。男でも女でも。姜恒の目には自分しかいないことはわかっている。それは好きだということではないか?自分が姜恒を好きなのと同じ好きという気持ちだろうか?そこは確信が持てない。

二人の間の感情がどういうものなのか、もうはっきりといえなくなった。初めは姜恒が誰であれ、お互いを守りあって一緒にいたかった。それが自分の責任であり、願望でもあった。それは好きということだろう?

 

夜になり、将校たちは篝火の前でおしゃべりをしていて、耿曙は近くに座って黙って聞いていた。一人の千夫長が聞いてきた。「殿下、我らはまた嵩県に帰れるのですか?」

耿曙は我にかえり、「帰りたいのか?」と尋ねた。

皆はお互いを見合って、目配せをし合ったが、耿曙の前では言いづらそうだった。

「帰りたいです。」万夫長が皆に替わって答えた。

「なぜだ?」耿曙はこの待ち伏せ攻撃が終わり、雍国が安陽を取ったらすぐに、自分の将軍権を返上しようと考えていた。

全員が笑い出した。

耿曙:「?」

万夫長が言った。「兄弟たちの多くは、武陵に二年間駐留して、皆思い人がいるのです。」

耿曙は理解した。雍国では士兵たちの結婚は自分で決められない。結婚は両親の決めることだが、皆幼少から両親とは離れ、棋子となるべく培養されている。七歳から軍寮で武芸を習い、誰も見合い話など持って来ない。いつか大雍官府が国君の名義で、彼らに婚儀を指定するだけだ。それは結婚というものなどではなく、交配だ。役所が適齢女性を住所ごとに分配し、軍人は十日から半月ほどの短い期間帰郷し、子作りをする。生まれた子は母が七歳まで養った後、国家に管理されるようになる。

ここにいる雍国兵たちは嵩県に駐留していたため、軍規から外れ、逆にこの地で恋愛をする機会を得たのだ。

「『温柔郷は英雄の墓場』だ。」耿曙が言った。

 (三国志辺りの言葉みたい。温柔郷は心休まる場所と遊郭と両方の意味があるようです。)

一同は敢えて物を言わなかったが、耿曙は話を続けた。「だが、それが人というものだ。戻れるよう努力する。」

それを聞いた兵たちはそれぞれほっと息をついた。

一人がいった。「私だって結婚までは望みません。また会えればそれで満足なのです。」

「言ってくれ。お前にそこまで思わせるのはどこの家の娘だ?」耿曙が尋ねた。

最初は誰も敢えて放さなかったが、耿曙の真剣な表情を見て、それが冗談でないと分かると、万夫長が話し始めた。全員が二十歳そこそこの若者だ。ずっと耿曙についていて婚配(!)を逸した。だがそれだからこそ、嵩県で自ら相手を見つけたのだ。

耿曙は彼らの思いを聞いた。全員ではないが、殆ど全員、よく知っていて名前で呼べる戦士たちが、心に願いを持っていた。ほとんどが、結婚し、家族を養うというものだ。彼らが落雁城や他の地に行っている間、恋人たちは彼らの帰りを待っていた。

兵たちの話を聞いている内に彼にははっきりわかってきた。姜恒と離れがたい理由、感情はずっと前から兄弟の間の絆だけではなかったのだと。

「恋人の為なら国を裏切れるか?」突然耿曙が尋ねた。

全員が瞬時に表情を変えた。万夫長が言った。「それは絶対ありません。ただ……。」

万夫長は耿曙について一番長い。敵に立ち向かう度に、先頭を行く耿曙の性格を最もよく知っていた。城府も持とうとしない人が、仲間を試そうとするはずがない。聞きたいことは、言葉通りの意味で聞きたいだけなのだ。

「ただ何だ?」

文人は言います。国と家は並び立たず。でももし並び立つなら、きっとすばらしいことでしょう。」

耿曙は頷いた。「結婚はいいことだ。二人の人間が一生涯、誰にも離れさせることはできない。」

「本当に好きになれる人に当たればですが。」万夫長は笑った。

耿曙は再び部下たちに問いかけずにはいられなかった。「いつも思わずにはいられず、一生涯一緒にいたい、他の人のことは考えられない。だが結婚はできない。それは何だ?」

「なぜ結婚しないのです?殿下はすぐに結婚すべきです!」将校たちは皆笑った。

「それで結婚せずに、どうするのです?おめでとうございます、殿下。どこの家の娘ですか?」

耿曙はそれ以上言わずに、剣を収めると、背を向けて歩き出し、口笛を吹いた。

「風羽!」

風羽は翼を広げて飛んで来ると、鎧をまとった耿曙の肩に停まった。

部下たちは耿曙が話を続けたくないのに気づいたが、皆彼を尊敬しているため、からかおうとする者は誰もいなかった。

 

耿曙は一人、真っ暗な森の中を進み、渓水にそって歩いた。

水に映った月の光が、無数の銀色の魚鱗のようにきらきらと輝いている。

俺はいつから恒児を愛しているんだろう?

