非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 191-196

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第191章 行軍の報告:

 

口を開くものはいなかった。代国を除く三国は、当然停戦を望んでいる。姜恒は今までの討論の本質をわかりやすく表に取り出して置いだけだ。みな心の中ではわかっていたが、言いたくはなかった。最終戦争となれば、勝者がすべてを得て、敗者は亡国となる。数多の民や兵士たちの命の犠牲の上に、勝ち残った強大な国家と君王が天下を統治する。

恨みつらみを捨てて妥協し、話し合えば、皆が一時の平和を得られる。それぞれが、利益の一部を諦め、天子の管理と調整に従う。理屈はみなわかっているが、そう簡単には行かぬものだ。

梁王畢紹が言った。「おっしゃる通りです。暫し恨みは捨てましょう。全て終わったことです。」彼は龍于、諸令解、羋清、そして熊丕に向かって真剣に言った。「過ぎたことを言ったところで何になりますか?亡くなった人は戻ってきません。今生きている人たちの世のことを考えましょう。」

姜恒は十二歳の畢紹をじっと見た。かつての自分と同じような考えを持っている。太子霊は命を差し出した時に、最後の希望を姜恒と耿曙に託した。龍于や鄭臣たちも早くから趙霊の遺願はわかっていた。姜恒は彼らの最後の希望なのだと。

「賛成いたします。」龍于が言った。諸令解はまだ何か言いたそうだったが、最後には龍于に反論しないことにした。

 

雍国が先に利益を手放す。それは姜恒が汁瀧に提案したことだ。一方が打開の糸口を提示しなくては口論に終わりはないだろう。

「梁王は心に王道を持っておられる。では貴国はどうです?」姜恒は羋清に尋ねた。

羋清は熊丕の背に置いた手をとんとんと叩いた。

「姜大人、私たちの後ろには郢国国民がおりますことをご了解いただけますよう。」

「もちろんわかっております。そちらの要求は何ですか?」

羋清は暫く黙った後で尋ねた。「姜大人は五国国君の内から新天子を選ばれるおつもりですか?」

「そのつもりです。」姜恒は答えた。ついに最も重要な一歩を踏み出す時が来た。

「天子遺命により、私が後継者を選びます。ですが、申し上げた通り、諸侯国君の意思をお聞きしたいと思っております。そのうえで、まず申し上げますが、私は汁家を、現在の雍王、汁瀧を新たなる天子に選びます。」汁瀧の額から汗が流れ落ちた。

 

皆不意を打たれて妙な表情をした。来る前から皆言い合ってはいたことだ。姜恒はきっと金璽を汁家に渡すだろうと。結局のところ、汁家は目下のところ最大の勝者でもある。だが、驚いたのは何の根回しもなくいきなりその話を出してきたことだ!

 

諸令解が狂ったように大笑いし、静寂を打ち破った。「彼ですって?!あの狂人の息子を天子にするのですか?!彼の父親は四国の不倶戴天の仇ですぞ!」汁瀧は何も言わず、冷淡な表情をしていた。

姜恒が言った。「そうです。各位が賛同いただけないのであれば、誰か推挙してください。皆さんの提案はお聞きいたしましょう。諸侯各位、お話しいただけますか?この席に誰がつけば、みなさんが心から喜んで従えるでしょうか?」

そう言われても何も言えない。推挙するにふさわしい人がいないのが何よりつらいところだ。

畢紹は天子になれるか?まずは、亡国の君として、畢紹は自らの国の人たち全てを失っている。つぎに、彼はまだ十二歳だ。麾下の者は全て老臣、梁国は既に以前から朽ちかけていて、まるでかつての晋のようだった。

 

趙聡は天子になれるか?無理だ。趙霊の後継ぎとはいえ、この少年にはよくわかっていた。五国を治めるにはより深い仁義が必要だが、国君として鄭国を治めるだけでも難しすぎた。

 

熊丕は天子になれるか?誰も熊丕に注目するものなどいない。急ごしらえの王に過ぎず、実際は羋清の傀儡だ。羋清は?郢国が災難に見舞われた後、前面に出てきた長公主は、国を治めた経験すらない。

 

姜恒は終始、李靳を見ようとしなかった。李霄には更に無理だ。李霄を数に入れる者はいない。李霄も天下の民を自己の臣民とは考えていない。彼が気にするのは代国だけだ。

 

「現在の雍国が証明している通りです。汁琮在位時から、汁瀧はその才能を以て雍国をかつてない強大な国家に仕立て上げました。民はそれぞれが土地を持って豊かになり、商業は活発になり物が行き交うようになりました。雍国の国力は今や、郢国に匹敵します。

私には確信があります。汁瀧が天下を率いれば、今後三十年で百年前の盛況を取り戻すでしょう。あとは皆さんが彼を信じるかどうかです。」

 

天子の人選はあまりに突然過ぎた。龍于でさえ、姜恒はきっと何か緩やかな方法で決めると思っていた。こんな風にされては連合会議も進退窮まってしまう。―――汁瀧にその地位を任せたい者はいないが、かといってもっといい人選もできない。更にはっきりしているのは、自分から名乗りを上げることもできない。

「それは出来かねますね。」諸令解が言った。「姜大人、永遠に無理です。あなたご自身が天子になった方が、汁家の人間がやるよりましですよ。」

汁瀧がにやりとして姜恒を見た。こんな時にいたずら心が出てきたのか、こう言いたいようだ。―――ほらね?私が言った通りでしょう?

 

汁瀧にはよくわかっていた。ここ数年、雍国が強大になったのは姜恒の変法のおかげだ。あとは東宮の部下たちの才によるもので、自分は何もしていない。ただ報告を聞き、彼らを信じ、その持てる能力を支えただけだ。(それが偉いのよ)

だが姜恒は譲らない。それが用人の道というものだと言う。自分を信じ、人を信じる。それこそが敬うべき素質なのだと。汁瀧はずっと人を信じることを学んできた。優秀な人材を発掘し、彼らを支持した。姜恒が言うには、国君になるのはとても簡単だそうだ。―――人を用いたいと願い、人を用いることを理解する。人と人との間で力を消し合わせないようにし、自分の力も消されないようにすれば、うまくいくそうだ。理屈はとても簡単。

今日の会合で終わりのない言い争いを見ていると、彼にもだんだんとわかって来た。なぜ姜恒が、人を信じることを価値あることと考えるのかが。

 

李靳も笑い出した。「姜大人は無垢な心をお持ちのようだが、現実を認めた方がいいですな。みんなでここに座って話し合えば、問題が解決するというものではないでしょう。こうして見てきましたが、もう付き合いきれません。各位、申し訳ありませんが、代国は会議を抜けさせていただきます。」そして李靳は一同に向かって言った。

「帰る前に一言、姫霜公主も五国会議の招集をお望みです。各位の考えをお聞きしたいそうです。雍国はこの十年、いや、百年にしてきたことの代償を払うべきだ。新たな天子、新たな王廷は必要でしょうが、間違ってもあんな役立たず……。」

汁瀧の背後にいた者たちは憤った。品行方正な曾嶸でさえ、李靳への怒号が口を出かけた。そんなに戦いたいなら、見ているがいい、役立たずはどっちか!

 

だが姜恒は目で曾嶸を制した。代国が受け入れないことはわかっていた。ここに来たのはただ探りを入れるためだ。こちらも姫霜がどう思おうと別にかまわない。雍国は最大限の誠意を見せている。汁琮だったら安陽を返還などしなかった。彼は戦うだけ。その一本道を進むだけだった。姜恒は惜しみない努力の末、汁瀧の支持の下、雍国朝廷を説得し、別の道を開いた。梁、趙、両国の同意を取り付けられれば、郢国が反対したとしても三国の支持が得られ、代国の脅威は恐れずにすむ。李靳の反応は姜恒の想定内で、対策も話し合ってあった。

 

「それでは李霄殿が天子になられるのですか?」汁瀧が丁寧に尋ねた。「彼を呼んできて話し合いましょう。皆さんの承認が得られれば私も支持したいと思います。」

誰もが李霄は汁瀧より更に屑だと考えている。姫霜に至っては誰も好感を持っていない。李霄は実の父親の李宏を殺した。李宏は死に値する罪など犯していないのに。李宏の死に大義はない。その上李謐も命を落とした。:李霄の動機は権力を奪うこと、それが一番許せない。そもそも代国は中原紛争を冷めた目で見ていて、毎回名は連ねても力は出さない。あの落雁城の一戦では、鄭は代と同盟を組んでいたのに、代国は遅々として援軍を送らず、雍国境内をうろうろしていただけだった。それは、間接的に太子霊の惨敗につながった。

 

梁国安陽が攻撃されたとき、李霄は汁琮と同盟を結んでいて、背後から支援していたようなものだ。代人は商家出身で、商人は漁夫の利を得ようとする。どちらも助けず、双方が傷ついた後で、利益だけ拾い上げようとする。李霄には称賛すべき点は何もない。天子になどなったら、中原の民は搾取され、西川の国庫が富むだけだ。諸侯の誰もそんな有様を見たくない。

「……発言は控えます。」李靳は諸候たちに抱拳した。「霜公主はこの天下の未来、

後ほど西川より照会が来るでしょう。それを……。」

姜恒は李靳を見ていた。彼に対する反論はすでに長編大論になるほど準備してある。だが、会場で何か起こったようだ。全てしっかり把握できていたと思っていた局面が、初めて制御を失おうとしている。

 

―――まず梁国の使いがやってきて、龍于の耳元に何か報告した。龍于は驚愕の表情を浮かべ、信じられないといった表情で姜恒を見た。

姜恒:「?」

 

李靳の途切れることのない演説が続くが、姜恒はもう聞いていなかった。龍于の表情が気になり、問うように眉を揚げる。すぐに郢国の使いも入ってきて羋清の耳元に何か囁いた。羋清も目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻した。

どうしたと言うのだ?

