非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 121-125

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第121章 別れの歌:

 

足音が聞こえて耿曙はすぐに振り返り、姜恒もおや?と目をやった。頭の中が混乱していた耿曙は界圭が城壁に上って来たのに全く気付かなかった。「何で急にいなくなったんです?」

界圭が声をかけた。姜恒は笑いながら言った。「あなたが見つからなくて。出勤する時にお別れの挨拶はしたでしょう?」界圭は城壁を乗り越えて、二人の近くに腰を下ろし、南方を望んだ。

「南から来た人は、最後は南に帰るのですね。」突然現れた界圭に耿曙は不満だった。だが明日朝一番で出発したら、自分が姜恒につくことになる。界圭にとって最後となる日に追い払うわけにはいかず、何も言わないことにした。

界圭は郢国について行かず、雍宮に留まることになるのだということは姜恒も知っていた。ひょっとしたらまた太子付きになるのかもしれない。

「私が去ったら、太子と仲良くやっていってね。」

東宮にはいきませんよ。桃花殿付きです。」界圭が横を向いた時、なぜか耿曙は郎煌が描写した、銀面をつけた侍衛という言葉を思い出した。耿曙は目を細めて界圭を推し量るように見た。

「顔に傷が増えたな。前はなかった。どうしたんだ?」

「よくわかりましたね。確かに前はありませんでした。」

界圭は気にしていないようだったが、姜恒は覚えていた。―――あの日、東蘭山で自分が投げつけた真っ赤に燃える木炭が界圭の目の横に当たり、浅い傷を残したのだ。

「ごめんね。」姜恒があやまった。

界圭は真面目くさって言った。「私の自業自得ですよ。むしろ、そんなに甘ちゃんで、これからどうやって大業を成すつもりですか?さあ、これをあなたにあげます。」

界圭は、表面に篆書体の符号が書かれた腰牌を放ってよこし、耿曙が手を伸ばして受け取った。「江都に着いてから人手が足りなかったら、この腰牌を見せて桃源の人を探してください。きっとあなたの役に立ちます。」姜恒は頷いた。表面に桃花の標記がある。

「越人か?」耿曙が尋ねた。

「身内です。越国が滅びてから、汁琮に着いて北方に来たものもいれば、鄭や郢に行った者もいます。桃源はその中の一派です。」

姜恒は感謝した。きっと界圭は故国の人と連絡を取り合っているのだろう。越人は自らの国土は失ったが、五国に散って、神州の大地の血脈となっている。彼らの気質は各国に影響を与え、彼らの歌もあちこちで歌われている。

「ありがとう。今日は祝日だから、帰ってよく休んでね。」

「いさせてやれ。今日がお前を守る最後の日だ。」

界圭は姜恒に言った。「どうしてそんなに私を嫌うんです?」

姜恒は苦笑いした。実を言うと界圭が好きだった。「そんなことないよ。きっとあなたに会いたくなると思う。」

「そう願います。どうも私は生まれつき情が深すぎるようですからね。」

「そうだな。」耿曙は少し機嫌が悪くなってきた。故意か否か界圭には限界を越えたがる気合がある。時々殴ってやりたくなるのだ。

 

今度は別の誰かが口笛を吹いた。姜恒は振り返ったが姿が見えず、声だけが聞こえた。

「孟和!」孟和が身を翻して城壁に上がって来た。「雪合戦をしよう!」

別れを惜しむ輩がまた増えた。耿曙はいらいらと「行かん!」と言った。

「半時も君たちを探し続けたよ。」山沢が水峻と手をつないで城壁の階段を上がって来た。「こんなところにいたのか。」

「俺の言ったとおりだっただろう。」郎煌が言った。

みんな来やがったか。耿曙にはわかっていた。みんなで示し合わせて姜恒に別れを告げに来たのだろう。結局のところ、一度出て行けば、いつ帰れるのかはわからないのだから。「座ってくれ。」耿曙が言った。

孟和、山沢、水峻、郎煌は、二人と界圭の間を埋めて、城壁に一列に腰掛けた。

皆足を城壁から垂らし、孟和は片足を抱えて、一袋の酒を取り出した。「何を見ている?」

「長城だよ。」姜恒が答えた。

「見えるのか?」孟和は横を向いて他の人たちに聞いた。「君たちには見えるのか?俺は目虐か?なぜ俺には見えないんだ?」皆が笑い出した。

「あなたの漢語はどんどんうまくなるね。」姜恒が言った。 (うらやましい孟和め)

「勉強したんだ。」

「うそばっかり。」山沢が言った。皆はまた笑った。

姜恒は面白いなと思った。みんな王子だ!氐人王子、風戎人王子、林胡人王子……今は林胡人の王か。あと隣には雍人王子もいる。得難い場面だ。誰もが自分の身分など気にせず、町にたむろする若者みたいに、笑ったりふざけたりしている。

 

「家に帰りたいだろう?南方こそ雍人の家だってみんな言うよな。」水峻が言った。

「天も地も広大だ。天地が私の家。雍人に早く出て行ってほしいと思っている人もいるかもしれないけどね。」姜恒が言った。

皆また笑った。郎煌が言った。「そりゃそうだろう?雍人には早く出て行ってほしい。うんと遠くへ行ってもう戻って来なくていい。もちろん、君ならいつだって大歓迎だよ。」

耿曙が淡々と聞く。「俺はどうだ?」

郎煌が答えた。「君もまあ仕方ない。」

孟和が遠方を指さした。「長城か!俺も見てみたいな。」

姜恒が尋ねた。「みんな長城より南に行ったことがあるの?」

「ない。」山沢が答えた。孟和も首を振った。誰も長城以南には行ったことがなかった。

「南方はどんな所だ?教えてくれ、恒児。」孟和が尋ねた。耿曙が眉をひそめた。その呼び方はなれなれしすぎる。いつもは自分専用だぞ。

水峻は意味ありげに山沢と視線を交わした。『ほら見ろ。俺が言った通りだろう?』山沢は責めるような視線を送った。良い子にして二人を笑いものにしてはだめだ。二人は兄弟なのだから、普通の少年愛と一緒にしては名声に良くない。

そんなやり取りに気づかない姜恒は「南方はね、実はそんなにいいもんじゃない。中原の大小様々な戦乱はもう長年続いている。勿論きれいな場所はあるよ。嵩県なんかそうだ。」

「俺の封地だ。俺は武陵候だからな。」耿曙が言った。

「うん。武陵。それは琴川辺りの北だね。」

「琴?」孟和が聞いた。

山沢が説明した。「玉衡山の南に五つに分かれる河流がある。琴の弦みたいだから琴川と呼ばれるようになった。」

孟和が頷き、琴を弾く動作をした。山沢が続けた。「私は洛陽を見に行きたいんだ。天下の中心で神州の知識や書本、詩、書、礼、楽、全て備えた王都、天上の宮殿のようだと聞く。」

姜恒:「全部燃えてしまったけど。目下のところ一番素晴らしいのは梁国の安陽だね。」

山沢はため息をついた。「勿体ないことだ。」

山沢は子供のころから漢人の書を読んできて、中原には憧れがあった。姜恒は「雍軍が関を越えたら、あなたも中原を見に行けるよ。」と言った。

「子供のころから神州を渡り歩いてみたいと思っていたんだ。」

「できるよ。」

水峻が言う。「俺も行っていいか?姜恒もまだ出発していないのに、お前の方が行きたそうだ。」山沢は笑いながら水峻の肩を引き寄せ、人目も気にせず耳元に口づけし、言った。「もちろん一緒だ。どこでだってそうだよ。」

「ああーーーー」皆二人にはお手上げだ。

「俺も行きたい。来年君を訪ねて行くよ。」孟和が姜恒に言った。耿曙は孟和に警戒心を抱いた。だが孟和の長兄の風戎大王子、朝洛文とは生死を共にする間柄だ。どんなに孟和が嫌いでも、この兄弟はよく似ていた。

「君はどうだ?」孟和は郎煌に聞いた。

姜恒の心に離れがたい思いが湧いてきた。彼らと過ごした時間は長くはない。だが生死を共にして戦った後での絆は強い。「もしかしたら嵩県でならまた会えるかも。機会があったらの話だけどね。」

郎煌が言った。「まあ言うならば、中原には別に興味ないけど、行ってみるだけならいいかもな。」

ふと一同は黙り込んで、一緒に遠方を望んだ。遠すぎてここからでは見えない長城、やはり見えない玉壁関、見えるのは中原大地と北方雍国を隔てる連綿と続く山々だ。

「だけど俺も聞いたことはある。とても美しい場所だって。」

「天下のどこにも美しい場所はあるけど、その場所が好きなのはそこに大切な人がいるからだよね。」皆そう思うと頷き合った。耿曙には姜恒の真意がわかっている。

――彼が雍を受け入れたのは初めから終わりまで自分のためだ。それは変わることがない事実だ。彼は姜恒を引き寄せた。夕日がゆっくりと沈んでいく。

孟和が言った。「君は琴を弾くんだってな。姜恒、琴を弾いて聞かせてくれよ。」

姜恒は苦笑いした。「できないよ。」

山沢も真剣に言った。「お父上は天下一の琴の名手だったのにできないって?騙されるものか。」界圭:「琴を取って来ましょう。弾けますよ。聞かせてもらったことがあります。」

「いつあなたに聞かせたって?」

「潼関で!」界圭は瞬く間に城壁を下りて行った。「夜中にねーーー!」

姜恒と耿曙は視線を交わした。耿曙は頷いた。『弾いてくれ。俺も聞きたい。』

郎煌は界圭の後ろ姿を見守って何か考えているようだった。耿曙は郎煌に目をやらずにいられなかった。だが郎煌は何事もなかったかのように視線を戻し、意味ありげな笑みを浮かべて姜恒を見やり、雲霄笛を取り出した。

