非天夜翔 相見歓 第226章ー第228章
第226章 帰朝
たちまち殿内は一片の混乱状態に陥った。郎俊侠は猛然と振り返った。牧曠達は前に転がり出て、牧錦之を守りに行った。昌流君は一瞬愕然とした後、牧錦之を推し出して、剣を持って段岭を守りに向かった。
「出ていけ!」段岭が叫んだ。
既に戦闘態勢に入っていた使節たちと黒甲軍将士は征北軍兵士を迎え撃った。昌流君が東北の角から、郎俊侠は正殿前から飛び出して来た。狙うは韓濵唯一人だ。韓濵が怒号を上げて椅子をひっくり返し、一瞬の間を稼ぐと、そこへ死も恐れぬとばかりに征北軍が集まってきて、武装した体で韓濵を刺客の利剣から防ごうとした。
「太子を守れ!」郎俊侠が叫んだ。「撤退!」
郎俊侠と昌流君は攻撃し損ねたと見るや、正殿から退いて行った。文武官員たちも急いで逃げ出したが、すぐに殿内には矢が飛び交い、絶叫が上がった。何人もの人たちが矢に当たり床に倒れた。
「行くぞ!」郎俊侠は段岭を守り、殿外へと出て行った。正門の向こうに朝日が昇る頃、謝宥率いる黒甲軍は皇城前を既に制圧しており、征北軍は必死で抵抗を続けているところだった。
更に多くの兵士たちが四方八方から囲い込むように現れたのを見ると武独が叫んだ。「南門に向かって退け。黒甲軍と合流する!」
鄭彦が馬で駆けつけて、持っていた包みを開け放つと、武器がばらばらと飛んで行き、一行はそれぞれ長剣を手に取った。
段岭が叫んだ。「我が命に従え!韓濵の首を取るのだ!」
バド、赫連博たちに従う使節団と武独が連れて来た黒甲軍武者が合流し、それぞれが武器を以て、微塵も恐れず征北軍に向かってぶつかって行った。
段岭の周りにいるのは僅か数百の戦士だけだが、彼らは皆戦うごとに勇ましくなってくるようで、彼を護って正殿宮門外へと向かって下がり続ける。段岭自身も弓矢を持って弦をひきつづけ、一矢射るごとに、兵士たちが声を上げて地に倒れて行った。
「武独はまだかかるのか?!」鄭彦が叫んだ。「早くしないと持たないぞ!」
「すぐ来るよ。」段岭が言った。「すぐ来てくれる!」
一片の混乱の中、矢があちこちから飛んで来る。バドが横から飛び込んできて段岭を押し、流れ矢から避けさせた。地面に転がった段岭は起き上がった瞬間に、遠方で牧曠達が牧錦之の手を取って、正殿外からよろよろと逃げて行く姿を捉えた。すぐに段岭は矢をつがえて、一矢を放った。
矢はまっすぐに進み、百歩近い距離を抜けて流星の如く正殿前まで飛んで行った。牧曠達が叫んだ。「錦之!」
牧錦之を抱えた牧曠達は、背中に一矢受けて倒れ、そのまま起き上がれなくなった。
轟音が響き、皇宮正門に丸木がぶつけられ、ギシギシと振動した。その場の者たち全員が、一瞬動きを止めた。
正殿から韓濵が現れた。鎧兜を身にまとい、威風堂々風を受けて。兵士たちは躍り出て、二方に分かれて角笛を吹いた。
(原文は四文字で統一してリズムがあるんだけどな。)
たちまち征北軍兵士たちが四方八方から湧いて出て来た。その数およそ一万人。方陣を汲んで盾を頂き、矛を持ち、一斉に大声を上げて、段岭たち数百名の衛士たちに向かって来た。
ドーンと再び轟音が響き、皇宮正門は撃破寸前だった。
韓濵が手を上げ、ゆっくりと下ろした。
三度目の轟音が響く中、征北軍兵士たちが、前傾姿勢で突撃を開始した。
同時に皇宮正門が崩れ落ちる音と共に、黒甲軍衛士たちが潮の如くになだれ込み展開した。
率いる男は一騎当千、万里奔霄に跨って龍鱗黒甲を身に纏い、手には伝国の剣を持っている——鎮山河だ。
まるで李漸鴻がこの世に蘇ったかのようだ。黒い鎧と鎮山河が目に入った瞬間、韓濵でさえも、知らず知らずに半歩後退してしまった。
「天下の将士たちよ、誰の為にか戦わん?!」武独が大声で叫んだ。
「我が大陳真龍天子の為にぞ戦わん!」黒甲軍が一斉に咆哮を上げた。
段岭は手に弓矢を持って正門外に立っていた。昇り始めたばかりの燦燦と黄金色に輝く朝陽を一身に浴びて。
「江州の男たちよ。」謝宥が声を上げた。「誰の為にか戦わん?」
「我が大陳太子殿下の為にぞ戦わん!」黒甲軍が一斉に怒号を上げた。
「鎮山河を見るは先帝を見るが如し!」武独が叫んだ。「我が大陳武帝の遺命により、乱心賊人を誅殺する!死にたくなくば抵抗を止めよ!突撃!」
刹那、天地を崩す勢いで、黒甲軍が押し寄せて来た。海の潮が沸き上がるように、幾千万里の山河を踏み敷くが如くに、劇的な勢いで金鑾殿前の万を超える征北軍に向かって突撃を開始した!
段岭は弓矢を下ろし、振り返って武独を見た。烈日の黄金色に光が彼の帝鎧を煌めかせ、鎮山河がそれを屈折させ古朴な光芒を放っている。一瞬、まるで遥かな夢の世界にいるような錯覚を起こし、その非現実感にくらくらとした眩暈を感じる程だった。
山河剣を手に持ち 君が南を司るを願う
彼は別の人物を思い出した。かつて自分に宿命を与えたあの人を。
上京五月 桃花綻び
温かな春 花開く草原 空に大雁飛び回る光景
森の中を流星の如くに掠めた光
名堂書閣の深夜のともしび……
落雁城外で全てを優しく包み込む大雪
潼関城壁の上の星河
白虎殿外に風雨吹きすさぶ暗夜
鄴城に燃え立つ天地を照らす烽火……
千軍万馬が押し寄せる中、彼は目が眩むような陽光に向かって手を伸ばした。
武独が奔霄を走らせ、馬上から身を折り、目の前に迫って来た。
段岭の手が武独の鉄甲に包まれた温かな指に触れた。
光陰が矢の如く過ぎ、星が移ろい廻っても、甲冑の下のこの熱い体が決して冷めることなく熱き血潮と共に触れ合う時、あたかも忘れえぬあの誓いの言葉を唱えているかのようだった。
例え群星が砕け散り、銀河が消滅し、世界が再び混沌とした始まりの時に戻ったとしても。
一瞬、天地がぐらりと揺れ、武独が段岭を馬上に引っ張り上げた。
「行け——!」
黒甲軍が天を震わせるほどの怒号を上げた。武独は段岭を連れ、鎮山河を手に持って征北軍戦陣に向かって行った。征北軍は初めの一撃を受けただけで後退を余儀なくされた。黒甲軍の巨大な威力と信念を前に、軍を成すこともかなわぬほどに潰されてしまったのだった。
奔霄は防衛線を突破して、正殿前の漢白玉の階段に踏み入った。正門外には更に多くの黒甲軍が押し寄せて来て辺りに血肉が飛び散った。
正殿の外では、牧錦之が手を血まみれにして牧曠達の肩を押し、必死で側へと這っていた。
武独は奔霄を御して、段岭と共に彼らの頭上を飛び越し、正殿に突入した。潮のように流れ込んだ黒甲軍が既にガランとしていた金鑾殿を制圧した。
韓濵は武独と段岭に向かい合った。
「私を殺したところで、どうにもならないぞ。」韓濵が息を切らしながら言った。「天下の人々に説明する術を君は持たないのだから……。」
「お前の後ろに誰がいるか、よく見てみるがいい。」段岭が言った。
韓濵は振り向き、その瞬間思わず足がよろけて、危うくその場に転げ落ちそうになった。
彼は体ごと振り返ると、信じられない思いでその人物を見つめた。
黒甲軍は戦場を制圧すると、文武百官を再び殿内に入らせた。
黒い武袍を身にまとった李漸鴻が、黙ったまま帝位に座って、一言も発するこおとなくじっと韓濵を睨みつけていた。
金鑾殿から逃げ出した蔡閏を捉えた鄭彦が、彼を床に放り投げた。
「気を付けないと、危うく逃がすところだったぞ。」鄭彦が言った。
その場の混戦は既に収束していたが、その後に蔡閏は彼が更に恐れていた悪夢を見ることになった。
「蔡閏。」段岭が言った。「この日が来るのを思ったことはあるか?」
「私は……私は……。」蔡閏は御座の上の李漸鴻を見て、驚きのあまり力を失い、言いかけた言葉も終わらせることができなかった。「私は……死、死んでも償えぬ罪を……。」
段岭は進み出ると、蔡閏の襟に手を入れ、自分の物であった玉璜を取り上げた。
「韓濵。」段岭が言った。「お前は?」
韓濵はよろよろと後退した。李漸鴻は青ざめた顔でゆったりと御座に腰をおろしたまま、前で肘をついて手を組み、じっと殿内を見つめていた。
金鑾殿の上に上がった日が、天窓から照りつけてきた。まるで一本の道のように集まった光が、頭の上からまっすぐに照りつけ、彼はまるで鬼魅のように見えた。
集められた陰の力は既に死んだ者が再びこの世に送り込まれたかのようで、何も言わなくとも、この場の者たちを無言のまま審判しているかのようだ。
群臣たちはわなわなと跪いた。日ごろ鬼神の類を信じない者でさえ、目の前の光景をどう解釈すべきかがわからない。
段岭と武独は前に進み出た。段岭が玉璜を李漸鴻に渡そうとすると、李漸鴻は受け取ろうと手を伸ばし、その手で彼の額を撫でた後、玉玦を手に持って、武独に渡した。
武独は怯んだように李漸鴻を見た。
「あなたにくれたんだよ。受け取って。」段岭が小声で言った。
武独は息がとまり、目に涙を溢れさせ、腰を折って玉璜を受け取るとその手に握りしめた。
すぐに段岭はもう一方の玉璜の紐を指にかけて、群臣に向かい合った。
「陛下万歳!」百官たちはそれぞれ跪いた。
「蔡閏。」段岭は声を低めた。「罪を認めるか?」
「認めます……私は罪を認めます!」蔡閏が言った。「十八層地獄に送らなくていい......私は罪を認めます。」
黒甲軍衛士が牧曠達と牧錦之を連れて来た。牧錦之は御座にいる李漸鴻を見るなり、悲鳴を上げて気を失った。既に気力も尽きかけた牧曠達は李漸鴻の幽霊を見て、息を切らした。
「あなたは……あなたは……そんなはずが……。」
「牧曠達。」段岭が言った。「罪を認めるか?お前が韓唯庸と結託して我が父を暗殺した謀逆の罪を犯した、と。」
牧曠達は口から血を噴き出し、両目を見開いたまま、言葉が出ずにいた。
「韓濵。」段岭は韓濵の方に向き直った。「罪を認めるか?」
「跪け!」謝宥が叫んだ。
黒甲軍兵士が進み出て、韓濵を押さえつけた。韓濵は両足を地につき、恐怖に息を切らしていた。
「お前は牧曠達と結託して、上京の難の際、援軍を送らず、今はまた百官たちを人質にして、太子殺害を企んだ。」
韓濵は顔を上げて恐る恐る御座についている李漸鴻を見ていたが、突然言い出した。
「お前は王爺ではない!お前は……。」
「王爺ではない。」御座についていた『李漸鴻』がついに口を開いたが、それは李衍秋の声だった。「陛下だ。お前の罪が一つ増えたな。韓将軍。」
朝臣たちはもう魂が抜けそうな状態だった。もし李漸鴻であれば、ひょっとしたら招魂的な何かでこうした不思議な現象を解釈できそうなきもするが、口を開いたのが李衍秋だとすると、それは正に死人の復活ではないか!この上座に座っているのが李衍秋なら、棺桶の中に収まっているのは一体誰だと言うのか?!
だが気を取り直して李衍秋が死を偽装したと推測するしかない。この日の異変はあまりにも多すぎ、殆どの者は既に何も言えない状態になっており、ただただ身を伏せて額を床につけるしかなかった。
「罪を認めるのか?」李衍秋がついにそう言った。「だが認めようが認めまいが全ての罪が存在するのは事実だ。陛下は死んでいたかもしれないが、大臣各位は生きているのだからな。」
ここに至って韓濵はようやく全てを理解し、すごむように言った。「私は大陳の為に、十数年に渡って辺境を守り続け、汗馬の功労を立てて来た。それなのにお前たち李家の叔父甥は死を偽ってまで、私を殺そうと都におびき出したというわけか。大したもんだ。完敗を認めよう。」
「将軍岭下でお前は我が父から兵権を奪った。」段岭が言った。「そして牧曠達と結託して我が父を害したこと、山の如き鉄証がある。昨夜私はお前に機会を与えたのに、お前は考えを改めず、更には我が命さえ奪おうとして、新たに罪を重ねた。本来なら韓家一門全て取り潰しとするところ、我が大陳のためにお前が玉壁関を守った功績を鑑みて功罪酌量し、正門外へ連れ出しての斬首に留める。直ちに執行せよ。」
謝宥が答えた。「はい!」
黒甲軍兵が韓濵を連れて行った。段岭はこれ以上彼に何の機会も与えるつもりはない。正門外で誰かが「斬れ!」と叫び、すぐに韓濵の首が持ち込まれて殿上に置かれた。
「首を持って行き、征北軍三軍に伝えよ。」段岭が言った。「彼らの造反の罪は赦す。だが北の辺境に戻ることはかなわず、日を選んで山東の防衛に換えることとする。」
「報告——。」黒甲軍兵士が一人入内し、片膝をついて告げた。「姚候が江州城外に置いた伏兵を放ち、征北軍の援軍を大敗させました。敵軍死者七千、捕虜一万強!勝利の上、帰城!」
「大変よろしい。」李衍秋が言った。「江州城を厳重に守り、捕虜から目を離さず、異変を防ぐように伝えよ。」
李衍秋は群臣たちを見渡して言った。「蔡閏は太子に成りすました。その座を返す機会があったにも関わらず、逆に烏洛候穆に太子の命を害するよう指示を与えた。更には朝廷を欺いた罪も加わり、天理に容しがたし。凌遅刑に処し、遺体は三日間晒し、九族を滅すべし。
だが一族は既に滅せられていることから、唯一遠縁である馮鐸を死罪に処す。赦し難し罪ではあるが、皇恩を鑑み、その父、兄の遺体に鞭打つことは免じる。暫し天牢に置いて、日を選んで刑を執行せよ。」
顔色を失った蔡閏が、黒甲軍に連れて行かれた。
「烏洛候穆。」段岭が軽く声をかけると、郎俊侠が殿の傍らから進み出た。
「臣は太子暗殺を謀りました。君主を欺く罪を犯し、更には悔い改める意思もなく、万死に値する罪ですが……。」
郎俊侠はその場に跪き、顔を上げて段岭を見た。その口の端がわずかに上がっていく。
段岭はため息をついてから、言った。「お前は罪をおかしたが、しかし……。」
「わかっていました。」郎俊侠は真剣な表情で言った。「あなたがいつかその位に座すことは。
私はあなたに何も与えられなかった。ただ、私があなたと過ごした五年間の情に免じて、どうか私の代わりに族母のことを宜しく頼みます。あと何年かして彼女を葬りだしていただけたら、その他のことは何も望みません。」
そう言い終えた郎俊侠の口の端から一筋の血が流れ落ち、床に落ちた。
「郎俊侠!」段岭はたちまち色を失い、声を失った。急いで前に飛び出して行こうとしたが、武独が先を越して郎俊侠の前に出て行き、郎俊侠が床にまっすぐに膝をつき双眸を閉じるのを見届けた。
武独は郎俊侠の首に手を当て、しばらくしてからその手を放した。
段岭はまだ言葉も終えぬ間に、たちまち目から涙が溢れ出て、よろよろと座位を離れ、階段を転げ落ちそうになった。だが李衍秋は前に出て手を引き、彼を席に戻らせた。
「これまでの功績を鑑み、遺体はこのままの姿にしておくことにする。運んで行きなさい。
太子少保の礼によって、彼を厚く埋葬する。犠牲になった将士には規定による昇級と慰労金を与える。」
「だめだ……だめだ。」段岭は声を震わせた。「武独、早く彼を助けて!あなたなら彼を救えるはず。早く!」
「太子はお疲れだ。連れ帰って休ませるように。」李衍秋が言った。「朕も疲れた。その他功労者には褒賞を与え、この日を以て天下に大赦を下す。ただし蔡閏と牧曠達の罪は重く、例外とするが、その他の者に関しては罪の重さに応じて免じることとする。」
だが段岭の耳にはもう何も届いていなかった。武独に抱きかかえられて金鑾殿を後にしてからも涙が止まらなかった。大声で泣き叫びたいのに声が出ない。涙でぼやけた風景の中、群臣たちが彼と李衍秋に拝伏し、万歳と叫んでいた。
そうした文武群臣の中に、郎俊侠はそのまま状態で跪いていた。口からは血が流れていたが、目を閉じた姿はとても安らかで、まるでその場に跪いたまま眠っているかのようだった。
―――
秋風が吹き抜け、少しずつ涼しくなってきた。
元々蔡閏が住んでいた東宮は改築されて冷宮が置かれ、李衍秋は東北の角に新たな宮を置いた。三名の刺客に輪番で守らせた上で、黒甲軍兵士を何人も集めて宮内に住ませ、太子の命令を聞かせるようにした。
牧錦之は冷宮に移されたが、多くのことはまだ決まっていない。使節団は未だ江州に滞在していた。本来なら追悼に来たのだが、色々あって陳国太子帰朝の喜を祝うための滞在となった。李衍秋は天下に大赦を下した。宴席が設けられ、群臣と使節団を接待する際に、陳国陛下が実はまだ存命だったと軽く触れられ、それで報告は終わりとなった。
李衍秋は輪番で大臣たちを呼び出して一通り慰労した。太子が戻って以来、陛下の性格は随分穏やかになり、以前の様な気難しさはすっかり忘れ去られたようだ。以前は韓濵から位を奪う機に乗じて、老臣たちを全員粛清し、家を滅ぼし一族ごと誅するつもりだったのだが。
「殿下はどこだ?」李衍秋が東宮に来て、段岭を探し回った。
「庭園におられます。」衛士が答えた。
「庭いじりか?」
「いいえ。ぼんやりされてます。」
李衍秋は烏洛候穆にはもううんざりだった。生きている時には面倒ごとばかり起こし、死んだ後には人の心をずたずたにするとは。
段岭は庭園に座ってぼんやりしていた。武独が彼の向かいに座り、額を突き合わせえて笑わせようとからかえば、段岭は何とか笑って見せたが、眼差しは悲しみに満ちていた。
ずっと考えてきたことだった。最後には全てがこんな風になるかもしれないと。だが実際にそうなって見ると、どうしても受け入れられない自分がいた。
「皇児。」李衍秋は責任感を込めた口調で話しかけた。
段岭は顔を上げて、李衍秋と視線を交わし、すぐに目をそらした。「四叔父上。」
本当は内心少し腹を立てていた李衍秋だったが、段岭の様子を見て怒りはどこかに消え去り、心苦しさだけが後に残った。
武独が拝礼した。李衍秋は段岭の前に座り、彼の横顔に手を置いてそっと撫でた。段岭は李衍秋の手を握り、少し申し訳ない気持ちになった。
「どうして私に会いに来ないのだ?」李衍秋が言った。
「申し訳ありませんでした。」段岭は無理をして笑顔を作った。
李衍秋は段岭を連れて庭園の中に歩いて行った。黄色くなった秋の葉が舞い飛び、また一段と秋が深まったようだった。
「政務をする気にならないならそれでもいい。」李衍秋が言った。「使節の者たちは皆お前に会いたがっている。冬になれば道は通りにくくなる。彼らもそろそろ帰らねばならないだろう。」
「そうですね。」段岭が言った。「今から行ってきます。」
李衍秋は何か折り合いを付けさせるような言葉を段岭に賭けようとしたが、よく考えてまたにすることにした。「毎日四叔父と一緒に夕飯を食べに来られるか?」
段岭は急いで頷いた。それから侍衛が近づいてきたため、李衍秋に小声で退席を告げた。
李衍秋は何かあったのだろうと思いつつもそのまま行かせるしかなかった。
牧曠達が獄中にいて国には政治の指揮を執る者がいない。殆どのことを帝君自らが親政しなくてはならず、李衍秋は休む間もない忙しさだった。段岭はこれではいけないと思った。
何とか気持ちを整えて、やるべきことをやらなくては。
「まだ泣いているのか?」去り際に李衍秋が小声で尋ねた。
「あの日帰ってからは泣いていました。」武独もごく小声で言った。「寝て起きてからはずっと恍惚とした状態でもう三日たちました。」
李衍秋が言った。「お前が何とかしなさい。このままだと玉璜は返してもらうことになるぞ。」
李衍秋は元々規則に縛られるたちではない。部下に渡したものなら取り返せると思っている。武独には何ともならないが、今のが暗示ととってただ頷いた。
第227章 その後
部屋に戻った段岭は兵士に奏折を取りに行かせた。だが文面を見たまま、午後中再びぼんやりとしてしまった。
武独は顔をしかめて奏折を届けて来た黒甲軍侍衛を見た。外で見張りについている者、庭園で落ち葉を掃いている者……。謝宥は太監を全とっかえして、宮中に置く者を全員身の丈八尺のすらりとした美形の若者に入れ替えた。
かつて大陳は金吾職制をとっていたが、それは後に黒甲軍に統一された。選ばれた者が殿に上がって侍衛として命令を聞くのだが、それぞれが凛々しく英俊洒脱で、性格もよく明るい者ばかりだ。謝宥の奴どういうつもりなのだ。
「みんな出ていけ!」武独は見る度腹が立つ。理由をつけて全員毒殺してやろうかとさえ考えていた。すると段岭が言った。「またすぐ侍衛たちに腹を立ててどういうつもり?」
武独は何も言わず嫌そうに顔をしかめた。それを見た段岭は自分の悲しみは一時横に置いておくことにして尋ねた。「今度はどうしたの?」
「ちょっと出て来る。」
「どこに?」
武独はまだ何も言わない。段岭はふと目を赤くして、「どうしたの?何でそんなこと言うの?」と言った。
武独は段岭が泣きそうになっているのを見て急いで言った。「なんでもない。ちょっと用事があるだけだ。一刻くらいですぐに戻る。」
「だったら行ってきて。」段岭が言った。「何をしてくるの?」
「何でもない。薬を煎じてお前に飲ませる。」
段岭が頷くと武独は出て行き、ため息をついた。そして走廊の突き当りまで行くと、面白くない様子でずっと鳥を見ていた。
侍衛、太監、宮女が通り過ぎる度に、武独に頭を下げた。武独はひょっとしたら大陳開国以来、最速で昇進した人物かもしれない。武将から文官になったのは言うまでもなく、三年で太子太師に成り上がった。無品から一気に正一品だ。科挙で一位の天才ですらここまでの官運は持っていない。
しばらくそこに立った後、武独は戻って段岭と奏折を読むのに付き合った。段岭が武独を見て、水を求めれば水を飲ませ、書を求めれば持って来て、手伝った。
夜になると、武独は段岭に支度させて、李衍秋と夕飯をとらせた。段岭が食事をする間、武独はその傍らにいた。鄭彦も以前のように傍らに控え、姚復と五公主もいて、みんなで会話をしたものの、誰もが皆わかっていた。段岭が郎俊侠の死からまだ立ち直っていないのだと。
李瀟は何度か声を掛けようとして、その度姚復の笑い声に邪魔されていた。
だが彼女は最後に言った。「皇児、昌流君のことはどうするつもり?」
昌流君はずっと牧曠達の家臣だった。どんなに忠義心を表したところでやはり皆安心できない。城内に住ませるのもやはりよろしくないだろう。
「ずっと牧磬と一緒にいると思います。」段岭が言った。
「牧家の者を残しておくことはできないわ。」李瀟が言った。「いつか必ず問題になるわよ。」
「心配はいらないだろう。」李衍秋が言った。「あの若造に何ができるというのだ?」
李衍秋は段岭がどう手配する気かも聞こうとしなかった。あの日以降、段岭は牧磬をかつて牧錦之が使っていた場所に軟禁し、見張らせている。そこに昌流君を置いているならもうそれで言うこともない。
死ぬべきものは皆死んだ今、牧磬一人では波風を立てることさえできないはずだ。
「それから、あの蛮族たちよ。」李瀟が言った。「皆さっさと帰しなさい。長く置くほど面倒になるわ。寒くなってきたことだし、私と姑丈(姚復)も帰らなくてはね。」
段岭は頷いた。李瀟の今の言葉は李衍秋に聞かせるために言ったのだろう。
李衍秋が言った。「年越しを終えてから帰ればいい。」
姚復が腰を伸ばしながら言った。「年が明ければまた色々あるでしょう。しかもまた戦争をするつもりなら、くれぐれも気をつけて守りを固めるに越したことはないしな。」
「大丈夫です。」段岭が言った。「バドとは三年の約束をしましたから。」
「戦わずにすむならそれに越したことはないわね。」李瀟が言った。
夕食を終えると、段岭は勢局の分析していくつか話をした。気分も少しずつ回復してきて、武独と共に庭園を通って東宮に戻った。新しい殿内は模様替えされ、灯火が明るくとても温かい。費宏徳が東宮幕僚として暫く宮内にいてくれることになり、まもなく賓客も呼ぶことになっていた。
他にも会わねばならない人がたくさんいる。だが夜になって寝台に横になると、寝返りを打つばかりで郎俊侠のことを思い出しどうしてもまたつらくなってきた。
自分は彼の罪を赦すつもりだったのに、一体どうしてこんなことになってしまったのか?
あの日殿上で、こちらはすっかり手配を整えて、後は口に出すばかりだった。君子に戯言無し、李衍秋だってきっと自分に反駁しなかったはずなのに。
武独は部屋に戻ると、武袍を脱いで、刺客用の夜行服に着替えた。
「どこに行くの?」段岭が尋ねた。
「ちょっと出かけて来る。」武独は腰帯をとめながら言った。「行くか?」
段岭:「?」
武独は段岭に靴を履かせ、虎皮の上着を着せると、彼の手を牽いて出ていき、段岭を横抱きにして屋根の上へと跳び乗った。
秋風が冷たくなる中、武独は太和殿の上まで跳び上がり、段岭の手を牽いて、元々東宮だった西殿の庭に飛び降りた。部屋の中に灯りを点けると、冷たい風が吹き抜けて、紗簾を巻き上げた。部屋の中には棺桶が一つ置かれていた。
段岭:「……。」
それは郎俊侠の霊堂だった。武独は長い溜息をついて、腕を組んで棺桶の前に立ち、横目で棺桶を見た。
「何をする気?」段岭がとめようとした時、武独は烈光剣を抜いて、棺桶の留め具を斬り、蓋を押し開けて、段岭に中を見させた。郎俊侠の棺桶の中に横たわっていたのは一本の木材と、青峰剣だけだった。
段岭:「……。」
段岭は震撼した。「死んでなかったの?!」
「シィッ」武独は眉をひそめて青峰剣を取り出した。「これは白虎堂の物だ。回収させてもらう。」
「どうして言ってくれなかったの?!」段岭は驚きから覚め止まぬ様子で尋ねた。
武独が言った。「疑っていたんだ。あの薬を陛下から求められたとき二服と言われたから。」
段岭:「……。」
段岭は頭がどうにかなりそうだった。喜ぶべきか悲しむべきか。喜ぶのは郎俊侠が死んでいなかったからだ!だが悲しいのは、あの日彼が再び自分を騙したからだ。それを思うと怒りがふつふつとこみあげて来た。
武独が言った。「さあこれで死んでいないことがわかったな。で、どうする?これでもう一日中苦虫をかみつぶしたような顔をしないでいられるだろう?」
段岭は怒るべきかとも思ったが、やはり笑顔が込み上げて来た。「うん。」
武独は棺桶の蓋を再び占めると、「行くぞ。」と言った。
段岭は振り返って一目見てから、武独を追いかけた。今度は武独が怒る番だった。
「ねえ。」段岭は武独の手を牽きに行ったが、武独はその手を避けて、「俺は東宮にはすまないからな。」と言った。
「どこに住む気なの?」段岭は愕然として言った。
「俺は太子太師だ。」武独が言った。「大臣なんだ。もう侍衛じゃない。大臣が東宮に住んでいたらどう思われる?」
段岭は武独の袖を引っ張った。「怒らないでよ。」
武独は段岭の手を引きはがして去って行こうとした。段岭は今度は袴を引っ張った。すると武独の袴が少し下がってきてしまい、彼は急いで手で押さえた。二人は引っ張ったり、戻したりしながら東宮に戻って来た。武独は再び服を着替えに行った。
「そんなのいやだよ。」段岭は駄々をこねるように言った。
武独は服を着替えたら、また出ていくつもりだった。すると段岭が言った。「まだあなたの官邸はないのに、一体どこに住むつもりなの?」
「丞相府だ。」武独が言った。「以前の俺の院に住む。」
武独は夜行服を脱いで、単衣姿だった。段岭は跳びついて彼の体に抱きついた。
「いつか俺が死んだら……。」
段岭は必死で彼の唇を塞ぎ、それ以上何も言わせなかった。それからあっという間に服や帯を脱ぎ捨てると、一糸まとわぬ姿になって武独の目の前に立った。
少年らしい白皙の肌と均整のとれた体が武独の目の前にさらけ出されると、その刺客的攻撃力に一時武独は言葉を失ってしまった。段岭はそのまま武独の胸にしがみつき、武独はたちまち口が渇いてそれまで何を言っていたのかも忘れてしまった。
そして後はただ彼を抱きしめ寝台に横たえた。
「お前はまったく……始末に負えない…….。」
「ああっ……そんなに……。」
一晩かけてもとの問題に戻ってこられた武独は、思った。あいつめ、逃げ足が速くて助かったな。さもなくば、死を偽装している間に本当の死体にしてやるところだった。
夜が明ける頃、段岭はようやく疲れ果てて眠りについた。
翌日、段岭の気分はずっと良くなり、話したり笑ったりできるようになった。武独はあまり面白くはなかったものの、自分に言い聞かせることにした。まあいい、生きているならそれはそれで。毎日死者と争うことにならずに済んだ。
「牧磬は中にいるの?」
三日後、段岭は宮の外に来ていた。
「います。」昌流君はもう夜行服は身につけず、覆面も取っている。「お会いになりますか?」
路地に一台の馬車が停まっていた。段岭は遠くから黙ってそれをじっと見つめた。
「やめておくよ。」段岭は昌流君に銀票一束と朝廷が特別に出した通関文書を手渡した。
「もう行って。二度と戻ってきてはいけないよ。」
昌流君は佩剣を下ろして武独に渡した。
「これ以降、俺が再び伝承することはない。」昌流君が言った。「お前に譲る。」
武独が言った。「やってみよう。」
「それじゃあ、陛下の方は……。」昌流君は言葉を飲み込んだ。
「あなたは牧磬に真相を伝えるつもり?」段岭が尋ねた。
昌流君が口ごもっていると段岭が「言ってあげなよ。」と言った。
昌流君は長い溜息をついた後、重々しく頷いた。「本当にお会いになりませんか?」
段岭が手を振ると、昌流君は決心したように、御者席に飛び乗り、馬車を走らせ去って行った。
武独と段岭は城門に上がり、江北平原を眺めた。昌流君の馬車がゆっくりと遠のいて行った。
「ワンシャンは?」牧磬が車簾を開けて尋ねた。「父上はどうなった?」
「しぃっ。」昌流君が言った。「後でゆっくりお話しします。言うことを聞いて、それ以上尋ねないでください。いいですね。」
牧磬はずっと宮中に軟禁され、十日近く何も知らされていなかった。だがそれでも思う所があるようで、目が赤くなっていた。
「あなたの父は死んでいません。」昌流君が言った。「私が保証します。あなたの父親は死なない。安心してください。」
「本当かい?」牧磬が言った。「じゃあ伯母上は?」
「ああ……伯母さんのことは……言いづらいですが、とにかくまだ何も聞かないで。言うことをきくんです。」
牧磬は怯んだようにじっと昌流君を見つめて、突然言った。「もしかして私にはお前しかいないのかい?」
「ええ。でもあなたにはまだ私がいます。」昌流君が言った。
馬車はゆっくりと遠のいて行った。段岭は武独の懐の中に寄り添いながらそれを見送った。
昌流君が去って行く時、彼はまた郎俊侠のことを思い出していた。
ここ数日、誰かが突然近くに来たような気がしていた。一陣の風のこともあれば、人影のこともる。だが彼は結局姿を現すことはなかった。
それでも、何があろうと、自分にはまだ武独がいた。段岭は顔を上げて武独をじっと見た。
「またお父上が恋しくなったのか?」武独が段岭の様子を伺いながら尋ねた。
「ううん。」段岭は笑顔を見せた。「恋しいのはあなただけ。」
段岭は武独の手を取って、二人で一緒に宮中に戻って行った。
―――
静かな夜更け、牧曠達は暗く湿気っぽい天牢で、耐えがたい痛みに苦しめられ、体を震わせていた。
「殿下!」
「殿下御自ら足を運ばれなくても、我々が囚人を連れてまいります。」
「気にしないで。」段岭は体を折って天牢に入って行った。後ろには武独がついて、湿気っぽい階段を下りてきている。
囚人服を身にまとった白髪の牧曠達はまるで十歳近くも老けたように見える。
「王山。」牧曠達が笑いかけた。
「師父。」段岭が言った。「あなたがずっと教え育ててくれたことに感謝しています。」
牧曠達はため息をついた。「お前たち李家は、いつまでたっても……。」
「牧磬がどうなったか知りたいですか?」段岭は牧曠達の話を遮った。思った通り、牧曠達は黙り込んで全身を震えさせた。
「私が送り出しましたよ。」段岭が言った。「明日は刑の執行日ですから、安心してほしくて、一言伝えに参りました。君子に戯言無し。我が大陳列祖列宗の名に懸けて誓います。私は彼を殺さないと。」
「あ……ありがとう。」牧曠達は声を震わせた。「感謝する、王山!」
「ですが太后のことは私でも救うことができませんでした。」段岭が言った。「それではそういうことで。」
牧曠達は涙を流して座り込み、手かせ足かせをつけたまま泣き出した。段岭は本来、牧磬は
本当の子供ではないと言おうと思っていた。彼が父の仇であることを思うと、千万回でも斬りつけて心に巣くった恨みをはらしたいとさえ思った。だがこの老い先短い老人を見た時、やはり真実を告げるのはやめておこうと思い、背を向けてその場を去って行った。
武独はその場にしばらく立って、憐れむように牧曠達を見ていた。
「もう毒は必要ないよ。」段岭が牢房の戸口から言った。「明日はもう死ぬのだから。」
「わかっている!」武独が言った。「少し言いたいことがあるだけだ。先に行っててくれ。」
牧曠達は怯んだように武独を見た。武独は段岭が遠くまで行くのを待ってから告げた。
「なあ、牧相、牧磬は昌流君の息子だったんだぞ。でなければ昌流君があんたにあそこまで忠義を尽くすはずがないだろう?よく考えてみたらどうだ?」
牧曠達:「……。」
「観念することだな。」武独が言った。「またいつか会わないか。」
武独も出ていくと、武独は目を見開いた。呼吸が苦しくなり、最後にはうずくまって、壁にもたれて胸をかきむしった。
(こいつ、自分が牢に入った時は牧曠達に助けられたくせに)
翌日の正午、陰鬱な雨が降り続く中、髪を乱雑に散らした半死半生の牧曠達が、囚人車に乗せられて大通りに運ばれていった。車に乗っていた段岭は外の人達の騒ぎを聞いて車を停めた。黒い錦袍に身を包んだ武独はとても洒脱な様子で、車に乗り込み段岭と刑の執行を見届けに向かっていた。
「あれは何をしているの?」段岭が尋ねた。
「義憤に満ちた奴らが、老人を殺そうと道を塞いでいるとか。」武独が応えると、「そんなまさか。」と段岭は言った。「きっと囚人車を停めて、水を飲ませようとしているんだよ。」
武独は何も言わなかったが、段岭はきっとそうだろうと思っていた。「丞相としての牧相のことは私はとても尊敬していた。ただ言わば、彼は不運にも私に出くわしてしまったんだ。」
武独が言った。「お前は怒っているんだと思っていたが。」
「いいえ。」段岭が答えた。「それが理由で私は負けるわけにはいかなかった。彼の大陳にしないために。」
正午を三刻過ぎた頃、段岭は遠く天下第一亭の二階で茶を飲んでいた。監斬官が刑の執行を大声で告げると、人々は大騒ぎした。そして牧曠達の首が斬られるとみなため息をついていた。
時には人が死んでもその精神や信念は生き残ることがある。段岭は時にわからなくなることがある。一体その相手が友なのか敵なのかを。だがここまでくるとそれはもう重要なことではなくなっていた。
「蔡閏!」監斬官が叫んだ。「太子詐称により、凌遅——!」
人々の声が沸き立った。遷都以降、初めての凌遅刑だ。凌遅官は蔡閏の衣袍を剥がして丸裸西、骨ばった体を露わにした。それから磨き上げた鋭利な刀を手に持つと、彼の胸の上に貼りつけて、軽く下に向けて滑らせた。
(以下、残酷な表現すぎるので数行飛ばすことにする。)
段岭と武独は向かい合って座り、黙ったまま響いて来る蔡閏の絶叫を聞いていた。
『千百二十』まで数えた時、
――――――――
店主が盆に点心を乗せて机の上に置いた。一緒に手紙が置いてあった。
「殿下、誰かがこの手紙をあなた様にと。」
段岭が手に取ろうとすると、毒が仕込んでいないかと案じた武独が受け取って紙を開いた。
そこには一行書かれていた。「死なせてやってくれ。」
それは郎俊侠の筆跡だった。彼はまだ近くにいたのか。きっと今凌遅刑の様子を見ていて、ついに耐えかねて蔡閏の為に赦しを求めてきたのだろう。
段岭は刑の執行台へと下りて行った。
「太子殿下の御成り——。」
野次馬が黒甲軍に押しのけられた。執行官は手をとめ、刀を置いて跪き地に額をつけた。
段岭は彼を退かせることなく、執行場所の上にたち、顔を上げて、全身血まみれの蔡閏を見た。彼にとってもこんな残酷な刑を見るのは初めてだった。
「お前を……憎む。」蔡閏は喉から苦労してその一言を絞り出した。
「どうして私を恨むの?」段岭は時々蔡閏の考え方が理解できない。「私は君を恨んでこなかったのに、君の方が私を恨むと言うんだね。」
「お前は」蔡閏は恐ろしげで、奇妙な声を発した。「お前…には…父がいて……郎俊侠も……いる。お前は……ただ段家に生まれただけで、全部……あるが……私には......何もない。
天は……私が最後に一つだけ……持っていたものまで……奪おうとしている。」
(一行とばす。)
「私は名堂に入ったばかりの時のことを覚えているよ。」段岭が言った。「君はまるで兄のように私に言いに来てくれた。もしバドにいじめられたら、自分に教えに来るようにって。」
(一行とばす。)
「だからあの時の私と君の同窓の誼で」段岭は息を吐いて言った。「もうこうすることにしよう。」
段岭は数歩歩いて、蔡閏に背を向け足を停めた。
蔡閏は相変わらず妖怪の様な恐ろし気な声を出していた。「私は……鬼になっても……絶対に……。」
段岭は振り返って長弓を引いた。軽い音を立てて矢は斜めに一丈飛んで行き、蔡閏の殆ど透けかけた血まみれの胸を通り、心臓を射抜いた。
血が飛び散って、体から透け出し、蔡閏は目を閉じてゆっくりと頭を垂らした。
(二行とばす)
(段岭は上京から逃げるときに蔡閏に何度も命を救われているのになあ。)
―――
バドと赫連博が校場の外で待っていた。段岭は彼らの所に歩いて行った。涙が止まらずに溢れ出て来る。赫連博が進み出て段岭の肩を叩き、バドも近づいて彼を抱きしめた。
秋風がひゅうひゅうと音を立てる江北の道の上を見れば、血のように赤い楓の葉が舞い散っている。段岭は武独と鄭彦の護衛のもと、バド、赫連博、耶律魯と丹増曜杰を自ら送り出すため、江北平原の先まで来ていた。
「あと二年だな。」バドが言った。
「覚えているよ。」段岭が答えた。
一同は楓の木の下で別れることにした。
「て、手伝うよ!」赫連博が言った。
バドが赫連博を睨みつけると、赫連博は「か、彼を手伝うんだ!」と言った。
「先にお前をやっつけてやる!」バドが怒り出した。
赫連博は進み出てバドを押し、二人は互いに押し合って、今にもけんかになりそうだったので、耶律魯たちが急いで彼らを引き離した。
こんな風に集まるのはこれが最後だということは誰もがわかっていた。次に会う時には生死をかけた戦場なのだ。バドは何か元語で言ってから、ひらりと馬に乗り、振り返りもせずにその場を去って行った。
一同は静かにバドを見送った。
「手伝ってくれなくて大丈夫だよ。」段岭が言った。「私だって彼と戦えるから。」
段岭がひらりと奔霄に跳び乗ると、赫連博たちは別れを告げ、それぞれその場を去って行った。
「帰ったらこの手紙を宗真に渡して。」段岭が言った。「助けてくれたこと、感謝している。」
耶律魯は馬上で抱拳した。丹増曜杰は大陳の修好合約をもらって、段岭に向かって手を振り去って行った。
段岭は馬を平原の道に歩かせながら、バドたちが離れて行くのをずっと見守っていた。バドたちはだんだんと地平線の彼方に消えて行き、最後には小さな黒い点となった。
だがそれからも小さな黒い点は止まったままで、それ以上進んで行かないように思えた。
ひょっとしたらバドも今振り返って自分を見ているかもしれないし、見ていないかも。どうだろう。そしてようやく彼らが完全に自分の視界から消えてしまうと、段岭はようやく馬の顔を動かして、彼の江州へ、彼の家へと戻って行った。
その年の冬、陳太子李若が帰朝、天下に大赦を下した。
翌年、陳帝恩科を開く。四方から人材を選び、東宮は賓客を募った。この年は雨風に恵まれ、国泰民安により、朝廷は重税を課した。江南、江州、西川、山東、河北から兵馬を集め、十万の軍を組織した。
靖武四年,太子自ら河北に赴き、兵力強化を行う。各地から集めた兵は二十万に至る。
遼、元もそれぞれ戦の準備に入った。
靖武五年秋、大軍が潯北に向かい、元との初交戦となる。陳、遼連合の攻撃を受けて、元は上京を北上し将軍岭まで退いた。
十二月、陳、元の大軍が、将軍岭下で開戦。史に『幽州の戦い』と記される。
この戦いは上梓の辱以降、陳国が外族に対して行う最大兵力、最大規模での一戦となった。
第228章 終:歓為すことの幾何ぞ
二年後。
陳国二十万の大軍が将軍岭下を埋め尽くす様に展開していた。対するは山海のごとく壮大な元国軍だ。
両国軍合わせて四十万人が集結した重々しい空気に、馬さえ嘶き声を潜めるほどだ。雪の花がひらひらと舞い散って来ると、段岭の記憶の中に、あの曲の音が浮かんできた。
元軍が道を開け、その中から甲冑に身を包んだブアルチジン・バドの姿が現われた。
段岭も戦馬を走らせて陣の前まで出ていき、二人は遠くから向かい合った。
恐怖が巻き起こり、陳軍、元軍ののぼり旗がパタパタと音を立てて翻った。
「始めるか。」段岭が静かに言い放った。
武独は黒い鎧に身を包み、近すぎず遠すぎず、段岭の後ろについていく。
その時吹雪が吹き荒れた。遥か彼方の天際で、幾千万の戦神の魂が流星のごとくに白い光となって降りてくるかのようだ。それらは陣の前に下りてくるたびに、南陳大地を長年守り続けた者たちの幻影となり、駿馬を駆って空を馳せている。
「開戦だ!」誰かの声がそう叫んでいる。「行くぞ!」
黒甲に身を包んだ謝宥が陣前にやって来た。
「我が大陳の男たちよ——!」段岭と謝宥の声が重なり合う。
山が叫び海が呻るほどに陳軍の闘志と勢いは激しさを極める。
銀河の星々が果てなき光の風に形を変えた。そこに男が一人、白虎に跨り、戦神の翼を広げ、広大な光の粒の中を飛翔する。それは西の果ての白虎、天下の刀兵の主だ!
男は天地が重なり合う場所から空へと跳び上がり、その輝きで戦場を銀色に煌めかせた。
「陛下の為に死ぬことを願うか?」
再び一斉に上がった咆哮は、山を崩し天地を割らん勢いだ。
『息子よ。』
あの優しい声が段岭の体の中に蘇って来た。光の甲冑に身を包んだ李漸鴻が、星を纏い月を頂き、鎮山河を掲げた幻の英霊となって、戦陣の中に飛んできた。
「父さん。」段岭の瞳には、絢爛と輝く星空と古より変わることのない銀河が映っていた。
それは、いつの日も変わらずそこにある。
一千万年の昔と変わらず。
「開戦。」
段岭の手の中の鎮山河が遥か遠方を指し示した。
たちまち南陳二十万の将士たちが、時の流れの中で、世代を超えて戦死してきた英魂に見守られる中、元軍に向かって斬り込んで行った。
千里離れた江州では、細雪が空一杯に舞う中、李衍秋が后殿楼上で、降り続く小雪を眺めていた。
「今日あたり、将軍岭についたことだろう。」李衍秋が言った。「三兄上、どうかルアルを守ってやってくれ。」
将軍岭下の雪原で、双方の先鋒軍は、角笛を合図に突撃を開始した。新たに組織された征北軍は雪を蹴散らしながら、戦陣の中へと突入して行った。
様々な瞬間が集まり合わさったこの一戦の内、史官はその断片をたくさん切り取り記録に残した。鄭彦率いる軍が敵を囲い込んで敵陣に突入したが、負傷して撤退した。
武独が激戦を勝ち取れずに、落馬させられた所に、段岭が駆けつけ武独を救い出した。
元の監軍ティモールが武独に斬られ死亡。チンチャタイの部下、ハンティモアルが射死するも、麾下軍は決死と退かず。
謝宥率いる軍が元軍側翼を迂回して襲撃したが、ブアルチジン・バドの応戦と指揮により、苦戦し全功ならず……。
敵味方合わせて四十万の大軍が最初にぶつかり合った、将軍岭下の一戦では、万里の雪原が血に染まり、峡谷の入り口は巨大な肉処理機と化した。
だが実は陳軍はぶつかり合う度、圧倒的な勝利をものにしていた。更に崖の上の鄭彦軍に敵の側翼軍が追い詰められ、崖から墜落すると、雪崩を引き起こした。数百の元軍が崖から落ちたことで起きた雪崩に、万を超える元兵が埋められることになったが、これにより陳軍の方も部隊を切断されてしまった。
段岭は伏兵を使ってバドを襲撃した。双方が向かい合う中、段岭はバドを射て落馬させたが、アムグが飛び込んできて、決死の覚悟でバドを味方の方陣内に連れ戻した。
「あいつを捉えろ!」誰かが元語で叫んだ。「あいつを捕まえれば、こっちの勝ちだ!」
この頃には元軍は既に勢いを失っており、雪崩で埋められた人数を入れると、既に十二万を失っていた。だが背水の陣とばかりに死んでも退かぬ覚悟でいた。混乱に乗じて何とか陳国太子を捉えれば、相手の攻勢は瓦解する。
陳軍は猛烈な抵抗に合って主力軍はバラバラになり、武独率いる先鋒軍と段岭率いる中軍は雪崩によって隔てられてしまっていた。
「殿下!奴らが追って来ています!」誰かが叫んだ。
「どのくらいいる?」段岭の周りには僅か二千余りの兵しかおらず、他は全て謝宥側にいた。
「二万です!」
「峡谷を回り込んで行く!」段岭は決断を下した。「一刻も早く先鋒軍と合流するんだ!こちらは勝っている!これは敵の最後の兵力だ!」
二万の元軍は山の傾斜に沿って突撃を開始した。大雪が津波のように巻き上がっている。段岭は親衛兵に防御されながら、峡谷の奥へと進んで行った。
「ここは私が!」述律端が叫んだ。「行って下さい!殿下!」
段岭が振り返って見ると、述律端は既に再び突撃隊を組織し、追いかけて来る二万の元軍を止めようとしていた。双方が一たびぶつかり合うと、混戦となったが、防衛線を突破した元軍が段岭に向かって突進して来た。
親衛兵は段岭を守って、峡谷の奥へと向かって行った。ところが峡谷の前方に更に千人余りがおり、彼らに向かって突撃してきた。
「奔霄!任せたぞ!」段岭が叫んだ。
流れ矢が段岭に当たったが、白虎明光鎧がそれを防いだ。段岭は危険を承知で戦陣の中に突っ込んで行った。すると左腕を厚く布でくるんだ男が斬馬剣を掲げて、段岭に向かって突進してくるのが見えた。男は斬馬剣を力いっぱい振るって、彼を頭から斬りつけようとしている!
