非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 131-135

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第131章 朱雀宮:

 

それで思い出した。殺害予告のことで動揺し、太子安の話のことを忘れていた。

「太子安は何て言ってたの?」

「別に何も。くどくど同じことの繰り返しで、しまいには奴の顔を叩いてやりたくなった。」

姜恒は笑い出し、「人のこと言えるの?」そう言いながら手を伸ばして耿曙の太陽穴を優しく揉んでやった。耿曙は気持ちよさそうに少し動いた。

「ねえ、何て言ってたの?」姜恒はもう一度尋ねた。

「俺が嵩県の兵を動かすなら、俺に八万加勢するから郢国に替わって戦ってほしいんだと。」

「梁国と?」姜恒は考えてみた。「きっと鄭国とじゃないよね。雍との連合を組む前に、少し領土を増やしたいんだろうね。」

「さすがはお前だ。全部当てた。じゃあ、俺は何て言った?」

「条件は?」姜恒は再び尋ねた。

「無期限で俺たちを駐留させること。長陵君のことはいいらしい。郢王は彼が嫌いだったし、太子もきらいだったそうだ。彼が殺された時も、国内には誰も彼のために物を言う人はいなかったそうだ。郢国は俺の父……俺たちの父と『血の海の深い仇』はないようだ。」

姜恒はもう一つの問題を考えてみた。「刺客が長陵君の門客だったってことはない?」

「あるかもな。だが郢人の武芸なら大したことはないはずだ。」

そこで耿曙ははっと目を見開いた。「長陵君の門客か。お前は手がかりをつかんだかもしれないぞ。」姜恒は手をとめ、考えてみた。長陵君は耿淵の手にかけられ、門客たちは、彼の死後、各地に散った。江湖には彼の仇を打とうとする者がいるのかもしれない。耿曙は姜恒が手を止めたのに気づいた。

「うん、復讐か。」姜恒は下を向いて自分の膝を枕にしている耿曙を見た。

「凄腕ではないにしろ、剣は持っていた方がいいかもしれないな。小公子、あんたは俺にまだ金を払っていないが、まさか踏み倒す気じゃないだろうな?」

姜恒は笑い出し、頭を下げた。耿曙は目を見開いた。姜恒は彼の頬に口づけをした。

耿曙は顔を真っ赤にして片手をついて起き上がろうとしたが、姜恒は彼を引き戻し、そのまま寝かせようとした。耿曙は再びもがきながら体を起こし、顔をそむけた。姜恒に見られるのをおそれているかのようだ。「他にも報酬がいる?」憎らしいやつめ。耿曙はこみ上げる気持ちを押し殺し、威嚇するように言った。「必要な時だけ甘い顔をするな。」

 

江州城はあまりにも大きすぎる。姜恒は一日中車に乗っているようだと思った。どこに行くにも車に乗らなければならず、時間がかかる。郢人の習慣は雍人と異なる。雍人は馬に乗るのが好きだが、郢都は建物が多く、道も狭い。百年近く前の作りで、家はすべて1か所に密接し、どこに行っても人だらけで、馬では人にぶつかってしまう。

 

この町は人口が多い。江州中心の三つの環道内に40万人近くの人が住んでいる。それ以上住めなくなれば、外へ外へと広がるしかなかった。そのため、江州城の中で、1畝当たりの土地に収容されている人口の数は、天下で一番多く、落雁城の25倍近くになる。

車窓から外を眺めると、町全体が輝いていた。ただこの灯火の内、貧民窟がどれだけあって、夜通し歌い楽しむ豪富邸の華彩な光がどれだけあるのだろうか。

 

「兄さん、早く見て!」姜恒は驚いて耿曙に遠方を見るよう指し示した。

曲がりくねった水路が、辰丙坊の間に達している。数本の川が集まり、7つの橋がかかっている。その水面の中央には、7階建ての巨大な木造建築がそびえ立っていた。生きているかのような、飛んでいる朱雀の紅紋、16面の金の軒、1階ごとに瑠璃瓦が幾重にも重なり、灯火を映している。どの瓦縁の前にも明かりがついていた。

巨大な灯楼が中央にあり、四方を無数の空中檐廊が囲んでいる。大小様々な建物が連なり、不夜城を形成していた。灯火に照らされた夜の城だ。

耿曙もこんなものを見るのは初めてで、正に驚愕していた。

「ここが我が国が誇る南明坊です。」

既に太子安とは別れており、項余は馬に乗って、急がず遅れず馬車を先導していた。憂慮の表情を押し隠して笑顔を張り付けている。「南明坊は天下の劇芸、琴芸を集めた地です。90年前に着工し、30年かけて建設されました。朱雀宮を中心に別殿も続々と建てられおりまして、夜になると、3万6000個の灯火が灯されます。」

姜恒は尋ねた。「祭祀のための場所なのですか?」

「祭祀?」項余は驚いたようだ。「いいえ、劇場です。王家が観劇する場所です。ですが、王族はいつも来るわけではないので、普段は貴人の気晴らしに利用されています。」

耿曙:「……。」

こんな巨大で荘厳な奇観を作り上げる目的がただの気晴らしとは。こんなものは雍国が国を挙げたとしても、建てられないかもしれない。

項余は太子安や郢王とは違うが、もし彼らなら、きっと言うだろう。「ハハハ、君たち雍国にはないだろう?」耿曙も言わずにはいられなかった。「確かにこの世の奇跡だ。」

逆に項余の方が「全て民の血と汗によ……。」と言いかけて、すぐに言うべきでないと気づいた。そこで姜恒が話の後をとった。「雍地は昼が短く夜が長いのです。夜は寒いので楽しみたくても気乗りしません。南方とは違います。夜が終わればまた一日が始まりますから。」             (雪合戦があるじゃないか)

「そうですね。風土が人の暮らしを決めますから。着きました。入りましょう。」

項余はどうしても二人に観劇をしてほしかったようだ。ひょっとすると郢王の言いつけなのかもしれない。郢国の絢爛豪華な文化や強大な国力を北方の田舎者に見せつけて、尊敬の念を抱かせるために。そうでなければ年越しの日に誰が自分たちと外出したいものか。誰だって家で家族と一緒に過ごしたいだろう。

「ご苦労をおかけします。項将軍。私たちが来て以来、あなたは休む間もないでしょう。」

「姜太史、ご心配なく。」項余は太子安と違って、耿曙の正体が分かった途端に態度を変えて、一国の王子への礼儀に切り替えたりしない。以前と同様、姜恒を重要な客人と見なして、言葉遣いも親切なままだ。「あなたのおかげです。実は私も来たかったんです。」

 

朱雀宮は戯曲や闘技の会場だ。催しは毎晩変わる。七十二会場に分かれていて、四国に散在している越人がここに来て琴を鳴らして踊ったり、代人の古典講釈や鄭人の剣抜き競技など、様々な見世物が催されている。

項余は彼らにとって位の高い客のようだ。馬を降りるとすぐに人が集まってきた。朱雀宮は彼らが、郢王が招待した貴客であることもわかっていた。大執事が自ら迎えに出て、春風のような笑顔で「将軍、公子、こちらへどうぞ。」と言った。

耿曙は冷淡な表情で黙ったまま、周囲の人間にお構いなく、周辺の様子に注意を払っていた。ただ姜恒と話す時だけは、顔を向けて、真剣な表情で話を聞く。

「後ろ側は教坊です。教坊をご覧になりたいですか?」項余が尋ねた。姜恒は手を振って、「将軍に従わせていただきます。」と言った。

執事は道案内をしながら、耿曙に天気の話などしていた。姜恒は項余と少し後からついて行った。項余は少し考えてから、「姜大人はご結婚は?」と尋ねた。「まだです。」姜恒が答えた。項余は笑った。「結婚する前にたくさん遊んでおくことです。結婚してからでは機会がなくなりますからな。」姜恒はハハハと笑って「それは項将軍のお気持ちですか?」と尋ねた。

執事は彼らを小部屋に通した。四面を蝉の羽のような紗簾で区切り、遠くに舞台が見える。清楚な雰囲気だ。項余は「お二方はこちらでおくつろぎください。私は隣の房におります。

姜恒と耿曙は座った。階下にはたくさんの人がいる。みんな郢貴族のようだ。一卓に二人、あるいは三人で座り、夜劇が始まるのを待っていた。中央には南に向いた舞台があり、灯火が明々と灯り、劇の始まりに備えていた。

執事が十名の侍女を連れて来た。目を奪われるような美女たちが、何も言わずに夜食を並べ、下がる際には跪いて二人に拝礼し、「お二方、何でもご用命ください。」と言った。耿曙は言った。「わかった。下がれ。残る必要はない。」

侍女たちは皆下がり、姜恒と耿曙だけが残された。紗簾に隔てられた向こうでは項余が座って手酌で酒を飲んでいた。何だかすこし寂しげに見えた。

 

「少し食べるか?」耿曙が姜恒に尋ねた。姜恒はたくさんの灯火に照らされた部屋にいると、夢でも見ているような気分だった。

耿曙は毒がないか恐れるかのように先に一通りつついてみて、最後に姜恒に言った。

「この炙り肉はうまいぞ。」姜恒は耿曙の手から少し食べてみて、「郢国人は雍国人よりだいぶ情緒的だね。」と言った。少年の心はやはり遊び好きだ。贅沢な生活は良くないとはわかっているが、初めて見る物はやはり興味深かった。

