巻一 銀漢飛渡(天の川をも飛び越えて):
序章 雪は満ちる弓や刀に:
風雪荒れ狂う千里の雪原の中、長蛇のようにうねうねと続く数千もの騎馬軍が、山をも動かす勢いで、一人の武将を追いかけて行った。武将は黒い鎧に身を包み、跨る駿馬は既に鼻や口から血の泡を吹きながら走っている。矢が一斉に放たれては雪上を針の筵のように変える。
「身の程を知らぬとは愚の骨頂!」敵方の首領が遠くから叫んだ。「命が惜しければおとなしく捕らわれて、我と共に東都に帰って審問を受けられよ!」
武将は怒鳴り返した。「行ったらお前は裏切るだろう!」
「漸鴻。」別の千人隊が側面から近づいて来て、挟み込まれる。山野見渡す限り敵だらけだ。
「吾が王、あなたは既に叛され孤軍となった身、一人ではどうにもならぬのに、なぜ諦められぬ?頑固に抗ったところで、兵の命を失うだけですぞ!」
敵の援軍の中から重厚な声がした。「昔日の袍澤の誼を、心の片隅にでも留めておいでですか?」
武将は剣を鞘に戻したが、笑って言った。「袍澤の誼?かつての誓いも今や戯言。最初に交わした約束など誰が覚えていようか?!ここにいる兵士たちの命を犠牲にしても惜しくないほどに、それほどまでに我を倒したいか?
生きても死んでも同じこと!天地広しと言うけれど、お前を許す余地はないーーー!」
鼓の音は神代の巨人のように広大な天の果てまで行き渡り、この地を踏み鳴らす。一歩進むごとに、強風と防雪を巻き起こし天の光を遮るかのようだ。
「諦めなされ、吾が王、あなたにはもう逃げ道はない。」
第三の部隊が大雪の中から姿を現し、一人の英俊な若い武将が兜をとって、雪の中に投げた。
雪の粉が激しく巻き上がる中、その男の声が響いた。
「山河を引き渡して水酒を飲み、あなたの道は弟君に託されてはいかがです。誰だって最後は死ぬのです。なぜこのように抵抗なさるのですか?」
「確かにその通りだ。」李漸鴻は武鎧の下の袍襟をはためかせ、馬を停めて風雪の中に佇んだ。「誰だって最後は死ぬ。だが弧王は未だその場所には至らず。今日死ぬならそれは私ではない!!」
玉壁関は天高くそびえたつ。誰かが吹く羌笛の音がひゅうひゅうと寂しげに響いている。前が見えぬほどの粉雪と共に大地に降り注いでいくようだ。戦鼓が鳴り、騎兵が一斉に槍を立てる。鼓が鳴り終えれば、追撃してきた三隊から数千もの長槍が北良王李漸鴻に向かって放たれるのだ。李漸鴻は冷ややかに言った。「くだらぬ話はもういい。先に手を下す勇気があるのは誰だ?」
「ここで刃を交えて死に至れば、生前の威名は無に帰します。絶対におやめください。」
先ほどの若者が怒号をあげた。「ここで李漸鴻の首を取れば、誰であろうと、値千金!万戸の候に封じようーーー!」
戦鼓が鳴りやみ、騎兵は一斉に咆哮した。李漸鴻の上げた雄たけびが天地の間にこだました。
彼は馬を全力で走らせて山の上に向かって行き、高地を守っていた兵の中に叫び声をあげながら突撃して行った。一万を超える兵が一人の男を囲む戦陣が敷かれ、兵馬は中心に向かって集まって来る。李漸鴻は双脚で馬を挟み、左手に長槍、右手に剣を持って、千軍万馬に向かって突っ込んでいくと、山の上にむかって逆流していった!高地で雪崩が起きた。追ってきた兵馬は白霧を上げて狂ったように押し寄せる雪の中に巻き込まれていった。
鮮血が飛び散る。李漸鴻は一本の剣で、襲い来る兵馬の長刀を斬り断ち、鉄槍で敵軍の馬を貫くと敵陣に向けて投げ落とす。手に持つ剣が届くや否や、兵の体が断たれて飛び散る。鉄を泥のように切り裂く利刃は絶え間ない流れのように襲い来る敵を切り裂いていく!一万対一人。だが、李漸鴻は羊の群れに入り込んだ虎のように、入り乱れる戦陣を抜け出て行った!
駿馬の前には万丈の切り立った崖があった。その時、崖の先が突然崩れ落ちた。無数の馬たちにはすすべもなく騎兵たちも雪崖と共に落ちて行った。深淵の上では、李漸鴻が戦馬を御して、空をきって飛び越えていた。
雪の斜面からは戦馬のいななきだけが聞えた。その声を停めたのは雪崩の音だ。空には烏のように漆黒の雲が巻き起こり、北方の大地を覆った。叛乱軍の首領は崖の前で馬を停めた。
降り続く粉雪が彼の赤銅色の甲冑に落ちた。
「将軍、反賊の行く末は見えませぬぞ。」
「かまわぬ。暫し兵を収めよ。」
―――――
序章 タイトル、「雪は満ちる弓や刀に」は下記の詩から。
月黒雁飛高 単于遠遁逃
欲将軽騎逐 大雪満弓刀
軽騎兵らに追わせてみたが 大雪満ちる弓や刀に
盧綸
中国語の翻訳をする人は中国語が好きすぎて、あと、日本人は漢字が読めてしまうので、あまり意訳をしないで、原文の味わいを残そうとしたり、注を入れて諺や詩の出典を書いたりする傾向がある気がします。
中国語に限らず、原文を重視するか、日本語としての自然さを重視するかは翻訳のテーマの一つでしょう。私としては日本語の座りの良さを重視しようと思います。なので、引用文の翻訳は正確ではありません。最初から日本語で書かれていたかのような自然な日本語を目標に学習していこうと思っています。
ーーー
第2章 訪問客:
遼帝が南下して、陳国上梓を打ち取って以降、漢人は玉壁関から撤退した。玉壁関から三百里南の河北府までが遼の国土となったのだ。
(架空の国の物語です。実在した陳とは無関係。遼も元も国は実在した国を想定しているかもしれないけど、史実とは異なる。フビライとかの名前は出て来るけど。)
河北府には汝南城がある。古来、中原と塞北の貨物が行き交う場所だったが、今では遼国の版図にある。漢人は西や南に逃げて行った。かつて河北最大だった城市は、今やがれきの山と化し、残っているのは三万戸に満たない。
段家は汝南城内にあった。段家は大きいとも小さいともいえない。商団相手に売買したり、質屋一件、油坊一件を持っている。当主は三十五になる前に病で命を落とし、全家の営みは夫人に任された。
師走の八日、夕日の残照が、汝南城内の青石畳を黄金色に輝かせ、宛ら小巷に金の小波が続いているかのようだ。段家の庭園には耳をつんざくような叫び声が響いていた。
「お前はまた夫人の物をくすねたね!何とか言いな!この私生児の畜生め!」
一人の子供が棍棒で頭や体をバシバシと叩かれ、うめき声をあげていた。子供の着ているぼろぼろの衣は泥だらけで、顔は青ざめ、怯えた目をしている。手には紫がかった血痕がある。
家具の後ろに隠れようとして女中の木盆を振り払ってしまい、管家婆にまた怒りの声を上げさせた。子供はさっと飛び出して、命知らずにも婆を押しのけ、その顔を拳で殴ってかみついた。管家婆は絶叫を上げた。「人殺しーーー!」
声を聞いた屈強な馬夫が手に鋤を持ってやってきた。子供は後頭部を殴られて目の前が真っ暗になって気を失ったが、叩かれ続けて痛みで目を覚ました。叩かれた肩からは血が流れたが、襟首をつかまれて納屋に放り込まれ、鍵をかけられた。
「ワンタンはいかがかねーーー。」
巷内に老人の声が響き渡った。毎日夕暮れが過ぎた頃に老人は屋台をひいて町を歩き回る。
「段岭!」庭の外から子供の声がした。
その声で目が覚めた段岭は、鋤で肩を傷つけられ、掌は深い引っかき傷から血を滲ませながら、這いつくばって起き上がった。
「大丈夫なの?」外から子供の声が聞こえる。
段岭は喘ぎ、顔をしかめた。立っている気力もなく、ああっと声を出して座り込んだ。子供は返事をもらったと思い、去って行った。
彼はずるずると滑り落ちて横たわった。暗くじめじめした納屋で丸く縮こまり、天窓から灰色に曇った空を見上げた。雪の粉がひらひらと舞い散っている。そんな空一面の雲霧と飛雪の中、空の真ん中に星明かりが光った気がした。
空がだんだんと暗くなり、冷たく寂しい静けさに包まれた汝南城内では、たくさんの家々が温かな黄色い灯をともし、屋根の上は柔らかな雪の層に覆われていた。
ただ一人、段岭だけが納屋で震えていた。気が遠くなるほどおなかをすかせ、目の前の雑然とした景色を見ている。時には亡くなった母の両手を思い出し、時には段家夫人の錦繍を施した袍子を思い、時には管家婆の意地悪な顔を思い出した。
「ワンタンはいかがかねーーー。」
自分は何も盗んでいない。段岭はそう思いながら、手の中の二つの銅銭を握りしめた。
目の前は真っ暗だ。私は死ぬのかな?段岭の意識はあいまいになってきた。死は彼にとってなじみのないものではない。三日前も青橋の下で凍え死んだ乞食を見かけた。周りに人だかりがして、遺体は最後に板車にのせられ、乱葬崗に埋められた。
