非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 136-138

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第136章 塵に埋もれた故事

 

夕日が西の空を照らす頃、南明坊の巷内は急に活気づく。その日の稼ぎを得ようと、芸人たちが朱雀宮に行く前の準備を始めるのだ。

姜恒は筆を持って耿曙の眉を書き上げた。耿曙を姜恒の姿に変装させ、背が高く痩せた魁明を耿曙に変装させる。

耿曙は鏡の中の姿を見て、「似ているな。」と言った。

項余は腕を組んでその姿をしばらく見てから、魁明扮する耿曙を見た。

「本当はさ、六兄さん、あなたを変装させる必要はないんだけど。」姜恒は苦笑いした。知り合ってまだ半日だが、なぜか親近感を覚える彼を、姜恒は劇班の人たちに習って『六兄さん』と呼んでいた。

「彼は背が高いので、単独での変装だとばれやすいです。二人でいれば対比による錯覚でばれにくいでしょう。」魁明が説明した。

姜恒は毎日耿曙から離れることがない。耿曙が自分に扮しても、体形の違いははっきりわかる。魁明が耿曙に扮すれば、二人の対比で似て見える。

「お前は娘に扮するのか?」耿曙は未だに初めて姜恒が変装したあの姿を忘れられない。

「あなたは鄭真になればいい。」魁明が言った。

「体形が違いますし、考えがあるんです。」姜恒が答えた。

そういって姜恒は奥の部屋に入って衣装を着替え、娘に変装した。

耿曙:「……。」

女性に変装すれば簡単にはばれないだろう。姜恒は耿曙の手をひっぱって自分を連れ歩くようにさせた。「よしと。じゃあ行きましょう。」

一同は車に乗って朱雀宮に行き、今晩のお楽しみである観劇を始めた。

姜恒に扮した耿曙と、耿曙に扮した魁明は同じ部屋に入り、女装した姜恒と項余が別の部屋に入った。

姜恒の計画では何日かの間、二人は続けて朱雀宮で観劇をする。その後馬車で項余の家に向かうが、桃源班の者が隠れて尾行し、誰かついて行く者がいないかを調べるのだ。一度失敗している王宮内では敵は警戒するはずだ。もう易々と入っていくことはないだろう。項家に泊まることも、姜恒の気晴らしとし考えれば理屈に合う。

王宮にいたままでは姿を見せなかった敵も姿を見せるかもしれない。そうしたらこっちのものだ。

 

朱雀宮にて。

「奴らは来たか?」耿曙は別室にいる姜恒に目をやった。姜恒は気が大きくなっていて、上演されている講笑談を聞いて笑い声をあげていた。項余は手酌で酒を飲んでいた。

魁明はずっと言いつけ通り、話しかけられなければ何も言わずにいたが、問われたからには答えた。「来る可能性は高いと私も思います。毎日外出すれば、奴らも手を出して来るでしょう。」

「あんたの武芸はどの程度だ?」耿曙が聞くと、「公子はご安心下さい。」と魁明は答えた。簡単に安心などできない。魁明は今、彼の部下の立場だ。部下の命に気を配ることは彼にとって原則だからだ。

「界圭と比べてどうだ?」

「天下五大刺客の前では、全力で戦えば、或いは逃げ切れるかもしれない程度です。」

「大きく出たな。まあ五大刺客もとっくに名声は聞かなくなったが。」

「あなたはお父上の位置にいらっしゃるのでは?五大刺客は今でもいますが、鳴りを潜めているだけでしょう。それぞれ手を下せば、一国の行く末を左右し、大きな影響を与える人達です。時には直接手にかけた者より、巻き込まれた人たちの数が十万倍にもなることもあるでしょう。」

魁明は耿曙の正体を知っているようだが、界圭が言ったのだろう。

「俺の父に会ったことがあるのか?」耿曙は尋ねた。

「ずっと前にですが。梁太子畢頡のために演劇した際に、安陽宮で一度お目にかかりました。畢頡の後ろに座って目元を黒布で覆っていました。」

「どんな姿をしていたかもう俺には思い出せない。」耿曙はつぶやいた。かつての父の面影は月日が経つうちに曖昧になったし、あの頃は自分自身がまだ幼かった。

「よく似ていらっしゃいますが、もう少し優雅な雰囲気の方でした。」

耿曙は姜恒の方に顔を向けた。「俺は優雅とは程遠い。美しい娘は皆優雅な若者を好むだろうな。」耿曙はかつての母が父に向ける愛情を思い出していた。

 

「五大刺客の内、項州が亡くなったのは惜しいことでした。わかっているのは亡くなったということだけで、どこに葬られているかも知られなていないとは……。」

「惜しくはない。いつか天下の人たちは知るからだ。項州は全ての人の恩人だったと。」

あの時項州が姜恒を救わなければ、雍国は今頃こんな風ではなかっただろう。汁琮の暴虐や、残忍な鉄騎に抵抗できるものはいなかったかもしれない。だが、姜恒が作り上げた変法は、汁琮が天下統一を果たしたとしても、その後効力を発揮するはずだ。

 

「江湖での噂話では、あなたは耿淵の位置に替わり、羅宣は行方知らずですがどこかにいるはずで、界圭も健在です。本当にいなくなったのは公子州だけです。」

「神秘客というのは誰だ?」耿曙は最後の一人のことを思い出した。姿を現したことはなく来歴も謎だ。一番情報が少ない人物だが、姿を現したことがないなら、なぜ誰もがこの人物のことを知っているのか?はじめ姜恒は孫英のことではないかと言っていたが、耿曙は鼻で笑った。それが孫英なんかであれば、五大刺客の首として名を揚げられる父はとんだ恥さらしと言うことになる。

魁明は答えた。「わかりませんが、神秘客は王族だという人もいます。手を下すことが少ないのは、必要がなかったからだと。」

耿曙は眉をひそめた。『王族』というと希少なようだが、範囲は広い。五国中の王族は、宗室を意味していると限らず、末端まで集めれば、千人以上にはなるだろう。

 

舞台上では説話師がべらべらと話し続けていた。ほとんどの話は読んで内容を知っている姜恒は興味を失い、項余に話しかけ始めた。「将軍、私に付き合って下さらなくていいんですよ。」「話が面白くないのですか?劇が良くないですか?それでしたら、彼らに言って換えさせますから。」項余は松の実をむいて食べた。姜恒は笑った。「いいえ、面白いです。」