「世の中にはいいところはまだいっぱいある。海を見に連れて行くと約束したのにまだはたしていないな。いつかきっと連れて行く。」耿曙が言った。

「あなただって見たことないでしょう。あなたが行ったところは私より少ないんだよ。」「全部行ったぞ。夢の中で行った。夢の中では俺たち二人だけだった。」

姜恒は笑った。仕切りの向こうから声が聞え、二人は同時に顔を向けてみた。侍衛が項余に箱に入った手紙を届け、耳元で小さく何か報告していた。項余は無表情のまま黙って聞いた。

 

さっきのあの件だろう。項余は大変な日を過ごしているに違いない。すぐに調査させるよう指示すると、部下はすばやく状況報告をした。観劇も楽しめそうにない。

「大変そうだね。」姜恒は苦笑いせざるを得ない。

「妻も子もいて、なんで好き好んで観劇なんかに行きたがるんだ?」

姜恒は考えてみた。「きっといつも疲れて、気晴らしするところが必要なのかも。」

「家に帰れば気晴らしにならないか?俺はお前といると気持ちが楽になる。理解できんな。」私たちのせいじゃないか、と姜恒は思った。自分たちが来なければ項余は客に付き合う必要なんてなかったのだから。

「刺客を見つけた?」姜恒はどうしても聞かずにいられなかった。

「何だって?」耿曙は我にかえって答えた。「いや、まだだ。心配するな。一人来たら、一人殺す。お前はお前で楽しめ。」言いながら手に持った剣を叩いた。あまり考えるなという意味だ。

その時、姜恒は舞台の一角から誰かが現れたのを見た。舞台衣装を着け、豊かな髪を垂らして、優雅なしぐさで裾を持ち上げながら舞台脇の階段を登って行った。

「わあ、なんてきれいなんだ!」姜恒はつぶやいた。

「あれは少年だな。」耿曙は動作、態度を観察して言った。 

 

芸子の少年が階段を上ると、下にいた貴族の若者たちが湧いた。歩く姿は真っ白な蝶のようだ。彼は階段を上るとまっすぐに項余の部屋に入った。すぐに柔らかな声が仕切りの向こうから聞こえた。「いらっしゃい、将軍。」その声は天の歌声の様に心地よく聞こえた。「客人がいる。きちんとして、ふざけないこと。」項余が答えた。

項余は小声で何か言った。少し静かにするよう言ったようだ。その後会話はとぎれとぎれにしか聞こえなくなった。簾の向こうで芸子が項余に酒を注いでいるのが見えた。

耿曙は姜恒を見て、仕切りの向こうを見て、また姜恒を見た。

姜恒は考えていた。どうりで項余はここの劇に詳しいはずだ。今晩は接待に託けて、彼に会いに来たんだ。だが項余の動作はちゃんとしていて、少年に触れたりはしなかった。

指先が触れ合ったりするのさえ避けている。芸子がついだ酒を項余は手袋をつけた手の指三本で持って一口飲むと盃を下ろした。

「変なこと考えちゃだめだよ。そういう関係じゃないんだから。」姜恒は耿曙に言った。

「俺が何を考えてるって?」耿曙はまた仕切りの向こうを見てから姜恒を見た。複雑な表情をしている。「俺はただ、あの子はお前に少し似ていると思っただけだ。」

姜恒:「……。」

耿曙はすぐにまずいことを言ったと気づいた。自分の弟を唄芸子と比べるなんて。言われた方はきっと腹が立つだろう。「俺が言ったのは、……そういう意味じゃなくて。」耿曙は言い訳を始めた。姜恒は少しも嫌ではなかった。上は天子、下は雇われ人まで、誰もが平等で貴賤の別などないという考えが既に習慣づいていたのだ。

「似ているかな?」姜恒は好奇の目で探りを入れたが、はっきりさせるのが怖くもある。

耿曙から見れば、少年は見た目が少し似ているが、知性や性格は全然違う。だが、勿論そんなことは言わずに、ただ二人の様子を見ていた。少年が項余に三杯酒の酌をし、項余がきちんとした態度を保ったままで小声で話すと、少年はとてもうれしそうだった。

 

「本当だ。」姜恒にもわかった。少年は13、4歳くらいだろうが、目元、鼻筋が、自分の小さい頃の様子を描いたように似ている。

「うん。」耿曙は応えたが、座りなおして姜恒の視線をさえぎり、自分の方を向けさせた。姜恒はまだ少年を見たいと思ったが、耿曙はいやがり、彼の顔を押さえて「見なくていい。見るなら俺を見ろ。」と言った。

姜恒は笑った。項余が自分に親切な理由が分かった気がする。そういうこと?

 

 

ーーー

第132章 羊毛筆:

 

暫くすると、項余は少年を下がらせて、また手酌で酒を飲みだした。劇が始まった。

姜恒にとって生まれて初めての観劇だ。興味津々で見始めると、たちまち注意を引き付けられた。少年が歌っているのは彼も読んだことがある郢地の古詩だった。

湘神が河に身を投じるところから歌は始まる。

神話の中で少年は霧深い山の奥に住む神女に恋をして、彼女を探し求めるが見つからない。巡り歩いた末に、最後には河に身を投じてしまうという故事だ。

一幕が終わると、庁内から大きな称賛の声が上がった。姜恒は項余を見た。項余も彼の方を見て、二人は視線を交わした後、拍手をした。

だが耿曙は、「もし俺だったら、彼女が山にいるならどんなことがあっても見つけるまで探し続けるな。」と言った。姜恒は苦笑いした。「それじゃ歌劇にならないよ。」

姜恒は耿曙に酌をし、耿曙は飲んだ後、姜恒の手を叩いて、「今日はあまり飲まないことにする。酔ったら困る。」と言った。

 

すぐに次の演目「余寒出山」が始まった。二百年以上前の鄭地に武侠門派の故事だ。

『余寒』という少年が師門で学芸を大成し、山を下りて義侠となる。民の苦難を救う志のためだ。師門ではひそかに思いを寄せあう師妹が彼を待ち続ける。春夏秋冬、花が咲き花が散り、余寒は天下に名を馳せる大侠となって師門に帰ると、師妹はこの世を去っていた。最後に余寒は彼女の墓の前で剣を抜き、命を絶つ。

 

耿曙は片手で姜恒の肩を抱き、もう一方の手で烈光剣を握っていた。姜恒を肩にもたれさせ、二人は声も出さず、心には様々な思いが駆け巡っていた。

「今何を思った?」姜恒は心の中に色々な思いがあふれたが、たんぽぽの綿毛のように全て消え去ってしまい留められなかった。

耿曙は、百歩外の閣楼にいる人物の影に注意を引かれた。長身の人物で、顔を向けた時、何か不鮮明な光が見え、その光が耿曙の警戒心を引き起こした。

「何も。」耿曙は考えた末にそう言うと、再び項余の方を見た。

項余も気づいたようだ。拍手をして少し頭を上げた時、その人影を見ていた。人影は高い欄干から観劇していたが、まるで錯覚であったかのように消え失せた。

 

すぐにまた、三つ目の劇が始まった。晋天子の死を口述した新作だった。

姫珣が崩御した時、姜恒は宮中にいた。耿曙もすぐに他のことを忘れて観劇に集中した。

面白いのは郢国が雍国との関係を配慮して仇敵が鄭国になっていたことだ。最初から最後まで鄭国が悪行を尽くす許しがたい悪役となっていた。姫珣の死も、洛陽の民が殺されたのも、趙霊が諸悪の根源となっていた。

『霊山の変』の後、雪崩が起き、姫珣役の少年が、燃え盛る宮中で武将に扮した男性の胸に抱かれている時に巨鐘が三度鳴り響く。舞台が真っ暗になって星を表す灯火だけが残る。

耿曙ははっと我にかえって烈光剣をそっと取り出した。姜恒は物語世界に浸っていた。

それは姫珣と趙竭の物語であると同時に姜恒と耿曙の物語でもあった。

「兄さん、」姜恒がつぶやいた。

「うん。」耿曙は付近に危険がないのがわかってほっとし、仕切りの向こうの項余に目を向けた。だが項余は観劇に集中していた。舞台周り、閣楼、通路は侍衛で固めてあった。

舞台では、薄暗い灯りの中から琴の音と共に少年芸子の柔らかな歌声が聞こえ始めた。

『何という日か、王子と船に乗るなんて……。』

それは正にあの時姜恒が歌った歌だった。これ程までにそっくりな話が再現されるとは。あの時殿内にいたのは三人だけで、耿曙は遠く城壁の高所にいた。他に誰かが知るはずがない。劇作家は想像でこの場面を考えたのだろうが、心の一番柔らかい部分を突いてきた。

 

「山には木があり、気には枝がある」仕切りの向こうの項余は卓を指で叩きながら歌劇に合わせて歌った。

「慕っております……」耿曙も馴染みの琴律に合わせて歌ったが、界圭の話を聞いた後では後半部分を歌うのはやめておいた。

舞台はだんだん暗くなっていき、最後に灯が灯された。三幕全てが終わった。部屋からも、庁内からも絶賛の声が上がった。

 

