非天夜翔 相見歓 日本語訳 第6章-第10章

第6章 すっぽかし:

 

「天地玄黃、宇宙洪荒。日月盈昃、辰宿列張。寒来暑往、秋收冬藏。閏餘成歲、律呂調陽……。」

頭を振りふり、朝読書の時間に、名堂からもらった《千字文》を唱和し始めて半月がたったころ、段岭は大半の文字を読めるようになっていた。先生が戒尺でその中の一句を指すと、段岭は音読する。別の一句を指され、また読む。また別の一句を指される。

「これは何という字だね?」先生が問う。

「君です。」段岭は背筋をぴんと張って答える。

「これは?」先生が問う。

答えられないと、先生は戒尺で掌を叩いた。段岭は声を出さないようこらえたが、掌がじーんと痛んだ。(まじ?厳しすぎ。あ、でも読み方一つだし、部位でわかるのもあるしな。)

「壁だ。」先生は手を背において、学童たちの間を歩きながら、言った。「和氏壁の壁、玉壁関の壁だ。有匪君子、如圭如璧。その次を。」

段岭は思わず左手を撫でてから、筆洗い磁器のひんやりした表面を触って冷やした。先生は問題を出しながら一回りし、戒尺罰も同様に与えた。空が暗くなり、外で鐘がなると、先生が言った。「授業は終わりだ。」(ん?午後の話だったのか。)

 

子供たちはわっと歓声をあげて立ち上がると、部屋を出て行った。今日は朔日。休みをもらい、家に帰れる日だ。名堂の外には隙間なく馬車が押し寄せている。子供たちは首を長くして、お祭りでも待っているかのようだ。段岭はずっと郎俊侠が自分を迎えに来るのを待っていて、最初の頃は耐えがたいほどだった。だが、休みの日が近づいて来ると、切望する気持ちは逆に落ち着いてきた。

 

門番が一人一人名前を呼ぶと、呼ばれた子供が連れていかれた。子供たちは柵によじ登って外を見ようとしたが、戒尺を持った先生を見ると、叩かれるのを恐れてさっと降りた。

段岭は階段の上でつま先立ちして外を見ていた。郎俊侠は背が高いから一目でわかるだろう。だがまだ来ていないようだ。きっと道一杯の馬車に阻まれているんだ。馬に乗っているのだから、しばらくは入ってこられないのかもしれない。

「元府―――元坊ちゃん。」

「林家――。」

「蔡家――蔡坊ちゃん。」

蔡閏が歩いて来て、子供たちに小首を下げた。まだ首を伸ばしてみていた段岭は蔡閏を暫し見つめた。蔡閏は彼に手をふり、「君のお父さんは?」と尋ねた。

「もうすぐ来るはず。」段岭は蔡閏に迎えに来るのが父親でないことは説明しなかった。蔡閏が大門を出て行くと、馬に騎った若者が彼を自分の前に座らせている。段岭は羨ましそうに馬上の若者を見ていた。若者は何の気なく段岭を一瞥すると、前を向いて馬を走らせ去って行った。

 

二刻が過ぎた頃、院内には十数名が残っていたが、名堂前の通りにはまだ馬車が停まっていた。最後の一人を門番が呼んだ後、残っているのは段岭と、あの自分を鐘にぶつけた少年だけだ。段岭は立っているのに疲れて、階段の上に座ることにした。少年は足を組み替えて、入り口にもたれて外を見ていた。服を着替えた大先生や他の先生たちが段岭の前を通り過ぎた。互いに拱手しあい、傘をさして休みを過ごすため、家に帰って行く。

 

門番が大門を閉めた。夕日の最後の光が暗い紫色に変わっていき、壁に松の影を投げた。

門番が言った。「腰牌を渡して。迎えが来た時にあなたたちを探しに行けるようにね。」

あの少年が先に腰牌を置きに行ったが、出て行きはせず、立ったまま辺りを何となく見回している。段岭は腰牌に目を凝らし、「布児赤金・抜都(ブアルチジン・バド)」と書かれているのを見た。(オーディオドラマでは、バードゥオと呼んでいる感じ。)

 

 

「私たちはどうしたらいいですか?」段岭は少し心配そうに尋ねた。バドという名の少年を見ようとしたが、彼はもう行ってしまった。

門番が答えた。「食堂に夕食を食べに行きなさい。食べ終わったら、待ち続けるなり、何なりして、もし迎えが来なければ、夜は布団を持って書閣の二階で寝たらいい。」

段岭はもう半月近く待った後で、希望でいっぱいのところから、突き落とされたようで、涙が止まらなかった。それでも郎俊侠はきっと来ると信じていた。今まで約束を違えたことなどなかったし、言ったことはやる人だ。きっと何か逃れられない事情があって、身動き取れなくなったのだろう。段岭は部屋に戻って持ち物の整理を始めた。その時、前院で鐘がなったのが聞こえ、はっとして走って見に行ったが、見えたのはバドが去って行く後ろ姿だけだった。段岭はふと気づいた。バドは食事だと呼んでくれたのだ。

以前の少年同士の気持ちのぶつかり合いはどこかに忘れ去られたようだ。恨みなどあっという間に消え、段岭は彼に対してもう敵意は全くなく、あるのは同類相哀れむ、仲間意識だった。

 

今日から二日間、名堂では雑役五、六人が留守を守る。厨房では大鍋で野菜を煮込んでいて、食事を受け取ろうと何人かが列を作っていた。食堂の中には灯が二つともり、座れるのは一卓だけだ。段岭は碗に夕飯を入れてきたが、座る場所がない。するとバドが少しずれて場所を作ってくれた。段岭が疑わしそうにしていると、バドはついに口を開いた。「殴らないから、座れ。そんなに怖がることはないだろう?」

『誰がお前なんかこわがるか。』そう思いつつも、少し気まずい思いはしていたが、立ったまま食べるわけにもいかず、段岭はバドの横に座ることにした。

 

もし郎俊侠が来なかったらどうしよう?段岭はあれこれ考えて気持ちを落ち着けようとした。郎俊侠はきっと来る。たぶん瓊花院で飲み食いさせられ、来られなかったのだ。飲み過ぎたので、酒が覚めてから迎えに来るのかもしれない。

 

食事がすむと、段岭はまた部屋に戻ってしばらく待っていたが、放課後は炭の節約のために火が消され、室内は氷室のように寒々していた。段岭は座っていられずに行ったり来たりとうろうろ歩いていたが、さっき門番が書閣で夜を過ごすようにと言っていたのを思い出した。火のある暖かいところに行かなくては。そう思って布団を丸めて、よっこいしょっと持ち上げると、後院を抜け書閣に入って行った。

 

使用人たちも既にそこに来ていて、それぞれが一階の床に布団を広げていた。角にある炭炉は、一年中つけっぱなしで、厨房の烟管とつながっている。地熱管が書閣、簡室、蔵巻に送られ、古書や竹簡が、湿気や寒冷により、破損したり、墨字が劣化するのを防いでいるのだ。

 

段岭が入って行くと、雑役夫が彼に言った。「坊ちゃんは学生さんなのですから、二階の方に行ってください。」

二階は薄暗かったがとても暖かかった。窓の外は雪の白さで昼のように明るく見え、はらはらと舞う雪の花の影が障子の向こうに柔らかに光り、白く透けて見える。

高い書棚が一列に連なり、中央の大机に置かれた灯が縦横に光を届けている。四方どちらを見ても全て蔵書、巻物、木簡が置かれている。遼帝は、かつて南征した時、漢人を町から追い払いはしたが、文献や書籍はこよなく愛して集めさせ、上京、中京、西京などに運び込んだ。中には前王朝時代の貴重な書物もあった。淮水の戦い以前、それらの書籍は陳国天子の太学閣に置かれており、一般人には読むことができなかった。今では歴史の灰塵に覆われてはいても、古今の賢者たちの魂が込められた巻物は、書棚に静かに鎮座して灯火の薄明りに照らされている。

 

灯の下、バドが布団を敷いて頭を枕に置いていた。段岭はそこに行こうか少し迷ったが、バドは彼をちらっと見ただけで、書棚のところに行って本を開いた。冤家路窄:嫌な奴ほどよく会う、とはよく言ったものだ。段岭は思った。もうバドには敵対心を持っていなくても、やっぱり何となく気まずい気がする。きっとバドも同じ気持ちだろう。二人の子供は互いに冷たい態度をとるつもりはなかったが、かといって先に仲直りしようと口を開きもしなかった。

 

そういうわけで、段岭は長机の反対側に布団を敷き、灯皿を中間地点として、川を国境とするかのように、お互い不干渉とし、自分も本を選んで、郎俊侠が迎えに来るまでの時間をつぶすことにした。

字を習い始めたばかりの段岭は、まだよく本が読めない。絵の多い本を読もうと、植物図鑑の《草木経》を開いた。たくさんの植物や昆虫がおかしな描かれ方をしていて、読みながら段岭は思わず笑ってしまった。ふと顔をあげて机の反対側を見ると、バドが自分を見ていた。

バドは段岭より更に本に興味がなさそうで、あれこれ、取ってはめくり、机には何冊もの本が何頁か開かれたまま置かれていた。最後には全て横に押しやって、座り直して首を掻き、しばらくすると今度は上衣を脱いで外袍を腰に巻いて、半身をはだけた。だが今度は寒くなって布団を体に巻いたりと、まるで与太者のような様子だ。

 

段岭はもうそれほど本に集中できなくなり、欠伸をして机の上に突っ伏した。風雪の中、外から、見回りが柏木を叩く音が聞こえてきた。もう真夜中なのに、郎俊侠はまだ来ない。

——ひょっとしたら今晩はもう来られないのかもしれない。

段岭は心が彷徨い、あれこれと物思いに耽り始めた。郎俊侠が自分を段家から連れ出してから、もう一月余りがたっていた。学堂に来てからというもの、毎日段岭は考えていた。前より色々なことを知るようになってからも、依然としてなぜ郎俊侠が自分を連れ出したのかがわからなかった。『私は段岭です。私の父は段晟といい……。』心の中にこの一文がいつも甦ってくる。郎俊侠は彼の父、『段晟』の依頼で、彼を上京に連れてきたのだろうか?もし本当にそうなら、なぜ父は自分に会いに来ないのか?去り際に郎俊侠が言っていた、「まだやることがある。」の、やることとはいったい何なのかだろう?ひょっとしたら、彼には自分など全く重要ではないのかもしれない。犬や猫と同じ、無事ならそれでいい。父親に手紙を送ったら、後は生きようが死のうが、郎俊侠にはどうでもいいのかもしれない。

段岭は布団に寝そべり寝返りを打った。ふと、ある絶望ともいえる考えが浮かんだ。

―――郎俊侠はもう二度と来ないのかもしれない。郎俊侠に自分を迎えに来る理由なんてあるのか?彼にとっては自分は家族でも何でもない、話す価値さえないのではないか?

段岭は懐に手を入れて、小袋に入った玉玦を撫でた。心に言いようのない苦しさが広がった。

その苦しさはだんだんと暗くなっていく灯光のように、心を離れず、彼を更に深い絶望へといざなっていく。きっと郎俊侠は自分を騙したのだ。母さんがこの世を去った時に、きっと父さんが迎えに来るよと賄い夫が言った時と同じだ。あの時はずっと待っていたけれど、結局父さんは迎えに来なかった。郎俊侠もきっとそうなのだ。あれは子供を宥める為に言った言葉に過ぎず、きっともう二度と来てはくれないのだ。

段岭は考えが止まらず、顔を布団に埋めた。気持ちを切り替えなくては。

 

声を聞いたバドが、机の下の隙間から、疑わしそうに段岭を観察した。段岭がもぞもぞ動いているのを見ると、立ち上がって、勢いよく机にのると、その机を逆側にどかした。

「おい、」バドの声が耳に届いた。「泣いてるのか?どうしたんだ?」

段岭は彼に説明はしなかった。バドは机の上に片膝をつき、片手で机の端をつかんでぐいっと頭を下におろし、段岭の布団をとろうとしたが、段岭はふとんをしっかりとつかんではなさなかった。バドは裸足の脚を伸ばして段岭の布団を蹴っ飛ばすと、ひらりと飛び降りて、布団をあけ、段岭の顔を外に出させた。段岭は泣いてはいなかったが、眉をぎゅっと寄せていた。バドはあぐらをかいて、段岭をじろじろ見た。段岭もバドをじっと見た。お互いの目の中に暗黙の了解を読み取っているかのようだ。最後には、段岭は顔を隠すのをやめることにした。

「泣くなよ。」バドが言った。「我慢しろ。こらえるんだ。」

バドはイラついたような言い方をしたが、全く嫌そうではなく、まるで、自分も通ってきた道だと言わんばかりだった。彼は手を伸ばして段岭の頭に置き、ゆっくりと撫でた後、腕をぽんぽんと叩いてやった。ふと、段岭は気持ちがだいぶ楽になったのを感じた。

 

その日、十歳のバドと、八歳半の段岭は灯が揺れる書閣の中にいた。満天の大雪を通り越して、豆粒くらいの大きさの灯が段岭の心を照らし、記憶を新たにした。雪が漆黒の過去を覆い隠したかのように、その瞬間彼の悩みは形をすっかり変えられていた。

バドと段岭の間は灯の光線によって分かれていた。二つの世界を隔てるかのように。段岭は不思議なことに気づいた。過去の記憶がなんだか曖昧になってきたかのようだ。もう段家でのひどい扱いや、骨身に染みる空腹の記憶にとらわれることはないだろうと感じた。

「君の名は段岭、君の父は段晟だ。」郎俊侠が、彼の人生という白紙に書いた文字がだんだんと消えて行く、或いは、更に濃い色の墨で書き換えられていくかのように、段岭の苦悩は形を変えたのだった。

 

「あいつはお前がいらないんだ。」バドが気だるげな口調で言った。段岭とバドは肩を並べて机の傍に座った。布団を体にかぶせ、書閣に架けられた書画をながめながら心を彷徨わせた。

「彼は私を迎えに来ると約束した。」段岭は意地を張るように言った。

「俺の母さんが言うんだ。この世の誰もお前のものではないって。」バドは金と碧の入り混じる滄州河山図を眺めながら悠然と言った。「妻も子も親兄弟も、空を飛ぶ鷹も、地を馳せる駿馬も、可汗の賜る恩賞も……。お前の物にはならない。お前はお前自身であるだけなんだって。」バドは下を向いて指を折りながら、何の気ない調子で言った。

段岭は横を向いてバドを見た。バドの体は、いつから洗っていないのかわからない毛皮の袍子と混ざり合った、羊皮のようなにおいがした。髪も油っぽくベタベタしている。

「奴はお前の父さんか?」バドが尋ねた。段岭は首を振った。

「家臣か?」

段岭は首を振る。バドは困惑したような顔で尋ねた。「まさか本当に稚児飼いの旦那なのか?お前の父さんは?母さんはどうした?」

段岭がまた首を振ったので、バドはそれ以上聞くのはやめた。

それからずいぶんたってから、段岭はバドに言った。「私には父さんはいない。私は私生児なんだ。」

本当は彼にもよくわかっていた。郎俊侠の言う、「君の父は段晟。」はただの作り話に過ぎないと言うことを。さもなくばなぜその「段晟」を連れて来ることができないのだ?

「君は?」段岭が尋ねた。バドは一つ頷くと言った。「俺の親父はもうずっと前から俺のことなんかいらなかった。毎月一度は家に連れて帰ると言ったのに、もう三月も顔を見せない。」

「みんなうそつきだ。」段岭はバドに言った。「もう信じてやらなければ、騙されることもなくなるよ。」

バドはどうでもよさそうに言った。「うん、まあでもやっぱり少しは信じている。」

「君もよく騙されるの?」段岭が尋ねた。

「まあな。」バドは体を横たえ、地面に寝そべって段岭の瞳を見据えた。「以前はよくあった。今はそうでもない。お前ならわかるだろう?どうして信じてしまうかを。」

段岭は何も言えなくなった。郎俊侠は自分を騙さないと思っていた。他の人とは違うのだと。

 

夜がだんだんと更けていき、聞こえてくるのは雪の花が舞い落ちる音だけだ。段岭とバドは、一人はうつぶせに、一人は仰向けに横たわった。布団の中はバドの少年らしい臭いがしていた。二人はいつの間にか眠りについていた。段岭はもうあまり希望を持っていなかった。きっと郎俊侠は明日も来ないし、明後日も来ないだろう。段家にいた時に大人たちがいもしない父親のことでからかった時と同じだ。「おい、私生児、父ちゃんが迎えに来たぞ!」

何度そういわれたことだろう。初めの頃毎回信じていた段岭も後になると学習して、もう彼らを信じなくなった。だが大人たちの方も学習して騙し方を変えたのだ。ある時など、客が来たと言って夫人が見に行かせた。段岭は期待いっぱいに走って行って、庁堂を汚し、当然その後は殴られて終わった。またある時は段岭の前でひそひそ話をして、うっかり秘密を漏らしたように装い、彼の反応に満足して大笑いした。みんな段岭が泣く様子をみるのが大好きだったようだ。

 

これから自分はずっとここに置いておかれるのだろう。だが学堂は段家に比べたらずっとましだ。少なくとも、だいたいにおいて比較的満足とは言えるだろう。人は足るを知れば常に楽しき。瘌痢和尚が托鉢する時に言っていた言葉だ。和尚は上梓で死んでしまったけど。

段岭の夢は果て無く広がった。静かで穏やかな気分だった。ちょうど上梓の河流が春から夏へと変わる中で緑を濃くし、きらきらと黄金色に光を反射している夢を見ている時に、バドが彼を揺さぶり起こした。

「おい、誰かが迎えに来ているぞ。」バドが言った。段岭は寝ぼけまなこにぼんやり顔で、片手をバドの上においたが、バドはそれをどかした。

「彼じゃないのか?」バドが聞いた。

郎俊侠が小声で言った。「段岭、迎えに来たよ。」

段岭ははっと目ざめ、目を大きく開けて信じがたい気持ちで郎俊侠を見てからバドを見た。

バドは灯を手に持ち、疑わしそうに郎俊侠の顔を照らした。郎俊侠は光を当てられて少し嫌そうだったが、バドは段岭が知らない人に誘拐されるのを恐れ、もう一度尋ねた。

「彼なのか?」

段岭は「彼だ。」と答えると、手を伸ばして郎俊侠の首に巻き付け、自分を抱き起させた。

「世話をしてくれて感謝する。」郎俊侠はバドに言った。

バドはイラついた表情で灯を置いた。段岭は目を開けられないくらい眠かったが、バドに何か言いたかった。だがバッドは机をくぐって自分の布団に入ると、布団で自分の顔を覆ってしまった。

 

 

雪の中の上京は眠っているかのようだった。一年で一番寒い季節だ。郎俊侠は段岭を毛布でくるむと、馬を走らせた。冷たい風に吹かれてだんだんと目が覚めてきた段岭は、瓊花院に向かっているのではないと見て取ると尋ねた。「どこに行くの?」

「新しい家だ。」郎俊侠は何か心配事があるようだったが、聞かれるとそう答えた。

新しい家だって!段岭はすっかり目が覚めた。道理で遅かったはずだ。きっと新しい家の準備をしていたんだ。彼は郎俊侠を見上げ、顔が真っ青なのに気づいた。疲れたのだろうか。

「眠くなったかい?」段岭は郎俊侠が自分の体にくっついて頭をなでてくれたのを感じた。

「ううん。」郎俊侠は何だか気を失いそうだったが、段岭に呼ばれて、気を奮い起こそうとしていた。「食事はしたの?」段岭が尋ねた。「うん。」郎俊侠は答えて片手で段岭を抱いたが、彼の手はとても冷たく、いつもと違っている。「新しい家はどこなの?」

 

 

郎俊侠は何も言わずに、手綱を引いて馬を曲がらせ、奥まった通りに入って行くと、街中を通り抜け、真っ暗闇の中、一軒の家に入って行った。段岭は飛び上がらんばかりに喜び、郎俊侠が馬をしっかり牽くのも待てずに、家の中に入って行った。

門にはまだ鎖がかかっていて、室内はボロボロだ。部屋が六つあり、走廊が一本ある。大門に灯籠を架ける場所はあるが、まだ灯はついていず、灯籠は玄関に放置されていた。

「これから二人でここに住むの?」と段岭は尋ねた。

「ああ。」郎俊侠は簡単に答えた。中庭を見た段岭の顔に笑みがこみあげてきた。後ろでは郎俊侠が扉を閉め、鍵をかけた音がした。だが次の瞬間、バタンと音がして、まだ手を入れていない庭の花壇に郎俊侠が倒れていた。体に雪が落ちて来る。段岭は驚いて振り返ったが、郎俊侠は倒れたまま動かなかった。

 

 

 

 

第7章 夜襲:

 

「郎俊侠!」段岭は大声で名前を呼びながら必死で彼を揺さぶった。郎俊侠は反応しない。

木に積もっていた雪が段岭の体に落ちてきた。

突然何が起きたのか段岭にはまだ消化できずにいて、しばらくの間、恐怖が頭の中を駆け巡っていたが、すぐにもっと大事なことに思い至った。―――このままでは凍えてしまう。郎俊侠の体になぜ血痕があるのか、何が起きたのかはわからないが、何としてでも回復させなくては。

彼は必死の思いで郎俊侠の体を動かし、庁堂の中に入らせた。うまくいったが、疲れ果ててしまった。その時、郎俊侠が少し意識を取り戻しかけた。段岭は再び大声で声をかけた。

鼻の前に手を持って行って息を確認すると、郎俊侠の呼吸は穏やかだったが、唇は色を失っていた。

火をつけなくては。段岭は考えながら、あちこち探し、新たな家をひっかきまわして、厨房の炉の前にあった木炭と、廃棄された瓦炉を見つけ、庁堂で火を起こした。

 

部屋にはふとんもあった。部屋の一角にふとんを敷いた時、段岭は郎俊侠の体から血が滴り出ているのに気づいた。庁堂に広がる鮮血は、敷居に血だまりを作っている。閉じた扉から庭の雪の上にも鮮やかに血の跡がついていた。庭の大門から、二人が通って来た長い路地、路地の端の角から大通りまで、血の跡は点々とついていた。

段岭は郎俊侠の体を探ってみたが、傷薬は見当たらない。あったのは小さな布包みだけで、

そこには自分の出生届が入っていた。どうしたらいいだろう?郎俊侠の顔色は真っ白で、衰弱しきっているのは明らかだ。熱も出ている。段岭はお金を持って、家を飛び出し、医者を探しに行った。病気になったら医者を呼んで診察してもらい、薬を手に入れなくては。段家にいた時は、みなよく自分を薬屋に走らせたものだった。

 

 

一日で最も静謐になる時間帯の上京には神秘的な夜の力があるように思える。寒空の下、武独(ウードウ)の背が高く痩躯な姿が町の中に現れた。ボロボロの綿袍に傘をかぶり、手に持った短剣を何の気なく弄びながら、家々を一軒一軒渡り歩いては、聞き耳をたてていた。

黒衣の男が彼の後ろについて行き、警戒しながら四方を見渡している。

武独:「見つけたら、次はもう勝手な行動は慎んでくれ。」

黒衣の男は冷笑した。「ウードウ!忘れるなよ。将軍は俺を助けるためにお前を遣わせたんだぞ!それに傷を負った体で、どこに逃げられると言うんだ?」

 

「別に祝兄と手柄を争う気はない。俺がことを台無しにすると思うなら、祝兄一人で探してくれてもかまわない。」武独が言った。黒衣の男は武独を一瞥してからフッと冷笑し、何も言わずに身を翻し、上京の家屋の庭に忍び込んで行った。

武独はしばらく黙ったまま遠くを見つめ、町の中心街に歩いて行った。

 

 

段岭は『栄昌堂』の裏門を叩いて、雪が吹き荒れる屋外から、急いで中に入った。

「先生は診察に行っている。どんな病だ?」

「流血しているんです!」段岭は助けを求めるように言った。「もう動けなくて!先生はいつ頃戻りますか?」

「どんな怪我だ?男か女か?年頃は?」店主がいらいらと尋ねた。

一刻を争う状況なのだと、段岭は身振りを交えて説明した。酔いどれ顔の店主は、医者はここではなく二本向こうの通りに住んでいる、今夜は酒を飲みに来ていたが、東街の家で難産があり、薬箱を持って診察に行った、どこの家かはわからないと答えた。

 

だが、それを聞いた段岭がどうにかなりそうなの見てとると、酔っ払い口調ながら、「大丈夫、大丈夫。私が金創薬を持ってきてやろう。血の巡りをよくする薬剤が入っているから、煎じて使いなさい。熱が退いたらよくなるだろう……。」

店主はよたよたと階段を上って薬を取りに行った。段岭は不安でいっぱいなまま勘定台の後ろに立っていた。ふと、人参は万病に効くと聞いたことがあるのを思い出し、椅子にのって人参を取ろうとした。その時、入り口を叩く音がした。「誰かいるか?」低くかすれた声が聞こえる。

段岭は片手に提灯、もう一方の手に人参を持って、どうしようかと考えた。外からガラッという音がした。鍵がかかっていると言うのに、どういう客だろう?段岭は急いで台から降りると、椅子の上に跪いて、灯を置いたまま、勘定台の上から外を見た。

 

入って来たのは年若い男性だった。雪まみれで、左手を懐に入れ、何かを握っているようだ。右手は外に出していたが寒さで赤くなっている。男は横向きに、肘を勘定台に置いて段岭を見下ろした。体の小さい段岭は勘定台から半分しか顔が出ていない。探るように目をのぞき込まれると、一瞬で威圧感を覚えた。

削られたような顔立ちに深い目鼻立ち。頬骨が高く、皮膚は浅黒い。双目と漆黒の眉は草書の筆払いのようだ。横顔の下の首筋には墨色で古銘文の入れ墨がある。何かの獣の側面のようにも見える。

「先生は?」若い男は淡々と尋ねた。そして指の間から、キラキラした金数珠を出した。段岭はその美しい金数珠に目を奪われた。驚いた顔で金数珠を見てから男を見る。男が人差し指と中指で金数珠をくるりと回すと、珠玉がパラパラっと勘定台に散らばった。

「先生は……助産に出かけました。」段岭は金珠から目を上げずに答えた。「東街の……ある家で難産があって。」男は指で軽くはじいて、金珠を段岭の目の前に転がし、『取ってみな。』という仕草をした。「お産に呼ばれた以外で、今夜誰かが先生を訪ねてきたか?」

「いいえ。」段岭はほとんど考えずに答えた。男からは危険な空気を感じる。金珠にも手は出すまい。触らぬ神に祟りなしだ。小さいころから苦労を重ねて、警戒心が強くなった。

「先生は君の父さんか?」

「いいえ。」段岭は少し後ろに下がって、男を探るように見た。

「手に持っているのは何だ?」男は段岭が持っている薬剤に気づいた。盗んだなどとは勿論言えない。仕方なく、彼に見せて話を作った。「妊婦さんに食べさせる人参です。」

男はしばらく黙ったままでいたが、段岭は店主が下りてきて自分のうそをばらすのではとはらはらした。「他に何か御用は?」

 

「いや、もうない。」男は口角をあげて、邪気のこもった笑みを浮かべると、勘定台においた手の指でとんとんと台を叩いた。すると、金珠が開いて、金の甲殻をきらめかせ、五色の模様のあるサソリが現れた!

サソリは段岭に向かってくる。段岭は驚いて大声をあげたが、男は笑いながら手を一払いしてサソリを修めると、扉を開けて、風雪の中に消えて行った。

(ようやくチラッと出てきた武独。)

 

段岭は急いで会談を上がって行き、店主が散乱した薬の内の人包みを手に持ったまま、薬棚の下に倒れているのを発見した。酔っ払って意識を失ったようだ。心の底からほっとして、這いつくばって薬を探し、「金創薬」という文字を見つけ出すと、急いで家に向かった。

大雪は郎俊侠がつけた血痕を覆い隠してくれた。深夜でも長街は少し明るい。馬もまだ大門の外にいた。段岭は、寒さに震えている馬を、裏庭にある馬小屋に牽いていってやり、干し草をかいて食べさせてやった。「すぐに戻るから待っていろよ。」

振り返ろうとしたその時、いきなり伸びてきた腕が体を捕えた!段岭は叫び声を上げようとしたが、ごつごつした大きな手で口をふさがれてしまった。

「ん……ん……。」必死でもがくが、背後の男の力は強かった。男は冷たく輝く短剣を段岭の喉に押し当て、ほんの少し突き立てた。段岭は目を見開き、動きを止めた。

「郎俊侠はどこだ?」背後から男が尋ねた。短剣に映った男は夜行服を着て覆面をしている。

段岭は落ち着きを取り戻し、口を引き結んで何も言わなかった。

「指させ!奴はどこにいる?!言わなければお前を殺すぞ!」刺客は小声で威嚇した。

(家に来たのなら、部屋を探せばいいんじゃないか?)

段岭は裏庭の方を指さしながら、どうやってこの男に出て行かせるか、もしくは大声を出して、郎俊侠に警戒を与えることができるか、考えた。

体の大きな男は段岭を片手で抱え、教えられた通り、裏庭に入って行った。地面は凍り付いて滑りやすい。男が走廊まで跳び越えようした瞬間をとらえて、段岭は思い切り刺客の手にかみついた。思いがけず指をかみつかれ、刺客はとっさに大声を上げた。反対の手で刀を抜いて段岭を指そうとしたが、彼は既に地面に降りて転がった後、這い逃げて行った。刺客は後を追いながらも、助けを呼びに行くのだろうとあまり焦らずについて行く。だが段岭はかしこくも郎俊侠のところへ走りこんだりせずに、走廊を駆け抜け、木戸を叩き開けて、大声で叫んだ。「人殺し!人殺しだーーー!」そして馬小屋に入ると、ここから逃げ出すことに力を尽くした。刺客に郎俊侠がいることを知られてはならない。刺客は段岭が郎俊侠のところに行くだろうと思っていたのに、段岭が暗い夜道に駆け出したのでまずいと思い、急いで手を伸ばし、段岭の後ろ襟を捕まえた。その時―――

柱の影から冷たく光る剣先が現れた。刺客は猛然と短剣をふるったが、カンと音をたてて短剣は真っ二つに折れた。すぐに斜め上から次の一振りが落ちる。真っ青な顔をし、息も弱い郎俊侠は刺客に剣を向けたが、足元がふらつき、剣派一歩及ばぬところに落とされた。

刺客は何を逃れ、目の前が真っ暗になった郎俊侠は地面に崩れ落ちた。段岭は大声を上げて飛び込んでいくと、郎俊侠の背の上に体を伏せてかばった。

 

刺客は冷笑し、地面に落ちた長剣を蹴とばすと、段岭を持ち上げて、彼の顔を拳で叩いた。大きな拳が横から眼球に当たり、頭の中で爆音がして、目からは火花が散ったようでそのまま地面に倒された。刺客は郎俊侠の紙をつかんで顔を上げさせ、別の短剣を抜いて彼の喉に突き立てた。「李漸鴻はどこにいる?」

「子供は殺すな。お前に警告する……。」郎俊侠の唇は僅かに動いただけで、口を開く気力もないようだ。段岭はもがいた。眼球が脳の中に押し込められたような気分だったが、それでも力を尽くして、落ちていた剣に手を伸ばした。刺客は段岭の耐久能力を甘く見た。

死の危険と隣り合わせで生きてきた者は粘り強い。実際、彼はこれまでの人生、殴られ続けて生きてきた。小さいころから、壁にぶつけられたり、平手打ちされたり、拳で殴られたりしてきたため、攻撃から身を守るすべを身に着けていた。正面からの攻撃では鼻筋や眉間を避けて、目元で拳を受けることだ。

前かがみになった刺客は、郎俊侠の瞳に映った、自己の背後で郎俊侠の利剣を拾った段岭が襲い掛かってくるところを見たが…………。

時すでに遅し。急いで振り返った刺客に、段岭は背後から剣を向け、首の後ろに突き刺した。

利剣は小さな音を立てただけで、刺客は地面に釘付けにされていた。

 

「俺が……。」

刺客は信じがたいとばかりに目を見開いていた。こんなか弱い子供の手で死ぬなんて。

彼は雪の上で二度手を動かしたが、後ろ首を貫かれ、すぐに命を落とした。

 

刺客の息が止まった後、天地の間にはただ舞う雪があるだけとなった。段岭は初めて人を殺した。手も顔も返り血でいっぱいだ。信じがたい思いで刺客を見てから、転がるように這って、郎俊侠のところに行き、彼の懐に飛び込んだ。郎俊侠は目を閉じたまま、段岭を懐に抱いた。段岭が恐る恐る様子を伺うと、刺客は目を閉じず、彼らに目を向けたままだった。

郎俊侠は手を上げて、段岭の目を覆い、それ以上見ないようにさせた。

 

 

―――

半時辰後。

「誰だ?!」

青い鷹が、町の上空を旋回していた。夜警兵が若い男の人影に気づいた。馬を走らせながら、男は唇に指をあてて、口笛を吹いたが、風雪の中、応える者はいなかった。

官兵がどんどん集まって来る。鳥笛の伝達で、四方八方から追手が来る。若い男は屋根から小道に飛び降りた。雪の中、身を翻して追手をかわすが、道を出たところで更に多くの追手が現れた。戦闘を回避するため、男は身を引き、雪の中に浮草のように点々と足跡を突ける。官兵が集まって弓矢を構えた。だが布陣が整う前に、男はくるりと体をまわし、袍の中から無数の黒い小矢を放った。(手裏剣みたいな?)

巡防衛士が馬で駆けつけて叫んだ。「上京城内で暴れまわるのは誰だ?!」

馬が目の前まで迫ってくると、男は笠を脱ぎ捨てて相手にめがけて放り投げた。次の瞬間、衛士は馬から転げ落ちた。すれ違いざまに男は飛んできた笠をつかむと再び頭に乗せ、何も言わずに、路地の中に走り去り、消え失せた。騒動は収まり、騎兵は家を一軒ずつ叩いて捜査を始めた。

 

 

段岭は部屋に火を起こし、郎俊侠を寝台に寝かせて、金創薬をつけた。それから、人参を切って、急須で煎じた。「人参はどうした?」郎俊侠が目を閉じたまま尋ねた。

「薬屋から盗んできた。なぜあなたを殺しに来たの?悪い奴なの?」段岭が尋ねた。

「十二日前、仕事で胡昌城に行った時に、武独という名の刺客に見つかり、後を追われた。機に応じて殺そうとしたが、狡猾な奴で、私は罠に嵌められた。戦って重傷を負い、何とか

アルキン山(ウィグル辺り)の麓で逃げきれたのだ。」郎俊侠が答えた。

「それは……死んだ黒衣の男のこと?」

「いや、外の黒衣の男は『祝』という名で、陳国影の部隊の一員だ。今まで武独とは手を組まなかったはずだが、上京に私を折ってきて、手柄を横取りしようとしたのだろう。まさか、君に殺されるとは夢にも思わなかっただろうな。」郎俊侠は再び目を閉じたまま答えた。

迎えに来られなかったはずだ。仕事ででかけていたのだ。胡昌城ってどこにあるのだろう?

 

疑問でいっぱいの段岭が口を開きかけた時、郎俊侠が言った。「死体を馬小屋に持って行って干し草を載せて隠しておいてくれ。血痕は雪が隠してくれる。あとは服を着替えないと。」

段岭は少し怖かったが、郎俊侠の言いつけに従った。死体は目を見開いたままで、鬼となって夜に自分の命を取りに来そうだ。仕事を終えて、血の付いた外袍を脱いで、単衣に着替えた時、外から蹄の音が聞えた。「巡司使の検問だ!扉を開けよ!」衛士の一人が叫んだ。

 

 

―――

第8章 包囲を解く:

 

段岭は迷った。扉を開けるべきだろうか。―――郎俊侠は部屋に横たわっており、大門には鍵がかけてある。 外にいる人は何度か扉を叩き、段岭は風雪の中に出て行き、門を開けた。

「おや?」騎兵は意外そうだった。「なぜ子供が出てくるのだ?大人はいないのか?父さんか母さんは?」

「病気なんです。」段岭が答えた。

「名堂に入った子じゃないか?」後ろから騎兵隊長らしき男性が、頭を低くして段岭をじっと見た。単衣姿の段岭は寒くて唇が青くなり、門の後ろに立って震えていた。男性は馬を下りて段岭をよく見たが、段岭はどこで会ったか忘れていた。

「お父さんはいるかい?覚えていないかな?私は蔡閏の兄の蔡聞だよ。」

段岭は考えた末答えた。「病気なのです。あなたのことは覚えていません。」蔡閏なら知っているが、この男性のことは段岭は覚えていなかった。

「大人の人に会えないかな?」蔡聞は眉をひそめて、段岭の目の青あざを観察した。先ほどひどく殴られて、段岭の瞼は腫れていた。蔡聞に撫でられて、段岭は少し不安げに後ろに下がった。「寝ています。」段岭は蔡聞に中に入ってきてほしくなかった。刺客の死体を発見されたくなかった。蔡聞は委縮している様子の段岭を見た。子供がこの寒空の中、単衣姿に裸足で門まで出てきている。忍びなく思って、「まあいい。戻って寝なさい。」と言った。

 

「次の家に行くぞ!」蔡聞は兵士たちに言うと、身を翻して馬に乗り、去って行った。馬に乗った姿を見て、段岭はやっとそれが、蔡閏を迎えに来た若者だったことを思い出した。

巡城士兵が去って行くと、段岭はほっと息をついて、門に鍵をかけた。部屋に戻ると、急須で煎じた人参茶がいい香りを放っていた。段岭は人参茶を冷ますために鍋を降ろした。寝台から郎俊侠が咳き込むのが聞えた。「誰だった?」郎俊侠の額は汗だらけだった。

「蔡閏の兄さんの、蔡聞。」段岭は聞かれるままに応えた。郎俊侠は目を閉じたまま言った。

「蔡聞?もう行ったのか?蔡閏とは誰だ?彼の弟を知っているのか?」

「うん。」段岭は熱い急須を手に持ち、郎俊侠の唇に、急須の口を当てて、人参茶を飲ませた。郎俊侠は初めの一口にむせたが、その後は落ち着いて、急須に入っていた人参茶を全て飲み干した。「山人参……命をつなぐ、天の助け。まだあるかい?もう少しくれないか?」

郎俊侠の声が落ち着いて来た。

「もうないんだ。また盗んで……買って来るよ。」段岭が言うと、「いや、やめてくれ。危険すぎる。」と郎俊侠は言った。「じゃあ、水を入れてもう一度淹れなおすよ。」

郎俊侠は断らなかった。この夜はなぜか時間がゆっくり過ぎていく気がする。段岭は寝台にもたれて眠くなったが、人参茶がまた沸騰した。「郎俊侠?」答えがない。「大丈夫?」段岭は恐る恐る尋ねた。「ああ。」郎俊侠はうつらうつらする中で答えた。「死んではいないよ。」

段岭はほっとした。外はますます暗くなる。炉火の光だけが温かな太陽のように二人を照らしている。「郎俊侠?」段岭はまた声をかけた。「生きている。」郎俊侠の声はふいごのように、直接肺から出ているかのようだ。(どゆこと?)段岭は眠くなり、頭が寝台の上に落っこちた。

 

 

翌日、目を覚ました時、雪はやんでいた。段岭は自分が寝台で寝ていて、郎俊侠が隣に横たわっているのに気づいた。顔色が良くなってきている。段岭は子犬のように、体を上げて郎俊侠の匂いを嗅ぎに行った。眉をひそめて郎俊侠の顔の匂いを嗅ぎまくると、深く息を吐いた。(この子は大人になってからもこういうことをするんだよなあ。本当に子犬みたい。)

割れるような頭の痛みに目の覚めた郎俊侠は「何時になった?」と言った。

(文の流れからだと言ったのは段岭のはずだけど、↑郎俊侠が目覚めた記載がないから、これは郎俊侠が目を覚ました言葉と解釈した。)

天と地に感謝しながら、段岭は心配そうに彼を見ると尋ねた。「まだ苦しい?」

「もう大丈夫だ。」郎俊侠が言った。

段岭はうれしくなって、「食べるものを探してくるよ。」と言った。だが、起き上がって庭一面の白雪を見ると、歓喜の声をあげて、雪で遊びだした。

 

「服を着なさい。風邪をひかないように。聞こえないのか?」郎俊侠が言った。

段岭は毛皮の上着を羽織って、竹竿を持って廊下にできたつららを大笑いしながら叩いて回った。ふと目をやると、郎俊侠は部屋の中で外袍と単衣を脱いで、薬を付け直していた。

段岭は竹竿を放り出して駆け込んでくると尋ねた。「少しはよくなった?」

郎俊侠は頷いた。当て布を取り外した腹部の傷口は黒々としている。傷口は閉じているものの、深く切られている。彼は湯を沸かして、きれいに拭き取らせてから、金創薬をつけた。

郎俊侠の白く逞しい腕には奇妙な形の入れ墨があった。虎をかたどったようだ。ふと、段岭は昨夜のことを思い出した。

「彼らはなぜあなたを殺そうとしたの?」段岭が尋ねた。

「私からある人の行方を聞き出そうとしているんだ。」郎俊侠が言った。

「それは誰なの?」

郎俊侠は段岭を見ると、ふと口角を少し上げて目を細めた。

「聞いてはいけない。何も聞いてはダメだ。いずれわかるからね。」

段岭は心配だったが、それでも郎俊侠は生きていた。心を覆っていた暗い影が消え去り、とても幸せな気持ちだった。彼は郎俊侠の近くに座り、腕にある虎の入れ墨を見ると、「これは何なの?」と尋ねた。」「白虎だ。」郎俊侠が説明した。「四獣風水で西の白虎は刀兵の神だ。」

段岭にはよくわからなかった。「あなたは剣を使うのでしょう?あなたの剣を見たけど、すごい切れ味だった。」段岭は郎俊侠の剣を取ってこなくてはと思った。だが剣はすでになく、裏庭に走り出て突然死体がまだ馬小屋にあることを思い出したが、こわごわ近寄ってみると、干し草はどけられて、死体ももうなかったため、恐怖で凍り付きそうになった。

「あれは私が処理した。」郎俊侠が言った。(いつの間に?)「こわがらなくていい。あれは陳国衛隊員だ。武独とはそりが合わなかった。来たのが武独でなくてよかった。もし武独だったら、今頃私はここにいなかった。」

 

段岭は郎俊侠がどう『処理』したか尋ねなかった。夕べ見た血に染まった衣服もどこかに消えている。「何か食べるものを買ってきてくれ。」郎俊侠は段岭に金を渡した。「何も言ってはいけないし、何も聞いてはダメだよ。」

朝ももう遅い。段岭は町で饅頭などを買い、米や肉も買って抱えて帰って来た。乱儒者はもう動けるようになっていて、段岭と饅頭を分け合って食べた。

「まずはこんな風に過ごして、君が学堂に戻ってから、家をきちんと整えるからね。」

「あなたは、またどこかへ行ってしまうの?」段岭が尋ねた。

「いいや、行かないよ。」郎俊侠は答えた。

「来月の一日には迎えに来てくれる?」

「もう二度と遅れないと誓うよ。昨日はすまなかったね。」郎俊侠が言った。

段岭はふと尋ねた。「それはあなたが父さんになってくれるということ?」

郎俊侠は驚き、それから苦笑いした。「この話は絶対に誰にも言ってはいけないよ。」

段岭が眉をしかめると郎俊侠は言った。「お父上はいつか君を迎えに来る。」

段岭:「……。」

その言葉は電のように段岭の全身を貫いた。「父さんは、まだ……生きているの?」

「うん。生きている。」郎俊侠は答えた。

段岭は息せき切って尋ねた。「どこにいるの?生きているの?なぜ私に会いに来ないの?」

このことについて、段岭は数えきれないほど騙されてきた。だが、今回は郎俊侠が自分を騙しているはずはない。なぜかはわからないが、彼の直感がそう言っていた。

「そういうことは、会ってから直接聞きなさい。彼はきっと来る。長くて三年、早ければ数か月以内だ。信じてくれ。」段岭は碗を持ち、口を開けたまま、為すすべもない様子だった。

突然聞いたこの知らせに喜び半分、恐れも半分だった。郎俊侠は彼を引き寄せ、肩にもたれさせて、頭をなでてから懐に抱いた。

雪が少しずつ解けていく。段岭は新たな家にいた。そのことに彼は興奮した。最初は郎俊侠が家族に遣わされたのだろうかと思い悩んだこともあったが、もうそんなことはどうでもよかった。この日、彼は駆けまわって、元気が尽きることがないかのようだった。玄関の上に「段」と書いた提灯をつるし中庭の雪を両脇に掃いた。まるで家で飼われ始めたばかりの子犬のように、どんな場所にも好奇心いっぱいで、家の全ての場所に彼の足跡がついている。

まるで未知の楽園を探検しているようだった。まだ傷の癒えていない郎俊侠は、段岭の左目の上に薬を付けた後は、自由に活動させていた。

「ここに何かを植えてもいい?」段岭は中庭にある小さな花壇の前にしゃがんで尋ねた。

「もちろんだ。この家は全て君の物だ。だが、今日はもう遅い。別の日に私が町で苗木を買って来よう。」段岭はしゃがんで真剣に土を掘り返している。郎俊侠は木の杖をついて、扉にもたれてそれを見ていた。半時辰近くそうしているうち、夕暮れ時になった。

「もう家に入りなさい。上京は寒すぎる。花は育たないかもしれない。」

段岭は名残惜し気に戻ってくると、かまどに火を入れる郎俊侠を見た。

「さあ質問するよ。名堂で何を学んだ?」郎俊侠が尋ねた。

「天地玄黄,宇宙洪荒——。」段岭は千字文を暗唱し始めた。短いお休みは終わり、明日はまた勉強に戻らなくてはならない。

郎俊侠は碗を持って、猪皮のようなものを中に入れると、火にかけて蒸しはじめ、水と紅糖を加えた。段岭が千字文を全て暗唱し終えると、郎俊侠はとても意外そうに、「全部覚えたんだね。」と言った。途中いくつか間違いもあったが、郎俊侠は指摘せず、真剣に言った。「すばらしい。よく勉強したんだね。私は今怪我をしていて、遊びに連れていかれないし、外は寒すぎて、遊ぶものもない。一つ借りにしてもらって、春が来たら、野遊びに連れて行ってやろう。」

「あなたは怪我をちゃんと治して。急がなくていいから。何を蒸しているの?砂糖があるね。何か美味しい物なの?」段岭が尋ねると、「明日になればわかるよ。」と郎俊侠は答えた。

何を聞いても郎俊侠の口からはちゃんとした答えは出てこない。そのことにだんだん慣れてきた自分がいることに段岭は気づいた。

 

 

翌日、郎俊侠は名堂の外まで段岭を送って行った。今回は自分から去って行かずに、段岭が去って行くのを見ていた。段岭はもうこうしたやり取りを受け入れて、心の中ではつらくても、表面上は嬉しそうにして、「もう帰っていいよ。」と言った。すると、郎俊侠が杖をついて、片手で段岭の腰を抱いて、自分の胸に顔を押し付けさせた。

「学堂では、私たちの家のことを誰にも言ってはいけないよ。」郎俊侠は部屋の中から興味深げに二人を見ている者に注意しながら、片手で段岭を抱き、耳元に小声でささやいた。

「どんなことも言ってはいけない。知り合いも心の中までは知れない。覚えておくんだよ。」

そして、「これを君に。」と持って来た食盒を段岭に渡した。「早く食べるんだよ。子供の頃、母がよく作ってくれたものなんだ。」段岭は頷いて、郎俊侠と別れた。

郎俊侠と一緒にいる時、一番よく言われる二つの言葉。「何も聞いてはダメだ。」と、「何も言ってはいけない。」郎俊侠があまりにも警戒心が強いので、つられて段岭もそこはかとない危機感を感じているが、それも勿論聞くことはできない。

幸い子供の想像力は豊かだ。段岭も脳内で色々な故事を考え出していた。古い考えは新たな考えに替わる。郎俊侠の職業も、妖怪から浪人へ(妖怪って職業なの?)富豪から剣客へと様変わりしている。

 

彼は夕べの招かれざる客―――影の隊員が郎俊侠を殺しに来たことを考えた。あれはとても危険だった。だが、今はもう安全なはずだ。そうでなければ、郎俊侠は見つからないように自分を連れて逃げたはずだ。殺されかけたのは、ある人の行方を捜すためだと言っていた。

―――それは誰だろう?ひょっとしてそれが父さんなのだろうか?

そこまで考えた時、段岭は全身の血が沸き立ったように感じた。だったら父さんは大人物に違いない。郎俊侠に迎えに行かせ、世話をさせて、会った時には全てがはっきりするのだ。

段岭は郎俊侠にもらった食盒を抱えて歩き続け、別院の外で誰かにぶつかった。―――外を眺めていたバドだった。「どうしたんだ?」バドは驚いて尋ねた。「目を誰に殴られた?」

段岭は答えた。「な……何でもないよ。」

ばど:「あいつに折檻されたのか?」

段岭:「本当に何でもないんだ……。」

 

「ブアルチジン!」二人の後ろから鋭い声が聞えた。蔡閏だった。蔡閏は冷ややかに、威嚇するようにバドを見ると、ゆっくりと近づいて行った。バドは段岭を放すと、フンと声を出した。「後で私の部屋に来てくれ。聞きたいことがあるんだ。」蔡閏が段岭に行った。段岭は頷いた。バドは蔡閏を見てからまた段岭を見た。蔡閏は何も言わないが、バドに常識があれば、段岭に絡んでくることはないだろうと考えた。蔡閏が去った後、段岭はバドに説明した。「私が不注意で、机の角にぶつかったんだ。」

「誰かに拳で殴られたはずだ。目の角を。見ればわかる。」バドが言った。

段岭はすぐには言い返せなかったが、バドは話を続けた。「まあいい。お前たち漢人はみな同じだ。俺は元狗、かかわるなってことだな。いいさ、もう行く。」

「バド!」

バドは振り向きもせずに去って行った。

 

段岭は部屋に戻ったが、昨日書閣に敷いた布団がもどされていることに気づき、広げて寝床を整えた。それから箱を開けると、中には郎俊侠が作った菓子が入っていた。――紅糖晶瑩。(梅ゼリーだな)中には開いた梅の花が閉じ込められている。小口大に切り分けられてきちんと並んでいた。見れば見るほど食べるのが惜しい。自分にひとかけら残して、残りはきれいに包んで、バドと蔡閏たちにあげようと考えた。

 

休み明けの朝学習はまだ始まっておらず、部屋の中ではわいわいと子供たちが食べ物を交換し合っていた。蔡閏は名堂の裏庭に立ち、何人かの少年と先生の教えを聞いていた。

「手を高く上げ、腰を曲げる。」先生が真面目な顔で言う。蔡閏と四人の年長の少年たちは

同時に手を上げ、その手を握って拳を頭の上に挙げた。それを見た先生は府満足げに、「ああ!ひざは曲げない!頭を下げる時決して膝は動かさない。「卑躬屈膝」という言葉はここから来るのだ!」蔡閏たちは礼儀作法を学んでいたのだ。何度も練習を繰り返している。

それを見ながら先生がまた言った。「君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す。北院大王がいらしたら、言葉は少なく、行いをきちんとしなさい。」

「はい。」

 

段岭は少年たちが礼の仕方を学ぶのを見ていた。蔡閏の礼の仕方はとてもあか抜けている。風に臨む玉樹のごとし、だ。彼に習って手を上げ、壁に向かって腰をかがめる。見様見真似だ。先生が休みを告げると、蔡閏は段岭が外に立っており、近づいて来るのに気づいた。

段岭は懐に入れていた菓子を取り出して渡した。「これ、食べて。」

蔡閏はそれが何かとも聞かずに、前置きなしに尋ねた。「兄さんが、ゆうべ街中を捜査していた時に、君の家に行ったって。そうなのかい?」

段岭は急いで首を振り、目のあざを指さして、自分から説明した。「不注意でぶつかったんだ。」蔡閏は段岭を見て少し眉をあげ、「君の家は商売をしているんじゃなかったか?」と言った。段岭は戸惑ったような顔をして頷いた。蔡閏は兄から聞いたのだ。段家は寒々として、雇人が出て来ることもなく、主人の子が裸足で門を開けに来たと。さらに顔には殴られた跡があり、同情心を引き起きしたのだと。

 

「君は誰と住んでいるんだい?父さんか?」蔡閏が尋ねた。

「私の……。」段岭にも郎俊侠とどういう関係なのかわからない。ふと、頭の中に、ある言葉が出てきた。どこで聞いたのかは忘れたが。そして言った。「稚児飼いの旦那だ。」

蔡閏:「………………。」

蔡閏は額に手をやり言った。「どこで覚えたんだ?そんなこと気軽に言うものじゃないよ。まあ、きっと雇人か何かなんだな。」段岭は頷いた。蔡閏が再び尋ねた。「君の父さんは?」

「南方で商売をしている。」段岭は郎俊侠の教えた答えを暗唱した。蔡閏はしばらく探るように段岭を見た。そして気づいた。段岭は誰に対しても礼儀正しく怒りもしない。聞かれたことには素直に答える。苦笑いを禁じ得ない。「聞いただけだ。まあいい。君に一つ教えてやろう。なるべく漢人と行動するように。何かあれば、近くにいる漢人を頼るんだ。本を読んだことはあるか?」

その時、段岭はまだ知らなかった。上京では漢人漢人同士で固まっている。自分たちの世界を作り、外族は外族で別の小集団を作っている、ということを。だが、蔡閏に何を言われても、段岭はとりあえず頷くことにしていた。

 

「瓊花院の長の、丁芝を知っているか?」蔡閏は話を変えて再び尋ねてきた。

段岭は何と答えるべきかわからなかったが、蔡閏は彼の表情から知っているのだろうと辺りをつけた。「丁芝は兄さんといい仲なんだ。今度彼女に会ったら、兄さんに替わって気持ちを伝えてやってくれ。そのためにわざわざ行く必要はないけどね。」

段岭は頷いた。その時大先生の咳ばらいが部屋から聞こえた蔡閏は叩かれないよう、急いで戻って行き、走りながらまた言った。「わからないことがあれば、私に会いに来てくれ。」

段岭は遠くから彼らが礼儀作法を学ぶ様子を盗み見た。しばらく真似をしていると、懐のなかが冷え冷えとして、もう一つ菓子があるのを思い出した。すぐにでも溶けてしまいそうだ。

そこでいそいでバドを探しに行った。

 

バドは体の大きな少年と相撲を取っていた。まわりにはたくさんの子供たちが集まって、わいわい歓声を上げている。バドは肌脱ぎして、顔を真っ赤にし、大人になりかけの体で、ぶつかる、引っ張る、持ち上げる、という動きを荒々しく続けている。だが、段岭が来たことで、注意がそれて、すきを突かれて相手に仰向けにひっくり返されてしまった。

 

 

―――

第9章 人違い:

 

周りは一斉に大笑いした。バドは怒りで耳まで赤くなった。段岭が急いで起こそうと近寄ると、バドは立ち上がって振り払った。子供たちは好奇心露わに段岭を見たが、バドは背を向けて行ってしまった。

「ブアルチジン。」段岭は彼の後ろから追いかけた。「君にあげたい物があるんだ。」

「名字で呼ぶな!」バドは怒って振り返った。そして段岭をひと押しすると、段岭の手の中の梅花凍菓が地面に落ちた。その時いきなり扉が倒れ、大きな音を立てた。段岭はびっくりして飛び上がった。みんなはまた大笑いした。段岭は何がバドの気に障ったのかもわからず、

決まり悪そうな顔をしていた。バドと相撲をとっていた体の大きな少年がやってきて、何か言いたげにしていたが、段岭はなじみのない場所に恐れを感じ、また厄介ごとを引き起こさないよう、急いで逃げ去った。体の大きな少年はにやりとしたが、声は出さず、段岭が去って行った廊下を見ていた。

 

漢人漢人でかたまり、非漢人は非漢人でかたまる。それは名堂の不文律だった。だが、大抵の子供たちには、国家の敵だとか、『我が一族にあらずんば人にあらず』的な発想はない。ただ、漢人は元、遼、西羌人の不潔さや体の匂い、野蛮な行いや無礼さが嫌いなだけだ。

漢人漢人のもったいぶった、気取った態度が嫌いだった。段岭も彼らを誤解した。

その少年はただ、彼を慰めて、相撲の取り方を教えてやろうと思っていたのだ。

だが、例え好意を理解したとしても、丁重に断っていただろう。

 

 

この日の午後、名堂がとてもきれいに掃除されているのに段岭は気づいた。ゆうべの大雪がすっかり掃き清められている。庭の花壇にも落ち葉一つない。大先生や他の先生たちは皆、正装し、整列して立っている。大門の外には見知らぬ誰かが来ているようだ。

今日は何かの日だったっけ?段岭は目を見張りながら、食後に前庭を興味深げに眺めた。

「帰りなさい!みんな帰るのです!授業は午後からです。今日は行儀よくするように!」

一つ目の鐘の音が遠くから聞こえると、子供たちは部屋に戻って持ち物を集め、それぞれが授業に出た。午後は、学び始めの過程である千字文唱和の後、字を書く練習だ。段岭が硯で墨をすって、何文字が書き始めた時、蒙館の方から話し声が聞こえた。

 

「午前は書を読み、午後は習字です。」先生の声がした。

仁義礼智信。この五文字を書くべきでしょうな。」重厚な男性の声がした。

「その通りです。全て教えました。大人、こちらへどうぞ。」先生が答えた。

「先に蒙館を見てみよう。」重厚な声はそう言うと、先生についていかずに、後門から入って来た。四十歳くらいの、背が高く逞しい中年男性が、蒙館に入って行った。先生は仕方なく、子供たちに向かって言った。「北院大王がお前たちを見にいらっしゃいました。さあ、ご挨拶をなさい。」

 

子供たちは筆を置くと、北院大王に向かって、ばらばらにお辞儀をした。丸く体を曲げる者、頭を下げる者、右手で拳を持って左胸に当てる者。跪く者もいたが、片膝だけ、両膝だけ、各族の礼儀に従ったものと千差万別だ。

「君たちはみな将来国の大黒柱となるのだ。うん、いいぞ。」

やってきたのは、遼国北面官、北代王院夷離菫で、その名を耶律大石という。遼帝は「大王」を「夷離菫」という尊称に改めた。契丹五院の兵権を手中に収め、一人の下、万人の上という位置づけだ。この日は思い立って、まず、辟雍館を一回りし、午後には名堂に着て、上京の学生たちを激励に来たのであった。

 

郎俊侠も行礼の仕方は教えてくれなかった。さっき覚えておいてよかった。段岭は両手を頭の上に挙げ、八経一躬の姿勢をとった。「いいぞ、いいぞ。」耶律大石は段岭の近くに行って彼に笑いかけた。

子供たちの拝礼を受け、耶律大石は気まぐれにいくつか問いかけた後、先生について出て行った。段岭はその「大王」をこっそりと見た。顔中髭に覆われ、力がみなぎった様子だが、性格はとてもよさそうだ。すぐに子供たちは感想を言い合った。話に花が咲いて、屋根を超えるほどに盛り上がったかと思うと、突然静まり返った。どうやら先生が来たようだ。

 

「筆を置いて、整列して前院に行きなさい。背の順だ。さあ、整列して、私についてきなさい。」

一回り見学した耶律大石は、再び子供たちを呼び出した。贈り物を用意していたのだ。名堂の三つの班の学生たちが次々に出てきて、走廊に列を作り、先生に名を呼ばれるのを待った。

段岭は首を伸ばしたが、バドは見つからなかった。壁を隔てた向こうで、バドと相撲をとっていた少年たちが末尾に並んでいた。段岭が見ているのに気づくと、少年は彼の考えに気づいたようで、「来ないで。」と言った。「どうして行ってはだめなの?」段岭が尋ねた。

少年は首を振って東棟を指さし、手を広げた。どうにもできないという意味のようだ。

「彼は病気になったの?」段岭が尋ねると、「い……いや。か…彼が言った…き……来たくないって。」少年にはどもりがあるようだ。その話し方を聞いて二つの班の人たちが同時に笑った。先生が怖い顔でにらむと、列に並んだ子供たちはまた静かになった。

段岭は先生が顔を背けたのに乗じて列を離れ、走廊を走り抜けバドを探しに行った。

 

バドは院内に座っていた。机の上には段岭があげた梅花菓が置いてある。段岭は遠くから見ていたが、バドは自分に背を向けて、ついている埃を注意深く吹き払ってから、包み紙をきれいにたたんで懐に入れると、食べようとして口を開けた。

「バド!」

バドはびっくりして、菓子を喉に詰まらせた。段岭は急いで彼のところに行き、背中を叩いた。そして慌てて水を取りに行くバドの後について行った。

「大王が来ているよ。何かをくれるんだって。行かないの?」段岭が言った。

「俺は犬じゃねえ。遼人の褒美なんて受け取れねえよ。お前は行けばいい。」

バドは部屋に入って行った。段岭は窓から身を乗り出して尋ねた。「どうしてさ?」

「とにかく、いらないんだ。お前もいらないなら、部屋に来い。話でもしよう。」

段岭の中で理性と感情が戦った。「大王」のご褒美は欲しい。その意味するところはわからないにしても。だが心の奥底ではバドが正しいのだと分かっていた。汝南にいた時、女中がくれてやろうとするものを受け取ったことはなかった。すごく食べたかった時ですら。理由はわからないが、生まれた時から心に備わっていた本性なのだろうと思う。

「私もほしくないや。」段岭は言った。バドは寝そべっていた寝台から奥に少しずれ、枕をポンポンと叩いた。一緒に昼寝でもしようと誘っているのだ。だが段岭は振り返って首を伸ばし、駆け出した。

「おい!どこに行くんだ?」バドは起き上がって追いかけた。

段岭は答えた。「何をもらうのか、ちょっと見て来る。」

バドが言う。「欲しくないなら、見てどうする。何だっていいじゃないか。」

それは狼毛の筆と、一両の銀一封だった。

バドと段岭は裏庭に隠れて、雑役夫たちが、竹籠を運び入れる様子を見ていた。籠の中は狼毛筆でいっぱいだ。郎俊侠が段岭に買ってくれた物ほど質が良くない。バドが段岭の肩をつかんで「行くぞ。」と言った。

 

ふと、段岭はその中にいた細身で背の高い雑役夫に目が行った。ちょうどこちらを振り向いた。どこかで見た気がする。次の瞬間、頭の中に稲妻が落ちたように、はっと思い出した。おとといの番に薬屋で会ったサソリの男だ!だけど首筋に入れ墨がない!同じ人なのだろうか?

「行くぞ。やっぱり褒美が欲しいのか?」バドが言った。

「待ってよ!」段岭は疑惑でいっぱいの顔をしていた。あの男はどうしてここにいるのだろう?それになぜ裏庭で物を運んだりしているのか?

 

武独は庭の外で下ろした狼毛筆を、前庭に運び入れた。段岭は眉をぎゅっとひそめてその後を追った。そろそろイラついてきたバドが段岭を回廊の後ろに引っ張り込んだ。武独が少し振り向いた時、見えたのはバドの顔だけだった。バドは顔立ちがはっきりしている。鼻が高く奥目で瞳の色は青い。しかも元人の服装をしていた。武独は庭にいた子供がのぞき見していると思って目を向けたのだが、それ以上気にせず、子供の列に沿って足早に歩を進めながら、並んでいる子供たちを一人一人見て行った。

 

探している人物はまだ見つからない。そこで庁堂の窓のところで腕組をして立ち、中での話し声を聞くことにした。前庁には、蔡閏たち、年長の少年たちが並んで、耶律大石に拝礼していた。

「すばらしい。」先生たちは一人ずつ名前を呼び、呼ばれた者は前に出て耶律大石に拝礼し、叩頭した。耶律大石は傍にいた護衛から銀一封と狼毛筆を受け取り、自ら少年に渡して激励した。

「“赫連家の子はどこだ?」耶律大はふと思い出して先生に尋ねた。

「赫連博!フーレンボ!」先生が慌てて呼びに行くと、バドと相撲をとっていたどもりの少年が急いでやってきた。耶律大石は彼に頷いてみせると「上京での生活には慣れたかね?」と言った。

「おこ……お答えします、大王。な、慣れました。大王のご…ご高配に感謝致します。」

赫連博(フーレンボ)という名の少年が答えた。

(ハーリェンボかな。でも覚えにくいから。仮名無しだと、かくれんぼと読めそうだし。)

言い終えると耶律大石の言葉を待たずに赫連博はさっさと跪き、ゴンゴンゴンと三回叩頭した。耶律大石はほっとしたようで、高らかな笑い声は庭の外にまで届いた。そして直々に少年を立ち上がらせると、贈り物を手の中に持たせてしっかりと握らせ、彼の背をぽんぽんと叩いた。とても親し気な仕草だった。

 

赫連博は頭を下げてから、出て行った。そして庁堂を出るや否や、やる方ない憤怒に、贈り物を花壇に投げ捨てて、ぐちゃぐちゃになるまで踏みつけた。それから、出て行こうとした時にバドが手招きしているのに気づいた。赫連博は眉をあげると、左右を見渡してから、バドに向かって走って行った。

 

その頃庁内では:

「ブアルチジンはどうした?」耶律大石が尋ねた。再び先生が探しに出たが、バドは急いで段岭と身を隠した。一方、武独は横を向いて目を細め、窓の向こうを覗き込んで、庁内にいる少年たちを調べ見ていた。

先生はバドを探しに行ったが中々戻ってこない。少年たちは皆待っていた。耶律大石は「韓

捷、いるのだろう?」と呼び掛けた。「大王に拝謁申し上げます。」韓家の太っちょ君が少年たちの列から一歩前に進み出て耶律大石に拝礼したが、跪きはしなかった。

「また太ったんじゃないか。」耶律大石は笑った。「お父上と一緒だな。」

少年たちはみな笑い韓捷は顔を真っ赤にしたが何もいわなかった。耶律大石は「しっかり学びなさい。」と激励した。

 

 

「あの人は何かすごく変だ。」段岭が言った。

「だ……誰の事だい?」赫連博が戸惑ったように尋ねた。

段岭は言った。「剣を持っているんだ。」

赫連博とバドは、はっと息をのんだ。段岭はしまったと思い、急いで口を閉じたが、バドに尋ねられた。「刺客か。会ったことがあるのか?」段岭は急いで言いつくろった。「会ったことはない。なんだか剣を持っている人のように見えないかい?」バドと赫連博は男を暫く観察した。

「あ、あ、あ……あの人、わわわ……。」赫連博は気が動転して話ができなくなり、急いでバドの手を叩いた。「手!手!」

バドも気を付けて見た。「武を修めた人物だ。背中に剣を隠している。あれは刺客だ!段岭、よく気づいたな!」

段岭の読みは正しかった。だが彼がここで何をしているのかはさっぱりわからない。まさか本業が刺客で、雑役夫を兼業しているとか?