斬馬剣がキラリと光り、血に汚れたアムグの顔が見えた。だが後に退くことはできない。できることは肩越しにすれ違ってアムグの剣を躱すことだけだ!
剣が振るわれ、肩が粉々に砕け斬られると思った瞬間、黒い影が掠めた。
黒い影は馬の鞍を片足で踏みつけ、右手で段岭を抱え上げて、左手の剣を相手の剣に叩きつけた。「ギィーン」という大きな音がして、空気が震え、鼓膜に響いた。
男は段岭を抱えて跳び上がり、奔霄から離れた。奔霄はそのまま戦陣の中に走り込んでいき、千人以上の追手を連れて去って行った。
段岭は雪の中に転がったが、力強い手にがっちりと手をつかまれ、雪の中から引っ張り上げられた。薬指が滑り落ちた時、段岭は相手の小指が欠けているのに気づいた。
「奴らを殺せ!」アムグが叫んだ。
「郎俊侠?!」段岭は震える声で呼びかけた。
郎俊侠は色あせてボロボロの武袍を身につけていた。
「いつから私についていたの?」段岭が言った。「どうしてこんな所にいるの?!」
「しっ。」郎俊侠が言った。「何も聞かないで。」
彼は眼差しに笑みを湛え、右手を唇に当てて口笛を吹き、奔霄を呼び戻した。
「馬に乗って!」郎俊侠はそう叫ぶと、再び段岭を馬に押し上げ、自らもひらりと飛び乗った。
「射矢の準備を!」郎俊侠が言った。「寒くないかい?」
甲冑姿の段岭の眉も髪も雪まみれだ。奔霄が急に立ち止まった。前にはアムグ率いる千人以上の元軍がいる。
「さ……寒くないよ。」段岭が言った。「すごく暖かい。」
「声が震えているけどね。」郎俊侠が言った。「弓矢は?」
段岭は長弓を下ろし、手に握った。アムグは巨大な剣を雪の中に投げ捨て、腰に付けていた長刀を抜いた。元軍は一斉に後ろに下がり、突撃体制に入った。
「お前はもう終わりだ、太子。」アムグが言った。「もう誰もお前を守れない。」
「まだ私がいる。」郎俊侠が呟いた。彼は後ろに段岭を乗せて馬を走らせた。澄んだ瞳には目の前の千人以上の元兵が映っている。更に崖の上には弓隊が現われ、それぞれが弓矢を構えて矢先を向けている。
遠方に弓矢を向けた段岭は緊張して息もできなかった。
「手紙を読んだかい?」郎俊侠が言った。
「何のこと?」段岭は眉をひそめた。
郎俊侠はしばらく黙った後で言った。「青峰剣の剣鞘の中にある。この剣はあまり使えないが、少しの間、何とか防ぐように努力する。今度は君が私を守る番だ、段岭。雑兵は君に任せる。」
段岭は鼓動が停まった様な気持ちで、第一矢を放った。そこへ郎俊侠が叫んだ。「ハァッ!」
奔霄は二人を乗せて、峡谷の出口に向かって走った。同時に千名の元軍が突撃を開始し、アムグに率いられて彼らに向かって突っ込んできた!
段岭は必死で敵陣に向かって、一矢、また一矢と連射した。
双方が接近したその瞬間、郎俊侠は身をよじってアムグにぶつかって行き、長剣を振り上げて、アムグの長剣を向かい打った!
『君には生涯必ず君を守る人がいる。私の前に立つ必要はない……。』
『君のことを護れなかったら、私は職務失格だ。もしいつか、誰かが私を殺しに来るとしても、別に大丈夫だ。私が死んだら、当然別の誰かが来て、君の前にも後ろにも立ちふさがって君の替わりに剣を受け……。』
その声は遥か昔に聞いたはずなのに、耳に残っているような気もする。
互いにすれ違うその瞬間、郎俊侠はアムグと剣を交した。
アムグの一刀は郎俊侠の胸を突いた。郎俊侠の右手は猛然と刀鋒をつかみ、両手を合わせて刃を押さえ、刀刃は彼の肋骨の中央に突き刺さり、肩を抜けることはなかったが、後ろにいた段岭までもを傷つけた。
だがすぐに郎俊侠から、すらりと出された一突きで、長剣が音もなくアムグの喉に突き刺さった。
奔霄はそのまま敵陣内を突っ走り、一騎絶尖とばかりに雪の粉を蹴散らして疾走し、追いかける元兵を後にした。
段岭は振り返り、叫んだ。「突破できた!」
「よか……った。」郎俊侠が言った。
「怪我をしているじゃないか!郎俊侠!」段岭が身を乗り出して手で探ると、手は血だらけになった。郎俊侠の背中からは刀刃がわずかに突き出ていた。
奔霄は敵をどんどん引き離し、森林へと入って行った。そして再び森を出ると、崖の上から跳び出した。大雪が積った斜面を下り、途中で狂ったような雪の浪をたてて、二人を谷底へと送り出した。
雪深い谷の中、郎俊侠は横に倒れて、雪の中へと投げ出された。
段岭は馬から飛び降り、ふらつきながら、向かって行った。郎俊侠は雪の中で立ち上がろうと力を尽くしたが、どうしても立ち上がることができなかった。
郎俊侠の胸に突き刺さった長剣を見た段岭は絶望のあまり絶叫したが、郎俊侠は彼を避けるように押し返そうとした。「見ては……だめだ。」郎俊侠の口から血が溢れ出て来た。彼はふらつきながら何とか立ち上がると、胸に刺さった長剣を抜き出し、咳とともに血をはいて、後ろ向きに倒れた。
段岭が近づくと、郎俊侠は段岭の懐の中に倒れ込んだ。
狂風が吹き上がり、天地いっぱいに雪を巻き上げた。
吹雪の中、段岭は茫々たる雪原に膝をついた。雪の花が舞い上がる中、郎俊侠は段岭の懐に横たわって、やっとの思いで震える手を上げると、彼の顔を撫でた。
「郎俊侠……。」段岭は嗚咽した。「何で戻って来たんだよ。」
郎俊侠の口元がわずかに上がった。
まるでずっと以前、上京でのあの穏やかな夜に戻ったかのように、彼は同じように雪の中に横たわっていた。子供の頃の段岭は必死で彼を抱きかかえて、部屋の中に連れ戻したのだった。
「なぜかというと……私は……。」
「見たかったんだ……君が……いつか……なるのを……とてもすばらしい……」
「小……皇……帝……に。」
武独の大軍が彼らを見つけ出した時、郎俊侠は段岭の胸の中に横たわっていた。雪の中に置かれた手には指が四本しかなかった。段岭は身を震わせて泣き叫び、しっかりと彼を抱きしめていた。
彼らの体の上には雪が積もっていた。雪はしんしんと降り続き、死んだ者の上にも生きている者の上にも覆いかぶさった。連綿と万里に降り続く様は古より変わることはない。
十二年前にも、別の誰かがこの崖から飛び降りた。そして、同じように雪を振りまきながら、新たなる人生へと馳せて行った。十二年の間に、花は咲き、花は散り、春が過ぎ、また春が来たが、やさしい時間は全て覆いつくされ、さらりと払われた後には何の痕跡も残っていない。
段岭は身も世もなく泣き叫び、雪に落ちた涙は氷となった。彼は郎俊侠の手を引っ張って揺さぶった。そうすることで、指を一本欠いたその手が再び彼の手を握ってくれるのだとばかりに。
時があの年の上京の黄昏のまま停まったかのようだ。彼は段岭の手を牽いて名堂に入学させた後も、その手を振りほどいて、振り返りもせずに家に戻ってしまったのだった。
靖武五年冬、将軍岭下にて陳軍は三日三晩の血戦の末、元軍を玉壁関以北三百里まで駆逐した。
靖武六年六月、ブアルチジン・バド降伏書提示。元軍は長城を退き、ウィグル以西に移住。
遼、陳は国境を再編成し、玉壁関以東から河北軍までを陳に帰し、遼国は上京以北、鮮卑山地域四百里を取り戻した。
靖武六年七月、陳太子李若が河北軍の防衛体制を再編し、軍とともに朝廷に戻る。その後、遼、陳が天下を二分し、元軍は塞西北に退き、再び国境に足を踏み入れないと言う百年の約定を結んだ。
―――
七月七日。
天の川が天の果てまで帯を成す。段岭は帰朝した当夜、将軍岭での一戦の経緯について述べるも、郎俊侠の死については言及しなかった。
既に死んだことになっている人は、再び死ぬことはできない。彼もだんだんと李衍秋が教えたがっていたことがわかるようになってきた。
だが、もし、郎俊侠が再び現れることが無かったら、彼は生きて江州に戻ることはできなかった。
生きるも死ぬも、しばしの浮生大夢にすぎない;起きるも落ちるも蒼海の浮き沈みにすぎない。
「我が大陳太子に天佑あれ。」李衍秋は聞き終えると杯を掲げた。
「群臣は声を上げ、杯を掲げて互いに打ち合わせた。それぞれの杯に空に浮かぶ満天の星々が映っていた。
楽し気な声(音楽が、かな?)がだんだんと収まって来ると、段岭は席を離れて、回廊を抜け、庭園に新たに建てた白虎閣に向かった。朝廷に戻ってから、彼は初めて白虎星君の前で願ったことを思い出し、白虎の像を宮中に移し、両目の翡翠を付け替えた。その目はこの世の喜怒哀楽を見つめ、大陳の興衰の移り変わりを見つめていた。
白虎閣に入ろうとした時、後ろから突然音楽が聞えて来た。その曲は聞こえたり消えたりして庭園の中を彷徨っているかのようだった。
段岭は暫く黙考した後、白虎閣に入って行った。
白虎星君の両側に、青峰剣と白虹剣が置いてあった。
段岭は武器棚から青峰剣を下ろし、鞘の中を見ると、一枚の紙きれが入っていた彼はそれを注意深く取り出すと広げて、閣内の灯火に当ててみた。そこには郎俊侠の字があった。
【段岭:】
【この手紙は七月七日、君が江州に来た日に書いた。こうして戻ったからには、君はもう出ていかないと分かっている。だから君に伝えたかったことをいくつかここに書いておくことにする。
言いたいことがあり過ぎて、何から始めていいかわからない。君がこの手紙を見つける頃には、私は既にどこか遠くにいるだろう。君が悲しまずにこれを読んでくれることを願う。
古人いわく、「人生とは天地の間を過ぎゆく長旅の如く」もしくは「而して浮生は夢の如し、歓得ることの幾何ぞ」の通り、人の世には出会いがあれば別れもある。叶わぬことを強く求めるものではない。
かつて、私は君のお母上の小婉と何度か会って、堅い絆を結んだ。元々復讐の心を抱いていた私だが、匈奴王の元から小婉を救い出したことから、小婉は私を命の恩人として感謝し、一度ならず三度も、李漸鴻を説得して私のために命乞いをしてくれた。北彊を離れ、段家に向かう彼女を守り送り届けた私に、彼女は冗談めかして言っていた。もし男の子が生まれたら、私を師と拝するようにさせ、もし女の子が生まれたら、私の妻にするからと。
だが私は族滅の仇を負う身でもあり、師を裏切った者でもある。家庭を持つことなどできるはずがない。あの時彼女が身ごもっているとも知らず、予言が自己実現するとも思っていなかった。
私は天下の人に忌み嫌われ、煉獄の血海に常に身を置く刺客に過ぎない。君のお父上の命で君を探しに南に向かったが、君が苦しむ様子を見たからには、段家を抹殺せずには心穏やかではいられなかった。あの雲吞売りの老人を生かしておいたのは、いつか縁があって故郷を尋ねることになった時に、君が一杯の雲呑を再び食べることができるようにと思ってのことだった。】
段岭の目から涙が零れ落ち、手紙の上に落ちた。顔を上げて、白虎星君の双眸を見ると、あの年、茫々たる風雪の中を、郎俊侠に連れられて汝南を去った時のことが思い出された。
彼は父の命を受け、師門の名声を滅したことを自覚した。子供を育てるのならば、人命を塵芥と見なすような寡黙で薄情な人間のままではいられなくなったのだ。
【私の手は血に染まっていたが、もう後には戻れなかった。;お父上は私の罪を赦したが、私は君に今まで犯して来た悪行の数々を知られたくはなかったのだ。日の当たる場所を生きる人生も有れば、夜を生きる人生もあり、刺客とは大抵そっちの方だ。李漸鴻が来た日、私は急いで去って行ったが、遠くまではいかずに途中で何度も戻ってきて、君がすぐにお父上に慣れたのを見て、君のために嬉しく思った。
上京が難にあった時には、趙奎が君を人質にしてお父上の軍隊を制御するよう命じたが、私から何も情報を得られないとわかると、今度は影の部隊に君の捜索を命じた。だから私は上京を出るわけにもいかず、有事に備えて、いつも君の近くで影ながら守りつつも、尋春が裏切っているかもしれないと思うと、君に表立って警告することもできなかった。それに私が味方でないと趙奎が気づけば、人質の標的を君の四叔父上に変えるかもしれないとも思っていたのだ。
君が耶律宗真を家に連れ帰った時には、影の部隊の人間が近くにいたため、宗真を襲わざるを得なかった。だがあの時、結果的には敵を甘く見過ぎていたために、お父上が駕蘭羯の待ち伏せ攻撃にあって命を落とすことにつながってしまった。
君のお父上が上京に行った時には、私もすぐに救援に向かったが間に合わなかった。君と尋春の後を追った駕蘭羯には力を尽くして戦い、片手を斬り落としたものの、尋春から浴びた一剣のせいで、気力が続かず怪我を負った。それで時間が遅れ、鮮卑山に追って行った時には、君が蔡閏と離れ離れになったと知り、君を探すも見つからず、君は死んだと思ってしまった。
絶望の中、君の四叔父上には子がいないため、太子がいないことで朝廷に異変が起きると危惧した。更にお父上崩御の後は武将も制御不能になると思い、蔡閏を身代わりにしたのだ。
君が西川に戻って来た日、宮中に送り届けられた短剣を見て、蔡閏は君を殺したがり、先に隠れて見ていたため、寂滅散を使って君の死を装った。だが蔡閏は影の部隊に私の後を追わせていた。かつて私も趙奎の手下に追われた時に、二度川に飛び込んで逃げきれたため、君を川に落とした。暗流が岸に上げてくれることを祈りながら。
翌日私は君を探しに行こうと川に向かったが、姚箏に邪魔をされた。彼女は城を出た私の行方を追って、武独と追いかけて来た。何かのめぐり合わせで君は武独に助けられたが、私はずっと君を探し続けたが見つからず、不安のあまり何度も自害を考えたほどだった。
幸い君は武独と上京時代から縁があったようで、彼は君に真心から接したため、ようやく私も少しずつ安心することができた。牧相の力が強くなり、一時は排除できぬほどになり、陰で糸を引く者が誰なのかもわからなかった。そんな中、駕蘭羯が君の手で葬られたことは、天の定めだったのかもしれない。
長聘を排除したのは、蔡閏と牧相にお互いを疑わせることで君の助けになると思ったからだ。落雁城には影の部隊が潜伏していたので手を出さずにはいられなかったが、君を傷つける意図はなかった。
私は十六才で、恩師と師門を滅し、塞外に落ちのびてからは漢人や遼人、元人を殺して来た。
玉泉鎮を守る者たちが私の手で命を落としたことについては天をも恐れぬ罪であり、許されることはできないと自覚している。二十七歳の時に君と出会い、君を通して、この山河に平和な日々が訪れることを望むようになった。いつか君が帝として即位し、中原大地にようやく平和になって恨みつらみが消える世の中になることを。
世の人々が私の功罪を語り、一笑に付そうとかまわない。私の心の中にあるのは、君の喜怒哀楽、それだけだ。古人曰く、「一杯の酒があれば、風塵を慰むる」そのままに。
君とはほんの数年の縁しかなかったが、それでも私にとっては一生を慰むるに足るものだった。手紙では長くは語れないし、細かく言い表すには足らないが。
この手紙を君が読むとき、私はもう鮮卑神山に戻って、一生を終えているかもしれない。
いつか遠い中原大地を望み、君が遠く江州にいることがわかっても、私は同じ煌めく星河の下にいるのだから、それでこの世を生きるには十分だ。】
【郎俊侠】
心の中に相見歓の曲が響いたが、それは庭園の中にゆっくりと落ちて行き、最後には聞こえなくなった。
段岭は手紙を閉じると、白虎星君の前に立ち、ずっとずっと黙ったままでいた。
「読み終わったか?」武独が閣の外を歩いて来て、戸口に立ち止まった。
彼は七夕の星明かりを浴びていて、後ろには広大な星河があった。
「読み終わったよ。」段岭が答えた。
武独は手を伸ばして、段岭の目の端についていた涙の痕をぬぐい、彼を自らの懐に引き入れて静かにしっかりと抱きしめた。天の川が夜空を渡り、この世界に覆いかぶさっていた。
七月七日。
南から北まで、山岳から平原まで、河から湖まで、遥か古から未来まで。
まるで天孫の手で、澄んだ夜空に軽くひと掃きしたかのような、万里の星の砂が人の世に流れ落ちている。朧気で広大な夢の世界のように、たくさんの人の喜びや悲しみの離合が織り上げられたかのように、刹那の夢に酔って一生は終わる。
七月七日、昨夜の星辰剣刃を磨き、昨年の風月江湖を満つる。
——相見歓 終わり——
十年離乱の後、成長して一たび相逢う
姓を説いて 初見に驚き
名を述べて 昔の様を憶う
別れしよりこの方、蒼海の事
語り終えれば暮天の鐘
明日は巴陵の道
秋の山はまた幾重かは
非天夜翔 相見歓 第221章ー第225章
第221章 夜行
牧曠達は懐柔と言う手段を使うことが多かった。敵対する相手を排除するために手荒な真似をすることは極めて少ない。——李家の人間と、あの不運な辺令白を除けばだが。
もしも韓唯庸が倒されることがなければ、彼は決してこのような境地に落とされはしなかっただろう。今年の初めに、牧曠達は細心の注意を払いながら、渦潮だらけの水流に船をこぎ出したものの、わずかな不注意のせいで暗礁に乗り上げてしまい、身を打ち砕かれた。あの時、韓唯庸がいたなら、年初に遼国が陳国国境に圧力をかけたはずで、そうなれば、例え李衍秋が牧曠達を排除したいと思った所で、迂闊に手を下すことはできなかっただろう。
更に長聘の死の後、牧曠達は何度か形勢を判断しそびれた。そこへ費宏徳が現われたことで、一局挽回しようと思いきや、まさかの韓濵が独断で動き、政変を起こそうとして彼の布置を台無しにしてしまったのだった。
「牧相、少しは良くなられましたか?」費宏徳が言った。
牧曠達は刺傷事件以降、宮中に留め置かれた。韓濵の言い分では、再び刺殺されぬように、牧家の人間の安全を守るためだ。だがその実、牧家を自らの管理下に置き、異変が起きないようにするためだった。
牧曠達は何度か咳をした後、つらそうに起き上がり頷いた。「だいぶましです。あと何日かたてば、また以前のように上廷できそうです。ただまさか、武独と王山がついて来ないとは思いませんでしたが。」
「きっと様子見をしているのでしょう。」費宏徳が言った。「機会をうかがって、牧相を助け出すつもりなのですよ。」
牧曠達はため息をついた。心の中ではよくわかっていた。あの弟子は飼い慣らされない。それどころか、まるで暗闇の一匹の蛇のように、いつ咬みついてくるかもわからないのだ。
「二人の行方をご存知ですか?」牧曠達が尋ねた。「昌流君もどこに行ったのでしょう?」
費宏徳は首を振った。「先ほど韓将軍に聞いてみましたが、何もわかっていないそうです。」
「太子のほうは?」牧曠達が再び尋ねた。
「軟禁されています。」費宏徳が答えた。
烏洛候穆も戻ってきていない。四大刺客が皆一夜にしてどこかに消え失せた。牧曠達は密かにこれはまずいと思い始めた。異変の根底にあるのは、隠し部屋での一件だ。初めは費宏徳が王山に指示したものと疑っていたが、どうやら費宏徳の方もあまり状況を把握していないようだった。
「城外にはあちこちからの客人が来ているというのに。」費宏徳が言った。「元、遼、西凉や吐谷渾部の使者たちが追悼に訪れているのですが、皆、今も城外で待たされているようなのです。」
「それはお招きせねば。」牧曠達が言った。「私を起こして歩かせて下さい。」
牧曠達は費宏徳に助け起こされ、やっとの思いで立ちあがった。体にはまだ包帯が巻かれ、突然傷害を受けたせいで、一夜にしてずいぶんと年を取り、まるで風前の灯といった様子だった。
「丞相はお怪我もまだ治っていないのに、どちらに行かれるおつもりですか?」費宏徳の問いに、「太后に会いに行きたいのです。」と、牧曠達は答えた。
―――
韓濵が丸一日東宮に留まったせいで、午後になる頃には蔡閏は憔悴しきっていた。
「まあ、こんなところだ。」蔡閏が言った。「これ以上はもう思い出せない。」
蔡閏は過去のできごとを全て韓濵に話した後、長い長い溜息をついた。そして、まるで命の最後の一点までも使い果たしたように座位に崩れ落ちた。
もう他には誰もいない。いるのは自分だけ。彼自身ももう大陳太子ではないが、それでもいるのは自分だけだった。
「太子殿下。」韓濵が言った。
「蔡閏と呼んでくれ。」蔡閏が言った。「もうずいぶん長らく誰もその名を使っていない。」
「私に考えがある。」韓濵が立ちあがりながら言った。「私と手を組む気があるなら、あんたはこれからも生きられる。」
蔡閏は驚いて目を見開いた。ちょうどその時部下が韓濵に何かを報せに来た。
「元、遼、西凉、吐谷渾(とよくこん)の使者が来て、城外にいるそうだ。」
蔡閏が言った。「奴らを入れないでくれ。」
「いいや。」韓濵が言った。「彼らには入ってもらわねば。」
「段岭は絶対奴らと一緒に皇宮に入って来るぞ!」蔡閏が言った。
「入らせればいい。」韓濵が言った。「李漸鴻の息子の本領がどの程度なのか是非見てみたい。謝宥に使いを出して、使節を北門から外城に入らせ、黒甲軍は一切留めぬようにと命令を下す。」
「その間、あんたはおとなしく待っているんだ。」韓濵が蔡閏に言った。「明日には私が朝廷百官を召集して、上朝させる。生きるも死ぬも全てはあんたの出方次第だ。」
韓濵は東宮を出て后殿を通る時、牧曠達と牧錦之が殿内で向かい合って座っているのを目にした。「ちょうどいい、話をしよう。」
「韓将軍、どうぞお話しくださいな。」牧錦之が淡々と言った。「皆同じ船の上の者同士。コソコソしたって仕方ありませんでしょう?」
韓濵は僅かに微笑み、「ご懐妊中の太后にはあまりご心配をおかけしたくないのですがな。」と言った。
それから韓濵が席につくと、牧曠達が言った。「追悼に来た使節団が既に城外にいると聞きましたが?」
「その通りです。」韓濵が答えた。「昌流君を含む四大刺客、あなたの弟子の王山についての情報は全くありませんがな。」
牧曠達は複雑な表情で言った。「それが本当なら、姚復と謝宥が何かとんでもないことをしかけているに違いない。あれから何日もたったのに、全く動きがないとは。」
「いいえ。」韓濵が答えた。「謝宥と姚復は連名で手紙を送ってきて、こちらと談判したいと言ってきておりますよ。」
「談判の条件は何です?」牧曠達が言った。「当然、簡単なことではないでしょう?」
「なに、どうすれば私が江州内城を開ける気になるか尋ねてきたにすぎません。」韓濵が言った。「だが今となってはもうあなたも私もそんなことを言っていられなくなった。牧相、明日の早朝廷で、速やかに群臣を集めて、陛下の出棺前に、この問題を解決しなくては。」
「ふむ。」牧曠達が言った。「だが、罪を姚復に擦り付ければ、後々宜しくないことになるでしょうな。」
「援軍がこちらに向かっているところです。」韓濵が立ちあがり答えた。「何もなければ、明日の夕方には到着します。さて、私は四国の使節に接見してこよう。」
韓濵は去って行き、後には牧曠達と牧錦之が残された。牧錦之は韓濵の後ろ姿を目で追いながら、「どうやら狼を部屋に招き入れたようね。」と言った。
「やむを得ぬ選択だったのだ。」牧曠達が言った。「韓濵は一旦あの若造の正体を明かしたら、次にはきっと私を殺すだろう。それでも敢えて牧家を誅殺しはしない。お前と子供は生き延びられる。」
牧錦之は何も言わなかった。
「お前は太后で、李家の名義上の子孫を宿している。」牧曠達はゆっくりと言った。「彼もお前の命は留める。辛抱強く身をひそめて、いつか子供が大きくなってから彼に対峙しても遅くはあるまい。」
牧錦之は悲し気にため息をついた。
―――
夜になると内外の城ともに一片の静寂が訪れていた。内城が夜間外出禁止となる中、街道の両側の家屋には全て灯が点されていた。;一方、外城には謝宥と黒甲軍の宿営地の灯火があるのみだ。
数百人が密集している外城と内城を隔てる大通りに、黒甲軍が二百歩外まで接近していた。
謝宥が遠くから通りを見守っていると、しばらくして内城門脇の角門がゆっくりと開いた。
「南陳は一体どういうつもりだ?!」使節の咆哮が響いた。「遠路はるばるあんたたちのために追悼に来たというのに、角門を開けるだけとは?!我らを何と心得る?!」
「各位。」内城壁の高所から、伝令官が言った。「大陳は只今急な変化に遭遇しております。よこしまな者に利用されぬよう、皆さまにはどうぞ角門からお入りください。失礼は心得ておりますが、どうぞ寛大な心でお許しいただきたい!」
角門から百名以上の征北軍兵士が湧き出て来たかと思うと、それぞれが戦闘準備を整えて、暗闇の奥深くに目をやった。道路の突き当りには黒甲軍がそれぞれ篝火を手に持ち、その区間だけが明るく輝いていた。
「行くぞ。」姚復が言った。
謝宥は馬を後ろに向かせ、姚復と共に背を向けて去って行った。
―――
段岭は元人部隊の中にいた。その少し前には述律端がおり、まずは遼国が通行し、次に元、その後に西凉と吐谷渾、それぞれが角門を通り抜けて行った。
内城の開けた場所に、千を超える征北軍兵士が水も漏らさぬ包囲体制を作って、使節の身体検査をしていた。バドは段岭の前を塞ぎ、部隊の者たちもみな一斉に立ち止まった。
「お前ら、これは一体どういう意味だ?」
彼らがバドの体を探り始めると、バドはさっと刀を抜いた。アムグと赫連博たちがすぐに呼応し、たちまち征北軍兵士とのにらみ合いになった。
「ですが、皇宮に入る者は、必ず武器を預かり身体検査をしなくてはなりません!」伝令官が怒鳴り声を上げた。
するとバドが言った。「俺たちに触るつもりなら、御託は無用だ。まずは戦ってから話そう!刀を抜け!」
使節団全員が怒り狂って刀を抜いた。そうなるともう伝令官には何ともできず、急いで人を遣わして上に知らせに行かせた。するとすぐに連絡があり、使節団の首領は検査不用、まずは入らせてから話をするということになった。
段岭はバドの背中に手を置いた。もう大丈夫だという意味だ。そこでバドは刀を治めるようにと命じた。征北軍は再び馬に乗り、使節団を皇宮の中に送り届けた。
―――
暗闇の中、護城河に水音が響いた。
十艘の小船のそれぞれに黒衣を身にまとった兵士が乗っている。秘密の水路を通って内城に入り込むためだ。この水路は長年誰も通ったことがなく、うねうねと弯曲して、江州の地下水路を通り、再び地上に出れば、そこは東市外の、今は使っていない水路だった。
岸辺を巡回警備していた者が、突然船内からの黒矢を受けて、声も出さずに地に倒れた。
武独は手に弓矢を持ち、黒い軽装に身を包んで、辺りの状況を見回した。
「将軍、我らは既に内城に入りました。」兵士が小声で言った。「このまま進めば東市です。」
「東市の背後から岸に上がれ。」武独が命じた。「堤防の巡回兵に気を付けろ。」
―――
段岭は馬に乗り、近づかず離れずバドの後ろについていった。あらゆる場所で黒衣の男たちが屋根に上がり、身を伏せて大通りの様子をじっと観察している。
段岭は月光の下、少し顔を上げて、斜め前方にある天下第一亭の屋上に、すらりとした長身の黒い人影を見つけた。ちらっと見えたか見えないかでその影は消えてしまった。
あれは武独だ。段岭にはよくわかっていた。彼はずっと影のように自分について来ているのだ。
皇宮前につくと、全員が佩刀や佩剣を宮の外に置かれた箱の中にいれ、それを侍衛が封印してから、彼らを宮内に招き入れた。段岭は初めてこの偉大な宮殿の正門を通った。正門から中に入って行くと、江州皇城の荘厳さを思い知る。夜の月光の下で見てさえ、威厳に満ちあふれていた。
最後に武独の姿を見たのは、太和殿の屋根の上だった。だが次の瞬間、黒い雲が湧いて来て月明かりを遮ってしまった。
「使節団の皆さまは側殿でしばらくお休みください。」伝令官が言った。「まもなく韓将軍が各位に接見いたします。」
それから伝令官は全員を側殿内に分け入れ、人数を数えた後は、兵士たちが厳重に守りについた。何層もの水も漏らさぬ守りに加え、二十名の太監が、接待の名目で、実際には監視するために派遣された。
バドと赫連博、耶律魯、丹増曜杰、段岭は殿内に集まったが、太監の監視があるため、互いに何も言わなかった。
段岭は遼語を使おうとしてから、やはり考えを変えて元語で言った。「大丈夫、誰も聞き取れないさ。」
江州宮内にはおそらく元語がわかる人はいまい。一方この場の者たちは程度の差はあれ皆理解できる。
耶律魯が元語で言った。「出発前、陛下に命じられました。江州についたら、全てあなた様の言う通りにするようにと。」
「私と丹増曜杰も君に従うよ。」赫連博が言った。
バドは態度を表明しなかったものの、段岭を見て尋ねた。「何をしたい?」
「まずは邪魔者をどうにかしたい。」段岭が言った。「君たちの部下に……えっと……わかるでしょう?」
段岭の命により、使節団の全外族人たちが、それぞれ、座ってお茶を飲みながら、太監たちにちょっかいを出し始めた。中には荒っぽい手に出る者もいて、直接太監を殿内に押し込んで悪さをする者もいた。
第222章 図窮まりて匕首あらわる
「何をする!お前たち!」
「太監に何をしようがお前らに関係あるか?」バドが答えた。
征北軍兵士が扉を開けて入って来た時、殿内は混乱しきっていた。太監といえば、日ごろはゆうゆうと暮らしていて、長年宮中で偉そうにしてきた者たちだ。こんな目にあったのは初めてで、あっという間に助けを求めて全員逃げ出してしまい、それを見た宮女たちは震えながら皆どこかに隠れてしまった。
騒ぎの最中に伝令官が止めにやって来て、事故を防ぐために、兵士たちには全員殿外に出ていかせ、もう守りを厳重にするだけで、監視するために人を送ることはやめさせた。
段岭に機会が訪れた。彼は側殿奥の窓を押し開け、巡回している衛士が通り過ぎた直後に鈎付き縄を使って軒の上に這い上がってから、瓦の上に跳び乗った。
「急いで!」赫連博はバドを引っ張り上げ、耶律魯と丹増曜杰が後に続いた。丹増は身のこなしが極めて敏捷で、明らかにこうしたことが好きそうだ。
「丹増、あなたはやはり……。」
丹増は段岭の心配そうな顔を見て身振りと共に何か言った。それを赫連博が通訳した。
「か……彼は……ポ、ポタラ宮に生き仏を探しに行ったこともあるんだ。」
「そう。」段岭は言った。「それじゃ分かれて行動しよう。くれぐれも気を付けてね。」
一同は屋根の上で相談を終えると、月明かりが雲に完全に遮られたのに乗じて、二手に分かれた。耶律魯、赫連博、丹増曜杰は東に、バドと段岭は西に向かった。
段岭は瓦の上を注意深く進んで行った。途中何度か軒上に滑り落ちそうになったが、バドが目ざとく気づいてはすぐに彼を引っ張り上げた。
「一体何を考えている?」バドが言った。
「ごめんね。」段岭は人生の一大事に臨むところで、どうしても少し気が散っていた。頭の中はこれからやらねばならないことで一杯だった。
「俺が言いたいのは、」バドは段岭を引っ張って矮房に飛び降りた。それから、庭園についたところで、兵士たちが通り過ぎるまで身をひそめた。「一体何故そこまでして戻って来たのかってことだ。」
「もう死ぬかと思ったことは何度もある。」段岭とバドは暗闇の中に立って、肩越しに外を眺めた。「上京から逃げて来た時に自暴自棄にならなかったのは父さんがまだ生きていると思っていたからだ。西川に帰ってから、再び死のうと思わなかったのは武独のお陰だよ。」
バドは黙って立っていた。巡回兵が近づくと二人は暫く黙り込んだ。「俺じゃないんだな。」
「時々はそうだった。」段岭が言った。
バドのためにそう言ったが、それでも段岭は続きを言わずにはいられなかった。「私は遥か南方にいても、ずっと君が幸せに暮らしていることを願っていた。だけど、この全ては君の国のせいで起きた。私にとっては……最大限の努力をして君を恨まないようにするのが精いっぱいだったんだ。」
「もういい。」バドが答えた。「こんなことを言い合っていたらまた振り出しにもどってしまう。」(結局譲るバド)
段岭はバドを見た。時には愛しく時には憎い。自分は確かに二人の間の友情を利用している。バドがこの世で何人もいない、命がけで自分を守ってくれる人の一人だとはわかっていた。だが二人は属する民族のせいで敵対して戦争しなくてはならない立場にあった。
「行こう。」段岭は短い思考の後で、バドと長廊を抜けて、庭園に向かって歩いて行った。
バドは常に辺りを警戒していた。段岭は御書房の外までたどり着いた。部屋の中には灯が点っていたが、中にいるのが蔡閏なのか韓濵なのかはわからず、しばらく黙ったまま聞き耳を立てていた。
征北軍兵士が二人扉の外を守っているのを見て、段岭は考えた。どっちに賭ける?
「明日の早朝、大臣たちを早朝廷に招集する。」韓濵の声が聞えて来た。「四更時分に殿外で待つように伝えよ。私が議事を行う。」
「はい。」中から声が聞えた後、副将が一人、扉を押し開けて出て来た。
中にいるのは韓濵だ、と段岭は心を決めた。だが武独と約束した時間までまだしばらくあるし、外にいるのはバド一人だ。
武独を待ち続けるか、それともこのまま入って行くか。段岭はしばし黙考した。御書房内の動きから、韓濵はおそらく物を片付けて出ていこうとしているところだ。
「ありがとう、バド。」段岭は小声で言った。「ここからは私一人で行かせてくれ。」
バドは段岭と一緒に入って行こうとしたが、段岭が既に暗闇の中から出ていき、御書房外の光の中に向かって歩いていたので、再び身を退いて、漆黒の夜闇の中に立ち、靴の中から短剣を抜き出して、異変があった時いつでも助けに行けるよう準備しておくことにした。
「誰だ?」守備兵が尋ねた。
御書房内では韓濵が警戒して顔を上げた。
「私です。」段岭が言った。「王山が韓将軍に謁見を希望します。」
「入らせろ。」韓濵が言った。
段岭は扉を押して中に入って行った。韓濵は書棚に置かれた過去の奏折や報告書を閲覧しているところだった。
「ようやく来たか。」韓濵が言った。「座りなさい。君の師父が待ちくたびれていたんだぞ。先に坤和殿に行って彼と太后に会いに来ると思っていたようだがな。」
段岭が言った。「彼は……。」
韓濵は横目で段岭を一瞥した。「烏洛候穆に刺されたが死んではいない。だが生きていても同じことだ。私は彼と賭けをしたんだ。君は賢いから、今回はきっと私に投降して、もう彼に会おうとはしないだろうとな。」
段岭:「……」
牧曠達は自分を実によくわかっている。ちょうど自分が牧曠達を同じくらいよくわかっているように。
今は韓濵の勢いが強い。江州全体をその手中に収めている。虎に皮を寄こせと求めた牧曠達が最後には逆の立場に追い込まれた。賢い者なら、誰だってすぐに韓濵に投降するはずだ。
どうやら二人は段岭の態度について話題にしたようだ。そこまで考えて、段岭は突然警戒心を呼び覚まされた。牧曠達が生き延びたということは、彼は韓濵に何と言ったのだろうか?
段岭は元々、韓濵に証拠を渡し、明日の早朝廷で使わせようと考えていたのだが、この短い時間に考えを変えることにした。
「韓将軍は何をお探しなのですか?」段岭が尋ねた。
韓濵は奏折を何冊か御机に持って来て広げ、書かれた字を確かめた。
「蜘蛛の糸をたどっている。」韓濵が言った。「化け上手の狐狸も時には尻尾を現すものだ。」
その言葉は再び段岭の警戒心を引き起こした。韓濵はまるで言葉に別の意味を込めているように、段岭をじっと見た。
「君はこの件をどう見ている?」韓濵は段岭の問いには答えず、逆に彼に問いかけた。
「韓将軍は明日の早朝廷に群臣を召集して、太子を審問されるのですか?」
「その通り。」韓濵が答えた。「だが太子の正体については依然として断定できない。」
「牧相の言われた通りです。」段岭が言った。「あの方はかつて太子の親しい同窓生だった。蜘蛛の糸をたどるとしたら、そこから手をつけてはいかがですか。」
「だが私にはわからないことがあるのだ。」韓濵が言った。「理屈から言って、太子が偽者なら、本当の太子もきっといるはずだ。それなら本当のその方はいったいどこにいるのだろうか?」
段岭は何も答えずに、韓濵を見つめていた。
すると韓濵は段岭の顔をじっと見て言った。「君を見るとある人を思い出すよ。王山。」
韓濵はもう知っているのだ。段岭にはすぐにわかった。だが韓濵が母親似の容貌から気づいたのか、それとも別の筋から情報を得たのかはまだわからない。;心臓が狂ったように飛び跳ね始めたが、ここで逃げ出すのはいい選択とはとても言えない。
「どなたでしょうか?」段岭は尋ねた。
「段小婉だ。」韓濵が答えた。「あの年、王妃が軍を訪れた時に、幸いにもお会いできた。君の眉や目元は彼女そっくりだ。」
段岭は僅かに微笑んだ。「韓叔父様。」
韓濵は笑顔を見せた。「ここまでの道のり、さぞ心労が絶えなかったことだろう。烏洛候穆は牧相を牽制するために偽太子を祭り上げた。すると君は牧相を利用して太子に対峙し、仕上げに私を使って太子を倒して、牧相を排除しようとしている。そしてついに即位できた暁には謝宥を使って私を排除する。こんな企みの輪に別の企みの輪をかけるようなことを、牧府に身を投じた十五歳の少年が一人で考え出したとは、当然のことながら私には信じられないよ。」
「とんでもない。」段岭が言った。「国を治め山河を平らかにするには多少の考えが必要なものです。」
こんな風に言うということは、自分を放っておく気はなさそうだ。それはそうだろう。蔡閏と牧曠達を排除すれば、韓濵は太后の摂政となれるのに、ここに来て彼の計画を台無しにさせるはずがない。
「だが全てを計算に入れたはずの君にも漏れがあったようだな。」韓濵が言った。「明日群臣を召集してあの者を審問した時に出ていこうとしたのだろうが、まさか自分から網にかかってしまったとはな。」
「どういうことか、詳しくお聞かせ願えますか。」段岭は激しい鼓動を押さえ、表面的には落ち着き払ったように見せかけた。
韓濵が言った。「君の父親は誰なのだ?」
段岭:「……。」
韓濵が言葉を続けた。「君は何を証拠に自分の父親が先帝だと証明するつもりなのだね?
どうやって蔡閏に対抗し、自分がその『段岭』であると承認させるのだ?自分が上京にいたその『段岭』だとどうやって烏洛候穆に認めさせるのだね?」
段岭は答えた。「韓叔父様、あなたは考え過ぎて頭が混乱しているようですね。」
韓濵が言った。「いいや、混乱などしていない。混乱しているのは君の方だ。段家の者は全員死に絶えた。段小婉は北域を離れて汝南に戻った時にはすでに身ごもっていた。烏洛候穆が君を迎えに行って上京に行ってからは……。」
そこまで聞いて、段岭はドキッとした。まずいぞ。
「烏洛候穆は君を段小婉の息子だと証明できる。それは間違いない。」韓濵は眉を少し上げ
段岭は思わず苦笑いしながら答えた。「滅茶苦茶な話ですね。だったら私を誰の子供だと言うのですか?韓将軍、今の一言であなたの九族を誅殺できますよ。あなたは私の母がどんな人間だと思っているのですか?」
「私が信じたところで、君には何の証拠もないのだ。」韓濵が言った。「段小婉が出て行った時、先帝本人も彼女が身ごもっていたことを知らなかった。それについては私が証明できる。それから何年もたってから、烏洛候穆は汝南に行って段家の門を叩き、君を見つけ出しはしたが、その時には段小婉は既にこの世を去っていた。君一人を残して。だから烏洛候穆でさえ、わかっていないのだ。」
「私は十二月生まれです。母は子を宿した頃、いつも父と一緒にいました。」段岭が言った。
「そのことは偽りようがありません。」
「ほう?」韓濵が言った。「君は十二月生まれなのか?何を根拠に?」
段岭は言った。「韓叔父様、今頃になっておふざけはいけませんね。大臣たちは皆、蔡閏が戻って来た時にも、疑いもしなかったのですから。その問題については、答えが出ているということでしょう。」
「それは違うな。」韓濵が言った。「それは君が当然の結果と思っているだけだ。いったい誰が陛下の前で王妃のことをどうこう言えるかね?太子が『段岭』かどうか、朝臣たちにもそれははっきりわかっている。だが『段岭』が陛下の子かどうか、それは誰にも言えない。偽太子の場合は烏洛候穆に整形されて、顔の一部が陛下に似させられていた。それで誰も何も言えなかったのだ。
そこまで聞いても、段岭は落ち着いた表情を保っていた。「それで?」
「それで最後にはこれが問題になる。たったの三人だけなのだ。」韓濵が言った。「牧相、謝宥、それに当時の陛下、この紙を見たのはたったの三人だけなのだよ。」
韓濵は出生届を持った手を灯火の上に掲げた。
「やめろ!」その瞬間段岭は怒号を上げて前に進み出た。だが時既に遅く、動きを読んでいた韓濵は腰から長剣を抜き出して段岭の胸に刺し向けた。
第223章 孔明灯
その出生届は段岭にとって極めて重要な物だった。なぜ韓濵の手に落ちたのか考える間もなかったが、それは彼の身分を証明する唯一の物であった!
韓濵が手を停めたのはほんの一瞬だけで、すぐに躊躇なく段岭をその場に葬ろうと手を出した。だが残念ながら段岭の胸を狙ったその一刺しはそのまま横に滑っていった。一方段岭は一気に御卓をひっくり返すと手を伸ばして出生届を奪い返そうとした。
韓濵は段岭が刀も通らぬ宝甲を付けていたとは思いもよらず、一瞬注意をそらした。段岭は手の中に隠し持っていた短剣を突き出したが、韓濵はさっとそれをよけた。そこへ部下たちが入ってきて叫んだ:「何をする!」
背後から二本の剣が段岭の後頭に向けられた。段岭はくるりと振り返り、短剣を投げた。短剣には毒が塗ってあり、当たった者は即死する!
