非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 98-101

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第98章 拘束:

月が空の中ほどに上がった頃、中承殿内。

汁琮は武衣を脱ぎ、鏡の中の自分を見た。40歳を超えてから年齢を数えるのはやめた。油灯の暗い明かりの下で見ると、すでに両鬢に霜がおりている。国君の服を脱いだ容貌は服の引き立てを失い、さらに老いて見えた。

息子が成長し、父は老いる。そんな日が来るのを待っていた。時々鏡の中に別の人を見た気がする。1歳年上の兄だ。幽霊のように、いつも雍宮の中をさまよっていて、夜中に悪夢から目覚めさせる。

妃をとるべきなのかもしれない。太后が言うように、枕元にいつも誰かがいて、世話をしてくれる。そういう人が必要なのかもしれない。だが、ここ数年、彼は妃に対する興味さえ欠いていた。唯一自分が生きていることを感じさせることができるのは、略奪と征戦だけだ。人々を戦慄させ、彼の足元にひざまずかせる。人を生かすのも、死なせるのも、彼の一言で決まる。信じていたものを変えさせる。彼の英知に賛嘆させ、人を別人に変える。まるで泥人形を作るように。それは神になったような快感を与えた。いや、たとえ神でも、こうはいかないだろう。

雍国の国土、連綿と続く千里の険しい山、見渡す限りの平原の大地、その上で暮らす老若男女、鳥や獣も、すべて彼のものだ。彼の意志で生き、彼の意志に拘束されている。そして今、姜恒が金璽を持ってきた。彼は間もなく神州大地の天子になるだろう。

 

「王陛下、衛大人がいらっしゃいました」と侍女が小声で告げた。

「みんな下がるように。」汁琮が深夜に大臣を召喚することはめったにない。

衛卓が殿に入ってきた。彼の容貌は汁琮よりも老いていた。汁琅の死後、兵員を率いて、しっかりと彼の側に立ち、彼を新王として擁立したのは衛卓だった。まあ、当然と言えば当然だ。汁琅が死ねば、他に雍王になれる者はいなかったのだから。彼の忠誠心を汁琮は疑っていない。衛卓は彼がまだ王子だった時から、すでに側についていた古い功労者だった。

 

玉璧関でのあの夜、彼は天衣無縫の罠を仕掛けた。姜恒が太子霊から送られてきた刺客であることを指摘し、とっとと彼を殺してしまえば、彼の身分がどうであれ、いくら耿曙が死体を抱いて泣いたところで、すべてがうまくいくはずだった。心の大患を取り除き、太子霊に罪をなすりつければ、勢いに乗って鄭国にも開戦できる。一石三鳥の策だ。しかし、彼はよりによって、姜恒が本当に自分を暗殺しに来たとは思わなかった。事態は姜恒の剣で彼の手の内から切り離され、収拾のつかない局面に向かって行った。そして今、自分が最も恐れていることが起きてしまった。琉華殿で、彼は突然姜恒がなぜか、少しも耿淵に似ていないことに気づいた。それだけではない。自分が最も恐れる別の人物にそっくりだということにも気づいてしまったのだ。

 