その日彼は他の子どもたちとわいわい楽しく城外に遊びに行った。そこで人々が筵で乞食の遺体をくるんで穴に埋めるところを見たのだった。その傍らにはもう一つ小さな穴があけてあった。今思えば、ひょっとしたら、自分が死んだら、あの乞食の隣に埋められるのかもしれない……。
夜が深まると段岭の体は寒くてガチガチと震えた。吐いた息が白くなって立ち上ったところに雪の花が舞い降りた。彼は空想してみた。雪が止み、目の前に丸い太陽が現れる。夏の日の朝のように、日の光が差し始める。
太陽が灯に変わり、納屋の扉がぎいっと音を立てて開かれ、灯の火が彼の顔を照らした。
「出てきな!」馬夫が乱暴に声をかけた。
「彼が段岭か」男の声が納屋の中に聞こえてきた。
地面に横たわっていた段岭は少し緊張して扉の向こうを見た。寒くて体が震えるが、何とか起き上がった。男は納屋に入って来ると、彼の前に膝をついて、詳細に彼の容貌を見回した。
「病気なのか?」男が尋ねた。段岭は意識がぼんやりしていた。虚影か幻覚を見ているようだ。男は薬を手に取り、段岭の口に入れると、彼を懐に抱きいれた。意識が遠のく中、男の匂いを感じた。男が歩くと振動が伝わる。道を行くごとにだんだんと体が温まってきた。
段岭の古い外套には穴が開いていて、中に縫い付けてあった芦の花が男の体にくっついた。
静かで暗い夜、灯火がゆらゆらと明暗する。
男は段岭を抱いて、半分暗く、半分灯に照らされた長廊を通り過ぎた。背後の道には芦花が舞い散った。廊下の両側にある温かな部屋から娘たちの笑い声が聞こえてくる。
大雪のサラサラという音と華やかな唄戯の声が一つになる。天地もだんだんと暖かく、また明るくなっていく。寒い冬も温かな春に、黒夜も白昼に。
天地は万物の逆旅にして、月日は百台の過客なり。
段岭はようやく意識を取り戻してきたが、息が苦しかった。
広間には灯が煌めいていた。段夫人は気だるげに長椅子にもたれ、山水の刺繍を手に持ち物思いに耽っていた。「夫人。」男が声をかけた。
段夫人は微笑みながら尋ねた。「この子の知り合いでしたか?」
「いいえ。」男はずっと段岭を抱きかかえたままだった。
段岭は先ほど飲んだ薬が喉を通り、おなかの中が少しずつ温まった気がした。気力も戻ってきたようだ。男の胸にもたれて、段夫人に顔を向けたが、目を合わせることはせず、視線は
床に敷かれた布団の花模様に落としていた。
「出生証はここにあります。」段夫人が再び言った。管家が紙を男に渡した。
段岭は体が小さく、顔色が悪く痩せていた。少し怖くなって抱えていた男の胸を押すと、男は彼を下におろした。段岭は彼の足にもたれて立ち、観察してみた。黒い袍子を身にまとい、武靴は少し湿って、腰に一枚の玉飾りをつけている。男は言った。「いくらですか。」
「元々段家ではこの子を引き取らなくてもよかったのですよ。あの子の母親が家に連れ帰ったのですわ。寒い雪の日でした。行く当てもなかったのでしょうね。いつか徳が得られるからと皆は言ったけれど、住み着いたっきりいつまでたってもそのままで。」
男は特に言い返しもせず、段夫人の双眸をじっと見て、答えを待った。
「そういうことで、あの子の母親が私に渡した手紙がここにあるのです。どうぞ、大人、ご覧になったら?」段夫人はゆっくりと息を吐いた。
管家がまた広げた紙を渡してきた。男は見るともなく見るとそれをしまった。
「ですが、私はあなたのお名前も存じ上げないでしょう。そんないい加減なことであなたにこの子を引き渡したら、あの世で段小婉に会った時に何と言えばいいかしら。そうでしょう?」男は相変わらず黙ったままだ。
段夫人は片袖を広げて、大げさに言った。「小婉ははっきりと言わなかったのだけど、相手はいなくなったから、今までのことはなかったことにすると言っていたのですよ。今日あなたがこの子を連れて行ったあとで、万が一、いつか誰かがまた父親に送り込まれたと言ってきたら、どう言えばいいのかしら。ねえ。」男は相変わらず何も言わない。
段夫人は彼に微笑みかけたが、目線は段岭の顔に向け、彼を手招きした。段岭は無意識に少し後退り、男の後ろに隠れて彼の袍の角をしっかりとつかんだ。
「ああ。大人、言いたいことがあれば、はっきり言ってほしいわ。」
「話などない。金ならある。いくらか言ってくれ。」男はついに口を開いた。
段夫人:「……。」
男は再び沈黙した。段夫人はその様子を見て、この男は養育債を支払うだけで、自分の身分も明かさなければ、この後どうするかも言わずに全て段家次第としている。
しばらく段夫人は男の顔色を伺っていた。男は懐に手を入れ数枚の銀票を取り出した。
「四百両よ。」段夫人がついに言い値をつけた。
男は一枚の銀票を指で引き出すと段夫人に渡した。
段岭は呼吸が止まった。この男は何をするつもりなのだろう?女中たちの話を思い出す。
冬の夜、山から子供を買いに降りて来る人がいるそうだ。山に連れ帰って妖怪の生贄にするためだ。彼は心から恐ろしくなった。
「私は行かない!やめて!やめて!」段岭は言った。
段岭は逃げようとして一歩踏み出したところで女中に耳たぶをつかまれ、引き裂かれるような痛みとともに戻された。「彼を放せ。」男は静かに言うと、段岭の肩をしっかりと手で押さえた。千鈞を超える力で段岭は全く動けなくなった。
管家が銀票を受け取り、段夫人に渡した。段夫人が眉をしかめると、男は言った。「調べなくて大丈夫だ。行くぞ。」「行かない!私は行かなーーーーい!」
段夫人は微笑みながら尋ねた。「こんな真っ暗闇にどこに行くのです?一晩泊まっていきませんか?」
段岭は声の限りに絶叫するので、男は彼を見て眉をよせた。「どうしたと言うのだ?」
「妖怪の生贄になるのは嫌だ。私を売らないで!私をーーー」段岭は卓の下に潜ろうしたが、男は素早く捕まえた。そして細長い指で段岭の腰を叩き、段岭は前のめりに倒れた。彼は段岭を抱き起すと、夫人の懐疑的な視線の中、彼を抱えて門を出て行った。
「怖がらなくていい。」男は段岭を腕に挟んで、低い声でそっと言った。「君を妖怪の生贄にはしないから。」
外に出ると、冷たい風に身を切られるようだ。小雪が顔に貼りついて来る。段岭は喉の奥に声が戻ってしまったように、口を開けても声が出なかった。
「私は郎俊侠(ランジュンシャア)。覚えたか?郎俊侠だ。」
「ワンタンはいかがかねーーー。」老人の声が悠然と聞こえてきた。
段岭のおなかがぐうっと鳴り、ワンタンを目で追わずにいられなかった。郎俊侠と名乗った男は足を止め、少し考えて、彼を下におろすと、銅銭を何枚か探り出して、ワンタン屋台の竹筒に入れた。ちゃらんと音がした。
姜恒は少し落ち着きを取り戻した。彼は誰だろう?なぜ自分を連れ出したのだろうか?
ワンタン屋台の黄色い灯の向こうに降り続く小雪が見えた。郎俊侠は段岭の背中を何度か押して、封穴を解いた。段岭がまた叫びそうになると、郎俊侠は、しっ!と言った。老人は湯気を上げる熱々のワンタンを彼の前に置いた。「食べなさい。」郎俊侠が言った。
段岭はもう何もかもどうでもよくなり、碗を取って喉をやけどするのも恐れず、立ったまま食べだした。新鮮な肉をたくさん包み込んだワンタンの上には胡麻と砕いた落花生がかかっている。油脂の小さな粒がつゆにとけこんでいて、香りがよく、碗の下の雪を溶かした。
段岭は食らいつくようにしてがつがつと食べた。飢えが恐怖に打ち勝っていた。一気につゆを飲み込んでいると、毛皮をかけられ、そのまま体を包み込まれた。
彼はワンタンの汁の最後の一滴まで飲み干すと、箸を降ろしてため息をついた。そして郎俊侠に顔をむけた。この男性は小麦色の肌に、絵の中で見た人のような高い鼻筋、深い両目をして、瞳には巷内の灯光と空一杯に舞う雪が映っていた。まっすぐな体にまとった黒い外袍には爪や牙を伸ばした怪物の刺繍がしてあり、手指は細長く美しい。腰には、唄戯舞台で見るような光輝く宝剣をつけている。
時々京城から絹の錦衣に身を包み、騎馬して町を堂々と歩く客を見たことがある。絹や綾羅紗に包まれて得意げな公子たちを、段岭は人々の中に混ざって興味深く見ていた。だが、彼らの誰もこの人ほど見目に優れていない。この人のどこがそんなに素敵なのか、段岭には表現できなかったが。ひょっとしたらこの郎俊侠という男は妖怪変化なのだろうか。この後牙をむきだして自分を丸のみにしてしまうのか。だが郎俊侠は目も向けずに彼の姿を見ると、
