非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 116-120

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第116章 城壁の上にて:

 

本格的な寒波がやって来た。

一夜にして前代未聞の試練を体験した落雁城では、兵士たちも武器を置き、何千何万の人々が城壁の修復に駆り出された。工寮は通常業務をやめて、屋根の修理をさせられた。氐人は雍人のために、冬の食糧と物資を送って来た。林胡戦士たちは自由の身となったにもかかわらず、残って城市の修復を手伝った。

 

姜恒は手持ちの仕事を十日で仕上げた。怪我の方も殆どよくなっていた。冬至も間近なある黄昏時、太子瀧が言った。「ちょっと一緒に出掛けないか、恒児。界圭、一緒に来てくれるかい?」界圭は顔を覆っていたマントの風帽を上げて姜恒を見た。姜恒は嬉しそうに頷いて、「殿下はどちらへ行きたいのですか?」と尋ねた。

「私たちの兄さんのところ。軍を率いて城壁を修復していて、もう何日も王宮に戻っていないからね。」太子瀧は知らなかったが、実は耿曙は毎日深夜になると王宮に戻って姜恒のところで寝ていたのだ。そして夜が明けると疲れた体を起こし、鎧兜に身を包んで、城南に向かった。寒風の中、彼は他の兵たちと同じように体を動かし、石を運んだ。新たに地盤を固め、強固な城壁を作るためだ。

 

姜恒と太子瀧は歩いて行くことにして、城内の平民の若者に見えるような素朴な服を着た。

ここは自分たちの家の庭、民は自分たちの家族だ。皆、恐ろしい災厄を体験した。以前のように太子の名の元に動員を命じ、自分は絹に身を包んで知らん顔ではいられない。

 

「殿下、皆、あなたの臣民、あなたの人々です。」姜恒が言った。

太子瀧は長い通りを歩いていた。自分たちに気づく者はいない。界圭がついていれば安全だろう。「彼らは家畜ではなく、数字でもない。喜怒哀楽を感じ、家族がいて、一生懸命生きている、私たちと同じ人なのです。」

「わかっている。よくわかっているよ。私も今ではそう思う。」

 

父がなぜ一連の行為をしたのか、管魏が説明してくれたことがあった。

統一国家の時代が終わり、晋朝が分邦制をとった結果、諸侯の分裂が始まった。国は強大でなくてはならず、更に強固な朝政体制を持たねばならない。人や土地を国君の元に集める必要があった。色々話し合ったが、最終的に汁琮は一番野蛮な行為を選んだのだ。だが、今は姜恒が王道をもたらしてくれる。内聖外王の可能性が見えた。皆変化を必要としている。例えそれには痛みが伴うとしてもだ。

 

「恒児、この兄は自分がすごく弱いと思う時があるよ。」太子瀧が突然言った。

「どうしてそんなことを?私から見たら、あなたは無鉄砲なくらいです。」

「私は弱いのに無鉄砲なんだ。いつか、君のように、それか王兄のようになれるといいなと思うよ。」

「同じとはいきませんよ。あなたは全ての中心にいる人、私と兄は外側に身を置く者ですから。」太子瀧の気持ちは少なからず軽くなった。自分をこうやって肯定してくれるのは姜恒と耿曙だけだ。(曾嶸たちは~?)きっと一生自分の手と足のような関係でいてくれるだろう。「それに初めてお会いした時と比べたら、ずいぶんと気概が増されました。」

太子瀧は失笑した。姜恒はそう言うが、自分が城に戻ってきたことを褒めてくれたのはこの二人だけだ。

 

春に姜恒が落雁に来てからのことを思い返すと、面白いことに気づく。この一年で自分の心境が一転したのだ。姜恒が来たことで誰もが急に成長の速度を一気に上げた。何か不思議な力があるかのようだ。自分だけではない。父王も、曾嶸や朝廷の皆も、彼に問い詰められて、自分を顧み始めたのだ。ゆっくり揺られた馬車に乗って一人の中原人がやってきたと思ったら、急に一気に加速しだした感じだ。姜恒は危機と鞭の両方を持って来た。そして監督者のように、落ち着いてそこに立っているだけで、王族たちは居心地悪くなり、背筋をまっすぐ伸ばさずにいられなくなった。

太子瀧は姜恒の手を引いた。「君はみんなのお手本みたいだね。」

「そうとは限りません。ですが、第三者の客観的な見方が必要な時もありますから。」

 

耿曙は肌脱ぎし、部下の兵士たちと同じように薄っぺらい黒武褲を履いて、防滑靴を履いた足で踏ん張っていた。城楼の高所で人の高さ程の大きな回転輪を肩に担ぎ、鉄ほぞの中に押し込んでいたのだ。城門の絞輪にするためだ。

 

「殿下!殿下!」親衛兵が知らせに来た。

「大声を出すな!」集中している時に大声で呼ばれて、縄が緩むところだった。

「ですがあれは姜大人では?姜大人がいらしたようですよ!」

耿曙はもう縄にはお構いなしに、急いで手を拭き、汗臭くないかと体の匂いを嗅いだ。そして大雑把に手拭いで体を拭くと、城楼の見張り場まで降りて行った。

「恒児!」耿曙は姜恒を見つけたが、太子瀧には気づかなかった。太子瀧が左耳の欠損を隠すために、マントの風帽を頭にかけていたからだ。

姜恒は上を向いて笑顔を見せた。「やあ!兄さん!」

「こんなところに何しに来たんだ?早く帰れ。ここはお前が来るような場所じゃない!」

塔の見張り番の下には、小さな部屋がある。その中で、太子瀧が風帽を下ろすと、将兵たちはすぐさま拝礼した。王家の者が一切を顧みず、最後に共に死ぬことを望んだ。このことで太子瀧は人々の尊敬を得た。皆の視線は彼の、失った左耳に集まった。

 

「皆さんにお酒を持って来たんです。後は監督として、状況を把握しにね。」

耿曙はちょっと気まずそうに、火を起こすよう誰かに命じた。太子瀧は界圭に酒と肴を配るよう命じると、傍らに腰を下ろした。耿曙は太子瀧に背を向けて急いで外袍を羽織り、腰帯を締めた。太子瀧は振り返って彼の後ろ姿を見ずにはいられなかった。

耿曙はもう大人になっていた。五年前雍都に来たばかりの頃はまだ少年の体つきだったのに、今では汁琮と同じように肩幅が広く、腰は美しく引き締まり、大人の男性らしい安定感を漂わせていた。少しずつ汁琮に代わり雍国の守護神となりつつあった。

「お酒を飲もうよ、兄さん」姜恒が言った。耿曙は厳しい顔をした。「飲むな。怪我がまだ治ってないだろう。飲むのは許さん。汁瀧もダメだ。誰も飲むな。」

「ああ、もう。」姜恒は耿曙の腰をつねってやろうとしたが、何分耿曙の武功は高い。全く手出しできないまま、腕を掴まれた。姜恒はお構いなしに耿曙をからかってふざけている。

太子瀧はその様子を興味深そうに見ていた。自分も一度耿曙をからかって、ちょっとした無害ないたずらをしかけたことがあったが、耿曙があまりにも嫌がったのでやめざるをえなかったのだ。

耿曙は姜恒の手を放すと、ちょっとだけ譲歩した。「ちょっとだけならいい。一口だぞ。」そして姜恒に自分の椀から一口飲ませると、すぐに奪い去った。

「私にも一口飲ませてよ、兄さん。」太子瀧も我慢できずに言った。

耿曙は椀を渡して、太子瀧にも一杯だけ飲ませるとすぐに取り上げた。

「お前たちの仕事は終わったのか?」

姜恒は襟を叩きながら言った。「終わるわけないでしょう。永遠に終わらないよ。」

太子瀧も笑った。「終わらなかったら来てはだめなの?」

「こんなところに何しに来たんだ?」

「そりゃ、あなたが恋しくてさー。いけない?」姜恒は大げさに言ってのけた。

耿曙は顔が真っ赤になり、そっと顔を背けて火を起こした火盆に視線を移した。太子瀧は今までそんなことを耿曙に言ったことはなかった。だが姜恒が発したその言葉には抗いがたい魅力があった。「そうだよ。あなたが恋しくてさ。」太子瀧も笑いながら言った。

