非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 186-190

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第186章 虎を山に返す:

 

湯につかって少しくらくらとしかけた姜恒は、耿曙が丁寧に彼の体を洗い始めると、急いでその手を押さえた。二人は視線を交わした。耿曙は姜恒の緊張した顔を見てふき出した。そして彼の横顔を指の背で軽く叩くと眉をあげた。『お前が何を考えているかわかっているぞ。風呂場で変なことはしないから大丈夫だ。』という意味だ。宮内には侍衛がたくさんいる。こんなところでいちゃついているところを誰かに見られでもしたら、あっという間に知れ渡るだろう。耿曙にだってそのくらいの分別はある。

 

今日の姜恒は口数が少ない。頭の中はゆうべのことでいっぱいだ。全てがすっかり変わってしまったようでもあり、全く何も変わっていないようでもある。以前の耿曙が戻ってきた。二人の関係はずっと以前から変わっていない。

「どうした?」耿曙は尋ねながら姜恒の服を着つけてやり、東宮へ朝食を取りに連れていく。

「べ……別に。」姜恒は不自然に視線を少しそらした。

「口角を拭いておけ。」耿曙が指さした。

姜恒:「……。」

姜恒はうっすらと笑みを浮かべた。耿曙は彼の襟を引っ張り上げ、首についた赤い痕を隠した。姜恒は恨みがましい目線を送ってから、東宮殿に入って行った。

 

彼は再び太子瀧と話し合うつもりでいたが、殿内には姫霜の姿があり、驚いた。

太子瀧は姫霜と軽いおしゃべりをしており、曾嶸、曾宇兄弟も列席していた。

        (この物語で唯一正常な関係の兄弟。あ、孟和と朝洛文もか。)

耿曙は頷いただけで座り、姜恒は笑顔で拝礼した。「公主殿下。」姫霜も淡々と微笑み、「姜太史。」と言った。

太子瀧は姜恒に言った。「霜公主はどうしても今日西川に戻られるとおっしゃるのだ。恒児、君から何とかお引き留めしてくれないか。」

「その方がよろしいでしょう。こちらへ参りましたのは雍王を哀悼するため、弔問をすませましたからには、長居は無用ですから。」姫霜が言う。

 

姫霜は、話が進まなかったことを知り、面倒を避けようと考えているのだろう。だが曾嶸は姜恒に目で尋ねている。『このまま帰らせますか?それとも留め置いた方がいいですか?』

「公主殿、本当に考慮いただけませんか?」太子瀧が尋ねた。

「太子様、ご冗談をおっしゃって。」姫霜は笑顔を見せると、面白そうに姜恒を見た。彼女は初めから終わりまで一度も耿曙を見ようとしなかった。

東宮は姫霜に直接縁談を申し入れ、結果、見事に拒絶されたようだ。だが太子瀧は断られても面目を失ったと感じていないばかりか、ほっとしたようでさえある。

 

「公主殿は、いつ頃出発されるのですか。」姜恒も姫霜を引き留めはしなかった。

「今すぐにです。」そして姫霜は太子瀧に言った。「帰り際になりましたが、思いついたことがございますわ。」太子瀧は期待をこめて姫霜を見て、先を促した。

姫霜は優し気に言った。「姜太史は、かつてわが姫家のために力を尽くして天下を治め、神州を統一する大業を忘れたことがありません。我が皇室の忠臣と言えましょう。太子殿下、彼をお返しいただき、朝廷のために働いていただきたいのですが、いかがかしら。」

姜恒は前半を聞いてまずいと思い、太子瀧は驚いたようだったが、耿曙に至っては突然大笑いしだした。太子瀧は考えを巡らせ、婉曲に断ろうとしたが、笑いを収めた耿曙が厳かに、そして真剣な口調で言い放った。「絶対にだめだ。汁瀧も考えていないと思うが、俺は絶対に許さない。」

それを聞いた姫霜は、ようやく耿曙に淡い笑みを見せ、応えた。「ほんの冗談ですわ。それでは皆様、ごきげんよう。青山つらなり、緑水たゆたう、また逢う日まで。」

太子瀧は立ち上がった。姫霜は上品ながらも気位高く、孤高を保った様子で、あたかも、『最後の機会を差し上げましたのに。』と言っているようだった。

姫霜が出て行くと、東宮は静寂を極めた。侍者が朝食を持ってきたが、姜恒は食べられるような心境ではなかった。

 

「彼らはたったの二千人です。」静寂を破って曾嶸が口を開いた。「今すぐ衛賁に追わせて、口を封じるのが無難でしょう。」

「曾嶸、それはだめです!」姜恒が厳しい口調で言う。

曾嶸は、「手遅れになれば、皆に害が及びます。姜大人、姫霜と李儺を帰国させてしまったら、すぐにでも我が国に向け兵を挙げますよ!」と言った。

「公主を帰路で殺せば、李霄は兵を向けないとでも?」姜恒は言葉を返した。

「殿下!」曾嶸はそれが利を得て害を避ける解決法だと判断している。昨夜から太子瀧に再三訴えてきたのは明らかだ。言葉を強めて言う。「絶対に虎を山に返しては、なりません。殿下!」

 

太子瀧は深くため息をついた。この世には難問が多すぎる。まだ国君になったばかりだというのに。妙齢の女性に間に合わせの求婚をするだけでも気が乗らなかったのに、断られたら殺さねばならないとは。汁琮だったらできたかもしれないが、自分には無理だ。

「今は仁義を考えている時ではありません。」曾嶸が言う。

太子瀧は何も言わない。額から汗が流れてきた。

曾嶸は姜恒と視線を交わした。姜恒は耿曙に助けを求めたりしない。耿曙には全く関心がないからだ。殺せと言われたら相手が誰であろうと剣を持って殺しに行くだけだし、姜恒が決めたことなら当然無条件で引き受ける。

 

「利害を考えてみよう。曾嵘、利が害を上回ればいい。代国にはどれだけ兵がいる?二十万だよね。全てが向かってきた時、雍国は戦えるか?勿論戦える。」姜恒が言う。

曾嶸:「その必要をなくすためです。あの女が大雍を攻撃させると分かっているのに、先に殺しもせず、新たな戦争が起きるのを待てと言うのですか?!」

「だが、まだ何もしていない!どんな大義名分で彼女を殺すのです?!今日彼女を排除すれば、次はどうなりますか?連合会議のことをお忘れですか?どんな顔をして会議を開けます?!曾嶸、それは先王のやり方です。私たちは再び道を踏み外すことはできません!」

太子瀧が結論付けた。「公主は帰らせよう。」

 

曾嶸はため息をついて、ついに譲歩した。「排除しないことにしたのなら、逆に護衛をつけて、安全に代国に戻らせましょう。公主の身に何か起こらないように。」

各国の情勢が複雑な今、万が一姫霜と李儺に何かあれば、問題は更にやっかいになる。

姜恒は言った。「それは当然です。曾宇、あなたが行ってください。」

曾宇は茶を飲み干すと、立ち上がって退席を告げた。耿曙が考えた末言った。「俺が送る。」

「私が行きます。」姜恒は考えを変えた。ふと思った。耿曙と太子瀧には話があるかもしれない。ここで一段落つけるべきことがあるはずだ。

 

 

姫霜は天子の子孫として、自ら安陽に弔問に来たことになっている。縁談の件は秘密で、雍国朝野でさえ誰も知らない。梁人だけでなく、中原人となった雍の者たちも、この公主の来訪に皆跪いて涙した。安陽では汁琮の死後、一番の熱狂的な一日となった。

人々は前の王朝を懐かしんだ。天下が分封されて長いとはいえ、姫家が絶えて7年たっても中原人の心は依然として過去を見ている。行列が安陽城内の主街道から城外に出てからも、依然として少なからぬ人々が姫霜の車隊の後を追い、一里近くもの列を成していた。

 

洛陽が陥落し、姫珣が自害した後では、今回初めて姫霜が姫家の末裔と言う身分で、正式に人々の前に現れた。それは、この天下が未だに姫家の世であるという暗示でもあった。

この一幕を見た姜恒は、曾宇に後ろについてくるようにと言って、馬を走らせ、車隊の間に入って行った。姫霜は四面を御簾に囲われた馬車に乗っていた。御簾を開けると秋風にのって安陽城外の秋の葉が入っていった。

「もう七年ですね。」姜恒が言った。

「百二十三年よ。」姫霜は髪をかき上げながら、目に怒りを湛え、「何が七年なの?」と言った。姜恒が言ったのは姫珣崩御から七年という意味で、姫霜が言ったのは、五国が従うのをやめ、礼楽が崩壊した日、汁氏が星玉を持って塞外に風戎討伐に行ってからという意味だ。

 

汁家が自ら王として立ち、天子のものであった黒剣と星玉をわがものにしたことは、王権が縮小した時代の始まりを象徴していた。

それ以降、百二十三年、諸侯王は徐々に天子を敬わなくなった。偉大なる神州は分裂し、最後には封王たちが天子を追い詰め、自ら焼死させるまでに至った。

姜恒は考えながら言った。「本当は民も前王朝が好きなわけではないのだと思います。ただ、物事がうまくいかない時には、昔を懐かしむものなのでしょう。戦乱の世にはみな、天子がいれば、道を示してくれる人がいればと願う。それは幻想であり、神話です。」

「それはその通りだけど、誰も口に出さないものよ。」姫霜が冷ややかに言った。

「でも私は百数年前の世もきっと好きだったと思いますよ。」姜恒が言う。

「生まれてもいなかった時のことを、好きだとか嫌いだとか言えるの?」姫霜が嘲笑した。

「本で読んだのです。あの頃、各国は、巨兵を国境に置いて戦っていた。十万の雄兵の甲冑が日の光を跳ね返す。他国を服従させるため、千乗の戦車と共に国君も馬車に乗り駆け出す。実力が拮抗するのは常。だけど双方の兵士とも食事のために家に戻っていた。」

 

姫霜は両手を重ね合わせて、ぼんやりと遠くを見ていた。秋の明るい空の祖いた、山の楓の葉が美しく映え、一層の茜雲のようだった。

「対立していた両軍が和平交渉の末撤退したという話もありました。人々を守るため、戦わずして国を挙げて投降したという話も。今とは大違いですね。投降しなければ則屠城。十万、二十万の民を畜生のごとく殺して野に晒したり、河に流したり。それでも足りないとばかりに、車輪斬りにしたり、家を焼いたりして逃げ惑う人々を見て楽しむ。」(全部雍がしたろ)

 

「大争の世では、人の心もなくすもの。」姜恒は暗にこれ以上戦乱を起こさないようにと言っているのだ。姫霜も当然気づいているが、彼女の知ったことではない。「全て人々が選んだこと。かつて我が従兄が洛陽にいた時、天下人の誰が彼を守ってくれましたか?こちらにお乗りなさいな、恒児。」姜恒が車に乗り込むと、姫霜は彼を見つめて言った。「ここ数年、さぞ大変だったことでしょうね。」