 

庁堂では耶律大石がしびれを切らして待っていたが、ブアルチジン家の野生児は姿を見せず、仕方なく先生に点呼を続けさせた。一番後ろに並んで立っていた蔡閏は緊張していた。

段岭にもらった菓子のせいだ。あまり考えずに持っていたが、いかんせん梅花菓は冷たいままにしておくべき食べ物だ。庭で拝礼の仕方を習っていた時も、前庭で客を迎えた時も、寒い屋外にいたので気づかなかった。こうして暖かな庁堂に入ったせいで、ずっと懐に入れていた菓子が溶け始めた。溶ければそれはただの砂糖水である。既に外袍に染み出て、袍子に沿って滴り落ちてきていた。蔡閏はまずい、と思ったが、耶律大石は既に目の前まで来ていた。

「君は……。」耶律大石はずっと考えていたが、蔡閏の名前が思い出せなかった。蔡閏は恭しく一礼し、名前を言おうとしたが、耶律大石はこの漢人の顔に興味がなく、特に重要な人物ではなかろうと、贈り物を渡して通り過ぎた。外にいた少年たちの一群は蔡閏が垂らした赤い水を発見すると、急いで走廊を走り去って行った。

 

武独は僅かに眉を上げた。何かに気づいたようで、蔡閏の後をつけていく。蔡閏は庭の岩山の後ろに隠れて、急いで袍子を脱ぎ、油紙布を取り出した。外側も全てびしょびしょで、油紙布を開けると、濡れた梅の花だけが残っていた。蔡閏は気が狂いそうだった。外袍を拭いていると、後ろから誰かの声がした。「鮮卑人に梅花菓をもらったのかい?」

蔡閏が振り返ろうとした時、後ろから手が伸びてきて、鼻と口をふさがれた。蔡閏は声を出す間もなく気を失った。

「奴は蔡狗を連れて行く気だぞ!蔡家の仇なのか?」バドが驚きに目を見開いて言った。

「助けるか?」赫連博が言った。

三人は視線を交わしあった。武独の動機は全くわからないが彼が凄腕だと言うことは段岭にもわかっていた。すぐに追いかけなくては。赫連博とバドは急いで段岭の後を追った。

武独は回廊を通り抜け、裏庭に出た。足音が近づいて来る。耶律大石の護衛が見回りをしているのだろう。武独は気を失った蔡閏を木の後ろに隠すと、お辞儀の姿勢で立った。

「ついて来い。」バドが小声で言った。バドは赫連博と段岭を連れて、裏庭に回りこんだ。

段岭は蔡閏を助けに行きたかったが、赫連博に止められ、二人についていくしかなかった。三人は走りながら相談した。

 

段岭:「先生に言わなくていいの?」

バド:「先生が奴を見つけに行くのか?その頃にはあいつは凍った死体になっているぞ!」

「待っ!待って!彼を……よ、よ……。」赫連博は緊張すると余計言葉が出なくなる。段岭もバドも焦っていて、彼を逆さに振って言葉を吐かせてやりたくなったが、赫連博の方が話すのを諦めて、内院を指さした。「大王を呼びに行けって言いたいのかな?」段岭が言った。

赫連博はうん、うんと頷いた。

バドは両手を上げた。「耶律狗は漢人の命なんて気にしないさ。大事なのは自分だけだ。」

「そうだな!」赫連博は重要なことに気づいたかのように頷いた。

段岭は気が急き、「じゃあ、どうする?」と言った。

「赫連、ゆっくり話せよ。」バドが指図した。「段岭、お前は巡防司に行って蔡狗の兄貴を呼んで来い。俺と赫連は何か方法を考える。」

段岭が言った。「どこにあるのかわからないよ。」バド:「……。」

バドは気を取り直し、「俺が行く。お前たちは奴を追え。」と言った。

武独は蔡閏を連れて今にも出て行きそうだった。

段岭と赫連博は武独について行った。だが、走廊に駆け出した時、段岭は突然襟首をつかまれ、廊下の裏に引っ張り込まれた。叫ぼうとすると、口に手を当てられた。振り返って見ると、それは網籠をかぶった覆面の男だった。

 

赫連博は落ち着いて、段岭を取り返そうと向かって行ったが、覆面の男に喉下三分を突かれてその場に倒れ、口を開けることも動くこともできなくなった。段岭は覆面の男の懐に、なじみの匂いがするのに気づいた。覆面の男は、赫連博の視線から逃れるために、段岭を一歩後ろに下がらせると、「シッ!」という動作と共に口角を少しあげ、段岭に落ち着くようにと指示した。

段岭:「……。」

覆面の男は赫連博を一度叩いて、封穴を解くと、身を翻して裏庭から出て行き、不運な武独を追いかけて行った。

(顔隠す前に風呂に入れ、郎俊侠。)

 

 

 

第10章 他

 

覆面の男はフッと冷笑すると、木の影から突然襲い掛かった。青峰剣がいくつもの剣の幻影を作り、武独の周りを取り囲む。これは相手の向かう先を封じる剣技だ。武独は厩の前まで後退せざるを得ず、剣を抜くと嘲うような笑みを口角に浮かべた。

覆面の男は武独の喉に剣を突き立てた。

武独は表情を変えず、唇には笑みを湛えたままだ。守りを諦め、逆手で剣を意識のない蔡閏に突き立てる。だが、予想に反して覆面の男は蔡閏のことなどどうでもいいようで、動きを変えないばかりか、勢いを加速した。電光石火の勢いに、武独は蔡閏どころか自分の喉を刺されまいと動きを変えざるを得なくなる。そして先に機会を逸した武独は判断を誤り、横を向いた時に覆面の男に斜めに剣を降ろされ、顔が傷つき、血が流れ出た!

武独が身を退く。覆面の男が陰のごとく追っていく。手中の少年が人質として役に立たないと気づいた武独は剣で応戦せざるを得ない。二本の剣が絡み合い、厩の上に飛ばされて柱に突き刺さった。覆面の男は剣を諦め、双掌を突き出して武独の腹部を突いた。音もない一撃だが、全内力を注いだものだ。それは武独の臓器を傷つけ、武独は吐血して後ろに飛ばされていった。

あの一瞬の判断の誤りは高くついた。武独の命ほどに。だが、厩の屋根から落ちて行く時に、彼は左手を上げて、毒の粉を蒔いた。覆面の男はすぐに息を止め、柱から剣を引き抜くと飛び上がった。武独は毒霧の中から現れ、自身も柱から剣を引き抜いて、覆面の男に向かって行った。

覆面の男は院の壁に飛び乗り、かぶっていた編み笠が飛んで行った。武独は後を追い、二人は護衛の頭の上を飛び越えて、名堂の屋根の上に上がった。覆面の男は体に傷を負っているようで気力は続かない。武独は双掌で臓腑を傷つけられている。二人同時に足を滑らせ、瓦が数枚砕けた。その音を聞きつけた護衛たちが次々に走り出て屋根の上を見た。

 

ちょうどその時、段岭と赫連博がさっと飛び出して力を合わせて蔡閏を抱き起し、彼を走廊の中に連れて行った。護衛たちが見上げた時、武独と覆面の男の姿はそこにはなかった。二人とも軽攻によって音もなく脚歩し、壁を走り抜けて庁堂の上に着いていた。

武独の顔の剣傷からは血が滴り落ちているが、建物の一番高いところまで覆面の男を追い詰めている。武独と覆面の男は互いに、にらみ合った。うかつに手は出せない。相手が死ななければ自分は生き残れない戦いだとわかっている。

 

覆面の男の声はかすれている。「どうしてわかった?」

武独は冷笑する。「命は見残してやろう。お前からでかい魚を釣れないかと思っただけだ。前回姿をくらましたと思ったら、急いで上京に戻って行っただろう?彼の子を守る以外に何がある?もし子供がいるのだとしたら、このくらいの年頃だろうと思ったわけさ。」

覆面の男はかすれた声で言った。「千慮に一失あり。武兄の技高に一分及ばなかったか。」

「お前は彼を一時守ることはできても一生守ることはできないぞ。」

覆面の男はかすれ声で答えた。「一時守れればいい。今日はお前の負けだ。」

武独は冷笑した。「まだわからないさ。」

覆面の男はそれ以上語らず、突然片足を踏み込んだ。内力が届くと、瓦屋根がガラガラと崩れ落ちた。武独は顔色を変え、飛び上がったが及ばず、ともに庁堂へと落ちて行った!

 

この時耶律大石は庁内で贈り物を渡していた。漢人の名言である「千金の体垂堂に座さず」の言葉通り、ことが起きた時は屋根の下に座っていた。それなのに上から二人の刺客が落ちてきたのだ。たちまち庁内は大騒ぎとなった。大王は怒号をあげ、護衛も大声で叫んだ。大先生がかけつけ、子供たちは失禁し、もう何が何やら大混乱といった有様だ。

「誰だお前はーーーー!」

「刺客だ!」

「大王をお守りしろ!」

 

耶律大石は武道の達人でもある。とっさの判断で、机を持ち上げると二人に投げつけた。

辛うじて身をかわした武独と覆面の男は声を上げることもなく同時に窓から飛び出した。覆面の男は東へ、武独は西へ。逃げる二人に百発の矢が放たれた。

矢はつららを擦って飛んで行き、水が一滴ぽたりと落ちた。

覆面の男は前院にある岩山に飛び乗った。遼人の弓の腕は百歩先から柳の葉を射抜けるという。まっすぐ体に向けられ、鋭い矢先が迫ってきた時、覆面の男は目を細めた。たくさんの矢が一つ一つ点となって見える。岩山を踏み台に、両の腕を広げて、後ろ向きに身を翻し、鷹が羽を広げるようにして一瞬で矢を回避すると、壁の向こうに飛び降りた。

 

 

武独は壁の上に飛び乗っていた。背後から矢が迫ってくる。壁の上を片足で踏みしめると、その力を借りて体を回転させた。回転する衣に矢がはじかれ、次の回転で向きを変えて、四方八方に飛び散った!護衛が急いで前院に出て追いかけたが、武独の姿はもうなかった。

外の通りから蹄の音が聞こえてきた。蔡聞が軍を率いてやって来たのだ。武独が飛び降りてきたのを見たバドが叫んだ。「あいつだ!」

騎兵が迫って来る。傷を負った武独は戦いを避け、路地裏へと逃げて行った。路地を曲がって通りに出ると、再び騎兵が追いかけてきた。巡防衛は河辺に沿って追いかけて来る。囲い込まれそうだ。武独は寒空に飛び上がると長剣を抜いて、光の弧を描き、凍り付いた長河に飛び込んで行った。パリンッという音を立てて氷河が割れ、武独は水中に潜って姿を消した。

 

 

段岭と赫連博は僻院の中で蔡閏を揺さぶっていた。

「蔡閏!」段岭は焦り声で彼の名を呼んだ。

「水だ。」赫連博は段岭に水を渡し、蔡閏の口に注いで飲ませた。

その時、覆面の男が飛び込んできた。赫連博は急いで段岭を引っ張り逃げようとしたが、段岭は大丈夫だと手を振って示した。覆面の男は体を曲げて片手を出し、蔡閏の息があるか確認し、頸脈を探った。段岭が何か言おうとすると、覆面の男は手をあげて、彼の唇に当てた。

僻院の外から蔡聞の声が聞えた。覆面の男は最後に蔡閏を指さして、段岭に向かって人差し指を振った。それが、生命の危険はないという意味だと段岭にはわかった。それから覆面の男は僻院の壁に飛び乗って去って行った。すぐに蔡聞が来た。

 

 

この日の午後、怒った耶律大石は名堂を封鎖した。その場にいた子供たちは尋問を受け、名堂中が疲れ果て、涙が止まらなくなる子供もいた。

助けを呼びに行ったバドは武独と覆面の男の対決を見そびれた。段岭は事細かに三回も説明した。郎俊侠のことは出さずに、意識的にある部分は省略した。ただ、最初にバドに声をかけた時には、蔡閏が連れ去られるとは思わなかったし、その後で謎の刺客まで現れたのだ。

 

蔡閏は目を覚ましたが、何を聞かれてもさっぱりわからなかった。耶律大石が直々に尋問した。聞かれた赫連博はまたどもりがひどくなり、言葉は伝わらない。耶律大石は段岭から何度も聞き出そうとしたが、赫連博からは一度で充分だった。最終的には段岭、蔡閏の二人から聞き取ったことを記録した。蔡閏は聞かれても何もわからず、皆五里霧中だった。

尋問で疲れ果てた段岭は夕食もそこそこに僻院に戻って横になった。だが、昼間のできごとが次々頭をよぎって眠れない。その時、院外からまたあの笛の音が聞えてきた。緩やかに揚がり、たおやかに回る。笛の音は少しずつ段岭の心を静め、ゆっくりと眠りに誘った。

 

翌日、全てはいつも通りになったが、蔡閏だけは少し気落ちしているようだ。段岭が心配して会いに行くと、蔡閏はただ頷いて、二人は長い間話し合った。蔡閏も自分の家がいったい誰に恨まれているのかわからなかったが、一つ段岭に教えてくれた。長兄の蔡聞が笔墨堂に行った後で、殴られて気を失った雑役夫を見つけたのだそうだ。それで刺客は雑役夫に紛れ込んで入って来たのではということだった。

なぜこの時を狙って学堂に殺しにきたのか、なぜ蔡閏を狙ったのか。もう一人の覆面の男は誰なのか。蔡聞にもさっぱりわからなかった。幸い巡防司衛士が城外を護っている時に、氷穴を発見した。それで、刺客はもうそこから逃げたと結論付けられた。

 

 

その夜、瓊花院にて:

郎俊侠は薬の粉を混ぜ合わせ、鏡に向かって、腰と背中の傷口に薬をつけていた。傍らには屏風が置かれ、屏風の裏には、丁芝を含め、六人の着飾った娘たちがいた。瓊花の花形芸子たち―――蘭、芍、菫、芷、茉、芝の六人だ。手炉を持っている者、お茶を奉じている者、華やかな一団の中に囲まれた貴婦人は、丁芝が「夫人」と呼んでいる、瓊花院の家主だ。

 

「あなたとあの子供の運気と言ったら。」夫人は淡々と言った。「家を探し直して、もう一度移った方がいいのではないかしら。」

屏風に郎俊侠の影が映り、引き締まった美しい男性の形が現れていた。

「あちこちに逃げ回るくらいなら、株を守って兎を待つ方がいい。」郎俊侠が言った。

「その子供の命は天に護られているようね。今回来たのは武独だった。前回危うく交わした、「祝」も影の舞台では凄腕だったはず。子供の手で殺されるなんて、運命で定まっていたのでしょう。でも、次に来るのは武独ではないかもしれないわね。」夫人が言った。

「たとえ昌流君が来たとしてそれが何です?」郎俊侠は薬壷を置きながら答えた。

「敵を甘く見てはだめよ。」夫人は優雅に話を続けた。「武独は毒使いだけど、あなたたちの間には不文律がある。毒殺すべき者は毒殺し、留めおく命は留めおく。人を殺せば、生かすよりずっと敵を増やす。心が弱くて命を残すこともある。心が優しすぎる人は、刺客になるべきではないわね。」

郎俊侠は薬をつけ終えると、外袍を着て腰帯をしっかり占めて屏風の裏から出てきた。夫人は暗紅色の錦を着ていた。袍には今にも飛び立ちそうに羽を広げた仙鶴の刺繍がしてある。

青き山の如き眉に、山の泉のような瞳。瓊花院の冠たる立場ではあるが、未だ三十に届かない、その容貌には少し西域の血が感じられる。

「昌流君は来ないと私は思います。」郎俊侠は言った。夫人は淡々と言った。「あなたは昔から肝が据わっていたのだったわね。」

「南陳帝君はもう長くはないでしょう。北伐はもう終わった。三年以内に南陳軍隊が再び玉壁関を越えることはないでしょう。趙奎と牧曠達はしばらく忙しくなる。これから起きるのは内闘だけです。」

 

「一旦内闘が始まれば、武独も昌流君も自分の主人の元を離れられなくなる。上京は遼人の地盤だ。千里の向こうから名のある刺客を送って誰ともわからない子供を探すのは無駄なことだと考えるでしょう。」郎俊侠は夫人に頭を下げると、身を翻して、瓊花院を出て行った。夫人はしばらく何も言わなかった。

 

 

夜、南陳にて:

「彼の命は留め置く。」趙奎が言った。

「今何と?」武独は聞き間違えたのかと思った。

武独は上京から帰ったばかりだったが、狼狽著しい。未だ李漸鴻の行方がつかめない上に、伝説の「無名客」を殺すこともできずにいる。持ってこられた役立つ報告はたった一つだけだ。

趙奎は庁堂に座って、薄暗い灯に背を向け、暗い影を落としている。灯火は武独の顔を照らしていたが、この刺客の表情は複雑だった。

「他に知る者は?」趙奎が尋ねた。武独は首を振ってから答えた。「祝は命を落としました。同行した影の軍団の刺客たちは上京に入ってさえいず、城外に留め置かれていました。この情報は属下(私)推測しただけです。ですが、わかりません……。」

「陛下はもう長くない。四王殿下にはお子がいない。李漸鴻は行方不明。朝廷は今後、牧曠達の天下となるだろう。一歩後手に回れば、彼を制御できなくなる。今の話は、なかったことにしてくれ。」武独は理解し、頷いた。(武独、趙奎に感謝しろ)

「将軍、私は胡昌城下で三王殿下の消息を追わずに、上京に向かいました。おそらく牧相は……既に勘づいているのではないでしょうか。」

趙奎は冷笑し言った。「たとえ牧曠達が知ったとしても、昌流君を上京に送り込みはしないだろう。昌流君の保護を失ったら夜安心して眠ることもできないだろうからな。どちらにしてもお前たちが今回現れたことで、城内の守備は厳重になったはずだ。もう機会はないだろう。」

 

 

京城内では十日間戒厳令が敷かれた。名堂の中にも衛隊が巡回しに来て、子供たちを見張り、更に先生たちの機嫌も悪かったので表に出ようとする気にはならなかった。

あの事件の後、蔡閏と段岭の関係は自然と深まった。時々段岭が課題を持って聞きに行くと、蔡閏はわからないところを一つ一つ説明して、しっかり勉強するように監督したりするようになった。

衛隊の巡回が終わったのは一月最後の日だった。この日、門外に迎えに来た家族はいつもより多く、皆先日の刺客の件を知って心配そうに話し合っていた。通りは馬車でいっぱいになりい、高貴な身分の人の馬車の前を武人が守る様子も少なくない。

「段家―――段坊ちゃん。いませんか?」部屋の中に呼び出しの声が響いた。

今日は郎俊侠が一番早く来ていて、段岭はまだ出口までたどり着いていなかった。

「います!います!」段岭は大急ぎで名乗り出ると、腰牌を渡した。そして、郎俊侠の懐に飛び込んでいき、その片腕にいだかれた。「家に帰ろう。」郎俊侠は段岭の手を牽いた。だが、段岭は振り返って名堂正面の柵の間から中をのぞき見ずにはいられなかった。やはりバドは前庭に立っていて、遠くから段岭のことを見ていた。

郎俊侠は段岭の気持ちを察して足を止めた。「ブアルチジンと友達になったのかい?」

段岭が頷くと、郎俊侠は「我が家に夕飯を食べに来るように誘いたいかい?」と尋ねた。

「いいの?」

「君の友達なら、勿論いいよ。」

「バド!」段岭はバドに向かって叫んだ。「一緒に行こう!今晩はうちに来てよ。」

バドは手を振って断った。通りからほとんどの人がいなくなるまで段岭は待っていたが、バドは来なかった。きっとまた誰も迎えに来ないと考えた段岭は再び叫んだ。「行こうよ!」

バドは答えず、鐘つき用の鉄棒を持って背を向け、内院に入ってしまった。夕日が通りから斜めに照らしている。段岭は少し物悲しく感じた。

 

だが、家に着くと、段岭の物悲しさはきれいさっぱり消え失せた。郎俊侠がたくさんのおかずを作って卓の上いっぱいに並べていたからだ。

段岭は歓喜の声を上げて席につくと、手も洗わずに食べ始め、郎俊侠に手を押さえられて、濡らした布で拭われた。まるで汚れた子犬の足を拭くかのようだ。

「私はあまり料理が得意ではないんだ。」郎俊侠が言った。「鄭彦(ジョンヤン)みたいにうまくはない。いつか君はもっといい物を食べるようになるから、きっとこの料理を懐かしむことはないだろうけど、今はこれを食べてくれ。」(そりゃ、きっと懐かしむさ。)

ジョンヤンってだれだろう?と段岭は思ったが、特に大事には思わなかった。口は食べ物でいっぱいだったし、話をする気分でもなかった。しばらくすると、誰かが門を叩き、郎俊侠は眉をひそめた。

「段岭!」バドの声が外から聞こえた。

段岭は急いで口の中の物を飲み込むと、扉を開けに駆け出した。バドはいつもの汚い羊毛の上着を着て、薄汚れ、泥や葉っぱまでつけたまま、戸口の前に立っていた。「蔡狗の兄貴の言ったとおりだ。やっぱりここに住んでいたんだな。これをやる。」そう言うと、彼は一包みの点心を渡してきた。

段岭:「どうやって抜け出してきたの?」

バド:「勿論やり方を知っているからだ。」

段岭:「早く入ってご飯を食べようよ。」段岭はバドを中に入らせようとするが、バドは抵抗している。二人は戸口でしばらく押し問答をしていたが、段岭の後ろに郎俊侠が現れて、「入ってお茶でも飲んで行ってくれ。」と言うと、バドは断らずに中に入って行った。

 

郎俊侠は箸を渡したが、バドは、「俺は食べてきた。話があって来たんだ。」と言った。

「二人で好きにしなさい。」そう言うと郎俊侠は出て行った。段岭は少しがっかりした。彼が戸口の外に台を広げて座ったのを見て、声を掛けようとした時、バドが言った。「お前は食べろ。」

バドはお茶を手に取り飲みながら、少し羨ましそうに卓一杯の料理を見ていた。段岭は何度も勧めたが、バドは名堂で食べてきたと言い張るので、それ以上強いるのはやめておいた。

大きくなりかけの子供二人は、暫くの間、話したり笑ったりした。段岭の勉強の習熟速度は速く、既に墨房に進み、月初からは中班に入ることになっていた。

 

郎俊侠が食事を終えると、段岭は片づけをして、自分の衣服の中からバドが着られるものを探し出し、一緒に風呂屋(公衆浴場かも)に行って、湯あみすることにした。バドは最初嫌そうだったが、いかんせん体の匂いがきつすぎて、先ほど蔡家に向かう道でも白い目で見られていたので、しぶしぶながら、段岭に連れられるにまかせた。(頼むから洗ってから湯舟に入ってね)

二人は一緒に湯につかり、バドの羊毛袍は浴場の使用人に洗って乾かすようにさせて、自分は段岭としばらく遊んだ。郎俊侠は人を呼んでバドの顔をそり、爪を切ってもらい、自分は段岭の世話をした。

「君の瞳は湖水みたいだね。」段岭は鏡を見てから、鏡の中のバドを見て言った。「本当にきれいだ。私も青い目だったらよかったのにな。」

「お前は青い目が羨ましいのか。俺はお前の黒い目が羨ましいのにな。」バドが答えた。

郎俊侠は「青い目には青い目の良さが、黒い目には黒い目の良さがある。それぞれが持つ命は羨むものではない。」と言った。段岭は頷いた。この時には郎俊侠の言っている意味はまだよくわかっていなかったが、ずっとずっと後になってから、なぜか、夜中にこの言葉を思い出し、彼とバドと過ごした記憶が蘇るようになるのだった。

 

 

深夜になると、バドはまだ半分湿った羊毛の上着を着て、「もう帰る。」と言った。

「うちで寝ればいいのに。」段岭は言ったが、バドは手を振って、それ以上言わせず、飛ぶように走り去って行った。段岭は去って行くバドを見てしばらく何も言わなかった。

バドは路地を通り抜けて名堂に着くと、庭の柵の割れ目から中に入り、常盤樹の鉢で穴を隠して書閣に戻り床に就いた。

 

「君はブアルチジンと友達になってもいいけど、他人に対する彼の振る舞いを真似してはいけないよ。」郎俊侠が注意した。段岭は頷いた。少年は本質的に遊び好きだ。名堂でも段岭と仲良くしようとするものがいないわけではなかったが、彼はずっと一人で座るようにしていた。郎俊侠の教えを忠実に守っているのと、小さいころから培ってきた警戒心の強さのせいだ。今ある一切の物を失いたくないし、更にはまだどこか遠くにいる父に類が及ばないために、なるべく僻院内にいて、友達を作らないようにしていた。段岭の世界のほとんどの部分を占めるのは郎俊侠とまだ顔も知らない父だけだった。

 

当初子供たちは、彼が仲間に入って行く勇気がないのだと思っていたが、時が経つうちに、本当に人と交流したくないのだとわかるとだんだんとそれを受け入れるようになった。

上京の空気は自由で洒脱だ。人が嫌がることは強いらず、互いに尊重しあうのが遼人の風俗だ。たまに出くわした時には、彼に頷いて見せる相手に対し、段岭は恭しく、大先生の教え通りに、足を止め、衣服を整えて礼を返した。それは正式な「点頭の交わり」というもので、同級生たちは最初おもしろがって笑っていた。ただそれは新鮮に見え、また、段岭の洗練された拝礼がとてもかっこよかったため、それからしばらくの間、名堂では君子の礼が流行したのだった。

ただ一人、蔡閏だけは違う見方をしていた。どんな見方かは口にせずとも、心は通じあっていた。あれから蔡閏は段岭に何度か会っていたが、彼の落ち着いて真面目な態度を気に入っていた。

段岭が墨房に進学すると、体が大きくてどもりのある赫連博と机を並べることになった。新たなお隣さんは口数が少なく、ほとんどの時を互いに黙ったまま過ごしてはいたが、段岭の静かな性格にはよく合っていた。

 

 

月日は飛ぶように過ぎ、知らぬ間に日が長くなり、雪解けとともに冬は過ぎ、春が来た。

学堂にいるよりも、段岭は早く家に帰りたかった。あの日以来、郎俊侠が遅れてくることはない。それどころか、段岭は名堂で勉強している時にも、いつも誰かに背後を見守られているような気がしていた。気候が暖かくなってきた午後の授業中のことだ。段岭がぼうっとして、机の上に突っ伏し、うとうとしだしたとき、頭に突然スモモの実が飛んできた。

「あ痛っ!」段岭は顔を上げた。壁の向こうに人影が消えた。もう影も形もない。だが、その後は真面目に字を書くことにした。

初級授業はわずか三月で終え、他の子供たちに比べて習熟速度は速かった。すぐに次の班に入ることになるだろう。読む書の数は更に多く、内容も増える。天文術数、起承転結……簡単なことは何もない。

 

暖かな春の夜は落ち着かない気分にさせられる。段岭の心で、なんだか奇妙な感覚がぞわぞわとうごめきだした。頭の中には上京での最初の夜、瓊花院で見た郎俊侠の姿があった。

僻院の外で突然ゆるやかな笛の音が響き始めた。百花咲き乱れる春の夜に、段岭に語り掛けて来るようだ。あれはきっと郎俊侠が吹いているのだろうと、段岭にはわかりかけていたが、彼の姿を見たことはなかった。段岭は単衣姿で、月下に走ってゆき、裸足のまま立っていた。そして、笛の音がだんだん聞こえなくなると、部屋に戻って床に就いたが、寝返りばかりうって、中々眠れなかった。

 

 

瞬く間に半年が過ぎた。約束通り、郎俊侠は再び遠出することはなく、段家をきちんと管理していた。段岭の休みの時には、彼を野遊びに連れ出してくれ、馬に乗って広々とした草原を駆け、牛や羊の群れを見たり、アルキン山の麓で冷たい雪どけ水を飲んだり、川で釣りをしたりした。時にはバドも一緒に連れて行った。

段岭は自分は本当に幸せだと思った。だが、バドはその幸せを分かち合いたくはないようで、だんだんと理由をつけて一緒に来なくなった。郎俊侠の言う通り、人はみな、それぞれ考え方が違う。時には強く求めない方がいいこともあるのだろう。

 

「父さんはもう来る?」家に帰る度に段岭は郎俊侠に一度は尋ねる。

「もうすぐだ。君に関心がないわけではないのだよ。」段岭は聞くたびに同じ答えを習慣的に返されているような気がした。「君が真剣に勉強したら、お父上を失望させることはないはずだ。」

段家はきちんと整えられていた。段岭は花壇に色々な薬草を植えた。育ったものも育たなかったものもある。郎俊侠は不思議に思って尋ねた。「こんなに薬材を集めてどうするんだ?」段岭は汗を拭きながら答えた。「おもしろくて。」

「医学を学びたいのかい?」郎俊侠が尋ねた。段岭はよく考えてみた。子供の頃に病や痛みに苦しんだ経験からかもしれないが、いつも心にのしかかっている思いがある。人の命は儚い。誰もが思いがけない死を迎える可能性がある。人の病を治すことができたら有意義かもしれない。日ごろから、勉強していない時には、生薬辞典や、医書の類のものを借りてきて読んでいた。

「医学はやめた方がいい。お父上は君に期待しているんだ。いつか君が大業を成すことをね。」郎俊侠が言った。「やってみたいんだよ。」段岭は譲らなかった。

「まあ君がそういった草花を植えたいなら、別にかまわないけどね。」

 

郎俊侠は市場で一本の桃の苗を買ってきた。それは南から運ばれてきたもので、江南は桃の花でいっぱいだそうだが、上京では話題にもならない。段岭と一緒に桃の苗を植えた後、郎俊侠が言った。「桃の花が咲くころには、きっとお父上も来られるよ。」

「本当に?」それからは桃の木の世話を一所懸命するようになったが、水や土が合わないのか、いつもどこか元気がない。春になって二つ三つ蕾をつけたが、開かないうちに枯れてしまった。

 

翌年の秋、上京城外の枯草に山からの強い風が吹き抜ける中、郎俊侠は馬を走らせて、錦帯河畔で止まると、遥か遠くを望んでいた。

段岭は遥か彼方にある汝南での出来事をもうほとんど忘れていた。蒙館から墨房へ、更には書文閣に進学するたびに、蒙、遼、金人は減り、漢人が増えていく。そして同窓の仲間たちから、郎俊侠が言わなかった色々なことを学んだ。例えば―――

 

例えば、上京の漢人はほとんどが南方から来たということ。

例えば、先生たちは皆、南陳の著名な学者であること。

例えば、瓊花院は南院、北院は酒を飲み、楽しむ場所。そこの娘たちは皆、太祖が南下した時に連れ帰った人たちだということ。

例えば、上京の漢人たちは心の中に故郷があり、そこは柳が揺れ、桃の花が咲き乱れている場所であること。

例えば、桃の木は上京では育ちにくいが、それでも多くの人が植え続けていること。

:それは、漢人の書は難しいが、それでも多くの人が読み続けていることに等しい。

例えば、ブアルチジン・バド、赫連博、ウルラン……みんな名堂の同窓生ではあるが、その父親はそれぞれ特殊な身分で、彼らは「人質」であること。

例えば、蔡家、林家、趙家……彼らの家の者は、「南面官」という職位であること。

 

彼ら全てがそれぞれの故郷を胸に抱いている。そして口には出さなくても心の奥底では皆信じて疑わない。―――いつかそこに帰れるのだと。

非天夜翔 相見歓 日本語訳 第1章ー第5章

巻一 銀漢飛渡(天の川をも飛び越えて):

 

序章 雪は満ちる弓や刀に:

 

風雪荒れ狂う千里の雪原の中、長蛇のようにうねうねと続く数千もの騎馬軍が、山をも動かす勢いで、一人の武将を追いかけて行った。武将は黒い鎧に身を包み、跨る駿馬は既に鼻や口から血の泡を吹きながら走っている。矢が一斉に放たれては雪上を針の筵のように変える。

 

「身の程を知らぬとは愚の骨頂!」敵方の首領が遠くから叫んだ。「命が惜しければおとなしく捕らわれて、我と共に東都に帰って審問を受けられよ!」

武将は怒鳴り返した。「行ったらお前は裏切るだろう!」

「漸鴻。」別の千人隊が側面から近づいて来て、挟み込まれる。山野見渡す限り敵だらけだ。

「吾が王、あなたは既に叛され孤軍となった身、一人ではどうにもならぬのに、なぜ諦められぬ?頑固に抗ったところで、兵の命を失うだけですぞ!」

敵の援軍の中から重厚な声がした。「昔日の袍澤の誼を、心の片隅にでも留めておいでですか?」

武将は剣を鞘に戻したが、笑って言った。「袍澤の誼?かつての誓いも今や戯言。最初に交わした約束など誰が覚えていようか?!ここにいる兵士たちの命を犠牲にしても惜しくないほどに、それほどまでに我を倒したいか?

生きても死んでも同じこと!天地広しと言うけれど、お前を許す余地はないーーー!」

 

鼓の音は神代の巨人のように広大な天の果てまで行き渡り、この地を踏み鳴らす。一歩進むごとに、強風と防雪を巻き起こし天の光を遮るかのようだ。

「諦めなされ、吾が王、あなたにはもう逃げ道はない。」

第三の部隊が大雪の中から姿を現し、一人の英俊な若い武将が兜をとって、雪の中に投げた。

 

雪の粉が激しく巻き上がる中、その男の声が響いた。

「山河を引き渡して水酒を飲み、あなたの道は弟君に託されてはいかがです。誰だって最後は死ぬのです。なぜこのように抵抗なさるのですか?」

「確かにその通りだ。」李漸鴻は武鎧の下の袍襟をはためかせ、馬を停めて風雪の中に佇んだ。「誰だって最後は死ぬ。だが弧王は未だその場所には至らず。今日死ぬならそれは私ではない!!」

 

玉壁関は天高くそびえたつ。誰かが吹く羌笛の音がひゅうひゅうと寂しげに響いている。前が見えぬほどの粉雪と共に大地に降り注いでいくようだ。戦鼓が鳴り、騎兵が一斉に槍を立てる。鼓が鳴り終えれば、追撃してきた三隊から数千もの長槍が北良王李漸鴻に向かって放たれるのだ。李漸鴻は冷ややかに言った。「くだらぬ話はもういい。先に手を下す勇気があるのは誰だ?」

「ここで刃を交えて死に至れば、生前の威名は無に帰します。絶対におやめください。」

先ほどの若者が怒号をあげた。「ここで李漸鴻の首を取れば、誰であろうと、値千金!万戸の候に封じようーーー!」

 

戦鼓が鳴りやみ、騎兵は一斉に咆哮した。李漸鴻の上げた雄たけびが天地の間にこだました。

彼は馬を全力で走らせて山の上に向かって行き、高地を守っていた兵の中に叫び声をあげながら突撃して行った。一万を超える兵が一人の男を囲む戦陣が敷かれ、兵馬は中心に向かって集まって来る。李漸鴻は双脚で馬を挟み、左手に長槍、右手に剣を持って、千軍万馬に向かって突っ込んでいくと、山の上にむかって逆流していった!高地で雪崩が起きた。追ってきた兵馬は白霧を上げて狂ったように押し寄せる雪の中に巻き込まれていった。

 

鮮血が飛び散る。李漸鴻は一本の剣で、襲い来る兵馬の長刀を斬り断ち、鉄槍で敵軍の馬を貫くと敵陣に向けて投げ落とす。手に持つ剣が届くや否や、兵の体が断たれて飛び散る。鉄を泥のように切り裂く利刃は絶え間ない流れのように襲い来る敵を切り裂いていく!一万対一人。だが、李漸鴻は羊の群れに入り込んだ虎のように、入り乱れる戦陣を抜け出て行った!

 

駿馬の前には万丈の切り立った崖があった。その時、崖の先が突然崩れ落ちた。無数の馬たちにはすすべもなく騎兵たちも雪崖と共に落ちて行った。深淵の上では、李漸鴻が戦馬を御して、空をきって飛び越えていた。

雪の斜面からは戦馬のいななきだけが聞えた。その声を停めたのは雪崩の音だ。空には烏のように漆黒の雲が巻き起こり、北方の大地を覆った。叛乱軍の首領は崖の前で馬を停めた。

降り続く粉雪が彼の赤銅色の甲冑に落ちた。

「将軍、反賊の行く末は見えませぬぞ。」

「かまわぬ。暫し兵を収めよ。」

 

―――――

序章 タイトル、「雪は満ちる弓や刀に」は下記の詩から。

 

月黒雁飛高 単于遠遁逃

欲将軽騎逐 大雪満弓刀

 

雁高く飛ぶ新月の夜 単于は遠く逃げてゆく

軽騎兵らに追わせてみたが 大雪満ちる弓や刀に

盧綸

 

中国語の翻訳をする人は中国語が好きすぎて、あと、日本人は漢字が読めてしまうので、あまり意訳をしないで、原文の味わいを残そうとしたり、注を入れて諺や詩の出典を書いたりする傾向がある気がします。

中国語に限らず、原文を重視するか、日本語としての自然さを重視するかは翻訳のテーマの一つでしょう。私としては日本語の座りの良さを重視しようと思います。なので、引用文の翻訳は正確ではありません。最初から日本語で書かれていたかのような自然な日本語を目標に学習していこうと思っています。

 

 

ーーー 

第2章 訪問客:

 

亡国に春の草は生えども、離宮は古き丘に無し。(李白

 

遼帝が南下して、陳国上梓を打ち取って以降、漢人は玉壁関から撤退した。玉壁関から三百里南の河北府までが遼の国土となったのだ。

架空の国の物語です。実在した陳とは無関係。遼も元も国は実在した国を想定しているかもしれないけど、史実とは異なる。フビライとかの名前は出て来るけど。)

 

河北府には汝南城がある。古来、中原と塞北の貨物が行き交う場所だったが、今では遼国の版図にある。漢人は西や南に逃げて行った。かつて河北最大だった城市は、今やがれきの山と化し、残っているのは三万戸に満たない。

 

段家は汝南城内にあった。段家は大きいとも小さいともいえない。商団相手に売買したり、質屋一件、油坊一件を持っている。当主は三十五になる前に病で命を落とし、全家の営みは夫人に任された。

 

師走の八日、夕日の残照が、汝南城内の青石畳を黄金色に輝かせ、宛ら小巷に金の小波が続いているかのようだ。段家の庭園には耳をつんざくような叫び声が響いていた。

「お前はまた夫人の物をくすねたね!何とか言いな!この私生児の畜生め!」

 

一人の子供が棍棒で頭や体をバシバシと叩かれ、うめき声をあげていた。子供の着ているぼろぼろの衣は泥だらけで、顔は青ざめ、怯えた目をしている。手には紫がかった血痕がある。

家具の後ろに隠れようとして女中の木盆を振り払ってしまい、管家婆にまた怒りの声を上げさせた。子供はさっと飛び出して、命知らずにも婆を押しのけ、その顔を拳で殴ってかみついた。管家婆は絶叫を上げた。「人殺しーーー!」

声を聞いた屈強な馬夫が手に鋤を持ってやってきた。子供は後頭部を殴られて目の前が真っ暗になって気を失ったが、叩かれ続けて痛みで目を覚ました。叩かれた肩からは血が流れたが、襟首をつかまれて納屋に放り込まれ、鍵をかけられた。

 

「ワンタンはいかがかねーーー。」

巷内に老人の声が響き渡った。毎日夕暮れが過ぎた頃に老人は屋台をひいて町を歩き回る。

「段岭!」庭の外から子供の声がした。

その声で目が覚めた段岭は、鋤で肩を傷つけられ、掌は深い引っかき傷から血を滲ませながら、這いつくばって起き上がった。

「大丈夫なの?」外から子供の声が聞こえる。

段岭は喘ぎ、顔をしかめた。立っている気力もなく、ああっと声を出して座り込んだ。子供は返事をもらったと思い、去って行った。

 

彼はずるずると滑り落ちて横たわった。暗くじめじめした納屋で丸く縮こまり、天窓から灰色に曇った空を見上げた。雪の粉がひらひらと舞い散っている。そんな空一面の雲霧と飛雪の中、空の真ん中に星明かりが光った気がした。

空がだんだんと暗くなり、冷たく寂しい静けさに包まれた汝南城内では、たくさんの家々が温かな黄色い灯をともし、屋根の上は柔らかな雪の層に覆われていた。

ただ一人、段岭だけが納屋で震えていた。気が遠くなるほどおなかをすかせ、目の前の雑然とした景色を見ている。時には亡くなった母の両手を思い出し、時には段家夫人の錦繍を施した袍子を思い、時には管家婆の意地悪な顔を思い出した。

 

「ワンタンはいかがかねーーー。」

自分は何も盗んでいない。段岭はそう思いながら、手の中の二つの銅銭を握りしめた。

目の前は真っ暗だ。私は死ぬのかな?段岭の意識はあいまいになってきた。死は彼にとってなじみのないものではない。三日前も青橋の下で凍え死んだ乞食を見かけた。周りに人だかりがして、遺体は最後に板車にのせられ、乱葬崗に埋められた。

その日彼は他の子どもたちとわいわい楽しく城外に遊びに行った。そこで人々が筵で乞食の遺体をくるんで穴に埋めるところを見たのだった。その傍らにはもう一つ小さな穴があけてあった。今思えば、ひょっとしたら、自分が死んだら、あの乞食の隣に埋められるのかもしれない……。

 

夜が深まると段岭の体は寒くてガチガチと震えた。吐いた息が白くなって立ち上ったところに雪の花が舞い降りた。彼は空想してみた。雪が止み、目の前に丸い太陽が現れる。夏の日の朝のように、日の光が差し始める。

太陽が灯に変わり、納屋の扉がぎいっと音を立てて開かれ、灯の火が彼の顔を照らした。

「出てきな!」馬夫が乱暴に声をかけた。

「彼が段岭か」男の声が納屋の中に聞こえてきた。

地面に横たわっていた段岭は少し緊張して扉の向こうを見た。寒くて体が震えるが、何とか起き上がった。男は納屋に入って来ると、彼の前に膝をついて、詳細に彼の容貌を見回した。

「病気なのか?」男が尋ねた。段岭は意識がぼんやりしていた。虚影か幻覚を見ているようだ。男は薬を手に取り、段岭の口に入れると、彼を懐に抱きいれた。意識が遠のく中、男の匂いを感じた。男が歩くと振動が伝わる。道を行くごとにだんだんと体が温まってきた。

段岭の古い外套には穴が開いていて、中に縫い付けてあった芦の花が男の体にくっついた。

 

静かで暗い夜、灯火がゆらゆらと明暗する。

男は段岭を抱いて、半分暗く、半分灯に照らされた長廊を通り過ぎた。背後の道には芦花が舞い散った。廊下の両側にある温かな部屋から娘たちの笑い声が聞こえてくる。

大雪のサラサラという音と華やかな唄戯の声が一つになる。天地もだんだんと暖かく、また明るくなっていく。寒い冬も温かな春に、黒夜も白昼に。

天地は万物の逆旅にして、月日は百台の過客なり。

 

段岭はようやく意識を取り戻してきたが、息が苦しかった。

広間には灯が煌めいていた。段夫人は気だるげに長椅子にもたれ、山水の刺繍を手に持ち物思いに耽っていた。「夫人。」男が声をかけた。

段夫人は微笑みながら尋ねた。「この子の知り合いでしたか?」

「いいえ。」男はずっと段岭を抱きかかえたままだった。

段岭は先ほど飲んだ薬が喉を通り、おなかの中が少しずつ温まった気がした。気力も戻ってきたようだ。男の胸にもたれて、段夫人に顔を向けたが、目を合わせることはせず、視線は

床に敷かれた布団の花模様に落としていた。

「出生証はここにあります。」段夫人が再び言った。管家が紙を男に渡した。

 

段岭は体が小さく、顔色が悪く痩せていた。少し怖くなって抱えていた男の胸を押すと、男は彼を下におろした。段岭は彼の足にもたれて立ち、観察してみた。黒い袍子を身にまとい、武靴は少し湿って、腰に一枚の玉飾りをつけている。男は言った。「いくらですか。」

「元々段家ではこの子を引き取らなくてもよかったのですよ。あの子の母親が家に連れ帰ったのですわ。寒い雪の日でした。行く当てもなかったのでしょうね。いつか徳が得られるからと皆は言ったけれど、住み着いたっきりいつまでたってもそのままで。」

男は特に言い返しもせず、段夫人の双眸をじっと見て、答えを待った。

 

「そういうことで、あの子の母親が私に渡した手紙がここにあるのです。どうぞ、大人、ご覧になったら?」段夫人はゆっくりと息を吐いた。

管家がまた広げた紙を渡してきた。男は見るともなく見るとそれをしまった。

「ですが、私はあなたのお名前も存じ上げないでしょう。そんないい加減なことであなたにこの子を引き渡したら、あの世で段小婉に会った時に何と言えばいいかしら。そうでしょう?」男は相変わらず黙ったままだ。

 

段夫人は片袖を広げて、大げさに言った。「小婉ははっきりと言わなかったのだけど、相手はいなくなったから、今までのことはなかったことにすると言っていたのですよ。今日あなたがこの子を連れて行ったあとで、万が一、いつか誰かがまた父親に送り込まれたと言ってきたら、どう言えばいいのかしら。ねえ。」男は相変わらず何も言わない。

 

段夫人は彼に微笑みかけたが、目線は段岭の顔に向け、彼を手招きした。段岭は無意識に少し後退り、男の後ろに隠れて彼の袍の角をしっかりとつかんだ。

「ああ。大人、言いたいことがあれば、はっきり言ってほしいわ。」

「話などない。金ならある。いくらか言ってくれ。」男はついに口を開いた。

段夫人:「……。」

男は再び沈黙した。段夫人はその様子を見て、この男は養育債を支払うだけで、自分の身分も明かさなければ、この後どうするかも言わずに全て段家次第としている。

しばらく段夫人は男の顔色を伺っていた。男は懐に手を入れ数枚の銀票を取り出した。

「四百両よ。」段夫人がついに言い値をつけた。

男は一枚の銀票を指で引き出すと段夫人に渡した。

 

段岭は呼吸が止まった。この男は何をするつもりなのだろう?女中たちの話を思い出す。

冬の夜、山から子供を買いに降りて来る人がいるそうだ。山に連れ帰って妖怪の生贄にするためだ。彼は心から恐ろしくなった。

「私は行かない!やめて!やめて!」段岭は言った。

 

段岭は逃げようとして一歩踏み出したところで女中に耳たぶをつかまれ、引き裂かれるような痛みとともに戻された。「彼を放せ。」男は静かに言うと、段岭の肩をしっかりと手で押さえた。千鈞を超える力で段岭は全く動けなくなった。

管家が銀票を受け取り、段夫人に渡した。段夫人が眉をしかめると、男は言った。「調べなくて大丈夫だ。行くぞ。」「行かない!私は行かなーーーーい!」

段夫人は微笑みながら尋ねた。「こんな真っ暗闇にどこに行くのです?一晩泊まっていきませんか?」

 

段岭は声の限りに絶叫するので、男は彼を見て眉をよせた。「どうしたと言うのだ?」

「妖怪の生贄になるのは嫌だ。私を売らないで!私をーーー」段岭は卓の下に潜ろうしたが、男は素早く捕まえた。そして細長い指で段岭の腰を叩き、段岭は前のめりに倒れた。彼は段岭を抱き起すと、夫人の懐疑的な視線の中、彼を抱えて門を出て行った。

「怖がらなくていい。」男は段岭を腕に挟んで、低い声でそっと言った。「君を妖怪の生贄にはしないから。」

外に出ると、冷たい風に身を切られるようだ。小雪が顔に貼りついて来る。段岭は喉の奥に声が戻ってしまったように、口を開けても声が出なかった。

「私は郎俊侠(ランジュンシャア)。覚えたか?郎俊侠だ。」

 

「ワンタンはいかがかねーーー。」老人の声が悠然と聞こえてきた。

段岭のおなかがぐうっと鳴り、ワンタンを目で追わずにいられなかった。郎俊侠と名乗った男は足を止め、少し考えて、彼を下におろすと、銅銭を何枚か探り出して、ワンタン屋台の竹筒に入れた。ちゃらんと音がした。

姜恒は少し落ち着きを取り戻した。彼は誰だろう?なぜ自分を連れ出したのだろうか?

ワンタン屋台の黄色い灯の向こうに降り続く小雪が見えた。郎俊侠は段岭の背中を何度か押して、封穴を解いた。段岭がまた叫びそうになると、郎俊侠は、しっ!と言った。老人は湯気を上げる熱々のワンタンを彼の前に置いた。「食べなさい。」郎俊侠が言った。

 

段岭はもう何もかもどうでもよくなり、碗を取って喉をやけどするのも恐れず、立ったまま食べだした。新鮮な肉をたくさん包み込んだワンタンの上には胡麻と砕いた落花生がかかっている。油脂の小さな粒がつゆにとけこんでいて、香りがよく、碗の下の雪を溶かした。

段岭は食らいつくようにしてがつがつと食べた。飢えが恐怖に打ち勝っていた。一気につゆを飲み込んでいると、毛皮をかけられ、そのまま体を包み込まれた。

 

彼はワンタンの汁の最後の一滴まで飲み干すと、箸を降ろしてため息をついた。そして郎俊侠に顔をむけた。この男性は小麦色の肌に、絵の中で見た人のような高い鼻筋、深い両目をして、瞳には巷内の灯光と空一杯に舞う雪が映っていた。まっすぐな体にまとった黒い外袍には爪や牙を伸ばした怪物の刺繍がしてあり、手指は細長く美しい。腰には、唄戯舞台で見るような光輝く宝剣をつけている。

 

時々京城から絹の錦衣に身を包み、騎馬して町を堂々と歩く客を見たことがある。絹や綾羅紗に包まれて得意げな公子たちを、段岭は人々の中に混ざって興味深く見ていた。だが、彼らの誰もこの人ほど見目に優れていない。この人のどこがそんなに素敵なのか、段岭には表現できなかったが。ひょっとしたらこの郎俊侠という男は妖怪変化なのだろうか。この後牙をむきだして自分を丸のみにしてしまうのか。だが郎俊侠は目も向けずに彼の姿を見ると、

 

「食べ終えたか?ほかに何を食べたい?」と尋ねた。段岭は答えず、心の中ではどうやって彼の元から逃げ出そうかと考えていた。「食べ終わったなら行こう。」郎俊侠はまたそう言うと、段岭の手を牽こうとした。段岭は縮こまって、ワンタン売りの老人に救いを求める目線を送った。だが郎俊侠が段岭の手を握ると、段岭は振りほどくことなく、おとなしく一緒に歩いて行った。

 

 

「夫人にお答えします。男はあの私生児に巷でワンタンを食べさせました。」家来の一人が報告した。段夫人は上着を引っ張り、不安そうに眼を細めた。「誰かに後をつけさせて、私生児をどこに連れて行くのか調べさせなさい。」

 

汝南城内の家々には灯がともっていた。段岭の顔は寒さに赤く染まっていた。

郎俊侠に連れられ、冷たく湿った雪の上を裸足で歩いて行くと、町の中ほどにある翠楼の後ろにたどり着いた。郎俊侠はようやく段岭が靴を履いていないことに気づいた。彼を抱き上げ中庭に向かって口笛を吹くと、一頭の馬がゆっくりと出てきた。

 

「ここで待っていてくれ。少しやることがある。」郎俊侠は段岭を毛皮で包み、彼を馬に乗せて行ってしまった。段岭は馬の上から彼の様子を見ていた。郎俊侠は顔立ちが整っていて、目元が才走っている。まるで削り出された玉壁のようだ。髪にはまだ少し芦花がついていた。

心配しないようにという仕草をして、夜の闇の中に消えて行った。鷹が飛び立っていったように。

 

段岭の頭の中は疑問でいっぱいだ。いったいどんな人なんだろう?今どこに行ったのだろう?馬の背は高すぎて、足を折るのが怖くて飛び降りて逃げる気にはならなかった。馬に蹴られるのはもっと怖い。この見知らぬ人に運命を任せるべきか、自分で何とかするべきか、彼は何度も考えた。問題は、いったいどこに逃げられるということだ?生きるも死ぬも天に任せようと思った時に、人影がひらりと巷口から現れた。次の瞬間郎俊侠が鐙を踏んで馬に飛び乗った。

 

「ハァッ!」   (馬にかける声は、私の場合はこれ←で。)

大きな馬が青石板の道を踏んでいく。いななき声をあげて、小巷を馳せ、人っこ一人いない夜の汝南城を走った。郎俊侠の前に座った段岭は鼻をひくひくさせた。自分の服は湿った匂いがしたが、郎俊侠の服は乾いている。どうやら火で乾かしたようだ。腰のあたりからは焼餅の匂いもする。手綱を握る手の袖口が少しだけ焦げてもいた。確かさっきまでは焦げていなかったはずだ。さっきは何をしてきたのだろう?段岭はふとある故事を思い出した。

 

―――城外の黒い山谷に前の王朝での争いが発端で殺されかけた江湖の客がいるそうだ。山の中に百年以上隠れ住み、身代わりにできる子供が入って来るのを待っている。彼らは誰かに成りすます。それぞれがとても美しく、武功が高い。子供を見つけたら、墓場に連れて行って、恐ろしい顔を露出させて、子供の精気を吸い取るのだ。身代わり用の子供は墓場に横たえ、屍の皮をまとった妖怪は大手を振って人の世で楽しく暮らすのだという。

 

段岭はがたがたと震え、何度か馬を降りて逃げようと考えた。だがこんな高い馬の背から飛び降りたら足を挫くだろう。彼は妖怪ではないよね。段岭は妄想にとらわれ始めた。万が一、妖怪に精気を吸われそうになったらどうしようか?誰か他の人を見つけてやるか?いやいや……誰かを犠牲にするなんて、絶対にダメだ。

 

誰かが城門の下で待っていて、郎俊侠のために城門を開けた。駿馬は一路南に向かう。大雪が降る官道を飛ぶように馳せ、乱葬崗には行かず、黒山谷にも入って行かない。段岭は少し安心すると、振動のせいで眠くなってきて、郎俊侠の乾いた匂いのする体にもたれてゆっくりと眠りに落ちていった。

夢の中で、布の上に山々が描かれた線だけの戯画に一本の道を描いていく。羽毛のような大雪が積った山岳の青峰は墨のごとく、白い下地に筆を滑らせれば、山水墨画の中へと馬は呑み込まれていった。

 

 

ーーー

第3章 都に行く:

 

「朧八粥を二杯くれ。」

 郎俊侠の声が聞えた。周りは温かな灯光に照らされている。段岭は眠くてまだ目が開けられない。うとうとしながら振り返ったが、郎俊侠に起こされた。

厩駅の客室で、給仕が朧八粥を二碗持ってきた。郎俊侠に渡されると段岭はまたぺろりと平らげて、きょろきょろしながらも、目の端で郎俊侠を盗み見た。

「もっと食べるか?」郎俊侠が尋ねた。段岭は不信な表情で彼を見た。郎俊侠は寝台に腰かけ、段岭は寝台に縮こまって、緊張していた。

 

郎俊侠は今まで子供の面倒をみたことがなく、表情も読み取れない。子供が好きそうな飴なども持ってきていない。考えた末、腰につけていた半月形の玉飾りを取って言った。「これをあげよう。」

半月形の玉飾りは透きとおって美しく、氷砂糖を切ったかのようだった。だが、段岭は受け取らず、玉飾りと郎俊侠の顔に順に視線を送った。

「欲しければ取りなさい。」郎俊侠が言った。言い方は優しいが声には何の感情もこもっていない。半月玉を指でつまんで、段岭にさしだす。段岭は不安そうに受け取り、何度も見た後、郎俊侠の顔に視線を移した。「あなたは誰なの?」その時ある人物が思い浮かんだ。

「私の……私の父さんなの?」

郎俊侠は何も言わなかった。彼の父親については色々聞いて来た。山に住む怪物だという人もいれば、乞食だと言う人もいる。とても富貴な人物で、いつか迎えに来てくれると言う人もいる。だが郎俊侠の答えは、「いいや、がっかりさせるが、私は違う。」だった。

段岭も違うだろうとは思っていたので、失望はしなかった。郎俊侠はしばらく何か考えてから、我にかえって、彼を横たわらせ、布団をかけてやった。「寝なさい。」

 

風雪がひゅうひゅうと聞こえてきた。汝南城からは既に四十里離れている。段岭は全身傷だらけだった。眠りに落ちると、叩かれる悪夢を見る。体がひきつり、時には叫び声をあげ、体の震えが止まらなくなった。郎俊侠は初め地面で寝ていたが、夜半に段岭が何度も悪夢にうなされるのを見て、彼の傍で寝ることにし、彼が手を伸ばすたびに暖かく大きな手でしっかりと握りしめてやった。そうしているうちに、ようやく段岭も落ち着いてきた。

 

翌日、郎俊侠はお湯を持ってこさせて段岭を沐浴させ、全身を拭いてやった。段岭は瘦せこけ、手も足もあざだらけだった。古傷が癒えないうちに上から新しい傷ができ、湯につかると刺すように痛んだ。痛みを何とか紛らわそうと段岭は玉飾りをいじって意識をそちらに向けた。

「あなたは私の父さんに遣わされたの?」

「しっ。」郎俊侠は唇の前に指を立てた。「聞いてはだめだ。どんなことも聞いてはいけない。後でゆっくりと教えてあげるから。誰かに聞かれたら、自分の姓は段、父の名は段晟だと答えなさい。」郎俊侠が言った。

 

「私達は上梓、段家の者で、君の父は上京にいる。西川との間を行商している。君は伯父の家に預けられていたが、大きくなったので、父親が私に連れてくるように言った。君を上京で学ばせるためだ。わかったか?」

郎俊侠は段岭に傷薬をつけてやり、単衣を着せた上に、少し大きめの貂の毛皮を重ね着させて座らせると、双眸を見つめた。段岭は半信半疑で郎俊侠と視線を交わしたが、しばらくしてからようやく頷いた。

「自分で一度言ってみなさい。」

「私の父の名は段晟。」

駿馬は川岸に沿って走って行く。郎俊侠は馬を降りると、凍った河の上で馬を牽いて、段岭と共に渡った。

「私は上梓、段家の人間です……。」段岭は繰り返した。

「上京に来たのは学ぶため……」段岭は眠くなって、馬の背で頭をゆらゆらさせた。

 

 

千里彼方の玉壁関では、李漸鴻が一歩一歩踏みしめながらなんとか前に進んでいた。

体中傷だらけで、つかまり歩く。あちこちの骨も折れている。身に着けているのは背に負った剣と首から下がる赤い紐だけだ。赤い紐には飾りがついている。真っ白く無傷の半月形の玉だ。

一陣の風が起こって、玉飾りを巻き上げ、暗闇にあたたかな光を放った。

 

はるかな天地の果てには半月玉の片割れがある。まるで強大な力で呼びよせようとしているようだ。鷹も超えぬ鮮卑山、魚も泳げぬ冬泉河。力は川岸へと呼び寄せる。これは絆であり、宿命の力だ。彼の魂の中に根付き、彼の血となって流れ、困難な時でも前進を促す。

風雪の中に何かが聞える。こちらに近づいてくるようだ。あれは荒野に群れ成す狼か、それとも破滅的な一陣の旋風か?

「奔霄!」李漸鴻は叫んだ。漆黒の体に白い脚先をした駿馬が雪を蹴散らし駆けてきた。

「ベンシャオ―――!」

戦馬の嘶き声を響かせ、李漸鴻に向かってきた。李漸鴻は手綱を牽いたところで気力が尽き、

身を翻して馬に乗るとその背に体を伏せた。

「行け!」李漸鴻は叫び、奔霄と共に雪の中に消えて行った。

 

 

渡河を終え、一路北上すると、沿道には次第に人家が見られるようになったが、気温はだんだん低くなっていく。郎俊侠は、段岭に、自分の身の上を話さないようにと々言い聞かせ、仮の身分を暗記させた。そのうえで上梓での生活についての話も覚えさせ、段岭はだんだんと怖がるのを忘れ、だんだんと傷の痛さも忘れていった。

 

段岭の悪夢も体の傷と同じように次第に治癒してきた。肩の傷口には瘡蓋ができ、瘡蓋もやがて取れて、淡い傷跡となったころ、この長い旅路もついに終わった。段岭は今まで見た中で最も繁栄した城市を目にした。

 

楼台の輝きが海に映り、衣馬軽肥は川の光を揺らす(留别曹南群官之江南 李白

 

鮮卑山の西に夕日が落ち、果てなき広野に紅い光を投げた。錦川は帯のように城を囲み、凍った川面がきらめいていた。上京城薄暮の中にそびえ立っている。

「ついた。」郎俊侠が段岭に言った。

段岭はパンパンに厚着している。本当に寒い旅路だった。彼は郎俊侠の懐に抱かれ、ともに馬の背から遠く上京城を眺めた。段岭は目を細めた。とても暖かく感じた。

 

上京に着いたのは夜になりかけた頃だ。城門は厳重に守られている。郎俊侠は文書を提出したが、守衛は段岭に注意を向けた。「どこから来たんだ?」守衛が尋ねた。

段岭は守衛をしかと見つめ、守衛も段岭に視線を置いた。

「父の名は段晟。私は上梓、段家の者です……。」段岭は暗記したことをすらすらと述べた。

守衛はいらいらと話を遮った。「二人の関係は?」段岭は郎俊侠を見た。

「彼の父の友人です。」郎俊侠は答えた。守衛は文書を隈なく調べ見て、最後にしぶしぶ彼らを通した。町の中は灯火がともって明るく、街道の両側には雪が積み重なっていた。

 

ちょうど年末で、路肩には灯と酒を手にした酔っ払いが、欄前には歌姫が琴を奏でて歌っていた。他にも酒場の外に灯りと酒を持って座ったり寝そべったりしている人たちがいる。

客引きする芸妓の色っぽい声が聞こえる。剣を佩いた武人が足を止めて見ている。ごてごてと着飾った豪商が飲み過ぎてよたよたと麺食屋台にぶつかった。馬車が凍った路面を通り過ぎる。華麗な高級馬車を通そうとして御者が大声で叫んでいる。まるで部屋ごと状況の街を四方八方へと移動するかのようだ。

 

繁華街を馬で駆け抜けるのは無理そうだと判断し、郎俊侠は段岭を馬に座らせたまま、自分は下馬して手綱を引っ張ることにした。段岭の顔はわずかな隙間を残してすっかり覆われっていたが、毛皮の帽子の下の僅かな切れ目から、好奇心いっぱいに目をきょろきょろさせていた。

 

巷の裏道に入ると郎俊侠は再び馬に乗り、雪花を巻き上げて暗くなった巷の中を馳せて行った。

嬌声は遠のいたが、通りには灯がともっている。静かな小巷の両側には大きな紅灯籠が高く掲げられている。聞こえるのは馬の蹄が凍った道を叩くガチガチという音だけだ。

 

小巷の奥は、たくさんの閑静な二階建て家屋に囲まれている。屋根の上まで灯籠が重ねられ、降り続く小雪でさえ、その温かな輝きの妨げにならない。そんな暗い巷の裏門で郎俊侠は段岭に「下りなさい。」と言った。

裏門の外には乞食が座っていた。郎俊侠は見るともなく見ると、銀のかけらを乞食の碗にカラカラと落とした。段岭は好奇の目で乞食を見たが、郎俊侠に前を向かされ、体の雪をはらって中に連れていかれた。郎俊侠は慣れた様子で花廊と中庭を通り過ぎ、側厢に入った。

 

途中では琴の音が聞えていた。偏厅に入ると郎俊侠はほっと息をついたように見えた。

「さあ、座って。お腹がすいたか?」

段岭は首を振った。郎俊侠は段岭を火炉の前にある小さな台に座らせると、片膝をついて、毛皮の上着や靴、耳当て付きの帽子を脱がせ、自分は彼の前にあぐらをかいて座った。眼差しには、ほんの少し優しさが見えた。奥底に隠されていたが、一瞬だけちらりと見えた。

 

「ここはあなたの家なの?」段岭は疑わし気に尋ねた。

郎俊侠は言った。「瓊花院という名の場所だ。しばらくはここに泊まって、何日かしたら、新しい家に連れて行く。」

段岭は、「何も聞いてはならない。」という郎俊侠の言葉に従い、道中でも極力何もきかないようにしていた。そのため疑問が心に積もってびくびくした兎のような気持だった。それでも表面上は物わかりのいい態度をとった。そうすれば逆に郎俊侠が自分から説明してくれるかもしれないと思ったからだ。「寒いか?」郎俊侠は再び尋ねると、冷え切った段岭の足を大きな手でつかんでさすってくれた。「君は体が弱いようだな。」

 

「もう来ないと思っていましたのに。」儚げな娘の声が、郎俊侠の後ろから聞こえてきた。

声の方に向け、段岭は首を伸ばした。刺繍を施した衣を身に着けた美しい娘が、戸口の向こうに現れた。後ろには何人かの女中を従えている。

「用事があって出ていた。」郎俊侠はろくに答えもせずに、段岭の腰帯を外し、横を向いて包みをあけ、乾いた衣服を取り出すと、外袍を着替えさせた。そして袍子を振り広げるついでに首をひねって娘の顔を見た。娘は部屋に入って来ると、段岭を見下ろした。

見られて落ち着かない気持ちになった段岭は眉をしかめた。娘は「あなたは誰?」と尋ねた。

段岭は座り直した。例の一文がよみがえる。『私は段岭、父の名は段晟...。』

だが何も言う前に、郎俊侠が代わりに答えた。「彼は段岭。こちらは丁姑娘だ。」

段岭は郎俊侠の教えた礼儀作法に従い、丁姑娘に抱拳すると彼女の様子を伺い見た。

娘の名は丁芝という。段岭に笑顔を見せ、「はじめまして、段公子。」と言った。

 

「北院のあの方はいらしたか?」郎俊侠は心ここにあらずといった感じで尋ねた。

「辺彊からの軍報は、将軍が例の崖で打ち負かして以来、もう三月も来ていませんよ。」

丁芝は傍らに座り婢女に命じた。「点心を取ってきて、段公子に差し上げなさい。」

それから丁芝は手ずから壷をとって茶を一服煎じた。郎俊侠に渡すと、彼は一口飲んで、

「生姜茶だ。寒気を払ってくれるよ。」と段岭に渡して飲ませた。

 

道中、段岭が飲み食いするものは、郎俊侠が先に試しておいしいとかまずいとか教えてくれていたので、段岭はすっかりそれに慣れていた。だがお茶を飲んでいると、丁芝は何かを考えているような表情で、美しく澄んだ双目をわずかに歪め、じっと彼の目から視線を話さなかった。しばらくすると、婢女が点心を持ってきた。どれも今まで段岭が見たこともなければ、匂いを嗅いだこともないものだ。彼の食べ方を見抜いたかのように郎俊侠は注意した。

「ゆっくり食べなさい。しばらくしたら夕飯になるから。」

 

この道中ずっと郎俊侠は言い続けた。何を食べる時も、がつがつ丸のみにしてはいけないと。

その食べ方は段岭の習慣になってしまっていたが、郎俊侠の言いつけに従わないわけにはいかず、その内、もう誰も自分の食べ物を取り上げないのだということがわかった。そこで、菓子を取ると、手に持ってゆっくりと味わった。

 

丁芝は静かに座っていた。庁内で何が起きようとも気にならないようだ。

食盒が届けられると、郎俊侠は席に着かせ、食べていいと合図した。丁芝は温めた酒瓶を持ってきて、郎俊侠の隣に正座し、彼に酌をした。(日本人みたい)

郎俊侠は杯を押し返して、「酒は飲まない方がいい。」と言った。

 

「先月朝貢した涼南大曲ですよ。一口くらいいかがです?夫人があなたがお戻りになった時のために特別に用意したものですのに。」丁芝が言った。郎俊侠はそれ以上断らず、一杯飲んだ。丁芝が再び注ぐと、また飲んだ。丁芝が三杯目を継ぐと、郎俊侠は飲み終えて、酒杯を裏にして卓上に置いた。郎俊侠が酒を飲む姿を段岭は瞬きもせずに見つめていた。

丁芝が段岭に注ごうとすると、郎俊侠は彼女の袖をつかんで、引き戻した。

「この子には飲ませるな。」丁芝は段岭に笑って見せ、仕方ないわねといった表情をした。段岭はすごく飲んでみたかったが、郎俊侠に従う気持ちが、飲みたい気持ちにうち勝った。

 

段岭は食事を終えると、ここはどういうところなのだろうという猜疑心を持たずにいられなかった。郎俊侠と娘はどういう関係なのか?心が揺れ動き、二人の様子を盗み見ながら、もっと何か話をしてほしいと思った。

今に至るまで、郎俊侠が、なぜ自分をここに連れてきたのか何も言っていないことを丁姑娘は知っているのだろうか?彼女はなぜ自分の生い立ちを尋ねてこないのだろう?