「王陛下、」衛卓が来訪を告げた。

「君は彼が似ていると思うか。」汁琮の声は震えた。こんなに何かを恐れたのは何年ぶりだろう。衛卓は何も言わなかった。汁琮は「急に気づいたのだ。」と言った。

衛卓はしばらく黙った後、汁琮の質問に正面からは答えず、「姜晴の出産は、林胡の大シャーマンが自ら手伝ったそうです。」と言った。

「男の子だったな。確か汁炆と名付けられた。」

衛卓は頷いた。「遺体はあなた自身でご覧になったはずです。」

「あの時、君は殿外で待っていたな。つまり誰も出入りできなかった。」

「殿内には四人いました。姜晴、大シャーマンと弟子の烏洛候煌。ウロホウランは当時まだ7歳でした。」

「三人か。」汁琮は言った。

「それと赤ん坊です。」衛卓が答えた。

「烏洛候煌(=郎煌)はまだ生きている。」

衛卓はしばらく考え込んだ。「確かに少し似ています。太后は知っているのですか?」

「知らないだろう。さっきも言っていた。あの子は姜晴に似ていると。」

「だったら全て知っているのでは。どうされますか?証拠は何もありません。吾王、林胡の逆賊の言うことなど誰も信じません。それに七歳だった時の記憶など。」

汁琮は何も言わない。

衛卓が言った。「どちらにしろ、そうと決まったわけではありません。」

汁琮にはよくわかっていた。彼ほど衛卓のことを知っている人はいない。彼らは何年も一緒に生死を共にした間柄だ。汁琮が16歳の時、衛卓は27歳で、汁琮は彼から戦争のやり方を学んだ。師とも兄とも仰ぐ存在だ。陸冀は彼の支持者で、衛卓は彼のために朝局を安定させてくれていた。だが、陸冀には思う所が多い。所詮は文人だ。汁琮は文人を信じない。それが陸冀にこういう相談をしない理由だ。

「臣が思うには、」衛卓は考えた。「一番危険なのは、やはり太后でしょう。太后はもう界圭を東宮守衛にせず、あの青年に仕えさせることにしたと聞きました。」

「母が知っているはずがない。先入観かもしれないが、太后はあの子が好きではない。ましてあの年のことを、母は何も知らない。私の母だ。私にはわかる。界圭を遣したのは、彼を監視するためだろう。」

汁琮はこの数日間、姜太后の表現をよく思い出そうとしていた。まず半年前に姜恒が入宮した時、初めて会った太后は明らかに嫌悪感を示した。その後、姜恒は外遊歴に出た。太后は挨拶もせずに出て行ったことに怒りを覚えて、界圭に追いかけさせた。半年の間に姜恒について言及したことは、せいぜい宮中で飼っている犬について聞いたような、軽いものだった。今考えても、姜太后が少しでも何かに気づく様子はなかったと思う。母は何も知らなかった。一人の息子がもう一人の息子を毒殺したことも。姜晴が悲しみに暮れ、難産で死に、生まれた子供、雍国の正真正銘の後継者が、彼のせいで夭折したことも知らなかった。

「海東青が彼を認識したようにも見えるが。」汁琮は言った。

「王陛下、羽毛の畜生がなんの証拠になりましょうか?万が一、認識できたとしても、口を開いて語れますか?あれは汁淼を認識したようですから、本当に耿大人の息子なのかもしれません。」

汁琮の目つきは鋭くなった。そして衛卓を見た。衛卓は姜恒を排除したいはずだ。姜恒は灝城でやりすぎた。衛卓は結論を下していないように見えて、行間では意図的に話をある方向に導いていた。だが、すぐに気づいて、取り繕った。

「あの若者の国政議論にはある程度見どころがありました。子供のころから聖賢書を学んできた逸材でもあるとも言わざるを得ません。臣は彼が太子に忠誠心さえ持っていれば、使えるのではと思います。」衛卓は真剣な面持ちで言った。汁琮は答えた。「孤王は汁淼が彼に示す態度が気に入らない。あの子が来てから、汁淼の目に映るのは彼一人だけだ」

「だんだん変わっていくでしょう。」と衛卓は言った。「兄弟は何年も会っていなかったので、しばらく一緒にいたいのでしょう。ただ王陛下はよく考えなければなりません。彼をどう使うのか。おかしいと思うことがあれば、すぐに何とかすべきです。万が一にも太后に気づかせてはいけません…」

「うむ。彼はもう全てを差し出した。残りの日は、いてもいなくても、違いはない。」姜恒は彼の信頼を得るために、すでに今までに学んだことをもって貢献している。あとは東宮で法改正立案を作り出せば、それ以上は役に立たない。汁琮はそう考えた。

 

文官が多すぎるのだ。雍人は武をもって国を立てた。しかしどの王朝であろうと、最後にはゆっくりと文官集団の方に傾いていく。それは汁琮が最も見たくないことだ。この若僧は次には何をしだすか分からない。早く何とかしなければならない。