「君に雲霄を吹いてあげよう。」

すぐに界圭が戻って来て、姜恒が宮中に持ち込んでいた琴を手渡した。酒も何瓶か持って来ていた。「みんな今日の酒解禁に乗じて一年分全部飲む気なの?」

「なぜか今日は特別に飲みたい気分なんですよ。」界圭が言った。

戻って来た界圭を郎煌はずっと見ていた。

「じゃあ、共に戦い散っていった仲間たちに一曲送ります。」

「悲しい曲は嫌だ。彼らのことはもう送ったんだ。」孟和が言った。

「いや、やるよ。私はまだ彼らを送っていないから。」姜恒は界圭が持って来た琴を置き、姿勢を正した。耿曙は自ら膝を曲げて、城壁に架け、膝の上に琴を置いた。

すぐに、孟和はみんなを残して、城壁を飛び降り、楽器を持って戻って来た。小さな胡琴で、琵琶のように指で軽く弾くと、澄んだ音を出す。

姜恒は少し驚いた。孟和は楽器を弾くことができるのか。

「そんなもんしまえ!」郎煌は音の調整をしていたところだった。「競馬大会じゃないんだ。誰もお前のへたくそな演奏など聞きたくないぞ。」と言った。

みんなはどっと笑ったが、孟和は頑固に姜恒と合奏したがった。山沢と水峻はそれぞれ陶笛を取り出した。一つは黒く、一つは白い。

姜恒は笑って、しばらく考えていた。耿曙が手を琴の上に置き、彼のために弦を押した。姜恒は流れるような処作で弾き始めたが、奏でたのは力強い曲調の《小雅・常棣》だった。

 

「 常棣(ジョウテイ)の華 鄂不(ガクフ)韡韡(いい)たり」

姜恒は柔らかい声で歌い始めた。だが、後を引き取った耿曙は声を張り上げた。

「およそ今の人 兄弟に如くはなし。」

歌声に合わせ、陶笛、雲霄、胡琴の演奏が加わり、音色はにわかに激しく揺さぶるような響きとなった。

「死喪のおそれ!兄弟はなはだ懐う!」

「原隰(ショウ)に集まるも!兄弟求む!」耿曙は姜恒を見ながら歌った。

 

姜恒は苦笑した。元々は大戦で散った同胞たちへの挽歌のつもりだった。だが耿曙の歌声によって、哀悼よりも生への強い応援歌の意味合いが強くなった。

次に耿曙が弦を変え、姜恒は片手で奏で始めた。琴の音は重厚な音へと変わった。

「死生の契りは広く―――」耿曙は目を閉じて真剣に歌った。

「なんじと成説し―――」皆は演奏を止めた。この曲は塞外でも百年以上歌われていて、孟和でさえ歌うことができた。馴染みの旋律を聞き、すぐに合唱が始まった

「なんじの手を執り……」耿曙は空いている方の手で姜恒の手を握った。

「なんじと添い遂げる——」界圭も遠方を望み優しく歌った。

《撃鼓》は神州大地では知れ渡っている。人がいる場所ならこの歌もある。

死生の契りは広く、子と成説し、子の手を執り、子と添い遂げる。

この曲は死んでいった同胞への挽歌に留まらず、愛する人との人生をうたっている。城壁の近くにいた兵士までもが、琴の音を耳にし、それぞれ《国風撃鼓》を歌いだしていた。姜恒は琴を弾くのをとめた。「二首歌ったよ。もういいでしょう?」

「もう一曲。」耿曙は別の弦を押さえた。姜恒は考えたのち、三首目を奏で始めた。

 

「山有木兮,木有枝」(山には木があり 木には枝がある)

耿曙は目を閉じていても姜恒の三首めの琴曲がわかった。

雲霄の音が止まった。《越人歌》を彼らは聞いたことがない。だが界圭、耿曙にはこれ以上ないくらい馴染みの曲だ。

「心悦君兮―――。」(慕っております)

界圭の声音が明瞭になった。琴の音に触発されて情感豊かに歌い始める。

姜恒:「今夕何夕兮,搴舟中流……」(何というゆうべ 船を曳いて流れの中に) 

「今日何日兮 得与王子同舟」(何という日か 王子と船に乗るなんて)

耿曙と界圭が同時に後を続けた。

 

曲の状況通り、城壁に座っているのは皆王子だ。ということは、『王子と船に乗っている』のは当然姜恒ということになる。

「蒙羞被好兮,不訾诟耻……」(恥ずかしがってもいいでしょう とがめないで下さいね)

この部分を歌う時、姜恒は少し恥ずかしくなる。越人は奔放だ。絶え間ない感情の揺れを世間にどうどうと訴えているようだ。それが正にこの歌の情感のヤマなのだが。

「心几烦而不绝兮,得知王子……」(心は千々に乱れています 王子にわかってほしいのです)耿曙は姜恒を見ながら、少し口角を上げた。

琴の音が小さくなっていくその余韻の中で界圭の声もやさしくなり、最後の部分を歌う。「山有木兮,木有枝」(山には木があり 木には枝がある)

さっき聞いたので皆にも次がわかった。琴の音が消えゆく中で、歌ってみる。

「心悦君兮―――。(慕っております)君不知……」(ご存じなくても)

姜恒は弾き終えた古琴を横に置いた。

「何ていい曲だ!」孟和が驚き興奮していた。『越人歌』を聞くのは初めてだった。

「すごく美しい!」

界圭は皆に説明した。「最後の一句は、歌わないものなんです。『ご存じない』のだから、何でもない時には歌わず、『歌い納め』の時だけ歌うんです。つまりその部分を奏でたら、その後は死ぬってことなんですよ。」          (先言えよ。)

「ああ。」耿曙は頷いた。彼も初めて聞いた話だが、そういえば、父がこの曲を奏でる時、確かに最後の部分はやらなかった。そういうことだったのか。

姜恒の方は歌い納めた趙竭と姫珣を思い出していた。そうだったんだ。

 

夕日が沈んでいく。皆しばらく心をさまよわせながら、地平線を血の如く真っ赤に染めながら落ちてゆく夕日を見ていた。一年で一番短い一日が終わろうとしていた。

「雪灯を作りに行こう。」水峻が言い出した。「行くよ!」

姜恒は嬉しそうに賛成し、皆で城壁を下りて行った。

落雁城の民は日中の騒ぎを終え、ようやく祝いの第二部を始めた。全城の四十万近くの人々が家を出てきた。街道、小道、家の門外に、雪を集めて、人や犬、飛ぶ鷹、走る狐などの形を作り、中をくりぬいて、皿に油を入れた油灯を入れた。

空が暗くなるにつれ、万家の灯火が、星々のように雪の中に光を放った。雍宮を中心に四方八方に伸びる光の川の流れは甚だ夢のようだった。

最後に汁琮は自ら玄武神像の前に立ち、万民が敬う君王灯に火をともした。来る年が天候に恵まれ、戦いで負けないようにとの祈りをこめて。

耿曙と姜恒は手をつないだ二人の雪人を作った。心臓の場所に置いた灯は遠くまで光を放った。王宮では宴が始まり城の民たちにも分け与えられた。宮前校場には民たちが集まり、汁琮と汁瀧に叩頭した。

 

姜恒は夕食を終えると、一日遊んだ疲れで眠くて仕方なくなった。だけど夜半に行われる年越しの爆竹は楽しみにしている。耿曙は彼を着替えさせながら言った「明日朝一番で出発だ。眠かったら寝た方がいい。」「少し寝る。年越しの時に起こして。」

耿曙はそんなことはお構いなしに、横になった姜恒を見ると、自分も隣に横たわった。姜恒は彼を押して、「自分の部屋に帰って寝れば。」と言った。「行かない。」

姜恒は彼をからかおうとして歌った。「何という日、王子と船に乗るなんて……恥ずかしがってもいいでしょう。とがめないで下さいね……。」

「ふざけるんじゃない!」姜恒は彼に布団をかけてやろうとしたが、耿曙は押さえつけて動き回らせないようにした。姜恒は耿曙に抱かせたまま、瞼が重くなり、眠りに落ちた。

 

ーーー

第122章 人質への道:

 

夜半になると爆竹の音が響き渡った。これで年越しだ。姜恒はうとうとしながらも耿曙に誰かが話しかけているのが聞こえ、何とか起き上がった。

「いいから早く帰れ。明日また見送りに来ればいいだろう。急ぐことはない。」耿曙が言っている。「明日は来られないかもしれないから。」太子瀧の声が聞えた。

「殿下?」姜恒は完全に目が覚めた。太子瀧の体はすっかり冷え切っているようだ。それに今日は相当疲れているだろう。汁琮に替わり、立ちっぱなしで民に接見しただけでなく、群臣の接待もしたのだ。太子は雪まみれの外套を脱ぎ、冷たくなったままの両手にハアハア息を吐きかけながら、長椅子に座った。耿曙は姜恒に水を飲ませようと立ち上がった。

「今日はさぞかしお疲れでしょう。お帰りになって早くお休みください。」姜恒が言った。太子瀧は笑ってみせた。「疲れてないよ。これが私の仕事だから。ようやく終わったから、ちょっとあなたと話したかったんだけど、寝ていたんなら気にしないで。」

 

姜恒が起きて来て腰掛けると、耿曙は「熱い茶でも飲むか。」と言った。

三人は長椅子に座った。雪の夜、紅炉から馥郁とした茶の香りが漂った。

太子瀧が言った。「明日の朝には行ってしまうんだね。私にはどうにもできなかった。君は大事な弟だというのに。行ってしまったらいつ戻れるかわからないなんて。」

姜恒は微笑んだ。「五国会議の際にはお目にかかれますから、遅くても秋ですね。」

 

太子瀧は小さくため息をついて、耿曙を見た。「兄のことをよろしく頼むよ。そんな風には見えないけど……兄さんの思いはよくわかるんだ。つまり……あなた次第なんだよ、恒児。あなたに責められたら、怒るだろうし、よくしてもらったら、それは喜ぶんだから。」

こいつ何を言い出すんだと耿曙は思った。「夜更けにやって来てまで話したかったのがそれか?お前にいったい何の関係があるんだ?」姜恒は笑い出した。「しっかり看て、やさしくしてあげますよ。」「俺が恒児のことを看てやるときと一緒だな。」耿曙が言った。姜恒と太子瀧は見つめ合って微笑みを交わした。何か暗黙の了解が成立したかのようだ。