だがその間に、出生届は焼かれて既に灰と化していた。押し開けられた御書房の戸口から秋風が吹きこんできて、灰は空中に吹き飛ばされて風と共に散っていった。
段岭:「……。」
韓濵は思わず息を切らした。戦い始めた瞬間、段岭はその身に風雷の怒りを醸し出していた。二十歳前であるにも関わらず、その姿にはかつての李漸鴻の威厳が感じられた。
韓濵は衝撃を受けた。段岭は怒気を発散させながら韓濵をじっと睨んだ。
「覚えていろよ、韓将軍。」段岭はそう言うと、さっと御書房から出て行った。兵士たちが追いかけて来る中、バドが突然姿を現し、段岭と合流して二人で走廊を逃げて行った。
「追え!」韓濵は未だ動揺しつつも叫んだ。
すぐに宮中の侍衛全てが庭園に迫って来た。段岭とバドは右へ左へと逃げ回り、言葉を交わす間もなかった。背後では四方から矢が放たれ、バドは段岭の後ろでそれを防ごうとしたが、段岭は「君は先に逃げて!」と言って逆にバドの背後を背中で推した。
前はもう行き止まりだ。段岭は顔を上げて宮中の高壁を見た。何とか登れるだろうか。背後からは百人近い征北軍兵士たちが、それぞれ強弩を手に持ち、二人に向けている。
「いたぞ!こっちだ!」
更に多くの兵が追いかけて来た。二人が高壁を背にした時、黒い雲が明るい月を遮った。
突然絶叫がそこここから聞こえて来た。段岭がはっとして顔を上げて見まわすと、数名の長身の人影が掠めた後に、血の花を次々に咲かせていた。追手の兵士たちは死体となって横たわり、四方から矢が飛び交っていた中にそれらの黒い影が縦横無尽に動いたかと思うと、数刻後には百名以上の全ての兵士が地に伏していた。(もう軍隊なんていらないんじゃないか)
辺りはだんだんと静かになり、聞こえてくるのは生き残った敵兵たちが地面の上から上げるうめき声だけだった。三名の黒衣の刺客は退き、段岭に背を向けて路地の向こうに出て行った。
高所から口笛が響き、警戒態勢を解いた。刺客の首領は覆面をとった。武独だ。
「なんとか間に合ってよかった。」武独が言った。
段岭は武独と抱き合った。
「韓濵が造反した。」段岭が言った。「すぐに作戦を変えないと。」
「まずはここを出てから、話そう。」武独が言った。
高所で偵察をしていた鄭彦が下りて来た。別の二名の刺客も覆面をとった。郎俊侠と昌流君だ。
「こっちに行こう。」郎俊侠が言った。「乾元殿外が最も人目が少ない。」
彼らは長廊を進んで行き、使節のいる殿外を通る時に、段岭がバドに言った。「バド、君は帰って準備をしてくれ。使節団に証言を頼むと伝えてほしいんだ。早朝廷で、韓濵が大臣を召集するから。」
バドは一同を見回してから、最後にゆっくりと頷くと、走廊を通り、去って行った。
「上に行くぞ。」武独は片手で段岭を引っ張り、部屋の軒から、乾元殿の上に上がった。その下は東宮だが、今日はまだ灯がついていない。おそらく蔡閏は既に韓濵にどこか、守りやすい場所に移されたのだろう。
四大刺客は立つ者、座る者、それぞれが一か所に集まって、月光の下に黒い影を落としていた。
「それじゃ、次はどうする?」昌流君が言った。
「私は韓濵に会いに行こう。」郎俊侠が言った。
「あなたの怪我はまだ治っていないんだから。」段岭が言った。「彼を殺そうとして無理をしてはだめだよ。」
軒の上に身を伏せた武独はまるでおとなしいが危険な大猫のようだ。彼は暫く黙って考えた末、「謝宥と陛下はまだこちらの号令を待っている。」と言った。
「内城の門は開けられているの?」段岭が尋ねた。
「まだですが、」鄭彦が答えた。「既に準備は全て整っています。後は命令を待つだけですが、内城が開いても、まだ皇城があります。謝宥に進軍させれば市街戦はすぐに終わるでしょうが、そこから皇宮に入るにはもう少し工夫が必要です。」
「早朝廷が始まれば、韓濵の注意は朝中に全て向く。」武独が言った。「その時が、皇城に侵攻する絶好の機会だ。こちらは最初の作戦通り進められる。謝宥と陛下に知らせる時には、侵攻の時間を少し修正すればいい。」
「最初の計画通りに進めよう。」段岭が言った。
「手紙と証拠はどうするんだ?」郎俊侠が尋ねた。
段岭が答えた。「矛先を変える。私に考えがある。もう三更だ。さあ、みんな分かれて準備するよ!行って!」
一同は暫く黙った後、それぞれの方向に去って行った。鄭彦は西に、昌流君は南に、郎俊侠は正殿に向かい、夜の闇の中に消えて行った。
段岭は二枚の答案紙を取り出し、月の光に当ててじっと見つめた。それを武独が傍らに立って見つめている。優し気な眼差しだが、そこには少し鋭さを隠し持っている。
「今夜を過ぎたら、もうお前は二度とシャナルじゃなくなるな。」武独が沈んだ声で言った。
段岭は答案紙から顔を上げて武独と見つめあった。
「あなたに対しての私は変らない。ずっとずっといつまでも。」段岭が言った。
段岭は武独の体に身を持たせ、しっかりと抱き合った。
再び黒雲が流れて来て月の光を遮った。三更時分、宮中のあちこちで彼らを探す兵たちの持つ松明が、千万の灯火のように輝きながら、殿と殿の間を流れ動いていた。
―――
内城門では、一片の暗黒の中、守城兵がくぐもった声を上げて落下していった。
黒甲軍の武将たちが湧いて出て来たかと思うと、一瞬で城楼の拠点を占拠した。弓矢を手に取った守衛兵が警告の声を発する間もなく、鄭彦に剣で喉を掻っ切られ、遺体は城壁から墜落した。
「鄭大人!」武将が小声で言った。「準備が完了しました!」
「宮中からの報せを待て。」鄭彦はそう命じると、折りたたんだ白紙を手に取り開いた。
昌流君は体を折って軒から飛び降り、急ぎ足で太和宮内に進んで行った。
牧磬が寝台で眠っていた。昌流君は覆面を外し、そっと彼を揺さぶった。牧磬は寝ぼけまなこを見開いて昌流君を見ると、大声を上げようとした。
「シッ。」昌流君はすぐに注意深く牧磬の口をふさぎ、人差し指を口に当てた。
「王山があなたを連れ出すようにと。」昌流君が言った。
「彼が来たのか?」牧磬が尋ねた。「一体どこに行ってたって?無事なのか?」
昌流君が尋ねた。「牧相は?」
「伯母上と一緒にいる。」牧磬が答えた。
「服を着替えて、殿内で私を待っていてください。」昌流君はそう言いうと、急いで太和宮を出て行った。そして西殿内にまだ灯が点っているのを見ると、殿外の庭園で一枚の薄紙を開いた。
郎俊侠は屋根から飛び降り、監禁されている蔡閏のいる冷宮の外で足を停めた。
庭園内の守りが厚い。郎俊侠が青峰剣を抜いて、剣光を煌めかせた後には、宮の前は死体で埋め尽くされた。郎俊侠は白紙を取り出し広げた。
武独と段岭は乾元殿の上に立っていた。段岭は白紙を取り出し、広げた。それは孔明灯だった。
「二つとも点けるのか?」武独が尋ねた。
「点けよう。」段岭が言った。「そうすれば城外でも私たちが一緒にいるってわかるから。」
武独は孔明灯を持ち、段岭が火おこしを折って、火をつけた。中の光は揺らめきながら、二人の顔を照らした。
孔明灯は明るくなると、中の暖気が紙を膨らませ、ゆっくりと空に昇って行った。武独はもう一つの灯にも火を点し、二つの孔明灯は同時に上がって秋風に乗り、互いに寄り添いながら空へと昇って行った。
空中に上がった二つの光は、あたかも大陳の闇夜を導く煌めく星辰のようだった。
宮中深い場所で、郎俊侠は遠くを望みつつ、手を放し、三番目の孔明灯を上げた。それはふわふわと宮壁を離れて、ゆっくりと上がっていき、秋風に乗って空に昇った。
内城門高所で、鄭彦が風に吹かれて屹立し、四番目の飛灯を放った。灯は城壁の上から空に昇り、遠くへと飛んで行った。
太和殿の庭園で、昌流君は火おこしを折り、五番目の灯りを点し、手を伸ばして送り出した。灯は真っ暗な夜空に飛んで行った。
夜明け前、最も暗いその時間に、李衍秋と謝宥が軍を江州外城に置いたまま、城内から上って行く五つの孔明灯を見つめた。
「殿下は準備ができたようです。」謝宥が言った。
李衍秋が言った。「内城を侵攻する準備をせよ。」
黒甲軍兵士が孔明灯を開き、李衍秋自ら灯りを点した。飛灯は上へと昇り、秋風の中を天に向かって行った。
「一、二、三……。」段岭は灯を数えた。「六つだ。みんな準備ができた。行こう!」
秋風が立ち、殺戮が始まった。広大な地上にある江州は全城が暗闇に包まれ、いくつかの小さな光があるだけだ。その時、天の一角から黒雲が退き、煌めく一つの星が現われた。大地から昇った六つの飛灯は風に吹かれて高く上げられ、その星と遠くから呼応するように輝きあい、西の空を繋ぎ合わせた。
それはまるで西の空で白虎七星が光を放ち、大地を照らしているかのようだった。
郎俊侠は冷宮に入って行った。手に持つ青峰剣からは血の雫がポタリ、ポタリと房内に道しるべを作っている。
蔡閏は寝台に横たわり震えが止まらずにいた。まるで終わりなき悪夢に捉えられているかのようだ。「兄さん……。」彼は小声で呼びかけた。だが英霊は彼を護りに現れてはくれなかった。
郎俊侠が寝台に近づくと、蔡閏ははっと飛び起きた。郎俊侠の姿を見て驚きに大声を上げ、寝台の中で縮こまった。「烏洛候穆?!」蔡閏が声を震わせた。「何をする気だ?!」
郎俊侠は剣を鞘に収めた。剣の上に厚く重なっていた血の塊が溢れ出て来た。
「君に最後まで付き合おうと思ってきたのだ。」郎俊侠が言った。
「連れて逃げてくれ。」蔡閏は哀願した。「私を連れて逃げてくれよ、郎俊侠。最初に約束したじゃないか。もしバレたら私を連れて遠くへ逃がしてくれるって。」
「もう少し待ってくれ。」郎俊侠が答えた。「まだその時ではないが、私は君を連れて行く。」
「段岭がお前を許すはずがない。」蔡閏が言った。「彼が位を得たら、きっとお前に借りを返させるぞ。」
「わかっている。」郎俊侠が言った。「早朝廷の後、私は君を逃がす。」
「本気で言っているのか?」蔡閏は震えながら問い詰めた。
「絶対に確かだ。」郎俊侠は答えた。「韓濵が死んだら、何とかして君を救い出す。」
蔡閏はじっと郎俊侠を見た。本気か嘘を言っているのかわからず、決めかねた末、「ここ数日どこに行っていたんだ?段岭の近くにいたのか?」と尋ねた。
「彼の近くで情報を探っていた。」郎俊侠が言った。「彼はすぐに宮に入って韓濵に対峙する。韓濵の方も網を張りつくして彼を待ち構えているのだ。」
(嘘の大小より罪の大小より、弱い立場への嘘が一番汚く感じる)
第224章 早朝廷
「大臣たちが間もなく上廷する。」蔡閏は震える声で言った。「火を紙で包むことはできない。後はいつ死ぬか時間の問題だ。」
「君は解放されたくないのか?」郎俊侠は軽く眉を上げて、蔡閏の表情を伺い、真剣に言った。「このところずっと君は解放されることを望んできたのだろう?これがその時だ。」
蔡閏は深く息を吸った。何か決めかねていることがあるようだ。郎俊侠は、「韓濵が君に会いに行った時、君は何を約束したんだ?」
蔡閏には郎俊侠が段岭とどんな取り決めをしたのか知る由もなかったが、目下のところ、馮鐸は捉えられ東宮に軟禁されている。李衍秋は既に死に、謝宥はおそらく既に段岭の側についている。郎俊侠を信じる以外に選択肢は残されていなかった。
「彼は私に牧曠達の指示で太子を装ったと言わせる気だ。」蔡閏が言った。「段岭が戻って来たら、私に本当の太子は段岭だと言うようにと。私にこっそり教えてくれた。段岭は実は李漸鴻の息子ではなく、お前が連れ帰った偽者の子供だったのだと。」
郎俊侠は笑い出した。蔡閏は初めて彼の笑顔を見た。郎俊侠は眼差しに笑みを込めて言った。
「いいことを教えてやろう。その時が来た時、君が指示に従うなら、段岭は君の命を見逃し、北方へ逃がすつもりだと言っていたのだよ。」
―――
夜明け前、まだ真っ暗な時刻に、午門外に馬車が二台、三台と近づいて来た。晩秋の闇夜、文英殿外の瓦には霜が一層降りていた。
そこは早朝廷に上がる群臣たちの待合所となっていた。二更時、征北軍が各官員の邸宅を訪れ、早朝廷があるので上廷するようにと告げに来ていたのだ。
韓濵が内城を制御したここ数日、江州では既に城中で嵐が起きたようになっていた。矢が弦にかけられ、一触即発状態だ。多くの官員が思っていた。韓濵はこの機に乗じて宮を乗っ取り、太子を退位させる。そして太后を使って摂政につくつもりだろうと。
謝宥は外城に退き、かたくなに兵を動かさないが、もし攻め入れば、官員が人質とされることになる。今はただ、大陳歴代の帝君たちの御霊がこの風雨に揺らぐ朝廷を守ってくれるよう祈るばかりだ。
韓濵は、士族の子弟を含む江州全ての官員を手中に収めた。それはつまり大陳の命脈を握っているのと同じだ。ここ数日、文官たちは処理されるのを待つ鶏のように、つめこまれた籠の中から不安げに顔を出しては辺りの状況を伺い、警戒を解くことはなかった。
文臣が位を簒奪する時は、例え心に鬼が住もうとも、策士として規則を遜守して行うものだ。牧曠達が人を殺そうとすれば、何某かの罪名をでっち上げ、粛々と進めていく。;一方で武将の謀叛の行く末は恐ろしい。どの歴代王朝でも、重兵を一手に担った武官が一旦皇城を乗っ取ったなら、必ず大殺戮に発展したものだった。
「あの韓将軍は、まさか……。」戸部尚書が小声で言いかけると、「シッ。」すぐに誰かが言葉を遮った。「壁に耳あり、ですぞ。慮大人、口は慎みなさい。」
文官たちはそれぞれ殿内に入って行った。すると、いつも通り、太監が茶を奉じ上げ、鐘の音と共に、群臣たちは大殿に入り、議事が始まろうとしていた。
「蘇老が来てからまた話しましょう。」誰かが小声で言った。「ここにはどれくらい人がいるのです?韓濵は手荒なことはしないでしょうね。例えこの山河に想いはなくとも、自分の名声には気遣うでしょうからな!」
「ふん、ここまでしておきながら、どんな名声が気になると言うのです?」
「私から見れば!」ある人物が憤怒を極めた様子で言った「乱臣賊人は、朝堂に禍を招く、です!文武百官が、逃げたり、隠れたり、何一つ言うことができないとは!なぜ剣を持って上廷し、命がけで立ち向かわないのです?!」
そう言い放った人物は、正に段岭と同期の進士であり、殿試で七位だった曾永諾だった。
曾永諾は地方に一年出されて、揚州で御使の職に就いた後、江州に戻り、御史台に入った。
三日前、韓濵が皇城を乗っ取った時に、曾永諾の師である前任の御史が韓濵に対し、朝廷を簒奪する気かと訴え出たところ、殿外に連れ出されて六十回の鞭打ちを受け、帰った後で命を落としたばかりだった。
御史職を引き継げば殺されるとわかった今でも、曾永諾は逃げようとはしなかった。夜中に沐浴して香を焚きしめ、官服を身につけて、手には玉笏を持ち、決死の覚悟で早朝廷に備えた。その怒りの言葉に文官たちは面目を失った。
「青山留まる限り、柴の無きを恐れるなかれ。」蘇閥の声が響いて、一同はそれぞれ立ち上がり拝礼した。
「御史大人。」蘇閥はまずかの若者の前に行き、言った。「死以外に人生には大事などありません。あなたは言葉をはいて気分がいいでしょうが、死んでしまえば万世に英名を得る以外、他に何ができますか?誰かが収拾をつけなくてはならないでしょう。」
「収拾ですって?」曾永諾は言った。「江州に来た初日から、収拾をつけてばかりですが、今になってどう収拾をつけるというのですか?各位、よく見て下さい。かつて趙奎が西川に入った時さえ、今よりはましでした!」
「曾大人、怒りをお鎮め下さい。」
段岭が編み笠を取って言った。「この後の早朝廷で、韓濵はおそらくもう各位を悩ませたりしないでしょう。ご心配なく。」
「王山!」
段岭が現われるとその場の者たちは皆、身構えたような表情をした。
「二つ穴のムジナめ!」曾永諾が言った。「当朝探花の身でありながら、よくも……。」
言い終える前に、段岭は手を上げて言葉を制し、「黄堅はどこですか?」と言った。
「皇宮にいる。」秦旭光が言った。「王山、どうしてここに?何か聞いたのか?」
段岭は秦旭光を見て笑いかけた。自分が都を離れ任地に赴く前夜に、天下第一亭に集まって四人で天下の情勢について語り合ったことを思い出した。
「これは私が見つけ出した証拠です。」段岭はそれまでずっと武独の佩剣の中に入れてあった答案紙を曾永諾に渡した。「この証拠は大陳の運命を左右します。これをあなたに差し上げます。早朝廷の際、きっと役に立つでしょう。」
「これは何だ?」曾永諾が二枚の答案紙を受け取ると群臣たちが彼らの傍に集まって来た。
段岭の後ろには武独が控え、終始警戒していた。また焼かれることにならないよう、片手を剣柄に置いて、じっと群臣たちの一挙一動を注視していた。
「これは太子の字だ。」蘇閥が言った。「これは……。」
「上京時代の答案紙です。」段岭が言った。「元人の手から奪い取りました。その内一枚は太子の書いた答案ですが下に刻印されています。『蔡閏』と。」
殿内は死んだような静寂に包まれた。紙巻を持つ曾永諾の手はガタガタと震えていた。
「もう一枚には、『段岭』と書かれています。」段岭が言った。「段岭という名が何を意味するか、皆さんはきっとよくご存じでしょう。」
蔡閏が初めて皇宮に来た時、群臣たちに告げていたはずだった。彼は今段家の名を名乗り、『段岭』と呼ばれているのだと。だが答案紙の字を見れば、二人は確実に別人だった。言い換えれば、筆跡から判断して、太子は『段岭』ではなく、本当の段岭はもう一人のほうだとわかる。
「この証拠は……。」蘇閥が声を震わせた。
「今や各位も皆知ることになりました。」段岭は傍らに腰を下ろして、真剣に言った。「間もなく韓濵が開朝し、この件を持ち出した時、諸位大人がどういった態度をとられるべきか、おわかりになったと存じます。」
「これは……。」曾永諾の声は震えていた。中秋夜、牧曠達が迎えた賓客はほんの数名だったため、情報は未だ百官の耳には届いていない。段岭が持って来た二枚の答案紙は正に朝臣たちの希望を打ち砕くものだった。
「大陳も終わりだ!」蘇閥は一時その老いた目を涙で濡らし、唇をわなわなと震わせた。
その様子を見ていた段岭にはわかった。おそらく彼はまだ一縷の希望を持って蔡閏を支えて韓濵に抵抗しようと思っていたのだろう。だが蔡閏がやはり偽者だったことで、全て決着がついてしまい、結果としてはおそらく韓濵が摂政となり、太后が御簾臨朝することになるだろう。
「どうしたらいいだろうか。」曾永諾が言った。
朝臣たちはもう疲れ果てていた。蘇閥が言った。「もし太后が皇子を生せば大陳はまだ後継者を欠くわけではない。」
「例え公主でも関係ありますか?」段岭が言った。「肝心なのは太后が宿されている御子が陛下の血筋かどうかということです。それが李家の血筋なら女帝であろうと何か問題がありますか?」
段岭は笑顔を見せて話を続けた。「控えめに申し上げても、先帝、陛下、共にこの山河のために尽くされました。今は五公主様もご健在です。あの方にお戻りいただき、山河を治めていただいても、先祖伝来の基盤を失うことにはなりますまい。」
ちょうどその時、遠くから鐘の音が三度、ゴ——ン、ゴ——ン、ゴ——ンと響いて来た。
段岭は半歩退き言った。「各位大人にはそれぞれ思う所がおありでしょうが、上廷いたしましょう。どうぞ。」
征北軍兵士が入ってきて、文官たちに上廷するようにと告げた。
段岭と武独はその最後尾に立って、互いに視線を交わした。
「俺は……。」武独が何か言い淀んだ。
「行って。」段岭が小声で言った。「ちゃんと帰ってきてね。私は大丈夫だから。」
武独はしばし段岭と見つめあった後で、段岭の頭の上に唇を当て、後ろの窓から身を翻して出て行った。
空が白みかけた頃、征北軍が続々と現れて、百官たちが殿前広場を通って階段を上がり、議事のために正殿に入って行くのを見届けた。
段岭はその末尾について行った。征北軍は武器の形態の有無は確認したが、身分の確認は怠っていた。朝中には官員が多すぎて、遠い西北から来た軍人たちには、誰が誰かわかる由もない。そこで段岭は適当な名前を言ってごまかし、その場を通り過ぎた。
金鑾殿外に朝日が昇ると、太監が銅鑼を叩き、咳払いをしてから大声で告げた。「太子殿下の御成り——。太后ご到着——。韓将軍ご到着——。牧相ご到着——。」
群臣たちは互いに視線を交わした。正殿は静まり返っていたが、牧錦之は現れなかった。
暫くすると、蔡閏が郎俊侠に伴われて、金鑾殿に入って来た。屏風の奥の階段に上がる時に、つまづいて、転びかけたが、郎俊侠が間に合って手を伸ばし、力強く彼を支えた。
次に韓濵が殿内に入ってきて、征北軍に付き添われた牧曠達を迎えた。その後ろには黄堅と費宏徳がついてきており、一同はそれぞれの場所に腰を下ろした。
「本日、大人各位にお集まりいただいたのは、ある事について、天下に告げる為であります。」
韓濵の言葉に、段内はしんとした。韓濵が群臣たちを見回すと、皆一同に了承した風な表情で、どうやら既に韓濵が何を言うかがわかっているようだった。
「ここにおられる太子は偽者です。」韓濵は一字一句はっきりと告げ、声を強めた。「皆さんは騙されていたのです。」
その言葉に朝臣たちがざわつくかと思いきや、誰も表情を変えずに、帝位の傍らにいる太子に視線を送った。蔡閏は深く息を吸った。全身が震えている。ついにこの日が来たと彼は思った。
韓濵が言った。「あの年、オゴタイが上京に攻め入り、先帝は軍を率いて救援に向かわれました。城が破れた当夜、当時『段岭』と呼ばれていた方と、太子の席についているこの者は生き別れ、世間を流浪しました。この者は太子の同窓生で、烏洛候穆に整形された上で、西川に戻り、太子の位を簒奪したのです!」
「信じられませんか?それでは本人に言わせようじゃありませんか!」韓濵は御座についている郎俊侠と蔡閏を指示した。
なぜ郎俊侠がここに来たのかはわからなかったが、韓濵は既に勝利を確信していた。
一時、殿内の全ての視線が蔡閏の身の上に集まった。彼は御座の場所から群臣たちを見回した。全員の目が彼に向けられていた。
「私は……違う。」蔡閏は小声で言った。「私はしていない。……私はそんなことしていない!」蔡閏は突然怒りを爆発させた。「私は李栄だ!韓濵!こんなのは根も葉もない話だ!
身の程知らずの裏切り者め!お前は我が父を死に追いやった!今度は我が四叔父上の崩御をいいことに、我が李家の帝位を簒奪する気なのだな!」
「な……。」韓濵はまさか蔡閏が突然歯向かってくるとは思いもせず、一瞬途方にくれた。
「私が段岭だ!」蔡閏が言った。「そのことは朝廷百官が既に確認済みだ。牧相と謝将軍も我が正体を調べ終えているのだ!韓濵!貴様一体どういうつもりだ!証人でも物証でも持って来い!」
韓濵は冷笑した。「烏洛候穆は先ず牧相を刺し、次に唯一お前の正体を証明できる銭七を殺した。今や死人に口なしだ。蔡閏、昨夜お前は自ら認めたではないか。今になって供述を覆すとは、私がお前をどうにもできぬと思っているのか?誰か!遼、元、西凉、吐谷渾四族の使節たちをここに呼び寄せよ!」
(あ~もう、郎俊侠に騙されてやっぱ気の毒な蔡閏)
第225章 玉輪の力
「証拠ならここに。」曾永諾が口を開いた。
蔡閏が凍りつく前で、曾永諾は段岭から渡された二枚の試験紙を取り出した。それを見た牧曠達はよろよろと立ち上がった。
「今日の上廷前に、大人諸位も皆ご覧になっています。」曾永諾が言った。「これは上京時代に、段岭と蔡聞の弟、蔡閏が書いた答案です。巻末についた印章が証拠です。」
曾永諾が皆の前に試験紙を示すと、蔡閏の顔色は一瞬で蒼白に変わった。
「太子直筆の書と照らし合わせれば一目瞭然です。」曾永諾が言った。「内閣と御史台は太子の筆跡を見慣れておりますが、それでも照らし合わせるべきと存じます。」
「使節入殿——!」太監が唱した。
金鑾殿外に集まっていた四国使節、バド、赫連博、耶律魯、丹増曜杰が入殿してくると、群臣たちはそれぞれに道を開けた。
丹増曜杰が段岭の横を通る時に、そっと彼に何かを渡すと、段岭は音もたてずに袖の中にしまい込んだ。
韓濵が言った。「太子はかつてこの内のお二方の同窓生だったそうですが、太子は二人をご存知ですか?」
蔡閏は震える声で言った。「ブアルチジン……バドと、赫連博だ。」
「蔡狗、なんだ、まだ俺を覚えていたのか?」バドが笑い出した。「そりゃよかった。どうやら忘れていなかったらしいから、来いよ、相撲でもとろうじゃないか?お前はずっと段岭に成りすましてるらしいから、あの頃、赫連博が段岭の相撲の師匠だったことも知っているだろう?さあ、かかってこい。」
蔡閏はまさかバドがここに来て相撲をとろうとするとは思いもよらなかった。
「お前は父親が李漸鴻だと言ってるらしいな。それならあの夜、陳国皇帝と段岭が俺たち親子を夜を徹して上京から逃がしてくれた話をしよう。このことは、使節団が初めて陳国を訪問した時に、たくさんの大臣たちが聞いていると思う。お前もあの時認めていた、そうだろう?」
蔡閏が西川に来てから、確かに元国使節が拝訪していた。その時にかつて李漸鴻と段岭が、チィチとバドを上京から逃がし命を救った恩があるという話が出て、当時蔡閏は何も知らないまでも、頷いていたのだった。
「確かにその件は覚えています。」牧曠達が言った。
蘇閥も言った。「あの時、私めもその場におり、太子自ら認めていました。あとは程大人と王大人(段岭とは別人)も証人になれましょう。」
「これで思い出したか?」バドが尋ねた。
蔡閏はバドを見たが、頷くべきか首を振るべきか決めかねて、救いを求めて郎俊侠に目をやった。
「勿論覚えています。」郎俊侠がさらりと答えた。
するとバドが言った。「別れる時に、俺が渡した信物は何だった?」
蔡閏が答えた。「短剣だ。」
「阿木古がお前に短剣を見せるように言った時、お前は何と言った?」バドが尋ねた。「なくしたと言った。違うか?」
「烏洛候穆が探し出して、今は東宮に置いてある。」蔡閏が言った。
「誰かに取りに行かせて見せてくれ。」バドは殿内を歩き回りながら言葉を続けた。「別れる前の最後の夜、俺たちはどこにいた?」
それは蔡閏には答えられない質問だったため、彼はただ一気に言ってのけた。「君は元人、私は漢人だ。私が何と言おうと違うと言えるだろう。我が父はすでに亡く、君の父上ももういないのに、誰がそれを証明できるというのだ?!」
その時、史官が蔡閏の直筆の書を持って来て、木盆の上の答案紙の横に並べて置いた。盆は周され、群臣たちが次々に見たが、二つの巻紙の字はそっくり同じだった。
「筆跡は騙せないな。」バドが言った。「お前は上京時代蔡閏と呼ばれていた。段岭じゃない。お前は蔡家の息子で、お前は南陳に対して族滅の深い恨みを持っているんだろう!」
すると牧曠達の後ろにいた費宏徳が頷いた。「当時の老陛下のご命令で私が離間の計を仕掛けたために、あなたの全族が絶えることになりました。一念の差で命を残したことが、こんな結果になろうとは。だからと言って、なぜここまでしたのです?」
蔡閏は息を切らして郎俊侠を見た。何か言って欲しいと期待を込めて。だが郎俊侠は自らこう言い切った。「ええ。もう信物を探す必要はありいません。全ては私がしたことです。」
その瞬間、群臣たちは騒然となった。蔡閏本人も思いもよらなかった。郎俊侠がこんなにはっきりと認めようとは。
「お前……郎俊侠!」蔡閏が咆哮した。「私に何と約束した!」
韓濵が大笑いした。「面白い。どうやら今日、口裏合わせを裏切ったのはお前一人ではなかったようだな!まだ何か言いたいことはあるか?」
「貴様……烏洛候穆!」蘇閥が怒号を上げた。「この裏切り者。何年にも渡って朝廷を騙し、亡くなった陛下や先帝の英霊を冒涜する欺瞞!烏洛候穆!天下を何と心得る?!大陳を何と心得るのだ?!」
「大人各位。」郎俊侠が真剣な口調で言った。「この国は元人と共にかつて我が民族を滅ぼしました。我が村落を焼き、烏洛候国はあなた達との何年もに渡る交戦の末、不毛の地となってしまった。蔡家はあなた達の離間の計によって滅せられた。各位、実の所、私達は復讐するためにこれをしたのです。」
一瞬朝廷内は静まり返った。郎俊侠は言葉を続けた。「元、陳が交戦した時、あなた方のせいで幾千、幾万の人が死んだのか、奏折にも軍事報告に書いてあるのは数字だけです。だが私にとっては、それは我が民族の者たちであり、我が仲間なのです。それは理解するには難しすぎますか?」
郎俊侠は僅かに口角を上げた。残酷な現実を口にしながらも、その眼差しはやさしいままだ。
「私は先帝の命で汝南に段岭を探しに行き、五年間彼を養って成長する様を見届けました。その後先帝が戻ってこられたので、私は命により南下して趙奎に身を投じました。
それから間もなく、先帝が兵を借りて南下し、趙奎は私に太子を人質にとるように命じましたが、すぐに西川は先帝が取り戻しました。」郎俊侠はゆっくりと言った。「その後、上京が陥落して、太子が失踪し、生死不明となりました。そこで私は蔡閏と手を組んだ。私は彼を太子に仕立て、彼は私のために復讐を果たすと。」
「この殿内にいるのは、全て私と彼にとっては昔年の仇ばかりです。」郎俊侠は殿内の全ての人達を見回して言った。「誰も彼も、いつか皆つけを払わせるべき。今回は私の負けです。
皆さんや天下を相手に賭けに出ましたが、負けを認めましょう。」
「それなら本当の太子は?」曾永諾が口を開いた。「今どこにおられるのか?」
牧曠達が言った。「おそらく城が陥落した時に戦乱の中でお亡くなりになったのでしょう。荒野を彷徨う一縷の游魂となられて。」
「いいえ。」郎俊侠が言った。「彼はまだ生きています。しかも、この殿内におられます。」
朝臣たちは衝撃を受けた。それは誰もが考えていなかったことだ。太子がまだ生きているだと?!
韓濵の顔が真っ青になった。その言葉を聞くなり、猛然と群臣たちを見回した。そして見つけた。朝臣たちの列の末尾に段岭の姿が見えた!
だが、ちょうどその時だった。殿外から一人の征北軍伝令兵が入って来た。
「報告——!」兵は慌てふためいて大声で言った。「外城から攻撃を受け、北城門が破られました!」
韓濵は愕然として立ち尽くした。
そこへ突然段岭が口を開いた。「びっくりしたでしょう?韓将軍?」
「な……。」驚いた韓濵が咆哮した。「奴を捉えろ!」
「来れるものなら来い!」段岭が言った。「我が手中に何があるかよく目を開けて、見てみるがいい!」
段岭は手の中から、ある物を取り出して見せた。それは光り輝く玉璜だった。その場にいた者たちは皆震撼した。
「これを見ることは陛下御自身の御姿を見るのと同じ。」段岭は群臣たちに言った。「大陳伝国の玉璜、いや、中原漢人伝国の玉璜だ。皆しっかり目に焼き付けたか?」
「段岭……段岭……。」蔡閏は全身をガタガタと震えさせた。
朝臣たちは呆気に取られて、怯んだように段岭を見つめた。
武独が段岭の傍に立ち、征北軍兵士たちの一群に向き合った。兵士たちは武器を手に取って進み出て、段岭と武独を囲い込んだ。
「手出しさせるか!」バドが怒号をあげ、すぐに四国の使節たちも後ろに下がって段岭の前に守りを固めた。
「韓将軍。」段岭が言った。「早くあなたの征北軍を指揮しに行った方がいいんじゃない?それともここに残って、私がこの故事を語り終えるのを聞きますか?」
韓濵は怒りのあまり逆に笑い出した。「いいだろう。君が何を言うか私も聞きたい。征北軍よ、兵を集め、内城を死守せよ!」
「段岭は私だ。」段岭が手をそらすと、右手に短剣が煌めいた。「これはあの年、ブアルチジン・バドが私にくれた信物だ。蔡閏、君にもこれが見えるか?」
「なんでお前の手に?!」蔡閏は驚き叫んだ。「私は確かに……。」
「あの時私はこの短剣を持って来た。烏洛候穆に見せて存在を知らせようと思ったからだ。」段岭が言った。「だがまさかそれが君の手に渡るとは。君もこの信物に見覚えがあるようだな。」
赫連博と丹増曜杰は得意げな顔をした。夜中探し続けて、蔡閏が隠しこんでいたこの短剣をやっとの思いで見つけ出したのだ。
「我が父は私を李若と名付けた。私が本物の李若だ。蔡閏!この恥知らずめ。ここに至ってもまだ観念しないとは!」
段岭の怒りに蔡閏はたちまち全身が凍りつき、震える声で言った。「約束しただろう、約束したはずだ……。」
「ここにいる皆さんが証人です。」段岭が言った。「どなたか私の奏折、軍事報告書、職務報告を持って来て、答案紙と比べればおわかりになるはずです。」
史官が段岭の文書を持って来て、盆の上に置き、段岭の答案紙と見比べられるよう、群臣たちに回し見させた。
「かつて私は急死に一生を得て、朝中に戻りました。」段岭が言った。「だが蔡閏が既に我が地位を占めていたため、仕方なく武独の庇護に頼りました。私は彼と共に、潼関、江州、河北に行き、その途中で四叔父上に認めていただきました。だが牧相の遣わした刺客に会ってしまった。」
「私は先帝と陛下の命により、伝国玉璜を以て、大陳文武百官に命じる!牧曠達を韓唯庸と結託して先帝の暗殺を謀った罪に問う!牧曠達は刺客を遣わし我が父を暗殺した!二人のやり取りした手紙が証拠だ!」
段岭は手紙を取り出し、史官の持っている盆の上に載せた。
「これは一体何のお芝居だ?」牧曠達が失笑した。「弟子よ、もしお前が大人各位がお前の作り話を信じるとでも思っているなら、お気楽としか言いようがないぞ。」
「これは紛れもない事実。」段岭は笑って言った。「各位の面前にあり、山の如き鉄証です。
黒は黒、白は白。ここに至っても罪を認めないつもりですか?師父。私にはまだ証拠があるのですよ。」
「これは韓濵と牧曠達が裏でやり取りしていた手紙で、謀叛の証拠です。」段岭は二束目の手紙を取り出し皆に分けた。それはあの夜に牧府内で見つけ出した手紙だった。
一同は再び段岭の前で徹底的に打ちのめされた。話があまりにも急に変わり過ぎた。
確かに牧曠達と韓濵の結託は以前から疑われていたことだった。だがこんな僅か一刻の間に、未だ太子の身分が受け入れられてもいないうちに、牧曠達と韓濵の謀叛や全ての種明かしに及んでしまうとは。
「各位。」段岭が言った。「よくお考え下さい。今武器を治めれば、過去は問いません。」
「ばかばかしいにもほどがある!」韓濵が狂ったように笑い出した。「あんたら、本当にこれを信じる気か?」
戦乱の声が既に殿外広場にまで達してきて、殿内は俄かに騒然となった。
「いいか、あんたらに言っておく。」韓濵が怒鳴り上げた。「この世に本物の太子などどこにもいないのだ。あの時武帝には子はいなかった!いるのは上京に連れて行かれた段家の末裔ただ一人、それと苦心して練り上げた作り話、それだけだ!」
「その通り。当初のその『段岭』でさえも、」牧曠達はゆっくりと言い聞かせるように告げた。「烏洛候穆が勝手に作り上げた偽りだったのです。彼の顔をごらんなさい。一体どこが先帝に似ています?」
「師父、さすがに反応がお早いですね。」段岭が言った。「ですが、千も万も計算したのに、一つだけ考えそびれたことがありますよ。」
「お前には何の証拠もないだろう。」牧曠達が悠然と言い放った。「一体どうやって李漸鴻がお前の父親だと証明するんだ?それがちゃんと証明できるなら、お前に手を掛けさせるまでもなく、私が自ら自刎して天下に謝罪しよう。大人諸位、姚復は前々から謀叛の心を持っていました。そこでまずは謀叛を起こし、陛下を刺殺したうえで、その罪を渡しに擦りつけました。そして陛下が崩御された今、今度は我が徒弟を偽太子に仕立て上げたのです。」
韓濵は冷笑した。「さあ、誰を信じる?彼の言葉とどこから持って来たかわからない玉璜か?」
段岭は叫んだ。「真の天子はここにいる!愚かにも認めぬのは誰か!」
曾永諾は段岭を見てから、次に蔡閏を見た。蔡閏の顔は土気色で、天子階段の下にいる段岭とは対照的なまでの差がある。彼は一時途方に暮れた。
だが、しばらくすると、彼は言った。「そうだ。あなたが本当の太子だ。」
「師弟、君は……。」黄堅が声を震わせた。
「師兄。」段岭が言った。「ご自分でお選びください。天地君親師の順です。君は師より上なのですよ。」
すると黄堅はようやく立ち上がり、段岭の前まで行って、彼と共に韓濵に向き合った。一時の間に朝臣たちが皆動き出した。文官たちは意図せず皆一致して段岭の背後に立った。
「よくわかった。」牧曠達が言った。「こんな稚拙な作り話で、満朝の文武を欺くとは。弟子よ、随分と時間をかけてじっくりと練り上げたものだな。」
「ここにいる使節も皆作り物ですか?」段岭は逆に笑顔を見せた。「筆跡も作り物ですか?それなら御座の横に座っている人もやはり作り物なのですか?!」
すると郎俊侠が御座を下りて段岭の前までやって来て、しばらく黙った末、両足で跪いた。
段岭は下を向いて郎俊侠を見た。これでもう何も言う必要はなくなった。
「黒甲軍が攻め入りました——。」
校場の外から、征北軍が大声で叫んだ。
「こいつらを全員捉えるのだ!」韓濵が言うや否や、征北軍がそれぞれ刀剣を抜いて、殿内の全方向から入り込んできた。郎俊侠は急ぎ足に進み出て、段岭の守りについた。
「大人各位、太子のために戦う準備はできましたか?」段岭が言った。「今更後悔しても遅いですよ。」
「韓濵、例えお前が目の前の人物を本物の天子と思わずとも、よく考えて動いた方がいいぞ。」昌流君の声が聞えた。「さもなくばお前がそれと認めた李家最後の血脈が消え失せることになるからな。」
牧錦之の叫び声がした。屏風の裏の側門から正殿に昌流君に引き入れられている。そこへ、黒甲軍の武将の一隊が、続いて進入して、たちまち御座を押さえ、征北軍との対決姿勢を示した。
「錦之!」牧曠達は大慌てで叫んだ。
「昌流君、我が身可愛さに主を裏切るとは!」韓濵が怒号を上げた。
昌流君が言い返した。「手出ししてみろ。彼女を殺す。二つ数えるまでに去れ。皇帝になりたくないのか?」
「手を放せ!」牧曠達が叫んだ。
だが韓濵は僅かに唇を動かして、一言吐き出した。
「殺せ。」
非天夜翔 相見歓 第216章ー第220章
第216章 臨機応変
郎俊侠が隠し通路の入り口まで行くとすぐに、外から人の話し声が聞こえて来た。
牧曠達と韓濵が道を進んでくる後ろに、昌流君と武独がついている。走廊の前に影を落としているが、走廊の両側は漆黒の暗闇で、一寸先も見えないほどだ。
その光景は一昔前とそっくりだった。——あの時趙奎がいた場所に今は別の武将の姿があるが、その背後にはあの時と同じように武独と昌流君が控えている。
「言うべきことは全て言った。」牧曠達が言った。「言うべきでないことも、つい言ってしまったが。」
「世間には言うべきでない話など本来存在しないものです。」韓濵が笑った。「直接顔を合わせて話さねばならないことというのも、ままあるものですからな。」
「まあ私としては蘇閥のことは心配していません。」牧曠達が言った。「内閣は上から下まで、腐敗臭がぷんぷんしている。その奥では至る所で蛆がわいているのですから、その内勝手に崩壊するでしょう。私が心配なのは、内閣ではなく、あの御仁のことです。彼の動き次第で事は大きくも小さくもなり得る。しかも五公主が傍におられるとなっては如何ともしがたいのです。」
すると韓濵が答えた。「姚候の拠り所など、先祖伝来の家財に過ぎぬ。五公主としてはこの後も摂政を置きたがっているのだから、彼らを即刻遠ざけなくては事態はいい方向にはすすみませぬぞ。牧相、私は姚復とやり合うのはごめんですからな。」
「おっしゃる通りです。」牧曠達が言った。「ですが、事が終わるまでは彼を帰らせるわけにはいきませんし、かといって手出しすることもできません。彼のことは江州に閉じ込めておかねば。」
出棺前に姚複を江州城から出させれば、蔡閏をひきずり下ろした時に、勤王の名において軍を率いてくるだろう。そうなると不必要な対決が一つ増えることとなる。;一方、姚複を排除したりすれば、淮陰が反撃してくる。謝宥の態度は未だ不明なので、その時には両方向からの攻撃をうけることになってしまうかもしれない。
牧曠達の手中にはもう何もない。いるのは身ごもった妹だけ。その子供が男か女かによって未来も変わる。たったそれだけの条件だけで、重兵を握る姚複や謝宥、韓濵と立ち回るのは、素手で白狼を捉えるようなものだ。
―――
郎俊侠は息を詰めて、小さく聞き取りにくい会話を聞いていた。段岭は銅製の長い箱を持ち出そうとしたが、箱はあまりにも重すぎた。
「もういい、行こう。」段岭は懐に手紙をしまいこんだ。
「もう無理だ。」郎俊侠が答えた。
段岭は首を伸ばし入り口の方を見た。扉が開く音とともに牧曠達の声が聞えて来た。
「昌流君、牧磬と王山を探しに行きなさい。」
そして室内がしんとなった。
韓濵の声が頭の上から聞こえて来た。「どうかしましたか?」
牧曠達は何も言わなかったが、段岭はしまった!と思った。
「いいえ何も。」牧曠達が答えた。
頭上の静けさに段岭はひやひやしていたが、ほんの一瞬あとには、牧曠達が再び会話を続け始めた。「本来なら、費宏徳が来たことで、長聘の代わりにできるかと思ったのですが、私にはどうも彼に対して不安が……。」
だが、今のほんの一瞬の間で、段岭には直感的にわかってしまった——。
牧曠達は絶対に気づいている。隠し扉を開けた後、郎俊侠が寝台をもとに戻しておいたので、牧曠達にだってよほど気をつけなければわからないはずだったが、ひょっとしたら何かの気配を感じたのかもしれない。
【彼にはバレてる】段岭は郎俊侠の掌に指で書いた。
郎俊侠が微笑みながら首を振ったので、段岭はもう一度書いた。【信じて】
段岭は牧曠達の口調をよく知っていたし、何か予感のようなものを覚えた。今牧曠達は自分と同じようなやり方で韓濵に何かを伝えているはずだ。もしも扉の音が聞こえてきたら……。
その時、扉の音がした。
牧曠達は部屋で黙り込んでいたが、韓濵は出て行き、連れて来た衛士の一人を呼んだ。
【人手を集めて私たちを包囲するようだ。】
すると郎俊侠が手に書いた。【ここを動くな。】
次の瞬間、郎俊侠は青峰剣を振るって、隠し扉に向かい、激音と共に扉を開けて、隠し部屋から飛び出て行った!
「誰か、早く!」牧曠達が叫んだ。
門の外にいた武独が声を聞いて猛然と駆け入り、韓濵も部屋に戻った。郎俊侠はもう覆面などつけていない。宴の時の服装のままだったので、覆面を付けたところで無意味だった。
彼はすぐに牧曠達に剣を向けたが、予期していた牧曠達はすぐ後退した。それを青峰剣が影の如くに追っていく。武独は烈光剣を抜き、そのまま郎俊侠の行く手を阻もうとしたが、頭の中では何か別の考えが閃いていた。
「何者だ?!」武独は叫んだが手は出さず、長剣を平らに構えた。だが韓濵は大声を出しながら、腰に佩いた剣を抜き出した。一方、郎俊侠は牧曠達に追いつき胸に剣を当てた。
「烏洛候穆、何をする!」韓濵は怒号を上げた。
韓濵の剣は郎俊侠の青峰剣を妨害し、郎俊侠の長剣は少し的を外したが、何の躊躇もなく、剣先は薄紙を軽く切り裂くが如くに牧曠達の体に射しこまれた!
牧曠達は信じられないと言った表情で郎俊侠の青峰をつかんだ。郎俊侠は再び剣を引き抜くと、剣先を今度は韓濵の喉に向けた。だがちょうどその時、韓濵の部下たちがやって来てそれぞれ剣を手に部屋に入って来ようとした。すると韓濵を殺せないと判断した郎俊侠は、戦いを放棄して、身を退き逃走し始めた。
武独は追いかける風を装いながらも、逆に部屋に入って来た征北軍兵士を体で妨害した。
郎俊侠は体を回転させて韓濵に体当たりし、韓濵ごと窓にぶつかって、そのまま庭へと飛び出して行った。
「牧相を守れ!」
兵士たちが入ってきて牧曠達を連れ出し、出て行った。武独はもうそれ以上剣を振るう必要がなくなったと見るや、すぐに振り返って郎俊侠が出て来た隠し通路に体を滑りこませた。
様子を伺おうとしていた段岭は武独にぶつかった。急いで段岭を押さえた武独に、段岭は小声で言った。「早く、これを持って行って!」
段岭が必死で持ち上げた銅箱を武独は軽々と片手で取ってから逆手で肩に担いだ。
部屋の中はめちゃくちゃになっていた。韓濵が連れて来た者たちは郎俊侠を追って行き、牧曠達の生死は不明だ。そんな中、武独は窓を押し開け、段岭と共にひらりと出て行った。
「こっちに行って!」段岭が言った。「費先生の院だ。牧磬と一緒にいないと疑われてしまう!」
「牧相は死んだぞ!」武独が言った。
段岭は震撼した。「死んだ?本当に?」
武独が言った。「直かには見てない。だが烏洛候穆に刺されたようだ。」
段岭は、まずい、と思った。郎俊侠は何ということをしたんだ。韓濵が生きていて、牧曠達が死んだら、造反を韓濵だけのせいにされてしまう。郎俊侠が現れたということは、韓濵と牧曠達が通じていた証拠を東宮が手にしたことになるのだから!
