非天夜翔 相見歓 日本語訳 第6章-第10章

第6章 すっぽかし:

 

「天地玄黃、宇宙洪荒。日月盈昃、辰宿列張。寒来暑往、秋收冬藏。閏餘成歲、律呂調陽……。」

頭を振りふり、朝読書の時間に、名堂からもらった《千字文》を唱和し始めて半月がたったころ、段岭は大半の文字を読めるようになっていた。先生が戒尺でその中の一句を指すと、段岭は音読する。別の一句を指され、また読む。また別の一句を指される。

「これは何という字だね?」先生が問う。

「君です。」段岭は背筋をぴんと張って答える。

「これは?」先生が問う。

答えられないと、先生は戒尺で掌を叩いた。段岭は声を出さないようこらえたが、掌がじーんと痛んだ。(まじ?厳しすぎ。あ、でも読み方一つだし、部位でわかるのもあるしな。)

「壁だ。」先生は手を背において、学童たちの間を歩きながら、言った。「和氏壁の壁、玉壁関の壁だ。有匪君子、如圭如璧。その次を。」

段岭は思わず左手を撫でてから、筆洗い磁器のひんやりした表面を触って冷やした。先生は問題を出しながら一回りし、戒尺罰も同様に与えた。空が暗くなり、外で鐘がなると、先生が言った。「授業は終わりだ。」(ん?午後の話だったのか。)

 

子供たちはわっと歓声をあげて立ち上がると、部屋を出て行った。今日は朔日。休みをもらい、家に帰れる日だ。名堂の外には隙間なく馬車が押し寄せている。子供たちは首を長くして、お祭りでも待っているかのようだ。段岭はずっと郎俊侠が自分を迎えに来るのを待っていて、最初の頃は耐えがたいほどだった。だが、休みの日が近づいて来ると、切望する気持ちは逆に落ち着いてきた。

 

門番が一人一人名前を呼ぶと、呼ばれた子供が連れていかれた。子供たちは柵によじ登って外を見ようとしたが、戒尺を持った先生を見ると、叩かれるのを恐れてさっと降りた。

段岭は階段の上でつま先立ちして外を見ていた。郎俊侠は背が高いから一目でわかるだろう。だがまだ来ていないようだ。きっと道一杯の馬車に阻まれているんだ。馬に乗っているのだから、しばらくは入ってこられないのかもしれない。

「元府―――元坊ちゃん。」

「林家――。」

「蔡家――蔡坊ちゃん。」

蔡閏が歩いて来て、子供たちに小首を下げた。まだ首を伸ばしてみていた段岭は蔡閏を暫し見つめた。蔡閏は彼に手をふり、「君のお父さんは?」と尋ねた。

「もうすぐ来るはず。」段岭は蔡閏に迎えに来るのが父親でないことは説明しなかった。蔡閏が大門を出て行くと、馬に騎った若者が彼を自分の前に座らせている。段岭は羨ましそうに馬上の若者を見ていた。若者は何の気なく段岭を一瞥すると、前を向いて馬を走らせ去って行った。

 

二刻が過ぎた頃、院内には十数名が残っていたが、名堂前の通りにはまだ馬車が停まっていた。最後の一人を門番が呼んだ後、残っているのは段岭と、あの自分を鐘にぶつけた少年だけだ。段岭は立っているのに疲れて、階段の上に座ることにした。少年は足を組み替えて、入り口にもたれて外を見ていた。服を着替えた大先生や他の先生たちが段岭の前を通り過ぎた。互いに拱手しあい、傘をさして休みを過ごすため、家に帰って行く。

 

門番が大門を閉めた。夕日の最後の光が暗い紫色に変わっていき、壁に松の影を投げた。

門番が言った。「腰牌を渡して。迎えが来た時にあなたたちを探しに行けるようにね。」

あの少年が先に腰牌を置きに行ったが、出て行きはせず、立ったまま辺りを何となく見回している。段岭は腰牌に目を凝らし、「布児赤金・抜都(ブアルチジン・バド)」と書かれているのを見た。(オーディオドラマでは、バードゥオと呼んでいる感じ。)

 

 

「私たちはどうしたらいいですか?」段岭は少し心配そうに尋ねた。バドという名の少年を見ようとしたが、彼はもう行ってしまった。

門番が答えた。「食堂に夕食を食べに行きなさい。食べ終わったら、待ち続けるなり、何なりして、もし迎えが来なければ、夜は布団を持って書閣の二階で寝たらいい。」

段岭はもう半月近く待った後で、希望でいっぱいのところから、突き落とされたようで、涙が止まらなかった。それでも郎俊侠はきっと来ると信じていた。今まで約束を違えたことなどなかったし、言ったことはやる人だ。きっと何か逃れられない事情があって、身動き取れなくなったのだろう。段岭は部屋に戻って持ち物の整理を始めた。その時、前院で鐘がなったのが聞こえ、はっとして走って見に行ったが、見えたのはバドが去って行く後ろ姿だけだった。段岭はふと気づいた。バドは食事だと呼んでくれたのだ。

以前の少年同士の気持ちのぶつかり合いはどこかに忘れ去られたようだ。恨みなどあっという間に消え、段岭は彼に対してもう敵意は全くなく、あるのは同類相哀れむ、仲間意識だった。

 

今日から二日間、名堂では雑役五、六人が留守を守る。厨房では大鍋で野菜を煮込んでいて、食事を受け取ろうと何人かが列を作っていた。食堂の中には灯が二つともり、座れるのは一卓だけだ。段岭は碗に夕飯を入れてきたが、座る場所がない。するとバドが少しずれて場所を作ってくれた。段岭が疑わしそうにしていると、バドはついに口を開いた。「殴らないから、座れ。そんなに怖がることはないだろう?」

『誰がお前なんかこわがるか。』そう思いつつも、少し気まずい思いはしていたが、立ったまま食べるわけにもいかず、段岭はバドの横に座ることにした。

 

もし郎俊侠が来なかったらどうしよう?段岭はあれこれ考えて気持ちを落ち着けようとした。郎俊侠はきっと来る。たぶん瓊花院で飲み食いさせられ、来られなかったのだ。飲み過ぎたので、酒が覚めてから迎えに来るのかもしれない。

 

食事がすむと、段岭はまた部屋に戻ってしばらく待っていたが、放課後は炭の節約のために火が消され、室内は氷室のように寒々していた。段岭は座っていられずに行ったり来たりとうろうろ歩いていたが、さっき門番が書閣で夜を過ごすようにと言っていたのを思い出した。火のある暖かいところに行かなくては。そう思って布団を丸めて、よっこいしょっと持ち上げると、後院を抜け書閣に入って行った。

 

使用人たちも既にそこに来ていて、それぞれが一階の床に布団を広げていた。角にある炭炉は、一年中つけっぱなしで、厨房の烟管とつながっている。地熱管が書閣、簡室、蔵巻に送られ、古書や竹簡が、湿気や寒冷により、破損したり、墨字が劣化するのを防いでいるのだ。

 

段岭が入って行くと、雑役夫が彼に言った。「坊ちゃんは学生さんなのですから、二階の方に行ってください。」

二階は薄暗かったがとても暖かかった。窓の外は雪の白さで昼のように明るく見え、はらはらと舞う雪の花の影が障子の向こうに柔らかに光り、白く透けて見える。

高い書棚が一列に連なり、中央の大机に置かれた灯が縦横に光を届けている。四方どちらを見ても全て蔵書、巻物、木簡が置かれている。遼帝は、かつて南征した時、漢人を町から追い払いはしたが、文献や書籍はこよなく愛して集めさせ、上京、中京、西京などに運び込んだ。中には前王朝時代の貴重な書物もあった。淮水の戦い以前、それらの書籍は陳国天子の太学閣に置かれており、一般人には読むことができなかった。今では歴史の灰塵に覆われてはいても、古今の賢者たちの魂が込められた巻物は、書棚に静かに鎮座して灯火の薄明りに照らされている。

 

灯の下、バドが布団を敷いて頭を枕に置いていた。段岭はそこに行こうか少し迷ったが、バドは彼をちらっと見ただけで、書棚のところに行って本を開いた。冤家路窄:嫌な奴ほどよく会う、とはよく言ったものだ。段岭は思った。もうバドには敵対心を持っていなくても、やっぱり何となく気まずい気がする。きっとバドも同じ気持ちだろう。二人の子供は互いに冷たい態度をとるつもりはなかったが、かといって先に仲直りしようと口を開きもしなかった。

 

そういうわけで、段岭は長机の反対側に布団を敷き、灯皿を中間地点として、川を国境とするかのように、お互い不干渉とし、自分も本を選んで、郎俊侠が迎えに来るまでの時間をつぶすことにした。

字を習い始めたばかりの段岭は、まだよく本が読めない。絵の多い本を読もうと、植物図鑑の《草木経》を開いた。たくさんの植物や昆虫がおかしな描かれ方をしていて、読みながら段岭は思わず笑ってしまった。ふと顔をあげて机の反対側を見ると、バドが自分を見ていた。

バドは段岭より更に本に興味がなさそうで、あれこれ、取ってはめくり、机には何冊もの本が何頁か開かれたまま置かれていた。最後には全て横に押しやって、座り直して首を掻き、しばらくすると今度は上衣を脱いで外袍を腰に巻いて、半身をはだけた。だが今度は寒くなって布団を体に巻いたりと、まるで与太者のような様子だ。

 

段岭はもうそれほど本に集中できなくなり、欠伸をして机の上に突っ伏した。風雪の中、外から、見回りが柏木を叩く音が聞こえてきた。もう真夜中なのに、郎俊侠はまだ来ない。

——ひょっとしたら今晩はもう来られないのかもしれない。

段岭は心が彷徨い、あれこれと物思いに耽り始めた。郎俊侠が自分を段家から連れ出してから、もう一月余りがたっていた。学堂に来てからというもの、毎日段岭は考えていた。前より色々なことを知るようになってからも、依然としてなぜ郎俊侠が自分を連れ出したのかがわからなかった。『私は段岭です。私の父は段晟といい……。』心の中にこの一文がいつも甦ってくる。郎俊侠は彼の父、『段晟』の依頼で、彼を上京に連れてきたのだろうか?もし本当にそうなら、なぜ父は自分に会いに来ないのか?去り際に郎俊侠が言っていた、「まだやることがある。」の、やることとはいったい何なのかだろう?ひょっとしたら、彼には自分など全く重要ではないのかもしれない。犬や猫と同じ、無事ならそれでいい。父親に手紙を送ったら、後は生きようが死のうが、郎俊侠にはどうでもいいのかもしれない。

段岭は布団に寝そべり寝返りを打った。ふと、ある絶望ともいえる考えが浮かんだ。

―――郎俊侠はもう二度と来ないのかもしれない。郎俊侠に自分を迎えに来る理由なんてあるのか?彼にとっては自分は家族でも何でもない、話す価値さえないのではないか?