小部屋はしんと静まり返った。界圭は兵士たちと酒を飲むために出て行った。耿曙は何か言おうと言葉を探したが、何を言っていいかわからず、姜恒と太子瀧を同時に見た。その時、今までにない不思議な思いがよぎった。太子瀧はこの国の未来の国君だ。だが自然に主導権を握る姜恒の方が太子で、汁瀧はその兄弟のようにも見えた。    (こらこら)

 

「初めて角楼でお酒を飲んだ時のことを思い出します。あれは洛陽でのことでした。」

「へえ。やっぱり冬だったの?」

耿曙も思い出していた。過去の事はあまり口にしたくなかったが、姜恒が自分から言い出したことだ。六年前の冬だった。太子瀧も当然記憶にあるだろう。あの時、武英公主自ら使いとして洛陽に来て、姫珣に落雁に来るようにと説得したのだ。

だがあの時は思ってもみなかった。耿曙と駐軍に会いに行った後、二人を待っていたのが五年もの長きにわたる別れだったとは。しかもあやうく永遠の別れとなるだったところだったのだ。「あの後兄さんは霊山に行ったんだよね。」「うん。」耿曙の答えは短く、複雑な眼差しで姜恒を見た。太子瀧は心配になった。恐ろしい過去の出来事について触れてはまずかったのではと。だが、その時耿曙は別の思いに取りつかれていたのだ。

 

心の底で一つの声が鳴り続ける。ここ数日、彼が直面したくなかったある事実を目の前につきつけられたかのようだ。これ以上見て見ぬふりをすることはできない。受け入れられるかは別として、真実は明らかにしなければ。

 

「…その後で、私は師父に助けられたのです。今思えば、あれは運命のような……」

 

恒児は俺の弟ではない。

耿曙の心の中で、この言葉が無情にも繰り返し響き続けていた。

 

「あれは陸相の提案だったんだ。」太子瀧はため息をついた。「管相は反対したんだ。提案自体には反対じゃないけど、まだその時期ではないって。」

「みんな言いますよね。姫家の体には狂人の血が流れているって。今なら私にもわかります。」姜恒は笑った。

 

彼は自分の父の息子ではない……耿曙の心に事実を告げる声が響く。

いつも自分たちの体に同じ人物の血が流れていることが、二人をつなぐ唯一の絆だと思っていたのに、郎煌の言葉は一瞬でそれまでの世界をひっくり返したのだ。

「恒児。」耿曙がふと声をかけた。

「なに?」

ここ数日耿曙はいつもと様子が違っていたが、太子瀧も姜恒も気づいていなかった。おそらく、耿曙が殆ど王宮内にいなかったせいだ。

 

俺の弟でないなら、俺たち二人は……いったいどういう関係だ?

だがそれがどうであれ、俺の恒児であることに違いないだろう。

耿曙は炎に照らされた姜恒の横顔を、じっと見つめた。姜恒は不可解そうに眉を上げたが、眼差しには相変わらず笑みをたたえたままだ。

「昔話はやめてくれ。あまり聞きたくないんだ。」

苦しかった日々は思い出したくないものだ。姜恒はごめんね、というようにほほ笑んだ。

太子瀧は言った。「もう終わったことです。」

「終わってなんかいない。」思わず漏れ出た一言に、姜恒と太子瀧は疑問を感じた。耿曙は不思議そうに見る姜恒の視線を避けて立ち上がり、扉を押し開いた。「もう帰れ。こんなに長く外にいたら、王宮のやつらが心配するぞ。」

 

「兄さん、大丈夫?」姜恒が尋ねた。耿曙は首を振った。城壁の上に立って城内を望むと、修復の様子が見えた。工事はまもなく終わり、すぐに冬至を迎える。新たな一年の始まりだ。暖かな手に指先を握られて、耿曙が振り向くと、姜恒がそこに来ていた。角楼の方向を眺めている。太子瀧はまだ見張り穴のところにいた。

 

姜恒は疑惑に満ちた目で耿曙を見ていた。

掴んできた手を振り払うべきなのはわかっていた。だが理性が感情に負け、逆に姜恒の手を強く握り締めていた。「恒児。」耿曙はつぶやくと彼を腕に抱いた。姜恒はちょっと恥ずかしかった。二人はもう大人になっていたし、宮中では親しくしすぎないように気を付けていたのに、城楼の上で抱き合っていたらどう思われる?

「いったいどうしたの?」

「なんでもない。」姜恒に強要するつもりはない。彼の横顔に手を置き、親指でそっとさすった。「ちょっと以前のことを思い出しただけだ。」

「工事はもう終わるんでしょう?今晩は戻って来られるの?」

耿曙は頷いた。「待っていろ。」

いつか姜恒の正体が明かされた時に、何が自分たちを待ちうけるのか、それはよくわかっている。その時、誰かが馬に乗って城壁の下にやってきた。

「太子殿下!王子殿下!姜大人――!王陛下がおよびです!至急殿内にお戻りください。」

「ほら見ろ。見つかったな。お前たちは先に行け。俺は少し後から行くから。」

 

 

 

第117章 天敵:

日頃王宮を離れることなんてないのに、ちょっと出歩いただけで、もう汁琮に呼び戻された。殺されないうちにと、姜恒と太子瀧は先に戻ることにした。

 

今日の殿内はいつもと全く雰囲気が違っていた。冬至三日前ということで、重臣たちが全員着座して、太子瀧と姜恒を待っていた。陸冀と管魏が既に一通り討論を終えていたようで、二人は姜恒に目をやった。

「汁淼はどうした?」汁琮が尋ねた。

「まだ城壁で最後の仕上げをしており、間もなく参ります。」

「扉を閉めよ。来たら通してやればよい。」界圭が殿門を閉め、外で警備についた。姜恒は周りを見渡した。衛卓、陸冀、周戎、曾松も来ている。あとは管魏だ。今までにない顔ぶれだ。太子瀧も気づいたようで姜恒に頷いて見せた。二人は離れ、太子瀧は汁琮の隣に座った。

「話は二点だ。一つ目は君の提案だから、本人が一番詳しいだろうが。」

姜恒は管魏と視線を交わした。二人はひそかに情報交換する間柄ではあるが、彼の考えは今一つはっきりしない。「お聞かせいただければ光栄です。」姜恒は言った。曾松は何か思う所があるように姜恒を見た。

 

「君の提案を採用して、春が来たら四国関内に通知を出し、玉壁関で五国会議を開く。」

汁琮はそう言うと、金璽を取り出し、惊堂木(裁判官が叩く驚木)のように卓の上にドンと置いた。そして世に宣言するかのように言い放った。

「そしてその場で、孤王自らが伝国金璽を奉上する。四か国をバラバラにするためだ。」

姜恒は頷いた。「それが一番いい方法だと思います。」

「いいも悪いも他に方法はなかった。慎重に決議したのだ。洛陽を占領するには、これほど適切な策はないとな。」

姜恒は口を挟むつもりはなかった。南方四国が一旦争奪戦を開始すれば、一気に戦争が始まる。汁琮はそれに乗じて関を出て土地を占拠できるだろう。

 

曾松が続けた。「もう一つの話に移りますが、遣わしていた使者が戻って来ました。」

「どの使者の事ですか?」姜恒には使者を遣わしたという覚えはなかった。

「郢国との同盟のために遣わせた使者です。」管魏が言った。

その時外に控えていた界圭が告げた。「殿下が来られました。」

「入れてやりなさい。」汁琮が言った。耿曙が入って来た。皆が注目する。汁琮は姜恒の隣を指さして、座るようにと示した。

「郢国との同盟の話をしていたところだよ。」太子瀧が耿曙に教えた。

「うん、」耿曙は答えた。あまり自分に関係のなさそうな話だ。来なくてもよかったのではないか。

「条件は何ですか?」姜恒が尋ねた。

汁琮が答えた。「条件は厳しい。彼らは代国と盟約を結ぶか協議中だ。我らからも同盟を求められれば郢国としては大きく出られる。わかるな。」

「条件を比べられるからですね。ちょっと知りたいのですが、代国との同盟の条件の方は何なのですか?」

陸冀が答える。「姫霜が郢国に嫁ぐことです。両国は巴の地を緩衝地帯とするつもりです。

代と鄭は母舅氏が姻戚にあり、鄭と梁は切っても切れない関係です。そんな風に、四国は再び連合しあえるのです。」

(母舅!!すごい言葉だ。太子霊のパパの愛人龍将軍が姫霜の親戚だと代国篇で言ってた。)