「これは何だ?」武独が足をとめて尋ねた。
段岭は武独が担いでいる銅箱を撫で、息を乱しながら言った。「わからないけど、もしかしたら……。」
二人は同時に唯一可能性のあることを思いつき、互いに見つめあった。
長廊に灯火が点る頃、牧府は一片の混乱状態にあり、遠くから泣き声が聞こえていた。
段岭は郎俊侠の身を案じていた。韓濵がこんなに多くの人を使って囲い込んでいたら、簡単には逃げきれないのではないか。だが彼らにももう戻ることはできなかった。
「行くぞ!」
武独は段岭の手をとって、暗闇の中に身をおいていたが、灯火の点る長廊から見知らぬ方向に向かって走った。
費宏徳の住む側院で、牧磬は涼し気な椅子にもたれて眠っていた。昌流君は扇子を持って、蚊などが来ないようにとあおぎながら、費宏徳と小声で話をしていた。
中に飛び込んできた段岭と武独は、急いで足を停めた。
ここは庭園や正庁からかなり遠く、声はまだ聞こえてきていない。段岭が牧磬の様子を見に行くと、昌流君が言った。「酒に一体何を仕込んだんだ。こんなに酔いつぶれるとは。」
「大丈夫だ。」と武独が言った。「しばらくすれば目が覚める。府内で大ごとが起きたんだからすぐに誰か調べに来る。俺は部屋に行ってくる。お前(昌流君)は前院に行ってみて、烏洛候穆を東宮に戻す方法を考えろ。」
段岭が言った。「ただし彼が逃げたのが確認出来たら、戻ってきて牧磬に付き添わないと。彼の傍を離れないで。」
昌流君が目を細めたので、段岭は催促した。「さあ早く。後のことは私と費先生で何とかするから。」
郎俊侠が韓濵に捕まられなければそれほど問題はない。武独と昌流君は役割分担してそれぞれ出て行った。武独はまずは鎮山河を隠しに行った。何が起きたかをまだ知らない費宏徳に、段岭は耳元から小声で経緯を説明した。
「天の助けなり。これで韓濵は動くでしょう。」費宏徳が言った。
段岭はしばらく黙った末、費宏徳を見た。「先生は韓濵が造反するとお考えなのですか?」
「手紙が東宮の手に落ちたとわかれば、今夜中に必ず造反しますよ。」費宏徳が言った。
段岭は深く眉を寄せた。その時、ある大胆な計画が浮かんだ。うまくいけば、すぐに結果を見られるかもしれない。
「ちょっと状況を見て来ます。」段岭が言った。
牧曠達が刺されたことで、府内は一片の混乱状態にあった。急いで庭園に駆け込んだ段岭は黄堅と正面からぶつかってしまった。
「何かあったんだ?」黄堅が尋ねた。「牧磬は?」
「酔いつぶれました!」段岭が答えた。「彼は大丈夫ですが、師父はどうしています?」
「師父は刺されたんだ!」黄堅が言った。「刺客はよくわからないが、皆は烏洛候穆だと言っている!」
始めは郎俊侠の失態だと思ったが、よく考えてみると、これは神の仕業としか思えない。
今夜牧曠達は太子が偽者だと仄めかしたばかりだ。そこへ東宮の手の者が暗殺に向かえば、誰もがそれは蔡閏の命令だと思うだろう。蔡閏の本当の目的は、郎俊侠に情報収集をさせるためだけだったのだが。
「師父の様子を見に行ってくる。」黄堅が言った。「君は韓将軍に会いに行ってきてくれ。きっとまだ府内にいる。」
段岭は黄堅に手をかけ、「くれぐれもお気をつけて。」と言った。彼は黄堅をこの件に巻き込みたくはなかった。黄堅は頷いて急いでその場を離れた。
黄堅が出て行った後、段岭は暫くじっと考え、懐の中から手紙を取り出した。韓濵と牧曠達の間でやりとりされた手紙だ。
「何があった?」
鄭彦の声が聞こえ、段岭は死ぬほど驚いた。
「なぜまた戻って来たの?」段岭が尋ねた。
「帰る前に寄り道して、『あの方』に報告したら、『あの方』が俺に様子を見に行くようにと仰ったんだ。」鄭彦が答えた。
鄭彦は今日のできごとを李衍秋に知らせ、李衍秋は何か手伝うことがあるのではと案じて鄭彦を戻らせたようだ。
「だったら姚候に知らせて。」段岭が言った。「彼と五公主にすぐに皇宮を出て、謝将軍のところに行くようにって。それから謝宥には何があっても韓濵の邪魔をしないようにって言ってほしい。今すぐだよ!さあ早く!」
鄭彦は少しためらったが、段岭は衣の端を持ち上げて、自分が白虎明光鎧を身につけているのを見せた。すると鄭彦はそれ以上迷わず、背を向けその場を去って行った。
鄭彦が去ると今度は昌流君が長廊を歩いて来た。
「烏洛候穆は行った。」昌流君が言った。「東宮には戻らないから安心するようにって。」
これで段岭もようやくほっと息をついた。「もう牧磬の所に戻っていいよ。何かあったら呼びに行くから。」
第217章 兵変:
府内のあちこちで泣き声が絶えることなく聞こえる中、庭園に着くや否や、段岭は覆いを被せた別の遺体に遭遇してしまった。
覆いを取ってみると、それは銭七の遺体だった。
韓濵が部屋の外に立っていた。少しためらいつつ、段岭は韓濵と視線を交わした。
「韓将軍。」段岭が声をかけた。「牧相のご様子は?」
韓濵はぎゅっと眉をひそめ答えた。「重傷だが、幸いまだ息はある。」
「先ほど走廊でこれを拾いました。」段岭は手紙を韓濵に渡した。手紙を受け取った韓濵は両手をわなわなと震わせたまま段岭を見た。
「おそらく丞相の隠し部屋に侵入した烏洛候穆が、慌てていて落としたのでしょう。」
「隠し部屋はどこにあるのだ?」韓濵が言った。「連れて行ってくれ。」
段岭は韓濵について来るようにと伝えて、前に立って道案内をした。彼を連れて入った牧曠達の部屋は未だ一片の狼藉状態だった。
韓濵は一人で来ようとはせず、周りを衛兵で囲んで外を守らせたうえで、密室に入って行ったが、すぐにまたそこから出て来た。
「ほとんどの手紙は烏洛候穆に持ち去られました。」段岭が言った。「韓将軍、どうぞ直ちに外城にお戻りください。さもなくば東宮の指令により謝宥がすぐに兵を率いてやって来るでしょう。」
「ワンシャン!」武独が庭で叫んだ。「早く出て来い!」
韓濵が振り返ると、武独が剣を片手に部屋へと向かって来ていた。
武独が今にも剣を抜いて斬り込んできそうなのを段岭は感じた。ひょっとするとこの場で韓濵を亡き者にしようと考えているのかもしれない。だが郎俊侠に殺されかけたばかりで、彼はきっと警戒しているだろう。万が一武独が殺し損ねて韓濵を逃がすことになれば、状況は更に複雑化する。城外にいる五万人もすぐに動き出すだろう。
段岭は武独の挙動を目で制し、「韓将軍、すぐに城を離れて下さい。」と言った。
韓濵は何事か指示した後で、「府内にはあと誰がいる?」と尋ねた。
「牧磬がまだ酔って寝ています。」段岭が答えた。「朝になったらまた相談しましょう。こちらは牧相の命を救うよう尽力します。」
「行くぞ!」韓濵は命じ、部下たちを従えて一目散に逃げて行った。
段岭としては本当は、韓濵をそのまま城から出すように謝宥にも言っておきたかったが、今現在既に情報は謝宥に伝わっているはずだ。まだ全城に厳戒態勢を敷いていないということは、韓濵はおそらく問題なく出て行くことができるだろう。
「韓将軍は?」黄堅が急いでやって来た。
「もう帰りました。」段岭が答えた。「師父のおかげんはいかがですか?
「命は無事だ。剣は肺に当たって、心臓には達していなかった。医者を呼んで診てもらっているところだ。」黄堅が言った。
「天地に感謝します。」段岭が言った。「師兄、何が起きても今夜は牧府を出ないでください。牧磬をよろしくお願いします。」
「どこに行く気だ?」黄堅が尋ねた。
「謝宥将軍のところに。」段岭が答えた。「東宮が牧相を殺そうとしたなら、他にも企んでいることがあるかもしれません。できる限りのことをしておかないと、座して死を待つだけになってしまうかもしれませんので。」
黄堅の、早く行って早く帰るようにという声に送られ、段岭は庭園を出て武独と伴に自分たちの院に戻って行った。
「どうする気だ?」武独は意外そうだった。「なんで韓濵を逃がしたんだ?」
「兵を集めて城に入らせるんだ。」段岭は答えた。「彼に蔡閏と対峙して、彼の口から言ってもらえば、ちょうどいい時を計ってこちらも宣言しに行ける。」
武独が言った。「なら牧曠達を見に行ってくる。」
「毒を飲ませなくていいよ。」段岭が言った。「今夜を過ぎたら彼にはもう何もできなくなるんだから。行こう。あの箱を持って一緒に来て。」
中秋夜の後半、段岭と武独は李衍秋のいる小屋に来た。
李衍秋は阿衡と酒を飲んでいたが、段岭が入って来たのを見ると、「ずっと待っていたんだぞ。」と言った。
武独は阿衡を帰らせ、銅の箱を石卓の上に置いた。
「あるものを見つけましたので、四叔父上にご覧いただきたくて。」段岭はそう言って、手紙を李衍秋に渡した。「見つかってよかったです。郎俊侠は暗殺沙汰を起こしましたが。」
「牧曠達が死んだのか?」李衍秋は意外そうだった。
「死んではいませんが、間もなくそうなるでしょう。」段岭が言った。「韓濵は東宮が謀叛の証拠を押さえたと思い込んで、今は城を出ています。私が思うに、彼は次の手としてはおそらく賭けに出て、兵を連れ込んで内城を抑え込むでしょう。」
「夜が明けてからのお楽しみだな。」李衍秋が言った。
荒波にもまれたような夜を過ごした段岭の体は疲れて眠りを求めたが、気持ちの方は興奮状態にあった。彼はもう何も言わずに李衍秋と向かい合って座り、外からの情報を待った。
一方、李衍秋の方はそうしたことには全く関心がなく、どうやら一切を掌握しているようだった。彼は鑿を持って来させて、銅箱にかかった鎖をねじ開けた。
箱の中には人の背丈の半分ほどもある玄鉄重剣があり、剣柄には太極図が刻まれていた。
「手に気をつけて。」段岭が言うと、李衍秋は突然笑い出した。「お父上が言ったのか?」
段岭は頷いた。
「初めてこれを見た時、三兄上は私にもそう言ったのだ。」李衍秋が言った。
「四叔父上、あることをお約束いただけますか?」段岭が言った。
「勿論だ。」李衍秋は再び鎮山河に触れようとせず、段岭の目をじっと見た。
「お前にならどんなことでも約束しよう。」
「韓濵が城に入ったら、その後は全て私の言う通りにしてほしいのです。」段岭が言った。「私は蔡閏に会いに行くつもりです。」
「ふむ。」李衍秋は満足げに頷いた。「お前は既に計画を立てているのだな。いいだろう。今夜以降、全てお前の言う通りにする。顔を出す時期も含めてだ。」
段岭はまだ、韓濵が予想通りの行動をとるかどうか掴みかねているところもあった。もし彼が兵を連れて逃げて行けば、計画は変更しなくてはならない。
李衍秋は全く心配しておらず、ただ段岭に酒を注いでやりながら言った。「麺亭の店主が極上の蟹を手に入れたと聞いて、先ほど少し蒸してもらったのだ。さあ、お前にだ。まずは酒を一杯飲みなさい。」
その時突然外から物音がした。遠くから叫び声が聞こえて来る。戦いが始まったようだったが、その後すぐにまた静かになった。武独は首を伸ばして東側を望み、壁の上に跳び乗り、屋根の上から遠くを見渡した。
「韓濵が城に入った。」武独が言った。
「どこにいる?」段岭が尋ねた。
「城の中央道を押さえて皇宮に向かっているところだ。」武独はそう答えると、更に高いところまで跳び上がっていき、しばらく様子を見ていた。夜明け前の暗闇の中全城は夜の静寂に包まれている。中秋を終えたばかりの家々は扉を閉めており、ただ征北軍の持つ光だけが煌めきながら動いていた。
「ちょっと見て来る。」武独が言ったが、段岭は「行かなくていいよ。」と言った。「蟹を食べようよ。きっと皇宮を攻撃しに行くんだ。韓濵には蔡閏と戦わせてやればちょうどいいじゃない。」
武独:「……。」
その夜、謝宥は確かに段岭からの報せを受け取ったようで、韓濵に対し何の行動も起こさず、形だけの抵抗を見せただけで、征北軍はそのまま、まっすぐに内城に進攻して行った。」
李衍秋のいるこの場所は江州外城にあった。鄭彦が状況を知らせに来た時、韓濵は既に皇宮の外にまで到達してた。
(江州は内城=役所と皇宮を、外城=民の町が囲む形の円形都市。韓濵の征北軍は外城に駐屯していた。)
「姚候と五公主は既に城を出ています。」鄭彦が言った。「謀叛の罪で韓濵を挟み撃ちしますか?」(鄭彦には人目のないところでだけ敬語を使わせることにした。原文では同じだけど)
「いいえ。黒甲軍には全軍撤退させて。」段岭が言った。「外城を占拠している一兵卒も留め置かずに、黒甲軍全兵を城から出したら、謝宥と姚候をここに呼んできてほしい。」
夜が明けた。
鄭彦は既に段岭の指示を謝宥に伝えていた。予想通り韓濵は内城に入って謝宥に対抗し始めた。すると謝宥は形だけの抵抗をしただけで、黒甲軍全軍を江州城から撤退させた。
―――
蔡閏は夜通し眠らずに郎俊侠からの報せを待っていた。その一方で馮鐸とはこの夜犯した過ちをどう取り繕うかの相談をしていたたため、報せをうけるまで韓濵が皇宮を攻撃し始めたことを全く知らなかった。(なんか、蔡狗がだんだんかわいそうになってきた)
「いったい何が起きたんだ?」蔡閏は驚愕して言った。「頭がおかしくなったのか?」
すると馮鐸が言った。「おかしくはありません。きっと牧曠達と通じていたのでしょう。」
馮鐸も色々考えてはいたものの、まさか韓濵と牧曠達が結託していたとは予想外だった。
それよりも、そこから韓濵の行動を予測するに、黒甲軍が全員城から撤退し、何の抵抗も受けなかったとなると……。どうやら最大の危機が訪れそうだ、と馮鐸は予感した。
「謝宥は?」蔡閏が尋ねた。「黒甲軍はみなどこにいったんだ?」
「殿下!」侍衛の一人が慌てふためいて入って来た。「彼らは既に正門まで来ています!」
「絶対に認めないと言い張るのです。」馮鐸が言った。「私が韓濵に対処してきましょう。」
日が高く上った頃、正門外はガランとしていた。侍衛、宮女、太監は逃げるか、もしくは投降し、韓濵は、何の抵抗も受けずにやすやすと皇宮に進攻してきた。
「韓将軍。」馮鐸が午の門外の階段の上にあらわれ、万丈の朝陽を受けながら、「一体何をしにいらしたのですか?」と言った。
すると韓濵は冷笑し、「夕べのことは自分でよくわかっているでしょう。姚候はどこです?もう逃げ出したのですか?」と言って辺りを見回した。
馮鐸は冷ややかに言った。「韓将軍、まさかあなたは、あんな無知な小者の言うことを真に受ける程愚かではないでしょう……。」
「あいつを捉えろ!」韓濵が叫んだ。
「やれるものなら、やってみろ!」蔡閏も姿を現し怒号した。「お前たちはかつて我が父皇の麾下兵だろう。それが今や私に矢を向けるのか?」
韓濵が李漸鴻の兵権を簒奪した時、李漸鴻はまだ北良王だったため、反逆罪には問われなかった。だがその後、彼が帝君になったことで、当初将軍岭下での兵変に参与した者はだんだんと皇室から目の敵にされ、かのできごとは彼らの心の傷となっていた。そのため、今の蔡閏の一喝に兵たちは一時足が止まってしまった。
韓濵は叫んだ。「この太子は偽者だ!みんな騙されているのだ!彼を捉えろ!」
今度は蔡閏が心の傷をつかれてしまった。数千万の兵士の前で韓濵にそう言われ、蔡閏は危うく半歩後退しそうになったが、幸い馮鐸に背中を押さえられた。
馮鐸が言った。「将軍、口から出まかせはおやめください。証拠はお持ちですか。証拠もなく我らがここで死ねば、あなたは天下の全ての人から主君を弑したと言われることになっても仕方ありませんよ。」
韓濵は深く息を吸い、暫し逡巡した。もし『太子』をここで射殺せば、自分は一生、そして末代に至るまで恥辱の名を背負うことになる。それなら、天下に告げた後で殺した方がいいのではないだろうか。
「伝令しろ。」韓濵が小声で言った。「彼らを東宮に連れて行け。話はそれからだ。」
―――
段岭は中秋夜の食事を終えた後、うとうとと眠り込んだが、夜が明けた時に、誰かが庭で話をしているのが聞えて来た。武独のようだ。
「だから、十分な証拠を元に、まずは我らに替わり韓濵を押さえて欲しい。」
段岭は単衣姿のまま、扉を開けた。庭には謝宥と姚復、郎俊侠、昌流君、鄭彦と武独、それに李衍秋の姿があった。
目覚めたばかりの段岭の髪は散らばり、まだきちんと服も着ていない。無意識にすぐあやまって、扉を閉めて服を着に戻ると、武独が急ぎ足に入って来た。彼が既に起きていて、髪を梳いたり服を着替えさせたりしてくれるとは。
「みんな来てたの?」段岭が尋ねると、「少し前にな。」と武独は答えた。「お前はまだ寝ていると思って起こさないように静かにさせておいた。」
段岭は髪を梳かして出て行き、失礼を詫びようとしたのだが、逆に謝宥と姚復の方が彼に向かって拝礼し、殿下のお邪魔をしてすみませんでしたと詫びた。
第218章 戦の前
「現在、韓濵は皇宮の全てを押さえております。」謝宥が言った。「内城は閉鎖され、全域戒厳令下にあるため、今日は早朝廷もなく、何の通知も出されていません。黒甲軍は殿下のご命令の通り、全て城から撤退し、五万の兵全てが現在外城に置かれています。」
姚復が言った。「五公主は既に城を離れて淮陰に向かい、配下の兵を召集しており、予測では二万の増援が可能です。」
段岭が熟睡している間に、一夜にして江州城は既に激変していた。韓濵は軍を率いて城に侵攻した後も、黒甲軍の抵抗を一切受けなかったため、こんな風にやすやすと内城を占拠し、そこにいた人たちを人質として獲得した。即位前の太子、太后及び文武百官、大勢が韓濵の手に落ちたのだった。
それは正に李衍秋の望むところだった。——謝宥と姚復はこの家屋の中に連れて来られてすぐ、これら一切が叔父と甥二人の手による布局だったことを知った。二人はキリキリと引き絞った弓矢の弦をついに放とうとしかけていた。同時に李家の壁の厚さも思い知った。最後の瞬間まで二人が牧曠達と繋がっていないとは確信せず、李衍秋はずっと本当の意味で自分たちを信じてはいなかったのだ。
(薄情は血筋で郎俊侠のせいじゃない)
「かまわない。」李衍秋が言った。「韓濵など勝手に自滅する。太子も皇后もまとめてくれてやる。朕が再び姿を現した時には牧錦之も笑ってはいられないだろう。姚復、そなたの軍隊はいつ頃着きそうなのだ?」
(正体不明の誰かに妻を寝取られた人は笑っていられるのかなあ)
「三日の内には到着します。」姚復が答えた。「次は何をしますか?」
「待つ。」李衍秋が言った。「あの者の正体を韓濵が天下に知らしめるまでは。」
「その後は?」謝宥が尋ねた。
「一戦交えようじゃないか。」李衍秋が言った。「南方ではもう長年戦の類は起きてこなかった。戦闘はお前たちの管轄だ。朕も太子もお前たちの先鋒に立っても構わない。自ら刀や槍を持って戦うのはやめておくが。」
段岭は謝宥の心情を慮って目を向けたが、その顔には『あ・り・え・な・い』の五文字が刻まれていた。角度を変えて考えてみれば、謝宥、姚復、それに群臣百官に至るまで全員が李衍秋に好きに弄ばれている。李衍秋がまだ生きていると知っただけでも大変なことなのに、ずっと隠していた顔を見せるや否や、自らの皇城に打ち入ると言っているのだ。
だが姚復の方は既に慣れてしまったようで、「それでは臣は手配してまいります。」と言った。
「そなたは謝宥と協力して随時開戦できるよう準備しておいてくれ。皇児には何かあるか?」
段岭は言った。「もう一度江州の防衛布陣図を見てから決めたいと思います。」
李衍秋は当然、段岭の好きなようにさせる。どうやらこの政変を解決するための指揮は全て彼に任せるつもりのようだ。天下第一亭の店主は、内城に閉じ込められてしまったようで、今日は誰も食事を届けに来なかった。(お店は内城、実家は外城なんだ)
外城の人々は一時恐慌状態に陥っていて、院内にいても混乱した人々の声が聞こえていた。
謝宥は既にこの場所に兵を集めていた。黒甲軍に状況を把握するため駐留させ、外城の重要路を確保すると言う名目で、実際は李衍秋を護衛するために兵力を集中させていた。それは李衍秋としては最も不本意なことではあった。本来なら正体を隠している間に段岭と出歩きたいと思っていたのだが、残念ながら、謝宥の命で黒甲軍にこの家屋を囲われてしまった。
鄭彦は姚復について一緒に皇宮から出て来ており、郎俊侠は行方知らず、昌流君は未だ牧府だ。今や内城は閉鎖されたので、刺客が自由に行き来できる感じではない。
段岭は鄭彦に内城に入り込んで、昌流君に牧磬を連れて集合するように連絡させた。
ことが終われば牧磬は牧家とは関係を断つ。真相をどう牧磬に話すかは昌流君の問題だ。
謝宥と段岭は前院に行き、謝宥は江州の地図を開いた。目下、韓濵率いる征北軍が城内主要街道を占拠して、厚い防衛線を敷いていた。
「内城十六の門は全て何度も修繕をしてあり、簡単には開けられません。」謝宥が言った。「江州は四通八達、全方向に展開した三王朝続く戦略要城です。数百年前の江州城主、韓滄海が城壁を正に鉄壁に修復したため、難攻不落の作りになっています。我らを江州城から撤退させたからには、殿下は既に何か再び進入する方法を考えておいでなのですよね。」
「私には方法なんてないけど。」段岭は笑って言った。「江州を二十年近く守って来た謝将軍なら、難攻不落な防衛線を突破する方法を自身のために残してあるんじゃないの?私の考えが間違っていなければ、きっとどこか城に入れる場所があるはずだよね。」
すると謝宥は目に笑みを浮かべながら段岭を見た。「確かに、四つの水路を通って進入が可能です。」
やはり段岭の考えは間違っていなかった。謝宥はずっとこの城を押さえて来たのだ。黒甲軍以上に城内の地形、隠し通路や大通り、小路地、そうした全てに詳しい者はいないはずだ。
実際の戦闘状態に入ったら、征北軍など謝宥の敵にもならないだろう。段岭は謝宥に城から撤退するようにさせた時、既にこの結果を予想していたので全く心配はしていなかった。
「水路はここと、ここで分かれ、この二か所に達します。」謝宥が地図上に形無き線を指で描いた。その線は内城中央から皇宮外に通じている。「ですが我らが一旦皇宮へと突入を開始すれば、韓濵は警戒するでしょう。朝廷の役人たちは全て彼の手中にあるので、人質にされてしまうのではないでしょうか。」
「それは心配ない。」段岭が言った。「私と武独で別動隊を連れて行って先に役人たちを救い出すから。」そう言って目を向けると武独が言った。「皇宮で使っている水の水源は数か所の井戸だ。本当に彼らに対峙することになったら、何の手間もいらない。」
「百官全員を毒殺しないように気を付けろよ。」謝宥が言うと武独はニヤリとしただけで答えは避けた。
一方段岭は真剣に地図を見ながら言った。「時間を決めておいたら、そっちは通達して順当に入って行けるかな?」
「進入にかかる時間は全部合わせて最短で一時辰です。」謝宥が答えた。「殿下の言う通りに先に布陣するのは可能でしょう。」そこで謝宥は眉をひそめた。「あなたも入られるおつもりで?」
段岭はちょうどそのことを考えていたのだが、謝宥に「それは危険すぎます。」と言われてしまった。
「私は彼らの前に出て行かなくては。」段岭が言った。「あなたたちの後ろにこそこそ隠れていることなんてできないよ。」
こんなに長い間逃げ続けた後で、ようやく彼らに対峙する時が来たのだ。段岭には謝宥が皇宮を攻め落とすのを待っていたり、李衍秋の保護下から姿を現すことなどできなかった。
「韓濵は私の正体を知らないし、蔡閏は知っていても敢えて言わないよ。」
「そうとも限りません。」謝宥が言った。「万が一、彼があなたを売って、韓濵に取り押さえられでもしたら、厄介な目にあいます。どんな手抜かりもあってはなりません。」
「後でまた話そう。」段岭が答えた。「少し考えさせてくれ。」
その日は予想外にも穏やかに過ぎた。内城は全域戒厳下にあったが、特にこれといって何も起きてはいない。謝宥は黒甲軍兵士を、一般人に変装させて潜伏させ、城に入らせて情報を集めさせた。それで得た情報によると、韓濵は未だ朝臣たちに宮入りするよう告げておらず、兵を分配して、内閣と六部を制御下に置いているだけらしかった。
夕方になると鄭彦が戻って来た。昌流君と顔面蒼白の郎俊侠を連れている。
郎俊侠は前院に入るなり、ふらふらとその場に倒れそうになった。「何があったの?」段岭は尋ねた。郎俊侠は怪我をしており、寝台に横たわると、武独が脈を診た。「矢を受けたんだな。」(脈は何の関係が)
昌流君が言った。「牧磬は宮内に連れて行かれた。」
「牧相は?」
「死んでないし、良くなってきた。」昌流君が答えた。「東宮は戒厳下で、太子は軟禁された。俺たちは牧磬を連れ出そうとして、烏洛候穆に出くわしたんだ。」
「ここに集まるようにと言われたはずだよね?何をしにまた皇宮に行ったんだよ。」段岭は眉をひそめて言った。だが郎俊侠は長椅子に横たわったまま、何も言わなかった。
武独は彼に薬をつけたが、幸い怪我はそれほどひどくなく、一晩休めばだんだん回復してくるだろう。
段岭は時々本気で郎俊侠を殴ってやりたくなってしまうが、当の郎俊侠は笑っていた。
その夜、段岭は月の下で思いを馳せていた。武独は黒甲軍との打ち合わせに行っていた。決行時、謝宥は武独に一隊与え、先に皇宮内の情況を安定させることになっていた。彼が甲冑姿のまま前院に戻ってきた時、段岭はまだ起きていた。
「韓濵にはまだ証拠がない。」段岭が言った。「それで未だに百官たちに蔡閏を追及させられないのかもしれない。もしくは牧曠達に阻止されたのかもしれないけど。」
「お前はどうするつもりだ?」武独は兜をとると、段岭と向かい合って座った。
「私はこれを韓濵に渡そうと思う。」段岭は蔡閏の答案紙を取り出して、武独に見せた。
「お前はもう疑われ始めているぞ。」武独が言った。「牧曠達が刺された後、お前はずっと姿を現さなかった。あの夜の韓濵の目つきは少し怪しかったと俺はずっと思っていた。俺と昌流君が本気で動かずに烏洛候穆を逃がしたことにもおそらくは気づいているだろう。」
普通に考えれば、武独と昌流君が協力して郎俊侠を捕まえ損ねるはずはない。それなのにあの夜彼らは服にすら手を触れることもなく逃がしている。韓濵だってしばらくは気づかなかったとしても、後々詳細が明らかになれば、何かおかしいと気づいたはずだ。
そういうことなら、段岭としてはもう牧曠達に会いに行くのは止めた方がいい。不必要な危険にあうかもしれないのだから。
「それなら証拠は無しのままだ。」段岭が言った。「強硬手段に出ない限り、百官たちを説得するのはむずかしいだろうね。銭七も死んでしまったのだし。」
銭七の死が誰の仕業かはわかっている。聞くまでもない。もちろん郎俊侠だ。
あの老人はただの証人に過ぎなかった。肝心の人物が内情を知ったからには、再び彼を朝臣たちの前に立たせて証言させたところで、蔡閏にはすでに準備ができているから、対策をとることも可能だ。郎俊侠自ら銭七を殺したのは、正に東宮の欲蓋弥影、『隠すより現るるは無し』というやつだ。今、東宮は膠着状態に陥っているはずだ。この状況を打開するためにはなんとか証拠を手に入れるしかない。
「誰かに持って行かせるなら、アリだろうな。」武独が言った。
「でも誰に?」段岭が言った。「誰に持って行かせようとも牧曠達は疑いを持つと思うよ。」
「明日また考えてみる。」武独が応えた。「心配するな、もう寝ろ。」
段岭は一晩落ち着いて眠れず、何度も寝返りを打った。
翌朝太陽が昇っても、李衍秋はまだ起きてこなかった。明らかにこのお忍び生活が気に入っているようで、これから起きようとしていることには何の不安もないようだ。
だがこれは段岭と蔡閏の正面きっての最終決戦だ。段岭の心ははっきり決まっていた。蔡閏に言いたいことはたくさんあったが、その言葉を誰かの口を借りて言うことなど絶対にできなかった。
早朝、段岭が目を覚ましたばかり、武独はまだ横になっている時に、誰かが外の扉を叩いた。
「皇児。」李衍秋の声が聞えた。「誰かがお前に会いに来たと謝宥が言っているぞ。」
(すごい、皇帝が侍従みたい)
段岭は急いで起き上がり、欠伸をした。李衍秋は黒甲軍が城外に置いた臨時の官署に行くようにと伝えた。そこで誰かが待っているそうだ。段岭は思った。もしかして内城から誰かが逃げ出して来たのだろうか?
第219章 同窓会
外城にいた黒甲軍は二つの通りに臨時招集され、こんな何の変哲もない民家から出動して、宿営を張った。外城でも一番外側の道は西北面が玉衡山下平原に向いているため、厩館内に臨時の官署が置かれることになった。
段岭がその官署についた時、頭に鳥の羽を挿した党項人達の一団が激しく何か言い争っている場面に出くわした。そして、その一団を連れて来たのが誰かがはっきり見えた瞬間、段岭はたちまち大声を上げて前に進み出た。
赫連博が大声を上げた。「段岭!」
「赫連!」段岭も大声で叫んだ。
二人はしっかりと抱き合った。まさか来てくれたなんて!段岭はうれしくてたまらず、ひらりと赫連博の背中に飛び乗ると、赫連の背に担がれて大笑いした。
「君は……かな、悲しんじゃダメだ。」赫連博は段岭の左胸を指さして言った。「人は……世を去ると、皆天上の星になる。地上の露珠になる。」
段岭は笑顔を見せて頷いた。赫連博が自分を慰めてくれているのだとわかり、それはつまり、彼がきっと自分の正体を知ったということか、と思った。
「君たちは何を言い争っていたんだ?」段岭が尋ねると、「彼、も、いる。」と赫連博が言った。
客桟の中には遼人の一団の他に、元人の一団もいた。一人の青年が物陰の中に立っており、そこから日の当たる場所にいる段岭のことをじっと見つめていた。
「バド?」段岭は赫連博の手を放し、呟くように言った。「君はなぜここに?」
その青年は正にブアルチジン・バドその人で、彼の傍にはアムグが控えていた。
「お前はきっと江州にいる思ったから。」バドが言った。
行間の意味は、彼は段岭のために来た、ということだ。南方から李衍秋崩御の報せが届くと、元、遼、西凉参加国はたちまち警戒し、嵐の予感を覚えた。李衍秋崩御後の次の後継者と南方の情況が、近い将来の四か国の政局を決めることになる。
それは大陳と長年の交戦状態にあり、互いに宿敵同士である元でさえも同じで、情報を得るために使者を送って来たのだが、ただそれがバドだったとは段岭にも予想外だった。彼は陳国で捉えられるのが怖くないのだろうか?
「この……この者は……。」赫連博は体を横向きにして少し段岭の前を塞ぐようにしながら、「怖がらなくていい。この者は……丹増曜杰(ダンゾンヤンジエ)だ。」
赫連博はもう一人の若者を段岭に紹介した。若者は段岭と同じくらいの背丈だが力強い体つきをしている。色が暗紅色なだけで、バドとそっくりな斜右襟の羊皮の袍子を着ているので、段岭は一見元人かと思った。だがその名前を聞いて、吐谷渾部人だとわかった段岭はすぐに、お元気ですか程度の挨拶的言葉かけをした。
すると漢語が話せない丹増曜杰という若者は何か長々と赫連博に説明し、赫連博に通訳させようとした。それはちょっと、と思った段岭は、一日かかっても話が終わらないと困ると思い、手を上げて、「気にしないで。」と言った。
「友達だ。」赫連博が言った。「友達だよ。」
そこで段岭は丹増曜杰と抱き合い、これで相手は何も言わなくてもよくなった。
遼国が派遣した使者は見知らぬニ十歳くらいの男性だった。
「在下は耶律魯と申します。」男性は段岭に向かって拝礼した。「大遼北院左中平事です。」
左中平事ということは、北院大王直下の参謀だ。耶律大石の死後、北院は新たに組み替えられた。こんなに若い皇族だが、未来の北院大王になるかもしれない。耶律宗真も自分の顔を立ててくれたのだろう、と段岭は思った。
耶律魯は段岭に手紙を一通渡した。段岭は受け取った時、事情を察した。部隊に述律端がついてきたのにも気づいた。おそらく耶律魯は命令を受けて、先に鄴城に向かったのだが、段岭が不在だったため、述律端と共に江州に来たのだろう。
「国の一大事でお知らせする間もなく申し訳ありませんでした。ご理解いただければと思います。」段岭は言った。
内城が韓濵に占拠されているのを目撃しつつも、誰も何も言わない。そこで謝宥は彼らにはしばらくここに滞在してもらうように手配した。
バドが来たことで、段岭は一計が浮かび、武独に向かって小声で言った。「いい手を思いついた。ちょうどいいから、彼らに紛れ込んで入っていけばいい。」
武独は警戒も露わにバドの様子を伺うと、述律端を呼び寄せた。述律端は近づき武独に何か耳打ちされた。武独は彼にもっと人を集めるように言ったのだった。バドを見たからには余計な厄介ごとが起きないようにしなければならない。
「他のやつらのことはべつに心配していない。」
武独は段岭を驛駅の外に連れ出し真剣に言った。「お前はブアルチジン・バドが葬儀のために来たと思うのか?」
段岭には武独の言いたいことが分かった。バドが来たのは明らかに情報を明かすためだ。彼の頭の中では、李衍秋崩御後に段岭が寄る辺なき身で皇位奪回を計っても無駄に終わると考えている。状況次第ではひょっとしたらまた段岭を連れ去るつもりかもしれない。
「あなたはちょっと他の人達と話をしていて。」段岭が言った。「私はバドに聞きに行ってくる。」
「もう捕まるなよ。」武独が言った。「お前は彼らの手の中に二度も落ちているんだからな。」
段岭は苦笑いせずにいられなかった。「大丈夫だよ。」
江州にいれば黒甲軍の護衛がある。そんな中で連れ去ろうとしても謝宥がそうはさせないはずだ。段岭が驛駅に戻って見ると、赫連博と吐谷渾部の若者は既にそれぞれの場所に連れて行かれ、述律端と耶律魯もその場を去っていた。先ほどまでいがみ合っていた者たちもようやく落ち着いてきていた。
残るはバドだ。彼は驛駅内に立って、小声でアムグに何か指示していたが、段岭が来たのに気づくと二人は話を止めた。バドはアムグに先に行っているようにと伝え、アムグは背を向け去って行った。
二人が静かに立っている客桟の中に、落日の残光がさし込んできていた。
「ちょっと出て行かない?」段岭が言った。
バドは袍子を払って、埃をまき散らしたが、何も気にせずに段岭について驛駅を出て行った。
落ち往く日の光に包まれた江州大通りからは、城外の無限の彼方までが一望で来た。玉衡山下にある玉江は折れ曲がって南に向かい、長江に合流して滔々と東に向かっていく。
「まだ三年たってないのに、急にどうしたんだ?」段岭が言うと、バドは段岭を見つめて足を停めた。
「お前は生涯大勢の人に大事にされる。」バドが言った。「俺の真心がいつもお前に踏みにじられるのにはもう慣れた。」
段岭は笑い出した。「もし本当にそう思われているんなら、私だってどうどうと君に会いに来たりできないよ。でも、ありがとう。」
段岭はやはり少し感動していた。バドが努力しようとしてくれているのだとわかったからだ。
「お前の叔父さんが崩御したら、お前はきっと味方をつけて蔡狗から権力を奪い返すとわかっていた。それで見に行きたいと思った。お前を手伝うか、手伝っても無駄ならお前が殺される前に連れて逃がせばいいと思ってな。」
「君は変わったね。」段岭はバドの変化に気づいて不思議に思った。以前のように棘だらけで言葉より手が先に出るバドとは様子が違う。
「折り合いをつけたんだ。」バドが言った。「帰ってからお前たち漢人の書をよく読んだ。自分で読む暇がないから、書官に読み上げさせたんだが。以前は俺が悪かった。お前に対して凶悪すぎた。」
バドの口からこんなふうに『以前は俺が悪かった』と言われても、そう簡単には信じられない段岭だった。それはもちろん書を学ぶことで人は変るかもしれない。だがそれでバドを改心させられるとも思えなかった。
「もし本当に私のことを理解しているなら、」段岭が言った。「例え失敗したって逃げないってわかっているでしょう?」
「ああ。」バドが言った。「だから俺の方が来たんだ。」
段岭は言った。「手伝ってほしいことがある。」
バドが言った。「何でも言ってくれ。赫連もお前のために来た。あいつとばったり会ったときは危うく俺らと殴り合いになるところだったが。」
「じゃあ……準備ができたら呼びに行くから。まずは少し休んでいて。」
そう言って段岭が去ろうとした時、バドが彼を呼び留めた。「段岭。」
段岭:「?」
バドが言った。「俺は結婚したんだ。」
段岭はまず驚き、それから笑い出した。「おめでとう、バド!奥さんはきっとすごくきれいな人なんだろうね!」
バドはただ静かに立ち止まったまま、段岭を見つめた。それで段岭も腑に落ちた。今回バドの態度がここまで変わったのがなぜなのか。彼はもう執着を捨て去ったのだろう。
「俺はトゥトゥの娘を娶ったんだ。」バドが言った。「もう身ごもっている。きっとかわいい女の子だろうってみんな言っている。」
「それはよかったね。」段岭は笑顔で言った。「父親になったらきっとまた少し成熟した風になるんだろうね。」
バドは何も言わなかったが、眼差しに笑みを浮かべていた。段岭はほんの少し悔しい気持ちにもなった。まさかバドまで父親になるとは。だが最後には笑顔で彼を抱きしめた。
「夜になったら酒を飲もう。君たちを接待しなくちゃ。」段岭が言った。「準備させに行ってくるよ。」
(脱脱=トゥトゥというのは宗代に実在した元の宰相らしいけど、この話はわざと時代や実在の人物をごちゃまぜにして架空の元国や遼国、西凉や烏洛候国にしてある。)
その夜、謝宥は新しく驛駅を作り、そこに宴席を設けさせた。姚復は顔を見せず、鄭彦が来て赫連博と話をした。赫連博は姚静と結婚した後、一男をもうけ、その子は間もなく二歳になろうとしていた。
「こうして皆さんが我が大陳のためにために集まって下さったからには、」段岭が言った。「私に免じて暫し矛を収めていただきたくお願いいたします。何といってもこの世の中では、戦うことは多くても、共に座して酒を飲むことはあまりないのですから。」
皆それぞれ頷いた。元々争いを起こそうとして集まって来たわけではない。皆大陳の新たな君主が位を引き継いだ後、新たな外交方針を作り出して、辺境で二度と戦争が起こらないことを望んでいた。彼らは段岭の言葉を聞くと、それぞれ杯を掲げ、一気に飲み干した。
この夜は家族の事が話題の中心で、国事については話さないことになった。耶律宗真について長い耶律魯は彼らの少年時代のできごとについても少しは知っていたので、時々口を挟んでいた。
席上で赫連博は息子の言葉をどもりながら真似して皆を大笑いさせた。酒の回ったバドは段岭の上京時代の話ばかりしていた。あまり言いすぎると、聞き耳をたてた誰かに情報を漏らされるのではないかと思った段岭は何とか止めさせようとしたが、バドがそれでも何度も言い出すので、終いには段岭も諦めてもう好きにさせておくことにした。
二更時になると、述律端が来て、段岭に耳打ちした。武独が手配を終えたと知った段岭は、帰り際に、赫連博、耶律魯、バド、丹増曜杰の四人と約束した。時が来たら自身で彼らを城に入らせること。明日の酉の刻に城外に集合すること。それから報告のため、李衍秋の所に戻って行った。
「危険すぎる。」段岭の計画を聞き終えた李衍秋が言った。「万が一見抜かれたらどうするのだ?」
「武独がひそかに守ってくれます。」段岭は説明した。「私たちが出発したらすぐに武独が彼らを城に連れて行きます。」
「彼はお前たちを城には入れないのではないか。」李衍秋は考えた末そう言った。
「入れますよ。」段岭は説明を続けた。「ブアルチジン・バドと赫連博がいれば。韓濵は彼らを必要とするはずです。彼ら二人は蔡閏の正体を指摘できる証人になれますから。」
第220章 予想外
李衍秋はややしばらく考えた末、ようやく頷いた。
「四叔父上。」段岭が言った。「あなたの計画とはどういうものなのですか?」
段岭が江州に戻ってから、李衍秋は全く何の行動も起こそうとしていなかった。例外は死を装ったことであるが、それ以降は全ての事から手を退いて、牧曠達と韓濵の好きなようにさせていた。自分が李衍秋の計画を乱しはしないかと、段岭はいつも心の中で心配していた。
「お前はよくやっている。」李衍秋が言った。「計画を始めたばかりの頃には、今のようになっているとは四叔父も思わなかった。最初はただ潮となって退いて行けば、暗流が逆巻く中からどんな岩礁が姿を現すだろうかと思っただけだったのだ。」
段岭は黙って李衍秋の話を聞いた。
「お前のお父上がまだいた頃、大陳は正に朽ちかけていると言っていたものだ。」李衍秋が言った。「内閣、朝廷から軍隊に至るまで、どこでも腐敗の臭いがしていると。新たな人材が上がって来られない。古株たちが朝廷を牛耳り、権力を中々中央に戻さないからだ。」
段岭は李衍秋の落ち着いた口調に隠された危険を感じ、彼の話を遮ることができなかった。
「大陳朝廷には、大規模な改革が必要だ。」李衍秋が言った。「古い派閥を全て洗い流し、新たな若い力をそのあるべき場所に置き換えねばならないのだ。」
「ですが今の所、多くのことを老臣たちがその手に握っているのですから、もし内閣を全て入れ替えたりしたら、南方で何かあった時に、動きが取れなくなってしまいます。」段岭が言うと、李衍秋は、「皇児、お前は本当にそう思っているのか?」と言った。「四叔父はお前に聞くが、昨年江州と江南が水害に会った時、南方各地で必死に努力したのは、朝廷か、それとも若き役人達だったか?内閣は朝廷に鎮座して指揮を執るべきだった。だが彼らはその時実際には何をした?」
「全ての計画は各士族の利益を鑑みて決定される。」段岭の答えを待たずに李衍秋は話を続けた。「絡み合い錯綜し障害となって積み重なる。救済であろうと再建であろうと、全ては
『家族の利益になるべく支障をきたさないように』が基本とされる。最後にはお前が治めた河北郡の方が、南方の支援を殆ど受けず、北方の戦乱のさ中にありながらも、ゆっくりと復興し始めた。」
「つまりどうなのですか?」段岭が言った。「四叔父上のお考えは、この変化に乗じて、朝廷を……。」
「牧曠達に与したのが誰であろうと死あるのみ。」李衍秋が言った。「最初の目的は確かにそうだった。彼にあまり証拠をつかませたくなかった。彼らを共謀罪に問うつもりだったからだ。」
段岭は心中に震えを感じずにはいられなかった。李衍秋は蘇閥や牧曠達、更には朝中大臣たちを殺して彼らの財産を没収するつもりだったのだ。だが、もしそんなことになれば、別の事態が発生するかもしれない。言い換えると、急激に新旧が入れ替わるような状況となれば、南方は苛烈な動乱へと陥りかねないということだ。
そして最終的には二つの可能性のどちらかに行きつく。一つは外族侵入の激化、二つ目は勢力の入れ替わり。ここ数年の科挙を通ったばかりの若い役人が老臣に変わって朝廷での中堅的な力を持つようになる。
「それは遷都した時にやろうとしていたことだ。」李衍秋が言った。「ただ江州に来たばかりの時には迂闊な妄動には出られず、ずっと手を打てずにここまで来た。だが百歩譲っても、本来ならお前の祖父上の御代の内にやっておくべきことだったのだ。」
「ですが……あまりに危険すぎます。」段岭は口ごもるように言った。
「だからお前について言えば、本当の挑戦は身分を取り戻し、あるべき地位に戻ることではない。」李衍秋が言った。「戻った後に、新たな朝廷と向き合い、整頓し、落ち着かせたうえで、新たに権力を集中させて、権力の全てを皇室の手中に戻すことなのだ。」
段岭には今までそんな発想は全くなかった。今になってよく思い返してみれば、誰にも知らせていなかったということは、李衍秋の頭の中では、誰もが清算の対象だったのだ。——姚復や謝宥に至るまでがその中に含まれている。
「ですが謝宥の支持を失えば、私達だけで江州を押さえるのはとても難しいでしょう。」段岭が言うと、「黒甲軍は天子の命令を聞くのであって、謝宥の、ではない。」と李衍秋が答えた。「お前が謝宥に全て賭けてしまったら、いつか彼も造反した時、どうするつもりだ?