「おもしろいなら見ていて下さい。私のことはお気になさらず。姜太史。」

そう言うと、項余は謎めいた眼差しを彼に向けた。「やはり換えるように言わせましょう。」

姜恒は慌てて言った。「いいえ。おしゃべりでもしましょう。それもいいでしょう?」

今夜の項余はずいぶん酒が進んでいた。結構な量を飲んでいる、と姜恒は見て取った。

「あまり飲みすぎないように。」姜恒は言った。

「聶海に対していつもこんな感じなんですか?」項余が言った。

「ええと……一杯お注ぎしましょう。」

項余は姜恒に眉を上げて見せた。「何を話しましょうか?言ってください。お付き合いしましょう。今宵はたくさん話そうではないですか。」

姜恒は面白いと思った。項余の表情はいつもと変わらないが、眼差しは酒意のせいか茶目っ気を帯びている。その眼差しは一気に姜恒との心の距離を縮めた。あたかもずっと前から慣れ親しんだ間柄の様に感じた。

「私の大師兄の項州は……いえ大師伯は……いつ海閣に行ったのですか?彼をご存じのあなたなら、覚えていらっしゃるでしょう?」

項余は姜恒が項州のことを言い出すと、酒に手を付けながら考え込んだ。「忘れました。ただ、私が子供の頃、彼は良く武芸を指導してくれました。」

「彼はどんな人でした?」

「見目良き人でしたね。彼の顔を見たことがあるのでしょう。公子州はかつて郢地では有名だったのですよ。」

「見たことがあります。それで彼は王族のままでいないで、なぜ刺客になったのでしょう。」

姜恒はきっとまだとても小さい頃に江州と出会っていたのだろうと考えていた。洛陽の時は十二歳だったが、項州は家族の様に思えた。

「姜昭を好きになったからです。」項余が手袋をつけたまま松の実を剥がすのは不便だろうと、姜恒は代わりに実を剥がして皿の上に載せてやっていたが、思いがけず母の名を耳にして、心に万感があふれ、そっと頷いた。

 

「人を好きになれば、どんなことでもしてやりたくなるものです。」項余は腕を枕に横たわりかけて、すぐにまずいと気づいて座りなおした。

姜恒はそれには気づかず、小声で言った。「ということは、武芸を修練したのは母のためだったんだ。」

「意中の人の心は得られず、天下第四位の大刺客になるとは、天意とはいじわるなものです。」

「彼は王子でもいられたのに、母は彼の気持ちをもてあそぶべきではなかったね。」

「時には本人にその気がなくても、一生を左右するような出会いはあるものです。もし、『もてあそばれ』ずにさっさと縁を切ることができるなら、世にこれ程多く馬鹿なことをする男や恨みを抱く女はいないでしょう。実のところ、これには長い話があるのです。」

姜恒は項余を見つめた。「話してくれる?」

「聞きたいとおっしゃるなら。」

「話して。将軍のお話の方が、舞台の説話師よりずっとおもしろいから。」

項余はまた笑った。今日の彼はとてもよく笑う。飲んでいる酒量と関係がありそうだ。

 

「越人姜氏はかつて越国が滅びた後、復国を目指していました。このことはあなたもきっとご存じでしょう。」

「以前は知らなかったけど、今では知っています。」

「越女姜昭とその妹、姜晴は郢国に助けを求めた後で、雍国に助けを求めに行きました。当時、越太子匂陳が長城を出て塞外に逃がれ、汁琅の元に行ったのです。越人耿氏、つまりお父上の一族ですが、汁家の指揮下にあったのです。四大家の一つとして。耿淵は耿家の一人っ子でした。

「うん、それから姜晴が汁琅に嫁いだんだよね。」

「その前に姜昭のことです。公子州は彼女に一目ぼれし、郢国に越地の復国を求めましたが、国陛下は……利弊均衡のため、認めず、姜昭は去って行きました。」

「その頃母は何歳だったの?」自身の母の身の上話を聞くのはなんだか不思議な気持ちだ。

「14、5歳くらいでしょうか。よく覚えていませんが、我が族兄の公子州はまだ16でした。」姜恒は頷いた。「それから母は雍国にしばらくいたんだよね。」

「そうです。汁家は最初匂陳に応え、界圭と名を変えた大刺客に、越人王族と姜家を落雁に留まらせ、彼らの復国を助けることにしました。だが汁琅が界圭を騙して、姜晴を娶った後……。」

「そうだったの?彼は越人を騙したの?」

項余は眉を少し動かしてから言った。「聞いた話なので真相はわかりません。みな、汁琅は彼を騙して、復国のために兵を出してやらなかったとか、王族の礼をもって彼を扱わなかったとか……。」

姜恒は界圭から聞いた話を思い出してみた。「だけど界圭は彼に思いを寄せていたと思うけど。」

項余は特に言い争いもせず、頷いた。「姜昭は元々汁琮に嫁ぐよう手配されていました。もしそうなっていたら、あなたは汁琮の息子で、今頃太子でしたね。彼女はあの頃死も辞さず、復国できないなら、死んで故国に詫びると言ったそうです。」

姜恒はクスリと笑った。「その場合、私は生まれなかったね。」

「最後に耿淵が彼女を娶りました。公子州は師門を出てから、彼女を追って越地に行きました。……そこから先はあなたもご存じのとおりです。」

人の両親のことを議論するのは失礼だ。項余はここで話を止めた。

「その後私が生まれたことで、最初の頃の執念も全てゆっくりと消えて行ったのかな。」その時、項余が思わぬ行動をとった。姜恒の肩を引き寄せ自分に近づけたのだ。

姜恒は慌てて言った。「項将軍、飲みすぎの様ですよ。」

「聞きなさい。私は飲みすぎてはいない。よく聞きなさい。」項余は真剣な面持ちで、姜恒の耳元に近づき、ごく小さな声で囁いた「姜大人、よく聞くんだ、」

仕切りの向こうでは耿曙がずっと姜恒と項余の様子を見ていた。元々姜恒が項余の話を聞き始めた時から気分が悪かったが、項余が彼に手をかけた時、もう座っていられなくなった。「行って彼に言うんだ。離れろと。」耿曙は魁明に言いつけた。

魁明はすぐに立ち上がって、部屋を出て外に行き、階段をまわって項余の部屋に行った。

 

だが、姜恒の表情は真剣味を増した。項余の息はわずかに桃花酒の匂いがするが、飲みすぎて羽目を外したというよりは酒の力を借りた感じで、囁いた。

「郢国の王族には誰一人としていい人間はいない。誰も皆悪鬼のごとき輩ばかりだ。」姜恒は項余をじっと見た。項余は話し終えるとすぐに姜恒を離した。そして彼にいたずらっぽい顔を見せると笑い出した。魁明が扉を押して入ってきたが、項余は手を上げていった。「わかっている。もうしない。以後気をつけよう。」

耿曙の表情は暗い。その時、給仕が食盒を変えに来て、手付かずの皿を片付けて行った。耿曙はすぐに目をあげて、給仕の方を見た。

給仕は片付けながら、姜恒に扮した耿曙を見てほほ笑んだ。「あなたを殺しに来ました。大人、あなたには十二時辰の時間を与えましょう。残りの時間を……。」

『姜恒』の動作は素早かった。天を裂く稲妻のごとく、相手を攻撃した!