 

太子瀧は受け入れたのだ。もう耿曙に執着しないつもりだ。今でも傍にいてほしい気持ちはあったとしても振り切った。耿曙は元々姜恒の兄だったのだし、彼がいなければ姜恒には誰もいない。自分には父も家族もいるのだから。姜恒から耿曙を奪い取ってしまえば、彼には何も残らなくなってしまう。

太子瀧はしばらく考えてから口を開いた。「この一年は大雍にとって今まで経験したことのない一年だったね。」姜恒は言った。「歴史の一幕を見たかのようでしたね。」太子瀧は頷いたが、少し不安を感じていた。こんなことは誰も口に出してはいないが、心の中ではきっと同じような疑問を感じていると思う。雍国が玉壁関を出れば、百年来起きなかった事態に遭遇するはずだ。天下に君臨するなら、後戻りはできない。だが運命の車輪は目の前で動き始めた。その巨大な力を阻止することなどできない。ただ前に向かっていくのみだ。

「俺たちならできる。心配するな。」耿曙が言った。

「時々夢の中にいるような気持になることがあるよ。」太子瀧が言った。

姜恒は耿曙から茶を受け取ると、指先に少しつけて、卓の上に簡単な天下の地図を描いた。

「私たちには何があるか、私たちの強みは何か、お分かりですか?」

「人手は不足している。物資もだ。前途は多難で、変法を進める過程は頭を悩ませる。こんなに若い大雍が、数百年の歴史を持つ中原四国と競うことができるのだろうか。」

「まさに大雍が若いことこそが、一番のよりどころなのです。」そう言うと姜恒は太子瀧に、梁、鄭、代、郢、四国を指し示した。「中原のどの国も、士大夫が朝政を牛耳っています。梁国は重聞亡きあと、ずっと朝廷の勢力が均衡を欠いており、文を重んじ、武は抑えられています。鄭国は年寄りだらけで硬直しており、代国についてはもう言うまでもないでしょう。王族同士の内乱は終わっても再び天下を争う力などなく、ただの言いなり状態です。私たちには何があるか、ですが、私たちの強みは’人‘です。」姜恒は言った。

太子瀧は頷いた。

「雍国の人の才、特に東宮の人の才は、今や四国に充分太刀打ちできます。ましてや皆、とても若いのです。若いということは、怖いもの知らずということでもあります。更に重要なことは、雍国が関内の無益な争いとは無縁だということです!皆目先の利益など顧みずに天下取りという目標の前で一致団結できるのです。」

 

これは嘘ではない。雍国は関内で、利益を気にせず戦うことができる。内乱もなく、朝廷の文武百官の間で、この国とは争っていいが、この国はだめだという気づかいもない。

「私たちには五国の中で最も優秀な軍隊もあります。」姜恒は耿曙を見て言った。「五国の中で最も優秀な将軍も。」

耿曙も言った。「最も優秀な文官もな。」姜恒は笑って「それほどでも。」と言った。

 

太子瀧は姜恒に安定剤を飲まされたように気持ちが落ち着いた。確かにそうだ。代王李宏は死んだ。梁国の軍神、重聞も殺された。鄭国の大将軍車倥に至っては姜太后の剣にやられたのだ……車倥の死を引き合いに出しては気の毒か。だが今の世の中に耿曙に敵う相手がいるだろうか。ひょっとしたら鄭国のかの有名な美人将軍龍于なら五分五分かもしれないが、それでも辛うじて耿曙と対決できるというだけだ。汁琮はどうだろう。背後にはもう一人、戦う雍王がいる。武英公主汁綾だ。

 

二度にわたる敗北を喫し、玉壁関を失って最後には王都に逃げ帰ったとはいえ、この点に関して太子瀧が父に寄せる信頼はゆるぎない。雍国は建国以来天下最強の武将たちを培ってきた。言い換えると、名将たちに問題はない。弱点は文官の方だった。

だが姜恒の加入によって、東宮が力を発揮するようになり、この弱点も克服された。

 

「もう一つ問わねばなりません。私たちに一番欠けている物はなんでしょうか。」

姜恒は再び太子瀧に尋ねた。軍事費も人手も足りないと太子瀧は思ったが、姜恒の眼差しを見れば、彼が求めているのはこうした回答ではないとわかった。ちゃんと答えなければ。

「民心だ。」考えた末に太子瀧は答えた。姜恒は笑顔で頷いた。「民心を得た者が天下を得ます。殿下、関を越えて中原に入ったら、必ず民心を得なくてはなりません。その他のことは二の次です。」

「帰って来るんだよね。このまま郢国人になってしまったら、私はいやだからね。」

姜恒は大笑いした。耿曙は茶を一口飲んで、「俺が雍にいるかぎり大丈夫だ。」と言った。

太子瀧は少しつらそうに笑った。耿曙を見ると心が痛む。こみ上げてくる嗚咽を飲み込みながら、「兄さん、寂しくなるよ。」と言った。「俺もだ。」耿曙は答えた。時々太子瀧に対して自分は少し情がなさすぎると自覚することがある。だが、自分の心を別の誰かに向けることはできない。

 

姜恒は身を乗り出して太子瀧を抱いた。この半年間、二人は進退を共にする相棒となった。太子瀧は自分に対して、ゆるぎなく溢れるような信頼を寄せてくれた。下した決断に疑問を持つことは一度たりとてなかったのだ。

「これを身に着けていて。」太子瀧は玉玦を取り出すと姜恒に渡そうとした。

「いいえ、駄目です。」姜恒は色を失った。これは星玉だ。受け取れるはずがない。

「郢国の人質になるなんて心配でたまらないよ。これは君を守ってくれる。」

「万が一、王陛下に知られたら、千里の道を追って私を殺しに来ますよ!」

耿曙までも心を動かされた。これまで何年も太子瀧はいつだってこれに愛着を持っていたのに、こんなに簡単に誰かにわたそうとするとは。金璽を持たない汁家にとっては星玉は汁琮が『正統』である証でもあった。それを姜恒に差し出そうとしているのだ!

 

姜恒はとても感動した一方で断固として受け取ることはできなかった。

「私にはこちらの片割れがありますから、きっと同じです。」姜恒は手を伸ばして耿曙の首から玉玦の片割れを引っ張り出した。少し考えてみてから太子瀧は、そうだなと思った。

そちらの玉玦は耿家の物だから、理屈では姜恒にも継承権がある。それならこれ以上言うのはやめよう。

 

「星玉は君主の証、いつかあなたは素晴らしい国君となられるでしょう。私は心からそう思っておりますよ、殿下。」姜恒は真剣に言った。

「無理だよ。慰めてくれなくていい。自分の不出来は自覚しているから。叔父上と比べたらはるかに及ばないよ。」太子瀧は残念そうに言った。

「父王と比べたら、いけるだろう。」耿曙が突然意見した。汁琮を引き合いに出してだ。以前は汁琮の決定に問題を見出すことはなかったが、姜恒が帰って来てから気づいてしまったのだ。汁琮はいい父親だが、おそらくいい国君ではないのだろうと。太子瀧という雍国の未来の希望があるからこそ、朝臣たちは耐え忍び、民も耐え忍ぶことができている。汁琮にも皆が耐え忍んでいることはわかっているが、別に気にしないだけだ。

 

姜恒は少し疑問に感じた。「どうして信じられないのですか?いろいろな国君を知る私から見ても、兄上、あなたはとても良くなさっているのに。」太子瀧は言った。「ただのどんぐりの背比べではなくて?」

姜恒は海閣にいた時に自分が言ったのと同じことを太子瀧が自分で言うとは思ってもみなかったため、ツボにハマって、大笑いしてしまった。

耿曙:「何がそんなにおかしいんだ?」姜恒は笑いすぎて出てきた涙を手で拭った。

「信じられる部下がいれば大丈夫です。王位継承者であれ、国君であれ、聖人ではありません。例え聖人だとしても間違いは犯すでしょう。信頼して人を使うことを学ぶことが君王にとっては何より重要です。」

「だったら正しい人を信じないとね。その点で、私は運がよかったかな。」太子瀧は笑顔で言った。姜恒も笑った。「信じるべき人とそうでない人の区別は、あなたの中でははっきりしておられのでは?違いますか。」姜恒は気づいていた。太子瀧には是非を見分ける力がある。山沢や氐族への態度、汁琮の決定に対する是非。心の中には天秤があって汁琮の権威の元で多くを言えずにいるとしても、それは是非や善悪の区別がつかないということではない。彼には信じる心がある。太子瀧はいつかきっと常に冷静に忠言と讒言を聞き分けられる国君となるだろう。

 

だが耿曙は、この話を聞いて言葉にできない複雑な思いに心がすっかり混乱していた。いったいどうすべきか。自分の推測に間違いがなければ、本当の太子は姜恒なのだ。

太子瀧が帰ってからも、耿曙は中々落ち着くことができなかった。だが、心の中でひそかに決意を固めた。絶対に姜恒を守り抜かなければ。太子瀧の星玉がそのことを思い出させた。

あれは汁琅から受け継いだものなのだから、本来は姜恒が持つべきだったのだ。今ならこれが負う責任を完全に受け入れられる。道理で初めてもう一方の玉玦を見た時には何も感じず、太子瀧を守る責任に抵抗を感じたはずだ。もう一方を太子瀧が持つことを耿曙は認めていないのだ。もしこれが姜恒に帰する話なら?勿論認めるし、認めるだけでなく、例え火の中水の中、本来彼が持つべきだった全てを取り返しに行くだろう。

 

だが、それならどうすればいい?汁琮に復讐するのか?彼を殺し、太子瀧を廃して、姜恒を太子にするのか?立ち上がって真相を暴くのか?結果はどうなる?姜恒と共に死ぬだけだ。

信じる者はいないだろう。耿曙自身だって自分を納得させるのにあれほど長い時間がかかったのだ。この事実は確実に雍国を震撼させる。慎重に考えなければならない。自分の骨身は惜しまないにしても、姜恒を傷つけることは絶対に避けなければならないからだ。

 

 