「勿論、彼に手を下さずにすむなら、私もなるべく手を下さないように尽力しよう。彼がお前を一生守りたいと願うなら、それに越したことはない。それができぬのなら、お前はいつか彼と対決する運命にあると言うことだ。」
だがその計画は段岭によって徹底的に打ち破られた。段岭は皇宮へと戻る道の途中で、たくさんの人の命を救ったと言えるのだろう。
「当然ながら、四叔父にしてみたら、そちらはそちらで冒険的な行いだった。」李衍秋は淡々と言った。「あの夜、お前は私に言ったな。牧曠達と韓濵が結託している証拠を探しに行きたいと。あの時、四叔父は、もうこの件は私には制御できない事態になっているのだと思い知らされたのだよ。」李衍秋は僅かに微笑んだ。「お前のお父上が以前言っていた通り、この国家は良くも悪くもお前の物だ。お前が別の道を選んだのは天の定め、これも天意だろう。自分がやりたい方法で、真剣に進み続けるがいい。」
段岭は李衍秋の話を思い返さずにはいられなかった。血が流れた後には、前代未聞の改革が始まる。全ての権力が打ち砕かれて再配分されることになるのだ。
「行きなさい。」李衍秋が言った。「お前のお父上も天上からお前を見ている。ただし、最終的な結果がどうであれ、それにどう向き合うかをよく考えなくてはならないぞ。」
―――
天空では数多の星が降り注ぐようだった。秋の星辰は夜空で煌めき、滔々と流れる長江に輝きを映し、大地を照らす。
夜になったが、蔡閏はもう何日もまともに眠れておらず、足音を聞いてはっと目を覚ました。
上京で勉強していた時、亡国の君主の最後の日々について書かれた書物をたくさん読んできた。兵士が刀剣を執る音、甲冑の鎧がたてるガチャガチャという音、足音、咳こみ、それら全てが必ず訪れる不吉な最後を暗示していた。——死という。
かつては死を恐れなかった。それからだんだんと死が怖くなり始めた。この深宮に身を隠していると、自分の命が囚人籠の中から一滴また一滴と滲み出ていくような気持になる。
まるで妖怪のように。彼の命数が吸い取られていくのに、何をすることもできず、ただ東宮の中で座して死を待つだけだった。座して死を待つその間には、自分が死ぬまでの日を数え、恐怖が影のように近づいて来る。
うまく行っている時には、この暮らしが一生続くようにさえ思え、誰もここまで熟慮された陰謀に気づくはずがないと思っていた。それでも静まり返った夜更けに思い出すと、皇宮を離れ、遠くに逃げて行きたくなるほどの恐怖に追い立てられた。
まるで自分のものでない何かをとろうとした泥棒が手を火傷し、それでもどうにもできないかのようだ。
あの日から、馮鐸は捉えられて、どこかに連れて行かれてしまい、郎俊侠の居所はわからない。孤立無援の蔡閏には全く何もできなかった。
足音がだんだんと近づいて来て、背の高い男の影が入って来た。外では衛士が扉を閉めた。
「話をしましょうか。」韓濵はのんびりとそう言うと、着ていたマントを取って、適当に近くに放った。「ここ数日別のことで忙しく、しばらくあなたに構う暇がありませんでした。」
蔡閏が静かに見つめていると、韓濵が言葉を続けた。「謝宥は既に逃げました。だが近いうちに、彼も姚復も死地に向かうことになるでしょう。もはやあなたを助けられる人は誰もいませんよ。」
韓濵は無遠慮に蔡閏をじろじろと見た。実際、彼はこの日手紙を送り、玉壁関下にいる部隊に増援を要請した。その援軍が黄さえすれば、内城にいる自分たちと両方向から挟み撃ちでき、黒甲軍を一挙に叩き潰せる。
謝宥さえ死ねば、残りは雑魚ばかりだ。姚復と談判して淮陰をそのままにしておくなら、大陳の山河は自らの手中に落ちることになる。
李漸鴻も李衍秋も黄泉の国にいるとあっては、李家の世が今の様な境地に立たされてもどうにもできはしないのだから。
「もう充分だ。」蔡閏は震える声で言った。「もう私を殺してくれ。」
すると韓濵は少し意外そうに、蔡閏を目測した。「なぜそんなことを言う?」
蔡閏は震えながら呼吸を乱し言った。「私は元々ここに居るべき人間じゃない。あれは気の迷いだった。今になって私も悔やんでいる。韓将軍、あなたの考えた通りだ。私は大陳の太子ではない。本当の太子は、あなたが思ってもみない場所にいる。牧曠達でさえまだ気づいていない。」
韓濵は再び尋ねた。「あんたは一体何者なんだ?」
蔡閏は苦し気に唾を飲み込んだ。「私が誰かが重要か?私の家族は皆死んだ。九族誅そうにも、誰もいない。問題はあなただ、韓将軍。あなたはいま大変なことに直面しているとわかっていない。謝宥や姚復は最後の切り札を握っていて、あなたが天下に私の正体を明かすのを待っているのだから。」
韓濵は僅かに目を細めた。
蔡閏は笑い出した。「約束してくれ、彼が戻って来る前に、先に私を殺すって。そうしたらあなたにこれまでの一切をお話ししよう。」
「言ってくれ。」韓濵は傍らに腰を下ろし、まるで彫刻のようにどっしりと構えた。
―――
夜が明けた時、段岭は一人、川の前に立っていた。今日の江州は厚く雲が垂れ込めて、一種の心穏やかならぬ空気を醸し出していた。
昨夜、李衍秋の話を聞いてから、段岭はずっともやもやした気分になっていた。李衍秋が簡単に言ってのけた計画はただの方向性で、本当に老臣を粛正するつもりなら、当然次にはそれに対応する計画が無くてはならない。さもなくば自分で担う荷がよけい重くなるだけだ。
歴代のどの王朝でも、帝君が権臣や功臣を抹殺すると言う例はある。大虞王朝時代には、ある秋の宴で、席上の老臣たちが焼き殺されたことがあった。ただし、その機会は外戚たちによってもたらされたもので、数年かけてじっくりと練られた政変だった。そして最後には地方に出されていた太子が軍を率いて戻ってきて皇位を取り戻したのだった。
「もし殺さなかったらどうなるだろうか?」
武独が薄暗い日の光をあびながら歩いて来た。「もう出発の準備をしないと。まだ四叔父上の話を考えているのか?」
段岭は、うん、と声を出しながら、振り返って武独を見た。そして互いに立ち止まって黙ったまま見つめあった。武独は段岭をじっくりと見つめて、「痩せたな。」と言った。
段岭が言った。「これが終わったらあとはもう大丈夫。」
「だけどまだよく考えていないんだろ。」武独が言った。
「そうだね。」段岭が言った。「私はもう誰にも道案内をしてもらえないところまできてしまったんだ。かつて父でも成し遂げられなかったこともそこにはある。」
「時々お前は牧相の方に良く似ていると思うことがあるぞ。」武独が突然笑い出した。「さすがは彼からたくさん学んだだけのことはある。」
「彼と四叔父上の望みは同じなんだ。」段岭が言った。「二人がそれぞれの立場でやって来たこともやはりよく似ている。ただ牧相はすごく忍耐強くて、何もかも彼の計画通りに推し進めたがる。それに対して四叔父上と父さんは、雷を落すのと同じような手段を使いたがる。一と言ったら二ではない、敵を千人殺すためには八百の味方を失えるんだ。」
非天夜翔 相見歓 第211章ー第215章
第211章 出迎え
中秋に出す料理の品書きが上がってきたので、段岭は一通り目を通し特に異議なしと印を押した。とはいえ、その場で落ち着いて食事ができる者などいるのだろうか?まあ、色々考えたところでもう遅い。
「もう寝ろ。」その日の夜、武独が言った。「早く寝て、明日の夜は食事もしておけ。」
明日の夜は混乱に乗じて探し物をしに行くのだから、ということらしい。そこで二人は早めに就寝し、翌日の午後に寝室を出た。この日、江州は李衍秋の喪に服すため、慣例に従って役人たちに休日を与えていた。
牧磬は段岭を蹴鞠に誘い、二人は午後中遊び続けて、段岭は汗だくになっていたが、ふとある事を思い出して牧磬に尋ねた。「昨年の中秋節に貼り出した詩ですけど、確かもう一巻ありましたよね。あれはどこにあるのですか?」
「みんな書閣の後ろに束ねてあるよ。」牧磬が言った。「探してきてあげようか?」
「いえ、そう言えば手紙が一通あったのを思い出しました。」段岭が言った。「武独が潼関から届けて直接牧相にお渡ししたはずなのですが……。」
「密書なの?」牧磬が言った。「密書だったらきっと長聘先生の方に行ってると思うけど。」
「江州に持ってきているのですか?」段岭が尋ねると、「きっと持ってきているはず。」と牧磬が答えた。「引越しの時、大きな箱を運びこんでいるのを見ていたから。密書なんか探してどうするの?」
「いえ別に。」段岭は聞きたかった言葉を飲み込んだ。「潼関から持ち帰った物の中には貴重品もあったことを思い出しただけです。その内誰かに取りに行かせます。」
「書閣はぐっちゃぐちゃになっているぞ。」牧磬が言った。「古い書簡が山になっていて、そう簡単には見つからないと思うよ。急いでいるなら今日、一緒に探しに行ってあげるけど。」
段岭は手を振った。「お父様には内緒にして下さいね。お金が出てきたらそのまま使いたいと思っているので。」
すると牧磬は頷いた。(段岭が牧磬を利用するシーンが本当に嫌いだ)
そこへ、お席が用意できましたと僕役が知らせに来たので、段岭は庭園の方に足を運んだ。
庭には宴卓がまっすぐ二列に置かれていた。主賓席は空席になっている。そこが帝君の席で、その隣が蔡閏の席、蔡閏の後ろには郎俊侠の席がある。左側の最初の席には「謝」と書かれた木牌が置かれていて、その次には、順番に蘇、韓、程等、役人の姓がある。
右側には、上座に牧曠達、次に黄堅、段岭、牧磬等とある。
蔡閏や他の者たちはまだ来ていなかった。服が汗で湿っている段岭は座って風に当たりながら、僕役の出した茶を片手に牧磬と二人で小声で話をしていたが、「あなたは牧相の所に行ってください。」と段岭は小声で言った。(ここで牧磬退場)
名義上、段岭は太守で武独は校尉、階級は同じだ。こうして牧曠達が席を設けたということは、段岭がいることは公開するつもりなのだろう。
鄴城太守の身である段岭が、都に戻ってからも礼部に報告に行かず、直接牧府に姿を見せるのは本当は規則違反だ。だが牧曠達がこう手配したなら何か言い訳が用意してあるのだろうと段岭はあまり心配しなかった。
それよりも向かい側に座る韓濵だ。段岭はまだ彼に会ったことがなかったが、これでじっくり見ることができそうだ。
管家が武独に何か告げに来た。牧曠達から指示があるらしく、武独は立ち上がり彼の所に向かった。
庭園に秋風が吹き、夕日が黄金色の光を辺り一面に流し込んできた。
最初に現れた人物は何と鄭彦だった。鄭彦が入って来ると、僕役たちは皆一斉に腰を折って席まで案内しようとしたが、鄭彦は手を振ってついて来ないでいいと断った。
「まさか鄭大人が最初にお越しとは。」段岭が言うと、
「まさか王大人が先にお越しとは。」鄭彦はそう返して、互いに笑いあった。
牧府での中秋の宴という形を取っているが、実際には皇宮賜宴の礼節に則った会だ。李衍秋の服喪中という事情で場所を牧府に変えたに過ぎない。
鄭彦はまず厨房の食材を調べ、周囲の安全を確認して、辺りに誰もいないことがわかると、段岭の所に来て、彼の近くに腰を下ろした。
「姚候は来ないの?」段岭が小声で尋ねると、「来る。」と、鄭彦は段岭に顔を向けて答えた。
「太子の近くの席につく。」
「四叔父上は?」段岭が尋ねた。「誰も彼の所にいないの?」
「今夜はみんなここにいるからな。」鄭彦が答えた。「大丈夫だ。梓風と阿衡が付き添っている。あの二人の武功はかなりの出来だから心配しなくていい。」
段岭はどきどきしながら、「何か言っていた?」と尋ねた。
「全部終わったら、君と月見に行きたいってさ。」鄭彦は軽くそう言うと膝に手を当てて立ち上がり、辺りの様子を調べに行った。そして庭園の入り口を通り過ぎたところで、ふと外に目をやった。「随分早いお越しだな。」
言い終える前に現れたのは郎俊侠だった。青い武袍に身を包み、玉樹臨風を地で行く凛々しさだ。彼は園外で足を停め、少しためらった様子だったので、段岭は、「どうぞお入りください。」と声をかけた。園に入ってきた郎俊侠は、園内に誰もいないのを見て、一通り席を確認してから、段岭の傍にやって来た。僕役が灯籠に点灯すると、郎俊侠は段岭の頭の上にある灯籠を少し調整して、彼の顔に光が当たらないようになおした。
「殿下はもう出たのか?」鄭彦が尋ねると、郎俊侠は「姚候と一緒に宮を出る。一炷香(三十分)くらいで着く。」と答えた。その時足音が聞こえ、昌流君と武独が回廊を通り、庭園に入って来た。四人が一か所に集まったが、誰も何も言わず、その場は少し気まずい雰囲気となった。昌流君は鄭彦を一瞥した後、郎俊侠に目をやった。
最後にはやはり段岭が口を開くことにした。「昌流君が戻って来たけど、みんなこれまでのことは水に流してほしい。過去に何があったとしても、私に免じて取り合えず忘れてほしいんだ。全部終わってから彼を痛めつけても遅くはないでしょう。」
最初に笑い出したのは鄭彦だった。「俺は元々この男に特に恨みはないからな。」
「牧相は何だって?」段岭が武独に尋ねた。
「黄堅は用事が出来て遅れるそうだ。だからお前に客を迎え入れて席に案内してほしいそうだ。」
段岭は了解して立ち上がり、四人の刺客は彼の後ろに付いて行って園内の入り口付近に控えた。
「謝将軍、ご来訪——。」
丸い明月が大地を明るく照らし始めた。
今日の謝宥は武官服に身を包んでいる。彼が最初の客とは意外だった。謝宥本人も意外そうだ。彼らは互いに視線を交わした。「謝将軍、どうぞこちらへ。」段岭が笑顔で言った。
「どうやら少し早すぎたようだな。」謝宥が言うと、「そんなことはありません。」と段岭が言った。「どうぞおかけください。」
「次の客を迎えに行ってくれ。」謝宥が言った。「私などに構わずに。」
「韓将軍、ご来訪——。」
段岭は深く息を吸って立ち止まり、一人の中年男性が三人の部下と共に院に入って来るのを見た。男性は、襟もとに金の刺繍を施した黒に近い暗紅色の征北軍武官袍を身につけていた。武独の着ている黒に近い錆青色の征北軍武官袍と作りが似ていて、一見した感じでは何だか親近感が感じられた。
「お前たちはもう酒を飲みに行きなさい。」韓濵は部下たちに言った。
「韓将軍。」段岭は笑顔を見せた。
薄暗い中で、韓濵は段岭の容貌をじっと目測した。「君は牧磬ではないようだな。」
「在下、王山と申します。」段岭が言った。
「君だったのか——。」韓濵は朗らかに笑い出した。「少年英雄の!」
韓濵は段岭の肩をぽんぽんと叩いた。互いに色々思い返し、段岭は一瞬で、はっとあることに気づいた。——
昨年元人が鄴城を攻撃して来た時に、段岭は韓濵に手紙を出し、韓濵は軍を率いて急襲をかけ、元軍の退路を断った。今思えば、あの頃からきっと韓濵は牧曠達と利益供与していたのか。だからこそ、手紙を読んで、あんなに素早く反応したのだ!
「謝将軍!」韓濵は謝宥に気づくと前に進み出た。謝宥が頷き、韓濵は、「どうぞ」という仕草をして、二人で雑談を始めた。謝宥は段岭に視線を送り、自分がうまくやるからと伝えて来たので、段岭はその場を去ることができた。だが、去ろうとする段岭を見て、韓濵は何かを思い出したように見えた。
「なぜか王山にはどこかで会った気がするんだがなあ。」韓濵は笑いながら言った。
そう言われ、段岭は庭園の前まで戻ってから、ついつい振り返らずにはいられなかった。
「韓濵はお母上に会ったことがあるのだ。」段岭の後ろについてきた郎俊侠が小声で言った。
他の者は何も言えなかった。
「私が誰かわかったのかな?」段岭が言うと、「そうではないだろう。」と郎俊侠が答えた。
「わかったのなら、ああいう反応はしないはずだ。」
(そりゃ、軍営に絶世の美少女が来たらみんな覚えているだろうな)
「内閣の人間が来たぞ。」武独が言った。
「蘇大学士ご来訪——。」
蘇閥は段岭を見ていぶかし気に言った。「王山?なぜ戻って来たんだ?」
「急に戻ってきてしまいました。」段岭は笑顔で言った。「今日ついたばかりで、礼部にはまだ報告していませんが、明日一番に行こうと思っています。」
蘇閥は、フンと鼻を鳴らし何も言わなかった。やりたい放題だな、とでも言いたそうだ。
「太子の御なり——。姚候ご来訪——。」
先触れの声と共に、蔡閏と姚複の会話が聞こえて来た。声はだんだんと近づいて来る。蔡閏はまだ笑ったり話したりしていた。
「今年の月は、例年より丸く見えるな。」蔡閏が言った。「『人に悲歓離合あり』と皆言うが……。」
姚復と蔡閏は足を停め、姚復は蔡閏に前方を指した。
蔡閏は視線を巡らせ、段岭と目が合った。二人は一瞬互いに黙り込んだ。
「『人に悲歓離合あり、月に陰晴円欠あり。』」段岭は微笑みながら言った。「『どちらも得ること古きより全き難し。』」
蔡閏:「……。」
涼風が通り過ぎ、ぞくぞくとした寒気を引き起こした。互いにあの年の上京の秋に引き戻されたかのようだった。
「戻って来たのか。」蔡閏が言った。
「遠き鄴城にて、陛下御崩御の報せを受けました。」段岭は厳粛かつ感情を抑えた口調で言った。「しばらく泣きくれておりましたが、追悼に間に合うようにと武独と夜を徹して走り続け、今日ようやく着いたばかりです。」
馮鐸は姚復に言った。「こちらは王山大人です。恩科で探花郎となり、陛下直々に河北太守に任命されました。」
姚復は目を糸のように細めて笑った。段岭は「殿下どうぞ、姚候どうぞ。」と言った。
段岭と出くわす場面をあれこれ想像しつくした蔡閏だったが、まさか中秋夜に牧曠達府で会うとは思っていなかった。実の所、段岭が江州を離れて以降、今ほど彼を恐ろしいと思ったことはなかった。まるで、「王山」という名が人に恐怖を与える名前に変わったかのようだ。
彼はだんだんと色々なことから逃げるようになり始めていた。果ては、段岭ももう江州には戻らないのかもしれないと望むようになった。例え南方に知らせが届いても、目の前にいなければ、平気だと思えるほどに。
だがこうして再び顔を合わせた今、蔡閏は体全体が思うように動かなくなってきていた。
まるで体中の一寸一寸から恐怖の叫びが溢れ出て来るかのようだ。
「烏洛候穆?」蔡閏は沈んだ声で名を呼んだ。
郎俊侠は隊列を離れて、蔡閏の後ろに行き、腰を下ろした。同時に鄭彦も姚候に付き添いに行き、段岭は名簿を見て、ほとんどの客を迎え入れたことを確認した。後は牧曠達を呼びに行かせれば、開宴だ。
第212章 開宴
牧磬が先に来て、客たちに挨拶した後、段岭の隣に座った。それからすぐに、今度は黄堅が急いでやって来て、客人たちに遅刻を詫びた。本当にギリギリちょうど間に合ったようだ。
黄堅は段岭を見ると、力を込めてぽんぽんと叩き、それから牧曠達の一つ下の上座に腰を下ろした。
それから、牧曠達が穏やかな笑顔を見せてやって来て、園内を見回して笑顔で言った。
「遅くなりました。殿下や各位大人をお待たせして、罰として三杯飲むことにしましょう。」
「牧相、あなたの肝っ玉は大きくなるばかりですな。」韓濵が笑いながら言った。「我らを待たせたのはともかくとして、殿下をこんなにお待たせするとはどういうことです?」
蔡閏がいいから、いいからと手を振るので、一同は再び笑い出した。
牧曠達は席につく前に、三杯の酒をあおり、飲み終えてようやく腰をおろすと、言った。
「本日は予期せぬことが起こり、片付けるのに時間を取られました。どうぞお許しください。」
「ほお?」韓濵が笑顔で問いかけた。「何を片付けていたんだ?」
牧曠達も笑顔で、「些細なことです。」と答えた。
「ここ数日、牧相にはご苦労なことだったな。」蔡閏が一杯捧げると、一同もそれぞれ杯を挙げて牧曠達に捧げた。牧曠達はもう一杯飲むことになり、空腹に飲酒で、少しくらくらしたように頷いたが、言葉は出さなかった。婢女が新しく酒を置いた。
段岭は蔡閏を観察し、顔色が随分悪いことに気づいた。自分がいて驚いたためなのか、最近ずっとピリピリしっぱなしだったからなのか。憔悴した様子で、杯を捧げている時でさえ、どこか上の空だ。段岭には時々本気で蔡閏が話をするのを手伝ってやりたくなる時がある。
以前から感じていたのだが、彼は言うべきことを言わず、言うべきでないことを言って馬脚を現わしそうになる。こういった大臣たちはそれぞれが虎か狼のような輩だ。本当に彼を捉えたければ、一瓶でもどんどん飲ませ続ければ十分だ。
例えば今のように。太子の身であるのなら、中秋夜宴の群臣たちと、少なくともまずは祝杯をあげるべきなのに、なぜに先ず宰相に杯を捧げるのか?
幸いにも蔡閏の後ろから馮鐸が小声で何か耳打ちし、蔡閏は順番を間違えたことに気づいたようだ。そこで咳ばらいをすると、「もう一杯。」と言った。
すると婢女たちがもう一度酒を注ぎ、それぞれの卓上には二杯の酒が並ぶこととなった。
「ここに来る途中、姚候と昨年の中秋夜のことを思い起こしていた。更にもっと前に父上がいらした頃の上京での中秋のこともだ。世の中は無常とはいえ、少なくとも人は長く久しくあればと思う。」
小声で話していた者も黙り込んだ。月下は一片の明媚で、一切が静まり返る中、桂花の香気が漂ってくる。
「だが、人に悲歓離合あり、月に陰晴円欠あり、と言うように」蔡閏が言った。「古きより全き難しことだ。七月は私にとっては一番つらい想いをした月である。幸いにも皆の者のおかげで、こうして歩み続けることができた。」
蔡閏はそう言うと、酒杯を掲げた。「もしかしたら、孤独な一生を送ることは我が天命だったのかもしれない。」
段岭はその言葉を聞いた時、思わず武独の方に目をやった。武独は僅かに微笑み、杯をとって、段岭に向けた。その仕草は言葉にならない多くを語っていた。その瞬間、段岭は感じた。たくさんの風雨を通り抜けて来たけれど、自分は蔡閏よりずっと幸せに生きてきたのだと。
「来年の今日も、こうして生きていることを願い、この一杯を我が父皇と四叔父上の御霊に捧げる。」
蔡閏は酒を地面に注ぎ、一同はそれに倣った。
「殿下の御身には尭舜の徳が備わっております。」蘇閥が朗らかに言った。「必ずや大陳を支え、治世を恢復できましょう。」
「だがそのためには、皆の支えが必要だ。」蔡閏は僅かに微笑み、「次の一杯は各位に捧げよう。」と言った。
皆それぞれ杯を掲げ、飲み干した。蔡閏は話を続けた。「その最たるは我らが北の辺境を鎮守する将士たちだ。河北から昨年届いた報告には、胸をなでおろすことができた。」
すると韓濵が言った。「牧相は素晴らしい徒弟らをお持ちですからな。」
その言葉に皆笑い出した。蔡閏は段岭に向かって言った。「お前たちの立てた戦功に鑑み、許可なき戦闘後の事後報告や、急な帰還には罰は与えぬこととする。二十二日が過ぎたら、再び河北での守りについてくれ。」
それが蔡閏から自分への警告であることが段岭にはわかった。帰還中に何かおかしなことをするんじゃないぞ、という。この期に及んでも、まだ彼は一縷のお気楽な望みを抱いているのか。——自分を河北に送り、みんな幸せに暮らしました、のような。
そんなことは到底あり得ないだろう。何の支えもないのなら元々戻って来るわけがないのだから、こうして戻って来たからには、蔡閏の出す条件など受け入れるはずがないではないか。言わんとしていることが幼稚としか言いようがない。
そんなことを考えていると、黄堅はが彼をつついてきた。それで段岭は蔡閏がまだ返事を待っていることに気づき、仕方なく簡潔に答えた。「謹んで陛下の旨意を遜守致します。」
本来なら、『殿下』と呼ぶべきところだが、段岭は考えた。『そういうことなら、おべっかの一つも言ってやるよ。喜んでくれたら幸いだ。』
蔡閏には今の言葉が本心か否かわからなかったが、そう呼ばれて取り合えず笑い、呆れたように首をふった。すると牧曠達の方も特に訂正もせずに笑顔を見せた。「こちらは韓将軍だ。お前は彼に手紙を送ったのだろう。」
「先ほど気がつきました。」韓濵が言った。「武独と王山は河北を引き継いでから続けざまに二度も戦った。実に容易ならざることだ。さあ、本将軍は君らに一杯捧げよう。」
「外地に赴き国家を衛る。」謝宥が突然言った。「色々とままならぬことも多く、大変だったろう。本将軍も君らに一杯捧げる。我が大陳辺境が確固として守られ、二度と上梓の辱を繰り返さぬように。」
段岭と武独は急いで襟を正して酒を飲み干した。気づけば蔡閏は馮鐸と何か相談し、話し終えると酒杯を持ったまま、何か言いたげな表情をしている。きっともう席を離れて皇宮に帰りたいのだろう。それから彼は牧曠達に視線を移した。この後どんな手にでるつもりなのだろうか?
すると牧曠達は体をひねって昌流君に何か告げ、昌流君は立ち上がって菅家に知らせに行った。段岭は胸がドキドキし始めた。彼はどう蔡閏に対峙するのだろう?
だがしばらくしてから、次に口を開いたのは姚複だった。
「先ほど殿下はたった一人で孤独だと仰いましたが、」姚複は酒杯を置いて、声をたてて笑い始めた。「私はそうは思いませんぞ。殿下、人生とはそういうものです。天はあなたを一人きりにはしないはずですよ。」
「そうだな。」蔡閏は少し感慨深げに言った。「まだ五伯母上と姚候がいてくれる。」
「いえいえ。」姚複は酔った顔で皆に言った。「ここに来る前に本候はいい知らせを得ましてな、是非皆さんにお知らせしたいのです。きっと喜んでいただけると思いますよ。」
段岭はドキッとした。姚複が言おうとしていることが分かり、さっと蔡閏に視線を移した。彼が表情を激変させる瞬間を見逃さないために。一同は少しいぶかし気に姚複を見た。
「姚候はじらそうとなさるのは、おやめ下さい。」牧曠達が言った。「ふざけていい話ではありませんので。」
牧曠達がそう言ったことで、一同はみな警戒し始めた。姚複と牧曠達が知っていて、言おうとしない話とは何だろうか?
すると姚複が言った。「三日前、太和宮から知らせがありました。吉夢征蘭(懐妊)ですよ。公主自ら太后の脈を診て、確かめたので間違いありません。」
それを聞いて一同は驚愕した。蔡閏は一瞬で青ざめ、馮鐸でさえ、途方に暮れた表情となった。だがそれは一瞬で、蔡閏はすぐに表情を変えて、笑顔を見せた。
「本当ですか?」蔡閏は半ば悔し気に、半ば感慨深げに首をふった。「まさか、全く予想外だった……。」
だが謝宥は僅かに眉をひそめて牧曠達を見た。一時席上の全員がそれぞれ違った表情をしていた。お祝いを言いたいが、それを言うべきなのか迷うような、その場はなにやらとても気まずい雰囲気になってしまった。
「おめでとうございます。」最後には段岭が蔡閏に向かって祝いの言葉を述べた。
「殿か姫か、どちらにしても陛下には弟妹ができますね。」(いとこだろうになあ、)
「おめでとうございます。」皆それぞれ声を出した。韓濵でさえも意外だったようで、抱拳し、牧曠達にも言うべきか迷った末に、やはり蔡閏に祝いの言葉を述べた。
だが蔡閏を祝ったところで、牧錦之が身ごもった子は別に彼の子供ではない。万が一皇子であれば、いつか地位を奪われることになるのではないのか?当の蔡閏は牧曠達を祝うことになったが、とても気まず気に何となく拱手したにとどめた。
段岭にしてみればおもしろくてたまらない。蔡閏の顔をじっと見つめてその表情を楽しませてもらった。蔡閏は少し不満げに牧曠達に言った。「孤はその件は知らされていなかったが。」
牧曠達は言った。「三日前に知ったばかりなのです。本来なら黄錦にて布告し、天下に昭知すべきですが、姚候は隠し事ができずに、先に報告してしまいました。さあさ、まだ何もお腹に納める前に五杯も先に飲んでしまいました。まずは熱いうちにお召し上がりください。」
その言葉と共に、僕役が次々に青と白の磁器の碗を持ってきてそれぞれの卓上に置いた。大きな器に並々とよそわれたのは薄皮に餡がたっぷり入った雲吞だった。上から胡麻と砕いた落花生がかけられていて、油の小さな幕が浮かび、汁の底には雪菜が入っている。
段岭:「……。」
牧曠達が言った。「殿下、どうぞ。各位、どうぞ。」
蔡閏は、心ここにあらずな様子でつゆを飲んだが、段岭は怯んだように雲吞を見つめ、それから、郎俊侠に目をやった。自分を潯陽から連れ出してくれたあの夜、彼が路地で一杯の雲呑を食べさせてくれたのを思い出した。
こんなに月日が経ってからでもあの時食べた雲吞の味を忘れたことはなかった。天の果て地の彼方まで行った後でもあんな味は食べたことがなかった。
鄭彦の作る汁物は新鮮で麺が紙のように薄いが、やはり少し一味足りない気がした。;天下第一亭の雲呑はほぼ透明なほどで、選び抜かれた新鮮な蝦を使っているが、それでも特別な何かがどうしても足りなかった。この雲吞にはあまりにも多くの思い出があった。一口食べた瞬間に、潯陽の段家を思い出してしまうような。飢え死にしそうなまでにお腹がすいていた時、一抹の夕日の黄金色の光が体を照らし、路地にはもう輪郭もぼやけてしまったあの人が立っていた。
その人は永遠に心の中に影を落とし続けている。郎俊侠や、李漸鴻、武独と同じく、生命というものの一つの象徴なのだった。
最初の一口を飲み込んだ瞬間、段岭は鼻の奥がつんとして、涙がこぼれそうになってしまった。そして同時に彼には牧曠達の本当の一手が何であったのかを知った。
席上の人々は皆先ほどの衝撃から思考が戻っていなかったが、牧曠達は彼らに問いかけた。
「殿下、並びに大人各位、この雲吞のお味はいかがですかな?」
「中々だな。」蔡閏が答えた。「つゆが新鮮でいい味だ。」
蔡閏は汁を二口と雲吞を一つ食べただけでもう箸を動かさなかった。姚複が言った。「このくらいの腕前なら、鄭彦の技にもすぐに追いつけそうですな。」
それを聞いて一同は笑い出した。韓濵が言った。「姚候は大きく出ましたな。これでもただ『追いつける』程度だとはね。」
天性の食通である姚複は評した。「食材の的確さ、諸味の和合、肉、魚、蝦、生姜汁、雪菜や落花生粉や胡麻と魚骨だし汁の調合については、確実に鄭彦の技術には及びません。だが、火加減、茹で加減、皮作り、包丁さばきを見る限り、作り手は一生この料理を作り続けた人でしょう。」
「時には人の一生は何か一つのものを作るためにあるのかもしれません。」段岭が言った。「聖人の言にもあるように、大国を治めるのは小鮮を烹るが如しです。一生魚を煎る者もいれば、一生国を治める者もいる。全てはかくの如し。一生を雲吞作りに捧げるのも同じですね。」
皆その話を聞いて頷いた。段岭が言ったのは最も初歩的な道理であり、席上の誰もがとっくに知っていることではあったが、この言葉はいつ話題にしても飽き飽きされるということはない。大道とは何度聞いても心の中に敬服の念を抱くものなのだろう。
「だから料理の腕前という点では、鄭彦もまだまだ及ばないということだな。」姚複がそう言って少し顔を向けると、鄭彦は頷いて教えを受け入れた。
(私生児の鄭彦が料理上手なのはパパの気をひくためだったのかな。)
第213章 銭七
蔡閏はつゆを飲みながらも少し上の空だった。
そこへ牧曠達が言った。「実は今日ご用意した吉報は他にもございます。」
「他にも?」姚復は既に種明かししたつもりだったのに、牧曠達が他にも何か用意しているとは思っていなかったようだ。「牧相、あまりみんなをからかわないで下さいよ。」
すると牧曠達は答えた。「まあ吉報というほどのことでもないのですが、実は昔馴染みを探し出すことができたのです。」
さあ、牧曠達がとどめを刺しにかかったぞ、と段岭は思った。
「昔馴染み?」蔡閏はすぐに何かおかしいぞ、と思ったが、牧曠達を見ることはせず、視線をさっと段岭に向けた。
だが段岭は横を向いて牧磬と何か話をしていた。
「ちょっと私は武独と席を外して来ます。」段岭が言った。
「何をしに行くんだ?」牧磬が尋ねた。
段岭は答えた。「費宏徳先生と少し杯を交わして来ます。できればあなたには私の代わりに……。」
牧磬は費宏徳が鄴城から来ていることは知っていた。だが来てからも段岭は彼と何も話をしないのでひょっとしたら少し苦手であまり接しないようにしているのかと思っていた。それでも中秋夜ということで、やはり少しは会って来ないとと思ったのかもしれない。
ちょうどその時、昌流君が一人の老人を園内に連れて来たのに気づいた段岭ははっと視線を送った。やはりあれは銭七だ!
銭七はまだ生きていた。昌流君が江州に連れ戻してからずっと牧府に隠れていたのか。一方、席上の面々はおそらくこの人物が過去のできごとに関係があるのだろうと勘ぐっていた。
昌流君が「こちらにどうぞ。」と言った。
「どこにいるのだ?あんたが言っていた子供は、彼はどこにいるのだね?」目が見えない銭七は手を上げて周りを探っていた。
突然のできごとに蔡閏は少し反応が遅れ、それを見た段岭は、これでもう蔡閏は終わったと思った。
「殿下は彼を覚えておられますか?」牧曠達が笑顔で言った。
その問いに蔡閏はたちまち慌てて上京時代のことを思い返したが、こんな人物のことは思い出せなかった。すると短い沈黙の跡、馮鐸が笑いながら言った「こちらは殿下の古いお知り合いなのですか?いったいどこから探してこられたのですかな?」
「落雁城です。」牧曠達が答えた。「あれから随分時間がたっておりますが、大変な苦労をして、上京や中京、果ては落雁城まで探して、ようやく見つけ出せたのです。」
蔡閏は難しすぎる選択を迫られていた。——徹底的に否定するか、潔くわかったふりをするか。一瞬の後に蔡閏は心を決めて、思い出したような風を装い、言った。「ひょっとして上京にいた……。」
「あなたは誰ですか?」銭七は戸惑ったように尋ねた。
「こちらは以前潯陽におられた方です。」昌流君は立ち上がって、牧曠達の背後に行き膝をついて座りながら答えた。「段家の路地で雲吞を売っていたご老人です。牧相は殿下が子供の頃、彼の雲吞が大好きだったと知って、苦心して見つけ出したのです。」
蔡閏は郎俊侠に目をやり、笑顔で頷いた。「そうだった。確かにそうだったな。」
「今召し上がった雲吞はこの老人の手作りです。」牧曠達は微笑みながら言った。「殿下は彼の名前を憶えておられますか?」
その瞬間席上は静まり返ったが、蔡閏は気まずそうに笑いながら、「あの頃は戦乱が続いたせいであちこち転々として、だんだんと記憶も薄れてしまったよ。」と言った。
郎俊侠は終始無言のままだった。
「七公(チーゴン)ですよ。」銭七はだみ声で言った。「あんたもよく知っている銭七公だよ。段岭。思い出したかい?」
銭七は手を伸ばして蔡閏の手を握った。蔡閏は不安と恐怖でいっぱいの顔に何とか笑顔を張り付けた。「チーゴンか。ずいぶん久しぶりにお会いした。」
一同は無言のままこの光景を見守った。
「あの夜、あんたが出て行った後、何が起きたか知っているのかい?」銭七が言った。
「出て行ってからは戻ったことがなかったので。」蔡閏はため息をついた。「あれから段家はどうしていますか?」
「あんたが出てった夜に火をつけられてね。」銭七が言った。「段家は上の者も下の者も全員殺されてしまったのだよ。」
段岭:「……。」
蔡閏:「……。」
間違ったことを行ってしまわないように蔡閏はもう何も聞きたくなかったが、銭七がため息をつくので相槌を打たないわけにはいかなかった。「誰がそんなことを?」
「さあね。」銭七が言った。「みんなあんたは偉い役人の息子で、父さんに連れて行かれていい暮らしをしていると言っていた。噂では段家があんたにひどい扱いをしたから、あんたの父さんがやり返したんだと言っている。段家四十七人全員が焼け死んだのだよ。」
「なぜそんなことを?」段岭が突然口を開いた。
銭七は段岭の声を聞いたが、既に声変わりして子供の頃のような澄んだ声ではなかった。
段岭は銭七に尋ねた形をとったが、その目は郎俊侠の顔に向けられていた。ここにいる全員の中で、段岭と郎俊侠だけが、段家全員を殺したのが誰か知っていた。
それは郎俊侠以外にあり得ない。段岭は今でも覚えていた。あの雪夜に郎俊侠の服は乾いていて、焦げ臭いにおいがしていたのを。
「殿下は以前は段という姓だったのですか?」段岭が突然尋ねた。
「母の姓が段だ。」蔡閏は一同に向かって言った。「母はかつて北方で父とは離れ、潯陽に戻って私を産んだ。その後で、烏洛候穆が迎えに来て私を上京に連れて行き、父と会わせてくれたのだ。」
皆がそれぞれ頷くと、再び蔡閏が言った。「七公、道中ご苦労だった。馮鐸、七公には不自由なく暮らしてもらうようにしてやってくれ。」
馮鐸は了解し、銭七を連れて行こうとしたが、銭七は言葉を続けた。「段岭、あの頃あんたが逃げ出そうとして、足を折ったのを七公が助けてやっただろう?」
「覚えている。」蔡閏は銭七の手を牽いて言った。「あれから何日も床についてなくてはならなかった。」
「段家はあんたを治療せず薬もやらなかった。」銭七が言った。「あんたを薪小屋に閉じ込めて何も言わせないようにした。あの後王家の王小って子が焼餅を買って、薪小屋にいるあんたにこっそり届けてやっていたな。やっぱりあんたは運がよかったから、病気になったりもしないで……。」
「うん、そうだな。」蔡閏は舌打ちせんばかりだった。
「罪の報いだよ、罪のね。」銭七が言った。「段家は罪の報いを受けたのだ。あんたみたいな子をあんな風に扱って。あんたの母さんがあんたを身ごもってた時にもよく女中にこの爺さんの雲呑を買いに行かせて食べていたっけね……。」
「殿下はお疲れです。」馮鐸は聞けば聞くほどこれはまずいと思って、蔡閏がまた何かしっぽを出す前に急いで言った。「今夜はここまでにして、殿下が落ち着かれてからまたゆっくりと旧交を温めましょうではありませんか。」
「孤は先に皇宮に戻るが、皆はそのまま楽しんでくれ。」そう言うと蔡閏は立ち上がり、それ以上何も言わずに一同に向かって頷くと、馮鐸と郎俊侠に護衛されて帰って行った。
卓の上には殆ど手つかずの雲呑が残され、既に冷たくなっていた。
段岭と牧磬も立ちあがって席を離れたが、牧曠達はそれを見ても特に何も言わなかった。きっと二人だけでよそに飲みに行くのだろうと思ったようだ。武独はその様子を横目で見送った。
「園を閉めて来なさい。」牧曠達が言った。「大人の皆さん、本相にはまだご相談がございます。武独、そこにいなさい。」段岭について出て行こうとした武独は、そう言われて再び腰を下ろした。
「武独、この件についてお前はよく知っているはずだ。お前から話をしなさい。」牧曠達はため息をついた。「お前が諸大人にご説明するのだ。かつて太子が帰朝された時、最後にその身分を裏付けたのはお前なのだから。今になって何かおかしいと思うことがあるのなら、鈴をつけた者が鈴を外すべきだろう。」
武独は眉をひそめ暫く考え込んだ。牧曠達は自分の口から言わないつもりなのか。正に狡猾至極なことだ。
「丞相。」蘇閥がついに我慢できずに口を開いた。「それは一体どういう意味なのでしょうか?」
牧曠達は何も言わなかった。この討論は数年前太子が帰朝した時に既に行われたことだ。今も当時の面々がおり、いなくなったのは李衍秋だけだ。
「かつて烏洛候穆が太子を連れて戻ってきた時に、出生届と玉璜を持って来た。」蘇閥が言った。「上京での証拠もあった。理屈の上ではそれが本物なら人も偽者ではなく、それが偽者なら、人も本物ではないということになる。既についた話を何度も引き戻すべきではなかろう。」
「あれは陛下がお決めになったことで、朝野には口出しできませんでした。」牧曠達が言った。「ですが本相は今になってだんだんと感じて来たのです。これには何か内情がありそうだと。陛下は既に他界されましたが、ここ数年、私はいつも心に疑問をいだいておりました。皆さまも今の一幕をご覧になったでしょう。ここには韓将軍も姚候もおられます。蘇大人が証拠が全てだと思われるのは構いません。もし本相が無意味なことをしていると思われるのなら、どうぞそのままで。」
牧曠達にそう言われると、誰も反論できなくなった。
韓濵が言った。「まずは武独の言い分を聞いてもいいのではないか。」
「武独、言いなさい。」謝宥が言った。「あの時太子の身分を裏付けたのはお前だ。それを覆そうとしているのもお前なら、何を根拠にその罪を論じられるかわかっているのだろうな?」
武独は暫く黙った末、答えた。「あの時、烏洛候穆の他には、私だけが、『太子』たる人物に会っていたからです。後から思い出してみると、そこにおかしな点があるのに気づきました。
ですが今夜より前、牧相からそれについて何も言われたことはありませんでしたので。」
武独は牧曠達に目をやった。今夜の突然のどんでん返しについて、牧曠達は武独に一言の相談もなかった。それこそ牧曠達の古だぬきぶりのなせる業だ。おそらくは劇的な効果を狙ったのだろう。普通ならこんな時には、うまく話をまとめるために、事前に口裏合わせをしておくものだが、逆に何の用意もさせないようにしておいたのだ。
「ですが実の所、十年前に太子を刺殺せよとの趙奎の命令を受けたことがありました。」武独が言った。「それを去年の秋、王山と共に上梓にいた時に話したところ……。」
―――
段岭と牧磬が費宏徳のいる偏院に着いた時、費宏徳は一人、庭で月見をしながら中秋の祝い膳を食べていた。紹介はしたものの、牧曠達の手前あまり話ができなかった段岭だが、ようやく牧磬に告げることができた。「この方は長聘先生の師叔なのです。」
牧磬は年長者への礼を拝し、費宏徳に挨拶をした。すると費宏徳は微笑みながら、「あなたはお母上に似ておいでですね。」と言った。
「母さんに会ったことがおありなのですか?」牧磬は好奇心いっぱいに尋ねた。
「かつて西川に来た時に縁あって一度お会いしました。さあ、お酒をどうぞ。二人ともお気遣いをどうも。」
段岭は腰を下ろし、今頃庭園内ではきっと密謀の真っ最中だろうと考えながら、費宏徳に目で合図をした。費宏徳は頷きながら、牧磬に酒をつぎ、牧磬はそれを飲み干した。
「費先生はもう江州に慣れましたか?」牧磬が尋ねた。
「秋になると少し寒くて湿気もありますが、足腰にくること以外は全ていいようです。」費宏徳が答えた。
すると段岭は何かを思いついた風を装い、「ちょうど寒さ除けになる薬がありますので、ちょっと行って先生にお持ちしますね。」と言った。費宏徳は頷き、牧磬と酒を片手におしゃべりを始めた。うまく抜け出すことに成功した段岭は、偏院を離れて回廊に沿い、東側にある書閣に向かった。
第214章 質疑
今夜の牧府は厳重に警備されていたが、庭園での宴に注意が集中していたため、東側の長廊には手伝い人の姿さえなかった。風が長廊を吹き抜けて風鈴がちりんちりんと軽い音を立て、桂花のいい香りが漂う様はまるで隔世のようだった。
だが段岭には美景を鑑賞している暇などなく、長廊を足早に進んで行った。ところが角を曲がったところで危うく人にぶつかりそうになった。なんとそれは郎俊侠だった!