何かがおかしいと姜恒は鋭敏に感じ取った。李靳はまだ姫霜の命令について語っている。汁瀧の背後でも耳打ちが始まり、龍于は梁王畢紹に小声で何か伝えた。諸侯たちは誰も李靳の言葉を聞いていない。

汁瀧は姜恒と視線を交わし、後ろを向いて周游に問いただした。雍国人はまだ何も知らないが、どうやら何かが起こったようだ。その時遠くからごく小さく鷹の鳴き声が聞こえ、郎煌が一枚の布切れを持って会場に早足で入って来た。二人に目をやり、まずは汁瀧に見せた。汁瀧は一目見て、愕然とし、それを姜恒に渡した。布を開くとそこには耿曙の字で一行書かれていた。

その場の者は話をやめ、全ての視線が一時姜恒の上に留まった。

「……七年前、霜殿下は大晋朝廷を再建しようと……。」李靳はまだ熱弁をふるっていた。

姜恒:「李将軍、申し訳ありませんが、少し中断してください。」

李靳は嘲るように姜恒を直視しつつ、話を停めた。

姜恒は李靳に布切れを見せた。「貴国の不服は承知の上。ですが、聶将軍が四万の王軍を率いて、漢中平原にて二十五万の貴軍を打ち破り、西川境内に侵入しました。おそらく、これではもう霜公主もどうなることか。早く家に手紙を書いて無事を確認した方がいいかと。」

李靳:「……。」

姜恒は果断にも言い放った。

「本日の会合はこれにて終了します。以下のことは明日また話しましょう。散会。」

                     (もう雪合戦で決着つければ。)

 

ーーー

第192章 新年の夜:

 

会場は騒然となっていた。これが大波を引き起こす前に、姜恒はばっさりと討論を打ち切った。一刻も早く対策を話し合わねばならない。

「気でも狂ったのか。誰の命令だ?」周游は不信も露わに言う。

殿内では姜恒が続けて三杯冷茶を飲み、その間も皆が彼を見ている。

「私のせいだ。わかっている。でも私じゃない。」姜恒は否定した。耿曙は今まで姜恒の言う通りにしてきた。まさに言いなりだ。だから姜恒は矢面に立たされた。だれも耿曙が密令もなしに、いきなり兵を率いて代国を攻撃するはずがないと考えている。

汁瀧だけは彼を信じた。姜恒が違うと言うのなら違うのだ。

「兄さんはなぜこんなことをしたのだろう?」汁瀧が言う。

「私にも……わからない。状況はどうなっている?」姜恒が言った。

雍国は前線の戦況について何も知らない。手紙は海東青が持ち帰ってあれだけだ。耿曙は布切れに僅か数文字だけ書きつけてきた。:代軍は破った。西川に向かう。攻城の指示を待つ。

 

「四万しかいなかったのに、どうやって二十五万の大軍を破ったのだろう?」と汁瀧。

皆言葉を失い何もできない。鄭人には独自の情報網があるのだろうと考えた曾嶸は龍于に聞いてみようとしたが、姜恒に止められた。

朝廷を通さず、耿曙が突然軍事行動を起こしたことを他国に知られてはならない。

姜恒は会議上で戦争を止めさせようとしてきた。だが前線にいた耿曙がそれを打ち砕いた。表では大争の世の終結を唄っていながら、裏では耿曙に代国を打たせているのだから、悩ましいところだ。遅くなるまで待った後で、雍軍からの手紙がようやく届いた。

 

「報告―――!」使いが言う。「王子殿下、漢水畔にて敵軍を大敗さす。代国二十五万兵を破り、三万死亡、五万が捕虜になりました!」

詳細を聞いた姜恒はめまいがした。耿曙は三日前の黄昏時に、すでに李靳の軍隊に突撃をかけ、漢水が凍結したのに乗じて夜のうちに渡河を行い、大半を漢中に送り込んでいた。そして夜明けとともに李靳の後陣に攻撃をかけた。代国軍はもう何年も戦っておらず、大軍のために敵を甘く見た。混乱の内に、凍結した漢水に追い込まれて、耿曙の罠にはまったのだ。

日が暮れて空が血の色に染まる頃、奇襲を受けた代軍は川の上に逃げ込んだ。そこで百里にわたって氷が突然割れ落ち、その場にいた数万が溺死、或いは凍死した。

 

「手紙を送りましょう。」曾嶸が言った。「バカなことはやめるようにと!まもなく盟約も締結しそうなのに、こんなことをしたら他国はどう思うでしょう?」

「もう遅いよ。」姜恒が言った。彼は耿曙の判断を信じた。

汁瀧が言った。「転じて福となるかも。」

姜恒は頷いた。少なくともこれからは代国が偉そうにすることはないだろう。

「洛陽に厳戒態勢を敷いて。代国から嵩県を守っていた曾宇隊を戻らせて、洛陽を守るようにさせて。」姜恒の言葉に皆は我に返った。代国はきっと復讐するだろう。五国の公卿が今洛陽に集まっている。今やるべきことは参加者を必ず守ることだ。もし連合会議で人が死んだりしたら、例え陰で糸を引いたのが代国であったとしても、想像しがたい結果になるだろう!周游が尋ねた。「会議は終わらせますか?」汁瀧が答える。「いいえ。今帰したら逆に危険だ。」

 

衛賁が急ぎ足にやって来た。「代国が対策をとりました。兵を二つに分け、剣門関を出て嵩県を打つようです。」

姜恒:「李靳をしっかり監視して。危険を見つけたら、彼を押さえておかないと。衛軍、全城を厳戒態勢にして。」衛賁は了解し汁瀧に頷いた。

「私は今夜、それぞれに話をしないと。」姜恒が言った。

今日一番の難題に取り組まねば。何としても汁瀧を新天子にさせなくては。各国から他に有効な提案が出なければだが。その後の、二日目と三日目は汁瀧の戦場だ。彼は皆の信任を勝ち取らねばならない。少なくともその機会を彼に与えなくては。

汁瀧は頷いた。姜恒は心を決めた様子でまずは後殿に行き、龍于に会うことにした。

龍于を最初に勝ち取るべき相手で、最も希望を持てる相手でもある。彼は鄭国王室二代に仕え、鄭の先王の伴侶でもあった。趙霊を育て、彼とは父とも兄とも言える存在だった。誰よりも趙霊の願いをわかっているだろう。

 

今日は雍人の新年だ。宮廷内では諸侯の礼に則った食事を各国君主の部屋に届けた。鼎で煮た魚、鶏肉、羊、亀の四鮮が、雍国の強い酒と共に給された。本来なら雍王汁瀧による宴が開かれるところであったが、漢中からの戦報により、中止となった。

姜恒は鄭国が滞在する部屋についた。食事も届いたようだ。龍于は畢紹と趙聡に向かい合ってお茶を飲んでいた。この時間、趙聡はもう畢紹の膝を枕に眠っていた。

龍于と畢紹は黙りこんでいた。二人とも心配事があるようだ。姜恒の来訪により、沈黙が破られたが、彼は畢紹に立たなくていいと示した。

「趙聡はきっとすごく眠かったのでしょう。趙慧は?」姜恒が言った。

「落ち着かないからと言って、出て行きました。」龍于が言った。

姜恒は官員ではあるが、亡くなった姫珣を代表する身分でもある。諸侯たちは彼に拝礼した。彼が天子の後ろにいた時の礼儀であった。

「子供の時は時間になるとすぐ眠くなるものです。」畢紹が答えた。「私もそうでした。この時間にはもう眠くて仕方ありませんでした。」

平服姿の梁国国君と龍于を見て、姜恒はおかしな感覚を覚えた。なんだか家族みたいだ。鄭と梁は元々姉妹国家だ。畢氏と趙氏は六百年前には晋廷の由緒ある大家族だった。

「私も洛陽で新年を迎えるのは初めてです。」龍于が姜恒に言った。

「鄭国の新年はまだ何日か先ですよね。うまくすれば、それまでに済州に戻れますね。」姜恒が答えた。

「この局面もしばらくすれば、きっと解決しますよ。」龍于は、雍国が突然軍事行動に出たことについて、驚いたとか、バカげたことだとか言わなかった。そして口角を少し上げた。彼は既に四十を超えているはずだが、変わらず優雅な姿で、体つきも要望も青年のようだ。目元には越人らしい英気があった。

姜恒はほっとした。耿曙の突然の襲撃は全くの想定外だったが、こうして畢紹と龍于の様子を見ると、すでに気持ちは決まっているようだ。

 

畢紹:「彼を信じていますか。」

姜恒:「私の兄ですから。当然信じています。」

畢紹が誰のことを言っていようが、汁瀧も、耿曙も二人とも自分の長兄だ。汁瀧は実の従兄でもある。龍于は言った。「趙霊が死んでから、ずっと考えていたことがあります。」

姜恒は眉をあげた。

龍于:「彼は何であなたを信じたのでしょうか。」

畢紹が龍于に言った。「兄上(太子霊)は、生前私に言っていました。姜大人が済州に来た最初の日に、大争の世は十年以内に終わると言ったのだと。それで姜大人のためにまず汁琮を刺殺する決心をしたのだとも。」

          (そーだったの?!でもやったのは姜恒の方だったけど。)

姜恒は笑い出した。「あの頃彼とはたくさん話をしたのに、具体的にそう言ったかを思い出せません。」

 

龍于は考えていた。彼は今や鄭国軍の首級である。鄭、梁両国とも、戦いの末、雍国に一矢報いたとは言え、その力は小さい。雍人はあちこちに征戦をしかけ、一国単独では耿曙に対抗できない。だが、連合を組んで四方から開戦すれば、汁氏を玉壁関の外まで追いやる力があるかもしれない。

姜恒にもそれはわかっている。何としてでも彼らを会議に引き戻したい。まずは話し合い、それでもだめなら戦場で解決する。彼らに証明したかった。耿曙は第二の汁琮ではないと。

龍于は尋ねた。「この先、三十年、四十年たったら、どんなふうになっていると思いますか?」

姜恒には龍于が決断を下そうとしているのがわかった。自分の答えが二日目の会合での出方に影響するのだ。「実を言うと、未だに暗中模索状態で、応えるのは難しそうです。」姜恒は答えた。

龍于と畢紹は驚いたようだった。

畢紹は笑顔で言った。「私はてっきり姜大人は……。」

 

「隆盛の世なんて絵空事です。それは誰もがわかっていること。王権の没落、晋廷の衰退、それは雍だけが原因ではなかった。姫氏自身にも原因があったはず。たくさんの問題が、時局に応じて出てきた。そういうことです。」

龍于は頷いた。数百年来諸子百家が休むことなく論じてきたことだ。何を学ぶべきか、今ある秩序を打ち破って新たに打ち立てるのはどんな人か。

「六百年の晋王朝は発展を停めました。最初は中原に十三国、四十二城ありました。その後、諸部族が帰順し、領土は広がり、二百年前の武王在位の時に、「天」は東海、西陲、南疆、北塞へと広がりました。領土の拡大により新たな問題が発生しました。「家天」の分封です。これほどの広大な領土を管理するのは難しい。辺域まで中央の力は及ばない。だが改正すれば、王権の衰退は必定となります。」

 

ちょうど一本の大樹のようだ。枝が伸びれば重くなる。長年それを支えていれば、何もしなくても負担が増えるのに、一旦暴風雨に見舞われれば枝葉は折れ落とされる。

姜恒は考えた末、再び畢紹に言った。「家天を取り上げ、諸侯の国封を解除して、郡県制にして、天子直轄とする。難しいでしょう?自らの国君の位を放棄したがる者がいますか?まあ、趙霊は放棄したがっていたかもしれないけど、士大夫たちが同意しないでしょう?」

畢紹は考えながら答えた。「それが私たちが危惧するところです。」

もしその返還を強行し、晋廷が通った道を再び進めば、最後には瓦解する。その速度は晋廷の比ではないだろう。全てを改変しようとすれば、世の貴族たち全てが敵となる。

「それでも希望はあると信じます。汁瀧は最初に雍王宮で変法を成し遂げた。いつかそれがひな形となるはずです。その行程は困難を極め、時間もかかるでしょうが、辛抱強く待つことにしましょう。一代先、二代先、百年後かもしれないけど、同じ志を持つ人が現れるかもしれません。」                                                                                 

 