朱雀宮のあちこちから大声が上がった。大きな音を立てて、給仕の体が後ろ向きに飛び出した。耿曙の飛び蹴りを胸に受け、空中に鮮血を噴きながら、三丈の高さがある大庁から落ちて行った。舞台下は大混乱となった。魁明はすぐに反応し、口笛を吹いた。耿曙は追いかけはせず、仕切りの垂幕を越えて、姜恒と項余の所に行った。追いかけてしまえば、敵の陽動作戦に引っかかってしまうかもしれない。耿曙が変装を解くのを見た項余はすぐに立ち上がって、侍衛に朱雀宮を封鎖するよう指示を出した。

「行くぞ!」耿曙は姜恒の手を引いて、もう一方の門から出て行った。朱雀宮は大混乱しており、刺客の行方はつかめなかった。

姜恒は階段を駆け下りながら尋ねた。「どっちの方向に逃げたかわからないの?」

「わからん!」耿曙は袍を脱いで、黒い夜行服姿になった。「お前たちはくっつきあって、あっちで何を話していたんだ?」

「別に何も……ってそんなこと話している場合?早く追って!」

殺し屋を逃がすのは姜恒の計画の一環だ。だが耿曙は階段の上に立ち止まって、姜恒の手を握って離さず、どうしても言わせようとした。「言わないなら、追わないぞ。」

「追いかけてよ、後でゆっくり教えるから!」もう頼み込んでしまいそうだ。焦りが声にも出るが、女装をしていることは忘れていた。

耿曙はフッと笑うと姜恒の横顔を撫でた。「からかっただけだ。」

二人は朱雀宮を出た。邪魔者はいない。耿曙が指笛を吹くと、朱雀宮の外で待っていた海東青がすぐに降りて来て、ぐるりと旋回すると、東北の方向に飛んで行った。耿曙は馬に飛び乗って、姜恒を引っ張り上げ、二人一緒に馬に乗った。それは項余が準備しておいた馬で、蹄には綿布が巻いてある。馬は長い街道に沿って走り去って行った。

姜恒は耿曙の腰に手を回し、頭を上げて彼の顔を見た。耿曙は彼の心配に気づいていて、「見失いはしない。」と言いながら自分の腰を抱いている姜恒の手をぽんぽんと叩いた。

姜恒はふと気づいた。夜行服は耿曙の体にぴったり張り付いていて、肩や背、長い脚を際立たせている。昔見た趙竭のような印象だ。今や耿曙は趙竭を思わせる大人の男性で、もう少年ではなかった。

「気を付けて!物に当たらないようにしてね!」

「フウゥ!俺の騎馬はそんなに下手か?侮辱したな!間違いを認めろ!」

耿曙は馬の腹を両足で挟んだ。彼の騎馬の技術は南北の険しい山の中で鍛えられたものだ。城壁や屋根の上を駆けるのだって朝飯前だ。江州の暗く狭い路地を走ることなど何でもない。

「わかった、わかった。あなたは天下で一番。あなたは最高。あなたがいる限り、私に何かおこるはずがない。もう王宮に帰って寝ることにしようか?」

「それはだめだ。」耿曙はもう少しこうした楽しいいやり取りを続けたかった。「お前が近くにいなければ俺は天下で一番にはなれないからな。誰かに見せつけてこそ威風は引き立つんだ。違うか?」

 

 

ーーー

第137章 教坊にて:

 

夜の街で敵を追いかける時に姜恒を連れていくのは危険だったが、耿曙は姜恒を誰にも任せられず、自分の傍にいさせなければ安心できなかった。

ついに、海東青が三階建ての建物の上に降り立った。

「何でまだ誰も来ない?」耿曙は振り向いて、項余が差し向けた者が誰も来ていないのを不満に思った。

ここは朱雀宮から離れてもいず、南明坊のすぐそばだった。川に面した木楼から嬉声が聞えて来る。朱雀宮の煌々たる灯火とは違い、小楼は灯篭の柔らかな灯に包まれていた。

「入って見てみようよ。」姜恒は耿曙をせっつき始めた。「天下一の旦那は怖いもの知らずでしょう?」

 

耿曙は先ほど刺客に先手をうった。敵は不意打ちに合い、無防備な状態だろう。全力の一撃を受けて狼狽しているはずだ。今姜恒を外に置き去りにして自分だけ潜入するなど絶対にできないが、待っていても埒が明かない。取り逃がしてしまったら、時間をかけて状況が変えられてしまうかもしれない。

姜恒はもう耿曙の手を持って塀の中に走り出していた。耿曙は顔色を変えた。「だめだ!待つんだ!」

すぐに庭に夫人が出て来て笑いかけた。「あらあ~いらっしゃい。なぜ今頃またいらしたの?」

姜恒は笑顔で言った。「彼のせいです。ずっと待たせるから。」

「早くおはいりなさい。」夫人は姜恒の世にも美しい女装姿を見て、客引きをしに行った娘だと思い、早く中に入って酒をふるまうよう指示した。これは人目を引く。恐れた耿曙は警戒心から、姜恒の後をついて中に入っていくしかなかった。

 

場違いな時、ところに来てしまったようだ―――

婦人:「?」

婦人は耿曙の体にぴったりと貼りついたような武服を見て、これは寝間着なのか判別しかねた。姜恒が半ば隠すように前に立ち、瞬く間に二人は中に紛れ込んでいった。

「あの女を知っているのか?」耿曙が尋ねた。

「知らないけど、挨拶したらだめなの?ひょっとしたら夢の中で会ってたのかも。」

耿曙:「……。」

姜恒は耿曙を引っ張って庭園の中に隠れようとした。二人は夜の闇に身を隠した。

「あの部屋だ。」耿曙は姜恒に屋根の一番東側を示した。川に面した部屋だ。海東青がひさしの上に停まっていた。姜恒が耿曙の首に手を回すと、耿曙はひさしに手をかけ、人を抱えているとは思えない風のような動きで軽々と屋根に上がった。

「ここはどういう場所なんだろう?」姜恒が尋ねた。

 

