非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 146-150

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第146章 絶密令:

 

耿曙が頭を上げると、そこには武英公主がいた。近くにはもう一羽の海東青が天を旋回していた。武営公主は長い髪を下ろし、月の光の下、白袍を身に着けていた。袖を上げて白い腕を出して裸足の足を渓流の冷たい水に浸し、月光に顔を照らされた姿は山に住む仙女のようだった。目の前にいるこんな佳人が塞外の女武神だとは誰が信じようか。

 

「驚いたでしょう?」武英公主は耿曙の呆けたような表情を見て面白がった。

「どのくらい連れて来たのですか?」耿曙はすぐに平静を取り戻した。汁綾が来ることはとっくに予想すべきだった。驚くことではない。

「三千よ。風羽を見つけたので足取りを追って沢沿いに来たの。あんたの父さんはカンカンよ。」二人は小川を隔てて向かい合った。耿曙はしばらく考えてから言った。「父王はご存知なのかと思っていました。」

 

「姜恒にやらされたの?家族の間では隠し事はなしよ。言われなくてもわかるでしょう。」

「隠し事などありません。全て大局のためです。あれは俺の判断でした。照水さえとってしまえば、あなたたちが玉壁関を出て安陽を攻撃できると思ったのです。」

「色々考えるようになったのね。」汁綾は淡々と言った。

汁綾は朝政、特に文官たちの決定に干渉することはめったにないが、汁琮が陰で姜恒を攻撃していることには気づいていた。衛卓の目つき、兵力の異動、人事任命、軍権の制約、耿曙が持つ軍権の制約……。そうしたことをたどっていくと、すべての兆候はある可能性を指していた。:耿曙は汁家を裏切るかもしれない。

 

「彼は何と?」耿曙は立ち上がって尋ねた。

「何も。」汁綾はおどけた調子で言った。「あんたの弟が一晩かけて許しを求めたおかげで、少なくとも今はあんたを煩わせないと決めたのよ。一度会いに行った方がいいわ。」

「後にします。今は目の前のことをしっかりこなさないと。」

汁綾は疑わしそうに耿曙を見た。この期に及んでも彼は一応雍国のことを考えている。そうでなくては趙霊が通りそうなところで梁への援軍を待ち伏せ攻撃しようとは思うまい。こんなことをする理由はただ一つ、雍への忠誠だ。

だが彼は以前とは別人のようになった。以前は感情のない野獣のようだった。噛めと言われれば、ただ向かって行った。今では自分の考えを持ち、自分で決断を下す。全て姜恒が来たことがきっかけだ。汁琮はそれに我慢がならないのだ。汁綾はそう考えていた。

 

「こちらに同行しますか?」耿曙は尋ねた。

彼は汁綾に真相を告げなかった。その理由は第一に証拠がないこと。第二に汁綾を自分と同じような状況に置きたくなかったからだ。秘密を知れば選択を迫られる。汁琮につくか、それとも汁琅の忘れ形見につくか。どちらにしても彼女には残忍な仕打ちだ。そんな思いをするのは自分だけで十分だと耿曙は思った。

 

「やるわ。」汁綾は立ち上がった。「来たからにはやる。だけどやはり、全部決着がついたら、あんたは父さんに会った方がいい。さもないと、あの人の気性ではどんな結果になるかわからないわよ。その時になって注意しなかったとは言わないでね」。

耿曙は背を向けて、汁綾に見守られる中、森の中に消えて行った。

 

―――

早朝、霧の中から鳥の声が聞えて来た。恐ろし気な声に姜恒は驚いて目を覚ました。「今のは何?梟かな?」姜恒は慌てたが、兵たちにもわからなかった。

あまりに短くて姜恒には判断できなかった。護衛が項余に報告し、すぐに返事が来た。「将軍の話では梟だそうです。それと、すぐに戻って来てあなたと一緒にお茶を飲むとのことです。どうぞご心配なく。」

 

姜恒はとても早く目覚めた。項余と一緒に郢国を離れ、一路北上し始めてから数日たった。玉衡山をまわって先ずは照水に行く。これは海閣を離れる時に通った道だ。あの年は洪水で川が氾濫していたが、今では山間部も青々として生命力にあふれていた。

項余は今回、姜恒を護送するのに、二万もの大軍を連れていた。これは郢国が出せる兵の全てということになる。郢国兵は十二万、そのうち八万は水軍で既に北上している。項余に陸軍二万を与えれば、残るは御林軍一万と江州を守る一万だけだ。

 

「なぜこんなに大勢連れて来たのですか?」姜恒は意外に感じた。項余は言った。「照水から梁人を追い出して南に向かわせ、照水を駐軍要地とするためです。」

それは郢国挙げての政策だ。汁琮はすぐにでも安陽を占領するだろう。将来郢国が中原で覇を競うなら、照水が雍の勢力と直接対峙する前線になるため、強固にしておく必要がある。照水を奪ったことで、郢国は天下統一への大いなる第一歩を踏み出したのだ。

 

「あなたの提言ではなかったのですか?」項余は姜恒のために茶を淹れていた。手袋をした手で茶葉を一つかみ取ると急須に入れる。

「ああ、確かにそう言いました。でも聞いてすぐ行動に移すとは思いませんでした。」

「あなたのおかげで大助かりです。最初はこんなに大勢集まって頭が痛む思いでしたから。」

姜恒:「?」

項余は煮出した茶を姜恒に渡し、しばらく考えてからまた言った。「あなたの見方はいつも賢いですから。いきましょうか。一日早く照水につけば、一日早くお兄上に会えますよ。」

 

軍が動き出した。姜恒は、彼の天幕を片付ける兵士の中に知り合いがいるのに気づいた。「あれ!帰って来たんですね?」姜恒は彼に笑いかけた。その若者は姜恒に気づくと、不自然な笑顔を見せて拝礼した。それは項余の家の御者だった。郢都に着いたばかりの時、姜恒たちを乗せた車を御し、通り道で見られる風土や人情を紹介してくれた。

 

「久しぶりですね。」きっと項余の妻が旅に出る夫を心配して、家臣を同行させたのだろうと姜恒は思い、ちょっとおしゃべりでもしようと思ったのだが、御者の若者はゆっくりと後ずさりながら、首を振り、何も言わずに行ってしまった。若者が背を向けた時、彼には両腕がなく、袖の中に何もないことに姜恒は気づいた。兵の一人が言った。「彼は太子に両手を切り取られ、舌も抜かれたのです、姜大人。あなたの話にお答えはできません。さあ、こちらへどうぞ。」

「いったいどうして?彼はどんな罪を犯したの?」

「わかりませんが、言うべきでないことを言ったのかもしれません。もう行かなくては、大人。」何かまずいことがあったにちがいないと思った姜恒は項余の元へ馬を走らせた。

「あなたの家の御者に一体何があったんですか?」姜恒は信じられない気持ちで尋ねた。

「項武と言うんです。小武と呼んでやって下さい。よく言うことを聞く子ですから、一声かければすぐに来ますよ。」項余は少しも驚いた様子もなく言った。

「私が言いたいのは……なぜ舌を抜かれてしまったの?あの日車に乗っていた私と聶海に、言ったことがいけなかったのですか?」

項余は馬を走らせて、ゆっくりと先頭についた。後ろにはどこまでも続く軍隊がついてくる。

「姜恒、あと三日で照水に着きますよ。」

当たっているのだ、と姜恒にはわかった。――項余が何も言わないのは、正しいからだ。だが姜恒はどうしても聞きたかった。「どうしてなの?」

「汁琮ならしないとでも?理解できませんか?」項余は嫌そうな顔をしないようにしたが、難しいようだ。姜恒が何も言わないと項余は「だから言ったでしょう。郢国王室に良い人間など一人もいないと。根まで腐りきっている。」

姜恒はしばらく黙り込んだ後で言った。「小武が私たちを連れて行ってはいけないところに連れて行ったからなのですね。」

「そうです。太子安が外国からの客の前で顔をつぶされた。今回連れて来るべきではなかったのですが、彼は照水に住む方がいいかもしれないと思ったのです。ただあなたに見られるとは思いませんでしたが。」

 

突然、項余は笑い出し、やさしい表情をとりもどして言った。「姜大人。」

その時姜恒は気づいた。項余は優しい笑顔の奥に、深い深い恨みを隠しているのだと。「今でも太子安を選びたいとお考えですか?」

「私は…」冷たく悲哀に満ちた語気に変わった。「以前は思っていたのです。自分が誰を選ぼうと、未来の天子に仕立て上げられる、少なくともその希望はあると。」姜恒は長いため息をつき、薄霧の向こうを見つめ、苦しそうに話を続けた。「でもようやくわかりました。自分には何も変えられない。自分はうぬぼれていただけだったのだと。」