―――

翌日、姜恒は人質になるために出発した。姜太后を除くすべての王族が見送りに出た。

耿曙は汁琮を見た時、心に再びあの思いが沸き上がってきた。

空は明るく、どこまでも晴れ渡っている。姜恒は人質の礼を以て雍王室と文武大臣に別れを告げた。与えられた積荷は八車分で、それは諸侯王並みの扱いだ。更に黒い王軍大旗を掲げた雍国騎兵の護衛付きだった。汁綾自らが護衛を買って出て、玉壁関まで騎兵を従え、そこに駐留してからは郢国の地まで人をやって送らせることになっていた。

「向こうでは……自分の身は自分で守るように。まあお前たちは子供のころからもう慣れているだろうが。」汁琮は餞別の酒を掲げながら言った。彼はすでに手を回していた。その計画では姜恒の命は一年続かないだろう。「はい、父王。」耿曙が答えた。

一行は出発し、耿曙は馬車に乗った。姜恒は書を読んでいたが、道中は退屈だった。

「また二人だけになったね。」姜恒は笑った。「恒児」耿曙は隣に座ると話しかけた。

「例え天下の全てがお前の敵となっても俺がお前を守るからな。」

姜恒:「???」姜恒は最近のこうしたやり取りの理由がさっぱりわからない。

「いったい何を考えているの?」

耿曙はそれ以上何も言わない。姜恒が足でとんとん蹴ると、耿曙はため息をついた。

何やら難しい決断を下そうとしているようだ。だがしばらくするとあれこれ考えるのを止め、袍の襟を開けると「俺にもたれろ。抱いていてやる。その方が暖かい。」

姜恒は体を移して、そのまま書を読み続けた。耿曙は黙って考え込んだ。考えに考えた。これは人生を決める最重要事項だ。もし自分の考えが正しければ、……姜恒は太子だ。汁琮が汁琅を殺害したのは悪いことか?悪いことだ。それが正しい道なら、自分は姜恒のために正しい道を取り戻さねばならない。汁琮を敵と見なさなければならない。他に選択肢はない。

太子瀧に罪はないから、彼を殺しはしない。諸悪の根源は汁琮なのだから。

自分は姜恒の為に全てを取り戻すのだ。それが自分の使命だ。だがどうすればいいいのだろう?難しい。耿曙には自分が大雍国挙げての敵となる場面が目に浮かぶようだった。例えいばらの道が待っていようと、姜恒のためには進むだろう。郎煌の周到さがわかってきた。あいつは雍人ではないが、雍人よりずっといやらしい手を考えやがった。郎煌が自分を嵌めたのは何とも悪辣な罠だった。

 

 

ーーー

第123章 雪の山麓

 

耿曙は繰り返し自分に言い聞かせた。証拠はなのだ。何か証拠を探さなければ。それにある時点で姜恒にこのことを話して、どうするか自分で決めてもらうべきだろう。姜恒が自分を必要とするなら、勿論何でもするつもりだ。最悪でも死ぬだけだ。何を恐れることがある?こうであったらと願う可能性はたった一つだけ。全てが郎煌のうそで、自分は騙されたのだということだ。だが界圭の銀面を見た時、これ以上自分を偽れないと思った。これは郎煌が自分を雍国から遠ざけるための策略なんかじゃないのだろう。

姜恒:「?」姜恒は顔を向けて耿曙を見ると、書物で彼の横顔をぽんぽんと叩いた。「今度はどうしたの?」再び物思いに耽っていた耿曙は、慌てて気を取り戻した。「なん…何でもない。ゆうべよく眠れなかったから。」

姜恒は耿曙の顔を近くに寄せて、唇の端にキスをした。二人は馬車に乗っていて他の人達とは離れているので、以前のように好きにふるまえると思っていた。耿曙は顔を赤くして、心なしか口をすぼめ、そっぽを向いた。何か少し緊張しているようだ。「俺は…恒児。」

姜恒は耿曙の襟もとに手を入れて玉玦を取り出した。耿曙はふと今までと違い、紐を引き戻して言った。「何をする気だ?お前にはやらないぞ。」

耿曙は気を付けなければと思った。全てを知った今、これまでと同じではいられない。姜恒はもう一方の片割れを持つべき人だ。いや、違う。彼こそが星玉の片割れで、自分はもう一方の片割れだ。この世に生まれてから二人は互いを求めあう運命にあったのだ。

「いらないよーだ!大事なガラクタなら、どうぞしまっておいて!」

姜恒はもう彼を無視することにして、椅子の下の何かを探し始めた。耿曙はあっと気づいた。「俺に組みひもを編んでくれるのか?」姜恒は応える手間を省いて、紅い糸を探し出すと、紐を編み始めた。耿曙は何か言いたいと思ったが、何分にも口下手で、姜恒の機嫌を取る術もわからない。その時姜恒が「あ!」と言った。「聞こえた?」耿曙はこの機を捉えてさっと近寄って姜恒を抱くと言った。「何をだ?」姜恒は馬車の窓幕を開けた。「ほら聞こえない?誰かが笛を吹いているでしょう!」笛の音は遠くからとぎれとぎれに響いてくるが、

耿曙にも聞き取れた。彼は眉をしかめて窓幕を押さえた。

『桃之夭夭,灼灼其華……之子于歸,宜其室家……』姜恒は笛に合わせてそっと口ずさんだ。

桃の夭夭たる、灼灼たるその華、この子ここに嫁ぐ

その家庭に 宜しきこと多からんことを(周南)     (やっぱ嫁に行くの?

 

「界圭よ。」汁綾の声が聞えた。

「笛を吹けるの?」姜恒は驚いた。

「ええ。大兄さんが生きていた時は毎日王宮で吹いていた。二人の関係がぎくしゃくしてからは、見せしめのように桃花殿で吹いていたわ。大兄さんが死んでからは吹くのを止めたの。これはあなたとの送別のためなのでしょうね。」

界圭は凍りついた山の中、銀の面をつけて立っていた。越笛を吹く表情も冷え冷えとしていた。笛の音は山を越え、遠くの大通りまで届いた。姜恒を送る一行が黒い点となった頃、界圭は越笛をしまった。

「あの時俺を殺し損ねて後悔しているんじゃないか?」界圭の背後から郎煌が声をかけた。界圭は振り返りもせず、山の下を眺めつつ、つぶやいた。

「誰にでも運命があると太后は言います。あなたが死ななかったのも天意なら、後悔しても仕方ありません。」郎煌はぎゅっと拳を握りしめた。「あんたが俺を殺すことに執着しないとわかっていたら、俺だって強硬手段に出るつもりはなかった。急いで話してしまおうとは思わなかったのに。」

界圭は冷たく言い放った。「どんな愚か者が信じると言うのです?是非顔を見てみたいものですね。」

郎煌は眉をひそめた。「ある人が信じればいい。誰にでも運命があるんだろう。世界は広い。どんな人だっている。そうだろう?」

界圭はそれには答えず、山を下りて、落雁城の方に向かって去って行った。

 

姜恒の送別を終えた大臣たちは落雁城前から去って行ったが、太子瀧だけは名残惜し気に、城壁の上に立っていた。

汁琮は歩いて王宮に戻ることにした。衛卓を傍に伴い、これまで長い年月そうしてきたように、君臣は小声で話し始めた。

「夕べ、殿下は、あの者の寝室に一時辰あまりおられました。」衛卓が告げた。

「汁瀧は単純な子どもだからな。」汁琮は実の息子の性格に頭が痛む思いだった。

簡単に人を信じすぎる。一国の君主としては由々しき問題だ。だが間もなく全て解決する。姜恒の脅威は目も前から消える。姜恒を殺してしまえば、今後、彼が代国や鄭国につくこともない。何もかも姜恒の言いなりでは、いつまでたっても汁瀧は、大臣たちの前で後継者としての威厳を見せることができない。聞き分けばかりよくてどうする?

「例の者たちの手配は済んだんだろうな?」汁琮は衛卓の提案を受け入れて以来、刺客の類をまだ目にしていない。衛卓は答えた。「鳴沙山の門主が関入りさせました。」

「経費として金を送っておけ。西域人たちなら漢語が話せないのではないか?」

「血月の手下は子供のころから育てられているとはいえ、皆元々漢人です。ご安心下さい。」

汁琮は頷いた。衛卓は少し言いにくそうに、「ですが、血月の言い分を、お伝えせねばなりません。彼らは手を下すまで一年はほしいと言っているのです。先によく下調べしてから、状況を見て手を下したいのだそうです。」

汁琮には衛卓の言わんとすることが分かった。暗殺には絶好の機会というものがある。耿淵は手を下すまで長い間潜伏し続けた。その機会はずっと先かもしれない。名のある刺客なら、一両日中にというわけにはいかず、自分でその時を見極めさせなければならないのだろう。

「時期の判断は彼らに任せる。早くも遅くもあまり違いはない。」

条件が合えばすぐに殺してしまってもいいと汁琮は仄めかしており、衛卓はよかったと思った。「だが覚えておけ。汁淼に手を出してはだめだ。無理なら取引はなしだからな。」衛卓はすぐに承諾した。

 

 

―――

大寒、鷲鷹が飛び始め、沢の水が厚く凍る候。

姜恒は再び玉壁関に来た。状況は軍報に書いてあったよりずっとひどい。全ては宋鄒の火攻之計によるものだ。一月前、大火は風に乗って無情にも両側の山をも飲み込んで、八千もの梁軍兵を焼死させた。今や焼けて丸裸になった両山は新雪に覆われているが、時々小規模の雪崩が起きていた。汁綾が言った。「あなたの部下がやったことよ。でも正にぴったりの時期だった。あの宋鄒って男は優しそうな顔をしてとんでもない輩だわ。」

姜恒はやるせなさそうに言った。「速戦速決が必要だったから仕方なかったんだ。戦術は兄さんが考えたんだけど……。」「よくやったじゃない。ただ焼いたのは私じゃないって言いたかったのよ。」汁綾は言った。

 

姜恒は関壁に立って下方を望んだ。玉壁関は真っ黒に焦げ付いていた。消し去ることのできない大戦の痕跡だ。一月前に関を奪回して以来、汁綾は千人の兵に日夜関壁を擦り洗いさせていたが、未だに二割くらいしかきれいになっていない。耿曙は海東青の頭を撫でて、傷を負っても手紙を届けた労をねぎらった。