耿曙は屋根に手を当て、耳を傾けて音を聞いた。三階までの雑多な音が聞こえる。姜恒にも若い男性のうめき声、娘たちの笑い声、少年の許しを求める声が聞えた。耿曙はすぐに耳まで真っ赤になった。「教坊だ。」耿曙はつぶやいた。彼は今夜ここに姜恒を連れて来たことを後悔し始めた。姜恒もすぐに理解した。官教坊に来たことはなかったが、どういう場所なのかはよくわかっていた。

灯紅酒緑。郢国朱雀宮の教坊司は天下に名の知れた烟花の地だ。この手の場所に来たことがない姜恒は興味津々だった。だが、動き回りはせず、ただ耿曙のそばについて、好奇心いっぱいにキョロキョロ見回していた。耿曙は片膝をついて、屋根の下の部屋から聞こえてくる音を聞き取ろうとしたが、享楽に耽った声に覆われて聞き取れない。

「うるさすぎて聞こえないね。」姜恒が言った。耿曙は誰もいない部屋を見つけ、一計を案じて屋根の上で夜行服を脱ぎ、腰に巻き付けた。「しゃべるなよ。」耿曙は姜恒を連れて三楼から廊下に飛び降り、耳元で指示を出した。姜恒はわかったという意味で手を引っ張り、笑顔で前に出て廊下を歩いた。

耿曙は酒を飲みすぎて帰って来た少年郎を装うために肌脱ぎをした。こんな時に夜行服は着ていない方がいい。姜恒は美貌の少女に成り済まし、長い廊下を通ってあの部屋の方に向かって歩いて行った。

 

河に面した廊下には商売女たちが笑顔を張り付けて欄干に寄り掛かって立っている。年若い貴族の若者が恋人と囁き合ったり、大声で笑ったりする姿もあった。

耿曙は顔を向けて、沿道を通る時に出くわした何人かを調べるように見た。耿曙を見て目を輝かせ、遠慮なくじろじろ見る人も多かった。

姜恒はむっとして耿曙を力いっぱい引っ張り「何を見ているの?」と言った。

耿曙は近づくと姜恒の耳元で「お前よりきれいなのは一人もいない。」と囁いた。

姜恒:「……。」二人は端から二番の部屋の前に着いた。耿曙は姜恒を抱いて扉を押し開け中に入ると戸を閉めた。

室内は暗く、妙な雰囲気だった。空気にはかすかな香気が感じられる。あちこち眺めまわす姜恒を耿曙は衣装戸棚に引っ張り入れ、二人で中に身を隠した。

衣装戸棚は壁についており、板壁の向こうは殺し屋たちがいる部屋だ。壁の隙間からわずかな光が漏れ出ていた。

戸棚の中はとても狭く、耿曙が姜恒を抱くと二人の体はぴったりくっついた。耿曙の裸の上半身は若い男性らしい気息を発し、胸元は少し汗ばんでいた。二人の呼吸は早まっていき、姜恒は話もせず、無駄に動きもせず、耿曙の肩の前に寄り添っていた。

耿曙の鼓動は飛ぶように早くなったが、壁越しに聞こえる会話に耳を澄ませた。

姜恒が壁の隙間ごしにのぞいて見ると、三人の男が見えた。一人は耿曙に蹴りを入れられたにせ給仕で、薬をつけようとしているところだ。どうやら肋骨が折れているようだ。もう一人は店主に扮しており、長椅子に座って酒を飲んでいた。あと一人は夜行服を着て刺客らしい恰好をしている。手に覆面布を持っていて、顔には刀傷があった。顎から口角まで傷を縫った痕がある。逆側の壁にもたれて、何も言わずに怪我をしたにせ給仕を見ていた。

 

「敵を甘く見すぎだ。これで三度目だぞ。」刺客姿の男が言った。

にせ給仕は血の混じった咳をしてから言った。「やつらが入れ替わってるとは思わなかったんだ。聶海の動きは素早すぎて逃げる間もなかった。俺だって相手が刺客と知っていれば真正面から殺そうとするものか。」

「相手の功夫が優れているとわかったからには、事前予告は不要だ。」

「やつは点心を食べたか?」にせ店主がだみ声で尋ねた。

「いいや。やつらは警戒して何にも手を付けなかった。」

耿曙は首を少し傾けて俺を見ろよと合図した。

三人は服装も容貌も全く普通で、声音にも何ら特徴もない。人の海にそのまま紛れてしまいそうな、つまり最高にやり手の殺し屋だ。

「既に予告したらなら、十二時辰以内に片付けねば。」

「まあいい。俺が行ってやろう。」にせ店主が言った。

刺客:「聶海の武功は馬鹿にならない。あの李宏でさえ奴に敗れたんだ。

お前たちももう少し真剣になれないのか?奴の親父は以前四国重鎮を皆殺しにした耿淵だぞ。十五年前の教訓ではまだ足りないか?」

店主:「船頭と洗濯女には最高の条件を与えてやったのに、なぜかああいう結果になった。なぜ死んだのかもわからない。俺たちも気を付けなければな。」

刺客:「危険は承知だが、門主が特別に重要だと念を押した案件だ。お前たちはこれからどうするつもりだ?御者はどうした?」

店主:「御者は朱雀宮で様子を伺っています。聶海と姜恒は行方不明。城内では給仕を捜索しているが、まだ何もつかめていない。俺は御者を郢宮に紛れ込ませようと思う。聶海だって四六時中守ってはいられないだろう。一旦離れたら即姜恒に手を下させる。」

刺客姿は手に持った短剣をもてあそびながら言った。「まあいい。明日様子を見よう。長い付き合いだから言っておいてやろう。次に殺し損ねたら、鳴沙山には戻らず、どこかに逃げた方がいいぞ。」

姜恒は『鳴沙山』という名を聞いた時、どこかで聞いたような気がしたがはっきりしなかった。耿曙も一瞬息が止まった。刺客姿の男は顔の下半分に覆面をつけると、窓から飛び出してどこかへ消え失せた。

姜恒と耿曙は視線を交わした。―――重要な情報を掴むことができた。実行役の刺客は、給仕、御者、中央に座っていたのが店主。彼らの門派があるのは『鳴沙山』だ。

壁の向こうが静かになり、店主が「お前は先に少し休め。」と言った。

二人は無言で立っていて、耿曙がもう出て行こうかと考えていた時、自分たちが隠れている部屋に誰かの声がした。一人の若者が16、7歳くらいの少年を抱いて扉を開いて部屋に入って来た。