項余は笑いながら言った。「そんなに卑下しなくていいでしょう。あなたは確かにたくさんの人を変えたことだと思いますよ。ただ言うなれば、これは彼らの問題なんです。」

「慰めてくれなくても大丈夫です。」姜恒は疲れたように言った。

諦めた方がいいのだろうか。この時初めて彼は思った。

 

「私にはなぜか予感がするのです。」項余は思いを巡らせるような表情で言った。「照水に着いたら、もう一生私たちは会えないかもしれない。そして、ある日あなたが郢都に行ったら、郢国は既に亡国となっているかもしれない。」

これから進む未来への道で何が待っているのか、姜恒にはわからない。だが項余の言葉は不吉に感じた。そこで姜恒は淡々と言った。「そういうことにはならないかな。死ぬのは恥を知るものばかり。恥知らずな面々は一向に変わらないものでしょう。」

 

「確かにそうですね。」項余は賛同して頷いた。「ところで、出発前に、殿下に密令を申し付かりました。屈分将軍に渡さなければなりません。」

「密令だったら、言ってはいけないとわかっているでしょう。密令を覗き見るのは褒められたことではありませんよね。」姜恒はそう答えた。項余は考えた末に言った。

「もう全部見てしまったので、自分一人の胸に納めてはおけません。あなたにも知っておいてほしいのです。『この世に永遠の敵はいず、永遠の友もいない。』といいますから。」

「そうですね。」今の言葉からすでに密令の内容が推察できた。実際自分が江州について間もないころから、項余は折を見て暗示していた。―――郢、雍同盟はもろい。いつ裏切られてもおかしくない。だがその時が、こんなに早く来るとは思ってもみなかった。

「逆もまた叱りです。永遠の友はいないが、永遠の敵もいない。私たちは友のままでいられると思いますか?」

「密令の内容は?」最後に姜恒は尋ねた。

「屈将軍に北上させ、黄河に沿って秘密裏に行軍し、鄭人に紛れ込んで、汁琮を襲う。雍国を玉壁関に戻らせて、安陽城を取れば、大戦果をあげられます。」

「残念ながら鄭人は私が先に追い払ってしまった。」

項余は笑った。「だから思ったのです。今日大人は謀りごとは嫌いに見えて、いつでも全てを計算に入れている。」

「太子安は照水を得ただけでは飽き足らず、安陽もほしいのか。……欲張りすぎだな。でも勝者が全てを欲しがるのは、世の常か。」そして少し考えてみた。

「だけど策はある。みんな仲良しのまま、屈将軍にも項将軍にも円満に任務を完了してもらえる策が。」

項余は頷いた。「ぜひお聞かせいただきたい。」

 

―――

第147章 鳴り終えた琴曲:

 

目の前を流れる賓河に沿って逆流する方向に進むと、源流のある地、照水にたどり着く。海東青が再び飛んで来た。持って来た報告書によれば、耿曙は崤山の西道で、武英公主と共に伏撃を成功させたとのことだ。その夜、鄭軍は耿曙の待ち伏せにはまり、形勢は瞬時に逆転した。耿曙は百里もの山林を焼き、落雁の一戦での王都の恥辱を晴らした。車倥亡きあと、鄭国は若き王族将軍趙崢に兵を任せた。年若く実戦経験に乏しい将軍は判断を誤って慌てて逃げて行き、三万の鄭軍は混乱した。

 

汁綾は機に応じて一万余を滅し、三千余りを捉えた。二羽の海東青に代わるがわる攻撃を受けた趙崢将軍は闇夜の中、馬の脚を踏み外し、崖から落ちて粉々に打ち砕かれた。残りの鄭軍は崤関に逃げ帰り、雍軍の待ち伏せ攻撃は大勝に終わった。そしてすぐに、耿曙と武英公主は兵を戻らせ、安陽に向かった。

 

梁国に終わりの時が来ていた。大戦があまりにも迅速に起きたため、群臣たちに備えはなかった。重聞亡き後、軍には名将はおらず、士大夫たちは権力争いに明け暮れた。重聞の族孫、十七歳の重劼が兵を率いて城を出た。叔祖父の仇である汁琮を相手に城外で戦ったが、梁軍はすぐに大敗した。重劼は汁琮にたったの一太刀で人馬共々真っ二つに切り殺された。汁琮の手には耿淵の黒剣が握られていた。黒剣を見た瞬間、梁国の誰もが、十五年前の悪夢を思い出した。

 

「投降し、献城せよ!」汁琮は気楽な調子で黒剣を一振りして鮮血を散らすと、背に負った剣鞘に収めた。「孤王はお前たちを死なせたくないのだ!」

曾宇が馬を走らせ、急ぎ汁琮の後ろに来た。汁琮は何か話があるのかと顔を向けた。汁琮は今、自分の戦績にとても得意になっていた。姜恒に剣を受けて以来、長い間、自ら兵を率いて出征していなかった。今こうして見ると、自分は今でも天下を征伐できるのだ。戦いの場を離れてもうずいぶん長いが、こうして安陽を囲い込んでいるとすぐに若き日に戦場で味わった殺戮の狂喜が蘇って来る。

今はただ人を殺したい。黒剣を振るって情け容赦なく切り殺し、人が死ぬ前に一瞬見せる驚愕の表情を味わいたかった。助けを求める叫び声を、それまで体を巡っていた血液が噴出してくる光景を楽しみたかった。

こうでなくては!

この瞬間、汁琮は心の底から満たされていた。自分はこの城の六十万の生死を決める神だ。これこそが天道だ!

 

「話せ。」

「殿下と武英公主が落ち合い、間もなく到着します。」曾宇が小声で言った。「彼らは趙崢を大敗させ、鄭軍はすでに崤関に退きました。」

「奴にも良心があったか。」汁琮は冷たく言った。「梁人どもに三日与える。三日たったらすぐに攻城を始める。」曾宇は全軍に命令を伝え、汁琮は最後の期限が来るまで我慢し始めた。

 

二日目の夜、安陽は未だありもしない援軍を待っていたが、来たのは耿曙の鉄騎だった。地平線の上を流れるように進む鉄騎は天を震わせ地を轟かせた。耿曙の部隊は『姫』と書かれた王旗掲げ、城の西側に集まった。これで、北、西の二方向の全てが雍軍となった。十万の雍軍が城を囲み、城内には二万の梁軍だけがいる。

 

「あんたたちの親戚は来れないよ!」汁綾は血肉のぬめる趙崢の首を、城楼高所に向かって持ち上げた。汁琮が馬を走らせ前に出て来た。これで彼の主力部隊全員が揃った。耿曙は遠くから汁琮を見た。胸の中に言葉にできない思いがあふれた。汁琮は耿曙を一瞥したが、何も言わずに城楼高所を見上げた。「投降せよ。」汁琮は言った。「孤王は梁候に存命の機会を与える。大人しく従え。」

 

耿曙は汁琮の言い分にかまわず、叫んだ。「梁王!」大軍は静まり返り、よく通る耿曙の声だけが空の下で響き渡った。「かつて洛陽に兵を送り、天子を死なせたあの時に、この日が来ることを考えたか?」

 

汁琮はひやりとした。こんなに月日がたっても耿曙があの時のことをずっと覚えていたとは思いもよらなかった。汁琮から見れば、自分を守る能力もない天子を殺すことなど、家畜一匹殺すのと変わらなかった。だが誰もがすっかり忘れ去った事実に耿曙は未だに執着し、五国国君を罪に問おうとしている。掲げられた『姫』王旗がその資格があることを世に示していた。ただの大義名分にすぎない。だがその大義は汁琮を不快にさせた。

 

「今こそ天子に替わって責任を問う。城門を開けよ!問答無用だ!」

それを聞いて、城楼高所に人の群れが現れた。老いも若きもいる。それは梁国大臣と大臣たちに囲まれた十二歳の少年梁王であった。

「雍王よ。」澄んで脆いが何者をも恐れない声が一字一句はっきりと告げた。「お前は耿淵に我が大梁の先王を殺させた。血の仇は未だ忘れ得ず。この十五年、梁人はお前の肉を食らい、お前の皮に寝ることを……。」

汁琮はそこまで聞いて、投降する気がないと知ると傲慢にも聞き終えることもせず、馬に後ろを向かせて、離れて行った。少年梁王は深く息を吸うと叫んだ。

「全城軍民、死んでも降りず――――――!!」

 