姜恒は一回り見て歩いた。防御工事を施した内の大部分が消失していた。耿曙は汁綾と防衛手段について話し合い、二日後、部隊は王都へと帰って行った。

 

玉壁関を出れば、次は正に中原地域への移動が始まる。

姜恒は耿曙に話しかけた。「今思えば、陸冀はずいぶんと長い目で見ていたんだと思うよ。」

「陸冀のことまでわかるのか?」

東宮の計画は殆ど彼が把握している。他の人ではありえない。天子を人質にしようとしたのは管魏だと思う?」

二年前、関に入った時、雍国は洛陽沿線の官道を押さえた。その道は、中原奥深くに入り、まっすぐ長江北岸、玉衡山下の嵩県に到達する。雍国は南北を繋ぐ細長い長廊を得たのだ。そのため、姜恒と耿曙はどこの国の待ち伏せにも会わずに南下することができた。

「洛陽を見に行きたいか?」耿曙が尋ねた。姜恒は「やめておく。帰る時にまた考えよう。」と言った。見れば色々な人を思い出してしまう。あの頃の洛陽は焼かれて真っ白に戻ってしまった。二人の家であった潯東と洛陽のどちらもが焼けてしまった。姜恒は時々考えた。自分の人生には何か均衡を欠く部分があってこうも毎回火災にあうのだろうかと。

耿曙は高所から遠く王都を見やってから、首を回して別の高崖に目を向けた。そこは以前、全ての希望を失って、姜恒の元へ行こうと身を投げかけた場所であった。思いとどまってよかった。

「そうだな。生きていさえすれば、いつでも希望はある。行こう。」“

これは二人が五年の別れの後で再会し逃げて行った道だった。かつての戦乱の痕跡の上には草が生え、悲惨な戦場の跡さえ覆ってしまったつる草からは新芽が吹き出て活気に満ちた息吹が感じられた。車は走り続け、ついに嵩県にたどり着いた。

 

「ああ、また帰って来たね。」姜恒は城主府に入ると、まずは温泉に入りに行こうと思った。

冬の真っ盛りとはいえ、嵩県はいつ来ても春のようだ。ただ来るたびにいつも忙しくて三月と過ごせず、この地のすばらしさを享受できたためしがなかった。

「軍の状況報告をしに行ってくる。」耿曙はこの日、姜恒と一緒に入浴しに行こうとせず、府に着くと、将校を集め、宋鄒と会議をしようとした。「そんなに急がないといけないの?」姜恒は尋ねた。「先に行っててくれ。あまり時間がない。嵩県には長くいられないからな。」耿曙が答えた。

宋鄒が軍務文書を抱えてやってくると、耿曙は彼に話すよう促した。

姜恒は耿曙が何を避けようとしているのかわからなかった。旅の途中もどこか虚ろで、身のこなしも不自然だった。心配事があるのかと聞いても応えない。人質のことを心配しているのかもしれないと、姜恒は結論を出した。

温泉でずっと待っていても耿曙は来ない。まだ会議をしているのか。湯あたりし始めた姜恒はこれ以上待てないと、梅入り水を飲みながら歩いて、正庁に入って行った。部下は帰ったようで、耿曙が座って軍事情報書を読む傍らに宋鄒が座っていた。

「入って来たか。」耿曙が声をかけた。

「ずうっと待っていたのに。」姜恒が応えた。

「なら、俺も行ってくる。」そう言うと耿曙は立ち上がった。

『だったらなぜ来なかったの?』姜恒はだらりと長椅子に座り、宋鄒に向かって言った。「何か話はある?」

宋鄒は笑った。「あまりありません。太史大人は新しい天子をお決めになりましたか?」姜恒が応えずにいると耿曙が口を挟んで来た。「まだだ。色々試しているところだ。」「とっとと行って!」

耿曙は速足で長廊を進み浴池に向かった。途中でため息をつかずにいられない。もう姜恒と一緒に裸でいることができなかった。自分の弟ではないと知ってからは……姜恒の白皙の皮膚、肩背の線、白馬のような細身の体に対して、ある思いが心に湧き上がり、自分を押さえられなくなるのが怖かったのだ。それだけではない。道中、耿曙は姜恒との距離を保つ努力をした。以前のように唇に口づけしたりできない。一旦考えてしまったら、今まで当然のように行って来た行動が、急に別の意味を持つようになった。熱く柔らかなく唇、首筋に漂うわずかな香り、それらがずっととても好きだった。だが今では耿曙に眠れぬ夜をもたらす。特に灝城で、姜恒に絡み合うような口づけをしたあの光景が繰り返し思い出され、体の血が沸き立つ思いがした。できることと言えば冷水を浴びて目を覚ますことくらいだ。

 

正庁内では、姜恒が組みひもを編みながら、話をしていた。

「将来は大量のお金が嵩県を経由して代、郢両国に流れることになる。それがどれだけ重要なことかわかっていますよね。こちらに害がないようにくれぐれも気を付けて下さい。」「はい。」と、宋鄒は答えた。

嵩県は長江の玄関口にある。郢、代と国境を接し、陸路では西川へ、水路では江州に行かれる。雍国の鐘をここで貨物に換えて流通させれば、不当な利益をも得ることができる。宋鄒だって全くの清廉潔白な役人ではないだろうが、あまりがめつくならないように、対局を重視するようにとだけは言っておかねばならない。

 

「太史と上将軍は今回もあまり長くはいられないようですね。」と宋鄒が言った。

「三日後には行かなければならないんだ。」姜恒は答えた。

宋鄒が黙っているので、姜恒は「四国に何か大きな動きがあるの?」と尋ねた。

落雁城での判断とあまりかわりありません。太史霊は敗走し、潼関を通って代国に入り、既に国都済州に戻っています。父親の鄭王は今年いっぱいもたないのではと言われています。趙霊には戦う余力はなく、盟友梁国に多大な損害を与えて玉壁関から逃げ帰ったことで、名声は地の底まで落ちました。今後五年は連合軍が組まれることはないでしょう。」

宋鄒は考え考え言った。「これ以外のことは全て上将軍に報告しましたが、一つだけ、汁琮に関することで、言いそびれたことがあります。」

姜恒は眉をあげ、疑わしそうな表情をした。『言いそびれた?それを信じろって?きっと耿曙には言いたくなかった話だろう。』

姜恒:「廟堂の争いのこと?」

宋鄒:「江湖でのうわさです。」長いこと江湖の噂と言うのをきいたことがなかった姜恒はちょっと好奇心を持った。

「血月という組織について聞いたことがおありですか?」宋鄒が尋ねた。

「ある。」姜恒の答えを宋鄒は意外に思った。だが宋鄒はすぐに思いなおして独り言のように、「聞いたことがあるはずですね。」とつぶやいた。「でも聞きかじった程度です。師門にいた時に鬼先生が言っていたんです。その組織は常に中原に入り込んで神州天子を操ろうとしている。影の朝廷を作ろうとしているけど成功したことはない。運が悪かったのかもね。」

宋鄒は言った。「彼らは東輪台(ウイグル)に起源を持つ西域の門派です。」

「うん。刺客を育てていて、組織の刺客は凄腕だって聞いたことがあります。」

「輪台人はふいに中原に来ては六歳以下の子供をさらって行って血月で育て、各国の君主を助けて汚れ仕事を担わせるそうです。太史大人は彼らの本領はどうだと思われますか?」姜恒は手に持った糸を振りながら答えた。「さあ。あなたはどう思いますか?私の父と比べてどうでしょう?」

「血月の中でも上位の凄腕だと、中原の大刺客と同等と言われています。」

「みんな兄さんの武芸は生前の父に勝るとも劣らないと言っています。鉢合わせしたらどうなるか、興味がありますね。」姜恒は笑った。

「機会があるかもしれません。うちの商人の話ですと、血月は雍王と取引することにしたらしいですから。」これが話のヤマか。姜恒には全くの初耳だった。汁琮はみんなに隠していたに違いない。誰を狙っているのかさえ全く見当がつかなかった。

宋鄒には独自の情報網がある。自分にこの話をしたと言うことは、汁琮には何か別の計画があって、注意した方がいいと暗示しているのだろう。「わかりました。」姜恒は言った。

耿淵の『琴鳴天下の変』は中原四国に前代未聞の衝撃を与えた。――一人の男の力量によってこれほどの影響をもたらすことができるのだと。国家と王族の未来が武者の手で操られる。これはとても危険なことだ。

『琴鳴天下』は一つの時代が終わったことを明らかにした。あれ以来、各国は御前侍衛の訓練を強化し、武芸に秀でた門客を持つようになった。今では中原に大刺客というのはいなくなった。四国は武功組織の壊滅に尽力し、第二の耿淵の出現を阻止しようとした。

棋を打つなら規則を守らねばならない。何も言わずに棋盤をひっくり返したりはしないものだ。大刺客の内、現在行方がつかめているのは界圭だけだ。羅宣は海外へ行き、神秘客は長年消息を絶っている。刺客たちの時代は終わろうとしていた。それでも汁琮はあきらめず、新たな変数を引き入れようとしているのか。

これは全くいいことではないが、身の回りに目を向ければ、姜恒自身は刺客を恐れる必要などない。耿曙がいつも一緒にいてくれるのだから。

 

 

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第124章 舟を率いて流れの中に:

 

耿曙は浴衣を腰に巻いて胸から腹部までを露わにし、長椅子に座って髪を拭いていた。

「何だ?」耿曙は不安げに言った。姜恒が推し量るような目で見ている。姜恒はクスリと笑った。自分の所有物を見ているかのようだ。そして横に座って、願主の髪を拭いてやった。耿曙は言った。「早く郢都に向かわないとな。あさってには出るぞ。」