「今晩はお前にじっくり付き合うぞ……。」

「僕が旦那様にご奉仕致します……。」

そして、喘ぎ声が聞こえたかと思うと、体に触れあう間もなく彼らは服を脱ぎ始めた。

                   (クローゼットに隠れた時のお約束だな。)

耿曙:「……。」

姜恒:「!!!」姜恒は逆側を向いて、衣装戸棚の隙間から興味津々に覗き見たが、耿曙は眉をひそめ、小声の極みで「見るな……。」と言った。

                      (恒児のこういうとこが好き。)

もう出て行けないが、留まるのもまずい。二人が衣装戸棚から出てきたら、部屋に来た二人が驚いて叫ぶだろうし、隣の殺し屋たちにも気づかれることになる。

若者は少年を抱くと、寝台に行くまでもなく、衣服を散乱させたまま、少年を扉に押し付け、愛し合い始めた。姜恒はずっと前に洛陽王宮で見た光景を思い出した。

耿曙:「……。」

部屋の香気はごくわずかだが、何やら神奇の力があるようだ。耿曙は全身が火照り、口が乾いた。実は教坊では催淫効果のある特別な香がたかれていたのだ。聞こえ続ける声のせいで、耿曙は全身が炸裂しそうなのをじっとこらえていた。

姜恒の方も少し耐え難くなっていた。自分にくっついている耿曙の体が明らかに変化したのも感じていた。耿曙の呼吸は乱れ、姜恒の腰の上に置かれた手を動かさないようにし、努めて気を紛らわせようとした。再び壁の向こうを見ると、給仕は寝台に横たわり、店主は紙を広げて何か書き込んでいた。城内の地形を分析しているようだ。

耿曙:「!!!」

「何をする!」耿曙は姜恒の手を押さえた。こんな時に姜恒は自分のわきの下をつねって、ふざけようとしている。姜恒は笑いながら左を見て、次に右を見た。耿曙は彼をしっかり抱き寄せて、耳元で囁いた。「ふざけるな。」

二人は何か考えようとしたが、聞こえて来る声と香のせいで判断力が鈍っている。耿曙の胸は起伏し、背中に書いた汗のせいで、衣装戸棚に雑に置かれた衣服がびしょびしょになった。

短い時間のはずが、果てしなく感じる。耿曙はもう何ともできず、早く終われ、まだ終わらないのか?とだけ思っていた。

ついに室内のあれこれは終わったようだ。香炉からは青い煙が上がっている。

若者は少年を寝台に横たわらせ、少年は若者に抱き着いて、眠りに落ちた。

 

耿曙はそーっと、姜恒を衣装戸棚から引っ張り出した。姜恒は振り返って見たが、耿曙は彼に前を向かせ、見せないようにし、二人は抜き足差し足でそっと扉を押し開け、出て行った。

「さあ、今度はどうする?」姜恒が尋ねた。耿曙は刺客の来た道を考えていた。一人去り、二人残った。それと斥候役の仲間、全部で三人だ。廊下に立って見てみると、夜も更け、さっきまでここで客引きをしていた人たちも部屋に入ったようだ。

姜恒はまだ振り返って見ていた。

「見るなってば。」耿曙が言う。

姜恒は笑顔で言った。「よかったよね。」

「よか、よかったって……何がだ?」耿曙はちょっと呆けてしまった。

姜恒にもうまく言えなかった。あんな風に欲しいままに行う『魚水の歓』というのを始めて見た。こんな春の夜に相応しいとても美しい光景だと思った。少しも卑猥ではなく、自然なことだ。若者の少年への痛愛は宝のようで、人の心を捉える琴曲さながらに彼の心に訴えかけた。だが耿曙はもう、元の一件を考えていた。「王宮には帰れないぞ。御者の正体は未確認なままだからな。」

「彼らが食べ物に入れたっていう毒だけど、あなたは酒も飲まなかったの?」

「飲まなかった。お前は?」

二人は廊下を歩きながら小声で話していたが、ちょうどその時、一番端の扉が開いて、にせ店主が出て来た。耿曙はすぐに姜恒を抱いて、彼を部屋の戸のところに押し付け、自分の背中が外に向くようにして、下を向いて姜恒の顔を隠した。意を汲んだ姜恒は耿曙の首に抱き着いて、彼の唇をじっと見ながら、囁いた。「私も飲んでないよ。」

耿曙の胸は狂ったように高鳴った。姜恒の柔らかな唇を見ると、灝城での記憶が蘇った。機に乗じて口づけしてしまいたかったが、色々あった後では理性と感情が戦い合う。背後では、にせ店主が重苦しい表情で二人の近くを通り過ぎようとしていた。

 

耿曙と姜恒は教坊内でよく見る、一夜限りの恋人たちのようだった。春の夜に桃の花の香りに誘われて寄り添い合いながら河辺のこの場所に来たといった感じだ。肌脱ぎ姿の耿曙は姜恒を桃の花であるかのように抱きしめて小声で話している、かのように見える。

にせ店主は階段の下にいる守衛に一枚の紙を渡し、何か言いつけた。書いてある物を買ってくるように言いつけたようで、すぐに背を向けて上階に上がって行った。

階段を上がるにせ店主を姜恒はつい見上げてしまい、にせ店主も無意識に姜恒を見た。

しまった!!見るんじゃなかった。まずいことになったぞ。

だがちょうどその瞬間、階下から声が聞えて来た。

 

「御林軍の検問だ―――!楼内にいる者はその場を離れるな!部屋の扉を開けて検問を受けろ!」項余が来た!耿曙と姜恒は同時に頭を上げた。

「項将軍―――いいところに来た。話がいっぱいあるよ!」

階下から声が聞えると、三階にいたにせ店主は表情を変えて、姜恒にかまわず一陣の風のごとく走り去った。

楼内は大混乱に陥った。項余が連れて来た部下が三階建ての小楼を占拠し、御林軍たちが各部屋の門を蹴り開けると、驚きの声や許しを請う声があちこちから聞こえた。

「兄さん!行って!私にかまわないで!」

項余が刺客を驚かせた以上、もう正体を偽る必要はない。耿曙は烈光剣を手にして、にせ店主を追って行った!