「食べ終えたか?ほかに何を食べたい?」と尋ねた。段岭は答えず、心の中ではどうやって彼の元から逃げ出そうかと考えていた。「食べ終わったなら行こう。」郎俊侠はまたそう言うと、段岭の手を牽こうとした。段岭は縮こまって、ワンタン売りの老人に救いを求める目線を送った。だが郎俊侠が段岭の手を握ると、段岭は振りほどくことなく、おとなしく一緒に歩いて行った。
「夫人にお答えします。男はあの私生児に巷でワンタンを食べさせました。」家来の一人が報告した。段夫人は上着を引っ張り、不安そうに眼を細めた。「誰かに後をつけさせて、私生児をどこに連れて行くのか調べさせなさい。」
汝南城内の家々には灯がともっていた。段岭の顔は寒さに赤く染まっていた。
郎俊侠に連れられ、冷たく湿った雪の上を裸足で歩いて行くと、町の中ほどにある翠楼の後ろにたどり着いた。郎俊侠はようやく段岭が靴を履いていないことに気づいた。彼を抱き上げ中庭に向かって口笛を吹くと、一頭の馬がゆっくりと出てきた。
「ここで待っていてくれ。少しやることがある。」郎俊侠は段岭を毛皮で包み、彼を馬に乗せて行ってしまった。段岭は馬の上から彼の様子を見ていた。郎俊侠は顔立ちが整っていて、目元が才走っている。まるで削り出された玉壁のようだ。髪にはまだ少し芦花がついていた。
心配しないようにという仕草をして、夜の闇の中に消えて行った。鷹が飛び立っていったように。
段岭の頭の中は疑問でいっぱいだ。いったいどんな人なんだろう?今どこに行ったのだろう?馬の背は高すぎて、足を折るのが怖くて飛び降りて逃げる気にはならなかった。馬に蹴られるのはもっと怖い。この見知らぬ人に運命を任せるべきか、自分で何とかするべきか、彼は何度も考えた。問題は、いったいどこに逃げられるということだ?生きるも死ぬも天に任せようと思った時に、人影がひらりと巷口から現れた。次の瞬間郎俊侠が鐙を踏んで馬に飛び乗った。
「ハァッ!」 (馬にかける声は、私の場合はこれ←で。)
大きな馬が青石板の道を踏んでいく。いななき声をあげて、小巷を馳せ、人っこ一人いない夜の汝南城を走った。郎俊侠の前に座った段岭は鼻をひくひくさせた。自分の服は湿った匂いがしたが、郎俊侠の服は乾いている。どうやら火で乾かしたようだ。腰のあたりからは焼餅の匂いもする。手綱を握る手の袖口が少しだけ焦げてもいた。確かさっきまでは焦げていなかったはずだ。さっきは何をしてきたのだろう?段岭はふとある故事を思い出した。
―――城外の黒い山谷に前の王朝での争いが発端で殺されかけた江湖の客がいるそうだ。山の中に百年以上隠れ住み、身代わりにできる子供が入って来るのを待っている。彼らは誰かに成りすます。それぞれがとても美しく、武功が高い。子供を見つけたら、墓場に連れて行って、恐ろしい顔を露出させて、子供の精気を吸い取るのだ。身代わり用の子供は墓場に横たえ、屍の皮をまとった妖怪は大手を振って人の世で楽しく暮らすのだという。
段岭はがたがたと震え、何度か馬を降りて逃げようと考えた。だがこんな高い馬の背から飛び降りたら足を挫くだろう。彼は妖怪ではないよね。段岭は妄想にとらわれ始めた。万が一、妖怪に精気を吸われそうになったらどうしようか?誰か他の人を見つけてやるか?いやいや……誰かを犠牲にするなんて、絶対にダメだ。
誰かが城門の下で待っていて、郎俊侠のために城門を開けた。駿馬は一路南に向かう。大雪が降る官道を飛ぶように馳せ、乱葬崗には行かず、黒山谷にも入って行かない。段岭は少し安心すると、振動のせいで眠くなってきて、郎俊侠の乾いた匂いのする体にもたれてゆっくりと眠りに落ちていった。
夢の中で、布の上に山々が描かれた線だけの戯画に一本の道を描いていく。羽毛のような大雪が積った山岳の青峰は墨のごとく、白い下地に筆を滑らせれば、山水墨画の中へと馬は呑み込まれていった。
ーーー
第3章 都に行く:
「朧八粥を二杯くれ。」
郎俊侠の声が聞えた。周りは温かな灯光に照らされている。段岭は眠くてまだ目が開けられない。うとうとしながら振り返ったが、郎俊侠に起こされた。
厩駅の客室で、給仕が朧八粥を二碗持ってきた。郎俊侠に渡されると段岭はまたぺろりと平らげて、きょろきょろしながらも、目の端で郎俊侠を盗み見た。
「もっと食べるか?」郎俊侠が尋ねた。段岭は不信な表情で彼を見た。郎俊侠は寝台に腰かけ、段岭は寝台に縮こまって、緊張していた。
郎俊侠は今まで子供の面倒をみたことがなく、表情も読み取れない。子供が好きそうな飴なども持ってきていない。考えた末、腰につけていた半月形の玉飾りを取って言った。「これをあげよう。」
半月形の玉飾りは透きとおって美しく、氷砂糖を切ったかのようだった。だが、段岭は受け取らず、玉飾りと郎俊侠の顔に順に視線を送った。
「欲しければ取りなさい。」郎俊侠が言った。言い方は優しいが声には何の感情もこもっていない。半月玉を指でつまんで、段岭にさしだす。段岭は不安そうに受け取り、何度も見た後、郎俊侠の顔に視線を移した。「あなたは誰なの?」その時ある人物が思い浮かんだ。
「私の……私の父さんなの?」
郎俊侠は何も言わなかった。彼の父親については色々聞いて来た。山に住む怪物だという人もいれば、乞食だと言う人もいる。とても富貴な人物で、いつか迎えに来てくれると言う人もいる。だが郎俊侠の答えは、「いいや、がっかりさせるが、私は違う。」だった。
段岭も違うだろうとは思っていたので、失望はしなかった。郎俊侠はしばらく何か考えてから、我にかえって、彼を横たわらせ、布団をかけてやった。「寝なさい。」
風雪がひゅうひゅうと聞こえてきた。汝南城からは既に四十里離れている。段岭は全身傷だらけだった。眠りに落ちると、叩かれる悪夢を見る。体がひきつり、時には叫び声をあげ、体の震えが止まらなくなった。郎俊侠は初め地面で寝ていたが、夜半に段岭が何度も悪夢にうなされるのを見て、彼の傍で寝ることにし、彼が手を伸ばすたびに暖かく大きな手でしっかりと握りしめてやった。そうしているうちに、ようやく段岭も落ち着いてきた。
翌日、郎俊侠はお湯を持ってこさせて段岭を沐浴させ、全身を拭いてやった。段岭は瘦せこけ、手も足もあざだらけだった。古傷が癒えないうちに上から新しい傷ができ、湯につかると刺すように痛んだ。痛みを何とか紛らわそうと段岭は玉飾りをいじって意識をそちらに向けた。
「あなたは私の父さんに遣わされたの?」
「しっ。」郎俊侠は唇の前に指を立てた。「聞いてはだめだ。どんなことも聞いてはいけない。後でゆっくりと教えてあげるから。誰かに聞かれたら、自分の姓は段、父の名は段晟だと答えなさい。」郎俊侠が言った。
「私達は上梓、段家の者で、君の父は上京にいる。西川との間を行商している。君は伯父の家に預けられていたが、大きくなったので、父親が私に連れてくるように言った。君を上京で学ばせるためだ。わかったか?」
郎俊侠は段岭に傷薬をつけてやり、単衣を着せた上に、少し大きめの貂の毛皮を重ね着させて座らせると、双眸を見つめた。段岭は半信半疑で郎俊侠と視線を交わしたが、しばらくしてからようやく頷いた。
「自分で一度言ってみなさい。」
「私の父の名は段晟。」
駿馬は川岸に沿って走って行く。郎俊侠は馬を降りると、凍った河の上で馬を牽いて、段岭と共に渡った。
「私は上梓、段家の人間です……。」段岭は繰り返した。
「上京に来たのは学ぶため……」段岭は眠くなって、馬の背で頭をゆらゆらさせた。
千里彼方の玉壁関では、李漸鴻が一歩一歩踏みしめながらなんとか前に進んでいた。
体中傷だらけで、つかまり歩く。あちこちの骨も折れている。身に着けているのは背に負った剣と首から下がる赤い紐だけだ。赤い紐には飾りがついている。真っ白く無傷の半月形の玉だ。
一陣の風が起こって、玉飾りを巻き上げ、暗闇にあたたかな光を放った。
はるかな天地の果てには半月玉の片割れがある。まるで強大な力で呼びよせようとしているようだ。鷹も超えぬ鮮卑山、魚も泳げぬ冬泉河。力は川岸へと呼び寄せる。これは絆であり、宿命の力だ。彼の魂の中に根付き、彼の血となって流れ、困難な時でも前進を促す。
風雪の中に何かが聞える。こちらに近づいてくるようだ。あれは荒野に群れ成す狼か、それとも破滅的な一陣の旋風か?