龍于:「明日の会合では、天子の名を諸侯に宣言するつもりですか?」

「通すことができれば、そうしたいと思っています。」姜恒が答えた。

龍于も畢紹も何も言わなかった。姜恒も抵抗にあうことはわかっているが、どの国家からも承認を取り付けて、汁瀧をその椅子に座らせなくては。さもなくば一国の同意を取り付けるために、最後には戦いで解決することになってしまう。

「私はこれで失礼します。お二方が眠いようでしたら、夜の爆竹は延期にします。」

畢紹は立ち上がらず、熟睡している趙聡の横顔を撫でながら、姜恒に頷いた。

 

 

汁瀧はふと夜の空気を吸いに行きたくなった。今日の諸侯たちの圧力はものすごく、彼はとても疲れていた。

夜の雪の中に、紅と黒の長袍を身にまとった娘が烏の濡れ羽色の長い髪をおろして、高い所に咲く梅の花を手折ろうとしていた。汁瀧は王宮内にこんな人はいなかったと思い、近づいて、凍った湖の前に立つと、娘に梅の花を摘んでやった。娘は驚いて振り返った。手は剣の柄に置かれている。趙慧だった。

「ああびっくりした。刺客かと思ったわ。」と趙慧。

「私も刺客だと思ったよ。」汁瀧は梅の花を彼女に渡して微笑んだ。「済州には梅の花はないの?」

「済州にはあるけど、潯陽にはない。この花はいい香りがするわ。」趙慧は髪をかき上げながら淡々と言った。

「潯雍で育ったのかい?」太子瀧は趙慧の顔をじっと見つめた。誰かに似ている気がする。……ああ伯母上だ。汁綾。

「母は越人なの。」趙慧が言った。太子瀧は納得した。趙慧は公主ではあっても剣を佩くのを習慣にしているのだろう。越女の伝統だ。

「お父上のこと、すまなかったね。」汁瀧はそっと言うと、近くに行って腰を下ろした。

「別にいいの。うちの父もあなたの父さんを殺したのだもの。お相子ね。龍将軍が、上の代の恨みは捨て置けって。そうでなければ、会合に参加なんてしなかったわ。まあ、私が来たのは姜先生に会いたかったからなんだけど。」

 

「仇を許せるとは、さすが越人。」

趙慧は太子瀧の瞳を見つめた。眼差しに少し笑みをこめて。その時太子瀧は深い夜の中、真白な雪に包まれる夢を見たような気持になった。

「剣法は誰に習ったの?龍将軍?」

「父よ。」趙慧は答えた。太子瀧は少し驚いてから、ああ、と腑に落ちた。「そうだ。お父上は第五番目の刺客だったよね。」

彼女が笑うと、汁綾のようでもあり、姜恒にも、姜太后にも似ていた。双眸は明るく澄んで、知的でもある。「直伝してくれたんだけど、父のことは嫌いだった。それでも、死んでほしくはなかった。」

「どうしてだい?」太子瀧は座ったまま、趙慧は立ったままだ。

「体でも悪いの?」趙慧は眉をひそめて尋ねた。「ずっと座ったままで。足が冷えない?」

「大丈夫。」太子瀧はおかしくなって笑うと、立ち上がった。「習慣だよ。子供のころから教え込まれた。危ないことはしない、立ちたくても座る。走りたくても歩く。みんなが見ているからって。」

「それでつまらなくないの?」趙慧は嘲るように言った。

「そうさー、つまらないよー。誰だって私と比べたらみんな楽しそうだ。恒児の人生なんて楽しいだろうな。どうして年越しなのに一人でいるの?」

趙慧:「龍将軍と梁王は今日のことを話していて、私は聞いてたけど、気持ちがふさいできたから、逃げてきちゃった。先生を探したけど、みんな忙しそうで、誰も私になんてかまってくれないのよ。」

「私は忙しくないよ。私たち二人とも暇人なんだね。よし、一緒に年越ししよう。何か飲むかい?」太子瀧は招待した客人を接待しなくてはと思った。特に今ここにいるのだから。

「お酒がいい。まあ別のものでも。」趙慧が言った。

熱いお茶でも飲むかい?」

趙慧は少し考えて丁寧に頷くと、太子瀧について歩いて行った。

 

(これは結局太子霊が勝ったことにならないかな。娘はきっと次の天子を生むぞ。

そしてたまには男女のカップルほっとする。)

 

 

ーーー

第193章 越人の剣:

 

梅花殿に熱いお茶と点心が給仕された。小雪が舞う冬の夜、趙慧は外を眺めていたが、太子瀧が見ているのは趙慧の姿だ。

彼女は戸口まで行って雪を仰ぎ見ると、また殿内に戻ってきて、壁に掛けられた剣に目をやった。「天月剣だ。」趙慧はそう言って、太子瀧の制止も待たずに手に持った。

太子瀧は急いで立ち上がり、「触らないで!」と言った。

趙慧は既に剣を引き出していて、嘲るように言った。「もともとは越人が作った剣よ。触るのもだめなの?」

「鋭利だから、君がけがをするのではないかと心配になったんだ。」太子瀧が言った。

趙霊は剣をもとに戻した。太子瀧の気持ちがわかり、笑顔を見せて言った。「私、そんなにバカじゃないわ。」

太子瀧はどきりとしたが、すぐに笑顔に戻った。趙慧は剣をちゃんと架けて、「黒剣は?」と尋ねた。「子淼に渡した。」太子瀧が答えた。「ああ、淼先生ね。あの人なら腕を上げる一方でしょうね。」趙慧は頷いて、卓に戻り、太子瀧と座ってお茶を飲み始めた。

 

「どうしてお父上が好きではなかったの?」太子瀧はそっと尋ねた。それを聞けば、罪悪感が少し和らぐような気がしていた。

「母を愛してなかったからよ。」趙慧はお茶を少し飲んで、「この点心おいしい。」と言った。

「それでも好きにならなくては。」太子瀧は笑顔を作った。「私の父も母を愛してはいなかった。父母の関係がどうであれ、それでも目上の人だよ。」

趙慧は何も言わず、気落ちしたような顔をした。彼女はとても美しかった。繊細な美しさに満ちている。一瞬、太子瀧は恍惚としてしまった。彼女を家族のように感じた。

きっと成長する過程で、汁綾や姜太后を見てきたせいだ。型にはまらず、気ままで大胆な越人の美しさが彼の心には染みついているのだ。

子供のころから、王宮にはたくさんの越人がいたため、太子瀧は越人を見ると親しみを感じる。「父の頭の中にはいつだって行軍や出征のことしかなかった。あなたと私は似ているね。お父上も天下の大事のことで忙しかったのだと思うよ。」太子瀧は言った。

「そうじゃない。」趙慧の眼差しに怒りが見えたが、ため息をついただけで説明はしなかった。太子瀧が黙っていると、突然趙慧が頭を上げて、期待するように言った。「天月剣を私にくれない?」

太子泷:「……。」

 

彼は困った。彼は人に拒絶するのが苦手だ。趙慧の熱い期待を前に何と答えていいかわからない。「あなたは手に入れた国土だって手放せるのでしょう?安陽を畢紹にあげられるなら、剣を一本私にくれるくらい何でもないんじゃないの?」

「それとは違うよ。安陽は元々梁王の国土だったのだから。」太子瀧は彼女に笑いものにされている気分だ。「天月剣だって私たち越人の剣だわ。」趙慧が言った。

太子泷:「……。」

太子瀧は、それは姜恒の母親の遺品だから、姜恒に返さなければと言おうとした。だが、そうではないのかもしれない。姜恒は姜太后に剣を渡した。姜太后がそれを自分に渡した。ということは、天月剣は汁家の所有物となった。越人ならだれでも使う資格があるはずだ。

 

趙慧が「つまらない。」と言おうとした時、太子瀧が言った。「わかったよ。君が欲しいなら、君にあげることにするよ。」

「え?」趙慧は軽口をたたいただけのつもりだった。天月剣の意味を彼女が知らないはずがない。まさか太子瀧がそれをくれるなんて!

「私は……冗談で言っただけなの。」趙慧は逆に少し慌てた。「軽い気持ちで言っただけなのよ。」太子瀧は立ち上がり、天月剣を降ろすと卓上に置いた。

 

「さっきちょっと迷ったのはね、天月剣は恒児が家から持ってきた剣だからなんだ。昭夫人が生前所持していたのだよ。本当は私には資格がないんだけど、でも恒児は弟だから、違いはないだろう。私の物は彼の物、彼の物は私の物だ。彼は国土を畢紹にあげることにしたのだから、私だって当然天月剣を君にあげられる。持って行って。」

趙慧は言った。「私......受け取れないわ。」一族に伝わる神兵器だ。太子霊の母親は越人で、妻子も越人。趙慧の体には越人の血が流れている。更に潯陽で育ったことで、天月剣を目にした時、つい心動かされてしまったのだ。

太子瀧は彼女が本当にこの剣が好きなのを見て取った。王宮内でほこりをかぶっているよりも、本当にこれを愛する人に渡した方がいいだろう。

「持って行って。君子に二言なし。」

 

「じゃあ、……まずは何日か借りることにする。」趙慧は剣が象徴する意味はとても大きいことを知っていた。越人の剣と言っても、天子が所有すべきものだ。受け取るわけにはいかない。太子瀧は、うん、と言って、趙慧に渡す時に、そっと手渡しながら言った。「でもね、約束してほしい。これを人殺しのために使わないで。できるかぎりね。」

「ええ、わかったわ。約束する。」趙慧はそっと言った。太子瀧はそれで手放した。

 

深夜、姜恒は王宮の長廊を通り過ぎて、羋清と熊丕のもとを訪ねた。深夜なので、公主と太子は別々の部屋にいたが、部屋の中から羋清の声がした。「姜大人、お入りくださいな。」

姜恒は侍者に扉を開けたままにさせておいた。それから炉に火をつけ、深夜の訪問に他の意図がないことをはっきり示した。羋清は笑って姜恒を推し量るように見ると、先ずは謁見の拝礼をした。

姜恒は尋ねた。「太子は?」「少し飲み過ぎたようで、もう休みました。姜大人は戦争の責任をとる話のためにいらしたのかしら?」羋清が言った。

「まさか。」姜恒は傍らに腰を下ろした。「隠さずに申しますが、あの襲撃については私たちは何も知らないのです。」羋清は淡々と言った。「聶将軍は兵を神のごとく使います。江州にいた時からわかっておりました。予想外のことだったとしても、最終的には期待通りの結果になったのでは?」

「それなら我らが会合で合意に至らないと思って、先に代国を打ったのかもしれませんね。」羋清は笑い出した。姜恒も所在無げに笑った。「公主は明日も会議に出られますか?」

「さあどうでしょう。ここに来たのは、申し上げたように、一番の目的として、安陽の乱のことをはっきりさせるためですわ。あれはいったい何だったのでしょうか?先王もなぜ崩御されたのでしょうか。あなたなら教えて下さるのではないかしら、姜大人?」

 

姜恒にもわかっていた。熊耒親子が毒殺された件について、郢国は一切の代価を惜しまず真相を突き止めるつもりなのだ。「はっきりしたら何かの役に立つのですか?」姜恒が言った。

