非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 126-130

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第126章 琉璃の椅子

 

姜恒は笑顔で出て行き、耿曙は単衣の上に袴と長袍をまとうと、足早に追いかけた。烈光剣を背負って、腕を組み、姜恒の後ろについて、郢宮に向かう。

「気をつけろよ。」

「郢国は私の安全には気を配るはずだよ。そうでなければどうやって北と同盟を組める?」

「だったら教えてくれ。途上で何があった?」

姜恒もずっと疑問に思っている。未だに解けない謎だ。だがここは郢宮だ。再び刺客が現れたりすれば郢王の面子はどうなる?

耿曙は宮中侍衛の力量を推し量り、付近の地形を観察した。郢人の武は雍人とは違う。修練はしているようだが、宮廷内に常駐している侍衛は何やら貴公子然としている。地味なのは自分たち二人だけだ。郢服をまとってはいるが全身を飾り立ててはいない様子で、他国からの客とすぐにわかる。

 

「あいや~!、来た来た~!」

宴に足を踏み入れた時、姜恒が感じたことはただ一つ、郢国は本当に贅沢三昧だということだ。郢王は宮の天井部分の殿柵をきらびやかで高価な瑠璃で作り上げた。色鮮やかな瑠璃の天井を漆塗りの柱が支えている。たくさんの灯火をつけた宮殿は夕日を受け、きらきらと輝きを放っていた。

 

瑠璃は四国中で、皿などを作るのにつかわれているが、郢王はそんな貴重な材料を使って、二十歩平方の天井を作ったのだ!

時刻は黄昏時で、夕日を受けた天井の輝きはさながら夢の世界のようで、姜恒も心中で、なんと美しいのだろうと思った。

 

熊耒は腕に抱いた美女から果物を食べさせられていた。王座の両側からは、天を望む朱雀像が宴会庁を囲むように点々と置かれていた。冬が終わり春が始まるこの時期はまだ肌寒いが、朱雀像の下に置かれた炉火が壁のない宴会庁を春のような暖かさに変えていた。熊耒は座るようにと指図した。姜恒は美女を見て、『これが王后のはずがない。妾か何かだろう』と思った。

「紹介しよう。おたく(雍国)の未来の王妃、羋清(ミーチン)、羋公主だ。我が義妹だよ。」熊耒の大きな体に抱かれた美女は金絹の雀のようだった。

姜恒は、雍国の未来の王妃を抱くとは何事だと思ったが、すぐに前に出て拝礼し、耿曙と視線を交わした。耿曙は嫌悪の表情で郢王をじろじろ見ていた。

「おま、おま、お前、お前は誰だ?」

姜恒は説明し始めたが、最初の部分を聞いただけで熊耒は興味を無くして袖をふった。耿曙を下がらせろという意味かと思ったが、熊耒は考え直したようで、「来たなら座ればいい。君が連れて来た者だ。一緒に座らせなさい。」と言った。

 

郢王は融通の利く人物でもあるようだ。耿曙を座らせ、二人は肩を並べて腰を下ろした。「私が持って来た礼物は全て川の底に沈んでしまったのです。既に手紙は出しましたので、嵩県にいる兄がまた準備して持って来させるはずです。」姜恒は申し訳なさそうに言った。

「雍国にどんないい物があるというのだ?気持ちだけで充分だ。」熊耒は公主を解放すると、行きなさい、と示しながらあざ笑うように言った。

姜恒も笑って見せた。その時、項余が来て別の卓に着くのが見えた。これで四人になった。羋清は去り際に、顔に笑顔を張り付け、わざとか否か、耿曙にじっと視線を送った。

「だがな、郢地で手を下したからには、絶対に捕まえてやるぞ。既に項将軍には調べさせている。刺客の首はすぐにでも君の目の前に持って来させるからな。」

「陛下に感謝いたします。ですが、できれば生け捕りにしていただけますか?」

「君の言うとおりだな!」熊耒はああ、と気づいて言った。「生け捕りにしよう。誰か!開宴だ!もう待たせるな!」熊耒は傍らにいた侍臣に言いつけ、侍臣は急いで使用人に食事を届けさせた。「太子殿下はいらっしゃらないのですか?」項余が尋ねた。

熊耒は手を振った。「巡視に行ったわ。待たなくていい。さあ食べよう。」

昼間と違って、夜には郢王は近くに大臣たちを侍らせず、最低限の人数しかいないことに姜恒は気づいた。項余はきっと熊耒の信頼を得ているのだろう。

「刺客に会って、怪我はなかったのですか?」項余が尋ねた。

姜恒はどうも項余に見覚えがあるように感じた。項州の親戚だからでもなさそうだ。話し方、表情、身のこなしの全てに馴染みがあるように感じるが、誰だったか思い出せない。

「いいえ。」姜恒に替わって耿曙が答えた。

熊耒はあれこれ考えたが、疑惑を持ち始めた。「誰が君たちを殺そうとするだろうか。」熊耒は疑わし気に姜恒を見やった。姜恒は手を広げて、「太子霊でしょうか?」と言った。

「あいつか。いくら君を恨んだところで、本王(自分)の面前で手は下せまい。」

「王陛下、姜太史は耿家の跡取りです。宿敵はたくさんいることでしょう。」項余が言った。熊耒も思い出したようだ。「そうだった、そうだった。君の父はあの時、長陵君も殺したんだ!」

「あ……」姜恒は言葉につまって、つい耿曙を見てしまった。

「いいんだ、いいんだ!」熊耒は手を振った。「あれは上の代での仇だ。君とは関係ない。君は父親には会ったこともないんだろう?案陽に七年も潜伏していて、彼の子供はずっとどこにいるかわからなかったと聞いている。」

 

姜恒は肩の荷を降ろした気がした。実は最初の内は疑っていたのだ。郢国が彼を呼び寄せるのは、長陵君への仇打ちの為ではないかと。だが、熊耒は四国の中では、色々なことに頓着しない国君だ。ひょっとしたら生前の長陵君をあまり好きではなかったのかもしれない。

宮侍は食事を運び続ける。姜恒はこれらはみんなで食べるのだと思っていたが、一盒一盒が彼の前に並べられている。豪華に盛り付けられ、二十五品目の料理が梅の形に置かれていた。

「これは……多すぎます。二人でこんなには食べられません。」姜恒が言った。

「気にしなくていい!好きに食べるがいい。これは君の分だからな。」熊耒は言った。

姜恒:「……」

次に郢王に食事がきた。国君というものは礼節を尊ぶ―――天子朝臣が地方の封王に会う時には、朝臣は天子を代表している。だから朝臣が先に食事を始め、国君はその後で食べる。次が随行した使臣で、地方武官である項余は最後に食べる。

姜恒は何と評価すべきかわからなかった。熊耒は高慢だと言うべきか。だが、この国君は自分に敬意を示している。ならば謙虚なのか。こんなことを言うのに。「君たち雍国の飯は粕のような物だろう。それももう終わりだ。江州に来たからにはたくさん食べなさい!」姜恒は頭を抱えて何も言えなかった。

 

耿曙は生まれてこの方、こんな豪華な食事を始めて見た。箸を手に持ったものの、卓に並ぶ料理の数々を見て、どこから手を付けていいかわからなかった。

遥か以前、年越し祭で『盛宴』というものを食べたことがあった。礼儀作法の知識のある姜恒は耿曙に囁いた。「外から内に向かって食べて行けばいいんだよ。」

熊耒は言った。「規則など気にしなくていい!間もなく立春、ここでの新年だ。冬の終わりの新鮮なジュンサイを食べて見なさい。ほら、食べなさい。」

姜恒は箸を動かし始めた。熊耒は少し食べた後で尋ねた。「聞くところによると汁淼は強いらしいな。ぜひ会ってみたいものだ。君の兄さんは今嵩県か?」

「はい。」

「いくつになるんだ?顔はどうだ?いい男か?」

項余が言った。「太史のご兄弟なら、きっと一門の人物でしょう。」

耿曙がふと言葉を発した。「彼とは似ていません。」

耿曙はすぐ近くにいるが、姜恒は何事もなかったかのように笑った。

「行軍も実戦も凄腕だそうですね。」再び項余が言った。

「そうだ、そうだ。本当は本王の妹婿になってほしかった。」

耿曙は言葉を飲み込んだ。

「あ……兄は最初結婚には乗り気でなかったのですが、私が去ることを告げると、嵩県にしばらくいたいと言ってきたのです。」

「武陵にいるのだな。君等がいた場所よりはいいんじゃないか。君の血色の悪い痩せた顔ときたら。食うにも困ったのだろう。落雁城では鶏卵なんか食べられるのか?」

耿曙:「……。」

姜恒:「……。」

 

項余が賢くも話題を変えた。「聞くところによると代王でさえ、王子淼の敵ではなかったそうです。あの鐘山の一戦で子淼は天下に名を成しました。あの場に居合わせず、お兄上の風采を仰げなかったのが残念です。」

項余は箸を上げ、合図のようにほほ笑みながら頷いた。彼は食事時だというのに黒い手袋をつけたままだということに姜恒は気づいた。

姜恒は耿曙の膝の上に手を置いて軽くつねった。目には微笑み、心は誇らしさでいっぱいにして。耿曙は姜恒の手に自分の手を置いて、ぎゅっと握った後、すぐに手を離した。熊耒は尋ねた。「彼は耿淵の息子なのになぜ王子になったのだ?君は彼の弟なのだから、当然王子になれたのだろう?」

郢王は雍国の事情について何も知らないようだ。彼らは北の蛮族のことになど全く関心がないらしいということは、姜恒も以前聞いたことがあった。それで仕方なく、耿曙が汁琮の義子になったいきさつと、二人が五年の間離れ離れになっていたことを話して聞かせた。