雍軍が攻城を始めた。夕闇が迫る中、油缶が投げ込まれ、火流星の如く城内に飛んで行った。巨石が飛び交い城壁を攻撃する。一万一千もの兵たちが、梯子を押し上げ、城楼に登って行った。

汁琮は敵の士気が瓦解する最後の一刻が来るのを天幕の中で松の実を剥がして食べながら待っていた。これは彼にとって、関を出て初の戦いで、とても重要な一戦だ。必ず大勝利を収めねばならない。そして四国に武を示し、彼らに告げるのだ。自分こそが天下一の戦神だと。だが、目の前の戦況は、安陽の堅固さを彼が見誤っていたことを告げていた。

 

汁綾が主天幕に入って来て、兜を脱ぐと顔を洗った。すぐに水盆は真っ赤に染まった。「暫時撤退するよう言った方がいい。苦戦しているわ。」

汁琮は表情を曇らせた。「既に言うべきことは言った。何としてもねじ伏せるのだ。さもなくば我らの面子はどうなる?」

汁綾はあきれたように言った。「何もしなければ、城内の人間は皆命を落とすわ。この様子だと三日たっても城は落とせない。例え障壁を越えたとしても城内を制するのは難しいわね。」

「汁淼はどうした?」汁琮は応えず、逆に問いただした。

「彼と彼の兵たちは最前線にいる。死者数を聞きに行ったら、すでに千人隊が四つ犠牲になったそうよ。」

「ここに来させろ。話がある。」汁琮は沈んだ声で言った。

汁綾はため息をついて、布巾で手を拭いた。「来ないと言っていた。今は戦闘に集中したいから後で話すって。」

汁琮は怒鳴り声をあげた。「攻城戦で命令も聞かずに先頭に立ち、戻って作戦の相談もしないとは。姜恒にそういわれたのか?!」

 

「作戦なんてあるの?」汁綾もそろそろ我慢の限界だった。「あなたの面子のために、戦濠も掘り終わっていないのに攻撃に出ているのよ!陸冀の役立たずに何かものすごい戦術でも出させたと言うの?私はあの子に少し休めって言いに行くわ!あの子は三日間急行軍で駆けつけて、一口の水も飲まずにつれて来た兵全てを差し出してあなたのために戦っているのよ。食事さえずっととってないんだから!」

 

汁琮は立ち上がった。いらだちを押さえられない。自分の八万の主力部隊は未だ動かしていない。攻城とはそういうものだ。先に出た者が先に死ぬ。耿曙は最も忠実に命令に従う将校ということになった。

汁綾が言った。「私に八千ちょうだい。」

汁琮は妹に兵符を渡した。汁綾は天幕を出る時、振り返って言った。「城を逃げる別の道がないか確かめに行ってくる。万一梁王が代国方向に逃げるとしたら、東門を開けるはず。」

汁琮は言った。「汁淼に攻城を続けろと言え。兵は死んだらまた集めればいいが、安陽を落とせなければ、我が生涯で二度と玉壁関を出ることは望めまい。」

 

攻城戦は洛陽陥落後、最も熾烈を極める戦いとなっていた。兵たちは途切れることなく前線に送られ、耿曙の兵力の消耗は激しく、一万人近くが死んだ頃、遂に城壁に突破口が開いた。

 

曾宇の主力部隊がついに出てきた。三万人が補充されたが、すぐに城内の梁軍が命を顧みずに押し寄せ、双方は膠着状態に陥った。耿曙にあと二万も親兵があれば、突破口を広げることもできたかもしれない。だが、彼の兵は減っていく一方なのに対し、曾宇の部隊は不慣れで、戦果を見て兵を補充することくらいしかできなかった。

 

耿曙は顔を灰で真っ黒にし、全身血まみれだった。先頭に立って城楼を攻めたが、梁軍に押し返された。背後に続く兵たちは自分たちの主師が自ら雲梯を駆けあがって行くのを目の当たりにして、死んでも退かぬ覚悟で戦った。(李信タイプね)

 

二日目の午後、空が暗い雲で覆われた。中原大地に雨季がやってきた。この雨の中、戦いはいつ終わるとも知れない。汁琮は天幕を出て空を見上げた。暴風雨となれば、城璧を越えるのは更に難しくなるだろう。

「全軍出動。」汁琮が命じた。「雨が降る前に西門を突破するのだ。皆汁淼の援護をせよ!すぐにだ!」

残り五万の大軍が戦場に投入された。城壁の下は積み重なった死体でいっぱいになった。生きている兵たちは同胞の屍の上を越え、再び雲梯を架けたが、高所から豪雨のように矢が降って来た。

 

耿曙は肩と大腿部に矢を受け、傷を負ったが、簡単に包帯をしてまた戦場へと入った。雍軍は緋色の『姫』王旗に従って、猛々しく戦った。一時、王旗が戦場の中心となった。梁人にも命運が尽きる時が迫っているのがわかった。ただこの攻勢の波を押さえ、亡国への運命に抗うだけだ。それが天下の未来の命運を決める限り。

 

双方の生死を決める最終決戦だ。すでに互いの持てる力も尽きかけている。汁琮は自分の軍隊が絶えず減り続けるのを目の当たりにし、ひそかに恐れを抱いた。――万が一安陽が落ちなかったら?

城を滅ぼしてやる!安陽を奪った暁には絶対に城を滅ぼす!頭の固い奴らを皆殺しにする。梁軍であろうと民であろうとだ。

 

彼は頭に兜をつけ、自ら戦場へと進んで行った。彼の養子が作った戦況の中に、最後の大戦を投入するのだ。彼には耿曙がどこにいるか見つけられなかった。目の前にはただ緋色の王旗が掲げられている。まるで姫珣が未だ死なず、趙竭の意志が耿曙に乗り移り、彼の軍隊を指揮しているかのようだ。

「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」

 

三日目の正午、城南から大声が上がった。刹那、雍軍は頭を上げた。

「南門が破れたぞ――――――!」城内から大声が伝わってきたが、耿曙は血で耳が塞がっていた。聞き間違いかと信じられないように尋ねた。「何だと?なんと言っている?」

将校が叫んだ。「殿下!敵の南門が壊されました!陛下があなたにすぐに城壁を奪うようにと命じられました。」

すぐに一騎やって来た。曾宇だ。曾宇は『汁』黒旗を掲げて叫んだ。「王子殿下!陛下があなたに城壁を奪えと命じています。あなたに渡すようにと、これを!」

 

曾宇は黒剣を耿曙の手の中に渡した。耿曙は留めてあった皮革を開いて剣鞘から黒剣を取りだした。汁琮の考えがわかった。『ここはお前の父が死んだ場所だ。彼の剣をお前にやろう。何をしようと、きっと力になってくれる。』

すぐに耿曙は叫んだ。「我に続け!必ず城壁を取るぞ!」

雍軍は狂ったような攻勢をかけた。梁軍はなぜか、大部分が西城壁から撤退していて、抵抗が減っている。雍軍はすぐに海のごとく城壁に押し寄せて行った。

安陽の命運が決まった。

 

弦が鳴ったような気がした。耿曙はついに十五年前、父が起こした琴鳴天下の余韻を聞いた。その琴の音は安陽に十年以上響き続けていたが、耿曙が来た瞬間、ついに完全に消え去った。彼は城楼に登って安陽の南を眺めた。六十隻の巨大な郢国船が停まっていた。白い帆が林立している様は、高く架せられた巨弩に見え、まるで父が空から神の兵器を持って助けにきてくれたかのようだ。

そのうち一隻の船首に小さな黒点があった。二羽の海東青が空を羽ばたき、千帆が競漕する中を、雄鷹が飛んでいた。あれは彼だ。姜恒に違いない。

 

安陽城が破れた。郢国水軍は守備がいなくなった南門を占拠した。梁軍は敗走し、王宮に逃げ帰った。その後雍軍は郢軍と合流し、どこもかしこもで殺し合いとなって、全城を席巻した。

梁人は山の上にある安陽王宮から矢を放ったが、無敵な十余万の連合軍を前に、逃げたり、死んだりし、梁都安陽は陥落した。

 

耿曙は馬を走らせて、風羽を追って城南の大通りを走って行った。姜恒が、項余と屈分の二人と話しているのが見えた。姜恒が笑顔を彼に向けた。

耿曙は馬から飛び降り、姜恒に向かって行った。姜恒も彼に向かって走って来た。耿曙は自分が全身血まみれなのに気づいたが、姜恒は全く気にせずぎゅっと彼を抱きしめた。「あなたは安陽に来るってわかっていたよ。」姜恒は彼を責めなかった。それどころか、耿曙ならそうするはずだと思った。