「何の役にも立たないでしょう。でも興味があるのよ。いけないかしら?」羋清は笑った。

姜恒は暫く黙ったのち、言った。「汁琮はこれについては何も知らないことは私が保証します。」羋清は答えた。「私もそう思うわ。そうでなければ雍軍一万強を道連れにしないでしょうからね。」

姜恒は言った。「それについて、私には自分の考えがあります。推測に過ぎず、証拠もありませんが、殿下の好奇心を満足させるために試しに言ってみましょうか。」

「拝聴させていただくわ。」羋清が言った。

 

姜恒は暫く黙ったのちに言った。「敵討ちのためです、殿下。彼を殺したのは恨みを晴らすため。」羋清は何も言わず、姜恒は話を続けた。「貴国の国君と太子の傍にいた「項余将軍」という人は別人だったのではないかと私は思うのです。」

 

「その通りよ。」羋清は冷やかに言った。「項将軍が出征して一夜にして失踪することはあり得ない。死体は家の地下から見つかったのよ。」

「その人は、郢軍と代軍によって家族を壊され、大事にしていた全てを奪われたのです。」

「それで復讐したと言うの?仇を打つために、郢軍だけでなく、郢王まで毒殺して。」

姜恒:「その通りです。代国の羅望将軍が李宏の死後行方不明になったのも彼のせいかと。」

姜恒は数年来、ずっと羅宣のことを考えていた。汀丘で別れた後、羅宣はもう自分の前に姿を現さないと思っていた。なぜかまた趙起のことを思い出した。もう一人の李靳、そして、江州で短い間一緒にすごしてきた項余のことを。彼はいったい安陽で何をしたのだろうか?あの場にいた人は一切合切死んでしまって、目撃者もいないのだ。

 

「それは羅宣ではなくて?」羋清が最後に言った。「十数年前、郢軍千人以上を毒殺した刺客の。」姜恒は正面から答ええずに淡々と言った。「羅宣は私の師父でした。」

「公子州と同じ、海閣の人でしょう。」

「そうです。私、師父、公子州、みな海閣の徒弟です。」

「公子州は死ぬ前にあなたに何か言った?」羋清が尋ねた。

姜恒は羋清の眼差しに悲しみの色が浮かんだのを敏感にとらえた。

「死ぬ前の最後の言葉は……。」姜恒は雪崩が起きた時の記憶を思い起こした。項州が目覚めた瞬間を。「彼は言いました。『怖がらないで。私がついているよ。』」

羋清は長い長い間黙っていた。姜恒はお茶を一口飲んで、彼女の双眸を見つめた。

「洛陽に行く前に、彼は江州に戻ってきて、私たちは一緒にお茶を飲んだの。彼はあなたのお母上の遺骨を葬ってきたと言っていた。」

姜恒はこの雪夜にたくさんの過去のできごとを知ることとなった。

「母さんは……どこに葬られたのですか?」

羋清は小声で言った。「鏡湖に散骨したそうよ。」

姜恒は頷いた。彼女にとっては一番の場所だ。

 

羋清が言った。「あの年公子州は帰ってきて、私に一目会うなり聞いて来たの。あの攻城戦を止めることはできるだろうかと。できないことがわかると彼は言ったわ。洛陽にある人を助けに行かなくてはならないと。その人というのはきっとあなたのことね。」

「私です。」姜恒は答えた。

「あの人はそういう人だった。約束したからには必ずやりとげる。」

姜恒は黙ったままでいた。羋清は再び話し始めた。「姜恒、私には姉が一人いるのよ。誰だかわかる?」

「羋霞、羋将軍ですね?」姜恒が聞くと羋清は頷いた。「姉はあなたの母上に殺されたのよ。」

姜恒は言った。「そのために、太子安は私を殺してお姉上の仇を打とうとしたのです。きっと私たちの間の恨みは永遠に消えることはないのでしょうね。」

羋清は答えず、憐れむような眼で姜恒を見た。

姜恒は言った。「でもまあ、大争の世では、殺したり、殺されたり。最後はみんな死んで誰もいなくなる。それが望みなのでしょうかね。」

「あなたたち越人のやり方ならね。越人は剣で話をつけるから。」

「この世に越人はもういない。公主殿下、なぜそうなったのか、あなたはよくご存じだ。

「ええそうよ。」

姜恒は退席を告げようとして、戸口に向かったが、その時急に羋清が言った。

「姜大人、とても知りたいことがあるのだけど。」

「何でしょうか?」姜恒が振り返った。

「姉と、王室への復讐のために、あなたの命を奪わせてくれたら、代価として連盟に賛成すると言ったら、あなたは応じてくれるかしら?」

「いいえ。」姜恒はあまり考えずに答えた。「私が死んでから、貴国が約束を覆すかもしれませんから。」

羋清は笑い出した。そして言った。「ほんのじょうだんよ。姜大人。」

姜恒には内心で既に目途が立っていた。一年以内には最後の厄介ごとも終わるだろう。

 

 

庭園を通り過ぎて神殿に戻ろうとした時、梅園の外から二つの人影がゆっくりと近づいて来た。男女のようだ。歩きながら話をしている。

「趙慧!」姜恒は娘が誰かわかり、問わずにいられなかった。「何を持っているんだ?」

まさかこんな時間に姜恒に出くわすとは太子瀧も思わなかった。問うように眉をあげると、姜恒は頷いた。『とりあえずうまくいきました。』

趙慧は少し姜恒が怖そうだった。実を言うと鄭国で彼を恐れない人はいない。姜恒はかつて済州に滞在していた時に、趙慧、趙聡姉弟の先生をしていたことがあり、その頃の威厳が今も健在なのだ。趙慧はさっと太子瀧の後ろに隠れて、しかめ面をした。振り返って彼女を見た太子瀧はおもしろがり、姜恒にむかって目配せした。

「天子が私に貸してくれたのよ。」趙慧が言った。(天子って言った!!)

姜恒は眼差しに笑みを湛えながら言った。「肝の座ったことだな。天月剣を君のおもちゃにするためにくれたって言うのか?」

太子瀧は言葉に詰まったが、姜恒が責めるような顔をしていないのを見て、白状した。

「彼女が気に入ったので、贈ることにしたんだ。」

姜恒は母の遺品を勝手に他人に贈った太子瀧のことを少しも不快に思わなかった。世の中で伝承されていくなら、その意義は王宮に象徴物として高々と掲げられたままでいるより、はるかに意義深いことだった。

彼はただ笑って言った。「天月剣を持つなら、それ相応の実力がないと。君にその能力があるかな。どのくらい習得した?先にちょっと見せてくれないか?」

姜恒の言葉を聞いた趙慧は剣を抜きながら、言った。「いいわよ。見ていてください。」

そして、趙慧は梅園を走り回って、雪が舞う中、剣法を披露した。天月剣が振られたところでは梅花は切られ、雪変は砕けた。趙慧は仙女のように、最後に剣を収めると振り返って笑顔を見せた。

姜恒は、横目に映った太子瀧の様子から何かを感づいた。太子瀧の視線はずっと趙慧の姿から離れず、眼差しは賛美に満ちていた。

「派手なだけだ。」姜恒は嘲笑するように言った。かつて自分によくそう言っていた羅宣のことを思い出し、消し去れない悲しみに心がいっぱいになった。

笑顔だった趙慧は姜恒に嘲られ、顔をひきつらせた。だが太子瀧は手を叩いて称賛した。「すばらしいよ!」

趙慧:「あなたに良し悪しがわかるっていうの?」

太子瀧:「私は武芸を習ってはいないけれど、見るだけならたくさん見てきたんだ。君の攻夫はとてもいいよ。」(夫を攻めると書いてカンフー。尻に敷かれる未来)

姜恒はあきれたように笑って、太子瀧と全く同じことを言った。「この剣を人殺しのためには使わないで。なるべくね。」

「はい!」趙慧はその言葉を聞いて、姜恒に異議がないとわかり、たちまち大喜びした。太子瀧はまだ何か言いたそうだったが、趙慧は走って行ってしまった。

 

姜恒と太子瀧は視線を交わした。太子瀧は言葉を飲み込んだが、姜恒は言った。

「天月剣の行き先として最高です。今後私は母の名の正統性を主張してかないと。母は五大刺客に引けを取らない。天下には六大刺客がいたと言うべきなのです。」

「あの娘が私に『越人か?』と聞いてきた時、なぜか、すごく親しみを感じたんだ。まるで私を受け入れてくれたかのようだった。」太子瀧が言った。

「あなたは勿論そうです。王祖母は越人ですから、あなたも越人です。」

「私は風戎人でもあるんだけど、それらしくないよね。」太子瀧は考えながら言った。

「それらしさって何でしょうか。風戎人には氐人の血が混じり、林胡人の血も混じっている。それ以外にも、あなたは鄭人でもあり、梁人でもあります。」

二人はゆっくりと寝殿に向かって歩いて行った。

「百二十三年前には、雍人は中原人でした。私たちの祖先は、世代が下るごとに、代人にもなり、梁人にもなった。鄭人、郢人にも。百川入海、殊途同帰…」

言葉は太子瀧と姜恒を離れ、雪と共に舞い去った。

「あなたは天人なのです。」

 

 

ーーー

第194章 百年計画:

 

翌日、耿曙からの第二報が届くことはなかった。皆で分析したあと、姜恒はざっくり推測した。耿曙は今頃汁綾、曾宇と合流して、西川を囲い込んでいるのだろうと。

洛陽は臨戦態勢で、城防として全面的に戒厳令が敷かれた。更に、多くの道に諜報を送り、南路の兵の偵察に行かせた。汁瀧と臣下は耿曙にどう返信すべきかを一晩かけて話し合った。朝廷名義で強制的に呼び戻すか、そのままにするか。耿曙が聞くかどうかは別問題だ。

「この行動は悪手以外の何物でもありません!」曾嶸の言葉だ。

最後に、その重荷は姜恒の肩の上にのしかかって来た。

彼はただ一言だけ書いた。【もう充分だ。】

そして布を海東青の足に巻いて飛ばした。

「今日の会合の準備をしよう。」姜恒は汁瀧を見つめた。最大の試練の時が来たのだ。

汁瀧は頷いた。群臣たちが正殿を出ようとした時、界圭が急ぎ足に軍報を持ってやって来た。「嵩県が陥落しました。代国は残り十万の兵を引き連れ、洛陽に迫っています。」刹那その場は静まり返った。

周游が言った。「結構なことだ。連合会議が王子殿下の手で台無しにされるとは。」

界圭は他の者は無視して、姜恒に言った。「洛陽には二万の御林軍がいるだけです。私はあなたを逃がさなくては。」

「逃げないよ。そうじゃない。わかったんだ。」

臣下たちは姜恒に注目した。姜恒は信じられない様子で言った。「わからないの?軍報によれば、代国は嵩県に出兵した。漢中で惨敗してから、まだ一日しかたっていないのに!李霄はもともと中原に侵攻する計画だったんだ!聶海は布陣からそれがわかって先に手を打っただけなんだよ!」

姜恒の一言で皆いきなり夢から覚めたようになった。

 