項余は侍衛を呼んで離れるよう指示を出した。姜恒は座ったまま千万もの思いに浸っていた。そこへ、趙竭を演じた痩せて背の高い男性が来て、挨拶をし、姜恒と耿曙に敬酒を捧げた。「すばらしい歌でした。天子と趙将軍が再来したかのようでした。」姜恒は背の高い役者に笑顔で言った。

「お恥ずかしいことです。」男性の表情は冴え冴えとしている。役者の身とはいえ、武芸の修練をしてきたことは明らかだ。耿曙は上から下まで見たあとで、武芸の程度が人並みだと判断すると、いつもの無関心な様子に戻った。

「私たちは親子なんです。小真は私が連れて来ました。お客様にお楽しみいただき光栄に存じます。」そう言って男性は彼らに三拝した。

「本当によく似ていました。最後の一幕なんてそっくりだった。」姜恒が言った。

小真という少年が澄んだ声でクスクス笑いながら、「父が作った劇なんです。私はそんなはずはないって言ったんです。天子が崩御される時に歌を歌うような余裕があるはずないって。」

「いいえ、あったんです。あの時私は天子の近くにいたからわかります。」姜恒がまじめな口調で言った。二人はちょっと所在無げな様子になった。姜恒は酒を飲むと言った。

「お二人に一杯ささげます。素晴らしい演技でした。いつか機会があったらまた聞かせてほしいものです。」

項余がやって来て、役者親子を見ると賞銭を渡すよう人に言いつけ、離席を告げた。

「いつかまた。」姜恒が彼らに拱手すると、役者は急いで礼を返した。

「あれはあなたのために特別に演じさせた劇なんです。」項余が姜恒に言った。

「とても気に入りました。」姜恒が言った。

「気にいったならよかった。最初の二つはよくやる演目で、最後のは新劇でした。ギリギリ間に合いました。あの子は十三歳ですが、まだ声変わりしていないんです。もう数年たてば、あんな風には歌えなくなるでしょう。」

 

耿曙が姜恒の近くに来て、彼らは朱雀宮を後にした。項余は「お二方は王宮にお戻りください。河の周辺から街道まで、徹底的に調べます。子の刻には更に厳重な巡回を始めます。ですが、宮中にいれば決して問題は起こらないはずです。あさっては立春で、王陛下は祭祀の為宗廟に行かれます。陛下の近くにいれば更に安全なはずです。ご安心ください。」

耿曙は頷いて馬車に乗った。途中では何も起きず、まっすぐ殿内に戻ると、姜恒に着替えと沐浴をさせた。姜恒はあまりにも色々ありすぎたため、もうあくびが出ていた。

耿曙は気持ちを張り詰めさせたまま、服も着替えず、茶を一杯飲むと、寝殿に座り込んだ。

さっきまで殺されそうになっていることを完全に忘れていた姜恒も寝殿に戻ると思い出した。項余はたくさんの護衛を遣わして神殿の外を厳重に警備させた。部屋の中にいても自衛達の足音が聞えた。

 

「眠くなったなら寝ろ。俺の横で寝るんだ。」耿曙が言った。姜恒は気持ちを引き締めた。「眠くない。奴らは何でまだ来ないんだろう。」

姜恒は殺害予告と言うのはやっかいだなと思った。早く殺しに来てとっとと終わらせれば、みんな安心して眠れるのに。まあ、これがこの前代未聞の刺客のやり方なのかもしれない。殺害対象に十二時辰もの時間をびくびくしたまま過ごさせたいのだろう。

「お前に聞いておかないと。どうなんだ?十二時辰過ぎてから手を下すこともあるのか?」

姜恒は正確な言葉は忘れてしまった。夫人が言ったのは、十二時辰後お前は死ぬ、だったと思う。何時に来るとは言わなかったし、明日の午後また来るとも、早く来るとも言わなかった。「どういう奴らだと思う?」姜恒が言うと、

「生け捕りにして聞いてみればわかる。」と耿曙が答えた。

「生け捕りにできなかったら?一旦やりあったら、相手は強敵かもしれないし。」こんな風に傲慢にも殺人予告するような相手だ。耿曙の腕はわかっているのだろう。船を沈めたのは様子見で、今回が本番ということだ。だからきっと刺客は凄腕で、耿曙も全力で戦うことになるはずだ。

「死体からわかることもある。すぐにはっきりするさ。」耿曙は全く意に介していない様子だった。

 

 

夜の暗闇の中、顔の左側に銀の面をつけた長身の刺客が、剣を握って朱雀宮の塀を走っていく。衣装を抱えた一人の婦人が小巷を通り過ぎようとして、その刺客に行く手を阻まれた。刺客は冷ややかに尋ねた。「王宮へお越しに?荷物が多そうだ。手伝いましょうか?」

婦人は3、40歳くらいだろうか、目を上げて笑うと、「あんたを知っている。連れはどうした?」と尋ねた。

刺客は答えた。「連れなんていませんよ。あなたが川沿いで見た骨のない男の死体は、別の人が殺しました。意外でしたか?そちらでなくて私に出くわしたのは幸いでしたね。」

「どうして?」夫人はゆっくりと包みを開き始めた。 

「私が手を下したなら、少なくとも死体は残しますから。船夫、洗濯女、手相見、御者、胡人……あと誰でしたっけ、あなたの仲間は。」

婦人は応えず、包みから2尺長の短剣を取り出した。刺客の言った通り、輪台(ウイグル)鳴沙山門から遣わされた十二人の殺し屋はそれぞれ中原の名を持ち、無名の輩として市内に潜伏していた。

「おしゃべりでもしましょうよ。そんなに急いで手を下さなくてもいいじゃないですか。」

「それより手合わせ願おうじゃないか。あんたは本当にそんなにやり手なのかい?」夫人が言った。「仕方ありませんね。」刺客は残念そうに言った。

 

 

王宮の神殿では、姜恒が何度もあくびをしていた。耿曙は彼に目を向けた。

「恒児、ほら、俺の近くに来い。」

姜恒は眠気を押さえて座りなおした。耿曙はぼんやり彼を見ていたが、しばらくすると、「少し休め。」と言った。

真夜中になると外ではしとしとと冬の雨が降り出した。姜恒はもう言い張らずに耿曙の近くまで這って行った。耿曙は腕を伸ばして彼を抱くと自分の胸に伏せさせ、寝台の上に座ったまま、もう一方の手では烈光剣の柄を握り続けた。

「間もなく夜明けだ。兄さんも少し寝て。もしかしたらただのおどしだったのかも。」「わかってる。」耿曙は静かに言い、姜恒の頭を撫でながら、庭の方を向いて目を光らせていた。

「もしかしたら来ないのかな?」姜恒が言う。

「来ない方がいいだろう?俺だって人は殺したくない。」耿曙が言った。

「あなたに嘘は言ってないし、項余にも言ってないんだよ。」

「そりゃそうだろう。何で急にそんなことを言うんだ?」

姜恒は首を振ると、耿曙の胸に何度か顔をこすり、彼の体に身を伏せて眠りに落ちた。

 

夜明けごろ、外は霧で真っ白で依然として暗い。耿曙は姜恒を抱いている左手にまだ墨をつけていない羊毛の筆を挟んで物思いに耽っていた。

本当のところ、熊安の提案には心を動かされた。できれば姜恒と一緒に一生雍国で平穏に過ごしたかったが、郎煌から姜恒の身の上を知らされた後では、ある予感がするようになった。自分たちは遅かれ早かれ、汁琮と対決することになるだろうと。それなら、郢国にいる方が雍国にいるよりはいいのではないだろうか。雍国に戻れば四六時中警戒せねばならなくなるかもしれない。きっと休む間もない戦いになる。刺客は汁琮に遣わされているのだろうか。

いや……そんなはずがない。耿曙は何度も何度も考えた。ここ数年色々なことを考えるようになっていた。特に姜恒が帰って来てからの一年、彼の世界では色々なことが変わっていった。かれは姜恒のように他人の思いを推し量るようにさえなった。

汁琮が姜恒を殺すために刺客を遣わして、雍国に何の利がある?既に姜恒の身の上を知っているのでない限り。だが何か証拠があるか?どこかに何か確固たる証拠があって、姜恒の身分を証明することができれば……。

 

その時、耿曙は何かを聞き取った。すぐに侍衛たちも騒ぎ出した。

耿曙の鋭い目は、灰色の人影が宮塀の外から現れ、彼らの神殿に入ろうとしているのを見た!海東青よりも素早い動きで耿曙には剣を抜く間もない。姜恒を抱いたまま左手を振った。

刹那、羊毛筆が矢のようにシュッと音を立てて射られた。人影は倒れなかった。何かにぶつかったかのように崩れ落ちたのだ。体の前から鮮血が噴き出し、胸には剣刃が露出していた。剣刃が飛んできた後ろから、界圭が現れた。顔半分に銀面をつけた界圭は冷たく言い放った。

「あなたがずっと待っていると知っていたら、わざわざ来ませんでしたのに。」

界圭の腹部からは血が流れ落ち、武袴の半分が湿っていた。耿曙はその銀面を見た時、刺客が突然現れたことより震撼し、姜恒を離すとじっと彼を見据えた。(彼は誰?)