 

耿曙は姜恒を腕に抱いたが、両手は血まみれだったため、彼に触れようとはしなかった。「俺は彼に会って、問いただそうと思っている。」

姜恒は耿曙の耳元で言った。「どうして私を呼んでくれなかったの?私たちはどこでも一緒、そうでしょう?」耿曙は頷いた。

 

屈分が笑いながら言った。「まさに郢、雍に二国による最初にして最大の合作ですな。」耿曙は項余と屈分を見たが何も答えなかった。雍軍は安陽をとることに成功した。だが郢軍も城に入って来た。汁琮にとっては再び面倒なことになった。郢軍は城の東南を占拠し、雍軍は城の西北を占領した。この後、どうなるのだろう。項余が尋ねた。「雍王に会いに行きますか?」

姜恒は遠くを見ながら答えた。「私は急ぎませんが、あなた方は?」屈分が言った。「当然我らも急ぎません。雍王が我らにどう感謝するかわかりませんしな、ハ、ハ、ハ。」

汁琮はあなたに引っ掻き回されたくないに違いないけどね、と姜恒は思った。だが郢軍の助けがなければ、雍軍が安陽をとれたかどうかわからない。汁琮が表面上はきっと国君としての自制を保ち、彼らを追い出さない方に賭ける。

次に来るのが条件についての話し合いだと言うことは誰の目にも明らかだ。郢軍を撤退させるために汁琮は何らかの誠意を示さねばならないだろう。

 

 

―――

第148章 琴鳴殿:

 

姜恒が思った通り、曾宇が馬を走らせてきた。「王子殿下、姜太史、並びに郢国将軍のお二方、雍王が宮内で皆さんと議事を行いたいと申しております。」

姜恒は曾宇に言った。「殿下に少し休ませてあげて下さい。彼は疲れ切っています。曾将軍、帰って王に伝えて下さい。少し休んだら、二人一緒に伺いますからと。」

 

耿曙は崤関から急行軍でやって来て休む間もなく戦場に身を投じた。その間目を閉じて休む間もなかった。更に攻城が終わるや否や、姜恒の元に来た。彼の体力は既に限界を超えている。耿曙が頷くと、曾宇は何か言いたそうだった。姜恒は言いたいことが分かり、耿曙が腰につけた兵符を見た。「兵符はまだ返せない。兵たちを嵩県に帰らせる必要がある。さもなくば、兵力が不足してしまう。」

 

兵符を取り戻すように目地られてきた曾宇は、耿曙が断るとは思っていず、どうすべきかわからなかった。だが、自分の元には八千の兵が残っている。雍軍にいたっては六万だ。玉壁関を出た援軍で、安陽に軍事拠点を作れる。耿曙の部下には何もできないはずだ。戻るようにと姜恒に目で伝えられ、曾宇は去るしかなかった。

 

耿曙は座り込んで壊れかけた家屋の片隅にもたれかけた。項余が尋ねた。「場所を変えなくていいですか?」姜恒は答えた。「別にいいよ。少しここで休むことにする。」項余は護衛を集めた。衛士たちは自ら五十歩退いて、耿曙と姜恒をその場に残した。耿曙の鎧兜は隙間なく血で覆われ、顔は汚れ、髪は乱れ、手の上の血は塊となっていた。

「恒児。」耿曙が言った。

「うん。」姜恒は耿曙の怪我の様子を調べた。幸いにも全て軽傷だった。

「俺が何で安陽に来たかわかるか?」

「わかってる。動かないで。耳から血が出ている。」

彼は注意深く耿曙の耳に詰まった血の塊を取り出した。「丸木で突かれて、彼らは城壁から落とされたんだ……わからないだろう。」

「わかってるよ。」姜恒は小声で言った。

「わかってない。」耿曙は悲しそうに笑った。

「わかってる。」姜恒は耿曙の耳についた血を拭きながら、言葉を続けた。

「あなたは子供の頃安陽に住んでいて、梁人が投降しないことがわかっていた。だけどあなたの父王が最後には勝つ。城が破れたら、彼は怒って民を皆殺しにする。だからあなたは彼より先に城を破る必要があった。ここに住んでいる人の命を守るためだ。」

 

耿曙は今聞いた言葉が信じられず姜恒を見た。瞳が輝いていた。ここは耿曙の生まれた地だ。彼の母親は安陽に葬られている。姜恒はすぐにでも彼女の墓地を訪れて墓前に花を供えたいと思った。彼女が痛愛する我が子を自分に与えてくれたことに感謝したかった。互いに命を預けられる人を自分に与えてくれたことに感謝したかった。彼女は耿淵に全てを与え、彼の後を追って命さえ断った。残された我が子に潯東に行くように手配し、孤独だった自分の所へ行かせてくれた。

 

「私は項余に城南の封鎖を解かせたから、城内の民はみな逃げることができる。これで汁琮が怒り狂って民を殺すのを防げる。それに盟友が来たからには彼も下手なことはできないと思うよ。」

「お前は本当にわかったんだ!」耿曙はまるで子供の様に笑顔を浮かべた。

「勿論だよ。」姜恒はそっとそう言うと、耿曙の足の傷に薬をつけた。「会ったばかりの頃、教えてくれたでしょう。あなたは安陽から来た。住んでいた場所のことを熱心に話してくれた。町では市がたち、毎朝、お母さんは箱を持って市場に灯芯を売りに行った。そうでしょう?全部覚えているよ。」

「お前は全部覚えていたんだな。」耿曙は目を閉じた。彼は疲れ切っていた。

「兄も覚えている。全部覚えている。」彼は姜恒の肩にもたれた。「眠って。少し寝たら元気になるから。」

 

体が重くなってきた。鎧を付けたまま姜恒の肩にもたれた耿曙の体は少しずつずり落ちて、彼の腕の中に倒れた。姜恒は彼を抱くと、血まみれになった髪を指で梳きながら誰もいなくなった街道をぼんやり見ていた。

優しく柔らかな姜恒の手で撫でられ、耿曙は夢を見た。夢の中の彼は小さな子供に戻って安陽の家にいた。母が彼を抱いて子守唄を歌っていた。母は時々頭を撫でて、いつも一緒よ、どこにも行かないからねと伝えていた。

 

耿曙の部下がやってきた。城を破ってから、ずっと彼らの主師を探していて、ようやくこんな遠く離れた通りで見つけることができた。だが、近くまで行くと、重装備の郢軍に行く手を阻まれ、何度も身分を確認されてから近くに来ることができたのだった。

「太史大人、殿下に指示を仰ぎたいことがあって参りました。」一人の部下が言った。姜恒は内容を聞きもせずに指示をだした。「隊の人に言ってください。亡くなった兵士たちは家に返すこと。生き残った人には、嵩県と玉壁関のどちらに帰りたいか尋ねて、意に沿う方に行かせてください。」

「ですが、先ほど曾将軍にも聞かれたのですが。」

「彼が何と言おうと気にしないで。これは武陵候の意思だから。話す時には武陵候と言って、殿下と呼ばないように。行って。」

 

姜恒は、この行動によって汁琮に注意を促そうとした。耿曙は武陵侯に封されている。雍国が封じた正統な身分だ。雍国の規則によれば、耿曙には封地領兵を募る権利がある。古くからの条例で、公卿は家兵を持ち、その兵は王族のために働く。これは国君にも侵害できない募兵権だ。2万を超えない限り、国君は全権を与えなければならない。

勿論君王はそれを解除する権利を持つ。だが、候位を剥奪せず、耿曙の武陵候としての身分を承認するなら、彼の家兵には口出しできない。しばらくすると、一人の兵が戻って来て、雍軍が彼らを手放したことを知らせた。彼らは殉職した同胞を嵩県に連れ帰ることを希望した。全軍の被害は大きく、残ったのは八千余りだ。玉壁関に戻ることを百人余りが望んだ以外は、みな嵩県に戻ることを希望した。

 

「千隊ごとの名冊を下さい。私がここで再配分しますから、できたらあなたがそれを持って行って。」姜恒が言った。兵は松明を掲げた。耿曙は傍らで熟睡している。姜恒は灯の元で、兵の再編成をした。耿曙が必要とした時のために、二名の千夫長と部下に留まらせ、残りの全ての兵を嵩県に帰らせるようにした。

彼らが雍国に全てを捧げる人生は終結した。みんな戻って人間らしく暮らすべきだ。「さあ行って。」姜恒はそう言うと再び熟睡している耿曙の頭を撫でた。

 