「それは趙霊が言っているのでしょう。」姜恒が言った。

「よくわからない。郢国から我らへの要求は三つ。そのうち二つは君に関係がある。

姜恒は眉をひそめた。「そういうわけで、孤王も君に相談しないわけにいかなかったのだ。君はこの国の財産だからな。この先は管相が話してくれ。」

 

「まずは、黄河を境として郢国の領土とすること。それには嵩県も含まれます。その他、梁の分割や鄭の討伐に関する詳細については交渉可能です。」

「ずいぶん大きく出たもんだな。のんだのか?」耿曙が冷ややかに言った。

誰も答えようとしなかった。嵩県は耿曙に封じられた。つまり、相手はいけしゃあしゃあと耿曙の封地を要求してきたのだ。

 

「次に、郢国は姻戚関係を望んでおり、王族の誰かが公主を娶るよう求めています。」

「確か郢国には公主はいなかったはず。そのために誰かを公主の地位に封じれば問題はないですが。」姜恒が言った。

「三つめは、」管魏が告げた。「姜大人に人質として、江都に赴いていただくことです。両国が無事天下を二分できた暁には人質は解放されるとのことです。」

耿曙が怒りを爆発させた。「だめだ!」

姜恒は確かに衝撃を受けたが、考えをまとめる前に、耿曙の咆哮の方にびっくりしてしまった。汁琮は言った。「この件はとても重要だ。孤王としても関係する者の気持ちをないがしろにはできない。皆帰ってよろしい。仔細はゆっくり考えよう。それだけだ。散会。」

 

 

―――

夜になっても姜恒はまだ信じられない気持ちだった。「何で私なんだろう?」

寝殿に戻ってから座り込んでいた耿曙は何も言わず顔を曇らせた。郢国の要求は失礼極まりない。自分の封地ばかりか弟まで求めてくるとは。だがその前に別のやっかいごとも出て来た。郢国が姻戚を要求してきたことだ。目標は王族だ。誰が娶るのだ?会議に自分を呼びつけたということは当然最適な人選は自分なのだろう。さもなくば太子瀧が郢国公主を娶るのか?彼の婚姻に関してはきっと汁琮にはもう考えがあるだろう。

 

「奴らに嵩県は渡さない。それに郢国公主を娶りもしないぞ。俺の結婚だ。俺の好きにする。」

姜恒は笑い出した。『結婚は自分の好きにする』なんて話を兄の口から始めて聞いた。

いったいどういうつもりなのだろう。「もしかして姫霜が好きなの?」考えてみたが、

他には思い当たらない。「まさか。姫霜に何の関係がある?」

姜恒は卓の前に座り、疑惑の目を耿曙に向けた。耿曙は最近少しおかしい。今日の会議の内容よりもそっちの方がずっと気になった。

「兄さん、あなたに郢国公主を娶らせるつもりはないよ。ただ興味があるから教えて。

あなたはどういう人と結婚して生涯を共にしたいと思っているの?」

二人がこうしたことについてきちんと話すのはこれが初めてだった。

「わからない。いや、わかっている。俺は結婚なんてしたくない。今まで通り、お前を守って一生を終えたい。それで十分だ。恒児、お前は?」

「でもそれじゃあ耿家は……跡継ぎがいなくなるよ。それは考えてみた?」

「お前がいるじゃないか。お前に子供ができたら一人俺にくれ。お前に替わって俺が育てて……違う。俺たちが一緒に暮らしていたら誰が養っても違いがあるか?」

姜恒は言葉を失った。本当に結婚はしないつもりなんだな。

「もし私も結婚したくないと言ったら?」

「そりゃあ、その方がいいさ。お前が毎晩別の誰かの横で寝ていると考えたら、俺は…

仕方ないことだとはわかっていても、やっぱり少し……少し寂しくなる。だがそれは俺の問題だ。お前は気にしなくていい。」

姜恒:「……。」

 

耿曙は姜恒の前を行ったり来たりしていた。姜恒は自分に対してだけ、兄の独占欲がとても強いのはよくわかっていた。だが今の話を聞いて心を動かされた。こんなに月日が流れても、耿曙の心の奥底は昔と同じ頑固で一本気のまま少しも変わっていなかったのだ。

「それじゃあ、耿家はもう……」それはきっと良くないことだと姜恒にはわかっていた。聖賢書を読んで影響を受けて来た彼は耿曙とは考え方が違っている。

「別にいいだろう?天下の民は皆、お前の子供だ。お前が自分でそう言ったんだ。」

耿曙に諭されてしまった。彼が自分より物事の真理を掴んでいたとは考えてもみなかった。

 

「あなたの言うとおりだね。もう強要しないよ。」

耿曙は心の中でほっとした。「その方がいい。」

「それじゃあ、もう太子瀧に頼むしか……うん?いや、もっといいことを思いついた。」そう言った姜恒の顔はいたずらっぽく笑っていた。

耿曙:「?」

「何でもない。」姜恒はこの話題を切り上げることにした。それよりわからないことがある。郢国王はどうしてたくさんの中から、自分を人質とすることにこだわっているのだろう。そうなっても問題はない。変法はほぼ完成した。後は少しずつ進めていくだけだ。それに、雍国はいつまでも休んでいないだろう。長くて三年、早ければ一年で復興できるはずだ。

だが、耿曙の話は終わっていなかった。今までずっと避けていた姜恒の双眸をついに、しっかり見つめて言った。

「恒児、俺の心の中にはお前ひとりだけだ。お前の心の中にも俺一人だけ。お前が行くところには俺も行く。このところ、色々と考えていた。俺たちの間に他人の入る余地はない。勿論これは、あに……俺の考えだ。お前がどう考えているかは……。」

話を聞いた姜恒の顔が少し熱くなった。耿曙がこういうことを言ったの初めてではないのに。「そうだそうだ。あなたが正しい。あなたはいつも正しい。」姜恒は笑った。

耿曙:「……。」

 

対策を思いついた姜恒は話題を変えた。「もし私が人質になったら、あなたも郢国に一緒に行く。私たちは今まで通り一緒だよ。一緒に行ってくれる?」

耿曙はまだ何か言いたそうだったが、姜恒にそう聞かれて驚いたようだ。

「ああ。」その手は思いつかなかった。だが、どういう立場でついて行かれるだろうか?今の所、雍国軍は解散中で、兵は畑仕事や各部族の平定に言っており、しばらくは自分の出番もないだろう。姜恒は考えを巡らせながら、念を押すように耿曙を見た。

「行ってくれるんだね。」

「ああ。喜んで行く。」

「じゃあ明日あなたの父王に話しに行くね。」さあ、いたずらの準備をしないと。

汁琮は私を嵌めたつもりだ。それが和議のためだと言われたら私は人質になるのを断れない。和議は私が提案したことだからだ。天下統一を推し進めるために、私は行って問題を解決しなければ。だけど汁琮は私も彼を嵌めようとしていることに気づいていない。これは仕返しだ。

 

翌朝、姜恒は庭を出て歩きながらまだこのことを考えていた。

「何でだろうな。」姜恒は独り言を言った。

「あなたが分かっていないことは最近多くないですか?」界圭は姜恒の後ろにつきながら言った。「小太史にもわからないことはあるのですね。」

姜恒は足を止めて界圭に目をやった。

「行くんですか?」界圭は昨夜の二人の会話を聞いていた。今日汁琮に会いに行くということは心を決めたということだ。

「あなたは一緒に行かれるの?」

太后は私をあなたにつけたのですから、あなたが行くところには当然私も行きますよ。」

「そういうわけにはいかないでしょう。戦争は終わったといっても太子や雍王を殺しに来る人がいないわけじゃない。あなたは残った方がいいと私は思う。」

 

「やっぱり私が嫌いなんですね。いつまでたっても許してもらえない。林胡人の村でのできごとでずっと私を恨んでいるんだ。まあ兄上がついて行くなら私など無用でしょうけどね。」

「そういうことじゃないんだよ。確かにあなたは来なくて大丈夫だけど。」

昨夜界圭がしばらくいなくなったのには気づいていた。きっと姜太后に報告に行ったのだろう。ちょっと界圭の考えを聞いてみよう。

「何か私に忠告はない?」

「誰であれ、王都救援の大功績をあげ、東宮全員を従わせられるような人には不安を感じるものです。私が汁琮ならとっとと追い出してもう二度と戻って来てほしくないですね。」