段岭は懐に手を入れて、小袋に入った玉玦を撫でた。心に言いようのない苦しさが広がった。

その苦しさはだんだんと暗くなっていく灯光のように、心を離れず、彼を更に深い絶望へといざなっていく。きっと郎俊侠は自分を騙したのだ。母さんがこの世を去った時に、きっと父さんが迎えに来るよと賄い夫が言った時と同じだ。あの時はずっと待っていたけれど、結局父さんは迎えに来なかった。郎俊侠もきっとそうなのだ。あれは子供を宥める為に言った言葉に過ぎず、きっともう二度と来てはくれないのだ。

段岭は考えが止まらず、顔を布団に埋めた。気持ちを切り替えなくては。

 

声を聞いたバドが、机の下の隙間から、疑わしそうに段岭を観察した。段岭がもぞもぞ動いているのを見ると、立ち上がって、勢いよく机にのると、その机を逆側にどかした。

「おい、」バドの声が耳に届いた。「泣いてるのか?どうしたんだ?」

段岭は彼に説明はしなかった。バドは机の上に片膝をつき、片手で机の端をつかんでぐいっと頭を下におろし、段岭の布団をとろうとしたが、段岭はふとんをしっかりとつかんではなさなかった。バドは裸足の脚を伸ばして段岭の布団を蹴っ飛ばすと、ひらりと飛び降りて、布団をあけ、段岭の顔を外に出させた。段岭は泣いてはいなかったが、眉をぎゅっと寄せていた。バドはあぐらをかいて、段岭をじろじろ見た。段岭もバドをじっと見た。お互いの目の中に暗黙の了解を読み取っているかのようだ。最後には、段岭は顔を隠すのをやめることにした。

「泣くなよ。」バドが言った。「我慢しろ。こらえるんだ。」

バドはイラついたような言い方をしたが、全く嫌そうではなく、まるで、自分も通ってきた道だと言わんばかりだった。彼は手を伸ばして段岭の頭に置き、ゆっくりと撫でた後、腕をぽんぽんと叩いてやった。ふと、段岭は気持ちがだいぶ楽になったのを感じた。

 

その日、十歳のバドと、八歳半の段岭は灯が揺れる書閣の中にいた。満天の大雪を通り越して、豆粒くらいの大きさの灯が段岭の心を照らし、記憶を新たにした。雪が漆黒の過去を覆い隠したかのように、その瞬間彼の悩みは形をすっかり変えられていた。

バドと段岭の間は灯の光線によって分かれていた。二つの世界を隔てるかのように。段岭は不思議なことに気づいた。過去の記憶がなんだか曖昧になってきたかのようだ。もう段家でのひどい扱いや、骨身に染みる空腹の記憶にとらわれることはないだろうと感じた。

「君の名は段岭、君の父は段晟だ。」郎俊侠が、彼の人生という白紙に書いた文字がだんだんと消えて行く、或いは、更に濃い色の墨で書き換えられていくかのように、段岭の苦悩は形を変えたのだった。

 

「あいつはお前がいらないんだ。」バドが気だるげな口調で言った。段岭とバドは肩を並べて机の傍に座った。布団を体にかぶせ、書閣に架けられた書画をながめながら心を彷徨わせた。

「彼は私を迎えに来ると約束した。」段岭は意地を張るように言った。

「俺の母さんが言うんだ。この世の誰もお前のものではないって。」バドは金と碧の入り混じる滄州河山図を眺めながら悠然と言った。「妻も子も親兄弟も、空を飛ぶ鷹も、地を馳せる駿馬も、可汗の賜る恩賞も……。お前の物にはならない。お前はお前自身であるだけなんだって。」バドは下を向いて指を折りながら、何の気ない調子で言った。

段岭は横を向いてバドを見た。バドの体は、いつから洗っていないのかわからない毛皮の袍子と混ざり合った、羊皮のようなにおいがした。髪も油っぽくベタベタしている。

「奴はお前の父さんか?」バドが尋ねた。段岭は首を振った。

「家臣か?」

段岭は首を振る。バドは困惑したような顔で尋ねた。「まさか本当に稚児飼いの旦那なのか?お前の父さんは?母さんはどうした?」

段岭がまた首を振ったので、バドはそれ以上聞くのはやめた。

それからずいぶんたってから、段岭はバドに言った。「私には父さんはいない。私は私生児なんだ。」

本当は彼にもよくわかっていた。郎俊侠の言う、「君の父は段晟。」はただの作り話に過ぎないと言うことを。さもなくばなぜその「段晟」を連れて来ることができないのだ?

「君は?」段岭が尋ねた。バドは一つ頷くと言った。「俺の親父はもうずっと前から俺のことなんかいらなかった。毎月一度は家に連れて帰ると言ったのに、もう三月も顔を見せない。」

「みんなうそつきだ。」段岭はバドに言った。「もう信じてやらなければ、騙されることもなくなるよ。」

バドはどうでもよさそうに言った。「うん、まあでもやっぱり少しは信じている。」

「君もよく騙されるの?」段岭が尋ねた。

「まあな。」バドは体を横たえ、地面に寝そべって段岭の瞳を見据えた。「以前はよくあった。今はそうでもない。お前ならわかるだろう?どうして信じてしまうかを。」

段岭は何も言えなくなった。郎俊侠は自分を騙さないと思っていた。他の人とは違うのだと。

 

夜がだんだんと更けていき、聞こえてくるのは雪の花が舞い落ちる音だけだ。段岭とバドは、一人はうつぶせに、一人は仰向けに横たわった。布団の中はバドの少年らしい臭いがしていた。二人はいつの間にか眠りについていた。段岭はもうあまり希望を持っていなかった。きっと郎俊侠は明日も来ないし、明後日も来ないだろう。段家にいた時に大人たちがいもしない父親のことでからかった時と同じだ。「おい、私生児、父ちゃんが迎えに来たぞ!」

何度そういわれたことだろう。初めの頃毎回信じていた段岭も後になると学習して、もう彼らを信じなくなった。だが大人たちの方も学習して騙し方を変えたのだ。ある時など、客が来たと言って夫人が見に行かせた。段岭は期待いっぱいに走って行って、庁堂を汚し、当然その後は殴られて終わった。またある時は段岭の前でひそひそ話をして、うっかり秘密を漏らしたように装い、彼の反応に満足して大笑いした。みんな段岭が泣く様子をみるのが大好きだったようだ。

 

これから自分はずっとここに置いておかれるのだろう。だが学堂は段家に比べたらずっとましだ。少なくとも、だいたいにおいて比較的満足とは言えるだろう。人は足るを知れば常に楽しき。瘌痢和尚が托鉢する時に言っていた言葉だ。和尚は上梓で死んでしまったけど。

段岭の夢は果て無く広がった。静かで穏やかな気分だった。ちょうど上梓の河流が春から夏へと変わる中で緑を濃くし、きらきらと黄金色に光を反射している夢を見ている時に、バドが彼を揺さぶり起こした。

「おい、誰かが迎えに来ているぞ。」バドが言った。段岭は寝ぼけまなこにぼんやり顔で、片手をバドの上においたが、バドはそれをどかした。

「彼じゃないのか?」バドが聞いた。

郎俊侠が小声で言った。「段岭、迎えに来たよ。」

段岭ははっと目ざめ、目を大きく開けて信じがたい気持ちで郎俊侠を見てからバドを見た。

バドは灯を手に持ち、疑わしそうに郎俊侠の顔を照らした。郎俊侠は光を当てられて少し嫌そうだったが、バドは段岭が知らない人に誘拐されるのを恐れ、もう一度尋ねた。

「彼なのか?」

段岭は「彼だ。」と答えると、手を伸ばして郎俊侠の首に巻き付け、自分を抱き起させた。

「世話をしてくれて感謝する。」郎俊侠はバドに言った。

バドはイラついた表情で灯を置いた。段岭は目を開けられないくらい眠かったが、バドに何か言いたかった。だがバッドは机をくぐって自分の布団に入ると、布団で自分の顔を覆ってしまった。

 

 

雪の中の上京は眠っているかのようだった。一年で一番寒い季節だ。郎俊侠は段岭を毛布でくるむと、馬を走らせた。冷たい風に吹かれてだんだんと目が覚めてきた段岭は、瓊花院に向かっているのではないと見て取ると尋ねた。「どこに行くの?」

「新しい家だ。」郎俊侠は何か心配事があるようだったが、聞かれるとそう答えた。

新しい家だって!段岭はすっかり目が覚めた。道理で遅かったはずだ。きっと新しい家の準備をしていたんだ。彼は郎俊侠を見上げ、顔が真っ青なのに気づいた。疲れたのだろうか。

「眠くなったかい?」段岭は郎俊侠が自分の体にくっついて頭をなでてくれたのを感じた。

「ううん。」郎俊侠は何だか気を失いそうだったが、段岭に呼ばれて、気を奮い起こそうとしていた。「食事はしたの?」段岭が尋ねた。「うん。」郎俊侠は答えて片手で段岭を抱いたが、彼の手はとても冷たく、いつもと違っている。「新しい家はどこなの?」

 

 

郎俊侠は何も言わずに、手綱を引いて馬を曲がらせ、奥まった通りに入って行くと、街中を通り抜け、真っ暗闇の中、一軒の家に入って行った。段岭は飛び上がらんばかりに喜び、郎俊侠が馬をしっかり牽くのも待てずに、家の中に入って行った。

門にはまだ鎖がかかっていて、室内はボロボロだ。部屋が六つあり、走廊が一本ある。大門に灯籠を架ける場所はあるが、まだ灯はついていず、灯籠は玄関に放置されていた。

「これから二人でここに住むの?」と段岭は尋ねた。

「ああ。」郎俊侠は簡単に答えた。中庭を見た段岭の顔に笑みがこみあげてきた。後ろでは郎俊侠が扉を閉め、鍵をかけた音がした。だが次の瞬間、バタンと音がして、まだ手を入れていない庭の花壇に郎俊侠が倒れていた。体に雪が落ちて来る。段岭は驚いて振り返ったが、郎俊侠は倒れたまま動かなかった。

 

 

 

 

第7章 夜襲:

 

「郎俊侠!」段岭は大声で名前を呼びながら必死で彼を揺さぶった。郎俊侠は反応しない。

木に積もっていた雪が段岭の体に落ちてきた。

突然何が起きたのか段岭にはまだ消化できずにいて、しばらくの間、恐怖が頭の中を駆け巡っていたが、すぐにもっと大事なことに思い至った。―――このままでは凍えてしまう。郎俊侠の体になぜ血痕があるのか、何が起きたのかはわからないが、何としてでも回復させなくては。

彼は必死の思いで郎俊侠の体を動かし、庁堂の中に入らせた。うまくいったが、疲れ果ててしまった。その時、郎俊侠が少し意識を取り戻しかけた。段岭は再び大声で声をかけた。

鼻の前に手を持って行って息を確認すると、郎俊侠の呼吸は穏やかだったが、唇は色を失っていた。

火をつけなくては。段岭は考えながら、あちこち探し、新たな家をひっかきまわして、厨房の炉の前にあった木炭と、廃棄された瓦炉を見つけ、庁堂で火を起こした。

 

部屋にはふとんもあった。部屋の一角にふとんを敷いた時、段岭は郎俊侠の体から血が滴り出ているのに気づいた。庁堂に広がる鮮血は、敷居に血だまりを作っている。閉じた扉から庭の雪の上にも鮮やかに血の跡がついていた。庭の大門から、二人が通って来た長い路地、路地の端の角から大通りまで、血の跡は点々とついていた。

段岭は郎俊侠の体を探ってみたが、傷薬は見当たらない。あったのは小さな布包みだけで、

そこには自分の出生届が入っていた。どうしたらいいだろう?郎俊侠の顔色は真っ白で、衰弱しきっているのは明らかだ。熱も出ている。段岭はお金を持って、家を飛び出し、医者を探しに行った。病気になったら医者を呼んで診察してもらい、薬を手に入れなくては。段家にいた時は、みなよく自分を薬屋に走らせたものだった。

 

 

一日で最も静謐になる時間帯の上京には神秘的な夜の力があるように思える。寒空の下、武独(ウードウ)の背が高く痩躯な姿が町の中に現れた。ボロボロの綿袍に傘をかぶり、手に持った短剣を何の気なく弄びながら、家々を一軒一軒渡り歩いては、聞き耳をたてていた。

黒衣の男が彼の後ろについて行き、警戒しながら四方を見渡している。

武独:「見つけたら、次はもう勝手な行動は慎んでくれ。」

黒衣の男は冷笑した。「ウードウ!忘れるなよ。将軍は俺を助けるためにお前を遣わせたんだぞ!それに傷を負った体で、どこに逃げられると言うんだ?」

 

「別に祝兄と手柄を争う気はない。俺がことを台無しにすると思うなら、祝兄一人で探してくれてもかまわない。」武独が言った。黒衣の男は武独を一瞥してからフッと冷笑し、何も言わずに身を翻し、上京の家屋の庭に忍び込んで行った。

武独はしばらく黙ったまま遠くを見つめ、町の中心街に歩いて行った。

 

 

段岭は『栄昌堂』の裏門を叩いて、雪が吹き荒れる屋外から、急いで中に入った。

「先生は診察に行っている。どんな病だ?」

「流血しているんです!」段岭は助けを求めるように言った。「もう動けなくて!先生はいつ頃戻りますか?」

「どんな怪我だ?男か女か?年頃は?」店主がいらいらと尋ねた。

一刻を争う状況なのだと、段岭は身振りを交えて説明した。酔いどれ顔の店主は、医者はここではなく二本向こうの通りに住んでいる、今夜は酒を飲みに来ていたが、東街の家で難産があり、薬箱を持って診察に行った、どこの家かはわからないと答えた。

 

だが、それを聞いた段岭がどうにかなりそうなの見てとると、酔っ払い口調ながら、「大丈夫、大丈夫。私が金創薬を持ってきてやろう。血の巡りをよくする薬剤が入っているから、煎じて使いなさい。熱が退いたらよくなるだろう……。」