界圭は言葉を続けた。「こいつらは手ごわい。あなたも気を付けてください。」それだけ言うと界圭は身を翻して屋根の向こうに消えて行った。

侍衛達が大声で叫んだ。「刺客だ!」そしてあちこちから人が集まって来た。

姜恒はすぐに身が覚め、殿内に倒れている死体から流れ出ている大量の血を見て大声をあげた。

耿曙は寝台に座ったまま目を細めた。最初は界圭を追って行こうと考えたが、これが相手をおびき寄せるための敵の作戦である可能性を考えると、姜恒の傍を離れられなかった。

項余も大急ぎでやってきた。一睡もしていないのだろう。寝殿の傍まで来て部屋の中に目をやり、何が起こったのかを知った。「間に合ってよかった。」項余が沈んだ声で言った。

侍衛たちはすぐに遺体を仰向けにした。やはり洗濯女だった。目を丸くし、体にはたくさんの傷跡があり、耿曙が投げた羊毛筆が右目から脳に達していた。寝殿に入ったところで界圭に追いつかれて背後から剣を受けて死んだようだった。

姜恒:「……。」

「この女か?」耿曙が尋ねた。

「そう。この女だよ。だけどどうして一人だけなの?」

項余が言った。「女は誰かに追われていたようです。夜の間町中逃げ回っていたようですから、どうやら仲間はいなかったのでしょう。いたなら助けに来たはずですから。お二人はもうお休みいただいて大丈夫です。」

姜恒はぼんやりと死体を見ていたが、耿曙は何かを考え込んでいた。

 

―――

立春当日、姜恒は気持ちが晴々していたが、耿曙はとても眠く、少し苛立ってもいた。刺客の仲間が襲ってくるかもしれないと思うと、まだ安心できずに、昨夜も夜通し見張っていたからだ。姜恒は休むように勧めたが、耿曙は、「大丈夫だ。行軍中もこんな感じで、二日ぐらい寝ないのは普通だから。」と言った。

耿曙のいらだちの原因は、彼が郢王の祭祀に参加したくないからだ。姜恒とどこか静かな場所を探して一緒にいたいのに、誰かが来れば相手に迷惑をかけないようにするために、姜恒は行かねばならなかったからだ。

 

(天子と趙将軍の最後の場面を劇作家に話したのは羅宣なのか、界圭なのか。でもまあ、羅宣かな。種明かしは確か最後までなかったと思う。)

 

 

第133章 椿の古木

 

立春が来ると、町中の桃花が輝かんばかりに咲き誇った。郢国の宗廟は城北にあり、二十人で抱える大きさの古木が後ろにあった。伝説では古代の帝王自らが植え、庄子がこの木から‘椿’という名称を作ったという。宗廟は郢と共に、鄭とかつての随、越二国の祖先の神霊も奉納していた。郢国が随を討伐し、鄭国が越を滅したことで両国は四国に吸収された。

姜恒は歴史に精通しているので四国が元々同じ血脈から始まっていることを知っていた。郢と鄭は二人の兄弟の封地だった。だが晋天子が建国して六百年がたつ今では郢と鄭は休む間もなく常に交戦状態にあった。同じ家の兄弟も、一代二代下って、百子千孫となるうちに、血縁は薄くなって利益を争い最後は他人同士となった。枝葉を広げ続けた家族の最後はこうしたものなのかもしれない。姜恒は考えた。雍国の汁琅と汁琮、生きていれば汁炆も汁瀧とはうまくやっていっても、四、五十年たち、二三百年たった後、彼らの子孫がどうなっているかはわからない。

熊耒が養生修練を開始した。目の周りにはクマがある。宗廟を出る時、のろのろと姜恒の所に来て、「太史は昨晩……大丈夫だったかね?」と尋ねた。

 

姜恒は驚いて熊耒を見た。精進は今日からのはずだ。もし朝食を食べなかったとしても、絶食を勧めたわけでもないのにこの衰えぶりはどうしたことだろう。あり得ないことだ。

「陛下は……大丈夫ですか?」自分のことよりも熊耒の方が心配だ。

「元気だ、元気だよ。」熊耒は王御車にもたれて言った。「これから四十九日の清心寡欲が始まると思うとな、その前に、うんと……やり尽くしておこうと……。」

姜恒:「……………………。」

熊耒は三日連続で宮中に引きこもり、食べ続けたかと思うと気がふれたかのように欲に溺れ、妃を指名する牌を全部ひっくり返した。姜恒のことを気にする余裕は全くなく、今朝早く項余が刺客の件を伝えると、全身から冷や汗が噴き出した。そういうわけで、祭祀が終わると、姜恒を呼び出して少し話をしなければと思ったのだ。

 

「心配無用だよ!本王は項余によく言っておいた。全生命をかけて君を守り、刺客の正体を調べ上げるようにとな。」

姜恒は恐縮した。「いいのです、いいのです。逆に陛下と項将軍にご面倒をおかけして申し訳なく思っております。」その言葉で安心した熊耒は姜恒の肩をたたき、「時間がある時に来てもらって、やはり先に攻法を…。」と言いかけた。

そういうことだろうとは思っていた。姜恒はまじめな表情で、「先にお教えしたら、陛下はきっと内緒で始められるでしょう。」と言った。

図星をつかれた熊耒は恥ずかしそうな顔をした。「ではやたらと出歩かないようにして、刺客が捕まるまではおとなしくしていてくれ。」

 

南方の大国で、宮中に刺客が潜入して客人を殺しかけたなどということが知れ渡れば、太子安も朝臣たちも顔をあげて歩けないが、できることと言えば、項余をねちねちと責めることくらいだ。報せを受けた熊耒も、どういうことなのか、疑ってみても結論は出ず、とりあえず姜恒を励ますだけはしておいた。

 

この件ではないが、姜恒はあることに気づいていた。―――祭祀の全工程を見ても、熊耒は太子安に一言も話しかけようとしなかった。熊耒は左丞相と話をし、太子は東宮幕僚と話し込んでいた。時間になると太子は熊耒に前に行かせ、熊耒は王室の先頭に立って宗廟に入って行った。宗廟に入ってからのことは姜恒にはわからないが、出て来た時にも熊耒は太子にはお構いなしだ。

これはあまりないことだろう。雍国ではありえない。汁瀧がその場にいれば、汁琮の注意は全て彼に注がれる。臣下たちと話している時でさえ、視線は我が子に向いている。耿曙がいつでも自分のことを見ているように………。

その耿曙の目はもう我慢の限界というように訴えている。『もういいか?行けるか?』

項余が来た。ここ数日は忙しさを極めている。夕べも王宮で寝ており、家にはもう何日も帰っていないはずだ。「刺客の正体について、お二人は何かわかりましたか?」

「いいや。」耿曙は沈んだ声で言った。

「項将軍が大変な約束をされたと聞いて、申し訳ない気持ちです。」

項余は手を振った。「客人を守るのは郢国の責任です。姜太史はお怒りにならないで下さるだけで私にはありがたいです。それに解決できなければ一国の面子にかかわります。」項余は何かまだ聞きたそうで、遠くに目をやり太子安の顔色をうかがった。

「今日は桃の花もよく咲いておりますので、歩きながら話しましょうか。」項余はどうぞ、という仕草をした。姜恒は耿曙の袖をひっぱった。耿曙もこれは仕方ないと思っていた。無駄に社交に参加したくはなかったが、刺客の正体は姜恒の命にかかわることだ。

昨夜、姜恒と耿曙もあれこれ話し合ってはいた。姫霜、趙霊、誰だって可能性はある。梁の陰謀かもしれないし、長陵君の死士の生き残りかもしれない。だが考え抜いても結論はでなかった。

 

春風が野を巡り、桃の花は今が盛りだ。項余は地面に胡坐をかいて座った。侍兵が敷布を広げ、低い卓を持って来た。三人は地面に腰を下ろした。春酒とつまみが用意されると姜恒は苦笑いせざるを得なかった。「郢国に来てからどこに行っても食べてばかりです。」

「妻が点心を作ったのです。我らが花見をすると知って誰かに持って来させたのですよ。」項余が言った。

「奥様をお見掛けしていませんが、ご一緒されなかったのですか?」

「家族は皆で城外に、野遊びに出かけました。」項余が答えた。

耿曙はあくびをし、遠くにある巨木を見て、何かを思い出して言った。「あれが例の椿か?」姜恒もその巨木についての故事は聞いたことがあった。「樹齢はどのくらいですか?」「さあ。郢国であの木の樹齢を知る人はいないと聞いたことがあります。」憂慮の絶えない項余は気が重そうな様子だ。

「『上古に大椿有り。』」姜恒が耿曙に言った。

「『八千歳を以て春と為す,八千歳を以て秋と為す』」耿曙も勿論覚えていた。あの頃潯東で剣の修練をしている時、姜恒が音読しているのを聞いていた。椿はこの世の栄枯衰退を予兆しているかのように、南方大地の血脈を保っている。