「そういうことだったのか。そういう方向に考えたことはなかった。よくわかったよ。」

「だったらどうします?」界圭はえらそうな態度で姜恒を見た。

「だったら敵のことは知っておかないとね。」

彼は御書房に向かって行った。門の前は警備が厳しく、いつもとは少し様子が違っていた。

 

 

ーーー

第118章 婚姻計:

 

書房の中では、汁琮と衛卓が黙ったまま向かい合っていた。

「この流れでいけば、後は江都に着いたらさっさと命を奪って郢王に押し付けてやるのはたやすいです。陛下は太后に探りを入れて下さい。界圭を残すよう言って、あの方の出方を見るのです。」

汁琮は指で御卓を軽く叩いた。「他にどこかで彼が必要な状況があると思うか?」

「彼が死ねば、東宮は彼のために変法を成功させようと力を尽くすでしょう。変法の遂行には支障をきたさず、太子殿下も成長されるはずです。」

「だが汁淼が行かせないと言い張ったらやっかいだな。」

衛卓の懸念もそこだった。耿曙は姜恒といつも一緒にいて二人を離すのは容易ではない。だが、国外に出してから排除してしまえば、彼とて何ともできないだろう。

 

「郢国王があの提案をしてきた時は意外だった。いったいなぜ姜恒を欲しがるのだろう?」衛卓はさあ、という仕草をした。汁琮はよくわからないからこそ色々なことを疑ってしまう。

まさか郢国は姜恒を太子として担ぎ上げようとしているのか?だが遠く離れた郢国の人間が十八年前に落雁で起きた出来事を知っているはずがない。それにどうであれ、大して重要なことではない。もう既に手配は済んだ。五国会議を招集した後で、衛卓に姜恒殺害の命令を出させる。そうすれば、郢と鄭はお互いを疑うだろう。

 

「姜太史が謁見をご希望です。」扉の外から侍衛が声をかけた。

姜恒が御書房に入ると衛卓が頭を下げた。衛卓は間もなく死ぬ運命の人物を推し量るように眺めた。

「決めたのか。」汁琮が聞いた。

「変法もまもなく完成します。実際の運営は一つ一つ進めていくだけです。焦って台無しにしないように慎重に進めて行かなくては。」それを聞いて汁琮は姜恒が人質になることを決めたのだとわかった。人質は本来王子の役目だが、太子には責任がある。王室の親族の一人が国家に替わって人質になるのは、ないことではない。

「すぐに君を戻してもらうようにするから、心配することはない。江都に着いたら君にも任務がある。郢王に協力して梁国攻撃を推し進めてもらうことになるかもしれない。」

「わかりました。」姜恒は頷いた。郢国と梁、鄭、代の三国は国境を接している。雍と同じく、領土は広大だ。汁琮と郢国王熊耒(シュウレイ)の取り決めでは、会議が終わった後で出兵し、梁国を分割するつもりなのだろう。

 

「ですが嵩県だけは絶対に渡してはいけません。」姜恒が言った。

「嵩県は皆が欲しがる地だ。君が守りたいと思うならどうやって郢王を説得する?」

「私と一緒に汁淼王子を嵩県に送り、兵を招集して守りを固めるのです。嵩県の水路を通れば三日で江都に着きますから。」

汁琮はしばらく黙って考えた。耿曙が彼の付き添いなしで絶対に姜恒を人質に出さないのはわかっていた。今の所、軍務はない。だが耿曙がどこまでなら譲るかはわからない。落雁での弟べったりを見るに、嵩県ではまだ遠すぎると言うのではないか?きっと言うだろう。

だが、一旦梁地の攻撃が始まれば、嵩県に戻って兵を率いることになる。彼さえいなくなれば、姜恒を殺害するのもたやすいだろう。

「元々彼は武陵候だからな。君は郢王を説得して嵩県を諦めさせることができるのか?」

「可能だと思います。取引するのです。」

姜恒の計画ではまず耿曙に江都入りさせ、郢王に状況説明をさせる。嵩県は郢国兵の駐屯を許すが、その管理は従来通り耿曙が行い、地方官もそのままにしておく。宋鄒は自分たち二人の命令しかきかない。耿曙が江都にいれば、郢王は彼を通して嵩県に命令を出せる。

小さな飛び地とは言え色々と規則にうるさい場所だ。双方の面子をたててあからさまな分割は避けた方がいい。何と言っても名目上、嵩県は未だに天子のものなのだから。

「彼が江都に行くことになったら、郢国の公主の婿になる件はどうなる?」

「それは無理ですね。兄は郢国公主を娶るつもりはないとはっきり言っております。私にもどうしようもないのです。」

汁琮は冷たく言った。「君の兄が成婚を望まないにしろ、なぜ自分で言わずに君に来させるのだ?」

「ここにおります。」耿曙が扉の外で声を出した。

汁琮はまずいと思った。耿曙はいつからそこにいたのか、全て聞いていたのか?言葉の中に姜恒を思いやらず、とげとげしいところがあっただろうか。いつも耿曙の前では気を付けていたのだが。姜恒の目がきらりとした。自分だって耿曙がいつ来たかわからなかったが、汁琮の慌てぶりはおもしろい。

 

「来たなら入って来ればよかろう。こそこそと外で何をしていたのだ?」

耿曙が戸を開けて入ってきた。汁琮には、ここからが姜恒の本当の条件だとわかっていた。

「汁瀧には姻戚は結ばせられんぞ。遅かれ早かれ郢国とも戦うことになるのだ。汁瀧が国君となった時にそこに郢女がいれば天下統一に影響する。」

姜恒は頷いた。「ええ、太子ではだめですね。」姜恒と耿曙が視線を交わした。

「それなら自分が名乗りを上げようと言うのか?王子として封じてやればできないことはないが。」汁琮の話には嗜虐的な響きがあった。姜恒との対決もこれが最後だ。死ぬ前に褒賞を与えてやってもいい。人に良いことをするのは楽しいものだ。

「いいえ。私も娶るつもりはありません。」そう言うと、姜恒はずるそうに眼を輝かせた。「そういえば、王陛下、ずっとお一人で過ごされておられますが、再婚をお考えになったことはありませんか?」

汁琮:「………………………………!!」

策士策に溺れるとはこのことだ。姻戚の件は確かに熊耒の提案ではあるが、周游の暗示によるものだった。日ごと手に負えなくなってくる義子を何とかするためになるべく早く結婚させなければと汁琮は考えたのだ。それなのに姜恒はさらりと一言口にしただけで、厄介ごとを全て汁琮に送り返してきた。誰もが自分を犠牲にしなければと言うなら、当然あなたも例外ではないですよね?雍王は天下のお手本とならねば。もう太子がいるのだし、郢国から后を迎えることに問題はないはず。

この日、汁琮は前もって息子を呼んで、自分が候補になれば断るようにと言ってあった。太子瀧は終始「私はかまいませんよ。父王。」と言っていたのだが。

 

                    (ここから場面が変わるようです)

その太子瀧の意見はこうだ。「父王はこんなに長い間誰も近くにおかずに、すごく寂しかったと思います。王妃を迎えられるならこんなにおめでたいことはないです。」

汁琮:「……。」

太后も賛成した。「そなたは近くに世話をやいてくれる人を置くべきです。母もしばらくは見ていられますが、一生いるわけではないのですよ。」

汁綾も「兄さん、確かに考慮すべきだと思うわ。」と言った。

姜恒は手を上げて、『お聞きになりましたか?』と示した。

汁琮自身はばかばかしいと思ったが、こんな風に王室をあげて決心を迫られれば、くやしいが、情の上でも理の上でも反駁の余地がなかった。

「兄さんはこの何年かでますます気性が荒くなったわ。義姉に宥めてもらうのはいいことだと思うわよ。」

「お前の義姉は風戎の公主だ。いったいいつ別の義姉ができたんだ?」

「誰も気にしませんよ。」太子瀧は本来半分風戎人の後継だ。それもあって風戎と雍とはうまくやってきている。風戎人は汁琮などどうでもいいが、彼らから見ると汁瀧は風戎の外孫だ。彼が国君を継ぐなら別にいい。汁琮が誰を娶ろうと、後継者の地位が奪われなければ、他の事には関心はなかった。