夜になった。安陽宮は新しい国君を迎えた。

汁琮が門を押し開けると、こすれるような音を立てて銅門が開き、月の光が汁琮の黒い影を地面に投じた。彼はゆっくりと正殿に入って行った。

 

柱には未だに血痕が残っている。それはかつて耿淵が長陵君を殺した時に噴き出した血だ。十五年前、鮮血が銅門に隙間なくかかったあの日以来、梁国は正殿を封印した。後を継いだ少年梁王は東殿で議事を行い、百官たちも王朝が代変わりしてからは、簡単に洗い清めただけの正殿に誰も入って行こうとしなかった。まるでそこには鬼魂の一群が住み着いて、誰もいない深夜にみんなで天下を征伐する大略図について討論しているかのようだ。

 

汁琮は門を開けさせて全ての場所を事細かに眺めた。あれは耿淵の血だろうか、あれは敵の血だろうかと考えながら。かつて琴を奏でている時、なんと英俊洒脱な様子だったことか。剣を振るった時に最後に脳裏をかすめたのは自分の名前だっただろうか。彼は耿淵を仰ぎ慕っていた。

 

耿淵も界圭も長兄の仲間だったが、汁琮は子供のころから耿淵に敬服していた。汁琅に比べ、耿淵はより親切で、我慢強く、自分の苦しみを理解していた。子供のころから友と呼べるのは一人だけ、それが耿淵だった。耿淵が自分より汁琅が好きなのはよくわかっていた、だが、そんなことは耿淵への敬愛に微塵も影を落とすことはなかった。子供の頃、彼はよく長兄とけんかをした。界圭はいつだって兄の味方で、あの頃彼を助けてくれるのは耿淵だけだった。

大雍はずっと太子が政治を受け持ち、王子が軍を率いて出征する体制をとってきた。汁琅は国家を治める責任を負い、彼は征戦の重責を負った。

 

耿淵が暗殺に向かうことを決めたあの日を彼は永久に忘れないだろう。あれはまだ十二歳だった頃だろうか。あの頃、雍国ではみなが重聞の名に怯えていた。軍神の名をほしいままにし、雍国は彼の前に何度も大敗を喫し、玉壁関に退いて、そこから半歩たりとも南下することを許されなかった。

 

まだ十二歳だった汁琮は耿淵に言った。「私には彼を打つことはできない。すごく怖いよ。」「怖がらなくていい。」耿淵は時間がある時、よく汁琮の剣の修練につきあってくれた。指導をしたり、動作を調整してくれた。汁琅は界圭の方がずっと好きだったため、耿淵は一歩引いて弟との遊びに付き合ってくれたのかもしれない。年も彼の方が近かった。

 

「怖い気持ちはとめられないよ。」十二歳の汁琮が言った。同じ十二歳でも耿淵には、大人びた雰囲気があった。「彼を怖がるのを止めろという意味でいったんじゃない。いつか君が彼と対戦することになる前に、私が彼の命を取るつもりだからだ。」彼は衝撃を受けた。「君にそんなことができるの?」

「彼も人間だ。人間なら必ず死ぬ。何かおかしいかい?私はきっと彼を殺せる。」耿淵は軽く言ってのけた。まるでこの世に彼の相手になるものなどいず、生涯負けることなどないかのように。汁琮は尋ねた。「君は私のために彼を殺しに行ってくれるのか?」

「雍国のためにね。」耿淵は答えた。「私は雍人だ。さあ剣の練習をして。またお兄上に叱られるぞ。」

 

耿淵は何をする時でもいつもさらりと爽やかな様子だった。王室に対して何の要求もせず、自分の立場に満足し何も気にしていないようだ。界圭とは違う。界圭はおかしな条件を出してきては汁琅の気持ちを試すようなことばかりしていた。

たった一つの要求はある女性のためだった。「姜昭を私と行かせてほしい。」

十六歳の時、耿淵は汁琮に言った。「君は彼女が好きではないでしょう。」

汁琮は応えざるを得なかった。「君が好きなら、もちろんいい。」

汁琮は耿淵が望むものなら全て与えられた。そして最後に耿淵はあの日の約束を守った。

汁琮は王卓の前に座り、卓についた血痕の黒い染みを見た。あの時、耿淵はここで畢頡を刺し殺し、彼の死体のそばで琴を一曲演奏してから、命を断った。耿淵が去って行った日のことは今でもよく覚えている。名医である公孫樾が雍国に来て、彼のために薬を調合した。

 

汁琮は腕を組んで殿柱に背をもたれ、「明日出発するんだな。」と言った。耿淵はその日、雍宮中の色々な場所を歩き回ってから、汁琅、汁琮兄弟を見つめて彼の意思を伝え、鏡の中の自分を見つめた。

「そんなことしなくていい。」汁琮は眉をひそめた。

「私が決めたことは翻さないのは知っているでしょう。」

汁琅も来て、兄弟は耿淵を見た。耿淵は尋ねた。「姜昭はどうしている?」

「越地に帰った。」汁琮が答えた。

耿淵は頷いた。公孫樾は調合した薬を耿淵の前に置いた。「一時的に目虐いた状態になる薬です。長期間使えば解毒できなくなり、完全に失明します。耿公子は気を付けてお使い下さい。」

「わかった。」耿淵は淡々と言い、公孫樾は退席を告げ、出て行った。

「一年以内に暗殺できるかわからない。」耿淵は考えながら、鏡の中の兄弟に向かって言った。「暗殺には忍耐が必要だ。機会を得るために何年も待つことになるかもしれない。だが、成功したと、南方から情報が届いたら、すぐに雍国は関を出て中原に入ってくれ。」

汁琮と汁琅は何も言わず、黙って耿淵を見つめた。

 

「ずっとみんなが望んで来たことだろう?」耿淵は笑顔を見せた。「いいことではないか。さあ、君たちのどちらが私に薬をつけてくれる?」

「私には無理だ。耿淵……。」汁琮は目に涙が溢れ嗚咽しながら言った。

「君がやってくれ、汁琮。」

汁琮は耿淵の方に向かって行った。彼には耿淵の心情がよくわかった。『光を失うくらい何だって言うんだ?』彼らは一生の目標を完成させるためならどんな犠牲でも負うように育てられてきた。長兄は生まれた時から太子となって国を継承する人として生きてきた。何の努力もせずにどんな人でも手に入れ、何でもないことの様に「王道」を口にできる人だ。人生の途中でどんな選択やどんな犠牲があるかなど知る由もない。一瞬の内に、永久の別れがくるなども。

 

汁琮は耿淵に薬を塗って、彼の双目の上に黒布を巻いた。

「これでよしと。」耿淵は嬉しそうに言った。

耿淵は出て行くことを知らせなかったが、王室の者たちは皆、彼を送りに来た。汁琅、姜晴、汁琮、姜太后までも。

耿淵は振り返ることもせず、顔に黒布を巻き、御者一人だけを伴って車に乗った。真っ暗闇の中、幼少から住み続けた落雁城を後にした。故郷を離れ、山深い玉壁関を出て、中原へと向かって行った。

七年後、汁琮が玉壁関を巡回していた時、南方から報せが届いた。彼は成功したが、安陽で死んだ。死ぬまで再び故郷を見ることはなかった。

 

暗闇の中、汁琮は生涯で一番親しかった兄弟が残した痕跡を見ていた。未だに彼の鬼魂がここにいるかのようだ。「君を家に連れ帰りに来たよ。」汁琮は暗闇に向かって言った。「本当はここの奴らを殉葬させようと思ったが、君の息子は姜恒の言うことを聞いて、彼らを逃がした。まあいい。気にすまい。私には、彼の言葉が、君の言葉の様に感じたのだ。」

 

―――

第149章 車輪斬:

 

耿曙が目覚めた。昨日の午後から今朝まで、十六時間も眠っていた。目覚めた時、姜恒が彼を抱いていた。どこかの家の軒下で、二人は毛布にくるまっており、雨は落ちてきていなかった。

「このまま目覚めないんじゃないかと思った。」姜恒は眠そうに言った。「ずっとこのままだったら、眠ったまま逝ってしまうんじゃないかって怖くなったよ。」

 

耿曙は腕を伸ばして、おどけた調子で言った。「お前の近くだとぐっすり眠れるんだ。」耿曙は首を押さえて、首をひねってポキポキ言わせながら、立ち上がって体を洗いに行った。郢国は城南に軍営を構え、梁の桟橋を建て直していた。姜恒は人を呼んで、耿曙に沐浴用の湯を沸かすよう言いつけた。耿曙は桶を持って来て、姜恒に頭をつけさせた。二人は桟橋の近くの一件の旧家屋の中で沐浴し、耿曙は武袍に着替え、姜恒は越人服を着て、手を携えて出て来た。