「まあそれほどでも。」姜恒は笑った。おかしな話だが、時々、自分と姫霜は腐れ縁の悪友のように感じることがある。

姫霜が言った。「我が姫家のために、身を粉にして尽くしてくれたこと、恩にきていますよ。」姜恒は思った。『前回、耿曙と二人で西川に行った時には、あなたは私たちを殺そうとしましたよね。恩にきているようには全く思えませんでしたけど。』

だが表立っては「どういたしまして。」と言った。「人は退屈するとやることを探すものです。全ては天子の采配。君主の碌を食めば、君主に忠義を尽くします。ですが殿下は……。」

姫霜は落ち着いた様子で一本の小刀を弄んでいたが、それで自分の喉を突いて来るだろうかとは、姜恒は微塵も疑いはしなかった。その代価は大きすぎる。姫家には狂人の血が流れているとはよく聞くが、姫霜は大抵の場合冷静だ。そんなことをすれば、耿曙の方が発狂し報復に来る。

「ですが何?」姫霜は姜恒の方を向いた。

「ですが殿下は、何をお望みなのですか?」姜恒は尋ねた。

姫霜は笑い出した。「私が望みを言ったら、あなたはそれを叶えてくれるの?」

姜恒は答えた。「力は尽くしますが、保証はしかねます。」

「私はね、天子の母になりたいのよ。」姫霜は柔らかな口調でそう言った。「姓が李でもいいし、姫でもいい。趙でも熊でも。姓など何の意味もないわ。」

姜恒は言った。「そういうことでしたら、我が兄は最高の選択肢ではなかったはず。汁瀧のほうがよかったはずですが。」

「汁家の人間がきらいなのよ。ならず者に王族の血筋を汚させるわけにはいかないわ。」

「本当にならず者でしょうか?」

「それにあの汁瀧の不甲斐なさでは、彼を父に持っては生まれた子供たちもみな臆病者になるのは必定でしょうね。」姫霜が言った。

「不甲斐ない人だなどとは私は思いませんが。外柔内剛、堅実な人です。目下のところ、四国のどの太子よりずっと優れています。」そう言いながらも、ようやく姫霜の本心が読めてきた姜恒は、ふっと笑った後、意味ありげに言った。「汁瀧は操れないと思ったのですね。怖いのでしょう。あなたは怖がっているんだ、姉上。」

姫霜は動きを止め、ため息をついた。「怖がるはずがないでしょう。怖がるとしたら、あなたのお兄上ね。あなたたちとは本当に戦いたくないわ。お兄上は強敵ですもの。」

「私だっていやです。」姜恒が答えた。「戦争にならないことを願うしかありません。」

車隊は安陽城境界でいったん止まり、再び漢中へと進んで行った。その先は代国の地だ。

 

 

姫霜を見送った姜恒が王宮に帰ってくると、肌脱ぎした耿曙が二頭のうちの一頭の熊と相撲をとっているところだった。周りは大盛り上がりで、やんやと大声援を送っていた。

「危なすぎるよ!」姜恒が𠮟りつけた。いくら耿曙が強壮だと言っても、熊は彼より頭一つ大きい。それに人間が熊に勝てるはずがあるだろうか。力が及ばないに決まっている。それにもかかわらず、耿曙は動きを停めず、競り落とされないようにと身をかわしていた。

孟和たちは姜恒の怒りの表情を見て、とっとと逃げて行った。耿曙は外袍を羽織り、姜恒に向かって歩いてきて彼を抱こうと手を伸ばしたが、姜恒は急いで止めさせた。王宮内でめったなことはできない。

耿曙:「どうだった?」

姜恒は答えた。「宋鄒に嵩県の防衛を強化させて。漢中との国境に兵馬を駐留させる。少なくとも五万、騎兵を増やして有事に備えよう。」

 

 

 

ーーー

第187章  万世旗:

 

代国は再び雍国との合議に失敗した。だが雍国朝廷は、今は更なる重要事項に目を向けねばならなかった。太子瀧の国君継承に付随して、姜恒の協力の下、人事の刷新が行われたのだ。:

曾嶸は丞相に、周游は御史太夫に、耿曙は大尉に就任し、三公として軍権を一手に握る。

陸冀は太傅に、曾宇は前将軍、衛賁は父の後を継いで上将軍を任され、汁綾は左将軍となった。残りの東宮幕僚は、「九卿」の位を得て、各司の責を担った。そして姜恒は今まで通り、太史令の職を続ける。

とても年若い朝廷である。全て二十代から三十代の青年ばかり。生命力と活気に満ちている。

汁琮薨去の混乱から半年たった安陽は、姜恒や東宮参謀の努力の結果、元の軌道に戻っていた。法令は何の支障もなく進められる。軍、朝廷、三外族は変法によって基礎を固められている。関を越えた雍国は、他の四国と違って、公卿士族の利益に阻まれることはない。

今や雍は、全く新しい国となった。汁琮の暴虐行為はすべてを破壊したが、廃墟を平らにして再建するのは、老朽化した高楼を補修し、突然の倒壊に備えるよりもはるかに容易である。

 

秋の終わりころ、雍は信使を送り、各国に通知した。冬至当日、太史令姜恒、大尉聶海は天子令を以て五国国君を招集し、洛陽城内にて五国連合会議を招開する。

雍国は持てる余力を使い、洛陽城の体裁を回復させ始めた。姜恒と耿曙は先に洛陽に行き、五国連合の準備を始めた。そして洛陽が何とか修繕を終えた時、耿曙は自ら天下王旗を立てた。高さ一丈二尺の四角い尖木で、底が広く先が狭い。

 

姜恒は近くに立って尖木柱が立つのを見ていた耿曙は肌脱ぎ姿で黒漆を塗っていた。

昔洛陽で生活費を稼ぐために初めてついた職業が漆工だった。巡り巡って再び洛陽に戻ってきた今、再び漆工になって新たな天下のため、新たな王旗に漆を塗っている。

かつて王旗は赤だった。晋王朝の天命が「火徳」だからだ。姜恒はそれを水に属する色、黒に変えた。王朝が変わることを天下に暗示するためだ。

耿曙が金漆の筆を持って姜恒に言った。「お前が書いてくれ。お前は字がうまいからな、恒児。」姜恒は笑って言った。「私が二文字書くから、後ろにはあなたが書いて。」

姜恒は古篆で「万世」の二文字を書くと、筆を耿曙に渡した。耿曙はその後ろに、「王道」と書いた。これで王旗に「万世王道」という四文字が書かれた。書き終えると、耿曙は人を呼んで字を刻印させ、暫くそれを見ていた。自分より上手な姜恒の字をほめようとしていた時、姜恒が息をついてから、言った。

「私たちは帰ってきましたよ。天子のお言いつけに背きませんでした。」

耿曙はしばらく黙った末に言った。「そうです。私たちは帰ってきました。」

 

今の洛陽を見れば、四方を囲む城壁は崩れたまま、人々の住んでいたところにも雑草が生い茂っている。かつての天子王宮は焼き尽くされ、宗廟前の九鼎の銅は熔けてがらくたと化している。かつてここに攻め入らせた人たち―――趙霊、汁琮、李宏、熊耒はこの世を去った。まるでその償いのように。

雍国は中原に入ってきてから、この地を再建し始めた。今や洛陽にはぞくぞくと少なからぬ民が戻ってきている。雍軍は彼らの故郷復帰を促すために、労役を募集した。千年の古都を再建するための雛形もすでに準備してある。姜恒も自ら拡張建設の計画書を読んだ。十年後、洛陽は再び天下の中心地としての地位を取り戻すだろう。

 

二人は王宮に入って行った。再建後の王宮はまだ塗りたての漆のにおいがした。姜恒は柱を撫でてみた。ふと奇妙な感覚を覚えた。四つ壁に囲まれた空間はがらんとしている。工人は地面に絨毯を敷き、椅子を置き、買ったばかりの屏風を置いた。かつて生活していた場所を見ているはずなのだが、全てはこうして刷新され、書籍や案巻はすっかり燃え尽きて、書閣は空っぽだった。書閣を出て後庭に入って行く。墨子が設計した温水浴槽があった。兵士たちが掃除をして雑草や苔を取り除き、今年の冬には再び使用できるようになる。

 

「上に上がってみよう。」耿曙が言った。二人は楼梯を上り王宮の頂端にやってきた。耿曙が尋ねる。「鐘を突いてみるか?」姜恒は笑った。「やって。」

耿曙は言った。「これはお前の望みだったんだよな。」

王城巨鐘が架けられている。傷だらけになってはいたが、ふんだんに彫刻を施した六百年歳の巨大な古鐘には魂があるかのようだ。

耿曙を見た姜恒は、彼の意図が分かった。『お前にやらせてやりたいんだ。』

そこで二人は手を取り合って鐘柱にもたれた。耿曙が力いっぱい鐘を突いた。

ゴーーーーーン!

神州の大地が一瞬にして目覚めたかのようだ。人々は歩を停め、高所に目をやった。

ゴーーーーーン!第二鐘が響くと、城中の人々や兵士が振り向いて足を止め、王城の方向に向かって何度も跪拝した。

ゴーーーーーン!鐘の音は山々へと伝わって行く。千万里の彼方にいる、いにしえの魂たちと共鳴するかのように、六座の古時計が小さく唸るような音を立てた。

ゴーーン。鐘の音は時間も迷霧も超えて遠くへと広がる。

ゴーーン、ゴーーン、ゴーーン。九鐘は一音ごとに、その力の復活を皆に伝えた。

 

耿曙は体中に汗をかいて、姜恒を見た。二人は鐘突き台を離れ、高所の頂上に立った。耿曙は姜恒の手を牽き、一緒にはるかに広がる山河を眺めた。

姜恒が言った。「私は決めたよ。兄さん、あの鳥が飛んでいく方向を見て。」

「何を決めたんだ?」耿曙が尋ねた。

「もうこれで充分だってこと。」自分の使命はまもなく完結しようとしている。姜恒にはそれがわかった。

耿曙:「?」

姜恒は耿曙の手を放した。そして、突然瓦のてっぺんから一気に滑り降りて行った。

「恒児!」耿曙はぎょっとした。これは姜恒が子供の頃一番好きだった遊びだ。毎回、落ちるのではないかとハラハラさせる。姜恒はいつも耿曙を頼りに、命知らずのことを思う存分やってきたのだ。耿曙は急いで先に飛び降り、屋根の下に立って姜恒を受け止めたが、勢い余って二人同時に倒れた。耿曙の体に押しのった姜恒は声をたてて大笑いした。耿曙は目を怒らせて叱った。「こんなに大きくなってもまだ悪ふざけが好きなのか!」