耿曙が漢中平原で防衛軍を攻撃したことと、西川が嵩県を攻撃したことは関係がなかった。李霄は最初から決めていたのだ。連合会議に乗じて兵を二つに分け、南路から先に中原をとり、耿曙が洛陽を救いに行けぬようにして、漢中の大軍に虚を突かせ侵入させるつもりだった。計算外だったのは、耿曙が戦神の名の通り、数万の軍で漢中に置いていた布陣を一挙に打ち下したことだった。

汁瀧は息をせかしながら、姜恒と視線を交わした。姜恒は群臣たちに言った。「やるべきことを続けて。」汁瀧が言った。「私はここに残る。姜恒、あなたは行って。」

姜恒は汁瀧に一歩近づいて、見つめあった。「私はここに残らなくては。聶海は帰ってきます。」最後に汁瀧が妥協した。もう耿曙の動機を疑う者はいない。曾嶸は対策を講じるために出て行った。

この情報は暫し伏せておかねばならない。そして今日会議を終わらせ、合意に至るかにかかわらず、すぐに諸侯たちを逃がさなくては。

 

汁瀧が席に着くと、皆の視線が集まった。中原地域が今正に陥落しかけているのをまだ誰も知らない。一両日中には代軍が洛陽に侵攻してくるかもしれないのだ。

今日の李靳は表情がさえない。それでも来たのは対策をとる必要があるからで、今は代国からの報せを待っているのだろう。

「今日は天子の選出をするのかしら?」羋清が笑顔で言った。熊丕は二日酔いでぼんやりしたまま、汁瀧を嘲るように見ていた。

姜恒が言った。「昨日の議題について、国君各位のお考えを拝聴したいと思います。」

龍于が言った。「私たちがお聞きしたいのは、将来の天子が、天下をどう管理していくかです。承諾するかはそれにかかっています。」

熊丕が笑って言った。「汁琮の統治下での雍が、当然そのまま未来の中原になるのでは?」その言葉に各国群臣たちがざわついた。

だが汁瀧は言った。「おそらくここにいらっしゃる皆さまは我が父に対し多少のご批判があろうことと思います。」

多少のご批判とは笑止!罵詈雑言を尽くしても言い足りないだろう。

会場が静まると、汁瀧はため息をついて話を続けた。「雍では法を改正しました。皆さまがご覧になってわかるように、雍の地は、中原四国に未来がどうなるかを示しています。私達は全く新しい朝廷を作りたいと考えています。四百年前と同じ、家天下ではない新しい朝廷を。」汁瀧はとても緊張して声が震えていた。姜恒は彼の背中に手を置き、落ち着かせようとした。今日はあまりにもたくさんのことが起こっているが、雑念は振り払い、真剣に考えねばならない。

 

「一つめ。五国が争いあって久しい今、戦いを止め、国境を取っ払って民が自由に行き来できるようにする。農、工、商、どの仕事につくかは自ら決める。未来の天下では、鄭人、梁人、代人、雍人の区別をなくし、皆が天下人となるのです。」

「皆が天下人。」龍于がつぶやいた。

「その通りです。皆が天下人です。人々が混ざり合えば、族同士の血統や地域での争いは一旦落ち着くはずです。皆が天下人ですから、同じように見られるはずです。

羋清は何か思うところがあるように姜恒を見つめた。

 

「それはあり得ない。」諸令解が言った。「政令はどこから出すつもりだ?国境を外してどうやって政務を行うのだ?」

「それが二つ目です。」汁瀧が言った。「各地は州に改めて天下の規則は洛陽朝廷が制定した法令にて発布される。」すぐに会場はざわついたが、すぐに汁瀧が説明をした。「政務はその地方で自ら採決を行うのです。」(合衆国だな。仮想中国版の)

龍于も全く思ってもみなかった。待っていた結果が、国の枠を出るとは!畢紹は期待をこめて龍于を見たが、龍于は何も言わず、かわりに春梁が冷ややかに言った。

 

「封王はどうするつもりか?いっそ我らをきれいに始末してしまえば、もっと気分が良いのでは?」

「三つ目。各国君は今まで通り、封地に税を治めさせ、雑役等も晋廷時の制度をとるが、朝廷の命を聞き、封王という身分で、監督権を持つ。洛陽朝廷から派遣した官員に対し、法令制定や政務採決に参与する。」

喧騒が静寂に変わる。それは何を代表するのか?天子朝廷と諸侯は六百年前から、各自独立して動いて来た。今汁瀧が提案した洛陽に集権させる改革は諸候の権利をはく奪しているようにも見える。だが、別の見方をすれば、それが意味するところは、この天下に五つの臣を置き、共同統治するということか!

 

言うは易いが、行うは実に難し。五人それぞれに思惑がある。そこまで推し進めるのにどれだけの抵抗があるかしれない。だが全て未来のことだ。汁瀧は執行するのではなく提案するだけだ。具体的なことは天子朝廷がゆっくりと進めていけばいい。あせりは禁物だ。

最も力を注ぐべき点は、外に向けた戦いを内闘とすること。中央から各地に派遣された朝廷の役人が、食うか食われるかの戦いの末、命を落とすことは起こるかもしれないが、民がその影響を受けることはないようにする。最終勝者が誰であれ、戦いの場を朝廷に持ってくれば、罪のない民が戦争で死ななくてすむだろう。

 

「四つ目は軍事に関する取り決めです。各国の軍は解散し、封地に戻して農務につかせる。諸侯は一定数の家兵を保留できますが、その数については別途議論します。封王が兵権を握って防衛に充てる以外の理由で他の者が一千を超える家兵を持つことは禁止します。」汁瀧は彼らに考える時間を与えないように一気に言った。

 

「五つ目、貨幣、量や長さの単位を統一し、天下を行き来しやすくする。公卿や士族の領地は一律に不変とする。境界地から兵を退き、対外戦争を防止する。内乱を防ぐため、封地の継承制度を改正し、直系庶系が同じく継承権を持つ。」

 

汁瀧が話し終えると、その場の者たちは皆震撼したようになった。後の方の話はもう耳に入らない。―――各君が朝廷が派遣した官員を受け入れれば、天下の発展を左右し、干渉を受けるだけでなく干渉できることになるのか。

 

最後に姜恒が言った。「天下は分けない方がいい。国境争いや、一切の動乱の根源になるからです。大人各位には色々なお考えがあるでしょう。朝廷を左右することができれば、己のための参謀を行うことができる。そうでしょう?」

皆の考えは全て姜恒に言い当てられてしまった。

「ですが、言い換えれば、そうなれば、自国、貴国といった言い方も無くなっていくはず。臣は天下人の臣、いつか皆さんもだんだんと気づいてくる。これが国境争いを解消し、長年の敵対心から解放される唯一の道であると。」

 

王廷は立法権を取り戻し、全体の政務は洛陽で決める。地方での具体的な執行と行政は、地方で行う。

皆、次第に汁滝朝廷の野心が理解できてきた。彼は、商いや人の行き来などの方法で、神州の民が完全に融合させるために持てる力の全てを尽くす。そして基礎をしっかりさせたところで、行政権をゆっくりと中央に戻すつもりなのだ。

それを成し遂げるには数十年、或いは百年はかかるだろう。自然と、現在の封王は天子朝廷に取り込まれていき、やがてゆっくりと一つの大きな家となっていくだろう。

双方は均衡を保ち、立場という考えが消える。戦場は朝堂に場所を変えるが、征伐と死に代わるものとしては、最も受け入れられる方法だ。

 

だが、実は汁瀧が最後にさらりと言ってのけた政策こそ、姜恒最大の切り札なのだ。

―――諸侯の直径が持つ継承制を傍系と分け合う。そうしていけば、二、三代降りていくごとに、土地はより小さくなる。朝廷の管理や制御が容易になり、返還せざるを得ないまでに弱体化したら、一挙に中央の懐に収められる。

 

諸侯王は本意でないだろうが、公卿は賛成するだろう。彼らの多くは王族宗室と姻戚関係にある。連盟に大なり小なり関係がある。つまり、諸侯の子らが王族の権勢と封地を分け合えば、結果的に士族の力を強くさせることになるのだ。

(日本の戦国時代の始まりくらいの感じか?)

 

兄弟間の争いは、大争の世においても家族の力を弱めた原因になったことだ。姜恒の提案を進めれば、更に多くの内闘を生むことになる。継承権上の平等のためとはいえ、実際はうまくいかないだろう。ただ今は、一同の注意はそんな微細なところにない。五条の新政策の中にこの細かな条項は埋もれてしまっている。この細かな条項は百年後、再び荒波を起こすことだろう。

 

「もし郢は不賛成と言ったらどうします?」羋清が尋ねた。

「その場合は以前のようになるだけです。」汁瀧は強気な態度に出た。まるでその父親のようだ。彼の顔立ちは汁琮に似ている。ただ、汁琮の気難しさは受け継がなかった。

「以前のようってどういうことかしら?」羋清が再び尋ねた。

「私は同意します。」畢紹が羋清の言葉を遮った。

春陵は色を失った。止めさせようとした時、畢紹が言った。「皆に必要な賢明さだ。雍王がおっしゃることは正しい。戦争がいやなら、これが唯一の解決策だ。」

諸令解と龍于は小声で暫く相談した。龍于が答えた。「確かに終わらせるべきです。鄭は雍王のお考えに同意します。ですが、詳細については注意深く見る必要があります。法令や参与に関することについては共に協議することを希望します。」

「それは当然です。」汁瀧が言った。

 

諸令解は龍于に向かって頷いた。姜恒はその目を見つめた。諸令解は鄭の力になっていた。天朝廷に来ればきっと天子の片腕になれるだろう。(ヘッドハンティング?)

「一つ疑問があります。」諸令解が言った。「もし天子にその力がなければ、その時はどうすればいいでしょう?」

「天下で共に討つのですね。」姜恒は厳格に言った。「七年前に皆さんはそうしたのではありませんでしたか?」だが、その声に責めるような響きはなかった。それは必然のことだったからだ。

汁瀧が再び言った。「その地位に座した時から、私はもう私ではなくなります。私は、天下の民であり、神州の法となります。何事も好きなように決めることはない。全て諸侯が参与し、皆で相談して解決するのです。今何が必要かと。」

 

皆の間に沈黙が広がり、しばらくしてから羋清が言った。「我が国は不賛成です。」

「それは残念です。」姜恒が冷淡に言った。

「郢人の命運は自分で決めますので。」

姜恒は二人の盟友を得ることに成功した。郢が新体制に賛成しないだろうとは最初から思っていた。これで希望が無くなったが、当然の結果だろう。

「それではお引き取り下さい。次は戦場でお会いしましょう。」

会場は急に大騒ぎとなった。熊丕が怒号した。「それは脅しだ!」

李靳が冷笑した。「自分たちが今夜にも滅びようとしているのに、傲慢にも郢を脅すのか?」

「ああ。まだ代国のご意思を伺っていませんでしたね。」姜恒は李靳に向き合った。「貴国はどうお考えですか?」

 

李靳は立ち上がると、嘲るような目つきで姜恒を見た。「刺客を呼んできたらどうだ?