丁姑娘は時々段岭を見つめ、何か思うところがあるようだ。しばらくして段岭が箸をおくと、ようやく彼女は口を開いた。段岭は言葉が喉まで出てきた。

 

「食事は口に合ったかしら?」丁芝は尋ねた。

段岭は答えた。「今まで食べたことがなかったけど、おいしかった。」

丁芝は笑顔を見せ、婢女は食盒を片付けた。「それでは失礼します。」

「ああ。」郎俊侠が言った。

「今回上京には何日くらい滞在なさるの?」丁芝が尋ねた。

「住まいを見つけたら、もう出て行かない。」郎俊侠が答えた。

丁芝の目が輝いた気がした。そっと微笑むと婢女に言った。「大人と段公子を別院にお連れして。」

 

婢女は灯を持って前を歩き、郎俊侠は自分の狼の毛皮で段岭をくるむと抱き上げて、回廊を通り、翠竹に囲まれた別院に歩いて行った。あまり離れていない別の部屋から杯が割れるような音とともに、泥酔した男の罵り声が聞こえた。「きょろきょろしないで。」郎俊侠は段岭に言い聞かせた。そして段岭を抱えて部屋に入ると、ついて来た婢女に「帰っていい。」と言った。婢女は腰を折って「失礼します。」と言った。室内は暖かく香しかった。火盆は見当たらなかったが、充分暖かい。部屋の外で火を焚き地下に熱気を送っているのだった。

 

郎俊侠は段岭に口を漱がせた。段岭は眠くてたまらず、単衣姿で寝台に横たわった。郎俊侠は傍に座って、「明日は街歩きに連れて行ってやろう。」と言った。

「本当に?」段岭はまた目が覚めてきた。

「私は隣の部屋で寝ているから。」と郎俊侠は言った。

段岭はがっかりしたように郎俊侠の袖をひっぱった。郎俊侠は不思議そうに段岭を見たが、しばらくしてから理解した。―――一緒に寝てほしいのか。

 

上梓を出てから、郎俊侠はいつも一緒にいた。朝の食事も夜の就寝も。今郎俊侠が行ってしまったら、また怖くなってしまう。

「それじゃあ……」郎俊侠は一瞬ためらったが、「まあいい。付き合おう。」と言った。(このためらいは)

 

郎俊侠は単衣を脱いで壮健な胸板を現し、段岭の背に手をまわした。段岭は彼の力強い腕を枕にすると、すぐに瞼が重くなって眠りに落ちた。郎俊侠の体からは男性の肌の心地よい匂いがした。彼の外袍にくるまれるのに慣れていた段岭は、いだかれているような気持で眠りに落ち、悪夢を見なくなった。この日は色々なことを経験した。頭の中にたくさんの雑多な情報があふれ、そのせいでたくさん夢を見た。これでもかとばかりに次々に夢が現れる。

 

夜半過ぎに雪が止んだ。世界は静まり返っている。あまりにもたくさんの夢を見たせいで、段岭は目が覚め、寝返りを打った時、温かな掛布をつかんだ。となりにいた郎俊侠はいつの間にか消えていたが、彼の体温が残っていた。段岭は緊張してなすすべもなく、そっと寝台を下りて、扉を押した。隣の部屋から灯が漏れ出てきた。段岭は裸足で廊下を歩き、つま先立ちをして窓枠の向こうを見た。部屋は広くて明るく、半分には低くとばりが下ろされていた。郎俊侠は窓に背を向けて衣を広げ帯を解いていた。(一回脱いでまた着てまた脱ぐ?)

 

喉元で止めていた襟を外し、袍と帯を掛けた後、服を脱ぎ落し、寛闊な背中、美しい腰の線と引き締まった臀部をあらわした。余すところなく展せた男性らしい裸体は、肌肉を削ぎ落された戦馬のようだ。横を向いた時に、(おっとっと……)

段岭は息をのみ、心臓が跳ね上がった。帰ろうとして足で花瓶を転がしてしまった。

「誰だ?」郎俊侠が振り返った。

 

 

ーーー

第4章 学堂:

 

段岭は急いで逃げて行った。

郎俊侠はさっと外袍を羽織り、裸足のまま出てきた。段岭の部屋の扉がパタンと閉まる音がした。郎俊侠が扉を開けて入ってきた。段岭は寝台に横たわり、寝たふりをしていた。

郎俊侠は苦笑いし、水盆のところに行って布を湿らせると、外袍を床に脱ぎ捨てて、体を拭き始めた。段岭は薄眼を開けて、郎俊侠の動きを盗み見た。郎俊侠は体をひねって、躍動する情緒を落ち着かせるかのように、高く    た、  を冷たく湿った布で包んで拭き、    せた。窓の外に人影が現れた。「もう寝る。そちらには行かぬ。」郎俊侠が小声で告げると、足音は遠のいて行った。

 

段岭は寝返りを打って壁の方に顔を向けた。しばらくすると郎俊侠が袴をはいて布団に入ってきた。段岭の背に胸があたる。段岭が振り向くと、郎俊侠は手を伸ばして腕枕をしてやった。段岭は安心感を取り戻して郎俊侠の胸に身を伏せ、眠りに落ちていった。

郎俊侠の素肌と体温、体から漂う心地よい香りのせいで、段岭は南方の冬に戻って行く夢を見た。熱い太陽に抱かれているようだった。

(哀れ郎俊侠。BL小説における貴重な直男なのに、娼館に泊まって子供に添い寝とは。)

 

 

その夜、西川では小雨がしとしとと降り続き、天地は雨に覆われていた。

灯火が窓の外の人影に当たり長廊に影を落とす。二つの人影が廊下をゆっくりと歩き、その後ろには二人の護衛がついている。

「二万の兵馬で囲い込んだのですが、逃げられました。」

「心配ない。既に網は張った。凉州路も東北路も封鎖してある。羽が生えて鮮卑山へ飛んで行きでもしない限り。」

「それで安心できますか?彼は長年塞外のあちこちで戦ってきて、地形を熟知しております。一旦山に入られたら、見つけることは不可能です。」

「今や上のお方は昏睡されて政にかかわれず、四皇子は病いがち、我ら二人が手を打ったからには、もう退路はない。例え彼が戻ってきたとしても、責任放棄の罪に問える。趙将軍、何をそんなに恐れておいでか?」

「あなたは!」

 

『将軍』と呼ばれた武装した人物は、南陳の支柱たる、天下兵馬大元帥趙奎その人だ。彼と肩を並べて歩く人物は紫色の官袍に身を包んだ一品大員で、身分はこの上なく高い。二人の影は長廊の外壁にのびていた。黙りこくった二人の後を、それぞれの護衛が武器を握りしめて黙ってついて行く。

左側の刺客は首に白虎と入れ墨されている。傘をかぶって顔を半分隠し、その下に現れた口元には笑みとも言えぬ笑みを浮かべている。

右側の護衛は体が大きく、九尺はある。目元を除き、全て覆い隠されている。手袋をつけ、風帽をかけて顔を隠している。鋭く暗い眼差しには何の感情も現れていない。

 

趙奎が冷ややかに言った。「すぐにでも誰かを遣って彼を捕えなければ。今は我らが明るい所にいて彼が暗がりにいますが、夜長ければ夢多し。遅くなれば変化が生じるかと。」

高貴な男は答えた。「玉壁関外には、もう我らが兵は送れない。今できるのは彼が自分から姿を現すのを待つことだけだ。」

趙奎はため息をついた。「彼が遼に身を投て、兵馬を借りて戻って来ることになれば、ことは今のように簡単には済まなくなるでしょうな。」

「遼帝は彼に兵は貸すまい。南院の方が既に手をまわしておる。上京に来る前に死ぬことになるはずだ。」貴人が言った。

「あなたは彼を甘く見過ぎています。」趙奎は雨に濡れる庭の方を向いた。鬢にはすでに白いものが混じっている。彼は貴人をじっと見て、一言一言はっきりと言った。

「李漸鴻の麾下には混血の男がおります。鮮卑漢人の混血です。名前も来歴もわかりませんが、私が見たところ、あなたもその男をずっと見つけられずにいるはずです。足取りもつかめず彼の名を知る者さえいませんが、彼が李漸鴻が持つ最後の暗棋のはずです。」

 

「その話が本当なら、武独と倉流君は一度会ってみたいと思うのではないか?何と言っても今の世の中で君らの相手になる者は多くはないのだからな。その男のことを聞いたことがあるかね?」貴人が尋ねた。

背後に控えていた覆面の護衛が答えた。「名前は知りませんが、その男が無名客と呼ばれていることは知っています。悪行を尽くし、御しがたく、李漸鴻の命令など聞かぬはずです。」

趙奎が尋ねた。「悪行とはどんなことだ?」

覆面の護衛が答えた。「師門を裏切り、師父を殺し、同門を売り渡した。天理を受け入れず、行いは悪辣。口封じに手加減はせず、『喉を一突き、血が峰に届く』それが彼のやり方だと。」

「刺客としてはそれが尋常なのではないか。」貴人が言った。

 

「剣で一突きというのは、問答無用という意味ではありません。刺客は人殺しが仕事ですが、必要のない人間は殺さぬものです。この男は殺すべきでない人間さえも全く躊躇なく手にかけるのです。」覆面の男は声を潜めて言った。

「我が記憶に誤りがなければ、李漸鴻の手中には鎮河山があるはずだ。鎮山河があれば、その男も命令をきくだろう。」貴人が言った。覆面の男は「李漸鴻は鎮山河を持っており、その剣を持つことで全ての者に命令できます。」と言った。

 

「まあいい。」趙奎が話を終わらせ、后院は再び静まり返った。しばらくの後、趙奎が口を開いた。「武独(ウドウ)。」背後に控えていた傘をかぶった侍衛が応じた。

「今夜のうちに出立しろ。昼夜徹して李漸鴻を探し出せ。見つけても手は下すな。私が誰かをお前のところに向かわせる。事が済んだら、彼の首と剣を私の元に持って来い。」

侍衛は口角をほんの少し上げて拱手し、去って行った。

 

馬車が将軍府後門外の小道を離れ、濡れた石畳には遠くの灯が映っていた。

「お前は青鋒剣を見たことがあるか?」貴人が尋ねた。

「青鋒剣を見た者はみな死にます。」覆面の護衛は物思いに耽るようにしながら、馬に鞭をあて、貴人を乗せた馬車を走らせる。貴人は錦の座席に座り、何気ない調子で言ってみる。

「お前はどう思う?武独は無名客と比べてどうだね?」

覆面の護衛は答えた。「武独には気負いがあるが、無名客にはそれがありません。武独は勝ちにこだわり、負けたくない、譲れないと気に負っていますが、無名客にはそんなこだわりはありません。」

「こだわりがない?」

「人も物もどうでもいい。まさに請負刺客ですね。」覆面の護衛は淡々と言った。「人の命を取らんと欲する者は、まず自分の命を手放すものです。一度でも人を愛してしまえば、無自覚なうちに命を惜しむようになり、力を尽くせなくなる。そして負けてしまうのです。無名客に親しい人間がいないなら、殺しは名を上げるためでも褒賞のためでもない。もし殺人が好きなだけだとしたら、武独と比べて、わずかに分があるかもしれません。」

貴人が再び尋ねた。「お前と武独ならどうだ?」

覆面の護衛は悠然と言った。「一度やりあってみたいとは思っています。」

「残念ながらその機会はなさそうだ。」貴人が優雅に言った。覆面の護衛は答えなかった。

「それでは、お前が李漸鴻とやりあったらどうだ?」

 

「ユウーッ!」覆面の護衛は馬を停め、車の簾を開けて貴人に降りさせた。府門には「牧」と書かれた提灯が掲げてある。南陳の丞相:牧曠達。

「属下(私)、武独、無名客と鄭彦の四人が手を組めば、もしかしたら、三王様と一戦交えるのも可能かもしれません。」覆面の護衛が答えた。

 

 

次の日、太陽が果て無く照らし、雪に覆われた上京はまるで白玉を削って作られた町のようになった。瓊花院も仙境のように美しい。

婢女が朝食を持ってきた。「夫人が郎大人に、食事を終えられたら、お越しいただき話がしたいと言っております。」

「必要ない。」郎俊侠が答えた。「今日はやることがあり、時間がかかるだろうから、都合が悪い。青夫人には、ご厚意に感謝するとお伝え願いたい。」

婢女が出て行くと、段岭が尋ねた。「街歩きに連れて行ってくれるの?」

郎俊侠は頷いた。「外に出たらあまり話をしないように。」

 

段岭は、うん、と言いながら考えていた。夕べ自分は郎俊侠の邪魔をしたのではないだろうか。それに彼は隣の部屋で何をしていたのだろう。だけど、下手に聞くのはやめておこう。どうやら郎俊侠はもうあのことを忘れているようだし、朝食を終えたら、今まで通り、一緒に出掛けてくれるのだから。

 

外には馬車が停まっていた。車簾を巻き上げると、中には丁芝が座っていた。

「一晩泊まったと思ったら、もうどこかに行くのね。住まいを見つけてもう出て行かないとか言ってなかったかしら?お乗りなさいな。」

段岭の手を牽いていた郎俊侠は動きを止めたが、段岭はその手を引っ張った。早く行こう!

車に乗り込みながら、郎俊侠は答えた。「厚意に甘えてもいられない。まだやることがあるので。」丁芝は仕方なく車を降り、郎俊侠は段岭を町に連れて行った。

 

路上の様子に、段岭はたちまち目を奪われた。その頃の上京は北方の商業の中心地で、関外三城、四十一胡族がここで売買を行っていた。大遼皇太后の誕生日が近いということで、南陳から使節が祝いに来ていた。人型飴細工やら、珍宝、山でとれた薬草、簪や白粉などの店がいっぱいで、目が回るほどだ。

 

段岭は目には入った食べ物全てを食べてみたかった。中でも一番は、上梓にいた時から食べたかった驢打滾だ。郎俊侠はまず段岭に服を二着作らせ、書道具店で、文房具を買った。

「字が書けるの?」段岭は好奇心から尋ねた。店主は一つ一つ取り出してきた。端州の硯、徽州の墨、湖州の筆、宣州の紙。

「公子はお目が高い。」店主は笑顔で言った。「これは、昨年北から商人が買ってきた上物なのです。紙はまだ届いていません。すぐに十二束お届け致します。」

「遼人たちは気が散っているのでしょう。お祝いに気をとられて。明日の夕暮れまでに名堂に届けてください。」郎俊侠は気軽な口調で言った。

 

「高すぎるよ。」段岭は郎俊侠の懐具合を心配した。郎俊侠が支払ったのは、正に一財産だ。だが郎俊侠は言った。「書中自ずと黄金家屋への道有り、書中自ずと玉の如き美人得たり。書を読み文章を書く力は宝に勝る価値があるのだよ。」

「私は勉強をしに行くの?」段岭が尋ねた。

 

汝南で学堂に通う子供たちを見て、段岭はいつも羨ましくてたまらなかった。まさか自分が学童に勉強しに行かれる日が来るなんて!心の底から喜びが沸き上がり、感激のあまり、歩を止め、目を見開いて郎俊侠を見つめた。

「どうしたんだ?」

段岭の心に様々な思いがあふれた。「私はあなたにどうお返ししたらいい?」

 

郎俊侠は段岭を見た。かわいそうに思う気持ちもし、可愛く思う気持ちもあったが、最後には笑顔を浮かべることにして、真剣に答えた。「書を読み学ぶことは、正当な道理で、私にお返しなどしなくていい。いつか学んだことを生かすことが報いになる。」

文房具を買った後はたくさんの物を食べた。更に郎俊侠は段岭に手炉と、刺繍を施した小袋を買った。そして段岭の玉の片割れをそこに入れると内衣に付けて携帯できるようにした。

「これはどんな時でもなくしてはいけない。わかったね。」郎俊侠はそう言い聞かせた。

 

郎俊侠は、繁華街を出て、閑静な通りに段岭を連れて行った。通りに沿って白壁黒瓦の古びた建物が立ち並び、屋根の上には雪が層になって積っている。素朴な雰囲気だ。雪に覆われた松や柏のある園内から、子供たちの声が聞こえてきた。

 

子供の声を聞いて段岭はうきうきした。郎俊侠について来て以来、もうずいぶん同じ年頃の子供を見ていない。お行儀よくしていて、汝南城での泥まみれになって野原を駆けまわる風ではない。上京の子供たちは日ごろ何をして遊んでいるのだろう。

 

郎俊侠は段岭を園内に連れて行った。庭の雪がきれいに掃き清められているのを段岭は見た。自分より頭一つ大きい少年たちが三人、十歩離れた辺りに立っている。それぞれが矢を持って、少し離れたところにある壷に投げ入れていた。足音を聞いた少年たちが段岭に目をやった。段岭は少しどきどきして、郎俊侠に少し近寄った。郎俊侠は立ち止まらずに、そのまま内庁に入って行く。中には真っ白な髭の老人がおり、座ってお茶を飲んでいた。

「ここで少し待っていなさい。」郎俊侠が言った。

 

段岭はくすんだ青の袍子姿で、廊下に立っていた。

郎俊侠が入って行ったところから話声が聞こえてきた。段岭は少しぼんやりしていたが、柱の後ろから、少年が一人近づいて来て自分をじろじろ見ているのに気づいた。

彼は鐘の前で立ち止まった。庭園に子供たちがたくさん集まってきた。ほとんどが八、九才くらいだ。皆、遠くから段岭を見ながら、小声で何か言い合っている。その中の一人が彼と話をしようと近づいてきたが、一番背の高いあの少年に止められた。彼は鐘の下に立ち、段岭に尋ねた。「お前は誰だ?」

段岭は心の中で答えた。:『私は段岭。私の父は段晟……。』だが口をついて出ては来ない。

何か嫌な予感がしていた。段岭がびくびくしているのを見た子供たちが笑い出した。何がおかしいのかはわからなかったが、段岭は怒りを感じた。

 

「どこから来たんだ?」少年は鉄の棒を持って、手の中でパンパンと叩きながら近づいて来る。段岭は本能的に身をかわそうとしたが、少年は空いている方の手で彼の肩を押さえ、威圧的な態度で引き寄せ方に手を掛けた。そして鉄の棒を段岭の下あごに当てて顔を上げさせ、笑いものにするように尋ねた。「年はいくつだ?」

 

段岭は何度も逃れようとしたが、少年に押さえつけられて動けなかった。それから何とか押しのけられたが、離れることはできなかった。郎俊侠にここで待つようにと言われたのだ。ここにいるしかない。

「おや?」少年は頭一つ背が高く、北方人らしい身なりをして、狼皮の上着に狐の尾の帽子をかぶっている。青い瞳に浅黒い肌、まるで大人になりかけの狼の子のようだ。

「これは何だ?」少年が段岭の首元に手を伸ばし、布の小袋についた赤い紐を引っ張り出した。段岭はまた身を引いた。

「こっちに来いよ。」少年は、段岭がそろそろ耐えきれなくなってきたのを見て、綿花を叩くように、ぽんぽんと顔を叩くと、「聞いているだろう?しゃべれないのか?」と言った。

段岭は少年を見て拳をきつく握りしめた。目には怒りの炎が現れている。だが、少年の目から見れば、段岭などよくいる金持ちの坊ちゃんに過ぎず、一度でも棒で叩けば、大泣きして親に助けを求めそうに思えた。それなら棒を使う前にもう少しからかってやろうじゃないか……。

 

「これは何だよ?」少年は段岭の耳元に近づいて手を伸ばし、首にかかっている小袋を取ろうとした。耳元に近づき小声で言う。「さっき入って行ったのは親父か?それとも兄貴かな?ああ、稚児飼いの旦那かぁ?先生のところに話を持ってきたってわけだな?」

これには後ろにいた子供たちが大笑いした。段岭は小袋のひもが切れてしまわないように、少年が引っ張るに任せて、右へ左へと振り回されながらも小袋の紅紐を死守しようとした。

「ユーウゥ(停止の掛け声)!」少年は上手に御者の真似をした。「お前はロバだ。」

周りで様子を見ていた子供たちが一斉に大笑いした。段岭の顔は真っ赤になった。

 

少年はまた何か言おうとしたが、ふと段岭の拳が近づいて来たかと思うと、鼻筋が砕けるような痛みを感じた。彼は後ろに吹っ飛ばされて地面に倒れた。喧嘩が始まった。少年は鼻血を流したが、後に退かず、段岭めがけて突進してきた。小柄な段岭は腰の上を突かれて、回廊を飛び出し花壇に放り出された。周りで見物していた子供たちは大声で助けを求め、雪の中で殴りあう二人の周りを輪を描くように囲った。

 

段岭は顔を殴られ、胸を蹴られた。目から星が出た。少年は彼の体に跨って殴りつけ、首に血を垂らした。段岭は、目の前が暗くなってきたが、ありったけの力を尽くして少年の踝にしがみついて、思い切り彼をひっくり返した。そして狂犬のように襲い掛かると、少年の手にかみついた。周りは騒然となった。少年は痛みに叫び声をあげ、段岭の服をつかみ起こすと、彼の頭を銅鐘に思い切りぶつけた。ガン!と大きな音を立てて段岭は地面に崩れ落ちた。口、鼻、鼓膜、全てがキーーーンと鳴っていた。

 

 

―――

第5章 别离:

 

「やめろ!やめるんだ!」

騒ぎがようやく郎俊侠に届き、彼は一陣の風のごとく飛び込んできた。

(遅えよ。本当に四大刺客か?〇〇した〇〇を子供に覗かれたり。ここで段岭が死んだら話、5章で終わるじゃないか。)

大先生も後からすぐに来てしかりつけた。「すぐにやめるのだ!」

子供たちはさっと壁の向こうへと消え失せた。少年は逃げようとしたが、先生が怒り心頭で近づき、取り押さえた。郎俊侠は真っ青になって、段岭を抱き上げ、怪我の様子を調べた。

「なぜ叫ばなかったんだ?!」郎俊侠は怒った。段岭の性格を思い知らされた気がする。もし叫び声をあげていれば、何かあったと気づけたが、一言も声を上げないので、聞こえてくる音から、毬でも蹴って遊んでいるのだろうと思っていたのだ。段岭は左目を腫らし、狼狽しつつも郎俊侠に笑顔を向けた。

 

一時間後。

郎俊侠は段岭の顔を洗い、体や手に着いた泥を拭いてやった。

「大先生にお茶を差し上げなさい、さあ。」殴られたばかりの段岭の手は茶托を持つと震え、茶碗がカタカタと音を立てた。

「我が名堂に入学するなら、喧嘩っ早い性格は押さえておくようにしなさい。」

大先生が穏やかに諭した。「その性格を治せなければ、行きつく先は明らか。北院に入りびたりだろう。」

 

先生は段岭を見ていたが、出されたお茶を受け取らなかった。ずいぶん待ったが、何を言うべきかもわからず、先生が受け取らないならと、茶托を机に置いた。お茶がはねて先生の衣の袖にかかった。先生は色を変えてしかりつけた。「こらっ!」

「大先生。」郎俊侠はすぐに片膝をついて、先生に許しを求めた。「規則を知らないのは、私がきちんと教えなかったのが悪いのです。」

「頭を上げてよ。」何度も屈辱を受けた段岭は郎俊侠を引っ張った。彼に立ち上がってほしかった。さっきの少年の悪口が耳の奥で何度も響いていた。だが郎俊侠は段岭をしかった。「跪きなさい!さあほら、跪くんだ!」

 

段岭はしぶしぶ跪いた。先生は怒りを収め冷ややかに言った。「決まりを守れないなら、一度帰ってしっかり教えてからまた来てほしいものだ。機密扱いの子供に他国からの人質、決まりを守れないのはいったいどちらなんだ?」

 

郎俊侠が抗議しないので、段岭も言わないことにした。先生は口が乾いたようで、段岭が差し出した茶を飲んだ。「ここで学ぶからには扱いは一緒だ。またやったら追い出すからな。」

「大先生に感謝致します。」郎俊侠は肩の荷が下りたようで、再び段岭に三拝させた。段岭は納得いかない気持ちでしぶしぶ頭を下げると、郎俊侠について部屋を出た。

前院を歩いていると、あの少年が壁の前にひざまずき、壁に向かって反省させられていた。段岭は彼をじっと見て、少年も彼を一瞥した。その目は憤怒に満ちていた。

 

「どうして殴られたのに声を出さなかったのだ?」郎俊侠は眉をひそめ、瓊花院に戻ると段岭の顔を洗って薬をつけた。段岭が言った。「先に手を出したのは向こうだ。」(そうなの?)

郎俊侠は手拭いを洗いながら言った。「君を責めているのではない。戦って勝てないならなぜ逃げなかったのかと聞いているのだ。」

ああ、と段岭は答えた。

郎俊侠は忍耐強く言って聞かせた。「また君をからかう者がいたら、よく考えるのだ。勝てそうなら戦う。勝てなそうなら逃げなさい。君に替わって私が何とかする。命がけの戦いなどするものではない、わかったか?」(漸パパにも言ってやれ)

「うん。」と、段岭は言った。

 

室内は静まり返った。ふと、段岭が尋ねた。「あなたは強いの?私に戦い方を教えてよ。」

郎俊侠は手拭いを置いて、静かに段岭を見つめ、最後に言った。「いつか、君を嘲ったり、殺そうとする人が、とてもとてもたくさん現れるだろう。君が人殺しの攻夫を習ったとしても、この世にはこんなにたくさんの人がいる。一人一人殺したとして、最後はどうなる?」

段岭にはよくわからなくて、不思議そうに郎俊侠を見た。郎俊侠が再び言った。「君が学ぶのは書であって、それは道ということだ。いつか君が殺したいと思う人間は千にも万にもなるだろう。拳で向かって行けば、いつ終わるかも知れない。報いを受けさせたいと思ったら、規則に従い学ぶことだ。」郎俊侠は再び尋ねた。「わかったかい?」

段岭にはよくわからなかったが、頷くことにした。郎俊侠は段岭の背中を指でとんとんと叩いた。「今日のようなことはもう二度としないように。」うん、と段岭は答えた。

 

「今日から君は学堂に住むのだ。夕方私が君を送って行く。必要なものは買ったり借りたりしておかねば。」

段岭は心が突然どこかに行ってしまったような気がした。今の生活になってから、郎俊侠は彼の唯一の家族となっていた。それに、記憶をたどっても今までこんなに親切にしてくれた人は誰もいない。ついに我が家を見つけた気持ちでいたのに、もう別れなくてはならないのか?「あなたは?」段岭が尋ねた。

「まだやることがある。」郎俊侠が言った。「先生にはよく話しておいたから、毎月一日と十五日には、君に会いに行ける。その日は休みにして君に試験をして、すべてできていれば、遊びに連れて行こう。」

「行きたくないよ!」段岭が言った。

郎俊侠は動きを止めて、段岭を見た。厳しい表情だ。何も言われなくても段岭にはわかった。

――――わがままは許されないのだ。段岭は従わざるを得ない。つらくて目が潤んだ。

「君はいい子だ。いつか大事を成し遂げられる。」郎俊侠は淡々と言った。

「汝南を出て上梓を離れた。もう二度と飢えることもない。何を怖がることがある?以前とは全く違う。一人で勉強をしに行くだけだ。泣くことなど何もないだろう?」

 

郎俊侠は理解できないといった風に段岭を見ていた。何を怖がり悲しんでいるのだろう。道中ずっと段岭の考えを推し量ってきたが、いつも段岭は自分の考えの及ばない行動をとってきた。わんぱくだが、郎俊侠の前ではわがままを押さえている。汝南段家では、暗い薪小屋に何年も住まされていた。出てきてからは全てが安泰だったはずだ。―――学堂に行くだけで、なぜ狼の巣穴に放り込まれるような様子なのだろうか?

 

きっと子供と言うのはそういうものなのだろうと郎俊侠は結論付けた。誰も見向きもしなかった時には枯れかけていた蔦草が、誰かの注意を引いたことで、どんどん伸びていくようなものか。(何のこっちゃ。)

「苦中の苦を食すことで、人の上の人になれるのだよ。」郎俊侠はしばらく考えた末、この諺を彼に教えた。

 

夕暮れ時、再び雪が降り始めた。段岭はもうあの場所には行きたくなかったが、選択の余地はなかった。今までの人生で彼の意思を訪ねた人は誰もいなかったように思える。郎俊侠は物腰は柔らかでも心は断固としている。日ごろから口数が少なく、一旦何かを決めた時は、眠らぬ狼のように危険な気配を醸し出す。段岭が彼の言いつけに従わないそぶりを示せば、その気配はあふれ出る。形の無い手で魂を握りしめ、譲歩するまで離さない感じだ。どんなことでも一と言ったら、二ではないのだ。

 

翌日、郎俊侠は日用品を買い、名堂に学費を払ってから、東にある僻院に入って来た。

「丁芝のつてを使って君のことを看るよう頼んでおいた。瓊花院には名のある人たちも酒を飲みにくるのだ。彼女は人を使ってあの元人の子供に警告を与えた。今後問題を起こすことはないだろう。」

 

院内は毎日使用人が掃除をし、火を起こしていた。暖炉は壁についていて、瓊花院ほどは暖かくはない。食堂で一日二回の食事をする、鐘が鳴ったら集まると教えられた。郎俊侠からかてもらった碗と箸をきちんとしまってから部屋に戻る。段岭が座っている間に、郎俊侠は寝床を整えた。

「玉玦は肌身離さずつけておくように。」郎俊侠は何度も言いきかせる。「寝る時も枕の下に入れてなくさないようにし、起きたらすぐにつけなさい。」

段岭は何も言わず、目を赤くしていたが、郎俊侠は気づかなかった。

 

文房具は既に届けられ、名堂が保管していた。

郎俊侠は寝床を整え終えると、段岭と向かい合って座った。僻院に住んでいるのは段岭だけだ。暗くなってくると、使用人が灯をともしに来た。灯の中で静かに座っている郎俊侠は美しい彫刻のようだ。段岭も寝台に座ってぼんやりしていた。ほどなく学堂に三回鐘がなった。

郎俊侠は立ち上がると、「さあ、食事に行きなさい。碗と箸を忘れずにね。」と言った。段岭は碗箸を持って、郎俊侠について食堂に向かった。食堂前の小道で郎俊侠が言った。「私はここで帰るよ。来月の一日に迎えに行くからね。」

 

立ち尽くす段岭に郎俊侠が言った。「一人で食べに行きなさい。教えたことはみんな覚えているね。鐘の音が一度鳴ったらすぐに起きる。遅れてはいけないよ。初めの何日かは教えてくれる人がいるかもしれないが。」

 

郎俊侠は立ったまま、食堂に行くようにという仕草をしたが、段岭は動かなかった。二人は向かい合い、黙ったまま時間がたった。段岭は碗と箸を抱えて口を開き、何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。

 

しまいには痺れをきらした郎俊侠が自分から去って行った。きっぱりと身を翻したその後を段岭はついて行く。郎俊侠は振り返って見たが、もう留まるつもりはなく、急ぎ足に出て行く。段岭は碗と箸を抱えたまま、追いかける。学堂後門の外には守衛がいて段岭が出て行くのを止めた。段岭は門の中に立ったまま、郎俊侠を見つめた。目から涙がこぼれてきた。郎俊侠は頭を抱え、歩きながら振り返り言った。「戻りなさい!戻らないなら朔日に迎えに来ないぞ!」

段岭は仕方なく門内に留まった。郎俊侠は胸が痛んだが、それ以上留まるわけにはいかないと、ひらりと身を翻し門外に姿を消した。

 

「書を読み、学問を修め、いつか立派な官になるのです。」あの老人が段岭に言った。「戻りなさい、さあ。」段岭は振り返り、涙をぬぐいながら歩いた。空は暗くなり、学堂には黄色い灯籠に火がともされた。ずっと歩いて来て道がわからなくなったが、幸い先生たちが廊下の前を通り過ぎ、段岭が雫も凍る大雪の中、廊下に座って涙をぬぐっているのを見つけた。

 

「何をしている?!」大先生は段岭だとわからず、しかりつけた。「めそめそとこの世の終わりのように、いったいどうしたというのだ?!」段岭はすぐに立ち上がった。学長先生を怒らせたら、また郎俊侠に叱られてしまう。

「どこの家の子だ?」先生の一人が尋ねた。大先生はしばらくの間、段岭の顔をじっくり見て、ようやく思い出した。「ああ、あの来た途端に喧嘩した子か。喧嘩していた時にはそんなにしおらしくなかったようだが?さあ先生について行きなさい。」

 

先生は段岭を食堂まで連れて行ってくれた。子供たちは既に殆ど食べ終え、卓上はぐちゃぐちゃだった。使用人が段岭のために食事を用意し、段岭はきれいに食べきった。木碗と橋箱には名前が書いてあり、誰かが洗って片付けてくれた。段岭は一人で部屋に戻って床に就いた。

 

どこからか笛の音が聞えてきた。

笛の音は漂うように近づいたり離れたりとぎれとぎれに聞こえてくる。汝南城の黄昏の中の別れ唄のように、全てが夢の中であるかのように。

 

一月もの北への旅の間、段岭は段家での出来事を忘れていった。郎俊侠が近くにいることが彼の新たな生活が始まった証拠となった。だが、こうして静まり返った暗い室内にいて、ぱちぱちと薪の日がはぜる音を聞いていると、独りぼっちが身に沁み、段岭は眠ることができなかった。

―――目が覚めたら、再びあの暗い薪小屋にいるのではないだろうか。傷だらけの体と不安や恐怖の日々に。部屋の中には夢魔がいて、彼が眠りに落ち、意識が遠のいたら、千里のかなたにある汝南に引き戻そうとしているような気がしていた。

その時笛の音が聞えた。ゆっくりと途切れることなく、夢の中に無数の桃の花びらが飛び散る風景が見え、彼を眠りへと導いた。

 

郎俊侠は軒下に立ち、風帽には雪が積もっていた。彼はずっと黙ったまま、懐から、届けられることのなかった一通の手紙を取り出し、眉を寄せた。

 

小婉へ:

相観るが如く文を送らん。(見信如面:挨拶文的な)

文を持って来たのは私の手の者だ。あの時渡せなかった信用の証を送る。

南陳で私を陥れた者がおり、状況は急を要する。君のところに朝廷からの刺客が行かぬよう、この者と共に北に逃れてくれ。正月三日に上京にて会おう。

 

子の時、正月四日、李漸鴻は来なかった。

郎俊侠は瓊花院に戻って荷物を引き上げると、夜行服に身を包み、風帽で顔を覆った。

「今度はどこへ?」丁芝が扉の外に現れた。

「用をすませる。」郎俊侠はいい加減に答えた。

「あなたのために探しておいたわよ。巡司使の弟が彼のことを看てくれるわ。」

「家を探しておいてほしい。掃除はしなくていい。」郎俊侠は銀票を一枚出して置くと、文鎮を載せた。

「いつ頃帰るの?」丁芝が尋ねた。

「十五日だ。」郎俊侠が答えた。(朔日はどうなった?)

丁芝は部屋に入って来るとしばらく黙ってから口を開いた。「あなたが連れてきた子供はいったいどこから来たの?」

 

郎俊侠は黒い服に身を包み、風帽を目元まで下ろしている。すらりとした体で戸口に立ち、顔を覆った奥から輝く双眸で丁芝をしかと見つめた。手に持つ剣を親指で少し押すと鋭い刃が寒光を放った。

「南方からの報せでは、陳国皇帝は李漸鴻の兵権を取り上げたそうよ。」丁芝が言った。「武独が十八人の刺客を連れて北上した。李漸鴻を追跡するためでしょうね。あなたはもう李漸鴻には従わないと思っていたけど、あの子をずっと護衛してきたっていうことは……。」

郎俊侠はゆっくりと左手を上げ、丁芝は話を止めた。

「他に知っている者は?」郎俊侠が顔の覆いの奥から声を出した。鞘から出た剣を丁芝の首に当てる。鋭利な刃が丁芝の喉の上にある。

「私だけよ。」丁芝は眉をわずかに上げて顔を郎俊侠に向けて注視する。「手を下せば、秘密は永遠に保たれるわよ。」

郎俊侠はしばらく黙って思案していたが、それ以上剣を動かすことはなく、手をもどすと丁芝の横を通り過ぎた。そして彼女をちらりと見た。

「武独には気を付けて。」丁芝が囁いた。

郎俊侠はそれ以上話をせずに后院に出るとひらりと馬に乗ってマントを翻し疾走して行った。

 

 

段岭が目覚めた時、空はもう明るくなっていた。鐘の音がゴン、ゴン、ゴンと三度鳴った。一音ごとに急かされるようだ。外から使用人が声をかけた。「段坊ちゃま、朝読書の時間です。どうぞ。」

段岭は悪夢に苛まれることもなく、目覚めた時汝南に戻っていることもなかった。夕べの不安はどこかに消えており、郎俊侠の言いつけを思い出して、急いで顔を洗うと、子供たちが朝の読書をする中に加わった。

“天地玄黄,宇宙洪荒……”

“金生麗水,玉出昆網……”

“治本於農,務茲稼穡……”

段岭は一番後ろの席についた。子供たちに合わせて頭をゆすり、口真似をしようと努力したが、さっぱりだ。何を暗唱しているのかその内容も全くわからない。幸い以前に私塾の外で盗み聞きした時の言葉を思い出し、しばらくすると、一緒に読み上げることができるようになった。唱和が終わると、先生が絵と文の書かれた黄紙を配り、読み方の学習が始まった。

遅れて入学した段岭にとっては目の前に置かれた分厚い言葉の塊は難しすぎ、半分も読まないうちに集中力が途切れた。昨日喧嘩したあの男の子はどこにいるんだろう?

 

名堂は遼国が南征した際投降した漢人によって建てられた。蒙館、墨房、書文閣の三処に分かれていて、入学したての子供たちはまず蒙館で字を習う。字を全て覚えたら、試験を経て、墨房に進学し、経文など、より深い学習を行う。書文閣は遼の文章、漢の文章、西羌の文章を学び、作文し、六芸の修練もする。書文閣で学び終えた者は、名堂を出て、南枢密院下の辟雍館で五経を学ぶ。科挙を受けて仕官するためだ。

 

名堂に通う学生たちの進み具合はまちまちで、昨日の少年は墨房に在籍していて、段岭が彼を見かけたのはお昼ご飯の時だけだった。少年は長椅子に片足をかけていて、周りには誰も座ろうとしない。鉄の碗でご飯を食べながら、段岭を見ていた。

別の漢人少年が近くに座ってきて、段岭に声をかけた。「君の名前は段岭だよね?」

段岭は警戒しながらその漢族の少年をじっと見た。年は少しだけ上なだけのようだが、大人びて見える。上等な衣服の襟もとには金烏の刺繍が施され、右袖には青金石の留め具がついている。眉が墨のように濃く、唇が赤く歯が白い、正に貴族といった感じだ。

 

「ど……どうして知っているの?」段岭は尋ねた。

貴族の少年は段岭に向かって小声で告げた。「うちの兄さんが人に頼まれたんだ。私に君のことをしばらく見させて、いじめられないようにしてほしいって。」

「君の兄さんって?」

貴族の少年は答えず、昨日段岭と喧嘩をした少年の方を指さして言った。「あれは、布児赤金(ブアルチジン)家の者だ。あいつの父親は韓府の犬だから、もしまた君に嫌がらせをしてきたら、あそこにいる人に言いつけるといい。」

貴族の少年は近くにいた別の少し年上の少年を指さした。よく太って、優しそうで福福しいが一目を引く容姿ではない。だが、周りをたくさんの子供たちに囲まれていた。「あの韓公子に言えばいい。ブアルチジンの奴が君を困らせたら彼に助けを求めるんだ。」

段岭には意味不明だったが、彼の好意なのはわかった。貴族少年が尋ねた。「君の家は、南面官かい?それとも北面官なのかい?」

段岭は「わからない。」としか言えなかった。

漢人?それとも遼人?」

段岭は答えた。「漢人だ。父の名は段晟。上梓で商いをしている。」

貴族の少年は頷いた。「商売人か。私の姓は蔡。名前は蔡閏(ツァイ・イェン/まあサイエンでも)だ。私の兄さんは上京の経巡司使で、名は蔡聞だ。私は漢人だし、韓公子も漢人だ。いじめられたら、私たちを呼ぶといい。まずはそこからだ。」

言い終えると蔡閏はそれ以上段岭への説明をせず、碗を持って行ってしまった。段岭に興味があるわけではなく、ただ長兄に与えられた任務を完了しただけのようだ。

 

段岭は食べ終えると少し昼寝をした。再び鐘が鳴り、気だるい冬の日、学童たちはそれぞれ席について、午後の学習である、字を書く練習を始めた。室内は火で暖められていて、誰もが眠くなりだした。宣紙を枕にして涎をたらす子供もいた。

「いっぱいになるまで字を書きなさい!紙を無駄にしてはなりません。」先生が穏やかに言った。

 

入学初日にして、色々な心配事は全て頭から消え失せた。段岭は得難い機会を十分に生かそうと、一生懸命に字を書いた。先生が近くを通りながら、居眠りしている子供の顔を戒尺で叩いた。子供は飛び起きると同時にわんわん泣き出した。まるで堤防が決壊したかのようだ。

それから先生に襟首を持ち上げられて、罰として廊下に立たされた。段岭はぶるっと震え、恐々としながらその子供を見た。もう眠気は襲ってこなかった。

 

一日、また一日と過ぎても、段岭が考えていたようなことな何も起こらなかった。あの少年は仕返ししに来ることはなく、蔡閏やほかの子供たちも彼に特に目を向けることもなかった。全てが規則通りに過ぎていき、自分の出身を訪ねたり、どうしてここに来たのかと尋ねる者もいなかった。なんだか段岭が庭の木の一本であるかのようにそこにいるのが当たり前な存在になっているようだ。

 

放課後、部屋でごろごろしていた段岭はふと、初めての夜に外から聞こえてきた笛の音のことを思い出した。あの笛の音はあの時一度聞こえただけだ。舞い上がるような曲調で、南方の花々が散り、花びらが風の中に舞っているようだった。希望や郷愁を感じさせ、あれを聞いた時のことを思うと、いつも先生に教えられたある詞を思い出した。

汝南では、そろそろ春が来た頃だろうか?

 

―――

非天さんの書く主人公たちの子供時代が、いつもかわいすぎて、もうBLとか覇権争いとかどうでもよくなる。子供時代の話だけでいいんじゃないかくらい、いつも感情移入してしまう。

 

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 197-200

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第197章  金の玉簪:

 

姜恒は馬に飛び乗ると、界圭の方を向いて言った。「界圭、見てよ。彼はこれを私に返してくれたんだよ。」

界圭も騎馬した。「玉玦の片割れは人を喜んで死に向かわせます。よく話しあった方がよかったのでは。」(多分誤訳。你还是太好説話了点でした。)

「昔、あなたも片割れが欲しかったんじゃない?」

「言うまでもないでしょう?そりゃすごく欲しかったですよ。でもお父上はそれを耿淵に与えたんです。まあいいです。瞬く間にこんなに月日が過ぎてしまいました。もう折り合いがつきましたよ。」

 

宋鄒が兵を指揮する。界圭は姜恒に振り返って見るように合図した。汁瀧に扮した姜恒は武衣の上に甲冑をつけている。振り返って遠くを望むと、本物の汁瀧が一群の臣下を率いて、王宮高所から、彼らを見送っていた。

かつて、姫珣に襲い掛かって来た人たちから、天子を守って逃がすことができたらと姜恒は思っていた。それが、どんな運命のいたずらか、時が瞬く間に過ぎる中、大きな輪を描いてきたかのように、こうして原点に戻ってきている。

「全ては天意で決まっていたんだな。」姜恒はつぶやいてから、声を上げた。「皆の者、武器を持て!天子に続け!行くぞ!進軍だ!」

 

号令の角笛が鳴り響く。姜恒は、生まれて初めて、天命を象徴する玉玦を身に着け、兵を率いて戦場に馬を走らせている。大通りを埋め尽くしていた御林軍は、新たに天子となった王君自らが出陣し、軍を指揮して彼らの中に入って来るのを見てどうしていいかわからない。

「止めろ!兵を集めて彼らを止めるんだ。陛下が危険だ!」衛賁は怒号をあげた。

 

同じころ、北門からも混乱した様子が伝わって来た。汁瀧たちも動き出したようだ!

御林軍が大勢そちらに向かった。北門には、彼らの目当てである、「姜恒」がいるからだ!一瞬にして御林軍数千人がいなくなり、彼らの圧力は軽くなった。

「彼らを追い払え!」

姜恒の目的は衛賁周辺にいる兵を動かすことだ。そうすれば衛賁と接近戦ができる。彼一人と決戦し、死に追いやれば御林軍は抑えられる。作戦は成功し、大通りから御林軍はどんどん減って行く。皆「姜恒」を追いかけて行ったのだ。

界圭が叫び声を上げた。「お父上に習ってはいけません!的となって先頭をいくなんて!」

 

ーーー

ちょうどその頃、北門では、姜恒に扮した汁瀧が人生最難の包囲突破を試みていた。

趙慧は剣を出さず、ただ汁瀧を守り、彼を乗せて狂ったように疾走している。後ろには万を超える御林軍が後を追ってくる。

二人は一騎に相乗りしている。汁瀧は振り返らずにはいられない。趙慧が叫んだ。

「しっかりつかまって!陛下!」

趙慧はまだ十四歳だ!まさかこの娘に救われるとは。乱軍の中、二人はぴったりとくっついている。郎煌率いる弓隊が、屋根の上から射撃を始めた。

「この辺でもういい?!」趙慧が尋ねる。

「もう少し遠くまでだ!」汁瀧が叫んだ。

「あんたの御林軍を殺してやりたいわ!」

「まずは自分を守ることだよ!」

次の瞬間、彼らはついに行く手を阻まれた。千万の御林軍に包囲され、郎煌の部下たちも引き上げた。

「あなたって本当に……。」趙慧は矢を防ぎ、敵を突破し、背後の汁瀧を気遣わねばならず、疲れて息がはあはあと乱れている。

「本当に何?役立たずの本の虫だって?」汁瀧が尋ねた。

「今のは私が言ったんじゃないわよ。ああ武術を習っておいてよかった。」

「彼らが私を殺そうとしたら」汁瀧は趙慧の耳元でささやいた。「私にかまわず君は逃げて。それから私の仇をうつのもなしだよ。」

 

言うや否や、汁瀧は馬を降りた。御林軍は一斉に弓矢を構え、矢先を彼に向けた。

一歩、二歩、汁瀧は何も恐れていない。彼の背後に天下の何千何万の民がついていて勇気を与えているかのようだ。彼は歩きながら、姜恒の作戦通り、自分の顔から変装を解くと、御林軍の前に誰もが見慣れたその顔をさらした。

「私が誰だと思っている?」汁瀧は笑った。「射つなら射てばいい。私が死など恐れないと、君たちはもう知っているだろう?」

趙慧は目を見張って汁瀧を見ていた。そして知った。この男性は武力は強くなくても、姜恒に負けない勇気を持っている。そして彼の身には強大な力が宿っていた。それは天子の威厳だ。その威厳の前では誰もが罪など犯せず、ただ服従するのみだ!君主の威とはそういうものなのだ。そこにいた者たちはみな凍り付き、刹那その場は静まりかえった。

 

ーーー

城南では、姜恒が剣をふるい、敵を馬から切り落としていた。界圭が兵馬の流れにのまれて二人がはなれると、姜恒への攻撃は熾烈さを増した。界圭は馬の背から飛び上がり、双脚を伸ばして空中で身を翻し、城壁の側面を蹴って、姜恒の傍に飛びおりてきた。

だが兵士の一人が先に近づいて、姜恒を抱えて馬から落とした。姜恒は剣から手を放し、衛兵に抱え込まれて、城壁の傍に押し付けられた。衛賁が急ぎ足に近づいてくると叫んだ。

「陛下に対し無礼であろう!」

衛賁は髪を振り乱した「汁瀧」が別人だとはまだ知らない。軟弱な汁瀧が自ら転がり込んできたことだし、姜恒もすぐに手に落ちるだろうと思っていた。兵士は姜恒を放した。姜恒が身に着けた王服は乱れ、甲冑も脱げて剣も傍らに放り出されていた。

 

界圭は城の上に飛び上がり、衛賁との距離を測って敵に一剣与える準備をした。

姜恒は片手を腹部に当て、もう一方を壁において、はあはあと喘いだ。

衛賁が五歩離れたところから言った。「陛下、これでおわかりになったでしょう。彼はあなたを死に追いやり、自分は逃げたのですよ!」姜恒は頭を上げて衛賁を見上げた。衛賁は突然、彼の目つきが何かおかしいということに気づいた。

「私はここにいるけど。」そう言って姜恒は手を伸ばした。きらりと何かが輝いた。それは姜恒が肌身離さず持っていた玉簪だった。

衛賁が姜恒の動きに気づく前に、玉簪は手を離れ、音もなく、飛んで行った!そして太子霊の竹籤より更に早く、相手の喉を突いていた。

玉簪が喉に刺さった衛賁は大きく目を見開いたまま気を失い倒れた。

「私は姜家と大刺客たちに育てられたんだ。そりゃもう骨の髄まで刺客ってことだ。」姜恒は瀕死の衛賁に向かって言い放った。「お前ごときにかなう相手だと思ったかい?」

 

主帥を失った御林軍は瞬時に大騒ぎとなった。界圭は城壁に飛び上がり、姜恒に手で合図をした。『きれいに決まりましたね!』という意味だ。

「これが初めての刺殺ですね。羅宣に替わって私が認めましょう。これでもうあなたも刺客の仲間入りです。」(いいことなの?)

「初めての刺殺成功と言って。」姜恒が訂正した。

だが事態は収拾してはいない。御林軍はどうしていいかわからずにいる。姜恒は玉玦を取り出して、叫んだ。「天子玉玦ここに在り!従わぬものはおるか!」

「天子より命ありーーーー!」御林軍の信使が城門に向かい叫んだ。「止めよ……。」

御林軍はどうしていいかわからずにいた。北に向かった軍はすでに汁瀧に収められている。衛賁がいなければ、誰が汁瀧に手を下そうか。彼らは一生を王室に従って生きてきた。汁瀧に矢を放てる者などいない。衛賁でさえ、汁瀧を前にすれば、捕えはしても傷つけることなど考えもしなかったのだ。

 

姜恒は状況を見て、どうやら本物の汁瀧はうまくやったようだ、と判断した。

「界圭は御林軍を引き継ぎ、城を守れ!」

地響きが近づいて来る。ついに李霄の大軍がやって来たようだ。姜恒は叫んだ。

「何をぼんやりしている?!目の前に外敵が来たのだ!裏切り者はいるか?!界圭!

再び騒ぎを起こす者がおれば、衛賁の後を追わせよ!」

御林軍ははっと目が覚めたようだ。界圭はずっと宮中に仕えてきて、御林軍にとってはなじみがある。すぐに千長夫や百長夫に招集され、全員が城壁に上がり、衛賁からの服務を解除して、持ち場についた。

「まだ誰もあなたに気づいていないのですね。」界圭は城外を望んだ。大軍が大地に雲が沸き上がるかのように近づいて来る。これは代国が国を挙げて臨んだ決勝の戦いだ。雍国を落とせれば、李霄は天子になれる。だが彼は出鼻をくじかれ、初めに二十五万の駐留軍を漢水に沈められた。李儺に託された兵は、耿曙の四万の兵に叩き潰されたのだった。

もう危険は冒せない。嵩県を奪い取った後は、雍の援軍が戻る前に洛陽を落とすしかない。

決戦の時は来た。姜恒は遠くを望んだ。七年前に戻ったかのようだ。あの時と同じ場所で今にも決戦が始まろうとしている。

 

「私が李霄を連れ出して、もう一度不意打ちして彼の喉に玉簪をお見舞いしてやろうかな。」

姜恒が言うと界圭は、「考えるのもダメですよ。私に任せてください。あなたのために出陣させてくださいよ。」と言った。界圭は軍の制服と甲冑に着替え、弓矢を背に負い、烈光剣を腰につけていた。別れ際、彼は姜恒に目を向け、何か色々と言いたげだったが、結局何も言わず、声を出さずに唇を動かした。『私の琅児』と言ったようだった。

 

李霄は軍から前に出て朗らかに言った。「汁瀧はどこだ?姜恒はどこにいる?さっさと出てこい。お前たちの大軍は、すでに……。」

その瞬間、洛陽城門が突然開かれた!

界圭が彼に話す間を与えず、御林軍一万を率いて、狂犬のように飛び出してきた。

姜恒は初めて界圭が兵を率いるのを見たが、その作戦は本人と同じく、羊の群れに飛び込む虎のように、己の命を微塵も顧みないものだ。当然ながら、兵士たちの命もだが。

 

李霄は話し終えるまもなく急いで馬の顔を後ろに向け、大慌てで大陣の中に逃げ帰った。角笛が鳴り、十万の大軍が押し寄せてきて、界圭と御林軍に突き当たる。

姜恒は城頭に上って叫んだ。「撃鼓を叩け!彼らに指揮しろ!敵右翼を襲撃せよと!」十万の大軍に当たり、御林軍は大海に飲まれたかのようになった。だが城門高所から、鼓がなって彼らに方向を示した。その時兵士が姜恒に一枚の紙きれを持ってきた。

「界大人が出陣前にあなたへと託されました。」姜恒が開くと、一行だけ書いてあった。

「私の使命は終わった。恒児、私の出征に乗じて城を捨てて逃げろ。わかったね。」

姜恒は戦鼓の前で足を止め、城下を眺めた。十万の大軍が界圭率いる御林軍を蹴散らしていく。後陣で角笛が響き続けていた。

その時、姜恒が変装をとった。兵士たちは驚いた。「姜……姜大人?!」

「私について出陣せよ。今日の私は汁炆だ。」

 

城門外の防戦は界圭率いる雍軍に一里近く押し出されている。かれこれ十年来初めて、李霄は雍軍と正面切っての戦いに挑んだ。十万という大軍のせいで思考が麻痺していた彼は、ここにきて中原の蛮勇を自称する敵軍の実力を甘く見ていたことを思い知った。

 

界圭は命がけで戦っていた。自分の使命は完了し、今はただこの戦いに命を捧げることで最後の願望が成し遂げられると思っていた。

だが、姜恒はそんな望みをかなえてやるつもりはない。角笛が鳴って城門が大きく開き、最後に残った八千の御林軍が洛陽城の守りを捨てて一気に攻撃に出てきた!

界圭は顔に着いた血をぬぐって振り返った。天空の下で翻る王旗とともに、「汁」と書かれた大旗が寒風になびいている。その時、洛陽城に鐘の音が響いた!鐘の音は九回鳴らされた。

天子御駕親征を示す鐘の音だ!たちまち御林軍の指揮は高まった。一気に戦場に投じられた最後の八千は姜恒指揮のもと、わが身を顧みず進む。李霄は戻しかけた戦線を再び押し返される。代軍後陣で鼓が鳴り響き、十万の兵が津波のごとく押し寄せてきた。

「城を捨てろと言ったでしょうーーー!」界圭が怒りの声をあげた。

「今捨ててきた!」姜恒も叫び返した。

「死にますよーーー!!」界圭が吼える。

「父はあなたに借りがある!死ぬしかないなら死ぬだけだ!みんな一緒に死ねばいい!」

戦場は混乱を極めた。姜恒は注意を払うが、李霄を見つけられない。まずは自分の身を守らねば。だが、二万の兵は李霄の大軍の敵ではない。全面的に潰されそうな状況を見て、洛陽に逃げ帰ろうとした、その時:

援軍が来た。

 

角笛が天際に鳴り響く。雍国の援軍がついにやって来たのだ!

御林軍たちは遠方を望んだ。洛陽王宮で鐘が鳴り、城門では鼓が叩かれた。激鼓に、遠い後陣からの角笛が呼応しあう。雍軍数万の鉄騎が地を踏み鳴らし、数万の戦馬の蹄鉄が大地を鳴らす。鼓のように、胸の鼓動のように、神州大地を叩く激鼓は、天を驚かせ地を動かす大楽曲を奏でているかのようだ!

 

「援軍がきた!」姜恒は顔中を血だらけにして叫んだ。「突撃!我と共に突撃せよ!」

黒い王旗がたなびいている。姜恒は武英公主汁綾の軍だろうと思っていたが、その漆黒の大旗には別の一文字が書かれていた。:聶

耿曙は天から降臨した神兵のように僅か数日で西川腹地を抜けて、漢中路に沿って追跡し、四万の雍国精鋭とともに李霄に追いついた。そして今、その後陣に攻撃をかける!

兵たちの歓喜の声が聞こえる。「聶」の字の書かれた王旗は天意のようだ。どんなことが起ころうと敵を一掃する、耿曙の帰還ほど心強いものはない。兵たちの叫び声で眩暈がしそうになりながら、姜恒は熱く血をたぎらせ、軍を率いて突撃していった!

耿曙は大軍を四つに分け、李霄の代軍の背を突いて、十万の兵を挟み撃ちにする。姜恒の軍は敵の主力に向かう。界圭がそれに従う。「汁」王旗と「聶」大旗はどんどん近づいて行って、最後には一緒になった。

 

耿曙は鉄鎧に身を包み、兜をつけている。甲冑の重さは百斤近い。跨る戦馬も鉄甲をつけ、軽々と敵を吹き飛ばす。黒剣は鮮血にまみれ、血の海の中の修羅のようだ。

姜恒には彼の顔は見えなかった。だが空が明るくなり、黒鎧の将軍が目に入ると、その姿をじっと見つめた。耿曙は高い馬の背に騎って、ゆっくりと体をよじり、彼に目を向けた。混乱極める戦場、死体があふれる中、馬に騎った姜恒と耿曙は遠くから見つめあった。それから、朝焼けの光の中、姜恒は笑みを浮かべた。耿曙が彼に向かって手を伸ばすと、甲冑がガチャガチャと音を立てた。

 

姜恒は馬から飛び降り、彼に向かって走った。そして、耿曙に引っ張り上げられ、ひらりと馬の背に飛び乗った。耿曙は馬を走らせ叫んだ。「王旗についてこい!我とともに李霄の首を取りに行くぞーーー!」

 

たちまち耿曙の旗の下、御林軍と雍軍が集結し、六万の兵となった。彼は姜恒を載せ、黒剣を持って、乱軍の中、李霄の禁衛軍に向かって突撃して行った!

「どうしてあなたなの?!」姜恒が大声で言った。

「俺は行かなかったんだ。」耿曙は甲を押し上げ、英俊な横顔を見せた。「漢中で代軍を破った後、秘密裏に帰路に就いた。ちょうど今城外についたばかりだ。

「伯母上は?」

「西川城外に着いた頃だろう。」

 

ーーー

その日、夜が明け始めた頃、汁綾は漢中平原を経て、代国内地に侵入した。曾宇率いる別動隊も潼関の険しい道を越えて、急行軍に西川城に攻め入っている。

西川は百年来の大戦を迎え、城下には血の河ができていた。李儺が何度も送った援軍が城外で押さえられたのだ。汁綾は兜を脱いで、西川城門に向かって叫んだ。

「姫霜!さっさと降参しなさい!」

姫霜は軽い皮の甲冑を身に着け、城門高所に立って、深く息を吸い、弓隊に向け叫んだ。「矢を放て!雍軍は僅か六万だ!城は破れない!」

汁綾は冷淡に言い放った。「後ろを見てみたら?」

汀丘から太子李謐を救い出した後、姜恒と耿曙は逃げる途中で、干上がった河道の奥にある密道を通った。その密道が今回役に立った。この密道を知る者は姜恒、耿曙、界圭、周游の四人と李謐自身だけだった。姫霜は李謐を罠に嵌めて殺した因果で、最後の勝算を失った。たちまち西川城内は大混乱となった。姫霜は振り返って、その全てを見つめた。

建物には火がつけられ、何万もの雍軍が秘密裏に入城し、城内要地を占拠していた。

「潔くなさい!城を開けて投降するのよ!ぐずぐずしても仕方がないでしょう!兄は死んだ。あなたたちを亡国の憂き目にあわせたりしないから。当然車輪斬りもね!」

山九響、洛陽王都から遠く離れたところで告げられた。西川が陥落したと。

 

 

 

ーーー

第198章 万里江山図:

 

洛陽城外の戦場では、雍軍の士気がこの上なく高まっていた。百年来続いて来た反徒の汚名を返上し、ついに天子のために戦える時が来たのだ。耿曙と姜恒の後ろには、「聶」と「汁」字の王旗が並び立つ。大旗が翻るところには趙竭の英霊が宿るかのようだ。七年前の怒りの炎がそこかしこで上がっている。

雍軍は天崩地裂の勢いで攻め、代軍は全面的に崩れかけている。だが耿曙は容赦しない。「矢を放て!」横を向いて指示を出すと、兜を降ろして顔面を守る。

姜恒も弓をひき、向かい合う敵を馬から射落とす。耿曙は鉄鎧で身を守り、絶え間なく降って来る矢の雨を防いだ。血の霧が漂い、姜恒にはもう周りにどれだけの人がいるのかさえわからずに、ただ耿曙の剣を振る音と、甲冑のこすれる音だけが聞える。

矢を射つくすと、姜恒は耿曙の腰を抱いた。甲冑の上からでも耿曙の体温と剛健さを感じる。

 

界圭は新たな現象に気づいた。:耿曙と李霄の軍が激突しあい、互いに消耗しているようだ。一本の鋭い小刀を赤く錆びた鉄に刺し入れたときのようだ。錆鉄は切れても小刀の方も腐蝕される。鐘の音がやみ、空が暗くなったその一刻、耿曙は姜恒を載せたまま、一騎、李霄の親衛隊の中に突入していった。

李霄はこんなに早く混戦になると思わず、天子の金鎧を身にまとって洛陽に入っていこうとしていたところに、親衛隊の中を突いて、かの黒鎧騎士が現れた。次の瞬間、黒剣が胸を貫いた。「お前は……」胸を剣で突かれ、李霄は吹っ飛ばされて落馬した。

「お前の父に天下一と認められた聶海だ。」耿曙が兜を持ち上げて答えた。

 

 

晋惠天子三六年,代王李霄薨去

代国軍は全面崩壊した。国君が耿曙にうたれると、軍は散り散りになった。復讐を試みた兵も全て御林軍に切り殺された。耿曙は馬を回転させ、空き地の前まで戻ると、後ろを振り向き姜恒に声をかけた。「恒児?」両手から力が抜けた姜恒は馬から降りた。

「みんな死んだな。李霄が最後の一人だった。」耿曙が言った。

姜恒は呼吸が落ち着かず、弓を降ろしてから尋ねた。「何が最後の一人なの?」

「あの時洛陽を攻めたやつらだ。雍国衛卓、鄭国趙霊、梁国笛勛、代国李霄、郢国屈分、大戦の中、死すべき者は皆死に果てた。」

二人は顔を上げて洛陽城を眺めた。激戦の間、耿曙と姜恒は、玉玦を胸に掲げていた。

耿曙は姜恒の首にかかった玉玦を見て、触ろうと手を伸ばしてやめた。甲冑は血にまみれ、手の中にまで滴って来た。姜恒は耿曙の玉玦を手に取った。二人の指が触れ合い、耿曙は自分の玉玦を姜恒の片割れに合わせた。

それから耿曙は何も言わずに姜恒を胸に抱きいれた。二人は静かに洛陽城を見つめた。

鐘の音が停まり、兵士たちが勝利の叫びをあげた。七年の時を経て、彼らはようやく再び天下王都を取り戻したのだった。

 

 

雍軍は中原を修復し、再び洛陽も修繕せねばならない。

姜恒は万里江山図の前に立ち、これで全て終わった、少なくともすぐに終わろうとしていると思った。海東青が西川の報せを持ってきた。汁綾は姫霜を捕え、汀丘に軟禁した。かつての父殺しの挙を自らなぞるかのようだ。いつ開放するかは、朝廷の沙汰を待つとのことだ。

同じころ曾宇も李儺と最後の一戦を交えた結果、李儺を捕えた。西川は今まで通り、李家に返すが、勅令により李儺の軍は解散させることになる。

雍軍は玉壁関に撤退し、二万のみを汀丘に駐留させた。

安陽城内では、梁王畢紹が汁瀧からの引継ぎを終え、梁地の主に戻った。

 

「あとは郢国だな。」姜恒は正殿内にある万里江山図をじっと見た。雍国が天子の位を得てから、江山図の高所には玄武神旗が掲げられた。

六百年の火徳は終わり、水徳へと替わって北玄武が神州大地に鎮座する。

万世に王道あり、千星は天にあり。五徳は輪転し、生きとし生ける。

「郢国は患となるには力不足だ。天下版図に返り咲くには十年は必要だろう。」耿曙が言う。

東は済州と東海、西は塞外、北は賀蘭山、南は江州、今や天下は七割がた統一され、雍国は中原に入り、汁家は今や新たな中原の主となった。

 

「汁瀧は?」耿曙が尋ねた。

「まだ王宮に戻ってきてない。」姜恒は姫珣の御座に腰をかけながら答えた。「私が彼に御林軍をまとめた後は、急いで王宮に戻らなくていいって言ったんだ。趙慧に彼をみるように言ってある。」

「何であいつを走り回らせたんだ?あいつは喜んでやったのか?」

姜恒は口角に笑みを浮かべて言った。「私が彼に行かせたんだ。時には撤退するのも勇気がいる。彼はとてもうまくやったと思うよ。」

「わかった、わかった。」耿曙は苦笑いした。「やつはすばらしい。お前の従兄上だもんな。俺はただのしがない侍衛さ。」

耿曙は陽の玉玦を見た時、何があったかを知った。彼自身はそこまでする気はなかったが、汁瀧の行動は想定外だった。だが、心の中では、結果がどうなったとしても耿曙は彼を一生家族として見るだろうと思っていた。

耿曙は包帯をとった。手は傷だらけだ。姜恒はそれを見て薬をつけてやった。耿曙は少し前のめりになる。口づけを求めているのだ。姜恒は彼の唇に軽く口づけした。

耿曙は彼の顔を押さえて情熱的に口づけする。

「何だ?お前のためにこんなにがんばったんだ。少し口づけするくらい、いいだろう?」姜恒が笑い出すと、耿曙が言った。「服を脱げよ。」

「ここは正殿だ。ご先祖様が見ているよ。晋の先祖も、雍の先祖も。それでもやる気?」

耿曙も少し考えて、何か言い訳を探そうとしたが、確かにご先祖様は大事だ。それは認めるのでやめることにした。

 

「あなたに琴を弾いてあげる。」姜恒は古琴を持ってきて天子卓に置いた。

耿曙は近寄って姜恒の隣に座った。かつて姫珣の隣で趙竭が座っていた場所だ。そして姜恒を自分の胸にもたれさせた。

 

姜恒はゆっくりと琴を奏で始めた。その音の中に、無数の記憶が走馬灯のように駆け巡る。洛陽の楼台、ほの暗い光、炎に包まれた時の趙竭と姫珣が寄り添いあう面影。

耿曙が天井を見上げると、攻撃を受けて壊れた天井から、日の光が落ちてきた。二人は同時に感じた。何かが今去って行ったようだと。千年たっても消えない野心か、高楼が廃墟と化しても梁や棟の中に潜む英霊だろうか。閃く影が琴の音を聞いて大地から現れ、殿内を飛んで行ったようだった。耿淵の影、項州の影、羅宣の影、太子霊の影が……。英霊は万里江山図の上の玄武旗に一礼し、空中で消え去り、何の気配も残さない。

 

その時足音が近づいて来た。界圭が殿内に入ってきて、耿曙と姜恒を見た。

陽光が万里江山図を照らし、暗い紋に描かれた星々と北天七星が煌めいた。

「誰かがここで琴を弾いているのが聞えたから来てみたんですよ。」界圭が言った。

「何でお前が来た?」耿曙が言った。姜恒は笑った。界圭は「汁瀧が戻られました。従兄弟方の間にはまだ清算すべき一件があるんじゃありませんか。」と言った。

耿曙は淡々と言った。「わかっている。」

界圭は耿曙を見た。上半身裸で、下半身には武冑をつけている。懐には姜恒、手は古琴に置き、黒剣を佩いて、玉玦を首からぶら下げている。金璽は彼の前に在り、後ろには玄武神旗がある。

一に金、二に玉、三に剣、四に神座、五に国、六に鐘、七に岳、八に川、九に鼎。

この一刻、耿曙はまるで本当の天子のようだ。こんな覇気、他に誰が持とうか?