郎俊侠はまだ着替えをしておらず、蔡閏の所を離れてすぐに戻って来たのだとわかる。段岭は無意識に一歩後退した。こんな時に郎俊侠に殺されてしまっては一切が水の泡になってしまう。
「こんなところで何をしているんだ?」郎俊侠が尋ねたので、「探し物をしに。」と段岭は答えた。まだ彼の計画を知らない郎俊侠は黙ったままじっと段岭を見つめた。
一方段岭は「あなたこそどうして戻って来たの?」と尋ねた。
すると郎俊侠が答えた。「蔡閏は正体がばれたのかと気にして、車の中で馮鐸と相談した結果、彼らが出た後で牧相が他の者たちと何を話しているか盗聴するようにと私を遣わしたのだ。武独はまだ庭園にいるのか?」
「うん。」段岭は暫く黙ってから、これはうその情報を伝えるいい機会だと気づき、「後であなたを訪ねて行って、みんなが何を言ってたか教えてあげるよ。」と言った。
「うん。」郎俊侠はにやりとしながら、段岭の表情を伺い見た。
二人で向かい合ってしばらくたっている内、段岭は銭七のことを思い出した。あの吹雪の夜のこと、あの一杯の雲呑のこと、そして死んでいった段家の人達のことを思い出した。
「なぜ段家の人達全員を殺したの?」段岭が尋ねた。
「全員は殺していない。君はまだ生きているだろう?君は彼らを恨んでいないのか?」郎俊侠は段岭の質問には何も答えず、逆に真剣な表情で問い返した。
「なっ……。」
他の人に同じ質問をされたのならちゃんと答えたかもしれない。だがそれを聞いたのが郎俊侠となると、もう答えたくもなかった。
「君は彼らを恨んだりできないだろう。」郎俊侠が言った。「君はいつもそうだった。私のことでさえ許せるのだから、他の人を恨めるはずがないよな。」
「あなたを許した覚えはないけど。」段岭が答えた。
郎俊侠は静かに段岭を見つめた。
「君が私を許さないということは、つまりずっと私を覚えているということだ。」郎俊侠が言った。「それも悪くない。」
(羅宣か)
段岭は答えた。「もういい。私は何もかもあなたから習ったんだ。あなたを言い負かせるはずがないね。」
その瞬間、段岭の心の中には、それまでずっとため込んできた悲しみが沸き上がって来た。郎俊侠には本当に自分と一緒にいてほしかった。彼に対する思いは、武独に対しての渇望に満ちた愛情や苛烈なまでに恋焦がれる思いとは違っていたが、少し尋常ならざるほどの思慕の念を感じていた。かつては郎俊侠の姿を見ていれば安心でき、孤独を感じずにいられたからだ。
だがそうした信頼はもう既に消え失せてしまった。もう以前のように戻ることは永久にないのだ。
ここに至るまでにわかったことがある。人には生まれ持った天性の性質というものがあり、自分の場合、性格的にいつも多くの物事を素直に受け入れられるのがそれにあたる。だが一つだけ、どうしても心に受け入れがたいのは、今目の前にいるこの人物だった。
「君には何も教えていないと思っていた。」郎俊侠が言った。「見たところ、君は私からは何も学ばなかったように思えるのだが。」
「あなたには物事に動じないということを教わった。」段岭は答えた。「何があっても動じない。愛も恨みも是非にだって意味はない。今だってあなたは相変わらず何にも動じない様子だよね。あなたの心の中には、本当に大事なことは何もないのかな?」
すると郎俊侠は「何か探しに来たんじゃなかったのか?こんな所にずっと突っ立っていて、時間が無駄にならないのか?」と言った。
段岭は自分の任務を思い出してため息をついた。「じゃあ、あなたは盗み聞きに行って。」
段岭は郎俊侠の肩を掠めてすれ違い、丞相府東側の書閣に向かった。だが郎俊侠は振り返ると段岭について走廊を進み始めた。
「話を聞きに行かないの?」段岭は声を押し殺しながらも振り返らずに郎俊侠の前を歩いた。
「つまらないからね。」郎俊侠は答えた。
「ついて来ないでよ。」段岭は言ったが、郎俊侠は何も言い返さずにそのまま段岭の後について来るので、段岭ももう気にしないことにした。
書閣に着いたが、柵に鎖が架かっていた。
「何を探すんだい?」郎俊侠が尋ねたが、段岭は何も答えずに、柵の上を飛び越えた。郎俊侠は欄干に足を架けると二歩で二階へと跳び乗った。二人は書閣の上から西側を眺めた。庭園内には灯火が煌めき、光と影が交錯して見えたが、談笑する声は聞こえなかった。
「彼らが話をしている間に、私は証拠の手紙を見つけ出さないと。」段岭が言った。
―――
「最後には昌流君が銭七を連れて落雁城から逃げ出しました。」武独が言った。「私は王山と遼帝耶律宗真を護衛し別の門から逃げ出しました。昌流君は江州に戻り、王山はブアルチジン・バドと潯水の中央で生贄の血を飲み交わす盟を結んで、三年後に勝負を再開する約定を結んだのです。」
庭園では、武独が流ちょうに語っていた。段岭がいかにして北上して、黒山谷の木々を伐採した後、長聘に再会し、その後に銭七を見つけたか。但しその発見方法については隠して置き、あちこち尋ね歩いて、流民の噂から消息を得たことに変えておいた。
その話は人々を驚愕させ、しばらくの間誰も反応できずにいた。
「だったらお前は最初になぜ人違いをしたのだ?」謝宥が厳しい口調で尋ねた。
「私は趙奎の命令で烏洛候穆を殺しに行った時に、北良王の世子の行方を追いました。」武独が応えた。「そして上京の名堂で一人の子供を見つけたのです。体に烏洛候穆が与えたと思われる鮮卑の菓子を持っていました。鮮卑は既に亡国となっていたので、その菓子の作り方を知る遺民は少なく、烏洛候穆はその中の一人でした。」
「それで私は当然その子供が烏洛候穆の保護下にあると考えたのです。ですが試しに手を出してみたところ、烏洛候穆は彼の命にあまり注意を払わずに、私と剣を交えました。あれから思い出すたびに、おそらくそれは世子の命さえ犠牲にできる程に烏洛候穆が薄情だったのだろうと解釈しておりました。ですが、後になって思うと、何かがおかしい、何か矛盾するものがあると……。」
すると牧曠達が言った。「私もそれが原因で出生届も偽者ではないかと思ったのです。武独のこの話は、各位大人、お亡くなりになった陛下も既に何度も聞いているところであります。」
あの時武独は確かに自分が『太子』を殺そうとした件の詳細を何度も何度も、しつこく言わされて、皆もう暗唱できるほどになっていた。
「そうなってきますと、最初の問題に戻ることになりますな。」蘇閥が言った。「もしこれが偽者なら、本物の太子はどこにいるのかと?」
誰もが口を閉ざし、武独は姚複に目を向けたが、姚複は目を細めて軽く首を振っただけで、何も話す気はない、今は絶好の時ではないから、内容に何か付け加えるつもりはないと伝えて来た。
韓濵が言った。「上京の一戦の後、城内は実に混乱していた。何度も助けたいと思ったものの、彼の消息を追うことは既にかなわなかったのだ。」
牧曠達が言った。「可能性は一つだけです。——もし本物を見つけ出せたなら、烏洛候穆も危険を冒して天下を騙してまで偽者を充てはしなかったはずです。」
「結論を出すには早すぎる。」蘇閥が言った。「あんな老人の言葉一つで、偽者だと確定することができるとお思いか?」
牧曠達が答えた。「私の心の中では、あの殿下が本物だったことはありません。ただあの時陛下が勅令にて、朝野中でこの件を二度と持ち出さぬようにと命令を下され、疑惑を押さえつけられただけでした。ですが今やその禁令も無効に……。」
謝宥が言った。「牧相、それはいったいどういう意味だ?」
「謝将軍、わが大陳の治国下では、本来言論は解放され、言論弾圧をされることはなかった。文人は政を論じあえ、言葉によって罪に問われた先例は無いのです。」
武独が言った。「他にも方法はあります。思うに、私達がまず考えるべきは、あの殿下と本物とされる殿下の関係です。なぜ烏洛候穆についていったのか、なぜ先帝との出来事を知っているのか。烏洛候穆は、本人曰く、二年間は先帝の傍におらず、南方に戻ってきていた。その点は諸位大人もあの時お調べになったはずです。」
郎俊侠は李漸鴻から西川に遣わされていた。あの頃は趙奎が謀叛を起こしていた時で、これについては誰もが知るところだ。その二年の間、『太子』はずっと李漸鴻の傍にいたはずで、山河剣法を習い、その頃起きたことを全てわかっていたことが当初証拠として力を持っていたのだった。
この国で、山河剣法ができる者はたった三人だけだ。——李漸鴻、李衍秋、そして武独。
その内武独が学んだのは剣ではなく掌法だった。
「山河剣法は見て覚えただけでは使い物にならない。」この時になって姚複が口を開いた。
「剣法ができても、心法ができなければただの形だけだからだ。あの殿下が本物であろうと偽者であろうと、あの剣法を見る限り、先帝ご自身で授けたものだ。自身で授けたからこそ、心法の修練を配合できたからだ。彼が先帝について剣を学んだのなら、先帝の口調や性格をわかっていてもおかしくはない。」
姚復は、はっきりとは言わず、ほんの少しの疑問を覗かせたという形ではあったが、話の中に、太子の正体についての自分の意見に誘導するように別の話を埋め込んだ。
武独は頷くと言った。「つまり、こんな仮説が立てられます。本当の太子は名堂時代、仲の良かった友達で、ずっと離れずにいるような関係だったから、烏洛候穆が作った菓子を分け与えた。その後は、更に殿下に付き合って一緒に山河剣を習った。そう考えると全て辻褄が通ります。」
「それは……。」蘇閥は一時何と言うべきか迷い、眉をひそめた。「全くばかばかしい話だ!そこまでわかっているなら、なぜもっと早く言わなかった?!」
牧曠達が言った。「銭七に会うまでは本相にも確かなことは言えなかったのです。ですが、今夜の殿下の反応、皆様方もご覧になったでしょう。何を聞かれても答えられなかった。もし本当の殿下であれば、先ほどの太子のように何も言えないようなことはなかったはずです。その頃の太子の身の上について尋ねた時、烏洛候穆が何と言っていたか覚えておいででしょう?」
謝宥が答えた。「烏洛候穆が言っていたのは、上梓から殿下を連れ出し北上する間に、段家のことについては何も言わないようにと教え込んだ。人の憶測を呼ばないためだ。殿下もあの頃は幼過ぎて色々思い出せないことが多いと言っていた。覚えているのは王妃が難産で亡くなったこと、自分が段家で父親が迎えに来るのを待っていたことだけだと。」
「ですが烏洛候穆は殿下を連れ出した後で、段家の人達を抹殺するために火を放った。」牧曠達が言った。「これはどう解釈できますか?当時陛下は身元確認のため、上梓潯陽の段家の者を連れて来させることもお考えだったが、最後には蘇大学士に引き留められた。
蘇閥は怒って言った。「牧相、上梓はその時既に我が大陳領土ではなかったのですよ。遷墓すらできなかったのに、そんなことは不可能だった。確かに私はそう言いましたが……。」
「私に考えがございます。」若者の声が響いた。牧曠達の隣にいた黄堅だった。
それまでは、内閣大学士、鎮国将軍、征北軍統帥、淮陰候、丞相の五人が話しており、城内では敢えて口を挟める者がいなかったが、今になって黄堅が口を開いたのだった。
「言いなさい。」牧曠達が促した。
黄堅は少し緊張気味に言った。「先ほど聞いた話で思いついたのですが、もし間違っていたら、校尉大人にはご指摘お願いします。」
「言ってくれ。」武独も促した。
「この方法は簡単で直接的に太子の身分を証明できますが、何人かの方のご協力が必要です。」黄堅が言った。
第215章 密室
「なんにも見つからない。」書房中ほぼ全てを探しつくした段岭は長々とため息をついた。
郎俊侠は壁に耳を張り付けたまま「急がなくていい。きっと見つけられる。」と言った。
見つからないようにと灯をつけずにいた段岭は郎俊侠の後ろに来た。郎俊侠は一寸ごとに壁を叩いていたが、未だに隠し扉などは見つからなかった。
「彼なら大事なものをどこに隠すと思う?」郎俊侠が言った。「何か思い当たることはないか?」
段岭はふと、西川時代に牧曠達が鎖をかけた箱を書閣に置いていたことを思い出した。あれがおそらく牧磬が言っていた箱のことだろう。かつてあの箱の中に、父が閲覧した奏折も入っていたのだ。
遷都前には、あの箱は西川の書閣に置いてあった。遷都後にもきっと一緒に持ち込んでいるはずだ。
「ここにはない。」段岭は辺りを見回したが、あの箱は見当たらなかった。「まあいいや。もう探すのはやめるよ。」
「彼の部屋を見に行ってみないか?」郎俊侠が言った。
段岭は郎俊侠と目を合わせ、「何をそんなにあせっているの?何だか私より熱心だよね。」と言った。
郎俊侠はそれ以上何も言わず、段岭はそっと抜け出ると静かに扉を閉め、郎俊侠と共に、なるべく音を立てないように楼からおりて走廊を通って行った。
「君の四叔父上に約束したんだから、勿論なるべく君を手伝うよ。」郎俊侠は道を歩きながらふとそう言った。
「彼が何を言おうが、あなたが最後に何を選ぶかはあんまり関係ないんじゃない。」段岭の言葉に郎俊侠は否定することもない。「あなたが太子にさせた蔡閏が死ぬことになってもあなたはかわいそうなことをしたとか後悔はしないのかな?」
「もししないと言ったら、君は信じるのかい?」郎俊侠が言った。
その言葉を聞いて、段岭は突然あることにはっきりと気づいた。
「信じる。」段岭は答えると振り返って郎俊侠をじっと見た。その眼差しはとても複雑だった。郎俊侠はよくわからないといった表情でわずかに眉を上げた。彼の明るく澄んだ瞳に段岭の姿が映っていた。段岭の瞳にも郎俊侠の英俊な面立ちが映っていた。
その瞬間、彼は理解した。なぜ誰もが自分を薄情だと言うのかが。
それが郎俊侠が自分に教えた唯一のことだったからだ。
郎俊侠は人の感情など気にもしない。多くの人にとって生きて行く上で素晴らしいと思えることでさえも、何もかもが彼にとっては実体のない虚無な物だ。彼自身の命も含めて、多くの苦難の中を過ぎゆく旅人に過ぎないのだから。
彼が段岭に教えてくれたのは、『人に知られてはならない』『あまり多くの友達を持つな』『私もいつか君の傍を離れる』……そんなことばかりだった。だから段岭は子供の頃から信じていた。自分の傍に有り続ける物など何もない、人生とは色鮮やかな気泡のように、消えてなくなるものなのだからと。
郎俊侠は自分に薄情であることを教えたのだ。
郎俊侠は手を上げて、段岭の肩越しに走廊の突き当りを指さし、歩き続けるようにと指示した。そこには牧曠達の部屋がある。段岭は一瞬迷った。そこが最後の望みのある場所だ。
―――
庭園内では黄堅がとても不安げに一同を見渡した。
こんな重大な会議に出るのは初めてで、しかもこれは大陳朝廷の命脈に関する決議だ。
牧曠達は早々に準備を整えていたが、話の流れについては何も決めておらず、どう討論するかはそれぞれに任せておいて、政治談議と同じく、弟子には傍聴させていた。
ところが段岭の方も準備していたかのように、自ら牧磬を連れ出した。それは確かに牧曠達の望むところではあった。牧磬はかかわらない方がいい。知ることが少なければ責任も減るからだ。
「もし太子に心があるなら、この要求には答えるはずです。」黄堅が言った。「潯陽に戻って、王妃の墓を遷墓させるのです。供養できる人は全て烏洛候穆が焼き殺してしまったのですから。」
「太子はまもなく一国の君となられる。」姚復が首を振った。「北方に行かせるわけにはいかない。しかも他国の領土だぞ。彼は反駁するだろうな。」
姚復はやはり狡猾だと武独は思った。朝廷や皇室のためを装いつつも相変わらず、『太子は偽者』という立場を捨てたわけではない。
「七日後に、百官が扶霊します。即位は暫し延期して、扶霊の後なら、王妃を向かい入れ先帝と合葬するのに絶好の機会です。王山は耶律宗真の命の恩人、五日あれば鄴城から潯陽に着くのですから、四大刺客を同行させれば難しいことはないのではありませんか?」
「その案から百歩退くとして」牧曠達がようやく口を開いた。「場所を言わせて、王妃の墓を探させたらいいでしょう。」
「太子が母の墓のありかも覚えていないと言ったらそれで終わりだな。」謝宥は首を振った。
そこで話し合いも暗礁に乗り上げたが、それでも三年前と比べれば状況は雲泥の差だ。
蘇閥が言った。「牧相、まだ話はあるのかね?今宵は月も満ち人も満ちる佳節のはず。国葬もまだ終えていないのに、古い事情を持ち出して結論も出ずでは実に幸先悪い話ですぞ。」
「あの時は韓将軍以外の、この場の皆さんが真実を証明するために知恵を絞りました。」牧曠達が言った。「今はこの場の皆さんが偽造を証明するために知恵を絞ったのですが、それぞれの心の中にはもう結論は出ていると思われますね。」
言うや、牧曠達は体を動かし立ち上がった。「まあいいでしょう!かつての疑惑を、こうしてお招きした大人の皆さんにお話しできました。まるまる三年抱えていた思いを一気にはかせていただき、すっきりしました。今夜はよく眠れそうです。」
それを聞いた一同はうんざりした表情となった。あんたはよく眠れて結構だが、こちらは厄介なことになったじゃないか。
牧曠達は明らかに客を送り出したそうな顔をし、皆もこれ以上留まりたくもなかったので、それぞれが立ちあがった。だが段岭の計画を知る鄭彦は、彼がまだ戻ってこないのを見て、時間を稼ぐ必要があるかと、姚復になにやら耳打ちした。
「牧相、ちょっとお耳を拝借できますかな。ご相談したいことがございまして。」姚復が言ったが、牧曠達は「秋の夜は冷えます。姚候ももう皇宮にお戻りください。明日の朝、必ず最初にお伺いいたしますので。」と言った。
牧曠達にそう言われると姚復としても頷くしかなく、他に引き留める理由もない。武独と鄭彦は視線を交わした。段岭がまだ手紙を探していることは分かったが、しばらくは何ともできない。鄭彦は姚復について出て行き、武独と昌流君も立ちあがったが、牧曠達は園内に座ったまま、黙って考えこんでいた。
片刻後、征北軍兵士が入ってきて、牧曠達の耳元で何か話しかけた。すると、牧曠達は「彼には裏門から入っていただきなさい。」と言った。
それで武独にもわかった。やはり牧曠達は韓濵と約束してようだ。
「お前たちは私についてきなさい。」牧曠達が言った。「黄堅、旅で疲れただろう。帰って休みなさい。」
黄堅は腰を折って退席を告げたが、その場を離れようとしたした時、動揺し過ぎて転びそうになってしまった。今夜はちょっと調子に乗って発言しすぎたかもしれない。
―――
同じころ、段岭と郎俊侠は牧曠達の部屋の中にいた。郎俊侠が窓を開けようとして抜き出した長剣に月光が当たって、部屋の中に幾分かの光をもたらした。
牧府は江州にあった前朝の大塩商の官邸を改築していた。理屈の上ではそんなところに密室やら隠し扉はないはずだが、密道ならあるかもしれない。
段岭は部屋の中に立って暫し考え、床に這って耳を床板につけ、軽く板を叩いてみた。
「ここに来てごらん。」郎俊侠は段岭に、部屋の中央に行くように指示した。
「このタイルを叩いてみて。」郎俊侠が言った。
段岭は床を叩いた。長身ですっくと立っている郎俊侠に段岭が話しかけようとすると、郎俊侠は、シッという仕草をし、瞬きもせずに、そのタイルを見つめた。
「地下に抜け道がある。」郎俊侠が言った。「だけどきっと君が探している物はないと思うけど。見てみるかい?」
「どうしてわかったの?」段岭が尋ねた。
「私は刺客だ。」郎俊侠は周囲の様子を見まわした。「刺客には当然刺客が学ぶべきことがある。」
段岭は考えた末、「だけど、仕掛けはないね。」と言った。
郎俊侠は寝台に座り、しばらく黙った後、段岭に上がって来るようにと合図した。
「ここに寝てみて。」
段岭:「……。」
郎俊侠は横目で段岭を見たが、急かすことはなく、辛抱強く待っていた。段岭は自分の寝台の下に付けられた銅管のことを思い出して、牧曠達の寝台に横になり、横についていた仕掛けを探し出した。すると郎俊侠は突然手を伸ばして段岭の腰をつかみ、もう一方の手を寝台の頭板にかけた。急に体が落ちそうになって段岭は危うく声を上げそうになったが、郎俊侠がさっと彼の口をふさいだ。
寝台が傾いてひっくり返り、二人は隠し通路に落ちて行った。
隠し通路はとても浅かった。落ちた途端に郎俊侠は段岭を助け起こし、その一瞬の間、段岭は彼への敵意を忘れていた。協力しあったことで久々に意思が通じているのだろうか。
「どうして寝台に仕掛けがあるとわかったの?」段岭はいぶかし気に尋ねた。
「逃走用の隠し通路というのはいつも寝台にあるものだ。」郎俊侠は気軽な調子で答えた。
郎俊侠は火おこしを使って隠し通路にあった灯に火を点した。すると目の前に鉄の扉が現われ、押し開けると中からは少し朽ちたようなにおいがした。たくさんの石や木が積み重なって埋め尽くされている。もしかしたら、かつては逃走用の通路として使われていたものの、月日がたち、水害対策として埋められて隠し部屋になったのかもしれない。
「これがその箱かな?」郎俊侠が尋ねた。
目の前に三つの箱があった。左右の箱には鎖がかけておらず、真ん中の箱にだけ鎖がついている。おそらくは、隠し部屋でもあることから、牧曠達が楽に取り出せるようにと、鎖を掛けずにいたのだろう。
段岭がその内の一つを開けると、郎俊侠は灯りを持って、段岭の手元の書類を照らした。
「見つかった。」段岭が呟いた。「これがそうだ。」
手紙の他にも、かつて武独が牧曠達の依頼で作った薬の箱もあったが、開けてみると中は既に空だった。一体誰に飲ませたのだろうか?四叔父上でもないだろうに。
「全部持って行こう。君はもう時間をかけすぎている。」郎俊侠が言った。
「ちょっと待って。」段岭が言った。「書類が多すぎて全部は持っていけない。選ばないと。」
郎俊侠は外を見てから、寝台の下に会った仕掛けを押し開けて、その隙間から外の音に耳を澄ませた。
段岭は手紙の内、宛名書きのない物を選んで次々に調べていった。内容は様々で、朝政の利害対立や牧曠達が頼みごとをしたもの……きっと中には結構な内閣や地方官がいるのだろう。
彼は韓濵の字を見たことがないので、これがきっとそうだとは決められない。ただただ直感に従って探していくと、箱の底に一束重なった塊があった。その書類の束の下にはもう一つ鉄の箱があって、それには鎖がかけられている。
段岭は鉄の箱を郎俊侠に渡し、郎俊侠は長剣をくるりと回して鎖を断ち切った。
すると箱が開いて手紙がこぼれ落ちてしまった。段岭は片膝をついて拾い始めた。地図だ。全て行軍路線だ。直感的にこれが最も重要なものだと分かった段岭は中にあった手紙ごと全部包みにしまい込んだ。
「あったか?」郎俊侠が尋ねた。
「もうちょっと見てみる。」段岭が言った。
鉄箱の奥にはもっと何かがあるようだが、鍵のかかった仕掛けがついていた。
ここには何があるのだろう?
壁に耳をつけていた郎俊侠が、「早く決めてくれ。誰かここに来るぞ。」と言った。
段岭には足音など聞えなかったが、郎俊侠の聴力が自分より優れていることはわかっていた。今この鍵を壊せば、牧曠達に誰かが侵入したことがばれて危険だろうか?
かなり迷った末、心を決めた。「鍵を開けて見たい。」
郎俊侠が長剣で斬ると、仕掛けはカラリと音を立てて落ちた。段岭は急いで開けてみた。
中はガランとしていてまるで何もはいっていないようだったが、段岭は灯で照らし、本能的に顔を近づけて箱の底を覗き込んだ。そこには銅製の長い箱が置かれていた。
―――
郎俊侠にとっては最後の幸せな時間だったんだろうな。
非天夜翔 相見歓 第206章ー第210章
第206章 嘘と真実
「各位座ってくれ。」蔡閏は一同がまだ立っているのを見て、座るようにと告げ、韓濵も腰を下ろした。蔡閏はしばらく考えた末、口を開いた「韓濵将軍には生まれて初めてお会いしたが、なぜか以前からの知り合いのように感じている。あの将軍岭での一件は、趙奎が偽造した皇令に各位が従っただけなので、責めはしない。過ぎたことは過ぎたことだ。孤は追及するつもりはない。」
それを聞いて誰もが胸のつかえを下ろしたような気持になった。韓濵は僅かに微笑み、蔡閏の恩情に感激した。
「あの頃王妃も軍によく来られておりましたので、我らも何度かお目にかかることができました。深夜に軍営に来られた殿下は先皇の潔さをお持ちで、我らの過ちをお赦し下さったところには、王妃の寛容な心がお見受けできます。」
そこへちょうど郎俊侠が帳簾を開けて入って来た。すると再び韓濵が言った。「当時、三度も先皇を狙った烏洛候穆のことさえ、王妃は赦しを願い出られた。烏洛候穆、覚えているかね?」
「心に刻んである。」郎俊侠は淡々と答えた。
帳内にいた将校たちは皆笑い始めたが、韓濵は手を振って、全員を下がらせ、酒とつまみを用意して太子への酌をするようにと命じに行った。
「月日がたつのは早い。」蔡閏が言った。「烏洛候穆、お前も一杯飲むといい。」
郎俊侠は頷いた。
―――
丞相府内の部屋に戻った段岭は、気力の全てを使い果たしたように感じていた。
段岭は、問いたげな視線を送ってきた武独に向かって頷き、全て解決したと伝えた。武独は扉を閉め、あちこち調べた後で、段岭に見に来るようにと合図をした。
寝台の後ろに銅製の漏斗に見せかけた物が置いてあり、その後ろには管がつながっていた。
段岭が、それは何かと尋ねようとすると、武独は自分の耳を指さしてから外を指さし、これは盗聴道具だと伝えて来た。危ない所だった、と段岭は思った。牧曠達は陰険すぎる。再投降を認めておきながら、自分たちの部屋に盗聴用の銅管を取り付けておくなんて。
「彼は私に状況次第では、明日謝宥に会いに行くようにって。」段岭は寝台の近くでそう言いながら、指に水を付けて、卓の上に【騙せたよ。】と書いた。
「何の情況だ?」武独が尋ねた。「それはそうと、彼に叱られなかったか?」
「彼はちゃんとわかっているからね。」段岭が言った。「私が例の件を公にしたら、内閣も謝宥も彼に敵対するだろうし、ひょっとしたら陛下を謀害した罪にさえ問われることになりかねないって。」
「彼がやったんじゃないんだろう?」武独は眉をひそめた。
「私は違うと思う。」段岭が答えた。「少なくともそうは見えなかった。明日韓濵が城に入るかどうか見た上で、謝宥に会うかを決めるようだ。韓濵が城に入れば、全て計画通りに進めて、その場合は謝宥を始末させるかもしれない。もし韓濵が城に入って来なければ、太子が偽者だという話を何とかして吹き込んで、謝宥に疑いを抱かせる。」
「だけど、彼の側の人間であるお前を謝宥は信用するのか?」武独が言った。
「太子を引きずり下ろすよう、先帝の遺言を受けていると謝宥に言いなさいって。」段岭が答えた。それから姚復に聞けば、私が本当に陛下を救ったことを証明してくれるとも言うようにって。」
「それじゃ彼が造反した事実は……。」
―――
密室の中で、牧曠達は黙ったまま、管を通して聞えて来る段岭と武独の会話を聞いていた。
「偽太子のせいにすればいい。」段岭の声が伝わって来た。「先帝は既に崩御された。当時のことは死人に口無しだ。姚復は最後になってやって来たし、敵は河北軍を偽装していた。死体からは何も出ない。それに昌流君も逃げきれたし。」
「姚候はバカじゃないぞ。」武独が言った。「鄭彦も生き延びたんだし。彼が言わないか?」
「鄭彦と姚復は一緒に考えて言い。」段岭は笑った。「問題は正にそこにあるんだ。もしも姚候が、牧相は陰で何か企んでいるぞと告発でもしたら、牧相はこう言うことができる。姚復はこの機に乗じて自分と敵対し、自分を排除して江州の主になろうとしているってね。その時に韓濵がまだ城外にいれば牧相には韓濵を城に入れる理由ができるし。」
武独:「……。」
「なんてこった。」武独が言った。「白と黒がぐるぐると絡み合って、お前ら文人の頭の中はいったいどうなっているんだ?」
「もう寝よう。」段岭は疲れた様子で言った。「明日になったら全部話すよ。」
武独と段岭は寝台に横たわった。「彼はもう一度だけ私を置いてくれると思う。」段岭がそう言うと、「情況が落ち着いてから、お前を殺すかどうか決めるつもりじゃないか。」と武独が言った。
「そうなったら私は地方職を願い出て河北に戻るから、いいよ。」段岭は気楽な調子で言った。「天高く皇帝遠し。独自に兵も持っているし。朝廷は元人を打つのにあなたの助けが必要なんだから、怖がる必要なんてないんじゃない?」
―――
密室内では、牧曠達が管に蓋をして盗聴を止め、ようやく安心してその場を去った。
武独のはだけた背中に、段岭は指で文字を書いた。【鄭彦はいつ来るの?】
李衍秋との取り決めで、例彦が一日一回知らせを届けに来ることになっていた。万が一にでも牧曠達と出くわしてしまえばやっかいだ。
【後で俺が行く。】武独は段岭の手に書いた。【奴に来させないために。】
武独は横を向いて段岭を抱きしめ、二人は 。段岭は息が荒くなり、何度か声を上げた。
武独の灼熱の肌を感じたが、傷が癒えていないので、あまり激しい行動は控えねばならない。
そこで武独には横たわったままにさせて、 。
武独はうめき声を上げると同時に横を向いて、盗聴用の漏斗を見た。
【もう行ったでしょ。】段岭は武独の太ももの内側にそう書いた。
武独は笑ったが何も言わずに、自らの を指さし、段岭は 。
片刻後、段岭はまだ息を切らしていた。武独は背後から彼を抱きしめて、名残惜しそうな様子だ。どうやらもう一度と思っているらしい。だが段岭は顔を向けて小声で言った。
「まずは休もう。時間もあまりないし。」
武独は、うん、と言って寝る準備をした。牧曠達がまだ盗聴しているかどうかは気にならないし、普通に考えて全て聞いていたはずはない。だが武独は段岭の背中に書いた。
【姚復の嫌疑は晴れたな。】
段岭は頷いた。実の所、姚復が川面まで救出にきたあの日から、嫌疑は晴れていた。少なくとも彼は牧曠達と共謀はしていない。それでも念のため、姚復が過去に牧曠達と結託したことがあったのかは、やはり知りたいとは思う。ありそうもない話ではあるが。
一方で韓濵は、アリだろう。彼が城に入るか否かが次の局勢に影響を与えようとしている。
夜半過ぎ、段岭は背後にいた武独が立ち上がり、音もなく去って行ったのを感じた。李衍秋に報告しに行ったのだろう。それからすぐ武独は戻ってきて、それまでのように横たわり、段岭も眠りに落ちていった。
翌日、段岭は完全に予想外だった報告を聞いた。
五万の征北軍は城に入ったが、内城には入らずに、江州をぐるりと囲んでいる俞河の外城区に駐屯したのだという。
朝食時、牧磬はまだ起きておらず、牧曠達の方は、昨日と比べて少し元気を取り戻したように見えた。段岭は婢女から清粥を受け取ると、人払いをした。武独は扉を閉め、忠実に外で守りについた。
「誰かが偽者に教えたらしい。」牧曠達は僅かに眉をひそめた。「おそらくは馮鐸だろう。」
「馮鐸とはどういう人なのですか?」段岭は真顔で尋ねた。
「影の部隊の軍師だ。」牧曠達が答えた。「影の部隊が動いているのが、実に怪しいのだが、昌流君もおらず、ずっと探りを入れられずにいる。この男は一体何をしているのだ?」
「武独に調べさせましょう。」段岭が提案すると、「その必要はない。」と牧曠達が言った。
「まずはお前たちが為すべきことをしなさい。錦之が宮内にいるのだ。調べさせることもできるだろう。」
「本当に彼は一体何がしたいのでしょうか?」段岭が言った。
「我らに内閣の蘇閥の一派を牽制させたいのだろう。」牧曠達が淡々と言った。「韓濵を近づけたいのは、万が一謝宥と対立した時に頼れる者がほしいからだ。韓濵が権力を掌握したければ、必ずや謝宥と対立することになる。彼は韓濵を使って、私を排除し、次に謝宥を排除することで安心したいのだろう。」
「ですがそれでは、彼は韓濵の傀儡に成り下がります。」段岭が言った。
「あのことを暴露されて死ぬよりはましだろう。」牧曠達が言った。「私も以前は彼の命は取らずに、かの地位に立たせてやろうと思っていたが、この者は全く聞き分けが悪いのだ。」
段岭が頷くと、牧曠達は暫く考えた末、言った。「まあいい。やはりお前は謝宥に会ってきなさい。まずは姚復に手を退かせてから、一つ一つ片付けて行くことにしよう。」
「はい。」段岭が言った。
「大枠は昨日の話に沿うが、夕べ考えて、ある部分を、少し変えることにした。」
牧曠達は段岭が謝宥に会って何と言うかを教え、段岭は全て記憶した。最後に牧曠達が全て復唱するように言うと、段岭がその通りに全て言ったので、ようやく牧曠達は「行きなさい。」と送り出した。
段岭と武独が部屋から出てきた時、牧府の廊下で待っている人がいるのに気づいた。様子から見て兵士のようだが、南方の者らしくはない。二人が去るとすぐに、その人物は牧曠達に会いに行った。間違いなく韓濵の使いだろう。段岭が武独に視線を送ると、武独は同意するように頷いた。
牧曠達は二人に馬車を手配しており、いつものように御者は聾唖者だ。二人はまず謝宥のいる将軍府邸に向かった。段岭は車に乗ってから、小声で尋ねた。「どう思う?」
盗み聞きの心配がないにもかかわらず、武独は段岭の耳に口をつけて小声で言った。
「陛下は謝宥には正体を明かしても大丈夫だと言っておられる。彼に韓濵に気をつけさせ、いつでも韓濵を排除できるように準備しておくようにと仰せだ。」
それを聞いて段岭は安心した。
謝宥のいる将軍府はとても質素だった。この男は江州で要職についているにもかかわらず、相変わらず謹厳実直で、妻も娶らず子もいない。(え?)
彼に会うに当たり、段岭はとても緊張していた。こうした状況下での会見は初めてだったし、これからとても重要な話をするのだと思うと、胸の中で早鐘が鳴るのを押さえられなかった。だが黒甲軍は謁見を求めているのが「王山」だとわかると、何の抵抗もなく、彼と武独を入らせて、彼らに庁堂で待つように言い、すぐに謝宥に知らせに行った。
侍衛が出て行き、まるまる一刻たつと、段岭は気持ちが落ち着かなくなってきた。謝宥は何をしているのだろうか。その後、まもなく半時たつかと言う頃になって謝宥が急いでやって来た。
今日の謝宥は甲冑を身につけておらず、黒い武袍に身を包んでいる。彼は庁内に入って来ると侍衛に下がるようにと告げた。そして段岭がまだ、「内々にお話が」とも言わないうちに、謝宥の方から「君は帰って来るだろうと思っていた。」と告げられた。
誰もがそう言うのはなぜだろう?と段岭は思った。そんなにわかりやすかっただろうか?
「こういうことなのです。将軍……。」段岭が言いかけると、謝宥が近づいて来て、「君は段小婉の息子だね。」と言った。
その言葉の与えた衝撃は大きく、段岭は一瞬唖然とした後で、「謝将軍、あなたは全てご存知なのですか?」と言った。すると謝宥は目を赤くして声をふるわせた。「お母上はどこに埋葬されているのだ?」
「母は……汝南城外の……坟山に葬られました。」段岭は一瞬過去に呼び戻されたようになり、途方に暮れてしまった。すると謝宥は言った。「お父上は生前私に命じられたのだ。彼女の棺を取り戻し、共に皇陵に納めて欲しいと。」
「私は……いつかその時がきたら、自らの手でそうするつもりです。」段岭はそう言った。
第207章 双玉
静まり返った庁堂で、段岭と謝宥の二人は互いに胸に様々な思いが溢れかえり、一時何も言えなくなっていた。そうして長い長い時が過ぎてから、段岭がようやく口を開いた。
「あなたを謝叔叔と呼んでもよろしいでしょうか?」
すると謝宥は、深く沈み込むような悲しみを湛えた眼差しで段岭をじっと見つめた末、最後にこくんと頷いた。
「あなたはどうして母をご存知なのですか?」段岭が尋ねた。
「塞上江南で、桃の花が咲く頃に、縁あってお会いした。」謝宥は低くかすれたような声を出して言った。「お父上は本当に先帝なのか?冗談は無しだぞ。」
段岭は笑顔で頷くと、玉璜を取り出して謝宥に渡した。謝宥はそれを受け取り、段岭に近くに来るようにと合図してから、玉璜をじっくりと仔細に見て、最後にそれを段岭に返した。
「これは陽珏だ。」謝宥が言った。「それを持つ者は廟堂に入ることができる。もう一つは陰珏で、それを持つ者は江湖を統べることができる。普通に考えれば、おそらく君の四叔父上が生前佩いておられたものだな。」
「そんな役割があるのですか?」段岭が尋ねると、「勿論そうだ。」と謝宥が言った。「お父上はかつて私に兵を出させようとした時に、陰珏を持って来られた。だから規則に従えば、彼を助けるための出兵には応じられないのだが、その時、彼が私に言ったのだ。陽珏は君が持っている。君は未来の帝君で彼はその代理に過ぎないのだと。そこで私は出兵せざるを得なくなった。」
段岭は珏の表に彫られた『盛世天下』の四文字を見て、かつて郎俊侠が珏を自分に与えた時のことを思い出した。あれは別の片割れで、面には『錦繍河山』とあった。玉璜には陰陽二つに分けられていたのか。あの後父が上京に現れて互いの珏を交換した。今になってようやくその深意を知ることができた。
「これは誰が彫った物なのですか?」段岭が尋ねた。
(身分は段岭の方が上だけど、謝宥を叔叔と呼んでいるから、段岭の方が敬語を使った翻訳にしておく。原文ではどっちが敬語とかはないのだけど。日本語ならきっとこんな感じ?)
「七百年前に存在した、『景閣』という門派の鎮閣なる者の作だ。」謝宥が言った。「伝説では五方帝『昊天』が星玉一つと鎮摩の剣一本をこの世に投げ込んだ。それは天外からの隕星として地に落ち、天地の厭気を鎮めて、人々から摩心を消し去った。それはその後、景閣の名匠に拾われて、星玉は江山玉佩に、鎮摩剣は玄鉄長刀『無名』へと鋳直されて、後世に伝えられたという。
以来、天空二十八星宿の力がこの星玉に注がれるようになた。その力は世が乱れる度に、天宮本位を離れて人の世に向けられ、乱世を平定し、人々の悲しみを鎮めるようになった。景朝年間、星玉は真宗の手中に落ち、天下兵馬大元帥白子元が鎮摩剣を得た。以来世代を超えて受け継がれてきている。
「その後、外族が侵入して来て、王朝が南に移るにしたがって、玉佩も南方へと流れた。英宗が北方を取り戻すと、玉佩は塞外へと持ち出されたが、梁朝時代に中原に戻って来た。大梁が滅亡し、何韞が金陵を攻略すると、無名刀を持った御前侍衛、鄭行が梁の孝宗を殺した後で自刎した。すると無名刀があるじを弑した日に玉佩も真っ二つに斬られたのだ。」謝宥が沈んだ口調で言った。「それから十二年後、何韞も殺され、二つに割れた玉璜が再び世間を彷徨うこととなった。その後、無名刀は西川張家の手中に収まり、天下が虞朝となったことで、玉璜は再び王朝に戻って来たのだ。」(張家は武独の立場だから李家じゃないんだな)
「その後はまた、胡族が再来して虞は滅亡した。無名刀は匈奴の手に落ち、柔然の鍛冶屋によって三本の剣に鋳直された……。」段岭が言った。
「ふむ。」謝宥が言った。「全て遥か昔のできごとだ。その後、万里伏が無名刀を取り戻し、先帝は玉璜を得て、今に至る。」
そこで段岭は、ふとあることに気がついた。玉璜が天子の物であるなら、理屈から言ってお祖父上の元にあったはずだ。なぜ両方の玉璜を父が持っていたのだろうか?それに確か彼には朝廷に返そうという様子もなかった気がする。
そこまで考えて、段岭は心の中にヒヤリとしたものを感じたが、それでもこれで全ての理屈が通ると思った。
父の性格なら、絶対にこう考えたはずだ。大陳王朝は息子の物であるべきだ。息子は未来の皇帝になるのだから、玉璜を返すことはできない。その上で彼は祖父が崩御すると、名実ともに帝位を継承したのだろう。
もしかしたら、それが原因で父は趙奎と牧曠達に罠にかけられ、祖父は父に不満を持っていたために、そうした罠を見て見ぬふりをしたのかもしれない。
そう考えると段岭は寒気を感じ、こっそりとため息をついた。
「若い時には誰もが血気盛んで、人を傷つけもする。」謝宥が言った。「まるでこの天下も、山河も全て自分の手中にあるかのように、自分の物であるべき物からは手を放すことができない。そして、一つの言葉で大勢を生かすことも、殺すこともできる。こういう点では、君はお父上ではなく、小婉に似ている。君は寛容だ。それはとても素晴らしいことだ。」
段岭は顔を上げて謝宥と目が合った。そして互いに相手が同じことを考えているのがわかった。かつて父が兵権を奪われた時、謝宥は彼を助けて出兵しようとはしなかった。理屈から言えば、それは趙奎に与したことにもなる。幸い趙奎はそれ以上待ちきれずに、老皇帝から帝位を簒奪しようと企んだために、謝宥は李漸鴻と反目せずに済んだのだ。
清廉潔白な者など一人もいない。——それが段岭の唯一の感想だった。だが父が何をしようと自分には関係ない。例え暴君であったとしても、嗜虐を尽くす魔王であったとしても、自分にとっては、やはり父だ。あの日、桃花の木の下で、自分に新しい人生を与えてくれた人、そのままの姿で永久に変わることはない。
話のやめ時というものを心得ている謝宥は続けて言った。「上京の難の後、烏洛候穆と太子が帝鎧と共に玉璜を両方一緒に持ち帰った。太子は影珏を以って影の部隊と四大刺客の統領となり、陽珏を手元に留めた四王殿下は皇帝に即位された。」
陽光が入り込んできて玉璜の上に落ちた。その輝きは、七百年の長きにわたり、乱世や戦乱、繁栄や平和など様々な世の移ろいを経ても、全く変わることはなかった。
どれほど多くの帝王がこれを受け取ってきたことか。その中には大業を成し遂げた者もいれば、亡国の君となった者もいる。その玉璜が、今や自分の手の中にあるのだ。
「私も星宿を託して生れてきたのでしょうか?」段岭が尋ねると、「さあ、それはどうだろう。」と謝宥は微笑みながら答えた。「単なる伝説の一つに過ぎない。だが黒甲軍もまた、『無名剣』の持ち主の一人によってつくられたのだ。」
庭では、武独が守りについている黒甲軍を横目に見て、こいつらはいつもこんな格好をして、冬ならまだしも夏でもこうなのか?暑くないのだろうか?などと考えていた。黒甲は熱を吸収しやすい。亀の卵さえ茹りそうな真夏の真っ盛りに、よく焼け死なずにいられるものだ。
「ちょっとお前。」武独はその中の一人に、以前教訓を与えてやった者がいるのに気づいて、手招きをした。「お前にいい物を見せてやろう。」だがその男はまるで彫刻のように身動き一つ取ろうとしない。そこで武独が立ちあがって近づいて行くと、男はたちまち大声を上げた。
「謝将軍!謝将軍!」
ひょっとすると謝宥は以前、『また武独がお前たちに何かしたら俺を呼べ』的なことを言っていたのかもしれない。彼は部屋の外からの護衛たちの慌てふためいた叫び声を聞くと、扉を押して出て行った。
ところが謝宥はこう言った。「武独。以前、こちらの不行き届きで嫌な思いをさせたこと、どうかお許し願いたい。」そして彼は抱拳した。
武独は意外に思って謝宥を眺めまわした末、「まあいい。お前に免じて、こいつらのことは見逃してやろう。」と言った。
「お前の所業は私の尊敬を勝ち取った。」謝宥は真剣な様子で言った。「これまでのことは一旦捨て置くことにして、お前と切磋琢磨できることを願う。」
「いつでも待っている。」武独は答えた。
段岭は謝宥に向かって頷いた。互いに情報交換を終えた後も、謝宥はまだしばらく段岭にいてほしそうだったが、段岭の方はあまり長居しては牧曠達に疑われるのではと思い、先は長いので急ぐことはありませんと言って、彼に別れを告げて帰って行った。
「何を話して来た?」武独が小声で尋ねると、「言うべきことは全部。」と段岭は答えた。「彼は母を知っていたんだ。」
「それぞれ悔やむところはあるだろうが、あいつはそれでもお前を探しには行かなかったんだな。」武独が言った。
「それは仕方ないよ。」段岭が言った。「謝宥は私の父ではないんだから。段家のことに口を挟むわけにはいかないし、私の存在を知ったのは、父さんが西川に戻ってきた時だったんだから。」
謝宥はきっと母のことが好きだったのだろう。心のとても深いところに抑え込んだ気持ちだったようだが、段岭にはそれが感じられた。好きだったからこそ、何も言わないようにして、互いに母のことに触れないように気をつけていた。だけどそれでも彼には父と謝宥の話から大体読み取れたことがあった。——母は強さと優しさを併せ持った女性だったのだと。
それはかつて母が父にぶつかってまで郎俊侠の命を救ったことからも見て取れた。母は無用な殺戮を望まず、中原の人々が幸せに暮らすことを望んでいたのだろう。
過去のできごとがぐるりと回って多くの人達を巻き込んで戻って来たかのようだ。李漸鴻、李衍秋、牧曠達、謝宥、段小婉、郎俊侠……。そして、積りに積もったたくさんの恨みや恩情がついに声を上げようとしていた。
「山河を見ては遠き誰かを、散りゆく花に春の終わりを思うなら、今は眼前の人をこそ慈しむべし。」(晏殊《浣溪沙·一向年光有限身》)
「急に何を言いだすのさ?」段岭は笑い出し、武独に抱きついて、彼の肩に頭をもたれた。
「以前師母が書写していた詞だ。」武独が応えた。「便箋に書いて師父の机の上に置いていた。だけど彼の方は不老不死やら国家の大業のことで忙しすぎて見る暇がなかったんだがな。」
馬車が天下第一亭を通り過ぎようとすると、段岭は李衍秋にまた会いたくてたまらなくなったが、何とか我慢した。すると武独が、「下りて麺を食べに行かないか。もうずっと来ていないんだから。」と言った。
牧曠達にバレることを恐れていた段岭だったが、麺を食べに行くのなら、何も言わずにすみそうだ。「いいね。」段岭は最後に言った。「私は雲吞が食べたいな。」
武独が段岭を連れて入って行くと、ちょうど段梓風が売り台を拭いているところだった。まもなく正午を過ぎる時間帯なのに、天下第一亭には珍しく、一階も二階も殆ど客がいなかった。
「二階の席は空いている?」段岭が尋ねると段梓風はすぐに二階を指さしどうぞという仕草をして、その後に竹筒で厨房の扉を叩いた。武独は雲吞と麺を一杯ずつ頼んで、段岭と二階に上がり、二人で向かい合って腰を下ろした。
段岭は今でも初めてここに来た時のことを覚えていた。武独が顔を真っ赤にして落ち着かない様子で何か意味の通らないようなことを言っていた。あの時には気づかなかったが、今思えば、あの時の言葉の中には武独の気持ちがあふれ出ていた。
段岭は机の下で足を伸ばして武独をつついた。武独は茫然とした様子で「何だ?」と言った。
秋の風が吹き込んできた。江州では春は桃の花が美しいが、秋になると楓の葉がまるで炎が燃え立つかのように色づく。
「別に何も。」段岭は再び笑い出した。「去年の冬、あなたが私を連れて来てくれた時のことを思い出しただけ。」
すると武独が言った。「お前は時々本当に鈍い時があるからな。」
「鈍いって何が。あの時私は本当にわからなかったんだから。」
武独は手をあげて、降参だと告げた。だが段岭はまたじっと武独を見つめて言った。
「ねえ、」
武独:「?」
「いつから私のことが好きだったの?」
武独は見るも無残なほどに真っ赤になり、「くだらないことは言うな。食べたらすぐに帰るぞ。」と言った。
段岭が感情的な話をふる度に武独は真っ赤になって目をそらしたりする。だからこそ段岭はいつも更にからかいたくなってしまうのだ。
第208章 宴への招待
「今聞き出せなかったら、この先もう機会はないかもしれないもの。」段岭が言った。
「だったらお前が先に言え。」武独が言った。「お前は旦那様の立派な器と技量、寝床でのご奉仕に夢中になっているだけだろう。いつか俺が年老いて彩色衰えたら、別の誰かに乗り換えるんじゃないのか?」
今度は段岭の方が顔を赤らめる番だった。
「私は……ああもう。」段岭は急いで反論した。「あなたに教えてもらうまで、私はなんにも知らなかったのに。でもちょっと考えてみるよ……。」
段岭は真剣に思い出そうとしてしばらくたってから、武独に言った。「潼関の城壁の上で、私はきっと……うん、きっとあの時だと思う。」
武独は戸惑ったような表情であの日のことを思い返した。甲冑を身につけ、必死で段岭を救いに戻って来た。体中傷だらけで。それ以上は言わなくてもわかった。
「あなたの番だよ。」段岭が言った。「さあ、いつから?」
武独が考えた末、答えようとした時、料理が給仕されてきた。
「ごゆっくりどうぞ。」郎俊侠が言った。
段岭は跳び上がるほど驚いて、無意識に防御の動きをしかけたが、郎俊侠はいつも通りの寡黙な様子で、盆を卓に置いた。盆の上には、麺と雲吞、それに一通の手紙が置いてあった。
もう以前のように郎俊侠に会っても緊張しなくなった段岭は、「どうして来たの?」と尋ねた。「もう出て行く。」郎俊侠はさらりと答えた。武独は手紙をとると、敵意を込めた表情で彼を睨みつけたが、郎俊侠はそのまま階下に降りて行き、すぐに馬の蹄の音が聞えて来たところをみると本当に行ってしまったようだった。
武独は手紙を開いて、中身を読み、眉をひそめた。
「何だって?」段岭は少し不安げに尋ねた。
「数日後の中秋に、牧曠達が一席設けるらしい。」武独が言った。「太子と群臣たちが招かれている。一体何をする気なんだろう?」
郎俊侠は元々この手紙を、天下第一亭の店主を通して李衍秋に渡すつもりだったのだろう。彼は自分と武独が牧府に戻ってきたことは知らなかったはずなのだから。
段岭はこの知らせを受け取った時、歴史書で読んだ、昔の皇帝が中秋の宴の席で群臣たちを焼き殺した場面が、脳内に浮かびあがってきた。そして牧曠達のところに戻っておいてよかったと感じた。さもなくば一体何が起ころうとしているのか知る術もなかったのだから。
「帰って状況を探らないと。」段岭は牧曠達と韓濵が何か計画しているのではと疑っていた。だがまずはどんな人が宴に招かれているのか知るところからだ。
―――
東宮では、昼寝をしたばかりの蔡閏が未だ恍惚としていた。卓の上には牧曠達からの折子が置かれている。「そんなの規則違反だろう。」蔡閏は牧曠達からの招待状を読み終えると言った。
「先帝はまだ停霊の段階なのだから、宮中での祝い事は全て取りやめるべきだ。何と図々しいことだ。」
「それが実は規則通りなのです。」馮鐸が真剣な表情で答えた。「武帝が崩御した際には、中秋の夜に先帝が「群臣を慰労し、悲しみを止める」という理由で宴を設けておりますから。
理屈から言えば、殿下が即位される前に、文武百官が一度は「哀知会」を設けねばならないのです。」
馮鐸は話を続けた。「牧相は太后の名の下に諭旨を発布しています。中秋の夜には宮中はまだ喪に服していて太后もご自身は静かに過ごすことを希望されているので、代わりに宴を牧府で儲けるように委託された形になっております。太子が賓客となり、牧相が接待役になるのなら、理屈からも情の上からも、筋が通っていることになるのです。」
「誰が招かれているのだ?」蔡閏が尋ねた。
「臣は烏洛候穆に調べに行かせております。」馮鐸が答えた。「謝宥は必ず列席し、韓濵もおそらくは。内閣の三役につきましては……蘇閥は行くでしょうし、残りはおそらく黄堅などの同輩でしょう。」
「王山の行方がつかめない限り、私は不安でならない。」蔡閏は歩きまわりながら言った。
「殿下はご安心ください。王山が現われたなら、当夜牧相には何もできないはずですし、逆にこちらは主導権を握ることができます。」
蔡閏が尋ねた。「彼はどこにいると思う?」
「あの夜刺客に襲われて武独はひどい怪我を負っているはずです。」馮鐸が答えた。「それで彼らは迂闊に動くことができないのでしょう。一人で百人と戦ったのです。例え帝鎧を身につけていても、無事なわけがありません。そう考えると、おそらく武独はもう怪我が治ることはないのかもしれません。」
「牧相は何を言うつもりだろうか?」蔡閏は牧曠達の性格を考えるに、無意味なことなどするはずがないと思った。中秋の宴を設けたのは、自らの立場を安定させ、忠誠を装う意図からだろう。
蔡閏は目下の状況を未だ楽観視していた。自分が正体を明かしてから、馮鐸の様子は以前と違ってきた。何事も先にしっかりと計画してから行動するようになっている。もっと早く教えておくべきだったのかもしれない。
馮鐸は段岭と武独を排除するのに成功したわけではないが、少なくとも彼らの時間を奪い取ることはできたようだ。
馮鐸はしばらく考えた末、「七割の確率で、彼は殿下に忠誠を示すでしょう。」と言った。
「残りの三割は?」蔡閏が尋ねた。
「残りの三割は、彼が私たちの知らない証拠を握っていた場合です。」馮鐸は眉をひそめて答えた。「可能性は低いですが。もしそうならすぐに手を打ったはずですから。最後に華々しく明かすようなやり方は賢いとは言えません。愚かな問いをするようですが、殿下、以前のことについて、烏洛候穆とは全てしっかり打ち合わせられているのでしょうか?」
「できている。」蔡閏が言った。その問題に対する時、彼はやはり決まり悪くなって馮鐸の視線を避けた。彼に話すことが自分に残された唯一の逃げ道だとはわかっていても、知る者が一人増えれば、それだけ危険も増す。更に難しいのは、馮鐸が一旦自分の抱えている事情を掌握してしまえば、常に弱みを握られているような危機感を持つはめになることだ。
「もう祖父も、両親も……。」蔡閏は沈んだ声を出した。「蔡家百十七人、全てが捨てられたり、殺されたりしたのだから……。」
馮鐸はそれを聞いた馮鐸は、震撼した。
「あなた様は蔡家の方だったのですか?」馮鐸が小声で言った。
「そうだ。」蔡閏が言った。「お前の姉の遠縁の蔡家だ。遼帝は、離反の計に嵌められて、南院韓唯庸に言われるがままに蔡家を取り潰しにしたのだ。あの時、兄は私を連れて中京を逃げ出し、耶律大石に投降したが、その道中でもずっと兵に追われ続けていた。」
過去の記憶に囚われている蔡閏の様子を、馮鐸は傍らから黙って見つめていた。
それからだいぶたった後で、足音が聞え、郎俊侠が戻って来た。
「どうだった?」蔡閏が顔を上げて郎俊侠を見た。
「黒甲軍統領 謝宥、内閣大学士 蘇閥、内閣文書 程願、征北大将軍 韓濵、淮陰候 姚復、山東太守 鄭欽。」郎俊侠が答えた。
そんなに大勢集めて、牧曠達はおそらく何かとんでもないことを企んでいるのだろう。
「鄭彦は?」蔡閏はずっと忘れ去っていた人物を思い出した。李衍秋の死後、鄭彦は少し上の空な様子で、大部分の時間を東宮で過ごしながらも殆ど何も言わない。行き場を失った様子の彼に蔡閏は、江州を離れなければ、もっと自由に城内にでも行ってきても良いと伝えていた。
「このところ、よく天下第一亭に酒を飲みに行っています。」郎俊侠が答えた。
有りそうなことだ。蔡閏は鄭彦の行動に何の疑いも持っていないようだった。あったとしても、彼は元々淮陰候姚復が送り込んだのだから、そっち方面に戻るのではないかくらいだ。だが最近姚復が鄭彦に会うことは稀なので、そんな疑いさえも消えていた。
「次に会うべき人物は誰だ?」蔡閏は気を取り直して尋ねた。
「姚復です。」馮鐸が答えた。「我らは既に謝宥と韓濵両名の支持を得ています。次は姚復でしょう。」
―――
「次に会っておいた方がいいのは誰かな?」段岭は牧府に戻る道中、問いかけた。
武独は考えた末、答えた。「今やこちらには謝宥がついた。次は姚復か?」
姚復は李衍秋が生きていることをまだ知らない。人の本質について最悪の憶測を抱きたくはないものの、李衍秋が死ねば、姚復にとっては段岭の正体など聞かなかったことにしたいのではないだろうか。彼が誰を支持しようが、その人が新たな皇帝の地位を得ることになるのだろう。段岭は以前李衍秋が言っていたことを信じている。あの時、趙奎は淮陰候姚復の存在を嫌がって、西川に遷都させた。淮陰候は表面上は親しみやすく人畜無害に見えるが、絶対にそんなに簡単にはすまない人物のはずだ。
李家はいつかこの地方豪族である姚復を排除し、大陳山河の集権を完成させるだろう。姚復にもそれはよくわかっているので、双方がどう手を組むべきかを見極めているのだ。
今の江州はまるで将棋盤のようだ。彼と蔡閏はどちらも留まることなく布局し続けている。
蔡閏は彼が望む全てを持っていたが、段岭が最初に持っていたのは四大刺客だけだった。そして今では謝宥がいる。
―――
「ご指示くださった通りに全て言いました。」段岭が言った。
「彼は何と言っていたかね?」牧曠達が尋ねた。
「特に意外な様子はありませんでした。」段岭は卓の前に正座して茶を飲むと言った。「もしくは、私にはそんな風には見えませんでした。」
牧曠達が言った。「謝宥と言う男は抜け目がなく、喜怒哀楽を殆ど表情に出すこともない。陛下が崩御された時にもこの男は一滴の涙も流すことなく、そのふりさえもしなかった。」
「ですが私が話した時には、危うく殺されかけました。」
「お前を試してみたのだろう。」牧曠達は立ち上がりながら言った。「彼は何か言っていたか?」
段岭は答えた。「いつでも絞め殺せる、気を付けろよと。……それで私は、今私を収監してもどうにもなりませんよと言いました……。」
牧曠達は手を振った。彼には段岭がどうやって生きて戻って来たかなどどうでもよかった。
この弟子は死地から不死鳥に乗って逃げられるような輩だ。愚か者を装って批判を躱す腕前は天下一品。忠義に厚いように見えて、実は常に風向きを伺っている。いつか自分が命を落とす日が来ても、この若造は無傷で生き延びていることだろう。
「最後には私を見逃してくれましたが。」段岭が言った。「私は陛下を救った功績があるから、命だけは取らずにいてやると言っていました。早く江州を離れて鄴城に変えるべきだ、さもないと次に何か大変なことが起きた時には、助けてやれないからと。」
「つまりは、やはり知っていたのだな。」牧曠達が言った。
「きっと知っていたのです。」段岭が言った。
李衍秋が定軍山下で刺客に遭遇したことを、戻ってから謝宥に言わないはずがなかった。そうして考えてみると、謝宥は既に牧曠達に対峙するようにという命令を受けていたのかもしれない。——それでも証拠がなかったからか、まだその時ではないという判断からか。
「まあそれは別にいい。」牧曠達が言った。「こちらの目標は既に達成した。中秋の夜には彼にも来てもらおう。」
「何のことですか?」
すでに郎俊侠から聞いていたが、段岭は驚いたような顔をしてみた。
「戻って休みなさい。」牧曠達が言った。「何かあればまた頼むかもしれない。」
そこで段岭と武独は仕方なく部屋から出て行った。
牧府では既に中秋の準備を始めていた。
知らぬ間に何日もたってしまった。今年の中秋夜には李衍秋を尋ねるべきだろうか。それとも彼は独り、部屋で杯を傾けることになるのだろうか。
第209章 身内
部屋に戻った武独が外衣を脱ぐと、胸や肩、背に巻いた包帯が血で滲んでいた。
「大変だ。」段岭が言った。「怪我はまだ良くなっていなかったんだね。」
「別に平気だ。」武独が言った。「薬を付けておけば大丈夫だ。」
刺客が放った矢には毒が塗られていた。武独は解毒薬を携帯していており、ここ数日、薬は毒性と必死で戦っていた。段岭は解毒用の薬剤を牧府の雇人に買いに行かせていたのだが、城内ではほとんどの薬局で売り切れとなっていた。
おそらくは蔡閏の仕業だろう。幸い薬剤は部屋にもまだたくさん残っていたので、段岭はもう一度配合して武独の体に塗ってやった。
「すぐに良くなる。」武独は言った。「心配するな。」武独は手を伸ばして段岭を抱きよせた。
「最近動き回っていて傷がしっかり癒合しないんだね。暫くお酒も房事もやめないと。」
「ふーむ。」武独がにやけた目つきをするので段岭は念を押した。「傷に良くないことは絶対してはダメだよ。」
「功力は五、六割回復している。」武独が言った。「戦うのには大して問題にならないさ。」
「その後怪我がひどくなるでしょう。」段岭は譲らない。「軽々しく刀を抜いて戦ってはダメだよ。」
段岭は武独の横顔に口づけた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。江州に戻ってから、武独は怪我を負った体であるにもかかわらず、いつも自分についてあちこち奔走させられている。まだまだ暑いのも、矢傷の治りを遅らせていた。本来ならゆっくりと静養していなければならないのに。
「ワンシャン!」そこへ牧磬が笑顔で飛び込んできた。段岭は武独に服を着せてやり、部屋でしばらく休んでいるようにという仕草をした。
「もうお戻りで?」段岭は庭に立って出迎えた。
「武独はどうかしたのか?」牧磬は部屋の中を覗き込み、武独が寝台に横たわっているのに気づいた。段岭は大丈夫です、昼寝をしているだけだからと伝え、牧磬と肩を並べて出て行き、尋ねた。「帰ってからいつもバタバタしていてあなたとゆっくり話もできませんでしたね。経史館のお仕事はどうですか?」
段岭は名義上、牧磬の師兄に当たる。だが黄堅が最年長のため、牧曠達は時間がない時は黄堅に息子の面倒を任せた。黄堅は堅苦しく、段岭の様に気が利かない。牧磬は黄堅に説教されるたびに、段岭が来てくれればいいのにと思っていた。
「超~静かだ。」牧磬が言った。「あそこにいると毎日眠くなるよ。ちょうど誰も世話を焼きに来なかったから、早めに帰って来たんだ。」
段岭と牧磬は以前と同じように裏門から牧府に入って行き、廊下に腰を下ろした。牧磬は下人に茶を持って来るように命じた。段岭は笑顔で言った。「もう大人になったのに、まだ誰かに『世話を焼いて』もらう必要があるんですか?もし誰もあなたの世話を焼かなかったら、自分ではどうやって生きていくかわからないんじゃないですか?」
「君も黄堅も同じようなことを言うよなあ。」牧磬は思わず苦笑いした。そして父親仕込みのやり方で茶を点てると、二人で廊下の前に座って飲み始めた。
牧磬が茶を点てる動作を見て、段岭は不思議な感覚を覚えた。どんな子供も、成長すると、いつも側にいた人に似てくるものだ。以前牧磬は茶など飲まず、蜂蜜を加えた水などを飲んでいた。それなのに成長するにしたがって、だんだんと牧曠達の習慣を学び取って、茶道具を扱えるようになってきた。知らないうちに影響を受けていたようだ。
それなら自分もだんだんと李漸鴻のように変わっていくのだろうか?