「奔霄!」李漸鴻は叫んだ。漆黒の体に白い脚先をした駿馬が雪を蹴散らし駆けてきた。
「ベンシャオ―――!」
戦馬の嘶き声を響かせ、李漸鴻に向かってきた。李漸鴻は手綱を牽いたところで気力が尽き、
身を翻して馬に乗るとその背に体を伏せた。
「行け!」李漸鴻は叫び、奔霄と共に雪の中に消えて行った。
渡河を終え、一路北上すると、沿道には次第に人家が見られるようになったが、気温はだんだん低くなっていく。郎俊侠は、段岭に、自分の身の上を話さないようにと々言い聞かせ、仮の身分を暗記させた。そのうえで上梓での生活についての話も覚えさせ、段岭はだんだんと怖がるのを忘れ、だんだんと傷の痛さも忘れていった。
段岭の悪夢も体の傷と同じように次第に治癒してきた。肩の傷口には瘡蓋ができ、瘡蓋もやがて取れて、淡い傷跡となったころ、この長い旅路もついに終わった。段岭は今まで見た中で最も繁栄した城市を目にした。
楼台の輝きが海に映り、衣馬軽肥は川の光を揺らす(留别曹南群官之江南 李白)
鮮卑山の西に夕日が落ち、果てなき広野に紅い光を投げた。錦川は帯のように城を囲み、凍った川面がきらめいていた。上京城は薄暮の中にそびえ立っている。
「ついた。」郎俊侠が段岭に言った。
段岭はパンパンに厚着している。本当に寒い旅路だった。彼は郎俊侠の懐に抱かれ、ともに馬の背から遠く上京城を眺めた。段岭は目を細めた。とても暖かく感じた。
上京に着いたのは夜になりかけた頃だ。城門は厳重に守られている。郎俊侠は文書を提出したが、守衛は段岭に注意を向けた。「どこから来たんだ?」守衛が尋ねた。
段岭は守衛をしかと見つめ、守衛も段岭に視線を置いた。
「父の名は段晟。私は上梓、段家の者です……。」段岭は暗記したことをすらすらと述べた。
守衛はいらいらと話を遮った。「二人の関係は?」段岭は郎俊侠を見た。
「彼の父の友人です。」郎俊侠は答えた。守衛は文書を隈なく調べ見て、最後にしぶしぶ彼らを通した。町の中は灯火がともって明るく、街道の両側には雪が積み重なっていた。
ちょうど年末で、路肩には灯と酒を手にした酔っ払いが、欄前には歌姫が琴を奏でて歌っていた。他にも酒場の外に灯りと酒を持って座ったり寝そべったりしている人たちがいる。
客引きする芸妓の色っぽい声が聞こえる。剣を佩いた武人が足を止めて見ている。ごてごてと着飾った豪商が飲み過ぎてよたよたと麺食屋台にぶつかった。馬車が凍った路面を通り過ぎる。華麗な高級馬車を通そうとして御者が大声で叫んでいる。まるで部屋ごと状況の街を四方八方へと移動するかのようだ。
繁華街を馬で駆け抜けるのは無理そうだと判断し、郎俊侠は段岭を馬に座らせたまま、自分は下馬して手綱を引っ張ることにした。段岭の顔はわずかな隙間を残してすっかり覆われっていたが、毛皮の帽子の下の僅かな切れ目から、好奇心いっぱいに目をきょろきょろさせていた。
巷の裏道に入ると郎俊侠は再び馬に乗り、雪花を巻き上げて暗くなった巷の中を馳せて行った。
嬌声は遠のいたが、通りには灯がともっている。静かな小巷の両側には大きな紅灯籠が高く掲げられている。聞こえるのは馬の蹄が凍った道を叩くガチガチという音だけだ。
小巷の奥は、たくさんの閑静な二階建て家屋に囲まれている。屋根の上まで灯籠が重ねられ、降り続く小雪でさえ、その温かな輝きの妨げにならない。そんな暗い巷の裏門で郎俊侠は段岭に「下りなさい。」と言った。
裏門の外には乞食が座っていた。郎俊侠は見るともなく見ると、銀のかけらを乞食の碗にカラカラと落とした。段岭は好奇の目で乞食を見たが、郎俊侠に前を向かされ、体の雪をはらって中に連れていかれた。郎俊侠は慣れた様子で花廊と中庭を通り過ぎ、側厢に入った。
途中では琴の音が聞えていた。偏厅に入ると郎俊侠はほっと息をついたように見えた。
「さあ、座って。お腹がすいたか?」
段岭は首を振った。郎俊侠は段岭を火炉の前にある小さな台に座らせると、片膝をついて、毛皮の上着や靴、耳当て付きの帽子を脱がせ、自分は彼の前にあぐらをかいて座った。眼差しには、ほんの少し優しさが見えた。奥底に隠されていたが、一瞬だけちらりと見えた。
「ここはあなたの家なの?」段岭は疑わし気に尋ねた。
郎俊侠は言った。「瓊花院という名の場所だ。しばらくはここに泊まって、何日かしたら、新しい家に連れて行く。」
段岭は、「何も聞いてはならない。」という郎俊侠の言葉に従い、道中でも極力何もきかないようにしていた。そのため疑問が心に積もってびくびくした兎のような気持だった。それでも表面上は物わかりのいい態度をとった。そうすれば逆に郎俊侠が自分から説明してくれるかもしれないと思ったからだ。「寒いか?」郎俊侠は再び尋ねると、冷え切った段岭の足を大きな手でつかんでさすってくれた。「君は体が弱いようだな。」
「もう来ないと思っていましたのに。」儚げな娘の声が、郎俊侠の後ろから聞こえてきた。
声の方に向け、段岭は首を伸ばした。刺繍を施した衣を身に着けた美しい娘が、戸口の向こうに現れた。後ろには何人かの女中を従えている。
「用事があって出ていた。」郎俊侠はろくに答えもせずに、段岭の腰帯を外し、横を向いて包みをあけ、乾いた衣服を取り出すと、外袍を着替えさせた。そして袍子を振り広げるついでに首をひねって娘の顔を見た。娘は部屋に入って来ると、段岭を見下ろした。
見られて落ち着かない気持ちになった段岭は眉をしかめた。娘は「あなたは誰?」と尋ねた。
段岭は座り直した。例の一文がよみがえる。『私は段岭、父の名は段晟...。』
だが何も言う前に、郎俊侠が代わりに答えた。「彼は段岭。こちらは丁姑娘だ。」
段岭は郎俊侠の教えた礼儀作法に従い、丁姑娘に抱拳すると彼女の様子を伺い見た。
娘の名は丁芝という。段岭に笑顔を見せ、「はじめまして、段公子。」と言った。
「北院のあの方はいらしたか?」郎俊侠は心ここにあらずといった感じで尋ねた。
「辺彊からの軍報は、将軍が例の崖で打ち負かして以来、もう三月も来ていませんよ。」
丁芝は傍らに座り婢女に命じた。「点心を取ってきて、段公子に差し上げなさい。」
それから丁芝は手ずから壷をとって茶を一服煎じた。郎俊侠に渡すと、彼は一口飲んで、
「生姜茶だ。寒気を払ってくれるよ。」と段岭に渡して飲ませた。
道中、段岭が飲み食いするものは、郎俊侠が先に試しておいしいとかまずいとか教えてくれていたので、段岭はすっかりそれに慣れていた。だがお茶を飲んでいると、丁芝は何かを考えているような表情で、美しく澄んだ双目をわずかに歪め、じっと彼の目から視線を話さなかった。しばらくすると、婢女が点心を持ってきた。どれも今まで段岭が見たこともなければ、匂いを嗅いだこともないものだ。彼の食べ方を見抜いたかのように郎俊侠は注意した。
「ゆっくり食べなさい。しばらくしたら夕飯になるから。」
この道中ずっと郎俊侠は言い続けた。何を食べる時も、がつがつ丸のみにしてはいけないと。
その食べ方は段岭の習慣になってしまっていたが、郎俊侠の言いつけに従わないわけにはいかず、その内、もう誰も自分の食べ物を取り上げないのだということがわかった。そこで、菓子を取ると、手に持ってゆっくりと味わった。
丁芝は静かに座っていた。庁内で何が起きようとも気にならないようだ。
食盒が届けられると、郎俊侠は席に着かせ、食べていいと合図した。丁芝は温めた酒瓶を持ってきて、郎俊侠の隣に正座し、彼に酌をした。(日本人みたい)
郎俊侠は杯を押し返して、「酒は飲まない方がいい。」と言った。
「先月朝貢した涼南大曲ですよ。一口くらいいかがです?夫人があなたがお戻りになった時のために特別に用意したものですのに。」丁芝が言った。郎俊侠はそれ以上断らず、一杯飲んだ。丁芝が再び注ぐと、また飲んだ。丁芝が三杯目を継ぐと、郎俊侠は飲み終えて、酒杯を裏にして卓上に置いた。郎俊侠が酒を飲む姿を段岭は瞬きもせずに見つめていた。
丁芝が段岭に注ごうとすると、郎俊侠は彼女の袖をつかんで、引き戻した。
「この子には飲ませるな。」丁芝は段岭に笑って見せ、仕方ないわねといった表情をした。段岭はすごく飲んでみたかったが、郎俊侠に従う気持ちが、飲みたい気持ちにうち勝った。
段岭は食事を終えると、ここはどういうところなのだろうという猜疑心を持たずにいられなかった。郎俊侠と娘はどういう関係なのか?心が揺れ動き、二人の様子を盗み見ながら、もっと何か話をしてほしいと思った。
今に至るまで、郎俊侠が、なぜ自分をここに連れてきたのか何も言っていないことを丁姑娘は知っているのだろうか?彼女はなぜ自分の生い立ちを尋ねてこないのだろう?
丁姑娘は時々段岭を見つめ、何か思うところがあるようだ。しばらくして段岭が箸をおくと、ようやく彼女は口を開いた。段岭は言葉が喉まで出てきた。
「食事は口に合ったかしら?」丁芝は尋ねた。
段岭は答えた。「今まで食べたことがなかったけど、おいしかった。」
丁芝は笑顔を見せ、婢女は食盒を片付けた。「それでは失礼します。」
「ああ。」郎俊侠が言った。
「今回上京には何日くらい滞在なさるの?」丁芝が尋ねた。
「住まいを見つけたら、もう出て行かない。」郎俊侠が答えた。
丁芝の目が輝いた気がした。そっと微笑むと婢女に言った。「大人と段公子を別院にお連れして。」
婢女は灯を持って前を歩き、郎俊侠は自分の狼の毛皮で段岭をくるむと抱き上げて、回廊を通り、翠竹に囲まれた別院に歩いて行った。あまり離れていない別の部屋から杯が割れるような音とともに、泥酔した男の罵り声が聞こえた。「きょろきょろしないで。」郎俊侠は段岭に言い聞かせた。そして段岭を抱えて部屋に入ると、ついて来た婢女に「帰っていい。」と言った。婢女は腰を折って「失礼します。」と言った。室内は暖かく香しかった。火盆は見当たらなかったが、充分暖かい。部屋の外で火を焚き地下に熱気を送っているのだった。
郎俊侠は段岭に口を漱がせた。段岭は眠くてたまらず、単衣姿で寝台に横たわった。郎俊侠は傍に座って、「明日は街歩きに連れて行ってやろう。」と言った。
「本当に?」段岭はまた目が覚めてきた。
「私は隣の部屋で寝ているから。」と郎俊侠は言った。
段岭はがっかりしたように郎俊侠の袖をひっぱった。郎俊侠は不思議そうに段岭を見たが、しばらくしてから理解した。―――一緒に寝てほしいのか。
上梓を出てから、郎俊侠はいつも一緒にいた。朝の食事も夜の就寝も。今郎俊侠が行ってしまったら、また怖くなってしまう。
「それじゃあ……」郎俊侠は一瞬ためらったが、「まあいい。付き合おう。」と言った。(このためらいは)
郎俊侠は単衣を脱いで壮健な胸板を現し、段岭の背に手をまわした。段岭は彼の力強い腕を枕にすると、すぐに瞼が重くなって眠りに落ちた。郎俊侠の体からは男性の肌の心地よい匂いがした。彼の外袍にくるまれるのに慣れていた段岭は、いだかれているような気持で眠りに落ち、悪夢を見なくなった。この日は色々なことを経験した。頭の中にたくさんの雑多な情報があふれ、そのせいでたくさん夢を見た。これでもかとばかりに次々に夢が現れる。
夜半過ぎに雪が止んだ。世界は静まり返っている。あまりにもたくさんの夢を見たせいで、段岭は目が覚め、寝返りを打った時、温かな掛布をつかんだ。となりにいた郎俊侠はいつの間にか消えていたが、彼の体温が残っていた。段岭は緊張してなすすべもなく、そっと寝台を下りて、扉を押した。隣の部屋から灯が漏れ出てきた。段岭は裸足で廊下を歩き、つま先立ちをして窓枠の向こうを見た。部屋は広くて明るく、半分には低くとばりが下ろされていた。郎俊侠は窓に背を向けて衣を広げ帯を解いていた。(一回脱いでまた着てまた脱ぐ?)