 

「人は前を向いて行かなきゃ、そうでしょう?」汁綾は熱心に言った。この件に関して、彼女と姜太后、太子瀧の意見は一致していた。

こうして汁琮の人生における一大事が決定した。

朝廷の臣たちからの一致した支持も得た。これで郢国とは強固な同盟関係を気づける。

関を出て戦える日が近づいた。

汁琮:「……。」         

 

太后が姜恒に言った。「そなたの姓は姜ですが、私たち汁家の一員と変わりありません。このところ考えていたのですが、そなたに耿家の祖先を供養しに行かせたいのです。そのために、父の姓である耿に改名したらどうかと。二人の孫たちにはどちらも行かせられませんが、そなたに頼みたいのです。」

この話は全て姜恒のために言っている。姜恒には太后の言いたいことがよくわかった。人質は本来王族がなるもの。汁家は彼に借りができたのだ。

「このままでいいと思っておりますが、改姓のことはいつかまた話しても遅くはないでしょう。」姜恒は笑った。

汁琮は思う所があり、姜太后に目をやった。母は竹を割ったような性格の越人だ。言いたいことは何でも言う。だからこそ母があのことを知っているとは思えない。こんな話をするとは、やはり母は真相を知らないのだろう。

太后はそっとため息をついた。「江都に行ったら体に気を付けるのですよ。」

「はい。」実の所姜恒はわくわくしていた。未だに少年の心が残っている。これが試練だとはわかっていても、やはりこの機に乗じて遊びに行くようなうきうきする気持ちがあった。

汁綾は母に言った。「汁淼が付き添うのだから心配はないですよ。二人は助け合うのに慣れているのですもの。汁淼、遊んでばかりはだめよ。あんたには他にもやることがあるのだからね。」

「わかりました。」耿曙は答えた。彼にはもう一つの任務があった。嵩県で兵を集め、来るべき大雍遠征のために五万人の軍隊を編成することだ。それだけの兵をどこから集めるのかが問題なのだが。

太子瀧はがっかりしていた。姜恒はここに来てから大変な努力をして東宮を導き、変法にいったっては渾身の思いで作り上げたのに、なぜ行ってしまわないとならないのか?

雍国が進むべき道の過程で必要なことなのはよくわかっている。だがその裏で起きている何かに対して、自分は阻止する力を持たない。父は最初から姜恒のことが好きではなく、今までに彼の事を他人の前で褒めたことがなかった。東宮に人質の件を知らせた時、父の表情には何とも言いようのない興奮が見て取れた。例え尊敬と言う蓋で覆っていたとしても、太子瀧にはそれが感じられた。

 

「必要な物は何でも持って行けるように指示しておくから、足りない物があったら風羽に手紙を送らせて。」太子瀧にはそのくらいのことしかできない。姜恒は自分の替わりに人質になるのだとはよくわかっているのに。

「足りない物なんてないでしょう。春が来たら、雍、郢間に商路ができますから、そうなれば何でも手に入ります。殿下はご心配なく。」

太后もゆっくりとした口調で言う。「身の回りの世話をする者を何人かつけようとしたのに、そなたはそれもいらないという。」「母さん、嫁に行くわけじゃないのよ。」汁綾が言う。     (やっぱ耿曙には嫁をとらせる、姜恒は嫁に行くなんだ。)

皆が笑った。姜太后は最初の頃の冷淡な態度と比べ、今ではずいぶん優しくなった。「心配と言えば江都で王女に見初められるかもしれないと、それまで心配になりますよ。」

「私がよく気を付けておきます。王祖母はご安心下さい。」耿曙が言った。

「お前自身が結婚する年頃だろう。」汁琮はこの件がまだ心にひっかかっている。婚姻は父母が決めるものだ。耿曙は今まで聞く耳を持たなかった。次は姜太后に決めてもらおう。

この日、皆の和気あいあいとしたやり取りに姜恒はずいぶん久しぶりに『家』という感覚を覚えた。母を思い出さずにはいられず、表情が少し曇った。母もここにいたらどんなにかよかっただろう。それを見た姜太后は姜恒が疲れたのだろうと思い、もう下がらせて早く休ませるようにと言いつけた。

汁琮は母に相談した。「結婚の話は耿淵の代わりに進めなければ。二人とももう子供ではありません。汁淼は春が来れば二十一、姜恒も春で十九になります。」

近頃心ここにあらずな姜太后は話を聞いて淡々と答えた。

「私が二人のことは考えますから、王上は心配無用です。古人の言葉にもありましょう。『蛮夷未だ滅せず、何を以て家を成すや。幾年晩くも、大雅に傷無し。』」

 

汁琮は母がしかるべき相手を見繕っていると知ってほっとした。とても重要な一年が来ようとしている。春が来れば雍国は五国会議を招集し、中原を統べるための棋局に正式に参入するのだ。実の息子と耿曙の姻戚は有効な棋子として役に立つだろう。

姜恒を殺す前に結婚させるのもいいかもしれない。姻戚はとても有効だ。あと一、二年南方で生かしておいて最後までその価値を搾り取る。心の奥底には長兄への贖罪の気持ちもある。―――あなたを殺し、あなたの息子も殺したが、償いとして血筋は残してあげました。とても合理的ではないか?

 

 

ーーー

第119章 紅い組紐

 

数日後、冬至の日が来た。雍地では一番華やかな祝いの日、雍国の大晦日でもある。

全城は銀装に包まれ、戦争の傷跡から辛うじて復興し始めたばかりだ。民は皆、親しい人の死を悲しんでいたが、何とか笑顔を張り付け、一年で一番日中の短い日を祝い始めた。

姜恒は間もなく始まる人質生活については特に心配していなかったが、変法のことはとても気になっていた。審議の速度をあげさせ、冬至の翌日には全ての業務を終えさせなければと必死で取り組んだ結果、年内最後の夜に何とか全ての関係法案1126巻を完成させた。

「父王がこれを見たら、死ぬほどお前を恨むだろうな。」耿曙が言った。

「王が見ることはないよ。彼に見せるために作った物じゃないから。」姜恒が言った。

太子瀧は机に並べられた変法宗巻を見ると、東宮の者たちを呼び寄せ、巻の前に勢ぞろいさせた。「法令の命は人より長くなるはず。皆でこれに拝礼しませんか?」姜恒が提案した。曾嶸と集まった皆は笑ったが、太子瀧は東宮の諸臣の前で率先して跪き、1126巻の文書に三拝した。

姜恒は手を上げて曾嶸と拳を合わせた。何か月もの間、この東宮首席との共同作業の時間が一番長かった。論争することも多かったが、ここにいる一人一人の未来に寄せる信念と決意を感じていた。なにより素晴らしいのは東宮の一人一人がとても若く、他の四か国と比べても、最も気概を感じられるということだ。

「後のことは皆さんにお任せしますね。」実質的な法令の監督もきっと楽ではないだろう。「ご安心下さい。南方ではどうぞご自愛ください。」曾嶸が言い、皆が姜恒に頭を下げた。姜恒は皆を、そして文書を見て、肩の荷を下ろしたような気持になった。

 

耿曙が軍務の引継ぎを終え、同じくほっとしながら東宮にやって来た。そして姜恒に向かって眉を上げた。『ここでみんなして何をしているんだ?』という意味だ。

「完成したんだよ!さあ遊びに行こう!」姜恒は笑顔で言った。

今日は雍都を遊び倒すぞ!姜恒は耿曙の背中に飛び乗った。得難い機会とばかりに耿曙は彼を抱き上げ走りだした。

「兄さん!」太子瀧が急いで追いかけて来た。「私も一緒に行かせてよ!」

耿曙は振り返りもせずに「お前は今日は忙しいだろ。遊びに行くのは無理だ!」と言った。

冬至の日は夜明けから王族は足を休める間もなく忙しい。汁家はまず宗廟を参拝する。それから太子は群臣を招いた宴に顔を出す。士族の家主を接待し、三族の貴族子弟の謁見を受け、ほんの少し東宮に戻ったかと思うと、今度は民に顔見世しに出かける。

汁琮は民の心を安心させる目的で、王甲冑に身を包んで姿を見せるが、その後のことは一切太子任せだ。結果、太子瀧は朝から晩まで休む間もなく忙しい。それも朝野に対し暗に知らしめるためだ。間もなく、一年以内には、国家権力の大部分が正式に東宮に移されると。変法のせいで時間も限られるようになった。