「あれは誰だったと思いますか?直感で良いのでおっしゃってみて下さい。」項余が耿曙に尋ねたが、耿曙の答えは相変わらずだ。「わからない。あんたが死体を持って行ったのだから、あんたが教えてくれると思っていたんだが。」

「手がかりは何もありませんでした。修行者だということはわかりますが、直接対決していないので、どこの門派の者かもはっきりしません。」項余が答えた。

「どこの人間か、外見からだいたいでもわかりませんか?」

「鄭人にも梁人にも見えます。顔にはずっと屋外で過ごして来たような痕跡があり、皮膚も乾燥しています。苦節に耐えてきた感じです。」項余はしばらく口をつぐんだ後再び言った。「あの夜にはもう一人刺客がいて、あなた方のために戦っていたようですが。」

「そうだ。」耿曙が淡々と答えた。

姜恒は界圭の姿を見はしなかったが、目を覚ました時、人影が動くのは見えたので耿曙に尋ね、答えを聞いていた。だがそれを他人に話すわけにはいかない。

「顔に銀の面をつけていたそうですが?」項余は疑わしそうに尋ねた。耿曙が頷くと項余は再び尋ねた。「あなた方を守るために雍国がひそかに遣わした者ですか?」

耿曙は否定しようとしたが、姜恒はこれ以上隠すべきではないと思った。この人は命をかけて守ってくれているのだから。「そうではありませんが、彼は雍国の友達なんです。なぜ遠路はるばる郢地まで来たのかはわかりませんが。」

「知らせを聞いたのかもしれませんね。雍国があなた方を守ろうとしているのなら、刺客はおそらく雍国が送ってきているのではないのでしょう。」この点で姜恒と項余の推測は一致している。

 

「それはどうだか。」耿曙はつい言ってしまってから、すぐに失言だったと気づいた。

項余の表情が変わったが、姜恒は面白がった。「朝廷にはまだ私を殺し損ねている人がいるのかな?」耿曙は不自然な表情で、「お前の変法のせいで裁かれた者は多い。わかったものじゃないだろう。」と言った。

その時、群臣を振り払って太子安が彼らのところにやって来た。姜恒と項余はすぐに立ち上がって拝礼したが、耿曙は座ったままだった。太子安は立たなくていい、座るようにと合図をした。

太子安が来たことで雰囲気は厳粛になった。「姜太史。」太子安がふと声をかけた。

「はい、殿下。」姜恒は特に変わりない様子だ。だって、例え天が落ちてこようと耿曙が防いでくれるはずだ。自分がまな板の上の鯉で、今にも殺されるようには思えないのだ。

太子安の態度は以前とは違い、親し気に笑った。「あなたに確認しておきたいんだが、私が刺客を送り込んだとは思っていないでしょうね。」

姜恒は声を立てて笑った。「まさか、そんな。殿下がそんなことをお考えなら、兄さ……聶海に出兵させようとはされないでしょうから。」姜恒は項余の近くでは耿曙は聶海のままにしておかねばと思った。このことは伏せておいた方がいい。おそらく項余も気づいてはいるだろうが、わざわざ説明することはない。

「あんたのはずはない。俺たちを殺してあんたに何の得がある?」耿曙もそう言った。

太子安が言う。「だったら教えてほしいんですが、姜太史、ここに着いた日の夜……あなたは父王と何を話し合ったんですか?」

 

姜恒は、あっと思った。事は単純ではないのだ。きっと熊耒が横やりをいれて、太子の責任にしようとしたのだろう。項余は気を利かせて離席した。王室の確執がはっきりわかった耿曙は、「どうしてだ?親父に叱られたのか?」と尋ねた。

太子安は情けなさそうにため息をついた。「父王は一月以内に黒幕を探し出せと言いうんです。どうやら……姜太史が言ったことがとても重要らしくて。」

なんということだ。この親子はお互いを疑っているのだ。今日の祭祀での様子からして郢王は、息子が彼に長生きさせないために自分を殺させようとしている、と考えているのだろう。「特に何も。寿命を長引かせるためにはどうするか、について話し合っただけです。」

太子安はすぐに理解できたようだ。姜恒をじっと見て頷いた。賢い者同士だ。太子安はすぐに話題を変えた。「でん……聶殿、あの件については、どうお考えか。」

太子安が言うのは勿論梁への出兵のことだ。郢国は雍国に嵩県を渡すよう要求している。熊耒は玉衡山の鉱山が目当てだ。太子安が欲しいのは嵩県に駐留する二万の雍軍で、そのための協力は惜しまないようだ。

「答えはもうあと何日か待ってくれ。何を急いでいる?俺が頷けば、すぐに出兵するつもりなのか?」

太子安はこの春出兵したがっている。彼は今王位継承者の地位を確固たるものにするために軍功を立てる必要に迫られているのだ。目下郢王の彼に対する態度はほどほどといった感じだが、新たな問題が加わりそうでもある。彼だって世の中に不老長寿の仙術なんてものがあるとは信じがたいが、万が一と言うこともある。万が一父親が永遠に生き続けたら、自分の方が先に死んでしまう。

 

「項余!」太子安は耿曙に皮肉を言われて気分が悪かったが、耿曙は王子なので文句も言えず、この場を去るしかなかった。項余がすぐに戻って来て彼らを王宮に送って行った。

項余が二人に言った。「今後しばらく、お二人はやはり王宮を出ないで下さい。少なくとも我々が刺客を捕まえるまでは。」耿曙は遠慮なく聞いた。「捕まえられるのか?」姜恒の方は自分を餌におびき寄せれば、事態を打開できるのではと考えていた。

「何としてでも捕まえなくては。」項余は深く眉をひそめ、答えたが、ふと何か思いついた。「宮中で退屈でしたら、近いうちに王宮に桃源を呼んできて歌劇を……。」

「今何て?桃源って何?」姜恒が尋ねた。

「劇団です。桃源、姜大人が先日お聞きになった歌劇です。」

姜恒はすぐに思い出して頷いた。洛陽を去る時に界圭が自分にその木牌をくれたのだった。観劇には大して興味のない耿曙は言った。「それよりしっかり調査をしてくれ。」

 

 

 

ーーー

第134章  御者:

 

郢の地ではどこまでも空が晴れ渡っていた。中原大地の山河を越え、玉壁関を出ると果てしない広野が続く。聳え立つ山々は上古の時代から神州に落ちて来た巨獣の背骨の様で、蒼涼かつ雄大だ。

あれから半月近くがたった。落雁城下では小雪が舞っていた。立春を迎えはしたが、種まきの季節まではまだ三月もある。汁琮には確かめねばならないことがあった。急ぎ足で桃花殿に入って行くと、姜太后は薬を飲んでいるところだった。

「母上、怪我の状態はいかがですか?」汁琮は腰を下ろすとすぐに尋ねた。

「殆ど治りました。公孫大人がいらして新しい薬を調合してくれたのです。王上は心配せずに、まつりごとの方に重きをおいてください。」姜太后が答えた。

既に変法が遂行されていた。効果はてきめんで、雍国は未曽有于の速度で復興を遂げている。

「実はあることで母上の助けが欲しいのです。」汁琮は言った。

太后は淡々と言った。「こんな時間に来るとは何かあると思っていました。言ってごらん。」汁琮は頭をあげて母親を見た。眼差しには疑いの色が見える。

「母と子の間です。言えないことはないでしょう。」

汁琮は言った。「連合会議が五月五日に決まりました。界圭を伴いたいと思ったのですが、最近界圭は不在だと耳にしたのです。」

太后が屏風に目をやると、界圭が後ろから現れて汁琮に頭を下げた。

 

汁琮はあっけにとられた。報せを聞いてすぐに桃花殿に確認せねばと思ったのだ。界圭が宮中にいたなら、江州城に衛卓が送った刺客を殺したのはいったい誰なのだろう。

江州から落雁までは三千里も離れている。不眠不休で夜通し馬を走らせても戻って来られはしまい。江州に行ったと思っていたのにここに留まっていたというのか。

汁琮は狐につままれた思いだ。彼ではないというのか?