「あ~~~~あ、そういうことだったのか。」熊耒は聞き終えると言った。彼は口をひきつらせ、ひげをモソモソ動かしながら項余に尋ねた。「君と子淼が戦ったらどっちが勝つ?まさか君は負けたりしないよな?」

項余:「……。」

姜恒は項余に同情した。『こんな国君に仕えるとは、本当にご苦労様です。』

項余がこんな質問に答えるのは難しい。謙虚になれば、見下されかねない。勝てると言えば、目の前にいる彼の弟の気分を害す。

「一対一の対決では臣は彼に及びません。行軍実戦となれば……或いは長く兵を率いてきた自分にも経験という点で勝てる望みがありましょう。」項余が答えた。

耿曙は淡々と言った。「やりあえる時が楽しみだな。」

姜恒は耿曙に言った。「私としては、そんな機会がないことを願います。」

やりあう時というのは戦争をやりあう時のことで、両国が開戦した時だ。命をかけてのやりあいなどないに越したことない。

熊耒はお気楽に相槌をうった。「その通り、その通りだ。本王は戦争などしたくない。みんな平和に過ごすほうがずっといいにきまっているからな。」

姜恒は心の中で、誰が信じるものかと思った。かつて羋霞率いる郢国軍が潯東城を攻撃しに来なければ母の姜昭が遣わされることもなく、家が壊されたり、衛婆が死ぬこともなかった。

項余は言った。「長陵君ご健在の頃は、確かによく戦がありました。いつか機会があれば、汁王に一封書き送り、我が国の大王は民を我が子のように愛しているので簡単には兵を動かさないとお伝えしたいものです。」

姜恒は頷いた。熊耒は一言補った。「君子というものは口は動かしても手は動かさないものだ。それが一番。戦ってばかりではどの国も遅かれ早かれ皆貧しさに死んでしまう。君たちの雍国をごらん。貧しすぎて暴発しているだろう。『窮すれば生を変える』そういうことだ。」

「『窮生変、変即通』の意味はそうじゃなかったはずだが。」耿曙は姜恒の耳元に囁いた。(物事が究極に達すれば変化がおこり、変化がおこれば道が開ける。《易伝》)

 

姜恒は手を振って、『言わないで』と示した。その時、宮侍が再び料理を持って来た。二十五の小皿が片付けられ、三十六の肉類に換えられた。

「もう食べられません、王陛下。」

「少しだけお召し上がりください。」項余が言った。

姜恒はこんなに多くの肉を見て頭が痛くなってきた。一品ごとの量は多くなくても、全部選べば、鶏腿、鴨胸、鹿肉、鹿舌、魚の肝のような珍味食材、三十六皿、合わせれば二三斤はあるが、何とか頑張って食べなければならない。

「食べきれなければ、風児に食べさせればいい。」

「王子にですって?そんなことできません。」

項余が笑って言った。「それは陛下の犬の名です。ご心配なく。」

「風、華、雪、月。私の子供たちみたいなものだよ。何日かしたら、君にも見せてやろう。君等の北方は寒くて犬は生きていけるのか?犬を飼うことはできるのかね?」

耿曙:「……。」

姜恒:「犬も……がんばれば飼えますが、私たちは皆、宮廷で熊を飼っています。」

「ほおお!熊は私の姓だ!郢国では熊を食うことは許されない!」

項余が言った。「私たちも飼いますよ。江州の裏にある山の上でです。そのうち、熊をお送りしましょうか?」

耿曙はもう限界そうだ。姜恒は『おとなしくしていて』と合図をして、笑顔で頷いた。「これを食べて。」食べ終わらない分を彼に渡した。「話すために口を使わないで。」耿曙は姜恒を見て、酒を飲み肉を食べた。飲んでは継ぎ足し、飲んでは継ぎ足している。「少しにして。そんなに飲まないで。」

「俺はずっと貧しく過ごしてきて、ようやくあんたに仕えて山海珍味にありつくことができたのに、酒くらいたくさん飲んでは駄目なのか?」

熊耒は大笑いした。「好きなだけ飲みなさい!」

姜恒も何だかおかしくなってきた。もう邪魔しないことにして「じゃあ飲めばいい。」と言って酌をしてやった。

 

その間、熊耒は嵩県の風俗や歴史について尋ねて来た。落雁には全く触れない。北方には全く興味がないようだ。姜恒は元々、郢王は太子霊のようなことに興味があるのかと思っていた。天下統一のための策略について尋ねたり、どうやって梁国を飲み込むか、雍国は今後どう展開していくつもりか、南北分割統治はいつになるか……自分の考えすぎだったことがわかった。熊耒の関心事は、一つの地域からどれだけの税をとれるか、どんな風俗特産があるか、彼を楽しませることのできる遊びはあるかで、嵩県に対する態度も全く同じだった。

姜恒が嵩県にある翡翠鉱脈について触れると、熊耒はすぐに食いついた。興味津々だ。嵩県の特産が彼は好きらしい。「お兄上に手紙を書きなさい。誰かに届けさせよう。春には採掘できるだろう。どのくらい停めているのかね?」

「ずいぶん長くです。武陵と呼ばれていたころには玉坑がありました。その後、ゆっくりと今の様に発展していきましたが、7年停まっております。王陛下に玉鉱を再開してほしいはずです。」「美しい玉は土に埋もれさせず、火の目を見させねばならないな。」郢王は言った。

百年前、天子朝にある玉器は、すべて武陵産だった。その後人を集めて今の規模に発展した。枯渇寸前になるまで採掘した時、底部の鉱脈から「墨玉」が現れた。その名の通り真っ黒で、光の下では青々とした緑色に透き通った姿を見せる。雍都落雁の玄武像はまさに巨挙山の墨玉で作ったものだ。どの国でもとても貴重で、当然熊耒は大好きだ。

「嵩県駐留軍は王軍といっても全員が雍人です。兄が言うには、鉱山を再開するには人手が足りないそうです。もし郢国が、嵩県に雍人が駐留してもかまわないのなら……。」

「かまわない!そのままそこに置いておけばいい。高々二万人だ。何ができる?」

問題はいとも簡単に解決した。やはり思った通りだった。郢王が関心を持つのは宋鄒が治めさせる税だけだ。嵩県を占領するために郢軍を駐留させたいわけではなかった。これで大きな問題が解決できた。

 

主食が終わった。耿曙でさえ、半分しか食べられなかった。姜恒は少しだけ食べてみたが、項余は食べきれない分を箱を詰めた。家に帰ってから妻と子供に食べさせるためだろう。熊耒は箸を少し動かしただけで、ほとんど食べなかった。

すぐに、十一種類の食後の点心と、酔い覚ましのための碧緑冬茶が給仕された。

姜恒:「……。」

既に喉から出て来そうなくらい食べた姜恒は茶だけを飲んだ。下げられた点心はきっと犬の餌になるのだろう。姜恒はため息をつき、まだ少し不安そうに扉の外をちらちら見た。もうこれ以上食べ物が運ばれてきませんように。

 

 

ーーー

第127章 長生術:

 

接待が終わるころ、江州はすでに夜になっていた。夜空には冬の星河が現れ、王宮のきらきらしい灯火と競い合うように、光り輝いていた。

「姜恒。」熊耒はお茶を持って、王座に怠惰に座っていた。項余もまだいた。

「王陛下、何でもおっしゃってください。」王に何か言いたいことがあるのはわかっていた。「君は以前、海閣で学んでいたのか。」熊耒は目を細めて姜恒を見た。

姜恒はドキッとした。『ちょっと待った。どうしてそんなことを知っている?』

「王陛下にはお見通しでしたか。」来たか。人質を取るにあたって、郢王は他でもない自分を指名してきた。絶対何か理由があるはずだ。

「龍于が言ったのだ。連合軍を組んだ時にな。自ら使いとして江州に来て本王に謁見したのだ。」なるほど、と姜恒は思った。鄭国は盟主として他国をまとめていた。越地の安全を確保するために、龍于自らが使いとして、郢国を説得しに来たと言うわけか。

「私のことを褒めはしなかったことでしょうね。」姜恒は笑って言った。

熊耒は笑顔ともつかぬ表情をし、微妙なしぐさで首をふった。

「言葉の端々には、君への称賛が大いに見られたぞ!」

「それは恐れ入ります。」

項余が言った。「姜先生を得た者が天下を得ると、太子霊が言っていました。まさかその姜先生がいまや我が国に来られたとは。」

姜恒は突然大笑いした。何がおもしろかったのかと、熊耒はおどろいた。

「狡猾な輩ですね、趙霊めは。おかしくて死にそうです。」姜恒は笑いながら言った。

「あんたは中原では有名なのか。」耿曙が姜恒に言った。

「全て国君たちの面子のための言葉だよ。私が保管している金璽が欲しいからね。」

「おお、そうだ!金璽はどこに行ったんだ?」熊耒が尋ねた。

姜恒は答えた。「連合会議の席で、雍王が出されるはずです。この天下に、王陛下を除けばですが、あれを持つ資格のある国君を私は未だ見出せないのです。」

「なぜだね?教えてくれ。」熊耒は興味津々だ。

だが、項余が目配せをすると、熊耒は事前に彼と話し合ったことを思い出したようで、口を閉じた。姜恒は郢国のことを褒めようとしたところだったが、項余が話題を変えた。「それはそうと、太子安が言っておられました。姜先生とは、いつどのようにして天下を公平に分けていくか、よく相談しなければと。」

「いつでも喜んで。」どうやら郢国は他国の領土を征服するという野心を全くなくしたわけではなさそうだ。郢王が現状に満足しているところを見れば、朝廷内でのかじ取り役はきっと太子の方なのだろう。だが、太子が今夜来ていないところを見ると、熊耒には息子の前でしたくない話があるのかもしれない。

 