その後汁琮は何をするのか?権力が移ることには微塵も心配していない。その点では自分でもよくわかっているように、国家を収めることは元々好きではない。好きなのは戦争だ。戦場こそが慣れ親しんだ場所だ。親はお外へ戦いに、息子はお家で国を治める。これこそ汁琮理想の雍国だ。

 

落雁四街は今日はどこも市を開いていた。戦時中の夜間禁止令は取り消され、いつでも都城への出入りを許されるようになった外族が今夜の釜倉灯会を見にやってきていた。今日は貴重にも天気は晴れで、夕暮れ時ともなると町はどこでも冬至の熱い汁ものを食べ、子の刻には全市一斉に爆竹を鳴らして、新しい一年が到来し、また日が長くなり始めることを祝う。

民は晴れ着を着ていた。城市のあちこちで外族の人たちが雪合戦をしたり、相撲を取ったりしていた。今年落雁に来た人はいつになく多い。王への衷心に感謝を示すために汁琮が人数制限をもうけなかったのだ。新年の祝いは雍国百年来最も盛大な祭りとなっていた。

姜恒はミンクの毛皮に身を包み、耿曙は狼の毛皮に風戎人の環帽をかぶっていた。漆黒の双眸は輝きを放っている。二人は普通の民に扮して城内の盛大な狂歓の渦に紛れ込んでいた。

「盛り上がってるね。本当に活気がある。あの頃の洛陽より繁栄しているね。」姜恒が言った。「いつもはこんなに熱気がなかったのに、今年はなぜか、突然皆おかしくなったようだ。」耿曙が言った。通りを歩きながら歌を歌っている林胡人をよく見かけた。林胡人は天性の歌好きだ。塞北ではもうしばらくこんな歌声を聞いていなかった。

「きっと変法の噂が流れているからだ。」姜恒は言った。

国が生まれ変わろうとしていることを町は知っていた。東宮はたくさんの人の手を借りて変法の詳細を詰めた。噂が広がらないわけがない。三族も皆気づいていた。自分たちのつらかった日々は太子瀧が執政を始めればついに終わるのだと。

 

「何か食べるか?」耿曙は市の一角に腰を下ろした。「以前兵役で忙しかった時、よくこの店に来て縛托(フートゥオ)を食べたんだ。」縛托は熱い麺椀で、冬に雍人が常食にする食べ物だ。姜恒は耿曙の隣に座ると「今でも兵役中なのに。その言い方だと年寄りみたい。」耿曙は笑った。もう何か月も耿曙が笑うのを見ていなかった。

二人の近くには子供がいっぱいいた。姜恒は東宮から持て来た五色花糖を彼らに分け与えた。花糖は宝石のごとく、あっという間に騒動を引き起こした。

「もうないよ!」姜恒はすぐに囲まれてしまった。

「俺は持ってるぞ。」耿曙は自分は食べずに姜恒にあげようととっておいたのを取り出して、くばった。

「殿下方、ごゆっくりどうぞ。」店主が縛托を持って来ると子供たちはパッと去って行った。

何か隠そうとしているように耿曙が気まずそうな顔をしたが、姜恒は今の言葉で気づいていた。耿曙はきっと一度太子瀧と一緒に来たことがあるのだ。自分が耿曙と一緒にいるのを見て、人違いする人は多い。はじめの頃、太子が耿曙から離れようとしない様子に、耿曙は姜恒が焼きもちを焼くのではと心配していたっけ。

「舌を火傷しないようにな。ゆっくり食べろよ。」耿曙は勺を動かす前に姜恒を見て言った。姜恒はちょうど縛托を一すくいして食べてみようとしていたが、耿曙が自分を見つめているので、言ったみた。「あなたの弟は火傷したの?」

耿曙:「……。」姜恒は大笑いした。いつも耿曙が自分のことで細々と世話を焼く様子を見るのが好きだった。だが、驚いたことに、今日の耿曙は怒って眉をひそめた。

「お前……もういい!」「怒ったの?冗談のつもりだったんだよ」耿曙は目を怒らせたまま横を向き、言いたいことを飲み込んだようだった。

姜恒:「???」耿曙は首をふって、「何でもない。食べろ。」と言った。

今日の姜恒はとても気分がよく、うきうきしていて耿曙の心の小さな憂いに気づかなかった。二人はしばらく静かに過ごした。姜恒は再び人々のにぎわう様子に目を向けた。風戎人は商品と一緒に珍しいおもちゃを持って来ていて、長く短く鳴り響く鳥笛がお客の気を引き付けていた。「初めてここに来た日とは大違いだ。」姜恒は耿曙に言った。耿曙は姜恒の横顔をずっと見ていたが、姜恒が振り向くと、不自然に目をそらした。「ねえどうしたの?」

自分が何げなく言った一言にまだ怒っているのだろうか?

耿曙は真剣な表情で言った。「恒児、お前はここでうまくやっていると俺は思う。」

姜恒は驚いた表情をしたが、耿曙の言う意味がわかり、笑顔がこみ上げた。雍都での彼は水を得た魚のようで、抱いた抱負を実行し、この国を変えてきた。

「時々俺はいらないんじゃないかとさえ思っている。」耿曙は顔を背けないまま独り言のように言った。姜恒は表情を変えた。「そんなバカな。いったいどうしちゃったの、兄さん?」

耿曙は自分が言うべきでないことを言ってしまったことに気づき、急いで話を変えた。

「なんでもない。ちょっと愚痴っただけだ。気にするな。ちょっと言ったら気は済んだ。」

姜恒は気づいた。そうだった、最近耿曙と過ごすことがほとんどなかった。耿曙はいつも自分を気遣ってくれていたが、自分の方は、あまりにも忙しく、あまりにもたくさんの人とやり取りせねばならなくて、耿曙と過ごす時間は本当に少なかった。

「兄さん、ごめんね、兄さん。」姜恒は耿曙の手を引きたかったが、耿曙は初めて無意識に避けようとした。もう今までと同じようにはできなかった。

「いやいや、悪いのは俺だ。悪いのは俺。……恒児、お前は何も悪くない。」彼はもう姜恒の手を握らずにはいられなかった。その顔をじっと見つめているうち、ふと唇に口づけしたいと思ったが、そうしたいと思う動機や意味が以前とは全く違っているようだった。

以前は姜恒は自分の一部のようで、左手で右手を覆うかのごとく、手のひらに唇をあてるがごとく、二人の間ですることについて、耿曙は何の疑問も持たなかった。それなのにこの時、耿曙の心臓はどきどきと高鳴った。

姜恒は不思議そうに、耿曙の目の前で手を振ってみた。

「『この段階では忙しいものだ』って言ったんだよ。終わってよかった。あなたも来たばかりの頃はそうだったでしょう?」

「ああ、」耿曙は我にかえった。「覚えていたのか。だが俺の場合はひとりきりだったから。」

耿曙は雍国に来たばかりの頃のことを姜恒に話したことがあったのだ。あの頃の日々はまるで王子になるための試験のように、あらゆる面において自分を証明する必要があった。こうした試験期間は誰にとっても全てが挑戦だ。ほぼ一年もの間、軍で服務する中で、ようやく彼は信頼を得たのだ。あの一年、彼は何も考えないように努力し、全身を酷使した。命令に従うことのみを受け入れる空っぽの器になろうとしていたのだ。

 

姜恒は林胡人が歌う様子を見ながら、耿曙の胸に身をもたれ彼の手を引っ張って自分を抱かせた。「南方に行ったらきっと楽しいよ。」姜恒は手を伸ばして耿曙の顔を撫でた。耿曙は真っ赤になった。以前とは違い、全身が硬直した。

店は半露天のつくりで、卓のそばに火鉢が置いてあった。人々はそぞろ歩き、遊び疲れてここで足を休める人も少なくない。向こうには2人の氐人青年が座っていた。人目も気にせず、笑いながら囁き合ったり、耳を揉み合う様子は極めて意味深長だ。耿曙はこんな風に姜恒を抱いていることが突然少し恥ずかしくなった。こんな気持ちは初めてだ。頭がぼーっとしたまま、片手で姜恒の腰の上にある傷跡のところを服の上から撫でた。姜恒は食べ終えて耿曙を見た。耿曙も急いで食べ終えると、「町歩きに行こう。」と言った。