姜恒は頭を下げて、耿曙の顔に軽く口づけをした。耿曙の怒りは直ちに収まり、顔が赤くなった。「兄さん、あなたって本当に美男だね。」

「それはお前の方だ。」耿曙は囁き、呼吸が荒くなってきた。姜恒は手を伸ばして彼に触れる。耿曙はその手をつかむと体制を変え、自分が彼の上に押しのると、頭を下げて口づけをしようとした。庭園には誰もいない。ふと、姜恒はかつて氷室に向かう時に見た姫珣と趙竭を思い出し、慌てて言った。「ここではダメ!」

「何がダメなんだ?」耿曙の声に危険な響きが伴う。「あんなことができるくせに、人に知られるのは怖いのか?」姜恒は顔を赤らめ、急いで耿曙を押し返した。耿曙が再び言う。

「来年お前を夏会に連れて行くつもりだから、慣れておくんだな。恥ずかしがってなんかいられないぞ。」

耿曙は元々野蛮なたちだ。動物的な奔放さを、子供の頃姜恒に教化され、少しずつ礼節を守れるようになっていったが、天性というのは変えられるものではない。塞北に駐留していた時、外族の『夏会』を度々目にしていた。それは奇妙な風俗で、雍人は「傷風化」の挙と呼ぶ。水や緑の美しい初夏の頃、恋人たちが篝火を焚き、草原で愛をはぐくむ。恋人たちの中には、氐族男性と少年の姿もあった。赤裸々な野獣のように草原でことを行うのは当たり前のことだった。耿曙は時々、姜恒をそうした風戎人や氐人の集会に連れていけないのを残念に思っていた。この世界に彼が自分のもので自分だけのものだと宣言したかったのに。

 

姜恒は必死で言う。「ダメ……ダメだって……誰か来たよ!ほら!早く立って!」

「誰もいないぞ。そうやってまた俺を騙そうとするなよ……。」言うや、再び口づけを試みるが、「もうやめて!本当に誰か来たんだから……。」

「あんたたちいったい何をしているの?」汁綾の声が背後から聞こえてきた。

耿曙の全身が硬直した。雍国で誰か彼を従わせる者がいるとしたら、それは汁綾ただ一人だ。

姜恒は大急ぎで耿曙を押しのけ、耳まで真っ赤にしながら立ち上がった。そして耿曙の武衣がくしゃくしゃになっているのに気づくといそいで整えてやった。

「別に何も。」耿曙は真顔で汁綾に言った。「ちょっとふざけていただけです。何ですか?」

汁綾は疑わしそうに二人を見た後、厳かに告げた。「関中からの報せよ。代軍二十万が、国境に迫っている。」

 

やはり代国が動き出したか。曾嶸に言われるまでもなく、姜恒にもこうなることはわかっていた。三人は正殿に戻った。曾宇が近づいて来た。「王陛下の命令で来ました。武陵候と姜大人と一緒に対策を練るようにと。」

変法と人事刷新を行う際、姜恒は再び全ての軍に関し虎符を持たせることにした。汁琮在位時のように、軍が系統を越え、勝手に行動するのを避けるため、晋制を踏襲して、汁綾、曽宇、耿曙の3人の最高位の将校それぞれに半符を渡し、汁瀧には三つの逆側の半符を持たせた。軍を動かすには、国君の許可を得て、虎符を一つに合わせなければならない。

直接的には朝廷が関与して、軍に国君の命令を伝える。衛賁率いる御林軍だけが虎符を必要とせずに動ける以外は、この三人が合わせて十万の兵を共同で掌握し、全国の兵馬を常備できる。

 

曾宇はがらんとした王宮の兵室に地図を広げると、そこに座って状況を分析した。

「敵方二十万の軍はこれらの場所に分かれておかれています。命令が下されれば、三路に分かれて我が国の領土に侵入してきます。まずは洛陽が攻撃をうけるでしょう。」

汁綾は傍らに立ち、真剣な表情で地図を見た。耿曙が言った。「俺は今動けない。まもなく連合会議が始まる。離れるわけにはいかない。」

「あんたは朝廷にいたまま、指揮すればいい。状況は随時報せる。私は風羽を連れて行くわ。」

「李霄も来ましたか?」姜恒が尋ねた。

「たぶん来てない。」汁綾が言った。

秋のうちに早めに対応しておいてよかった。崤関を落とされれば危険は増す。雍軍は既に漢中に布陣し、嵩県の防御態勢も強化してある。

 

「もう冬なので、風雪が来れば、代軍も我が国に大戦を仕掛けてこないだろうし、急いで打ってくることもないでしょう。十万で充分では。」姜恒が言った。

「でも敵は二十万なのよ。」汁綾が思い出させた。

「だからこちらも二十万出せと?朝廷は何と言ってますか?屯田兵を呼び戻す?間に合いますか?彼らを兵に加えたら勝てると考えているのですか?」

汁綾も曾宇も答えられない。実際朝廷の意見も姜恒と同じだったので、少ないからと言って、彼を恨むわけにいかない。雍軍は少数精鋭に慣れていた。大抵は二万、三万の兵で十万の敵を蹴散らしてきた実績がある。一度だけ、汁琮が自称五十万、その実二十七万の大部隊を率いて、済州を落としにかかったことがあったが、最後には太子霊の手によって、落としたのは自分の命の方だった。

 

汁綾にも当然わかっていた。今無理に兵を募ったところで、寄せ集めの軍隊を指揮してもうまくはいかない。「守りにはいくけれど、確認したかっただけよ。間違いなく会議は行うのよね。」汁綾が言った。

姜恒は頷いた。「行います。」

曾宇が言う。「初めから我が兄の言う通りに、姫霜と李儺を殺しておけばよかったのだ。」

姜恒は曾宇に向かい真剣に言った。「もしそんなことをすれば、汁家の天下は長くはもたないでしょう。十年もたてば、各地で大乱が起き、再び世は分裂することになります。」

今の雍国の実力なら、本気で戦えば、自国も痛手を負いはしても、西川を攻め落とし、そのまま江州を落とすことも可能だろう。耿曙が兵を率いるなら確実だ。だが、天下を征服したその後は?どの地でも人は前の国に想いを馳せる。荒廃した地では動乱が巻き起こる。そんな危険な統一など、すぐにまた打ち砕かれるだろう。

姜恒が目指すのは速やかなる統一ではない。大国同士の融合には、天下を治めるに足る良策が必要だと言うのが朝廷の考えでもある。うまくいかなければ、雍国の内乱が反面教師とされることになる。

 

ーーー

「報告―――!」侍衛が報せを持ってきた。「国君たちが安陽に向かいました。朝廷大人各位、洛陽に到着。梁国、鄭国国君、崤関通過!」

五国連合会議が、四国連合になるかもしれないとは思っていたが、今では三か国の国君が揃うかさえも危惧される。

かつての四国連合会議では、雍国が手を下し、出席者をきれいさっぱり殺しつくした。それを行ったのは自分の父であった。それでも彼らが来たのは、雍国を信じているからというより、姜恒を信じているからだ。尤も、局面がこのようになった以上、来なければどうなるというのだ。

 

冬至間近の洛陽には大雪が降った。羽毛のような雪が降り続くが、刺すような寒風はない。それは来年に向けいい兆しだった。

洛陽王宮は何とか修繕を終えた。この広大な工程は足かけ二年かかった。雍国は入関後、このために莫大な財力を使った。初めは汁琮が自らの面子のためにだ。天下に君臨した暁には王宮に住む。そのための修繕だった。だが落雁城の大戦後、軍事費は減り、本音ではもう関わりたくはなくなった。幸い、この時宋鄒が手を差し伸べ、嵩県の財力を以て残りの工程を続けさせた。今は洛陽の天気をだけが、気がかりだ。

王宮の屋根には雪が積もり、日の光にきらめいている。天下王都の気象は回復してきた。

外を囲む居住区では、角坊に続々と人が住み着いてきている。商店も増え始めた。五国に向かう商路も開通し、嵩県、落雁を筆頭に商隊もできた。

商人は鼻が利く。まもなく開戦しようという代国の人たちでさえ、金のにおいを嗅ぎつけてやってきている。洛陽は繁栄し始めようとしていた。

 

入浴場も再び使用可能となった。姜恒は湯を宮外に送り出させ、王宮内に露天風呂を作らせた。小雪が舞う中、姜恒は湯につかって数日後に迫った会合のことを考えていた。

 

軽快な足音が聞こえてきた。耿曙が浴袍をまとい、皮草履に足をひっかけて、長廊を歩いて来た。歩きながら腰帯を取る。姜恒が振り向き、耿曙の引き締まった体が目に入ったかと思うと、浴池に飛び込んできた。バシャン!と音を立て、姜恒に湯がかかった。

(日本人としては本当毎回思うんだよなあ。最低限のところを洗ってから入りなさいと。)

姜恒が大声で叫ぶと、耿曙は手を伸ばして彼を引き寄せた。「会議は終わったの?」姜恒が尋ねた。耿曙は少し眉を寄せていたが、姜恒と目を合わせると眉を下げて、うん、と言い、彼を腕の中に抱きいれた。

「状況はどう?」姜恒が聞くのは勿論辺境の代軍のことだ。「さっき風羽が飛んで来るのを見たけど。」耿曙は彼に隠しても仕方ないと思い答えた。「よくはない。更に十万人増えた。李霄がどこから集めてきたのかは不明だ。」

代国兵は合わせて三十万か。姜恒は少し彼らを甘く見過ぎていたようだ。西川商隊は西域につてがある。代人は財力に物を言わせ、西域輪台(ウイグル)や亀茲(クチャ:タリム盆地)辺りから傭兵を雇い入れたのだろう。彼らは今虎視眈々と中原への侵入を試みている。

 

「あなたが行かないと。」姜恒が言った。

「俺は行けない。」耿曙は上の空で答えると、姜恒を自分の膝に座らせ、一緒に空から舞い落ちる小雪を眺めた。

「あなたの力が必要だ。」姜恒は真剣に言った。

「お前はどうするんだ?」耿曙はふざけた調子で言う。

「界圭がすぐに来てくれる。それに洛陽にいるんだ。恐れることはないでしょう?」

 

姜恒は安陽を出る時に、界圭に太子瀧を託した。彼は今や国君の身、万が一代国が刺客を送ってきたら危険だ。自分には耿曙がついていてくれるから大丈夫だ。

「お前の傍を離れたくない。お前と離れる度に、ほんの少しの間のつもりが、いつだって最後には……。」姜恒は連合会議の主催者だ。天子自らに人選を託された者として、耿曙と共に出征するわけにはいかない。「きっと大丈夫だよ。」姜恒は耿曙の顔を撫で、その顔を見上げながら高い鼻筋に指を置いた。耿曙も姜恒を見下ろし、横顔に口づけた。これから始まる連合会議が姜恒にとって重要なのはよくわかっていた。彼らにとっては生きていく上での目標でもある。だが、それについては何も言わず、別のことに思い至った。