「姜恒よ、」熊耒は茶を一口飲んでから口を開いた。「大勢の雍国人のなかから、本王がなぜ君を求めたかわかるかね?」

来たぞ、ついに来た……きっと何か理由があるはずだと思っていた。姜恒は落ち着いて答えた。「恐らく、王陛下には私に聞きたいことがたくさんおありだからだと存じます。」熊耒は褒めるように頷いた。「君はとても賢い。」

 

この男が欲しがる何が自分にあるのだろう?姜恒はずっと疑問に思っていた。ここに来るまでに耿曙とも何度も話し合った。金璽は持って来られるはずがない。物でないなら、自分の唯一の長所である治国の才か?治国の才とは大は大、小は小と言うことである。それを良しとしない国君では、四方の壁に向かっているのと同じことだ。

その時、突然ひらめいた。―――熊耒はすでに話題にしていたではないか。

「ひょっとして、王陛下は我が師門に興味がおありなのですか?」

「そうだ。そうなのだ。賢い者には多くを語る必要がないな。君は海閣の弟子だ。当然特別に賢いな。」

項余が「君は王陛下にどんな話ができるんだ?」と尋ねた。

「私がですか?」姜恒は再び混乱した。項余は姜恒をじっと見つめ続けた。笑顔のままだが、眉をあげ、笑顔には押し隠した邪気が感じられる。

「陛下はどんなことをお知りになりたいのですか?海閣で学んだのは、上は天文地理、世間万物化生の道から、下は護身術、工芸技術、小鮮割烹のように大国を治める術……。世間では、海閣にはたくさんの秘密があると言います。ですが、私は師父の元で四年学んだだけで、お恥ずかしながら、習得できたことはほんのわずかなのです。王陛下がお知りになりたければ、知っていることは何でも申し上げますが。」

(因みに『知无不言,言无不尽。』 蘇洵という人の言葉を引用して言った↑)

「すばらしい!」熊耒は目を見開いた。急に生き生きしてきたようだ。「君は『項州』という人物を知っているかね?」

姜恒は項余をちらっと見た。熊耒の前でその名前を出さないようにと言われていたのに、郢王の方から言い出すとは思わなかった。「私の大師伯にあたる方です。私が入門した時には、鬼先生はもう弟子を取っていませんでした。私の師父は羅宣という人で、江湖では名の知れた人物です。」

「それは誰だ?知らないな。羅宣?うーん、羅宣。項州は死んではいないのだろう?最近話を聞かないが。」項余は何か考え込んでいるようで、視線はずっと姜恒においていた。

「項州は名義上は師伯ですが……師兄のように感じています。羅宣も師兄のように思えるので、項州は大師兄でしょうか。彼は……洛陽で亡くなりました。」姜恒はあの頃のことを思い出すと今でもつらい。海閣では、鬼先生が自分の弟子を羅宣に託した形になっている。二人の師兄に面倒をみさせたのだ。

「彼は私の息子だ。息子の一人なのだ。」熊耒は真面目な口調で言った。

「ああ。」姜恒は頷いた。羅宣から項州は郢国の王族だと聞いたことがあったので驚きはしなかった。「彼が生まれた時、私の姓はつけられず、母親の姓である項を名乗らせた。君には言ってもいいだろう。姜恒、男と言うものは時々自分を押さえられなくなるものだ。君もわかってくれるだろう。」

姜恒は何も答えず、項余をちらりと見た。心に疑惑が湧いてきた。熊耒は自分と項州の関係を知らないはずなのに、今のはいったいどういう意味だろう。

 

「彼のことは本王もあまり知らないが、上将軍の話によると、項州は海閣に長いこといたそうで……。」そこで熊耒は項余に先を続けるよう合図をした。

項余は後を続けた。「海閣には羅宣と鬼先生以外に誰かいたのですか?」

最初は包み隠さず話そうと考えていた姜恒だったが、こうして二人に探りを入れられると、少し出し惜しみをしたくなってきた。「いいえ。」

「羅宣とはどういう人物ですか?あなたの師父ということですが、どんな関係でした?」

姜恒:「???」

「彼は……」姜恒は言葉に詰まった。実際、羅宣をどう描写したらいいかわからない。二人は人生の一時期を共に過ごした。四年もの間、羅宣は家というものを与えてくれた。今、彼は中原を離れて、海を越えて行ってしまったのだろうか。新しい海閣で、時々は自分のことを、不出来な小師弟のことを思い出してくれているだろうか。」

話を聞いている耿曙が姜恒を見る目は複雑だった。

「兄がいなかった何年かの間、私を養い育ててくれました。長兄か父のような存在で、一番つらかった時期に支えてくれました。私を大事にしてくれ、私も敬愛していました。」

 

耿曙は姜恒が羅宣への気持ちを口にするのを始めて聞いたが、嫉妬や嫌悪の気持ちはなかった。一つには羅宣が弟を返してくれたこと。二つには、人は草木とは違い、情を持つものだからだ。姜恒が情や義を感じるのは当然のことだ。だが、耿曙は少しつらかった。

「それはさぞかし技術に優れていることだろう。私に教えてもらえるかね?」

姜恒は情けなさそうに笑った。「無理でしょう。私には素質がなく、実は修行者ではないのです。他の人達とは比べ物にならず、学べたのは彼の技能の一割程度です。海閣の蔵書はとても多く、弟子たちは何かを専門に学ぶのです。それができなければ、ただの役立たずのまま。残念なことですが。」

「上将軍が私に言ったのだが、彼は項州から聞いたそうだ、何でも……。」熊耒は身を乗り出して、声を押さえ、内緒話の様に言った。「海閣には、不老長寿の伝説があり、天地と同じくらい長生きできる術があるそうだね?そうだろう?」熊耒の表情は真剣そのものになり、しかと姜恒を見つめ、事の真偽の判断を彼が下すのを待っていた。姜恒ははっとした表情で項余を見た。どうして知ったんだろう?項州が生前教えたのか?

真相がわかった姜恒の心に様々な思いが駆け巡った。

そうだったのか!そうだったのか!それで、他の誰でもない自分を人質にとったのか!

耿曙も話を聞いて驚き、姜恒を見た。それはすでに武芸の範疇を遠く逸脱している。

仙道ではないか!

「あるのか、ないのか?」

「あります。」間髪入れずに答えた姜恒は笑顔を見せた。

項余は会心の笑みを熊耒に向けた。肯定的な回答を得た熊耒は貪欲に目を光らせて姜恒を注視している。「君は学んだのか?永遠に生きる術を?」眼差しには既に懐疑の色が見える。

「王陛下、あなたの考えているようなものではないのです。お望みなら、ゆっくりとご説明いたしましょう。」そう言いながらも姜恒は考えていた。項余の奴め、お前だったのか!……お前が郢王にデタラメを吹き込んで遠路はるばる私をこんなところまで来させたのか。

「ちゃんとはっきり言ってくれ。そういう法術はあるのだな?」

「確かにあります。」項余は真剣に言った。「末将は公子……彼に聞きました。ずっとまえにですが。」

熊耒の様子では、項余にはもう出て行ってほしそうだが、この情報を持って来たのは彼だ。『河を渡れば橋は壊す』ようなことをしてすぐに遠ざけるようなことはできまい。だが項余はよくわかったもので、知る人が少ない方がいいとわかると、自ら立ち上がって、離席の挨拶をした。「末将は城の警備に行ってまいります。姜大人は、暇な時に末将をお呼び下さい。江州をお楽しみいただきたいので。」

「行きなさい、行きなさい。」熊耒は手を振った。思い通りになったところで、耿曙の方を見た。「そこの不愛想な男、お前は……。」

「大丈夫です。」姜恒が言った。「そのまま座らせておいてください。力だけの男ですので、話の中身までわからないでしょう。」

耿曙:「……。」

 

熊耒は姜恒が連れて来た用心棒なら、聞きたければ後で聞くかもしれないと思い、耿曙に話を聞かれるのは黙認した。だが宮侍たちは下がらせ、自ら立って灯を消しに行った。姜恒は思った。肝が据わっていることだな。耿曙は剣を持っている。その気になれば、今にも剣をお見舞いでき、明日は国葬となるだろう。

 

「言いなさい。」そこで熊耒の態度は一変した。王座に座り、仙人の極みの技に接し、長生術を授かるにふさわしい表情になった。「どうぞ、先生おっしゃって下さい。」姜恒は考え考え、話し始めた。「私は少しかじったくらいなのですが、先に王陛下に申し上げねばなりません。同じ状態を保ったまま、長生不老、永遠の青春を求めることは不可能です。」「何だって?」熊耒は緊張し、声が震えた。

「ですが、永生不死を望むなら、それは到達可能です。『永生の術』を修練するということは、永遠に若いままの顔、衰えない体を持つことではありません。当然身体の改変を伴うものです。冬を越え、春が来ても万物が生きながらえるようにです。蛇や虫が殻をやぶるように、自分の体を更新し、体の老いた部分を少しずつ若返らせるのです。天地万物の生への力量を以て新たな生命の器を作り出すと言うことです。」

「あ―――!そういうことだったのか!」熊耒は驚いたようだ。

耿曙は疑わしそうに姜恒を見た。

姜恒は海閣に来たばかりの頃を思い出した。鬼先生は仙顔を得て、容貌が老いなくなり、その後、環童の術により、本当に若返った。「人の体の中には‘気’があります。気は、体内を循環し続けますが、子供の頃の気は清らかです。それを‘清気’と呼びます。ですが、五感が交錯しあい、憂いや情緒が途切れないと、気はだんだんと混濁していきます。それを‘濁気’と言います。」

耿曙:「……。」

耿曙は、お前の話はたわごとだ、と言いたそうだ。練武する人なら当然、内攻心法というものを知っている。習武の第一課は練気だ。『内練一口気、外練筋骨皮』という。だが、それとも違う。姜恒の話は単なる口から出まかせだ。だが、耿曙は姜恒の考えに口出ししないように、じっと我慢し、手で額を押さえて、下を向いた。