店主はよたよたと階段を上って薬を取りに行った。段岭は不安でいっぱいなまま勘定台の後ろに立っていた。ふと、人参は万病に効くと聞いたことがあるのを思い出し、椅子にのって人参を取ろうとした。その時、入り口を叩く音がした。「誰かいるか?」低くかすれた声が聞こえる。

段岭は片手に提灯、もう一方の手に人参を持って、どうしようかと考えた。外からガラッという音がした。鍵がかかっていると言うのに、どういう客だろう?段岭は急いで台から降りると、椅子の上に跪いて、灯を置いたまま、勘定台の上から外を見た。

 

入って来たのは年若い男性だった。雪まみれで、左手を懐に入れ、何かを握っているようだ。右手は外に出していたが寒さで赤くなっている。男は横向きに、肘を勘定台に置いて段岭を見下ろした。体の小さい段岭は勘定台から半分しか顔が出ていない。探るように目をのぞき込まれると、一瞬で威圧感を覚えた。

削られたような顔立ちに深い目鼻立ち。頬骨が高く、皮膚は浅黒い。双目と漆黒の眉は草書の筆払いのようだ。横顔の下の首筋には墨色で古銘文の入れ墨がある。何かの獣の側面のようにも見える。

「先生は?」若い男は淡々と尋ねた。そして指の間から、キラキラした金数珠を出した。段岭はその美しい金数珠に目を奪われた。驚いた顔で金数珠を見てから男を見る。男が人差し指と中指で金数珠をくるりと回すと、珠玉がパラパラっと勘定台に散らばった。

「先生は……助産に出かけました。」段岭は金珠から目を上げずに答えた。「東街の……ある家で難産があって。」男は指で軽くはじいて、金珠を段岭の目の前に転がし、『取ってみな。』という仕草をした。「お産に呼ばれた以外で、今夜誰かが先生を訪ねてきたか?」

「いいえ。」段岭はほとんど考えずに答えた。男からは危険な空気を感じる。金珠にも手は出すまい。触らぬ神に祟りなしだ。小さいころから苦労を重ねて、警戒心が強くなった。

「先生は君の父さんか?」

「いいえ。」段岭は少し後ろに下がって、男を探るように見た。

「手に持っているのは何だ?」男は段岭が持っている薬剤に気づいた。盗んだなどとは勿論言えない。仕方なく、彼に見せて話を作った。「妊婦さんに食べさせる人参です。」

男はしばらく黙ったままでいたが、段岭は店主が下りてきて自分のうそをばらすのではとはらはらした。「他に何か御用は?」

 

「いや、もうない。」男は口角をあげて、邪気のこもった笑みを浮かべると、勘定台においた手の指でとんとんと台を叩いた。すると、金珠が開いて、金の甲殻をきらめかせ、五色の模様のあるサソリが現れた!

サソリは段岭に向かってくる。段岭は驚いて大声をあげたが、男は笑いながら手を一払いしてサソリを修めると、扉を開けて、風雪の中に消えて行った。

(ようやくチラッと出てきた武独。)

 

段岭は急いで会談を上がって行き、店主が散乱した薬の内の人包みを手に持ったまま、薬棚の下に倒れているのを発見した。酔っ払って意識を失ったようだ。心の底からほっとして、這いつくばって薬を探し、「金創薬」という文字を見つけ出すと、急いで家に向かった。

大雪は郎俊侠がつけた血痕を覆い隠してくれた。深夜でも長街は少し明るい。馬もまだ大門の外にいた。段岭は、寒さに震えている馬を、裏庭にある馬小屋に牽いていってやり、干し草をかいて食べさせてやった。「すぐに戻るから待っていろよ。」

振り返ろうとしたその時、いきなり伸びてきた腕が体を捕えた!段岭は叫び声を上げようとしたが、ごつごつした大きな手で口をふさがれてしまった。

「ん……ん……。」必死でもがくが、背後の男の力は強かった。男は冷たく輝く短剣を段岭の喉に押し当て、ほんの少し突き立てた。段岭は目を見開き、動きを止めた。

「郎俊侠はどこだ?」背後から男が尋ねた。短剣に映った男は夜行服を着て覆面をしている。

段岭は落ち着きを取り戻し、口を引き結んで何も言わなかった。

「指させ!奴はどこにいる?!言わなければお前を殺すぞ!」刺客は小声で威嚇した。

(家に来たのなら、部屋を探せばいいんじゃないか?)

段岭は裏庭の方を指さしながら、どうやってこの男に出て行かせるか、もしくは大声を出して、郎俊侠に警戒を与えることができるか、考えた。

体の大きな男は段岭を片手で抱え、教えられた通り、裏庭に入って行った。地面は凍り付いて滑りやすい。男が走廊まで跳び越えようした瞬間をとらえて、段岭は思い切り刺客の手にかみついた。思いがけず指をかみつかれ、刺客はとっさに大声を上げた。反対の手で刀を抜いて段岭を指そうとしたが、彼は既に地面に降りて転がった後、這い逃げて行った。刺客は後を追いながらも、助けを呼びに行くのだろうとあまり焦らずについて行く。だが段岭はかしこくも郎俊侠のところへ走りこんだりせずに、走廊を駆け抜け、木戸を叩き開けて、大声で叫んだ。「人殺し!人殺しだーーー!」そして馬小屋に入ると、ここから逃げ出すことに力を尽くした。刺客に郎俊侠がいることを知られてはならない。刺客は段岭が郎俊侠のところに行くだろうと思っていたのに、段岭が暗い夜道に駆け出したのでまずいと思い、急いで手を伸ばし、段岭の後ろ襟を捕まえた。その時―――

柱の影から冷たく光る剣先が現れた。刺客は猛然と短剣をふるったが、カンと音をたてて短剣は真っ二つに折れた。すぐに斜め上から次の一振りが落ちる。真っ青な顔をし、息も弱い郎俊侠は刺客に剣を向けたが、足元がふらつき、剣派一歩及ばぬところに落とされた。

刺客は何を逃れ、目の前が真っ暗になった郎俊侠は地面に崩れ落ちた。段岭は大声を上げて飛び込んでいくと、郎俊侠の背の上に体を伏せてかばった。

 

刺客は冷笑し、地面に落ちた長剣を蹴とばすと、段岭を持ち上げて、彼の顔を拳で叩いた。大きな拳が横から眼球に当たり、頭の中で爆音がして、目からは火花が散ったようでそのまま地面に倒された。刺客は郎俊侠の紙をつかんで顔を上げさせ、別の短剣を抜いて彼の喉に突き立てた。「李漸鴻はどこにいる?」

「子供は殺すな。お前に警告する……。」郎俊侠の唇は僅かに動いただけで、口を開く気力もないようだ。段岭はもがいた。眼球が脳の中に押し込められたような気分だったが、それでも力を尽くして、落ちていた剣に手を伸ばした。刺客は段岭の耐久能力を甘く見た。

死の危険と隣り合わせで生きてきた者は粘り強い。実際、彼はこれまでの人生、殴られ続けて生きてきた。小さいころから、壁にぶつけられたり、平手打ちされたり、拳で殴られたりしてきたため、攻撃から身を守るすべを身に着けていた。正面からの攻撃では鼻筋や眉間を避けて、目元で拳を受けることだ。

前かがみになった刺客は、郎俊侠の瞳に映った、自己の背後で郎俊侠の利剣を拾った段岭が襲い掛かってくるところを見たが…………。

時すでに遅し。急いで振り返った刺客に、段岭は背後から剣を向け、首の後ろに突き刺した。

利剣は小さな音を立てただけで、刺客は地面に釘付けにされていた。

 

「俺が……。」

刺客は信じがたいとばかりに目を見開いていた。こんなか弱い子供の手で死ぬなんて。

彼は雪の上で二度手を動かしたが、後ろ首を貫かれ、すぐに命を落とした。

 

刺客の息が止まった後、天地の間にはただ舞う雪があるだけとなった。段岭は初めて人を殺した。手も顔も返り血でいっぱいだ。信じがたい思いで刺客を見てから、転がるように這って、郎俊侠のところに行き、彼の懐に飛び込んだ。郎俊侠は目を閉じたまま、段岭を懐に抱いた。段岭が恐る恐る様子を伺うと、刺客は目を閉じず、彼らに目を向けたままだった。

郎俊侠は手を上げて、段岭の目を覆い、それ以上見ないようにさせた。

 

 

―――

半時辰後。

「誰だ?!」

青い鷹が、町の上空を旋回していた。夜警兵が若い男の人影に気づいた。馬を走らせながら、男は唇に指をあてて、口笛を吹いたが、風雪の中、応える者はいなかった。

官兵がどんどん集まって来る。鳥笛の伝達で、四方八方から追手が来る。若い男は屋根から小道に飛び降りた。雪の中、身を翻して追手をかわすが、道を出たところで更に多くの追手が現れた。戦闘を回避するため、男は身を引き、雪の中に浮草のように点々と足跡を突ける。官兵が集まって弓矢を構えた。だが布陣が整う前に、男はくるりと体をまわし、袍の中から無数の黒い小矢を放った。(手裏剣みたいな?)

巡防衛士が馬で駆けつけて叫んだ。「上京城内で暴れまわるのは誰だ?!」

馬が目の前まで迫ってくると、男は笠を脱ぎ捨てて相手にめがけて放り投げた。次の瞬間、衛士は馬から転げ落ちた。すれ違いざまに男は飛んできた笠をつかむと再び頭に乗せ、何も言わずに、路地の中に走り去り、消え失せた。騒動は収まり、騎兵は家を一軒ずつ叩いて捜査を始めた。

 

 

段岭は部屋に火を起こし、郎俊侠を寝台に寝かせて、金創薬をつけた。それから、人参を切って、急須で煎じた。「人参はどうした?」郎俊侠が目を閉じたまま尋ねた。

「薬屋から盗んできた。なぜあなたを殺しに来たの?悪い奴なの?」段岭が尋ねた。

「十二日前、仕事で胡昌城に行った時に、武独という名の刺客に見つかり、後を追われた。機に応じて殺そうとしたが、狡猾な奴で、私は罠に嵌められた。戦って重傷を負い、何とか

アルキン山(ウィグル辺り)の麓で逃げきれたのだ。」郎俊侠が答えた。

「それは……死んだ黒衣の男のこと?」

「いや、外の黒衣の男は『祝』という名で、陳国影の部隊の一員だ。今まで武独とは手を組まなかったはずだが、上京に私を折ってきて、手柄を横取りしようとしたのだろう。まさか、君に殺されるとは夢にも思わなかっただろうな。」郎俊侠は再び目を閉じたまま答えた。

迎えに来られなかったはずだ。仕事ででかけていたのだ。胡昌城ってどこにあるのだろう?