「給仕!早く……。」店主が門を押し開けた。耿曙が追って来た。にせ店主は背後の気配を感じ取ると仲間を連れて行くのはあきらめ、振り返った。二人は拳を交わし合い、耿曙は気血を湧かせ、後ろ向きに欄干に当たった。店主は前方に飛び上がって耿曙の鳩尾を拳で突いた。耿曙は胸を開いてその一撃を敢えて向かい入れ、相手の胸に反撃した。力と力がぶつかり合い、お互いの体が震えた。店主は部屋の中に突き飛ばされ、耿曙は欄干に当たって、欄干が壊れ、楼外に飛び出し河の方に落ちていった。

「気を付けて!」

耿曙は『店主』の攻法がこれほどとは思ってもみなかった。敵を甘く見るという過ちをおかした。

幸い姜恒が追いついて、着ていた紗袍を脱いで耿曙につかまらせようと放った。耿曙が空中で袍の端を掴むと、引き裂く音がして、姜恒の服は半分に裂け、その力を借りて再び楼上に跳びあがった。

「受け取れ!」項余は二階の欄干から長身を翻して三階に上がり、烈光剣を耿曙に投げた。耿曙は剣柄を掴むと鞘を抜いた。店主は扉の外にいた。耿曙は叫んだ。「弟を頼む!」そして剣を持って向かって行った。店主は短剣を抜いて守っていた部屋の戸の前から、耿曙に向かって行った。

 

狭い場所で三人いる余地はない。姜恒は後退した。すでに上がって来ていた項余が姜恒の前に立って守った。隣の部屋の門を蹴り開けて御林軍が入って行き、部屋の中で姜恒を守った。項余はひさしから身を翻して奥の部屋の窓に入って行った。

 

店主が剣を突きつけて来ると鋭い刃が当たって耿曙の背後の欄干が折れた。後方に何もなくなり、硬架につかまりながら、左手で剣を持ち、体を横にして烈光剣を突き出す。

店主の剣も西域の神兵である。二つの剣が交差すると耳を刺すような音がしたが、烈光剣が相手の刃を切り落とした。店主は咆哮した。「死ぬなら道連れだ―――!」

相手が攻法を変えた一瞬のすきに耿曙は相手の喉に剣を突き刺した。烈光剣が喉に差し込まれると、店主は剣の上に倒れた。

「誰がお前なんかの道連れになるか。」耿曙は冷たく言った。「身の程を知れ。」

店主は絶命して崩れ落ち、鮮血が噴き出して耿曙の上半身を赤く染めた。

給仕は叫び声をあげて近づこうとしたが、窓から入った項余が背後から投げた剣が、給仕の腹部に刺さり、彼を壁に釘付けにした。

辺り一面血に染まった中に姜恒が走り込んできて、耿曙を見つめた。

「生け捕りにして口を割らせないとな。」耿曙が言った。

「兄さん、大丈夫?」姜恒は慌てて言った。耿曙は頷いて姜恒を見た。姜恒はびっくりしていた。耿曙の胸も肩も全て血だらけだ。

「これは奴の血だ……。」耿曙は説明した。「俺は大丈夫だ。別に…怪我は…。」

耿曙は元気な様子を見せようとした。だが店主の一撃はすさまじく、腹部に命中していたことで、気息が沸き上がり、姜恒の体に血を吐くと、目の前が真っ暗になり、崩れ落ちた。

「兄さ―――――ん!」姜恒はもう一切を顧みず大声を上げた。

 

 

ーーー

第138章 晴天の霹靂:

 

早朝、王宮にて。

「教坊の三階で焚いていた香には、彼らが持ち込んだ薬物が混入していました。彼らは解毒薬を持っていたので、香の影響を受けず、敵が来た時の予防に使っていました。」項余が説明した。

姜恒は耿曙の腹部に触って、臓腑が傷ついていないか確かめた。回復にはしばらく時間はかかるが命に別状はないと分かり、ほっとした。

耿曙は何度か咳をして頷いた。姜恒が調合した薬を飲み下し、項余の面前なので、いつもの表情を保っていた。

「もう一人の仲間は捕まえたのか?」耿曙が尋ねた。

「逃がしました。あなたと剣を交わした男はかなりの凄腕だったようですね。」

「俺を励ます必要はない。」耿曙は長城の内外を股にかけ、対戦して負けたことは一度もない。無名の刺客などに殴られて傷を負うなど不名誉なことだった。

「あれが誰だったか知っていますか?」項余は眉を上げて尋ねた。

「まさかあれが神秘客だったとか?」姜恒が言った。

項余は説明し始めた。「いいえ。かつてあなた方雍国の先王汁琅を殺した男です。耿淵と界圭が手を組んでも捕まえられず、今まで逃げおおせていたのですよ。」

耿曙の表情が一変した。「奴が汁琅を殺したって?」

耿曙はその時刺客を送ったのが誰かがすぐにわかった!

姜恒は何かがおかしいと思った。「ちょっと待って。汁琅を殺したってことは、いうなれば、彼は雍国の仇ってわけ?」

 

「複雑に絡み合った話のようです。『給仕』の口を割らせてわかったことで、私にもどういうことかはっきり言えませんが、もし良かったらお二人が牢まで足を運んでご自分で判断されたらいかがでしょうか。」

「明日にしよう。兄さんはまだ怪我をしているし。」

「平気だ。行こう。」

姜恒はやめさせようとしたが、耿曙は譲らない。仕方なく姜恒は自分の肩にもたれさせ、項余について、郢国監獄の中に入って行った。

「あなたの怪我にはひと月は静養が必要だからね。」姜恒は耿曙に小声で言った。

耿曙は手を振って何でもないと示した。同時に項余に自分の状況を知らせないでほしいと暗示していた。だが、姜恒は怪我の重さがわかっていて、ひと月は絶対に戦わせないつもりだった。前を歩く項余は、「店主の一撃を受けて死ななかったのは奇跡です。」と言った。

「奴の掌力は確かにまあまあだったが、剣の腕はなかった。それが俺には有利になった。こんな傷も何日かで回復する。」

 

「あなたはどんな拷問をして口を割らせたの?」姜恒は刺客について詳しくはないが、こういった連中は口に刀を入れられても簡単に話さないはずだと思った。どうせ殺されるなら怖い物などない。普通は彼らから秘密を聞き出すのは難しいだろう。

「彼らの部屋を捜索したら、薬物がたくさん出て来ましてね、こいつらは毒に詳しいのだろうと思いました。それですべて彼の体で試してみたところ、ある薬が強い酒の様に脳を混乱させて、聞いたことを何でもしゃべってしまうということが分かったのです。ですが、どれが真実でどれが偽りかは判断がつかないのです。