 

「濁気は戻ってきては体を老化させていきます。ですので、濁気を清気へと転換させることができれば、体は若返り、若い時のような状態に戻るのです。」

熊耒はすっかり聞き入り、ゆっくり頷いたかとおもうと、すぐに聞き返した。

「ならどうやって転換させるのだ?」

「天地の力を借りて、あなたの濁気を追い出すのです。」姜恒は両手を前に出して施力練攻の動作をまねた。耿曙の肩が震え、コホンと咳をした表情は少し不自然だった。

姜恒は耿曙の太ももをつねりながら話を続けた。「……天地の間にある清気を再び取り入れます。これが、『採集天地霊気』と呼ばれるものです。特殊な攻法を合わせることが必要なため、ここからは閉関修行となり、飲食も制限されます。」

「ええ?何か霊薬のようなものを飲まないのか?丹薬とか?師門は君に薬を授けてはいないのか?」熊耒は疑わしそうに尋ねた。

「霊薬は必要ですが、丹薬は不要です。」

養生丹薬というのは、ほとんどが水銀だ。むやみには与えられない。急死する恐れがある。

「真夜中、子の刻の天地の露が必要です。非常に貴重な薬材を組み合わせますので。功法については、毎年七七四十九日を1単位として、9単位の時間が必要です。」

姜恒は9年の期限があることは省いたが、どうせその頃には、彼はもうどこにいるか分からない。

熊耒は元々姜恒が何か仙丹を持っていたり、仙丹を作る練習をしたのではないかと思っていたが、どうやら、玄奇の源は、この功法にあるようだ。

「君は攻法はできるのかね?」熊耒が尋ねた。

「覚えてはいます。師門では模写を禁止しており、口耳相授のみです。ご理解ください。」

「勿論だ!勿論だよ!言ってくれ!どんな修練だ?」

耿曙は心の中で叫んだ。『またあの出鱈目を見させられるこちらの身にもなってくれ!』だが、姜恒は言った。「すぐに修練はできないのです。それだと体には有害無益になってしまいます。王陛下には先にしっかり準備をしていただかねばなりません。三十六日の内、最初の六日は精進、その後の六日は忌酒、その次の六日は生臭物を禁止します。次の六日は焚香沐浴を毎日し、次は房事の禁止、その次は毎朝日の出と共に起き、外に出て露水を飲むことです。この三十六日が終わって、初めて修練は開始できます。当然ですが、一度始めたら、全て成し遂げねばなりません。厳格に自分に約束するのです。決してさぼらないと。」

「そんなに面倒なのか?」

熊耒は、毎日肉や魚を食べまくり、海のごとき酒を飲む。酒色におぼれた生活を改めるのは有意義だろう。「王陛下、直言をお許し下さい。永生不死を考えれば、こんなことが面倒なうちに入るでしょうか?」

熊耒はそれもそうかと考え直した。郢宮にも方士はいる。彼らは毎日煉丹焚香し、何年も精進し、清心寡欲である。でも結局最後は死ぬ。三十六日の準備と四十九日の持戒なら、早いものだと言えよう。

「うむ。日は選ばなくていいのか?」

「選びます。まもなく立春ですので、立春に開始すれば最高です。ですが、毎年同じ時期に決めて準備修練をしたほうがいいですし、終わった後も過度に自分を甘やかしてはいけません。」

熊耒は考えた末に言った。「じゃあ、試してみるかな。」

「しばらくすると、王陛下にも変化が感じられるでしょう。」

「どんな変化だね?」

「体が燕の様に軽くなるはずです。だいぶ若返ったように思えるはず。もちろん、これは人によって異なりますが、9年目になると、非常に明らかになります。その時は別の一套を手配しなければなりません……脱皮のような心法で、最後に八十一日閉関修行をしますが、出関した時には別人になっています。」

「九年か。」熊耒は今年で四十八歳になる。もうすぐ五十の大台にのる。いかに長生きするかは、ここ数年で彼にとって最も重要なこととなった。結局、豪華な食事やうまい酒も、命がなければ飲み食いできない。姜恒の話がうそでないなら、彼は千秋万世の国君になるだろう!だがこの攻法を我が子にも伝授すべきだろうか。それはまた別の話だ。

 

 

ーーー

第128章 寅丁坊:

 

姜恒は話を補い始めた。「王陛下が今のお体で‘化元心法’を修練されるのは時期尚早ではありませんか?」

耿曙は姜恒の話の後半がもっともらしく、攻法に名前がついているのを聞くと、あやうく信じそうになっていた。だが次の言葉が本性を現していた。

「あなたにはずっと煩悩というものがありませんでしたので、自然と老化が人よりだいぶ遅くなりました。雍王汁琮をご覧ください。まだ四十だというのに、王陛下よりずいぶんと老いております。それなのに、あなたの方は姬珣陛下と同じお年頃に見えます。」

「ああ、」熊耒は言った。「知らないだろうが、ここ数年、私は急に目がかすんできたような気がするのだ。早くない、早くない、時期は少しも早くないぞ。」

「それなら、早く修練を開始するのもいいかもしれませんね。」

熊耒はやる気満々で、聞いた内容を何度も暗唱し、細部を確認したりした。姜恒はもうくたくただった。夜も更けて来ると、耿曙の我慢も限界に達した。「俺たちはもう寝る。王陛下、あんたは眠くないだろうが、彼はもう寝たいのだ。」

熊耒はまだ未練がありそうだ。姜恒に攻法を絶対他の人に明かさないように念押しし、精進が終わったら、また秘術を教えるように念押しして、ようやく二人を解放した。

 

「あーっははははははは―――。」姜恒は寝殿に着くと気持ちが高ぶり寝台に転がって大笑いした。まさか自分が江湖の詐欺師を演じることになるとは思わなかった。

耿曙は付近に盗み聞きする者がいないか確認した。郢国の密偵はいなかった。そこで眉をひそめて言った。「お前の治国大略ってやつが、全部でたらめだったんじゃないかと俺は今疑っているぞ。」姜恒は起き上がって服を脱ぐと、大いに笑いながら言った。「そんなこと言わないでよ。あの功法は本当に効果があるんだから。」

「どんな効果だ?でたらめ効果か?」耿曙は少し酔っていた。実際少し飲みすぎた。

「松華は本当に少女のようだったし、鬼先生も確かに若返ったんだ。だけど、教えてはもらえなかった。ただ師父が簡単に説明してくれた時、四十九日が一期限だと言っていたんだ。だから、王を騙してはいないよ。」

 

耿曙は姜恒の服を着替えさせに行ったが、酒に酔っていて、彼の顎をつまんで左、右と、顔を観察した。姜恒は耿曙の腰帯を解いて、外袍を脱がしてやった。うとうとしかけていると、耿曙が彼の脇腹を掴んだ。くすぐったくて姜恒は笑いながら逃げようとした。「何するの!」

酒の力を借りて、耿曙はなぜかちょっといじめてやりたい気持ちになり、姜恒をくすぐりだした。そして姜恒が逃げようとするほど、耿曙の征服欲は高まった。

「やめてよ!兄さん!」酒のせいで鼓動が早まり顔が赤くなった姜恒が、飛びのいて許しを請うた。耿曙の眼差しは一変し、姜恒がもがくのにもかまわず、寝台に押し付けて、くすぐりつづけた。姜恒はこらえきれず、笑いすぎて涙が出て来た。声にならずに喘ぎながら、思い切り、耿曙を蹴って離れさせようとした。耿曙は動きを止めた。いじめられた姜恒が目に涙をため、首も顔も赤く上気させた様子に目を奪われる。

「あっ!」姜恒は耿曙にかみつかれた。姜恒はようやく息をつけたが、耿曙はもうこらえきれずに、口づけをし始めた。

姜恒:「!!!」

姜恒の唇は耿曙にふさがれ、両手は寝台に押さえつけられて身動きがとれない。ただ、くすぐってこなければ、それほど抵抗しなくてよかった。灝城にいた時、一度、耿曙はこんな風に口づけをしてきたことがあった。姜恒の頭の中で何かがはじけ、たくさんの桃の花が舞うようで体が熱くなった。耿曙の舌や口の中は酒気を帯びていて、何かを発散させようとするかのような侵略感があった。

ああ気持ちいい……心にあるのはそれだけだ。姜恒は自分から口を少し開いて知らぬ間に応じ始めていた。

その動作が耿曙を我にかえらせ、すぐにぱっと姜恒を離した。体中の欲望が合わさって出て行きそうになり、姜恒を遠くへ押しやった。

幸い姜恒は気づいていないようだ。顔を赤くして笑顔で身を翻し、袖をあげて口角をこすっていた。

「ねえどう思う?先に精進させることにしたけど、房事の戒めは……。」

耿曙は寝台の外に、少し戸惑いながら立っていた。今の瞬間は彼の一生の中で最もすばらしい瞬間だった。彼には姜恒の話を聞く気にさえなれず、狂ったように高鳴る鼓動が落ち着くのを待つしかなかった。

「……また禁酒、早寝早起き、節制して、健康にいい食事と薬剤を…」

姜恒は一人笑いしながら、床帳を下ろした。「一月もたてば、当然体は燕の様に軽くなる。」

寝台の外から耿曙の「うん、」という声が聞えた。「寝よう。まだ眠くないの?ねえ!寝ようよ!」

耿曙は中々気持ちが落ち着かず、何かやることを見つけて姜恒を先に寝させようとした。だが、振り返って姜恒を見ると、期待に満ちた目で自分を見ていた。こんな目をされたら、刀の山でも火の海でも、この世の煉獄があったとしても耿曙は進んで近づいて行くだろう。それに一緒に寝たからってそれが何だ。そういうわけで耿曙は黙って帳を開けて寝台に横になった。「やたらと触るなよ。今日は酒を飲みすぎた。俺をけしかけるな。」耿曙は警告した。姜恒は嬉しそうに笑って、耿曙の腕を枕にして自分を抱かせて彼に巻き付いて眠りに落ちた。