 

汁瀧が戻ってきた。群臣と趙慧を連れ帰り、皆を落ち着かせてから、一人正殿にやって来たのだ。姜恒は正殿内で出迎えてから、油灯に火をともした。

汁瀧は耿曙に言った。「帰って来たんだね。」

「生きてな。全部知ったのか?」耿曙が言った。

姜恒は灯をつけてから、耿曙に言った。「下りて。そこはあなたの席じゃないでしょう。」姜恒は耿曙を引っ張り、天子御座の傍から離れさせた。

殿内には三兄弟だけがいた。汁瀧は疲れたように笑って言った。「このごたごたを片付けないとね。玉玦はもう恒児に渡した……炆児……弟弟に。」

「今まで通り恒児とお呼びください。思うに、あなたも好きな人を見つけられたようですね。」耿曙は姜恒を見たが、何も言わなかった。

汁瀧は言った。「そんな話をしないでよ。そんなんじゃ……。」

「何だって?」耿曙は話が見えたが意外だった。「俺が宮中にいない間に何が起こったんだ?汁瀧、お前にも恋人ができたのか?」

汁瀧は恥ずかしくなって話題を変えた。「話をもどすけど、ふさわしい時期を選んで、天下に告知しようと思うんだ。あなたが天子の位を継ぐってことを。」

「雍国は昔から年功序列です。」姜恒はそれ以上汁瀧をからかうのはやめた。「規則に従えば継承権はあなたにあります。」

汁瀧が答えた。「私の父が不正に得た位だよ。」

過去の恨みは二人の間には入り込む余地はない。暫くすると耿曙が言った。「全て終わったことだ。汁瀧、ここ数年、俺だってお前を弟と思うようになってきたんだぞ。」

「そうは見えなかったけど。」汁瀧は笑い出した。

「恨みがましい奴だな。あの時に言った言葉を今でも俺は覚えているのに。」

「いつの話で、何のこと?」

「お前のために出兵した時だ。あの時雍国は初めて関を出ることを決めた。東宮で作戦を決め、打ちに出たのは絶対にお前のためだった。お前を騙すつもりはない、汁瀧。もしお前が恒児を殺そうとするなら俺はお前を殺すしかない。だがお前がそんなことをしないなら、お前は俺の家族だ。」

 

汁瀧は納得し、姜恒に頷いた。「恒児、私は落雁に戻って王祖母に暫く付き添いたいんだ。二都制となったことだし、もし私を信じてくれるなら、私はあなたに落雁の統治を……。」

だが姜恒は耿曙に話しかけた。「ある物が欲しいと言ったら、私にくれる?」

汁瀧は話を止め、不思議そうに姜恒を見た。

「俺の命か?」耿曙は顔を上げて姜恒を見た。姜恒は耿曙を見て、眉をあげた。

「答えて。何でも欲しいものはくれるって。」

「持っていくか?」耿曙は首を傾けて、姜恒に殺せよと示した。

姜恒は耿曙の首に手をまわしたが、取ったのは前に自分で編んだ組み紐と玉玦だった。

耿曙:「!!!」

耿曙は立ち上がると、信じがたい思いで姜恒を見た。何が起ころうとしているかわかったのだ。「恒児……。」耿曙の声は震えた。

「この陰玦を趙慧に渡すのはどうでしょうか?でもまあ、別にかまいません、あなたがあげたいと思った人にあげてください。もうあなたの物ですから。」そして、自分がかけていた玉玦を耿曙のもう一つの玉玦と合わせて汁瀧に向かって歩いた。

汁瀧は姜恒を見て、その意味を知った。

「ちょっと待て、恒児!」耿曙が姜恒を引き留めた。姜恒は耿曙を見たが、決意は揺るぎない。だが耿曙は真剣な表情で言った。「組みひもは俺に返せ。持っていたい。お前が俺のために編んでくれたんだからな。」そして組みひもを受け取ると「行くか。」と言った。姜恒は二つの玉玦を汁瀧の手に置いて言った。

「兄は私がもらいます。天下はあなたに置いていきます。」

「恒児。」

「兄上、あなたはすばらしい天子です。あなたは子供の頃から願ってこられました。良い国君になることを。あなたは善き妻子を持ち、子や孫に恵まれ、その子や孫と睦まじく暮らされるでしょう。それはあなたが全てを与えられる人だからです。どうぞこの天下の民にその愛をお与えください。」汁瀧は姜恒を見つめた。姜恒は数歩下がって、汁瀧に跪いた。耿曙は傍らでその様子を見ていた。ようやく全てがはっきりとわかった。

「天子に拝謁申し上げます。」姜恒が言った。

耿曙:「……。」

姜恒は立ち上がった。「天子安らかなれば、天下は平らかなり。私たちはこれでお別れです。兄上、この天下をよろしくお願いいたします。」

「どこに行くつもりなの?」汁瀧の声が震えた。

姜恒は耿曙の手を牽いて振り返り言った。「私は天下人ですから、勿論いるべき場所にいますよ。」

「恒児!」汁瀧は追いかけた。

 

 

深夜、洛陽城の家々に灯がともった。冬至は過ぎ、万物が生き返る。桃の花が枝に現れ、氷雪は溶けた。

 

「今から私は、あなたのものだよ。」

耿曙は顔を向けて言った。「あの玉玦がお前と交換できるとわかっていたら、もっと早く換えていたのにな。あの頃お前に持たせようとするんじゃなかったな。」

姜恒は大笑いせずにいられなかった。だが耿曙は突然警戒をあらわにした。

「ちょっと待て。頭がおかしくなりそうなこの笛の音は何だ?」

姜恒:「……。」

洛陽城壁の高所で、界圭が城壁に座り、片足を壁に載せ、片足を垂らして笛を拭いていた。悠々と揚がり、ゆるりと回るような笛には、送別の意味が込められていた。それは《詩経》の「桃夭」という曲だ。『桃之夭夭,灼灼其華 之子于歸,宜其室家』

桃の夭夭たる、灼灼たるその華、この子ここに嫁ぐ その家に 幸あることを

耿曙は馬を停めて、姜恒と一緒に高所を望んだ。

曲を吹き終えると、界圭は立ち上がった。長旅に出る服装で、袋を背負い、彼らに向かって拳をつかむ拝礼をした。「天涯海角、また逢う日まで。」

そして姜恒の答えを待たずに、界圭は城楼から飛び降りるとその場を去って行った。

 

道を行くごとに桃の花がだんだんとほころんできた。かつて耿曙と姜恒が潯東を離れ、洛陽に向かって行った時と同じ風景だ。あの時の昭夫人も馬車の中で微笑みながら故郷へと帰って行ったのだった。

「どこに行こうか?」姜恒が尋ねた。

「さあな。桃の花が咲いているところにするか?嵩県はどうだ?それとも家に帰るか?」

 

(少し寂しいけど、姜恒が完全にいなくならない限り、いつかは争いのもとになるもんね。)

 

 

ーーー

第199章 世から隠れ住む:

 

晋惠天子三十六年、汁瀧が天子を引き継いだ。四国は新たな支配者の下に来朝し、通貨も統一された。洛陽は四国の国境を廃し、戦争を止めた。諸侯たちは再び封地を治めた。天下の年号は雍太戊元年と改められた。四国の官員は洛陽に集められ、

太戊二年、天下新法が発布された。

太戊四年、天子大婚。鄭国公主趙慧を娶られた。

太戊六年、天子汁瀧は、曾宇、汁綾、上将軍龍于(!)に十万の大軍を率いさせ、郢国討伐に向かわせた。

 

 

姜恒は町で噂を聞いた。また戦争があるらしい。この百年で最後の一戦になるかもしれないと。

だが少なくとも安陽の人々の生活は以前より良くなっていた。梁王畢紹はかつての王宮に住み、六年たった今、すでに町は復興し、市は栄え、どの家からも炊事の煙が上がっていた。

姜恒と耿曙は誰にも行方を知られないように暫し安陽城の裏山すそに住居を構えた。

姜恒は毎日、市場に買い物をしに出掛け、子供たちに読書や識字を教えたり、詩の朗読をしたりして、食料を買う金に換えていた。耿曙は時々人に替わって大工仕事をしていたが、毎日が同じことの繰り返しで退屈し、別の生計方法を考えているところだ。

この日姜恒は肉と魚を買って家に戻った。耿曙が帰るのを待ちながら夕飯を作り、郢国のことについて考えていた。その時家の後ろから何か物音がした。

姜恒は物を放り出した。小さな忍び足が近づいて来る。姜恒は考えた末、隅にあったごく普通の鉄剣を握りしめて部屋の奥に向かった。そこには痩せて背の高い覆面の男がいた。

 

「何年も待っていたんだよ。もう待ちくたびれそうだった。」姜恒が言った。

「殺されるのを待ちくたびれる者はいない。刺客にこそ忍耐が必要なのだ。真の刺客というものは、皆時期を待って耐え忍ぶもの。お父上に習わなかったのか?」覆面男が言った。

「身をもって教えてくれたよ。」姜恒は深く呼吸し、応えた。

男はゆっくりと覆面を外し、顔の入れ墨をあらわにした。まさに何年も前に、姜恒と耿曙が江州教坊で壁の隙間から覗き見た、「血月」十三人中第二の男―――「刺客」だった。

「おたくの門主はお元気なの?」姜恒は好奇心がわいてきた。「急がなくていいでしょう。ちょっと聞いているだけなんだ。兄さんがこんなに早く帰らないことは知っているよね?少しくらい時間がかかっても生死に影響はないと思うよ。」

「お気遣いどうも。もう死んだよ。」

姜恒はどう死んだかは聞かなかった。それは重要ではない。

「私があなただったら、中原には残らなかったな。武芸を身に着けたところで、それが物を言う時代は終わったからね。」

刺客は答えた。「私もそう考えた。それで輪台に戻って学び直したのだ。楡林剣派という名だ。今はまだ無名だが、その内成長してくるはずだ。自分のことが一段落したら、君を殺しに戻ってこなければといつも思っていた。委託した者は死んだが、仕事は仕事だ。雇い主が報酬を払ったのなら、我らはやり遂げるべきだ、そうだろう?」

姜恒は笑った。「その話は違うんじゃないかな。汁琮はあなたに報酬を支払ったの?私が見るところ、まだなんじゃないの?黒剣はまだ洛陽にあるのだから。」

「君を殺したら、自分で取りに行くから心配ご無用だ。準備はいいかな?」

 

姜恒はもう話を止めて、ゆっくりと剣を構えて刺客の挙動を観察した。血月が消滅して、もう六年がたった。耿曙はそれでも彼らがその考えを捨てたとは思っていず、いずれ来るだろうと考えていた。彼らは刺客の行方を捜していたが、見つからず、それは常に心に残ったままだった。真の刺客なら、いつまでもいつまでも待つことができる。関係者がそのことを忘れたころまでも。

耿淵のように殺人のために七年も待つものもいる。なぜかこの時、姜恒は母の言葉を思い出した。―――剣を持って人を殺す者は最後は剣で命を落とすものです。

これは世界中に仇がいる人間の宿命だ。永遠に逃げ切れることはない。

愛しい人を失う苦しみもまた、耿曙の運命なのかもしれない。

「私の死体は片付けてきれいにしておいてね。兄を悲しませたくないんだ。私は失踪したことにしておいて。」姜恒は小声で言った。刺客は眉をあげた。

「いずれは気づくさ。だが刺客の息子なら、人の生死には折り合いをつけるさ。苦しんだって何にもならないだろう?」

「確かにね。」姜恒は冷ややかに言うと、揺手剣をさっと刺客の喉元に突き出した。

だが意外にも刺客が持っていたのも揺手剣だった。しかもかつて姜恒が佩いていた剣:

繞指柔剣だった!

なぜこの剣が彼の手に渡ったのだろう?不意を打たれて判断が遅れた。しかも刺客の武功は自分よりずっと優れている。かつては血月で二番手だったのだ。剣は姜恒の喉を掠めた!

姜恒は体をひねって逃げられたが、あと半寸で喉を切り裂かれるところだった。彼は急いで家の裏の森の中に走りこんで行った。刺客は軽攻し、すぐに追いつき、今度は姜恒の背中に剣を向けた。姜恒は転がり込んで身をかわした。

血のように赤い楓林の中、鋭い剣先が震えながら迫ってきた。

その時、バン!と音がした。

 

 

耿曙は肌脱ぎ姿で武袍を腰に巻き、手に持った棒切れをくるくる回しながら、家の門まで帰ってきて、庭が一面血だらけになっていることに気づいた。血の跡を追って歩いて行くと、黒熊が地面に座って、ちぎれた人の足を食べていた。もう一頭は姜恒が与えた饅頭を食べている。

姜恒は近くに座って、繞指柔剣を握り、耿曙を見上げてため息をついた。

耿曙は暫く言葉がなかったが、最後に尋ねた。「奴が来たのか?」

姜恒は頷いた。耿曙が再び言った。「何で片足だけなんだ?全部食われたのか?」

「ううん。私は彼を引き付けて罠にかけようとしたんだけど、彼が罠に足を挟んで大声を出したら、この子たちが来ちゃったんだよ。それでも諦めないで私を殺そうとしたら、この子たちにやられたってわけ。勝算がないと分かった彼は逃げるために自分で足を切り落として、崖から川に飛び込んで、流されていったんだ。」

耿曙:「……。」

「最初に、私がこの子たちを養いたいって言ったら、あなたは反対したよね。」

「俺が間違っていた。」耿曙は自らの過ちを認めた。

 

七年前、塞外で助けた二頭の熊を、孟和は安陽の後山の上に逃がした。熊たちは日ごろ自分で魚を取って、楽しく暮らしていた。それからしばらくして姜恒は偶然安陽後山の中で、この古い友達にばったり会った。驚いて緊張し青ざめたが、熊は熊らしく、満腹なら通常人は傷つけない。数日ごとに腹が満たされれば、狂ったように襲ってくることはなかった。耿曙など以前は素手で拳を握り、熊と取っ組み合って武芸を練習したくらいだ。

熊たちは姜恒と耿曙のことを覚えていて、時々二人のところに餌をもらいにやって来た。

最初、耿曙は面倒を嫌って殺そうとしたが、寸でのところで姜恒に引き留められた。だが熊たちはあまりに大食いだ。いらついた耿曙は、もうたくさん食べさせたのだからと、彼らを楓林に押しやった。楓林付近に罠をたくさん仕掛けておいたのはそれが理由だ。一つには刺客を防ぐため、二つには熊たちが山を下りて人々を驚かせるのを防ぐため、三つには自分がいない時に姜恒を攻撃しに来ないためにだ。

幸い熊たちはとても聞き分けが良かった。子熊の頃風戎人に育てられたせいで野性味が強くないのかもしれない。これまで人を喰らおうとしたことはなく、放されたあたりでおとなしくしていた。

 

「それはそうと、斬られていれば笑い事じゃなかった。やはり畢紹に言って後を追わせよう。」耿曙が言った。

姜恒は熊たちに言った。「どうもありがとう。命を助けてくれた恩に心から感謝するよ。」

耿曙は再び出て行って肉を五十斤勝ってくると、盆にのせ、命の恩人?にお礼をした。

夜になると、夕飯を作って、酒を二両つぎ、姜恒と話しながら、食べて飲んだ。人生は楽しい。これこそ彼が望んだとおりの生活だった。何の変哲もない日々を過ごす。

 

夜が更けると、耿曙は寝台に横たわって腕枕をし、姜恒に顔を近づけて小声で尋ねた。

「心配事か?」姜恒はずっと眉頭を寄せたままだった。

「江州のことを考えていたんだよ。彼らは江州を攻めるそうだ。」

「また汁瀧に替わって心配しているのか。太子炆殿下。」

姜恒はくすりと笑った。「私は江州の人たちに替わって心配しているんだよ。」

「見に行きたいか?」耿曙が尋ねた。

「え?」姜恒は我に返り、耿曙の顔をなでた。いつも通り熱く、馴染みの匂いがする。洛陽を離れてから、二人は町に隠れ住んでいたが、どこであろうと、二人でいれば、そこは桃源郷だ。

「いいの?」姜恒がきいた。

「どれだけ尽くしてくれるかによるな。」耿曙は下を向いて、姜恒の鎖骨、唇、双眸に視線を這わせた。「言うことを聞いてくれたら連れて行ってやる。」

姜恒は笑った。呼吸が早まり、耿曙をじっと見てから、口づけを受け、舌を絡ませた。

 

 

翌日、耿曙は門にしっかりと鎖をかけ、二頭の熊の餌を用意してから、王宮の畢紹に手紙を送った。安陽に住み着いて六年、初めて畢紹に二人の隠れ家を教えたことになる。

だがあの刺客が再びくることはないだろう。耿曙は繞指柔剣を持ち、姜恒を載せた。かつて塞外で扮したのと同じ恋人同士に扮して、官道に車を走らせ、黄河を渡り、郢都江州に向かった。

 

 

太戊六年秋,雍天子、郢を討伐。

途上には緊張気味に逃げてきた人々が大勢いた。戦乱が頻発し、万民が路頭に迷っていた、十年前の大争の世が戻ってきたかのようだ。

江州は相変わらず華やかだったが、少し退廃的な気配が潜んでいた。戦争が起こりそうだというのに、朱雀宮は相変わらず、夜な夜な華やかに音楽が響いている。最後の心配事である大患を除けば、六年間も安陽に隠れ住んだ後で戻ってきた郢地の活気が、姜恒にはとても好ましく感じた。

耿曙は桃源劇班、頭領の魁明を訪ねて行った。懐かしい人との再会に姜恒は大喜びだった。

「洛陽は天下に、あなたを太子炆として冊封したと告知したのですよ。ご存じでしたか?」魁明が言った。「これまでどこでどうされていたのですか?お二方とも、ご結婚は?」

「ずっと家にいた。結婚はしていない。恒児と助け合って過ごしてきた。」耿曙の口の上にはほんの少し髭が出ていた。男らしく見せようと髭を伸ばそうとすると、姜恒が嫌がってそってしまう。また伸ばそうとするとまたそられてしまうのだ。

今の耿曙は大人の男性らしい風貌で、すでに家庭も稼業もある者のように見える。長年身を隠した後で、家を出る際にまた姜恒にきれいに髭をそられてしまい、旅の間に少し伸びてきただけだ。事情を知って魁明は笑った。姜恒が尋ねた。「鄭真は?」

「死にました。」魁明が言った。「六年前のことです。項将軍が亡くなったと知り、川に身投げしました。」姜恒は何も言えなかった。一同はしばらく黙り込み、姜恒はため息をついた。

 

 

ーーー

第200章 終 山には木があり:

 

耿曙が再び尋ねた。「界圭がどうしているか知っているか?」

「西川に行きました。江湖の者たちと一緒のようです。滄山に行った後、西川に刺客門派を作ったそうです。白虎堂という。」

(白虎堂は相見歓の主役の一人が最後の徒弟。もう一人は耿曙の山河剣法を習う。)

 

初めて彼の消息を知った姜恒は少しほっとした。

「だけどもうこの世界にはそんなに殺す人はいないんじゃないの?」姜恒が言った。

「千年たっても需要はあるだろうよ。」耿曙が言った。

魁明は再び言った。「お二方が住む場所を見つけましょうか?」

 

耿曙は茶杯を置いて言った。「俺はここで学堂を始めたいと思っているんだ。武館を併設して。雍人が攻めてきたらまた考えるが。面倒をおかけする。」

こうして姜恒と耿曙は江州城内に住むことになった。王族に会わないように気を付けなければならないが、かつて二人を知っていた人たちはもう多くはない。半月後、耿曙の武館は早くも開業し、「聶先生」の名の下には少なからぬ学生が集まった。姜恒は武館を少し変えて、学館にした。一つの学館で文武両道学ぶことができる。人々は、目の前にいる若き師父がかつて黒剣を手に天下一の名を得た、更には耿淵の後継ぎであると知っていた。そして学問の先生は僅か一日だけ天子の役を担った雍国の太子炆だ。

 

刹那主義の江州郢国の王族は、最後の時が迫ろうともお構いなしだ。姜恒には耿曙の考えがよくわかっていた。彼は天下が統一する歴史的瞬間をその目で見届けたいと思っているのだ。姜恒のこれまでの信念が形を成す日がまもなく訪れようとしているからだ。

もしも雍軍がなかなか勝敗を決められずに、怒りのあまり屠城することになったとしても、二人がここにいれば、わかった時点で、全城の人々の命を守ることができる。願わくはそんなことにはならないでほしいが。

だが、戦いの苛烈さは姜恒の想像以上だった。郢国は投降せず、三日にわたる囲城戦で、城内の兵は混乱を極め、耿曙の武館の学生までも戦に駆り出された。

「先生!」学生の一人が慌てふためいてやってきた。「雍軍が城を破りました。逃げないのですか?」

姜恒は武館に端座し、書を読んでいたが、「先生のことは気にせず、自分の身を守りなさい。」と言った。「師父はどこですか?」学生は思い出して尋ねた。

「城門の守備を手伝いに行ったよ。怖いのかい?怖かったらここにいたら、大丈夫だよ。」学生はどうしようかと迷い、またため息をついた。

「戦いたくないんだろう?違う?」

「わかりません。」学生はとまどっていた。

投降したいと言えば、身勝手な売国奴のようだ。:戦いたいと言えば、王族に使い捨てにされる。戦いたくないのは自分の利益を守りたいだめだけではない。天下の戦は全て諸候同士の争いだ。一般人には何の関係もないではないか?

外から殺しあう声が聞えて来る。学生は外をちらりと見て、「先生、……私は両親と弟を守りに行きます。どうぞお気をつけて。」と言った。

「行きなさい。」姜恒は言いながら、武館の外の深い闇夜に目をやった。

 

耿曙を失った雍軍には、曾宇、汁綾二人の上将軍しかいなかった。今回の軍事行動については、新たな朝廷の役員たちから一致した支持を得ていた。理由は簡単だ。:我らは天子に仕える身。郢国ごときが従えぬとは笑止。勿論、表立っては「戦わねば天下を平定したとは言えないのだから、戦わないわけにはいかないのだ」と体裁のいいことをいっているのだが。

耿曙を欠く雍軍は、かつての力を失っている。江州を落とすのは時間の問題とは言え、その過程はそれなりに骨が折れる。曾宇は北側の巨大な城門を眺め、城に火矢を射ち込んだら、どれくらいで城が落ちるだろうかと見積もっていた。

だがその時叫び声が聞こえてきた。「城が破れたぞーーーーー。」

ガーンと大きな音がした。城門の巻き上げ機が内側から断たれ、架橋が落ちてきた。

「入城――――!」曾宇はこの機会をとらえ、すぐさま、雍軍がなだれ込んで行った。

曾宇は巻き上げ機の前の黒い影を目でとらえた。黒影は両手を開いて城壁の上に飛び乗り、壁の上を走ると、民家の屋根の上に飛び降りた。そして体をひねって矢を一本射た。

矢は百歩離れたところから飛んできた。曾宇は色を失ったが、矢先は彼の喉を狙ったのではなく、彼の前の地面に刺さった。そこには見慣れた字でこう書いてあった。:

『屠城したら我が刀剣が黙っていない。

聶某を怒らせたら、地の果てまで逃げたところでその剣から身をかわすことはない。』

曾宇は顔を上げたが、もう姿は見えなかった。こんなことができるのは此の世に耿曙ただ一人だろう。

 

 

深夜になった。武館は子供たちでいっぱいだった。座る者も横たわる者も、眠くて仕方ない。姜恒は琴を弾いていた。琴は大きな音を鳴らし、武館の外から聞こえる殺戮の声を覆った。

耿曙が帰ってきた。寝ている子供たちを注意深く乗り越えて、水を飲みに行く。体からは楓の木のにおいがした。姜恒は尋ねるように眉を揚げた。耿曙は頷いた。「城は破った。」当たり前のように言うその口調は、夕飯の話でもしているかのようだ。

姜恒は二度琴弦をつま弾いてから尋ねた。「門は閉めてきた?」

「必要ない。俺がここに座っているのに、誰が来れる?何の曲を弾いているんだ?」

「適当に。」姜恒は笑った。「みんなが寝られるように弾いてみただけだよ。」

江州城内の家々は戸を固く締め、兵に蹂躙されるのを恐れている。そして親たちは皆、同じ考えのようで、子供が危険にさらされないよう、彼らを武館に送り込んだ。外では桃源の人たちが、守っている。もし武館で子供たちを守れないなら、家は尚のこと危険だろう。

 

「時々思うんだ。なんで父さんが琴を弾くのが好きなのか、わかった気がするって。」

「なんでなんだ?」耿曙の心は温かな愛情で満たされていた。彼は十歳の時から姜恒に恋をしてきた。もう十七年になる。姜恒の明るく輝く双眸を見る度に、潯東の姜宅の外で、彼と初めて会ったあの日と同じ気持ちになる。

「琴の音には人の心を慰め、血の汚れを消し去る力がある。彼には言いたくても言えない思いがたくさんあったのかもしれないね。」

「人を殺せば心に安らぎはない。一曲弾いたからって謝罪にもなるまい。割に合わないな。」

姜恒は笑い出した。「そういうことじゃないんだよ。」

「俺たちがしたことは間違いだったと思うか?」耿曙は尋ねた。彼は城門を開け、この大戦を早く終わらせることで、城内の人々の命を救おうとしたのだ。

「あなたがそんなこと気にしたことがあったっけ?」

「確かにな。俺に教えを諭したければ、さあどうぞ、だ。」

夜のうちに、雍軍は城に入ってきて、一夜にして全城を占領した。

天子汁瀧と朝廷の命により、曾宇は城内の民を絶対に傷つけないようにと厳しく兵たちに命じた。王宮の前を守っていたはずの御林軍は既に逃げていた。項余の死後、御林軍統領となった者は戦争の仕方もしらず、国と共に死すのみだった。王宮に攻め入られ、羋清は汨羅江に身を投げた。最後の戦いは宗廟で起きた。熊丕は手に火を持って、宗廟前まで来ると、郢国の木である「椿」に火をつけた。その木は鄭郢越随四国のかつての公候によって植えられ、六百年生き続けた。だがついにこの夜、北斗七星の煌めく中、燃え尽きてしまった。

郢国の象徴が、熊丕に火をつけられ、城内の人々は皆山の上を見て、宗廟前の木が燃えるのを見た。姜恒と耿曙も武館を出て北の方向を望み、椿の木が焼かれて頽れるのを見た。熊丕は最後に木の下に身を置き、歴史と共に灰となった。

 

「『南方に巨木有り。八千歳を以て春と為す,八千歳を以て秋と為す』」耿曙が姜恒に言った。

「北冥に魚有り。其の名を鯤と言う。」

姜恒は口角に笑みを浮かべた。子供の頃の日々を思い出した。「なんでそんなによく覚えているの?」

耿曙は考えて、まじめくさった顔で言った。「平陸は易きに処し、右背に高きを、前に死(低地)を、後に生(高地)を。此処すべし平陸之軍也」

姜恒は笑い出した。「勝者は先ず勝ち、後に戦を求め……。」

耿曙は真剣に言った。「敗者は先ず戦い、後に勝ちを求む。」

 

雍国の騎兵隊が武館の前を通り過ぎていく。空が明るくなり、木の葉には朝露が光る。

耿曙と姜恒の姿を見つけた人がいたようで、驚いた顔をして二人を見ていた。

耿曙は手を後ろに置いて武館の前に立っている。なんだか神州大地を守護する武神のようだ。「何を見ている?」

姜恒は館内に戻って、子供たちを起こした。「もうすぐ家の人が迎えに来るよ。大丈夫。全部終わった。これからは全てうまくいくからね。」

鐘がなり、遠く洛陽王都で江州陥落を告げていた。

雍太戊六年秋,七月十五日、郢王熊丕は薨去,公主羋清は入水し自害。

これにより、神州大地は統一された。

百川相い合わさり、泰山の壁は千仞に切り立ち、東海のさざ波は万頃続く。

晋天の下、王土の尽きるまで、その領土の全ての者は王臣なり。

百二十七年続いた大争の世、諸侯の乱、金鉾鉄馬が奏でる琴曲はようやく鳴り止んだ。

 

 

太戊七年,春。

「天の時は地の利に及ばず。地の利は人の和に及ばず。」

桃の花弁に朝露が煌めく早朝、江州の学堂にて。

子供たちが声を合わせて朗らかに音読をしていた。その後ろでは姜恒が背に手を置き、板尺を持って、学生たちの列の後ろを歩いていた。耿曙は武芸の練習を終えた学生を急かしている。先生の席に座る姿は、天下に君臨し、王国の小さな臣下たちに謁見しているかのようだ。

「天子仁にあらざれば、四海を保てず;諸侯仁にあらざれば、社稷を保てず——」

「卿大夫仁にあらざれば、宗廟を保てず;士庶人仁にあらざれば、四体を保てず——」

子供たちの音読する声は、耿曙にとって最好の楽曲だ。

「富貴も堕落せず——。この続きは?」姜恒が朗らかに尋ねる。

子供たちは姜恒の後に続ける。「貧賎も移り気にならず、威武も屈せず……。」

「魚も欲しい。その後は?」姜恒は笑顔で言った。

「熊の掌、それも欲しいーーー。」子供たちは続けた。

「生も欲しい、義も欲しい——。両者を兼ねて得ることはできず、生を捨て義を取る者——。」

 

遠く大宮から鐘の音が響いて来た。授業は終わりだ。学童たちはそれぞれ立ち上がって、耿曙と姜恒に拝礼した。耿曙は姜恒をじっと見ていた。学館の外で春風が吹いた。姜恒は振り向いた。眼差しに笑みがあふれている。その周りには帰ろうとしている子供たちがいっぱいだ。

「何という夕べ、舟を曳いて流れの中に。」姜恒は暫く耿曙を見つめて、突然言った。

帰ろうとしていた学生たちは習ったことのない句を聞いてぽかんとしていたが、近くで耳にした越人の子供がすぐに手を挙げて言った。「先生、ぼく知っています!その後の句は、『何という日、王子と舟に乗るなんて』です!」

それを聞いた姜恒は笑顔で振り向き耿曙を見つめた。耿曙の胸は高鳴った。彼は文机を降りて姜恒に向かって行き、春風の中、その手を牽いた。

 

 

——巻七・陽関三畳・終——

 

 

二人はこのままずっと雍の人たちに会わないつもりなのかな。汁瀧が位を子供に譲ってから時々は会えていたらいいよなあ。こっそり冬の落雁で雪合戦したり、孟和たちと相撲とったり。お忍びで嵩県に行って宋鄒と将棋さして温泉入ったりしていたらいいのに。

ハッピーエンドだけどそこだけがちょっと寂しい。

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 191-196

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第191章 行軍の報告:

 

口を開くものはいなかった。代国を除く三国は、当然停戦を望んでいる。姜恒は今までの討論の本質をわかりやすく表に取り出して置いだけだ。みな心の中ではわかっていたが、言いたくはなかった。最終戦争となれば、勝者がすべてを得て、敗者は亡国となる。数多の民や兵士たちの命の犠牲の上に、勝ち残った強大な国家と君王が天下を統治する。

恨みつらみを捨てて妥協し、話し合えば、皆が一時の平和を得られる。それぞれが、利益の一部を諦め、天子の管理と調整に従う。理屈はみなわかっているが、そう簡単には行かぬものだ。

梁王畢紹が言った。「おっしゃる通りです。暫し恨みは捨てましょう。全て終わったことです。」彼は龍于、諸令解、羋清、そして熊丕に向かって真剣に言った。「過ぎたことを言ったところで何になりますか?亡くなった人は戻ってきません。今生きている人たちの世のことを考えましょう。」

姜恒は十二歳の畢紹をじっと見た。かつての自分と同じような考えを持っている。太子霊は命を差し出した時に、最後の希望を姜恒と耿曙に託した。龍于や鄭臣たちも早くから趙霊の遺願はわかっていた。姜恒は彼らの最後の希望なのだと。

「賛成いたします。」龍于が言った。諸令解はまだ何か言いたそうだったが、最後には龍于に反論しないことにした。

 

雍国が先に利益を手放す。それは姜恒が汁瀧に提案したことだ。一方が打開の糸口を提示しなくては口論に終わりはないだろう。

「梁王は心に王道を持っておられる。では貴国はどうです?」姜恒は羋清に尋ねた。

羋清は熊丕の背に置いた手をとんとんと叩いた。

「姜大人、私たちの後ろには郢国国民がおりますことをご了解いただけますよう。」

「もちろんわかっております。そちらの要求は何ですか?」

羋清は暫く黙った後で尋ねた。「姜大人は五国国君の内から新天子を選ばれるおつもりですか?」

「そのつもりです。」姜恒は答えた。ついに最も重要な一歩を踏み出す時が来た。

「天子遺命により、私が後継者を選びます。ですが、申し上げた通り、諸侯国君の意思をお聞きしたいと思っております。そのうえで、まず申し上げますが、私は汁家を、現在の雍王、汁瀧を新たなる天子に選びます。」汁瀧の額から汗が流れ落ちた。

 

皆不意を打たれて妙な表情をした。来る前から皆言い合ってはいたことだ。姜恒はきっと金璽を汁家に渡すだろうと。結局のところ、汁家は目下のところ最大の勝者でもある。だが、驚いたのは何の根回しもなくいきなりその話を出してきたことだ!

 

諸令解が狂ったように大笑いし、静寂を打ち破った。「彼ですって?!あの狂人の息子を天子にするのですか?!彼の父親は四国の不倶戴天の仇ですぞ!」汁瀧は何も言わず、冷淡な表情をしていた。

姜恒が言った。「そうです。各位が賛同いただけないのであれば、誰か推挙してください。皆さんの提案はお聞きいたしましょう。諸侯各位、お話しいただけますか?この席に誰がつけば、みなさんが心から喜んで従えるでしょうか?」

そう言われても何も言えない。推挙するにふさわしい人がいないのが何よりつらいところだ。

畢紹は天子になれるか?まずは、亡国の君として、畢紹は自らの国の人たち全てを失っている。つぎに、彼はまだ十二歳だ。麾下の者は全て老臣、梁国は既に以前から朽ちかけていて、まるでかつての晋のようだった。

 

趙聡は天子になれるか?無理だ。趙霊の後継ぎとはいえ、この少年にはよくわかっていた。五国を治めるにはより深い仁義が必要だが、国君として鄭国を治めるだけでも難しすぎた。

 

熊丕は天子になれるか?誰も熊丕に注目するものなどいない。急ごしらえの王に過ぎず、実際は羋清の傀儡だ。羋清は?郢国が災難に見舞われた後、前面に出てきた長公主は、国を治めた経験すらない。

 

姜恒は終始、李靳を見ようとしなかった。李霄には更に無理だ。李霄を数に入れる者はいない。李霄も天下の民を自己の臣民とは考えていない。彼が気にするのは代国だけだ。

 

「現在の雍国が証明している通りです。汁琮在位時から、汁瀧はその才能を以て雍国をかつてない強大な国家に仕立て上げました。民はそれぞれが土地を持って豊かになり、商業は活発になり物が行き交うようになりました。雍国の国力は今や、郢国に匹敵します。

私には確信があります。汁瀧が天下を率いれば、今後三十年で百年前の盛況を取り戻すでしょう。あとは皆さんが彼を信じるかどうかです。」

 

天子の人選はあまりに突然過ぎた。龍于でさえ、姜恒はきっと何か緩やかな方法で決めると思っていた。こんな風にされては連合会議も進退窮まってしまう。―――汁瀧にその地位を任せたい者はいないが、かといってもっといい人選もできない。更にはっきりしているのは、自分から名乗りを上げることもできない。

「それは出来かねますね。」諸令解が言った。「姜大人、永遠に無理です。あなたご自身が天子になった方が、汁家の人間がやるよりましですよ。」

汁瀧がにやりとして姜恒を見た。こんな時にいたずら心が出てきたのか、こう言いたいようだ。―――ほらね?私が言った通りでしょう?

 

汁瀧にはよくわかっていた。ここ数年、雍国が強大になったのは姜恒の変法のおかげだ。あとは東宮の部下たちの才によるもので、自分は何もしていない。ただ報告を聞き、彼らを信じ、その持てる能力を支えただけだ。(それが偉いのよ)

だが姜恒は譲らない。それが用人の道というものだと言う。自分を信じ、人を信じる。それこそが敬うべき素質なのだと。汁瀧はずっと人を信じることを学んできた。優秀な人材を発掘し、彼らを支持した。姜恒が言うには、国君になるのはとても簡単だそうだ。―――人を用いたいと願い、人を用いることを理解する。人と人との間で力を消し合わせないようにし、自分の力も消されないようにすれば、うまくいくそうだ。理屈はとても簡単。

今日の会合で終わりのない言い争いを見ていると、彼にもだんだんとわかって来た。なぜ姜恒が、人を信じることを価値あることと考えるのかが。

 

李靳も笑い出した。「姜大人は無垢な心をお持ちのようだが、現実を認めた方がいいですな。みんなでここに座って話し合えば、問題が解決するというものではないでしょう。こうして見てきましたが、もう付き合いきれません。各位、申し訳ありませんが、代国は会議を抜けさせていただきます。」そして李靳は一同に向かって言った。

「帰る前に一言、姫霜公主も五国会議の招集をお望みです。各位の考えをお聞きしたいそうです。雍国はこの十年、いや、百年にしてきたことの代償を払うべきだ。新たな天子、新たな王廷は必要でしょうが、間違ってもあんな役立たず……。」

汁瀧の背後にいた者たちは憤った。品行方正な曾嶸でさえ、李靳への怒号が口を出かけた。そんなに戦いたいなら、見ているがいい、役立たずはどっちか!

 

だが姜恒は目で曾嶸を制した。代国が受け入れないことはわかっていた。ここに来たのはただ探りを入れるためだ。こちらも姫霜がどう思おうと別にかまわない。雍国は最大限の誠意を見せている。汁琮だったら安陽を返還などしなかった。彼は戦うだけ。その一本道を進むだけだった。姜恒は惜しみない努力の末、汁瀧の支持の下、雍国朝廷を説得し、別の道を開いた。梁、趙、両国の同意を取り付けられれば、郢国が反対したとしても三国の支持が得られ、代国の脅威は恐れずにすむ。李靳の反応は姜恒の想定内で、対策も話し合ってあった。

 

「それでは李霄殿が天子になられるのですか?」汁瀧が丁寧に尋ねた。「彼を呼んできて話し合いましょう。皆さんの承認が得られれば私も支持したいと思います。」

誰もが李霄は汁瀧より更に屑だと考えている。姫霜に至っては誰も好感を持っていない。李霄は実の父親の李宏を殺した。李宏は死に値する罪など犯していないのに。李宏の死に大義はない。その上李謐も命を落とした。:李霄の動機は権力を奪うこと、それが一番許せない。そもそも代国は中原紛争を冷めた目で見ていて、毎回名は連ねても力は出さない。あの落雁城の一戦では、鄭は代と同盟を組んでいたのに、代国は遅々として援軍を送らず、雍国境内をうろうろしていただけだった。それは、間接的に太子霊の惨敗につながった。

 

梁国安陽が攻撃されたとき、李霄は汁琮と同盟を結んでいて、背後から支援していたようなものだ。代人は商家出身で、商人は漁夫の利を得ようとする。どちらも助けず、双方が傷ついた後で、利益だけ拾い上げようとする。李霄には称賛すべき点は何もない。天子になどなったら、中原の民は搾取され、西川の国庫が富むだけだ。諸侯の誰もそんな有様を見たくない。

「……発言は控えます。」李靳は諸候たちに抱拳した。「霜公主はこの天下の未来、

後ほど西川より照会が来るでしょう。それを……。」

姜恒は李靳を見ていた。彼に対する反論はすでに長編大論になるほど準備してある。だが、会場で何か起こったようだ。全てしっかり把握できていたと思っていた局面が、初めて制御を失おうとしている。

 

―――まず梁国の使いがやってきて、龍于の耳元に何か報告した。龍于は驚愕の表情を浮かべ、信じられないといった表情で姜恒を見た。

姜恒:「?」

 

李靳の途切れることのない演説が続くが、姜恒はもう聞いていなかった。龍于の表情が気になり、問うように眉を揚げる。すぐに郢国の使いも入ってきて羋清の耳元に何か囁いた。羋清も目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻した。

どうしたと言うのだ?

何かがおかしいと姜恒は鋭敏に感じ取った。李靳はまだ姫霜の命令について語っている。汁瀧の背後でも耳打ちが始まり、龍于は梁王畢紹に小声で何か伝えた。諸侯たちは誰も李靳の言葉を聞いていない。

汁瀧は姜恒と視線を交わし、後ろを向いて周游に問いただした。雍国人はまだ何も知らないが、どうやら何かが起こったようだ。その時遠くからごく小さく鷹の鳴き声が聞こえ、郎煌が一枚の布切れを持って会場に早足で入って来た。二人に目をやり、まずは汁瀧に見せた。汁瀧は一目見て、愕然とし、それを姜恒に渡した。布を開くとそこには耿曙の字で一行書かれていた。

その場の者は話をやめ、全ての視線が一時姜恒の上に留まった。

「……七年前、霜殿下は大晋朝廷を再建しようと……。」李靳はまだ熱弁をふるっていた。

姜恒:「李将軍、申し訳ありませんが、少し中断してください。」

李靳は嘲るように姜恒を直視しつつ、話を停めた。

姜恒は李靳に布切れを見せた。「貴国の不服は承知の上。ですが、聶将軍が四万の王軍を率いて、漢中平原にて二十五万の貴軍を打ち破り、西川境内に侵入しました。おそらく、これではもう霜公主もどうなることか。早く家に手紙を書いて無事を確認した方がいいかと。」

李靳:「……。」

姜恒は果断にも言い放った。

「本日の会合はこれにて終了します。以下のことは明日また話しましょう。散会。」

                     (もう雪合戦で決着つければ。)

 

ーーー

第192章 新年の夜:

 

会場は騒然となっていた。これが大波を引き起こす前に、姜恒はばっさりと討論を打ち切った。一刻も早く対策を話し合わねばならない。

「気でも狂ったのか。誰の命令だ?」周游は不信も露わに言う。

殿内では姜恒が続けて三杯冷茶を飲み、その間も皆が彼を見ている。

「私のせいだ。わかっている。でも私じゃない。」姜恒は否定した。耿曙は今まで姜恒の言う通りにしてきた。まさに言いなりだ。だから姜恒は矢面に立たされた。だれも耿曙が密令もなしに、いきなり兵を率いて代国を攻撃するはずがないと考えている。

汁瀧だけは彼を信じた。姜恒が違うと言うのなら違うのだ。

「兄さんはなぜこんなことをしたのだろう?」汁瀧が言う。

「私にも……わからない。状況はどうなっている?」姜恒が言った。

雍国は前線の戦況について何も知らない。手紙は海東青が持ち帰ってあれだけだ。耿曙は布切れに僅か数文字だけ書きつけてきた。:代軍は破った。西川に向かう。攻城の指示を待つ。

 

「四万しかいなかったのに、どうやって二十五万の大軍を破ったのだろう?」と汁瀧。

皆言葉を失い何もできない。鄭人には独自の情報網があるのだろうと考えた曾嶸は龍于に聞いてみようとしたが、姜恒に止められた。

朝廷を通さず、耿曙が突然軍事行動を起こしたことを他国に知られてはならない。

姜恒は会議上で戦争を止めさせようとしてきた。だが前線にいた耿曙がそれを打ち砕いた。表では大争の世の終結を唄っていながら、裏では耿曙に代国を打たせているのだから、悩ましいところだ。遅くなるまで待った後で、雍軍からの手紙がようやく届いた。

 

「報告―――!」使いが言う。「王子殿下、漢水畔にて敵軍を大敗さす。代国二十五万兵を破り、三万死亡、五万が捕虜になりました!」

詳細を聞いた姜恒はめまいがした。耿曙は三日前の黄昏時に、すでに李靳の軍隊に突撃をかけ、漢水が凍結したのに乗じて夜のうちに渡河を行い、大半を漢中に送り込んでいた。そして夜明けとともに李靳の後陣に攻撃をかけた。代国軍はもう何年も戦っておらず、大軍のために敵を甘く見た。混乱の内に、凍結した漢水に追い込まれて、耿曙の罠にはまったのだ。

日が暮れて空が血の色に染まる頃、奇襲を受けた代軍は川の上に逃げ込んだ。そこで百里にわたって氷が突然割れ落ち、その場にいた数万が溺死、或いは凍死した。

 

「手紙を送りましょう。」曾嶸が言った。「バカなことはやめるようにと!まもなく盟約も締結しそうなのに、こんなことをしたら他国はどう思うでしょう?」

「もう遅いよ。」姜恒が言った。彼は耿曙の判断を信じた。

汁瀧が言った。「転じて福となるかも。」

姜恒は頷いた。少なくともこれからは代国が偉そうにすることはないだろう。

「洛陽に厳戒態勢を敷いて。代国から嵩県を守っていた曾宇隊を戻らせて、洛陽を守るようにさせて。」姜恒の言葉に皆は我に返った。代国はきっと復讐するだろう。五国の公卿が今洛陽に集まっている。今やるべきことは参加者を必ず守ることだ。もし連合会議で人が死んだりしたら、例え陰で糸を引いたのが代国であったとしても、想像しがたい結果になるだろう!周游が尋ねた。「会議は終わらせますか?」汁瀧が答える。「いいえ。今帰したら逆に危険だ。」

 

衛賁が急ぎ足にやって来た。「代国が対策をとりました。兵を二つに分け、剣門関を出て嵩県を打つようです。」

姜恒:「李靳をしっかり監視して。危険を見つけたら、彼を押さえておかないと。衛軍、全城を厳戒態勢にして。」衛賁は了解し汁瀧に頷いた。

「私は今夜、それぞれに話をしないと。」姜恒が言った。

今日一番の難題に取り組まねば。何としても汁瀧を新天子にさせなくては。各国から他に有効な提案が出なければだが。その後の、二日目と三日目は汁瀧の戦場だ。彼は皆の信任を勝ち取らねばならない。少なくともその機会を彼に与えなくては。

汁瀧は頷いた。姜恒は心を決めた様子でまずは後殿に行き、龍于に会うことにした。

龍于を最初に勝ち取るべき相手で、最も希望を持てる相手でもある。彼は鄭国王室二代に仕え、鄭の先王の伴侶でもあった。趙霊を育て、彼とは父とも兄とも言える存在だった。誰よりも趙霊の願いをわかっているだろう。

 

今日は雍人の新年だ。宮廷内では諸侯の礼に則った食事を各国君主の部屋に届けた。鼎で煮た魚、鶏肉、羊、亀の四鮮が、雍国の強い酒と共に給された。本来なら雍王汁瀧による宴が開かれるところであったが、漢中からの戦報により、中止となった。

姜恒は鄭国が滞在する部屋についた。食事も届いたようだ。龍于は畢紹と趙聡に向かい合ってお茶を飲んでいた。この時間、趙聡はもう畢紹の膝を枕に眠っていた。

龍于と畢紹は黙りこんでいた。二人とも心配事があるようだ。姜恒の来訪により、沈黙が破られたが、彼は畢紹に立たなくていいと示した。

「趙聡はきっとすごく眠かったのでしょう。趙慧は?」姜恒が言った。

「落ち着かないからと言って、出て行きました。」龍于が言った。

姜恒は官員ではあるが、亡くなった姫珣を代表する身分でもある。諸侯たちは彼に拝礼した。彼が天子の後ろにいた時の礼儀であった。

「子供の時は時間になるとすぐ眠くなるものです。」畢紹が答えた。「私もそうでした。この時間にはもう眠くて仕方ありませんでした。」

平服姿の梁国国君と龍于を見て、姜恒はおかしな感覚を覚えた。なんだか家族みたいだ。鄭と梁は元々姉妹国家だ。畢氏と趙氏は六百年前には晋廷の由緒ある大家族だった。

「私も洛陽で新年を迎えるのは初めてです。」龍于が姜恒に言った。

「鄭国の新年はまだ何日か先ですよね。うまくすれば、それまでに済州に戻れますね。」姜恒が答えた。

「この局面もしばらくすれば、きっと解決しますよ。」龍于は、雍国が突然軍事行動に出たことについて、驚いたとか、バカげたことだとか言わなかった。そして口角を少し上げた。彼は既に四十を超えているはずだが、変わらず優雅な姿で、体つきも要望も青年のようだ。目元には越人らしい英気があった。

姜恒はほっとした。耿曙の突然の襲撃は全くの想定外だったが、こうして畢紹と龍于の様子を見ると、すでに気持ちは決まっているようだ。

 

畢紹:「彼を信じていますか。」

姜恒:「私の兄ですから。当然信じています。」

畢紹が誰のことを言っていようが、汁瀧も、耿曙も二人とも自分の長兄だ。汁瀧は実の従兄でもある。龍于は言った。「趙霊が死んでから、ずっと考えていたことがあります。」

姜恒は眉をあげた。

龍于:「彼は何であなたを信じたのでしょうか。」

畢紹が龍于に言った。「兄上(太子霊)は、生前私に言っていました。姜大人が済州に来た最初の日に、大争の世は十年以内に終わると言ったのだと。それで姜大人のためにまず汁琮を刺殺する決心をしたのだとも。」

          (そーだったの?!でもやったのは姜恒の方だったけど。)

姜恒は笑い出した。「あの頃彼とはたくさん話をしたのに、具体的にそう言ったかを思い出せません。」

 

龍于は考えていた。彼は今や鄭国軍の首級である。鄭、梁両国とも、戦いの末、雍国に一矢報いたとは言え、その力は小さい。雍人はあちこちに征戦をしかけ、一国単独では耿曙に対抗できない。だが、連合を組んで四方から開戦すれば、汁氏を玉壁関の外まで追いやる力があるかもしれない。

姜恒にもそれはわかっている。何としてでも彼らを会議に引き戻したい。まずは話し合い、それでもだめなら戦場で解決する。彼らに証明したかった。耿曙は第二の汁琮ではないと。

龍于は尋ねた。「この先、三十年、四十年たったら、どんなふうになっていると思いますか?」

姜恒には龍于が決断を下そうとしているのがわかった。自分の答えが二日目の会合での出方に影響するのだ。「実を言うと、未だに暗中模索状態で、応えるのは難しそうです。」姜恒は答えた。

龍于と畢紹は驚いたようだった。

畢紹は笑顔で言った。「私はてっきり姜大人は……。」

 

「隆盛の世なんて絵空事です。それは誰もがわかっていること。王権の没落、晋廷の衰退、それは雍だけが原因ではなかった。姫氏自身にも原因があったはず。たくさんの問題が、時局に応じて出てきた。そういうことです。」

龍于は頷いた。数百年来諸子百家が休むことなく論じてきたことだ。何を学ぶべきか、今ある秩序を打ち破って新たに打ち立てるのはどんな人か。

「六百年の晋王朝は発展を停めました。最初は中原に十三国、四十二城ありました。その後、諸部族が帰順し、領土は広がり、二百年前の武王在位の時に、「天」は東海、西陲、南疆、北塞へと広がりました。領土の拡大により新たな問題が発生しました。「家天」の分封です。これほどの広大な領土を管理するのは難しい。辺域まで中央の力は及ばない。だが改正すれば、王権の衰退は必定となります。」

 

ちょうど一本の大樹のようだ。枝が伸びれば重くなる。長年それを支えていれば、何もしなくても負担が増えるのに、一旦暴風雨に見舞われれば枝葉は折れ落とされる。

姜恒は考えた末、再び畢紹に言った。「家天を取り上げ、諸侯の国封を解除して、郡県制にして、天子直轄とする。難しいでしょう?自らの国君の位を放棄したがる者がいますか?まあ、趙霊は放棄したがっていたかもしれないけど、士大夫たちが同意しないでしょう?」

畢紹は考えながら答えた。「それが私たちが危惧するところです。」

もしその返還を強行し、晋廷が通った道を再び進めば、最後には瓦解する。その速度は晋廷の比ではないだろう。全てを改変しようとすれば、世の貴族たち全てが敵となる。

「それでも希望はあると信じます。汁瀧は最初に雍王宮で変法を成し遂げた。いつかそれがひな形となるはずです。その行程は困難を極め、時間もかかるでしょうが、辛抱強く待つことにしましょう。一代先、二代先、百年後かもしれないけど、同じ志を持つ人が現れるかもしれません。」                                                                                 

 

龍于:「明日の会合では、天子の名を諸侯に宣言するつもりですか?」

「通すことができれば、そうしたいと思っています。」姜恒が答えた。

龍于も畢紹も何も言わなかった。姜恒も抵抗にあうことはわかっているが、どの国家からも承認を取り付けて、汁瀧をその椅子に座らせなくては。さもなくば一国の同意を取り付けるために、最後には戦いで解決することになってしまう。

「私はこれで失礼します。お二方が眠いようでしたら、夜の爆竹は延期にします。」

畢紹は立ち上がらず、熟睡している趙聡の横顔を撫でながら、姜恒に頷いた。

 

 

汁瀧はふと夜の空気を吸いに行きたくなった。今日の諸侯たちの圧力はものすごく、彼はとても疲れていた。

夜の雪の中に、紅と黒の長袍を身にまとった娘が烏の濡れ羽色の長い髪をおろして、高い所に咲く梅の花を手折ろうとしていた。汁瀧は王宮内にこんな人はいなかったと思い、近づいて、凍った湖の前に立つと、娘に梅の花を摘んでやった。娘は驚いて振り返った。手は剣の柄に置かれている。趙慧だった。

「ああびっくりした。刺客かと思ったわ。」と趙慧。

「私も刺客だと思ったよ。」汁瀧は梅の花を彼女に渡して微笑んだ。「済州には梅の花はないの?」

「済州にはあるけど、潯陽にはない。この花はいい香りがするわ。」趙慧は髪をかき上げながら淡々と言った。

「潯雍で育ったのかい?」太子瀧は趙慧の顔をじっと見つめた。誰かに似ている気がする。……ああ伯母上だ。汁綾。

「母は越人なの。」趙慧が言った。太子瀧は納得した。趙慧は公主ではあっても剣を佩くのを習慣にしているのだろう。越女の伝統だ。

「お父上のこと、すまなかったね。」汁瀧はそっと言うと、近くに行って腰を下ろした。

「別にいいの。うちの父もあなたの父さんを殺したのだもの。お相子ね。龍将軍が、上の代の恨みは捨て置けって。そうでなければ、会合に参加なんてしなかったわ。まあ、私が来たのは姜先生に会いたかったからなんだけど。」

 

「仇を許せるとは、さすが越人。」

趙慧は太子瀧の瞳を見つめた。眼差しに少し笑みをこめて。その時太子瀧は深い夜の中、真白な雪に包まれる夢を見たような気持になった。

「剣法は誰に習ったの?龍将軍?」

「父よ。」趙慧は答えた。太子瀧は少し驚いてから、ああ、と腑に落ちた。「そうだ。お父上は第五番目の刺客だったよね。」

彼女が笑うと、汁綾のようでもあり、姜恒にも、姜太后にも似ていた。双眸は明るく澄んで、知的でもある。「直伝してくれたんだけど、父のことは嫌いだった。それでも、死んでほしくはなかった。」

「どうしてだい?」太子瀧は座ったまま、趙慧は立ったままだ。

「体でも悪いの?」趙慧は眉をひそめて尋ねた。「ずっと座ったままで。足が冷えない?」

「大丈夫。」太子瀧はおかしくなって笑うと、立ち上がった。「習慣だよ。子供のころから教え込まれた。危ないことはしない、立ちたくても座る。走りたくても歩く。みんなが見ているからって。」

「それでつまらなくないの?」趙慧は嘲るように言った。

「そうさー、つまらないよー。誰だって私と比べたらみんな楽しそうだ。恒児の人生なんて楽しいだろうな。どうして年越しなのに一人でいるの?」

趙慧:「龍将軍と梁王は今日のことを話していて、私は聞いてたけど、気持ちがふさいできたから、逃げてきちゃった。先生を探したけど、みんな忙しそうで、誰も私になんてかまってくれないのよ。」

「私は忙しくないよ。私たち二人とも暇人なんだね。よし、一緒に年越ししよう。何か飲むかい?」太子瀧は招待した客人を接待しなくてはと思った。特に今ここにいるのだから。

「お酒がいい。まあ別のものでも。」趙慧が言った。

熱いお茶でも飲むかい?」

趙慧は少し考えて丁寧に頷くと、太子瀧について歩いて行った。

 

(これは結局太子霊が勝ったことにならないかな。娘はきっと次の天子を生むぞ。

そしてたまには男女のカップルほっとする。)

 

 

ーーー

第193章 越人の剣:

 

梅花殿に熱いお茶と点心が給仕された。小雪が舞う冬の夜、趙慧は外を眺めていたが、太子瀧が見ているのは趙慧の姿だ。

彼女は戸口まで行って雪を仰ぎ見ると、また殿内に戻ってきて、壁に掛けられた剣に目をやった。「天月剣だ。」趙慧はそう言って、太子瀧の制止も待たずに手に持った。

太子瀧は急いで立ち上がり、「触らないで!」と言った。

趙慧は既に剣を引き出していて、嘲るように言った。「もともとは越人が作った剣よ。触るのもだめなの?」

「鋭利だから、君がけがをするのではないかと心配になったんだ。」太子瀧が言った。

趙霊は剣をもとに戻した。太子瀧の気持ちがわかり、笑顔を見せて言った。「私、そんなにバカじゃないわ。」

太子瀧はどきりとしたが、すぐに笑顔に戻った。趙慧は剣をちゃんと架けて、「黒剣は?」と尋ねた。「子淼に渡した。」太子瀧が答えた。「ああ、淼先生ね。あの人なら腕を上げる一方でしょうね。」趙慧は頷いて、卓に戻り、太子瀧と座ってお茶を飲み始めた。

 

「どうしてお父上が好きではなかったの?」太子瀧はそっと尋ねた。それを聞けば、罪悪感が少し和らぐような気がしていた。

「母を愛してなかったからよ。」趙慧はお茶を少し飲んで、「この点心おいしい。」と言った。

「それでも好きにならなくては。」太子瀧は笑顔を作った。「私の父も母を愛してはいなかった。父母の関係がどうであれ、それでも目上の人だよ。」

趙慧は何も言わず、気落ちしたような顔をした。彼女はとても美しかった。繊細な美しさに満ちている。一瞬、太子瀧は恍惚としてしまった。彼女を家族のように感じた。

きっと成長する過程で、汁綾や姜太后を見てきたせいだ。型にはまらず、気ままで大胆な越人の美しさが彼の心には染みついているのだ。

子供のころから、王宮にはたくさんの越人がいたため、太子瀧は越人を見ると親しみを感じる。「父の頭の中にはいつだって行軍や出征のことしかなかった。あなたと私は似ているね。お父上も天下の大事のことで忙しかったのだと思うよ。」太子瀧は言った。

「そうじゃない。」趙慧の眼差しに怒りが見えたが、ため息をついただけで説明はしなかった。太子瀧が黙っていると、突然趙慧が頭を上げて、期待するように言った。「天月剣を私にくれない?」

太子泷:「……。」

 

彼は困った。彼は人に拒絶するのが苦手だ。趙慧の熱い期待を前に何と答えていいかわからない。「あなたは手に入れた国土だって手放せるのでしょう?安陽を畢紹にあげられるなら、剣を一本私にくれるくらい何でもないんじゃないの?」

「それとは違うよ。安陽は元々梁王の国土だったのだから。」太子瀧は彼女に笑いものにされている気分だ。「天月剣だって私たち越人の剣だわ。」趙慧が言った。

太子泷:「……。」

太子瀧は、それは姜恒の母親の遺品だから、姜恒に返さなければと言おうとした。だが、そうではないのかもしれない。姜恒は姜太后に剣を渡した。姜太后がそれを自分に渡した。ということは、天月剣は汁家の所有物となった。越人ならだれでも使う資格があるはずだ。

 

趙慧が「つまらない。」と言おうとした時、太子瀧が言った。「わかったよ。君が欲しいなら、君にあげることにするよ。」

「え?」趙慧は軽口をたたいただけのつもりだった。天月剣の意味を彼女が知らないはずがない。まさか太子瀧がそれをくれるなんて!

「私は……冗談で言っただけなの。」趙慧は逆に少し慌てた。「軽い気持ちで言っただけなのよ。」太子瀧は立ち上がり、天月剣を降ろすと卓上に置いた。

 

「さっきちょっと迷ったのはね、天月剣は恒児が家から持ってきた剣だからなんだ。昭夫人が生前所持していたのだよ。本当は私には資格がないんだけど、でも恒児は弟だから、違いはないだろう。私の物は彼の物、彼の物は私の物だ。彼は国土を畢紹にあげることにしたのだから、私だって当然天月剣を君にあげられる。持って行って。」

趙慧は言った。「私......受け取れないわ。」一族に伝わる神兵器だ。太子霊の母親は越人で、妻子も越人。趙慧の体には越人の血が流れている。更に潯陽で育ったことで、天月剣を目にした時、つい心動かされてしまったのだ。

太子瀧は彼女が本当にこの剣が好きなのを見て取った。王宮内でほこりをかぶっているよりも、本当にこれを愛する人に渡した方がいいだろう。

「持って行って。君子に二言なし。」

 

「じゃあ、……まずは何日か借りることにする。」趙慧は剣が象徴する意味はとても大きいことを知っていた。越人の剣と言っても、天子が所有すべきものだ。受け取るわけにはいかない。太子瀧は、うん、と言って、趙慧に渡す時に、そっと手渡しながら言った。「でもね、約束してほしい。これを人殺しのために使わないで。できるかぎりね。」

「ええ、わかったわ。約束する。」趙慧はそっと言った。太子瀧はそれで手放した。

 

深夜、姜恒は王宮の長廊を通り過ぎて、羋清と熊丕のもとを訪ねた。深夜なので、公主と太子は別々の部屋にいたが、部屋の中から羋清の声がした。「姜大人、お入りくださいな。」

姜恒は侍者に扉を開けたままにさせておいた。それから炉に火をつけ、深夜の訪問に他の意図がないことをはっきり示した。羋清は笑って姜恒を推し量るように見ると、先ずは謁見の拝礼をした。

姜恒は尋ねた。「太子は?」「少し飲み過ぎたようで、もう休みました。姜大人は戦争の責任をとる話のためにいらしたのかしら?」羋清が言った。

「まさか。」姜恒は傍らに腰を下ろした。「隠さずに申しますが、あの襲撃については私たちは何も知らないのです。」羋清は淡々と言った。「聶将軍は兵を神のごとく使います。江州にいた時からわかっておりました。予想外のことだったとしても、最終的には期待通りの結果になったのでは?」

「それなら我らが会合で合意に至らないと思って、先に代国を打ったのかもしれませんね。」羋清は笑い出した。姜恒も所在無げに笑った。「公主は明日も会議に出られますか?」

「さあどうでしょう。ここに来たのは、申し上げたように、一番の目的として、安陽の乱のことをはっきりさせるためですわ。あれはいったい何だったのでしょうか?先王もなぜ崩御されたのでしょうか。あなたなら教えて下さるのではないかしら、姜大人?」

 

姜恒にもわかっていた。熊耒親子が毒殺された件について、郢国は一切の代価を惜しまず真相を突き止めるつもりなのだ。「はっきりしたら何かの役に立つのですか?」姜恒が言った。

「何の役にも立たないでしょう。でも興味があるのよ。いけないかしら?」羋清は笑った。

姜恒は暫く黙ったのち、言った。「汁琮はこれについては何も知らないことは私が保証します。」羋清は答えた。「私もそう思うわ。そうでなければ雍軍一万強を道連れにしないでしょうからね。」

姜恒は言った。「それについて、私には自分の考えがあります。推測に過ぎず、証拠もありませんが、殿下の好奇心を満足させるために試しに言ってみましょうか。」

「拝聴させていただくわ。」羋清が言った。

 

姜恒は暫く黙ったのちに言った。「敵討ちのためです、殿下。彼を殺したのは恨みを晴らすため。」羋清は何も言わず、姜恒は話を続けた。「貴国の国君と太子の傍にいた「項余将軍」という人は別人だったのではないかと私は思うのです。」

 

「その通りよ。」羋清は冷やかに言った。「項将軍が出征して一夜にして失踪することはあり得ない。死体は家の地下から見つかったのよ。」

「その人は、郢軍と代軍によって家族を壊され、大事にしていた全てを奪われたのです。」

「それで復讐したと言うの?仇を打つために、郢軍だけでなく、郢王まで毒殺して。」

姜恒:「その通りです。代国の羅望将軍が李宏の死後行方不明になったのも彼のせいかと。」

姜恒は数年来、ずっと羅宣のことを考えていた。汀丘で別れた後、羅宣はもう自分の前に姿を現さないと思っていた。なぜかまた趙起のことを思い出した。もう一人の李靳、そして、江州で短い間一緒にすごしてきた項余のことを。彼はいったい安陽で何をしたのだろうか?あの場にいた人は一切合切死んでしまって、目撃者もいないのだ。

 

「それは羅宣ではなくて?」羋清が最後に言った。「十数年前、郢軍千人以上を毒殺した刺客の。」姜恒は正面から答ええずに淡々と言った。「羅宣は私の師父でした。」

「公子州と同じ、海閣の人でしょう。」

「そうです。私、師父、公子州、みな海閣の徒弟です。」

「公子州は死ぬ前にあなたに何か言った?」羋清が尋ねた。

姜恒は羋清の眼差しに悲しみの色が浮かんだのを敏感にとらえた。

「死ぬ前の最後の言葉は……。」姜恒は雪崩が起きた時の記憶を思い起こした。項州が目覚めた瞬間を。「彼は言いました。『怖がらないで。私がついているよ。』」

羋清は長い長い間黙っていた。姜恒はお茶を一口飲んで、彼女の双眸を見つめた。

「洛陽に行く前に、彼は江州に戻ってきて、私たちは一緒にお茶を飲んだの。彼はあなたのお母上の遺骨を葬ってきたと言っていた。」

姜恒はこの雪夜にたくさんの過去のできごとを知ることとなった。

「母さんは……どこに葬られたのですか?」

羋清は小声で言った。「鏡湖に散骨したそうよ。」

姜恒は頷いた。彼女にとっては一番の場所だ。

 

羋清が言った。「あの年公子州は帰ってきて、私に一目会うなり聞いて来たの。あの攻城戦を止めることはできるだろうかと。できないことがわかると彼は言ったわ。洛陽にある人を助けに行かなくてはならないと。その人というのはきっとあなたのことね。」

「私です。」姜恒は答えた。

「あの人はそういう人だった。約束したからには必ずやりとげる。」

姜恒は黙ったままでいた。羋清は再び話し始めた。「姜恒、私には姉が一人いるのよ。誰だかわかる?」

「羋霞、羋将軍ですね?」姜恒が聞くと羋清は頷いた。「姉はあなたの母上に殺されたのよ。」

姜恒は言った。「そのために、太子安は私を殺してお姉上の仇を打とうとしたのです。きっと私たちの間の恨みは永遠に消えることはないのでしょうね。」

羋清は答えず、憐れむような眼で姜恒を見た。

姜恒は言った。「でもまあ、大争の世では、殺したり、殺されたり。最後はみんな死んで誰もいなくなる。それが望みなのでしょうかね。」

「あなたたち越人のやり方ならね。越人は剣で話をつけるから。」

「この世に越人はもういない。公主殿下、なぜそうなったのか、あなたはよくご存じだ。

「ええそうよ。」

姜恒は退席を告げようとして、戸口に向かったが、その時急に羋清が言った。

「姜大人、とても知りたいことがあるのだけど。」

「何でしょうか?」姜恒が振り返った。

「姉と、王室への復讐のために、あなたの命を奪わせてくれたら、代価として連盟に賛成すると言ったら、あなたは応じてくれるかしら?」

「いいえ。」姜恒はあまり考えずに答えた。「私が死んでから、貴国が約束を覆すかもしれませんから。」

羋清は笑い出した。そして言った。「ほんのじょうだんよ。姜大人。」

姜恒には内心で既に目途が立っていた。一年以内には最後の厄介ごとも終わるだろう。

 

 

庭園を通り過ぎて神殿に戻ろうとした時、梅園の外から二つの人影がゆっくりと近づいて来た。男女のようだ。歩きながら話をしている。

「趙慧!」姜恒は娘が誰かわかり、問わずにいられなかった。「何を持っているんだ?」

まさかこんな時間に姜恒に出くわすとは太子瀧も思わなかった。問うように眉をあげると、姜恒は頷いた。『とりあえずうまくいきました。』

趙慧は少し姜恒が怖そうだった。実を言うと鄭国で彼を恐れない人はいない。姜恒はかつて済州に滞在していた時に、趙慧、趙聡姉弟の先生をしていたことがあり、その頃の威厳が今も健在なのだ。趙慧はさっと太子瀧の後ろに隠れて、しかめ面をした。振り返って彼女を見た太子瀧はおもしろがり、姜恒にむかって目配せした。

「天子が私に貸してくれたのよ。」趙慧が言った。(天子って言った!!)