耿曙を傷つけない前提で、ひそかに人を派遣して彼を始末しよう。文官を一人暗殺するくらい簡単ではないか。

罪は雍国士族の頭にでもなすりつければいい。あるいは鄭国に濡れ衣を着せれば。

姜恒を殺した後、どうやって耿曙を慰めたらいいだろうか。

--天は哀れみ深い、いつかまた一緒になれる。世は浮き草のようなものだ。時には散り散りになることもある。恒児を偲ぶならば、彼の遺志を受け継ぎ、私のために神州を統一してくれ。

そう考えれば、玉璧関で殺さなかったのは、却ってよかったのかもしれない。

耿曙は不世出の軍事天才であり、さらに得がたいことに、彼の考えは単純だ。汁琮は彼を非常に重視している。必ずそばに残して、雍国のために力を尽くすようにさせなければならない。

わずかな間に、汁琮は今後の計画を考えた。少し指を動かすだけで、姜恒を殺すことなど簡単なことだ。

 

 

深夜、姜恒は急に少し寒気を感じた。

風が四方八方から吹き込み、凍えて目が覚めた。

「これはどこ?」姜恒は瞬時に警戒した。全身が縄でしっかり縛られており、広野の中の木の下に横たわっているのに気づいた。

月は千里を照らし、遠くから狼の遠吠えが聞こえてきた。姜恒は縛られたまま体を上げ、叫んだ。「助けて――!」

「叫ばないで。」界圭がそばに座り、酒を飲みながら、姜恒を見つめていた。「あなたの包みにあった迷香は本当によく効きますね。誰にも気づかれなかった。羅宣が作ってくれたのですか?」

姜恒:「……」

界圭は彼が眠っているうちに、落雁城からさらって縛り付けたのだ!

「何がしたいんだ?」姜恒は背中がぞっとした。

界圭は両手と足首を縛られた姜恒を木の下に置いていたが、彼の前まで来ると、きちんと両膝をついて、姜恒の前にひざまずいた。

月の光が姜恒の清楚な顔を照らしていた。界圭は手を伸ばし、姜恒の前髪をかきあげ、横顔を手で覆い、じっと彼を見ていた。

姜恒:………………

 

意識が少しはっきりしてきた。信じがたいことだが、界圭は自分を誘拐したのだ……!彼は何をしたいのか。自分を殺して誰かの仇を討つのか。いや、それなら旅先でいつでも手を下すことができたはずだ。そこまで考えた姜恒は、少し口調をやわらげた。

「ねえ……縄を解いてよ。あなたは、…どうして?太后がやらせたの?」

「いいえ」界圭は近づいてきて、姜恒の首筋を片手で押さえると、双眸を見つめ、耳元で囁いた。「私自身の心が、です。」

気が狂っている!

「どうして?」姜恒は横から界圭の目を見ようとしたが、界圭は酒気を帯びていた。

姜恒は真剣になった。「どうして、界圭、教えて、私を放して、私は逃げないから。」「本当ですか?」目がぼんやりしていている。容貌は相変わらず、縦横に交錯した傷跡によって醜かった。ふと思った。界圭には言いたいことがたくさんあって、ことは自分が思っているほど簡単ではないのかもしれない。

 

姜恒は頷いた。界圭は2本の剣を手にし、縄を切った。

彼は片手をあげて、姜恒が突然逃げ出しても捕まえられるように準備していた。姜恒も多少は武芸ができる。東蘭山では油断した結果、彼に計られた。

姜恒は逃げず、ただ界圭の手を握った。その瞬間、月光の陰で、界圭の顔に水の痕が現れたのを見たような気がした。

「どうしたの?」姜恒はますます疑問を募らせ、「教えて、界圭。」と言った。

「連れて行きたい、行きますか?」

「どこへ行くっていうの?」姜恒は唖然とした。

「地の果てに行く。他に誰もいない、私とあなただけの場所に行くのです。私はあなたを守ると約束しました。それをしなければなりません。」

姜恒「……………」

 