項余が連れて行った死牢は地下牢内にあった。給仕は血の海の中で辛うじて息をしていた。両手のどの指も折れ曲がり、腕から足首に至るまで百本近い釘が撃ち込まれていた。

姜恒:「……。」これを見た瞬間、姜恒の項余に対する印象はがらりと変わった。項余はこんなにも残忍になれるのだ。

耿曙はそれを一言で表現した。「こんな必要はない。」

「こうしなければ、死んでいたのは我々の方です。やつは朱雀宮の点心に薬を仕込んだんです。誰も食べなくてよかったです。」

項余は耿曙の体力を心配して座って話せるように椅子を持って来させたが、耿曙は手を振って、必要ないと示した。

「質問をしてください。命を長引かせる薬を飲ませたので一時半くらいは死にません。それをすぎれば難しいでしょう。」

姜恒は、釘を撃ち込まれて血を滴らせた給仕を見た。給仕は恨みに満ちた目で、姜恒をにらみ、苦しそうな声を上げた。

「名前は何て言うの?」

「給仕……。」給仕が言った。

「彼らは奇妙な組織で、門派では役の名で呼び合い、本当の名前を知らないのです。」項余が説明した。「お前の主人は誰だ?」耿曙が尋ねた。

「鳴沙山、血月門。」給仕が答えた。

 

姜恒は雷に打たれたような気がした。「輪台東の?」とても信じられない。

「どこにあるかわかるのか?」耿曙は不思議に思って尋ねた。

姜恒は背中が冷や汗でいっぱいになり、両手をきつく握り締めた。今聞いたことが信じられなかった。給仕はゆっくりと頷き、苦しそうに言った。「死なせてくれ。死なせて……。」

 

姜恒は膝から力が抜け、半歩後ずさった。天地がひっくり返ったようだ。耿曙がすぐさま支えて、「恒児?」と言った。姜恒は首を振って、意識をはっきり持とうとつとめた。郢地に来る前に宗鄒が報告した話を思い起こした。

『うちの商人の話ですと、血月は雍王と取引することにしたらしいですから……。』

 

二人の傍で項余が説明を始めた。「この組織の者で、今わかっているのは、船頭、洗濯女、給仕、御者、店主の五人。お二人は既に四人解決しました。御者は逃げました。昨夜命令を伝えに来た者も仲間の一人だと思われます。」

「お前たちは何人いるんだ?」耿曙は給仕に尋ねた。

「十二人……。」給仕はゆっくり答えた。「頼むから、俺を殺してくれ……。」

項余が行った拷問は、彼に死んだほうが楽だと思わせるものだった。体の傷が怖いのではない。最も苦しいのは傷口に塗られた薬粉の方だ。

給仕の姿を見て、耿曙は潯東で殺した三人のチンピラのことを思い出した。昭夫人は奴らの傷口に糖蜜を塗るように言った。もしあの時そうしていたら、死に至るまでの耐え難い苦しみの表情は、ちょうど目の前の男と同じようになっていただろう。

 

「あり得ない。あり得ない……。」姜恒は独りごちた。

「そいつらを知っているのか?恒児?」

姜恒は瞳に恐怖の色を映して耿曙の目を見て頷いた。

「聞いた……ことが……ある。ううん、きっと何かの間違いだ。彼らのはずがない。」

「恐れるな、恒児。それが誰であれ、絶対に……こわがらなくていい。」

話している間に傷が痛みだしたが、耿曙は必死でこらえた。

「目下、やつらの仲間は残り8人。門主を入れずにです。目標を達するまではあきらめないだろうと私は思います。そこで問題なのは、陰で操るのが誰かと言うことですが……。」

項余の声がはるか彼方から聞こえるかのように、姜恒にはもう何も見聞きできなくなっていた。なぜ?なぜ私を殺したいのだろう?私は何を間違ったのか?

姜恒は繰り返し考えた。この連中は本当に汁琮が送り込んだのか?汁琮には自分を殺す理由がないはずなのに。心身を失いかけた姜恒の手を耿曙は強く握り締めた。

「恒児。」耿曙は真剣に呼びかけた。

姜恒は首を振って、何も言わなかった。

「姜大人には目星がついたのですか?」再び項余が尋ねた。

姜恒は耿曙に目をやった。何か相談したいのだとはわかったが、耿曙には他に気になることがあった。

「かつて汁琅に店主を送り込んだのは誰なんだ?」

「わからない……わからないよ……。」姜恒は口ごもった。

「問題は他にもあります。御者がようやって宮中に紛れ込んだかです。誰かが手引きしたのではないかと私は疑っております。」項余が言った。

いつもの姜恒だったらすぐに手がかりをみつけたかもしれないが、ここまで混乱してしまった今日の彼では冷静に物事を考えることなどできなかった。「それはあんたの仕事だ。」耿曙が沈んだ声で言った。

 

部下が店主の死体を持って来ると項余は白布をとって、二人に確認させた。項余は給仕にむかって言った。「この店主のことは知っているだろう。お前たちの門派で店主の地位は何番手だ?」

「三……番手だ。」給仕は虫の息で「殺してくれ……。」と言った。

項余は耿曙に視線を送ってから、「後は覆面の男ですが、今でも江州にいるとして、お二人の話から考えれば、地位は店主の上でしょう。つまり、門主、覆面の男、店主の順ですね。あなたは既に血月門のうち、三人の殺し屋を始末しました。」

「それでもまだ8人いる。輪台東の地は遠すぎる。俺が西域まで行って門主を殺すのは無理だ。」

「その通り、簡単には動けません。しかも敵の地盤ですから。ですがご安心を。中原は我らの地、敵の好きにはさせません。」

「俺たちはもう行く。」耿曙は立ち上がって、姜恒の肩に手をかけた。「恒児。行くぞ。帰ってからまたゆっくり話そう。」姜恒は何とか頷いて見せ、ため息をついた。

項余は彼らには話があるのだろうとそれ以上引き止めなかった。「こいつは私が殺しますか?」

「好きにしてくれ。」耿曙は冷ややかに言った。

寝殿に戻ると、姜恒には一気に疲れが襲って来た。「私はもう寝たいよ。兄さん。」

「寝ろ。兄が添い寝してやる。」耿曙は姜恒の狼狽の理由は聞かなかった。

外では春の雨がしとしとと降り、郢宮の緑の葉をつややかに洗い上げた。

姜恒には何とも受け入れがたい。刺客を差し向けたのが汁琮であることで、自分が自国の裏切り者になったような気がした。耿曙にどう言えばいいかもわからない。兄にとっては山のごとき重い恩のある養父だが、今や自分を殺そうとしている。郢国を裏切る代価にすることさえ惜しまない。

「なぜだろう?」姜恒は疲れ果て、もう何も考えたくなかった。耿曙の腕の中で眠りにおちながら、思った。目を覚ました時に耿曙さえも何も言わずにいなくなり、自分から去って行ったらどうしよう。

 