「そうだね。」姜恒は素直に言った。この人が近くにいる限り恐れる者は何もない。

耿曙は忙しくしている必要があった。様々な思いがあふれて発狂しそうだからだ。

だが、彼の一番の願いはじっと姜恒の近くにいることで、この二つの思いは矛盾していた。「食事を済ませたら早く寝るんだぞ。さもないと道中眠くなるからな。」

「うん。」二人は用意された食盒を開いてそれぞれ食べ始めた。嵩県の食事は落雁城よりずっとよく、南方の食事はやはり姜恒の好みだった。特に米と醬油味の肉だ。食後には甘い物もついている。

姜恒は以前の食事の時のくせで、裸足の足を耿曙の膝に乗せた。服の中に足を入れて、膝小僧や脛の上をこするのが好きだった。耿曙は以前は気にしなかったのに、今日は動きを止め、さりげなく姜恒の足を押し戻した。「寒かったら毛布を掛けろよ。」「うん。」姜恒は気づいていない。食べながら江州の話をしていた。耿曙は上の空で聞いていたが、急に箸をとめ、姜恒をじっと見つめた。姜恒は郢宮のことを話していて、耿曙の視線に気づいていない。

その時、耿曙の心にはたった一つの思いだけがあった。―――連れて逃げたい。天の果て地の海の果てまで、誰一人いないところまで、二人だけしかいない所まで連れて行きたかった。

 

「兄さん、疲れたの?」

「少しな。」耿曙は心の中でため息をついた。「寝よう。」

夜になり、姜恒は先に横になったが、耿曙は寝台に上がって来ず、油灯をつけて宋鄒が渡してきた文書を整理していた。「まだ寝ないの?」うとうとしながら姜恒は言った。耿曙は答えた。「もう少し読んでからな。軍務処理を終わらせたい。」

春になれば、嵩県で兵を集めなければならない。事務処理も多いのだろう。姜恒は疑いもせず、寝返りをうって先に寝ることにした。耿曙は時々姜恒を見ては確実に寝たのを確認してから、浴衣をしっかり身に着けて、そっと寝台に上がると、姜恒のよこに真っすぐに横たわり目を閉じた。

 

朝になった。耿曙は眠っている間にいつもの習慣で姜恒を抱きしめていた。二人とも浴衣の下には何も着ていない!寝て起きた後の浴衣ははだけて、二人とも半裸になっていた。姜恒は耿曙の体にしがみついていた。目覚めた耿曙はさく裂したかのように顔も首も真っ赤になった。連日の疲れのせいか、おかしな夢を見て、浴衣を汚していた。

呼吸が早くなったが、手を緩めることはせず、胸の中の姜恒を見て目が潤んだ。姜恒が少し動くと、耿曙の体の中で変化が起こり、押さえられない何かがこみあげてきた。

姜恒もちょっと恥ずかしい気持ちで目覚めた。彼も既に大人の体だった。

耿曙は急いで服を着替えた。先ほどのできごとからまだ気持ちが切り替えられない。

「また出て行くんだね。」姜恒は嵩県を出るのを寂しく感じていた。

「ついたら郢王に頼んでみるんだな。きっと時々は俺たちを嵩県に来させてくれるかも。」

 

小天地嵩県を離れれば、次の未来が彼らを待つ。二人だけの時間は終わった。耿曙はこのところ、努めておかしな考えを心の中から追い出そうとしていた。そのためわざと姜恒と少し離れるようにした。彼は自分に言い聞かせていた。姜恒とは血のつながりはないが、弟として見ないことはできない。愛情を次の段階に上げたくても、それは許されない。何やら心が限界に達しかけていて、そうした不安が禁忌となっているような感じだった。

 

姜恒にも耿曙の不安が感じられ、以前のように甘えてはいけないような気がしていた。不思議な気持ちだ。そんな中に身を置く姜恒にも自分の心がはっきりわからず、結局単純に結論づけることにした。これはきっと「難為情(恥じらい)」という物なのだろうと。

   相思い、相見る、知何日(それはいつ)? 

   此の時、此の刻、難為情(はずかしい)

                李白《秋風詞》

 

数日後、二人は船に乗った。宋鄒は今回も二人の持ち物にかなりの金銀を忍ばせた。郢都で遊説する際の賄い用だ。郢国が姜恒のみを人質にするつもりでも耿曙は離れるつもりはなかった。だが「護送のため」という大義で入国するなら送り終えた後、いつごろ帰るかは交渉次第となる。

彼が離れたくないと言うのなら、雍国の手前、郢王が彼に帰れとは命令できない。中原四国でいいのは、人材が金銀のように自由に流通できることだ。王族や知識人が本国で重用されないなら、他国や、敵国にだって身を投じられる。公卿たち、即ち『客』だ。

『客卿』の一番の任務は主家への奉仕だ。雍国は塞北に位置し、万里の長城が中原との往来を隔てているため、こうした習慣はない。重罪犯でもない限り、塞北の酷寒の地に逃げる者などほとんどいない。雍人と中原人の間には確固たる隔たりがあるが、中原人の間では、今日の敵は明日の友。こだわることは何もない。

 

南方に来てからこっち、暖かな陽気となっていた。雪が降ることは会っても北の地に比べれば春のように暖かい。それでも夜になると河風が寒さをもたらす。姜恒は寝台に寝そべって、雍国の随行礼状を読んだ。金二百鎰、獣皮六百枚、銀千両、貴重な薬草が若干、東蘭山不沈木二棟、絹織物五百匹、玉璧三対。こんなにたくさん積んでは船が沈んでしまう。宋鄒に言って分割輸送させよう。耿曙はくやしそうだ。「軍での慰労金はあれっぽっちで、民は食う物にも困っていると言うのに外国にこんなにたくさん贈るとは。」

「陸冀が手配したんだよ。郢王族は物欲が強いからたくさんあっても使い道には困らないと思うよ。もし受け取らなかったとしても民のために使うことはない。軍費にあてるだけだ。郢国から食料を買えば、王族は喜ぶだろうね。」

姜恒は少し眠くなってきた。「兄さん、もう寝ない?」

「俺はもう少し読んでからにする。」耿曙は兵法書を持っていた。どうしたらいいかわからず、読み返しているが、姜恒が起きているうちに寝台に上がる勇気はなかった。

それなのに姜恒は、「もうずいぶん長いことあなたを抱いて寝ていないよ。」と言う。

「毎晩夜中にそうしているだろう。眠った後で俺の体の上に乗っかってくるんだから。」「それとは違うよ。すごく寒いんだもの。早く来てよ。」

耿曙の理性は感情に負けた。これは習慣だから仕方ない。姜恒が呼べば、よほどの緊急時でない限り手持ちのものをさっさと手放して行ってしまうようになっている。

「わかった、わかった。おとなしくしてやたらと触って来るなよ。」

 

耿曙は単衣を着て寝台に上がった。江船は波に揺れ、二人は中々寝付けない。耿曙は手を伸ばして窓幕を持ち上げたが、姜恒はその手をとって自分に巻き付けた。

耿曙:「……。」耿曙の心は葛藤していた。天と人とが言い争っているかのようだ。抱けよ、よそよそしいと思われるぞ。それじゃ畜生と同じだ、抱くな。彼は再び野獣のように胸の中の姜恒を蹂躙したいようなイカれた思いにかられてきた。

 

「水の音が聞こえる。」胸の中にもたれている姜恒が顔をあげ、二人の唇はくっつきそうに近く、呼吸が交差した。耿曙は何も言えずにじっと姜恒を見ていたが、突然ほぞが崩れ落ちるようなダーンという音が聞えた。「何の音?」耿曙は姜恒の唇を見つめていて、脳内が真っ白になっていた。姜恒は何かがおかしいという顔をしていたが、次の瞬間、ガタンという音と共に、船底で誰かが叫び始めた。船が壊されたのか?耿曙は叫んだ。「待っていろ!」

 

耿曙が寝台から飛び降り戸を開くと冷たい川の水がザアッと入って来た。姜恒も叫んだ。「水が入って来る!」

この船は宋鄒が二人のために準備したものだ。嵩県が所有する中で一番いい船のはずだ。それが今、大河を進む中で突然顛覆しようとしている。船はどんどん沈没していく。兵士たちは大声を上げ始めた。多くは彼らに着いてきた雍人だ。泳ぐことはできない。耿曙はすぐに姜恒を引っ張って叫んだ。「動くなよ。俺についていろ!」

冷たい水が船に入って来た。姜恒は長海に四年住み、夏には羅宣と長海で水浴びをして、自然と泳ぎを覚えた。だがこんな冷たい水の中で、息もできずに喘いでしまう。

「息を止めろ!」耿曙はそう叫ぶと、甲板を突き進んだ。それから片手で姜恒を抱き、二人は川面に飛び込んだ。ザブンと音を立てて姜恒は水に沈み、足でひと蹴りした。耿曙はしっかりと手を持ち、引っぱった。彼の泳ぎは姜恒よりうまい。夜の遊魚のように、漆黒の岸辺に向かって泳いで行った。

 

大きな船が河の真ん中で、無数の木片を散らしながら崩れ、沈み込んでいった。

雍軍兵たちは木片にしがみついて大声で助けを求めていた。「助けに行ってあげて!私は大丈夫だから!」耿曙は姜恒を岩の上に座らせると、兵たちを助けに向かった。

「あなたも気を付けて!」姜恒が言った。「心配ない!」耿曙は叫ぶと、河の中心部に向かって泳いで行った。

 

ふと、姜恒は漆黒の森の中から小さな声を聞いたような気がして振り返った。「兄さん?兄さん!」姜恒は叫んだ。「どうした?!」耿曙は水面に顔を出して、兵を岸辺に連れて行こうとしたところだったが、姜恒に向かって叫んだ。

姜恒は暗闇の中に自分を見つめる二つの瞳があるのを感じた。森の中からは野獣の声も聞こえて来るが、あれは動物ではない、人間だ。近づいて行き、月の光を頼りに見ようとした。誰もいない。地面には黒く腐敗したものがあり、鼻を突くにおいがしていた。

姜恒:「???」

岸に近い森の中から再びガサゴソと音がして、姜恒は警戒した。「そこにいるのは誰?」答えはない。音は遠のいて行った。背後からぎゅっと腕を掴まれ、びっくりして振り返ると耿曙だった。耿曙の単衣は体に張り付いて体の線が透けて見え、髪はびしょ濡れだった。「じっとしていてくれよ!」姜恒は頷いた。気持ちが落ち着いてきた。