「お父上にお会いしましたか?」牧曠達は牧磬にあまり秘密を打ち明けたりしなさそうだと段岭は思ったが、それでも彼の口からの情報を得たかった。
「また皇宮に行ったよ。」牧磬は秘密めかして言った。「ワンシャン、君に秘密を教えてあげる。伯母上が懐妊されたんだ。私にはまもなく弟ができそうだよ。」
段岭は一瞬ドキッとした。「弟さんですか?」
「表弟だけどね。」牧磬が言った。「陛下の忘れ形見だよ。」
下心ない言葉を深読みしてしまった。段岭は危うく、牧磬が『父親』と『叔母』が密通したと言っているのかと思ってしまった。尤も牧曠達は牧磬の本当の父親ではないのだから、どちらにしても気にする必要はない。ただし牧磬はそれをまだ知らず……考えると全くややこしい話だ。
「どうして弟だと思うんですか?」段岭が言った。「万が一、公主だったらどうします?」
「きっと弟だよ。」牧磬は気楽な調子で言った。
段岭は頷き、「最近、府にはいつもどんな人が来ていますか?」と尋ねた。
「誰も。」牧磬が言った。「大晦日の夜以降、客人は誰も来ない。王山、私は時々怖くなるんだ。」
「怖いって何が?」
牧磬はため息をつき、言った。「今年の初めころから、陛下は殆ど父に会おうとされなかったんだよ。」
段岭はヒヤリとした。やはり気づいていたのか。牧磬は気が大きく、子供っぽいところもあるが、だからといって何も知らない愚か者ではない。朝廷内での視線、経史館での噂や、大臣たちの牧家に対する態度から彼は色々気づいていたのだ。
「そんなまさか。」段岭は慰めようとした。「考えすぎでしょう。」
すると牧磬が言葉を続けた。「昌流君もどこかに行ってしまったし。君もそれが原因で帰って来たんじゃないのかい?そうだろう?」
「いいえ。」段岭は答えた。
牧磬は段岭の目をじっと見た。僅かに縋るような眼差しだった。「王山、うちは何かまずいことになっているのかな?」
「いいえ。」段岭は眉をひそめて言った。「どうしてそんな風に思うのですか?」
「三月前に、経史閣の師兄たちの話が聞えたんだ。うちのことを、もう終わったなと言っていた。」牧磬が言った。「君は河北に赴任していたし、黄堅は巡税に出ていて、江州には味方は殆どいなかったんだよ。」
「私は戻って来ましたでしょう?」段岭が言った。「黄堅兄もすぐに帰ってきますよ。」
すると牧磬がこう言った。「だけど陛下が既に牧家を嫌ってたなら、どうして伯母上が懐妊されたのだろう?昔聞いたんだけど、陛下はずっと……子種がなくて、本来なら子は生まれなかったはずなのに。」
段岭は驚愕し、心臓が跳ね返って息が止まった様な気がした。
だが牧磬はやはり賢かった。その言葉を口にした後は腑に落ちない表情ながら、それ以上は口にしなかった。
「ご懐妊を他に知っている者はいるのですか?」段岭が尋ねると、牧磬は首を振った。
「太医と父上だけだ。父は私に誰にも言うなと言っていた。」
いや李衍秋はとっくに知っている。何も隠せてはいなかった。だが牧錦之のお腹にいるのが誰の子なのか、段岭にだって尋ねることなどできなかった。
「きっと大丈夫ですよ。」段岭は励ました。
「君が帰ってきてよかったよ。」牧磬もまた笑顔を見せた。
どうやらここ半年、牧家の状況はとても厳しいものだったようだ。牧曠達は鳴りを潜めて用心深く振舞い、朝廷の人達はみなこの家族が落ちぶれるのを待っていた。大陳を二十年近くも叱咤してきた牧家の気数はまもなく尽きようとしていた。
それなのに最後の最後になってから、牧曠達が突然息を吹き返してきたので、蘇閥たちはみな緊張し始めたのだろう。
段岭は再び励ましの言葉を口にしていたが、突然何かを感じて、顔を上げると、全身黒づくめに覆面をつけた男が、門の外に立って二人の様子を見つめていた。
いつからそこで静かに立っていたのかはわからないが、彼は牧磬を見ると、覆面の下の目を細めて微笑みかけた。
「昌流君!」牧磬は驚いて呼びかけ、走って行って昌流君に飛びついた。
昌流君よりかなり小柄な牧磬は、跳び上がって彼の背に跨ると、大喜びで声を上げた。
「今お帰りですか。」段岭が言うと、昌流君は頷いた。そして腰に巻いた袋を外し、牧磬を体ごと横向きに抱え下ろして、「色々と面白そうな土産を持ってきましたよ。」と言った。
牧磬は突然昌流君の覆面を取って大笑いした。昌流君は顔を赤らめ、「こらこらふざけない。」と言うと急いで手を伸ばして覆面をつかんだ。牧磬は再び彼に抱きつき、「どこに行ってたんだよ!どうして手紙を書いてくれなかった!」と言った。
「字が汚いもので。」昌流君が言った。「王坊ちゃんに伝言を伝えたはずですが、何も言われなかったのですか?」
段岭は笑い出した。牧磬は、隠していたのか、と疑わしそうに段岭を見たが、こうして本人が帰って来たなら良しとすることにした。
昌流君はすぐにまた覆面をつけてしまったが、この機に乗じて段岭は昌流君の顔をしっかりと見ることができた。目元が確かに少し牧磬と似ていた。特に笑った時の眼差しが。だが白虎の刺青に目を奪われ、一見しただけでは簡単にわからない。
段岭は、昌流君が名前を変えて白虎堂に入門したと言ったのを思い出した。顔に刺青を施したのもいつも覆面をつけているのも、ひょっとしたら、顔を見て気づかれないためなのかもしれない。そして子供の頃の昌流君は牧磬のように器量よしだったに違いない。
「費先生は?」段岭が尋ねた。
「門房だ。」昌流君が答えた。「武独は?」
「怪我をして部屋で休んでいる。」段岭が答えた。「費先生に会いに行ってくるよ。」
昌流君は頷き、段岭は費宏徳を接待しに行こうと立ち上がったが、去り際に背後から昌流君と牧磬の会話が聞こえて来た。
「どこから帰って来たんだい?一体どこに行っていたの?」
「今度ゆっくり話します。ですがこうして帰って来たからにはもうどこにも行きませんよ。」
「本当かい?約束を守ってよ。もうどこにも行かないでよね……。」
「絶対に……。」
そのやり取りを聞いて、段岭は思いがけず上京での春の日のことを思い出してしまった。
涙が心の奥底から沸き上がって来たような気持になって、彼は壁にもたれて、しばらく立ち止まった後、ゆっくりと歩き出した。だが行き先は門房ではなく、武独のいる部屋だった。
武独は横になって休んでいたが、物音を聞いて目を覚まし、部屋の中から顔を向けた。
すると段岭がまっすぐに抱きついてきたので、武独は不思議そうに「どうかしたのか?」と尋ねた。「何でもない。」段岭は武独の瞳をじっと見つめて、唇に口づけをした。「あなたが恋しくなっただけ。費先生が来られたから、ちょっと会いに行ってくるね。」
「一緒に行こう。」武独は立ち上がって外衣を着ながら「昌流君も帰って来たか?」と尋ねた。これで牧府の力は増したので、牧曠達は太子に対抗する気満々となっただろう。だが双方ともに知らないのは、本当にその時を待っていたのは、段岭の方だということだ。
費宏徳は長旅でくたくたになって牧府の門房で休んでいた。ここでは段岭と何も話せないので、仕方なく旅先でのことを少し話すにとどめた。更に牧曠達の疑いを招かないように、段岭は費宏徳を部屋に連れて行かず、門房で一緒に茶を飲みながら牧曠達の帰りを待つことにした。
その日の夕方、費宏徳の来訪を知った牧曠達が、賓客への礼として俄かに宴席を設けた。双方が挨拶代わりのやり取りをした後で、費宏徳の方から話し始めた。
「ここ数年、師甥(長聘)がこの乱世を収束できるのは南方人だと常々申しておりました。私めは遼、元、西凉と何年も奔走して来て、だんだんと彼の言葉の深意がわかるようになりましたよ。」
牧曠達はため息をついた。「瞬く間にこれほど月日が流れようとは。かつて先生がおっしゃっていたことが全て現実になろうとしています。読み間違いなど全くありません。残念ながら、こちらは視野が短浅で、先生のように高みに立って遠くまで見通すことができませんでした。」
「局中に身を置けば、見通すのは確かに難しいものです。」費宏徳が言った。「牧相のお力を以てしても、南方を一手に操るのは容易いことではなかったことでしょう。」
第210章 白虎
段岭と牧磬は傍らに座り、昌流君と武独は彼ら二人の後ろに控えていたが、誰も何も言わずに、牧曠達と費宏徳が天下の局勢について討論するのを静かに聞いていた。
段岭の心の中には不思議な気持ちが湧き上がって来た。彼が知る限り、費宏徳は在遼時代には、耶律宗真側に立って、彼が韓唯庸に対峙するのを助けていたはずだった。その彼が今江州に来ている。韓唯庸とひそかに通じている牧曠達はどう思っているのだろうか。
費宏徳の方は、牧曠達に対して相当な防御を決め込んでいるに違いない。彼は諸国を渡り歩いても未だにこうして生きているんだから、絶対に一筋縄ではいかないはずだ。
費宏徳は国家内部の秘密をたくさん知っている。もし自分が耶律宗真だったら、決して遼国を離れさせはしなかっただろう。
それはそうと、彼は自分に対しても何か防御策を講じているのだろうか?
……費宏徳が将来の局勢について分析するのを聞きながら、段岭の頭の中には別の疑問が生じていた。——何となく、費宏徳は初めて会った時から、自分に対して防御の姿勢を全くとっていなかった気がする。彼は自分が最後には口封じをするかもとは思わないのだろうか?
やはり費宏徳と言う人は、それぞれの人物をよく理解し、彼らがどう動くかを見抜いているのだろう。
「これから五年以内には戦争は起こらないでしょう。」費宏徳が言った。「牧相の目からは、多事の秋と見えましょうが、在下からすれば、幾数年も続いて来た血で血を洗う争いが、ようやく一段落するように見えるのです。」
「私もその一段落を望んではおります。」牧曠達はため息をついた。「人の力は時に無力、力が及ばぬこともあるものです。」
「全て間もなく終結しましょう。」費宏徳が答えた。「乱局は理不尽に見えて、その実、全て軌跡をたどることは可能です。南方の経済や、人々の暮らしはゆっくりと回復してきております。遼、陳、両国の関係も安定期に入ってきました。現在の陳国に必要なのは、時間なのです。」
牧曠達は暫く黙って考えたのち、ゆっくりと頷いた。以前段岭から受けた状況報告ではこうだったはずだ。:費宏徳は大体の状況を既に推測できている。あの鄴城からの出兵や李衍秋の行動は結構な大ごとだったのだから、賢い人には隠し切れなかっただろう。
それでも牧曠達は、噂になるのを避けるため、費宏徳に明言するのは控えることにした。
そして牧曠達は考えていた。うちの小僧めが陛下を助けに行ったのは、おそらく、賭けに出た方がいい、という費宏徳の入れ知恵だったに違いない。ひょっとしたら李衍秋の死を知って、費宏徳は再び我が弟子に、今度は戻って相府に投降するようにと指示したのかもしれなかった。
「それでは、しばらくの間、先生には是非とも我が府にご滞在いただき、陛下の葬儀以降に再び御指南いただければと存じます。」牧曠達が言った。
費宏徳が承諾したので、段岭は彼を部屋へと案内していき、部屋に残った昌流君は牧曠達の質問を受けることになった。
「道中、先生は彼に何と言って下さったのですか?」段岭が尋ねた。
「言うべきことは全て言いました。」費宏徳は笑顔で答えた。「今は危険極まりない状況ですから、くれぐれも気を付けねばなりませんよ。」
段岭はごく小声で言った。「生きているんです。」
費宏徳はハッとした後、気持ちを入れ替えて髭を撫でながら微笑んだ。
(え~~~~費先生に髭が生えた。初登場の時に髭がないと書いてあったから、ずっとずっと髭のない顔を想像していたのに。)
何度か頷いているところを見ると、李衍秋の計画が大体読めたようだ。段岭は元々あまり詳しく言いたくなかったのだが、やはり費宏徳が必要な時があるかもしれないと思い直した。
この件を彼に隠しておいたために、万が一判断を誤ることがあれば、更に危険が増すと思ったのだ。
「あなたたちが出て行ってから、耶律陛下から手紙が届きました。それによりますと、八月二十二日、各国からの使臣が江州に追悼に来るのだそうです。その時に、遼、西凉は陰であなたを支援するそうですが、元人が来るかどうかは不明です。」費宏徳が小声で告げた。
段岭はこくんと頷いた。それはきっと耶律宗真が声をかけて、彼のための証人を呼び寄せてくれたのだろう。
「ありがとうございます。先生。」段岭が言った。
「ここで一挙に成敗しましょう。」費宏徳は段岭に拝礼し、段岭もすぐに礼を返した。
三更時分、昌流君は牧曠達の書房から出て来て、しばらく黙り込んだ末、牧磬に会いに行った。牧曠達は今度は菅家を呼んで、中秋夜の宴席の手配について指示をした。
段岭は、昌流君もきっと第一関門を突破できたのだろうと思って、部屋に戻って横になったが、そうなると今度は再び李衍秋に会いたくなって仕方なかった。
すると、三更時、窓を軽く叩く音がして、武独が開けて見ると、そこには黒衣姿の鄭彦がいた。段岭はすぐに、シッという仕草をして、何も言わせないようにした。鄭彦が外を指さし、一緒に来るようにと合図したので、武独は段岭を横抱きにして窓の外に飛び出て行った。
中秋間近の江州の秋月は明るく輝いていた。武独は屋根や壁の上を飛び越えて、李衍秋が隠れている庭へと下り立った。そこでは白い袍に身を包んだ李衍秋が桂花糕を食べながら茶を片手に月を愛でているところだった。
「何かあったのかと思いました。」段岭が言った。
「何もないが、お前に会いたかっただけだ。」李衍秋が答えた。「座りなさい。夕飯はすんだのか?」
段岭が李衍秋の向かい側に腰を下ろすと、李衍秋は桂花糕を彼に手渡した。段岭は茶を飲み点心を食べながら、事の成り行きを詳細に李衍秋に伝えた。李衍秋は黙って聞いていたが何も言わなかった。
「中秋夜に、彼はその場の者たちに、蔡閏の正体を暗示するんじゃないかと私は思っています。」段岭が言った。
「その夜に、四叔父が顔を出したらどうだろう?」李衍秋が言った。「ただの提案だが。」
「いいえ。」段岭は即刻否定した。「まだその時ではありません。私はまだ牧曠達と韓濵が結託していた証拠を見つけたいと思っているのです。」
「それこそ危険すぎるぞ。」李衍秋が言った。「どうやって探すつもりなんだ?」
段岭は以前西川にいた時、相府の書閣にかなりの数の奏折を置いた棚があったことを思い出した。あそこにはきっと隠し部屋のようなところがあって、やり取りした手紙やら名簿などがあるはずだ。辺令白の家がそうだったように。
家探しを決行するなら、中秋夜が絶好の機会だ。なぜならその時なら、牧曠達の全精力が蔡閏に注がれているはずで、自分が彼の元を離れて、何かを盗みに行くとは考えつきもしないだろうから。
段岭は李衍秋に自分の計画を話し、李衍秋はしばらく黙って考え込んでいた。その時、壁の上から物音がして、段岭と武独はたちまち警戒した。
郎俊侠が壁を飛び越えて院内に降り立ち、半歩後退して、李衍秋と段岭に片膝をついて拝礼した。
「立ちなさい。」李衍秋は命じて、段岭との討論を続けた。
「私は招待状を見ていないし、彼は私に計画を隠して詳細を教えようとしないのです。」
「彼はその計画を早々にしっかり立てていたのだ。」李衍秋が言った。「だがどうであれ、中秋夜の後も、二十二日までにはまだ七日ある。牧曠達が一体どんな手に出るか、そちらの方が問題だ……。
段岭はついつい郎俊侠に目をやった。何をしに今ここに来たのだろう。だが李衍秋は何も言おうとしない。そうこうしているうちに、また別の誰かが院壁を乗り越えて庭に下りて来た。
今度は昌流君だった。
昌流君の来訪に、一同はシンとなった。段岭がいぶかし気に声をかけた。「昌流君?!」
昌流君がすぐに跪くと、李衍秋が段岭に言った。「私が鄭彦に呼んで来させたのだ。昌流君、罪を認めるか?」
「臣は罪を認めます。」昌流君は緊張した面持ちで言った。
「太子がお前のために赦しを求めて来たので、死罪は免除するが、それ以外の刑罰からは見逃しかねる。お前をどうするかは、この件が終わってから、再度取り決めることとする。」
昌流君は、たちまちほっとしたように、声を震わせて、「命をお赦しいただき、陛下に感謝申し上げます。」と言った。
「それ以外にも、お前の事情は太子が全て朕に話してくれた。これからどうなるかは、お前の出方次第だ。」
「臣は無二の衷心を以って!」昌流君は勢いよく身を伏せると、額を地につけ、「陛下をお護り致します。」と言った。
「朕ではない。」李衍秋は言い聞かせるように告げた。「それを言うなら太子だ。若児がお前の赦しを願い出た。その責任は当然彼がお前のために担ったのだ。」
「体を上げて。」段岭は励ますように言った。
「以降は、武独の命令を朕の命令と心得よ。」李衍秋が言った。「先帝の命令とも。鎮山河の行方は未だに掴めないままだが、その手に剣を持っていなくても、武独は剣以上の力を持つ。
彼は先帝の代わりに太子の身の安全を守って来たのだ。暫時彼をお前たちの隊首とする。」。”
武独は怯んだように、他三人の刺客を見た。
平時ならば、ひょっとしたら、彼らは躊躇したかもしれない。だが今夜は李衍秋が全員の前でそう言ったのだ。一斉に腰を折って『はい』と言うほかはなかっただろう。
段岭は時々考えることがある。皇室に皇室を象徴する物があるように、江湖にも江湖を象徴する物がある。実際の所、本当に鎮山河を手に持つ人が現われるとすれば、おそらくはこの四人の刺客の一人だろう。だが李衍秋は彼らに忠誠を示すことを求めている。
忠誠を示す相手が段岭ならば、誰にも異議はないだろうが、その相手が武独となれば、それぞれに不満もあるだろう。だが非常時でもあり、だれかがその地位に立たねばならず、その地位に立てるのは、武独の他にいないのは確かだった。
「それでは」李衍秋が言った。「中秋の夜、お前が牧曠達と韓濵がやり取りした手紙を証拠として見つけ出せたら、鄭彦は謝宥に伝えて、江州全城に厳戒態勢を敷く。武独を筆頭にまずは韓濵を刺殺し、彼の命を奪った上で、牧曠達を取り押さえよ。偽太子については、朕とルアルで先に片付ける。」
一同は頷き、はい、と言った。
李衍秋は更に段岭に向かって言った。「手紙が見つからなければ、無理しなくていい。私は別の方法を考えてある。」
段岭は頷き、少し考えて、郎俊侠、鄭彦、昌流君に言った。「あさっての中秋夜の宴の前に、全員で集まって、行動を統一しよう。」
それで、その夜は解散となった。武独はそのまま段岭を連れて、路地を通って牧府に戻った。
「これであなたは白虎堂の頭領になったね。」段岭は武独の手を牽いてからかうように言った。
「あいつらは不満だろうけどな。」武独はそう言うと、近くの屋根を見て、段岭の腰に手を回しながら「上に上がるぞ。」と言った。
二人は壁の上に跳び乗り、そこから屋根の上に跳び乗った。それから瓦の上に横たわって月見をし始めた。明月が人の世を照らし、銀の光が地にのびる中に、武独と段岭は肩を並べて横たわった。
「だんだんいい方に向かっていくよ。」段岭が言った。「それに今回のことが終わったら、不満とか関係なくなるんじゃない。彼らはきっともう江州にはいなくなるのだろうから。」
「事が終われば、昌流君はきっと牧磬を連れて遠くに行って暮らすことになるだろうし、鄭彦は淮陰に戻るかもしれない。郎俊侠に至っては……。」
最後には自分の元に残っているのは武独ただ一人かも知れない。
二人の縁はまるでこの明月のようだ。大河の南北を照らし、全ての場所を照らして、ない所などどこにもない。他の人達は雲のようだ。生まれては消え、時には出会い、時には去って行き、どこに向かうかわからない。
翌日、牧府には灯や装飾が施されたが、段岭はあまり外に出ないようにしていた。費宏徳とあまり顔を合わせると牧曠達の猜疑心を招くと思ったからだ。すると菅家が自ら足を運んできて、段岭に、今夜の宴で、彼には牧曠達の右手に座って太子をもてなしてほしいと言ってきた。
非天夜翔 相見歓 第202章ー第205章
巻五 《暮海天鐘》
十年離乱の後、成長して一たび相逢う
姓を説いて 初見に驚き
名を述べて 昔の様を憶う
別れしよりこの方、蒼海の事
語り終えれば暮天の鐘
明日は巴陵の道
秋の山はまた幾重かは
第202章 回朝
黄昏時に、玉衡山の鐘の音が響いた。
江州では城中の人々が、白い喪服に身を包んでいる。城外の緩やかな川の流れに灯火を映し、
風がなく波も静かな長江では、水灯がゆっくりと水面を下り、夕闇の中、黄昏の空の果てまでも流れていくようだった。
蔡閏は宮中楼閣の高台に立ち、長江の先に残る一抹の緋色を眺めていた。段岭と武独が今回も逃げきってしまうとは、どう考えても納得できなかった。馮鐸が細心の注意を払って襲撃を計画していた路線を彼らは全て迂回して、江州直前になるまで蔡閏にはとどめの一撃をかけることができなかったのだ。
そして更に意外だったのは、武独の功夫が誰にも到達できない境地にまで至っていたことだった。たった一人の一本の剣だけで、自分が手配した百十二名もの刺客を切り捨ててしまった。しかも玉衡山の帝陵の面前でだ!
段岭と武独が山を下りたことを知った時、蔡閏は目の前が真っ暗になった。最終決戦の時が迫っていることを知ったからだ。
間もなく、大陳の真の皇帝が、朝堂の上に上がって自分の前に立つことになるだろう。
蔡閏の顔色はまるで死人のようだった。実際あとどのくらい生きられるかもわからない。
「殿下。」馮鐸が蔡閏の後ろに来て言った。「既に謝宥に命じ、全城に夜間外出禁止令を出しました。」
「遅すぎる。」蔡閏が言った。「奴らは既に城内にいるはずだ。」
つまり馮鐸の命も危うい。二人は言わば一蓮托生状態だ。だが元々死刑囚だった馮鐸にとっては、再び死の恐怖に立たされたということになる。
「殿下。」馮鐸が言った。「守陵衛はわずか二十八人です。臣が再び一隊遣わし、死体は全て処理しますから、殿下の名の元に密令を下していただければ、影の部隊に江州を離れて仕事をさせられます。」
「それが何の役に立つというのだ?」蔡閏は目を閉じ声を沈ませた。
馮鐸が答えた。「少なくとも謝宥に影の部隊のことを知られずに済みますし、朝中大臣にも知られなくて済みます。」
「だから何だ?」蔡閏が言った。「守陵衛が一夜にしていなくなれば、皆の知るところとなる。いったい誰から隠せるというのだ?」
馮鐸が言った。「臣が人を遣って見に行かせたところによりますと、先帝の陵寝にあった黒鉄帝鎧がなくなっているそうです。」
蔡閏が何も言わずにいると、馮鐸が身をかがめて言った。「臣は意図的に偽情報を流させております。誰かが帝陵に進入して陛下の帝鎧を盗み出したと。ですから黒甲軍に密令を出して下さい。こういう時には色々な悪事が起こるものです。悪意ある者が混乱に乗じないように、黒甲軍に厳重警戒させ、疑わしいものに注意を向けさせるのです。そしてもし武独と王山を見つけ出し、彼らが帝鎧を持っていれば、悪意ある行為として捕えることができましょう。」
蔡閏は言った。「遅い。もう遅すぎる。」
「まだ機会はあります。」馮鐸は辛抱強く言い聞かせた。「まだ負けたわけではないのです。」
蔡閏は振り返って、馮鐸に目をやった。
「知っているか?」蔡閏が言った。「今日、烏洛候穆が宮を出た時、耳にしたそうだ。巷では孤が先帝の実子ではないという噂がたっているのだと。」
「それは臣が広めさせた流言です。」馮鐸は恭しく答えた。
蔡閏:「……。」
馮鐸が続けた。「陛下が未だ出棺もしていない内に、そんな流言が突如出始めれば、朝中大臣たちはそれを聞いて、誰かが意図的に広めたものだと思うでしょうから。」
「だから何だ?」蔡閏はわずかに眉を寄せた。一縷の希望が見えた気がした。
馮鐸が答えた。「明日朝一番に、臣は御史台に奏本を一つ出すよう手配しました。殿下は、ただ残念そうな様子を見せつつ、流言に罰は問わぬと言うのです。そうすれば、兵部、礼部の陳大人、簡大人が内閣の鄭老に対して、とらえどころのない流言の調査を命じるはずです。」馮鐸は話を続けた。「謝将軍はきっとこの件で殿下の側に立つでしょうから、彼に捜索させるのです。その過程で王山と武独を見つけ出し、帝鎧の行方を調べさせれば、彼らはどこにも逃げられず、こちらに向かうこともできなくなります。」
馮鐸が言った。「彼らが逃げれば、流言との関係を証明し、こちらに向かうなら、ちょうどいいので、問答無用で取り押さえます。ただし、武独と王山は一緒にせず、烏洛候穆に一人ずつ始末させます。その後、口封じの殺人の罪を牧相に押し付ければいいでしょう。」
馮鐸の計略はそれぞれが絡み合っており、ざっと聞かされた蔡閏は脳みそがねじ曲がりそうになって、しばし眉をひそめて考え込んだ。「良さそうだが、……万が一、謝宥があっちを信じたとしたらどうする?」
「謝宥が信じるはずがありません。」馮鐸が言った。「どんな理由があって信じるというのです?」
蔡閏が言った。「謝宥って男は猜疑心が強く、そう簡単には騙されないだろう。王山がなぜ
何の理由もなくそんな悪事に手を染める必要がある?彼には何の動機もない。もし私が謝宥なら、全てが実に奇妙だという理由だけで彼の方を信じるだろうよ。」
馮鐸は暫く黙って考えていたが、最後にはこう言った。「それなら最後に残った方法は一つです。虎の皮を剝ぐようなやり方ですが。謝宥ごと彼らと共犯にして、謀叛を企んだことにするのです。」
蔡閏が言った。「あいつは今や江州全体を掌握しているんだぞ……。」
「韓濵を城内に呼び寄せれば。」馮鐸が言った。「韓将軍は五万の重兵をその手に握っています。ちょうどこちらに向かっている途中で、遅くとも明後日の夜には江州に着くでしょう。」
蔡閏は何も言わなかったが、しばらくすると背を向けて楼を下りて行った。
全身汗だくになっていた馮鐸は、風に吹かれて寒気を感じた。しばらくすると、蔡閏は馮鐸と視線を合わせて、長い長い溜息をついた。
「お前の話の通りにやれ。」蔡閏は最後にそう答えた。
この天下に目を向けても、万里に渡る山河の中に、自分の味方はたった二人しかいなかった。
一人は馮鐸で、もう一人は郎俊侠だ。太子を護衛するという理由で、馮鐸は再び、西川から訓練中の武将を江州に呼び寄せた。今や人手不足は深刻だ。影の部隊とその予備軍はどうやら全滅したようだし、もしも黒甲軍が蔡閏の正体に気づいたら、それで万事休すだった。
―――
夜闇の中、たくさんの花灯が光を放ちながら、川を流れていた。
そしてそんな暗闇の中、城門の外で待っていた二人は一台の馬車に乗って、ひそかに城に入って行った。
武独は疲労困憊していた。体は矢傷だらけで、包帯の中から血がにじみ出ている。車に乗るや否や、段岭は武独の外袍を脱がせ、夜行衣も取り去って、肩や背を露出させ、傷の手当てを始めた。
前で御者役を勤めている鄭彦は何も言わずに、ある人家の裏庭にたどりつくと、車に上がって武独に目をやった。「どんな感じだ?」鄭彦が言った。「そんなにひどい怪我なのか?」
武独は真っ青な顔で鄭彦を見たが、それには答えず、「陛下もおられるのか?」と尋ねた。
鄭彦が頷いたので、段岭はようやく本当に安心できた。
「叔父上に会ってこい。」武独が段岭に言った。
「一緒に行こうよ。」段岭が武独を支えて車から降りさせると、武独は半身を段岭の肩にもたれかけた。今回の帝陵における一対百の戦いは、世に明かされたなら、彼の名を遺す一戦となるに十分だった。
「気をつけて。」鄭彦が小声で言った。
段岭は尋ねた。「ここは一体どういう場所なの?」
「ある昔なじみの家ですが、」鄭彦が言った。「臨時の避難場所としては安全です。」
ほんのりと灯が点された室内には、老夫婦の姿が見えた。夫は長椅子の端に座って田螺の殻を切っており、妻の方は白髪葱を作っていた。だが鄭彦が扉を押して入って来ると、急いで立ち上がって迎え入れた。段岭は挨拶がわりに頷き、鄭彦が紹介した。「こちらは私の友人のご両親です。」
「昔なじみというのは?」武独が力ない様子で尋ねた。
「天下第一亭の店主だ。」鄭彦が答えた。
鄭彦は武独を支えて裏庭に進み入り、薪小屋の中に入って、中にある木板を引っ張った。
地下に続く梯子を下りて行くと、すぐにもう一つの出口から外に出た。するとそこは四方を壁に囲まれた暗院だった。院の中では李衍秋が茶を飲みながら書を読んでいた。
段岭は全身から力が抜けたような気がした。それでも急ぎ足で進み出て、李衍秋を抱きしめた。
「お前が戻って来られるはずだと私は確信していたよ。」李衍秋は段岭を抱きしめてから、彼を座らせ、次に武独に目をやった。
「一体どうしてそんなひどい怪我をしたんだ?」李衍秋が言った。
「運よく任務を遂行できました。」武独は何とかがんばって李衍秋に拝礼をしたが、李衍秋はすぐに彼を助け起こして、鄭彦に部屋に連れて行って、傷の手当てをするようにと命じた。
段岭は李衍秋の手を引っ張って、まずは彼の脈を確かめた。幸い脈は落ち着いていて、何の異常も感じられなかった。
「どうして私に隠していたんですか?」段岭は慌てた様子で尋ねた。
すると李衍秋は笑い出し、「お前は怒るだろうと思っていた。」と言った。
段岭は眉をぎゅっとひそめたが、勿論本気で李衍秋を𠮟りつけるはずもなく、ただゆっくりと首を振った。
「こんなに大きな代償を払うなら、いっそ欲しくないと思うこともあるのです。」段岭が言った。「今まで何年もずっと後悔していましたから。あの時もし私が早くにそう言っていれば、ひょっとして……。」
「しぃっ。」李衍秋が言った。「この世には、価値のあるなしの差などなく、あるのはすべきか、すべきでないか、なのだ。例え刀の山や火の海を越えても、死ぬと分かっていたとしてもやりに行かねばならないことがある。そうだろう?」
その言葉が李衍秋の口から出た時、段岭の心は複雑さを極め、再び長い溜息をついた。
「てっきりあなたは謝宥の所にいるのかと思っていました。」段岭が言った。「ですが、この辺りには黒甲軍の姿は見えません。それでは危険すぎます。彼に打ち明けた方がいいのではないですか?」
すると李衍秋は、「お前には明日また話そう。まずは休みなさい。皇児や。もう遅いし、お前はここまでの道のりで疲れたことだろう。」と言った。
それでも事情をはっきり聞きたがる段岭に、李衍秋は厳しい様子で立ちあがり、「言うことを聞きなさい。皇児。」と言ったので、段岭も仕方なく従うことにした。
部屋に戻って武独の薬を取り換え、傷口を洗浄したが、武独は怪我のせいで少し発熱していた。そこへ鄭彦が入ってきて、「私は行きます。あまり長く皇宮を離れていては誰かに疑われそうなので。」と言った。
処方箋を書いていた段岭が言った。「この薬を持ってきてほしいんだけど……え、ちょっと待って。あなたが言ってしまったら、四叔父上はどうなるの?」
「かまわないと仰っています。」鄭彦が答えた。「今はもう誰もあの方がまだ生きているとは思っていませんし、ましてやこんなところにいるとも思いませんから。」
「でも私たちは蔡閏に目をつけられているから。彼の手の者たちが、追って来るかもしれないし。」段岭がそう言うと、鄭彦は、「全部私が片付けました。」と言って、編み笠を引っ張り下ろして顔を隠し、処方箋を受け取った。「もう殆ど残っていませんし、西川辺りから来るはずの武人たちはまだ着いていません。」
それでも段岭は食い下がった。「でも万が一、誰かが殺しに来たらどうしたらいい?」
「そんな誰かがいるんですか?」鄭彦が言った。「四大刺客は皆あなたについている。
そう言えば昌流君は?いつ頃来るんですか?」
そう言われても、段岭はどうしても安心できなかった。どうやら李衍秋は冒険好きの性格のようだし、ここまで来たところで、万が一、鄭彦が長く不在だったことが誰かの猜疑心を呼んで、最後の最後に全てが水の泡に終わる可能性だってある。
「ご安心を。」鄭彦が言った。「天下第一亭の店主は第五の大刺客ですから。」
段岭:「……」
鄭彦は笑い出したが、次に片手を胸に当てて、片膝をつき、膝が地面につくや否や、またすっくと立ちあがった。「殿下、お帰りなさいませ。」
そう言い終え、鄭彦は袍の端を翻して部屋を出て行った。そしてヒュンと音を立てて、院の壁に跳び乗り、屋根の上を飛び越えて去って行った。
第203章 隠れ家
二更時分、誰かが外から扉を叩いた。武独の看護をしていた段岭が扉を開けて出て行くと、そこにはさわやかな外見の若者が左手に食盒を持ち、右手に薬の束を持って立っていた。
「鄭……鄭大人が私に、あ、あ、あ、あなたにこれをと……。」
「あなたは……。」段岭はいぶかし気に尋ねた。
「私めは……段、段梓風です。」段岭と同じくらいの背丈のその少年は言った。
「何かあればご用命ください。両親が外におりますので。」
「あなたが天下第一亭の店主なの?」段岭はなおいぶかし気に尋ねた。
段梓風は微笑み、ややかしこまったように頷いて、段岭に食盒を渡したが、次に何を言うべきか迷った末、結局頭を下げて、緊張した様子で出て行った。
段岭は笑い出した。ここは彼の実家だったのか。確か前に見た時、天下第一亭にはもっと別の大男がいたはずだ。あの人が店主かと思い込んできたけど、まさか店主があんな若者だったとは!