 

「起きろ。」耿曙が姜恒の耳元で言った。

目を閉じたと思ったらもう朝だ。姜恒は腰を伸ばした。連日の疲れがだいぶ解消された。若さとはすばらしいもので、昨日川に落ち、殺されかけ、命からがら逃げて来たばかりだと言うのに、一晩の睡眠で元気百倍になった。

耿曙は既に王宮の者が持って来た郢服に着替えて、腕を組んで立っていた。その傍らには、郢人の持って来た大卓一杯に並べられた朝食がある。彼は姜恒に起きて着替えるよう促した。

「起きて来い。年越ししに行くぞ。この国の年越しだ。」

「そうだった!年越しだ!また年越しできるんだった!」

耿曙は自分を見ろと指し示した。「どうだ、似合うか?」

耿曙は越錦で作られた郢服を身に着けていた。彼が敵国の服を着るのを始めて見る。

雍人は軍、代人は商い、梁人は儒学、鄭人は士、越人は遊侠に重きを置く。世の中に越人の衣装ほど耿曙にぴったりの服はない。まるで越錦を着るために生まれてきたようだ。広い肩、まっすぐな背、抜きんでた腰の線。雍人の鎧兜では少し重苦しい印象があるが、越人のすっきりした武袍と文武袖はまさにぴったりだった。

 

深藍色の越服は右前身ごろで首周りに黒襟があって、袖には桃花、繁枝、茂葉の暗紋が刺繍されている。左袖は文袖で、身頃から繋がった花木の刺繍があり、右袖は武袖で、三つの紅い花枝柄の袖鋲がついていた。剣を抜くのに便利だ。背中には鞘を結ぶ帯鉤があり、腰前に金糸刺繡のついた腰帯を締めている。前襟は膝まで、後ろ襟はふくらはぎまで伸びて、長い脚とまっすぐな腰、漆黒の武靴を現していた。

なんてかっこいいんだろう!姜恒は寝台に腰掛けたまま、その姿に見入っていた。心の中がざわめいている。耿曙は本当に美男だ。いや、それでは足りない。華服に包まれた宝石のように華麗で美しい。 

耿曙:「?」

耿曙は、頭が痛くなるような朝食を指さしてから、姜恒の身支度を手伝いに来た。

二人は北方で既に年越しを迎え、南方に来て二回目の新年を迎える。一年で二回の年越し、運がいいかも。

「あれは何?」姜恒は卓上に置かれた書信に気づいた。

「項余が送ってよこした。服も彼が準備してくれた。是非今日家に来てほしい、江州を案内するからと熱心に招待している。行くか?」

「勿論行くよ!」

姜恒にとっては、ここ数年来一番時間がある。人質生活ではやることがない。せいぜい風羽に嵩県まで手紙を届けさせて、宋鄒経由で北方落雁城とやり取りするくらいだ。耿曙も終わりなき軍事会議に出ずにすむし、様々な軍務に頭を悩まされることもない。

姜恒の人生は一夜にして色々なことから解放された。何の負担もなく長い休みを与えられたからには、耿曙と一緒に心ゆくまで楽しむつもりだ。

 

耿曙の方は少し心苦しい思いで、浅藍色の越服に着替えた姜恒を見た。湖紋と雲烟の暗紋を施した錦は南方の溢水を一身に集めたようだ。朦朧たる烟雨。胸が痛むほど好ましい。雍での姜恒は、普段は文士袍を着て、正式な場では官衣を着ており、書生らしさを見せていた。こうして文武袖を身に着けると、清楚な少年任客らしい英気が感じられる。耿曙は隠すことなく、じっと彼を見ていた。

二人はお互いをじっくり見合ってとても満足だった。ただ耿曙は項余に会いになど行かずに、このまま姜恒と二人だけで過ごしたかった。他人がいるところでは、いつもあまり話をしない習慣がついていたし、姜恒が誰かと交流する時間が増えると彼との時間は減っていく。だが姜恒が行く気満々ならその気を台無しにするつもりはない。そこで、耿曙は彼の手を引き、烈光剣を背中につけた。「行くぞ。」

「私には剣がないよ。」姜恒が言う。

「お前の剣って何だ?お前は剣を使うように生まれついてない。お前たち門客は舌先三寸で千軍万馬を動かせるすごい奴らなんだからな。」

 

既に迎えの馬車が宮中に来ていた。江都の大通りや路地を通りぬける。耿曙は車内で姜恒の手を握り、その手を引っぱり寄せて、自分の膝の上に置いた。姜恒は馬車の窓幕の前に乗り出して外を眺めた。「桃の花が咲いたな。」耿曙は姜恒にもっと自分のことを看てほしかった。朝起きた時に、姜恒が眠そうに目を開けて、自分にいてほしそうにする、あの短い時間だけは、姜恒の意識は全て自分だけに向いている。まるで自分が世界の全てであるかのように。

姜恒が振り向いて、耿曙に言った。「そうだね。」

 

すぐに彼はまた外を見た。郢国の桃の花はとても早く咲く。立春の前にすでに多くのつぼみが綻び始め、この南方の国に少しだけ春の色を添えていた。

「何を見ているんだ?」耿曙は座っていられず近寄ると、彼を抱くような形になり、手が震え、少し緊張した。「あの人達を見て。」やはり姜恒の目に映るのは、郢国という最も豊かな国に生きる人々だった。

江州は天干(甲乙丙丁戊…)にちなんだ名の十の環が中央宮城を囲み、それをまた十二の扇形天干(干支)坊に分けている。

 

この日、馬車は東城を通った。立春慶典で、王族が軍を参観し、民に接見するため、早くに道が閉鎖されたためだ。馬車は回り道をして、「寅丁坊」を通った。そこは町の貧民区で、桃の木がここに植えられると咲くのをやめる。厚いじゅうたんを敷いたように道は泥水でいっぱいだ。姜恒は家の隙間から奥を覗いてみた。路地裏の人の多くは体を隠すこともできない。茶ばんだ袴しか履いていない中年の男が、裸の子供を連れている。部屋の外で薪を使って煮炊きしている鍋からは、鼻をつくようなにおいがしていた。

こんな光景は落雁城では見たことがない。耿曙は姜恒を抱いたまま、指で馬車の窓枠をとんとんと叩きながら、何か言おうとしたが、これを何と表現すべきかわからなかった。だが、最後に「四国の弊害を見た後、国に帰ったら、治世に少し間違いはあるが、まあましだと思うかもな。」と言った。

「郢王宮とは別の世の中みたいだ。朝食48皿、昼食72皿、夕食108皿。民に与えたら、どれだけ多くの人が生活できるか知れないね。」

耿曙は「うん。」と言いつつ考えた。『どこへ行ってもお前は遊んでいるだけじゃないんだな。』「王を罵るなよ。お前は人質だし、ここは雍じゃない。」

 

勿論汁琮に対するのと同じように熊耒にその非を突きつけるようなことはしない。だが力が及ぶ範囲内で郢王に少し影響を与えるくらいならありじゃないだろうかと姜恒は思った。

馬車は更に多くの貧民街を通った。ここの人々の暮らしは豚や犬よりも及ばない。王家に放牧され、最も卑しい仕事をしている。彼らには畑がなく、家族10人余りが、厩舎のような小屋の中にひしめき合って住んでいる。天井からは空が見える。男は船を引く、石を運ぶなどの力仕事をし、女は家で何もせず、子供を抱いて道端で乳を飲ませていた。馬車が通り、華美な姿の姜恒を見た時、その表情は麻痺したかのようだった。

 

年若い御者が姜恒に話しかけた。「姜大人は我らの国家をどう思われます?」

「あなたはどうです?」姜恒は聞き返した。

御者は笑ってしばらくたってから答えた。「私には言えませんから、あなたに言ってほしいのです。」

姜恒は「いつか良くなるかもしれません。」としか言えなかった。

御者は「おたくら雍人が関を越えて来るとみんな言っています。良くはならないのでは。」

姜恒が考えてから口を開こうとした時、御者がまた言った。「ですが、考えてみたら、今より悪くなりようがないですね。運がいいというべきでしょうか。」

「あなたは学問をされているのですか?」姜恒が尋ねた。

「いいえ。字を習う機会がありませんでした。ですが、将軍は私らに良くしてくださいます。」

「そうでしょうね。」姜恒は笑った。信頼できない人に客を迎えに行かせはしないだろう。

「こうしてみると、雍国にもいいところがあるな。」耿曙は元々大雍軍事体系の忠実な支持者だ。雍を擁護することは汁琮を擁護することではない。彼の目から見れば、雍国でなら、たとえ多くの人が希望の生き方を選ぶことができなくても、少なくとも人らしく生きることはできる。適齢で、国のために力を尽くすことができれば、路上で餓死することはない。「確かにそうだね。生きられてこその、尊厳と体面だものね。」

 

耿曙は初めて自分の態度を現わすことができた。姜恒の言い分を認めてはいても、心の奥深くではいつも、歴代君主が作り上げた大雍の全てが全くダメなわけじゃないと思っていたのだ。

「でもね、」姜恒は真剣に言った。「どちらか一つを選ぶわけじゃない。汁琮に態度を改めさせて大雍を変えていけば、郢国のようになるわけではないでしょう?今までの国君たちはみな家を拠り所に成り立って来た。私たちはもっと良い未来を見据えていくべきじゃないかな。」「うん、うん、うん。お前の言う通りだ。」耿曙はすぐに頷いた。