耿淵をもう一度呼んできて試してみるがいい。」

汁瀧が淡々と言った。「刺客はいません。耿淵は随分前に亡くなりました。死んだ人は生き返りません。」

姜恒は笑顔を見せて言った。「私が殺人で解決すると思ったのですか?」

汁瀧は龍于、畢紹達に礼を示すため頷いてから、姜恒に視線を移した。

「会議はこれで終わりです。結果がどうであれ、あの時天子が私に託されたご意思を無駄にはしませんでした。これは皆さんの選んだ人生であり、自ら選んだ未来でもあります。千代に八千代に、歴史には今日のことが記されるでしょう。皆さま、感謝いたします。」

「誰か参れ。」汁瀧が命じた。「郢君と李靳将軍をお見送りせよ。」

その瞬間、姜恒の言葉で、一同は不思議な感慨を受けた。今この瞬間、自分たちは歴史を作ったのだと。

姜恒は金璽を持ち上げ、汁瀧に渡した。一同が見守る中、最も重要な引継ぎ儀式が完了した。引継ぎを終えた汁瀧は一同に向かって言った。

「洛陽は危険です。各位速やかにお引き取り下さい。追ってご連絡いたします。」

(天子になったんだから、もっと命令口調の方がいいのかもしれないけど、原文も今まで通りの低姿勢の汁瀧の言葉だったからそのまま敬語にしておく。ドラマとかだと急に言葉づかい変わるけどな。)

 

李靳は突っ立ったまま、何か考えているようだった。ちょうどその時、王宮外から突然喧騒が聞こえてきた。姜恒はすぐに振りかえった。信使がやってきた。界圭がすぐに姜恒の身の前に立った。李靳も振り返って姜恒を見ると、背を外に向け、急ぎ後退しながら言った。「羋清公主!我らと行きましょう!」

すぐに会場は大混乱となった。界圭が剣を抜いて、十歩離れたところから、李靳をこの場で切り殺そうとした時、姜恒が叫んだ。「やめろ!」

李靳はまさか姜恒が自分を生かそうとするとは思っていなかった。汁瀧が言った。「李将軍、いずれまた。」すぐに郢人も全員立ち上がり、急ぎ足に会場を出ると李靳と共に王宮から逃げて行った。その全てを龍于や畢紹達全員が目撃した。

汁瀧が皆に言った。「皆さん、ご心配なく。連合会議を招集すると決めたからには、我らは規則を守り、かつて起こったようなことは絶対に起こしません。」

 

姜恒は信使に尋ねた。「何があった?」

「代軍が来ました。その距離洛陽から百里に足らず。城内の李靳軍が暴動を起こしました。」

「兵が城下に着くまで少なくとも一日ある。」姜恒は落ち着いた様子で龍于に言った。「龍将軍は梁王、鄭王を護送し、速やかに洛陽を離れてください。いずれまたお会いしましょう。」

剣を抜こうとする趙慧を姜恒は止めた。「趙慧!やめなさい!龍将軍と逃げるんだ!」

趙慧は姜恒を見てから汁瀧を見た。汁瀧はまじめな表情で彼女を見て頷いた。

「お客様方は必ずお守りします。どうぞご安心ください。」

 

 

 

ーーー

第195章 反乱軍:

 

皆はすぐに解散した。城内に刀兵の声が聞こえてくる。それはどんどん大きくなっていく。姜恒は殿内に飛び込んできて叫んだ。「曾嶸は?!曾嶸はどこ?!」

汁瀧も急いで殿に入って来た。界圭はぴたりとついて離れず、二人の傍から殿内を見回した。周游が急ぎ足に入ってきて大声で言った。「敵が来たぞ!我らの兵はどこだ?」

姜恒は即決して言う。「衛賁に言って、守備兵を全て城壁の上に配置させて。武英公主がきっと来るから!」

汁瀧が言う。「官員を全員中に呼んで来させよう。」

「ダメです!こういう時は人を一か所においてはいけません。」

時を同じくして、王宮外から絶叫が聞こえてきて、三人は黙り込んだ。

「衛賁はどこ?」姜恒は突然嫌な予感が頭をよぎった。

「わからない。界圭、行って見てきて。」汁瀧が言う。

「いいえ。私の主要任務は姜……お二方の安全を守ることです。こうなったからにはどこにも行きません。」

「まずい。」姜恒はふと最悪な事態を考えた。いや、そんなはずはない!衛賁が造反するはずがない。衛家は代々汁家の忠臣だった。衛卓も汁琮に服従していた。謀反するはずがあるだろうか。

 

殿外の叫び声が近づいて来る。その時矢が飛んできた。姜恒は群臣を集めなかったことにほっとしつつ、汁瀧に飛びついて、王卓の後ろに転がりこむと、木机を蹴り上げて矢を防いだ。

界圭は烈光剣を降ろして、手に持って叫んだ。「殿内はまかせます!」そして一筋の虚影と化して外に飛び出して行った。

汁瀧が言った。「李靳は二千しか連れてきていないはず。あり得ない!衛賁が死んででもいないかぎり!」

「きっと何かあったのです。」姜恒が答えた。「界圭が彼らを抑えているうちに、ここを離れましょう!」

 

敵の目標ははっきりしている。会合が終わりそうなのに当たりをつけて、不意打ちして動乱を起こしたのだ。だが朝廷は衛賁に城内要地を守るように言ってあった。唯一の可能性は衛賁が殺されたことだ!

王宮内は大混乱となっているが、幸い火は出ていない。宮外から阿鼻叫喚が届いて来る。代軍が強弩を持って、洛陽殿内に攻め入ってくる。界圭は正面で交戦しているが、矢はやまない。界圭は何人も殺している。自分の命を顧みず、姜恒と汁瀧を必死で守っている。「上です!!」界圭が叫んだ。

姜恒が見上げると、天井が崩れ落ち、甲冑姿の兵士が下りてきた。姜恒は動いて剣を一振りした。天月剣は鎧を神のように切り裂き、鮮血が飛び散った。汁瀧は震えながらも殿外を見て叫んだ。「走れ!」

 

甲冑の兵たちは増える一方だ。全て代国の兵だ。汁瀧は何も言わず、姜恒と共に後殿内に逃げ込んだ。正殿では守れないと判断し、界圭は向きを変えて殿内へと二人の後を追った。姜恒は息を切らしながら叫んだ。「李靳の目的は、李霄と挟み撃ちに……。」

「わかっている!」汁瀧はついに全てを知った。全て計算しつくした姜恒だったが、最後の最後に姫霜にしてやられたのだ。

甲冑の兵士たちがどんどん増える。李靳の部下の全てが王宮に入ってきたようだが、御林軍の行方は不明だ。界圭は庭園内で足を止め、二人を越えて姜恒の前に立った。

 

次の瞬間、代国兵の背後に別の誰かが現れた。

姜恒は初めて龍于が戦う姿を見た。武袍を翻し、輝きを放つようだ。機会を捉えた界圭も怒号を上げて剣をふるう!

龍于は長剣をふった。界圭と共に二本の強烈な光が絡み合うかのようだ。そして、単身、代軍の包囲を破る。血が飛び散り、何十名もの兵士が倒れる中、片手に趙聡、もう一方の手に剣を持った十二歳の梁王が現れた。

 

龍于が剣を収めて言った。「正殿で異変があったのが聞こえてきて、すぐに見に来たんです。」姜恒は息をついた。「すぐに逃げてください。」

姜恒は彼らについてくるように合図した。そこで一同は急ぎ庭園を出て、側殿の前を通り、東門から出て行った。更に数百人の甲士が現れた。応戦するより他はない。

姜恒:「界圭!彼を守って!私はいいから!」

汁瀧の武芸は姜恒にも劣る。応戦など無理だ。龍于は更に数人殺し、すでに力が出なくなってきている。彼の武器は天月剣や烈光剣ではない。甲冑を砕くのは難しい。姜恒は天月剣を彼に渡した。「使って!ありがとう!」姜恒が言うと、「どういたしまして。」と龍于が言った。「七年前の洛陽陥落の時はその場にいられず、天子をお守りできなかった。これで贖罪できます。」

 

「趙慧は?」汁瀧が尋ねた。

「わかりません。」どうやら龍于はこの公主に手を焼いているようだ。「公主の武功は趙霊直伝です。十中八九大丈夫でしょう。まずは私たち自身の身を守らなくては。行きましょう!」

武装兵士はますます増え、姜恒は体中血だらけになったが、運よく東門の外まで逃げ出せた。

その時、更に多くの兵士たちが現れ、王宮の壁上、四方全てを埋め尽くした。全て御林軍だ!

汁瀧がほっとしたのもつかの間、御林軍は一斉に弩を東門の前に向け、自らの国君を包囲した。汁瀧は頭がくらりとし、目の前が真っ暗になった。最悪の事態が発生したのだ。「どうしてなんだ?!いったいどうしてなんだ?!」汁瀧が言った。

御林軍の司令官が前に出てきて叫んだ。「姜恒を殺せ!王陛下を傷つけるな!」

姜恒:「……。」

汁瀧はすぐに姜恒の前に立ち、怒号を上げた。「衛賁はどこだ?!私の前に顔を出させろ!」

御林軍は皆、二人を見て黙ったままだ。界圭は烈光剣を手に、突破口を探していた。

「待つんだ。」姜恒は小声で言うと、界圭の腕に手を伸ばして軽く叩き、手を出さぬよう指示した。そして龍于に向かって言った。「あなたたちは逃げて。梁王と鄭王をちゃんと守ってください。」畢紹が言う。「合意したからには私たちは盟友です。盟友を見殺しにして自分だけ逃げるわけにはいきません。」

「まだ死ぬと決まったわけではありませんよ。言う通りにして、畢紹。」

そして周りの者たちに向かって叫んだ。「梁王と鄭王、それに龍将軍をここから逃がすのだ。こんな無礼な行いがあるか?!」

 

御林軍の司令官は指示を仰ぎに行った。龍于は城内に軍を駐留させている。ここで妥協しなければ、混戦となり、予想外の事態が起きるかもしれない。そこで軍は道を開け、龍于は梁王と鄭王を連れて安全にその場を離れた。彼らの命を奪う必要はないばかりか、人質にしたところで、衛賁だって困るだろう。

畢紹は包囲を出た後、振り返って見た。姜恒は唇を動かして、「いつかまた。」と伝えた。

「界圭。」姜恒が小声で呼んだ。界圭は青ざめた顔をして姜恒を見ようとしない。だが、姜恒が彼の背中に何文字か指で書くと、決心したようで後ろに身を引いた。御林軍は矢を入ろうとはせず、界圭は宮殿の屋根の上に飛び乗ると、壁の上を走り去って行った。

 

汁瀧は深く息を吸った。姜恒は「衛賁を私達の前に連れてきて。話があるんだ。」と言った。言い終えると、姜恒は恐れることなく汁瀧を連れて、後ろを向き、側殿に入って行った。御林軍はすぐに側殿を包囲すると、屋根にまで配置して、二人を軟禁した。

殿内には作り直された九つの大鼎が置いてあった。汁瀧が天子の座を引き継いだら、宗廟に持っていく予定だ。殿内はがらんとしていた。姜恒と汁瀧の二人は一番大きい鼎の前に立った。「彼が裏切るとは。」姜恒が言った。