姜恒は眼差しに笑みを湛えながら言った。「肝の座ったことだな。天月剣を君のおもちゃにするためにくれたって言うのか?」

太子瀧は言葉に詰まったが、姜恒が責めるような顔をしていないのを見て、白状した。

「彼女が気に入ったので、贈ることにしたんだ。」

姜恒は母の遺品を勝手に他人に贈った太子瀧のことを少しも不快に思わなかった。世の中で伝承されていくなら、その意義は王宮に象徴物として高々と掲げられたままでいるより、はるかに意義深いことだった。

彼はただ笑って言った。「天月剣を持つなら、それ相応の実力がないと。君にその能力があるかな。どのくらい習得した?先にちょっと見せてくれないか?」

姜恒の言葉を聞いた趙慧は剣を抜きながら、言った。「いいわよ。見ていてください。」

そして、趙慧は梅園を走り回って、雪が舞う中、剣法を披露した。天月剣が振られたところでは梅花は切られ、雪変は砕けた。趙慧は仙女のように、最後に剣を収めると振り返って笑顔を見せた。

姜恒は、横目に映った太子瀧の様子から何かを感づいた。太子瀧の視線はずっと趙慧の姿から離れず、眼差しは賛美に満ちていた。

「派手なだけだ。」姜恒は嘲笑するように言った。かつて自分によくそう言っていた羅宣のことを思い出し、消し去れない悲しみに心がいっぱいになった。

笑顔だった趙慧は姜恒に嘲られ、顔をひきつらせた。だが太子瀧は手を叩いて称賛した。「すばらしいよ!」

趙慧:「あなたに良し悪しがわかるっていうの?」

太子瀧:「私は武芸を習ってはいないけれど、見るだけならたくさん見てきたんだ。君の攻夫はとてもいいよ。」(夫を攻めると書いてカンフー。尻に敷かれる未来)

姜恒はあきれたように笑って、太子瀧と全く同じことを言った。「この剣を人殺しのためには使わないで。なるべくね。」

「はい!」趙慧はその言葉を聞いて、姜恒に異議がないとわかり、たちまち大喜びした。太子瀧はまだ何か言いたそうだったが、趙慧は走って行ってしまった。

 

姜恒と太子瀧は視線を交わした。太子瀧は言葉を飲み込んだが、姜恒は言った。

「天月剣の行き先として最高です。今後私は母の名の正統性を主張してかないと。母は五大刺客に引けを取らない。天下には六大刺客がいたと言うべきなのです。」

「あの娘が私に『越人か?』と聞いてきた時、なぜか、すごく親しみを感じたんだ。まるで私を受け入れてくれたかのようだった。」太子瀧が言った。

「あなたは勿論そうです。王祖母は越人ですから、あなたも越人です。」

「私は風戎人でもあるんだけど、それらしくないよね。」太子瀧は考えながら言った。

「それらしさって何でしょうか。風戎人には氐人の血が混じり、林胡人の血も混じっている。それ以外にも、あなたは鄭人でもあり、梁人でもあります。」

二人はゆっくりと寝殿に向かって歩いて行った。

「百二十三年前には、雍人は中原人でした。私たちの祖先は、世代が下るごとに、代人にもなり、梁人にもなった。鄭人、郢人にも。百川入海、殊途同帰…」

言葉は太子瀧と姜恒を離れ、雪と共に舞い去った。

「あなたは天人なのです。」

 

 

ーーー

第194章 百年計画:

 

翌日、耿曙からの第二報が届くことはなかった。皆で分析したあと、姜恒はざっくり推測した。耿曙は今頃汁綾、曾宇と合流して、西川を囲い込んでいるのだろうと。

洛陽は臨戦態勢で、城防として全面的に戒厳令が敷かれた。更に、多くの道に諜報を送り、南路の兵の偵察に行かせた。汁瀧と臣下は耿曙にどう返信すべきかを一晩かけて話し合った。朝廷名義で強制的に呼び戻すか、そのままにするか。耿曙が聞くかどうかは別問題だ。

「この行動は悪手以外の何物でもありません!」曾嶸の言葉だ。

最後に、その重荷は姜恒の肩の上にのしかかって来た。

彼はただ一言だけ書いた。【もう充分だ。】

そして布を海東青の足に巻いて飛ばした。

「今日の会合の準備をしよう。」姜恒は汁瀧を見つめた。最大の試練の時が来たのだ。

汁瀧は頷いた。群臣たちが正殿を出ようとした時、界圭が急ぎ足に軍報を持ってやって来た。「嵩県が陥落しました。代国は残り十万の兵を引き連れ、洛陽に迫っています。」刹那その場は静まり返った。

周游が言った。「結構なことだ。連合会議が王子殿下の手で台無しにされるとは。」

界圭は他の者は無視して、姜恒に言った。「洛陽には二万の御林軍がいるだけです。私はあなたを逃がさなくては。」

「逃げないよ。そうじゃない。わかったんだ。」

臣下たちは姜恒に注目した。姜恒は信じられない様子で言った。「わからないの?軍報によれば、代国は嵩県に出兵した。漢中で惨敗してから、まだ一日しかたっていないのに!李霄はもともと中原に侵攻する計画だったんだ!聶海は布陣からそれがわかって先に手を打っただけなんだよ!」

姜恒の一言で皆いきなり夢から覚めたようになった。

 

耿曙が漢中平原で防衛軍を攻撃したことと、西川が嵩県を攻撃したことは関係がなかった。李霄は最初から決めていたのだ。連合会議に乗じて兵を二つに分け、南路から先に中原をとり、耿曙が洛陽を救いに行けぬようにして、漢中の大軍に虚を突かせ侵入させるつもりだった。計算外だったのは、耿曙が戦神の名の通り、数万の軍で漢中に置いていた布陣を一挙に打ち下したことだった。

汁瀧は息をせかしながら、姜恒と視線を交わした。姜恒は群臣たちに言った。「やるべきことを続けて。」汁瀧が言った。「私はここに残る。姜恒、あなたは行って。」

姜恒は汁瀧に一歩近づいて、見つめあった。「私はここに残らなくては。聶海は帰ってきます。」最後に汁瀧が妥協した。もう耿曙の動機を疑う者はいない。曾嶸は対策を講じるために出て行った。

この情報は暫し伏せておかねばならない。そして今日会議を終わらせ、合意に至るかにかかわらず、すぐに諸侯たちを逃がさなくては。

 

汁瀧が席に着くと、皆の視線が集まった。中原地域が今正に陥落しかけているのをまだ誰も知らない。一両日中には代軍が洛陽に侵攻してくるかもしれないのだ。

今日の李靳は表情がさえない。それでも来たのは対策をとる必要があるからで、今は代国からの報せを待っているのだろう。

「今日は天子の選出をするのかしら?」羋清が笑顔で言った。熊丕は二日酔いでぼんやりしたまま、汁瀧を嘲るように見ていた。

姜恒が言った。「昨日の議題について、国君各位のお考えを拝聴したいと思います。」

龍于が言った。「私たちがお聞きしたいのは、将来の天子が、天下をどう管理していくかです。承諾するかはそれにかかっています。」

熊丕が笑って言った。「汁琮の統治下での雍が、当然そのまま未来の中原になるのでは?」その言葉に各国群臣たちがざわついた。

だが汁瀧は言った。「おそらくここにいらっしゃる皆さまは我が父に対し多少のご批判があろうことと思います。」

多少のご批判とは笑止!罵詈雑言を尽くしても言い足りないだろう。

会場が静まると、汁瀧はため息をついて話を続けた。「雍では法を改正しました。皆さまがご覧になってわかるように、雍の地は、中原四国に未来がどうなるかを示しています。私達は全く新しい朝廷を作りたいと考えています。四百年前と同じ、家天下ではない新しい朝廷を。」汁瀧はとても緊張して声が震えていた。姜恒は彼の背中に手を置き、落ち着かせようとした。今日はあまりにもたくさんのことが起こっているが、雑念は振り払い、真剣に考えねばならない。

 

「一つめ。五国が争いあって久しい今、戦いを止め、国境を取っ払って民が自由に行き来できるようにする。農、工、商、どの仕事につくかは自ら決める。未来の天下では、鄭人、梁人、代人、雍人の区別をなくし、皆が天下人となるのです。」

「皆が天下人。」龍于がつぶやいた。

「その通りです。皆が天下人です。人々が混ざり合えば、族同士の血統や地域での争いは一旦落ち着くはずです。皆が天下人ですから、同じように見られるはずです。

羋清は何か思うところがあるように姜恒を見つめた。

 

「それはあり得ない。」諸令解が言った。「政令はどこから出すつもりだ?国境を外してどうやって政務を行うのだ?」

「それが二つ目です。」汁瀧が言った。「各地は州に改めて天下の規則は洛陽朝廷が制定した法令にて発布される。」すぐに会場はざわついたが、すぐに汁瀧が説明をした。「政務はその地方で自ら採決を行うのです。」(合衆国だな。仮想中国版の)

龍于も全く思ってもみなかった。待っていた結果が、国の枠を出るとは!畢紹は期待をこめて龍于を見たが、龍于は何も言わず、かわりに春梁が冷ややかに言った。

 

「封王はどうするつもりか?いっそ我らをきれいに始末してしまえば、もっと気分が良いのでは?」

「三つ目。各国君は今まで通り、封地に税を治めさせ、雑役等も晋廷時の制度をとるが、朝廷の命を聞き、封王という身分で、監督権を持つ。洛陽朝廷から派遣した官員に対し、法令制定や政務採決に参与する。」

喧騒が静寂に変わる。それは何を代表するのか?天子朝廷と諸侯は六百年前から、各自独立して動いて来た。今汁瀧が提案した洛陽に集権させる改革は諸候の権利をはく奪しているようにも見える。だが、別の見方をすれば、それが意味するところは、この天下に五つの臣を置き、共同統治するということか!

 

言うは易いが、行うは実に難し。五人それぞれに思惑がある。そこまで推し進めるのにどれだけの抵抗があるかしれない。だが全て未来のことだ。汁瀧は執行するのではなく提案するだけだ。具体的なことは天子朝廷がゆっくりと進めていけばいい。あせりは禁物だ。

最も力を注ぐべき点は、外に向けた戦いを内闘とすること。中央から各地に派遣された朝廷の役人が、食うか食われるかの戦いの末、命を落とすことは起こるかもしれないが、民がその影響を受けることはないようにする。最終勝者が誰であれ、戦いの場を朝廷に持ってくれば、罪のない民が戦争で死ななくてすむだろう。

 

「四つ目は軍事に関する取り決めです。各国の軍は解散し、封地に戻して農務につかせる。諸侯は一定数の家兵を保留できますが、その数については別途議論します。封王が兵権を握って防衛に充てる以外の理由で他の者が一千を超える家兵を持つことは禁止します。」汁瀧は彼らに考える時間を与えないように一気に言った。

 

「五つ目、貨幣、量や長さの単位を統一し、天下を行き来しやすくする。公卿や士族の領地は一律に不変とする。境界地から兵を退き、対外戦争を防止する。内乱を防ぐため、封地の継承制度を改正し、直系庶系が同じく継承権を持つ。」

 

汁瀧が話し終えると、その場の者たちは皆震撼したようになった。後の方の話はもう耳に入らない。―――各君が朝廷が派遣した官員を受け入れれば、天下の発展を左右し、干渉を受けるだけでなく干渉できることになるのか。

 

最後に姜恒が言った。「天下は分けない方がいい。国境争いや、一切の動乱の根源になるからです。大人各位には色々なお考えがあるでしょう。朝廷を左右することができれば、己のための参謀を行うことができる。そうでしょう?」

皆の考えは全て姜恒に言い当てられてしまった。

「ですが、言い換えれば、そうなれば、自国、貴国といった言い方も無くなっていくはず。臣は天下人の臣、いつか皆さんもだんだんと気づいてくる。これが国境争いを解消し、長年の敵対心から解放される唯一の道であると。」

 

王廷は立法権を取り戻し、全体の政務は洛陽で決める。地方での具体的な執行と行政は、地方で行う。

皆、次第に汁滝朝廷の野心が理解できてきた。彼は、商いや人の行き来などの方法で、神州の民が完全に融合させるために持てる力の全てを尽くす。そして基礎をしっかりさせたところで、行政権をゆっくりと中央に戻すつもりなのだ。

それを成し遂げるには数十年、或いは百年はかかるだろう。自然と、現在の封王は天子朝廷に取り込まれていき、やがてゆっくりと一つの大きな家となっていくだろう。

双方は均衡を保ち、立場という考えが消える。戦場は朝堂に場所を変えるが、征伐と死に代わるものとしては、最も受け入れられる方法だ。

 

だが、実は汁瀧が最後にさらりと言ってのけた政策こそ、姜恒最大の切り札なのだ。

―――諸侯の直径が持つ継承制を傍系と分け合う。そうしていけば、二、三代降りていくごとに、土地はより小さくなる。朝廷の管理や制御が容易になり、返還せざるを得ないまでに弱体化したら、一挙に中央の懐に収められる。

 

諸侯王は本意でないだろうが、公卿は賛成するだろう。彼らの多くは王族宗室と姻戚関係にある。連盟に大なり小なり関係がある。つまり、諸侯の子らが王族の権勢と封地を分け合えば、結果的に士族の力を強くさせることになるのだ。

(日本の戦国時代の始まりくらいの感じか?)

 

兄弟間の争いは、大争の世においても家族の力を弱めた原因になったことだ。姜恒の提案を進めれば、更に多くの内闘を生むことになる。継承権上の平等のためとはいえ、実際はうまくいかないだろう。ただ今は、一同の注意はそんな微細なところにない。五条の新政策の中にこの細かな条項は埋もれてしまっている。この細かな条項は百年後、再び荒波を起こすことだろう。

 

「もし郢は不賛成と言ったらどうします?」羋清が尋ねた。

「その場合は以前のようになるだけです。」汁瀧は強気な態度に出た。まるでその父親のようだ。彼の顔立ちは汁琮に似ている。ただ、汁琮の気難しさは受け継がなかった。

「以前のようってどういうことかしら?」羋清が再び尋ねた。

「私は同意します。」畢紹が羋清の言葉を遮った。

春陵は色を失った。止めさせようとした時、畢紹が言った。「皆に必要な賢明さだ。雍王がおっしゃることは正しい。戦争がいやなら、これが唯一の解決策だ。」

諸令解と龍于は小声で暫く相談した。龍于が答えた。「確かに終わらせるべきです。鄭は雍王のお考えに同意します。ですが、詳細については注意深く見る必要があります。法令や参与に関することについては共に協議することを希望します。」

「それは当然です。」汁瀧が言った。

 

諸令解は龍于に向かって頷いた。姜恒はその目を見つめた。諸令解は鄭の力になっていた。天朝廷に来ればきっと天子の片腕になれるだろう。(ヘッドハンティング?)

「一つ疑問があります。」諸令解が言った。「もし天子にその力がなければ、その時はどうすればいいでしょう?」

「天下で共に討つのですね。」姜恒は厳格に言った。「七年前に皆さんはそうしたのではありませんでしたか?」だが、その声に責めるような響きはなかった。それは必然のことだったからだ。

汁瀧が再び言った。「その地位に座した時から、私はもう私ではなくなります。私は、天下の民であり、神州の法となります。何事も好きなように決めることはない。全て諸侯が参与し、皆で相談して解決するのです。今何が必要かと。」

 

皆の間に沈黙が広がり、しばらくしてから羋清が言った。「我が国は不賛成です。」

「それは残念です。」姜恒が冷淡に言った。

「郢人の命運は自分で決めますので。」

姜恒は二人の盟友を得ることに成功した。郢が新体制に賛成しないだろうとは最初から思っていた。これで希望が無くなったが、当然の結果だろう。

「それではお引き取り下さい。次は戦場でお会いしましょう。」

会場は急に大騒ぎとなった。熊丕が怒号した。「それは脅しだ!」

李靳が冷笑した。「自分たちが今夜にも滅びようとしているのに、傲慢にも郢を脅すのか?」

「ああ。まだ代国のご意思を伺っていませんでしたね。」姜恒は李靳に向き合った。「貴国はどうお考えですか?」

 

李靳は立ち上がると、嘲るような目つきで姜恒を見た。「刺客を呼んできたらどうだ?

耿淵をもう一度呼んできて試してみるがいい。」

汁瀧が淡々と言った。「刺客はいません。耿淵は随分前に亡くなりました。死んだ人は生き返りません。」

姜恒は笑顔を見せて言った。「私が殺人で解決すると思ったのですか?」

汁瀧は龍于、畢紹達に礼を示すため頷いてから、姜恒に視線を移した。

「会議はこれで終わりです。結果がどうであれ、あの時天子が私に託されたご意思を無駄にはしませんでした。これは皆さんの選んだ人生であり、自ら選んだ未来でもあります。千代に八千代に、歴史には今日のことが記されるでしょう。皆さま、感謝いたします。」

「誰か参れ。」汁瀧が命じた。「郢君と李靳将軍をお見送りせよ。」

その瞬間、姜恒の言葉で、一同は不思議な感慨を受けた。今この瞬間、自分たちは歴史を作ったのだと。

姜恒は金璽を持ち上げ、汁瀧に渡した。一同が見守る中、最も重要な引継ぎ儀式が完了した。引継ぎを終えた汁瀧は一同に向かって言った。

「洛陽は危険です。各位速やかにお引き取り下さい。追ってご連絡いたします。」

(天子になったんだから、もっと命令口調の方がいいのかもしれないけど、原文も今まで通りの低姿勢の汁瀧の言葉だったからそのまま敬語にしておく。ドラマとかだと急に言葉づかい変わるけどな。)

 

李靳は突っ立ったまま、何か考えているようだった。ちょうどその時、王宮外から突然喧騒が聞こえてきた。姜恒はすぐに振りかえった。信使がやってきた。界圭がすぐに姜恒の身の前に立った。李靳も振り返って姜恒を見ると、背を外に向け、急ぎ後退しながら言った。「羋清公主!我らと行きましょう!」

すぐに会場は大混乱となった。界圭が剣を抜いて、十歩離れたところから、李靳をこの場で切り殺そうとした時、姜恒が叫んだ。「やめろ!」

李靳はまさか姜恒が自分を生かそうとするとは思っていなかった。汁瀧が言った。「李将軍、いずれまた。」すぐに郢人も全員立ち上がり、急ぎ足に会場を出ると李靳と共に王宮から逃げて行った。その全てを龍于や畢紹達全員が目撃した。

汁瀧が皆に言った。「皆さん、ご心配なく。連合会議を招集すると決めたからには、我らは規則を守り、かつて起こったようなことは絶対に起こしません。」

 

姜恒は信使に尋ねた。「何があった?」

「代軍が来ました。その距離洛陽から百里に足らず。城内の李靳軍が暴動を起こしました。」

「兵が城下に着くまで少なくとも一日ある。」姜恒は落ち着いた様子で龍于に言った。「龍将軍は梁王、鄭王を護送し、速やかに洛陽を離れてください。いずれまたお会いしましょう。」

剣を抜こうとする趙慧を姜恒は止めた。「趙慧!やめなさい!龍将軍と逃げるんだ!」

趙慧は姜恒を見てから汁瀧を見た。汁瀧はまじめな表情で彼女を見て頷いた。

「お客様方は必ずお守りします。どうぞご安心ください。」

 

 

 

ーーー

第195章 反乱軍:

 

皆はすぐに解散した。城内に刀兵の声が聞こえてくる。それはどんどん大きくなっていく。姜恒は殿内に飛び込んできて叫んだ。「曾嶸は?!曾嶸はどこ?!」

汁瀧も急いで殿に入って来た。界圭はぴたりとついて離れず、二人の傍から殿内を見回した。周游が急ぎ足に入ってきて大声で言った。「敵が来たぞ!我らの兵はどこだ?」

姜恒は即決して言う。「衛賁に言って、守備兵を全て城壁の上に配置させて。武英公主がきっと来るから!」

汁瀧が言う。「官員を全員中に呼んで来させよう。」

「ダメです!こういう時は人を一か所においてはいけません。」

時を同じくして、王宮外から絶叫が聞こえてきて、三人は黙り込んだ。

「衛賁はどこ?」姜恒は突然嫌な予感が頭をよぎった。

「わからない。界圭、行って見てきて。」汁瀧が言う。

「いいえ。私の主要任務は姜……お二方の安全を守ることです。こうなったからにはどこにも行きません。」

「まずい。」姜恒はふと最悪な事態を考えた。いや、そんなはずはない!衛賁が造反するはずがない。衛家は代々汁家の忠臣だった。衛卓も汁琮に服従していた。謀反するはずがあるだろうか。

 

殿外の叫び声が近づいて来る。その時矢が飛んできた。姜恒は群臣を集めなかったことにほっとしつつ、汁瀧に飛びついて、王卓の後ろに転がりこむと、木机を蹴り上げて矢を防いだ。

界圭は烈光剣を降ろして、手に持って叫んだ。「殿内はまかせます!」そして一筋の虚影と化して外に飛び出して行った。

汁瀧が言った。「李靳は二千しか連れてきていないはず。あり得ない!衛賁が死んででもいないかぎり!」

「きっと何かあったのです。」姜恒が答えた。「界圭が彼らを抑えているうちに、ここを離れましょう!」

 

敵の目標ははっきりしている。会合が終わりそうなのに当たりをつけて、不意打ちして動乱を起こしたのだ。だが朝廷は衛賁に城内要地を守るように言ってあった。唯一の可能性は衛賁が殺されたことだ!

王宮内は大混乱となっているが、幸い火は出ていない。宮外から阿鼻叫喚が届いて来る。代軍が強弩を持って、洛陽殿内に攻め入ってくる。界圭は正面で交戦しているが、矢はやまない。界圭は何人も殺している。自分の命を顧みず、姜恒と汁瀧を必死で守っている。「上です!!」界圭が叫んだ。

姜恒が見上げると、天井が崩れ落ち、甲冑姿の兵士が下りてきた。姜恒は動いて剣を一振りした。天月剣は鎧を神のように切り裂き、鮮血が飛び散った。汁瀧は震えながらも殿外を見て叫んだ。「走れ!」

 

甲冑の兵たちは増える一方だ。全て代国の兵だ。汁瀧は何も言わず、姜恒と共に後殿内に逃げ込んだ。正殿では守れないと判断し、界圭は向きを変えて殿内へと二人の後を追った。姜恒は息を切らしながら叫んだ。「李靳の目的は、李霄と挟み撃ちに……。」

「わかっている!」汁瀧はついに全てを知った。全て計算しつくした姜恒だったが、最後の最後に姫霜にしてやられたのだ。

甲冑の兵士たちがどんどん増える。李靳の部下の全てが王宮に入ってきたようだが、御林軍の行方は不明だ。界圭は庭園内で足を止め、二人を越えて姜恒の前に立った。

 

次の瞬間、代国兵の背後に別の誰かが現れた。

姜恒は初めて龍于が戦う姿を見た。武袍を翻し、輝きを放つようだ。機会を捉えた界圭も怒号を上げて剣をふるう!

龍于は長剣をふった。界圭と共に二本の強烈な光が絡み合うかのようだ。そして、単身、代軍の包囲を破る。血が飛び散り、何十名もの兵士が倒れる中、片手に趙聡、もう一方の手に剣を持った十二歳の梁王が現れた。

 

龍于が剣を収めて言った。「正殿で異変があったのが聞こえてきて、すぐに見に来たんです。」姜恒は息をついた。「すぐに逃げてください。」

姜恒は彼らについてくるように合図した。そこで一同は急ぎ庭園を出て、側殿の前を通り、東門から出て行った。更に数百人の甲士が現れた。応戦するより他はない。

姜恒:「界圭!彼を守って!私はいいから!」

汁瀧の武芸は姜恒にも劣る。応戦など無理だ。龍于は更に数人殺し、すでに力が出なくなってきている。彼の武器は天月剣や烈光剣ではない。甲冑を砕くのは難しい。姜恒は天月剣を彼に渡した。「使って!ありがとう!」姜恒が言うと、「どういたしまして。」と龍于が言った。「七年前の洛陽陥落の時はその場にいられず、天子をお守りできなかった。これで贖罪できます。」

 

「趙慧は?」汁瀧が尋ねた。

「わかりません。」どうやら龍于はこの公主に手を焼いているようだ。「公主の武功は趙霊直伝です。十中八九大丈夫でしょう。まずは私たち自身の身を守らなくては。行きましょう!」

武装兵士はますます増え、姜恒は体中血だらけになったが、運よく東門の外まで逃げ出せた。

その時、更に多くの兵士たちが現れ、王宮の壁上、四方全てを埋め尽くした。全て御林軍だ!

汁瀧がほっとしたのもつかの間、御林軍は一斉に弩を東門の前に向け、自らの国君を包囲した。汁瀧は頭がくらりとし、目の前が真っ暗になった。最悪の事態が発生したのだ。「どうしてなんだ?!いったいどうしてなんだ?!」汁瀧が言った。

御林軍の司令官が前に出てきて叫んだ。「姜恒を殺せ!王陛下を傷つけるな!」

姜恒:「……。」

汁瀧はすぐに姜恒の前に立ち、怒号を上げた。「衛賁はどこだ?!私の前に顔を出させろ!」

御林軍は皆、二人を見て黙ったままだ。界圭は烈光剣を手に、突破口を探していた。

「待つんだ。」姜恒は小声で言うと、界圭の腕に手を伸ばして軽く叩き、手を出さぬよう指示した。そして龍于に向かって言った。「あなたたちは逃げて。梁王と鄭王をちゃんと守ってください。」畢紹が言う。「合意したからには私たちは盟友です。盟友を見殺しにして自分だけ逃げるわけにはいきません。」

「まだ死ぬと決まったわけではありませんよ。言う通りにして、畢紹。」

そして周りの者たちに向かって叫んだ。「梁王と鄭王、それに龍将軍をここから逃がすのだ。こんな無礼な行いがあるか?!」

 

御林軍の司令官は指示を仰ぎに行った。龍于は城内に軍を駐留させている。ここで妥協しなければ、混戦となり、予想外の事態が起きるかもしれない。そこで軍は道を開け、龍于は梁王と鄭王を連れて安全にその場を離れた。彼らの命を奪う必要はないばかりか、人質にしたところで、衛賁だって困るだろう。

畢紹は包囲を出た後、振り返って見た。姜恒は唇を動かして、「いつかまた。」と伝えた。

「界圭。」姜恒が小声で呼んだ。界圭は青ざめた顔をして姜恒を見ようとしない。だが、姜恒が彼の背中に何文字か指で書くと、決心したようで後ろに身を引いた。御林軍は矢を入ろうとはせず、界圭は宮殿の屋根の上に飛び乗ると、壁の上を走り去って行った。

 

汁瀧は深く息を吸った。姜恒は「衛賁を私達の前に連れてきて。話があるんだ。」と言った。言い終えると、姜恒は恐れることなく汁瀧を連れて、後ろを向き、側殿に入って行った。御林軍はすぐに側殿を包囲すると、屋根にまで配置して、二人を軟禁した。

殿内には作り直された九つの大鼎が置いてあった。汁瀧が天子の座を引き継いだら、宗廟に持っていく予定だ。殿内はがらんとしていた。姜恒と汁瀧の二人は一番大きい鼎の前に立った。「彼が裏切るとは。」姜恒が言った。

汁瀧は頷いた。「朝廷で唯一裏切らないのは彼だと思っていた。わけがわからないよ。」

その時足音が近づいて来た。衛賁だった。衛賁はゆっくり歩いて来ると、近寄って姜恒と汁瀧を離れさせた。「王陛下。」衛賁は汁瀧に拝礼した。

汁瀧は冷ややかに衛賁を見た。

「お前にやらせたのは誰だ?」汁瀧が言った。

「きっと姫霜でしょう?」姜恒が落ち着いて行った。「間違っていなければ、この前来た時に手を組む約束をしたんだね、そうでしょう?」

衛賁は笑い出した。「姜大人はさすがに賢い。李靳の潜伏も、彼女の作戦です。」

「どうしてなの?あなたは雍の臣下、私には何の恨みもないでしょう?」姜恒が尋ねた。

「あなたは死ぬべきだからです。」衛賁は姜恒を見たまま、汁瀧に向かって言った。

「陛下、彼を殺さなくては、すぐにでもあなたの方が彼に殺されます。聶海が代わりに手を下すかもしれません。私は雍王室のため、先王が我が衛家に託された王室の未来を守ろうとしているのです。」

「口を閉じよ!」汁瀧は怒号した。

今の言葉で姜恒は理解した。汁琮陣営で、衛賁だけは事情を知っていたのだ。

「あなたはずっと蚊帳の外に置かれていたのをご存じないのです。こいつはずっとだまし続けてきた。かれの正体が誰なのかおわかりになりますか?」

汁瀧は驚いて、わけが分からないという表情で姜恒を見た。「どういうこと?」

 

「彼はあなたの従弟なのです。あなたの叔父上、汁琅の忘れ形見、死産して埋葬されたはずの汁炆なのですよ。」

刹那汁瀧の顔がこわばり、何も言葉が出てこなくなった。助けを求めるように姜恒をみて、暫し愕然とする中、様々な事実の因果関係が一気に合わさり、ようやく今全てがはっきりとわかった!

「それは……本当なの?」汁瀧は震えながら姜恒の瞳を見ると、それでもう全てわかった。

「その通りです。」姜恒はもう隠しておきたくなかった。もう認めてもらわずにはいられない。「それは私です。兄上。私は死ななかったのです。聶海が耿淵の手紙を持っています。私も……王祖母上の書状を持っていますし、界圭が全ての経緯を証明できます。」

 

汁瀧は喉にこみあげて来るものを抑えられなかった。そこに衛賁が言い放った。「汁炆はずっと考えていたのです。彼こそが本当の太子だと。そこで聶海と共謀して先王をだまし討ちした。お分かりになりましたら、ここで彼を……。」

「恒児―――!」

汁瀧は突き動かされるように声を上げた。それは皆の意表を突いただけでなく、姜恒自身の意表もついた。彼は御林軍の制止を無視して、姜恒に向かって行った!

衛賁は色を失い、すぐに汁瀧を無理やり押さえつけた。姜恒が叫んだ。「手を放せ!」

汁瀧は御林軍を押しのけ、震える声で言った。「君だったんだね、君だったんだ!きっと私にはずっとわかっていたんだ!恒児!なんてすばらしいんだ!君は死ななかったんだね!」

 

姜恒は何度も何度も自分の正体を汁瀧に知らせる時、どんな風になるかを想像してきた。だが全く予想外だった。彼の表情には真心が見える。王位など、仇など、全て消え去った。自分は汁瀧の従弟でいたい。それだけでいい。その瞬間、姜恒はこらえきれず泣き出し、涙を手で擦りとった。「よかった、本当によかった……。」汁瀧も泣かずにいられなかった。姜恒は、何年もに及ぶ努力や対価がついに認められたようで、彼はもう死んでも悔いなしと思えた。

衛賁:「……。」

衛賁はもう何も言えなくなった。汁瀧が恐れ、震え、汁琮の死への憤怒を表すと思っていたのに、まさかこんな兄弟の再会的寸劇を見させられることになるとは!

「陛下、」衛賁から見ればこれはとんだお笑い種だ。そして自分も笑いものの一つに成り下がっているではないか。彼は汁瀧に近づいて沈んだ声で言った。「彼は先王を殺したのです。あなたのことも殺すかもしれません!彼を落雁に戻せば安心などできましょうか?」

姜恒は涙を止め、汁瀧を見つめた。

「いいえ。彼はそんなことはしない。私にはわかっている。王祖母がおっしゃったとおり、私たちは家族だ。彼を放せ!衛賁!さもなくば王子殺害の罪に問うぞ!」

 

姜恒は大笑いし、笑いが収まると言った。「衛賁?あなたの思い通りにならなくて、がっかりしたんじゃない?」衛賁は怒りで全身が震えた。まさか汁瀧が全く耳を貸さないとは。

「さっさと兵を退け!城の守備に戻るんだ!」汁瀧は全く無遠慮に命じた。

「進退窮まったね。」姜恒は衛賁が狼狽する様子がおかしくてたまらない。「衛将軍、まさか王陛下を殺して、自分が天子になるつもりですか?彼がいるところで私を殺したら、王陛下は一生あなたを恨むだろうね。君主殺しの名を持って姫霜のところに逃亡するつもりがないのなら、素直にまじめに城の防衛に戻った方がいいと思うよ。」

姜恒は衛賁が決して汁瀧に手を出さない方に賭けた。そんなことをすれば、彼は死よりも重い罰を課される。衛家は今後代々、国君殺しの罪名を背負っていくことになるのだ。

互いに退けないこの瞬間、外から侍衛の絶叫が聞えた。胸から天月剣の剣先が突き抜け、鮮血を噴出して侍衛は倒れた。その背後には趙慧がいた。

趙慧は暗紅色の長袍を着て、長い髪をなびかせ、姜恒と汁瀧を見つめた。

「ごめんなさい先生。さっき着いて全部聞いちゃった。でも口封じのために殺さないでね。」趙慧が言った。「天子、人殺しに使わないでって言われたけど、これは約束を破ったことにはならないわよね?」

姜恒:「……。」

「こんな気の強さでは、王兄、あなたはきっと苦労されるでしょうね。」姜恒がつぶやいた。汁瀧はどきっとした。姜恒は自分の気持ちを鋭く突いて来たなと思った。

    (何も命令に従っただけで待機中の兵士を殺さなくてもいいだろうに。)

 

 

ーーー

第196章 この世に情がある限り:

 

衛賁は趙慧にその場を攪乱され、どうすべきかわからなくなった。趙慧のことは殺すわけにはいかない。そんなことをすれば、鄭国に血祭りにあげられる!

趙慧は彼のことなど少しも恐れず、右手に天月剣、左手で剣訣を執り、ゆっくりと近づいてきて言った。「そこの将軍さん、道に迷ったときは引き返さないと手遅れに...。」

姜恒は意図して殿内の青銅の鼎に目を向け、汁瀧とともにゆっくりと後退していた。機が熟したか。

ちょうど衛賁の判断が遅れた瞬間をとらえて、一番大きな青銅の鼎が倒れ、界圭が飛び出した。掌で鼎を叩き出す!千斤の銅鼎が飛んでいき、衛賁に命中したかと思うと、大門を破って殿外に飛び出した。時を同じくして殿の後ろから百名近くの弓隊が御林軍を破って突入してきた。率いているのは郎煌だ!

汁瀧と姜恒は同時に飛び出し、柱の陰に隠れた。「慧公主!早く来て!」

 

趙慧は飛び交う矢から逃れながら飛び出してくると、二人の近くに来た。姜恒は汁瀧を趙慧に託し、界圭のところに向かった。界圭が叫んだ。「何人で来たんだ?!」

「孟和兵と合わせると千以上だ!」郎煌は叫んだ。「武装解除しろ!まだ一万は呼べるぞ!」

御林軍はすぐさま衛賁を連れ出し殿外へ出て行った。姜恒が言った。「追わなくていいよ!」

界圭は足を止めた。郎煌は林胡人たちと側殿を奪い返し、汁瀧と姜恒を守った。そして息を吐いて行った。「間に合ってよかった。」

「他の人たちは?」汁瀧が尋ねた。

「山沢の指揮下で守りにつきました。」郎煌が言った。「部族の人間で御林軍に編入されたものは多いのですが、何かおかしいと気づいて皆一時離脱したんです。官員たちは皆無事です。」

「君は何で戻って来たんだ?」汁瀧が尋ねた。

「最初から逃げる気なんてなかったわ。」趙慧が答えた。

界圭が二人の話を遮った。「ここは安全ではありません。正殿に戻りましょう。」

正殿は守りやすく攻めにくい。汁瀧たちは護衛され、天子殿内へと戻って行った。

官員達は全員そこにいた。城内で突如始まった大乱は一時辰以内に落ち着いた。山沢、水峻、郎煌たちが留守を守り、孟和が小隊を率いて城外に偵察に行った。

 

皆汁瀧の傍に趙慧がいるのを見て、口をつぐんだ。姜恒は皆に言ってもいいだろうと思った。「この子は私の徒弟です。気にしなくて大丈夫です。」

だが勘のいい趙慧は言った。「ちょっと出て来る。私のことは気にしないで。」

「気を付けるんだよ。」汁瀧が言うと、趙慧は彼に向かって口笛を吹いた。

皆ちょっと気まずく感じたが姜恒はおかしくて笑い出した。

曾嶸がようやく尋ねた。「衛賁はなぜ謀反を?」

朝臣たちにとっては全く予想外の事態だった。皆当然衛家に反感を持った。

「衛卓が安陽の乱で死んだことで、復讐しようと思ったのかもしれません。」

それについては汁瀧と姜恒だけが答えを知っていたが、二人とも敢えて言わなかった。

 

「宋大人がお越しです!」信使が言った。

言い終える前にもう宋鄒が急ぎ足に入って来た。息がせいている。急行軍で来たのだろう。

「未だ天子に御恭賀申し上げておりませんでした。」宋鄒は二人に目をやり言った。

「この度は天子及び大人各位にお詫び申し上げます。嵩県を奪われてしまいました。」

「戦って勝てないなら負けを認めたからといって、気にする必要はありません。死んでも退かぬ、では嵩県の民に塗炭の苦しみを与え、何の益もありません。」

嵩県には三千の兵しかいない。李霄の大軍一万には元々歯が立たない。敗退は当然だ。それでも宋鄒は兵力を温存してすぐに洛陽に戻って来た。大戦となった時に洛陽に協力するために。とても賢い行いだ。

郎煌が言った。「奴らは洛陽城壁を占拠しています。代国兵もすぐに来るはずだ。こちらの兵はどのくらい残っている?」それは誰にもわからない。消息は途絶え、海東青もまだ来ない。「待つしかないね。きっとすぐに来るよ。郎煌、君の仲間に王宮を守らせてくれ。」

衛賁はもう攻め入ることはせず、逆に全軍を城の外に置いて洛陽城門をしっかりと守ることにしたようだ。本来なら、汁瀧を説得して姜恒を殺した後、代軍を入城させ、李霄と姫霜の二人に協力する予定だった。だが、汁瀧が衛賁の話を一切聞かなかったことで、騎った虎から降りられないような状況に陥り、別の対策をとる必要に迫られたのだ。

 

汁瀧も姜恒も服が血だらけだったし、連合会議を終えた後で、姜恒はまだ太史服を着たままだった。

郎煌が言った。「何とか方法を考ええて、君たちを城外に逃がさないと危険すぎる。大軍がきたら、衛賁は奴らに協力して王城を攻撃してくるかもしれないぞ。」

「急ぐことはないさ。まずは服を着替えてこよう。」汁瀧が言った。

姜恒は体中血だらけだった。全て敵の返り血だが。汁瀧が周游に命じた。「二人分の衣服をとってきてくれ。」姜恒が言った。「私の部屋はすごく遠いよ。」

「私のを着ればいい。」汁瀧が言った。

姜恒は服を受け取り、汁瀧と共に、正殿の横にある、天子が朝廷に出るための着替えをする部屋に入って行った。汁瀧が扉を閉めた。界圭が何か問いたげな表情をしていた。姜恒は頷いて大丈夫だと知らせた。

室内で、汁瀧は先に姜恒の外袍を脱がせてやり、自分の王服を脱いだ。(どっちが偉いの)姜恒は鏡に映った汁瀧を見た。二人はやはり少し似ている。顔には二人の祖父の特徴がある。

 

「王祖母はどんな文を残したの?見てもいい?」汁瀧が尋ねた。

その手紙を、姜恒は肌身離さず持ち歩いていた。汁瀧に渡そうとした時、一緒に玉簪が出てきた。それは耿曙が済水橋で、七夕の夜に姜恒に暮れたものだった。

「お母さんの簪かい?」汁瀧が尋ねた。

「兄さんが買ってくれたのです。」姜恒は玉簪をしまって言った。「どうぞお読みください。」

そこには十九年前の真相がつづられていた。汁瀧は読み終えてから何も言えなかった。

「その後、郎煌が私を抱いて王宮外に行き、界圭に渡したのです。界圭は私をまず安陽に連れて行き、最後に潯東に行ったのです……。」

「うん、」汁瀧はそっと言った。

「私が証明できます。」界圭が戸外から言ってきた。その後別の声がした。郎煌だ。

「俺も証明できます。俺たち二人が当事者なので。」

「あざを見せて。」汁瀧が言った。姜恒は背を向け、服を脱いだ。汁瀧はやけどの跡を見ると、そこを撫でた。

「もともとそこにあったのですが、大火事にあってしまったのです。」

「兄さんから聞いた。」汁瀧はそう言うとため息をつき、鏡の中を見ながら言った。

 

「見てごらん。私たちは少し似ているところがあるよね。道理で君に親近感を覚えたはずだ。」姜恒は笑って汁瀧の顔を見た。姜太后は言っていた。自分が子や孫の中で一番祖父に似ていると。

「叔父上は……私が手を下したわけではありませんが……、亡くなったのは、私のせいでもあります。」姜恒が言った。

「それはいいんだ。」汁瀧はつらそうな顔をした。「本当のことを言うとね、恒児、君を恨んではいないんだ。君にあんなことをしなければ、父は死なずにすんだ……。ほんの少しでも慈しむ気持ちがあったら、ああいう最後を遂げることはなかったんだ…。」

 

二人はともにため息をついた。もし汁琮がに狂ったようにならなければ、そして、最後に傲慢な態度で宗廟に入って行かなければ、彼は今も生きていたかもしれないのだ。戸外で守っていた界圭はぎゅっと剣柄を握りしめた。

汁瀧が言った。「君が死ぬまで父は安心できなかったのか。ようやく全てがわかったよ。」

一連の出来事の貸し借りを数え上げるのは難しい。汁琮は汁琅を殺したが、運命の悪戯のせいで最後は姜恒の策略にはまって命を落とした。可能であれば、姜恒だって忍びなく思い、彼の命を留めていたかもしれない。だがたくさんの複雑な要素が絡み合い、荒波に背を押されるようにして、彼らは今の状況に追いやられたのだった。

 

「一つだけ教えてほしい、恒児。」汁瀧は真剣な表情で姜恒に尋ねた。「もし父が君を殺そうとしなければ、君は彼を許せたと思う?」

姜恒は答えた。「許せなかったかもしれません。ただ言えることは、彼が私と聶海をあんな風に追い詰めなければ、私も結局は手を打つことはなかったでしょう。」

「それはどうして?」汁瀧が尋ねた。

「彼があなたと兄の父だからです。彼が死ねば、二人ともつらい思いをすることになるから。」

汁瀧は頷いた。「やっぱり君の方が本当の太子らしいね。」

「そんなことは誰も望んでいません。ずっと思っていました。あなたはもう一人の自分のようだと。兄上、例えかつてあんなことがなくて、私が宮中にいたとしても、あなたよりうまくできなかったはずです。」姜恒はついにこの言葉をいうことができた。

 

汁瀧と姜恒は相手の服をはだけた姿と鏡の中の自分を見比べた。二人の体つきはよく似ていた。肌は白く、秀でた容貌、気質も双子のように似ている。

唯一の違いは、汁瀧が身に着けた陽玦で、それはこの世界を率いる天子の証だ。

汁瀧は玉玦をはずして、姜恒に渡した。「だけど、結局そうなることはなかった。さあ、君、炆児、これは君の物だ。」

 

姜恒は玉玦を見て、それから汁瀧を見た。その時、彼は汁瀧の真心を知った。天地の間にある果てなき喧騒も、この世の軋轢、だましあい、派閥、そうした全てのことは、このごく小さな空間の外にあり、ここには入って来ることはできない。無情に争う、残忍な世、血を分けた兄弟同士でさえ休むことなく殺しあう。そんな中で、姜恒はついに見つけた。玉玦の上に輝く、得難いばかりに貴い一点の光を。

 

その光は、神州の運命を導いて進んできた。崩れ落ちた洛陽から、何度も戦火に焼かれた廃墟を進み、今日の会合を通り抜けて、今彼の目の前に来た。そして更に数多の命を導いて、無限に栄える未来に向かって進み続けている。

 

人は無情か?いや、人には情はある。ただたくさんの欲望に行く手を遮られているだけなのだ。どんなに傷つけあおうと、暗闇がこの光を覆うことはできない。この情という光が世界を照らす限り、この大地に生きる人間たちの希望はすたれることはない。

 

姜恒は玉玦を手に持ち、言った。「兄上、ご存じでしたか?私はずっと思っていたのですよ。その肩に王道を背負える人がいるとしたら、それはきっとあなただろうと。ついに私はその人を見つけられました。」汁瀧は笑顔を見せたが、その笑顔はどこか悲しげだった。彼は姜恒に玉玦をかけてやると彼を抱きしめた。熱い肌が触れ合うと、なぜか懐かしい気持ちになった。「後で、この手紙を大臣たちに公布するよ。」汁瀧が言った。

「いいえ。」姜恒はすぐに引き留めた。「生死存亡の時、新たな火種を作ってはいけません。」扉の外では、界圭がようやく剣から手を放した。

汁瀧も一理あると考え、手紙を姜恒に返した。「それじゃあ、君がふさわしい時期を決めて。」

 

姜恒が王服を身に着けると、もう一人の太子となったかのように見えた。汁瀧とともに朝臣たちの前に出ると、彼らは汁瀧に拝礼した。汁瀧は依然として天子の御座には座らず、ただ金璽を見つめていた。姜恒が汁瀧を見ると汁瀧は笑顔を見せ、眉を揚げたが、そこには何の意味もない。何を表すべきなのかもよくわかっていなかったからだ。従弟と出会えた喜びは、この時はもう別の思いの中に埋もれてしまっていた。

 

だが二人が視線を交わしたその瞬間、姜恒はついに荷を下ろした気持ちになれた。この日、彼は姫珣に託された任務を完了できた。それは天下が彼に課した任務でもあるーーー長い間探し続け、ようやくその人を見つけたのだ。そうだ。汁瀧こそ最もふさわしい人だった。

 

嵐が来ようとしている。殿内は重苦しい空気に包まれている。皆まな板の鯉の気分だ。いつ来るとも知れぬ汁綾の援軍にばかり思いが行く。

突然、姜恒が言い出した。「策があります。皆でこの状況から抜け出すために、協力してください。」

「策ってどんな?」汁瀧が穏やかに尋ねた。

 

半時後、姜恒は天子御座の前に座って、まず自分の顔を変え、それから太子瀧に変装術を施した。初めて見る姜恒のこの技に皆は驚愕した。

「私のために君を危険にさらすわけにはいかないよ。」汁瀧が言った。

「衛賁が殺そうとしているのは私ですから、あなたが私のために危険な目にあうのですよ。」

 

汁瀧は反論できない。目下二人の状況は同じだ。変装したところであまり意味はないかもしれない。ただ一つはっきりしているのは、洛陽城が落とされたら、李霄は決して汁瀧を逃さないだろうということだ。李霄は野心的だ。殺害と言う方法で一気に問題を解決した後で、汁瀧に成り代わって天子となり、すぐに姫霜と結婚すれば名も実も得ることができる。

ひょっとしたら姫霜が李霄に出した条件が洛陽城攻略で、それが成功すれば、王后となって神州統一を助けると言ったのかもしれない。

だから汁瀧の身の安全は絶対に守らねばならない。まずは代軍に彼を捉えさせないことだ。

それに、例え雍軍が裏切って姜恒を追い詰めても、捕えた人が汁瀧だとわかれば、誰にも手出しはできないはずだ。そこが衛賁の弱点だ。武力に訴えはしても、主君殺しではないのだ。

 

「よし、できたと。言う通りにしてくださいね。趙慧はいるかい?おーい、徒弟!」

やってきた趙慧は、一時茫然となった。どっちがどっちなの?

姜恒は汁瀧に扮したが、声はそのままに、命じた。

「趙慧、天子を護衛して、洛陽を離れるんだ、彼らを引き付けながらね。」

「ちょっと、待って。」趙慧はまだ混乱している。「二人は……これはいったいどうなっているの?」

姜恒には趙慧に説明している時間はない。「言う通りにするんだ。行って。彼をよろしく。任せたよ。」

曾嶸が言う。「姜大人、あなたが軍を率いて防線を突破するつもりですか?」

「そうです。宋鄒、界圭は私について出陣し、敵の注意を天子に集めて。今すぐ私たちで敵軍の主力部隊を攻撃する。李霄が来る前に、敵の不意を打つんだ。」

「わかりました。」宋鄒が言った。

「私が替わりになりたかったです。」界圭は言った。

汁瀧も「私だって替わりになりたかったよ。」と言った。

趙慧は言った。「どういう計画になっているのかわからないけど、でも……先生の言う通りにする。だから私は替わりにはならないわ。」

「役割は変えません。兄上、言う通りにしてください。」姜恒が言った。

姜恒が汁瀧をそう呼ぶのは初めてではなかったが、今やその言葉は新たな意味を持った。最後に汁瀧は妥協した。一同はすぐに動き始め、黄昏時までに各自が結集した。

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 186-190

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第186章 虎を山に返す:

 

湯につかって少しくらくらとしかけた姜恒は、耿曙が丁寧に彼の体を洗い始めると、急いでその手を押さえた。二人は視線を交わした。耿曙は姜恒の緊張した顔を見てふき出した。そして彼の横顔を指の背で軽く叩くと眉をあげた。『お前が何を考えているかわかっているぞ。風呂場で変なことはしないから大丈夫だ。』という意味だ。宮内には侍衛がたくさんいる。こんなところでいちゃついているところを誰かに見られでもしたら、あっという間に知れ渡るだろう。耿曙にだってそのくらいの分別はある。

 

今日の姜恒は口数が少ない。頭の中はゆうべのことでいっぱいだ。全てがすっかり変わってしまったようでもあり、全く何も変わっていないようでもある。以前の耿曙が戻ってきた。二人の関係はずっと以前から変わっていない。

「どうした?」耿曙は尋ねながら姜恒の服を着つけてやり、東宮へ朝食を取りに連れていく。

「べ……別に。」姜恒は不自然に視線を少しそらした。

「口角を拭いておけ。」耿曙が指さした。

姜恒:「……。」

姜恒はうっすらと笑みを浮かべた。耿曙は彼の襟を引っ張り上げ、首についた赤い痕を隠した。姜恒は恨みがましい目線を送ってから、東宮殿に入って行った。

 

彼は再び太子瀧と話し合うつもりでいたが、殿内には姫霜の姿があり、驚いた。

太子瀧は姫霜と軽いおしゃべりをしており、曾嶸、曾宇兄弟も列席していた。

        (この物語で唯一正常な関係の兄弟。あ、孟和と朝洛文もか。)

耿曙は頷いただけで座り、姜恒は笑顔で拝礼した。「公主殿下。」姫霜も淡々と微笑み、「姜太史。」と言った。

太子瀧は姜恒に言った。「霜公主はどうしても今日西川に戻られるとおっしゃるのだ。恒児、君から何とかお引き留めしてくれないか。」

「その方がよろしいでしょう。こちらへ参りましたのは雍王を哀悼するため、弔問をすませましたからには、長居は無用ですから。」姫霜が言う。

 

姫霜は、話が進まなかったことを知り、面倒を避けようと考えているのだろう。だが曾嶸は姜恒に目で尋ねている。『このまま帰らせますか?それとも留め置いた方がいいですか?』

「公主殿、本当に考慮いただけませんか?」太子瀧が尋ねた。

「太子様、ご冗談をおっしゃって。」姫霜は笑顔を見せると、面白そうに姜恒を見た。彼女は初めから終わりまで一度も耿曙を見ようとしなかった。

東宮は姫霜に直接縁談を申し入れ、結果、見事に拒絶されたようだ。だが太子瀧は断られても面目を失ったと感じていないばかりか、ほっとしたようでさえある。

 

「公主殿は、いつ頃出発されるのですか。」姜恒も姫霜を引き留めはしなかった。

「今すぐにです。」そして姫霜は太子瀧に言った。「帰り際になりましたが、思いついたことがございますわ。」太子瀧は期待をこめて姫霜を見て、先を促した。

姫霜は優し気に言った。「姜太史は、かつてわが姫家のために力を尽くして天下を治め、神州を統一する大業を忘れたことがありません。我が皇室の忠臣と言えましょう。太子殿下、彼をお返しいただき、朝廷のために働いていただきたいのですが、いかがかしら。」

姜恒は前半を聞いてまずいと思い、太子瀧は驚いたようだったが、耿曙に至っては突然大笑いしだした。太子瀧は考えを巡らせ、婉曲に断ろうとしたが、笑いを収めた耿曙が厳かに、そして真剣な口調で言い放った。「絶対にだめだ。汁瀧も考えていないと思うが、俺は絶対に許さない。」

それを聞いた姫霜は、ようやく耿曙に淡い笑みを見せ、応えた。「ほんの冗談ですわ。それでは皆様、ごきげんよう。青山つらなり、緑水たゆたう、また逢う日まで。」

太子瀧は立ち上がった。姫霜は上品ながらも気位高く、孤高を保った様子で、あたかも、『最後の機会を差し上げましたのに。』と言っているようだった。

姫霜が出て行くと、東宮は静寂を極めた。侍者が朝食を持ってきたが、姜恒は食べられるような心境ではなかった。

 

「彼らはたったの二千人です。」静寂を破って曾嶸が口を開いた。「今すぐ衛賁に追わせて、口を封じるのが無難でしょう。」

「曾嶸、それはだめです!」姜恒が厳しい口調で言う。

曾嶸は、「手遅れになれば、皆に害が及びます。姜大人、姫霜と李儺を帰国させてしまったら、すぐにでも我が国に向け兵を挙げますよ!」と言った。

「公主を帰路で殺せば、李霄は兵を向けないとでも?」姜恒は言葉を返した。

「殿下!」曾嶸はそれが利を得て害を避ける解決法だと判断している。昨夜から太子瀧に再三訴えてきたのは明らかだ。言葉を強めて言う。「絶対に虎を山に返しては、なりません。殿下!」

 

太子瀧は深くため息をついた。この世には難問が多すぎる。まだ国君になったばかりだというのに。妙齢の女性に間に合わせの求婚をするだけでも気が乗らなかったのに、断られたら殺さねばならないとは。汁琮だったらできたかもしれないが、自分には無理だ。

「今は仁義を考えている時ではありません。」曾嶸が言う。

太子瀧は何も言わない。額から汗が流れてきた。

曾嶸は姜恒と視線を交わした。姜恒は耿曙に助けを求めたりしない。耿曙には全く関心がないからだ。殺せと言われたら相手が誰であろうと剣を持って殺しに行くだけだし、姜恒が決めたことなら当然無条件で引き受ける。

 

「利害を考えてみよう。曾嵘、利が害を上回ればいい。代国にはどれだけ兵がいる?二十万だよね。全てが向かってきた時、雍国は戦えるか?勿論戦える。」姜恒が言う。

曾嶸:「その必要をなくすためです。あの女が大雍を攻撃させると分かっているのに、先に殺しもせず、新たな戦争が起きるのを待てと言うのですか?!」

「だが、まだ何もしていない!どんな大義名分で彼女を殺すのです?!今日彼女を排除すれば、次はどうなりますか?連合会議のことをお忘れですか?どんな顔をして会議を開けます?!曾嶸、それは先王のやり方です。私たちは再び道を踏み外すことはできません!」

太子瀧が結論付けた。「公主は帰らせよう。」

 

曾嶸はため息をついて、ついに譲歩した。「排除しないことにしたのなら、逆に護衛をつけて、安全に代国に戻らせましょう。公主の身に何か起こらないように。」

各国の情勢が複雑な今、万が一姫霜と李儺に何かあれば、問題は更にやっかいになる。

姜恒は言った。「それは当然です。曾宇、あなたが行ってください。」

曾宇は茶を飲み干すと、立ち上がって退席を告げた。耿曙が考えた末言った。「俺が送る。」

「私が行きます。」姜恒は考えを変えた。ふと思った。耿曙と太子瀧には話があるかもしれない。ここで一段落つけるべきことがあるはずだ。

 

 

姫霜は天子の子孫として、自ら安陽に弔問に来たことになっている。縁談の件は秘密で、雍国朝野でさえ誰も知らない。梁人だけでなく、中原人となった雍の者たちも、この公主の来訪に皆跪いて涙した。安陽では汁琮の死後、一番の熱狂的な一日となった。

人々は前の王朝を懐かしんだ。天下が分封されて長いとはいえ、姫家が絶えて7年たっても中原人の心は依然として過去を見ている。行列が安陽城内の主街道から城外に出てからも、依然として少なからぬ人々が姫霜の車隊の後を追い、一里近くもの列を成していた。

 

洛陽が陥落し、姫珣が自害した後では、今回初めて姫霜が姫家の末裔と言う身分で、正式に人々の前に現れた。それは、この天下が未だに姫家の世であるという暗示でもあった。

この一幕を見た姜恒は、曾宇に後ろについてくるようにと言って、馬を走らせ、車隊の間に入って行った。姫霜は四面を御簾に囲われた馬車に乗っていた。御簾を開けると秋風にのって安陽城外の秋の葉が入っていった。

「もう七年ですね。」姜恒が言った。

「百二十三年よ。」姫霜は髪をかき上げながら、目に怒りを湛え、「何が七年なの?」と言った。姜恒が言ったのは姫珣崩御から七年という意味で、姫霜が言ったのは、五国が従うのをやめ、礼楽が崩壊した日、汁氏が星玉を持って塞外に風戎討伐に行ってからという意味だ。

 

汁家が自ら王として立ち、天子のものであった黒剣と星玉をわがものにしたことは、王権が縮小した時代の始まりを象徴していた。

それ以降、百二十三年、諸侯王は徐々に天子を敬わなくなった。偉大なる神州は分裂し、最後には封王たちが天子を追い詰め、自ら焼死させるまでに至った。

姜恒は考えながら言った。「本当は民も前王朝が好きなわけではないのだと思います。ただ、物事がうまくいかない時には、昔を懐かしむものなのでしょう。戦乱の世にはみな、天子がいれば、道を示してくれる人がいればと願う。それは幻想であり、神話です。」

「それはその通りだけど、誰も口に出さないものよ。」姫霜が冷ややかに言った。

「でも私は百数年前の世もきっと好きだったと思いますよ。」姜恒が言う。

「生まれてもいなかった時のことを、好きだとか嫌いだとか言えるの?」姫霜が嘲笑した。

「本で読んだのです。あの頃、各国は、巨兵を国境に置いて戦っていた。十万の雄兵の甲冑が日の光を跳ね返す。他国を服従させるため、千乗の戦車と共に国君も馬車に乗り駆け出す。実力が拮抗するのは常。だけど双方の兵士とも食事のために家に戻っていた。」

 

姫霜は両手を重ね合わせて、ぼんやりと遠くを見ていた。秋の明るい空の祖いた、山の楓の葉が美しく映え、一層の茜雲のようだった。

「対立していた両軍が和平交渉の末撤退したという話もありました。人々を守るため、戦わずして国を挙げて投降したという話も。今とは大違いですね。投降しなければ則屠城。十万、二十万の民を畜生のごとく殺して野に晒したり、河に流したり。それでも足りないとばかりに、車輪斬りにしたり、家を焼いたりして逃げ惑う人々を見て楽しむ。」(全部雍がしたろ)

 

「大争の世では、人の心もなくすもの。」姜恒は暗にこれ以上戦乱を起こさないようにと言っているのだ。姫霜も当然気づいているが、彼女の知ったことではない。「全て人々が選んだこと。かつて我が従兄が洛陽にいた時、天下人の誰が彼を守ってくれましたか?こちらにお乗りなさいな、恒児。」姜恒が車に乗り込むと、姫霜は彼を見つめて言った。「ここ数年、さぞ大変だったことでしょうね。」

「まあそれほどでも。」姜恒は笑った。おかしな話だが、時々、自分と姫霜は腐れ縁の悪友のように感じることがある。

姫霜が言った。「我が姫家のために、身を粉にして尽くしてくれたこと、恩にきていますよ。」姜恒は思った。『前回、耿曙と二人で西川に行った時には、あなたは私たちを殺そうとしましたよね。恩にきているようには全く思えませんでしたけど。』

だが表立っては「どういたしまして。」と言った。「人は退屈するとやることを探すものです。全ては天子の采配。君主の碌を食めば、君主に忠義を尽くします。ですが殿下は……。」

姫霜は落ち着いた様子で一本の小刀を弄んでいたが、それで自分の喉を突いて来るだろうかとは、姜恒は微塵も疑いはしなかった。その代価は大きすぎる。姫家には狂人の血が流れているとはよく聞くが、姫霜は大抵の場合冷静だ。そんなことをすれば、耿曙の方が発狂し報復に来る。

「ですが何?」姫霜は姜恒の方を向いた。

「ですが殿下は、何をお望みなのですか?」姜恒は尋ねた。

姫霜は笑い出した。「私が望みを言ったら、あなたはそれを叶えてくれるの?」

姜恒は答えた。「力は尽くしますが、保証はしかねます。」

「私はね、天子の母になりたいのよ。」姫霜は柔らかな口調でそう言った。「姓が李でもいいし、姫でもいい。趙でも熊でも。姓など何の意味もないわ。」

姜恒は言った。「そういうことでしたら、我が兄は最高の選択肢ではなかったはず。汁瀧のほうがよかったはずですが。」

「汁家の人間がきらいなのよ。ならず者に王族の血筋を汚させるわけにはいかないわ。」

「本当にならず者でしょうか?」

「それにあの汁瀧の不甲斐なさでは、彼を父に持っては生まれた子供たちもみな臆病者になるのは必定でしょうね。」姫霜が言った。

「不甲斐ない人だなどとは私は思いませんが。外柔内剛、堅実な人です。目下のところ、四国のどの太子よりずっと優れています。」そう言いながらも、ようやく姫霜の本心が読めてきた姜恒は、ふっと笑った後、意味ありげに言った。「汁瀧は操れないと思ったのですね。怖いのでしょう。あなたは怖がっているんだ、姉上。」

姫霜は動きを止め、ため息をついた。「怖がるはずがないでしょう。怖がるとしたら、あなたのお兄上ね。あなたたちとは本当に戦いたくないわ。お兄上は強敵ですもの。」

「私だっていやです。」姜恒が答えた。「戦争にならないことを願うしかありません。」

車隊は安陽城境界でいったん止まり、再び漢中へと進んで行った。その先は代国の地だ。

 

 

姫霜を見送った姜恒が王宮に帰ってくると、肌脱ぎした耿曙が二頭のうちの一頭の熊と相撲をとっているところだった。周りは大盛り上がりで、やんやと大声援を送っていた。

「危なすぎるよ!」姜恒が𠮟りつけた。いくら耿曙が強壮だと言っても、熊は彼より頭一つ大きい。それに人間が熊に勝てるはずがあるだろうか。力が及ばないに決まっている。それにもかかわらず、耿曙は動きを停めず、競り落とされないようにと身をかわしていた。

孟和たちは姜恒の怒りの表情を見て、とっとと逃げて行った。耿曙は外袍を羽織り、姜恒に向かって歩いてきて彼を抱こうと手を伸ばしたが、姜恒は急いで止めさせた。王宮内でめったなことはできない。

耿曙:「どうだった?」

姜恒は答えた。「宋鄒に嵩県の防衛を強化させて。漢中との国境に兵馬を駐留させる。少なくとも五万、騎兵を増やして有事に備えよう。」

 

 

 

ーーー

第187章  万世旗:

 

代国は再び雍国との合議に失敗した。だが雍国朝廷は、今は更なる重要事項に目を向けねばならなかった。太子瀧の国君継承に付随して、姜恒の協力の下、人事の刷新が行われたのだ。:

曾嶸は丞相に、周游は御史太夫に、耿曙は大尉に就任し、三公として軍権を一手に握る。

陸冀は太傅に、曾宇は前将軍、衛賁は父の後を継いで上将軍を任され、汁綾は左将軍となった。残りの東宮幕僚は、「九卿」の位を得て、各司の責を担った。そして姜恒は今まで通り、太史令の職を続ける。

とても年若い朝廷である。全て二十代から三十代の青年ばかり。生命力と活気に満ちている。

汁琮薨去の混乱から半年たった安陽は、姜恒や東宮参謀の努力の結果、元の軌道に戻っていた。法令は何の支障もなく進められる。軍、朝廷、三外族は変法によって基礎を固められている。関を越えた雍国は、他の四国と違って、公卿士族の利益に阻まれることはない。

今や雍は、全く新しい国となった。汁琮の暴虐行為はすべてを破壊したが、廃墟を平らにして再建するのは、老朽化した高楼を補修し、突然の倒壊に備えるよりもはるかに容易である。

 

秋の終わりころ、雍は信使を送り、各国に通知した。冬至当日、太史令姜恒、大尉聶海は天子令を以て五国国君を招集し、洛陽城内にて五国連合会議を招開する。

雍国は持てる余力を使い、洛陽城の体裁を回復させ始めた。姜恒と耿曙は先に洛陽に行き、五国連合の準備を始めた。そして洛陽が何とか修繕を終えた時、耿曙は自ら天下王旗を立てた。高さ一丈二尺の四角い尖木で、底が広く先が狭い。

 

姜恒は近くに立って尖木柱が立つのを見ていた耿曙は肌脱ぎ姿で黒漆を塗っていた。

昔洛陽で生活費を稼ぐために初めてついた職業が漆工だった。巡り巡って再び洛陽に戻ってきた今、再び漆工になって新たな天下のため、新たな王旗に漆を塗っている。

かつて王旗は赤だった。晋王朝の天命が「火徳」だからだ。姜恒はそれを水に属する色、黒に変えた。王朝が変わることを天下に暗示するためだ。

耿曙が金漆の筆を持って姜恒に言った。「お前が書いてくれ。お前は字がうまいからな、恒児。」姜恒は笑って言った。「私が二文字書くから、後ろにはあなたが書いて。」

姜恒は古篆で「万世」の二文字を書くと、筆を耿曙に渡した。耿曙はその後ろに、「王道」と書いた。これで王旗に「万世王道」という四文字が書かれた。書き終えると、耿曙は人を呼んで字を刻印させ、暫くそれを見ていた。自分より上手な姜恒の字をほめようとしていた時、姜恒が息をついてから、言った。

「私たちは帰ってきましたよ。天子のお言いつけに背きませんでした。」

耿曙はしばらく黙った末に言った。「そうです。私たちは帰ってきました。」

 

今の洛陽を見れば、四方を囲む城壁は崩れたまま、人々の住んでいたところにも雑草が生い茂っている。かつての天子王宮は焼き尽くされ、宗廟前の九鼎の銅は熔けてがらくたと化している。かつてここに攻め入らせた人たち―――趙霊、汁琮、李宏、熊耒はこの世を去った。まるでその償いのように。

雍国は中原に入ってきてから、この地を再建し始めた。今や洛陽にはぞくぞくと少なからぬ民が戻ってきている。雍軍は彼らの故郷復帰を促すために、労役を募集した。千年の古都を再建するための雛形もすでに準備してある。姜恒も自ら拡張建設の計画書を読んだ。十年後、洛陽は再び天下の中心地としての地位を取り戻すだろう。

 

二人は王宮に入って行った。再建後の王宮はまだ塗りたての漆のにおいがした。姜恒は柱を撫でてみた。ふと奇妙な感覚を覚えた。四つ壁に囲まれた空間はがらんとしている。工人は地面に絨毯を敷き、椅子を置き、買ったばかりの屏風を置いた。かつて生活していた場所を見ているはずなのだが、全てはこうして刷新され、書籍や案巻はすっかり燃え尽きて、書閣は空っぽだった。書閣を出て後庭に入って行く。墨子が設計した温水浴槽があった。兵士たちが掃除をして雑草や苔を取り除き、今年の冬には再び使用できるようになる。

 

「上に上がってみよう。」耿曙が言った。二人は楼梯を上り王宮の頂端にやってきた。耿曙が尋ねる。「鐘を突いてみるか?」姜恒は笑った。「やって。」

耿曙は言った。「これはお前の望みだったんだよな。」

王城巨鐘が架けられている。傷だらけになってはいたが、ふんだんに彫刻を施した六百年歳の巨大な古鐘には魂があるかのようだ。

耿曙を見た姜恒は、彼の意図が分かった。『お前にやらせてやりたいんだ。』

そこで二人は手を取り合って鐘柱にもたれた。耿曙が力いっぱい鐘を突いた。

ゴーーーーーン!