それを考える時、恥ずかしさに耳を叩きたくなる。それなのに、思い出さずにはいられない。そうした記憶がいつも思いもよらない甘さをもたらしてくれるからだ。

飴を口にした時の様に、食べ終わって甘さが消えてしまってからもその味を思い出すかのようだ。

もしかしたら、山を越え河を渡り、いばらのとげに全身傷だらけになって潯東城にたどり着いた時、姜家の重い大門を開け、姜恒が自分に向かって手を伸ばしてきた、あの瞬間、もう彼を愛し始めたのか。

それとも昭夫人が二人の元を離れたあの黄昏時、姜恒が彼女の腕に抱かれ、自分の方を見つめ、孤独に目を潤ませたあの時か?

或いは、洛陽の城壁の上で、酒を飲んだ時か。自分は城の上に残り、去って行く姜恒をやるせない思いで見送っていた。あの雪の夜、姜恒は浮かれてご機嫌だった。雪の中で小動物のように跳ねまわり、走りながら歌を歌っていた。

「天地一指也、万物一馬也」

姜恒がこうした言葉を言う度に、説明できない不思議な気持ちになった。それに彼が詩書を読み上げている時にもだ。

「上古に大椿者有り,八千歳を以て春と為す,八千歳を以て秋と為す」や、

「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」

 

幼いころから今に至るまで、耿曙は常に感じていた。自分と姜恒の間にはいつも何か足りない物があると。どんなに彼を大事にし、楽しませ、愛していても、どうしても掴むことのできない、触れることさえできない小さな一部分があるのだ。

本能でもある、生命の最も強い欲望に答えてほしいと望む。だがそれを解き放つことはできない、姜恒が自分に与えてくれるのを待つしかない。

だが耿曙にとってそれを口に出すのはとても難しい。姜恒がどう反応するか全く予測できないからだ。仲の良かった兄弟が、突然別の関係になる。自分でさえ、考えれば考えるほど難しく思えた。だが彼が欲しい。どうしても彼が欲しい。自分が持つたった一つの願望だ。

 

雍国軍に身を置いていた時に男性同士の関係について耳にしたことがあった。そもそも子供の頃、姫珣と趙竭とのあの関係に偶然出くわしていた。あの時は衝撃を受けたが、よく考えてみれば、王と将軍がああなったのはごく自然なことで、あるべき姿のように思えた。

天下に広まった『越人歌』は、一人の船頭が王子に切々と愛を訴える歌謡だ。越人にとっては男性同士の恋愛は普通のことで、界圭が汁琅に抱くような絶対的な忠誠の体現でもある。

耿曙は姜恒以外の少年を愛したことはない。だが界圭のことを変だとは、一人の男性が別の男性に愛情を抱くことを異常だとは思わない。

あの日教坊で、姜恒だって「すごくよかったよね。」と言っていた。つまり、彼は受け入れられるということか?そう考えてみると、姜恒は毛嫌いしてはいないようだ。

耿曙は趙竭のことを思い出す度、趙竭が姫珣を渇望したのと同じように姜恒を完全に支配することを望んだ。だが後一歩及ばない。最後の一歩が。……姜恒が完全に自分だけのものになり、自分は彼の守護者として、刀の山も火の海も彼の為なら恐れず進む。

昔も今も、幼いころから今に至るまで、その一点には未だ到達できていない。姜恒の心の最後のその場所には。そして完全に自分の一部になるというところまでにも。

 

二人を阻む一番の問題は二人が男同士ということではなかった。……血のつながりだった。

もし真実を言わなければどうだろう?考えたことはあったが、それでは畜生のようではないか?姜恒は二人が兄弟だと思っている。兄弟の間で豚にも劣るようなことがあれば、彼はきっと怯えるだろう。

 

「偵察に行け。」耿曙は風羽に言った。風羽は翼を振って飛び去った。耿曙はため息をつき、川岸に座って顔を洗った。

 

「そっちが来ていると知っていれば、私は来なかったのに。」

馴染みの声が対岸から聞こえた。