 

「そんなもの買ってどうするんだ?」市で姜恒は紅縄を二本手に取り見比べていた。

「あなたに新しい首紐をあげたいんだよ。」姜恒は手を耿曙の首元に持っていき、冷たい指で玉玦を取り出した。玉玦についた首紐はもう十一年も使っていてすっかり色あせていた。耿曙がそれをつけて戦争に行ったり、訓練をしたりするので、汗まみれになるが、そのたびに彼は玉玦と紅縄をきれいに洗っていた。

「必要ない。このままでいい。」

「つけてみてよ。もう色あせているでしょう。」

「女児のやることみたいだ。」

「だったらどうなの?あなたの叔母さんは兵を率いて戦争に行くじゃない。私が家で紅縄を編んだっていいでしょう。」

確かに、と思って耿曙はくすりとした。だが、細かい手仕事をする女装姿の姜恒が頭に浮かび、心の中に沸き上がってきたおかしな気持ちを逃がすために彼をぽんぽんとたたいたり、頭をなでたりしたくなった。姜恒は元々少年らしい清々しさを欠いていないのに耿曙はなぜかついそっち方面に考えが及んでしまいがちだ。

「氐人はね、紅縄を編むのが好きなんだよ。好きな人と結びつけてくれると考えているんだ。あなたにも一本結んであげるよ。」

「子供のころからお前に結びつけられている。逃げられると思うか?」

 

東市を出ようとすると、風戎人の一群が雪合戦をしているところに行き当たった。姜恒はおもしろそうに見ていたが、耿曙は早く離れさせようとしていた。だが、故意か否か、姜恒に雪玉が当たってしまった。

「おい!」耿曙はすぐに怒りだして、姜恒を後ろに隠して反撃を始めた。この風戎人たちは玉壁関からの帰国兵で、汁綾について戻って来たのだった。彼が誰かわかると皆手をとめた。

男装姿の汁綾は宮中にいるのが好きではなく、飽き飽きして遊びに出て来たところだった。耿曙と姜恒を一目見るや叫んだ。「王子に当てれば賞金を出す。彼らを逃がすな!」

耿曙はこの叔母には頭があがらない。逃げられないと分かると雪玉を流星の如く投げ、汁綾の頭に当てた。

白雪が飛び交った。姜恒は動き回って傷口が開くのを恐れ、耿曙の後ろで声援を送るだけにした。耿曙は最初姜恒を楽しませようと投げ始めたが、もう出て行きたくなったので、大声で宣言した。「もうやらん!恒児の怪我がまだ治って……。」

「姜大人を狙うな!」汁綾は高跳びして雍国王碑の端まで登り、指揮をとった。「王子に照準を合わせよ!」

雪玉が暴風の如く襲って来た。耿曙は姜恒を先に逃げさせようとしたが姜恒は行こうとせず、耿曙の背後に隠れていた。たちまち戦局は耿曙一人対千軍万馬となったが、彼は恐れることなく、姜恒を後ろに隠し、数多の敵の方へと進んで行く勢いだった。

耿曙は後ろを振り返って言った。「怖がるな!俺がいるからな!」

「何でこんなに本気でやるの?」姜恒は苦笑した。二人は耐え難い程の雪玉攻撃を受け、耿曙に至っては上から下まで雪まみれだが、終始姜恒を守り続け、反撃さえする。

暫くすると姜恒は鼻がぐずぐずしてきた。

 

ーーー

第120章 雪の狂宴:

 

汁綾は大笑いした。「負けを認めよ!負けを認めれば二人を逃がしてやる!」

耿曙は震えながら咆哮を上げた。「負けって何だ?!」

「公主!酒はほどほどに!」数十歩離れた姜恒のところに酔っぱらった汁綾の笑い声が聞こえた。そこに別の誰かの影があらわれ、王碑の上にいる汁綾に一つの雪玉が当たった。「二人を手伝いに来ましたよ。」界圭の声が聞こえた。

 

姜恒が振り向くと、銀面具を顔の左半分につけた界圭がいた。すぐにまた大量の雪玉が飛んできて三人は全身雪まみれとなった。雪の粉が飛び散り敵の姿さえ見えない。

「加勢に来たよ!」郎煌が林胡人の一群を連れて近づいてきた。

「敵は援軍を得た!」すぐに汁綾が大声をあげた。「兵を集めよ!朝洛文!朝洛文将軍はどこだ?お前の弟を呼んで来い!」

 

東市前広場はあっという間に広大な雪合戦会場と化した。雪合戦は落雁城では冬至の日の大型娯楽狂宴だ。どんどん人が集まり、わけもわからない内に戦いが始まった。そしてますます巻き添えが増えていった。もう声も出ない。

雪合戦が始まると、町の四方八方にいた人、店、遊商、外族、皆、手元のことを置いて、集まって来た。人が増えすぎて、姜恒と耿曙のことはもう誰も気にしなくなった。

林胡人の参戦によって、雍軍兵に変化が生じた。

水峻が叫び声をあげた。「来たよ、来たよ!俺たちも来た!どこを助ければいい?」

三族連合が散会してから、林胡人と氐人で落雁に留まった者は少なくなかった。郎煌が大声をあげた。「何でこんなに遅いんだ?こっちだ!南側に来い!」

耿曙は言った。「俺たちの所に来い!姜恒はここだ!」

「ここだよ~!」姜恒も叫んだ。

姜恒の声を聞いて氐人もやって来た。汁綾軍も新手の加勢を得た。孟和と親衛隊の面々は酒場で飲んだくれていたが、騒動を聞きつけるとすぐにやって来た。

「違うぞ!」汁綾が言った。「孟和!貴様はつく相手を間違えている!」

孟和は汁綾にかまわず、耿曙姜恒軍についた。山沢が言った。「王子、指揮をとって下さい!敵をこてんぱんにやっつけてやりましょう!」

耿曙が大声で言った。「孟和は前面にて防御せよ!界圭は兵を率いて王碑後方の敵を挟みこみ、敵を東北方面に誘導しろ。」

「そんなに本気にならないで!たかが雪合戦だよ!」姜恒が言った。

この年の冬至日、落雁では参戦者最多、規模最大の一大雪合戦が行われた。三族が来たことで、雍人対外族の意味合いが出てきて、誰もが面子のために死んでも退かぬ勢いだった。雍人の民もどんどん押し寄せ万を超える人々が巻き込まれ、屋根から雪を落としてやる人まで現れた。

 

王宮の高所に立っていた汁琮の目に、落雁城東南で雲霧のごとく沸き上がる白雪が見えた。

「何だあれは?」汁琮は急いで外に出た。「陛下にお答えします。」陸冀が答えた。「雪合戦のようです。」

「いつまでたっても浮かれ騒ぎが好きな連中め。早く人をやってやめさせろ。どれだけの人がいるんだ?踏みつぶされて死んだらどうすつもりだ?新年の祝いが葬式になるぞ!」

落雁での雪合戦は突然終わることもあるが、何の警告も受けないと、人が増え続けることもある。汁琮が見たところ、既に二万人規模に達しているようだ。「これ以上続ければ、押しつぶされるぞ!」  

 

姜恒だって思いもよらなかった。耿曙と城東から帰る途中で門の上から襲撃され、その汁綾の悪ふざけが発端でこんなにも大規模な合戦がおきてしまうとは。

「もうやめよう!人が多すぎるよ!」姜恒が言った。

「やらせておけばいい!」耿曙が答える。

屋根の上、校場、広場、干草置き場の上、どこもかしこも人だらけだ。今まで蓄積されてきた感情、三族と雍の争い、王都襲撃で受けた重圧、全てが、禁酒令が解禁された祝日に、空飛ぶ雪弾に形を変えて、解き放たれたかのようだった。

耿曙にはよくわかっていた。兵たちの日常は苦しくつらい。駐屯中に狼よろしく大声で叫ばずにいられない兵もいる。彼らには発散の機会が必要なのだ。

 

その時、王宮高所で鐘がなった。「ゴーン、ゴーン、ゴーン。」王宮は警告の合図である三回の鐘をならした。幸い汁琮の命令は絶対だ。汁綾は叫んだ。「あんたたちとはもう遊ばない!」