神州の大地が一瞬にして目覚めたかのようだ。人々は歩を停め、高所に目をやった。

ゴーーーーーン!第二鐘が響くと、城中の人々や兵士が振り向いて足を止め、王城の方向に向かって何度も跪拝した。

ゴーーーーーン!鐘の音は山々へと伝わって行く。千万里の彼方にいる、いにしえの魂たちと共鳴するかのように、六座の古時計が小さく唸るような音を立てた。

ゴーーン。鐘の音は時間も迷霧も超えて遠くへと広がる。

ゴーーン、ゴーーン、ゴーーン。九鐘は一音ごとに、その力の復活を皆に伝えた。

 

耿曙は体中に汗をかいて、姜恒を見た。二人は鐘突き台を離れ、高所の頂上に立った。耿曙は姜恒の手を牽き、一緒にはるかに広がる山河を眺めた。

姜恒が言った。「私は決めたよ。兄さん、あの鳥が飛んでいく方向を見て。」

「何を決めたんだ?」耿曙が尋ねた。

「もうこれで充分だってこと。」自分の使命はまもなく完結しようとしている。姜恒にはそれがわかった。

耿曙:「?」

姜恒は耿曙の手を放した。そして、突然瓦のてっぺんから一気に滑り降りて行った。

「恒児!」耿曙はぎょっとした。これは姜恒が子供の頃一番好きだった遊びだ。毎回、落ちるのではないかとハラハラさせる。姜恒はいつも耿曙を頼りに、命知らずのことを思う存分やってきたのだ。耿曙は急いで先に飛び降り、屋根の下に立って姜恒を受け止めたが、勢い余って二人同時に倒れた。耿曙の体に押しのった姜恒は声をたてて大笑いした。耿曙は目を怒らせて叱った。「こんなに大きくなってもまだ悪ふざけが好きなのか!」

姜恒は頭を下げて、耿曙の顔に軽く口づけをした。耿曙の怒りは直ちに収まり、顔が赤くなった。「兄さん、あなたって本当に美男だね。」

「それはお前の方だ。」耿曙は囁き、呼吸が荒くなってきた。姜恒は手を伸ばして彼に触れる。耿曙はその手をつかむと体制を変え、自分が彼の上に押しのると、頭を下げて口づけをしようとした。庭園には誰もいない。ふと、姜恒はかつて氷室に向かう時に見た姫珣と趙竭を思い出し、慌てて言った。「ここではダメ!」

「何がダメなんだ?」耿曙の声に危険な響きが伴う。「あんなことができるくせに、人に知られるのは怖いのか?」姜恒は顔を赤らめ、急いで耿曙を押し返した。耿曙が再び言う。

「来年お前を夏会に連れて行くつもりだから、慣れておくんだな。恥ずかしがってなんかいられないぞ。」

耿曙は元々野蛮なたちだ。動物的な奔放さを、子供の頃姜恒に教化され、少しずつ礼節を守れるようになっていったが、天性というのは変えられるものではない。塞北に駐留していた時、外族の『夏会』を度々目にしていた。それは奇妙な風俗で、雍人は「傷風化」の挙と呼ぶ。水や緑の美しい初夏の頃、恋人たちが篝火を焚き、草原で愛をはぐくむ。恋人たちの中には、氐族男性と少年の姿もあった。赤裸々な野獣のように草原でことを行うのは当たり前のことだった。耿曙は時々、姜恒をそうした風戎人や氐人の集会に連れていけないのを残念に思っていた。この世界に彼が自分のもので自分だけのものだと宣言したかったのに。

 

姜恒は必死で言う。「ダメ……ダメだって……誰か来たよ!ほら!早く立って!」

「誰もいないぞ。そうやってまた俺を騙そうとするなよ……。」言うや、再び口づけを試みるが、「もうやめて!本当に誰か来たんだから……。」

「あんたたちいったい何をしているの?」汁綾の声が背後から聞こえてきた。

耿曙の全身が硬直した。雍国で誰か彼を従わせる者がいるとしたら、それは汁綾ただ一人だ。

姜恒は大急ぎで耿曙を押しのけ、耳まで真っ赤にしながら立ち上がった。そして耿曙の武衣がくしゃくしゃになっているのに気づくといそいで整えてやった。

「別に何も。」耿曙は真顔で汁綾に言った。「ちょっとふざけていただけです。何ですか?」

汁綾は疑わしそうに二人を見た後、厳かに告げた。「関中からの報せよ。代軍二十万が、国境に迫っている。」

 

やはり代国が動き出したか。曾嶸に言われるまでもなく、姜恒にもこうなることはわかっていた。三人は正殿に戻った。曾宇が近づいて来た。「王陛下の命令で来ました。武陵候と姜大人と一緒に対策を練るようにと。」

変法と人事刷新を行う際、姜恒は再び全ての軍に関し虎符を持たせることにした。汁琮在位時のように、軍が系統を越え、勝手に行動するのを避けるため、晋制を踏襲して、汁綾、曽宇、耿曙の3人の最高位の将校それぞれに半符を渡し、汁瀧には三つの逆側の半符を持たせた。軍を動かすには、国君の許可を得て、虎符を一つに合わせなければならない。

直接的には朝廷が関与して、軍に国君の命令を伝える。衛賁率いる御林軍だけが虎符を必要とせずに動ける以外は、この三人が合わせて十万の兵を共同で掌握し、全国の兵馬を常備できる。

 

曾宇はがらんとした王宮の兵室に地図を広げると、そこに座って状況を分析した。

「敵方二十万の軍はこれらの場所に分かれておかれています。命令が下されれば、三路に分かれて我が国の領土に侵入してきます。まずは洛陽が攻撃をうけるでしょう。」

汁綾は傍らに立ち、真剣な表情で地図を見た。耿曙が言った。「俺は今動けない。まもなく連合会議が始まる。離れるわけにはいかない。」

「あんたは朝廷にいたまま、指揮すればいい。状況は随時報せる。私は風羽を連れて行くわ。」

「李霄も来ましたか?」姜恒が尋ねた。

「たぶん来てない。」汁綾が言った。

秋のうちに早めに対応しておいてよかった。崤関を落とされれば危険は増す。雍軍は既に漢中に布陣し、嵩県の防御態勢も強化してある。

 

「もう冬なので、風雪が来れば、代軍も我が国に大戦を仕掛けてこないだろうし、急いで打ってくることもないでしょう。十万で充分では。」姜恒が言った。

「でも敵は二十万なのよ。」汁綾が思い出させた。

「だからこちらも二十万出せと?朝廷は何と言ってますか?屯田兵を呼び戻す?間に合いますか?彼らを兵に加えたら勝てると考えているのですか?」

汁綾も曾宇も答えられない。実際朝廷の意見も姜恒と同じだったので、少ないからと言って、彼を恨むわけにいかない。雍軍は少数精鋭に慣れていた。大抵は二万、三万の兵で十万の敵を蹴散らしてきた実績がある。一度だけ、汁琮が自称五十万、その実二十七万の大部隊を率いて、済州を落としにかかったことがあったが、最後には太子霊の手によって、落としたのは自分の命の方だった。

 

汁綾にも当然わかっていた。今無理に兵を募ったところで、寄せ集めの軍隊を指揮してもうまくはいかない。「守りにはいくけれど、確認したかっただけよ。間違いなく会議は行うのよね。」汁綾が言った。

姜恒は頷いた。「行います。」

曾宇が言う。「初めから我が兄の言う通りに、姫霜と李儺を殺しておけばよかったのだ。」

姜恒は曾宇に向かい真剣に言った。「もしそんなことをすれば、汁家の天下は長くはもたないでしょう。十年もたてば、各地で大乱が起き、再び世は分裂することになります。」

今の雍国の実力なら、本気で戦えば、自国も痛手を負いはしても、西川を攻め落とし、そのまま江州を落とすことも可能だろう。耿曙が兵を率いるなら確実だ。だが、天下を征服したその後は?どの地でも人は前の国に想いを馳せる。荒廃した地では動乱が巻き起こる。そんな危険な統一など、すぐにまた打ち砕かれるだろう。

姜恒が目指すのは速やかなる統一ではない。大国同士の融合には、天下を治めるに足る良策が必要だと言うのが朝廷の考えでもある。うまくいかなければ、雍国の内乱が反面教師とされることになる。

 

ーーー

「報告―――!」侍衛が報せを持ってきた。「国君たちが安陽に向かいました。朝廷大人各位、洛陽に到着。梁国、鄭国国君、崤関通過!」

五国連合会議が、四国連合になるかもしれないとは思っていたが、今では三か国の国君が揃うかさえも危惧される。

かつての四国連合会議では、雍国が手を下し、出席者をきれいさっぱり殺しつくした。それを行ったのは自分の父であった。それでも彼らが来たのは、雍国を信じているからというより、姜恒を信じているからだ。尤も、局面がこのようになった以上、来なければどうなるというのだ。

 

冬至間近の洛陽には大雪が降った。羽毛のような雪が降り続くが、刺すような寒風はない。それは来年に向けいい兆しだった。

洛陽王宮は何とか修繕を終えた。この広大な工程は足かけ二年かかった。雍国は入関後、このために莫大な財力を使った。初めは汁琮が自らの面子のためにだ。天下に君臨した暁には王宮に住む。そのための修繕だった。だが落雁城の大戦後、軍事費は減り、本音ではもう関わりたくはなくなった。幸い、この時宋鄒が手を差し伸べ、嵩県の財力を以て残りの工程を続けさせた。今は洛陽の天気をだけが、気がかりだ。

王宮の屋根には雪が積もり、日の光にきらめいている。天下王都の気象は回復してきた。

外を囲む居住区では、角坊に続々と人が住み着いてきている。商店も増え始めた。五国に向かう商路も開通し、嵩県、落雁を筆頭に商隊もできた。

商人は鼻が利く。まもなく開戦しようという代国の人たちでさえ、金のにおいを嗅ぎつけてやってきている。洛陽は繁栄し始めようとしていた。

 

入浴場も再び使用可能となった。姜恒は湯を宮外に送り出させ、王宮内に露天風呂を作らせた。小雪が舞う中、姜恒は湯につかって数日後に迫った会合のことを考えていた。

 

軽快な足音が聞こえてきた。耿曙が浴袍をまとい、皮草履に足をひっかけて、長廊を歩いて来た。歩きながら腰帯を取る。姜恒が振り向き、耿曙の引き締まった体が目に入ったかと思うと、浴池に飛び込んできた。バシャン!と音を立て、姜恒に湯がかかった。

(日本人としては本当毎回思うんだよなあ。最低限のところを洗ってから入りなさいと。)

姜恒が大声で叫ぶと、耿曙は手を伸ばして彼を引き寄せた。「会議は終わったの?」姜恒が尋ねた。耿曙は少し眉を寄せていたが、姜恒と目を合わせると眉を下げて、うん、と言い、彼を腕の中に抱きいれた。

「状況はどう?」姜恒が聞くのは勿論辺境の代軍のことだ。「さっき風羽が飛んで来るのを見たけど。」耿曙は彼に隠しても仕方ないと思い答えた。「よくはない。更に十万人増えた。李霄がどこから集めてきたのかは不明だ。」

代国兵は合わせて三十万か。姜恒は少し彼らを甘く見過ぎていたようだ。西川商隊は西域につてがある。代人は財力に物を言わせ、西域輪台(ウイグル)や亀茲(クチャ:タリム盆地)辺りから傭兵を雇い入れたのだろう。彼らは今虎視眈々と中原への侵入を試みている。

 

「あなたが行かないと。」姜恒が言った。

「俺は行けない。」耿曙は上の空で答えると、姜恒を自分の膝に座らせ、一緒に空から舞い落ちる小雪を眺めた。

「あなたの力が必要だ。」姜恒は真剣に言った。

「お前はどうするんだ?」耿曙はふざけた調子で言う。

「界圭がすぐに来てくれる。それに洛陽にいるんだ。恐れることはないでしょう?」

 

姜恒は安陽を出る時に、界圭に太子瀧を託した。彼は今や国君の身、万が一代国が刺客を送ってきたら危険だ。自分には耿曙がついていてくれるから大丈夫だ。

「お前の傍を離れたくない。お前と離れる度に、ほんの少しの間のつもりが、いつだって最後には……。」姜恒は連合会議の主催者だ。天子自らに人選を託された者として、耿曙と共に出征するわけにはいかない。「きっと大丈夫だよ。」姜恒は耿曙の顔を撫で、その顔を見上げながら高い鼻筋に指を置いた。耿曙も姜恒を見下ろし、横顔に口づけた。これから始まる連合会議が姜恒にとって重要なのはよくわかっていた。彼らにとっては生きていく上での目標でもある。だが、それについては何も言わず、別のことに思い至った。

「あのことだが、わかったぞ。」

「何のこと?」

耿曙は眉をあげて言った。「お前だって言ったじゃないか。何か違うって。」

姜恒:「???」

耿曙は少し腰を伸ばした。見ないふりをするなと示したつもりだが、姜恒は更に戸惑う。

「ある老兵に聞いたんだ。やつは以前洛陽にいて、今回また戻ってきたのさ。」

姜恒:「?????」

「まあ待っていろ。いずれわかる。」

姜恒:「……。」

姜恒もふと思い出した。耿曙と初めて試した時から、ずっと何か違うと思っていた。過去に二度ほど意図せず見たことがあるのだから。勿論、触れ合いや甘い囁き、熱い口づけだけでもすごくいい感じではあるのだけれど。ただ、何かもう少し先があるような気はしていた。

「充分つかったか?部屋に帰ったら、そのやり方で試してみるぞ。きっと楽しめる。」姜恒は真っ赤になって、拒絶しようと思ったが、内心では期待が膨らんでいた。耿曙の言い方はいつも通りで、まるで何かの遊びにいくかのようだ。「私は……。うん、わかった。」

耿曙は姜恒の頭をなでると、先に自分が浴袍を着て、それから姜恒に着付けてやった。そして彼を抱き上げると、薄い皮履をひっかけて、部屋へと戻って行った。

 

……

 

午後、二人は洛陽偏殿の部屋の中にいた。姜恒はまだ先ほどの余韻に浸っていた。

耿曙は黒い浴袍と黒袜を身に着け、寝台に座っていた。姜恒は白い単衣姿で耿曙の懐に寄りかかっていた。前には屏風が置いてある。嵩県の時と同じ配置だ。あそこは耿曙が住み慣れた場所だったため、姜恒は嵩県の作りをまねて、二人が読書や習字をする部屋にしたのだった。

「何を読んでいるの?」姜恒が顔を上げて尋ねた。耿曙は兵法書を持っていたが、そう言われて片付けることにした。「何でもない。お前の言う通りだ。俺は行かないと。」

行かなければ。李霄が本気でかかってきたら、連合会議すら危うい。漢中から洛陽へは三日で着く。三十万の大軍の行軍を許し城に近づければ、雍国とて危険だ。

「行って。あなたなら勝てる。」姜恒は小声で言った。耿曙は何も言わず姜恒を抱きしめた。

姜恒は焦がれるように彼の胸に顔を何度かこすった。耿曙は再び下を向いて、唇に口づけた。どうやら二人は恋人同士になれたようだ。おかしな話だが、姜恒は子供のころから、耿曙の背中に抱き着くのが好きだった。それに彼が横たわって本を読んでいれば、その体の上に覆いかぶさりにも行ったものだ。

耿曙は昔から自分より頭一つ背が高かった。それは今も同じだ。子供の頃の親密さは純粋で自然なもので、二人ともまだそっち方面に考えたことはなかった。

「いつ行けばいい?」耿曙が小声で姜恒に尋ねた。姜恒は答えずに手を動かし、撫で続ける。「聞いているのに何で答えないんだ?兄はいつ行けばいい?」

 

……

 

二度目は、一時辰近くも続き、姜恒は体が疲れ果てていた。

耿曙は彼を抱き、いつも通り体の上に伏せさせ、ずっと離れさせたくなかった。

姜恒はもうくたくただ。耿曙の力強い腕の上に手を置いた時、ふと妙な考えが浮かんで笑い出す。「今刺客が来たら、二人とも何ともできないね。」

耿曙は下を向いて姜恒を見た。「確かにそうだな。」二人は静かに見つめあった。

「だが死んでも本望だ。」そして尋ねた。「お前もそう思うか?」

姜恒は頷いた。耿曙が最後に言った。

「もしそうなったら、一突きで二人一緒に貫かれて一緒に死ねる。幸せだな。」

「私もそう思った。」姜恒は小さく微笑んだ。耿曙は姜恒の顔を見て、小声で言った。

「俺は明日出征する。俺の帰りを待っていてくれ、恒児。」

 

 

落雁はluoyanで、洛陽はluoyang。英語で読んでいる人は苦労するな。)

 

 

第188章 神州の象徴:

 

洛陽には この七年で一番の大雪が降った。雪は一夜にして王都を覆いつくした。月日の中で洛陽に残された傷跡を全て覆いつくしていた。姿を留めているのは再建された王宮だけだ。そこでは、たくさんの飛楣瓦が朝陽を浴びて輝きを放っていた。

銅鐘も再び早朝の日の光に照らされ輝いていた。宗廟も再建を終えたが、中はやはりがらんどうだ。正殿内では、高所の天子机の中央に金璽が置かれ、王座の後ろの万里江山が描かれた壁には三本の剣が掛かっていた。中央の黒剣は広大な天地を、烈光剣は日輪を、天月剣は月輪を象徴している。甲冑を身につけた耿曙が王座の前まで歩いて来た。

着いたばかりの太子瀧が風塵にまみれ、一口の水も飲まぬうちに正殿にやって来た。

「一本選んで。戦いに持っていく剣だ。一本選んで。」姜恒が言った。

「恒児、お前が選んでくれ。」耿曙が言った。

太子瀧は四方を見回していた。天子の居場所たる本当の朝廷がこのような場所だと考えたことがなかった。今ようやく父が一生切望し続けたものが何なのかがわかった。彼はその一生をかけて必死で正統を追い求めた。その神秘的な力に承認されることを。なぜ祖先が二枚の玉玦を携えて中原を離れたのかもわかった。それは「天命」だったのだ。

荘厳で堂々たる象徴の数々、金璽、玉、剣、鐘、鼎、それらは千万の人々まで届く、一本の道を象徴しているのだ。この殿内にいると、三剣の力に守られている気持ちになる。金璽を手に持てば、神州の主人、天子天子上天の子となった気持ちになり、顔を上げれば、「天意」が下りてきて耳に届く気がした。

 

「黒剣を。」姜恒がそっと告げた。

「そなたに黒剣を授与する。聶将軍。」太子瀧が言った。

耿曙は黒剣を受け取ると、生前父親がしたように、その重い剣を背に負った。

彼は今やこの剣の継承権を持ち、この世で唯一この剣を正式に使える人物となった。

「行ってくる。」耿曙は界圭とすれ違いざまに言った。「彼のことをよろしく頼む。」界圭はこくんと頷いた。耿曙は洛陽を離れ、四万の兵の統領として、漢中中腹の地に向かって行った。

 

 

晋惠天子三十六年,冬。

雍国が関を出て、洛陽を占領し、天下に向けて、五国連合会議を開いた。その意図は、会議という方式により、神州の帰属を決定することだ。

代国は承認を拒み、三十五万の巨兵を漢中においた。剣門関の地では大戦が一触即発となっていた。武陵候聶海が兵を率いて出征、四万の兵で漢中平原を守り、姫霜、李家の西川軍に対抗する。

洛陽の古鐘が二度続けて、六回ずつ鳴らされた。鄭、梁二か国の国君が洛陽に到着したのだ。

太史瀧は群臣を連れて、自ら城門に迎えに出た。車隊は延々と続き、一目ではとらえられない。太子瀧が、「今日の結果がどうなろうと、全ては……。」と言いかけえると、姜恒が、笑いながら遮った。「そんな話は縁起が悪いですよ。確か前回の四国会議の時に畢頡もそう考えたんですから。」

「でも今回は耿淵はいないでしょう?」太子瀧が言った。

「それでも用心にこしたことはありません。」姜恒は小声で言った。その時、使節隊の中に見知った顔を見つけ、笑顔で呼びかけた。「龍于将軍!」

龍于は自ら、鄭国の小国君、趙霊の子、趙聡を洛陽に護送してきた。その他にも、姜恒がよく知る梁王畢紹もいた。畢紹は亡国の君として、長い間済州に身を置いていた。雍軍が鄭国全域から撤退すると、済州は大混乱となった。最後に大鄭を落ち着かせ、元の軌道に戻したのは畢紹だった。趙霊のために、彼が命を捧げた国家を救ったのだ。

鄭、梁両国は昔から姉妹国家であり、汁琮逝去の報が伝わると、大臣たちは畢紹を正式な国君として迎えることを提案した。梁王といっても鄭国の血統でもあるからと。

だが畢紹はその提案をきっぱりと断った。更に危険を顧みず、自ら五国連合会議にやって来たのだ。梁朝廷はなくなった。最後に残った老臣が畢紹の傍に仕え、先に洛陽に着て、雍王汁瀧が彼らに話をするのに備えた。

 

龍于は七歳の趙聡のほかに十四歳の鄭国公主、趙彗も連れてきた。趙聡は急に鄭国国君を継承することになり、畢紹から王君の道を学習し始めていた。二人はまるで兄弟のようだった。

畢紹は幼い趙聡の耳元であれこれと話をしている。どうやら洛陽の風土や人情について説明しているようだ。二人は初めて王都にやってきた。大人になりかけの少年と七歳の子供、二人にとっては全てが新鮮だった。

趙彗はきれいになっていた。太子霊の目を受け継ぎ、武英公主ばりの英気を持って剣を佩き、太子瀧を見つめた。

「ようこそおいで下さいましたね。」太子瀧は趙慧に頷いた。

趙慧は思考を巡らせながら、何も言わずに太子瀧に向かって無理に笑って見せた。

「あなたの父は私の父を殺したわ。」趙慧は言った。

「それはあなたの父が私の父を殺したからですね。」太子瀧も優しい口調で返した。

姜恒は急いで二人の会話に割って入ると、三人に向かって拝礼した。

「鄭王、梁王、公主殿下、お久しぶりでございます。」

「それほどでもありません。まだ半年ですから。」畢紹は姜恒に笑顔を見せた。

これはお笑い種だな、と思いながら、姜恒は趙聡に挨拶をした。二人の国君は穏やかだったが、随行してきた梁、鄭の家臣たちは雍国を死ぬほど恨んでいる。雍軍を目の当たりにすれば、皮をはがし骨を砕いてやりたそうで、当然いい表情とは言えない。

 

龍于は四千の兵を城内に駐留させた。衛賁率いる二万の御林軍が城内要地を守っている。

太子瀧は何と言ってもてなすべきか一時途方に暮れた。言ってみれば、我が父が自ら梁国を滅ぼし、畢紹や朝廷の者たちを亡国へと押しやった。そしてたくさんの鄭人も殺してきた。「ごきげんいかがですか?」などとは到底聞けない。それでは、正に赤裸々な諷刺となろう。

「寒くて道中大変だったことでしょう。」最後に太子瀧は言った。「私もまさかこんな大雪になろうとは思ってもみませんでした。」

「ご心配なく。」畢紹はとてもおおらかだった。手を振ると趙慧に「こちらが雍王だよ。」と言った。趙慧と汁瀧は国君同士が交わすやり方で拝礼しあったが、お互い無言だった。

「遠路よくいらっしゃいました。」最後に曾嶸が場を救いに来た。「陛下方、お疲れ様でございました。どうぞこちらへお越しください。」姜恒は視線を送り、汁瀧にあまり気にしないようにと合図した。皆来たということは話し合う意思があるということなのだから。

 

「姜大人。」臣下の部隊が通り過ぎる時に、優し気な女性の声が彼に呼びかけた。

「わあ!流花!」姜恒は笑顔を見せた。

流花が部隊の中にいた。半年前、太子霊が済州のために命を捧げると決めたあの日、一同は畢紹を国都から逃がし、鄭国太子趙聡と公主趙慧の下に送ることを決断した。鄭に残された血脈を守るためだ。あの時姜恒の提案で流花を畢紹に仕えさせ、小太子と公主の世話をさせることにしたのだった。流花は不本意そうはあったが、城内にいても何もできないと知ると、夜明け頃姜恒と耿曙に別れを告げに来た。だが、当時王宮はバタバタしており、姜恒は彼女を見送ることができなかった。その彼女が今ここに来ている。それも華服を着て、簪から下がる金を揺らし、衣装には梁国の聖獣である黄龍の刺繍が施されている。それに気づいた姜恒は衝撃を受けた。「え、あなた……流花?」姜恒は探りを入れようとして言った。

「こちらは梁国の王妃様です。ご存じなかったようですね。」龍于が言った。

流花は頬をうっすらと染めて姜恒に笑いかけた。事情が読めた。流花は梁王畢紹の逃亡を助けた。おそらく二人は生死を乗り越えたことで心に情が芽生え、生涯を共にすることを決めたのだ!

「おめでとうございます!近々賀礼をご用意させていただきますね!」姜恒は笑い出した。

「お兄さまは?」流花が尋ねた。姜恒は心配させないように気を付けながら説明したが、流花はそれでも不安そうな顔をした。龍于が安心させようと言った。「大丈夫ですよ。聶将軍は神のごとき兵の使い手です。代人たちは歯が立たないでしょう。」姜恒は、会議の前にまたお話しましょうと約束して流花を見送った。

 

急ぎの報せが届いた。耿曙が漢中に着いて、代軍の様子をうかがっている。朝廷の指示を待つとのことだった。汁瀧は軍報を曾嵘に渡し、すぐに臣下たちを集めて会議を行うようにと言いつけた。しばらくするとまた別の報せが届いた。―――羋清が到着したとのことだった。

 

郢国は今長公主羋清を主としている。熊耒と熊安父子が怪死した後、郢国はどこからかともなく、二十歳の若者を見つけてきて、新太子に据えた。名を熊丕という。熊丕は爽やかな好青年で、太子就任時に士族たちから教育を施されたことは見え見えだった。着慣れぬ太子服を身に着け、落ち着かない不安な様子を暴露していた。

「姜太史、お久しぶりです。」羋清が熊丕の背に手を置いて、ゆっくりと馬車を降りてきた。

「公主殿下。」姜恒は彼女に拝礼した後、太子にも声をかけた。「太子殿下。」

熊丕は頷き羋清に目をやった。二人は名義上、叔母と甥だが、実際は羋清の言いなりのようだ。今や羋清は郢地で独裁的な権限を持つ。言う通りにしないわけにはいかない。

 

思い返してみたが、確か姜恒は羋清とは二言三言交わしただけの縁だったはずだ。この公主はもう少しで雍国王后となるはずだった。その場合、汁琮の死後は太后となっていたはずだが、ほんのわずかな番狂わせでこうなろうとは、運命とは不思議なものだ。

汁瀧は、熊耒と熊安への哀悼の意をしっかり伝えることができた。これに関しては雍国は無関係だ。二人は自分の家で怪死したのだから、梁王の時のように言葉を選ばなくてよかった。

羋清の方も哀悼の言葉を告げ、洛陽宮へと入って行った。本日の諸々は全て終わった。姜恒が正殿に戻ろうとすると、汁瀧が感慨深そうにつぶやいた。「みんな来てくれたのだね。」

「誰も来ないんじゃないかと思われたのですか?」姜恒が言った。

「みんな君を信用したのと、顔を立ててくれたんだね。」

「金璽のご尊顔をね。」姜恒は机の上の金璽を見た。「来ないわけにはいかなかったでしょう。解決すべきものがあるのに、来なかったらどうなります?戦いたくなければ、和睦しかありません。さあ、私たちの兄さんが何と言ってきたか見せてください。」

 

姜恒は手紙を広げ、天子御座の傍らに座った。汁瀧も別の傍らに座り、二人とも天子御座に座ろうとはしなかった。姜恒は軍報を読み終え、曾嶸が添付した行軍の議を読んで、すでに解決済みなことがわかると、腰をうーんと伸ばした。

「何もないなら早くお休みください。これから何日か、忙しくなりますからね。」横から界圭が言ってきた。

界圭はそれを姜恒に言ったつもりだったが、汁瀧は自分に行ったのだと誤解し、面白がって言った。「私はもう国君だっていうのに、まだ睡眠のことでくどくど言うんだね。」姜恒が界圭に目配せすると界圭も弁解せず、近くに行って腰を下ろした。

「眠れるものか。これから数日、三国の国君たちと顔を合わせ続けるのだもの。緊張するよ。」

「何を緊張することがありますか。」姜恒は笑った、「皆同じ人間。鼻が一つに目が二つ。あなたが怖がっているなら、彼らだってあなたを怖がっていますよ。」(実は一番年上?)

勿論わかっている。汁瀧は国君だから怖がっているのではなく、彼の父親がみんなの国を滅ぼしてきたからだ。心の中ではもやもやしているはずだ。「仁義」の二文字を気にしなくていいなら殺してやりたいところだろう。おかしなことだが、上は国君から、下は民に至るまで、誰もが弱肉強食という考えには納得している。大争の世では、殺さなければ殺される。だからまずは強くあらねばならない。

 

だが風戎人の言う通り、雍人は神を信じないので恐れを知らない。そこがよくない。ただ鬼神を信じない代わりに孔子の教えは信じる。誰かの家を滅ぼしたり、国君を追い出したり、民を死に至らしめる度に、心には不安や慙愧の思いを抱く。それは雍人だけでなく中原の民の「信仰」なのである。

孔子が、孟氏が、常に頭の中にささやきかけるのだ。「道に適えば助け多く、道を失えば助け寡なき。」耿曙でさえもその恐れは心に突き刺さっている。人を多く殺せば、いつか報いが来る。自分だけでなく家族の身にも。心に突き刺さったこの恐れがいつも人の心に呼びかけ、人が野獣のようになるのを防いでいるのだ。

 

やはり、というべきか、汁瀧がため息交じりに話し出した。「恒児、梁王に会った時、どんな気持ちになったと思う?」姜恒は答えた。「恐れですね。私の父は少なからぬ人を殺し、あなたのお父上はほとんど全ての人を殺して、梁人を今の状態にさせたのですから。」

汁瀧が言った。「周游も曾嶸もみな言う。彼らは復讐をしてこない。恐れることはないと。」

「それでも不安はぬぐい切れない。」姜恒は読んでいた軍報から顔を上げ、汁瀧に笑いかけた。「あなたが恐れているのは、彼らに恨まれるとか、復讐されることではないのですよね。」

汁瀧は頷いた。自分でもよくわからない理由で、畢紹の目を直視することすらできないのだ。

「それは加害者が被害者に対して抱く不安です。例えあなたがしたことではなく、そればかりか力を尽くして阻止しようとしていたのにも関わらず。」

 

汁瀧は言葉を返さずため息をついた。それから言った。「今わかったよ。君と兄さんがいなければ、私は何もできないって。恒児、今日なんてこうも思った。君の方が太子だったら、私よりずっとうまくやれたんじゃないかってさ。」

「全て彼らが招いたことでもあります。」姜恒は正面からの回答を避け、話題をもどした。

汁瀧:「?」

姜恒は軍報をしまい、一杯の茶を淹れ、汁瀧にも一杯渡すと、万里江山正壁を見ながら話を続けた。「申し上げたのは、今の状況は全て四か国が自ら蒔いた種の結果で、誰かの咎ではないということです。」

汁瀧が尋ねる。「彼らがどんな罪をおかしたというの?」

「まずは、天子と趙将軍にあのような死に方をさせたこと。洛陽に進軍した時に、四国は考えなかったのでしょうか。天子が崩御されたら、大争の世がより深淵に向かって落ちていくはずだと。」汁瀧もそれには納得した。姜恒は更に言う。

「もし天子が在位されていれば、封国はかつてのように法令を遵守し、諸候国に戦の兆しが起これば他国が連携して征伐し、今のように深刻な状況にはならなかったのではありませんか?」汁瀧は無言だった。

 

姜恒は尋ねた。「兄上、あなたは、天子とはいったい何であると思われますか?」

汁瀧は考えた末、言った。「お目にかかったことがないからなあ。」

姜恒は首をふった。「天子がどのような人だったかという意味ではありません。お聞きしたのは、天子は何かということです。この場所に座ると言うことは、いったいどういうことなのか?」そして二人の間の空席を指さした。そこは天子の御座だった。

汁瀧は長い間黙ったままだった。そんなことは今まで誰とも話し合ったことはなかった。考えた末、最後に答えた。「一つの象徴だ。弟弟、それは象徴なんだと私は思う。」

「何の象徴ですか?」姜恒は笑顔で尋ねた。汁瀧は答えた。「天下の象徴。」

姜恒は汁瀧をじっと見た。遠くない未来、彼はこの場所に座ることになる。その意味するところを先にしっかりわかっておく必要があった。

姜恒は頷きそれ以上何も言わなかった。彼は汁瀧より早くその事実を知った。以前、海閣でそれについて話したこともあった。

 

姫珣は天下そのものだった。彼は神州の象徴、規則の象徴、王道の象徴であった。彼がこの場所に座ることで、人々に「天下」は生きているのだと知らしめることができたのだ。

彼はただの名前だけの存在ではなかった。千万の人々、果てなき国土、生き物全て、草木の全て、力量や精神、百の河の流れが、この王御座に帰し、それら全てが「人」という形に変えられた、そういう存在だった。

 

かの人物の意思は、即ち神州の意思である。王権を行使し、王道を守る。かの人には責任がある。その責任は、「自己」とは分かたれ、個人の意思は神州の象徴としての身分とは区別される。王座を離れれば、彼は趙竭の恋人であった。王座に戻れば彼は「天下に帰する者」という自己を保持する必要があり、その意思がかけ離れて行かぬよう力を尽くした。

だからこそ人はこう言うのだ。

天子が安らかなれば、天下は平らかなり。:天子が崩御すれば、世には大争が起きる、と。

 

すべての法令は、天下の安定を守り、戦乱を解消し、世を繁栄させるためだけに遂行する。それは王旗に刻んだ言葉、「万世王道」の意味するところであり、百家の学、万民の意志を一体に集めたものだ。

「あなたがその象徴になった時には、もう二度とあなた個人にはなれないのです。」

姜恒は言った。

「よくわかったよ。」汁瀧は頷いた。姜恒が気づかせようとしていることがわかった。まもなく自分がこの「天下」になった時には、人々の悲しみは自分の悲しみとなる。もう国君という身分ではなくなるので、国を分けて考えることはできなくなるのだ。

 

 

 

第189章  太史の威厳:

 

夜になり、漢中平原は大吹雪となっていた。

耿曙が身に着けている袍は姜恒が準備してくれたものだ。襟の内側には姜恒のあの山猫の毛皮が裏打ちされている。分厚くも重くもないのに、とても暖かく、動きやすい。

毛皮は外側にもつけられている。甲や裙に着けられ甲冑から膝などを守っている。

姜恒は今、洛陽で何をしているだろうか。

耿曙にも少しずつわかってきたことがある。元東宮、現在の朝廷は、姜恒に対し少しずつ脅威を感じ始めていた。彼はどうしても太子のように見えてしまうのだ。誰もが無自覚のうちに、自然と姜恒をこの国家の主人のように見てしまう。彼は、全く客卿らしく見えなかった。

これではいずれ、朝廷内部での戦争が勃発してしまうだろう。どんなに有能であっても姜恒は臣下の身であり、東宮が忠誠を誓う相手は彼ではなく汁瀧だ。姜恒が汁瀧の役に立つなら、大臣たちも高く評価するが、汁瀧の王位を脅かす存在になれば、曾嶸たちは反目することになるだろう。

 

耿曙は朝廷を粛正するようなことをしたくなかった。ここ数年、彼はあまりにも多くの人を殺してきた。灯が消えるように、自分が殺した人はその瞬間にこの世から消えてしまう。

彼の人生の中で、一人、また一人と生命が消えていった。両手を血に染め、反対する者を殺していった汁琮も、こんな喪失感を味わったことがあったのだろうか。

自分が姜恒のために人を殺すたびに、彼はとてもつらそうな顔をする。殺さずにはおけない場合にでさえもだ。姜恒には笑っていてほしい。つらそうな顔をしてほしくない。

 

遠くで二匹の子ぎつねが追いかけっこをしていた。追いつくと一緒に転げまわり、互いに舐めたり、引っかいたりしている。自然と姜恒の体の暖かさを思い出し、様々な思いが沸き上がってきた。一緒にいられた時間は短すぎた。思い出せば洛陽に帰りたくなる。彼は自分に言い聞かせた。時間は待ってくれない。二人にとってこの一里、この毎日は貴重なのだ。

代国の患が解決し、朝廷に戻ったら、姜恒のために朝廷と対決する。新たな問題が起こり、今度はとどまることなく二人に襲い掛かってくるだろう。そうなれば二人だけの幸せな時間は僅かになる。

姜恒はすばらしい天子になれる。姫珣に金璽を託された時、それが彼の宿命になった。重要な任務を果たそうとして過ごした日々はあたかも運命に導かれているかのようだ。姜恒はたいへんな努力をして五国を再び一つにしようとしている。壊れた磁器をつぎ合わせようとするように。心を挫くような試練も全て乗り越えてきた。

 

「あなたの望みは何?」そう聞かれた時のことを思い出す。選べるのであれば、昔のように戻りたい。姜恒の正体もしらず、二人で助け合って生きていたあのころに。高い望みもなく、心を惑わせることもない。人生に他の目標などなく、たった一つの責任だけあった:お互いという。

お互いに、相手だけに、責任があった。『あなたを連れて、ここを離れ、どこかに行く。天の果て海の彼方に。』界圭の気持ちさえよくわかる。彼はかつて汁琅に対してそんな風に思っていたのだろうか?ただ対局に身を置く者が、その場を離れることなどできようか?

 

「殿下。」万夫長の一人が来た。

「お前たちがもう戦いたくないのはわかっている。」耿曙は彼を見もせず、黒剣を片手間に弄びながら言った。「俺だっていやだ。もう疲れた。」

万夫長は耿曙にそんなことを言われ驚いた。彼は設営について報告しにきただけだったのだが、まさか耿曙がそんなことを言うと思わなかった。彼は気を使って話を遮らずに、直立した姿勢のまま傍らで聞くことにした。耿曙は再び独り言のように言った。

 

「お前たちに保証する。これが最後の一戦になると。今後五年間は、天下で大戦は起こらないと。だが、その前に我らは生きて帰らねばならない。」

万夫長は答えた。「はい、殿下。設営は完了です。代国は河辺の平原に駐留しています。」

耿曙がまたぶつぶつと呟いた。「平陸は易きに処し、右背に高きを、前に死(低地)を、後に生(高地)を。此処すべし平陸之軍也。」

万夫長は静かに立っている。耿曙が尋ねた。「朝廷から手紙は来たか?」

「来ました。」万夫長は海東青の足についていた布きれを耿曙に渡した。「朝廷は兵を動かさないようにと。会議が終わってから決めるそうです。曾嶸、周游、姜恒お三方の一致した推測では、李霄は連盟を支持する国がいくつあるか見極めてから行動を決めるだろうとのことです。」

耿曙は雪に覆われた平原に目をやり、口笛を吹いた。海東青が飛んできて肩に停まった。

耿曙が突然言った。「一度わがままを通してみたい。俺について来る気はあるか?」

万夫長は驚いたようだ。「殿下。」

耿曙は彼に目をやり言った。「兄弟たちを呼んできてくれ。」

 

四名の万夫長全員が来た。耿曙は彼らを見回してから、黒剣で雪の上に簡単な地形を描いた。

「戦地においては君命受け入れがたき時もある。ここ数年、俺はずっと弟の言う通りにしてきた。彼が行けと言えば行き、退けと言われれば退いた。だか、今日は。」

耿曙は、しかと彼らを見据えた。「俺は自分で決めて戦いたい。たった一度だけ。」

 

 

洛陽、晋惠天子三六年十二月八日。

王宮では雍地の習慣に従って、十二月八日の宴を始めた。冬至を明日に控えたこの日は雍の除夜であった。二日続きの盛大な祝日は、入関して最初の年越しということで、かつてなく盛大に行われていた。汁琮の死後初めての新年でもある。全ての民族が、ー全ての国家というべきかー、持てる活力の全てを一瞬にして解き放った。各部族の雪合戦は会場を落雁から洛陽に変え、城内には野蛮で活気に満ちた混乱が引き起こされていた。(やっぱやるんだ)

 

今日は会議に臨むつもりであった羋清は、早朝にこの一面の雪景色が目に入ると歓声を上げて雪の中に駆け出して行った。羋氏は代々長江以南に住んでおり、これまで数えるほどしか雪を見たことがなかった。それもうっすら程度だ。一国の公主の身でありながら、深く積もった雪を見るや、すぐさま袖をまくり上げて、各国特使と雪玉を投げ始めた。

「公主殿下。」姜恒は苦笑いを隠せない。

「太史、来たのね。」

姜恒は、孟和たちがわいわいと大声を上げてはしゃぎまくり、客人に当たるのではないかと心配になり、郢の人たちを守っていたが、すぐに畢紹や趙慧たち国君も出てきて、王宮外はほどなく、ただならぬ熱狂に包まれた。

畢紹は趙聡と一緒に、雪の砦を作り始めた。その時通達の声が聞こえた。よく聞こえなかったが、馬に鞭を打って、長い街道を走ってくる音だ。「代国汀候、李靳様到着―――。」

 

皆一斉に立ち止まった。声が聞こえた方を見てから、姜恒は退席を告げ、急いで正殿に戻って行った。彼の記憶にある李靳は、羅宣に穴倉に押し込められた不運な城防隊長だ。姫霜とは幼馴染の。二年前、姜恒は彼を説得したつもりだったが、実は相手は羅宣だった。羅宣は一念の差で彼の命を残してやった。今や彼は代国封候で、姫霜の片腕だ。

雍と代は一触即発の状態だ。こんな時に代国は果敢にも代王李霄の代理となる特使を送ってきて、会議に参加するつもりなのだ。

朝廷は大敵に臨むがごとき態度で、正式に李靳に接見した。姜恒は雪まみれになって震えていたが、それでも颯爽と殿内に入って行った。ちょうど李靳が大げさに話している最中で、汁瀧も曾嶸たちも皆、表情がすぐれなかった。

「……弊国国君と霜公主殿下は、最終期限をお伝え申し上げました……。」

姜恒が李靳の近くに来ると、李靳は話を停め、その目には畏怖のようなものが見えた。

「李将軍、ごきげんよう。」姜恒は笑顔で言った。

李靳の表情は複雑だった。出発前に姫霜から々言われていたのだ。姜恒と聶海には気を付けるようにと。実際、姜恒は有名だ。彼の父親が天下の要人たちを殺したことは言うに及ばず、彼と聶海は西川朝野に動乱を巻き起こし、代王李宏すら彼らの手でその地位を降ろされたのだ。

 

他にも、雍王汁琮が済州で不意打ちされたのも、姜恒と無関係ではないだろう。この文人は、武力で世界に冠たる国君に命を罠にかけて排除した。李靳は一瞬気後れした。

「姜太史、お初にお目にかかります。」李靳が言った。姜恒が汁瀧に物問いたげな視線を送ると、汁瀧は穏やかに説明し始めた。「いいところに来たね。代国は我が国に、漢中平原からの撤退を要望するそうだ。会議に参加する条件としてね。」

すると李靳が言った。

「貴国が巨兵を置くのは国境の守りを固めるためだとは存じ上げております。ですが、戦場では何が起こるかわからないもの。和平に傷を落とすのではと心配です。ご存じのように、我が国は三十五万の大軍に国境付近で演習させております。実力の差は歴然。もし万が一間違って当たることになっては、誰も望まぬ結果となりましょう。」

 

姜恒は笑い出した。漢中で両軍が臨戦態勢にあるのはお互い承知していることだ。代国は軍事力で雍国を威嚇しているが、それは汁琮が最も得意とした手だった。耿曙の四万軍は宣戦布告を待つばかりといったところだ。

「ご心配なく。」姜恒は天子御座の近くまで行き、その右手に座った。この並びだと、雍国には二人の国君がいるかのようだ。―――王座を挟んで両側に座した汁瀧と姜恒。

李靳には姫霜が言っていた意味が分かった気がした。

姜恒が金璽を持ってきて、その間に置いた。汁瀧は姜恒を見て、その意図を了解した。

「姜太史は金璽を託された人です。暫時、天子に替わってその意をお伝えしているのです。」

汁瀧は姜恒が天子御座につけばいいのにと思ったが、姜恒は、「雍王はお気になさらず、おかけください。」と言い、李靳に向けては、「別に国境防衛のためではありません。あなた方と開戦するためですよ。」と言った。

朝内は静まり返り、李靳は色を失った。姜恒が再び言った。「五国には前もって会議に参加するよう通達したのに、なぜ代国はこんなに遅くなったのですか?もし来ないなら、天子令を以て雍国に討伐を命じるところでした。手紙を送り、李霄に伝えようとしたのですよ。金璽を蔑ろにするなら、封位を取り上げ、庶人に落とすと!」

李靳は激怒して怒鳴り声をあげた。「お前に天子を代表する資格があるのか?」

姜恒は金璽を持ち上げ、眉を揚げて見せた。「帰って霜公主にお聞きなさい。公主がその資格を認めるかどうかをね。」

たちまち李靳は言葉につまった。姫霜が金璽の力を認めたのはほんの少し前のことだ。だからこそ遠路はるばる安陽に行ってまで大晋姫家の正統を継承させようとしたのではないか。

そうだ!こう言おう。『お前らには天子の遺命があるかもしれないが、こちらには公主がいるんだぞ。』だが、口を開いた瞬間に姜恒が再び言った。「ですが、こうしていらしたのですから、私としても代国が会議に参加する意思と誠意を現わしたことを認めましょう。両国国境での件については、連盟が成立した暁には何らかの返答ができると約束します。」

 

李靳は何も言い返せなくなった。本当は李霄と姫霜が彼を送り込んだのは、連合会議に参加するという形で情報を探らせるためだった。国境の雍軍は数万にすぎず、しかも三軍に分かれている。李霄は軍事に優れた実の弟、李儺に三十五万の兵権を与えた。耿曙など恐れない。堰を切ったように大軍を一気に放って兵の波で彼を溺れさせてやる。

「汀候、どうぞ。」汁瀧はちょうどいい頃合いで合図した。

李靳は暫くしてから出て行った。連れてきた二千の兵については、姜恒の考えではあまり気にせず好きなようにさせておけば良さそうだ。

「彼を監視させて。」姜恒は界圭に命じた。「城内で何をするか見張るんだ。」

李靳の任務は各国に協力させて雍に対抗させることではないかと姜恒は疑っていた。それがうまくいけば、再び相互に牽制しあう状況に後戻りし、神州統一の大業は再び難航してしまう。最後に曾嶸が言った。「明日の会議は重要で何日も続くかもしれません。本日のこの変数について、我らはもう一度よく見直してみなくては。」

姜恒は戸を閉めた。界圭は室内で守りについた。汁瀧、陸冀、周游、曾嶸、姜恒の五人は、会議の章程について、万が一のことも起きぬよう、詳細に見直した。

 

 

「私はまだ金璽をちゃんと見たことがないんだよ。」汁瀧が言った。

深夜になり、大臣たちも皆帰っていた。明日、雍国は、この百年で最も難しい局面に臨むことになる。明日の連合会議で何が起きるかは誰にもわからない。姜恒本人でさえ、まったく予測できないことだった。殿内に残っているのは、姜恒と汁瀧の二人だけだった。

「私もしっかりと見たことはありませんね。」姜恒が最後にそう言った。

汁瀧は黄布でそれを包み直して姜恒に渡した。「表面に刻印されているのは何なの?」

「諸天星官です。」姜恒は布を開いて金璽の一角をじっと見つめた。そこには星座が彫られていた。彼は汁瀧に金璽の中央部分を指さして言った。「天子は諸天に任命された神州の守護者である。金璽を持つこと、即ち天命なり。」

汁瀧は頷いて、金璽を姜恒に持たせた。明日は連合会議が開催され、この金璽が新たなる天子に正式に授与される。それに選ばれる人は、汁瀧に他ならない。

姜恒は汁瀧に頷いてから、部屋を出て行った。界圭が殿外で待っていて、部屋に休みに帰る姜恒を護衛した。

 

 

ーーー

第190章 五国会議:

 

神州は長い暗黒の夜の中にあった。冬至である今日の長夜と同じく、最も短い昼と最も長い夜、大争の世における最も深い真っ暗闇の中にある。あの日洛陽に侵攻した諸侯国の誰も、この闇夜がいつ明けるのかを知らない。

神州はそんな長い長い夜に眠り続けている。永遠に目覚めないのだろうか。刃を交わしあう争いも、この巨人の目を覚ますことはできない。鮮血が流れ、巨人の顔の前に滴り落ちる。諸侯の地、公卿の地、士人の地、人々の血―――それらが一つにまじりあって、荒れ狂う河の流れとなり、時間の波に突き動かされて大地に注がれ、巨人の足元の土壌にしみこんでいった。

ただあの日、姫珣が姜恒に金璽を渡したことは、そんな長い夜に最後に残った星あかりを受け継がせたようでもあった。やがて銀河は少しずつ西に動いて行き、天の果てにほんのわずかな緋色が見え始めた。ついに空が明るくなろうとしていたのだ。

 

朝陽が宮殿の中に届くころ、姜恒は三時辰に満たぬ眠りから覚めた。気分はすっきりしていた。四十九回の鐘が鳴る。かつて毎朝、洛陽で耿曙と聞いた音と同じ、唯一の違いは、今日は朝の鐘の後に、長く尾を引く六音が打たれ、諸侯の代表者が天子王城に集まったことを示していた。

この日を待っていた封国国君たちは、それぞれ会場に来た。そこは諸封の臣が天子に接見する時に使われる「礼殿」だ。屋外に立てられた祭典用の丸い天幕(ゲルみたいな?)で、地面には厚い敷物が敷かれ、神州大地の地図が描かれていた。洛陽王宮の中央にあり、周囲には火盆が焚かれていた。

 

鐘が大きく叩かれ、その音が響く中、最初に梁王と臣下たち、次に鄭王と龍于、鄭国臣下たち、その次は羋清と熊丕と鄭の臣下、最後に代国李靳が入って来た。

百人近い人たちが列を成し、甲冑姿の兵士が国君たちを護衛する。みな封国内の公卿たちだ。

天子御座が北側中央に設置されている。五国の国君たちがそれぞれの位置に座った。代国が西、鄭国が東、郢国が南、雍国が北、梁国は中央右下だ。汁瀧の場所は天子御座から離れていない。姜恒は最後に入って行った。彼が会場に姿を現すと小声で話していた公卿たちがしんと静まり、一斉に目を向けた。

姜恒は太子令の官服姿で、晋制に則って手に符節を持ち、会場に立って周囲からの注目を受けた。突然これが現実でないかのような気持ちになった。七年だ。ようやくこの地に戻って来た。天子の御前に。

「姜大人?」梁王が声をかけた。姜恒は長く息を吐くと、御座の前に行き、誰もいない席に向けて跪いて拝礼した。「天子、安らかなりますことを。」

諸王は一斉に立ち上がった。汁瀧も振り返り、皆は天子御座に向かって跪いて額を地につけた。

「金璽を拝見いたします。天子安らかなれば、天下平らかなり。」国君たちは恭しく口上した。再び連続数回、鐘が鳴り、各人は着席した。姜恒は御座の横に座ると、空席を示した。

「七年前、洛陽が大乱となり、天子は崩御されました。万民は離散し、中原大地は大争に陥りました。こうしてお集まりいただいた各国封王方に対策を話し合っていただきます。」

会場は静まり返り、姜恒の声だけが響いた。「本来であれば、天子崩御の際は、三公並びに趙将軍が諸王に照会すべきところですが、趙将軍と朝廷官員は天子と殉職されました。今や、晋朝廷の中央官員は姜某と聶海将軍しかおりません。聶将軍は兵を率いて出ておりますので、全権を私に委任されました。天子御自らお授けくださいました伝国金璽を以て、この連合会議を主催いたします。国君各位には異議なきことと存じ上げます。」

「異議はありません。」それぞれが答えた。

 

汁瀧は跪いて、天子御座の少し横の角度から姜恒を見た。なんだか見知らぬ人のように思えた。ずっと姜恒を雍人とみなし、雍地に来た時から、汁家の味方だと思い込んできた。だが、この時になって汁瀧にはわかり始めてきた。姜恒の中の隠されたもう一つの本当の身分を。

―――彼は今までどこの国にも帰属してこなかった。初めから終わりまでずっと姫珣に忠義を尽くしてきたのだ。

「皆さま、本日はどんなことでも忌憚なくおっしゃってください。」姜恒は金璽の布を解き始めた。真っ黒い鉄の塊のような物。各国国君たちは今初めてそれを見た。視線は天子卓の上に注がれた。

「天子は崩御されましたが、この璽を見れば、神州の天命を見るごとしです。本日は争いごとを収め、重大な責任を果たしましょう。天下の民のために新たな天子を選ぶという。」

誰もがわかっていた。この大争は行きつくところまで達した。もう新たな秩序を立てるときであると。

 

「それは伝国の字なのですか?」羋清が言った。「見るのは初めてですが、先王が幾度となく口にされていました。ちょっと拝見してもよろしいでしょうか?」

姜恒は金璽を手に取り、皆の前に差し出して見させた。「七年前、天子は遺命として、私に天下の君となるにふさわしいものを探すよう命じられました。」

そして皆に見せた後、この王権の象徴を再び御座の前に置いた。

「ですが目下の状況下ではそれは大事なことではありません。在下(私)は国君たちの意思を聞きたいと思います。未来の神州の命運はお集まりいただいた皆さんの手の中にあるのです。」

熊丕が言った。「天子が崩御されたのは、理由あってのことですが、今は置いておきましょう。」熊丕は羋清と視線を交わした。

姜恒には彼の言いたいことがわかった。あの時、五国が洛陽に侵攻したことは歴史上の汚点であった。雍国は四国が関内で大戦を引き起こそうとしたのだと言い、四国は汁琮が諸侯に命じさせるために姫珣を連れ去ろうとしたことを責める。どちらも譲らず、それぞれに言い分があるので、暫し取り上げないでおこうと言っているのだ。そして一度そこで話を停めた後、熊丕が再び言った。「雍国は昨年協議を反故にし、安陽で盟友に対し開戦し、我が国の十万の兵を屠殺しました。その借りを今日はしっかり返してもらわねばなりません。」

会場は静まり返ったが、これについては群臣たちが汁瀧に言ってあったので、汁瀧は何も気にせずただ笑っていた。「梁国にも言い分があります。」梁王も口を開いた。「安陽、衡陽、照水などの地は今や雍国の占領下にあります。いつお返しいただけますか?姜大人に我が大梁への正義をお示しいただきたい。」

幼い鄭王の横から、諸令解が代弁した。「鄭国は済州の一戦で塗炭の苦しみを味わいました。雍国は残虐非道な悪行を犯しました。汁琮は死んだといえ、死しても罪は残ります。今、誰がこの戦争への謝罪をしていただけるのでしょうか。」

李靳が鼻で笑い、姜恒を見た。自分たちは仇打ちのために来たのではない。この状況を姜恒がどうすることもできず、代国の訴えを今からのむのも遅くはないと言いたそうだ。

 

汁瀧はまず熊丕に言った。「安陽の一戦で、十万の郢軍を殺害したのは雍人ではありません。あれは中毒死だったのです。帰国は遺体を回収した後で、報告を受けたはずです。雍軍も一万近くが犠牲になったのですから。」

熊丕が真剣に言った。「同胞たちが安陽で死んだあと、安陽は雍王に占領されました。あれは汁家による説明です。もし違っていたらどうでしょうか。」

「殿下。」羋清が熊丕に小声で何か言った。

姜恒は汁瀧に目をやった。『どう答える?』

汁瀧は「雍国は再び調査を行い、日を改めて必ず貴国に報告します。」と言った。

 

姜恒は安陽の戦いについて疑っていることがあった。十万以上の人や鶏や犬まで残らず一気に殺しつくしたというのは、羅宣の手によるものではないか。だが、彼の師父が見つからない以上、問いただすことはできない。

「雍王を信じることに致しますわ。」羋清が言った。熊丕はそれ以上異議を述べず、太子と公主は小声で何やら討論しだした。

「それでは我が国のことは?」梁王畢紹が言った。太子霊の死後、畢紹は一夜にして成長したようだ。十二歳にすぎないというのに、すでに大人の風格が垣間見えた。

(十二歳!流花、このショタめ。)

汁瀧は言った。「安陽の乱は、孤(私)の本意ではありませんでした。こうして連合会議が開かれることになり、考えが決まりました。梁国王都はお返しし、照水城は雍軍が暫し管理したのち、三年かけて移譲する所存です。」

汁瀧の話に一同は大騒ぎとなった。まさか雍国がこんな風に土地を手放すとは!

「感謝します。」畢紹が淡々と言った。

 

「戦死した者たちのことは雍王はどう言われるおつもりか?」相国春陵が言った。「親父さんの決めたことで知らなかったなどという言い訳は無用です。今や国君たるあなたの責任なのですから!」

諸令解:「済州の戦いについてはどう説明を?」

汁瀧は答えず、皆は彼を見た。長い長い沈黙の後、姜恒が言った。「雍王、皆さまがお聞きです。どう答えられますか?」

汁瀧は姜恒に言った。「土地を割譲するなり、賠償するなり、各国で戦死した人々への補償は全て受ける所存です。」

その場にいた者たちは警戒した。汁瀧の態度はあまりにも低姿勢すぎる。何かの策略ではないのか?彼の後ろにいた曾嶸、周游たちは皆、諸侯たちの表情を観察していた。負けるが勝ち。今から余計困ったことになるから見ていろよ。

「ただ一つだけ言わせてください。」汁瀧が再び言った。「私も天子に我が大雍への正義を示していただきたい。一年前、梁、鄭両国が連合して雍国領地に侵攻し、落雁を攻城しました。先に戦争を仕掛けてきたものとして、このことへの贖罪は誰がしていただけますか?」

姜恒は梁王、鄭王、及びその臣下たちに目を向けた。

諸令解が言った。「十五年前、汁琮は耿淵を遣わし、四国連合会議の席上で諸国の要人を刺殺しました。これは不倶戴天の仇、全てはそれが始まりです。感情的にも理屈においても。」

姜恒が言った。「その会議での議題は何だったのですか?」

諸候たちの表情が少し曇った。あれは重聞の呼びかけで、関内四国が連合を組んで、雍地を山分けにしようとしたものだ。そこが最も重要な点だ。

諸令解が真顔で言った。「お前ら雍人は虎狼のごとくに今にも関内に侵入しようと……。」

「言葉巧みに話をすり替え、詭弁を行うとは!」姜恒が怒りの声を上げた。「言い逃れをする輩を私が斬れぬとお思いか?!」金璽が卓を鳴らし、大きな音がした。その場の者たちは皆驚き、汁瀧でさえ、少しどきりとした。

諸令解はびくっとして話を中断した。姜恒は顔を怒らせ、糾弾するように言った。

「国君各位は戦乱を終わらせる意図のもとに集まっていただいたと信じます。もし正直に物を言えず、詭弁の術を以て多くを語るなら何の意味がありますか?龍于将軍!」

しばらく時間がたってから龍于がゆっくりと言った。「末将はここに。」

耿曙は会場にいない。姜恒を支えてくれる者がいないのが、この会議での唯一の難点だった。だが龍于は一国の上将軍ではあるが、身分は天子の臣下、晋家の承認を得たというだけだが、身分上は従う必要がある。

「また無意味なざれ口を叩くものがあれば、会場から連れ出し、我が身に与えられた権限に従い、不埒な者を斬るように。」その瞬間、誰もが何も言えなくなった。

 

しばらくすると汁瀧が沈黙を打ち破った。

「十五年前、雍国はまだ玉壁関を出ていませんでした。貴国の重聞将軍は四国を結集させ、我が国土を分割して、民を路頭に迷わせようとしたのです。」

姜恒は淡々と言った。「発生した事実のみについて討論することにしましょう。誰が何を企んだと言う話は無しです。それは挑発行為とみなします。」

「あなた方雍国が不正に位を得たからです。」熊丕が言った。

それは事実だ。百二十二年前、汁家は晋廷大尉に過ぎなかった。爵位はただの公爵だった。雍軍は風戎人を駆逐しに出た後戻らず、塞外に自らの国を立て、各国の怒りを買った。それが王権崩落の源だった。

「天子は招討令を発布しました。そうですよね?」汁瀧は反論した。

それも事実だ。―――姫家は汁氏の行為に憤怒したとはいえ、最終的には彼に七鼎を与え、汁家が諸侯王の位につくのを承認した。責任の所在を求めるなら、その時の天子を探さねばならない。死人に問うことはできないが、いればその天子にも説明を拒否する権利はなかった。百数十年前の話は古すぎる。もう五代も六代もたっている。あの頃各国にはすぐさま雍を討伐する気はなかった。それどころかその機に乗じて王権を分け合ったのだ。誰が一番悪いと言えるだろうか?諸候たちにも返す言葉はなかった。

「そうです。」姜恒が諸侯たちに替わって答えた。「天子は鐘一つ、鼎七つを与えました。汁氏は中央より承認された諸侯であり、その位は正統です。」

汁瀧はまじめくさって言った。「それなら姜大人、国君各位、諸候国がそれを理由に宣戦するのは理屈に合いません。」

「各位はどう思われますか?」姜恒が言った。

梁王が率先して承認した。「上将軍重聞が「脅威」を理由に戦を仕掛けたのは妥当ではありませんでした。ですが、十五年、またそれ以上前から雍と我が大梁の間に土地争いの戦が頻繁にあったのも事実です。」

「規則によれば、各国の間に領土をめぐる紛争があれば、天子のところに赴き、裁定を請求すべきです。天子が採決したのち、諸侯が命令を拒めば、天子令を以て天下が共にこれを打つことになっています。梁国は天子に裁定を求めましたか?」姜恒が言った。

諸令解が冷笑した。百年前から今に至るまでにそうした局面では武力の強い方の話を聞くことになっている。天子の話なんか何の役に立つと言うのか。

「諸令大人、何でしょうか?」

「それは朝廷こそ反省すべきです。なぜ天子の命令に諸侯が従わないのか?どうです?姜大人、これは事実です。私は事実を言っているにすぎません。殺したければ殺せばいい。恐れるものか!」

「各国国君も反省すべきですね。土地を争って財力を使って休むことなく戦うのはなぜですか?本当に生きるための戦いだけでしょうか?」姜恒が言った。

「姜大人の言う通りです。」幼い鄭王がもう黙っていられずに口を開いた。「みんな大争の世だから自分だけのことだけを考えてはいられないと言います。でも、最初に仕掛けたのは誰なのでしょうか?人の心が欲に取りつかれているからではないのですか?」

 

「しぃっ。」龍于がすぐに小鄭王に合図した。自分の国の人を責めないようにと。

「子供にもわかる道理です。」姜恒はため息をついて言った。「国君が下す全ての決断は、領地内の数多の民の生死にかかわります。諸令大人、私にも汚れなき心があったようです。本当にがっかりしました。」

熊丕は冷笑した。言葉では姜恒にかなわないので嘲りの表情を浮かべる。

羋清は真剣に姜恒を見る。梁王畢紹はため息をついた。

「雍国は本当に梁国領土を返してくれるのか?」畢紹が言った。

「はい。」これには汁瀧が躊躇なく答えた。「まずは誰かが譲歩しなくては。これは孤王と姜大人が早くに決めていたことです。今日の会合で皆の意見が一致しようがしまいが、安陽を力で占領することはありません。」

 

姜恒は黙ったまま一同を見回した。

「姜大人は本当にここで問題を解決するつもりなのですね。」春陵が考え考え言った。

「姜大人の行いに敬服いたします。」春陵は嫌々ながらも敬服した表情をし、龍于を見て尋ねた。「姜大人は何年か前に雍王を暗殺しかけて、玉壁関から大軍を撤退させたあの……。」

龍于は頷いた。「そうです。その人です。本将軍は話をする立場にはありませんが、敵とはいえ、雍国王都を守り、亡国の危機から救った。そして、彼と聶海将軍は済州を守った。年若くして天下を渡り歩き、どの国でも民を救ってきた彼らを自分の家族のように……。」

(汁瀧の前で済州守ったとか言っていいのか?ヒヤッとした、今。諸令解だってバラさなかったのに。)

姜恒はそんな誉め言葉は聞きたくなかった。突然疲れを感じ、龍于の言葉を遮る。

「その通りです。皆さまに来ていただいたのは問題解決のためです。ですが、皆さまは自分のことばかり。このままではたくさんの問題は永久に解決しないのではと心配になります。」

羋清が言った。「私たちがここへ来たのは、問題を解決するためもあるけど、もう戦わないためです。」それは七歳の趙聡にもよくわかる道理だ。今の天下はかつてとは違う。戦乱による破壊が神州大地を暗闇の中に沈み込め、人々は耕作することもできない。良田は荒れ地と化し、家々は廃墟となった。いったいいつになれば終わるのだ?

 

「ですが、問題はどう解決すればいいでしょうか?少なくともここに来られたということは、皆の目標は同じだと私は思います。私達は再び決まりを持つ必要があるのではないでしょうか?百年前に戻り、古くなった規則や王道に従い、少し休んで再びやり直すべきでしょうか?それとも規則など打ち破り、この百年行ってきたように、最後に大きな戦いを経て、天下の帰属を決めるべきでしょうか?