喉元で止めていた襟を外し、袍と帯を掛けた後、服を脱ぎ落し、寛闊な背中、美しい腰の線と引き締まった臀部をあらわした。余すところなく展せた男性らしい裸体は、肌肉を削ぎ落された戦馬のようだ。横を向いた時に、(おっとっと……)
段岭は息をのみ、心臓が跳ね上がった。帰ろうとして足で花瓶を転がしてしまった。
「誰だ?」郎俊侠が振り返った。
ーーー
第4章 学堂:
段岭は急いで逃げて行った。
郎俊侠はさっと外袍を羽織り、裸足のまま出てきた。段岭の部屋の扉がパタンと閉まる音がした。郎俊侠が扉を開けて入ってきた。段岭は寝台に横たわり、寝たふりをしていた。
郎俊侠は苦笑いし、水盆のところに行って布を湿らせると、外袍を床に脱ぎ捨てて、体を拭き始めた。段岭は薄眼を開けて、郎俊侠の動きを盗み見た。郎俊侠は体をひねって、躍動する情緒を落ち着かせるかのように、高く た、 を冷たく湿った布で包んで拭き、 せた。窓の外に人影が現れた。「もう寝る。そちらには行かぬ。」郎俊侠が小声で告げると、足音は遠のいて行った。
段岭は寝返りを打って壁の方に顔を向けた。しばらくすると郎俊侠が袴をはいて布団に入ってきた。段岭の背に胸があたる。段岭が振り向くと、郎俊侠は手を伸ばして腕枕をしてやった。段岭は安心感を取り戻して郎俊侠の胸に身を伏せ、眠りに落ちていった。
郎俊侠の素肌と体温、体から漂う心地よい香りのせいで、段岭は南方の冬に戻って行く夢を見た。熱い太陽に抱かれているようだった。
(哀れ郎俊侠。BL小説における貴重な直男なのに、娼館に泊まって子供に添い寝とは。)
その夜、西川では小雨がしとしとと降り続き、天地は雨に覆われていた。
灯火が窓の外の人影に当たり長廊に影を落とす。二つの人影が廊下をゆっくりと歩き、その後ろには二人の護衛がついている。
「二万の兵馬で囲い込んだのですが、逃げられました。」
「心配ない。既に網は張った。凉州路も東北路も封鎖してある。羽が生えて鮮卑山へ飛んで行きでもしない限り。」
「それで安心できますか?彼は長年塞外のあちこちで戦ってきて、地形を熟知しております。一旦山に入られたら、見つけることは不可能です。」
「今や上のお方は昏睡されて政にかかわれず、四皇子は病いがち、我ら二人が手を打ったからには、もう退路はない。例え彼が戻ってきたとしても、責任放棄の罪に問える。趙将軍、何をそんなに恐れておいでか?」
「あなたは!」
『将軍』と呼ばれた武装した人物は、南陳の支柱たる、天下兵馬大元帥趙奎その人だ。彼と肩を並べて歩く人物は紫色の官袍に身を包んだ一品大員で、身分はこの上なく高い。二人の影は長廊の外壁にのびていた。黙りこくった二人の後を、それぞれの護衛が武器を握りしめて黙ってついて行く。
左側の刺客は首に白虎と入れ墨されている。傘をかぶって顔を半分隠し、その下に現れた口元には笑みとも言えぬ笑みを浮かべている。
右側の護衛は体が大きく、九尺はある。目元を除き、全て覆い隠されている。手袋をつけ、風帽をかけて顔を隠している。鋭く暗い眼差しには何の感情も現れていない。
趙奎が冷ややかに言った。「すぐにでも誰かを遣って彼を捕えなければ。今は我らが明るい所にいて彼が暗がりにいますが、夜長ければ夢多し。遅くなれば変化が生じるかと。」
高貴な男は答えた。「玉壁関外には、もう我らが兵は送れない。今できるのは彼が自分から姿を現すのを待つことだけだ。」
趙奎はため息をついた。「彼が遼に身を投て、兵馬を借りて戻って来ることになれば、ことは今のように簡単には済まなくなるでしょうな。」
「遼帝は彼に兵は貸すまい。南院の方が既に手をまわしておる。上京に来る前に死ぬことになるはずだ。」貴人が言った。
「あなたは彼を甘く見過ぎています。」趙奎は雨に濡れる庭の方を向いた。鬢にはすでに白いものが混じっている。彼は貴人をじっと見て、一言一言はっきりと言った。
「李漸鴻の麾下には混血の男がおります。鮮卑と漢人の混血です。名前も来歴もわかりませんが、私が見たところ、あなたもその男をずっと見つけられずにいるはずです。足取りもつかめず彼の名を知る者さえいませんが、彼が李漸鴻が持つ最後の暗棋のはずです。」
「その話が本当なら、武独と倉流君は一度会ってみたいと思うのではないか?何と言っても今の世の中で君らの相手になる者は多くはないのだからな。その男のことを聞いたことがあるかね?」貴人が尋ねた。
背後に控えていた覆面の護衛が答えた。「名前は知りませんが、その男が無名客と呼ばれていることは知っています。悪行を尽くし、御しがたく、李漸鴻の命令など聞かぬはずです。」
趙奎が尋ねた。「悪行とはどんなことだ?」
覆面の護衛が答えた。「師門を裏切り、師父を殺し、同門を売り渡した。天理を受け入れず、行いは悪辣。口封じに手加減はせず、『喉を一突き、血が峰に届く』それが彼のやり方だと。」
「刺客としてはそれが尋常なのではないか。」貴人が言った。
「剣で一突きというのは、問答無用という意味ではありません。刺客は人殺しが仕事ですが、必要のない人間は殺さぬものです。この男は殺すべきでない人間さえも全く躊躇なく手にかけるのです。」覆面の男は声を潜めて言った。
「我が記憶に誤りがなければ、李漸鴻の手中には鎮河山があるはずだ。鎮山河があれば、その男も命令をきくだろう。」貴人が言った。覆面の男は「李漸鴻は鎮山河を持っており、その剣を持つことで全ての者に命令できます。」と言った。
「まあいい。」趙奎が話を終わらせ、后院は再び静まり返った。しばらくの後、趙奎が口を開いた。「武独(ウドウ)。」背後に控えていた傘をかぶった侍衛が応じた。
「今夜のうちに出立しろ。昼夜徹して李漸鴻を探し出せ。見つけても手は下すな。私が誰かをお前のところに向かわせる。事が済んだら、彼の首と剣を私の元に持って来い。」
侍衛は口角をほんの少し上げて拱手し、去って行った。
馬車が将軍府後門外の小道を離れ、濡れた石畳には遠くの灯が映っていた。
「お前は青鋒剣を見たことがあるか?」貴人が尋ねた。
「青鋒剣を見た者はみな死にます。」覆面の護衛は物思いに耽るようにしながら、馬に鞭をあて、貴人を乗せた馬車を走らせる。貴人は錦の座席に座り、何気ない調子で言ってみる。
「お前はどう思う?武独は無名客と比べてどうだね?」
覆面の護衛は答えた。「武独には気負いがあるが、無名客にはそれがありません。武独は勝ちにこだわり、負けたくない、譲れないと気に負っていますが、無名客にはそんなこだわりはありません。」
「こだわりがない?」
「人も物もどうでもいい。まさに請負刺客ですね。」覆面の護衛は淡々と言った。「人の命を取らんと欲する者は、まず自分の命を手放すものです。一度でも人を愛してしまえば、無自覚なうちに命を惜しむようになり、力を尽くせなくなる。そして負けてしまうのです。無名客に親しい人間がいないなら、殺しは名を上げるためでも褒賞のためでもない。もし殺人が好きなだけだとしたら、武独と比べて、わずかに分があるかもしれません。」
貴人が再び尋ねた。「お前と武独ならどうだ?」
覆面の護衛は悠然と言った。「一度やりあってみたいとは思っています。」
「残念ながらその機会はなさそうだ。」貴人が優雅に言った。覆面の護衛は答えなかった。
「それでは、お前が李漸鴻とやりあったらどうだ?」
「ユウーッ!」覆面の護衛は馬を停め、車の簾を開けて貴人に降りさせた。府門には「牧」と書かれた提灯が掲げてある。南陳の丞相:牧曠達。
「属下(私)、武独、無名客と鄭彦の四人が手を組めば、もしかしたら、三王様と一戦交えるのも可能かもしれません。」覆面の護衛が答えた。
次の日、太陽が果て無く照らし、雪に覆われた上京はまるで白玉を削って作られた町のようになった。瓊花院も仙境のように美しい。
婢女が朝食を持ってきた。「夫人が郎大人に、食事を終えられたら、お越しいただき話がしたいと言っております。」
「必要ない。」郎俊侠が答えた。「今日はやることがあり、時間がかかるだろうから、都合が悪い。青夫人には、ご厚意に感謝するとお伝え願いたい。」
婢女が出て行くと、段岭が尋ねた。「街歩きに連れて行ってくれるの?」
郎俊侠は頷いた。「外に出たらあまり話をしないように。」
段岭は、うん、と言いながら考えていた。夕べ自分は郎俊侠の邪魔をしたのではないだろうか。それに彼は隣の部屋で何をしていたのだろう。だけど、下手に聞くのはやめておこう。どうやら郎俊侠はもうあのことを忘れているようだし、朝食を終えたら、今まで通り、一緒に出掛けてくれるのだから。
外には馬車が停まっていた。車簾を巻き上げると、中には丁芝が座っていた。
「一晩泊まったと思ったら、もうどこかに行くのね。住まいを見つけてもう出て行かないとか言ってなかったかしら?お乗りなさいな。」
段岭の手を牽いていた郎俊侠は動きを止めたが、段岭はその手を引っ張った。早く行こう!