姜恒は横目で耿曙を見て、眉をあげ、真剣この上ない表情をしてみせた。だが、心の中では、『そんなあなたがとてもとても好きだよ』と言っていた。

耿曙が治国について自分と討論することは少ない。そんな余力がないまでに支持してくれているし、全面的に信頼してくれているからだ。だが、耿曙が彼の国家を心から愛していて、雍人により良く変わってほしいと望んでいることを姜恒は知っていた。国や国民に心を傾けられる男性は人に対する思慕の情が生まれつき深い。そういった意味では、耿曙はこれ以上ないくらい素晴らしい人だ。雍国は彼にたくさんのものを与えてくれたのだろう。

 

 

ーーー

第129章 太子安:

 

「着きました。」御者の若者が笑顔で告げた。

馬車は卯庚区に入った。まるで芝居小屋を通り抜けて、別の芝居小屋に入ったかのように、すべてが再び変わっていた。水路を渡ると、そこは郢国軍将校の住まいだ。桃や柳の木が川に面した家を覆い、周りはすべて重将が守っている。兵府の南東営地は1里離れたところにあった。

 

項府の地面は塵一つなく掃き清められている。早朝から門を開けて、貴賓の到来を待っていたのだ。

「項将軍!」姜恒が笑顔で声をかけた。項余は背中に手を置いて、廊下で金糸雀をあやしていたが、姜恒を見ると礼儀正しく言った。「昨夜はよく眠れましたか?夕べ人をやってお二人に換えの服を届けさせたのですが、よくお似合いですね。」

姜恒はふと気づいた。項余が誰に似ているのか―――この親近感は少し羅望に似ているんだ。彼は代国将軍だから、最初から何か似ていると思ったんだ。 

「感謝する。」耿曙が淡々と言った。

 

だが項余には家もあれば子もいる。孤独な羅望とは大違いだ。府には長年連れ添った夫人もいる。姜恒が来たことを聞きつけて客を迎えようと、男の子と女の子を連れて出て来た。男の子は六歳、女の子は四歳だ。

項余は姜恒に言った。「ある人が来るまで少しお待ちください。それからみんなで出かけましょう。午後に江榭で講釈を聞き、夜にはお二人に観劇をしていただこうと思います。」

項余が誰かと引き合わせるつもりだろうとは思っていた。姜恒は本堂に入って茶を飲み、世間話を始めた。

 

耿曙は家には入らず、廊下に座っていた。四方を一瞥する。郢国が初めから騙しているのでない限り、項余の家なら刺客は来ないだろうが、警戒するのは彼の習慣になっていた。

「大きい兄ちゃん、」項家の六歳の息子が家から少し出たところから、好奇心いっぱいに彼を見ていた。「背中にしょってるのは剣なの?」

耿曙は子供を見たが答えずに、眉を少し釣り上げた。子供をからかっているようだ。

女の子もやって来た。「触ってもいい?」女の子は廊下に置かれた椅子に上って椅子の上に跪き、地面に座っている耿曙と同じ高さになろうとしていた。

「だめだ。手を切るかもしれないからな。」耿曙が言うと、「じゃあ、鞘を触らせてよ。鞘からださないから。」と男の子が言った。

耿曙は子供が大好きだ。雍都にいた時も、子供に対しては辛抱強かった。普段から人を寄せ付けないのに、5、6歳の子供に対しては全く抵抗がない。子供の頃姜恒と一緒に暮らしていたころのことを思い出すからかもしれない。彼を失った後は、どの子供を見ても、痛愛していた弟のように思えたのだ。

そういうわけで、耿曙は剣帯から鞘を外すと手に持ち、男の子は手を伸ばして触った。耿曙がもう一方の手で子供をからかうと、女の子が笑い出し、耿曙の首に抱き着こうとした。

耿曙は少しよけながら言った。「男女に別有り。やたらに抱きついては駄目だ。」

今度は男の子の方が抱き着いて来て、剣を取ろうとした。耿曙は渡すしかなかったが、剣をくるりと回して鎖掛けにし、事故が起こらないようにした。

「名前は何だ?」耿曙が女の子に尋ねた。

「私は召。召之既来、揮之即去の召。」(《老舎》とても従順という意味。)

「いい名前だ。」耿曙が言った。

烈光剣は六歳の子供には重すぎた。男の子は頑張って引きずろうとした。女の子は耿曙の首から下がった赤紐を見て「何をつけているの?」と聞いた。

恐れ知らずの彼女は耿曙の玉玦を見たがった。耿曙は当然見させるわけにはいかない。彼女の手をひっぱって、持っていた小さな点心の包みを持たせた。どこかで桃の花を見ながら、座って姜恒と一緒に食べようと、王宮から持って来たのだった。

女の子は歓声をあげ、男の子は急いで駆け戻って来ると、「ぼくもほしい!大きい兄ちゃん!ずるいよ!」と言った。

「男の子の分はない。あんなものを食べてどうする?剣を返してくれ。」

男の子は剣を放り出して、耿曙の膝に上がって来て、胸の中に何かないか、撫でまわした。耿曙は仕方なく、作戦変更とばかりに、酒の下に入っていた干し肉を彼に渡した。

 

これで二人とも満足した。耿曙は剣鞘の上に片手を置いて、二人が食べる様子を静かに見ていた。潯東の頃のことを思い出す。あの頃もう少し年をとっていればよかったのに。あともう何歳か年をとっていれば武芸を身につけ、何も恐れることなく、幼い姜恒を守ってやれたのに。昭夫人の代わりに鄭の地に攻め入って来た羋霞を暗殺しに行き、衛婆を守り、姜恒も守ることができたのに。そうすれば、姜恒はずっと家にいられたのに。

だがあの頃は金もなく、技術もなく、何もない、あるのは自分自身だけだった。姜恒を満足に食べさせることも、彼のために刀の山火の海を乗り越えていくこともできず、ただ近くにいることしかできなかった。最後にはその彼さえ失いかけた。

『これは運命です。』耿曙は姜太后の言葉を思い出した。誰にでも運命がある。

 

項府の外に誰かが来た。耿曙は無意識に剣を握りしめ、見に行った。庭園に入って来たのは四名の侍衛を携えた若者だった。これぞ郢国を後継する太子安、熊安だ。

「殿下!」項家の子供たちは彼に気づくと急いで近づいて行き、太子安に拝礼した。

太子安は耿曙と短く視線を交わした。手に持った剣を見ると笑みを浮かべた。耿曙は立ち上がるのがおっくうで、挨拶もしなかった。姜恒がそばにいないなら、社交の類は、避けられる限り避けたい。たまに拝礼するとしたら、姜恒の顔をたてるためだ。

 

太子安は特に気にせず、二人の子供たちの頭をなでると前庁に入って行った。しばらくすると、姜恒と項余が拝礼する声が聞えた。耿曙は剣を背負って剣格をひねってすぐに抜剣できるようにしてから、門外に立ちに行った。

姜恒と項余は風土人情などの他愛ない会話を交わしただけで、昨日のことはお互い話題にしなかった。そうしている内に太子安が来たので、笑顔で立ち上がった。『待っている人』は彼だろうと見当はついていた。他にはあり得ない。

「これは私の侍衛です。聶海といいます。」姜恒は太子安に紹介した。

耿曙は頷いた。太子安は姜恒に笑顔で言った。「自腹で雇ったと聞いたよ。見たところ手練れそうだ。こんな少侠を雇うにはいくらくらいかかるんだい?」

耿曙は淡々と答えた。「いくらでもない。越人の命は安いからな。」

「傍若無人な男で。殿下には、お気になさらないで下さい。」姜恒も笑顔で言った。

 

「かまわんよ。」太子安は意図してか否か、再び烈光剣に目をやった。「若く武芸に秀でているとなれば、驕りもするだろう。座ってくれ。昨日は迎える側としてもてなすことができなかった。姜太史は今回その機会を与えてくれるね。」

 

これで姜恒は四人の太子に会ったことになる。趙霊、李謐、汁瀧、そしてこの熊安。

どの国の太子も似たような気質を持ち合わせている。性格が温和で、人当たりがいい。それは王家の教えの賜物なのだろう。未来の国君になるには、胸襟を開く必要がある。だが、それぞれの後継者たちには個性もある。趙霊は慎重、李謐は謙虚さと野心を併せ持つ、汁瀧は恐らく最も善良で仁徳者だ。太子安には初めて会ったが、第一印象は『自尊心』だ。どうやら姜恒についての前知識はなく、なぜ父親が彼を人質にしたのかもわかっていないようだ。

「雍国朝廷にいた時は大変だったんじゃないか?」太子安が尋ねた。

「まあまあです。飲食居住に関しては勿論郢国の豪華さの比ではありませんが。」

「ここに来たからには暇を持てたということだな。まあゆっくり休んでくれたまえ。」

四人は馬車の所まで来た。項余が「聶小兄は嫌でなければ私と同じ車に乗ってくれるか?」と言った。耿曙は意思を確認するように姜恒を見た。姜恒は頷いた。問題はないはずだ。彼は太子安と二人で車に乗り、項余は耿曙は後ろの車に乗った。

 

太子安は長陵君のことは口にしなかったが、「姜恒、君は潯東人だろう。」と言った。

姜恒は馬車に座ってから「ええ。物心ついた頃、潯東に住んでいました。」と答えた。

話ながら考えていた。母はいつ鄭国に来たんだろう?どこで自分を生んだんだろう?