「あのことだが、わかったぞ。」

「何のこと?」

耿曙は眉をあげて言った。「お前だって言ったじゃないか。何か違うって。」

姜恒:「???」

耿曙は少し腰を伸ばした。見ないふりをするなと示したつもりだが、姜恒は更に戸惑う。

「ある老兵に聞いたんだ。やつは以前洛陽にいて、今回また戻ってきたのさ。」

姜恒:「?????」

「まあ待っていろ。いずれわかる。」

姜恒:「……。」

姜恒もふと思い出した。耿曙と初めて試した時から、ずっと何か違うと思っていた。過去に二度ほど意図せず見たことがあるのだから。勿論、触れ合いや甘い囁き、熱い口づけだけでもすごくいい感じではあるのだけれど。ただ、何かもう少し先があるような気はしていた。

「充分つかったか?部屋に帰ったら、そのやり方で試してみるぞ。きっと楽しめる。」姜恒は真っ赤になって、拒絶しようと思ったが、内心では期待が膨らんでいた。耿曙の言い方はいつも通りで、まるで何かの遊びにいくかのようだ。「私は……。うん、わかった。」

耿曙は姜恒の頭をなでると、先に自分が浴袍を着て、それから姜恒に着付けてやった。そして彼を抱き上げると、薄い皮履をひっかけて、部屋へと戻って行った。

 

……

 

午後、二人は洛陽偏殿の部屋の中にいた。姜恒はまだ先ほどの余韻に浸っていた。

耿曙は黒い浴袍と黒袜を身に着け、寝台に座っていた。姜恒は白い単衣姿で耿曙の懐に寄りかかっていた。前には屏風が置いてある。嵩県の時と同じ配置だ。あそこは耿曙が住み慣れた場所だったため、姜恒は嵩県の作りをまねて、二人が読書や習字をする部屋にしたのだった。

「何を読んでいるの?」姜恒が顔を上げて尋ねた。耿曙は兵法書を持っていたが、そう言われて片付けることにした。「何でもない。お前の言う通りだ。俺は行かないと。」

行かなければ。李霄が本気でかかってきたら、連合会議すら危うい。漢中から洛陽へは三日で着く。三十万の大軍の行軍を許し城に近づければ、雍国とて危険だ。

「行って。あなたなら勝てる。」姜恒は小声で言った。耿曙は何も言わず姜恒を抱きしめた。

姜恒は焦がれるように彼の胸に顔を何度かこすった。耿曙は再び下を向いて、唇に口づけた。どうやら二人は恋人同士になれたようだ。おかしな話だが、姜恒は子供のころから、耿曙の背中に抱き着くのが好きだった。それに彼が横たわって本を読んでいれば、その体の上に覆いかぶさりにも行ったものだ。

耿曙は昔から自分より頭一つ背が高かった。それは今も同じだ。子供の頃の親密さは純粋で自然なもので、二人ともまだそっち方面に考えたことはなかった。

「いつ行けばいい?」耿曙が小声で姜恒に尋ねた。姜恒は答えずに手を動かし、撫で続ける。「聞いているのに何で答えないんだ?兄はいつ行けばいい?」

 

……

 

二度目は、一時辰近くも続き、姜恒は体が疲れ果てていた。

耿曙は彼を抱き、いつも通り体の上に伏せさせ、ずっと離れさせたくなかった。

姜恒はもうくたくただ。耿曙の力強い腕の上に手を置いた時、ふと妙な考えが浮かんで笑い出す。「今刺客が来たら、二人とも何ともできないね。」

耿曙は下を向いて姜恒を見た。「確かにそうだな。」二人は静かに見つめあった。

「だが死んでも本望だ。」そして尋ねた。「お前もそう思うか?」

姜恒は頷いた。耿曙が最後に言った。

「もしそうなったら、一突きで二人一緒に貫かれて一緒に死ねる。幸せだな。」

「私もそう思った。」姜恒は小さく微笑んだ。耿曙は姜恒の顔を見て、小声で言った。

「俺は明日出征する。俺の帰りを待っていてくれ、恒児。」

 

 

落雁はluoyanで、洛陽はluoyang。英語で読んでいる人は苦労するな。)

 

 

第188章 神州の象徴:

 

洛陽には この七年で一番の大雪が降った。雪は一夜にして王都を覆いつくした。月日の中で洛陽に残された傷跡を全て覆いつくしていた。姿を留めているのは再建された王宮だけだ。そこでは、たくさんの飛楣瓦が朝陽を浴びて輝きを放っていた。

銅鐘も再び早朝の日の光に照らされ輝いていた。宗廟も再建を終えたが、中はやはりがらんどうだ。正殿内では、高所の天子机の中央に金璽が置かれ、王座の後ろの万里江山が描かれた壁には三本の剣が掛かっていた。中央の黒剣は広大な天地を、烈光剣は日輪を、天月剣は月輪を象徴している。甲冑を身につけた耿曙が王座の前まで歩いて来た。

着いたばかりの太子瀧が風塵にまみれ、一口の水も飲まぬうちに正殿にやって来た。

「一本選んで。戦いに持っていく剣だ。一本選んで。」姜恒が言った。

「恒児、お前が選んでくれ。」耿曙が言った。

太子瀧は四方を見回していた。天子の居場所たる本当の朝廷がこのような場所だと考えたことがなかった。今ようやく父が一生切望し続けたものが何なのかがわかった。彼はその一生をかけて必死で正統を追い求めた。その神秘的な力に承認されることを。なぜ祖先が二枚の玉玦を携えて中原を離れたのかもわかった。それは「天命」だったのだ。

荘厳で堂々たる象徴の数々、金璽、玉、剣、鐘、鼎、それらは千万の人々まで届く、一本の道を象徴しているのだ。この殿内にいると、三剣の力に守られている気持ちになる。金璽を手に持てば、神州の主人、天子天子上天の子となった気持ちになり、顔を上げれば、「天意」が下りてきて耳に届く気がした。

 

「黒剣を。」姜恒がそっと告げた。

「そなたに黒剣を授与する。聶将軍。」太子瀧が言った。

耿曙は黒剣を受け取ると、生前父親がしたように、その重い剣を背に負った。

彼は今やこの剣の継承権を持ち、この世で唯一この剣を正式に使える人物となった。

「行ってくる。」耿曙は界圭とすれ違いざまに言った。「彼のことをよろしく頼む。」界圭はこくんと頷いた。耿曙は洛陽を離れ、四万の兵の統領として、漢中中腹の地に向かって行った。

 

 

晋惠天子三十六年,冬。

雍国が関を出て、洛陽を占領し、天下に向けて、五国連合会議を開いた。その意図は、会議という方式により、神州の帰属を決定することだ。

代国は承認を拒み、三十五万の巨兵を漢中においた。剣門関の地では大戦が一触即発となっていた。武陵候聶海が兵を率いて出征、四万の兵で漢中平原を守り、姫霜、李家の西川軍に対抗する。

洛陽の古鐘が二度続けて、六回ずつ鳴らされた。鄭、梁二か国の国君が洛陽に到着したのだ。

太史瀧は群臣を連れて、自ら城門に迎えに出た。車隊は延々と続き、一目ではとらえられない。太子瀧が、「今日の結果がどうなろうと、全ては……。」と言いかけえると、姜恒が、笑いながら遮った。「そんな話は縁起が悪いですよ。確か前回の四国会議の時に畢頡もそう考えたんですから。」

「でも今回は耿淵はいないでしょう?」太子瀧が言った。

「それでも用心にこしたことはありません。」姜恒は小声で言った。その時、使節隊の中に見知った顔を見つけ、笑顔で呼びかけた。「龍于将軍!」

龍于は自ら、鄭国の小国君、趙霊の子、趙聡を洛陽に護送してきた。その他にも、姜恒がよく知る梁王畢紹もいた。畢紹は亡国の君として、長い間済州に身を置いていた。雍軍が鄭国全域から撤退すると、済州は大混乱となった。最後に大鄭を落ち着かせ、元の軌道に戻したのは畢紹だった。趙霊のために、彼が命を捧げた国家を救ったのだ。

鄭、梁両国は昔から姉妹国家であり、汁琮逝去の報が伝わると、大臣たちは畢紹を正式な国君として迎えることを提案した。梁王といっても鄭国の血統でもあるからと。

だが畢紹はその提案をきっぱりと断った。更に危険を顧みず、自ら五国連合会議にやって来たのだ。梁朝廷はなくなった。最後に残った老臣が畢紹の傍に仕え、先に洛陽に着て、雍王汁瀧が彼らに話をするのに備えた。

 

龍于は七歳の趙聡のほかに十四歳の鄭国公主、趙彗も連れてきた。趙聡は急に鄭国国君を継承することになり、畢紹から王君の道を学習し始めていた。二人はまるで兄弟のようだった。

畢紹は幼い趙聡の耳元であれこれと話をしている。どうやら洛陽の風土や人情について説明しているようだ。二人は初めて王都にやってきた。大人になりかけの少年と七歳の子供、二人にとっては全てが新鮮だった。

趙彗はきれいになっていた。太子霊の目を受け継ぎ、武英公主ばりの英気を持って剣を佩き、太子瀧を見つめた。

「ようこそおいで下さいましたね。」太子瀧は趙慧に頷いた。

趙慧は思考を巡らせながら、何も言わずに太子瀧に向かって無理に笑って見せた。

「あなたの父は私の父を殺したわ。」趙慧は言った。

「それはあなたの父が私の父を殺したからですね。」太子瀧も優しい口調で返した。

姜恒は急いで二人の会話に割って入ると、三人に向かって拝礼した。

「鄭王、梁王、公主殿下、お久しぶりでございます。」

「それほどでもありません。まだ半年ですから。」畢紹は姜恒に笑顔を見せた。

これはお笑い種だな、と思いながら、姜恒は趙聡に挨拶をした。二人の国君は穏やかだったが、随行してきた梁、鄭の家臣たちは雍国を死ぬほど恨んでいる。雍軍を目の当たりにすれば、皮をはがし骨を砕いてやりたそうで、当然いい表情とは言えない。

 

龍于は四千の兵を城内に駐留させた。衛賁率いる二万の御林軍が城内要地を守っている。

太子瀧は何と言ってもてなすべきか一時途方に暮れた。言ってみれば、我が父が自ら梁国を滅ぼし、畢紹や朝廷の者たちを亡国へと押しやった。そしてたくさんの鄭人も殺してきた。「ごきげんいかがですか?」などとは到底聞けない。それでは、正に赤裸々な諷刺となろう。

「寒くて道中大変だったことでしょう。」最後に太子瀧は言った。「私もまさかこんな大雪になろうとは思ってもみませんでした。」

「ご心配なく。」畢紹はとてもおおらかだった。手を振ると趙慧に「こちらが雍王だよ。」と言った。趙慧と汁瀧は国君同士が交わすやり方で拝礼しあったが、お互い無言だった。

「遠路よくいらっしゃいました。」最後に曾嶸が場を救いに来た。「陛下方、お疲れ様でございました。どうぞこちらへお越しください。」姜恒は視線を送り、汁瀧にあまり気にしないようにと合図した。皆来たということは話し合う意思があるということなのだから。

 

「姜大人。」臣下の部隊が通り過ぎる時に、優し気な女性の声が彼に呼びかけた。

「わあ!流花!」姜恒は笑顔を見せた。

流花が部隊の中にいた。半年前、太子霊が済州のために命を捧げると決めたあの日、一同は畢紹を国都から逃がし、鄭国太子趙聡と公主趙慧の下に送ることを決断した。鄭に残された血脈を守るためだ。あの時姜恒の提案で流花を畢紹に仕えさせ、小太子と公主の世話をさせることにしたのだった。流花は不本意そうはあったが、城内にいても何もできないと知ると、夜明け頃姜恒と耿曙に別れを告げに来た。だが、当時王宮はバタバタしており、姜恒は彼女を見送ることができなかった。その彼女が今ここに来ている。それも華服を着て、簪から下がる金を揺らし、衣装には梁国の聖獣である黄龍の刺繍が施されている。それに気づいた姜恒は衝撃を受けた。「え、あなた……流花?」姜恒は探りを入れようとして言った。

「こちらは梁国の王妃様です。ご存じなかったようですね。」龍于が言った。

流花は頬をうっすらと染めて姜恒に笑いかけた。事情が読めた。流花は梁王畢紹の逃亡を助けた。おそらく二人は生死を乗り越えたことで心に情が芽生え、生涯を共にすることを決めたのだ!