「聞きましたか?」姜太后が尋ねると、「かしこまりました。」と界圭が答えた。

「ならば行きなさい。」

汁琮はそれ以上何も言わなかった。界圭に目をやったが、身につけた刺客服には滲み一つない。疲れた顔をしてはいるが、雍宮に急いで帰って来たという感じでもない。

太后は、「そうだ、王上。来てくれたからには聞いてほしい話があります。」と言った。汁琮は立ち上がったところだったが、また腰を下ろし、黙って待った。

「何日か前に界圭に言われたのです。彼もいい年です。そなたの兄の後、そなたに仕え、次に瀧児、次には私の命で姜昭の息子にまで仕えてくれました……。」

話の続きが読めた汁琮は、「もうここにはいたくないのだな。」と言った。

界圭は黙ったままだったが、姜太后は話を続けた。「連合会議の後、越地に帰りたいそうです。王家に替わって私が許可を出しました。」

「そう言うことであれば、来年関を越えた後で、すぐにまた会えることだろう。」

界圭はようやく、「王陛下の御恩に感謝致します。」とつぶやいた。

汁琮の表情はすぐれなかったが、慇懃な口調のまま答えた。「お前が二十三年もの間、汁家のために尽くしてくれたことに孤王は感謝する。何が欲しいかわからぬが、惜しまぬつもりだ。越地に帰る時に、連れて行きたい者があれば選んで、誰でもいいから連れて行きなさい。」界圭は何か言いたそうだったが、言わずにおいた。

「報酬を何にするかは時間がある時にゆっくり相談すればよい。ここにある荷物をまとめて、王上の元に行きなさい。もう桃花殿には戻ってこなくて良いから。」

「はい。」

汁琮は母がこういう手で来るとは思っていなかった。策士策に溺れるといったところか。衛卓が姜恒に手を下しはじめた以上、界圭には落雁にいてもらいたかった。面倒を避けるためにも彼を自分の管理下に置こうとしたのに。結果として姜太后に、界圭を姜恒の護衛として貼りつけさせることを許してしまった。

こうなったということは、衛卓との密談を、界圭は近くで聞いていたのだろうか?自分が姜恒を殺そうとしていることを彼はどうやって知ったのだろう?だが、汁琮は、「他には何かありますか?」とだけ尋ねた。姜太后は「郢地での状況はどうですか?」と聞いた。汁琮は目を細めた。母はなぜそんなことに関心を持つのだ?「順調です。」汁琮は答えた。

「王上は開戦するつもりですね。五国連合といいますが、ひょっとして一国減るのでは?」汁琮はどきりとした。なぜ母はそんなことを知っているのだ?

太后は汁琮のあせりを見透かしたように淡々と言った。「兵の調整中だと汁綾が言っていたので思ったのです。王陛下は梁を奇襲する。それなら郢と秘密協定をしたのだろうと。」

「そうです。」汁琮は白状せざるをえなかった。以前ならばこうしたことを太后には干渉させなかっただろう。だが、落雁が陥落しそうになった時に、姜太后が宗廟を死守しなければ、自分は今ここにはいなかった。彼は母の権威を認めなければならなかった。彼女は座っていられぬ程の状態になったため、選択的に事実を伝えるしかなかった。

「郢国とは手紙で密談しております。熊耒は戦争には無関心で、息子の熊安が急き立てて来るのです。照水をとることで王位継承者の地位を固めたいようです。」

太后は空になった薬椀を見ているが、その表情は読めない。「つまり連合会議を準備しつつ、先に梁国を分けることが上策だということで意見が合ったのですね。」

「姜恒の最初の見立てでもあります。」汁琮は殿内を歩きながら説明した。「先に梁を取り、次に鄭を取る。郢王と天下を二分し、神州を南北に分けて統治する。」

太后は言った。「戦争には利益の分割がつきものなのでしょう。私は老いて口出ししすぎですね、王上。」

汁琮は頷いた。姜太后は、「我が国の人質がかの国の手にあることが心配なのです。」と言った。

「気を付けておきます。郢国太子は盟友であると同時に対抗相手であることは私にもよくわかっております。双方が約束通り、梁国を打った後で、色々な問題に遭遇することになれば、郢国の人質になった姜恒にも問題が生じるでしょう。もし雍が、裏切って梁地を全て取り込むことにすれば、彼らは鬱憤を晴らすために姜恒を殺すかもしれません。」

そんなことは姜太后も見たくないはずだ。例え姜恒の正体を知らなくても、人質に何かあれば、国家の名誉を損なうことになる。

汁琮には今の所、そうさせるつもりはなかった。南方には耿曙もいるからだ。

「行きなさい。」姜太后は口元を少しひきつらせて冷やかに言った。

 

―――

立春から二十三日目の郢地にて。

あの夜以降、刺客は鳴りを潜めていた。おかげで耿曙にとっては悪くない日々が続いた。誰も二人を煩わせない。姜恒もどこにも行かず、毎日耿曙と二人だけで寝殿内にいた。姜恒は郢国の書を読み、耿曙と将棋をさし、耿曙から簡単な武芸の指導を受けていた。

これこそ耿曙の望む日々だ。だが、春の暖かさに花が開く頃、彼の心の奥底では様々な思いがうごめき出した。もう一歩進みたいが、どうしていいかわからない。姜恒に近づくほどに、まだまだ遠く感じるような気がしていた。もっとたくさんと望んでいるのに、姜恒の笑顔に接すると、戸惑ってしまうだけになる。

もしある日姜恒と隠れ住むなら江州がいいとさえ彼は思った。それほどここでの日々は素敵な思い出を作り、二人は再会して以来、もっとものんびりとした時間を過ごしていた。

 

「あいや~、姜恒……。」姜は熊耒が二人を御花園に呼び出し、姜恒に修行の成果を見せていた。「……本王の目がはっきり見えるようになってきたんだよ。見たかね、見たかね?燕のように軽いだろう?」

耿曙:「……。」

国君の身でありながら、酒も飲まず生臭も食べず、野菜や雑穀を多くとるなど飲食に気を付け、規則正しく早朝に起きて新鮮な空気を吸い、露水を飲んでいれば、自然と体は良くなるものだ。

「私が申し上げた通り、効果はすぐに出ましたでしょう。」姜恒が言った。

「腹は減るがな。」熊耒はお腹を撫でた。

「お腹がすくなら、王陛下はもう少し召し上がって大丈夫です。それだけのことはされていますから。」

「当然じゃ当然じゃ。」熊耒は手足を動かし、庭園内を走り回った。『五色(たくさんの色)は人の目を盲にし、五音(たくさんの音)は人の耳を唖にする。五味は人の口を爽(たが)わせ、娯楽のための狩りは人の心を狂わせる。得難い宝は人の行動を妨げる。』全くもってその通りだ。

姜恒だって熊耒がこの生活を一年続けられるとは思っていないし、四十九日たてば、やめてもいいだろう。全く肉を食べなければかえって体が弱って病気になりやすくなるのだし。

郢王の問題は日々の暴飲暴食や色や酒におぼれる生活が原因だ。姜恒は彼のために簡単な調整をしてやったに過ぎない。だが、同時に王宮にある記録を閲覧してわかったことがある。熊耒はこう見えて、食えない男なのだ。かつて郢王宮では王位継承のために血の雨が降る争いが起こった。太子だった熊耒は愚か者を装ってその地位を得てから朝廷の大粛清を展開したのだ。年を取った今では長生きの方に関心が向いていて、大臣たちの前ではそういう風にふるまっているが、兵権はしっかり握ったままで、例え太子でさえ、滅多なことはできないのだ。

 

皆郢王は凡庸だと言うが、この男は全く愚かなどではない。国君としては熊耒は汁琮よりずっと賢いのではとさえ姜恒は思うことがある。汁琮は権力欲や征服欲に捕らえられて日夜心が落ち着かず、死と隣り合わせの生活をしていて、最終的には生活に全く余裕がない。

熊耒は良く食べよく寝て長生きが大事だと思っている。数々の偉業を成したところで命がなければそれを享受できないとわかっているのだ。

「刺客はどうなった?」熊耒は再び尋ねた。

「全く消息がつかめていません。」姜恒は情けなさそうに手を広げた。

「いないのは良い、いないのは良い。来ないのはいいことではないか。聶海、君はそんなしかめっ面ばかりしていないで、こっちに来て我らに手本を示したまえ。」

耿曙:「……。」

耿曙は立ち上がって、武芸の型をやってみせ、熊耒を見た。

姜恒は奇妙に思った。熊耒の言い方では、刺客を送ったのは太子だと確信しているようではないか。「この者は手加減と言うことができないのです。王陛下、やはり私は先に『心法』をお教えすることにしますので、しばらく修練してからまた状況を見ることにしましょう。」

熊耒は興味津々ですぐに頷いた。

 

姜恒は金の縁取りがしてある絹布に何行か書いて、熊耒に渡した。「これは総綱ですが、総綱があるだけでは役に立ちません。口述による心法があるのです。」

姜恒が伝えたのは、かつて足の骨折が治った後に羅宣が教えてくれた方法だった。内息を整え、体内の汚れた気や瘀血を除去し、経絡の活力を回復させてくれる。耿曙は一目見て、功法は悪くないと思った。基礎的だが奥が深い。足の経脈に重きを置いた修練なので、毎日やれば確実に『燕のごとく身軽』になるだろう。だが、これで不老長寿とは、夢でも見ている方がましだろう。

 

熊耒は真剣そのもので、一字一句記憶しようとした。姜恒は彼に朝昼晩、一静一動の修練を欠かさず行うようにと言った。

「それだけか?」熊耒が尋ねた。

「まずは第一歩です。全ては一歩一歩進めていきます。」姜恒が答える。

「経血や男精を飲んだりしなくていいのか?方士は皆そう言うが……。」

姜恒は危うく吹き出しそうになった。「それはいったいどういうことです?絶対に飲んではいけません!王陛下!誰がそんなことを言ったのです?」

熊耒は頷きはしたが、まだ少し懐疑的だ。功法は確かに神秘的ではあるが、千年の雪蓮、万年の玄亀、一服の水銀やヒ素も飲まないのでは何となく落ち着かない。

「あなたにそう言ったのはどの方士ですか?」姜恒は真剣な表情で言った。

熊耒は慌てて、「いいんだ、いいんだ。」と言った。

「準備期が終わったら、修練を始めましょう。一月もしないうちにおわかりになるでしょう。」

「よし!」熊耒は言った。

耿曙は熊耒に姜恒を指さして、「彼を見てみろ。もう160歳なんだぞ。」と言った。

姜恒:「……。」

 