車に乗り込みながら、郎俊侠は答えた。「厚意に甘えてもいられない。まだやることがあるので。」丁芝は仕方なく車を降り、郎俊侠は段岭を町に連れて行った。
路上の様子に、段岭はたちまち目を奪われた。その頃の上京は北方の商業の中心地で、関外三城、四十一胡族がここで売買を行っていた。大遼皇太后の誕生日が近いということで、南陳から使節が祝いに来ていた。人型飴細工やら、珍宝、山でとれた薬草、簪や白粉などの店がいっぱいで、目が回るほどだ。
段岭は目には入った食べ物全てを食べてみたかった。中でも一番は、上梓にいた時から食べたかった驢打滾だ。郎俊侠はまず段岭に服を二着作らせ、書道具店で、文房具を買った。
「字が書けるの?」段岭は好奇心から尋ねた。店主は一つ一つ取り出してきた。端州の硯、徽州の墨、湖州の筆、宣州の紙。
「公子はお目が高い。」店主は笑顔で言った。「これは、昨年北から商人が買ってきた上物なのです。紙はまだ届いていません。すぐに十二束お届け致します。」
「遼人たちは気が散っているのでしょう。お祝いに気をとられて。明日の夕暮れまでに名堂に届けてください。」郎俊侠は気軽な口調で言った。
「高すぎるよ。」段岭は郎俊侠の懐具合を心配した。郎俊侠が支払ったのは、正に一財産だ。だが郎俊侠は言った。「書中自ずと黄金家屋への道有り、書中自ずと玉の如き美人得たり。書を読み文章を書く力は宝に勝る価値があるのだよ。」
「私は勉強をしに行くの?」段岭が尋ねた。
汝南で学堂に通う子供たちを見て、段岭はいつも羨ましくてたまらなかった。まさか自分が学童に勉強しに行かれる日が来るなんて!心の底から喜びが沸き上がり、感激のあまり、歩を止め、目を見開いて郎俊侠を見つめた。
「どうしたんだ?」
段岭の心に様々な思いがあふれた。「私はあなたにどうお返ししたらいい?」
郎俊侠は段岭を見た。かわいそうに思う気持ちもし、可愛く思う気持ちもあったが、最後には笑顔を浮かべることにして、真剣に答えた。「書を読み学ぶことは、正当な道理で、私にお返しなどしなくていい。いつか学んだことを生かすことが報いになる。」
文房具を買った後はたくさんの物を食べた。更に郎俊侠は段岭に手炉と、刺繍を施した小袋を買った。そして段岭の玉の片割れをそこに入れると内衣に付けて携帯できるようにした。
「これはどんな時でもなくしてはいけない。わかったね。」郎俊侠はそう言い聞かせた。
郎俊侠は、繁華街を出て、閑静な通りに段岭を連れて行った。通りに沿って白壁黒瓦の古びた建物が立ち並び、屋根の上には雪が層になって積っている。素朴な雰囲気だ。雪に覆われた松や柏のある園内から、子供たちの声が聞こえてきた。
子供の声を聞いて段岭はうきうきした。郎俊侠について来て以来、もうずいぶん同じ年頃の子供を見ていない。お行儀よくしていて、汝南城での泥まみれになって野原を駆けまわる風ではない。上京の子供たちは日ごろ何をして遊んでいるのだろう。
郎俊侠は段岭を園内に連れて行った。庭の雪がきれいに掃き清められているのを段岭は見た。自分より頭一つ大きい少年たちが三人、十歩離れた辺りに立っている。それぞれが矢を持って、少し離れたところにある壷に投げ入れていた。足音を聞いた少年たちが段岭に目をやった。段岭は少しどきどきして、郎俊侠に少し近寄った。郎俊侠は立ち止まらずに、そのまま内庁に入って行く。中には真っ白な髭の老人がおり、座ってお茶を飲んでいた。
「ここで少し待っていなさい。」郎俊侠が言った。
段岭はくすんだ青の袍子姿で、廊下に立っていた。
郎俊侠が入って行ったところから話声が聞こえてきた。段岭は少しぼんやりしていたが、柱の後ろから、少年が一人近づいて来て自分をじろじろ見ているのに気づいた。
彼は鐘の前で立ち止まった。庭園に子供たちがたくさん集まってきた。ほとんどが八、九才くらいだ。皆、遠くから段岭を見ながら、小声で何か言い合っている。その中の一人が彼と話をしようと近づいてきたが、一番背の高いあの少年に止められた。彼は鐘の下に立ち、段岭に尋ねた。「お前は誰だ?」
段岭は心の中で答えた。:『私は段岭。私の父は段晟……。』だが口をついて出ては来ない。
何か嫌な予感がしていた。段岭がびくびくしているのを見た子供たちが笑い出した。何がおかしいのかはわからなかったが、段岭は怒りを感じた。
「どこから来たんだ?」少年は鉄の棒を持って、手の中でパンパンと叩きながら近づいて来る。段岭は本能的に身をかわそうとしたが、少年は空いている方の手で彼の肩を押さえ、威圧的な態度で引き寄せ方に手を掛けた。そして鉄の棒を段岭の下あごに当てて顔を上げさせ、笑いものにするように尋ねた。「年はいくつだ?」
段岭は何度も逃れようとしたが、少年に押さえつけられて動けなかった。それから何とか押しのけられたが、離れることはできなかった。郎俊侠にここで待つようにと言われたのだ。ここにいるしかない。
「おや?」少年は頭一つ背が高く、北方人らしい身なりをして、狼皮の上着に狐の尾の帽子をかぶっている。青い瞳に浅黒い肌、まるで大人になりかけの狼の子のようだ。
「これは何だ?」少年が段岭の首元に手を伸ばし、布の小袋についた赤い紐を引っ張り出した。段岭はまた身を引いた。
「こっちに来いよ。」少年は、段岭がそろそろ耐えきれなくなってきたのを見て、綿花を叩くように、ぽんぽんと顔を叩くと、「聞いているだろう?しゃべれないのか?」と言った。
段岭は少年を見て拳をきつく握りしめた。目には怒りの炎が現れている。だが、少年の目から見れば、段岭などよくいる金持ちの坊ちゃんに過ぎず、一度でも棒で叩けば、大泣きして親に助けを求めそうに思えた。それなら棒を使う前にもう少しからかってやろうじゃないか……。
「これは何だよ?」少年は段岭の耳元に近づいて手を伸ばし、首にかかっている小袋を取ろうとした。耳元に近づき小声で言う。「さっき入って行ったのは親父か?それとも兄貴かな?ああ、稚児飼いの旦那かぁ?先生のところに話を持ってきたってわけだな?」
これには後ろにいた子供たちが大笑いした。段岭は小袋のひもが切れてしまわないように、少年が引っ張るに任せて、右へ左へと振り回されながらも小袋の紅紐を死守しようとした。
「ユーウゥ(停止の掛け声)!」少年は上手に御者の真似をした。「お前はロバだ。」
周りで様子を見ていた子供たちが一斉に大笑いした。段岭の顔は真っ赤になった。
少年はまた何か言おうとしたが、ふと段岭の拳が近づいて来たかと思うと、鼻筋が砕けるような痛みを感じた。彼は後ろに吹っ飛ばされて地面に倒れた。喧嘩が始まった。少年は鼻血を流したが、後に退かず、段岭めがけて突進してきた。小柄な段岭は腰の上を突かれて、回廊を飛び出し花壇に放り出された。周りで見物していた子供たちは大声で助けを求め、雪の中で殴りあう二人の周りを輪を描くように囲った。
段岭は顔を殴られ、胸を蹴られた。目から星が出た。少年は彼の体に跨って殴りつけ、首に血を垂らした。段岭は、目の前が暗くなってきたが、ありったけの力を尽くして少年の踝にしがみついて、思い切り彼をひっくり返した。そして狂犬のように襲い掛かると、少年の手にかみついた。周りは騒然となった。少年は痛みに叫び声をあげ、段岭の服をつかみ起こすと、彼の頭を銅鐘に思い切りぶつけた。ガン!と大きな音を立てて段岭は地面に崩れ落ちた。口、鼻、鼓膜、全てがキーーーンと鳴っていた。
―――
第5章 别离:
「やめろ!やめるんだ!」
騒ぎがようやく郎俊侠に届き、彼は一陣の風のごとく飛び込んできた。
(遅えよ。本当に四大刺客か?〇〇した〇〇を子供に覗かれたり。ここで段岭が死んだら話、5章で終わるじゃないか。)
大先生も後からすぐに来てしかりつけた。「すぐにやめるのだ!」
子供たちはさっと壁の向こうへと消え失せた。少年は逃げようとしたが、先生が怒り心頭で近づき、取り押さえた。郎俊侠は真っ青になって、段岭を抱き上げ、怪我の様子を調べた。
「なぜ叫ばなかったんだ?!」郎俊侠は怒った。段岭の性格を思い知らされた気がする。もし叫び声をあげていれば、何かあったと気づけたが、一言も声を上げないので、聞こえてくる音から、毬でも蹴って遊んでいるのだろうと思っていたのだ。段岭は左目を腫らし、狼狽しつつも郎俊侠に笑顔を向けた。
一時間後。
郎俊侠は段岭の顔を洗い、体や手に着いた泥を拭いてやった。
「大先生にお茶を差し上げなさい、さあ。」殴られたばかりの段岭の手は茶托を持つと震え、茶碗がカタカタと音を立てた。
「我が名堂に入学するなら、喧嘩っ早い性格は押さえておくようにしなさい。」
大先生が穏やかに諭した。「その性格を治せなければ、行きつく先は明らか。北院に入りびたりだろう。」
先生は段岭を見ていたが、出されたお茶を受け取らなかった。ずいぶん待ったが、何を言うべきかもわからず、先生が受け取らないならと、茶托を机に置いた。お茶がはねて先生の衣の袖にかかった。先生は色を変えてしかりつけた。「こらっ!」
「大先生。」郎俊侠はすぐに片膝をついて、先生に許しを求めた。「規則を知らないのは、私がきちんと教えなかったのが悪いのです。」
「頭を上げてよ。」何度も屈辱を受けた段岭は郎俊侠を引っ張った。彼に立ち上がってほしかった。さっきの少年の悪口が耳の奥で何度も響いていた。だが郎俊侠は段岭をしかった。「跪きなさい!さあほら、跪くんだ!」
段岭はしぶしぶ跪いた。先生は怒りを収め冷ややかに言った。「決まりを守れないなら、一度帰ってしっかり教えてからまた来てほしいものだ。機密扱いの子供に他国からの人質、決まりを守れないのはいったいどちらなんだ?」
郎俊侠が抗議しないので、段岭も言わないことにした。先生は口が乾いたようで、段岭が差し出した茶を飲んだ。「ここで学ぶからには扱いは一緒だ。またやったら追い出すからな。」
「大先生に感謝致します。」郎俊侠は肩の荷が下りたようで、再び段岭に三拝させた。段岭は納得いかない気持ちでしぶしぶ頭を下げると、郎俊侠について部屋を出た。
前院を歩いていると、あの少年が壁の前にひざまずき、壁に向かって反省させられていた。段岭は彼をじっと見て、少年も彼を一瞥した。その目は憤怒に満ちていた。
「どうして殴られたのに声を出さなかったのだ?」郎俊侠は眉をひそめ、瓊花院に戻ると段岭の顔を洗って薬をつけた。段岭が言った。「先に手を出したのは向こうだ。」(そうなの?)