次に姜恒は軍営で耿曙に山盛り二杯の麺を食べさせた。食べ終えた耿曙は完全に元気を取り戻し、黒剣を背負った姿は、二日前とは大違いだった。あれは地獄の血海から這い出て来た魔神のようだった。

 

「あなたの父王に会いに行く?私も彼には聞きたいことがある。」耿曙はしばらく黙っていた。「郢軍を連れて来たのはそのためなんだよ。」

郢軍が城内に駐留している限り、汁琮だってそう簡単に二人に手出しできないはずだ。項余と屈分が二人の近くにいれば、汁琮は外面を守るはずで、一切を顧みず突然発狂して姜恒を殺したりはしないだろう。絶対に姜恒を守るようにと郢王は項余に口を酸っぱくして言っているのだから。

 

「行くか。」耿曙は考え込んだ。「父さんが暮らしていたところを見に行こう。」姜恒が言った。耿曙は少し複雑な表情をしたが、最後には頷いて、姜恒の手を引いて山を登って行った。

(安陽城は山に沿って建っている。第一章参照)

ちょうどその時、汁琮は安陽別宮の高台から、城内を見下ろしていた。屠城は実施せず、今はそうした手間は省いて、彼の元に来させることにしたようだ。

 

「『昔、戦地に向かった時には、柳がゆらゆら揺れていた。』」姜恒が言った。

「『今や、故郷に戻る道では 霙がびゅうびゅう吹き付ける』」耿曙が後を引き取った。

最近、天気はあまりよくない。王都安陽の空には曇が厚く垂れこめていた。

 

暴風雨が訪れようとしていた。どんよりとした天気は十五年前を呼び戻したかのようだ。

知らせを聞いた項余と屈分もやって来た。安陽正街を通ったが、耿曙が恐れた屠城は起こっていなかった。梁軍はいつまでも頑強に抵抗し死傷者は1万人近くに達した。町の民はびくびくしていたが、屈分は彼らを寛大に受け入れた。城外に逃げ始めた人々を、郢国軍は制止せず、残った者に対しては、郢軍は必ず安全を守ると明言した。南方には屠城という習慣はない。実際百年近く、屠城など聞いたことがなかった。征戦に勝てば、諸候は相手の資産や税収を全て得られる。屠城などという一時の感情で民心を失うのは惜しいだけだ。

 

塞北人が南にやって来る。住居を移し、財産を持って。郢国人と汁琮が協議した結果、郢国軍が撤退し、城を雍人に支配されるのを人々は恐れていた。

汁琮の「車輪斬」は良く知られていた。城が破れれば、車輪より背の高い大人の男は、首を切られる。それは彼が塞外から持ってきた習慣で、彼はすべての敵を恐怖によって支配しようにした。

 

姜恒のかつての話も、徐々に現実になりつつある。彼は汁琮だけでなく、雍国に対して尋ねた。『たとえあなたたちがすべての城を落としても、どれだけの人が喜んであなたを天子と見なすでしょうか。恐怖による支配はどのくらい持つでしょうか。』

耿曙は屈分に言った。「民が逃げようとしたら、貴国の照水城で受け入れることも考慮に入れるといい。」

屈分は言った。「さすが殿下は万民の味方ですな。梁人を大事に扱うと保証しましょう。皆天下人だ。項将軍にも言われているので、どうぞご安心下さい!」

「どのくらい連れて来たんだ?」耿曙が再び尋ねた。項余が答えた。「御林軍二千が照水を守っています。残り九万全部を連れて来ました。」

郢国は何の苦も無く分け前を得ることになった。これは姜恒の計略で、汁琮にとっては大迷惑だ。彼は事態をどう打開するだろう。

 

「塞外の狩人たちのことわざだ。『弓矢を獲物に構える時は、背後に猛獣がいるか確認を怠りやすいものだ。』」

屈分はハハハと笑った。耿曙が言うのは、『蟷螂が蝉を捕らえる時、黄雀が後ろにいる。』のことだ。狩人と獲物は言い換えだろう。太子安は持てる全兵力を送って来た。郢国の主力部隊全てがここにいる。もし汁琮が郢国を裏切り、敵対することになればどちらが勝つかわからない。気を付けなければ。

屈分は百戦を経験し、大雑把なように見えて実はとても繊細だ。だが姜恒は少しも彼を恐れなかった。彼らは安陽宮殿前の360段の階段をゆっくりと上った。それは四国特使たちが、かつて降りることを許されなかった道であった。

 

「黒剣はお前が持っていた方が、私が持つより役立つだろう。」汁琮の声が正殿から聞こえた。第一声は耿曙に向けられた。耿曙は皆に先立って殿内に入って行くと、両足を少し広げて立った。心の中で言う。『それは黒剣が星玉の守護剣だからだ。』

「烈光剣を私にくれ。黒剣はお前に返す。」汁琮が言った。

耿曙は烈光剣を差し出した。一つの交換儀式が完成したようだ。この日正式に彼が父、耿淵の責任を引き継いだかのようだった。だが、耿淵が彼の全てを以て守護する責任を負ったのは汁琮だったのか、亡くなった汁琅だったのかは、それぞれの心の中で明らかだった。

 

一同は歩を停めた。汁琮は姜恒を眺めまわし、姜恒も汁琮をじっと見つめた。

『私たち皆を殺せるような刺客を、彼は用意しているだろうか。』姜恒は考えた。別宮は東向きだった。他の五国の宮殿と同じく、天子のいるべき場所、洛陽の方を向いて建てられている。雍、郢二軍は安陽城を境にして駐留しており、屈分と項余は四千の兵を王宮の外に置いていた。汁琮だって手を下せないはずだ。汁琮は父ほどの腕ではない。本当に剣を交わらせれば、耿曙は逃さない。更に屈分、項余の護衛もあり、外には守備兵がいて何かあればすぐに入って来られる。汁琮だってそこまで己惚れてはいないだろう。

汁琮は耿曙を見て、突然笑い出した。

「屈将軍、項将軍、お二方にはご苦労をおかけした。おかけください。」屈分は頷いて、項余と共に右側に移動して腰を下ろした。姜恒だけが残された。

「姜恒、君も座りなさい。どこでも好きな場所でいい。」汁琮の眼差しには嘲りの色が見えた。耿曙が手招きし、姜恒は彼の隣に座った。姜恒はあちこち見回さずにはいられなかった。かつて彼の父がここで七人を殺害したのだ。

畢頡、重聞、遅延訇、長陵君、公子勝、子閭。そして彼自身を。

その内五人は、皆、大争の世を収束させる才能を持っていた。逆に彼らが同じ時代に生きていたからこそ大争の世は終結しなかったとも言える。最後に耿淵に一息に殺されたことで問題は解決せずに残ったのだ。一人だけ残しておけば、今の状況はずっとよかったのかもしれないが、全てが宿命であるかのように今や耿曙の身の上に落ちて来た。運命は二人を弄び、この道を通るように仕掛けた。きっと贖罪のためかもしれない。――天下人への贖罪だ。父が壊した物を息子たちが片付けなければならないのだ。

 

汁琮は今、かつて耿淵が座っていた場所に座していた。姜恒はおかしな感覚を覚えた。耿曙はどう思っているだろう。安陽に戻って来たことで、彼の感慨は自分よりずっと深いだろう。この時、耿曙は黒剣を膝の前に置き、片手を剣鞘において、黙って汁琮の話を聞いていた。

屈分、項余と話す汁琮の声が遠くなったり近くなったりして聞こえる。姜恒は上の空でそれを聞いていた。項余が話している。「殿下は末将に言いました。あなたに託されたことをやり遂げるようにと。」汁琮が言った。「やり遂げただけでなく、やりすぎなくらいだ。」

姜恒の注意力が会話に戻って来た。項余が言い残した後半の言葉はこうだろう。――『やり遂げたからには、報酬をいただかなくては。』

 

やはり汁琮と太子安は結託していた。きっと照水侵攻を決めて間もなくの頃だろう。太子安は汁琮に、手を組んで梁国を真ん中分けにしようと持ち掛けたのだ。屈分は再び大笑いしたが、目つきはとても鋭かった。汁琮は不真面目な調子で言った。「五国連合会議の際に、孤王は彼に欲しい物を渡すつもりです。ああ、今は四国でしたな。鄭国は破れ、代国にはその資格もない。あとは誰がいたかな?」

 