「おめでとうございます!近々賀礼をご用意させていただきますね!」姜恒は笑い出した。

「お兄さまは?」流花が尋ねた。姜恒は心配させないように気を付けながら説明したが、流花はそれでも不安そうな顔をした。龍于が安心させようと言った。「大丈夫ですよ。聶将軍は神のごとき兵の使い手です。代人たちは歯が立たないでしょう。」姜恒は、会議の前にまたお話しましょうと約束して流花を見送った。

 

急ぎの報せが届いた。耿曙が漢中に着いて、代軍の様子をうかがっている。朝廷の指示を待つとのことだった。汁瀧は軍報を曾嵘に渡し、すぐに臣下たちを集めて会議を行うようにと言いつけた。しばらくするとまた別の報せが届いた。―――羋清が到着したとのことだった。

 

郢国は今長公主羋清を主としている。熊耒と熊安父子が怪死した後、郢国はどこからかともなく、二十歳の若者を見つけてきて、新太子に据えた。名を熊丕という。熊丕は爽やかな好青年で、太子就任時に士族たちから教育を施されたことは見え見えだった。着慣れぬ太子服を身に着け、落ち着かない不安な様子を暴露していた。

「姜太史、お久しぶりです。」羋清が熊丕の背に手を置いて、ゆっくりと馬車を降りてきた。

「公主殿下。」姜恒は彼女に拝礼した後、太子にも声をかけた。「太子殿下。」

熊丕は頷き羋清に目をやった。二人は名義上、叔母と甥だが、実際は羋清の言いなりのようだ。今や羋清は郢地で独裁的な権限を持つ。言う通りにしないわけにはいかない。

 

思い返してみたが、確か姜恒は羋清とは二言三言交わしただけの縁だったはずだ。この公主はもう少しで雍国王后となるはずだった。その場合、汁琮の死後は太后となっていたはずだが、ほんのわずかな番狂わせでこうなろうとは、運命とは不思議なものだ。

汁瀧は、熊耒と熊安への哀悼の意をしっかり伝えることができた。これに関しては雍国は無関係だ。二人は自分の家で怪死したのだから、梁王の時のように言葉を選ばなくてよかった。

羋清の方も哀悼の言葉を告げ、洛陽宮へと入って行った。本日の諸々は全て終わった。姜恒が正殿に戻ろうとすると、汁瀧が感慨深そうにつぶやいた。「みんな来てくれたのだね。」

「誰も来ないんじゃないかと思われたのですか?」姜恒が言った。

「みんな君を信用したのと、顔を立ててくれたんだね。」

「金璽のご尊顔をね。」姜恒は机の上の金璽を見た。「来ないわけにはいかなかったでしょう。解決すべきものがあるのに、来なかったらどうなります?戦いたくなければ、和睦しかありません。さあ、私たちの兄さんが何と言ってきたか見せてください。」

 

姜恒は手紙を広げ、天子御座の傍らに座った。汁瀧も別の傍らに座り、二人とも天子御座に座ろうとはしなかった。姜恒は軍報を読み終え、曾嶸が添付した行軍の議を読んで、すでに解決済みなことがわかると、腰をうーんと伸ばした。

「何もないなら早くお休みください。これから何日か、忙しくなりますからね。」横から界圭が言ってきた。

界圭はそれを姜恒に言ったつもりだったが、汁瀧は自分に行ったのだと誤解し、面白がって言った。「私はもう国君だっていうのに、まだ睡眠のことでくどくど言うんだね。」姜恒が界圭に目配せすると界圭も弁解せず、近くに行って腰を下ろした。

「眠れるものか。これから数日、三国の国君たちと顔を合わせ続けるのだもの。緊張するよ。」

「何を緊張することがありますか。」姜恒は笑った、「皆同じ人間。鼻が一つに目が二つ。あなたが怖がっているなら、彼らだってあなたを怖がっていますよ。」(実は一番年上?)

勿論わかっている。汁瀧は国君だから怖がっているのではなく、彼の父親がみんなの国を滅ぼしてきたからだ。心の中ではもやもやしているはずだ。「仁義」の二文字を気にしなくていいなら殺してやりたいところだろう。おかしなことだが、上は国君から、下は民に至るまで、誰もが弱肉強食という考えには納得している。大争の世では、殺さなければ殺される。だからまずは強くあらねばならない。

 

だが風戎人の言う通り、雍人は神を信じないので恐れを知らない。そこがよくない。ただ鬼神を信じない代わりに孔子の教えは信じる。誰かの家を滅ぼしたり、国君を追い出したり、民を死に至らしめる度に、心には不安や慙愧の思いを抱く。それは雍人だけでなく中原の民の「信仰」なのである。

孔子が、孟氏が、常に頭の中にささやきかけるのだ。「道に適えば助け多く、道を失えば助け寡なき。」耿曙でさえもその恐れは心に突き刺さっている。人を多く殺せば、いつか報いが来る。自分だけでなく家族の身にも。心に突き刺さったこの恐れがいつも人の心に呼びかけ、人が野獣のようになるのを防いでいるのだ。

 

やはり、というべきか、汁瀧がため息交じりに話し出した。「恒児、梁王に会った時、どんな気持ちになったと思う?」姜恒は答えた。「恐れですね。私の父は少なからぬ人を殺し、あなたのお父上はほとんど全ての人を殺して、梁人を今の状態にさせたのですから。」

汁瀧が言った。「周游も曾嶸もみな言う。彼らは復讐をしてこない。恐れることはないと。」

「それでも不安はぬぐい切れない。」姜恒は読んでいた軍報から顔を上げ、汁瀧に笑いかけた。「あなたが恐れているのは、彼らに恨まれるとか、復讐されることではないのですよね。」

汁瀧は頷いた。自分でもよくわからない理由で、畢紹の目を直視することすらできないのだ。

「それは加害者が被害者に対して抱く不安です。例えあなたがしたことではなく、そればかりか力を尽くして阻止しようとしていたのにも関わらず。」

 

汁瀧は言葉を返さずため息をついた。それから言った。「今わかったよ。君と兄さんがいなければ、私は何もできないって。恒児、今日なんてこうも思った。君の方が太子だったら、私よりずっとうまくやれたんじゃないかってさ。」

「全て彼らが招いたことでもあります。」姜恒は正面からの回答を避け、話題をもどした。

汁瀧:「?」

姜恒は軍報をしまい、一杯の茶を淹れ、汁瀧にも一杯渡すと、万里江山正壁を見ながら話を続けた。「申し上げたのは、今の状況は全て四か国が自ら蒔いた種の結果で、誰かの咎ではないということです。」

汁瀧が尋ねる。「彼らがどんな罪をおかしたというの?」

「まずは、天子と趙将軍にあのような死に方をさせたこと。洛陽に進軍した時に、四国は考えなかったのでしょうか。天子が崩御されたら、大争の世がより深淵に向かって落ちていくはずだと。」汁瀧もそれには納得した。姜恒は更に言う。

「もし天子が在位されていれば、封国はかつてのように法令を遵守し、諸候国に戦の兆しが起これば他国が連携して征伐し、今のように深刻な状況にはならなかったのではありませんか?」汁瀧は無言だった。

 

姜恒は尋ねた。「兄上、あなたは、天子とはいったい何であると思われますか?」

汁瀧は考えた末、言った。「お目にかかったことがないからなあ。」

姜恒は首をふった。「天子がどのような人だったかという意味ではありません。お聞きしたのは、天子は何かということです。この場所に座ると言うことは、いったいどういうことなのか?」そして二人の間の空席を指さした。そこは天子の御座だった。

汁瀧は長い間黙ったままだった。そんなことは今まで誰とも話し合ったことはなかった。考えた末、最後に答えた。「一つの象徴だ。弟弟、それは象徴なんだと私は思う。」

「何の象徴ですか?」姜恒は笑顔で尋ねた。汁瀧は答えた。「天下の象徴。」

姜恒は汁瀧をじっと見た。遠くない未来、彼はこの場所に座ることになる。その意味するところを先にしっかりわかっておく必要があった。

姜恒は頷きそれ以上何も言わなかった。彼は汁瀧より早くその事実を知った。以前、海閣でそれについて話したこともあった。

 

姫珣は天下そのものだった。彼は神州の象徴、規則の象徴、王道の象徴であった。彼がこの場所に座ることで、人々に「天下」は生きているのだと知らしめることができたのだ。

彼はただの名前だけの存在ではなかった。千万の人々、果てなき国土、生き物全て、草木の全て、力量や精神、百の河の流れが、この王御座に帰し、それら全てが「人」という形に変えられた、そういう存在だった。

 

かの人物の意思は、即ち神州の意思である。王権を行使し、王道を守る。かの人には責任がある。その責任は、「自己」とは分かたれ、個人の意思は神州の象徴としての身分とは区別される。王座を離れれば、彼は趙竭の恋人であった。王座に戻れば彼は「天下に帰する者」という自己を保持する必要があり、その意思がかけ離れて行かぬよう力を尽くした。

だからこそ人はこう言うのだ。

天子が安らかなれば、天下は平らかなり。:天子が崩御すれば、世には大争が起きる、と。

 

すべての法令は、天下の安定を守り、戦乱を解消し、世を繁栄させるためだけに遂行する。それは王旗に刻んだ言葉、「万世王道」の意味するところであり、百家の学、万民の意志を一体に集めたものだ。