 

疑問でいっぱいの段岭が口を開きかけた時、郎俊侠が言った。「死体を馬小屋に持って行って干し草を載せて隠しておいてくれ。血痕は雪が隠してくれる。あとは服を着替えないと。」

段岭は少し怖かったが、郎俊侠の言いつけに従った。死体は目を見開いたままで、鬼となって夜に自分の命を取りに来そうだ。仕事を終えて、血の付いた外袍を脱いで、単衣に着替えた時、外から蹄の音が聞えた。「巡司使の検問だ!扉を開けよ!」衛士の一人が叫んだ。

 

 

―――

第8章 包囲を解く:

 

段岭は迷った。扉を開けるべきだろうか。―――郎俊侠は部屋に横たわっており、大門には鍵がかけてある。 外にいる人は何度か扉を叩き、段岭は風雪の中に出て行き、門を開けた。

「おや?」騎兵は意外そうだった。「なぜ子供が出てくるのだ?大人はいないのか?父さんか母さんは?」

「病気なんです。」段岭が答えた。

「名堂に入った子じゃないか?」後ろから騎兵隊長らしき男性が、頭を低くして段岭をじっと見た。単衣姿の段岭は寒くて唇が青くなり、門の後ろに立って震えていた。男性は馬を下りて段岭をよく見たが、段岭はどこで会ったか忘れていた。

「お父さんはいるかい?覚えていないかな?私は蔡閏の兄の蔡聞だよ。」

段岭は考えた末答えた。「病気なのです。あなたのことは覚えていません。」蔡閏なら知っているが、この男性のことは段岭は覚えていなかった。

「大人の人に会えないかな?」蔡聞は眉をひそめて、段岭の目の青あざを観察した。先ほどひどく殴られて、段岭の瞼は腫れていた。蔡聞に撫でられて、段岭は少し不安げに後ろに下がった。「寝ています。」段岭は蔡聞に中に入ってきてほしくなかった。刺客の死体を発見されたくなかった。蔡聞は委縮している様子の段岭を見た。子供がこの寒空の中、単衣姿に裸足で門まで出てきている。忍びなく思って、「まあいい。戻って寝なさい。」と言った。

 

「次の家に行くぞ!」蔡聞は兵士たちに言うと、身を翻して馬に乗り、去って行った。馬に乗った姿を見て、段岭はやっとそれが、蔡閏を迎えに来た若者だったことを思い出した。

巡城士兵が去って行くと、段岭はほっと息をついて、門に鍵をかけた。部屋に戻ると、急須で煎じた人参茶がいい香りを放っていた。段岭は人参茶を冷ますために鍋を降ろした。寝台から郎俊侠が咳き込むのが聞えた。「誰だった?」郎俊侠の額は汗だらけだった。

「蔡閏の兄さんの、蔡聞。」段岭は聞かれるままに応えた。郎俊侠は目を閉じたまま言った。

「蔡聞?もう行ったのか?蔡閏とは誰だ?彼の弟を知っているのか?」

「うん。」段岭は熱い急須を手に持ち、郎俊侠の唇に、急須の口を当てて、人参茶を飲ませた。郎俊侠は初めの一口にむせたが、その後は落ち着いて、急須に入っていた人参茶を全て飲み干した。「山人参……命をつなぐ、天の助け。まだあるかい?もう少しくれないか?」

郎俊侠の声が落ち着いて来た。

「もうないんだ。また盗んで……買って来るよ。」段岭が言うと、「いや、やめてくれ。危険すぎる。」と郎俊侠は言った。「じゃあ、水を入れてもう一度淹れなおすよ。」

郎俊侠は断らなかった。この夜はなぜか時間がゆっくり過ぎていく気がする。段岭は寝台にもたれて眠くなったが、人参茶がまた沸騰した。「郎俊侠?」答えがない。「大丈夫?」段岭は恐る恐る尋ねた。「ああ。」郎俊侠はうつらうつらする中で答えた。「死んではいないよ。」

段岭はほっとした。外はますます暗くなる。炉火の光だけが温かな太陽のように二人を照らしている。「郎俊侠?」段岭はまた声をかけた。「生きている。」郎俊侠の声はふいごのように、直接肺から出ているかのようだ。(どゆこと?)段岭は眠くなり、頭が寝台の上に落っこちた。

 

 

翌日、目を覚ました時、雪はやんでいた。段岭は自分が寝台で寝ていて、郎俊侠が隣に横たわっているのに気づいた。顔色が良くなってきている。段岭は子犬のように、体を上げて郎俊侠の匂いを嗅ぎに行った。眉をひそめて郎俊侠の顔の匂いを嗅ぎまくると、深く息を吐いた。(この子は大人になってからもこういうことをするんだよなあ。本当に子犬みたい。)

割れるような頭の痛みに目の覚めた郎俊侠は「何時になった?」と言った。

(文の流れからだと言ったのは段岭のはずだけど、↑郎俊侠が目覚めた記載がないから、これは郎俊侠が目を覚ました言葉と解釈した。)

天と地に感謝しながら、段岭は心配そうに彼を見ると尋ねた。「まだ苦しい?」

「もう大丈夫だ。」郎俊侠が言った。

段岭はうれしくなって、「食べるものを探してくるよ。」と言った。だが、起き上がって庭一面の白雪を見ると、歓喜の声をあげて、雪で遊びだした。

 

「服を着なさい。風邪をひかないように。聞こえないのか?」郎俊侠が言った。

段岭は毛皮の上着を羽織って、竹竿を持って廊下にできたつららを大笑いしながら叩いて回った。ふと目をやると、郎俊侠は部屋の中で外袍と単衣を脱いで、薬を付け直していた。

段岭は竹竿を放り出して駆け込んでくると尋ねた。「少しはよくなった?」

郎俊侠は頷いた。当て布を取り外した腹部の傷口は黒々としている。傷口は閉じているものの、深く切られている。彼は湯を沸かして、きれいに拭き取らせてから、金創薬をつけた。

郎俊侠の白く逞しい腕には奇妙な形の入れ墨があった。虎をかたどったようだ。ふと、段岭は昨夜のことを思い出した。

「彼らはなぜあなたを殺そうとしたの?」段岭が尋ねた。

「私からある人の行方を聞き出そうとしているんだ。」郎俊侠が言った。

「それは誰なの?」

郎俊侠は段岭を見ると、ふと口角を少し上げて目を細めた。

「聞いてはいけない。何も聞いてはダメだ。いずれわかるからね。」

段岭は心配だったが、それでも郎俊侠は生きていた。心を覆っていた暗い影が消え去り、とても幸せな気持ちだった。彼は郎俊侠の近くに座り、腕にある虎の入れ墨を見ると、「これは何なの?」と尋ねた。」「白虎だ。」郎俊侠が説明した。「四獣風水で西の白虎は刀兵の神だ。」

段岭にはよくわからなかった。「あなたは剣を使うのでしょう?あなたの剣を見たけど、すごい切れ味だった。」段岭は郎俊侠の剣を取ってこなくてはと思った。だが剣はすでになく、裏庭に走り出て突然死体がまだ馬小屋にあることを思い出したが、こわごわ近寄ってみると、干し草はどけられて、死体ももうなかったため、恐怖で凍り付きそうになった。

「あれは私が処理した。」郎俊侠が言った。(いつの間に?)「こわがらなくていい。あれは陳国衛隊員だ。武独とはそりが合わなかった。来たのが武独でなくてよかった。もし武独だったら、今頃私はここにいなかった。」

 

段岭は郎俊侠がどう『処理』したか尋ねなかった。夕べ見た血に染まった衣服もどこかに消えている。「何か食べるものを買ってきてくれ。」郎俊侠は段岭に金を渡した。「何も言ってはいけないし、何も聞いてはダメだよ。」

朝ももう遅い。段岭は町で饅頭などを買い、米や肉も買って抱えて帰って来た。乱儒者はもう動けるようになっていて、段岭と饅頭を分け合って食べた。

「まずはこんな風に過ごして、君が学堂に戻ってから、家をきちんと整えるからね。」

「あなたは、またどこかへ行ってしまうの?」段岭が尋ねた。

「いいや、行かないよ。」郎俊侠は答えた。

「来月の一日には迎えに来てくれる?」

「もう二度と遅れないと誓うよ。昨日はすまなかったね。」郎俊侠が言った。

段岭はふと尋ねた。「それはあなたが父さんになってくれるということ?」

郎俊侠は驚き、それから苦笑いした。「この話は絶対に誰にも言ってはいけないよ。」

段岭が眉をしかめると郎俊侠は言った。「お父上はいつか君を迎えに来る。」

段岭:「……。」

その言葉は電のように段岭の全身を貫いた。「父さんは、まだ……生きているの?」

「うん。生きている。」郎俊侠は答えた。

段岭は息せき切って尋ねた。「どこにいるの?生きているの?なぜ私に会いに来ないの?」

このことについて、段岭は数えきれないほど騙されてきた。だが、今回は郎俊侠が自分を騙しているはずはない。なぜかはわからないが、彼の直感がそう言っていた。

「そういうことは、会ってから直接聞きなさい。彼はきっと来る。長くて三年、早ければ数か月以内だ。信じてくれ。」段岭は碗を持ち、口を開けたまま、為すすべもない様子だった。

突然聞いたこの知らせに喜び半分、恐れも半分だった。郎俊侠は彼を引き寄せ、肩にもたれさせて、頭をなでてから懐に抱いた。

雪が少しずつ解けていく。段岭は新たな家にいた。そのことに彼は興奮した。最初は郎俊侠が家族に遣わされたのだろうかと思い悩んだこともあったが、もうそんなことはどうでもよかった。この日、彼は駆けまわって、元気が尽きることがないかのようだった。玄関の上に「段」と書いた提灯をつるし中庭の雪を両脇に掃いた。まるで家で飼われ始めたばかりの子犬のように、どんな場所にも好奇心いっぱいで、家の全ての場所に彼の足跡がついている。

まるで未知の楽園を探検しているようだった。まだ傷の癒えていない郎俊侠は、段岭の左目の上に薬を付けた後は、自由に活動させていた。

「ここに何かを植えてもいい?」段岭は中庭にある小さな花壇の前にしゃがんで尋ねた。

「もちろんだ。この家は全て君の物だ。だが、今日はもう遅い。別の日に私が町で苗木を買って来よう。」段岭はしゃがんで真剣に土を掘り返している。郎俊侠は木の杖をついて、扉にもたれてそれを見ていた。半時辰近くそうしているうち、夕暮れ時になった。

「もう家に入りなさい。上京は寒すぎる。花は育たないかもしれない。」

段岭は名残惜し気に戻ってくると、かまどに火を入れる郎俊侠を見た。

「さあ質問するよ。名堂で何を学んだ?」郎俊侠が尋ねた。

「天地玄黄,宇宙洪荒——。」段岭は千字文を暗唱し始めた。短いお休みは終わり、明日はまた勉強に戻らなくてはならない。

郎俊侠は碗を持って、猪皮のようなものを中に入れると、火にかけて蒸しはじめ、水と紅糖を加えた。段岭が千字文を全て暗唱し終えると、郎俊侠はとても意外そうに、「全部覚えたんだね。」と言った。途中いくつか間違いもあったが、郎俊侠は指摘せず、真剣に言った。「すばらしい。よく勉強したんだね。私は今怪我をしていて、遊びに連れていかれないし、外は寒すぎて、遊ぶものもない。一つ借りにしてもらって、春が来たら、野遊びに連れて行ってやろう。」

「あなたは怪我をちゃんと治して。急がなくていいから。何を蒸しているの?砂糖があるね。何か美味しい物なの?」段岭が尋ねると、「明日になればわかるよ。」と郎俊侠は答えた。

何を聞いても郎俊侠の口からはちゃんとした答えは出てこない。そのことにだんだん慣れてきた自分がいることに段岭は気づいた。

 

 

翌日、郎俊侠は名堂の外まで段岭を送って行った。今回は自分から去って行かずに、段岭が去って行くのを見ていた。段岭はもうこうしたやり取りを受け入れて、心の中ではつらくても、表面上は嬉しそうにして、「もう帰っていいよ。」と言った。すると、郎俊侠が杖をついて、片手で段岭の腰を抱いて、自分の胸に顔を押し付けさせた。

「学堂では、私たちの家のことを誰にも言ってはいけないよ。」郎俊侠は部屋の中から興味深げに二人を見ている者に注意しながら、片手で段岭を抱き、耳元に小声でささやいた。

「どんなことも言ってはいけない。知り合いも心の中までは知れない。覚えておくんだよ。」

そして、「これを君に。」と持って来た食盒を段岭に渡した。「早く食べるんだよ。子供の頃、母がよく作ってくれたものなんだ。」段岭は頷いて、郎俊侠と別れた。

郎俊侠と一緒にいる時、一番よく言われる二つの言葉。「何も聞いてはダメだ。」と、「何も言ってはいけない。」郎俊侠があまりにも警戒心が強いので、つられて段岭もそこはかとない危機感を感じているが、それも勿論聞くことはできない。

幸い子供の想像力は豊かだ。段岭も脳内で色々な故事を考え出していた。古い考えは新たな考えに替わる。郎俊侠の職業も、妖怪から浪人へ(妖怪って職業なの?)富豪から剣客へと様変わりしている。

 

彼は夕べの招かれざる客―――影の隊員が郎俊侠を殺しに来たことを考えた。あれはとても危険だった。だが、今はもう安全なはずだ。そうでなければ、郎俊侠は見つからないように自分を連れて逃げたはずだ。殺されかけたのは、ある人の行方を捜すためだと言っていた。

―――それは誰だろう?ひょっとしてそれが父さんなのだろうか?