「敗将は我なり。いつかまた戦おう!」耿曙は姜恒をひっぱって一顧だにせず走り去った。本気で戦ったら汁綾に勝ち目があったかはわからない。

姜恒は頭痛がしてきたし、耿曙を見れば全身びしょぬれだ。早く場所を探して衣服を乾かさねば。「城壁に上がるぞ。」ここ数日の気鬱が雪合戦で解消された耿曙は姜恒を連れて城楼に上がると、角楼の中で火盆を燃やさせ、服を乾かし始めた。

姜恒は持っていたお金を出して、城の守衛兵に酒をおごるために渡した。振り返って耿曙を見ると、一糸まとわぬ姿で火盆の前に立ち衣服を火に当てていた。白皙の皮膚に駿馬のごとき均整の取れた体は美感に満ちている。

「このところ、あなたの力を発揮する場がなかったからね。」姜恒が言った。

耿曙は彼に背を向けたまま言った。「うん。発散できてよかった。」

姜恒は耿曙の裸の背中と腰を眺めずにいられなかった。さっきまで彼の後ろにいて目に映るものは耿曙の背中だけだったのだ。ふと、心に奇妙な衝動が生まれた。

耿曙:「!!!」

姜恒は手を伸ばして耿曙の腰に抱き着き、頭半分背の高い耿曙の背に顔を伏せた。

耿曙は目を見開いた。息が止まる。「こら、……ふざけるなよ。」

姜恒は笑い出した。「いい感じ。」

耿曙は姜恒の手の甲に自分の手を置いた。頭の中では姜恒のある姿が浮かび、気まずいことに、彼の……。

間違って触れることになっては大変とばかり、手を握ったまま振り返ることもできない。幸い姜恒はすぐに離れてくれた。耿曙は顔を赤らめ、乾いてきた衬裤を履いた。姜恒は武袍を持ち上げて着せてあげようとした。耿曙は彼の視線を避けて「俺は……自分で着る。」と言った。

 

姜恒は答えず、外袍を着せてやり、帽子を手渡そうとした。耿曙は首をふっていらないと示して手で持ち、姜恒を引っ張り上げて出て行こうとした。

「しばらくここに座っていようよ。」姜恒が言った。

町は雪合戦が終わって混乱していた。店々は片付けて営業を再開し始めたところだ。人気の少ないところでしばらく静かにしていたかった。

「うん、どこに行ったっていい。」二人は城壁の上に肩を並べて座り、城外に目を向けた。姜恒は耿曙の肩にもたれて外袍に身を寄せた。耿曙は少し緊張しながら手を伸ばして肩を抱いた。

「恒児。」突然耿曙が言った。

「うん?」姜恒は耿曙の目を見ようとした。

耿曙は目をそらし、南の方を望みながら考えを巡らせた。

「恒児。」

「うん?」姜恒は笑顔を浮かべ、耿曙が話し始めるのをじっと待っていた。彼の感じだと、今日の耿曙はとても口数が少ない。

「恒児。」耿曙は独り言のように言った。「お前は考えたことがないか?」

「何を?」

陽光が気持ちよくあたり、二人の体はぬくぬくしてきた。姜恒は浅い色の服を着て、耿曙は深い色の王子の武袍を着ている。二人は屋根の上で日向ぼっこをする黒猫と白猫のようだった。「もし俺たちが兄弟じゃなかったら、どうだったろうかって。」

「え?なんでそんなことを?」

「俺にもわからないけど、うん、…何となく言っただけだ。」

なんでかはもちろんわかっている。姜恒を見る勇気がない。だが姜恒はそんな風に考えたことがなかったので、何の躊躇もなく笑って言った。「このままでしょ。ほかにどうだっていうの?ねえ、何かあったの?あれこれ考えてどうしたの?誰かがあなたに秘密でも打ち明けた?」

隠そうとすればするほどしっぽが出て来る耿曙だった。「違う。ただ王祖母の話で思ったんだ。俺は…私生児だ。庶子でさえない。つまり実際には耿家の人間でもない。耿姓を名乗ってはいけないんだ。」

「好きな姓を名乗ればいいよ。誰も気にしない。あなたが耿姓を名乗ることを私が許す。」

「俺は耿姓がいいわけじゃない。俺は自分が聶海だと思いたい。俺が言いたいのは……俺はただ、……恒児……。」振り返って姜恒を見た瞬間ひらめいた。

「俺がもし父さんの子じゃなかったら?お前は疑わないが、ただもし、俺の父が万が一耿淵じゃなくて別の人だったら俺たちは兄弟じゃないってことになるだろう……恒児?」

姜恒:「?」姜恒はわけがわからなくなり、疑惑に満ちた目で耿曙を見た。

「それはとても大事なこと?」

「かもな。」耿曙は頷き、もうこの辺でやめようと思った。だが、この後、姜恒が言ったことは今までの心の霧を晴らすことになった。空一杯の雲が強風に吹き飛ばされて、隠れていた太陽が輝いたように。

 

「実はあなたと本当に血がつながっているか定かでないとは思っていた。」姜恒は笑顔で言った。「それでもあなたは私の兄さんで、私の聶海だ。」

耿曙:「……」

二人はこうしたことを真剣に話し合ったことはなかった。耿曙が潯東の家の門を叩いて以来、初めて姜恒は気持ちを打ち明けたのだ。

「私は父さんに会ったことがないし、あなたの母さんに会ったこともない。だからあなたが父さんに似ているかどうかわからないんだ。」耿曙は頷いた。頭のある部分が空白になったような気がした。「そうだ。お前は彼らに会ったことがなかった。」

「だけど、私にとってはあなたが兄でも、誰でもいいんだ。それは大事じゃない。あなたは……私にとって、あなたは……あなたは……。」

耿曙の喉が急にカラカラになり、彼は姜恒を抱きしめたい衝動にかられた。

「あなたは……」姜恒にも何と言っていいかわからなかった。彼は耿曙とは違う。耿曙のように、母の胸に抱かれて、「あなたの心には私だけ、私の心にもあなただけ。」という歌声を聞いて育ったわけではなかった。姜恒が昭夫人と抱き合ったのは一度だけ。別れの時だった。

感情を表現できない。耿曙に何と言えばいいか。自分の心の中でどんな位置を占めているのか。それなのにちょうどいい表現が見つからなかった。

「あなたは……私の……あなたは……。」すごく恥ずかしい。

「わかった。」耿曙が言った。姜恒は頷いて耿曙に笑顔を見せた。沈黙が彼を救ってくれた。

「お前もだ。お前も俺の命だ。」耿曙は姜恒に真剣に言った。

「あなたが誰だっていい。汁淼でも耿曙でも、聶海でも。私はあなたの心と共にいるのだから。あなたにはわかっていると思うけど。兄弟でなくてもいいんだ。そうじゃない?」

「いいって何がいいんだ?」耿曙は、『心と共にいる』と聞いてぱあっと花が開いたような気分になった。だが、後半の言葉に疑問を感じた。姜恒との絆は全てを超越していると思っていた。そしてそれはずっと血のつながりによるものだと考えていた。だがその絆は突然消滅してしまった。それが一番の問題で、ずっと心を悩ませていた。

 

「兄弟でなくても……」姜恒は考えたがやはり何と形容していいかわからない。「違っててもいいんだ。王と趙将軍のことを覚えている?二人の関係と同じだよ。違っても……」

耿曙:「……。」

姜恒が言いたかったのは、彼らに血縁関係はなくても趙竭は姫珣を守り生死を共にするような絆を持っていた、ということだ。だが耿曙の頭をよぎったのはかつて見てしまったあの光景だった。

あの頃は二人とも幼くて何もわからなかった。だが大人となった今なら大体わかる。あれは心を揺り動かし、分かちがたく離れがたい愛だった。父に対しての母の思いのように。姜昭が高い塀の中で7年もの間守り続けた思い出のように。

耿曙は無意識に喉をごくりと鳴らした。心の中で高い壁が音もたてずに崩れ落ちたような感じだった。

「恒児。」耿曙は再び姜恒を見た。刹那変わった眼差しは、離れがたい恋しさに満ちていた。まるで……

世界が焼き尽くされようとしている時、二人で火の海の中に立っている。この天地の間に、まもなく共に死のうとしている二人だけが一緒にいる。それが彼の望みだ。それがこの世でたった一つの目標だった。