この会議が終わった後で、二つの答えを得るでしょう。」姜恒は李靳を無視して他の諸侯たちに向けて言った。

 

「一つ目は中央朝廷を新たに作り、天子を奉り、新たな政令を遂行し、一切の戦争を止めることです。:二つ目は各自国に戻り、軍隊を招集し互いに殺戮しあうことです。一方が他方に対し徹底的に勝利し、今ある全てを捨て去って、一からやり直すのです。」

姜恒は手を広げて言った。「ここ数年来、姫天子の遺命を果たすため、私は全力を尽くして来ました。金璽を授与すべき新たなる王を探し、新たなる秩序を打ち立てるためにです。ですが戦争で勝敗を決めるという方法もあります。どちらがいいと思われますか。」

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 181-185

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第181章 招かれざる賓客:

 

安陽城市にある、山際の高所は秋のすがすがしい空気に包まれていた。ところどころに、壊れかけた石彫りがあり、その背後には梁国の宗廟がある。宗廟前には一本の大樹があった。界圭はその木の下に腰を下ろし、姜恒のために銀杏を向いて手渡していた。

木の上に人影がある。耿曙だ。耿曙は木の上から辺りを見渡し、最後の一人となった刺客が来ないか見張っていたが、四方を確認して無事だとわかると枝に腰を下ろした。

界圭は木の下に腰を下ろしたまま話し始めた。「さっき太子坊やのところに行ったときに、何をきいたと思います?」

「今日は国のことについて話さなくてもいいかな?」姜恒が言った。

「いいですよ。」

でもそこまで言われたら、尋ねないわけにもいかない。「何を聞いたの?」

「姫霜がもう代国を出発して、安陽に向かっているそうです。誰に嫁ぐにしろ、まずは状況を見たいということなのでしょうね。」

「それなら誰かさんは迎えに行かないとね。何でまだこんなところでのんびりしているのかな?」姜恒が言った。

「何かお手伝いできますか?」界圭は姜恒に尋ねた。「何も。これで充分。」姜恒は答えた。

 

界圭は考えた末に言った。「私が名乗りを上げたら、姫霜は私に嫁いでくれるでしょうかね?」姜恒は苦笑いせずにいられなかった。「言ってみれば?」

界圭は木の根に座り、少しずつ姜恒に近づいた。傷だらけの顔を近づけ、笑顔を見せて言った。「恒児。」耿曙の動きが停まったが、何も言わなかった。

「誰もいないときはそう呼んでいいと許可してくれましたよね。木の上の人は数に入りませんよ。」「まあね、」姜恒は応じた。

「私は年寄りだと思いますか?」界圭が言う。姜恒は窺うように見た。「いいえ。」

「私は醜いと思いますか?恒児、本当のことを言って。」

姜恒は真剣に界圭を見て言った。「いいえ。あなたを好きな人はとても多いはずだよ。」

耿曙は黙ったまま、木の上で二人の会話を聞いていた。界圭は得意げに笑い出した。醜い顔を赤く染めて、思い人から誉められたかのようだった。

「あの夜、あなたに言ったことを覚えていますか?」

「何だっけ?」姜恒はすっかり忘れている。だいたい界圭はくだらない話をいっぱいしてきたし。界圭は振り向いて姜恒に向かい真剣に言った。「私と逃げましょう、恒児。あなたを一生大事にすると誓います。」

姜恒:「……………………。」

界圭は笑顔を引っ込めて言った。「私の醜さが嫌じゃないなら、この世のどこかで、これからあなたと私、二人だけで助け合って生きていきましょう。」

耿曙は遠く青天を眺めていたが、目が血走っていた。

「ふざけないで。こんな風に私をからかう必要がある?」姜恒は気恥ずかしくなった。

界圭は真剣だ。「恒児、私はずっとあなたを好きでした。からかうつもりはありませんよ。初めて会った時のことを覚えていますか?」

「あなたは私が誰か知りもしなかったじゃないか!」姜恒が言った。

「私が言っているのは洛陽でのことですよ。」

「私が言っているのも洛陽でのことだよ。」

界圭は笑った。「私の腕で、本当にあなたを殺そうと思ったら、逃げられたと思いますか?本当に金璽が欲しかったのなら、あんな話をしたと思いますか?初めてあなたに会った時から、これからの人生はあなたと運命づけられているのだとわかったんです。」

「勘弁してよ。」

界圭は姜恒の肩に手をかけようとしたが、姜恒はそれを避けながら、「あなたが好きだったのは私の父だ。彼はもういない。わたしはその代わりにはなれないよ。」と言ったが、それでは少しきつすぎるかと言い直した。「界圭、あなたのことは好きだけど、そういう意味じゃない。頼むからもう、……もう……。」もうどこかに行って、と本当は言いたかったが、過去の思いに浸って一人の人を一生涯思い続ける界圭を尊重したかったため、それ以上は言えなかった。

 

「お父上とはね、お母上と一緒になる前は、二人で色々おかしなこともしたものです。」

「やったのはあなたの方なんだろうね。」

「初めて口づけしたのは、私が十八の時でした。彼は十六でしたが、もう待てなかった。恒児、言わせてください。もしあなたが私についてきてくれるなら、誰にも想像できないほど一生あなたを大事にします。毎日毎日いちゃいちゃと、甘―い日々を送れますよ。」

姜恒:「……。」

 

界圭を止めなくては。突如おかしくなってしまったようだ。嘘か本当かもわからないことをしゃべり続けて。皆彼は頭がおかしいというが、姜恒はそれには慣れすぎてしまっていた。

耿曙はただ静かに聞いていた。

「それでもあなたにはついて行かない。理由はあなたが本当に好きなのは私じゃないから。」

界圭は笑い出した。「同じことだ。違いますか?」

「同じではないって。」姜恒はふと尋ねてみた。「父はどんな人だったの?彼はその頃、あなたをとても大事に思っていたと思う。だけど私にはわかる。父にはきっと理想があったんだ。」

界圭は思いにふけりながら言った。「とても美しい人でした。誕生日に、私が一人でいると、彼が来て一緒に酒を飲んでくれました。あれは桃の花が美しく咲く春の日でした。「一緒に祝おう。」と言って琴を弾いてくれました。琴の腕は今一で、あなたのようにうまくはありませんでした。耿淵も教えようとはしなかった。」

 

姜恒は高所に目をやり、耿曙も邪魔をせず、上の空で遠くを眺めていた。

「彼が弾いている間、私は笑顔で見つめていた。あの頃は、私も美男だったんです。顔はきれいだったけど、胸にはもう傷がありました。風戎人が彼を暗殺しようとした時、かばった私が剣を受けたのです。」そう言って、界圭は襟を広げて姜恒に見せた。裸の胸には、肋骨の下あたりに古傷があった。心臓から半寸のところだった。

「それから?」

界圭は襟をもどすと、話を続けた。「そのあと二人とも酔って、私は彼を胸に抱いて、彼の手を取り、一緒に琴を奏でました。そのあと、私が口づけ、彼も返したのです。

誰かと口づけを交わしたことがありますか?」

姜恒は答えず、顔も向けなかったが、その時、唇にあの熱い感触がよみがえってきた。もちろんその温かな感覚を知っていた。それも一度ではなく。

 

界圭は言った。「彼は私に気持ちがあったとわかっています、恒児。心にはいつも私がいた。あなたと同じようにね。」

「同じではないってば。」姜恒は重ねて言った。

「私の中では一緒です。それから少なからずバカなことをした。バカだけど、いい加減ではなかった。酒の勢いを借りてね。私にはわかりました。彼の心の中にある望みが何なのか。」

姜恒:「……。」もうこれ以上は無理だ。界圭の作り話だとしても、ここでやめさせねば。

「でもね、翌朝には、彼は全て忘れていました。私も忘れました。それ以降、私たちは二度とその話はしなかった。そして半年後、姜晴がきて、彼は結婚しました。婚礼の日、私たちは酒をたくさん飲んで、それから私は彼を寝殿に行かせました。見たところ、彼は本当にお母上が好きになったようでした。私は戸外で二人のために一晩守りに着きました。

 

姜恒は手を伸ばして界圭の頭を撫でてやった。界圭は顔を向けて姜恒を見るとそっと言った。「恒児、彼に対してと同じようにあなたを大事にします。もう誰にもあなたを奪わせない。一緒に行きましょう。恒児。」姜恒は答えず、立ち上がろうとした時、界圭が彼の手を握った。「界圭!」姜恒はすぐさま言った。耿曙が木の上から冷ややかに言った。「手を放せ、界圭。さもないと殺す。本気だ。」

界圭は動作を停めて、姜恒をじっと見た。そして謎めいた笑いを浮かべると姜恒に片眼を閉じて見せた。「うそです、うそです。お父上とのことは全部作り話ですよ。ついビョーキが出てしまった。ここ数年私はよくも悪くも……。」界圭は上の空で独り言のように言った。

「自分で自分をだましていただけです。私たちの間には何もありませんでした。」

姜恒はどうかなと思った。耿曙は再び警告した。「お前の気持ちを邪魔するつもりはない。だがもし無理強いするなら、俺はお前を殺す。」

姜恒は何か言おうとしたが、耿曙は木から飛び降りると、ひらりと身を翻し山の中に消えて行った。その時、安陽別宮の高台から鐘の音が三回響き、賓客の来訪を告げた。

 

 

姫霜が安陽に着くと、すぐに全城大騒ぎとなった。彼女は天子のまた従姉で、つまり天下王権の正統な持ち主だ。例え公主に過ぎぬとはいえ、粗相があってはならない。

だが姜恒は姫霜の意図を見抜いていた。代雍の縁談に効力があるうちに未来の夫を耿曙にする。その後で代国だけは協議から外す。元々代国には中原の国境を雍国と争うだけの力があった。今や雍国は絶対的な勢力で中原を占領しているが、汁琮の死により、代国にもついに機会がやってきたということだ。

 

姫霜は代国の錦繍を施した華服を身にまとい、二千余りの人を携え、代国第三王子、李儺直々の護衛のもと、招かれざる客としてやってきた。まるでここが運命の国土であるかのように。馬車ががらがらと列をなし、侍女たちは楚々と随行する。華蓋相接する金の御車は実に豪華だった。一方の雍国は上は太子から下は公卿まで黒服一色で、更に汁琮の喪に服しているため(ドラマでよく見る麻の粗末な服だよね)まさに北方から来た田舎者がよその土地に滞在中といった感じで目も当てられない。

その中で耿曙だけは堂々たる風格で、純黒玄服を身にまとい、変わらぬ抜きんでた英俊さで雍国の面目をわずかながら保っている。

姜恒はふと気づいた。太子瀧の顔色が少しすぐれない。「兄上?」姜恒が声をかけた。

「夕べあまり眠れなくて。」太子瀧は姜恒を見たが、先ほどの衛賁の言葉を思い出し、眼差しが少し複雑だった。汁瀧は考えようとした。姜恒は、汁琮が一番力を持っていた時でも、死をも恐れず、正面切って罵った唯一の人だ。恐れず立ち向かう勇気を自分に与えてくれた。いつも静かに笑みを浮かべた風貌ながら、天下の何をも恐れない。

 

「別れて幾日たったでしょう。」姫霜は馬車を降りると柔らかな声で言った。「何という夕べ、王子に再会するなんて。ごきげんはいかがですか?」

「おかげさまで、ずっと息災だ。」耿曙は言った。

姫霜と紅い覆面の女は別人になったかのように二年前のことをすべて忘れてしまったようだ。彼女が姜恒と耿曙を殺そうと兵に追わせたことなど、本人たちがいなければ、なかったことにしていただろう。勿論耿曙もそのことは言わなかったが。

「霜公主。」太子瀧は階段の上から姫霜に頭を下げた。

「瀧太子。」姫霜は遠慮がちに微笑み、「姜恒は?」と尋ねた。姜恒は部隊の一番後ろから、微笑みながら声をかけた。「公主のお越しが早かったので、まだ準備ができていませんでした。急いだために、失礼が多かろうと思います。」

「大丈夫ですよ。両国は早くから兄弟の盟を結んだ間柄ですから。来てしまったからには、これからのことは、皆さまでゆっくり話し合ってからでも遅くはありません。」

言い換えればこうだ。:私は嫁ぐために来ました。あなたたちの誰かは問いませんが、誰かには嫁いでもらいます。先にここに住み着いて、決定を待つことにしますから。

 

「王兄上?」太子瀧は耿曙を見た。耿曙は姜恒を見た。全く揺るぎない。だが姜恒は視線をそらした。耿曙が言った。「私がお連れするので、まずは公主にはお休みいただこう。」

耿曙は「どうぞ」という仕草をし、姫霜は礼儀正しく耿曙について行った。

姜恒は李儺を推し量るように見た。代王には最も寵愛した三男一女がいた。一女とはこの姫霜のことだ。長男の李謐は、汀丘離宮にて代王自らの手で絞殺され、次男の李霄が国君を継いだ。三男の李儺は実直な性格の武人で、兵士向きな気質だ。しばらくすると李儺は姜恒に気づき、遠くから彼を見返した。

 

その時姜恒の後ろから手が伸びてきて肩をぽんと叩いた。姜恒が振り向くと、それは郎煌だった。嬉しそうな表情だ。「来たんだね!」姜恒は言った。

郎煌は言った。「俺たちはさっき着いたばかりだ。姫霜が城に来るのを見たんで声をかけなかったんだ。汁琮が死んだことで、君は俺たちに来てほしいかと思って、会いに来たんだ。」

ああそうか。耿曙は前に言っていた。この世に本当の正体を知る者は四人だけだと。―――姜太后、耿曙と郎煌、そして界圭だった。郎煌は汁琮が死んだことで姜恒が身分を明かし、太子の位を奪い返すのではないかと思い、証明するために来てくれたのだろう。

だが今姜恒にはその気はない。郎煌に「しっ」という仕草をして、言いふらさないようにと伝えた。郎煌は同情と理解を示すために頷いた。

「みんなも来たんだよ。今は宮内にいる。夜になったら兄貴と酒でも飲みに来ないか?」

姜恒が答えようとした時、周游がきて、二人に頷いてあいさつした。

「淼殿下がお呼びです。」周游は近づくと姜恒の耳元でささやいた。「霜公主に付き添ってくれと。お三方は以前からのお知合いですよね。」

「あれを知り合いっていうのかな?もう少しであのひとに殺されるところだったのだけど。」そう言うと姜恒は郎煌に別れを告げ、人の群れをかき分けて宮内に歩いて行った。

 

 

ーーー

第182章 雨の夜:

 

「私は烈光剣をあなたに渡そうと嵩県に送ったのですよ。」姫霜は耿曙の付き添いのもと、ゆっくりと王宮の坂道を上がって行った。

「受け取った。烈光剣は今、王宮にある。」

「烈光、天月、それに黒剣、三本の剣が一堂に会したのですね。生きているうちにそんな場面がみられるとは思いませんでした。」姫霜が淡々と言った。

耿曙が答えた。「確かに。その他に、金璽も安陽にある。一に金璽、二に玉玦、三に剣、全て揃った。」

「貴国は洛陽に遷都するつもりだと伺いましたが。」姫霜がまた言った。

耿曙はいつもの関心なさそうな表情でつぶやいた。「恒児次第だ。遷都のことは彼が責を負っているから。」

「王子淼、今でも婚約は有効かしら?」姫霜が真剣な表情で尋ねた。

耿曙は姫霜に目を向け、彼女の様子を推し量った。何か思うところがあるように。

その時姜恒が急ぎ足に近づいてきて、姫霜と耿曙の後ろに追いついた。二人はその足音を聞いて話をやめ、一緒に振り返った。

「来たわね。」姫霜は笑顔を見せた。

「兄嫁殿、こんにちは。」姜恒も笑顔で応じた。

「まだ兄嫁ではありませんよ。」

「私には兄が二人います。どちらにしても兄嫁になられるでしょう。」

姫霜は姜恒が手に持った銀杏と楓の輪飾りを見て尋ねた。「それは私に?」

「いいえ。」姜恒は答えた。「亡くなった兄の家族の祭壇にあげるのです。」

姫霜の眼差しが一瞬複雑になった。「今の雍国はあなたの言いなりなのね。あなたが戦うと言えば戦い、休戦と言えば休戦する。なんだか意外な展開だわ。」

「少し遠いでしょう?」姜恒は袖を広げながらおどけて言った。「兄嫁殿、あまり私を持ち上げないでくださいね。位が上がるのが怖いんです。忙しくて、その内自分の姓が何だったかも忘れてしまいそうですよ。」

姫霜は眉を揚げた。姜恒は再び「どうぞ」という仕草をして、耿曙と二人で姫霜を王宮に送り届けた。

 

梁王后の寝殿だった場所が彼女の落ち着き先となった。姜恒は雍宮の者たちに、公主に対して粗相がないようにと言いつけて、殿外に出たが、耿曙はもうどこかに行ってしまっていた。姜恒はため息をついた。この縁談は汁琮が生前取り決めたものだが、今の天下の対局をみれば必然だったかもしれない。雍国は代国をそう簡単にはねじ伏せられない。姻戚になるのが唯一の方法だろう。姫霜の目論見もわかる。雍国が和睦を望むなら、この選択肢しかないと考えているのだろう。

雍は権力の一部を彼女に与えることになるだろう。王后でも、王子妃でも同じことだ。雍人が勝ち取った山河の半分をもらい受けるためにその座に就くだけだ。何の分際で?勿論、彼女の正統性、彼女の名の持つ力によってだ。

 

「恒児。」

姜恒が庭園から出てくると、耿曙はずっと待っていたようだった。姜恒が目を向けると、耿曙が言った。「俺が彼女と結婚したら、お前はつらい思いをするか?」

姜恒は耿曙の双眸を見つめた。見慣れた表情が読み取れたはずなのに、その時なぜか、耿曙が見知らぬ人になったような気がした。「あなたのために喜ぶと思うよ。」姜恒は軽い口調で言った。それは本心ではなく、本当に言いたかったことでもない。

 

―――あなたはついに私を置いて行ってしまうんだね。私が応じなかったから。だからあなたは私を置いて行くんだね。

だが、姜恒には誰よりよくわかっていた。自分は耿曙に何かを要求できる立場にない。子供のころからずっと、耿曙は自分に全てを与えてくれて来たのに、自分からは何も返していない。

 

「そうなのか。」耿曙は軽く頷くと、姜恒に向かって手を伸ばし、宮壁に手をついて、姜恒の行く手を遮ったが、それでも姜恒は彼を置いて去って行った。

界圭が再び姿を現した。「もしあなたが無理強いするなら、私があなたを殺しますよ。例え力ではあなたに及ばなくても、一人は殺そうとして、もう一人は絶望している時、結果はどうでしょうね。」

耿曙は手を引っ込めたが、姜恒はすでに去っていた。

 

 

夜になると、安陽に秋風が巻き起こり、再び雨が降り始めた。

太子瀧は辛抱強く、耿曙の決断を催促しなかった。曾嶸たちは、姫霜が太子を望まないのはかえっていいことだったとほのめかしていた。姜恒が言った冗談は半ば事実だ。公主は嫁に来たのではなく、婿入りする相手を王子の中から選ぶためにやってきたのだ。王后にしてしまってはシャレにならないが、王子妃なら、こちらにもまだ勝算がある。

それに太子瀧は男女の道についてまだ今一つぴんと来ていないが、耿曙が助けてくれると信じているし、彼自身が突如現れた兄嫁候補が嫌いではなさそうだ。

 

「あれは誰?」太子瀧は高閣に灯りがともっているのに気づいた。侍衛が答えた。「殿下にお答えします。姜太史です。界圭大人がご一緒です。」

太子瀧はまだ服喪中で、寂しい夜には独りぼっちで耐えがたい悲しみを感じていた。

「ここに来るように伝えて。少し話がしたいんだ。」侍衛は伝えに出た。

この夜、姜恒は明かりをつけて、周游が書いた五国の議に注を入れていた。

太子瀧は姜恒と話をしなければ、と思っていた。今日の耿曙と姜恒から何かを読み取ったわけではなかったが、二人の間に摩擦が生じたことは鋭敏に感じていた。

 

姜恒が書巻を抱いてやってきた。「急にどうされたのですか?」

相変わらず笑顔を絶やさない。彼に会う度、気分が晴れる。悩み事が消えて行くような気がした。「ずっと呼びに行きたいとは思っていたけど、お互い忙しすぎたから。戻ってきてからまだ一度もちゃんと話ができていなくて、知らない人から見たら、君に避けられていると思われるかもね。」姜恒は案巻を下に置いた。太子瀧が話を続けた。「送ってくれた議案書はしっかり全部読んだよ。」

「ええ。上の方にあなたの注がついていました。」

 

太子瀧は姜恒にお茶を淹れ、厨房に参湯を作るよう言いつけた。界圭は外から扉を閉めた。

「兄さんは?」

「兄嫁と一緒です。仮の兄嫁と。」姜恒は笑って見せた。

「もう決めたのかな?」

「選択の余地がありますか?私たちみんなで一緒に押し付けたのですから、嫌でも娶るしかないでしょう。」

 

 

夜の雨が灯にきらめく。耿曙は姫霜の寝殿に行った。一日ですっかり彼女の寝殿になっている。この寝室が、そのまま二人の婚房になるのだろう。

「こんな時間に来るべきではなかった。礼を失した。」耿曙が言った。

「おかけになって。」姫霜は耿曙の暗示を聞き取った。縁談を承諾するのだろう。

「私は天子の家系ですから、天下の「礼」は私次第です。それにこんなに殺しあって、血が河となって流れる時代に、天子の王道などあるのでしょうか。大争の世、礼などとっくに崩壊しているというのに、まだ礼節などにこだわるのですか?」

 

別に耿曙はそんなつもりで言ったわけではなかったが、確かにここ数年雍国は何度も大戦を引き起こしてきた。だが、ようやく元の軌道に乗り始めている。汁琮が狂ったように外れて行った軌道から、皆で力を尽くして戦車を引き戻したのだ。だが耿曙は何も言わずに、姫霜の双眸を見つめ、傍らに腰を下ろした。「言ってくれ。何が言いたい?」

姫霜はしばらく黙って考えた末、口を開いた。「姜恒の目論見は、お見通しよ。」

「俺でもわからないのに、あんたの方が俺よりわかっているとはな。」侍女が茶を持ってきたが、耿曙は飲まなかった。趙霊に嵌められたおかげで前より更に慎重になった。

「彼は五国間の境界を取り払って、民族同士を一つに融合させようとしている。戦争で天下を決める代わりにね。」姫霜が言った。

「そうかもな。」耿曙が答えた。「聞いてみればいい。俺には関係ない。俺には戦うことはできるが、戦うことしかできない。」

「代国の支持が欲しければ、私たちが結婚することが重要です。」

耿曙は答えず、屏風を眺めていた。姫霜の横顔が屏風に映っていた。

「でもあなたを呼び出したのは、この話のためではないわ。あることをお伝えするためよ。二年前にあなたが疑問に思っていたあることを。」

耿曙は手の中の玉玦を弄んだ。五本の指を、琴弦を押さえるように、少しずつ動かす。親指から中指、中指から薬指、小指、最後にきらりと光らせながら親指に戻した。

すらりと長い指に、大きな掌。剣の修練で鍛えた引き締まって力強い指先で玉玦を転がす動作は、見る人の目を楽しませる。

 

「二年前、疑問に思ったのではないかしら。一体誰があなた方の正体を私に知らせたのかって。」姫霜が言うと、耿曙は答えた。「最近になって答えがわかった。だがあんたが言ってくれるなら聞いてみたい。」

「趙霊だと思ったのではない?いいえ、違うわ。汁琮なのよ。」姫霜は口角に皮肉な笑みを浮かべた。耿曙の動作が停まった。そうだろうとは思っていたが、確信はなかった。

 

 

太子瀧の寝殿で、姜恒は書巻を折り上げた。

「二人は縁談のことでけんかをしたのかい?」太子瀧がふと尋ねた。

汁瀧は姜恒と二人きりでいる時なぜかいつもほっとできる。家族より家族らしい。耿曙と比べても姜恒の方が本当の兄弟のように感じる。二人は遠縁の親戚同士なのだが、心が通じあう気がするのだった。

「お見通しでしたか。」姜恒は笑い出した。

「父王のそばにいて、人の顔色を伺うのがくせになっているんだ。兄さんは時々父王と似た感じで、わかりやすいんだ。」

「少しだけ。でもそれだけが原因ではないのです。」

「じゃあ、兄さんはどんな娘なら娶りたがると思う?」太子瀧が言った。

姜恒には答えられるわけがない。特に太子瀧の前では。だがしばらくすると、太子瀧は答えを待たずに話を変えた。「我らが代国と開戦する可能性は、どのくらいあると思う?」

「もし代国が連合議案を承認しなければ、戦うしかないでしょう。そして多くの民が犠牲になります。」

太子瀧はため息をつき、苦笑いしながら言った。「時々、普通の民の家に生まれて、父があちこち攻めに行く王なんかでなければ、私の一生ももう少し楽しかったのではないかって思うことがあるよ。」

「私は普通の民の家に生まれたと思っていました。」姜恒は笑い出した。「それがどうでしょう?幸せは続かず、戦乱の中、失いうる物は全て失いました。今より更に悲惨でしたよ。」

「君は兄さんのために来たのだよね。」太子瀧が言った。「ちゃんとわかっているんだよ。君は最初から雍国があまり好きじゃなかった。父王のことも好きじゃなかった。父王も君が好きじゃなかった。」

太子瀧が見抜いていたとしても不思議はない。例え、姜恒が毎度毎度汁琮の怒りに火をつけるのに気づいていなかったとしても、汁琮の態度からおおよそのことは推察できただろう。

最後には汁琮は狂ったかのように、彼を逆臣と位置づけた。太子瀧も父と姜恒が水と油だったことに気づいたはずだ。

「でも私は君がとても好きだよ。君には私心がない。」

「ありますよ。人間誰しも私心はあります。私にも当然あります。私に唯一の私心は、私たちの兄です。そうでなければ兄のために雍国に来たりしないでしょう?」

「確かにね。」太子瀧はため息をついて頷いた。そして再び尋ねた。

「どうしてだい?恒児、どうしてなのか、私に教えてくれないか?」姜恒は黙り込んだ。

「あの時、兄と父の間でいったい何が起こったの?」

 

 

同じころ、姫霜寝殿にて:

「どうしてなの?」姫霜は疑惑を顔に表していた。「私はずっと汁琮があなたたち二人を殺そうとする理由を考えてきました。あの翌年、姜恒が落雁で変法を推し進めて、自尊心の強い暴君の逆鱗に触れたのは確かでしょう。……でもそれ以前には彼らは会ったばかりだった。汁琮の忍耐力をもってしても彼を殺すのはおかしいです。」

耿曙は言った。「きっと俺の忠誠心を汁瀧だけに向けさせたかったのだろう。俺は汁家の守護者である耿家の後継として合格だった。恒児のことは唯一の誤算だったんだ。彼が生きていたら、俺は汁瀧に絶対服従することはできない。これで理解できないか?」

姫霜は笑みをたたえて耿曙をじっと見つめた。「確か姜恒は雍国があまり好きじゃなかったと言っていたわね。」

「ああそうだ。元々弟は俺のためでなかったら、雍国に身を投じは……。」そこで耿曙は停まった。何かを思い出したようだ。

姫霜は静かに、先を急がせずに待った。殿内は水を打ったように静かになった。耿曙はずっとずっと長い間黙り込んでいた。あまりに長すぎて死んだのかと思うくらいに。

「子淼殿下?」姫霜は先を続けるよう促した。

それでも耿曙は身動きすらしない。この数年、もうすっかり忘れてしまっていた。姜恒がなぜ雍国に身を投じたのか。なぜこの大争の世を終わらせる抱負を抱いたのか。汁琮に数多の刺客を送り込まれても耿曙に怒りをぶつけることもなく、自分の身の上を知ってからも最後は笑って受け入れた。それでもなぜ。

「彼は俺のために来たのだ。全ては俺のためだった。」耿曙はつぶやいた。

姫霜はゆっくりと告げた。「ええ、前に会った時、彼もそういっていたわ。『兄のためです』とね。」

 

耿曙は夢の中にいるようにつぶやいていた。「目標を抱いたのは……俺が死んだと思ったからだ。それで神州を統一して、人々が自分たちのように、家を失い家族を亡くさないように。

今でもそのために努力をしているんだ。」

姫霜は頷いた。「それはもうわかったわ。王子淼。」

「俺がどうして承諾したか知りたいか?」耿曙は我に返って姫霜に尋ねた。

姫霜の表情は複雑だった。本当は耿曙に言いたかったのだ。『あなたを今夜呼んだ理由は、確認したかったからよ。―――あなたは私を愛していた?私を娶るのは愛しているから?それとも姜恒との約定のため?』(なら殺そうとするなよ)

どうやら答えを得たようだ。何というお笑い種。天下の大義、王道、興衰……その根底にあるもの、それらの下にあるものは、たった四文字の言葉:恋愛感情、だったとは。

 

「今夜、あなたと取引したかったのよ。汁家は本来功成り身を退くべきです。たかが封王に過ぎないのに天子になる資格などないでしょう。」

だが耿曙は突然姫霜の言葉を遮った。「俺も元々取引するつもりだった。あんたとな。だがもう無理だ。」耿曙は姫霜をしかと見た。姫霜はふと耿曙の眼差しに畏怖を抱いた。彼女が安陽にやってきたのは、耿曙の協力を得て、快刀乱麻に全てを解決させるためだった。

 

彼女なら新たな天子を生める。その子は五国の主人になるだろう。天下の主人だ。それには耿曙と姜恒の協力が必要だった。兄弟は一文一武。汁瀧を排除するのは時間の問題だ。

 

「もう無理ですって?」姫霜は驚いて尋ねた。「子淼!いったい何を言っているの?!」

耿曙は暗い夜の長廊を進んで行き、郎煌と山沢が雨を避けて亭内に座っているのを見つけた。郎煌は骨笛を手に持ち、小声で何か言っていた。耿曙が歩を停めると、彼に気づいた二人は話を止めた。「花婿殿か?酒を飲まないか?」山沢が言った。

耿曙は暫く黙ってから尋ねた。「水峻は?」

「部屋にいる。」郎煌は笑い出した。「俺たちが少し話していたら、部屋に戻ってしまったよ。」耿曙は元々別の日に話そうと思っていたが、考えを変え、亭内に座り込んだ。「一杯くれ。一杯だけだ。」

山沢と郎煌は耿曙の表情を伺った。生死を共にした彼らは、落雁の一戦以降戦友となっていた。普段はあまり会うことがなくても、ともに戦ったことで、ある程度心が通じ合っていた。

「どうした?」郎煌の笑顔には一切嫌味はない。「結婚間近だというのに、ほったらかしか?」

山沢は郎煌に言葉に気を付けるように合図した。耿曙は今、天下一の武人だという評判だ。万が一怒らせて二人を切り殺すことになったら、割に合わないではないか。

 

 

 

ーーー

第183章 狭い空間:

 

太子神殿にいた姜恒は、 ふとある感覚を持った。血のつながりによる心の通じあいか。二人は従兄弟だ。手足を流れる血、二人の体を構成する要素。二人の父親は同じ人を父とする。二人の祖父だ。私たちは兄弟なんだ……姜恒の生涯で初めての強烈な感覚だった。二人が家族だという事実、それは太子瀧の心情を直に感じ取れるほどに強く心に迫った。

 

太子瀧はこの時心の中で言っていた。―――本当のことを教えてほしい。真実で自分と向き合ってほしい。真相の根底に何があろうと、決して責めはしないから。

この時、姜恒はもう彼をだまさないことに決めた。「陛下が求める世界と私が求める世界が同じではなくなったのです。それで陛下は私が嫌いになったのです。」

太子瀧は言った。「でも最終的には父王がいなければ、私達はここまで来れなかった。」

「その通りです。ですから陛下を責めるつもりはありません。例え陛下が私を嫌いになっても私を……私を……。」

「もういい、言わないで。父が決めたことだ。私は私、父は父。私は君がとても好きだよ。それで充分。」

姜恒は頷くと、微笑みながら言った。「陛下の人生は功過併せ持つものでした。時には政見や主張の違う者を力でねじ伏せ、多くの血を流しました。それはあまりに残忍でした。」

太子瀧も声を低めて言った。「私もそういう血を見てきた。君がその内の一人にならなくて本当によかったよ。」牛珉が死んだとき、太子瀧は日夜苦しんだ。絶対に受け入れがたいことだった。父が東宮の人間を車裂きにするなんて!姜恒は牛珉のようになるところだったのだ。姜恒に対する父の不満は誰よりも強かった。姜恒が逃げきれて本当によかった。手段などどうでもいいことだ。

姜恒は太子瀧をじっと見て、しばらくしてから言った。「全て終わったことです。うらみはありません。」

「わかっているよ。そうでなければ帰ってきてはくれなかったものね。君は兄さんと、二人でどこまでだって逃げてよかったんだ。誰にも見つからない世界の果てまでだって。これは私が言いたかったことでもある。恒児、すまなかったね。私には何もできなかった。わかっているんだよ……。」最後に太子瀧はそっと付け加えた。「君たちが戻ってきてくれたのは……私のためなのだよね、そうでしょう?」期待に満ちた眼差しを向けられ、姜恒の心は痛んだ。「そうです。」姜恒は最後にそう言った。

 

太子瀧は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。姜恒が最初に雍国に来たのは耿曙のためだった。この二度目の帰国は純粋に使命感によるものだ。二人は耿曙が死を装った時に、全てを放り出すことができたはずだ。それでも二人は安陽に戻ることを選んだ。その結果、耿曙は縁談を受けざるを得なくなった。代国と雍国の和平のために。

「あなたは素晴らしい天子になられます。」姜恒は太子瀧に言った。

「あなたと兄さんさえいてくれたら、必ず努力するよ。」太子瀧は頷いた。

夜も更けた。姜恒は宗巻をしまい、太子瀧に別れを告げた。

 

扉の外で界圭が待っていた。寝殿に戻ると、界圭は寝床を整えた。

「考えておいてくれましたか?」界圭が尋ねた。

姜恒は苦笑いした。「何のこと?今日はもうからかわないで。身も心もくたくたなんだ。」

界圭は寝台に腰を下ろし、無遠慮に肩を並べて座った。「五国会議の後、一緒に逃げましょう。誰もいない場所に行って、誰にも邪魔されないようにするのです。」界圭は絶対にさっきの太子瀧との話を聞いていたのだ。

「死んだらどう?死んだらもう誰にも邪魔されなくなるよ。」姜恒は情け容赦なく皮肉った。界圭は笑顔で姜恒を見た。そして立ち上がって外袍をきちんとつるし、水盆を持って来ると、しゃがみこんで姜恒の足を洗い始めた。

「自分でやるから。」

「動かないで。」界圭はそういうと姜恒の顔を見上げながら手拭いで拭いてやった。

姜恒は界圭の双眸を見つめた。笑顔を見ていると、急に悲しくなって鼻がつんとした。

「あなたの左手……。」

「だめになりました。もう剣は使えません。でも私は嬉しいですよ。例えあなたに叩かれたり、罵られたりしても私は幸せです。あなたの心に私がいることの証明ですから。」

「そういうのはやめてよ、界圭。」今の話で姜恒が思い浮かべたのは耿曙のことだった。

「お兄上は結婚するんですよ。もうあなたのものではないのです。私と行きましょう、恒児。あなたが喜ぶなら、何だってしてあげます。だって見たくないでしょう……。」「開けろ。」耿曙が外から声をかけた。いつ来たのか、界圭の話をきいていたようだ。界圭は振り向くと、立ち上がって水盆を片付け、耿曙のために戸を開けに行った。

 

耿曙は部屋に入ってくると、寝台に座る姜恒と向かいあった。

「話がある、恒児。」

「言わなくていい。もう疲れたから、何も聞きたくない。」

耿曙はしばらく黙って姜恒を見つめていた。姜恒は視線をそらさず、「部屋に帰って寝て。早く休んだ方がい。朝廷はもうあなたたちのために日を選び始めているんだから。」

その時だった。耿曙はあっけにとられるような挙動に出た。(極端なんだよ。)

指を伸ばして武衣の留め具を外し、腰帯を解いて外袍を脱ぎ捨てた。

「自分の部屋に帰って寝れ……。」姜恒が顔を向けた時、耿曙は中衣を脱ぎ捨て、上半身をあらわにし、次に腰帯を取り去って白衣と長袴を脱ぎ落としていた。

姜恒:「!!!。」

姜恒は衝撃を受けた。耿曙の体を見たのは初めてではなかったが、今までは全くそういう方面で考えたことがなかった。二人はもう一年近く、一緒に入浴していない。今目の前にある耿曙の体は強靭で野獣の侵略性に満ちていた。ただその野獣はとても温順で、おいでと言われるのを待っているかのようだ。

姜恒にとってはなじみがあるはずなのに、薄暗い光の下で見ると未知のようでもある。ある記憶がよみがえってきた。……ずっと昔、耿曙が自分を抱いていた。洛陽宮殿で寄り添いあっていた夜の記憶だ。

姜恒はくらくらしてきた。耿曙は姜恒に向かって手を伸ばした。

「ちょ、ちょっと……。」姜恒は顔を真っ赤にした。何を言っていいかわからない。

「手を出して。」

姜恒は耿曙の掌に手を置いた。耿曙はその手を引っ張り、自分の胸に置いた。姜恒は彼の鼓動を感じた。耿曙の肌は熱くやけどしそうなほどだ。体からはいつもの男らしい匂いがする。「もう……やめて。兄さん。」

姜恒は衝撃を受けた表情のまま、寝台を少し譲った。耿曙は腰を下ろすと、全く遠慮なしに、自分の体を姜恒に見せつけ囁いた。「俺を見ろ。恒児、俺を見てくれ。」

姜恒はすぐに視線をそらした。耿曙は手を伸ばして抱き寄せようとしたが、姜恒は緊張して、耿曙を少し押し戻した。息をすれば、彼の体温や匂いを感じ、もう逃げ場はなかった。耿曙の野獣のような体はこの狭い空間を支配し、彼の領地に繋ぎとめようとしているかのようだった。耿曙は姜恒の手を握って自分の方に向かせると、寝台の上に倒した。「こんな……ことをするのは結婚するからなの?」

「こんなことに付き合ってくれ。」耿曙は姜恒の腕を押さえ、囁いた。「俺たちは兄弟ではないんだ。何がダメなんだ?」姜恒は恐れ、緊張していた。鼓動が速すぎて心臓が飛び出してきそうだ。身動きも取れない。少しでも動いたら、耿曙の体に触れそうだった。頭から足まで、くっつきそうなほど近い。耿曙がのしかかってきた。鼻がくっつく。

「界圭―――!」姜恒はつい叫んでしまった。界圭が戸を開け、一陣の風のように入ってきた。耿曙はすぐに姜恒を放した。

「言いましたよね。」界圭は冷ややかに言い放った。「無理強いするなら、私だって命を奪いますよ。」姜恒は起き上がって座ると服を整えた。顔は紅潮している。

「無理強いなんてしてない。」耿曙は全く気にせず堂々と寝台に腰を下ろした。

姜恒は界圭が手に持つ剣を押さえて耿曙に顔を向けて言った。「私は書閣で寝る。」

 

姜恒は深く息を吸った。頭の中は今見た光景でいっぱいだ。彼の体は何度も見てきた。子供のころから、なでたり、いたずらしたり。耿曙も親し気に撫でてきたりしたが、不適切だと感じたことはなかった。だけど今日、ついにわかってしまった。さっきのあれは、昔から慣れ親しんできた親密さと何の違いもなかった。そういえばずっと前から、時々反応していたことがあった。本能的な反応だと思っていたが、わかっていなかっただけだったのだ。

耿曙は寝台に座り、疲れたように息を吐いた。それから両手を広げ大の字になって横たわった。

 

姜恒は書閣に駆け込んだ。口の中がカラカラで座ってからも息が荒い。書閣から見た自分の寝室には灯がともっていた。

界圭が書閣の灯をつけた。上半身をあらわにし、長袴一着だけを身につけている。

「体を見るのが好きですか?私のも見せてあげましょう。」

姜恒はすぐに界圭の次の行動を制止した。「もう充分!」

界圭は単衣を着て別の一画にある席についた。彼の体は耿曙とは全然違う。耿曙は玉の如き白皙だ。:界圭は小麦色で、全身刀傷だらけだ。傷跡だらけの動物みたいに。

先ほどの刺激的な光景がよみがえって、姜恒は少し後悔した。つい本能的に界圭を呼んでしまったが、あのまま耿曙に抱かれて、口づけしていたら、どんな感じだっただろう?

もしまた耿曙があんな風に来たら、次には彼を押し返すことはできないだろう。耿曙の行動が衝撃的過ぎて頭の中が真っ白になったのだ。一方で興奮し、緊張もした。未だに手を触れたことのない、危険な体験だろうから。それなのに一切をもたらすのは自分にとってこの世で一番安全なはずの人だったのだ。

恐怖と緊張が収まると心に期待が湧いて来た。今までの人生でそういうことをしたいと思う相手はいなかった。安心して受け入れられる唯一の人は慣れ親しんだ人、耿曙以外にない。

(あの~女性は最初から眼中にない?)

耿曙以外に体に触れさせられるほど信用できる相手はいない。耿曙以外の人の手に触れられたくない。それなら受け入れて当然だったのでは?なぜ自分は本能的に拒否してしまったのだろう。

 

「折り合いがついたんですか?私が彼の役をやって教えてあげましょうか?」

「や、め、て!もう寝る。」姜恒は顔を火照らせて横になったが、すぐにまた起き上がって外を見た。神殿にはまだ灯がついている。耿曙はまだ出て行かないんだ。また別のことを思い出してしまった。郢と江州城にいた時のこと。刺客を追って衣装棚に隠れていた。彼らの喘ぎ声を耿曙に抱かれながら聞いていると、自分たちがしていることのように感じた。それに偶然出くわしてしまった趙竭と姫珣。

 

この夜、かれはうつらうつらしながら、耿曙に抱きしめられる夢を何度も見た。服を脱ぎ捨てた瞬間に、彼らは洛陽王宮に戻っていた。「恒児……。」夢の中の耿曙が耳元でささやいた。

姜恒ははっと目を覚ました。誰かが書閣の戸を叩いている。界圭が欠伸を噛み殺しながら言った。「何ですか?こんなに早く何の用です?」「俺だ。」耿曙の声が再び聞こえてきた。

姜恒:「!!!」

「彼は起きたか?」

「いいえ。」

耿曙が追ってくるとは思わず、姜恒ははまたとても緊張した。

「だったら、外で待っているから、起きたら来させてくれ。話があるんだ。」

姜恒が目をやると界圭は「行って」という仕草をした。耿曙にかまわず寝なさいと言う意味だ。「袴が……。」界圭はすぐに気づいてニヤリとすると窓から書閣を出て行き、すぐに着替えを持ってきてくれた。

 

夜が明けた頃、姜恒は書閣の戸を少しだけ開けた。耿曙は服をしっかりと着込んで、外の階段に座っていたが、振り返って姜恒を見た。「起きたか。」

姜恒は、うん、と言った。あの後で、耿曙にどう向き合うべきかわからなかった。耿曙は外袍を持ってきたが、姜恒がすでに身支度を整えているのを見ても意外そうではなかった。

「一緒に来い。」耿曙は彼には触れず、急ぎ足に書閣を出て行った。

姜恒:「???」姜恒は耿曙について行ったが、追いつくのが大変だ。

 

耿曙は太子瀧の部屋の扉をたたいた。「汁瀧!起きろ!お前に言いたいことがある。」太子瀧はまだ寝ていたようで、急に起こされて何とか返事をしていた。耿曙は庭園をまっすぐ通り抜けて、別の扉をたたいた。「孟和!そこにいるか?」

姜恒は驚いた。「孟和はいつ来たの?」耿曙が答えた。「夕べ着いた。」

耿曙は足で別の扇門を蹴り開け、中にいた人は驚いた。山沢と水峻は寝台で寝ていたが、山沢が頭を上げた。「王子殿下……今度は何です?ちょっとはご配慮願えませんかね?」

「議事だ。」耿曙は言った。そして次々に進んで行き、最後に殿前に戻ってきて姜恒を見た。

姜恒は何も言わずに門を開けて正殿に入って行った。人々がぞくぞくとついてきた。

太子瀧、孟和、郎煌、水峻、山沢、皆、観礼のために昨日安陽についたばかりだ。婚礼の報せは飛ぶように広まっていた。汁琮薨去の後、雍国最大の慶典となるはずだ。

耿曙は殿内に入ると辺りを見回した。皆欠伸をしている。次の瞬間、彼は自ら問題を解決しにかかった。「縁談は白紙だ。」そして姜恒の手を引っ張って大真面目に言った。「俺は娶らない。お前たちの中で娶りたい者がいるなら娶れ。誰もいないなら、姫霜は帰らせろ。」

太子瀧:「……………………。」

姜恒:「……。」

声が上がった。郎煌と山沢は漫談を聞いたかのように大笑いした。孟和はまだうとうとしていて、「なになに?なんて言ったんだ?」と尋ねている。

太子瀧の表情は少し憂鬱そうだった。「わかったよ、兄さん。」

姜恒:「ちょっとこれは……」

それから耿曙は再び太子瀧に言った。「恒児は父さんの子じゃない。俺たちは実の兄弟ではないし、恒児は耿姓でもなければ、耿家の人間じゃない。」

次の瞬間、姜恒を含む全員が完全に驚愕した。内情を知る郎煌は慌てて耿曙に目で警告した。こんな風に真相をぶちまけていいはずがない!収拾できなくなるぞ!

「今なんて?」太子瀧の表情は茫然としていた。だが、耿曙は無情にも太子瀧に最後の一撃を喰らわせた。

「俺が好きなのは恒児だ。彼の気持ちがどうでも構わない。だが俺たちは決して離れない。死ぬまでだ。これで俺の報告は終わりだ。」

      (界圭は煽ってけしかけて、応援してやったんじゃないのかなあ)

 

 

ーーー

第184章 解き放たれた野獣:

 

「兄さん……ちょっと……待ってよ。」太子瀧は言った。「恒児、これはいったいどういうこと?!」

姜恒は殿内に静かに立ったまま、耿曙の顔を見てみたが、耿曙の表情からして、一切の説明はなさそうだ。

「私……は、」姜恒は考えた。「そうなのです。私は耿家の……実は私は耿家に養われた……孤児なんです。」

一同はみな言葉を失っていた。山沢が最初に反応して言った。「それでも一切変わらないよ、姜大人。王陛下は既に天下に宣言したんだから、あなたの身分は今まで通り、耿家の……耿家の後継者だ。」だが言い終える前に、山沢には恐ろしくも驚くべき考えが浮かんでいた。郎煌がすかさず後にい続いた。「その通り!生まれを卑下することはないぞ。」

太子瀧は、ことは小さくはないとはわかったものの、未だ驚天動地のこの事実を受け止め切れていなかった。一つずつであったとしても消化するのに時間がかかる事実を三連続でぶつけられたのだ。その因果関係も含め。太子瀧の頭に浮かんだ考えはただ一つ。

彼らは私をかついでいるのだろうか?

 

耿曙は話し終えると、更に説明を加える意図もなく、淡々と言った。「恒児、行くぞ。」

こんなに時がたっても、彼は全く変わっていない。やっぱりこのままの彼なのだ。姜恒にとって耿曙の唯一の印象は初めて会った日、背中に黒剣を背負い、潯東にやってきて、姜家の大門を叩いた時のあの澄み切った瞳だった。荒野に生きる一匹の野獣―――まだ人に成りきっていない、いや、礼儀や規則に束縛された『人』などには敢えてなろうとしない。

汁家は彼を養い、彼も汁家のために多くを差し出した。それでも最後には一切を取り去って、自由自在に生きる、気ままな人間に戻ったのだ。

 

「山の上まで歩いて行きたい。お前も行くか?」耿曙は姜恒に尋ねた。

夕べのことよりも、今朝の耿曙の行動に、更に姜恒は困惑した。初めは、結婚するせいで、耿曙はその前に自分のところに来て、何かを行動で伝えようとあんなことをしたのかと思っていた。だが、昨日のうちにすでに縁談は断るつもりだったなんて!

 

耿曙は辛抱強く姜恒の答えを待っていた。姜恒は考えた末、頷いた。

「昨日の銀杏の葉は俺の母さんのためだろう?」

「戻って……取ってくるよ。」

姜恒は陣幕の中で策を練り上げて、千里の彼方から味方を勝利に導くことはできるかもしれないが、苛烈に燃え盛る真心や情愛のことはわかっていない。

「また買えばいい。行くぞ。」

正殿を離れる時、耿曙は界圭に目をやり、言った。「ついてくるな。お前に機会はない。」界圭は意味ありげに笑い、言い返しはしなかった。耿曙は姜恒にさあ行こう、と伝えた。

姜恒:「……。」

二人は宮を出て行った。「ねえ……ちょっと待って。少し休ませてよ。」

姜恒はなんだか吐きそうになった。夕べはちゃんと眠れなかったし、今朝の耿曙の発言には衝撃を受けた。宮壁にもたれ、頭を低くしてから、再び耿曙を見上げた。耿曙は近くで待った。「気分が悪いのか?」姜恒は首を振った。茫然とした表情だ。

「あれは本当なの?」

耿曙は姜恒から三歩の距離まで近寄り、うん、と言った。「お前に無理強いするつもりはない。ただ彼らに伝えたかったんだ。俺の気持ちの問題でお前には関係ない。」

「私はてっきりあなたは……。」

「俺がてっきり何だ?」

姜恒は首を振った。「何でもない。」

耿曙は市場で新たに輪飾りを買い、姜恒と山頂まで上がって行った。そして墓苑に入り、母親の墓碑の前に置いた。それから姜恒と前後になって、墓苑下の山里まで歩いて行った。

梁国の料理屋も再び営業していた。雍は姜恒の計画の下、梁地における最大の免税政策を施した。三年間一律に免税するのだ。それは塞外から中原への人の流入を促した。市場、民生、耕作、色々な産業が雨後の筍のように伸び、どんどん復興が進んでいる。

 

「麺でも食うか?」耿曙は角の場所を探した。いつも通り警戒を惜しまない。周辺に危険がないか確認してから、姜恒を座らせた。「そうだね。」姜恒はもうずっとこんなに長く耿曙と二人きりで過ごしていない。

楓の葉が山からひらひらと落ちてきて、卓の上にのった。

姜恒は耿曙を直視できなかった。夕べのようなことがあった後だ。あの場面は簡単に忘れられるものではない。―――例え今はきちんと着付けてまっすぐに座っていても、漆黒の武衣の襟を留め具で首まで留めた喉元、胸元、暗錦雍服に包まれた強健な体はあの時の耿曙の全身を思い出させた。

 

耿曙は姜恒に箸を渡した。「夕べは驚かせたんじゃないか?」

「ううん。」姜恒は頬が赤らむのを感じた。

耿曙は急に笑い出した。箸で姜恒の頭を軽くこすると言った。「酔っていたんだ。あまり気にしないでくれ。」姜恒はさらに顔を赤らめて耿曙の方を見た。耿曙は笑みを湛えた眼差しで彼を見ていた。「ゆうべ俺は……」耿曙はなかなか言葉を見つけられずにいたが、姜恒は遮ろうとはしなかった。耿曙は最後に心を決めたように言った。「夕べ俺は色々なことを考えたんだ。あんな風にいうべきじゃなかった、恒児。お前は俺のために雍国に戻ってきた。お前の目標も抱負も全部俺のためだったんだよな。」

姜恒は小声で言った。「そうだよ。やっと思い出したんだね。」

二人はしばらく黙っていた。それは姜恒がいろいろな苦労をすることになった原因だった。海閣に入門し、国君を助け、神州を統一する。全ての始まりとなった思いは今も変わらない。

 

「俺が雍に帰りたがらなければ、こんなやっかいごとはなかったんだ。ずっとわかっていたよ、恒児。そういうことなら、俺は……俺は……。」

耿曙の心が晴れないのが姜恒にはわかった。姜恒が色々な困難にあうのも自分のために雍国に来たからだった。自分のために姜恒は汁琮に殺されそうになった。そもそも自分のせいで姜恒は赤ん坊の時の胎記を失い、身の上を証明できないのだ。

「そんなことはないよ。私の望みは実はそんなにないもの。知っているでしょう。」

耿曙は姜恒を見つめた。

「あなたと一緒にいられたら、どんなことだってできる。」姜恒は小声で言った。

耿曙は笑い出した。「だったら、あんなことだってできるんじゃないか。」

姜恒は更に赤くなった。怒ったような表情で眉をしかめて耿曙を見る。

耿曙は失言に気づいた。夕べ彼は一時のぼせ上ってしまった。山沢と郎煌の景気づけの酒杯を飲み過ぎたためもある。あの後すぐに後悔したのだ。

「違うんだ、俺は……。」

「あなたが本当に望むなら、」姜恒は声を低めた。「できないことは何もないよ。……も、何もね。」

耿曙:「!!!」

耿曙は首まで真っ赤になった。「お前……恒児、お前……。」

 

姜恒は心臓がどきどきして血が全て顔に上がってきたように感じた。子供のころから、耿曙とは数えきれないほど多くの時間を ‘包み隠さず’ 向き合って過ごしてきた。成長して再会してからも、その習慣に何の罪悪感も感じなかった。もっと言えば、初めて趙竭と姫珣がああいう風に重なり合っていたのを見た時も、醜い行為とは思わず、むしろ二人の絆を感じた。

水中の魚、空の鳥、天地のように、自然であるべき形、美しいものであると感じていた。

 

「万物は私と共にある」の歌のように。感情が究極に達すると、自然と自然が合わさりあう境地に達するのだと姜恒は理解していた。それなのになぜ拒んだのだろう。ふと気づいた。

耿曙はもうずいぶん自分を『兄』と呼称していない。無意識にか、その言い方を避けて、お前、俺、という言い方に変えていた。

「受け入れられていないのはあなたの方だよ、兄さん、わかっているの?」

一瞬にして姜恒が主導権を奪い返した。ついにこの打ち合いに於ける風向きが変わり、戦局が逆転した。

「以前と今とで私は態度を変えた?」姜恒は更に一撃を加えた。姜恒は身の上を知ってから、姜家でもその後でも耿曙に対する態度を変えていない。口づけだってした。実の兄であろうとなかろうと。だが耿曙の方は意識しだし、少しずつ距離を保つようになった。

麺が来たが、耿曙は箸もつけず、食べようともせずに、そんなことはないと言いたげな表情で姜恒を見ていた。

「どうなの、兄さん、」

「俺はお前の兄じゃない。恒児……。」

「いいえ。あなたは今でもそうだよ。」

耿曙には姜恒の言う意味がわからない。姜恒は声色はやさしく、だが語気は強く言った。

「もし兄弟のままでいられるなら、私は他の身分なんていらない。あなたもそうではない?」

耿曙はすぐには答えられずに、しどろもどろになった。「お前…が言うのは……恒児……。」

姜恒は小声で言った。「もしあなたが兄さんなら、いいよ。勿論いい。私に何をしてほしくても、喜んでする。だけどあなたが自分を別の人間として見てほしいのなら、私は、悪いけど……無理だ。」

耿曙は小さく唾を飲み込んだ。「わかったよ、恒児。俺はただ……無理強いしたくないんだ。」

「あなたが何かしてくれる時に、私が無理強いしたくないとかって言ったことがある?」

「ないな。」耿曙は答えた。

今までずっと、一方が何か求めると、もう一方が与え満たされるという関係を自然に続けてきた。ただ耿曙にとっては、姜恒が自分の弟ではないと知った時、二人の間の最後の障碍が取り除かれたように感じたのだ。逆に姜恒にとっては二人で気づき上げてきた絆こそが大事だった。―――彼は姜恒として耿曙を受け入れたかった。別の誰か、汁炆としてではなく。

 

「理解できたなら、」姜恒は更に顔を赤らめて、麺を食べ始め、大急ぎで言った。

「どうするか、あなたが決めて。」

耿曙も顔を真っ赤にして下を向いて、うん、と言い、二人は暫く目が合わせられなかった。

楓の葉が一枚、山からひらひらと落ちてきて、空中を彷徨い、最後に耿曙の頭の上に落ちた。

姜恒は手を伸ばしてとってやり、横に落とした。耿曙が金を払い、二人はゆっくり山里を出て行った。「これからどこに行く?」耿曙は遠方の埠頭に目をやった。数か月前には、あの場所で、危機一髪の包囲攻撃にあった。今では小舟が林立し、黄河の水面を行ったり来たりしている。今すぐ姜恒を連れて行き、埠頭から船に乗って、中原を離れて行きたいと切に望んだ。だが姜恒は言った。「帰ろうか。色々終わらせないとね。」

 

耿曙は否定はせず、姜恒と共に安陽宮に向かった。今朝の話が波紋を広げているだろう。太子瀧は群臣たちと今後どうするか、話し合っている最中かもしれない。だが彼は気にしなかった。今まで何も気にしたこともない。気になるのは姜恒が何を望むかだけだった。

(汁瀧も気の毒に。)

 

 

ーーー

第185章 心の痞え:

 

「孟和!」

王宮の庭園を通っていると、孟和が姜恒を呼んだ。

(久々だが、孟和は風戎語で恒という意味で、二人はお互いに孟和と呼び合っている。)

孟和、郎煌、山澤、水峻の四人が庭園で談笑していた。何に興奮しているのだろう。

耿曙は今日、公に再度縁談を断った。太子瀧は扉を閉めて対策を協議中だが、当事者の耿曙は素知らぬ顔だ。四人は耿曙と姜恒を見て、少し気まずそうだったが、耿曙は尋ねた。「何をしているんだ?」

「見ろよ。」孟和は二人に庭園の中のものを見るようにと指さした。

巨大な二頭の黒熊を見て、姜恒は腰を抜かしそうになった。

「これは……。ちょっと気でも狂ったの?王宮に熊を連れて来るなんて!!早くどこかに放してきてよ!」

孟和の漢語はとても流ちょうになっていた。「こいつらを忘れたのか?君らにやるよ!二人の門出祝いだ!」

姜恒:「………………。」

 

耿曙も不意打ちにあった。二頭の黒熊は立ち上がると彼より背が高く、四、五百斤はありそうだ。首に鉄鎖をつけられ、花園の中でじゃれあっているが、逃げられでもしたら、一撃で人の頭をたたき割りそうだ。

「こんなに大きくなったのか?」耿曙は信じられなかった。

姜恒も思い出した。一年以上前、塞外を歴訪していた時に、何の因果か、二頭の子熊を救ったのを、孟和が家に連れて行って育てたのだ。あの時孟和はある程度育てたら送ってやると言っていたっけ。「あ……な、何を食べてこんなに大きくなったの?し、信じられないよ。」

「そりゃ肉さ。」孟和は熊を連れに行った。「来いよ、君のことを覚えているか確かめよう。」

「やーーーめーーーろーーー!!!」皆色を変えて、孟和の危険な挙動を制止した。耿曙はすぐに姜恒の前に立った。だが、武功を極めても、四、五百斤の黒熊を取り押さえるのはやはり危険だ。

「にが……逃がしてやろうよ。うん、すごいね。まるまる太って強そうだ。」

孟和は本来、耿曙の婚礼祝いとして二頭の熊を贈ろうと連れてきた。きっと驚き喜ぶだろうと。だが意外なことに皆、驚くだけで喜びはしないようだった。そこで仕方なく言った。「いいよ!わかった、逃がすんだね!」全員が同時に青ざめ、一斉に叫んだ。

「こ!こ!で!じゃ!な~~~~い!!!」

二頭の熊が町を走り回れば、笑いごとでは済まない。「じ、時間を作って……少し遠くに放しに行こう。人のいない山の上がいい。玉壁関にしよう!」

孟和は姜恒に二頭をなでさせようとした。姜恒は腹を決めて手を伸ばした。耿曙は警戒を緩めない。幸い二頭は孟和によく慣れていたし、大事な点としては、ちょうど満腹だった。けだるそうに頭を上げて匂いを嗅ぎ、目を細め、姜恒に鼻先をなでさせた。

「君の匂いがわかったみたいだ。友達だってな!遊びに連れ出してみるか?二頭に鞍をつけて、君らで騎ってみるかい?」孟和が言う。

「やめとく。」姜恒はきっぱり断った。「こ……このままにしておこう。うん、いいねえ。君は本当にいい人だ。孟和。」

 

耿曙は郎煌が何か言いたげに眉を揚げたのに気づいた。郎煌は正殿を指さした。

『君はちょっとしたやっかいごとを引き起こしたようだぞ。』という意味だ。

空が暗くなった頃、戻ったばかりの姜恒は太子瀧に呼び出された。正殿に入ると、文官たちが勢ぞろいしていた。今日は武官は一人もいない。

太子瀧は姜恒を見た。どうやら前々からそんなことではないかと思っていて、ここ何年かに渡り疑問に思っていたことの回答を得たといった感じだ。

「結論は出ましたか?」姜恒が尋ねた。太子瀧は頷き、それから目で伝えた。『なんとか解決してみせるから、大丈夫。信じて。』

「ここはやはり、淼殿下ご自身の口からお聞きしたいところですね。」曾嶸は太子瀧から話を聞いて頭を痛めていた。だが、姜恒が臣下たちの表情を見たところでは、太子瀧は枝葉をつけずに、耿曙が縁談を断ったことだけを皆に伝えたようだ。耿曙に替わって、その他のことは伏せると決めた。一旦表ざたにしてしまったら収拾がつかなくなるからだ。

足音が聞こえた。なじみの足音、耿曙だ。彼は正殿には入らず、侍衛の一人であるかのように、外に控えていた。

「兄さん、入ってきたら。」太子瀧が呼びかけた。

「入らない。俺はここで恒児を待つ。お前たちで話してくれ。」

殿内は再び静まり返った。こんなことは前代未聞だ。いつの時代も、雍国だけでなく、どこの国でもみな一様に、政略結婚を断る王族などいない。国君や公卿の家のことはわたくしごとではなく、国家の事業である。対局を重んじ、例え国君であっても断ることなどできない。

あの汁琮でさえ、文句ひとつ言わなかったのに、一王子の身である耿曙ならなおのことだ。

だが耿曙がすでに決めたのであれば、無理強いなどできないことが太子瀧にはわかっていた。彼は耿曙に対し、「本気ですか?」と聞くことすらしなかった。まじめで口数の少ない人間が、こんな無茶な冗談を言うはずがないし、そもそも耿曙の冗談など聞いたことがない。彼がこうと言えばこうなのだ。太子瀧は、そこは絶対に尊重する。

 

「それじゃあ、考えましょうか。姫霜公主をどうなだめるかと、他に方法があるかを。」

曾嶸が言った。「王后になっていただくしかありませんでしょう。」

「開戦しましょう。公主は王后にはなれないし、してはダメです。外戚の力が強くなりすぎる。」姜恒が言った。

周游はもう黙ってはいられなかった。「姜大人、休戦と和議を求めたのはあなたですよ。それなのに今度は開戦しろと言う。言いたい放題で恥ずかしくはないのですか?」周游など姜恒の敵ではない。発言を逆手に取って言い返す。「周大人、あなたの縁談の際には、あなたにも言いたい放題の番が回ってきますから、それまでお待ちいただきたいですね。」

皆姜恒の言う意味はわかった。今は縁談について発言権があるのは二人だけ、耿曙と、まもなく国君になろうとしている太子瀧だ。当事者がいやだというのなら、他人に何ができようか。決定権は二人が持つのだから、二人の言う通りにするのは当然だ。

「李氏が朝廷に入ってくるのを制限すれば、利点もあるかもしれません。」曾嶸が言った。

それは赤裸々な権力の分配だ。皆もう隠しておけず、はっきりさせなければならなかった。太子瀧と姫霜が結婚すれば、何が良くなり、何が悪くなるのか。

周游が言う。「次の代の国君は名実ともに天子となる、それが利点でしょう。」姫霜は今や、姫家唯一の子孫だ。太子瀧との間に生まれた子は自ずと継承権を持つ。大争の世はその子の誕生を以て、完全に幕を下ろし、五国は新たな統一を迎える。

 

太子瀧は姜恒に言った。「確か天子が金璽を君の手に渡した時には……。」

「あなたは結婚したいのですか?」突然姜恒が言った。

一同は利害の分析だけをしていた。耿曙が対象であった時と同じ、誰も当事者の意向に関心はない。当然ながら姫霜の意向にも。

太子瀧は回答を避け、笑って言った。「国君なのだから、断れるはずはないよ。」

「それは王道ではありません。」姜恒は厳かに言い放った。皆言葉がなかった。

「変法を始める時に、あなたも私も宣言しました。この国に生きる人が自分で選べるようにすると。国君であるあなたにそれができないのに、民には自分で選べと言えるのですか?」

姜恒は話を続けた。「天子は私に金璽を渡す時に仰いました。大争の世を終わらせるのならどの国の国君を助けてもいい。どうしてもふさわしい人がいなければ、自分が天子になってもいいとさえも……。」それを聞いて皆騒然となったが、姜恒は明瞭な声音でそれを押さえつけた。

「……ですが、姫家の血筋であること、とだけは仰いませんでした。王道とは血脈によって伝承されるものではなく、金璽でさえ無関係です。王道がその身に備わっている人、それが天子です。肝心なのはあなたが何を堅持するかなのです。」

 

「代国には兵力はあるが、雍は彼らを恐れる必要はない。来るなら来いだ。」耿曙が戸外から言った。太子瀧はため息をついて、姜恒を見た。寂しげな表情だった。

「あとでもう一度話そう。」太子瀧が言った。元々、彼は耿曙の替わりに縁談を受けると決めており、姜恒を呼んだのは、耿曙か姜恒に姫霜を説得してもらい、話を丸く収めてもらうためだった。だが姜恒のこだわりを見れば、太子瀧もそれが最善とは思えなくなってきた。

「恒児は残って。」太子瀧が言った。「兄さん、あなたはもう行っていい。」

臣下たちはそれぞれ出て行き、外にいた耿曙も帰って行った。姜恒はそのまま立っていた。落日が、安陽宮内の二人の前に残光を投げかけた。王卓には玉玦のもう片方が置かれていた。

姜恒は数歩近寄って、その玉玦を見た。それは本来彼のものだった。だが彼は一度もそれをつけたことがない。ほんのわずかな間持ったことさえない。彼にとっては、耿曙が持つ陰玦の方が、ずっとなじみがあった。陽玦は見知らぬ存在のように思えた。

このところ姜恒は考えていた。もし自分が太子だったなら、天下を一つに収めるためなら、姫霜と結婚していただろうかと。陽玦と同じく、この難題は本来自分のことのはずだった。

太子瀧が言った。「兄さんの替わりに私が結婚したっていいんだよ。」

「誰かを好きになったことがありますか?」姜恒が突然尋ねた。「兄上、あなたの心に想い人はいますか?あなたは本当に好きな人と一緒になるべきです。」

 

一つはっきりしていることがある。―――太子瀧は自分の従兄だ。二人には血のつながりがある。その父親とはうまくいかなかったが、彼は死に、全て過去のこととなった。二人は兄弟も同然だ。姜太后が言ったように汁瀧は家族だ。たった一つ年上なだけの。初めて会った時の太子瀧は自分より更に天真爛漫だった。だがここ数年、慣れない役柄を演じさせられ続け、このままでは自分を失ってしまうだろう。

太子瀧は静かに姜恒を見つめた。「いないよ。」

「あなたの未来への道はまだまだ長いのですよ。」

「父は母が好きではなかった。」太子瀧は無理に笑って見せた。「好きな者同士が一緒になるなんてこと、今までずっと聞いたことがない。どんな感じなんだろうね。」

「兄上。」

「かまわないさ。」太子瀧は笑った。「時々思うんだ。君は遠縁なんかではなくて、実の兄弟みたいに感じることがある。兄さんにもそんな風には感じなかったのに。」

太子瀧は姜恒の肩を叩いた。「だけど後になってだんだんとわかってきたよ。聶海氏は君をとても愛していたんだね。あの四年間、彼は毎日君のことだけを考えていた。君が戻ってきてからは、彼が君を見る時の眼差しは、他の人を見る時とは全く違っていた。表情も変わった。人そのものが変わった。たくさん話すようになったし、あの頃みたいな冷たい氷の彫像みたいではなくなった。」

姜恒が何も言えずにいると太子瀧は話を続けた。

「今朝兄さんが言ったこと、彼は遅かれ早かれ私に言うつもりだったと思う。心に痞えてたものを落とせたのではないかな。」(もう汁瀧はいい人過ぎる)

 

姜恒は正殿を出てからも太子瀧が言ったことを考えていた。耿曙が灯の下、腕を組んで待っていた。戻ってくるのを聞きつけ、迎えに来たのだ。

「汁瀧は何だって?」

「別に何も。」姜恒は耿曙に説明せず、部屋に戻った。耿曙は界圭を見つけると、口を少しだけ動かして、「出て行け」と告げた。界圭はにやりと笑って去って行った。

「縁談を断った後は、すぐに連合会議を招開しないと。これ以上は待てないよ。」姜恒は寝台に座り、小声でつぶやくと、顔を上げて耿曙を見た。「自分でちゃんと姫霜に言うんだよ。これはあなたの責任なのだからね。」

「兄には勇気が必要だ。勇気を与えてくれ。」

姜恒:「……。」

またあの感覚が戻ってきて、姜恒の胸は再び狂ったように高鳴り始めた。太子瀧の話が耳に残っている。耿曙は毎晩冷え冷えとした神殿で寝がえりを打ちながら、死よりつらい日々をどうにもできずに生きていたのだ。十二年。姜恒が家の大門を開けた時から、この日が来るのは決まっていたかのようだ。

 

姜恒は耿曙の服を引っ張り、伸びあがって彼の唇に口づけをした。「これでどう?」

耿曙は顔をそむけ、姜恒と視線を合わせなかったが、しばらくすると向き直ってその目を見つめた。「足りないな。」

姜恒はどきどきしながら立ち上がり、耿曙の前に立つと、外袍を脱ぎ、単衣に内袴姿になった。ちょうど入浴しに行く時にしていたように。耿曙の呼吸が速くなる。姜恒の白玉のような体を見入って、瞳に思慕の念が満ちた。姜恒の体を見たことは何度もあるが、前は姜恒だけのものだった。今回だけは自分のものだ。

姜恒はとても恥ずかしく、顔も首も真っ赤にしながら、目を閉じた。耿曙の直視に耐えられない。目を閉じていれば、灯が消え、世界が一片の闇になったと思えるかもしれない。

 

……

(↑検閲?ま、どうせうまく翻訳もできないだろうし)

 

「子供の頃はいじって遊ぶのが好きじゃなかったか?」静寂の中、耿曙がようやく一言言った。姜恒は耿曙の横顔をなでた。先ほどまでの緊張は全て消え失せ、代わりに得たのは、二つに割れていた玉玦が長い年月流浪した後で、再び一つに合わさったような感覚だった。

 

彼はふとずっと前、洛陽宮で、仕事を終えて寝殿に戻ってきた耿曙と共寝していた頃のことを思い出した。あの頃は幼く、何もわかっていなかった。冬の吹雪の夜、薄い上掛けにくるまれて、耿曙は自分をしっかりと胸の中に抱いて、自らの体温で温めてくれた。

あの頃、耿曙の体をこするのが好きだった。意味は分からずとも、気分が良かったのだ。耿曙はそれをされると困ったような顔をして、すぐにやめさせたが、本当はやめさせたくないかのように、くっついて寝させてくれた。今思えば、あんな風に過ごしていれば、最後には絡み合うことになって、きっと、……こんなことになっていたのでは?