『金璽は?金璽が欲しいのでは?』姜恒は心の中で言った。

項余は屈分に目をやった。屈分はごくわずかに頷いた。急ぐことはない。『今じゃなくてもいいだろう。』

項余が再び尋ねた。「雍王は梁王と大臣たちをどうされるおつもりですか?」

「やっかいなことだ。あなた方と相談しようと思って、目下の所、牢に入れてある。私としては、根絶やしにしなければ、変数を残すことになると考えている。父の死を望む者はいない。その息子が十何年か後に復讐してくるかもしれないだろう?」

 

項余と屈分は何も言わずに、視線を交わした後、耿曙に目をやった。姜恒ははっとした。すぐに汁琮も耿曙を見た。「国君が他国の王族を死刑に処すのは規則違反だ。この世でそれができるのはただ一人だけ。天子を代表する者が国君に死を賜れる。」

汁琮が言ったことの意味が姜恒にもすぐわかった。梁王に死を賜る権利を持つのは姫珣だけだ。自分と耿曙は王軍の旗を掲げて梁を打った。汁琮は自分たちを梁人の敵として前面に出すつもりなのだ。耿曙が「自分にはそんなことできない」と言おうとした時、項余が言った。「大目に見てやりましょう。たかが子供です。何ができるというのです?」

 

汁琮は冷笑した。「項余将軍は子供にとても寛容と見える。」項余は淡々と答えた。「子持ちですし、年を取って子供に甘くなったのかもしれません。雍王には娘さんはいないのですか?」

「息子が二人、一人は落雁で国君となるべく学んでいる。もう一人はあなたに目の前にいて、国君を守ることを学んでいる。まあそう言うなら、息子たちのために『徳を積む』ことにするか。ただこのまま閉じ込めておくわけにもいくまい。」

「私に渡してくだされば、連れて行きますがいかがでしょう。」項余が言った。

「それではあなたに任せよう。」汁琮は淡々と答えた。

 

屈分はおかしな表情をして、項余の顔を見た。二人がこの件で話し合っていないのは明らかだが、項余が王室の命令を受けて梁国国君を生かそうとしているのかもしれない。だが、何のために?」梁人の民心を掌握するためだろう、と姜恒は推測した。決定権があれば自分だってそうする。十二歳の子供を殺しては梁国の激しい怒りと悲しみを呼び起こす。彼らの国を治めるなら、王には生きていてもらうほうがいい。

 

汁琮は襟元をはたいて、これでもういいか、と示した。

「話し合いはこれで終わりにするとしよう。お二人はいつ熊耒に報告をするのかな?」

屈分は笑って言った。「王陛下には礼節を以て北よりの天子の証をお迎えするようにと仰せです。何日かここにいるかもしれません。末将自ら金璽を受け取らせていただきましたら、すぐに南に帰らせていただきます。」つまり、金璽を受け取るまでは郢軍は退かないと言う意味だ。受け取ったとしても退くか退かぬかは彼ら次第とも。汁琮は怒りはせず、話を繰り返しもしなかった。

 

「それも良い。それなら、なるべく早く落雁に送って来るように言うとしよう。」

「すばらしいです。この日より、末将は、連れて来た兵たちに兄弟の邦を和睦を以て敬うようにと申し上げましょう。」

「兄弟の邦へ。」汁琮も賛同して頷き、『どうぞ』という仕草をした。談判は終了、お帰り下さい、ということだ。屈分と項余はそれぞれ立ち上がり、姜恒に目をやったが、姜恒は座ったままだった。「我らは外でお待ちしますね。」項余が姜恒に言った。姜恒は頷いた。これで彼らの話し合いは終わったが、郢人部隊はまだ宮外にいる。これなら汁琮も手出しできないだろう。

 

汁琮は笑顔で言った。「項将軍はお戻りいただいて大丈夫だ。一人は息子で、一人は外甥だ。何か待つ理由でも?」

項余が振り向いた。汁琮の眼差しにある何かには全く気付いていないように見える。「私の記憶違いでなければ、姜大人はまだ人質だったはずですが?末将は彼を連れて来ました。当然彼を連れ帰ります。それが王陛下のお申し付けですので。」項余は真面目な口調でそう言うと、すぐに嘲るような笑顔を見せた。「雍王がこの機に乗じて彼を連れて行こうとされても、そうはいきませんな。」

 

この時姜恒は項余がなぜかある人に似ていることに気づいた。ずっと忘れていたが、今の、『彼を連れて来ました。当然彼を連れ帰ります。」の言い方が、そっくりだ。ずっと前に、太子霊が遣わせて、自分に侍らせてくれた鄭国人、「趙起」に。

「それもそうだな。」汁琮は堅持しなかった。「孤王は肝に銘じる。お二方は殿外でしばし待っていてくれ給え。」項余は姜恒を見て頷き、屈分と共に出て行った。

 

殿外の曇空の下、屈分は腕を組んで、押し殺したような声で言った。「命令と違うぞ。」項余はしばらく屈分の顔を見て、眉を上げた。「金璽をもらうまでは手出しできない。」

「項将軍、」

「屈将軍。」項余は一歩も退かない。

「ここは私の言ったとおりにしろ。太子からの密令だ。」

「その密令は私があなたに渡したものだ。」

屈分は疑惑を顔に表した。項余が言った。「だが私にはあなたを止められない。よく考えてみるんだな。熊安の策は時々的確でないことがある。」

「私は王家から俸禄を得る人間だ。兵を率いる者として、言われたとおりに実行する。それに対してお前は何だ、項余。自分が寛容すぎるという自覚があるのか?」項余は『仕方ない』という仕草をした。「そういうことなら、準備しに行けばいい。」屈分は居丈高に、項余を探るように見た。項余は再び言った。

「私はここで彼らを待つ。金璽はまだ手に入っていない。そうだろう?」

屈分は冷笑を漏らし、階段を下りて行った。項余は階段に座って、殿内から響く言い争いの声に耳を澄ませた。耿曙が烈火のごとく怒っている。彼はこの雍国王子に対する自分の判断を修正すした方がいいかもしれないと考えた。

 

 

―――

第150章 屏風の裏:

殿内。

耿曙と姜恒は座ったままでいた。

「羽を収めたような固い座り方だな。海東青みたいだ。」汁琮は酒を飲んで笑った。姜恒は口を挟まなかった。自分は今何も言わない方がいいだろう。全て耿曙に従うのだ。この件は耿曙にとってすごく重要なことだから。

「恒児は江州で死にかけた。」耿曙は汁琮の意味ありげな風刺など気にせず言った。「まだ生きているじゃないか。死んではいない。恒児、死んだのか?」汁琮は笑った。

汁琮は酒杯を姜恒に掲げたが、彼らの分の酒はなく、自分だけが飲み干した。

 

「なぜですか?!」耿曙は怒りの声をあげた。声が殿内に響き渡った。姜恒は飛び上がる程驚いた。彼が自分のために汁琮に直面することはわかっていたが、こんな稲妻を落とすように怒る彼を見たことがなかった。耿曙は怒りのあまり震え、黒剣を固く握り締めた。

「私を殺したいか?」汁琮は突然失笑した。「お前の武功は全て私が教えたものだ。兵法も全て私について学んだ。それなのに今、お前は父の黒剣で私を殺すのか?父が聞いたら何というかな?」耿曙は黒剣を掲げて、黙ったまま正殿内を汁琮に向かって歩いて行った。

 

姜恒はすぐに「兄さん、」と言った。汁琮はそれを聞いて意外そうな顔をして姜恒を見た後、耿曙に目をやった。「本当なんだな。」耿曙は言った。

「お前が本当だと思うなら、そうだ。信じないなら違うということだ。私はお前にたくさんのことを教えた。息子よ、今、父王は最後に一つ教えよう……。」そう言うと、少し体を傾けて、耿曙に向かって言った。「世の中の人は信じたいことを信じるのだ。上は天子から、下は畜生まで。みなそうだ。真偽に意味はない。全てのことは、信じるか否かで決まるのだ。」

 

汁琮は軽く手を上げたが、姜恒は気づいた。彼の指がほんの少しだけ震えているのを。

「兄さん、」姜恒は立ち上がって、耿曙の空いている方の手を引っ張った。あれはわずかな動きではあったが、汁琮の恐れを表していた。汁琮は自分がもはや耿曙の相手にはならないとよくわかっていた。かつての玉壁関や潼関での対決の時とは違っていたのだ。

 

あの時、彼は相手が手を出さないと思ったため、ゆっくりと袍を外して、耿曙に殺すように言った。しかし今回は耿曙が本当に手を出すかもしれないと思っている。事態が収拾できなくなった以上、必ず先に準備をしているはずだ。このわずかな予感が姜恒を警戒させた。