汁瀧は頷いた。「朝廷で唯一裏切らないのは彼だと思っていた。わけがわからないよ。」

その時足音が近づいて来た。衛賁だった。衛賁はゆっくり歩いて来ると、近寄って姜恒と汁瀧を離れさせた。「王陛下。」衛賁は汁瀧に拝礼した。

汁瀧は冷ややかに衛賁を見た。

「お前にやらせたのは誰だ?」汁瀧が言った。

「きっと姫霜でしょう?」姜恒が落ち着いて行った。「間違っていなければ、この前来た時に手を組む約束をしたんだね、そうでしょう?」

衛賁は笑い出した。「姜大人はさすがに賢い。李靳の潜伏も、彼女の作戦です。」

「どうしてなの?あなたは雍の臣下、私には何の恨みもないでしょう?」姜恒が尋ねた。

「あなたは死ぬべきだからです。」衛賁は姜恒を見たまま、汁瀧に向かって言った。

「陛下、彼を殺さなくては、すぐにでもあなたの方が彼に殺されます。聶海が代わりに手を下すかもしれません。私は雍王室のため、先王が我が衛家に託された王室の未来を守ろうとしているのです。」

「口を閉じよ!」汁瀧は怒号した。

今の言葉で姜恒は理解した。汁琮陣営で、衛賁だけは事情を知っていたのだ。

「あなたはずっと蚊帳の外に置かれていたのをご存じないのです。こいつはずっとだまし続けてきた。かれの正体が誰なのかおわかりになりますか?」

汁瀧は驚いて、わけが分からないという表情で姜恒を見た。「どういうこと?」

 

「彼はあなたの従弟なのです。あなたの叔父上、汁琅の忘れ形見、死産して埋葬されたはずの汁炆なのですよ。」

刹那汁瀧の顔がこわばり、何も言葉が出てこなくなった。助けを求めるように姜恒をみて、暫し愕然とする中、様々な事実の因果関係が一気に合わさり、ようやく今全てがはっきりとわかった!

「それは……本当なの?」汁瀧は震えながら姜恒の瞳を見ると、それでもう全てわかった。

「その通りです。」姜恒はもう隠しておきたくなかった。もう認めてもらわずにはいられない。「それは私です。兄上。私は死ななかったのです。聶海が耿淵の手紙を持っています。私も……王祖母上の書状を持っていますし、界圭が全ての経緯を証明できます。」

 

汁瀧は喉にこみあげて来るものを抑えられなかった。そこに衛賁が言い放った。「汁炆はずっと考えていたのです。彼こそが本当の太子だと。そこで聶海と共謀して先王をだまし討ちした。お分かりになりましたら、ここで彼を……。」

「恒児―――!」

汁瀧は突き動かされるように声を上げた。それは皆の意表を突いただけでなく、姜恒自身の意表もついた。彼は御林軍の制止を無視して、姜恒に向かって行った!

衛賁は色を失い、すぐに汁瀧を無理やり押さえつけた。姜恒が叫んだ。「手を放せ!」

汁瀧は御林軍を押しのけ、震える声で言った。「君だったんだね、君だったんだ!きっと私にはずっとわかっていたんだ!恒児!なんてすばらしいんだ!君は死ななかったんだね!」

 

姜恒は何度も何度も自分の正体を汁瀧に知らせる時、どんな風になるかを想像してきた。だが全く予想外だった。彼の表情には真心が見える。王位など、仇など、全て消え去った。自分は汁瀧の従弟でいたい。それだけでいい。その瞬間、姜恒はこらえきれず泣き出し、涙を手で擦りとった。「よかった、本当によかった……。」汁瀧も泣かずにいられなかった。姜恒は、何年もに及ぶ努力や対価がついに認められたようで、彼はもう死んでも悔いなしと思えた。

衛賁:「……。」

衛賁はもう何も言えなくなった。汁瀧が恐れ、震え、汁琮の死への憤怒を表すと思っていたのに、まさかこんな兄弟の再会的寸劇を見させられることになるとは!

「陛下、」衛賁から見ればこれはとんだお笑い種だ。そして自分も笑いものの一つに成り下がっているではないか。彼は汁瀧に近づいて沈んだ声で言った。「彼は先王を殺したのです。あなたのことも殺すかもしれません!彼を落雁に戻せば安心などできましょうか?」

姜恒は涙を止め、汁瀧を見つめた。

「いいえ。彼はそんなことはしない。私にはわかっている。王祖母がおっしゃったとおり、私たちは家族だ。彼を放せ!衛賁!さもなくば王子殺害の罪に問うぞ!」

 

姜恒は大笑いし、笑いが収まると言った。「衛賁?あなたの思い通りにならなくて、がっかりしたんじゃない?」衛賁は怒りで全身が震えた。まさか汁瀧が全く耳を貸さないとは。

「さっさと兵を退け!城の守備に戻るんだ!」汁瀧は全く無遠慮に命じた。

「進退窮まったね。」姜恒は衛賁が狼狽する様子がおかしくてたまらない。「衛将軍、まさか王陛下を殺して、自分が天子になるつもりですか?彼がいるところで私を殺したら、王陛下は一生あなたを恨むだろうね。君主殺しの名を持って姫霜のところに逃亡するつもりがないのなら、素直にまじめに城の防衛に戻った方がいいと思うよ。」

姜恒は衛賁が決して汁瀧に手を出さない方に賭けた。そんなことをすれば、彼は死よりも重い罰を課される。衛家は今後代々、国君殺しの罪名を背負っていくことになるのだ。

互いに退けないこの瞬間、外から侍衛の絶叫が聞えた。胸から天月剣の剣先が突き抜け、鮮血を噴出して侍衛は倒れた。その背後には趙慧がいた。

趙慧は暗紅色の長袍を着て、長い髪をなびかせ、姜恒と汁瀧を見つめた。

「ごめんなさい先生。さっき着いて全部聞いちゃった。でも口封じのために殺さないでね。」趙慧が言った。「天子、人殺しに使わないでって言われたけど、これは約束を破ったことにはならないわよね?」

姜恒:「……。」

「こんな気の強さでは、王兄、あなたはきっと苦労されるでしょうね。」姜恒がつぶやいた。汁瀧はどきっとした。姜恒は自分の気持ちを鋭く突いて来たなと思った。

    (何も命令に従っただけで待機中の兵士を殺さなくてもいいだろうに。)

 

 

ーーー

第196章 この世に情がある限り:

 

衛賁は趙慧にその場を攪乱され、どうすべきかわからなくなった。趙慧のことは殺すわけにはいかない。そんなことをすれば、鄭国に血祭りにあげられる!

趙慧は彼のことなど少しも恐れず、右手に天月剣、左手で剣訣を執り、ゆっくりと近づいてきて言った。「そこの将軍さん、道に迷ったときは引き返さないと手遅れに...。」

姜恒は意図して殿内の青銅の鼎に目を向け、汁瀧とともにゆっくりと後退していた。機が熟したか。

ちょうど衛賁の判断が遅れた瞬間をとらえて、一番大きな青銅の鼎が倒れ、界圭が飛び出した。掌で鼎を叩き出す!千斤の銅鼎が飛んでいき、衛賁に命中したかと思うと、大門を破って殿外に飛び出した。時を同じくして殿の後ろから百名近くの弓隊が御林軍を破って突入してきた。率いているのは郎煌だ!

汁瀧と姜恒は同時に飛び出し、柱の陰に隠れた。「慧公主!早く来て!」

 

趙慧は飛び交う矢から逃れながら飛び出してくると、二人の近くに来た。姜恒は汁瀧を趙慧に託し、界圭のところに向かった。界圭が叫んだ。「何人で来たんだ?!」

「孟和兵と合わせると千以上だ!」郎煌は叫んだ。「武装解除しろ!まだ一万は呼べるぞ!」

御林軍はすぐさま衛賁を連れ出し殿外へ出て行った。姜恒が言った。「追わなくていいよ!」

界圭は足を止めた。郎煌は林胡人たちと側殿を奪い返し、汁瀧と姜恒を守った。そして息を吐いて行った。「間に合ってよかった。」

「他の人たちは?」汁瀧が尋ねた。

「山沢の指揮下で守りにつきました。」郎煌が言った。「部族の人間で御林軍に編入されたものは多いのですが、何かおかしいと気づいて皆一時離脱したんです。官員たちは皆無事です。」

「君は何で戻って来たんだ?」汁瀧が尋ねた。

「最初から逃げる気なんてなかったわ。」趙慧が答えた。

界圭が二人の話を遮った。「ここは安全ではありません。正殿に戻りましょう。」

正殿は守りやすく攻めにくい。汁瀧たちは護衛され、天子殿内へと戻って行った。

官員達は全員そこにいた。城内で突如始まった大乱は一時辰以内に落ち着いた。山沢、水峻、郎煌たちが留守を守り、孟和が小隊を率いて城外に偵察に行った。

 

皆汁瀧の傍に趙慧がいるのを見て、口をつぐんだ。姜恒は皆に言ってもいいだろうと思った。「この子は私の徒弟です。気にしなくて大丈夫です。」

だが勘のいい趙慧は言った。「ちょっと出て来る。私のことは気にしないで。」

「気を付けるんだよ。」汁瀧が言うと、趙慧は彼に向かって口笛を吹いた。

皆ちょっと気まずく感じたが姜恒はおかしくて笑い出した。

曾嶸がようやく尋ねた。「衛賁はなぜ謀反を?」

朝臣たちにとっては全く予想外の事態だった。皆当然衛家に反感を持った。

「衛卓が安陽の乱で死んだことで、復讐しようと思ったのかもしれません。」

それについては汁瀧と姜恒だけが答えを知っていたが、二人とも敢えて言わなかった。

 

「宋大人がお越しです!」信使が言った。

言い終える前にもう宋鄒が急ぎ足に入って来た。息がせいている。急行軍で来たのだろう。

「未だ天子に御恭賀申し上げておりませんでした。」宋鄒は二人に目をやり言った。

「この度は天子及び大人各位にお詫び申し上げます。嵩県を奪われてしまいました。」

「戦って勝てないなら負けを認めたからといって、気にする必要はありません。死んでも退かぬ、では嵩県の民に塗炭の苦しみを与え、何の益もありません。」

嵩県には三千の兵しかいない。李霄の大軍一万には元々歯が立たない。敗退は当然だ。それでも宋鄒は兵力を温存してすぐに洛陽に戻って来た。大戦となった時に洛陽に協力するために。とても賢い行いだ。

郎煌が言った。「奴らは洛陽城壁を占拠しています。代国兵もすぐに来るはずだ。こちらの兵はどのくらい残っている?」それは誰にもわからない。消息は途絶え、海東青もまだ来ない。「待つしかないね。きっとすぐに来るよ。郎煌、君の仲間に王宮を守らせてくれ。」

衛賁はもう攻め入ることはせず、逆に全軍を城の外に置いて洛陽城門をしっかりと守ることにしたようだ。本来なら、汁瀧を説得して姜恒を殺した後、代軍を入城させ、李霄と姫霜の二人に協力する予定だった。だが、汁瀧が衛賁の話を一切聞かなかったことで、騎った虎から降りられないような状況に陥り、別の対策をとる必要に迫られたのだ。