日が昇る頃、焚火の傍に座って服を乾かしていた姜恒はくしゃみをした。

耿曙が人数を確認したところ、四十二名の雍軍兵は皆無事だった。全員救い出すことができたのだ。だが、積荷は全て川底に沈んでしまった。

「腕をどうしたの?」姜恒は信じられない思いで眉をひそめ、耿曙の左腕にできた傷を見た。耿曙は何でもないと手を振った。「救助中に木片が当たって切れた。」

それは短刀の傷跡だったが、説明は省いた。二人は視線を交わしたが、それ以上の説明はなかった。耿曙は随行してきた衛隊長に言った。「お前たちは陸路を進んで嵩県に帰れ。もう俺たちに着いて来なくていい。」衛隊長は慌てた。「殿下、それは……。」

「殿下の言うとおりにして。」姜恒にははっきりわかった。きっと刺客が二人を狙ったが、手を下す前に耿曙に見つかったのだ。まだ遠くまで逃げていないとすれば、衛隊が随行を続ければ、敵に会った時に命が危ないばかりでなく、目標の所在をはっきり示すことになり、逆に危険なのだ。

 

「帰ってこの件を宋鄒に報告し、至急調べさせるんだ。」耿曙が言った。

河船が突然壊れ、河には刺客が潜んでいた。誰が自分たちを殺そうとしているんだろう?宋鄒のはずがない。例え宋鄒が何か恨みを抱いていたにしても、この時を選んで手を下すはずがない。そんなことをすれば罪に問われるのは、まのがれない。郢国人か?それもない。すでにこんなに江州に近づいているのだから。姜恒には全く分からない。いったい誰が自分たちを殺そうとするのか。姜恒は言った。「行って。私たちももうここを去るから。」

雍軍衛隊が陸路で去って行くと、耿曙は上を向いて、空を飛んでいる海東青を見た。

「東側から誰か来る。一集団だ。」

「誰が私たちを殺そうとしているんだろう。」

「宋鄒ではなさそうだ。」

「私も違うと思う。」

二人とも命の危険にあっても落ち着いていた。二人一緒にいる限り、後のことはどうにでもなる。「何か身に着けているか?俺たちの身分を証明できるか?」

姜恒は外袍を開いて胸元を触ってみた。あるのは界圭にもらった木牌だけだ。朝廷の文書や外交照会の類は全て沈んでしまった。耿曙は最後の瞬間、左手で姜恒の手を引き、右手に烈光剣を持っていた。あるのは一本の兵器だけだ。

水底で俺を攻撃しようとしたやつがいた。俺はそいつを刺したが、的は外した。」

姜恒はいくら考えても誰が自分たちを殺そうとしているのかがわからない。勿論、この世に二人を殺したい人間は多いに違いない。代国李霄、鄭国趙霊、どちらも郢・雍同盟を阻止したいだろう。だが、今この時というのがあまりにも時期が合いすぎる気がするのだ。

ーーー

118章あたりで、郢国の首都を江都と言っていたのに、この辺りから江州と書かれるようになった。鄭国の首都も済州なので、州というのが行政区の名称の方なのかも。

 

ーーー

第125章 江州城:

 

「行かれるか?背負ってやる。」耿曙が言った。

「大丈夫。」姜恒は立ち上がった。服は乾いたが、薄すぎるし、全身泥だらけで乞食みたいだ。ここ数年来で一番落ちぶれている。

耿曙は顔を向けて山林の様子を見た。「今、山の中に逃げれば、この世の誰も俺たちを見つけられないな。」

姜恒はまださっきの刺客のことを考えていたが、耿曙の一言がツボに入り、何だかおかしくなってケラケラと笑い出した。「それからどうするの?」姜恒は尋ねた。

「うん?」耿曙は姜恒の手をひいて、小道をゆっくり歩きだしたが、振りむいて目を合わせた。「それから小さな村を見つけて、しばらくそこにで過ごす。」

耿曙は時々面白いことを言うな、と姜恒は思った。二人が逃げても、被害にあった雍兵以外誰も気づかない。落雁城の人達は、きっと二人は岸に上がってから殺されたのだと思うだろう。でもそれだと郢、雍両国の関係は悪化して、戦争になるかもしれない。それは良くない。

「本気でそんなこと考えているの?」姜恒は尋ねた。耿曙は握った手に力を入れて答えた。「ちょっと思っただけだ。俺はお前に従う。お前が決めてくれ。」

姜恒は言った。「時々あなたは、大人になれない子供みたいだと思うことがあるよ。」

「童心というんだ。」耿曙は答えた。

 

「ウェイ―――。」郢国旗を掲げた一隊が前からやって来て、馬を駐めた。

衛隊長が話しかけて来た。「河で船が沈むのを見たか?乗っていた人達は……どうなった?」衛隊長は全身泥だらけで狼狽した様子の二人をじろじろと見た。

海東青が翼をはためかせて降りて来た。耿曙は剣を持ち上げて柄に海東青をとまらせた。兵たちの馬は猛禽を見ると、本能的に怖がって後退した。

「どう思う?」耿曙は問い返した。胸に下げた玉玦が光を反射させた。

「ご同行下さい。」衛隊長は彼らを連れて引き返し、一路郢江州へと向かった。

 

姜恒は初めて江州に来た。江州は、その名の通り、天下きっての水の都だ。洛陽、落雁、果ては済州城とも全く違う。町のつくりが方正ではなく、むしろ巨大な円形都市だ。その面積は千二百項で、塞北三大都市落雁、灝城、山陰を足した広さに等しい。長江南岸で、玉衡山下の重要拠点だ。町の中央には郢王宮があり、そこから外に向かって百八つの通りが放射線状にのびている。縦の線は環になった横の通りでつながり、環と環の間は、縦横に入り組んだ水路でつながっている。水路は郢国が、数百年かけて作った人工河道だ。

 

郢都江州は中原最多の人口を持ち、王都周辺と合わせれば最盛期には百万戸に達する規模だった。南方最大の城市だ。ここの他にも、郢王は十七城を治め、田畑は豊かで、民は富んでいた。だがこんな南方の大国でも『蛮夷』と呼ばれている。中原人は彼らを百越、三夷の子孫と言って軽蔑し、郢人も甘んじるばかりか自負さえしている。六百年前、郢候は封地され、長江を下って随国を討伐した。郢王熊隼自らが御駕親征し、随国王が「私に何の罪がある。」と言った時に、こう返したと言う。「私は蛮夷ですので。」

耿曙は馬に乗り、後ろに姜恒を乗せて江州城に入った。姜恒はきょろきょろと眺めまわした。郢国の富は、代国とも違う。代国は中原と西域を結んで物資が往来していた。郢国は完全なる国内需給だ。まるで公卿の家のように細部にわたって気品がある。

皇宮の巨壁は白玉で作られ、軒先は金、瓦は瑠璃できらきらしている。

 

一般の民の家は、門の所に桃の木が植えられている。郢人の新年にあたる立春が近く、市場は活気にあふれていた。人々は百越人や東夷人の服装をしている。江州の大港は更に繁栄を極めていた。

耿曙が後ろを振り向いた時、姜恒は彼の肩に乗り出して「彼らとの同盟は正解だね。」と言っていた。唇に触れそうになった耿曙は少し顔をずらして「中原のどの国も、雍よりは豊かだ。雍の土地はやせているな。」

姜恒は答えた。「生於憂患、死於安楽(孟子)。富がどこに行きつくかを見ないと。民に及んでいるのか、国は富んでも民は貧しいのか。その場合はいいことではないからね。」この点で耿曙も同意見だった。生活環境があまりに良すぎると、人には倦怠心が生まれる。

誰もが、郢王は贅沢三昧で、一覇者であるだけで満足しているという。これは嘘ではないようだ。もし汁琮にこんな城があれば、城の三年分の稼ぎを使って軍を強化し、とっくに天下統一していたことだろう。

姜恒は衛隊長に尋ねた。「これからどこへいくんですか?」

「王宮です。項将軍の指示で、最初に王陛下に謁見してもらいます。」

耿曙は下を向いて自分の身なりを衛隊長に示した。『この格好で行けと言うのか?』

衛隊長はフッと噴き出して、「我らにもどうしようもありませんので。」と言った。

「おたくの王陛下がかまわないなら、俺だって別にかなわないが。」

郢人たちはきっと自分たちを笑いものにしようとしているのだろうと姜恒は考えた。だがどうしようもないので笑顔で言った。「それじゃあ行きましょうか。いざ、郢王にご拝謁。」

 

耿曙は姜恒を乗せて馬を歩かせた。衛隊について町の中を行ったり来たり。地形を読むことに長けた耿曙でも道に迷いそうだ。江州はまるで迷路だ。坊の中に街があったり、街の傍に巷があったり、巷と巷の間に水道があったり。何かの際に姜恒を連れて逃げる時には、城を出るのに苦労しそうだ。

一方、姜恒の方は町の様子を細かく観察していた。町には人があふれているのに衛隊はお構いなしに進んで行く。籠を背負って歩く人に、邪魔だと鞭を振るったりもしていた。民の多くはうつむき加減で顔には苦渋の様子が見え、搾取されていることは明らかだ。

海閣で修行していた時、姜恒は読んだことがあった。郢国は稲作と漁業の地。田は五国の内で最も肥沃だが、税の負担は最も重い。万頃もの菱電は王族や士族公卿が所有し、集めた米は蔵に入れられ、虫に食われ痛んでいっても税を下げることはないのだと。

 

「着きました。」衛隊長は両側を巨木に支えられた紅木の門の前に停まると、横にある小さな門から二人を入れようとした。耿曙は姜恒と視線を交わした。不満にあふれた眼差しだ。

「この門を斬り落として入ってやる。」「ダメ!」耿曙は彼らに聞かせようとして言ったのだろう。雍国から来た使いが、正門を通らず、横の小さな門から入れば郢王を軽視したことになってしまう。「行くよ。」王宮の正門を過ぎると、また玉やら金やらで飾り立てた宮外校場路があった。郢国王宮は四正八円(これの意味がわからない。四つの四角と八つの丸って何?)どこに行っても琴の音が響き、仙境に来たかのようだ。侍女たちは群を成し、侍衛は滅多にいないような背の高い美形ぞろいだ。