その場を去った後、姜恒は言った。「あなたが冗談を言えるようになったとはね。」

耿曙もクスリと笑った。姜恒はもう半月も宮中に閉じ込められて気分がふさいでいた。あれこれ考えた末、言った。「ひょっとしたら刺客は二人だけでもう来ないのかも。」

「あり得ない。」耿曙は言った。

「それじゃあ、どうして界圭は会いに来ないの?」

耿曙も界圭に会いたいと思っていた。あの夜銀の面をつけた姿を見て、遂にあの問題が終わっていないことに気づいたのだ。だが自分自身で界圭に確認しなければ到底受け入れられないと思っていた。「まだ江州城にいるのかもな。」耿曙は最後に言った。

姜恒は頷いた。「そうだね。彼がいるとしたらどこか考えてみたけど、一番可能性が高いのは、たぶん……。」そう言って、姜恒は『桃源』と書かれた木牌を取り出した。「桃源の人たちに会いに行きたいんだけど。」

耿曙はしばらく黙って考えた。「行く?今王宮を出て行くのか?」

項余は王宮内に人手を増やして二人を護衛していた。だが耿曙にしてみれば、王宮などその気になればどうとでもなる。出て行かないのは出て行きたくないからだ。

耿曙はやめさせようとは思わなかったが頷いた後で、「隠れずに、正門から堂々と出て行こう。」と言った。項余は何とかするだろう。隠す必要はない。その通り、二人が王宮を出ると、知らせを聞いた項余が駆けつけて来た。

姜恒は状況を説明した。「心配しないで下さい。今朝王陛下にはご報告しましたから。」

「だめです、姜大人。どうぞお諦め下さい。これは私の責任なのです。」項余が言う。

耿曙は腕を組んで、桃の木を背に立っていた。

姜恒は耿曙を見て、胸がずきんとした。春風の中の美青年とはこのことだな。

姜恒は耿曙を指さして項余に言った。「彼のあの様子を見て。彼がいたら問題なんて全くないよ。」

「どういう意味だ?この様子が何だって?」耿曙はうれしくなさそうだ。

「美形の刺客ってこと。とても人を殺しそうに見えないような。」

「はは、うそだな。お前に聞くが、じゃあ耿淵は何だ?」

戯言を言い合う二人を項余は仕方なさそうに見ていたが、最後に譲歩した。「私があなた達についていくのはどうです?干渉しないし何も聞かないと約束します。万が一耳に入ったとしても絶対に漏らしません。」

姜恒は耿曙を見て、耿曙は頷いた。項余は馬車を手配し、三人は小さな車の狭い車内に収まった。姜恒が場所を説明すると、項余は何も聞かず、御者に指示を出した。

「項将軍、あんたの御者はどうした?どうしてあの時の者ではないんだ?」耿曙がふと尋ねた。それは既に習慣となっていて自然に出た質問だった。最初に見た項余の御者が次の時には別人に換えられていたことに耿曙はすぐに気づいた。こうしたことに気を配るのは大事だ。身の回りの人間をこっそり入れ替えられて気づかないでいたために殺される人も少なくないからだ。

それがわかっている項余は「前の者は郷里に帰ったので別の者に換えました。ご安心を。」と答えた。姜恒は「中々賢い若者でしたよね。」と相槌をうった。

「彼と話したんですか?」項余は尋ねた。

「うん。少しね。」御者のことを話題にしている自分たちも少し変だなと姜恒は思ったが、何となく間が持たない時には適当に話題を見つけるものなのかもしれない。

それはそうと姜恒はきづいたことがある。項余は歌劇の芸子の少年がとても好きな様子だったし、そうして見ると、将軍府で雇われている者たちの多くは、御者も含めて、皆器量よしの若者ばかりだ。非常に美形とまではいかないにしろ、青年というものは人の気分を良くしてくれるものなのかもしれない。だがなぜか、項余は自分の妻と子に対してはあまり関心がないように見えた。

 

 

ーーー

第135章 桃源班:

 

「あんたは手袋をつけるのが好きなようだな。」再び耿曙言った。

姜恒は目で合図した。余計なことを聞かないで。きっと何か話したくないわけがあるのだろうから。だが項余は気前よく手袋を取ると右手を持ち上げて二人に見せた。そこには赤い火傷の痕があった。(左は~?)

「以前燃え盛る火の中から物を取り出そうとして、両手を火傷したのです。馬鹿なことをしたものです。これが本当の『火中の栗を拾う』ってやつですな。」

姜恒は穏やかな性格の項余を好ましく思った。

「何を取ったんだ?」耿曙は再び尋ねた。

「私にとってはとても大事なものだったのですが、」項余は姜恒を見ながら言った。「ですが、結局最後には燃え尽きてしまいました。」

姜恒は彼が言いたくないのだとわかったので、耿曙にそれ以上聞かないようにと合図した。

「姜恒にも火傷の痕がある。腰の上だ。」耿曙が言った。

耿曙がこの傷跡のことをいつまでも忘れられないのを姜恒は知っていた。これは燃え盛る家の中から耿曙を救い出した時にできた火傷痕だ。耿曙が何度も思い出す理由は、彼が殺すべき相手に情けをかけたために、自分たちが火の海で死ぬところだったからだ。

「あそこにはもともとあざがあったから、大して違いはないんだけど。」姜恒は笑った。

「子供の頃に火傷したのでしょう。火は恐ろしい物だから、むやみに触らないことですね。」項余は手袋をつけながら、言った。耿曙は「うん」と言いながら、項余の目を見つめ、眉をしかめた。「火遊びする者は自分が滅せられる。」

「そうですね。こんな簡単な道理を、焼死してもまだわからない人は多いものです。」

項余は淡々と言った。

姜恒:「?」

馬車は南明坊に着いた。項余は既に二人が何をしようとしているのか、察しがついていたようだ。「桃源の人たちに会いに行くのですか?それなら彼らを王宮に呼び出せばよかっただけのですが。」

そろそろ昼過ぎだ。項余は二人を朱雀宮外に連れて行った。そこは、辺鄙な路地の中に、大小100軒以上の家がある場所だった。演劇班、見世物班、講談師などの仮住まいの地だ。

「ありがとう。」耿曙は項余に淡々と言った。「私は門の外におります。」そう言って項余は二人を通した門を閉めると、王宮の門番のように、戸外に立った。

姜恒が家に入ると、中にいた老女が姜恒の腰牌を見て、「どうぞこちらへ、公子。」と言った。

 

姜恒と耿曙が後院に着くと、芸人たちが休んでいるのが見えた。先日会った背の高い痩せた男性が二人を見て、立ち上がった。姜恒が腰牌を見せると彼はすぐに拝礼した。

「界圭はここにいるか?」耿曙が尋ねた。

「殿下は落雁城に戻られました。拙者は魁明と申します。順列は六番目なので、小六とでもお呼びください。」魁明が首を一振りすると、その場の者は出て行った。姜恒はまだ愕然としたままだ。「今……界圭のことを何と呼んだ?殿下だって?」

魁明は少し意外そうに「はい、王子殿下です。ご存じなかったのですか?」と言った。耿曙の方は「落雁に帰ったって?そんなに急いで帰ってどうするんだ?」と眉をひそめた。

「界圭は越国の王子だったの?」

「はい。ご存じなかったのですね。本当の姓は匂、王族です。匂陳殿下は、本来……太子でした。殿下は去る前に申し付けられました。お二人がいらしたら全力でお助けするようにと。」

姜恒は界圭の身分を知って驚いた。だが、姜家と界圭の関係を考えれば腑に落ちる。

50余年前に越国が亡びた後、王室はしばらく放浪していた。鄭に逃げた者は、郢国の手の者に殺された。最後の世代の後継太子は30余年前に姿を消し、話にも聞かなくなった。

こうして考えてみると、おそらく界圭は改名して雍王宮に逃げ込んだのだ。姜家は越国の大貴族だったし、匂氏は王族だ。だが中原に残って復国を計らない限り、どの国もそれ以上関わらなかったのだろう。

 

「あの夜の刺客のことを知っているか?」耿曙はこの男を信用した。信用しただけでなく、なぜか親近感のようなものを感じる。率直な物の言い方は、越人の習慣なのだろうが、母の聶七の話し方によく似ていたのだ。

「知っています。お二方お座りください。越茶も越酒も、あとわが家の点心もございます。殿下がおっしゃったのです。お二方はいずれこの件について調べるだろうから、先に手配しておくようにと。」

 

項余が屋外で立っていると、あの鄭真という名の少年が白い衣をまとい現れた。外を歩いて来たばかりの様子で、手には一凛の花を持っている。項余を見つけて少し意外そうだった。驚かせてやろうとゆっくり近づいて行ったが、項余は既に気づいていた。