「何を考えているんだ?」気持ちが回復してきた耿曙が少し緊張しつつ、見つめてきた。「何かちょっと違う気がしない?」姜恒の記憶では、『こういうこと』の意味は耿曙と違う気がしていた。

 

…… (再び検閲)

 

「遊ぶな。寝るぞ。」耿曙が囁いた。

連続二度の体験の後、まだ胸がどきどきしていた。寝台のとばりの中は耿曙の侵略的な匂いが満ち、まるで縄張りを作って、その中で姜恒を守ろうとしているようだ。

「ちょっと疲れた。」姜恒が言った。

「お前は動いていないだろう。」耿曙は姜恒を抱きしめ、胸の中から少しの隙間も空けることを許さない。「動いたのは俺の方だ。」

「それでも疲れるよ。」姜恒は苦笑いした。

「そういう意味じゃない。俺は……疲れさせたくなかったんだ。寝ろ。」

姜恒は今日、人として生きる上での試練を終えた。ここまで来て筋力も疲れ果て、耿曙の胸の中で縮こまり、力強い腕を枕にした。耿曙は激動を押さえきれず、まだ胸が高鳴っていた。

生涯で最も切望してきたものをついに手に入れたのだ。これから先の人生、二度と自分の運命を恨むことも、誰かを恨むこともないだろう。

 

 

翌朝、目を覚ました姜恒は庭から琴の音が聞こえて来るのに気づいた。耿曙はどこかに行ってしまった。姜恒は寝ぼけまなこで起き上がった。昨日のできごとは忘れていた。耿曙の体温がまだ残っているが本人の姿はない。以前、落雁にいた時、自分を養おうと耿曙が働きに出ていたときのようだーーー。

―――あの頃、耿曙は服を一着しか持っていなかった。漆工の仕事をすると外衣が汚れ、宮に戻って服を洗えば、他に着るものがなく、素っ裸で寝るしかなかった。姜恒もそんな寝方に慣れていった。

ゆうべ何があったのだっけ?姜恒ははっとして黙り込んだ。記憶が蘇ると、再び体が熱くなった。庭に響く琴の音は雲や水が流れるように優雅だ。耿曙が琴を弾いているのだ。

彼の指は細長く、弦を抜く時の力強さは誰にもまねできない音を作り出す。ずいぶん上手に弾けるようになったけど、きっと耿曙に違いない。鳥の群れが空を飛んでいくような曲調で聞いていると心が明るくなった。

耿曙は心の中の激動を表すために琴を弾いた。姜恒は琴の音の中に耿曙の心の声を聴いた。

歓喜の気持ちの持って行き場がなく、彼は庭で琴を弾くことにしたのだ。《行雲吟》の後には、《越人歌》を。歌にはもう悲しみは全くなく、広く高い碧空、限りなく広大な天地の音へと変わっていた。ついに琴の音がやむと、耿曙が扉を開けて入ってきて、姜恒を見つめた。

耿曙は日の出とともに起き、黒の上下に身を包んでいた。姜恒がいつものように手を伸ばすと、耿曙はすぐに近寄り、姜恒は彼の首に抱きついた。

「沐浴しに行こう。」耿曙は姜恒の耳元でそう言うと、宮内に沐浴しにつれて行った。起床、洗顔、着替え、と、子供のころからしてきたように。

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 175-180

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第176章 汁家の一員:

 

界圭が東宮の外に姿を現した。姜恒は眉をあげた。

太后が到着されました。 曾嶸、周游と共にお越しください。」

太后が午後安陽に到着したため、雍国重臣が招集された。正殿内では汁琮が安らかに横たわっていた。まるでもう死んだかのようだが、喉からはひいひいと、か細い声がして、わずかに胸が上下している。目は閉じたままだ。

姜恒と曾嵘、周游が正殿についた時、王の寝台の前にはすでに少なからぬ人が集まっていた。姜恒は耿曙に合図されて隣に座り、曾嶸と周游は末席に腰を下ろした。

汁琮の寝台の前には、左に太子瀧、右に汁綾がおり、主座には姜太后が座っていて、いつも通り、界圭がその後ろに控えていた。

太后から左手には管魏、陸冀、現在の衛家当主である衛賁がおり、軍人席には呼び戻された朝洛文と、耿曙の下座に各族長:山沢と水峻、孟和、郎煌がいた。

 

「皆そろいましたよ、母后。」汁綾がそっと告げた。

太后はお茶を飲んでいて、あまり息子を見ようとさえしていない。自業自得と思っているのか。太子瀧は悲しみのせいで少し上の空の様子だったが、姜恒が来ると視線を送った。姜恒は頷き、東宮のことは心配なく、自分が解決したと示した。

姜恒は耿曙の方に顔を向けた。まさか太后は今この時彼の身の上を明かすつもりではないか。耿曙は姜恒の手を握ったが、少し汗をかいており、やはり緊張しているようだ。

 

「おそらく陛下は長くないでしょう。」姜太后がゆっくりと話し始めた。「みなが揃っているこの時に言うべきことは言って、後々間違いが起こらないようにしなくてはなりません。」誰も口を挟まなかったが、すべての視線が汁琮に注がれた。

「私は十四で落雁に嫁いできました。先王の元に来て、今年で五十年がたちます。雍国で三人の子を生しました。琅児のことは皆も覚えているでしょう。」

一同はそれぞれに、「はい。」と言った。

 

温和で礼儀正しい汁琅は、君臣と力を合わせて大雍に隆盛をもたらした。そして汁琮があちこちに征戦に向かうに足る強固な地盤を作り上げた。それがなければ、汁琮のような暴挙はもっと早くに国を滅ぼしていただろう。

「琅児の後は琮児が継ぎました。琮児はこのところ、国君としての行動が非難されることも多かったようですが、それについてはここでは言わぬことにします。おそらく、功過併せ持つといったところでしょう。」

誰も何も言わないが、汁琮が残した負の功績のことはみな骨身にしみてわかっていた。

だが耿曙は言った。「その通りです。父王は功もあり、過もありました。私がその証明です。」

「功過相半」については、姜恒も同意できた。汁琮が関を出て行かなければ、中原の局面は打開できなかった。だが、彼は人を殺し過ぎた。殺さなくていい人までも。(羅宣もな)

 

「今王は逝こうとしています。皆の者、前に来て送ってやってください。瀧児や、お前の父は大雍の中原への野望を叶えつつあります。次はお前が父に代わるのです。」

太子瀧は嗚咽しながら言った。「はい、王祖母。」

汁綾を先頭に、一同が次々に前に出て汁琮に叩頭した。姜恒と耿曙の番が来ると、二人は手を前にあげて、彼のために三度頭を下げた。

 

拝礼が終わると一同は元の場所に戻り、姜太后が再び口を開いた。「これからのことをどうするか、各自意見を言ってもらいたい。」

 

誰も何も答えない。管魏はもう一年も政務に干渉していない。陸冀は汁琮について南に下ったが、すべて汁琮の命令通りにしていた。だがこれまでの汁琮を支持すれば自分の立場を悪くする。自らの戦いをより楽しむためだけに、天下の民を家畜扱いする汁琮の国策を良しとするものは朝廷の内外問わず誰もいない。

衛賁は父の衛卓が安陽で死んだために朝中に呼ばれたが発言権はない。雍国四大公卿、周曾耿衛の内、衛家は先の氐人の乱で打撃を受け、その後当主の衛卓を失ったことで勢力は衰えていた。汁綾は軍の管理はするが、政務に口は出さない。残りの三族族長は、外族ということで当然誰も何も言わない。

殿内がしばし静まり返った後、太子瀧が言った。「姜恒?」姜恒は顔を上げた。太子瀧が言った。「今日は東宮でどんなことを決めたの?一年前に決めた変法細則の内、まだ施行待ちのことも多いのはわかっている。あなたは東宮にはいなかったけど、私はいつも譲らずに決して手放さなかったよ。」

姜恒は微笑んだ。太子瀧がいつも努力する人なのはよく知っている。―――彼は自分への期待を裏切りたくない。例え汁琮の威厳に立ち向かってでもだ。

曾嵘と周游も姜恒を見た。姜恒は咳ばらいを一つしてから言った。「意見があります。」

 

太后が言った。「言いたいことがあるなら言いなさい。ここにいるのは皆仲間です。今日の雍はそなたたちの雍で、今日の天下は、そなたたちの天下です。」

太后は汁瀧に言っているようだが、実は暗に姜恒に対して言っていた。

身分が承認されようがされまいが、彼には太子としての真価がある。現に今日東宮で汁琮が作った法令をことごとく廃案にした。姜恒は太子の職責を執行したのだ。

 

「私も自分を部外者とは思っていませんよ。部外者だとしたら無礼過ぎます。」

誰もが笑いをもらしたが汁綾だけは複雑な表情で姜恒を見ていた。だが皆もすぐに、今笑うのは不適切だと気づいた。汁琮が生死の境にいるのだ。みな表情を重苦しくし直した。

「雍国が関を越えた今、我が国の国土をゆるぎないものにすることが急務です。梁国遺民を落ち着かせ、四国との新たな共存方法を探すのです。」姜恒は皆に向かって言った。

それは全ての大臣たちがずっと思ってきたことだ。山河を打つのは易いが、山河を収めるのは難い。脅すだけでは人々を治めることはできない。汁琮のような狂ったような征戦では、屈服させることはできたとしても、いつかはしっぺ返しを食らうだろう。

「それは私の意見でもあります。」太子瀧が言った。

姜恒は頷き、言った。「暫し軍を減らします。まずは潯水の風戎軍を撤退させましょう。」朝洛文は、うん、と言った。「特に意義はない。」

風戎人は年初に玉壁関を越えてから、まるまる半年中原にいる。皆もう家に帰りたがっていた。朝洛文だって人殺しが好きなわけではないし、麾下兵たちは異国の水が合わず、故郷を恋しがっていた。

「玉壁関はもう内地になったわけですから、たくさんの兵を置く必要はなくなりました。落雁と安陽の守備は一年交代にし、四つの軍隊を解散させて、家に帰って屯田するか、中原で農務についてもらいましょう。」

「賛成よ。」汁綾が言った。

姜恒は続けた。「将来的には、年間を通して洛陽を天下の中心とし、商業貿易に力を入れ、南北を結ぶ拠点とすべきです。」

「その通りだ。」陸冀が言った。

「徐々に王都洛陽を天下の中心として二都制を推進し、落雁を北都、洛陽を中都とします。落雁は塞外への中心拠点として、洛陽は中原を統率するために。

ですがまずは、各国に照会します。一時休戦して、冬季に連合会議を開催し、残りの中原領土の帰属について話し合いましょう。」

 

この時、突然汁琮が全身の気力を尽くして震えながら片手を上げ、死に直面した者の咆哮をあげた。両目を見開き、正殿の天井を見つめている。最後の力を振り絞って恨みと殺意を伝えようとしているかのようだ。

「父王!」太子瀧が急いで様子を見に行ったが、汁綾はじっと長兄の様子を見つめていた。

太后が片手でそっと太子瀧を押さえ、もう一方の手を汁琮の胸に置いた。刹那殿内は静まり返ったが、姜太后の内力によって汁琮はすぐに落ち着き、再び安静になった。

「まだありますか?続けなさい。」姜太后が淡々と言った。

「ありませんが、殿下は早急に国君を継承すべきです。国内の混乱を避けるために。」

 

「耿曙が姜恒を見たが、姜恒は耿曙の背中を軽く叩いて、それ以上何も言わなかった。

「意義のあるかたはいますか?」姜太后が再び尋ねた。

誰にも異議はない。この夜、雍国はついに元の軌道に戻った。

 

太后がまた言った。「それでは、ここからは私たちに時間を与えてください。

最後は私たち家族で王陛下の傍に付き添いたいのです。」

一同はそれぞれ立ち上がって退席を告げた。姜恒は自分が「家族」に入るかわからなかったが、姜太后は、「恒児、そなたは残りなさい。」と言った。

殿内には太子瀧、耿曙、姜恒、汁綾、姜太后の五人が残った。長い長い静寂の後、姜太后が息を吸って立ち上がり、汁綾がすぐに母を支えた。

「私は三人の子を持ちました。まずは琅児、次に琮児、最後に生まれたのが綾児です。」

「母さん。」汁綾は涙に目を潤ませた。

「今までに私はたくさんの話を聞いてきました。郢人であれ、梁人であれ、或いは鄭人でも……王室の中では兄弟で争い、手と足がいがみ合うようなことがあるそうです。不思議に思っておりました。兄弟がですよ、なぜ互いに殺しあったりするのです?」

汁綾は刹那顔色を変えた。母は何を言おうとしているのだろう。長兄汁琅が死んだあと、朝野では流言が広まった。汁琮が汁琅を殺したのだと。だが汁綾は一切信じなかった。

 

「ある日、梁国からの報せを聞きました。畢頡が兄の畢商を殺したと。」姜太后はそこで耿曙を見た。「ここから遠くない後殿の中だそうですね。」

「覚えています。あの年私は五歳でした。畢商もおそらく父さんが殺したんです。その事実を知っている人は少ないですが。」

「太子商の死の理由は、古来から今までで初めてというわけではありません。耿淵の手で殺されたとしてもあまり関係はありません。」

彼らには姜太后のいう意味は当然分かる。畢商が耿淵の手で死んだとしても、雍国が殺した内には数えられない。政変を起こしたのは当時権力を奪い取った上将軍、重聞だからだ。

「母后?」汁綾は呼び方を変えた。今の太后の話には妙なほのめかしがあるような気がする。母はいったい何を言おうとしているのだろうか?

太子瀧もそれは感じ取っていた。かすれた声で尋ねる「王祖母?」

太后は殿前に立ち、案陽宮外の美しい夕焼けを眺めながら、つぶやいた。「琅児は生前、大雍で最もふさわしい国君でした。琮児が後を継いだのは他にいなかったからです。当時汁瀧はまだ子供でした。」

「兄が亡くなれば弟が継ぐ。それが天下の正統です。姑祖母、私はそれが、理にかない、情にもかなっていたと思いますよ。」姜恒が応じた。

太子瀧は顔中疑惑でいっぱいだった。姜太后は遠い遠い血筋である姜恒になぜ王位の正統性について語っているのだろうか?だが汁綾にはその答えがわかった。信じがたいという風に目を大きく見開いて姜恒を見つめた。唇が震え始めた。彼女にはついに知ったのだ。だがあまりにも遅すぎた。汁綾の背筋に寒気が走った。

 

太后は言う。「私たちは家族です。将来何が起ころうと、私の望みは子供たちが親しみあい愛し合うことだけです。私たちは越人、彼らとは違います。私たちは人で畜生ではないのですから。」

 

姜恒には姜太后が暗示することがわかった。―――姜恒が何をしようとじゃまするつもりはない。彼は正当な太子なのだから。姜恒は内孫で、それは汁瀧と同じ。太后にとっては二人の立場は一緒なのだ。だが、最後に姜恒と汁瀧が殺しあうことだけは絶対にしないでほしい。汁琅と汁琮の間の恨みはそこで終わらせてほしい。ある日姜恒が王位を奪い返したとしたら、姜恒と耿曙には汁瀧を大事にしてほしい。後顧の憂いをなくすために殺すような、畢商と畢頡のように王宮を血に染めるようなことはしないでほしい、そう言っているのだ。

「それは当然です。」姜恒は姜太后の要求に答えて言った。

「母さん?」汁綾は再び呼び方を変えた。

太后は意味深長に汁綾を一瞥したが何も言わなかった。顔を耿曙の方に向け、彼をじっと見た。答えを待っている。太子瀧ははっと我に返ったが、姜太后の言葉に込められた深意を誤解した。無理に笑顔を作って言った。「王祖母、何をおっしゃるのですか?あり得ません。私たちは兄弟なのですから。」

耿曙は姜太后と見つめあった。彼女の眼差しが尋ねている。「そなたは情けをかけられますか?そなたのもう一人の弟に、そなたは情けをかけられますか?」

「兄さん、」姜恒は微笑みながら耿曙の手を揺らした。耿曙は姜恒と視線を交わし、姜恒は頷いた。

「私は二人を守ります。恒児のことも汁瀧のことも傷つけさせません。ただ……いや、いいです。とにかく約束します。王祖母。」

太后は今のが耿曙の最大の譲歩だとわかった。だがここまでが限界なのだ。

太后は再び汁琮の寝台まで歩いて行き、彼の胸にそっと手を乗せた。

「ただ何なの?」汁綾は一番恐ろしい結果を思い浮かべ、声が震えていた。

「二人が口喧嘩しなければです。」耿曙が答えた。

太子瀧は煙に巻かれたような気分で苦笑いしたが、ふと以前から聞きたかったことを思い出した。「もし私が恒児と口喧嘩したら、兄さん、あなたはどちらの味方になるの?」姜恒は何も言わないが答えはわかっている。太子瀧だってよくわかっているはずなのに。

「当然恒児だ。まだわかってなかったのか?」

太子瀧は笑い出した。「わかっていましたよー。ただあなたの口からききたかっただけです。」

姜恒が言った。「いいえ。正しい方につきますよ。兄の性格はよくわかっています。でも私たちは口喧嘩しないようにしましょう。兄を困らせますから、そうでしょう。」

太子瀧は暫く心の底から笑った後で、目を赤くして頷いた。

「そうだね。父王の前で誓います。生涯恒児と兄さん、私たちは兄弟で、家族です。」

汁綾の心情は複雑だった。姜太后を見ると、姜太后は汁琮の胸に置いた手を離した。

汁琮はゆっくりと呼吸をし、全身を震わせたが、再び最後の意思表明をすることはできなかった。

太后はそなたと言う時と、お前、あなたたちと言う時とあって、統一すべきかなとは思うけど、原文は你だけなのでまあいいかな。一応、子、孫はお前、距離がちょっとだけある場合はそなたにしてはいる。)

 

 

ーーー

第177章 桃花の薫り:

 

殿内に再び静寂が戻った。姜太后は姜恒が手に持つ文書を見て尋ねた。「それは?」

「代国からの……手紙です。」今は縁談を持ちかけるのに最適な時期ではないだろう。

皆の注意が手紙に引き付けられ、姜恒は「まだ読んでいないのです。」と言った。

「置いておきなさい。汁綾、汁淼。」姜太后は言った。「太子瀧を連れて軍に行き、見舞いの言葉を告げたい千夫長たちに会ってきなさい。」

 

汁綾は母が姜恒に話があるのだろうと思い、太子瀧に向かって、「行きましょう。」と言った。太子瀧は疑問にも思わなかった。姜恒は祖母の母方の家族の出だ。姜恒に頷いて見せると、姜恒は「明日は朝から仕事が山積みですから、東宮の方に戻ってください」と言った。耿曙は姜恒を見たが、姜恒は大丈夫だと合図し、三人はすぐに退室の挨拶をした。

来た人は去って行き、殿内に残されたのは姜太后と姜恒そして瀕死の汁琮だけとなった。姜太后は寝台の前に座って静かに姜恒を見つめた。姜恒の心に万感がこみあげてきた。見返す祖母の眼差しには、初めて会った時と同じ、懐かしい感覚があった。

 

「おいで、炆児。抱きしめさせてちょうだ……。」姜太后は嗚咽で最後まで言えなかった。姜恒は震えながら進んで行き、姜太后の胸の中に飛び込んで行った。そしてついに大声で泣きだした。姜太后も涙で顔を濡らしていた。彼女の体には昭夫人と同じ香りがした。桃花だ。桃花の薫りが錦袍に焚き染めてあった。

 

「大変な思いをしましたね、私のかわいい子……。」姜太后は姜恒を抱きしめて号泣した。「琅児や、晴児や、昭児……みんなごめんなさい。母は生涯、何も間違ったことはしなかったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……天はなぜこんな風に私を……。」十九年前、姜太后は既に心を痛めていた。あの時息子を亡くした苦痛が、今になってついに押さえきれなくなり、姜恒を抱きしめて苦しいほどに涙した。

姜恒は姜太后の泣き声を聞いて、心が引き裂かれる思いがし、再び泣き崩れた。今はまだ子供を失った親の気持ちはわからないが、昭夫人との別れを思えば、その気持ちに共感できた。

しかも痛愛する二人の息子の一方が他方を殺したのだ。そして手を下した方も今、死に直面している。汁琅と汁琮の母として、こんなにも長い間、彼女はどうやって耐えてきたのだろう?

「王祖母……。」姜恒は落ち着こうと努めた。姜太后の声には壊れた琴の弦のような、こすれるような響きがあり、それはよくない傾向だ。しゃくり上げながら、「王祖母、悲しみ過ぎてはいけません。お怪我に触ります。」と言った。

太后は目を閉じ、姜恒を放した。涙は流れ続けた。長い時がたち再び目を開けた時、姜恒は祖母がずいぶん年を取ったことに気づいた。

こんなに近くで見たのは初めてだったが、今まで彼の目に映る姜太后は、古希の声を聴きながらも依然として威厳に満ちていた。落雁からの途上、彼女の髪は一夜にして白くなり、皺が深まり、身嗜みもとれた。

 

ようやく太后は落ち着きを取り戻し、姜恒の手をしっかりと握りしめた。涙に潤んだ瞳で、じっくりと姜恒を見ているが、見えているのは別の誰かだ。思い続けてきた我が子、最愛の息子、汁琅なのだ。

「お前にこんな才能があることを父上が知ったら、きっととても喜んだでしょうね。あちこちで自慢話をしたことでしょう……。」姜太后は涙を流したまま笑い出した。

 

姜恒は実の父に会ったこともない。彼にとっては未知の領域の話だ。再び悲しみが襲ってくるのは否めなかったが、もう泣かないようにした。姜太后が悲しみ過ぎないように、気持ちをこらえて頷き、何も言わないことにした。

「お前の祖父上が生きていれば、きっとそれはかわいがったでしょう。」姜太后は再び嗚咽しながら言った。「子や孫の中でお前が一番良く似ている……初めて会った時に、祖父上の若いころそっくりだと思いました。……誰もあまり会ったことがないのですよ。子らが生まれた時、祖父上はもう三十歳でしたが、雍太子だった時に初めて会った時の彼は、あなたと判で押したようにそっくりでした。」

この時は姜恒も納得した。「祖母上。」姜恒はつぶやいた。

「これをお前にあげます。」姜太后は一通の封書を取り出し、振って見せた。油紙で覆われている。落雁を離れる時に持ってきたのだろう。「受け取りなさい。私はもう行きますね。」

太后はつかまりながら立ち上がり、涙をぬぐった。姜恒ははっとして「どこへ行かれるのです?」と尋ねた。姜太后は答えず汁琮に目をやった。「落雁に帰ります。私はもう年です。お前はいつか時間ができたら桃の花の咲くころに会いに来ておくれ。」

 

「王祖母!」姜恒は追いかけたが、扉の外に控えていた界圭は、それ以上追わないようにと合図した。姜太后は振り返りかけて動きを止め、「終わらせてやりなさい。これも運命です。」と言った。姜恒は歩みを止めた。姜太后は袍襟を風になびかせ、正殿を去って行った。

界圭が扉の外から姜恒に戻るようにと示した。殿内には姜恒と汁琮だけが残された。

 

姜恒は姜太后からもらった手紙を置いて、振り返り一回り見渡した。落日が殿内を照らし、汁琮の顔の上に残陽を落とした。汁琮は安らかに横たわっていたが、しばらくすると激しくせき込み両目を見開いた。その顔はげっそりと痩せて目が落ちくぼみ、顔色は死者のような灰色だった。喉に刺さった竹籤から少しずつあふれ出た血が乾いて迹をつけている。

姜恒は寝台のところまで戻って静かに汁琮を見つめた。日は上りまた沈む。潮は退きまた満ちる。時間の大海がこの場に押し寄せ、恨みつらみに満ちた日々をのみ込もうとしていた。

 

「叔父上。」姜恒が声をかけた。汁琮は激しくせき込み全身を震わせた。姜恒を見る眼差しは恨みに満ちていた。ついに彼は負けた。人生で重きを置いていたものがこの一瞬で崩れ落ち、自分の命運さえも他人の手にゆだねられている。幾晩も彼を苦しめ続けた悪夢が、この瞬間現実のものとなった。

ここ数日、彼は途切れ途切れにたくさんの夢を見た。耿淵の夢、汁琅の夢、父親の夢、果ては子供の頃に一度会っただけの祖父、上上上任雍王の夢まで見た。

雍国の桃花や巨挙山の雪の夢、初めて騎馬を習った時の夢も。あの時耿淵は両手を合わせて彼が掌に足をかけて馬に乗れるようにしてくれたのだった。

子供の頃高熱を出した時のことも夢に見た。長兄が夜通し寝床の傍にいてくれ、医書を見ながら、気脈を通すための針灸を焦り顔で施してくれたのだった。

子供の頃、兄さんは自分をとても大事にしてくれていたっけ。……汁琮は奇妙に感じた。自分はなぜ長兄を毒殺したのだろう?誰にもわからないし、自分でさえもわからない。ひょっとしたらあまりにも素晴らし過ぎた人だったからかもしれない。誰もが彼の味方だった。

耿淵も、界圭も、管魏、陸冀、雍国の大貴族たち、誰もが例外なく彼を賞賛した。兄は人々を春風を浴びたような気持ちにさせるのだ。父母が一番かわいがったのも兄だった。

長兄の彼への愛情は、首を絞められるような気持にさせた。子供のころからずっと、兄に追いつくことができなかった。王家の人たちも群臣たちも、汁琮のことはいつだって彼の弟としか見なかった。まるでおまけかなにかのように。

今や、息子でさえも兄さんの息子の前では衆人の注意をひかない。自分と汁琅、耿淵……この三人は、汁琅、姜恒、耿曙と驚くほど似ている。

 

姜恒が枕元に来たその瞬間、汁琮は再び七歳の時、高熱がひかなかったあの日を思い出した。汁琅が静かに枕元に座っていた。汁琮は口角を上げた。目の前がぼんやりしてきた。

姜恒は汁琮の様子を伺い、彼が十分苦しみつくし、潔い死を望んでいると思った。

汁琮の口の形から声にならない言葉を読み取った。彼は言っていた。―――『兄さん』と。

記憶の中の汁琅がだんだんと姜恒に重なってきた。長兄、兄嫁、耿淵、界圭……たくさんの人の姿が走馬灯のように回っていた。

姜恒は小声で告げた。「あなたと私の間の恨みは、今日で終わりにします。生ある者は皆死ぬ。天子でさえもです。さようなら。」そして姜恒は汁琮の喉にささった竹籤を抜いた。

血が噴き出すこともなく、もがきもしない。喉に詰まった血の塊が気管をふさいで、汁琮は最後の息を吸うこともできなくなった。顔色が鉄青色に変わり、最後の力を振り絞って上げかけた両手も上がり切れずに喉に落ちた。首吊りした人のように大きく目を見開き、喘ぎたくも、もがきはしない。両足がばたばた動き、顔が白黒し、恐怖で顔がゆがんだ。

最後の瞬間に気持ちが少しでも楽になるようにと、姜恒は汁琮の手を握った。最後に汁琮はゆっくりとおとなしくなり、手から力がなくなって落ちた。

 

 

秋風が安陽別宮に吹き抜けた。あまたの白帳幕が風に揺れた。十五年前、耿淵が琴鳴天下の変を起こし、梁王畢頡を連れ去った。十五年後、同じ場所に遠路やってきた雍王は異国で死の床に就いた。それは運命の定めか。始まりがあれば終わりもある。

晋惠天子三十六年,秋,雍王汁琮薨去

 

 

ドーン、ドーン、ドーン。王宮に葬鐘が鳴り響いた。

太子瀧と耿曙は午門(正門)前にいた。千夫長たちの見舞いの言葉を受け終え、ゆっくりと王宮に帰る途中で鐘の音が聞こえ、そちらを仰いだ。

太子瀧が耿曙に言った。「なぜかはわからないけど、父さんが軍を率いて鄭国に向かった時から、こんな日が来ると思っていました。」耿曙は何も答えない。以前の無口な彼に戻っていた。

太子瀧の目には抑えがたい悲しみがあった。汁琮の死は耿曙と姜恒の悪い知らせを聞いた時より心を砕いた。耿曙のことは予想外だったのに対し、父親の死は、彼には止めることのできない宿命のように思えたからかもしれない。狂った馬で疾走し、そのまま深淵に駆け込んで行く父を間近で見ているかのようだった。引くことも、叫ぶこともできずに、ただただすべてが起こるのを見ることしかできなかった。耿曙は慰めたいと思ったが何と言っていいかわからずに、「俺も父さんが他界した時、とてもつらかった。いつかきっと過ぎたことだと思えるようになる。」と言った。

太子瀧は顔を上げて耿曙を見た。耿曙は暫く考えてから再び言った。「あの時、父さんが良くないことをしたのはわかっていた。ちょうどお前が今、父王が良くないことをしたとわかっているように。だがそれでもお前にとっては父は父だ。その気持ちはわかる。」

姜恒に対してとは違い、耿曙が太子瀧に心の内を話したことはほとんどなかった。姜太后の言葉のせいなのか、耿曙は、姜恒と汁瀧が戦うかもしれない未来についての危惧を暫し手放した。この時、汁瀧は耿曙の目に本当の弟として映るようになったのだった。

「私にもわかるよ。」太子瀧が言った。耿曙は太子瀧を見てほっと息をついた。

耿曙には太子瀧がとても孤独であることがわかった。姜恒と同じく孤独だ。これまで彼は全てを持ち合わせてきたが、今の彼は、本当に独りぼっちとなった。そうなることも運命に定められていたのかもしれないが。

太子瀧は初めて耿曙を待たずに、一人で階段を歩き出し、山際に沿った道を上り始めた。かつて梁王畢頡が寝殿へ戻るために上った坂道を。広大な山河を背景に、その姿は、かつての梁王と同じく、とても小さく、とても孤独に見えた。

 

 

ーーー

第178章 三朝に仕えた臣:

 

三日後、耿曙と汁瀧が葬り出した棺を汁綾が引き継いだ。玉壁関の外(南→北)に運んで、落雁城雍王室宗廟に安葬するのだ。慣例に従い、太子瀧は三か月喪に服した後、国君の位につく。一つの時代が幕を下ろした。雍国の時代は天子の時代となり、安陽が雍国の新都城となる。汁琮の葬儀の翌日、太子瀧は群臣を招集し、残った政務処理を正式に開始した。

東宮所有の臣下全員が集まった。汁琮の薨去、それは雍国始まって以来最も厳重な正念場で、その程度は汁琅の死後の比ではない。

だが陸冀と管魏は三朝に仕えた老臣として、かつて汁琅の死にも対応した。汁琮の死によって諸問題が解決した今、新たな厄介ごとは生みたくない。姜恒こそが新たな厄介ごとではあるが、本人が少なくとも今は雍国に内乱を起こさせないと決めている。みなの目標は同じ、国内情勢を落ち着かせることだ。

 

雍国四大家の内、曾家と周家に至っては管内に移住せず、塞外にとどまっているが、東宮新権力の中心は彼らの家の長子たちなので、それで十分だろう。

衛家は衛卓の死後、軍権を衛賁が継承し、それまで通り御林軍統領として太子の護衛に当たっている。汁綾、曾宇が武官を代表して列席し、そのほかには太子の下に耿曙がいる。

管魏がゆっくりと話し始めた。「姜大人、曾大人、周大人はここに来て変法宗巻を改定されたそうですね。中原情勢について考えるところがあってのこととお見受けしますが。」

「その通りです。」曾嵘が答えた。

姜恒は言った。「変法よりも、今私たちが直面する別の問題として、戦乱が原因で故郷を離れた流民への対応があります。」

陸冀は姜恒を見た。時に彼の考えが読めない。汁琮は生前、姜恒に対し明らかに強い嫌悪感を持っていた。死ぬまで諦めない勢いだった。宮中で囁かれる噂を陸冀も聞き及んではいたが、今のこの姜恒の様子を見るに、そんな感じは全くない。

陸冀は尋ねた。「どう処置されるつもりかね?」

 

太子瀧は最もつらい日々を終え、落ち着きを取り戻しており、真剣に話し出した。

陸相、大人各位、私たちは新たな対策について話し合いました。東宮官員を主とし、左右相の補佐を受け、護民官を派出しようと思います。まずは安陽から始め、洛陽、照水を含む関中まで範囲を広げ、戦後の民の生活を安定させる責を負うのです。」

「そうだ。そうすべきだ。」管魏が言った。陸冀は何か言いたげだったが、差し控えていた。一番の関心は民にではなく、新朝廷の権力構造にあった。それは雍国がどんな方向性を持って中原に足がかりを作るかにかかわってくる。

「もう『東宮』と簡単に称してはいけませんな。国君は既に逝去され、安陽は新しい朝廷を立てようとしているのです。この朝廷は天下の将来の状況を決めることでしょう。

 

「それに関してですが、私からお話があります。」姜恒が口を開いた。

「拝聴させていただきましょうか。」陸冀が答えた。

姜恒には余計な話から始める必要はなかったし、するつもりもない。ここにいる人たちなら、政令の合理性についてあれこれと長ったらしい講釈をする必要がないからだ。

「人事の移行についてですが、東宮は中原に関する諸事務を処理する責を負っています。新朝廷に移行するには、王陛下の生前の計画に基づき、ほんの少しの改正をします。北方落雁は、管相に監国していただき、南方安陽に関しては陸相にいていただきたいと思います。」

反対意見はない。両都制というのは汁琮が生前に決めたことだ。太子が中原を掌握し、国君はそのまま落雁にいて、移行が完成すると。

 

「軍事面は?」汁綾が尋ねた。

「朝洛文と風戎軍には玉壁関まで戻ってもらい、後方守備をしてもらいます。来年春までは、曾宇将軍に照水に駐留してもらい、武英公主には崤関の責を負っていただきます。汁淼王子と衛賁将軍には安陽にいていただきます。衛賁統領は御林軍を、淼殿下には雍軍主力をお任せします。雍軍は十万で編成し、残りの兵たちは屯田農務につかせ、来年春からの耕作に備えてもらいます。」

「特に意見はない。」耿曙が言った。

「私もよ。」汁綾が言い、曾宇も賛成した。

それは三年以内に神州を統一するという汁琮の計画とは明らかに異なるものではあったが、反対する者はいなかった。汁琮は急ぎ過ぎた。滅ぼされるがままになっている国はない。南征の主力武将たちも皆これ以上戦いたくなかった。兵たちは家に帰りたがっているし、国力も回復させねばならない。やり過ぎれば再び四国の抵抗を、招きかねない。

 

陸冀が言った。「考え方はとても良いが、十万残すだけで、敵が反撃してきたらどうするつもりかね?」

姜恒は暫く黙り、太子瀧が答えた。「それは初めの予定に従って行う五国連合会議の結果次第です。」周游が文書を広げて説明した。「連合会議は天下の興亡だけでなく、雍国が関内に根を下ろすことができるかにもかかわってきます。うまくいけば、全く新たな展開が期待できます。四国の反撃を引き起こさないだけでなく、雍国の中原における足場を強固にすることができるでしょう。ですが、東宮……ではなく朝廷ですね、は、まだその提案を完成させていません。

「しっかりやってくれ。話し合いで決着がつかなければ、戦いで決着をつけるしかなくなるからな。」耿曙が言った。姜恒には耿曙が言わんとしていることがわかった。国家間には時に妥協を許さず、話し合いでは決着がつかずに強硬手段に出ることがある。会議の準備には携わっていないものの、それがよくわかっている耿曙はそのことを忘れないようにと言っているのだ。

 

姜恒は答えた。「わかっています。このほかにも梁の臣下、鄭の臣下、照水に関しては郢の臣下でさえ仕えさせることになるでしょう。」

管魏も陸冀も何も言わなかったものの、姜恒の提案も、姜恒自身の立ち位置も、とても大胆で冒険的だと考えていた。落雁にやってきた最初の日から、この少年は自らの主張を声に出していた。―――私は天下人です、と。地域同士を融合させ、国家間の隔たりを埋めるために、彼はどんな時でも自らの力を余すところなく注いできたのだ。塞外三族に対しての態度も同じだ。今は関内四国に対して同じ態度をとっている。彼は新たな雍国の地を、五国の士がそれぞれの才能を発揮できる場所にし、徐々に融合することで、最終的には互いを区別しないようにさせたいのだ。

「慎重に進めてください。急いて仕損じることのないように。」管魏はそれだけ言った。

姜恒は頷いた。太子瀧はお茶で喉を潤してから言った。「今はこんなところです。新しい連合会議の議事日程が決まりましたら、審議のため、周游が朝廷に提出します。」

一同は頷いて、それぞれ退席を告げた。汁琮の死後、群臣の心を苦しめた国難がようやく一段落ついた。

 

耿曙は断崖で姜恒を待っていた。太子瀧は曾嵘たちとこの場を離れた。再び主席謀臣の報告を聞き取る必要があった。姜恒が殿外に歩いて行くと、秋の長雨がようやく収まり、洗われたように真っ青な空が見え、ようやく心が晴れた。

管魏が杖をついてやってきた。姜恒はすぐに拝礼した。「管相。」

「さっきの朝会で、私はふと疑問に思ったのだがね。」管魏が言った。

「どんなことでしょうか?」

管魏は杖をついてゆっくりと姜恒の傍まで来ると、一言一言をゆっくりと発した。

「いったい、雍国が、四国を併合するのだろうか。それとも、四国が、雍国を併合するのだろうか?」

姜恒も笑い出した。「そうですね、私も少し無茶な話だとは思います。少し変だし悲しい。」

「雍国が棋局の最終勝者になろうとしているように見えて、」管魏はのんびりと言った。「関内四国が、玉壁関を出てきた雍国をゆっくりと飲み込もうとしているとは誰が思うだろう。」

「百の河も海に入れば一つになります。誰が誰を飲み込もうが別にいいのではないでしょうか。」姜恒もゆっくりとそう言った。

「そうだな。天道は天道に他ならない。君の言葉も行いも天の道に従っている。海閣の威光は奥が深い。」

「過ぎたお言葉です。『天道は常にあり。尭のために存らず、桀のために亡せず。』ですから、『天道』と呼ばれるものは、人間にどうこうできるものではないので、私がいようがいまいが、もっと言えば鬼先生や海閣がなかったとしても、結果はそうなっていたのでしょう。」

管魏は頷いた。「連議規約については、私は口を挟まないので、君がこれでいいと思えば、それでいきなさい。」

姜恒は呼称が変わったことに気づいた。以前は『姜大人』と呼んでいたが、今は『君』と呼んでいる。そこには深い意味が込められているように感じた。「力を尽くします。管相。」

「君は初めて落雁に来た時から私心を抱いていなかった、抱くとすればお兄上のためだろうと思っていたよ。」姜恒は一笑したが、管魏は続けて言った。「ここ数年、君は雍国に多くをもたらしてくれた。今日私は思ったのだ。君のお父上がいらしたときの願望まで、もうあと一歩のところまで来たようだと。」

 

今の話で姜恒は知った。管魏はきっと自分の正体を見抜いていたのだ。だが三朝に仕えたこの老臣を追い詰めるようなことはしなかった。一生を雍国に捧げつくし、もう疲れ果てていることだろう。この上再び荒波に巻き込むようなことをするのは不公平だ。

「今は朝廷で、太子殿下に敬意を払ってはいても、いつか中原大地は再び君の戦場になることだろう。殿下は今は君の言葉に聞く耳を持っているが、いつか誰もが君に反対しなくなった時、それは最も危険な時だ。このことをよく覚えておきなさい、姜恒。」

姜恒は心の中に寒気を覚えた。管魏は危険を冒してでも彼に忠告しようとしたのだ。絶対に第二の汁琮になってはいけないと。

「覚えておきます。落雁方面については、管相にご苦労をおかけします。」姜恒は管魏に拝礼した。「またいつか。姜大人。」管魏は微笑みと共に姜恒に礼を返すと、ゆっくりと高台から坂を下りていき、その日のうちに安陽を離れた。

 

耿曙はどこだろう?

姜恒が管魏を見送った時には、耿曙は近くにいたはずなのに、振り返ったらもういない。

王宮の一角、山道の上から談笑する声が聞こえてきた。姜恒が顔を上げて見てみると、何人か、山際の小さな瀧の前にいる。その中の一人は耿曙のようだ。

最終から帰ってきて以来、耿曙は以前のように姜恒の傍にぴたりとついて離れないという風ではなくなった。まあ、たぶん、汁琮が死んだことで、限りない魔の手を姜恒に送り込む者がいなくなり、血月の殺し屋もあと一人だけとなったせいだろう。以前ほど姜恒の身の安全に気を配らなくてよくなった。それに、済水での告白の後、故意に姜恒と距離を置いているせいもある。安陽に戻ってからの数日、姜恒は多忙を極め、耿曙は傍らで黙って彼を見守っていた。昼間はそれぞれ別々に席につき、夜寝る時は、屏風の外に布団を敷いて寝ていた。

 

多くの時間を姜恒について過ごす人は界圭になった。界圭は忠実な護衛らしく、口を開くことはまれで、大部分の時は物陰に潜んでいるが、姜恒が顔を向けて探しているようだとわかると、さっと姿を現した。

「帰って何日か休んだ方がいいよ。」姜恒は界圭に言った。

「今、休んでいるじゃないですか。なぜです?やはり私が嫌なのですか?」界圭が言う。「違うよ。」姜恒は噴き出し、笑った。

話す機会が少ない分、界圭はその貴重な機会をとらえると、必ず姜恒をからかって遊びたがる。

「最近お兄上はご機嫌斜めのご様子ですねえ。言いたいことがあるのにしまい込んでいる。体に良くないです。」界圭がふざけた調子で言った。

「言いたいことがあるのに言えないのは私も同じだけどね。」姜恒は淡々と応じた。

界圭はクスリと笑った。きっと何か感づいているのだろうが、問題の出どころまではわかっていないはずだ。まあ耿曙の口数は少なくなる一方だから、界圭だって気づかないはずはなかった。

姜恒はしばらく考えた末、言った。「お金を上げるからお酒でも飲みに行って。あなたに三日間の休みを与えます。」

「わかりました。嫌われているからには、ご遠慮しませんとね。」

姜恒は苦笑いした。「そういう意味じゃないんだってば!ただ少しは休んでほしいんだよ。」界圭は全身刺し傷だらけなのに、自分を顧みずそのままにしているのが姜恒は心配なのだ。それに、界圭が傍にいれば耿曙も余計口数が減ることでもあるし。

姜恒は界圭を送り出すと、山を上って行った。だが、小瀧のところまで来た時、懐かしい姿を目にした。                             (♡)

 

 

ーーー

第179章 蓮花のつぼみ:

 

「宋大人!」 姜恒は大喜びだった。

宋鄒は太子瀧、周游と話をしていた。耿曙も小瀧の前に立って、池の蓮花を見ていた。宋鄒も微笑んだ。「姜大人、三日前弔問のために出発したのですが、一歩遅かったようです。先ほど着きましたが、皆さまは殿内で議事中とのことでお邪魔はしませんでした。」

太子瀧は初めて宋鄒に会ったが、周游は面識があり、皆で楽しく談笑していた。

宋鄒は天子直属の臣下であり、実は身分は一つ上だが、謙虚な態度で、太子瀧を「雍王」と呼んだ。太子瀧は彼のことがとても気に入ったようだ。もちろん、太子瀧と周游がもっと気に入ったのは宋鄒が持ってきた金の方だろう。―――宋鄒は嵩県より十万石の米と、三千両の金を耿曙名義で雍国に持ってきた。梁国復興に役立てるためだと言っている。実際は姜恒の口利きによるものなのだが。

 

「何を話していたのですか?」姜恒が笑顔で尋ねる。

「縁談だよ。兄さんのね。」太子瀧が答えた。

姜恒:「……。」

「耿曙は姜恒に目をやり言った。「皆、前にあった姫霜との縁談を復活させたいそうだ。お前はどう思う?」

「あなた次第ですよ。私たちがあなたに娶らせたいのではなくて、あなたがしたいか、したくないかです。」太子瀧は笑った。

「そうだね。」姜恒も笑顔を見せた。「それはあなた次第だ。でも娶とるのではなくて、嫁入りですから、注意が必要です。」

皆一斉に笑った。姜恒は行間で、自分の兄の嫁入りを仄めかしているのだ。

 

姜恒は周游に目をやった。この話はここ数日話してきたことだ。今の天下の状況は:

梁は既に敗れ、心配はない。

鄭は国君の趙霊が薨去し、済州も大戦の後で、休息が必要だ。

郢は羋清公主が摂政となり、後継者が若すぎるため、混乱が必須だ。

つまり今や唯一残った雍の敵は代国だけだ。

 

汁琮は太子瀧と姫霜を結婚させる策略を立てていた。姫霜は姫家唯一の子孫で、太子瀧は雍国国君、姫霜は代国を事実上統治しているので、二人が結婚すれば一挙に天下の紛争を終結させる機会となる。姫霜が王后となって太孫を生めば、晋王室の血を引く雍人であり、名実ともに天子の資格を持つ。だがその提案は東宮から一斉に反対された。その理由は:

『おいしそうな餌を差し出されたら、食べても問題がないか、よく考えてみなければ。』

 

姫霜は一筋縄ではいかない女だ。彼女は決して象徴公主などではない。汁琮は世の女性は皆、風戎公主のように何とでもなると思っているが、王后を見くびっては、寝殿で命を落とすことになりかねない。昔から、策士策にはまると言う。太子瀧は元々性格が優しい。あっという間に王后の言うなりになってしまうかもしれない。結局のところ、嫁の実家が代国では、将来の東宮の行く末も安泰とはいかない。

だが、今日、宋鄒は新たな情報を持ってきた。―――それは代国からの文書で、李霄の提案だ。姫霜のお相手候補は太子瀧ではなく、耿曙だというのだ。

相手の目標は非常に明確だ。耿曙と姫霜を結婚させ、生まれた子供には王族の姓を継がせる。姫氏の血筋を残すためだ。両国は末永い姻戚関係となり、代国は戦を止め、国境を開放する。雍と通商、通婚を通して、ゆっくりと融合し、五十年後には一つの国家となることを目指す。そのためなら、李霄は天子を争うことを止め、代王の地位に留まってもいいそうだ。

 

耿曙が言った。「俺に選択肢があるのか?お前たちは口をそろえて、俺の意思がどうとか言うが、心の中では思っているはずだ。再び戦いたくなければ、結婚するしかないとな。」

太子瀧は笑いながら言い訳した。「私でも兄さんでも同じことで、どちらでもいいのです。彼女が王后になりたいなら、私がしたっていいのですが、残念なことに私は彼女の眼中にないのです。兄さんに子供ができたら太子にして、姓が姫でも耿でも汁でも私は一向にかまわないのですけどね。」

周游は咳ばらいをして、そんなことをむやみに言わないようにと注意した。―――耿曙は汁姓に改姓して宗廟に入ったが、結局のところ、汁家の出ではない。かつて汁琮は彼に約束していた。天下統一が叶ったら、耿曙は元の耿姓に戻ってよいと。

太子瀧は笑顔で言う。「どうかした?私は本当にかまわないんだよ。」

宋鄒は皆の表情を見たが発言は控えた。だが曾嶸は言った。「淼殿下の元に小太子が誕生すればそれは勿論すばらしいですが、それだと耿家が……。」

「耿家にはまだ姜恒がいるじゃないか?」

姜恒は笑ったが、何も言わなかった。

「で、お前はどう思う?」耿曙は姜恒に眉を揚げて見せた。

 

姜恒は耿曙と視線を交わした。姜恒に決めさせたいのだ。耿曙を求めるなら、もちろん断る。前回の代国でのように。だが求めないというのなら、耿曙は姜恒の天下統一の理想のために、固辞せず姫霜を娶るつもりだ。姜恒が頷きさせすれば、耿曙は何でもするつもりだった。

 

もし耿曙がこの縁談を断れば、雍国は戦の準備をせねばならないだろう。―――代国は梁のように弱くはない。中原で続いた大戦中も、剣門関外の西に位置して守られていた代国は、実力を温存していた。代王李宏の死後、李霄は軍を強化し、その数二十万に達する。この規模の軍なら、雍国と一戦交えるにも十分だ。

 

「私に何の関係がある?」姜恒は胸を痛めながらもみんなの前で何事もなかったかのようにふるまった。「やはり最初に戻って、あなた次第ってところですね。」

耿曙は再び姜恒に言った。「兄が結婚したらもうお前を可愛がらないんじゃないかと心配にならないか?」皆は笑いを押さえられなかった。二人の仲の良さは有名だ。弟がやきもちをやくのも理解に易いところだ。

太子瀧は言った。「兄さんだっていつかは結婚するはずとわかっていますよ。さっきから私たちは応援しているでしょう。恒児はあなたの意思を聞きたいんですよ。」

姜恒はじっと耿曙を見つめた。耿曙は何も言わなかったが、周りの誰も眼中になく、瞳に映るのは姜恒一人だった。耿曙は姜恒にまだ開いていない蓮花の蕾を手渡した。

「言ってくれ。」

「知らない。自分で決めて。」姜恒は笑顔でそう言うと、一同に頭を下げて立ち去った。もう耿曙に一言も言わせたくなかった。

 

 

夜になった。姜恒は周游が下書きした連合会議の草安を閲読していた。耿曙はずいぶん遅くなってから戻り、部屋に入ると腰を下ろした。「今夜から俺は隣の部屋で寝る。昔父さんの寝室だった部屋だ。」

「行けば。」姜恒は昼間の話を持ち出さなかった。

「遅くなったのは宋鄒と酒を飲んでいたからだ。」

「説明しなくていいよ。」姜恒は草案を閲読していたが、この夜は気持ちが落ち着かない。あのことが長い長い間心にのしかかり、もう耿曙に対する気持ちさえわからない。彼を愛しているか?それは聞くまでもない。誰よりも耿曙を愛している。二人は初めて会った瞬間から、永遠に離れられない運命にあったかのようだ。

ただ自分たちが一歩先の関係に進むことを考えると、少し怖くなるのだ。

 

「よく考えてみた。」耿曙が言った。「姫霜と結婚したらどうだろうかと。よく考えてみると、俺は以前彼女を好きだった。もっとよく考えてみれば、お前に対する好きとは違うが、それでも結婚したとしたら、彼女を愛することもできるかもしれないと思う。」

姜恒は動きを止めて、頭を上げて耿曙を見た。

耿曙は酔いが現れた目で、卓上の琴を見ながら、再び言った。

「それなら、代国はお前の側に立つだろう。梁、鄭、代、この三国がお前を天子に立てるかもしれない。お前は汁瀧を傷つけたくない、そうだろう?時が来たら俺が前面に出て、軍を率いて、文書を示し、お前の身分を回復して……。」

「私が天子になりたいと言ったことがあった?」

「お前は天子になる運命だ。違うか?俺は全てよく考えたんだ。時が来たら、汁瀧には退位を迫り、王位をお前に渡させる。俺がやるからお前は心配しなくていい。」

姜恒は案巻を置いた。「酔っているんだね。」

「酔ってなんかない。」耿曙はついに顔を向けて姜恒を見た。その手は琴の弦を弄んで何音かつま弾いている。「俺は今後悔している。済水でお前にあんなことを言うべきではなかった。お前を身動きとれなくさせたのだと痛感している。」

「出て行って!」姜恒は怒り出した。理由はわからない。ただ耿曙に怒りをぶつけてやりたかった。

「怒ったのか?」耿曙は再び琴弦をはじきながら、姜恒を見つめて、その表情から理由を探ろうとした。

「あなたは言ったのに。」姜恒は自分は欲張りすぎなのだとわかっていた。いったい自分は耿曙にどうしてほしいのか。何をさせたいのか?彼は一生を自分に捧げているのに。姜恒は震えながら、耿曙に言った。「あなたは言ったのに。」

耿曙は考えた末言った。「ああ、俺は言った。今は後悔している。言い過ぎたと思っている。地道に進めばお前の助けになるし、みんなにとってその方がいいだろう、恒児。だが物には順番がある。まずは天下を平定させて、お前の計画に従って戦争をなくしてから、お前の身分の問題を解決しよう。」

「出て行って。」

 

姜恒の目は涙で潤んでいた。耿曙の言葉は、今すぐにでも彼を失うということを彼に自覚させた。口をついて出た言葉は「出て行って。」だが、心の中では「置いて行かないで。」と言っていた。;立ち上がって耿曙のところまで行き、彼の腰をしっかり抱きしめて、胸の中に顔を埋めたかった。小さかった頃のように。

それでもはっきりわかっていた。自分がそういう関係を望まないなら、これ以上耿曙を引き留めることはできない。彼には自分の家庭を持つ権利があるのだから。

 

耿曙はそれ以上何も言わずに、琴を置くと、黙って自分の私物を集めて寝室を変える準備をした。「俺は隣にいるから、一声かければすぐ来るからな。」

耿曙はかつて耿淵が使っていた寝室に、姜恒は畢頡の寝室、太子瀧は畢商の住まいであったところを火事の後修繕し、新しくなった寝室を使うことになった。

 

耿曙が琴を片手に出ようとしたところに、酔っ払った界圭が戻ってきて危うくぶつかりそうになった。「どけ。」耿曙が言った。

界圭はべろんべろんに酔っていた。ちょうど気持ちがもやもやしていた姜恒は眉をしかめた。「いったいどれだけ飲んできたの?!」

「おや、引っ越しですか?」言うや否や、耿曙にはお構いなしにまっすぐ入ってくると、それまで耿曙がいた場所に寝そべり、「じゃあ、ここは私の場所ですね!」と言った。

姜恒:「……。」

戸が閉まる音がした。耿曙が出て行ったのだ。姜恒は界圭の様子を見て、酔い覚ましを煎じてやり、彼を起こして飲み下させた。界圭は酔った目を見開き、へへへと笑い声をあげると、壁の方を見て眉を揚げた。姜恒は疲れすぎてもう話す気にもなれず、界圭に、ちゃんと横になって、吐かないように言い聞かせて寝台に上がって眠りについた。夜中、壁越しに途切れ途切れに《越人歌》が聞こえていた。

 

 

ーーー

第180章 秋の葉の輪飾り:

 

太子瀧は東宮に座っていて、遠からぬところから聞こえることの音を静かに聞いていた。

「私は一生本当に自分だけの味方はいないんじゃないかって思うことがあるよ。」太子瀧が言った。「まさかそんな。」朝洛文が答えた。「武英公主に、汁淼殿下、姜大人、それに我らもおります。」

太子瀧は苦笑いし、それ以上説明しなかった。汁綾は彼が大変だろうと、朝洛文を傍に仕えさせるために送ってよこした。太子瀧にとっては従兄にあたり、一貫して彼を支持してきた風戎人でもある。風戎人は汁琮が嫌いだったが、この外甥には愛情を注いだ。老族長から朝洛文に至るまで、彼のことを二つの民族の未来を証明する存在とみなしていた。

 

「人は持たぬ物にばかり目が行き、持っている物のことは忘れてしまうものです。」朝洛文は言った。それは風戎人の諺だということを太子瀧は知っていた。小さいころから、母によく言い聞かされてきた。今あるものを大事にしなさい、と。母は汁琮に嫁いできたが、汁琮は母を愛してはいなかった。それでも母は落雁で楽しく暮らそうとしていた。庭の花園を小天地のように作り上げ、子ぎつねを飼い、毎日姜太后の元におしゃべりをしに行き、息子に絵の描きかたや読書、習字を教えた。

 

彼女は生前太子瀧に言っていた。母さんはいつかいなくなる。父さんもいつかいなくなる。それでも私たちは天上の星、地上の馬にもなる。死んだら万物と化してあなたの近くにずっといるからと。母のおおらかな楽観性は今の姜恒によく似ている。

風戎人は生死に重きを置かない。塞外三族は一様に生死に関して淡泊だ。雍人のように、死を一大事としてとらえていない。儒家は死後の話を禁止しているし、鬼神の類も信じない。つまり、人は死んだら何もなくなるのだ。

 

風戎人は儒家の主張に異論がある。一生をそんな風に解釈すれば、生前に多くを求めるようになるのは当然だ。「神を敬わず、恐れないことが、あんたがたの大争の世の原因だ。」老族長が生前汁琮に言ったことがあった。当時の汁琮は一笑した後で、頷き、「あなたの言う通りだ。」と言ったものだった。

人の命が一つなら、例え何千万人殺そうが、最後には自らの命で償うほかに何ができようか。それでいくと、より強いものの勝ちと言うことになるだけだ。

風戎人はどうだろうか?彼らの信仰によれば、生前多くの悪事を働けば、死後に諸神の怒りにふれ、懲罰を課される。煉獄で終わりなき苦を与えられるのだ。そのため三胡の間では、他に解決方法があるなら、殺人という手段はとらず、他に方法がないときのみに行う。

 

一番いい例は耿淵だ。あの時彼は六人殺したことで天下に血の海を作ったが、天下人は彼に何か報復できたか?彼とて命は一つだ。死ねばそれきり。死の直前まで全く後悔すらなかった。

そういう意味では、汁琮は勝ったが、彼の手に奪われた命は数えきれない。「大義」の名のもとに人の生死を左右するだけではなく、自己の病的な権力欲を満たすためだけに大地を血で染めた。今、ようやく彼は死んだが、家を追われ愛する人を殺された人たちは納得できただろうか。できなかったとすれば、彼がどうなれば納得できるというのか。

 

朝洛文は再び口を開いた。「臣下たちが話していることを耳にしたのですが。」

太子瀧は我に返って答えた。「私も聞いた。調べてみてくれ。」

「あれをお信じに?」

朝洛文は正直で頼れる兄貴分だ。十七歳年上で既婚、一男一女がいる。彼は耿曙よりもむしろ頼りになる。同じように無口だが。ただ、だいたいいつも戦いに出ていて汁瀧のそばにいることは少ない。だが太子瀧にはよくわかっていた。朝洛文が命を懸けて雍国のために戦うのは、汁綾のためでも、汁琮のためでもなく、自分、汁瀧のためなのだと。ちょうど耿曙が姜恒のためには一切を顧みないように、朝洛文は、未来の王位継承者である太子瀧のために全てを捧げているのだ。

 

済州の戦いの後、軍の中ではある噂が広がっていた。:姜恒と耿曙が共謀して汁琮を排除した。

「噂を信じていたら、面と向かって兄に聞いている。」太子瀧は答えた。つまりこういうことだ。信じていないし、そんな話ももう聞きたくない。朝洛文はそれについては何も言わず頷いた。「お気を付けください。」

「何に気を付けるのだ?父王を殺した人が、今度は私を殺しに来るから気をつけろと?」

朝洛文は言いたかった言葉を飲み込み、勧告するのはやめることにした。従弟の心根の優しさを誰よりもよくわかっている。彼の母同様、人との言い争いを嫌うのだ。

「父は自分で自分を死に追い込んだ。人間だ。神ではない。人間は死ぬものだ。」

「言い出した者がいるはずです。」朝洛文は剣を抜いて目をやり、再びさやに収めた。誰であろうと、太子瀧に手を出す者からはこの剣を使って守るので、心配無用ということだ。

「調べてみてくれ。」太子瀧は遠くから届いてくる《越人歌》を聞きながら言った。「たぶん噂を流したのは衛賁だ。」

「今は武官を処分すべき時ではありません。」

「わかった。」太子瀧は頷いた。

父が死に、軍は不安定な状態だ。今は汁綾、朝洛文、耿曙の三人が何とか落ち着かせているが、こんな時に衛家を処分すれば、他の者が不審を抱くだろう。

太子瀧は知っていた。衛卓は安陽での死の直前、耿曙からの攻撃を受けているのだ。耿曙は直接手を下したわけではなく彼の馬を切り殺したそうだ。だが年配の衛卓は驚いて落馬し、翌日には持ちこたえず命を落としたとのことだった。

 

衛賁は耿曙を深く恨んだことだろう。衛卓と彼らの間に何が起きたのかはわからないが、一時的に決着がついてはいても、衛家と姜恒の間には氐人を開放したことで摩擦が生じていた。

朝洛文は剣を収め、近づいて太子瀧の頭をなでた。もう休むようにということだろう。太子瀧は机の上に積み重なった文書を見て疲れで顔がひきつった。やらなければならないことがあまりに多すぎた。

 

 

夜半過ぎ、酔いがさめた界圭はゆっくりと部屋を出た。姜恒を起こさないようにそっと戸を開け、戸外に座って夜を明かした。夜が明けると耿曙も部屋から出て姜恒の部屋の前で待機しだした。まるで二人の侍衛のようだ。

界圭は耿曙の様子を見た。耿曙はまた眠れぬ夜を過ごしたようで、やるせなさそうに空を仰いでいた。

「もういいことにしたんですか?いらないなら私がもらいますよ。」界圭が言った。

耿曙は何も答えない。界圭は「汁家には借りがありますからね。もうずっと待っていました。先着順ということであれば、私の方が先に来ていますから。」と言った。

耿曙はやはり何も言わない。界圭は考えた末、頭をなでながらまた言った。「あの子は結構私を気に入っていると思うんですけどねえ。どう思いますか?」

 

耿曙は立ち上がっ無言で立ち去ろうとした。姜恒が扉を開けて、不機嫌そうに声をかけた。

「どこにいるの?入ってきてよ。」

耿曙は忍耐を取り戻して尋ねた。「誰に言っている?」

「あなたです。これを収めるのを手伝って。読まないでね。」

姜恒は耿曙に一通の封書を渡した。落款はないが、桃花殿内で使われている封だから、太后が姜恒に渡したものだろうと当たりをつけて、懐中にしまった。

「これは周游に。」姜恒は界圭に別の文書を一束渡した。「私は二日間休みを取る。議政はお休みして安陽を一人で歩きたいから、ついて来ないでね。」

「それはだめですよ。」界圭は顔に笑みを浮かべて姜恒に言った。「じゃまにならないように、離れたところから見守っていますね」姜恒は言い張らず、界圭に目をやると立ち去った。

 

この日、姜恒は宗巻に注を付け、太子瀧と謀臣たちが討論し決定できるように用意しておき、一息つくため休みをとることにした。界圭のことは待たずに安陽宮を出て行く。秋が来て、安陽の楓は美しく色づき、山の上から下まで一層、また一層と続いている。

彼と耿曙が汁琮が放った刺客たちにここで殺されかけたのは、ついこの前だ。梁国人は風の噂に汁琮の死を知り、戦乱もまもなく収まるだろうと、続々と国都に戻ってきており、市場も活気を取り戻していた。

 

姜恒が王宮を出る時に振り返って見ると、耿曙が二十歩の距離を保って遠からぬところからついてきていた。姜恒が振り向けば、耿曙も楓の葉の舞う中で立ち止まり、姜恒が暫く見つめた後、前を向いて歩きだすと、耿曙もまた歩き出した。

 

界圭も太子瀧に謁見した後やってきた。姜恒の後ろに控え、耿曙と共に急がず送れず、近づきすぎないようにしていた。

「彼の生涯で一番の望みは何だと思います?」界圭がふと耿曙に尋ねた。

「さあな。」今回は耿曙も答えてやった。

「汁琅のことですよ。」

「なら、余計わからん。野心じゃないのか?」耿曙は冷ややかに言った。

界圭は一笑し、姜恒が市の前に立っているのを見ると、歩を速めて近づいて行った。姜恒は界圭にはお構いなしに、出店を見て回った。店の前には人々が集まり、銀杏と楓の枝で作った輪飾りを買っていた。それはまるで金紅色の花束のように見えた。梁人はこの輪飾りを戦争で死んだ家族の祭壇に供えるのだ。姜恒は一束買おうとして体を探りお金がないのに気づいた。

「私が持っていますよ。いくつ買います?」界圭が現れて尋ねた。

「一束でいい。」姜恒は振り返って耿曙を眺めた。静かに立っている。

「秋は気候がいいですから、点心でも買って一緒に山の上で食べませんか。」界圭が言った。

 

 

王宮内。

太子瀧は朝廷を見まわし、群臣を激励してから、軍報の閲読を再開した。大臣たちは太子が悲しみから抜け出してきたようだと感じていた。彼の悲しみは本物で、それまでの父子の軋轢を微塵も感じさせず、人々は敬服した。まあそれはそうだろう。汁琮には息子が一人いるだけだった。継承者という地位を廃したくてもそれは不可能だ。

太子が禁足を喰らった時、曾嶸たちは思ったものだった。汁琮に子が一人でよかった。もし何人かいれば、今頃継承者争いが起きていただろう。王子同士の殺し合いは、いつの時代のどの国家でも大きな災いをもたらす。王位を勝ち取った者が必ず粛清を行い、朝廷が資源を尽くして培ってきた治国の材がきれいに殺されてしまうからだ。

太子瀧はここ数年、素晴らしい成長を遂げ、汁琮が征戦に出れば国内政務は太子と幕僚が処理してきたため、朝政への移行はとても平穏だった。太子瀧はいつも姜恒が言っていた話を覚えていた。大国を収めるのは総菜を作るがごとし。魚が一尾手に入ったら、先ずこれをやり、次にこれをやる、という風に、秩序立てて行うべし。

軍務の方は煩雑だが、耿曙がいればバタバタ混乱することはないだろう。朝廷はほんの6、7日の間に勢いを取り戻した。管魏の引退や陸冀の権限移行さえ、大きく影響しなかった。

 

太子瀧は書房に戻った。朝洛文の報告がきた。本人は来なかったが別の人物が来た。

―――衛賁だ。思った通り、流言は衛賁発信のようだ。衛賁は拝礼後、黙っていた。

「何か説明することがあるだろう。」太子瀧が言った。衛賁は屈辱的な表情をした。

太子瀧は彼を見た。衛賁はすでに四十代で、朝洛文より年長だ。武芸の方は彼に及ばず、耿曙とは比較にならない。衛家はここ数年、大貴族にお定まりな運命をたどってきた。年をおうごとに衰退し、後継者に欠くという。衛家は曾家のような有能な文官を出さず、耿家のように若くして才気あるれる者もいない。

汁瀧の祖父の代には、衛家は昼間の太陽のように輝き、雍国の半分を掌握するほどだった。

伯父の汁琅が後を継ぐと、四大貴族の権勢は制限され、衛家は危険を察知して成りを潜めることを選んだ。だがうっかり成りを潜め過ぎた結果、凋落の道をたどり、曾家にお株を奪われた。それでも衛卓は汁琮の参謀として、不可欠な地位にあった。汁琮が在位中、太上皇となったとしても、衛家に危険はないはずだった。四大貴族の内、三家は東宮を選んだが、衛卓は彼の路線を貫き、汁琮の傍を決して離れようとはしなかった。

 

順調にいけば、汁琮の天下統一により、衛家は天子開国の攻臣となるはずだった。それなのに、すべてが一夜にして崩れ落ちてしまうとは。

汁琮の薨去は、衛家には青天の霹靂で、当主の衛卓は安陽で命を落としていた。

汁琮が衛卓の忠誠を鑑みて、彼の子孫への道を確保しておいてくれたのは幸いだった。落雁の一戦の後、守備体制を改変した際に、衛賁を御林軍統領とし、虎威将軍の官号を与えたのだ。御林軍は天子に絶対服従する直属部隊だ。衛賁は何度も太子瀧に暗示してきた。衛家は王室に絶対の忠誠を尽くすので、子孫へは善処を頼みます、と。

太子瀧はことを大きくするつもりはなかった。今のところ衛賁は味方で、それは朝洛文、耿曙や姜恒と同じ立ち位置だ。

衛賁は言った。「殿下はご存じない方がいいこともございます。」

太子瀧威は眉をしかめた。計画では、衛賁が何を言おうと、二言三言しかりつけ、それ以上言わないように言いつけるつもりだった。だが衛賁の言葉に、逆に疑心が沸き上がった。

「どういう意味だ?つまり、事情をはっきり聞くのはやめてあなたに罪を擦り付けてもいいということか?」衛賁は太子瀧をじっと見た。太子瀧は冷たく問いただした。「あの日何があった?」

衛賁はようやく答えた。「臣にもはっきりとはわかりません。あの殺害命令は、先王が下されたのです。」実は結構よく知ってはいた。衛卓が早くから色々暗示してきたため、例の年に起きたことまで衛卓は早くから知っていた。だが敢えて言わない。あるいは今は言わない。

今はまだ太子瀧の性格がつかめていないからだ。彼が第二の汁琮になるのかどうかも含めて。汁琮であれば、真相を知った後、耿曙と姜恒を抹殺してから、口をふさぐために自分を殺すだろう。太子瀧の態度を見極めなくてはならないが、相手の出方に少し疑問が生じていた。太子瀧は汁琮のやり方に賛成していなかったし、朝野のうわさでは父子は心が離れていたという。ここは慎重にいかねばならないだろう。

 

「つまりあなたは彼らに手を下したのだね。」太子瀧は遠慮なく尋ねた。

その言葉に答えるすべはない。汁琮の命令だ。誰が抗えるか?誰が敢えて抗えるのか?あなたが抗えたのは、彼の息子だからではないか!

「臣下として、主君への忠誠とは何だと心得ている?主人が間違ったことをしようとしたら止めることだろう!人は完璧ではない。死ねと言われたら死ぬのか?なぜかと問いもせぬのか?」    

これを聞いて衛賁は思った。やはり例のことを言わなくてよかった。父が生前言っていたことは実に正しい。太子瀧は薬を盛られて操られているのだ。彼は完全に姜恒の味方だ。例え外国と共謀したとしても、悪いのは彼の父親の方なのだ!

「はい、陛下。」衛賁は口答えもせず頭を下げた。

「もういい。」太子瀧は人を責め立てるのが好きではない。臣がつらそうな様子を見るのはもっと嫌いだ。「その話はもうするなと軍中に命令を下すのだ。」

「はい。」衛賁は淡々と答えた。