そこまで考えた時、段岭は全身の血が沸き立ったように感じた。だったら父さんは大人物に違いない。郎俊侠に迎えに行かせ、世話をさせて、会った時には全てがはっきりするのだ。

段岭は郎俊侠にもらった食盒を抱えて歩き続け、別院の外で誰かにぶつかった。―――外を眺めていたバドだった。「どうしたんだ?」バドは驚いて尋ねた。「目を誰に殴られた?」

段岭は答えた。「な……何でもないよ。」

ばど:「あいつに折檻されたのか?」

段岭:「本当に何でもないんだ……。」

 

「ブアルチジン!」二人の後ろから鋭い声が聞えた。蔡閏だった。蔡閏は冷ややかに、威嚇するようにバドを見ると、ゆっくりと近づいて行った。バドは段岭を放すと、フンと声を出した。「後で私の部屋に来てくれ。聞きたいことがあるんだ。」蔡閏が段岭に行った。段岭は頷いた。バドは蔡閏を見てからまた段岭を見た。蔡閏は何も言わないが、バドに常識があれば、段岭に絡んでくることはないだろうと考えた。蔡閏が去った後、段岭はバドに説明した。「私が不注意で、机の角にぶつかったんだ。」

「誰かに拳で殴られたはずだ。目の角を。見ればわかる。」バドが言った。

段岭はすぐには言い返せなかったが、バドは話を続けた。「まあいい。お前たち漢人はみな同じだ。俺は元狗、かかわるなってことだな。いいさ、もう行く。」

「バド!」

バドは振り向きもせずに去って行った。

 

段岭は部屋に戻ったが、昨日書閣に敷いた布団がもどされていることに気づき、広げて寝床を整えた。それから箱を開けると、中には郎俊侠が作った菓子が入っていた。――紅糖晶瑩。(梅ゼリーだな)中には開いた梅の花が閉じ込められている。小口大に切り分けられてきちんと並んでいた。見れば見るほど食べるのが惜しい。自分にひとかけら残して、残りはきれいに包んで、バドと蔡閏たちにあげようと考えた。

 

休み明けの朝学習はまだ始まっておらず、部屋の中ではわいわいと子供たちが食べ物を交換し合っていた。蔡閏は名堂の裏庭に立ち、何人かの少年と先生の教えを聞いていた。

「手を高く上げ、腰を曲げる。」先生が真面目な顔で言う。蔡閏と四人の年長の少年たちは

同時に手を上げ、その手を握って拳を頭の上に挙げた。それを見た先生は府満足げに、「ああ!ひざは曲げない!頭を下げる時決して膝は動かさない。「卑躬屈膝」という言葉はここから来るのだ!」蔡閏たちは礼儀作法を学んでいたのだ。何度も練習を繰り返している。

それを見ながら先生がまた言った。「君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す。北院大王がいらしたら、言葉は少なく、行いをきちんとしなさい。」

「はい。」

 

段岭は少年たちが礼の仕方を学ぶのを見ていた。蔡閏の礼の仕方はとてもあか抜けている。風に臨む玉樹のごとし、だ。彼に習って手を上げ、壁に向かって腰をかがめる。見様見真似だ。先生が休みを告げると、蔡閏は段岭が外に立っており、近づいて来るのに気づいた。

段岭は懐に入れていた菓子を取り出して渡した。「これ、食べて。」

蔡閏はそれが何かとも聞かずに、前置きなしに尋ねた。「兄さんが、ゆうべ街中を捜査していた時に、君の家に行ったって。そうなのかい?」

段岭は急いで首を振り、目のあざを指さして、自分から説明した。「不注意でぶつかったんだ。」蔡閏は段岭を見て少し眉をあげ、「君の家は商売をしているんじゃなかったか?」と言った。段岭は戸惑ったような顔をして頷いた。蔡閏は兄から聞いたのだ。段家は寒々として、雇人が出て来ることもなく、主人の子が裸足で門を開けに来たと。さらに顔には殴られた跡があり、同情心を引き起きしたのだと。

 

「君は誰と住んでいるんだい?父さんか?」蔡閏が尋ねた。

「私の……。」段岭にも郎俊侠とどういう関係なのかわからない。ふと、頭の中に、ある言葉が出てきた。どこで聞いたのかは忘れたが。そして言った。「稚児飼いの旦那だ。」

蔡閏:「………………。」

蔡閏は額に手をやり言った。「どこで覚えたんだ?そんなこと気軽に言うものじゃないよ。まあ、きっと雇人か何かなんだな。」段岭は頷いた。蔡閏が再び尋ねた。「君の父さんは?」

「南方で商売をしている。」段岭は郎俊侠の教えた答えを暗唱した。蔡閏はしばらく探るように段岭を見た。そして気づいた。段岭は誰に対しても礼儀正しく怒りもしない。聞かれたことには素直に答える。苦笑いを禁じ得ない。「聞いただけだ。まあいい。君に一つ教えてやろう。なるべく漢人と行動するように。何かあれば、近くにいる漢人を頼るんだ。本を読んだことはあるか?」

その時、段岭はまだ知らなかった。上京では漢人漢人同士で固まっている。自分たちの世界を作り、外族は外族で別の小集団を作っている、ということを。だが、蔡閏に何を言われても、段岭はとりあえず頷くことにしていた。

 

「瓊花院の長の、丁芝を知っているか?」蔡閏は話を変えて再び尋ねてきた。

段岭は何と答えるべきかわからなかったが、蔡閏は彼の表情から知っているのだろうと辺りをつけた。「丁芝は兄さんといい仲なんだ。今度彼女に会ったら、兄さんに替わって気持ちを伝えてやってくれ。そのためにわざわざ行く必要はないけどね。」

段岭は頷いた。その時大先生の咳ばらいが部屋から聞こえた蔡閏は叩かれないよう、急いで戻って行き、走りながらまた言った。「わからないことがあれば、私に会いに来てくれ。」

段岭は遠くから彼らが礼儀作法を学ぶ様子を盗み見た。しばらく真似をしていると、懐のなかが冷え冷えとして、もう一つ菓子があるのを思い出した。すぐにでも溶けてしまいそうだ。

そこでいそいでバドを探しに行った。

 

バドは体の大きな少年と相撲を取っていた。まわりにはたくさんの子供たちが集まって、わいわい歓声を上げている。バドは肌脱ぎして、顔を真っ赤にし、大人になりかけの体で、ぶつかる、引っ張る、持ち上げる、という動きを荒々しく続けている。だが、段岭が来たことで、注意がそれて、すきを突かれて相手に仰向けにひっくり返されてしまった。

 

 

―――

第9章 人違い:

 

周りは一斉に大笑いした。バドは怒りで耳まで赤くなった。段岭が急いで起こそうと近寄ると、バドは立ち上がって振り払った。子供たちは好奇心露わに段岭を見たが、バドは背を向けて行ってしまった。

「ブアルチジン。」段岭は彼の後ろから追いかけた。「君にあげたい物があるんだ。」

「名字で呼ぶな!」バドは怒って振り返った。そして段岭をひと押しすると、段岭の手の中の梅花凍菓が地面に落ちた。その時いきなり扉が倒れ、大きな音を立てた。段岭はびっくりして飛び上がった。みんなはまた大笑いした。段岭は何がバドの気に障ったのかもわからず、

決まり悪そうな顔をしていた。バドと相撲をとっていた体の大きな少年がやってきて、何か言いたげにしていたが、段岭はなじみのない場所に恐れを感じ、また厄介ごとを引き起こさないよう、急いで逃げ去った。体の大きな少年はにやりとしたが、声は出さず、段岭が去って行った廊下を見ていた。

 

漢人漢人でかたまり、非漢人は非漢人でかたまる。それは名堂の不文律だった。だが、大抵の子供たちには、国家の敵だとか、『我が一族にあらずんば人にあらず』的な発想はない。ただ、漢人は元、遼、西羌人の不潔さや体の匂い、野蛮な行いや無礼さが嫌いなだけだ。

漢人漢人のもったいぶった、気取った態度が嫌いだった。段岭も彼らを誤解した。

その少年はただ、彼を慰めて、相撲の取り方を教えてやろうと思っていたのだ。

だが、例え好意を理解したとしても、丁重に断っていただろう。

 

 

この日の午後、名堂がとてもきれいに掃除されているのに段岭は気づいた。ゆうべの大雪がすっかり掃き清められている。庭の花壇にも落ち葉一つない。大先生や他の先生たちは皆、正装し、整列して立っている。大門の外には見知らぬ誰かが来ているようだ。

今日は何かの日だったっけ?段岭は目を見張りながら、食後に前庭を興味深げに眺めた。

「帰りなさい!みんな帰るのです!授業は午後からです。今日は行儀よくするように!」

一つ目の鐘の音が遠くから聞こえると、子供たちは部屋に戻って持ち物を集め、それぞれが授業に出た。午後は、学び始めの過程である千字文唱和の後、字を書く練習だ。段岭が硯で墨をすって、何文字が書き始めた時、蒙館の方から話し声が聞こえた。

 

「午前は書を読み、午後は習字です。」先生の声がした。

仁義礼智信。この五文字を書くべきでしょうな。」重厚な男性の声がした。

「その通りです。全て教えました。大人、こちらへどうぞ。」先生が答えた。

「先に蒙館を見てみよう。」重厚な声はそう言うと、先生についていかずに、後門から入って来た。四十歳くらいの、背が高く逞しい中年男性が、蒙館に入って行った。先生は仕方なく、子供たちに向かって言った。「北院大王がお前たちを見にいらっしゃいました。さあ、ご挨拶をなさい。」

 

子供たちは筆を置くと、北院大王に向かって、ばらばらにお辞儀をした。丸く体を曲げる者、頭を下げる者、右手で拳を持って左胸に当てる者。跪く者もいたが、片膝だけ、両膝だけ、各族の礼儀に従ったものと千差万別だ。

「君たちはみな将来国の大黒柱となるのだ。うん、いいぞ。」

やってきたのは、遼国北面官、北代王院夷離菫で、その名を耶律大石という。遼帝は「大王」を「夷離菫」という尊称に改めた。契丹五院の兵権を手中に収め、一人の下、万人の上という位置づけだ。この日は思い立って、まず、辟雍館を一回りし、午後には名堂に着て、上京の学生たちを激励に来たのであった。

 

郎俊侠も行礼の仕方は教えてくれなかった。さっき覚えておいてよかった。段岭は両手を頭の上に挙げ、八経一躬の姿勢をとった。「いいぞ、いいぞ。」耶律大石は段岭の近くに行って彼に笑いかけた。

子供たちの拝礼を受け、耶律大石は気まぐれにいくつか問いかけた後、先生について出て行った。段岭はその「大王」をこっそりと見た。顔中髭に覆われ、力がみなぎった様子だが、性格はとてもよさそうだ。すぐに子供たちは感想を言い合った。話に花が咲いて、屋根を超えるほどに盛り上がったかと思うと、突然静まり返った。どうやら先生が来たようだ。

 

「筆を置いて、整列して前院に行きなさい。背の順だ。さあ、整列して、私についてきなさい。」

一回り見学した耶律大石は、再び子供たちを呼び出した。贈り物を用意していたのだ。名堂の三つの班の学生たちが次々に出てきて、走廊に列を作り、先生に名を呼ばれるのを待った。

段岭は首を伸ばしたが、バドは見つからなかった。壁を隔てた向こうで、バドと相撲をとっていた少年たちが末尾に並んでいた。段岭が見ているのに気づくと、少年は彼の考えに気づいたようで、「来ないで。」と言った。「どうして行ってはだめなの?」段岭が尋ねた。

少年は首を振って東棟を指さし、手を広げた。どうにもできないという意味のようだ。

「彼は病気になったの?」段岭が尋ねると、「い……いや。か…彼が言った…き……来たくないって。」少年にはどもりがあるようだ。その話し方を聞いて二つの班の人たちが同時に笑った。先生が怖い顔でにらむと、列に並んだ子供たちはまた静かになった。

段岭は先生が顔を背けたのに乗じて列を離れ、走廊を走り抜けバドを探しに行った。

 

バドは院内に座っていた。机の上には段岭があげた梅花菓が置いてある。段岭は遠くから見ていたが、バドは自分に背を向けて、ついている埃を注意深く吹き払ってから、包み紙をきれいにたたんで懐に入れると、食べようとして口を開けた。

「バド!」

バドはびっくりして、菓子を喉に詰まらせた。段岭は急いで彼のところに行き、背中を叩いた。そして慌てて水を取りに行くバドの後について行った。

「大王が来ているよ。何かをくれるんだって。行かないの?」段岭が言った。

「俺は犬じゃねえ。遼人の褒美なんて受け取れねえよ。お前は行けばいい。」

バドは部屋に入って行った。段岭は窓から身を乗り出して尋ねた。「どうしてさ?」

「とにかく、いらないんだ。お前もいらないなら、部屋に来い。話でもしよう。」

段岭の中で理性と感情が戦った。「大王」のご褒美は欲しい。その意味するところはわからないにしても。だが心の奥底ではバドが正しいのだと分かっていた。汝南にいた時、女中がくれてやろうとするものを受け取ったことはなかった。すごく食べたかった時ですら。理由はわからないが、生まれた時から心に備わっていた本性なのだろうと思う。

「私もほしくないや。」段岭は言った。バドは寝そべっていた寝台から奥に少しずれ、枕をポンポンと叩いた。一緒に昼寝でもしようと誘っているのだ。だが段岭は振り返って首を伸ばし、駆け出した。

「おい!どこに行くんだ?」バドは起き上がって追いかけた。

段岭は答えた。「何をもらうのか、ちょっと見て来る。」

バドが言う。「欲しくないなら、見てどうする。何だっていいじゃないか。」

それは狼毛の筆と、一両の銀一封だった。

バドと段岭は裏庭に隠れて、雑役夫たちが、竹籠を運び入れる様子を見ていた。籠の中は狼毛筆でいっぱいだ。郎俊侠が段岭に買ってくれた物ほど質が良くない。バドが段岭の肩をつかんで「行くぞ。」と言った。

 

ふと、段岭はその中にいた細身で背の高い雑役夫に目が行った。ちょうどこちらを振り向いた。どこかで見た気がする。次の瞬間、頭の中に稲妻が落ちたように、はっと思い出した。おとといの番に薬屋で会ったサソリの男だ!だけど首筋に入れ墨がない!同じ人なのだろうか?