汁琮が何も準備していないはずはない。きっと誰かを隠しているはずだ。誰かはわからないが、屏風の裏か、汁琮の背後にいて、今にも二人を刺そうと剣を拭いて待っているのだ。二人は死のすぐ近くにいる。もし耿曙が先に手を出せば、汁琮には二人を殺す理由ができる。

 

「もう行こう。もういい。」姜恒は言った。耿曙はふと顔を向けて姜恒を見た。唇が少し動いた。「いいや。」耿曙が言った。汁琮は両手を机の上に載せ、とんとんと叩いた。あれは合図だ。姜恒は直感した。

「もう行こう。終わりだ。汁琮、もう心配しなくていい。あなたが雍国にいる限り、私たちは落雁城には戻らないから。」姜恒は言った。

 

突然汁琮は大笑いした。何かおかしなことをきいたかのように。再び耿曙を見て、唇を少し動かした。何か言いたそうな表情だ。姜恒にはわからなかったが、耿曙にはわかった。『彼は知らないのか?いったいどうして知らないんだ?』

姜恒は疑惑の表情で耿曙を見た。耿曙はこの時考えを改め、冷たくなった姜恒の手を握った。

「あなたは俺を四年間育ててくれた。」耿曙は黒剣を収めて言った。「恒児と別れた後、俺に身を寄せる場所を与えてくれた。だが、俺の武功はあなたが教えたんじゃない。両親と夫人が伝授してくれた……。」汁琮は冷漠とした不思議な表情で、耿曙ではなく、姜恒の顔を見た。「……俺の兵法は、趙竭将軍が教えてくれたもので、あなたとは関係ない。あなたは俺を四年養ってくれた。俺はあなたに替わって塞外を平定し、三胡を征伐した。今回、あなたに替わって安陽を打った。育ててくれた恩返しだと思ってくれ。あなたのことを二度と父王とは呼べないが。」

「貸し借り無しか。」汁琮は頷いて釈然とした笑みをうかべた。「清算したからには出て行くと。まあそんな大口をたたくことはない。お前の父上がいた時に清算は終えている。私が耿家に借りがあったので、お前が私に借りがあったのではない。」

 

「恒児を殺しに人を遣ればいい。だが永久に成功することはない。もしまた俺を怒らせたら、自分の息子に気を付けるこ……。」汁琮は再び大笑いした。耿曙に話を続けさせる気は微塵もないようだ。「汁瀧に何の罪があるんだ?」汁琮はからかうように耿曙を見た。

「恒児には何か罪があるか?」耿曙は答えた。汁琮は笑うのをやめ、最後に一字一句はっきりと言った。「お前には失望した。」汁琮は真剣な表情で言った。「聶海、復讐のために、自分の弟を殺すようなことまで言うとは、全く失望させられたよ。」

「あなたにそれを言う資格はない。」汁琮と耿曙は同時に恐ろし気な表情で沈黙した。

 

「行こう、兄さん。」姜恒は耿曙にもう何も言わせたくなかった。耿曙の心がとても傷ついているのがわかっていた。ずっと本気で汁琮を父親として見て来たのだから。手に冷や汗をかいている。王卓の後ろにある「山河永続」と書かれた屏風の裏に殺気を感じていた。この刺客の腕は今までに来た中で最強かもしれない。それが汁琮の合図とともに、姿を現して剣で一突きして彼を殺すかもしれない。汁琮の前でこんな尊厳のない死に方をしたくはなかった。

 

だがその時、別の影が、彼らの後ろに現れた。耿曙はその足音を聞いたが、振り返りはしなかった。「まだ話が終わらないのですか?」項余が口角を少し歪ませて汁琮を見ていた。

 

「お前には失望した」と言った時、汁琮にはわかった。この息子が二度と戻って来ないと。役に立たず、言うことを聞かない者は排除しなくてはならない。いつか天に召された時に、耿淵には謝ればいいだろう。だが項余が突然現れたことで、機を逸した。最後に、あの言葉を言うことができなかった。このわずかな遅れで、彼は耿曙と姜恒を一気に片付ける機会を失った。

耿曙は最後に言った。「俺もあなたには失望した。おあいこだ」そして姜恒の手を固く握って、正殿を出て行った。

 

汁琮は王卓について、木彫りにでもなったかのように座ったまま、項余について、姜恒と耿曙が王宮を離れて行くのを見ていた。屏風の裏から刺客が現れた。とてもとても年老いて、顔はしわだらけ、白眉が垂れ、手は枯れ枝のよう、皮をかぶった骸骨のようだった。指が三本しかない骨ばった左手に小さな細剣を握っていた。

 

「お前たちは私の大事なものを壊したな。」汁琮の声音は平静だったが、抑制した憤怒を押さえられなかった。この血月たちが刺殺に成功してさえいれば、或いは失敗したとしても、きれいに退いていれば、自分の計画が耿曙に見抜かれることはなかった。天下争いの途上で、有能な助手であり、忠実な犬としてずっと命令を聞いていたはずだった。江州で彼らが見抜かれたせいで、汁琮は強大な棋子を失ったのだ。だが、成功したらどうだっただろうか?

 

彼はもう知っていたのだ。それを考えた時、汁琮は背後に悪寒を感じた。どうやって知ったのだ?誰が言ったのだろう?耿曙は自分が汁琅を毒殺したことを知っていた!実の兄を毒殺したことを!兄の子を王宮から盗み出したのは誰なのだ?そいつらはこれほど多くのことを自分から隠していたのか?!裏切られたような気分だ。裏切ったのはまさか実の母なのか。他の人のはずがない!

 

耿曙と姜恒が王宮を出て来ると、項余は二人に目を向けた。「私は梁王を連れて来なくては。」姜恒は落ち着き払った態度で、頷いて項余を送り出すと、耿曙を見た。「兄さん、」姜恒は彼の手をひっぱって軽く揺らした。

耿曙は王宮を出てからずっと無言だったが、顔を向けて、姜恒をじっと見た。

「恒児。」

姜恒は眉をあげて、彼の前に立ち、手を伸ばして頭を撫でてから、英俊な横顔を指の背で撫でた。「ほらほら、大丈夫だって。」姜恒はそっと言った。

「恒児。」耿曙は真剣な顔で言った。いいたいことがたくさんあるのに、いつもこうなる。言葉は喉元でつまり、口をついて出て来ない。心の中には天地を満たす程言いたいことが溢れているのに、姜恒の前に立つと、それらの思いは潮水のように退いて行ってしまう。何もつかめないままに。

 

言えるのは「恒児」だけ。何度も「恒児」と繰り返すだけ。生き別れた時も、この名を叫んだ。死に別れる時もきっと叫ぶだろう。喜びに涙しながら、引き裂かれるような悲痛を感じる時も、千言万語をこの二文字で表現してしまう。自分が持てる全てだから。この名を失ってしまったら、耿曙は二度と心を持てないだろう。何も話せなくなるだろう。

 

「これからどこに行こうか?」

姜恒も茫然示寂していた。彼も色々言うことを考えていた。汁琮をあざ笑ってやろうとか、責めてやろうとか。だが、耿曙が口を開いた時、何も言う必要はないことに気づいた。このことが耿曙に与えた苦しみに比べたら、汁琮が自分にしたことなど何でもないではないか。

「お前に俺の家を見せに行きたいんだ、恒児。」耿曙はとても落ち着いていた。やるべき任務を一つやり遂げた気持ちだった。

「子供の頃の家だ。生まれたところ。」耿曙は話を補って言った。

「いいね、行こう。ずっと行きたいと思っていたんだ。でも急がなくていいよ。あなたが思い出して悲しくなるのが心配だから。」耿曙はしばらく黙っていた後で、ようやく一言言った。「お前はいつもそうだ。お前の心は俺のことをいつも思っている。俺にはよくわかっている。」

 

姜恒は少しつらそうに微笑んで、耿曙と肩を並べて、王宮に側した山道を歩き、城西北の平民区に向かって行った。安陽は山に沿って建てられた街で、巷道も山に沿って伸びている。王都の主が変わり、人々はしばらく動転していたが、既にいつもの生活を取り戻していた。市場では商売が再開していた。町では人々が情報交換をしていたが、耿曙と姜恒の姿を見ると、人々は次々に屋内に入って行ってしまった。ここは人々が日々の暮らしを行う場所で、王宮とは全く違う、別の世界のようだった。

もう耿曙を見ても誰だかわかる人はいない。灯芯を作っていた女性が生んだ、警戒心が強くわんぱくな子供が、二十年後に上将軍となって戻って来るとは誰も思いもしなかっただろう。