翌日、姜恒が目覚めた時、外ではまだ雨が降っていた。周りには誰もいない。彼ははっとして飛び起きた。

耿曙は処方と照らし合わせて、自分の傷のために薬を煎じようとしているところだった。声を聞いてふりむくと、体を支えながらやって来て、姜恒の着替えと洗顔の用意をしだした。

「あなたは休んでいてよ。」姜恒は耿曙の脈を見た。確かに少しは良くなっているが、湿気の多い南方の春は、傷の養生にいいとは言えなかった。

「少し何か食べろ。おまえもここのところすごく疲れただろう。」

朝食を食べると少し気持ちが好転し、姜恒は昨日起きた出来事を秩序だてて考え始めた。動揺した自分に耿曙は何も聞かず、ただ黙って近くにいてくれた。不器用な耿曙は言葉で人を慰めるのは苦手だ。母が去って行ったあの日も、彼はただ黙って寄り添ってくれていた。あの時きっと彼にはわかっていたのだろう。昭夫人はもう戻らないのだと。だけど、今は……。

「兄さん?」

耿曙は背を向けて薬を煎じていたが、振りかえって彼に目を向けた。「何だ?」

二人は黙って見つめ合った。その時姜恒は気づいた―――耿曙は知っている!もうわかっていたんだ!

「あなたは……」姜恒は震える声で尋ねた。「刺客を送ったのが誰か、わかっているの?」その場の空気が凍り付いた。

「ああ。」耿曙は言った。「父だ。」

姜恒は耿曙に面と向かってどうしていいかもわからず、無意識に顔をそむけた。耿曙は昨日の姜恒の態度から何かを察して真相にたどり着いたに違いない。

「俺も知ったばかりだ。別の線から気づいたんだ。俺は……お前が受け入れられないのではないかと思って、何日か考えてもはっきりしなければ言おうと思っていた。」

姜恒が立ち上がると、耿曙は薬を放り出し、痛みをこらえて追いかけて姜恒の手を引っ張った。

「聞いてくれ、恒児。俺の話を聞くんだ!」

姜恒は耿曙の方を見た。耿曙は真剣な目で彼を見つめた。二人が共に命の危険を乗り切った無数の場面が一瞬にして記憶に蘇った。知っていたはずだった。耿曙は絶対に汁琮にはつかない。

「私は……大丈夫。」姜恒は少しつらそうに言った。「ちょっとまだ受け入れられないだけ。何日かしたら平気になるよ。私も彼を殺そうとしたんだから、まあ、お互いさまで……おあいこだね。」

それは姜恒が自分を納得させるために言った言葉だ。だけど、同じなわけがあろうか?汁琮を刺した時には、彼らは敵同士だった。だが今や彼らの関係はその時とは全く異なる。姜恒は雍国の重鎮で、彼は持てる全てを雍に、そして汁琮にささげた。彼の才能、彼の志、彼の耿曙までも。

 

「俺の話を聞いてくれ。」耿曙にはわかっていた。これは彼の生死を賭けた試練だ。絶対に姜恒にしっかり説明しなくてはならない。耿曙は姜恒を座らせた。

姜恒は首を振った。「何も言わなくていい、兄さん。私が単純すぎたんだ。」

姜恒は自分の単純さを反省しだした。海閣を離れた時から何も成長していない。耿曙の保護を得たことで以前より更にお人よしになった。汁琮を信じるなんて。実に致命的な過ちだった。

「すまない。本当にすまない、恒児。彼があんな人だとは思わなかったんだ。」耿曙は真剣に言った。

姜恒は笑った。自分と耿曙との間には僅かな隔たりがあった。それは耿曙の雍国に対する郷愁だ。二人が離れていた五年の間、雍は彼を養い、育てた。二人は雍国に気持ちの上で借りがある。それは永久にかえすことができない心の借りだった。

 

だが耿曙が最後に言った言葉で姜恒には、はっきりわかった。耿曙にとっては、自分こそが最初から最後まで心の中で一番重要な位置を占める者であると。それは何があっても変わらない。過去も、未来もずっと。「ここに来る時から色々考えていた。だが、刺客が現れたことで、遂に心が決まった。恒児……。落雁城を離れたからには、」耿曙は最後に姜恒の手を取って、宣言をするように真剣に告げた。

「もう二度と戻らないつもりだ。」

春風が吹いて来て、雨水に濡れた桃の花が殿内に入って来た。二人の前でふわりと舞って濡れた花びらが姜恒の杯の中に落ちた。

「兄はお前をあそこには絶対に帰らせない。過ぎ去った全ても、もう俺たちには関係ない。」耿曙の声が姜恒の耳の奥に響いた。過ぎ去った落雁の日々が目に浮かぶような気がした。

 

高き岸は谷に、深き谷は陵に、世は移り変わり、蒼海転じて桑田となる。(小雅)

 

「お前に言ったことがあるよな。海を見せに連れて行く。お前が行きたいところならどこでも行く。神州でもいい。西域でもいい。お前が行きたいなら、お前が好きならそれでいい。俺はお前の傍にいる。昭夫人の前でしたように、宣言する。」

「わかった。」姜恒の悩みは影も形もなく消え失せた。全てを受け入れ、少年らしい爽やかな笑顔が戻ってきた。

「とてもうれしいよ。」姜恒は考えた末そう言った。

耿曙は姜恒を見た。彼の人生で最も強い絆を持つ人を見た。心が痛む。姜恒はこの先どんなことが彼を待っているのか未だに知らない。失った物の大きささえ知らないのだ。持たなかったなら、失うこともないといえるのか?雍国、後継太子、両親、家族……。全て彼の物だったはずなのに、手に入れたことさえない。汁琮は彼のものであるべき全てを奪い、両親の死、家の破滅、戦乱の苦しみと孤独な子供時代を与えた。間違った身分を与え、今また彼自身を奪おうとしている。

洛陽でつかんだ温もりさえ、この大争の世の中で少しずつ消えていった。

 

しかし、こうしたたくさんの不公平な扱いに直面しても、姜恒は文句を言ったことがない。平然と全てを受け入れて、与えられた物はわずかであろうと、とても大切にする。

耿曙は思った。俺のため、すべて俺のためだ。

全てが自分の存在のためなら、姜恒に感じさせよう。何もかもどうでもいい。二人が一緒にいられる限り、他は何も重要ではないのだと。

その時、姜恒が笑った。かつてのような笑顔だ。

「よく考えてみたら、何が起きるかわからないっていうのも、」彼は耿曙に言った。

「すごくいいよね。気に入った。」

 

――巻五・列子風を御して行く・完――