「行くぞ。やっぱり褒美が欲しいのか?」バドが言った。

「待ってよ!」段岭は疑惑でいっぱいの顔をしていた。あの男はどうしてここにいるのだろう?それになぜ裏庭で物を運んだりしているのか?

 

武独は庭の外で下ろした狼毛筆を、前庭に運び入れた。段岭は眉をぎゅっとひそめてその後を追った。そろそろイラついてきたバドが段岭を回廊の後ろに引っ張り込んだ。武独が少し振り向いた時、見えたのはバドの顔だけだった。バドは顔立ちがはっきりしている。鼻が高く奥目で瞳の色は青い。しかも元人の服装をしていた。武独は庭にいた子供がのぞき見していると思って目を向けたのだが、それ以上気にせず、子供の列に沿って足早に歩を進めながら、並んでいる子供たちを一人一人見て行った。

 

探している人物はまだ見つからない。そこで庁堂の窓のところで腕組をして立ち、中での話し声を聞くことにした。前庁には、蔡閏たち、年長の少年たちが並んで、耶律大石に拝礼していた。

「すばらしい。」先生たちは一人ずつ名前を呼び、呼ばれた者は前に出て耶律大石に拝礼し、叩頭した。耶律大石は傍にいた護衛から銀一封と狼毛筆を受け取り、自ら少年に渡して激励した。

「“赫連家の子はどこだ?」耶律大はふと思い出して先生に尋ねた。

「赫連博!フーレンボ!」先生が慌てて呼びに行くと、バドと相撲をとっていたどもりの少年が急いでやってきた。耶律大石は彼に頷いてみせると「上京での生活には慣れたかね?」と言った。

「おこ……お答えします、大王。な、慣れました。大王のご…ご高配に感謝致します。」

赫連博(フーレンボ)という名の少年が答えた。

(ハーリェンボかな。でも覚えにくいから。仮名無しだと、かくれんぼと読めそうだし。)

言い終えると耶律大石の言葉を待たずに赫連博はさっさと跪き、ゴンゴンゴンと三回叩頭した。耶律大石はほっとしたようで、高らかな笑い声は庭の外にまで届いた。そして直々に少年を立ち上がらせると、贈り物を手の中に持たせてしっかりと握らせ、彼の背をぽんぽんと叩いた。とても親し気な仕草だった。

 

赫連博は頭を下げてから、出て行った。そして庁堂を出るや否や、やる方ない憤怒に、贈り物を花壇に投げ捨てて、ぐちゃぐちゃになるまで踏みつけた。それから、出て行こうとした時にバドが手招きしているのに気づいた。赫連博は眉をあげると、左右を見渡してから、バドに向かって走って行った。

 

その頃庁内では:

「ブアルチジンはどうした?」耶律大石が尋ねた。再び先生が探しに出たが、バドは急いで段岭と身を隠した。一方、武独は横を向いて目を細め、窓の向こうを覗き込んで、庁内にいる少年たちを調べ見ていた。

先生はバドを探しに行ったが中々戻ってこない。少年たちは皆待っていた。耶律大石は「韓

捷、いるのだろう?」と呼び掛けた。「大王に拝謁申し上げます。」韓家の太っちょ君が少年たちの列から一歩前に進み出て耶律大石に拝礼したが、跪きはしなかった。

「また太ったんじゃないか。」耶律大石は笑った。「お父上と一緒だな。」

少年たちはみな笑い韓捷は顔を真っ赤にしたが何もいわなかった。耶律大石は「しっかり学びなさい。」と激励した。

 

 

「あの人は何かすごく変だ。」段岭が言った。

「だ……誰の事だい?」赫連博が戸惑ったように尋ねた。

段岭は言った。「剣を持っているんだ。」

赫連博とバドは、はっと息をのんだ。段岭はしまったと思い、急いで口を閉じたが、バドに尋ねられた。「刺客か。会ったことがあるのか?」段岭は急いで言いつくろった。「会ったことはない。なんだか剣を持っている人のように見えないかい?」バドと赫連博は男を暫く観察した。

「あ、あ、あ……あの人、わわわ……。」赫連博は気が動転して話ができなくなり、急いでバドの手を叩いた。「手!手!」

バドも気を付けて見た。「武を修めた人物だ。背中に剣を隠している。あれは刺客だ!段岭、よく気づいたな!」

段岭の読みは正しかった。だが彼がここで何をしているのかはさっぱりわからない。まさか本業が刺客で、雑役夫を兼業しているとか?

 

庁堂では耶律大石がしびれを切らして待っていたが、ブアルチジン家の野生児は姿を見せず、仕方なく先生に点呼を続けさせた。一番後ろに並んで立っていた蔡閏は緊張していた。

段岭にもらった菓子のせいだ。あまり考えずに持っていたが、いかんせん梅花菓は冷たいままにしておくべき食べ物だ。庭で拝礼の仕方を習っていた時も、前庭で客を迎えた時も、寒い屋外にいたので気づかなかった。こうして暖かな庁堂に入ったせいで、ずっと懐に入れていた菓子が溶け始めた。溶ければそれはただの砂糖水である。既に外袍に染み出て、袍子に沿って滴り落ちてきていた。蔡閏はまずい、と思ったが、耶律大石は既に目の前まで来ていた。

「君は……。」耶律大石はずっと考えていたが、蔡閏の名前が思い出せなかった。蔡閏は恭しく一礼し、名前を言おうとしたが、耶律大石はこの漢人の顔に興味がなく、特に重要な人物ではなかろうと、贈り物を渡して通り過ぎた。外にいた少年たちの一群は蔡閏が垂らした赤い水を発見すると、急いで走廊を走り去って行った。

 

武独は僅かに眉を上げた。何かに気づいたようで、蔡閏の後をつけていく。蔡閏は庭の岩山の後ろに隠れて、急いで袍子を脱ぎ、油紙布を取り出した。外側も全てびしょびしょで、油紙布を開けると、濡れた梅の花だけが残っていた。蔡閏は気が狂いそうだった。外袍を拭いていると、後ろから誰かの声がした。「鮮卑人に梅花菓をもらったのかい?」

蔡閏が振り返ろうとした時、後ろから手が伸びてきて、鼻と口をふさがれた。蔡閏は声を出す間もなく気を失った。

「奴は蔡狗を連れて行く気だぞ!蔡家の仇なのか?」バドが驚きに目を見開いて言った。

「助けるか?」赫連博が言った。

三人は視線を交わしあった。武独の動機は全くわからないが彼が凄腕だと言うことは段岭にもわかっていた。すぐに追いかけなくては。赫連博とバドは急いで段岭の後を追った。

武独は回廊を通り抜け、裏庭に出た。足音が近づいて来る。耶律大石の護衛が見回りをしているのだろう。武独は気を失った蔡閏を木の後ろに隠すと、お辞儀の姿勢で立った。

「ついて来い。」バドが小声で言った。バドは赫連博と段岭を連れて、裏庭に回りこんだ。

段岭は蔡閏を助けに行きたかったが、赫連博に止められ、二人についていくしかなかった。三人は走りながら相談した。

 

段岭:「先生に言わなくていいの?」

バド:「先生が奴を見つけに行くのか?その頃にはあいつは凍った死体になっているぞ!」

「待っ!待って!彼を……よ、よ……。」赫連博は緊張すると余計言葉が出なくなる。段岭もバドも焦っていて、彼を逆さに振って言葉を吐かせてやりたくなったが、赫連博の方が話すのを諦めて、内院を指さした。「大王を呼びに行けって言いたいのかな?」段岭が言った。

赫連博はうん、うんと頷いた。

バドは両手を上げた。「耶律狗は漢人の命なんて気にしないさ。大事なのは自分だけだ。」

「そうだな!」赫連博は重要なことに気づいたかのように頷いた。

段岭は気が急き、「じゃあ、どうする?」と言った。

「赫連、ゆっくり話せよ。」バドが指図した。「段岭、お前は巡防司に行って蔡狗の兄貴を呼んで来い。俺と赫連は何か方法を考える。」

段岭が言った。「どこにあるのかわからないよ。」バド:「……。」

バドは気を取り直し、「俺が行く。お前たちは奴を追え。」と言った。

武独は蔡閏を連れて今にも出て行きそうだった。

段岭と赫連博は武独について行った。だが、走廊に駆け出した時、段岭は突然襟首をつかまれ、廊下の裏に引っ張り込まれた。叫ぼうとすると、口に手を当てられた。振り返って見ると、それは網籠をかぶった覆面の男だった。

 

赫連博は落ち着いて、段岭を取り返そうと向かって行ったが、覆面の男に喉下三分を突かれてその場に倒れ、口を開けることも動くこともできなくなった。段岭は覆面の男の懐に、なじみの匂いがするのに気づいた。覆面の男は、赫連博の視線から逃れるために、段岭を一歩後ろに下がらせると、「シッ!」という動作と共に口角を少しあげ、段岭に落ち着くようにと指示した。

段岭:「……。」

覆面の男は赫連博を一度叩いて、封穴を解くと、身を翻して裏庭から出て行き、不運な武独を追いかけて行った。

(顔隠す前に風呂に入れ、郎俊侠。)

 

 

 

第10章 他

 

覆面の男はフッと冷笑すると、木の影から突然襲い掛かった。青峰剣がいくつもの剣の幻影を作り、武独の周りを取り囲む。これは相手の向かう先を封じる剣技だ。武独は厩の前まで後退せざるを得ず、剣を抜くと嘲うような笑みを口角に浮かべた。

覆面の男は武独の喉に剣を突き立てた。

武独は表情を変えず、唇には笑みを湛えたままだ。守りを諦め、逆手で剣を意識のない蔡閏に突き立てる。だが、予想に反して覆面の男は蔡閏のことなどどうでもいいようで、動きを変えないばかりか、勢いを加速した。電光石火の勢いに、武独は蔡閏どころか自分の喉を刺されまいと動きを変えざるを得なくなる。そして先に機会を逸した武独は判断を誤り、横を向いた時に覆面の男に斜めに剣を降ろされ、顔が傷つき、血が流れ出た!