「あなたがその象徴になった時には、もう二度とあなた個人にはなれないのです。」

姜恒は言った。

「よくわかったよ。」汁瀧は頷いた。姜恒が気づかせようとしていることがわかった。まもなく自分がこの「天下」になった時には、人々の悲しみは自分の悲しみとなる。もう国君という身分ではなくなるので、国を分けて考えることはできなくなるのだ。

 

 

 

第189章  太史の威厳:

 

夜になり、漢中平原は大吹雪となっていた。

耿曙が身に着けている袍は姜恒が準備してくれたものだ。襟の内側には姜恒のあの山猫の毛皮が裏打ちされている。分厚くも重くもないのに、とても暖かく、動きやすい。

毛皮は外側にもつけられている。甲や裙に着けられ甲冑から膝などを守っている。

姜恒は今、洛陽で何をしているだろうか。

耿曙にも少しずつわかってきたことがある。元東宮、現在の朝廷は、姜恒に対し少しずつ脅威を感じ始めていた。彼はどうしても太子のように見えてしまうのだ。誰もが無自覚のうちに、自然と姜恒をこの国家の主人のように見てしまう。彼は、全く客卿らしく見えなかった。

これではいずれ、朝廷内部での戦争が勃発してしまうだろう。どんなに有能であっても姜恒は臣下の身であり、東宮が忠誠を誓う相手は彼ではなく汁瀧だ。姜恒が汁瀧の役に立つなら、大臣たちも高く評価するが、汁瀧の王位を脅かす存在になれば、曾嶸たちは反目することになるだろう。

 

耿曙は朝廷を粛正するようなことをしたくなかった。ここ数年、彼はあまりにも多くの人を殺してきた。灯が消えるように、自分が殺した人はその瞬間にこの世から消えてしまう。

彼の人生の中で、一人、また一人と生命が消えていった。両手を血に染め、反対する者を殺していった汁琮も、こんな喪失感を味わったことがあったのだろうか。

自分が姜恒のために人を殺すたびに、彼はとてもつらそうな顔をする。殺さずにはおけない場合にでさえもだ。姜恒には笑っていてほしい。つらそうな顔をしてほしくない。

 

遠くで二匹の子ぎつねが追いかけっこをしていた。追いつくと一緒に転げまわり、互いに舐めたり、引っかいたりしている。自然と姜恒の体の暖かさを思い出し、様々な思いが沸き上がってきた。一緒にいられた時間は短すぎた。思い出せば洛陽に帰りたくなる。彼は自分に言い聞かせた。時間は待ってくれない。二人にとってこの一里、この毎日は貴重なのだ。

代国の患が解決し、朝廷に戻ったら、姜恒のために朝廷と対決する。新たな問題が起こり、今度はとどまることなく二人に襲い掛かってくるだろう。そうなれば二人だけの幸せな時間は僅かになる。

姜恒はすばらしい天子になれる。姫珣に金璽を託された時、それが彼の宿命になった。重要な任務を果たそうとして過ごした日々はあたかも運命に導かれているかのようだ。姜恒はたいへんな努力をして五国を再び一つにしようとしている。壊れた磁器をつぎ合わせようとするように。心を挫くような試練も全て乗り越えてきた。

 

「あなたの望みは何?」そう聞かれた時のことを思い出す。選べるのであれば、昔のように戻りたい。姜恒の正体もしらず、二人で助け合って生きていたあのころに。高い望みもなく、心を惑わせることもない。人生に他の目標などなく、たった一つの責任だけあった:お互いという。

お互いに、相手だけに、責任があった。『あなたを連れて、ここを離れ、どこかに行く。天の果て海の彼方に。』界圭の気持ちさえよくわかる。彼はかつて汁琅に対してそんな風に思っていたのだろうか?ただ対局に身を置く者が、その場を離れることなどできようか?

 

「殿下。」万夫長の一人が来た。

「お前たちがもう戦いたくないのはわかっている。」耿曙は彼を見もせず、黒剣を片手間に弄びながら言った。「俺だっていやだ。もう疲れた。」

万夫長は耿曙にそんなことを言われ驚いた。彼は設営について報告しにきただけだったのだが、まさか耿曙がそんなことを言うと思わなかった。彼は気を使って話を遮らずに、直立した姿勢のまま傍らで聞くことにした。耿曙は再び独り言のように言った。

 

「お前たちに保証する。これが最後の一戦になると。今後五年間は、天下で大戦は起こらないと。だが、その前に我らは生きて帰らねばならない。」

万夫長は答えた。「はい、殿下。設営は完了です。代国は河辺の平原に駐留しています。」

耿曙がまたぶつぶつと呟いた。「平陸は易きに処し、右背に高きを、前に死(低地)を、後に生(高地)を。此処すべし平陸之軍也。」

万夫長は静かに立っている。耿曙が尋ねた。「朝廷から手紙は来たか?」

「来ました。」万夫長は海東青の足についていた布きれを耿曙に渡した。「朝廷は兵を動かさないようにと。会議が終わってから決めるそうです。曾嶸、周游、姜恒お三方の一致した推測では、李霄は連盟を支持する国がいくつあるか見極めてから行動を決めるだろうとのことです。」

耿曙は雪に覆われた平原に目をやり、口笛を吹いた。海東青が飛んできて肩に停まった。

耿曙が突然言った。「一度わがままを通してみたい。俺について来る気はあるか?」

万夫長は驚いたようだ。「殿下。」

耿曙は彼に目をやり言った。「兄弟たちを呼んできてくれ。」

 

四名の万夫長全員が来た。耿曙は彼らを見回してから、黒剣で雪の上に簡単な地形を描いた。

「戦地においては君命受け入れがたき時もある。ここ数年、俺はずっと弟の言う通りにしてきた。彼が行けと言えば行き、退けと言われれば退いた。だか、今日は。」

耿曙は、しかと彼らを見据えた。「俺は自分で決めて戦いたい。たった一度だけ。」

 

 

洛陽、晋惠天子三六年十二月八日。

王宮では雍地の習慣に従って、十二月八日の宴を始めた。冬至を明日に控えたこの日は雍の除夜であった。二日続きの盛大な祝日は、入関して最初の年越しということで、かつてなく盛大に行われていた。汁琮の死後初めての新年でもある。全ての民族が、ー全ての国家というべきかー、持てる活力の全てを一瞬にして解き放った。各部族の雪合戦は会場を落雁から洛陽に変え、城内には野蛮で活気に満ちた混乱が引き起こされていた。(やっぱやるんだ)

 

今日は会議に臨むつもりであった羋清は、早朝にこの一面の雪景色が目に入ると歓声を上げて雪の中に駆け出して行った。羋氏は代々長江以南に住んでおり、これまで数えるほどしか雪を見たことがなかった。それもうっすら程度だ。一国の公主の身でありながら、深く積もった雪を見るや、すぐさま袖をまくり上げて、各国特使と雪玉を投げ始めた。

「公主殿下。」姜恒は苦笑いを隠せない。

「太史、来たのね。」

姜恒は、孟和たちがわいわいと大声を上げてはしゃぎまくり、客人に当たるのではないかと心配になり、郢の人たちを守っていたが、すぐに畢紹や趙慧たち国君も出てきて、王宮外はほどなく、ただならぬ熱狂に包まれた。

畢紹は趙聡と一緒に、雪の砦を作り始めた。その時通達の声が聞こえた。よく聞こえなかったが、馬に鞭を打って、長い街道を走ってくる音だ。「代国汀候、李靳様到着―――。」

 

皆一斉に立ち止まった。声が聞こえた方を見てから、姜恒は退席を告げ、急いで正殿に戻って行った。彼の記憶にある李靳は、羅宣に穴倉に押し込められた不運な城防隊長だ。姫霜とは幼馴染の。二年前、姜恒は彼を説得したつもりだったが、実は相手は羅宣だった。羅宣は一念の差で彼の命を残してやった。今や彼は代国封候で、姫霜の片腕だ。

雍と代は一触即発の状態だ。こんな時に代国は果敢にも代王李霄の代理となる特使を送ってきて、会議に参加するつもりなのだ。

朝廷は大敵に臨むがごとき態度で、正式に李靳に接見した。姜恒は雪まみれになって震えていたが、それでも颯爽と殿内に入って行った。ちょうど李靳が大げさに話している最中で、汁瀧も曾嶸たちも皆、表情がすぐれなかった。

「……弊国国君と霜公主殿下は、最終期限をお伝え申し上げました……。」

姜恒が李靳の近くに来ると、李靳は話を停め、その目には畏怖のようなものが見えた。

「李将軍、ごきげんよう。」姜恒は笑顔で言った。

李靳の表情は複雑だった。出発前に姫霜から々言われていたのだ。姜恒と聶海には気を付けるようにと。実際、姜恒は有名だ。彼の父親が天下の要人たちを殺したことは言うに及ばず、彼と聶海は西川朝野に動乱を巻き起こし、代王李宏すら彼らの手でその地位を降ろされたのだ。

 

他にも、雍王汁琮が済州で不意打ちされたのも、姜恒と無関係ではないだろう。この文人は、武力で世界に冠たる国君に命を罠にかけて排除した。李靳は一瞬気後れした。

「姜太史、お初にお目にかかります。」李靳が言った。姜恒が汁瀧に物問いたげな視線を送ると、汁瀧は穏やかに説明し始めた。「いいところに来たね。代国は我が国に、漢中平原からの撤退を要望するそうだ。会議に参加する条件としてね。」

すると李靳が言った。

「貴国が巨兵を置くのは国境の守りを固めるためだとは存じ上げております。ですが、戦場では何が起こるかわからないもの。和平に傷を落とすのではと心配です。ご存じのように、我が国は三十五万の大軍に国境付近で演習させております。実力の差は歴然。もし万が一間違って当たることになっては、誰も望まぬ結果となりましょう。」

 

姜恒は笑い出した。漢中で両軍が臨戦態勢にあるのはお互い承知していることだ。代国は軍事力で雍国を威嚇しているが、それは汁琮が最も得意とした手だった。耿曙の四万軍は宣戦布告を待つばかりといったところだ。

「ご心配なく。」姜恒は天子御座の近くまで行き、その右手に座った。この並びだと、雍国には二人の国君がいるかのようだ。―――王座を挟んで両側に座した汁瀧と姜恒。

李靳には姫霜が言っていた意味が分かった気がした。

姜恒が金璽を持ってきて、その間に置いた。汁瀧は姜恒を見て、その意図を了解した。

「姜太史は金璽を託された人です。暫時、天子に替わってその意をお伝えしているのです。」

汁瀧は姜恒が天子御座につけばいいのにと思ったが、姜恒は、「雍王はお気になさらず、おかけください。」と言い、李靳に向けては、「別に国境防衛のためではありません。あなた方と開戦するためですよ。」と言った。

朝内は静まり返り、李靳は色を失った。姜恒が再び言った。「五国には前もって会議に参加するよう通達したのに、なぜ代国はこんなに遅くなったのですか?もし来ないなら、天子令を以て雍国に討伐を命じるところでした。手紙を送り、李霄に伝えようとしたのですよ。金璽を蔑ろにするなら、封位を取り上げ、庶人に落とすと!」