太子安は考えこんでいる。緊張させすぎないような、適当な話題を探しているようにも見える。「父の話だと、君は色々な国家に行ったそうだね。」

「梁を除く、天下五国都全てに行きました。あとは天子王都洛陽にも。」

 

今の世の中、例え一国の公卿であっても、自国を離れる機会は少ない。他国に行くとすれば2つの可能性がある。使者か、亡命だ。乱世において、各国を遊歴するのは非常に難しい。姜恒は若いが、既に四国を渡り歩いてきた。天下を見ても、彼のように豊かな人生経験をしている人はあまりいない。

太子安は尋ねた。「君から見て、江州は他の土地と比べてどうだ?」

郢王熊耒は政治に興味がない。城内の様々なことにはおそらく太子安が責任を持っているのだろう。熊耒は軍権を持ち、外交戦略には意見を言うが、それ以外の事、民生、財務などはおそらく東宮が管理しているに違いない。

この太子は汁瀧より経験豊富だが、年は大して違わない。

姜恒は考えた末、微笑みながら、「どの国より豊かですね。」と言った。

太子安は満足したようだ。辺鄙な小国の民が朝貢に来た時に見せるような表情をしている。

「我が国にはまだ足りないことも多い。父王も姜太史に教えを請うように言っている。かつて天子が統治していた時には、本当の天下の都があった。六百年前の輝きが再び戻るのはいつになるのだろうか?」

太子安は雍国については全く触れようとしない。国家として認めていないのは明らかだ。自分が目標としているのは洛陽だけなのだ。

姜恒は言った。「そうですね。万民は河のようなもの。船は運んでも気に入らなければ顛覆させます。いつまでも評価され続けるのはとても難しいことです。」

「君から見て足りない物は何だ?」

姜恒は考えながら言った。「姜王宮から項将軍府に行く途中で、見た光景があります。これからの一年半、民の称賛を得るために太子殿下が尽力できるのではないかと存じます。」

太子安の表情が曇った。姜恒は彼の顔を立てるために、巧妙な言い方をした。「王位継承者としてのお立場では日々たくさんの職務があって、忙しすぎることでしょう。部下には偽った報告をして欺く者もいると思います。機会があれば、ほんのわずかな時間でもご自身で見られることをお勧めします。」

この時、もう一台の馬車の中では、姜恒がいないために、項余は人が変わったようになっていた。耿曙と一言たりとも話そうとせず、世間話でさえしなかった。

耿曙の方は項余を見ようともしなかった。相手は自分のことをただの侍衛だと思っている。そこで膝を抱えて車窓に寄り掛かり、沿道の様子を眺めていた。

ようやく項余が口を開いた。「君たちを殺そうとした者が誰か、何か考えはあるのか?」

「あんたらじゃないのか?郢地で殺されかけたんだ。どう考えると思う?」

「調べさせているが、何もわかっていない。」

「それじゃしかたないな。」

一問一答、簡潔に終了だ。項余は耿曙に眉を上げて見せた。

「君等を仇とする者は多い。いつ何時でも気を付けることだ。わかっているな。聶小兄?」

耿曙は冷たく答えた。「そっちこそ気をつけろよ。姜太史に何かあれば、一番困るのは誰だ?」

項余はふっと笑った。誰かはわかる。雍国が怒り狂ったとしてもすぐに目の前に現れはしないが、郢王の方はすぐにでも項余を灰になるまで焼き尽くすだろう。

国君は不老長寿が欲しい!何かあって熊耒の夢が立たれれば、項余一家は大変な目にあうことだろう。

 

 

ーーー

第130章 洗濯女:

 

馬車は江畔に到着した。あたりは既に人払いしてあった。先に項余が降り、背後に姜恒と太子安を連れて、水榭に向かった。太子安はわざと少し遅く歩き、項余の耳元で何か囁いた。

項余は少し身をかがめて聞くと、すぐにうなずいて、指示を出すために去って行った。

「項将軍は何もかも手配して大変ですね。いつも忙しそうだ。」姜恒が笑った。

太子安が説明した。「彼は十七年前にはもう朝廷で働いていたんだ。郢地には、屈、項、羋、熊の四家がある。父王は項余が大のお気に入りで、まるで私の長兄のように、父王が自ら成長を見届けた。」

姜恒は頷いた。見たところ、太子安と郢王の関係はそれほど密接ではないらしい。太子安の母が屈家出身のせいだろうか。熊耒の生母、つまり羋太后は羋家出身。ここでも公卿大夫の利益争奪の影響があるようだ。

 

しかし、熊耒はそれでも熊安を太子とし、かなりの権力を与えている。結局、彼は四家を結ぶ中心人物だ。まして熊耒のような花天酒地、贅沢三昧では、他の三家はかなりの金銀を出して王室を養っているはずだ。それぞれの封地では狂ったように暴利をむさぼって、金に換えなければならないのだろう。

 

「こちらは屈将軍、屈分、それに羋清公主の族弟、羋羅です。」

江辺水榭にまた一人やって来た。背が高く勇壮で、雍廷で一番ガタイのいい陸冀を思わせるが、胴が一回り大きい。山のような体を長椅子の前でかがませるとだみ声で言った。「ああ、姜太史、遠路ようこそ。お迎えにも行かず……。」

「どうぞ、お座りください。」姜恒は海閣で聞いたことがある。郢国には上将軍羋霞がいたが、潯東侵攻の際、母に殺された。それで屈家と項家が軍権を分け持つようになった。

姜恒は好奇心を持った。この男は少なくとも三百斤はある。鎧兜一式を加えれば、四百近くなるだろう。馬に乗って戦うことなどできるのか。それに果たしてこの世に彼を乗せることができる馬がいるのだろうか。彼が大きく動けば椅子が壊れるのではないかと心配になった。そこまでして礼儀正しくしなくていい。

もう一人の羋羅という男は文士で、姜恒に笑いかけて来た。

耿曙は欄干の所まで行って、外の様子を見た。太子安は、「姜太史、我が国の茶を飲んでみてください。」と言った。

 

侍女がお茶と点心を持って来て、琴師が琴を奏で始めた。水榭の窓幕が河風に吹かれて巻き上がった。春も近いこの頃、遠くから水鳥の声が聞え、近くには桃の花が咲き、人を夢見心地にさせた。川面に白帆が点々と見える光景はさながら絵画のようだ。

 

姜恒には気づいたことがあった。郢人は贅沢ではあっても、洛陽天子朝の様に嘉賞の技に長けてはいない。姫珣の王室は没落したとはいえ、食事や器などへの格式は最後まで守ろうとした。四季に合わない物、五行と調和しない物を用いることはない。例えば洛陽の点心は、飾り気なく見えても精緻に作られている。口の中で様々な味が広がり、食感は繊細だ。食材に注意が行きわたり、軽やかさと濃厚さを併せ持つ。郢王室の食事や点心は質より量といった感じで、朝昼晩、どの食事も全部いっぺんに並べられる。見た目には百花繚乱のようでも、口に入れた時には味が落ちている。

姜恒はもう点心に心を動かされなくなってしまった。江州に来て以来、食べ物があっても手を付けないということを覚えてしまった。これなら雍国の接客の方がずっと礼儀や格式を重んじている。

 

耿曙は茶室にはいたが、川沿いの欄干の前で膝を抱えて座っていた。剣を下ろして、膝の上に置いていた。彼らの会話には全く関心がない。彼が今日したかったことは項余のせいでできなくなった。姜恒と二人で過ごすことは言うに及ばず、こんなに大勢のわけが分からない連中を呼び寄せて来るとは全くもって許しがたい。

 

「あなたにお会いしたことがあります。」羋羅という策士が姜恒に話しかけて来た。

「私もお会いしたことがあります!七年前ですね。」姜恒は思い出し、笑顔を見せた。

四国連合軍が洛陽に来た時だ。天子を奪い合おうと、各国が特使を送り込んできていた。羋羅はその時の郢国特使だ。姜恒は鄭国特使を叱りつけたことで彼らに深く印象付けられた。

太子安が笑いながら言った。「羋羅は君だとわかると来たがったんだよ。」

「あれからずいぶんたちました。」羋羅はふっと息を吐いて、「あの時趙将軍が天子を江州に避難させていれば、今こんな状況になってはいなかったでしょうに。」と言った。姜恒はあの頃のことを思い出して、微笑みながら言った。「天子には天子の執着があったのでしょう。誰が彼の立場であっても同じようにしたかもしれません。」

 

耿曙は川面を見つめたまま何も言わなかった。しばらくすると手配を全て終えた項余が戻って来て仲間に加わった。姜恒があの時洛陽で起きたことについて話したことで、主も客も何も言えなくなり、少し気まずい空気が流れた。

項余が現れたのをきっかけに、皆は太子安のことをほめそやし始めた。政治の手腕を賛美し、民へのいたわりを語った。姜恒に批判されたばかりの太子安は喜んでこれを受け入れた。太子安は姜恒に全く興味がないどころか見下してさえいた。今日も礼儀として呼んだに過ぎない。

二人の間には気まずい沈黙が訪れ、姜恒はそろそろ退席を申し出て、帰って耿曙ともっと楽しく過ごそうと考えたところだった。だが、その時、太子安が言い出した。「そちらの聶海小兄は、一門の人物と心得るが、こちらに来て仲間に入らないか?何か話でもしようじゃないか。」

姜恒:「?」

姜恒はまずい、と思った。ひょっとして耿曙の正体がばれたのか?羋羅は洛陽にいたんだから、耿曙のことも印象に残ったのかもしれない。

耿曙は振り返って彼らに目をやると、冷たく答えた。「あんたらだけで話してくれ。おれは結構だ。話すことなどないし、姜大人と先に帰らせてもらう方がいい。」

 

すぐに項余が言った。「姜大人、一緒に河辺の桃の花でも見に行きませんか?」

姜恒はそうすることにした。太子安は高慢だが愚かではない。耿曙の正体がわかったのかもしれない。まあ、そうだろう。耿曙の容貌、姿かたちでは、隠しておくのは難しい。姜恒は立ち上がると言った。「いいですね。少し体を動かしたかったんです。ここ数日少し食べすぎましたから。」