武独が身を退く。覆面の男が陰のごとく追っていく。手中の少年が人質として役に立たないと気づいた武独は剣で応戦せざるを得ない。二本の剣が絡み合い、厩の上に飛ばされて柱に突き刺さった。覆面の男は剣を諦め、双掌を突き出して武独の腹部を突いた。音もない一撃だが、全内力を注いだものだ。それは武独の臓器を傷つけ、武独は吐血して後ろに飛ばされていった。

あの一瞬の判断の誤りは高くついた。武独の命ほどに。だが、厩の屋根から落ちて行く時に、彼は左手を上げて、毒の粉を蒔いた。覆面の男はすぐに息を止め、柱から剣を引き抜くと飛び上がった。武独は毒霧の中から現れ、自身も柱から剣を引き抜いて、覆面の男に向かって行った。

覆面の男は院の壁に飛び乗り、かぶっていた編み笠が飛んで行った。武独は後を追い、二人は護衛の頭の上を飛び越えて、名堂の屋根の上に上がった。覆面の男は体に傷を負っているようで気力は続かない。武独は双掌で臓腑を傷つけられている。二人同時に足を滑らせ、瓦が数枚砕けた。その音を聞きつけた護衛たちが次々に走り出て屋根の上を見た。

 

ちょうどその時、段岭と赫連博がさっと飛び出して力を合わせて蔡閏を抱き起し、彼を走廊の中に連れて行った。護衛たちが見上げた時、武独と覆面の男の姿はそこにはなかった。二人とも軽攻によって音もなく脚歩し、壁を走り抜けて庁堂の上に着いていた。

武独の顔の剣傷からは血が滴り落ちているが、建物の一番高いところまで覆面の男を追い詰めている。武独と覆面の男は互いに、にらみ合った。うかつに手は出せない。相手が死ななければ自分は生き残れない戦いだとわかっている。

 

覆面の男の声はかすれている。「どうしてわかった?」

武独は冷笑する。「命は見残してやろう。お前からでかい魚を釣れないかと思っただけだ。前回姿をくらましたと思ったら、急いで上京に戻って行っただろう?彼の子を守る以外に何がある?もし子供がいるのだとしたら、このくらいの年頃だろうと思ったわけさ。」

覆面の男はかすれた声で言った。「千慮に一失あり。武兄の技高に一分及ばなかったか。」

「お前は彼を一時守ることはできても一生守ることはできないぞ。」

覆面の男はかすれ声で答えた。「一時守れればいい。今日はお前の負けだ。」

武独は冷笑した。「まだわからないさ。」

覆面の男はそれ以上語らず、突然片足を踏み込んだ。内力が届くと、瓦屋根がガラガラと崩れ落ちた。武独は顔色を変え、飛び上がったが及ばず、ともに庁堂へと落ちて行った!

 

この時耶律大石は庁内で贈り物を渡していた。漢人の名言である「千金の体垂堂に座さず」の言葉通り、ことが起きた時は屋根の下に座っていた。それなのに上から二人の刺客が落ちてきたのだ。たちまち庁内は大騒ぎとなった。大王は怒号をあげ、護衛も大声で叫んだ。大先生がかけつけ、子供たちは失禁し、もう何が何やら大混乱といった有様だ。

「誰だお前はーーーー!」

「刺客だ!」

「大王をお守りしろ!」

 

耶律大石は武道の達人でもある。とっさの判断で、机を持ち上げると二人に投げつけた。

辛うじて身をかわした武独と覆面の男は声を上げることもなく同時に窓から飛び出した。覆面の男は東へ、武独は西へ。逃げる二人に百発の矢が放たれた。

矢はつららを擦って飛んで行き、水が一滴ぽたりと落ちた。

覆面の男は前院にある岩山に飛び乗った。遼人の弓の腕は百歩先から柳の葉を射抜けるという。まっすぐ体に向けられ、鋭い矢先が迫ってきた時、覆面の男は目を細めた。たくさんの矢が一つ一つ点となって見える。岩山を踏み台に、両の腕を広げて、後ろ向きに身を翻し、鷹が羽を広げるようにして一瞬で矢を回避すると、壁の向こうに飛び降りた。

 

 

武独は壁の上に飛び乗っていた。背後から矢が迫ってくる。壁の上を片足で踏みしめると、その力を借りて体を回転させた。回転する衣に矢がはじかれ、次の回転で向きを変えて、四方八方に飛び散った!護衛が急いで前院に出て追いかけたが、武独の姿はもうなかった。

外の通りから蹄の音が聞こえてきた。蔡聞が軍を率いてやって来たのだ。武独が飛び降りてきたのを見たバドが叫んだ。「あいつだ!」

騎兵が迫って来る。傷を負った武独は戦いを避け、路地裏へと逃げて行った。路地を曲がって通りに出ると、再び騎兵が追いかけてきた。巡防衛は河辺に沿って追いかけて来る。囲い込まれそうだ。武独は寒空に飛び上がると長剣を抜いて、光の弧を描き、凍り付いた長河に飛び込んで行った。パリンッという音を立てて氷河が割れ、武独は水中に潜って姿を消した。

 

 

段岭と赫連博は僻院の中で蔡閏を揺さぶっていた。

「蔡閏!」段岭は焦り声で彼の名を呼んだ。

「水だ。」赫連博は段岭に水を渡し、蔡閏の口に注いで飲ませた。

その時、覆面の男が飛び込んできた。赫連博は急いで段岭を引っ張り逃げようとしたが、段岭は大丈夫だと手を振って示した。覆面の男は体を曲げて片手を出し、蔡閏の息があるか確認し、頸脈を探った。段岭が何か言おうとすると、覆面の男は手をあげて、彼の唇に当てた。

僻院の外から蔡聞の声が聞えた。覆面の男は最後に蔡閏を指さして、段岭に向かって人差し指を振った。それが、生命の危険はないという意味だと段岭にはわかった。それから覆面の男は僻院の壁に飛び乗って去って行った。すぐに蔡聞が来た。

 

 

この日の午後、怒った耶律大石は名堂を封鎖した。その場にいた子供たちは尋問を受け、名堂中が疲れ果て、涙が止まらなくなる子供もいた。

助けを呼びに行ったバドは武独と覆面の男の対決を見そびれた。段岭は事細かに三回も説明した。郎俊侠のことは出さずに、意識的にある部分は省略した。ただ、最初にバドに声をかけた時には、蔡閏が連れ去られるとは思わなかったし、その後で謎の刺客まで現れたのだ。

 

蔡閏は目を覚ましたが、何を聞かれてもさっぱりわからなかった。耶律大石が直々に尋問した。聞かれた赫連博はまたどもりがひどくなり、言葉は伝わらない。耶律大石は段岭から何度も聞き出そうとしたが、赫連博からは一度で充分だった。最終的には段岭、蔡閏の二人から聞き取ったことを記録した。蔡閏は聞かれても何もわからず、皆五里霧中だった。

尋問で疲れ果てた段岭は夕食もそこそこに僻院に戻って横になった。だが、昼間のできごとが次々頭をよぎって眠れない。その時、院外からまたあの笛の音が聞えてきた。緩やかに揚がり、たおやかに回る。笛の音は少しずつ段岭の心を静め、ゆっくりと眠りに誘った。

 

翌日、全てはいつも通りになったが、蔡閏だけは少し気落ちしているようだ。段岭が心配して会いに行くと、蔡閏はただ頷いて、二人は長い間話し合った。蔡閏も自分の家がいったい誰に恨まれているのかわからなかったが、一つ段岭に教えてくれた。長兄の蔡聞が笔墨堂に行った後で、殴られて気を失った雑役夫を見つけたのだそうだ。それで刺客は雑役夫に紛れ込んで入って来たのではということだった。

なぜこの時を狙って学堂に殺しにきたのか、なぜ蔡閏を狙ったのか。もう一人の覆面の男は誰なのか。蔡聞にもさっぱりわからなかった。幸い巡防司衛士が城外を護っている時に、氷穴を発見した。それで、刺客はもうそこから逃げたと結論付けられた。

 

 

その夜、瓊花院にて:

郎俊侠は薬の粉を混ぜ合わせ、鏡に向かって、腰と背中の傷口に薬をつけていた。傍らには屏風が置かれ、屏風の裏には、丁芝を含め、六人の着飾った娘たちがいた。瓊花の花形芸子たち―――蘭、芍、菫、芷、茉、芝の六人だ。手炉を持っている者、お茶を奉じている者、華やかな一団の中に囲まれた貴婦人は、丁芝が「夫人」と呼んでいる、瓊花院の家主だ。

 

「あなたとあの子供の運気と言ったら。」夫人は淡々と言った。「家を探し直して、もう一度移った方がいいのではないかしら。」

屏風に郎俊侠の影が映り、引き締まった美しい男性の形が現れていた。

「あちこちに逃げ回るくらいなら、株を守って兎を待つ方がいい。」郎俊侠が言った。

「その子供の命は天に護られているようね。今回来たのは武独だった。前回危うく交わした、「祝」も影の舞台では凄腕だったはず。子供の手で殺されるなんて、運命で定まっていたのでしょう。でも、次に来るのは武独ではないかもしれないわね。」夫人が言った。

「たとえ昌流君が来たとしてそれが何です?」郎俊侠は薬壷を置きながら答えた。

「敵を甘く見てはだめよ。」夫人は優雅に話を続けた。「武独は毒使いだけど、あなたたちの間には不文律がある。毒殺すべき者は毒殺し、留めおく命は留めおく。人を殺せば、生かすよりずっと敵を増やす。心が弱くて命を残すこともある。心が優しすぎる人は、刺客になるべきではないわね。」

郎俊侠は薬をつけ終えると、外袍を着て腰帯をしっかり占めて屏風の裏から出てきた。夫人は暗紅色の錦を着ていた。袍には今にも飛び立ちそうに羽を広げた仙鶴の刺繍がしてある。

青き山の如き眉に、山の泉のような瞳。瓊花院の冠たる立場ではあるが、未だ三十に届かない、その容貌には少し西域の血が感じられる。

「昌流君は来ないと私は思います。」郎俊侠は言った。夫人は淡々と言った。「あなたは昔から肝が据わっていたのだったわね。」

「南陳帝君はもう長くはないでしょう。北伐はもう終わった。三年以内に南陳軍隊が再び玉壁関を越えることはないでしょう。趙奎と牧曠達はしばらく忙しくなる。これから起きるのは内闘だけです。」

 

「一旦内闘が始まれば、武独も昌流君も自分の主人の元を離れられなくなる。上京は遼人の地盤だ。千里の向こうから名のある刺客を送って誰ともわからない子供を探すのは無駄なことだと考えるでしょう。」郎俊侠は夫人に頭を下げると、身を翻して、瓊花院を出て行った。夫人はしばらく何も言わなかった。

 

 

夜、南陳にて:

「彼の命は留め置く。」趙奎が言った。

「今何と?」武独は聞き間違えたのかと思った。

武独は上京から帰ったばかりだったが、狼狽著しい。未だ李漸鴻の行方がつかめない上に、伝説の「無名客」を殺すこともできずにいる。持ってこられた役立つ報告はたった一つだけだ。

趙奎は庁堂に座って、薄暗い灯に背を向け、暗い影を落としている。灯火は武独の顔を照らしていたが、この刺客の表情は複雑だった。

「他に知る者は?」趙奎が尋ねた。武独は首を振ってから答えた。「祝は命を落としました。同行した影の軍団の刺客たちは上京に入ってさえいず、城外に留め置かれていました。この情報は属下(私)推測しただけです。ですが、わかりません……。」

「陛下はもう長くない。四王殿下にはお子がいない。李漸鴻は行方不明。朝廷は今後、牧曠達の天下となるだろう。一歩後手に回れば、彼を制御できなくなる。今の話は、なかったことにしてくれ。」武独は理解し、頷いた。(武独、趙奎に感謝しろ)

「将軍、私は胡昌城下で三王殿下の消息を追わずに、上京に向かいました。おそらく牧相は……既に勘づいているのではないでしょうか。」

趙奎は冷笑し言った。「たとえ牧曠達が知ったとしても、昌流君を上京に送り込みはしないだろう。昌流君の保護を失ったら夜安心して眠ることもできないだろうからな。どちらにしてもお前たちが今回現れたことで、城内の守備は厳重になったはずだ。もう機会はないだろう。」

 

 

京城内では十日間戒厳令が敷かれた。名堂の中にも衛隊が巡回しに来て、子供たちを見張り、更に先生たちの機嫌も悪かったので表に出ようとする気にはならなかった。

あの事件の後、蔡閏と段岭の関係は自然と深まった。時々段岭が課題を持って聞きに行くと、蔡閏はわからないところを一つ一つ説明して、しっかり勉強するように監督したりするようになった。

衛隊の巡回が終わったのは一月最後の日だった。この日、門外に迎えに来た家族はいつもより多く、皆先日の刺客の件を知って心配そうに話し合っていた。通りは馬車でいっぱいになりい、高貴な身分の人の馬車の前を武人が守る様子も少なくない。

「段家―――段坊ちゃん。いませんか?」部屋の中に呼び出しの声が響いた。

今日は郎俊侠が一番早く来ていて、段岭はまだ出口までたどり着いていなかった。

「います!います!」段岭は大急ぎで名乗り出ると、腰牌を渡した。そして、郎俊侠の懐に飛び込んでいき、その片腕にいだかれた。「家に帰ろう。」郎俊侠は段岭の手を牽いた。だが、段岭は振り返って名堂正面の柵の間から中をのぞき見ずにはいられなかった。やはりバドは前庭に立っていて、遠くから段岭のことを見ていた。