李靳は激怒して怒鳴り声をあげた。「お前に天子を代表する資格があるのか?」

姜恒は金璽を持ち上げ、眉を揚げて見せた。「帰って霜公主にお聞きなさい。公主がその資格を認めるかどうかをね。」

たちまち李靳は言葉につまった。姫霜が金璽の力を認めたのはほんの少し前のことだ。だからこそ遠路はるばる安陽に行ってまで大晋姫家の正統を継承させようとしたのではないか。

そうだ!こう言おう。『お前らには天子の遺命があるかもしれないが、こちらには公主がいるんだぞ。』だが、口を開いた瞬間に姜恒が再び言った。「ですが、こうしていらしたのですから、私としても代国が会議に参加する意思と誠意を現わしたことを認めましょう。両国国境での件については、連盟が成立した暁には何らかの返答ができると約束します。」

 

李靳は何も言い返せなくなった。本当は李霄と姫霜が彼を送り込んだのは、連合会議に参加するという形で情報を探らせるためだった。国境の雍軍は数万にすぎず、しかも三軍に分かれている。李霄は軍事に優れた実の弟、李儺に三十五万の兵権を与えた。耿曙など恐れない。堰を切ったように大軍を一気に放って兵の波で彼を溺れさせてやる。

「汀候、どうぞ。」汁瀧はちょうどいい頃合いで合図した。

李靳は暫くしてから出て行った。連れてきた二千の兵については、姜恒の考えではあまり気にせず好きなようにさせておけば良さそうだ。

「彼を監視させて。」姜恒は界圭に命じた。「城内で何をするか見張るんだ。」

李靳の任務は各国に協力させて雍に対抗させることではないかと姜恒は疑っていた。それがうまくいけば、再び相互に牽制しあう状況に後戻りし、神州統一の大業は再び難航してしまう。最後に曾嶸が言った。「明日の会議は重要で何日も続くかもしれません。本日のこの変数について、我らはもう一度よく見直してみなくては。」

姜恒は戸を閉めた。界圭は室内で守りについた。汁瀧、陸冀、周游、曾嶸、姜恒の五人は、会議の章程について、万が一のことも起きぬよう、詳細に見直した。

 

 

「私はまだ金璽をちゃんと見たことがないんだよ。」汁瀧が言った。

深夜になり、大臣たちも皆帰っていた。明日、雍国は、この百年で最も難しい局面に臨むことになる。明日の連合会議で何が起きるかは誰にもわからない。姜恒本人でさえ、まったく予測できないことだった。殿内に残っているのは、姜恒と汁瀧の二人だけだった。

「私もしっかりと見たことはありませんね。」姜恒が最後にそう言った。

汁瀧は黄布でそれを包み直して姜恒に渡した。「表面に刻印されているのは何なの?」

「諸天星官です。」姜恒は布を開いて金璽の一角をじっと見つめた。そこには星座が彫られていた。彼は汁瀧に金璽の中央部分を指さして言った。「天子は諸天に任命された神州の守護者である。金璽を持つこと、即ち天命なり。」

汁瀧は頷いて、金璽を姜恒に持たせた。明日は連合会議が開催され、この金璽が新たなる天子に正式に授与される。それに選ばれる人は、汁瀧に他ならない。

姜恒は汁瀧に頷いてから、部屋を出て行った。界圭が殿外で待っていて、部屋に休みに帰る姜恒を護衛した。

 

 

ーーー

第190章 五国会議:

 

神州は長い暗黒の夜の中にあった。冬至である今日の長夜と同じく、最も短い昼と最も長い夜、大争の世における最も深い真っ暗闇の中にある。あの日洛陽に侵攻した諸侯国の誰も、この闇夜がいつ明けるのかを知らない。

神州はそんな長い長い夜に眠り続けている。永遠に目覚めないのだろうか。刃を交わしあう争いも、この巨人の目を覚ますことはできない。鮮血が流れ、巨人の顔の前に滴り落ちる。諸侯の地、公卿の地、士人の地、人々の血―――それらが一つにまじりあって、荒れ狂う河の流れとなり、時間の波に突き動かされて大地に注がれ、巨人の足元の土壌にしみこんでいった。

ただあの日、姫珣が姜恒に金璽を渡したことは、そんな長い夜に最後に残った星あかりを受け継がせたようでもあった。やがて銀河は少しずつ西に動いて行き、天の果てにほんのわずかな緋色が見え始めた。ついに空が明るくなろうとしていたのだ。

 

朝陽が宮殿の中に届くころ、姜恒は三時辰に満たぬ眠りから覚めた。気分はすっきりしていた。四十九回の鐘が鳴る。かつて毎朝、洛陽で耿曙と聞いた音と同じ、唯一の違いは、今日は朝の鐘の後に、長く尾を引く六音が打たれ、諸侯の代表者が天子王城に集まったことを示していた。

この日を待っていた封国国君たちは、それぞれ会場に来た。そこは諸封の臣が天子に接見する時に使われる「礼殿」だ。屋外に立てられた祭典用の丸い天幕(ゲルみたいな?)で、地面には厚い敷物が敷かれ、神州大地の地図が描かれていた。洛陽王宮の中央にあり、周囲には火盆が焚かれていた。

 

鐘が大きく叩かれ、その音が響く中、最初に梁王と臣下たち、次に鄭王と龍于、鄭国臣下たち、その次は羋清と熊丕と鄭の臣下、最後に代国李靳が入って来た。

百人近い人たちが列を成し、甲冑姿の兵士が国君たちを護衛する。みな封国内の公卿たちだ。

天子御座が北側中央に設置されている。五国の国君たちがそれぞれの位置に座った。代国が西、鄭国が東、郢国が南、雍国が北、梁国は中央右下だ。汁瀧の場所は天子御座から離れていない。姜恒は最後に入って行った。彼が会場に姿を現すと小声で話していた公卿たちがしんと静まり、一斉に目を向けた。

姜恒は太子令の官服姿で、晋制に則って手に符節を持ち、会場に立って周囲からの注目を受けた。突然これが現実でないかのような気持ちになった。七年だ。ようやくこの地に戻って来た。天子の御前に。

「姜大人?」梁王が声をかけた。姜恒は長く息を吐くと、御座の前に行き、誰もいない席に向けて跪いて拝礼した。「天子、安らかなりますことを。」

諸王は一斉に立ち上がった。汁瀧も振り返り、皆は天子御座に向かって跪いて額を地につけた。

「金璽を拝見いたします。天子安らかなれば、天下平らかなり。」国君たちは恭しく口上した。再び連続数回、鐘が鳴り、各人は着席した。姜恒は御座の横に座ると、空席を示した。

「七年前、洛陽が大乱となり、天子は崩御されました。万民は離散し、中原大地は大争に陥りました。こうしてお集まりいただいた各国封王方に対策を話し合っていただきます。」

会場は静まり返り、姜恒の声だけが響いた。「本来であれば、天子崩御の際は、三公並びに趙将軍が諸王に照会すべきところですが、趙将軍と朝廷官員は天子と殉職されました。今や、晋朝廷の中央官員は姜某と聶海将軍しかおりません。聶将軍は兵を率いて出ておりますので、全権を私に委任されました。天子御自らお授けくださいました伝国金璽を以て、この連合会議を主催いたします。国君各位には異議なきことと存じ上げます。」

「異議はありません。」それぞれが答えた。

 

汁瀧は跪いて、天子御座の少し横の角度から姜恒を見た。なんだか見知らぬ人のように思えた。ずっと姜恒を雍人とみなし、雍地に来た時から、汁家の味方だと思い込んできた。だが、この時になって汁瀧にはわかり始めてきた。姜恒の中の隠されたもう一つの本当の身分を。

―――彼は今までどこの国にも帰属してこなかった。初めから終わりまでずっと姫珣に忠義を尽くしてきたのだ。

「皆さま、本日はどんなことでも忌憚なくおっしゃってください。」姜恒は金璽の布を解き始めた。真っ黒い鉄の塊のような物。各国国君たちは今初めてそれを見た。視線は天子卓の上に注がれた。

「天子は崩御されましたが、この璽を見れば、神州の天命を見るごとしです。本日は争いごとを収め、重大な責任を果たしましょう。天下の民のために新たな天子を選ぶという。」

誰もがわかっていた。この大争は行きつくところまで達した。もう新たな秩序を立てるときであると。

 

「それは伝国の字なのですか?」羋清が言った。「見るのは初めてですが、先王が幾度となく口にされていました。ちょっと拝見してもよろしいでしょうか?」

姜恒は金璽を手に取り、皆の前に差し出して見させた。「七年前、天子は遺命として、私に天下の君となるにふさわしいものを探すよう命じられました。」

そして皆に見せた後、この王権の象徴を再び御座の前に置いた。

「ですが目下の状況下ではそれは大事なことではありません。在下(私)は国君たちの意思を聞きたいと思います。未来の神州の命運はお集まりいただいた皆さんの手の中にあるのです。」

熊丕が言った。「天子が崩御されたのは、理由あってのことですが、今は置いておきましょう。」熊丕は羋清と視線を交わした。

姜恒には彼の言いたいことがわかった。あの時、五国が洛陽に侵攻したことは歴史上の汚点であった。雍国は四国が関内で大戦を引き起こそうとしたのだと言い、四国は汁琮が諸侯に命じさせるために姫珣を連れ去ろうとしたことを責める。どちらも譲らず、それぞれに言い分があるので、暫し取り上げないでおこうと言っているのだ。そして一度そこで話を停めた後、熊丕が再び言った。「雍国は昨年協議を反故にし、安陽で盟友に対し開戦し、我が国の十万の兵を屠殺しました。その借りを今日はしっかり返してもらわねばなりません。」

会場は静まり返ったが、これについては群臣たちが汁瀧に言ってあったので、汁瀧は何も気にせずただ笑っていた。「梁国にも言い分があります。」梁王も口を開いた。「安陽、衡陽、照水などの地は今や雍国の占領下にあります。いつお返しいただけますか?姜大人に我が大梁への正義をお示しいただきたい。」

幼い鄭王の横から、諸令解が代弁した。「鄭国は済州の一戦で塗炭の苦しみを味わいました。雍国は残虐非道な悪行を犯しました。汁琮は死んだといえ、死しても罪は残ります。今、誰がこの戦争への謝罪をしていただけるのでしょうか。」

李靳が鼻で笑い、姜恒を見た。自分たちは仇打ちのために来たのではない。この状況を姜恒がどうすることもできず、代国の訴えを今からのむのも遅くはないと言いたそうだ。

 

汁瀧はまず熊丕に言った。「安陽の一戦で、十万の郢軍を殺害したのは雍人ではありません。あれは中毒死だったのです。帰国は遺体を回収した後で、報告を受けたはずです。雍軍も一万近くが犠牲になったのですから。」

熊丕が真剣に言った。「同胞たちが安陽で死んだあと、安陽は雍王に占領されました。あれは汁家による説明です。もし違っていたらどうでしょうか。」

「殿下。」羋清が熊丕に小声で何か言った。

姜恒は汁瀧に目をやった。『どう答える?』

汁瀧は「雍国は再び調査を行い、日を改めて必ず貴国に報告します。」と言った。

 

姜恒は安陽の戦いについて疑っていることがあった。十万以上の人や鶏や犬まで残らず一気に殺しつくしたというのは、羅宣の手によるものではないか。だが、彼の師父が見つからない以上、問いただすことはできない。

「雍王を信じることに致しますわ。」羋清が言った。熊丕はそれ以上異議を述べず、太子と公主は小声で何やら討論しだした。

「それでは我が国のことは?」梁王畢紹が言った。太子霊の死後、畢紹は一夜にして成長したようだ。十二歳にすぎないというのに、すでに大人の風格が垣間見えた。

(十二歳!流花、このショタめ。)

汁瀧は言った。「安陽の乱は、孤(私)の本意ではありませんでした。こうして連合会議が開かれることになり、考えが決まりました。梁国王都はお返しし、照水城は雍軍が暫し管理したのち、三年かけて移譲する所存です。」

汁瀧の話に一同は大騒ぎとなった。まさか雍国がこんな風に土地を手放すとは!