その夜、段岭はまず武独を起こして、粥を食べさせてから、再び横にならせて、自分は薬を煎じに行った。そして、内服用と塗り薬、全てをちゃんと用意できてから、再び武独を起こして、服薬させ、傷口を消毒して薬を塗り直し、と、夜中までかいがいしく動き回った。
「もう寝ろ……。」武独が力なく言った。「死にはしないから。」
それでも段岭は武独をしっかり看護することにこだわり、ようやく彼の横に服を着たまま倒れ込んだ時には、そのまま眠りに落ち、何も考えたくなかった。それに例え明日、天が落ち地が崩れようとも、二人でこうして寝台に横たわっていたのなら、思い残すことは何もなかった。
だが、翌日、太陽はいつも通り空に昇り、鄭彦の言った通り、自分たちがここにいることに気づく者など誰もいなかった。段岭が目覚めた時、日は既に高く上っていたが、武独はまだ眠っていた。
「おーい。」段岭は武独を揺さぶったが、武独はむにゃむにゃと応じただけだった。そこで段岭は武独の額に触ってみた。熱は既に下がっていた。武独は手を伸ばして段岭を抱きしめたが、段岭は欠伸をしながら、彼の腕の中から抜け出て、何か食べる物を用意しに出て行った。そして庭に出て来たところで、別の部屋に李衍秋がいたことを思い出し、息を潜めて、ドキドキしながら扉を押し開けた。李衍秋は白衣姿で掛布を蹴とばしたまま寝台に横たわっていた。
「叔父上?」段岭は前に進み出て尋ねた。
李衍秋もうつらうつらしながら、返事をし、段岭を引き寄せて、自分の隣に横たわらせた。段岭はほっとした。彼はなぜかいつも李衍秋のことが心配だった。段岭は李衍秋の脈を診ようとしたが、李衍秋にその手をどかされ布団の上に置かれてしまった。
「もう脈は診るな。」李衍秋は有無を言わせぬ様子で言った。「どうしてそんなに脈をとりたがる。……四叔父はそんなに病弱か?」
段岭は笑い出した。李衍秋は目覚めたものの、起き上がらずに、段岭を抱きよせたまま横たわっていた。
「戻ったばかりなのにいくらも寝ないとは。」李衍秋が言った。「じっとしていられないたちなのだな。」
そこで段岭は水を汲んできて、李衍秋の洗顔を手伝った。
「おかしな話だが、宮内ではいつも不安で眠れなかったのに、皇宮を出て粗茶と粗食の生活をしていたらずっとよく寝られるようになったのだ。」
そう聞くと、日ごろ飲んでいる薬に問題があるのではと段岭は疑ってしまい、疑心暗鬼な様子を隠せない。李衍秋は粗布の袍に身を包んでも、体からにじみ出る帝王の気質は変らない。
彼は廊下に座ってぼんやりと考え事を始めた。そこで、段岭は再び武独を起こしに行き、体を拭いて、薬を換え、服を変えてやった。その時突然、庭から話し声が聞こえて来た。
今日来たのは大きな若者だった。器量よしで元気だが、少し気の抜けたような笑顔を見せている。彼は李衍秋に向かって、「大兄さん、昨日のご飯はおいしかったですか?」と言った。
「ああ、ご苦労さん。」と李衍秋は答えた。
「おいしかったならよかった、おいしかったならよかった。」と大きな若者は何度も頷き、別の食盒を開けながら言った。「風風がね、また二人お客さんが増えたからって、今日は大兄さんに持っていく料理を増やしなさいって言ってたんだ。」
「今度は誰だ?」武独が眉をひそめて小声で言った。
「あの人を覚えている。」段岭も小声で言った。「天下第一亭の、店主の助手だ。」
大きな若者が料理を置いて出て行こうとした時、段岭が武独を支えて部屋から出て来た。
若者は段岭にへらへらと笑いかけた。どうやら少し足りない青年のようだ。段岭が彼にお礼を言うと、若者は何度も頭を下げた。だが、武独が怖い顔をしているのに気づくと、そそくさと壁に跳び上がり去って行った。
「あの人が口を滑らせたりしないかな?」段岭が言うと、李衍秋が答えた。「彼は段梓風の助手で、名前は阿衡。何年も彼についているから心配しなくていい。」
阿衡が持って来た昼食は、鶏一羽に、八目春巻き、葱と豚肝の揚げ物、野菜の炒め物の大盛だった。ずっとまともに食べて来なかった段岭はすぐに箸をとり、李衍秋と向かい合って昼食を取り始めた。武独は碗を持って行き、廊下に座って食べ始めた。
「さあ、よく帰って来たな。」李衍秋は酒の杯を持って、段岭の杯に当てた。「帰って来たからにはもう出て行くな。まあ一杯飲みなさい。」
段岭は言った。「ようやく戻ってこられました。」
李衍秋は離れたところにいる武独に向かって杯を掲げた。武独は怪我をしているため、段岭が酒を飲ませないので、茶杯を掲げることにした。
「武独は怪我をして、力がだいぶ落ちたのではないか?」李衍秋が尋ねると、「問題ありません。」と武独は答えた。「何日かすれば治りますから。」
確かに問題はないだろう。武独が適当にそう答えたからではない。もう敵がいなくなったからだ。
李衍秋が言った。「暫くの間、二人はゆっくり体を休めなさい。鄭彦が色々な事実を調べ終えたら、一緒に姿を現すのだ。」
「叔父上、」段岭は杯を置いて、不安げに尋ねた。「今私は何をすればいいのでしょうか?」
すると李衍秋が答えた。「やりたいことがあれば、何でもすればいい。」
「なぜ黒甲軍に外を守らせないのですか?」段岭が言った。「謝宥はまだ知らないのですか?だったら危険すぎます。」
「それは私が彼に知らせたくないからだ。」李衍秋が言った。
段岭は彼の言葉を遮らなかった。今から李衍秋が彼の計画について自分に話すのだと分かったからだ。
「謝宥に知らせなかったのは、彼を疑っているからではない。黒甲軍を動かせば牧曠達に気づかれ、全て台無しになると思ったからだ。牧曠達は韓濵と裏でつながっている。上京の変で、お前のお父上を死に至らしめた罪については殆ど調べがついている。だがそこにまた別の人物がかかわっているかどうかについては、とても疑わしいのだ。」李衍秋が言った。
「牧曠達に直接対峙しようとしないのは、それが理由だ。彼が韓濵と結託しているとすれば、牧曠達を排除して彼の家を捜索し、彼らが共謀した証拠となる文書を見つけねばならない。」
段岭は理解した。そうした文書が李家の手に渡れば、密謀に関与した者はいつ李家がそれを持ち出して自分に対峙してくるかと、不安になる。つまり韓濵には自らの兵を率いて造反する他なくなる。だが辺境の守護将を江州に召し返し、直接殺さない限り、辺境を鎮守する武将に対峙することなど不可能だった。
「それでも彼を暗殺することは可能ではありませんか?」段岭が言った。「辺令白の時のように。」
「辺令白の死によって既に彼は警戒するようになっている。」李衍秋が言った。「この男は今や死士を育てるようにまでなった。だからもし暗殺が失敗すれば、それはそれでとても厄介なことになるのだ。」
段岭は頷くほかなかった。すると李衍秋は再び言った。「韓濵は今日の午後、江州に到着し、葬儀のために城に入る。その時、内閣と謝宥はおそらく彼が兵を城に入れることに極力反対するだろうが、牧曠達は彼を城に入れるだろう。さもなくば、彼は謝宥と交渉するための元手を失うからだ。」
「そこで私は鄭彦にひそかに観察させることにした。」李衍秋が言った。「いったいどれだけの者が牧曠達を支持しているのか、見定めるためだ。」
「その後は?」段岭が再び尋ねた。「どうやって決着をつけるのですか?」
「牧曠達はあの偽者の証拠を持っている。」李衍秋が言った。「偽者を排除するなら、即位する前が絶好の機会だ。この件はお前が言うより、牧曠達に言わせた方がいい。あの者は緻密な思考の持ち主だから、必ずや朝廷を納得させる合理的な説明をするはずだ。」
「ですが、そんなことをすれば、皇位継承者が誰もいなくなってしまいます。」段岭がそう言うと、李衍秋は答えた。「皇后が懐妊している。」
段岭はドキッとした。
誰の子を?彼は危うく、そう言いかけたが、すぐにそんなこと聞くべきではないと気づいて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
一方、武独は食べ終えた食器を、廊下の前の床に置いたところだったが、振り返って部屋に入り扉を閉めて、それ以上の話を聞かない意思を示した。
「彼が偽者をうまく排除した暁には、烏洛候穆に証拠を出させる。烏洛候穆は承諾している。偽太子の一件は、趙奎と牧曠達が結託して起こしたことで、自分は牧曠達に買収されて世間を騙したことにするのだと。
「その時が来たら、まずは牧曠達と韓濵を一緒に宮中におびき出す。」李衍秋は軽い口調で言った。「そして彼らが油断している隙に鄭彦と武独で協力して最初に韓濵の命を奪い、兵権をとりあげてから、群臣を召集して二人の罪名を知らしめるのだ。」
段岭:「……。」
段岭は驚愕した。李衍秋はそんな風に牧曠達を貶めるつもりだったのか。人を嵌めて罪を着せるのは、普段は牧曠達の方が好んで行うやり方だ。それが最後には牧曠達が身に覚えのない罪を着せられ、正義も弁明もないまま死を迎えることになるとは。
「お待ちください。」段岭としてはこんな計画はあまりにも危険すぎるとしか思えなかったが、李衍秋の考えでは、正常極まりないことのようだ。確かに牧曠達と韓濵が共謀して朝廷を操ることに成功すれば、きっと気も緩むだろう。その段階での彼らの成功に乗じて手を下せば最も勝算が高くなるはずだ。「牧相はきっと身を守る備えをしているはずです。」
「うむ。」李衍秋は何か思う所のある様子で頷いた。「お前から見て、彼はどんな備えをすると思う?」
「蔡閏を排除しようと動くことについては、特に問題ないと思います。」段岭が答えた。「ただし、蔡閏を引きずり下ろした後でも、長聘の行方や昌流君のことも探し続けるでしょう。これが解決しない限り、彼は気が休まらないでしょうから。」
すると李衍秋が言った。「そして彼は考えるだろう。長聘と昌流君は姚復の手に落ちたのではないかとな。それで姚複には、ここで牧曠達の謀叛の件を調査し、一刻も早くお前を探し出して、その地位につかせる手伝いをさせるつもりなのだ。」
「そういうことだったのですか……。」段岭が言った。「それなら、五姑上はご存じなのですか?」
「彼女にも姚複にも知らせていない。」李衍秋が言った。「今現在私がまだ生きていることを知っているのは、お前と私、武独、鄭彦、烏洛候穆だけだ。天下第一亭の店主でさせ、私が何者なのかは知らされていない。」
段岭は唖然とした。李衍秋の行方はそこまで厳重に隠されていたのか!
「この前淮陰で会った時に、彼らは既にお前が太子であることを知った。」李衍秋が言った。「私は、なるべく早く牧曠達に対峙するつもりだと二人には伝えておいた。五姑上は私の依頼で偽の玉璜を作らせた。お前に渡した本物の玉璜と入れ替えるためだ。ただしおそらく二人も私がこんな風に使うとは思ってないだろう。何もなければ、淮陰の手の者が既に北上して鄴城に知らせを届けているはずだが、お前たちとは会わなかったようだな。」
段岭が言った。「ということは、五姑上は私が江州に戻ったとお考えでしょうね。」
李衍秋はゆっくりと頷いた。
(皇后の懐妊について李衍秋は心当たりないんだろうな。自分の子ならそこまで無関心にはならないだろうからな。誰の子かは最後まで書かれていないけど、色々無理があるからワザと読者に投げたのかもしれない。)
第204章 危険を冒す
李衍秋は話を続けた。「鄭彦によると、お前の五姑上は、偽太子か牧曠達のどちらかが朕を毒殺したのではないかと疑っていて、姚復と共に、ここ数年朕が服用していた薬を調べさせているらしい。」
「あの日、叔父上の御傍近くにいた人物を教えてください。」段岭が言った。
「鄭彦が来たし、皇后も来た。偽者も来たな。」李衍秋は眉頭を動かした。
「ということは、姚復だった可能性もありますね。」段岭が言った。
「お前は賢いな。」李衍秋が言った。「牧曠達は既に鄭彦に疑いをかけ始めているそうだ。」
段岭はそれ以上話すのをやめた。とても美味な料理のはずなのに、何を食べても味がしない。
そこでもう食べ終えることにして茶を飲み始めた。「鄭彦一人だけでは、情報不足になる恐れがあります。内情が複雑すぎますから。前に費宏徳先生から教わった方法があるのですが、それならうまくいくかもしれません。」
李衍秋は少し眉をひそめた。半日たっただけで段岭がもうじっとしていられなくなるとは思わなかったようだ。
その日の午後、江州城内の厳戒態勢が更に強まっているのが段岭にはひしひしと感じられた。喪章を掲げた家々を黒甲軍は何度も調べまわっていた。
「こんなやり方は危険すぎるぞ。」武独は怪我がまだ治っていない。幸い見えるところに傷はなかったが、手には包帯を巻いていた。
「危険じゃないよ。」段岭が言った。「昌流君が投降してきた時から、私達にはもう敵無しみたいな状態なんだから。」(帝陵でのあれは?)
「私達って俺には敵なんかいないぞ。」武独が言った。「いるのはお前の方だ。文人の闘争の方が刺客の殺り合いよりずっとやばいんだからな。」
「私が彼を騙せると信じていないの?」段岭が尋ねると、武独は「信じている。」と答えた。
「だが十分に気を付けろよ。」
世界中で、段岭が一番申し訳なく思う人物がいるとすれば、それは疑いなく牧曠達その人だ。
彼の教えを受けておきながら、今や自らの師父と敵対するために戻って来たのだから。そしてこれは段岭史上最大の挑戦だった。牧府にいた二年間に牧曠達が直接彼に教えたことはとても少ない。だが知らず知らずの間に、立派な人物となるべき振る舞いを教えられていたのだった。
段岭は時に考えることがあった。例え今回牧曠達が死ぬことになっても、彼の目標はいつか達成されるのではないかと。自分と黄堅はどちらも彼の学生だ。いつか自分があの地位に立つ日が来ても、治国の理念の根底にあるのは牧曠達の教えなのだから。
段岭は言葉を尽くして李衍秋を説得した。昌流君が府内にいない今、武独が近くにいてくれれば、例えうまく騙せなかったところで、牧曠達は自分に手出しすることはできないからと。
十分な証拠を集める必要があった。韓濵と牧曠達の交わした手紙など、それらを持って最後に決めの一撃を加えたかった。
牧曠達には今使える人材がいない。段岭に二心あることに気づいたとしても使うほかないはずだ。それに牧曠達が自分を殺そうとしたところで、武独がいれば何ができるというのか。
考えれば考える程、費宏徳は正しいと段岭は思った。充分巧妙に動きさえすれば、牧曠達はきっとまた自分を信用するだろう。
牧家は自分が出て行った時と何も変わっていなかった。だが一年たって戻って来てみると、少し古ぼけた感は否めない。鄴城と比べ、江州の路地は複雑に交差しあっていて、屋根の構造も北方の豪華さとは比べられない。以前ここに住んでいた時には気づかなかったが、河北に行った後では、丞相府は少し小さくなったような気がした。
「入るか?」武独が尋ねた。
「行こう。」段岭が答えた。「もう後には退けないよ。」
初秋の午後、空は洗い流されたかのように一片の紺碧だった。段岭は門を押し開けて中に入って行った。以前住んでいた院は何も変わっていない。出て行った日に、庭の片隅に置かれていた洗濯板がまだそのままあり、前庭で干していた布巾は既に一年間風雨にさらされてすっかり汚くなっていた。
「正院に行こう。」段岭が言った。
府内にいた下人たちはみな段岭に気づいたが、引き留めることはせず、「王大人、お帰りになったのですか。」とだけ言った。
段岭は頷いて、「今帰った。相爺は?」と尋ねた。牧曠達はまだ府にいなかったが、牧磬は帰ってきていた。牧磬は一人書房で昼寝をしていた。午後の日差しが書房に差し込み、彼の頭の上に落ちていた。段岭は中に入ると、牧磬を押してみた。牧磬は育ちきれていない子供のように、寝ぼけまなこで段岭を見た。段岭が微笑むと、牧磬はいきなり歓喜の声を上げた。「わあ、夢じゃなかったんだ!」
武独が傍らに腰を下ろして、「お父上は?」と尋ねた。
「皇宮にいるよ。今日は韓将軍が都に着いて、父上と太子殿下とで何か話し合うらしい。」
牧磬は大喜びで、段岭を引っ張っては眺めまわし、「ワンシャン、何で急に戻って来たんだい?」と言った。
「何事も、遅かれ早かれなされるものですから。」
牧磬はすぐに人を呼んで皇宮にいる牧曠達に知らせるようにと命じたが、段岭があまり広めないで欲しいと言うと、頷いて、管家を呼びつけ、管家に自分で行くようにと命じた。
―――
その頃、宮内御書房では、李衍秋が不在であるにも関わらず、蔡閏が今まで通り帝卓の後ろに、ただしすぐ近くに座っていた。牧曠達、内閣の蘇閥、謝宥、姚復がその場にいた。
「韓濵が五万の騎兵をつれて、葬儀に来ました。」謝宥が言った。「今は北城外の江北平原に駐屯しております。これが弔文です。」謝宥は手紙を蔡閏の前に置いたが蔡閏は開こうとせず、ただ黙っていた。馮鐸の教えの通り、一言も言わずに。
蘇閥が冷笑した。「五万の騎兵を江州に連れて来るとは、何をするつもりだ?絶対に入城させたりするものか!」
「韓濵とのやり取りをしている者は何か言っていたか?」姚復が尋ねた。
「韓濵は陛下の死因に疑いを持ち、開棺して検視したいと要求しています。」謝宥が答えた。
牧曠達が言った。「棺の蓋は既に釘付けされており、太医堂から出ている報告書を大人各位もご覧になっております。検視報告書を韓濵に見ていただけばそれでよろしいのではありませんか?」
「検視はさせぬと言ったら?」蘇閥が言った。
「まあ、『清君側』=君の側にいる奸臣を清めると言い出すでしょうな。」謝宥が答えた。
その言葉を聞いた途端、全員が表情を変えた。まさか謝宥がそんな言葉を口にするとは。
「『清君側』だと?」姚復が最初に怒りだした。「誰を清めるのだ?本候か?謝将軍か?蘇大人か?牧相か?!」
「一兵卒も伴わせずに、彼だけを入城させたらどうだ?」
「いけません!」牧曠達がすぐさま言った。「韓濵は玉壁関を鎮守して久しく、かつての征北軍出身で、武帝とは同袍の情があります。兵権を解けば激しく反発することでしょう。」
「同袍の情ですと?」謝宥が言った。「あの北域兵変には奴も加担していたはずだが。」
「あの時武帝はまだ天子ではありませんでした。」牧曠達が言った。「北良王に封じられていただけでしたし、趙将軍が朝廷名義の諭旨を発したのです。何の誤りがございましょうか?」
謝宥が答えた。「私は彼を信用しないし、こんな時に彼を城に入れることなど絶対にできない。五万の大軍を城内に駐留させたりしたら、どんな事が起きるかわからないからな。」
「弟の韓賀は来ていないのか?」姚復が尋ねた。
「玉壁関に残って、三万の歩兵を率いている。」謝宥が答えた。「『神を招くのは容易いが神を送り出すのは難しい』と言います。韓濵を城に入れてしまえば、もう出て行くことはないでしょう。この男は十四才で従軍し、武帝に付き従った征北軍最古老です。あっけなく死んだ辺令白とは比較になりません。既に一度起きてしまった趙賊の患を再び繰り返すことはあってはならないのです。」
すると牧曠達が言った。「謝宥、それは韓将軍が謀叛を企んでいると暗に言っているのか?」
全員が一斉に謝宥を見た。謝宥は、「用心するに越したことはないとだけ言っておきます。」
姚復が言った。「私の意見では、やはり城に入れるべきではないと思う。」
蘇閥が首を振った。「やつはいったい何を調べようと言うのだ?」
書房内は沈黙し、ただ蔡閏がゆっくりと韓濵の弔文をめくる音だけが聞えていた。
韓濵は武人だけあって、文字も文章も力強い。そして前半は殆どが哀悼の言葉であるのに対して、最後の部分では自分は太子が即位するのを守るために来たのだと暗示してあった。
蔡閏は暫く考えた末、言った。「こうしよう。私が自ら城を出て彼と話をして来る。そして彼が兵を城外に置いておくなら、私が彼と共に入城する。」
「それはあまりいい考えとはいえません。」謝宥が言った。「殿下は千金の御身、危険を冒すようなことは絶対にあってはなりません。」
「もし父上が生きていたとしたら、彼もそうしたはずだ。」蔡閏が言った。「私は既に太子の身なのだから、誰も私に成り代わることはできない。だったら何の問題がある?もうそう決めた。今夜私が城を出て彼に会って来る。」
謝宥は言いたい言葉を飲み込んだ。蘇閥たちの表情はとても複雑で、牧曠達は僅かに眉を寄せた。
「烏洛候穆と鄭彦に護衛をさせる。」蔡閏は立ち上がった。「謝将軍、心配は無用だし、他に誰も付き添わなくて大丈夫だ。やるべきことは、これまで通り何でもする。もし私が戻らなければ、皆さんで何とかしてくれ。さあもう帰ってくれ。」
蔡閏の眼差しを見た謝宥は何か違和感を感じた。だが蔡閏はもう誰にも口を挟む機会を与えず、率先して出て行った。その後、蘇閥も出て行くと、謝宥は走廊を進み、牧曠達がその後を追った。
「我らが太子大人の性格は、先帝お二方とそっくりですな。」牧曠達はにやりと笑った。
謝宥が言った。「先ほど牧相は『清君側』と聞いて、何を思われましたか?」
「私のはずはないな、と。」牧曠達は僅かに微笑んだ。「聞いた話ですと、あの夜、私の後で、五公主様が、当日お仕えしていた宮女たちを何度も呼んで取り調べられたそうですから。」
ちょうどその時、宮女の一人がそそとやって来て、牧曠達に一枚の紙きれを渡した。謝宥は振り返ったが、それを覗き見ようとはしなかった。牧曠達は紙を広げて見た途端に表情を変え、大急ぎで言った。「用事ができましたので、お先に失礼致します。」そして背を向け、その場を去って行った。
灯りを点す時間となった。牧府では少し夕食が遅れていた。牧曠達はこのところ家に戻って食事をすることがなかったが、段岭と牧磬は席を開けて夕食をとるのを待っていた。
「若様は先に召し上がってはいかがですか?」段岭が言った。
「父上はすぐに帰ってくるはずだよ。」牧磬が言った。「去年からずっと君のことばかり考えていたんだから。」
そう言われると、段岭は複雑な気持ちだったが、あまり色々考え始める前に、部屋の外から下人が「相爺がお戻りです。」と知らせてきた。
足早に食堂に入って来た牧曠達を、段岭は立ち上がり、拝礼して迎えた。
「ああお帰り。」牧曠達はさらりとそう言った。「よく帰って来たな。先ほど武独を見かけた。一緒に食事をするように言ってやりなさい。」
牧磬が言った。「こんな風に神出鬼没に戻って来るなんて意外でしたね。」
すると牧曠達が言った。「こんなご時世なのだ。言葉を控えて行動するのは、いいやり方だ。」
「ご心配をおかけいたしました。」段岭が言うと、牧曠達は笑っただけで何も言わず、婢女の持って来た銅盆の水で手や顔を洗い、茶で口を漱いだ。
牧曠達は息子の前ではあまり色々話したくないのかもしれないと段岭は思った。そして取り合えず戻って来たからには、一緒に食事をとることにした。
第205章 再投降
食事をしながら、牧曠達は牧磬に、なぜ修史に行かなかったのかと尋ね、牧磬は休みだったからだと答えていた。この親子は以前からこんな感じだった。牧曠達が勉強のことを尋ねて、牧磬が一つ一つ答える。牧曠達は牧磬の本当の父親が誰かを知らない、ということを知っている段岭としては、複雑な気持ちだった。
そしてついつい牧曠達の様子を観察してしまう。この一年で牧曠達は随分と年をとった。
背まで縮んだように見える。(50才だよね)先ほど部屋に入って来た時に、見違えてしまったほどだ。一国の宰輔は髪が白くなり、夜の灯りのせいかもしれないが、だいぶ髪も薄くなっているようだ。
牧曠達は鄴城の治政について、段岭に色々質問し、段岭は一つ一つ答えた。今の所まだ隠し事もしていなかった。そこへ突然牧磬が尋ねてきた。「昌流君は?ワンシャン、彼がどこにいるか知っているか?」
段岭は牧磬を見てから、牧曠達に視線を移した。すると牧曠達が言った。「彼はもうすぐにでも戻って来る。前にお前に王山は戻って来ると言った時、お前は信じなかったが、今はどうだ?」
牧磬は眉をひそめた。「ですが、彼は今どこにいるのですか?」
それには武独が応えた。「すぐに戻って来ますよ。今はどことは言えないが、帰って来たらご自分で聞いてみるといい。」
すると牧磬はしぶしぶそれ以上聞くのをやめた。牧磬が以前と全く変わっていないことに段岭は気づいた。下心など微塵もない。どうやら入朝して修史の役人となっても、ひたすら書を書き写しているだけの日々だったようだ。
食事が終わると、牧曠達は段岭について来るようにと言い、段岭はついにこの時が来たと思った。これからどう振舞うかが、最終局面に直接影響を与える。だがその全てについては、すでにしっかりと予習してあった。
牧曠達は彼を連れて、裏庭から書閣に上がって行った。そこはいつも長聘と牧曠達が議事を行っていた場所だが、今や長聘はおらず、牧曠達は再び誰かと密謀をすることはできない。
これは自分に対して、彼が何かの信号を送っているのかもしれないと、段岭は鋭敏に感じとっていた。
武独は書閣の下で守りにつき、段岭が入って行くと扉を閉めた。
すると段岭がまだ腰も下ろす前に、牧曠達が問いかけた。「何か言いたいことがあるのだろう。言いなさい。」
段岭は深く息を吸って、牧曠達の前に進み出ると跪いて身を伏せ、震える声で言った。
「私は昌流君がどんな任務で来たのかを知らなかったのです。」
「賢いお前ならそのくらいはわかるはずだと師は思っていたがね。」牧曠達は淡々と言った。
「弟子は本当に知らなかったのです。」段岭が言った。「過ちを認めます。」
すると牧曠達が言葉を続けた。「あの夜、深夜に鄭彦が戻ってきた時、まずいことになったと私にはわかった。昌流君にはお前にはっきり伝えるようにと言っておいたはずだが、お前はやりたがらず、今になってもまだ私を騙そうとするのか?」
段岭は立ち上がらずひれ伏したまま、心の中でひやりとした。牧曠達は全て知っているのか?まさかそうではあるまい。蔡閏が彼に話すはずはないし、蔡閏以外には誰も知らないはずなのだから。
そこで段岭は作戦を変え、小声で告げた。「弟子は……確かに一度は応じようと思ったのですが、それから……ある考えが浮かんでしまったのです。」
そう言った途端に、牧曠達の態度が微妙に変化した。
「もう少しでお前もやられるところだったのだぞ。」牧曠達は冷ややかに言った。「手柄を上げて出世するのはよい。だが師はお前のせいで危うく死ぬところだった。立ちなさい。」
段岭は背中が冷や汗でびしょぬれになっていた。今のは最後の賭けだった。牧曠達は自分の正体を疑っているのではなく、自分の裏切りを疑っているのだと。
李衍秋が江州を離れ鄴城に行くと、牧曠達は人を送り、昌流君を遣わせた。それは、段岭に必ずや自分に協力して旅の途中で李衍秋を殺せという暗示だったのだ。
だが段岭はそんな行動に出るそぶりを見せずに、武独に軍を率いさせて皇帝を救出した。それは牧曠達に対する明らかな裏切りだった。利益と弊害を天秤にかけた結果、李衍秋の暗殺に協力すれば自分はいつか牧曠達に口封じされるが、皇帝を救えば大手柄を上げられると判断した結果の裏切り。
師弟は互いに心に思う所があったが、それは口に出さずにいた。
牧曠達の理解では、李衍秋は既に死んでしまったので、段岭が命を救った件は結局無駄に終わったようなものだ。それでももし段岭が自断退路とばかりにこの件を公開すれば、牧曠達は朝廷の心ある人たちに非難されることになっただろう。だからこそ再び身を寄せて来た段岭を牧曠達は受け入れざるを得ない。つまり段岭には自分が再び彼に投降すれば、牧曠達は受け入れるに違いないと分かっていたのだ。
「陛下は……太子の件をご存知でした。」段岭が言った。
「そんなことはもうどうでもいい。」牧曠達は切り捨てた。「死んだらそれまでだ。死んだ者がどう思っていたか誰が気にするというのだね。」
「そうですね。」段岭は答えた。
「お前は賢い子だ。」牧曠達が言った。「だから私は帰って来るだろうと思っていた。だが時にお前は賢さゆえに先走りし過ぎる。歩くことを学ぶ前に飛ぶことを学びたがるのだ。」
段岭が敢えて何も言わずにいると、牧曠達が言葉を続けた。「それに突飛な行動をとりたがる。お前の様な弟子を持ってよかったのか悪かったのか私にはわからない。ところで昌流君はどうした?」
「まだ鄴城におります。」段岭が言った。「彼のために師父に許しを請うようにと頼まれました。」
「帰って来させればいい。」牧曠達が言った。「運が悪かったのだ。仕方がない。あの男もお前と一緒で日和見主義なところがあるのだな。」牧曠達はため息をついた。その言葉の示すところは、昌流君が暗殺に失敗して自らの命を守るために段岭についたことを牧曠達は知っていたということだ。
牧曠達が立ちあがると、段岭は急いで、座っていてください、自分がお湯を沸かしに行きますからと身振りで示した。
「陛下を殺したのは私ではない。」牧曠達は湯が沸くのを待ちながら、「意外だったか?」と言った。「は……はい。」段岭はドキドキしながらそう答えた。
「耳の痛いことを言うようだがな、ワンシャンよ。我らは師弟だ。時には胸襟を開いて話さねばならぬこともある。」牧曠達が言った。「登りつめたいと思うのは結構なことだが、気を付けねば、落ちて粉々に砕けることになるのだぞ。」
段岭は急いで肯定した。すると牧曠達は、「この件はもうここまでとするが、もう次はないと思いなさい。」と言った。
段岭は頷き、牧曠達は「今後はもうこのことを持ち出さなくていい。これからどう動くかはお前次第だ。」
段岭はほっと息をついた。そして一番難しい場面をようやく切り抜けたことを知り、こくんと頷いた。
「長聘はどうした?」牧曠達が尋ねた。
「わかりません。」段岭は答えた。「できる限り探したのですが。」
すると牧曠達は意味ありげな様子で段岭を見た。「最後に彼に会ったのはどこでだ?」
段岭が答えると、牧曠達は、「死んだのかもな。」と言った。
「もしくは太子の手の内か。」段岭が言うと、「それはないだろう。」と牧曠達は答えた。
「姚候が捕えているのでなければ死んだのだろう。用心するに越したことはないが。定軍山下で陛下を救った後、お前は鄴城に戻ったのか?淮陰に行ったのではないのか?」
「行きました。」段岭が答えた。
「姚候は何と言っていた?」牧曠達が尋ねた。
「わかりません。」段岭は答えた。「武独の治療のために淮陰に行ったのですが、すぐに鄴城に戻りましたから。」
「お前は傍に誰か策士を置いているのではないか?」牧曠達は段岭をじっと見つめて尋ねた。
「はい。」段岭が言った。「費宏徳先生が河北にいらっしゃいました。」
すると牧曠達は何か釈然としたようだった。「道理でお前の年頃の者からは出ない発想がいくつか見られたはずだ。」
段岭が特に何も言わずにいると牧曠達は暫く考え込み、何か言おうとしたところで、意図を汲んだ段岭が言った。「今回、費宏徳先生は昌流君と一緒に江州にいらっしゃいます。」
牧曠達は聞こうとしていた問いの答えを得て、再び考えの中に没入し始めた。
すると暫し考えた末に段岭が言った。「弟子は謝宥を殺しに行こうかと考えております。」
実の所、段岭は少し気が大きくなっていた。李衍秋が死を偽装できたのなら、謝宥だって当然できるだろう。だが牧曠達が同意しないことはわかっていた。
案の定、牧曠達は冷笑した。「彼を殺す?彼を殺して何になる?韓濵を招き入れて私の首を取らせるつもりか?」
段岭は再び返す言葉を失った。やはり牧曠達は李衍秋の計画を見抜いていたのか。この君臣は互いに相手をよく知り過ぎていた。
「だがお前が謝宥に会いに行くと言うのはいいかもしれない。」牧曠達が呟いた。「お前が前面に出た方がいいこともありそうだ。お前は陛下を救ったのだから、謝宥はきっとお前を信用するだろう。」
段岭は何も言わないことにした。
「韓濵の方はどうなることか。」牧曠達が言った。「偽太子様があまり頑張りすぎないことを願うまでだ。万が一韓濵を取り込んだら面倒なことになる。こちらは手を下すために、謝宥に助けを求めることになってしまうからな。」
―――
秋の夜は少しずつ涼しくなってきた。真っ暗な平原の中に、光の海のごとくに、灯火が煌めく場所があった。
蔡閏と郎俊侠、馮鐸、そして鄭彦の四人は編み笠をつけて、百人ほどの黒甲軍の護衛の下、城外の軍営に近づいて行った。
「乱入して来るのは何者だ——まずは通達せよ!」
そこは征北軍主力部隊の陣営だった。かつて李漸鴻の兵権を奪った韓濵、韓駕兄弟は二つの部隊の内一つを、西の国境線へと率いて行った。もう一つは辺令白が東の国境線に移動させた。趙奎が謀叛を起こした時に、二つの国境線の兵力は入れ替わり、趙奎の死後、李漸鴻がその内の一部を率いて、上京に段岭を連れ戻しに行ったのだった。
そして李漸鴻の崩御後は、残りの部隊はそれまで通り玉壁関下に送られ、韓濵が再び掌握することとなった。つまり道理の上では、これら五万の者たちは朝廷の兵というわけではなく、李漸鴻のかつての部下たちであった。
「これを韓将軍に渡してくれ。」蔡閏は玉璜を渡した。「それで私が誰かわかるだろう。」
守営兵たちが通達しに戻ってすぐに、軍営内から一騎近づいて来た。韓濵だった。「太子殿下、ようこそおいで下さいました!」
兵士たち全員が片膝をついて、隊列を組み、蔡閏を向かい入れた。蔡閏は黒甲軍兵士に外で待つようにと命じ、それから郎俊侠に言った。「お前は彼らにそのまま待つようにさせて、鄭彦には彼らと一緒にいてもらい、お前は後から入ってきてくれ。」
郎俊侠と鄭彦はそれぞれ頷いて、蔡閏は歓迎を受けつつ大営に入って行った。
軍営内は、灯火が明るく照らし、高位の将校たち全員が待っていた。蔡閏にはどれが韓濵かわからなかったが、彼を招き入れた大柄の男が兜を取って、「末将韓濵、太子殿下を歓迎致します。」と言った。
跪こうとする韓濵を、蔡閏は急いで助け起こし、笑顔を見せた。「韓叔父様。」蔡閏は意外な行動に出た。手を伸ばして彼を抱いたのだ。
韓濵はため息をつき、長身を聳え立たせた。蔡閏は彼を放すと、将軍たちに向かって、
「各位堅苦しく構えないでくれ。」と言った。
すると韓濵が言った。「もし殿下ご自身にお出迎えいただくと分かっていれば、既に今日の内に城内に入っておりましたのに。申し訳ありませんでした。」
馮鐸が言った。「太子は弔文をお読みになり、韓将軍が奸臣に朝政を牛耳られることをご心配下さっているとお知りになりました。そこで将軍のご心配を取り除こうと自ら足を運ばれたのです。」
非天夜翔 相見歓 第201章
第201章 帝陵
空気を震わすような雷鳴が轟いた。
その音が耳に衝撃を与えるのと同時に河の中に飛び込んだ段岭は、そのまま水底の暗流の中に引きこまれそうにそうになっていた。武独は彼を胸に抱え込んで、背中を河の中の岩にぶつけたが、そこで留まることはなく、両足を精一杯蹴り込んで、段岭と共に岸辺に向かって泳いで行った。
泳ぎのうまい武独は、敵が元々近くにいない限り、彼らから遠のくことができる。川底は真っ暗闇だったが、暗流が錯綜する中に、再び稲光が一本差し込んできた。
段岭は稲光をたよりに目を凝らし、黒衣の刺客が五人、彼らに向かって水の奥から迫りくるのを視界にとらえた。だが武独はまるで恐れることなく、段岭をひっぱって、水底の乱流から、岸辺に向かって泳ぎ続けた。
再び雷鳴が響いた。武独は段岭を水から引き上げ、彼を岸辺の岩の上に押し出して、振り返り、再び河の中に飛び込んで行った。
辺り一面真っ暗闇の中、段岭は敢えて口を開こうとせず、緊張した面持ちで川面を見つめた。
時々稲光が起こると見えた。まず水の中から突然真っ赤な血が沸き上がり、次にそれがどんどん増えていき、最後には川面一帯が血に染まった。
すると武独が再び川から出て来て、烈光剣を鞘に収め、言葉を発する間もなく段岭を抱え上げて、森の中に逃げ込んで行った。
「まだ来るかな?!」段岭が尋ねた。
「わからん!」武独が応えた。「水の中にいたのは全部殺した!まずは逃げてから、後で話そう!」
「下ろしてよ!」段岭が言うと、「お前は裸足だろう!」と武独が応えた。「何も言うな!刺客に気づかれる!」
武独は時々立ち止まりながら、山道を進んで行き、雨音の中に足音が紛れていないかと耳を澄ました。「少しやんできたか……。」武独の声は震えていた。
確かに雨は少し弱まって来たが、雷の方はまだ時々鳴っている。武独の足取りが落ち着いてきたのを感じて、段岭は再び、「下ろしてよ。自分で歩けるから。」と言った。
そこで武独は石坂の途中で段岭を下ろし、辺りを見回した。
「足元に気を付けろ。」武独が言った。「さっき聞えたが、まだ誰かいる。やつらは哨笛でやり取りしているようだ。」
その言葉が言い終わる前に、雨の中、遠い山林の暗がりから小さな哨の音がしたのに段岭も気づいた。
「どのくらいいる?」
「何とも言えないが、絶対に十人程度ではない。」
「ここはどんな所だろう?」段岭が再び尋ねると、「玉衡山中だ。」と武独が応えた。「もう少し登ると飛矢松だ。できるだけ早く山を下りなければ。河の中に彼らが現われたということは、きっと岸に上がって追って来る。」
段岭と武独は更に歩を早め、道を下り続けた。雨がだんだんとやんでくると、辺りは一片の静謐と化し、まるでこの世から完全に音が消えてしまったようだった。
段岭は空を見上げたが、黒雲はまだ去っておらず、真っ暗な夜空の下にはわずかな光さえも見いだせない。静寂の中、聞こえてくるのは武独が水たまりを踏みつけて起こすパシャッという小さな音だけだった。
それを聞くと、段岭はどうしても上京でのあの夜、世の中の音が消え、全てが静まり返った時のことを思い出さずにいられなかった。
だがその時、段岭はビュンと弓を引く音を聞いた。武独の反応は更に早く、段岭をサッと抱え上げ、彼の顔と首を守って二人一緒に石段をゴロゴロと転がり落ちた。
四方から竹笛の音が響き、山道の両側から瞬く間に数十名の刺客が次々に現れ、強弩を手に持ち二人に射向けて来た!
武独にも近づくすべはなく、段岭を抱いたまま階段を転げ落ちながら、「俺の前を走って逃げろ!」と叫んだが、「前にもいる!」と段岭も叫び返した。
次の瞬間、前からも刺客が襲い掛かって来た。段岭は弓を引き、前から飛び込んできた刺客を射殺した。刺客は額を射抜かれて仰向けに倒れ、手に持っていた鉄弩が飛んで行った。
段岭は跳び上がって、その強弩をつかんだ。すると武独は再び宙返りして後ろから段岭を抱え込み、二人はそのまま山の斜面を滑り降りた。灌木や木の枝が当たって折れ、段岭の顔をすりむいて頬が痛み、最後には石ころまみれになって山の端の崖の先にひっかかった。
崖の下は岩だらけの灘だ。落ちたらぐっちゃりとした血肉の糊と化してしまう。段岭と武独は手を引っ張り合い、武独は烈光剣を崖に突き刺して何とか支えとした。
崖の上には刺客が続々と現れる。段岭が鉄弩の引き金を引いて、刺客を射殺すと、刺客は絶叫を上げて崖から落ち、くぐもった音を立てた。
その時、武独が怒号を上げた。「ウワア——!」
雷鳴のように耳をつんざくその咆哮は、山並みを震わせ、木霊を返した。一生の功力を尽くし、武独は段岭と共に弧を描いて、岩の上に跳躍すると、二人は茂みの向こう側の空き地に向かって飛んで行った。
「気を付けて!」段岭が叫んだ。
武独の背中には矢が当たって血が飛び散ったが、矢を抜くこともせず、段岭を守ってよろよろと滑り降りて行く。刺客の数は増える一方で、いまや百人近くいる。四方八方から襲い掛かってきて追い払いようもない。
「どこから来た刺客なの?」
「影の部隊だ!」武独は叫んだ。「新たに集められたに違いない!」
二人は真っ暗な廟殿の前に落ちた。段岭は大きな音を立てて頭から鉄門に当たった。武独はすぐに、段岭を鉄門の前に押し付け、自らの体で彼を護り、振り返って敵に向かい合った。
無数の足音が聞こえ、刺客たちが次々に近づいて来た。
武独は両手の指虎を腰帯に付けた装置に押し当て、毒の粉をはじき出した。一方で逆手に肩の上に刺さった矢を折り、血が噴き出した。「俺が奴らを引き付けている隙に、山を走り下りるんだ。」
「いやだ。」段岭は声を震わせた。「武独。命がけなんてやめて……。」
この時、空を覆っていた黒雲に隙間が開き、無数の星が瞬いて世の中を照らし始めた。ほのかな星明かりのお陰で、段岭には百を超える刺客が前方の平台を埋め尽くし、弓矢を構えて四方八方からゆっくりと近づいて来るのが見えた。
彼らは武独の毒霧を防ぐために二十歩近い距離を保っている。あの百の矢が一斉に放たれれば、二人は青銅門の前で射殺されることになる。
段岭は猛然と振り返り、わずかな星灯にたよって、大門の上に架かった古い鎖を見つけた。
「武独。」段岭は小声で言ったが、武独は何も答えない。彼は力強い背を段岭に押し当てた。
その場の刺客が歩を停めた。
「西北方向に向かって走れ。」武独は僅かに体を曲げた。力を放つ時の動作だ。刺客たちが同時に強弩の引き金を引いた。
だがその瞬間、段岭はさっと武独の腰から烈光剣を抜くと、鎖を斬り、大門を押し開けて、廟堂の中に飛び込んだ。
「閉めて!」段岭が叫んだ。武独はすぐさま反応し、ガツンと肩で門に体当たりした。
外では嵐のように弩矢の当たる音がバラバラとなり続き、鳴りやむことがない。
段岭は扉を押さえる物を求めてあちこち探し回ったが、廟堂の中はガランとしていて、座布団一つ見当たらない。外では敵が門を押し開けようとし始めた。武独は剣鞘を押し込んで開かないようにしながら、「中に逃げ込むんだ!」と叫んだ。
二人は通路を進んで、廟堂の奥深くに入り込んだ。目の前は真っ暗闇で、その暗闇の中に段岭と武独、二人の息遣いだけが聞える。何かがぶつかる音がして振り返り、武独と共に壁にぶつかった。「武独?」段岭は呼びかけた。段岭は指を伸ばして、武独の震える手を撫でると、そのまま腕を撫で上げ、武独の顔を探り当てて、彼の唇に口づけをした。
「行き止まりだ。」武独が小声で言った。「ここで待っていろ。俺が奴らを全員始末しに行く。」門の外では再び衝撃音が聞こえ、刺客たちは今にも入り込んできそうだ。
「いいえ、待って。」段岭が言った。「出口はきっとある。どんな廟だろうと、廟なら裏門が……。」
あちこち探り回った段岭は、突然石台の上に火打石と引火物を探り当て、すぐに火を打ち始めた。外では再び轟音が響き、烈光剣の精鋼の剣鞘は曲がりながらも、なんとか門を止めていた。
火がつくと、段岭は石台の傍らにあった小さな蝋燭に灯りを点した。するとその角に長明灯があるのに気づいて、それを点すと、その瞬間、室内がたちまち光に満たされた。
そこは陵寝だった。
陵寝には、龍を彫刻した白玉の石棺があり、その前には黒檀で彫られた牌があった。
【大陳武帝】
「ここは父さんの陵なんだ。」段岭は声を震わせた。「父さん……。」
段岭と武独は肩を並べて、李漸鴻の石棺の前に立った。段岭は僅かに微笑み、「あなたが私たちをここに来させたの?」と話しかけた。そして彼は前に進み出て、石棺の前に跪き、横顔を棺の端に置いて、小声で言った。「帰って来たよ。ようやくこうして帰って来た。」
背後から再び轟音が聞えて来た。武独が猛然と振り返ると長廊の先の銅門は既にボコボコになっており、そこから一筋の光が差し込んできていた。
武独は息を切らし、目を閉じて言った。「今まで生きて来て、天意というものを信じたことはなかったが、今は信じずにはいられないな。」
「あそこを見て。」段岭は指さした。「父さんがあなたに与えてくれたんだよ。」
陵寝の奥には黒い甲冑が架かっていた。煌めく鎧はまるで本物の龍のうろこのようで、麒麟の兜は威厳に満ちている。護腕、戦靴も一揃い全てある。
それはかつて李漸鴻が上京に向かう時に身につけていた戦甲だった!
兜の傍らには、鎮山河を模して造られた重剣があった。あの時、鎮山河は失われてしまったため、李衍秋が鋳造させて、帝鎧と共に陵寝に収め、李漸鴻と共に殉葬させたのだ。
その時、再び轟音が響き、ついに大門が押し開けられて、強弩を手に持った刺客たちが陵寝に飛び込んできた。
武独はその身を戦鎧に包み、弩矢の嵐を迎え撃ち、流れに逆らって重剣を倒して、荒々しく刺客たちを斜めに斬り込んで行った!
その夜、星灯が万道に広がった。黒雲はついに去り、天の川が天際を横切った。
戦靴は陵寝の外地を踏みしめ、水を飛び散らせた。千万の水たまりに天際を埋め尽くす星々が映っていた。
段岭がゆっくりと出て行くと、目の前は既に死体で埋め尽くされていた。
万丈もの高台の上、玉衡山の麓にある帝陵の大門が開かれた。星明かりは帯の如く絡みつくように煌めき滔々と東に向かう長江に映っていた。
再び一年が廻って七夕となった。
武独は兜を取り去り地面に崩れ落ちて声を震わせた。
彼は疲れた様子で重剣を取ると、陵寝の前で待っている段岭に向かって行った。そして武独は段岭を抱きしめ、二人は同時に地面に跪いた。帝鎧の下の熱い血は未だ冷めることはない。
あの年の英魂は門を出た時のあの約束を忘れたことはなかったのだ。
麒麟兜は水たまりの中に転がり、鏡面のような水に天際の銀河が映っている。
七月七日、天孫が錦を織り、銀瓶を傾けて、人の世に幾千万もの煌めく珠露を注いだ。
天から地に落とされたものは、再び天へと向かう。
段岭は顔を上げて天際を望み、瞳の中に燦燦と煌めく星辰を映した。
七月七日、この世の夢の儚きこと、西風に隔てられるが如し。天上に算すれば、年華も一瞬成り。
七月七日、銀河は万古秋声 二人を別つ
——巻四《羽觴醉月》終わり——