郎俊侠は段岭の気持ちを察して足を止めた。「ブアルチジンと友達になったのかい?」

段岭が頷くと、郎俊侠は「我が家に夕飯を食べに来るように誘いたいかい?」と尋ねた。

「いいの?」

「君の友達なら、勿論いいよ。」

「バド!」段岭はバドに向かって叫んだ。「一緒に行こう!今晩はうちに来てよ。」

バドは手を振って断った。通りからほとんどの人がいなくなるまで段岭は待っていたが、バドは来なかった。きっとまた誰も迎えに来ないと考えた段岭は再び叫んだ。「行こうよ!」

バドは答えず、鐘つき用の鉄棒を持って背を向け、内院に入ってしまった。夕日が通りから斜めに照らしている。段岭は少し物悲しく感じた。

 

だが、家に着くと、段岭の物悲しさはきれいさっぱり消え失せた。郎俊侠がたくさんのおかずを作って卓の上いっぱいに並べていたからだ。

段岭は歓喜の声を上げて席につくと、手も洗わずに食べ始め、郎俊侠に手を押さえられて、濡らした布で拭われた。まるで汚れた子犬の足を拭くかのようだ。

「私はあまり料理が得意ではないんだ。」郎俊侠が言った。「鄭彦(ジョンヤン)みたいにうまくはない。いつか君はもっといい物を食べるようになるから、きっとこの料理を懐かしむことはないだろうけど、今はこれを食べてくれ。」(そりゃ、きっと懐かしむさ。)

ジョンヤンってだれだろう?と段岭は思ったが、特に大事には思わなかった。口は食べ物でいっぱいだったし、話をする気分でもなかった。しばらくすると、誰かが門を叩き、郎俊侠は眉をひそめた。

「段岭!」バドの声が外から聞こえた。

段岭は急いで口の中の物を飲み込むと、扉を開けに駆け出した。バドはいつもの汚い羊毛の上着を着て、薄汚れ、泥や葉っぱまでつけたまま、戸口の前に立っていた。「蔡狗の兄貴の言ったとおりだ。やっぱりここに住んでいたんだな。これをやる。」そう言うと、彼は一包みの点心を渡してきた。

段岭:「どうやって抜け出してきたの?」

バド:「勿論やり方を知っているからだ。」

段岭:「早く入ってご飯を食べようよ。」段岭はバドを中に入らせようとするが、バドは抵抗している。二人は戸口でしばらく押し問答をしていたが、段岭の後ろに郎俊侠が現れて、「入ってお茶でも飲んで行ってくれ。」と言うと、バドは断らずに中に入って行った。

 

郎俊侠は箸を渡したが、バドは、「俺は食べてきた。話があって来たんだ。」と言った。

「二人で好きにしなさい。」そう言うと郎俊侠は出て行った。段岭は少しがっかりした。彼が戸口の外に台を広げて座ったのを見て、声を掛けようとした時、バドが言った。「お前は食べろ。」

バドはお茶を手に取り飲みながら、少し羨ましそうに卓一杯の料理を見ていた。段岭は何度も勧めたが、バドは名堂で食べてきたと言い張るので、それ以上強いるのはやめておいた。

大きくなりかけの子供二人は、暫くの間、話したり笑ったりした。段岭の勉強の習熟速度は速く、既に墨房に進み、月初からは中班に入ることになっていた。

 

郎俊侠が食事を終えると、段岭は片づけをして、自分の衣服の中からバドが着られるものを探し出し、一緒に風呂屋(公衆浴場かも)に行って、湯あみすることにした。バドは最初嫌そうだったが、いかんせん体の匂いがきつすぎて、先ほど蔡家に向かう道でも白い目で見られていたので、しぶしぶながら、段岭に連れられるにまかせた。(頼むから洗ってから湯舟に入ってね)

二人は一緒に湯につかり、バドの羊毛袍は浴場の使用人に洗って乾かすようにさせて、自分は段岭としばらく遊んだ。郎俊侠は人を呼んでバドの顔をそり、爪を切ってもらい、自分は段岭の世話をした。

「君の瞳は湖水みたいだね。」段岭は鏡を見てから、鏡の中のバドを見て言った。「本当にきれいだ。私も青い目だったらよかったのにな。」

「お前は青い目が羨ましいのか。俺はお前の黒い目が羨ましいのにな。」バドが答えた。

郎俊侠は「青い目には青い目の良さが、黒い目には黒い目の良さがある。それぞれが持つ命は羨むものではない。」と言った。段岭は頷いた。この時には郎俊侠の言っている意味はまだよくわかっていなかったが、ずっとずっと後になってから、なぜか、夜中にこの言葉を思い出し、彼とバドと過ごした記憶が蘇るようになるのだった。

 

 

深夜になると、バドはまだ半分湿った羊毛の上着を着て、「もう帰る。」と言った。

「うちで寝ればいいのに。」段岭は言ったが、バドは手を振って、それ以上言わせず、飛ぶように走り去って行った。段岭は去って行くバドを見てしばらく何も言わなかった。

バドは路地を通り抜けて名堂に着くと、庭の柵の割れ目から中に入り、常盤樹の鉢で穴を隠して書閣に戻り床に就いた。

 

「君はブアルチジンと友達になってもいいけど、他人に対する彼の振る舞いを真似してはいけないよ。」郎俊侠が注意した。段岭は頷いた。少年は本質的に遊び好きだ。名堂でも段岭と仲良くしようとするものがいないわけではなかったが、彼はずっと一人で座るようにしていた。郎俊侠の教えを忠実に守っているのと、小さいころから培ってきた警戒心の強さのせいだ。今ある一切の物を失いたくないし、更にはまだどこか遠くにいる父に類が及ばないために、なるべく僻院内にいて、友達を作らないようにしていた。段岭の世界のほとんどの部分を占めるのは郎俊侠とまだ顔も知らない父だけだった。

 

当初子供たちは、彼が仲間に入って行く勇気がないのだと思っていたが、時が経つうちに、本当に人と交流したくないのだとわかるとだんだんとそれを受け入れるようになった。

上京の空気は自由で洒脱だ。人が嫌がることは強いらず、互いに尊重しあうのが遼人の風俗だ。たまに出くわした時には、彼に頷いて見せる相手に対し、段岭は恭しく、大先生の教え通りに、足を止め、衣服を整えて礼を返した。それは正式な「点頭の交わり」というもので、同級生たちは最初おもしろがって笑っていた。ただそれは新鮮に見え、また、段岭の洗練された拝礼がとてもかっこよかったため、それからしばらくの間、名堂では君子の礼が流行したのだった。

ただ一人、蔡閏だけは違う見方をしていた。どんな見方かは口にせずとも、心は通じあっていた。あれから蔡閏は段岭に何度か会っていたが、彼の落ち着いて真面目な態度を気に入っていた。

段岭が墨房に進学すると、体が大きくてどもりのある赫連博と机を並べることになった。新たなお隣さんは口数が少なく、ほとんどの時を互いに黙ったまま過ごしてはいたが、段岭の静かな性格にはよく合っていた。

 

 

月日は飛ぶように過ぎ、知らぬ間に日が長くなり、雪解けとともに冬は過ぎ、春が来た。

学堂にいるよりも、段岭は早く家に帰りたかった。あの日以来、郎俊侠が遅れてくることはない。それどころか、段岭は名堂で勉強している時にも、いつも誰かに背後を見守られているような気がしていた。気候が暖かくなってきた午後の授業中のことだ。段岭がぼうっとして、机の上に突っ伏し、うとうとしだしたとき、頭に突然スモモの実が飛んできた。

「あ痛っ!」段岭は顔を上げた。壁の向こうに人影が消えた。もう影も形もない。だが、その後は真面目に字を書くことにした。

初級授業はわずか三月で終え、他の子供たちに比べて習熟速度は速かった。すぐに次の班に入ることになるだろう。読む書の数は更に多く、内容も増える。天文術数、起承転結……簡単なことは何もない。

 

暖かな春の夜は落ち着かない気分にさせられる。段岭の心で、なんだか奇妙な感覚がぞわぞわとうごめきだした。頭の中には上京での最初の夜、瓊花院で見た郎俊侠の姿があった。

僻院の外で突然ゆるやかな笛の音が響き始めた。百花咲き乱れる春の夜に、段岭に語り掛けて来るようだ。あれはきっと郎俊侠が吹いているのだろうと、段岭にはわかりかけていたが、彼の姿を見たことはなかった。段岭は単衣姿で、月下に走ってゆき、裸足のまま立っていた。そして、笛の音がだんだん聞こえなくなると、部屋に戻って床に就いたが、寝返りばかりうって、中々眠れなかった。

 

 

瞬く間に半年が過ぎた。約束通り、郎俊侠は再び遠出することはなく、段家をきちんと管理していた。段岭の休みの時には、彼を野遊びに連れ出してくれ、馬に乗って広々とした草原を駆け、牛や羊の群れを見たり、アルキン山の麓で冷たい雪どけ水を飲んだり、川で釣りをしたりした。時にはバドも一緒に連れて行った。

段岭は自分は本当に幸せだと思った。だが、バドはその幸せを分かち合いたくはないようで、だんだんと理由をつけて一緒に来なくなった。郎俊侠の言う通り、人はみな、それぞれ考え方が違う。時には強く求めない方がいいこともあるのだろう。

 

「父さんはもう来る?」家に帰る度に段岭は郎俊侠に一度は尋ねる。

「もうすぐだ。君に関心がないわけではないのだよ。」段岭は聞くたびに同じ答えを習慣的に返されているような気がした。「君が真剣に勉強したら、お父上を失望させることはないはずだ。」

段家はきちんと整えられていた。段岭は花壇に色々な薬草を植えた。育ったものも育たなかったものもある。郎俊侠は不思議に思って尋ねた。「こんなに薬材を集めてどうするんだ?」段岭は汗を拭きながら答えた。「おもしろくて。」

「医学を学びたいのかい?」郎俊侠が尋ねた。段岭はよく考えてみた。子供の頃に病や痛みに苦しんだ経験からかもしれないが、いつも心にのしかかっている思いがある。人の命は儚い。誰もが思いがけない死を迎える可能性がある。人の病を治すことができたら有意義かもしれない。日ごろから、勉強していない時には、生薬辞典や、医書の類のものを借りてきて読んでいた。

「医学はやめた方がいい。お父上は君に期待しているんだ。いつか君が大業を成すことをね。」郎俊侠が言った。「やってみたいんだよ。」段岭は譲らなかった。

「まあ君がそういった草花を植えたいなら、別にかまわないけどね。」

 

郎俊侠は市場で一本の桃の苗を買ってきた。それは南から運ばれてきたもので、江南は桃の花でいっぱいだそうだが、上京では話題にもならない。段岭と一緒に桃の苗を植えた後、郎俊侠が言った。「桃の花が咲くころには、きっとお父上も来られるよ。」

「本当に?」それからは桃の木の世話を一所懸命するようになったが、水や土が合わないのか、いつもどこか元気がない。春になって二つ三つ蕾をつけたが、開かないうちに枯れてしまった。

 

翌年の秋、上京城外の枯草に山からの強い風が吹き抜ける中、郎俊侠は馬を走らせて、錦帯河畔で止まると、遥か遠くを望んでいた。

段岭は遥か彼方にある汝南での出来事をもうほとんど忘れていた。蒙館から墨房へ、更には書文閣に進学するたびに、蒙、遼、金人は減り、漢人が増えていく。そして同窓の仲間たちから、郎俊侠が言わなかった色々なことを学んだ。例えば―――

 

例えば、上京の漢人はほとんどが南方から来たということ。

例えば、先生たちは皆、南陳の著名な学者であること。

例えば、瓊花院は南院、北院は酒を飲み、楽しむ場所。そこの娘たちは皆、太祖が南下した時に連れ帰った人たちだということ。

例えば、上京の漢人たちは心の中に故郷があり、そこは柳が揺れ、桃の花が咲き乱れている場所であること。

例えば、桃の木は上京では育ちにくいが、それでも多くの人が植え続けていること。

:それは、漢人の書は難しいが、それでも多くの人が読み続けていることに等しい。

例えば、ブアルチジン・バド、赫連博、ウルラン……みんな名堂の同窓生ではあるが、その父親はそれぞれ特殊な身分で、彼らは「人質」であること。

例えば、蔡家、林家、趙家……彼らの家の者は、「南面官」という職位であること。

 

彼ら全てがそれぞれの故郷を胸に抱いている。そして口には出さなくても心の奥底では皆信じて疑わない。―――いつかそこに帰れるのだと。