「どうして来たの?ぼくに会いに?」鄭真は笑顔を見せた。

項余は少年の目元をじっと見てから、「違う。」と言った。

「中にいるのは誰?まさか国君?それとも太子?」

「天子だ。」項余は真剣に言った。

鄭真はハハハと笑い出した。「ぼくだって天子だよ。」鄭真は笑い終えると門を押して入ろうとした。

「とても重要な人物がお前の父と話している。入ってはだめだ。」

鄭真は項余の手袋をした手をひっぱって、「じゃあ、遊びに行こうよ。」と言った。

「行かない。」項余は彼の双眸を見つめてそう言うと、何かを思い出すかのように目を閉じた。鄭真は壁にもたれて護衛する項余に付き合った。

「もう長いことぼくに会いに来てくれないね。」鄭真が言った。

「王宮が忙しいのだ。」項余が言った。

「忙しいのは客人の接客の為でしょう?この前連れて来たのは誰?みんな言っているよ。彼はぼくとよく似ているって。この前歌っている時に気を付けて見ていたんだ。あなたはずっと仕切りごしに彼を見ていた。彼が来てからあなたはぼくを見ようとしない。」

項余は応えなかった。

「あなたが好きだった人だね。当たっているでしょう。そうでなければ、あなたは彼に似せて、ぼくの眉目を描いたりは……。」項余は左手を上げ、鄭真を見るとも見ずに、彼の喉に手をかけ、ゆっくりと締め付けた。左手は手袋をつけてはいても鉄鋳のようで、鄭真はもがくこともできず、かといって手を引き離そうともしない。項余を見つめてぼうっとした表情をしている。何か言いたいことがたくさんある、そういう眼差しをしていた。

だがその時、足音が聞こえ、項余は彼を放した。鄭真は苦しそうに咳き込んだ。呼吸が苦しそうだ。項余は別の手を彼の背に当てた。

姜恒が門を開けて出て来た。「項将軍。」

項余はこのわずかな時間に優し気な眼差しに戻り、姜恒を見て眉を上げた。

「私たちは話し合って一つの作戦を立てました。効果があるかもしれません。そのためには何日かの間、ここに滞在しないとなりません。ですがご心配なく。彼らは皆越人です。私にとっては族人なんです。……君、大丈夫?小真だっけ?どうしたの?」

姜恒は鄭真が苦しそうなのに気づいた。背を向けて咳き込んでいる。様子を見ようと近寄ろうとしたが、項余が左手でそっと姜恒の腕を押さえて、近寄らせないようにした。

「大丈夫です。」項余は言った。

鄭真は顔を真っ赤にして、姜恒を見た。こうして太陽の下で彼の目元をよく見てみると、それほど自分に似ていないと思った。

「それで?」項余は姜恒に先を促した。

「私たちは……しばらくここにいるつもりなので、あなたは先に王宮に帰ってください。」

「私は残らねばなりません。あなたの護衛は私の責任ですから。聶海氏の武芸が優れていることは承知しておりますが、護衛の職務を離れさせることはできません。」

項余がそう言うだろうとは姜恒にもわかっていた。

「あなたがいいと言うまでは誰にも言いませんので。」

姜恒は頷くしかなかった。「それではまたご迷惑をおかけします。」

項余は鄭真を見るともなく見てから、姜恒について中に入って行った。

 

魁明は項余が来たのを見ても何も聞かなかった。界圭が信じた人なら彼は信じる。姜恒が連れて来た人も当然信じて余計なことは何も言わずに、朱雀宮と江州の半分を描いた地図を広げて、彼らに説明をし始めた。耿曙は深く眉をひそめて、傍らから聞いていた。

これは姜恒の考えた作戦だ。すぐにでも刺客の来歴を調べ、証拠を掴まねばならないということで皆の意見は一致していた。敵が暗闇に潜み、二人が明るいところにいるのでは、どうにもならないからだ。

 

―――

夜になり、汁琮が玉壁関の軍事報告を聞き終わった時、太子瀧がやって来た。親子はいつも少し話をしていた。変法のことや、家のことなどだ。この時汁琮は突然、手付かずになっていた太子瀧の婚儀のことを言いだした。大きくなったものだ。汁琮は息子に対して強い思いを抱く。いつの間にこんなに大きくなったんだ?

 

太子瀧の眼差しは以前と少し変わった。少し姜恒と似ているが、姜恒が表情を表に出すのに対して、汁瀧は内に秘める。はじめ、汁琮は、聞き分けの良かった息子が姜恒に何か吹き込まれたのだと思っていた。だが落雁での一戦の後で考え直した。姜恒のせいではない。我が子は前から自分を見透かすことができていた。あの従順さは自分を恐れているからではなく、自分が彼の父親だからだったのだ。

「連合会議の前に、父はお前に縁談を持ってこようと思う。」

太子瀧は少し驚いたが、現実を受け入れ、異議は申し立てなかった。

「父上が私に持って来て下さる縁談なら、きっといいお話でしょう。」

「今まで言わなかったが、このところ、父は姜恒の言うことは正しいと考えている。」太子瀧は汁琮がなぜそんな風に話題を持って行ったのかはわからないが、静かに聞いていた。「例えばだ、大乱世においては、表では戦いるだけに見えて、その奥底には我らがしなければならないことがたくさんある。我らは代国を取り込まねばならないが、父はお前の子を代国の外孫にしたくはないのだ。」

太子瀧は小さく頷いた。界圭が父の後ろに控えているのが見えたが、何も聞かなかった。

「父の意図がわかるか?お前に側室を持たせることになろう。周家かもしれないが、まだわからない。」

太子瀧は男女のことについてあまり詳しくないが、だいたいは理解できている。

「耿家に女児がいないのが残念だ。汁淼に妹がいれば、全てうまくいくのに。」

太子瀧は苦笑いせずにはいられなかった。汁琮は我が子をじっと見据え、「ちゃんと結婚させなければな。」と言った。「はい、父王。」父の手配に従うべきだと言うことは太子瀧にもよくわかっており、特に抵抗はない。自分の婚姻は雍国の未来にかかわることであり、自分には決定権がないこともちゃんと自覚している。落雁の一戦で、王室継続の重要性がはっきり示された。父を愛しているし、家族を愛している。父が自分を害することはないと信じている。

汁琮が牛珉を車裂きに処したことは、汁瀧の心を引き裂いた。もう以前の親子関係に戻ることはできなかった。だが、この世に命を与えてくれた親である以上、父が彼を殺したかったなら、自分はそれを認めるしかない。ただ時々思うのだ。大事な臣を殺されるくらいなら、臣に替わって自分が死を賜りたいと。

太子瀧は悲しくも譲りがたい思いを抱くことがある。父を愛してはいるが、憎んでもいる。その憎しみは親しいものを失う苦しみから来るものだった。あまりにも多くの期待を寄せられ続ける太子瀧は、時に姜恒の様になりたいと思うことがある。これ程の責任がないから、どんなことをしても、肯定的に評価される。それに対して自分はどうだろう。良くできれば、後継太子として当然とされ、うまくいかなければ、天下の人たちから罵られても受け入れなければならない。

「もう行きなさい。王祖母にはこのことは言わないように。」汁琮が言った。

太子瀧は出て行ったが、ひょっとして将来の太子妃には何か難点があるのだろうかと考え始めた。姫霜と耿曙の婚約は破棄された。それが太子妃へと変えられるのだろうか。

 

「あれは聞き分けのいい子だ。」汁琮は前に置かれた外交書類に目を通し、王印を押しながら、独りごちた。界圭は何も言わなかった。「聞き分けがいいと、こちらは心が痛み、馬鹿にもなる。この世で最高の物を与えてやろうと思うようになるのだ。お前が彼の傍にいた時にもそうは思わなかったか?」

今回は界圭も応えた。「そうですね。」

汁琮は視線を上げて話を続けた。「一人息子でよかった。李宏のように兄弟で争い家族の幸せを知らず、国家の前途さえ葬ることになれば……。」そこで汁琮はため息をついた。「ずいぶん前に死んだ李勝にはこうなるとは思わなかっただろう。残念なことだ。」汁琮が疑い始めていることが界圭にはわかった。この話は暗示しているのだ。

―――王位継承者たちが争いを始めれば、国家の力は削がれ、汁琅の遠大な志は砕け散ってしまうと。だが界圭は、答えた。「時々私は思うのです。もし自分に兄弟がいて共に力を合わせていたら、越国は滅亡することはなかったかもしれないと。」

汁琮は動きを止めた。界圭は嘲笑したのか、警告したのか、判断はつきかねた。

界圭は考えながら話を続けた。「ですが、後になってだんだんわかってきました。」

「何がわかったのだ?」

「自分に決められることではないとわかったのです。運命にないことは、何をしようがないってことなのでしょう。」

書類を持つ汁琮の手が少し震えた。それは代国に送ろうとしている書簡だった。

突然汁琮は話題を変えた。「お前は怪我をしているだろう。話をすると息切れするようだ。」界圭は答えた。「古傷です。ある冬に城を守っていて落ちた時の。」

汁琮は顔を上げて戸外を眺め、しばらく黙ったのち、「怪我をしたなら休みなさい。今夜はもう護衛はしなくていい。」と言った。

界圭は「はい」と答え、出て行こうとした時に、汁琮は再び、「途中で衛卓に来るよう伝えてくれ。」と言った。