項余は微笑むと姜恒の肩に手をかけて、水榭風閣の一角から出て行った。耿曙は二人が遠くに去って行く姿に警戒の目線を送った。

太子安は突然表情を変えて親し気に声をかけた。「子淼殿下、」

耿曙は応えなかった。

「子淼殿下、こちらへお越しくださいよ。あなたのことは存じ上げなくても烈光剣のことは知っているのです。」

 

耿曙は隠す必要がなくなったことがわかると、立ち上がって太子安の前に膝をついて座り、淡々と言った。「おっしゃる通りだが、私は弟が心配でついてきただけで、雍国を代表しているわけではありません。外交については、手紙に書いて、我が国の太子と相談して下さい。」「勿論です。」太子安は笑った。

 

 

その頃、姜恒は川沿いの道をゆっくりと歩いていた。桃の花はまだ咲き誇ってはいなかったが、生気に満ち溢れていた。項余は太子の時と同じように彼の後ろについて歩いていた。

姜恒は川面を眺めながら言った。「今日、項将軍のお宅で子供たちの笑い声を聞いて、子供の頃の家に戻ったような気持になりました。」

項余は「姜大人のご様子ではまだ十八、九くらいでしょう。若くして才を成すとは、敬服致します。あなたの師門は素晴らしかったのでしょうな。」と言った。     

姜恒は答えた。「慙愧に堪えません。実際はあまり学べず、十七でもう山を下りたのです。」

目の前の川を行く船の船頭を姜恒はじっと見た。「今日はなぜか急に、山門を離れてから、照水城に行ったときに会った船頭のことを思い出しました。」

「船頭ですか?」項余が尋ねた。

「ええ。あの年、照水一帯は河が氾濫して、十年に一度の大洪水に見舞われていたのです。人々が私のために一人の船頭を探してくれ、済州へと連れて行ってもらいました。あの船頭には親しみを感じました。彼の話の中に、衆生の大道が隠されているように思えたのです。隠さずに申しますが、今日お宅に伺うまでの途中で、たくさんの民が苦しむ様子を見ました。それが、かつて照水で遺体にあふれた河を渡っていた時を思い出して……。」

「姜大人ご心配なく。あなたがそうした光景を再び見ることはありません。」項余が言った。

姜恒はにやりとした。おそらく太子安は項余にこの話をして、外国人の前で顔を失うようなことをさせないように言いつけたのだろう。それにしてもこの項余の反応は早すぎるが。

「どうやら太子殿下は人の意見を聞き入れる方のようですね。」姜恒が言った。

「殿下は日頃大変お忙しく、注意が行き届かないこともあるのです。殿下へのご忠告に感謝致します。」

 

その時、姜恒は一人の婦人が河辺に座って服を洗っているのに気づいた。木棒を使って、水に浸した袍を叩いていた。河辺の丸石の道を歩く姜恒についていた項余が、「なぜまだ川辺に人がいるのだ?人払いをしたはずなのに。」と言った。姜恒は振り返って手をふった。

「別に大丈夫でしょう?」項余は姜恒が桃花の中に立って笑いながら振り返った様子を見て、少し警戒した表情をした。姜恒は彼に来なくていいという手振りをした。「私が行ってみます。あなたは武将の官服をお召しだ。民があなたを見たらきっと怖がります。」

項余は十歩離れたところから、姜恒が夫人から五歩の距離まで近づいたのを見た。

しまった!と思った項余は右手を左手の手袋の上に載せた。そして右手の指を手袋の端まで這わせ、ゆっくりと手袋をとり始めた。

服を洗っていた夫人は振り返って、姜恒に笑顔を見せた。姜恒は「良い天気ですね、」と声をかけた。「そうですね。」夫人は服を洗う手をとめた。「間もなく年越しですね。坊ちゃんはどこの人?」「雍国から来ました。」姜恒は答えた。

項余は二人のやり取りを聞いて右手を離し、手袋をはめなおした。

 

「雍国人。あなたが雍国から来た人質なの?」

姜恒は意外に思った。民の間でも知られていることなのか?その時夫人が言った。

「私はね、あんたの命を取りに来たんだよ。人質さん。」

姜恒ははっとした。夫人は服をしまいながら言った。「十二時辰(1日)の猶予をあげよう。明日この時刻にあんたは死ぬことになる。この世をしっかり見納めして、食べたいものがあれば食べておくんだよ。逃げたっていい。この私に目を付けられて助かった者はいない。天下一だっていうあんたの兄さん王子でも無理だ。育ててくれた親に感謝しておきなさい。行きな。」

姜恒:「……。」姜恒は驚愕に満ちた表情で女を見た。女は軽々と木盆を持ち上げた。

姜恒は無意識に後ずさりして叫んだ。「兄さん!兄さー――――ん!」

項余が矢のように駆けつけたが、バシャンと音を立てて女は河に飛び込み姿をくらました。姜恒は自分の耳が聞いたことが信じられなかった。項余は彼の腕をつかむと尋ねた。「何です?女は何と言ったのです?」

 

「言ったのは……あの人が……。」姜恒は動揺していた。生まれて初めて殺害予告というものをされたのだ。だが、項余の目を見ながら、気持ちを落ち着かせた。

「言ってくれ。怖がらないで。私を信じて、姜大人。王陛下にも言われている。どんなことがあっても君の安全を守るようにとね。」

「あの夫人は……、女は私を殺すと言いました。十二時辰の猶予を与えると。兄さん!兄さん!」今の姜恒には耿曙を見つけて相談することしか頭にない。項余がついてきたが、彼にかまわず、歩き続けた。「もっとゆっくり!転ばないように気を付けて下さい!」

水榭は川沿いに建てられ、山の途中にある。下りるのは簡単だが、上るのは大変だ。姜恒ははあはあいいながら水榭にたどりつくと、何とか落ち着きを取り戻した。

「大丈夫です。姜大人。」項余が言う。

「うん。ほら話かもしれないし。」

このわずかな時間で気持ちを取り戻した姜恒は、この件はあまり広めない方がいいかもしれないと考えた。

 

水榭から話し声が聞こえて来た。耿曙は椅子に座って、茶を置いた卓をいらいらと指で叩いていたが、階段を上がって来た姜恒を見ると「何でそんなに真っ青なんだ?こんなに息を切らして?」と言った。

既に完全に落ち着いていた姜恒は何事もなかったかのように笑った。「何でもない。山道を登ったら少し息が切れただけ。」と言った。耿曙は『こっちに来い』と手招きした。姜恒が耿曙の近くに座り込むと耿曙は茶碗を口元に持っていって、飲ませてやった。どうやら、二人とももう正体を隠す気はないようだ。

 

「あなたの提案は真剣に考慮する。」耿曙は太子安に言った。

「郢国以外には、天下のどこを探してももっと相応しい場所はありませんよ。」太子安が言った。その一言で、太子安が耿曙と何やら交渉していたことはわかったが、どんな好条件を出して来たかは姜恒にはわからなかった。

耿曙の方はもうそれ以上太子安と話す気などなく、指の背で姜恒の額をかき上げて、表情をじっと見た。少し眉をひそめた物問いた気な表情から、単に登山のせいでない不安感を察した。だが、姜恒は目で合図した。『もう少し待って。後で話すから。』

「では失礼する。」再び耿曙が言った。「項将軍この後何かあるか?」

ほんの一時出て行った間に天地を揺るがす変化が姜恒に起きた。耿曙は問答無用の身分を回復したからには、姜恒のように一国の太子に礼儀を尽くす気などない。

「我らも帰るとしよう。」太子安の方は逆に少し礼儀正しくなった。「みな一緒に行こう。項余、この後何かあるのか、と聞かれているぞ。」

項余は考えた末、太子安に河辺での出来事を報告しないことにした。「実は夜になったら、お二人を観劇にお連れしようと考えておりました。」

「なら、私に替わってお二人をしっかり接待するように。」太子安は立ち上がって先に出て行った。耿曙は姜恒の手を握った。指と指をしっかりからませて握り、一番最後に出て行った。姜恒はついつい後ろを振り返った。

「いったいどうしたんだ?」耿曙は姜恒の耳元に近づいて小声で尋ねた。

「車の中で話す。」姜恒が答えた。二人は車に乗った。今回は耿曙と姜恒が同じ車に乗る。「川辺に人がいて私を殺そうとした。例の刺客の一味だと思う。」

「そうか。奴らはまた来ると思っていた。」

姜恒は洗濯女のことを話し、耿曙は黙って聞いていたが、最後に頷いた。

「どうしたらいい?」

「どうもしないでいい。俺がいるじゃないか。」

その時馬車が停まったが、耿曙は剣を抜かなかった。足音が聞こえ、項余が乗り込んで来た。

車内は少し狭くなり、項余は片隅に体を曲げて座った。項余は一目見て、二人は既に状況を話し合ったとわかったようだ。「このまま王宮に戻られますか?王宮内には絶対に危険がないと保証します。十二時辰後のことですが、良ければ、先に……。」

「必要ない。やるべきことをやる。観劇したいなら観劇すればいい。恒児行きたいか?」姜恒は耿曙の反応を見て更になすすべを失い、ただ彼の言葉に従った。「行く…行こう。」項余は考えた末に言った。「では予定通りにするのですね?ですが今夜は必ず王宮に戻ってお休みになるようご忠告いたします。 耿曙は何も答えなかった。

 

姜恒は「あれはいったい何者で、どうして私を殺そうとするのだろう?」

耿曙はめずらしく冗談で返した。「お前はどこで誰を怒らせて来るかわからないからな。今度からどこで何をするにも兄がおぶって行ってやる。」

姜恒は苦笑した。「どこかで怒らせたと思う?」

「とりあえずお前を信じてやる。太子安に一時間もくどくど話されて頭が痛い。少し寝る。」そう言うと耿曙は横になって姜恒の膝に頭を乗せ、烈光剣を抱いて目を閉じた。