「感謝します。」畢紹が淡々と言った。

 

「戦死した者たちのことは雍王はどう言われるおつもりか?」相国春陵が言った。「親父さんの決めたことで知らなかったなどという言い訳は無用です。今や国君たるあなたの責任なのですから!」

諸令解:「済州の戦いについてはどう説明を?」

汁瀧は答えず、皆は彼を見た。長い長い沈黙の後、姜恒が言った。「雍王、皆さまがお聞きです。どう答えられますか?」

汁瀧は姜恒に言った。「土地を割譲するなり、賠償するなり、各国で戦死した人々への補償は全て受ける所存です。」

その場にいた者たちは警戒した。汁瀧の態度はあまりにも低姿勢すぎる。何かの策略ではないのか?彼の後ろにいた曾嶸、周游たちは皆、諸侯たちの表情を観察していた。負けるが勝ち。今から余計困ったことになるから見ていろよ。

「ただ一つだけ言わせてください。」汁瀧が再び言った。「私も天子に我が大雍への正義を示していただきたい。一年前、梁、鄭両国が連合して雍国領地に侵攻し、落雁を攻城しました。先に戦争を仕掛けてきたものとして、このことへの贖罪は誰がしていただけますか?」

姜恒は梁王、鄭王、及びその臣下たちに目を向けた。

諸令解が言った。「十五年前、汁琮は耿淵を遣わし、四国連合会議の席上で諸国の要人を刺殺しました。これは不倶戴天の仇、全てはそれが始まりです。感情的にも理屈においても。」

姜恒が言った。「その会議での議題は何だったのですか?」

諸候たちの表情が少し曇った。あれは重聞の呼びかけで、関内四国が連合を組んで、雍地を山分けにしようとしたものだ。そこが最も重要な点だ。

諸令解が真顔で言った。「お前ら雍人は虎狼のごとくに今にも関内に侵入しようと……。」

「言葉巧みに話をすり替え、詭弁を行うとは!」姜恒が怒りの声を上げた。「言い逃れをする輩を私が斬れぬとお思いか?!」金璽が卓を鳴らし、大きな音がした。その場の者たちは皆驚き、汁瀧でさえ、少しどきりとした。

諸令解はびくっとして話を中断した。姜恒は顔を怒らせ、糾弾するように言った。

「国君各位は戦乱を終わらせる意図のもとに集まっていただいたと信じます。もし正直に物を言えず、詭弁の術を以て多くを語るなら何の意味がありますか?龍于将軍!」

しばらく時間がたってから龍于がゆっくりと言った。「末将はここに。」

耿曙は会場にいない。姜恒を支えてくれる者がいないのが、この会議での唯一の難点だった。だが龍于は一国の上将軍ではあるが、身分は天子の臣下、晋家の承認を得たというだけだが、身分上は従う必要がある。

「また無意味なざれ口を叩くものがあれば、会場から連れ出し、我が身に与えられた権限に従い、不埒な者を斬るように。」その瞬間、誰もが何も言えなくなった。

 

しばらくすると汁瀧が沈黙を打ち破った。

「十五年前、雍国はまだ玉壁関を出ていませんでした。貴国の重聞将軍は四国を結集させ、我が国土を分割して、民を路頭に迷わせようとしたのです。」

姜恒は淡々と言った。「発生した事実のみについて討論することにしましょう。誰が何を企んだと言う話は無しです。それは挑発行為とみなします。」

「あなた方雍国が不正に位を得たからです。」熊丕が言った。

それは事実だ。百二十二年前、汁家は晋廷大尉に過ぎなかった。爵位はただの公爵だった。雍軍は風戎人を駆逐しに出た後戻らず、塞外に自らの国を立て、各国の怒りを買った。それが王権崩落の源だった。

「天子は招討令を発布しました。そうですよね?」汁瀧は反論した。

それも事実だ。―――姫家は汁氏の行為に憤怒したとはいえ、最終的には彼に七鼎を与え、汁家が諸侯王の位につくのを承認した。責任の所在を求めるなら、その時の天子を探さねばならない。死人に問うことはできないが、いればその天子にも説明を拒否する権利はなかった。百数十年前の話は古すぎる。もう五代も六代もたっている。あの頃各国にはすぐさま雍を討伐する気はなかった。それどころかその機に乗じて王権を分け合ったのだ。誰が一番悪いと言えるだろうか?諸候たちにも返す言葉はなかった。

「そうです。」姜恒が諸侯たちに替わって答えた。「天子は鐘一つ、鼎七つを与えました。汁氏は中央より承認された諸侯であり、その位は正統です。」

汁瀧はまじめくさって言った。「それなら姜大人、国君各位、諸候国がそれを理由に宣戦するのは理屈に合いません。」

「各位はどう思われますか?」姜恒が言った。

梁王が率先して承認した。「上将軍重聞が「脅威」を理由に戦を仕掛けたのは妥当ではありませんでした。ですが、十五年、またそれ以上前から雍と我が大梁の間に土地争いの戦が頻繁にあったのも事実です。」

「規則によれば、各国の間に領土をめぐる紛争があれば、天子のところに赴き、裁定を請求すべきです。天子が採決したのち、諸侯が命令を拒めば、天子令を以て天下が共にこれを打つことになっています。梁国は天子に裁定を求めましたか?」姜恒が言った。

諸令解が冷笑した。百年前から今に至るまでにそうした局面では武力の強い方の話を聞くことになっている。天子の話なんか何の役に立つと言うのか。

「諸令大人、何でしょうか?」

「それは朝廷こそ反省すべきです。なぜ天子の命令に諸侯が従わないのか?どうです?姜大人、これは事実です。私は事実を言っているにすぎません。殺したければ殺せばいい。恐れるものか!」

「各国国君も反省すべきですね。土地を争って財力を使って休むことなく戦うのはなぜですか?本当に生きるための戦いだけでしょうか?」姜恒が言った。

「姜大人の言う通りです。」幼い鄭王がもう黙っていられずに口を開いた。「みんな大争の世だから自分だけのことだけを考えてはいられないと言います。でも、最初に仕掛けたのは誰なのでしょうか?人の心が欲に取りつかれているからではないのですか?」

 

「しぃっ。」龍于がすぐに小鄭王に合図した。自分の国の人を責めないようにと。

「子供にもわかる道理です。」姜恒はため息をついて言った。「国君が下す全ての決断は、領地内の数多の民の生死にかかわります。諸令大人、私にも汚れなき心があったようです。本当にがっかりしました。」

熊丕は冷笑した。言葉では姜恒にかなわないので嘲りの表情を浮かべる。

羋清は真剣に姜恒を見る。梁王畢紹はため息をついた。

「雍国は本当に梁国領土を返してくれるのか?」畢紹が言った。

「はい。」これには汁瀧が躊躇なく答えた。「まずは誰かが譲歩しなくては。これは孤王と姜大人が早くに決めていたことです。今日の会合で皆の意見が一致しようがしまいが、安陽を力で占領することはありません。」

 

姜恒は黙ったまま一同を見回した。

「姜大人は本当にここで問題を解決するつもりなのですね。」春陵が考え考え言った。

「姜大人の行いに敬服いたします。」春陵は嫌々ながらも敬服した表情をし、龍于を見て尋ねた。「姜大人は何年か前に雍王を暗殺しかけて、玉壁関から大軍を撤退させたあの……。」

龍于は頷いた。「そうです。その人です。本将軍は話をする立場にはありませんが、敵とはいえ、雍国王都を守り、亡国の危機から救った。そして、彼と聶海将軍は済州を守った。年若くして天下を渡り歩き、どの国でも民を救ってきた彼らを自分の家族のように……。」

(汁瀧の前で済州守ったとか言っていいのか?ヒヤッとした、今。諸令解だってバラさなかったのに。)

姜恒はそんな誉め言葉は聞きたくなかった。突然疲れを感じ、龍于の言葉を遮る。

「その通りです。皆さまに来ていただいたのは問題解決のためです。ですが、皆さまは自分のことばかり。このままではたくさんの問題は永久に解決しないのではと心配になります。」

羋清が言った。「私たちがここへ来たのは、問題を解決するためもあるけど、もう戦わないためです。」それは七歳の趙聡にもよくわかる道理だ。今の天下はかつてとは違う。戦乱による破壊が神州大地を暗闇の中に沈み込め、人々は耕作することもできない。良田は荒れ地と化し、家々は廃墟となった。いったいいつになれば終わるのだ?

 

「ですが、問題はどう解決すればいいでしょうか?少なくともここに来られたということは、皆の目標は同じだと私は思います。私達は再び決まりを持つ必要があるのではないでしょうか?百年前に戻り、古くなった規則や王道に従い、少し休んで再びやり直すべきでしょうか?それとも規則など打ち破り、この百年行ってきたように、最後に大きな戦いを経て、天下の帰属を決めるべきでしょうか?

この会議が終わった後で、二つの答えを得るでしょう。」姜恒は李靳を無視して他の諸侯たちに向けて言った。

 

「一つ目は中央朝廷を新たに作り、天子を奉り、新たな政令を遂行し、一切の戦争を止めることです。:二つ目は各自国に戻り、軍隊を招集し互いに殺戮しあうことです。一方が他方に対し徹底的に勝利し、今ある全てを捨て去って、一からやり直すのです。」

姜恒は手を広げて言った。「ここ数年来、姫天子の遺命を果たすため、私は全力を尽くして来ました。金璽を授与すべき新たなる王を探し、新たなる秩序を打ち立てるためにです。ですが戦争で勝敗を決めるという方法もあります。どちらがいいと思われますか。」