 

汁瀧も姜恒も服が血だらけだったし、連合会議を終えた後で、姜恒はまだ太史服を着たままだった。

郎煌が言った。「何とか方法を考ええて、君たちを城外に逃がさないと危険すぎる。大軍がきたら、衛賁は奴らに協力して王城を攻撃してくるかもしれないぞ。」

「急ぐことはないさ。まずは服を着替えてこよう。」汁瀧が言った。

姜恒は体中血だらけだった。全て敵の返り血だが。汁瀧が周游に命じた。「二人分の衣服をとってきてくれ。」姜恒が言った。「私の部屋はすごく遠いよ。」

「私のを着ればいい。」汁瀧が言った。

姜恒は服を受け取り、汁瀧と共に、正殿の横にある、天子が朝廷に出るための着替えをする部屋に入って行った。汁瀧が扉を閉めた。界圭が何か問いたげな表情をしていた。姜恒は頷いて大丈夫だと知らせた。

室内で、汁瀧は先に姜恒の外袍を脱がせてやり、自分の王服を脱いだ。(どっちが偉いの)姜恒は鏡に映った汁瀧を見た。二人はやはり少し似ている。顔には二人の祖父の特徴がある。

 

「王祖母はどんな文を残したの?見てもいい?」汁瀧が尋ねた。

その手紙を、姜恒は肌身離さず持ち歩いていた。汁瀧に渡そうとした時、一緒に玉簪が出てきた。それは耿曙が済水橋で、七夕の夜に姜恒に暮れたものだった。

「お母さんの簪かい?」汁瀧が尋ねた。

「兄さんが買ってくれたのです。」姜恒は玉簪をしまって言った。「どうぞお読みください。」

そこには十九年前の真相がつづられていた。汁瀧は読み終えてから何も言えなかった。

「その後、郎煌が私を抱いて王宮外に行き、界圭に渡したのです。界圭は私をまず安陽に連れて行き、最後に潯東に行ったのです……。」

「うん、」汁瀧はそっと言った。

「私が証明できます。」界圭が戸外から言ってきた。その後別の声がした。郎煌だ。

「俺も証明できます。俺たち二人が当事者なので。」

「あざを見せて。」汁瀧が言った。姜恒は背を向け、服を脱いだ。汁瀧はやけどの跡を見ると、そこを撫でた。

「もともとそこにあったのですが、大火事にあってしまったのです。」

「兄さんから聞いた。」汁瀧はそう言うとため息をつき、鏡の中を見ながら言った。

 

「見てごらん。私たちは少し似ているところがあるよね。道理で君に親近感を覚えたはずだ。」姜恒は笑って汁瀧の顔を見た。姜太后は言っていた。自分が子や孫の中で一番祖父に似ていると。

「叔父上は……私が手を下したわけではありませんが……、亡くなったのは、私のせいでもあります。」姜恒が言った。

「それはいいんだ。」汁瀧はつらそうな顔をした。「本当のことを言うとね、恒児、君を恨んではいないんだ。君にあんなことをしなければ、父は死なずにすんだ……。ほんの少しでも慈しむ気持ちがあったら、ああいう最後を遂げることはなかったんだ…。」

 

二人はともにため息をついた。もし汁琮がに狂ったようにならなければ、そして、最後に傲慢な態度で宗廟に入って行かなければ、彼は今も生きていたかもしれないのだ。戸外で守っていた界圭はぎゅっと剣柄を握りしめた。

汁瀧が言った。「君が死ぬまで父は安心できなかったのか。ようやく全てがわかったよ。」

一連の出来事の貸し借りを数え上げるのは難しい。汁琮は汁琅を殺したが、運命の悪戯のせいで最後は姜恒の策略にはまって命を落とした。可能であれば、姜恒だって忍びなく思い、彼の命を留めていたかもしれない。だがたくさんの複雑な要素が絡み合い、荒波に背を押されるようにして、彼らは今の状況に追いやられたのだった。

 

「一つだけ教えてほしい、恒児。」汁瀧は真剣な表情で姜恒に尋ねた。「もし父が君を殺そうとしなければ、君は彼を許せたと思う?」

姜恒は答えた。「許せなかったかもしれません。ただ言えることは、彼が私と聶海をあんな風に追い詰めなければ、私も結局は手を打つことはなかったでしょう。」

「それはどうして?」汁瀧が尋ねた。

「彼があなたと兄の父だからです。彼が死ねば、二人ともつらい思いをすることになるから。」

汁瀧は頷いた。「やっぱり君の方が本当の太子らしいね。」

「そんなことは誰も望んでいません。ずっと思っていました。あなたはもう一人の自分のようだと。兄上、例えかつてあんなことがなくて、私が宮中にいたとしても、あなたよりうまくできなかったはずです。」姜恒はついにこの言葉をいうことができた。

 

汁瀧と姜恒は相手の服をはだけた姿と鏡の中の自分を見比べた。二人の体つきはよく似ていた。肌は白く、秀でた容貌、気質も双子のように似ている。

唯一の違いは、汁瀧が身に着けた陽玦で、それはこの世界を率いる天子の証だ。

汁瀧は玉玦をはずして、姜恒に渡した。「だけど、結局そうなることはなかった。さあ、君、炆児、これは君の物だ。」

 

姜恒は玉玦を見て、それから汁瀧を見た。その時、彼は汁瀧の真心を知った。天地の間にある果てなき喧騒も、この世の軋轢、だましあい、派閥、そうした全てのことは、このごく小さな空間の外にあり、ここには入って来ることはできない。無情に争う、残忍な世、血を分けた兄弟同士でさえ休むことなく殺しあう。そんな中で、姜恒はついに見つけた。玉玦の上に輝く、得難いばかりに貴い一点の光を。

 

その光は、神州の運命を導いて進んできた。崩れ落ちた洛陽から、何度も戦火に焼かれた廃墟を進み、今日の会合を通り抜けて、今彼の目の前に来た。そして更に数多の命を導いて、無限に栄える未来に向かって進み続けている。

 

人は無情か?いや、人には情はある。ただたくさんの欲望に行く手を遮られているだけなのだ。どんなに傷つけあおうと、暗闇がこの光を覆うことはできない。この情という光が世界を照らす限り、この大地に生きる人間たちの希望はすたれることはない。

 

姜恒は玉玦を手に持ち、言った。「兄上、ご存じでしたか?私はずっと思っていたのですよ。その肩に王道を背負える人がいるとしたら、それはきっとあなただろうと。ついに私はその人を見つけられました。」汁瀧は笑顔を見せたが、その笑顔はどこか悲しげだった。彼は姜恒に玉玦をかけてやると彼を抱きしめた。熱い肌が触れ合うと、なぜか懐かしい気持ちになった。「後で、この手紙を大臣たちに公布するよ。」汁瀧が言った。

「いいえ。」姜恒はすぐに引き留めた。「生死存亡の時、新たな火種を作ってはいけません。」扉の外では、界圭がようやく剣から手を放した。

汁瀧も一理あると考え、手紙を姜恒に返した。「それじゃあ、君がふさわしい時期を決めて。」

 

姜恒が王服を身に着けると、もう一人の太子となったかのように見えた。汁瀧とともに朝臣たちの前に出ると、彼らは汁瀧に拝礼した。汁瀧は依然として天子の御座には座らず、ただ金璽を見つめていた。姜恒が汁瀧を見ると汁瀧は笑顔を見せ、眉を揚げたが、そこには何の意味もない。何を表すべきなのかもよくわかっていなかったからだ。従弟と出会えた喜びは、この時はもう別の思いの中に埋もれてしまっていた。

 

だが二人が視線を交わしたその瞬間、姜恒はついに荷を下ろした気持ちになれた。この日、彼は姫珣に託された任務を完了できた。それは天下が彼に課した任務でもあるーーー長い間探し続け、ようやくその人を見つけたのだ。そうだ。汁瀧こそ最もふさわしい人だった。

 

嵐が来ようとしている。殿内は重苦しい空気に包まれている。皆まな板の鯉の気分だ。いつ来るとも知れぬ汁綾の援軍にばかり思いが行く。

突然、姜恒が言い出した。「策があります。皆でこの状況から抜け出すために、協力してください。」

「策ってどんな?」汁瀧が穏やかに尋ねた。

 

半時後、姜恒は天子御座の前に座って、まず自分の顔を変え、それから太子瀧に変装術を施した。初めて見る姜恒のこの技に皆は驚愕した。

「私のために君を危険にさらすわけにはいかないよ。」汁瀧が言った。

「衛賁が殺そうとしているのは私ですから、あなたが私のために危険な目にあうのですよ。」

 

汁瀧は反論できない。目下二人の状況は同じだ。変装したところであまり意味はないかもしれない。ただ一つはっきりしているのは、洛陽城が落とされたら、李霄は決して汁瀧を逃さないだろうということだ。李霄は野心的だ。殺害と言う方法で一気に問題を解決した後で、汁瀧に成り代わって天子となり、すぐに姫霜と結婚すれば名も実も得ることができる。

ひょっとしたら姫霜が李霄に出した条件が洛陽城攻略で、それが成功すれば、王后となって神州統一を助けると言ったのかもしれない。

だから汁瀧の身の安全は絶対に守らねばならない。まずは代軍に彼を捉えさせないことだ。

それに、例え雍軍が裏切って姜恒を追い詰めても、捕えた人が汁瀧だとわかれば、誰にも手出しはできないはずだ。そこが衛賁の弱点だ。武力に訴えはしても、主君殺しではないのだ。

 

「よし、できたと。言う通りにしてくださいね。趙慧はいるかい?おーい、徒弟!」

やってきた趙慧は、一時茫然となった。どっちがどっちなの?

姜恒は汁瀧に扮したが、声はそのままに、命じた。

「趙慧、天子を護衛して、洛陽を離れるんだ、彼らを引き付けながらね。」

「ちょっと、待って。」趙慧はまだ混乱している。「二人は……これはいったいどうなっているの?」

姜恒には趙慧に説明している時間はない。「言う通りにするんだ。行って。彼をよろしく。任せたよ。」

曾嶸が言う。「姜大人、あなたが軍を率いて防線を突破するつもりですか?」

「そうです。宋鄒、界圭は私について出陣し、敵の注意を天子に集めて。今すぐ私たちで敵軍の主力部隊を攻撃する。李霄が来る前に、敵の不意を打つんだ。」

「わかりました。」宋鄒が言った。

「私が替わりになりたかったです。」界圭は言った。

汁瀧も「私だって替わりになりたかったよ。」と言った。

趙慧は言った。「どういう計画になっているのかわからないけど、でも……先生の言う通りにする。だから私は替わりにはならないわ。」

「役割は変えません。兄上、言う通りにしてください。」姜恒が言った。

姜恒が汁瀧をそう呼ぶのは初めてではなかったが、今やその言葉は新たな意味を持った。最後に汁瀧は妥協した。一同はすぐに動き始め、黄昏時までに各自が結集した。