 

「あなたの父君の王宮よりずっと華やかだね。」姜恒が言った。

「火をつけたら一か月は燃え続けるだろうな。」耿曙が言った。

姜恒はハハハと笑った。衛隊長は聞こえなかったふりをして、偏殿前まで二人を連れて行った。耿曙は姜恒の手を引いて入って行った。殿内は金碧がきらきらしく、まっ昼間から灯が煌々といている。琉金の王座、磐龍珠、中には紅木の小机が並び、両側に大臣たちが勢ぞろいして、演奏に合わせて舞姫がひらひらと踊るのを眺めている。郢王は役人を一斉に集めて、正に宴会の最中だった。

 

「王陛下に申し上げます。雍国の人質が到着しました!」衛隊長が告げた。

殿内の演奏が停まり、舞姫は皆退いた。姜恒は気持ちを落ち着け、王座にいる人を見た。汁琮と同じ年頃だが、もう少し高壮だ。赤紫色の天子袍を身にまとい、あごには薄いひげがあり、髪は下ろしたまま、姫妾を一人抱いている。王は、遠くから二人を眺めると、口の端をひきつらせた。「あいや~いったいどうしたんだ?!」

彼こそ郢王熊耒だ。姜恒と耿曙の姿に、目を見開いた。

「王陛下ごきげんよう。」姜恒は地方官が封王に謁見した時の型で拝礼した。耿曙は抱拳した。大臣たちはくすくすと笑い始めた。

 

「君君君……」熊耒は鼻をつまんだ。「いったい何があったんだ?」

姜恒は真面目くさった態度でいった。「私たちは長江で襲撃にあい、急いで逃げてまいりました。王陛下、どうぞ笑って下さい。」

「何ということだ?!君たちのどちらが姜恒だね?君か?」姜恒は自分を指さした。熊耒は手招きし、姜恒は近づいたが、熊耒はすぐにいやそうな顔をして、それほど近づかなくていいと示した。姜恒の泥が顔につくのではないかと思ったようだ。

 

「王陛下にお答えいたします。」その時穏やかな声が聞えた。「二人は河路で刺客にあい、乗っていた船も沈められたとのことです。末将は報せを聞いてすぐ、人をやって調査を始めました。」

「項将軍、君の護衛の問題だぞ。彼は客としてきたのだ。なぜ刺客などに襲われねばならない?」熊耒が言った。姜恒は、きっとこの人が御林軍の隊長なのだろうと思い、彼に向かって頷いた。

 

廷内はしばし静まった。左手一番前の郢王に近い位置にいた若者が言った。「父王、二人はひどい目にあって疲れているに違いありません。客人には下がって服を着替えてから、また後で話をしていただきましょう。」

「うん、王児の言うとおりだ。項余、二人をお連れしなさい。」

この人が太子か、と思いながら、姜恒はありがたそうに頷いた。

御林軍統師の男は立ち上がり、姜恒の前まで来ると、真剣な表情で彼を見た。項余は背丈は姜恒と耿曙の間くらい。二十代で、整った顔立ちをしている。郢人の特徴である、頬骨と鼻が高い顔立ちで、眉がぼさぼさとして、肩幅が広く手が長い。手にはぴったりとした黒い手袋をしていた。表情はとても温和で、眼差しはやさしい。

「一緒に来てください。姜大人。こちらの方は、なんとお呼びすればいいですか?」

「俺は聶海だ。」耿曙は王子の身分を明かさなかった。雍国の照会では、彼が護衛に来たことは強調されていないはずだと思ったからだ。姜恒と耿曙が偏殿を離れると、演奏が再開し、舞姫たちも場内に入って踊りを続けた。

 

項余は前に立って道案内をした。「郢国へようこそ。道中は大変でしたね。」

「大丈夫です。」姜恒は耿曙を肘でついた。『あなたも何か言って。人ごとみたいな態度をとらないで。』項余は耿曙を見た。「あなたは姜大人つきの護衛ですか?どうぞ、お入り下さい。」郢王が彼らに用意した部屋はすばらしかった。美しい庭があり、湘妃竹がたくさんある。洛陽の形式にも少し似て、流水に小橋がかかっている。三室の部屋は広々していて、寝台はとても大きく、寝具には金糸で刺繍が施してあった。

 

浴室は側房にあります。薪小屋の後ろです。既に湯を沸かしてあります。側仕えを連れて来られると思っていたので、侍女の用意をしていなかったのですが、よろしければ……。」

「必要ありません。彼がいれば十分です。」姜恒は笑顔で言った。

項余は頷いて、再び耿曙を見た。「こちらは雍国から来られた方ですか?」

「途中で私が雇ったんです。」姜恒はいたずら心が起きて、項余を笑わせようとした。

耿曙:「……」

「あと何人か手配しますか?」

「結構です。彼だけで充分。しかもまだお金を払っていないんです。全部川に沈んでしまいましたから。」そういうと姜恒は耿曙に向かって言った。「聶兄、悪いけどもう何日か待ってね。」「かまわない。」耿曙は冷たい口調で言った。

 

項余は耿曙を見ている。耿曙のために考えた身分は、実際理にかなっている。昨今、旧呉越の地では流れ者の侠たちが、しばしば金をもらって護衛や殺人などの仕事を引き受けていた。腰に剣を佩いて、人を見下したような態度をとる。王族であろうと区別はしない。

耿曙は雍国での、王子という立場での振る舞いが身にしみついている。何があっても態度を変えない、清々しい面持ちは、はたから見ても常人とは思えない。雇われた游侠という偽装はぴったりだ。

 

項余は何の疑問も持たなかった。「それでしたら、何か足らない物があれば、いつでも御林軍の侍衛にお声がけ下さい。すぐに対応しますので。」項余は災難から生き残った二人への同情を込めてそう言うと、部屋を出て行こうとした。

「項という姓なら、項州を知っているか?」耿曙が突然尋ねた。項余は足をとめたが、振りかえらなかった。姜恒にもピンときた!さっきからどことなく親近感を感じて、誰かを思い出すと思っていたんだ―――項州だったんだ。確かにどこか似ている。

項州の素顔を見たのは一度きりだったけど、あのやさしい眼差しには確かに覚えがある。

「それは我が一族の兄、公子州のことですね。あなたの師門は?どこで彼と知り合いに?」「聞いたことがあるだけだ。」耿曙は適当に答えた。

項州は若い時に名を上げた。郢、越の地ではあこがれる少年も少なくない。項余は疑わなかったが、「王陛下の御前ではくれぐれもその名を口に出さぬよう、お気を付けください。」と言った。「わかった。ありがとう。」耿曙は答えた。

姜恒は羅宣の話を思い出した。項州は元々郢国の王族出身だった。

 

「あなたにはすぐわかったんだね。」姜恒は風呂桶に入り、湯につかっていた。耿曙は彼に背を向けて服を脱ぎながら言った。「あの顔には覚えがあった。」

耿曙も姜恒が洗うのを待たずに服を脱ぐとすぐ湯に入った。子供の頃もこういう風呂桶に一緒に入ったが、あの頃は体がまだ小さかった。こうして大人になってからは少し狭苦しく、手足が触れながらつかっていた。「向こうを向け。」耿曙が言った。「あなたが向こうを向く。言うことを聞いて。」耿曙は姜恒に背を向けた。姜恒は彼を抱え込むようにして首筋を擦り洗いしてやり、腕を風呂桶のふちに載せさせた。耳に姜恒の息がかかり、背中には裸の胸がくっついている。血が沸き立つようになり、背を向けていてよかったと思った。だが、何となく、姜恒も……。

「恒児、お前……。」「どうかした?」肌がこすれ合い、湯は滑らかだ。反応してしまっても不思議はない。耿曙は顔を赤くした。「何でもない。触るな!自分でやる……。」

姜恒の手は耿曙の腰を巻いて前に当たっていて今回は完全にばれてしまった。頭の中で爆音が響いたが、最後の理性をかき集めて、その手を押さえ、やたらと触らせないようにした。「自分でやるから。」

 

姜恒は手を放して、手拭いを渡したが、その時、ふとあることに気づいた。「ちょっと待って。この後何を着ようか?」耿曙もはっとした。「そうだ。着る服がない。どうすればいい?」姜恒は口をひきつらせ、脱ぎ捨てた泥まみれの服を見た。さらに言えば耿曙の方は単衣姿で城に来ている。白い下着だけつけて出て行けば、裸でいるのとかわらない。

「裸で行こう。どうせ恥をかくのは郢王の方だ。」

姜恒:「……。」

その時、浴室の外から再び項余の声が聞えた。「お二人には着替えがないのではと太子殿下が気づかれて、私に服を持って行くよう命じました。

姜恒は急いで言った。「それはすみませんでした。誰かに申し付ければよろしかったのに。」

項余は話を続けた。「愚兄も自分の服を探してきました。まだ未着用の物です。少し短いかもしれませんが、お嫌でなければ聶兄弟にお譲り致します。」

「置いておいてくれ。感謝する。」

「着替えたら王寝殿の方にお越しください。王陛下がお会いになりたいそうです。」

「あなたも行く?」姜恒は笑顔で尋ねた。「報酬は?」耿曙は姜恒に服を着せながらまじめくさった顔で言った。「報酬がよければ行ってもいいぞ。」

姜恒は大笑いして耿曙の顔をつねった。郢国には耿曙に会ったことのある人はいないし、雍国の照会状では王子汁淼は中原に来てはいるが、嵩県に留まって、郢国と交流しやすくするための準備をしていることになっている。一国の王子が人質につきそっているとは誰が思うだろう?姜恒は耿曙の耳元に身を乗り出して言った。「報酬はどのくらいほしい?最初に言ったようにお金は持ってないんだけど。」耿曙の首元が赤くなった。『これを見てわからないか?』だが耿曙は言った。「まずは服を着てから交渉しよう。」