郎俊侠は手拭いを洗いながら言った。「君を責めているのではない。戦って勝てないならなぜ逃げなかったのかと聞いているのだ。」
ああ、と段岭は答えた。
郎俊侠は忍耐強く言って聞かせた。「また君をからかう者がいたら、よく考えるのだ。勝てそうなら戦う。勝てなそうなら逃げなさい。君に替わって私が何とかする。命がけの戦いなどするものではない、わかったか?」(漸パパにも言ってやれ)
「うん。」と、段岭は言った。
室内は静まり返った。ふと、段岭が尋ねた。「あなたは強いの?私に戦い方を教えてよ。」
郎俊侠は手拭いを置いて、静かに段岭を見つめ、最後に言った。「いつか、君を嘲ったり、殺そうとする人が、とてもとてもたくさん現れるだろう。君が人殺しの攻夫を習ったとしても、この世にはこんなにたくさんの人がいる。一人一人殺したとして、最後はどうなる?」
段岭にはよくわからなくて、不思議そうに郎俊侠を見た。郎俊侠が再び言った。「君が学ぶのは書であって、それは道ということだ。いつか君が殺したいと思う人間は千にも万にもなるだろう。拳で向かって行けば、いつ終わるかも知れない。報いを受けさせたいと思ったら、規則に従い学ぶことだ。」郎俊侠は再び尋ねた。「わかったかい?」
段岭にはよくわからなかったが、頷くことにした。郎俊侠は段岭の背中を指でとんとんと叩いた。「今日のようなことはもう二度としないように。」うん、と段岭は答えた。
「今日から君は学堂に住むのだ。夕方私が君を送って行く。必要なものは買ったり借りたりしておかねば。」
段岭は心が突然どこかに行ってしまったような気がした。今の生活になってから、郎俊侠は彼の唯一の家族となっていた。それに、記憶をたどっても今までこんなに親切にしてくれた人は誰もいない。ついに我が家を見つけた気持ちでいたのに、もう別れなくてはならないのか?「あなたは?」段岭が尋ねた。
「まだやることがある。」郎俊侠が言った。「先生にはよく話しておいたから、毎月一日と十五日には、君に会いに行ける。その日は休みにして君に試験をして、すべてできていれば、遊びに連れて行こう。」
「行きたくないよ!」段岭が言った。
郎俊侠は動きを止めて、段岭を見た。厳しい表情だ。何も言われなくても段岭にはわかった。
――――わがままは許されないのだ。段岭は従わざるを得ない。つらくて目が潤んだ。
「君はいい子だ。いつか大事を成し遂げられる。」郎俊侠は淡々と言った。
「汝南を出て上梓を離れた。もう二度と飢えることもない。何を怖がることがある?以前とは全く違う。一人で勉強をしに行くだけだ。泣くことなど何もないだろう?」
郎俊侠は理解できないといった風に段岭を見ていた。何を怖がり悲しんでいるのだろう。道中ずっと段岭の考えを推し量ってきたが、いつも段岭は自分の考えの及ばない行動をとってきた。わんぱくだが、郎俊侠の前ではわがままを押さえている。汝南段家では、暗い薪小屋に何年も住まされていた。出てきてからは全てが安泰だったはずだ。―――学堂に行くだけで、なぜ狼の巣穴に放り込まれるような様子なのだろうか?
きっと子供と言うのはそういうものなのだろうと郎俊侠は結論付けた。誰も見向きもしなかった時には枯れかけていた蔦草が、誰かの注意を引いたことで、どんどん伸びていくようなものか。(何のこっちゃ。)
「苦中の苦を食すことで、人の上の人になれるのだよ。」郎俊侠はしばらく考えた末、この諺を彼に教えた。
夕暮れ時、再び雪が降り始めた。段岭はもうあの場所には行きたくなかったが、選択の余地はなかった。今までの人生で彼の意思を訪ねた人は誰もいなかったように思える。郎俊侠は物腰は柔らかでも心は断固としている。日ごろから口数が少なく、一旦何かを決めた時は、眠らぬ狼のように危険な気配を醸し出す。段岭が彼の言いつけに従わないそぶりを示せば、その気配はあふれ出る。形の無い手で魂を握りしめ、譲歩するまで離さない感じだ。どんなことでも一と言ったら、二ではないのだ。
翌日、郎俊侠は日用品を買い、名堂に学費を払ってから、東にある僻院に入って来た。
「丁芝のつてを使って君のことを看るよう頼んでおいた。瓊花院には名のある人たちも酒を飲みにくるのだ。彼女は人を使ってあの元人の子供に警告を与えた。今後問題を起こすことはないだろう。」
院内は毎日使用人が掃除をし、火を起こしていた。暖炉は壁についていて、瓊花院ほどは暖かくはない。食堂で一日二回の食事をする、鐘が鳴ったら集まると教えられた。郎俊侠からかてもらった碗と箸をきちんとしまってから部屋に戻る。段岭が座っている間に、郎俊侠は寝床を整えた。
「玉玦は肌身離さずつけておくように。」郎俊侠は何度も言いきかせる。「寝る時も枕の下に入れてなくさないようにし、起きたらすぐにつけなさい。」
段岭は何も言わず、目を赤くしていたが、郎俊侠は気づかなかった。
文房具は既に届けられ、名堂が保管していた。
郎俊侠は寝床を整え終えると、段岭と向かい合って座った。僻院に住んでいるのは段岭だけだ。暗くなってくると、使用人が灯をともしに来た。灯の中で静かに座っている郎俊侠は美しい彫刻のようだ。段岭も寝台に座ってぼんやりしていた。ほどなく学堂に三回鐘がなった。
郎俊侠は立ち上がると、「さあ、食事に行きなさい。碗と箸を忘れずにね。」と言った。段岭は碗箸を持って、郎俊侠について食堂に向かった。食堂前の小道で郎俊侠が言った。「私はここで帰るよ。来月の一日に迎えに行くからね。」
立ち尽くす段岭に郎俊侠が言った。「一人で食べに行きなさい。教えたことはみんな覚えているね。鐘の音が一度鳴ったらすぐに起きる。遅れてはいけないよ。初めの何日かは教えてくれる人がいるかもしれないが。」
郎俊侠は立ったまま、食堂に行くようにという仕草をしたが、段岭は動かなかった。二人は向かい合い、黙ったまま時間がたった。段岭は碗と箸を抱えて口を開き、何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。
しまいには痺れをきらした郎俊侠が自分から去って行った。きっぱりと身を翻したその後を段岭はついて行く。郎俊侠は振り返って見たが、もう留まるつもりはなく、急ぎ足に出て行く。段岭は碗と箸を抱えたまま、追いかける。学堂後門の外には守衛がいて段岭が出て行くのを止めた。段岭は門の中に立ったまま、郎俊侠を見つめた。目から涙がこぼれてきた。郎俊侠は頭を抱え、歩きながら振り返り言った。「戻りなさい!戻らないなら朔日に迎えに来ないぞ!」
段岭は仕方なく門内に留まった。郎俊侠は胸が痛んだが、それ以上留まるわけにはいかないと、ひらりと身を翻し門外に姿を消した。
「書を読み、学問を修め、いつか立派な官になるのです。」あの老人が段岭に言った。「戻りなさい、さあ。」段岭は振り返り、涙をぬぐいながら歩いた。空は暗くなり、学堂には黄色い灯籠に火がともされた。ずっと歩いて来て道がわからなくなったが、幸い先生たちが廊下の前を通り過ぎ、段岭が雫も凍る大雪の中、廊下に座って涙をぬぐっているのを見つけた。
「何をしている?!」大先生は段岭だとわからず、しかりつけた。「めそめそとこの世の終わりのように、いったいどうしたというのだ?!」段岭はすぐに立ち上がった。学長先生を怒らせたら、また郎俊侠に叱られてしまう。
「どこの家の子だ?」先生の一人が尋ねた。大先生はしばらくの間、段岭の顔をじっくり見て、ようやく思い出した。「ああ、あの来た途端に喧嘩した子か。喧嘩していた時にはそんなにしおらしくなかったようだが?さあ先生について行きなさい。」
先生は段岭を食堂まで連れて行ってくれた。子供たちは既に殆ど食べ終え、卓上はぐちゃぐちゃだった。使用人が段岭のために食事を用意し、段岭はきれいに食べきった。木碗と橋箱には名前が書いてあり、誰かが洗って片付けてくれた。段岭は一人で部屋に戻って床に就いた。
どこからか笛の音が聞えてきた。
笛の音は漂うように近づいたり離れたりとぎれとぎれに聞こえてくる。汝南城の黄昏の中の別れ唄のように、全てが夢の中であるかのように。
一月もの北への旅の間、段岭は段家での出来事を忘れていった。郎俊侠が近くにいることが彼の新たな生活が始まった証拠となった。だが、こうして静まり返った暗い室内にいて、ぱちぱちと薪の日がはぜる音を聞いていると、独りぼっちが身に沁み、段岭は眠ることができなかった。
―――目が覚めたら、再びあの暗い薪小屋にいるのではないだろうか。傷だらけの体と不安や恐怖の日々に。部屋の中には夢魔がいて、彼が眠りに落ち、意識が遠のいたら、千里のかなたにある汝南に引き戻そうとしているような気がしていた。
その時笛の音が聞えた。ゆっくりと途切れることなく、夢の中に無数の桃の花びらが飛び散る風景が見え、彼を眠りへと導いた。
郎俊侠は軒下に立ち、風帽には雪が積もっていた。彼はずっと黙ったまま、懐から、届けられることのなかった一通の手紙を取り出し、眉を寄せた。
小婉へ:
相観るが如く文を送らん。(見信如面:挨拶文的な)
文を持って来たのは私の手の者だ。あの時渡せなかった信用の証を送る。
南陳で私を陥れた者がおり、状況は急を要する。君のところに朝廷からの刺客が行かぬよう、この者と共に北に逃れてくれ。正月三日に上京にて会おう。
鴻
子の時、正月四日、李漸鴻は来なかった。
郎俊侠は瓊花院に戻って荷物を引き上げると、夜行服に身を包み、風帽で顔を覆った。
「今度はどこへ?」丁芝が扉の外に現れた。
「用をすませる。」郎俊侠はいい加減に答えた。
「あなたのために探しておいたわよ。巡司使の弟が彼のことを看てくれるわ。」
「家を探しておいてほしい。掃除はしなくていい。」郎俊侠は銀票を一枚出して置くと、文鎮を載せた。
「いつ頃帰るの?」丁芝が尋ねた。
「十五日だ。」郎俊侠が答えた。(朔日はどうなった?)
丁芝は部屋に入って来るとしばらく黙ってから口を開いた。「あなたが連れてきた子供はいったいどこから来たの?」
郎俊侠は黒い服に身を包み、風帽を目元まで下ろしている。すらりとした体で戸口に立ち、顔を覆った奥から輝く双眸で丁芝をしかと見つめた。手に持つ剣を親指で少し押すと鋭い刃が寒光を放った。
「南方からの報せでは、陳国皇帝は李漸鴻の兵権を取り上げたそうよ。」丁芝が言った。「武独が十八人の刺客を連れて北上した。李漸鴻を追跡するためでしょうね。あなたはもう李漸鴻には従わないと思っていたけど、あの子をずっと護衛してきたっていうことは……。」
郎俊侠はゆっくりと左手を上げ、丁芝は話を止めた。
「他に知っている者は?」郎俊侠が顔の覆いの奥から声を出した。鞘から出た剣を丁芝の首に当てる。鋭利な刃が丁芝の喉の上にある。
「私だけよ。」丁芝は眉をわずかに上げて顔を郎俊侠に向けて注視する。「手を下せば、秘密は永遠に保たれるわよ。」
郎俊侠はしばらく黙って思案していたが、それ以上剣を動かすことはなく、手をもどすと丁芝の横を通り過ぎた。そして彼女をちらりと見た。
「武独には気を付けて。」丁芝が囁いた。
郎俊侠はそれ以上話をせずに后院に出るとひらりと馬に乗ってマントを翻し疾走して行った。
段岭が目覚めた時、空はもう明るくなっていた。鐘の音がゴン、ゴン、ゴンと三度鳴った。一音ごとに急かされるようだ。外から使用人が声をかけた。「段坊ちゃま、朝読書の時間です。どうぞ。」
段岭は悪夢に苛まれることもなく、目覚めた時汝南に戻っていることもなかった。夕べの不安はどこかに消えており、郎俊侠の言いつけを思い出して、急いで顔を洗うと、子供たちが朝の読書をする中に加わった。
“天地玄黄,宇宙洪荒……”
“金生麗水,玉出昆網……”
“治本於農,務茲稼穡……”
段岭は一番後ろの席についた。子供たちに合わせて頭をゆすり、口真似をしようと努力したが、さっぱりだ。何を暗唱しているのかその内容も全くわからない。幸い以前に私塾の外で盗み聞きした時の言葉を思い出し、しばらくすると、一緒に読み上げることができるようになった。唱和が終わると、先生が絵と文の書かれた黄紙を配り、読み方の学習が始まった。
遅れて入学した段岭にとっては目の前に置かれた分厚い言葉の塊は難しすぎ、半分も読まないうちに集中力が途切れた。昨日喧嘩したあの男の子はどこにいるんだろう?
名堂は遼国が南征した際投降した漢人によって建てられた。蒙館、墨房、書文閣の三処に分かれていて、入学したての子供たちはまず蒙館で字を習う。字を全て覚えたら、試験を経て、墨房に進学し、経文など、より深い学習を行う。書文閣は遼の文章、漢の文章、西羌の文章を学び、作文し、六芸の修練もする。書文閣で学び終えた者は、名堂を出て、南枢密院下の辟雍館で五経を学ぶ。科挙を受けて仕官するためだ。
名堂に通う学生たちの進み具合はまちまちで、昨日の少年は墨房に在籍していて、段岭が彼を見かけたのはお昼ご飯の時だけだった。少年は長椅子に片足をかけていて、周りには誰も座ろうとしない。鉄の碗でご飯を食べながら、段岭を見ていた。
別の漢人少年が近くに座ってきて、段岭に声をかけた。「君の名前は段岭だよね?」
段岭は警戒しながらその漢族の少年をじっと見た。年は少しだけ上なだけのようだが、大人びて見える。上等な衣服の襟もとには金烏の刺繍が施され、右袖には青金石の留め具がついている。眉が墨のように濃く、唇が赤く歯が白い、正に貴族といった感じだ。
「ど……どうして知っているの?」段岭は尋ねた。
貴族の少年は段岭に向かって小声で告げた。「うちの兄さんが人に頼まれたんだ。私に君のことをしばらく見させて、いじめられないようにしてほしいって。」
「君の兄さんって?」
貴族の少年は答えず、昨日段岭と喧嘩をした少年の方を指さして言った。「あれは、布児赤金(ブアルチジン)家の者だ。あいつの父親は韓府の犬だから、もしまた君に嫌がらせをしてきたら、あそこにいる人に言いつけるといい。」
貴族の少年は近くにいた別の少し年上の少年を指さした。よく太って、優しそうで福福しいが一目を引く容姿ではない。だが、周りをたくさんの子供たちに囲まれていた。「あの韓公子に言えばいい。ブアルチジンの奴が君を困らせたら彼に助けを求めるんだ。」
段岭には意味不明だったが、彼の好意なのはわかった。貴族少年が尋ねた。「君の家は、南面官かい?それとも北面官なのかい?」
段岭は「わからない。」としか言えなかった。
「漢人?それとも遼人?」
段岭は答えた。「漢人だ。父の名は段晟。上梓で商いをしている。」
貴族の少年は頷いた。「商売人か。私の姓は蔡。名前は蔡閏(ツァイ・イェン/まあサイエンでも)だ。私の兄さんは上京の経巡司使で、名は蔡聞だ。私は漢人だし、韓公子も漢人だ。いじめられたら、私たちを呼ぶといい。まずはそこからだ。」
言い終えると蔡閏はそれ以上段岭への説明をせず、碗を持って行ってしまった。段岭に興味があるわけではなく、ただ長兄に与えられた任務を完了しただけのようだ。
段岭は食べ終えると少し昼寝をした。再び鐘が鳴り、気だるい冬の日、学童たちはそれぞれ席について、午後の学習である、字を書く練習を始めた。室内は火で暖められていて、誰もが眠くなりだした。宣紙を枕にして涎をたらす子供もいた。
「いっぱいになるまで字を書きなさい!紙を無駄にしてはなりません。」先生が穏やかに言った。
入学初日にして、色々な心配事は全て頭から消え失せた。段岭は得難い機会を十分に生かそうと、一生懸命に字を書いた。先生が近くを通りながら、居眠りしている子供の顔を戒尺で叩いた。子供は飛び起きると同時にわんわん泣き出した。まるで堤防が決壊したかのようだ。
それから先生に襟首を持ち上げられて、罰として廊下に立たされた。段岭はぶるっと震え、恐々としながらその子供を見た。もう眠気は襲ってこなかった。
一日、また一日と過ぎても、段岭が考えていたようなことな何も起こらなかった。あの少年は仕返ししに来ることはなく、蔡閏やほかの子供たちも彼に特に目を向けることもなかった。全てが規則通りに過ぎていき、自分の出身を訪ねたり、どうしてここに来たのかと尋ねる者もいなかった。なんだか段岭が庭の木の一本であるかのようにそこにいるのが当たり前な存在になっているようだ。
放課後、部屋でごろごろしていた段岭はふと、初めての夜に外から聞こえてきた笛の音のことを思い出した。あの笛の音はあの時一度聞こえただけだ。舞い上がるような曲調で、南方の花々が散り、花びらが風の中に舞っているようだった。希望や郷愁を感じさせ、あれを聞いた時のことを思うと、いつも先生に教えられたある詞を思い出した。
汝南では、そろそろ春が来た頃だろうか?
―――
非天さんの書く主人公たちの子供時代が、いつもかわいすぎて、もうBLとか覇権争いとかどうでもよくなる。子供時代の話だけでいいんじゃないかくらい、いつも感情移入してしまう。