彼にそう言ったのはこれで3人目だ。1人目は耿曙、2人目は羅宣、3人目が界圭だ。

姜恒は真剣に「ありえない」と答えた。

界圭は「どうして?」と首を傾げた。

「理由は三つ。兄さん、大雍、そして神州一千万人の民のため。」

「そうですね」界圭は感傷的に笑った。「それが答えです。あなたたちの命はもうご本人のものではありません。誰のものでもありません。」

姜恒は何か少し分かりかけた気がした。

「もし誰かがあなたを殺そうとしたら?」

これでわかった。界圭はきっと何かを聞いたに違いない。旅先で、罪を犯した人をたくさん見つけすぎた。雍国朝廷の大臣の多くが彼を目の敵にしている。さらに役人は彼が手紙を出したことでひどい怒りを受けて、見せしめに車裂きにされた。その仲間は機会があれば、姜恒を見逃すことはないだろう。

彼の本意はそうではなかった。軍資金を横領した人がいても、死罪ではないはずだった。だが汁琮は殺した。彼の朝廷は姜恒の前で顔を失った。その怒りは倍になって燃え上がった。死んだ人たちは、汁琮に復讐することはできない。矛先は姜恒に向く。

「父を仇とする人だって少なくはなかったでしょう。」と姜恒は言った。「何を怖がることがあるかな?」南方諸国に正体を知られれば、見逃すことはありえない。刺客を遣して秘密裏に殺害するかもしれない。姜恒はとっくに慣れっこだった。

界圭は相変わらずひざまずいている。姜恒は彼のあごをさわった。界圭は顔を背けず、月に照らされた平原を見た。「あなたはあなたのお父さんの息子で、あなたのお父さんは大雍のために死んだ。あなたはもちろん彼の遺志を受け継いでいる。私はあなたが行かないとわかっています。ただ私はあきらめられない。もう一度はっきり拒絶して下さい。」

姜恒は完全に理解した。この刺客は、父の世代の縁で、彼を深く愛している。この危険な状況から逃れさせようとしている。だが彼の敵は国内だけではない。天下全体が、彼と耿曙の仇なのだ。

「いくらがんばっても、あなたにあるべき報いは得られないのか。あなたが大雍のためにこんなに多くの心血を払っても、あなたのことを知っている人はいないし、どれだけの人があなたを殺しに来るかもわからない。それでいいんですか。」

姜恒は笑って界圭を揺さぶった。「別に気にしない。世の中には生死や名誉よりも大切なことがあるから。それに、あなたが私を守ってくれるんでしょう。」

「いつかあなたを守れなくなるのが心配です。」と界圭は真剣に答えた。

「兄はそう言ったことがない」と姜恒は言った。

「うん」界圭は言った。「私が死ぬ日まで待って……」

「しっ、」姜恒は界圭を制止した。「あなたは死なない、私も死なない、だからあなたも死なないんです。」

界圭は考えていたが、イライラしてきたようだ。「旅先から去る前に決心したんです。あなたが何と言おうと、私はあなたを中原に縛り付けて出られないようにしようと。それなのにあんな騒ぎを起こされては、私にはどうにもできません。」

姜恒真剣に言った。「そんなことしたら、私がどれだけあなたを憎むかわかっているはずだ。」

「私はどうでもいい」と界圭は言った。

「誰かがあなたの使命を奪ったらと考えてみて。」と姜恒は言った。

最後の言葉は徹底的に界圭の琴線に触れた。「いいですよ。」界圭はため息をついて、「わかりました」と言った。

姜恒は立ち上がって、「王宮に帰ろう。」と言った。彼の手足はまだ少しひりひりした。これはいったい何なのか。雍宮で寝ていたら、自分の護衛に縛られて郊外の野嶺に連れて来られるとは。

界圭は「あなたを背負っていきますね。この酒は強すぎる。」

「やっと、酔いが覚めた?もう一度聞くけど、太后がやらせたの?」

「いいえ。私がやってはおかしいですか?」

「誰が私を殺そうとしているの?」姜恒は言った。界圭は自分の頭を撫でた。

「帰ることにしたからには、心配する必要はありません。いくつかのことは、あなたはまだ知らないほうがいいです。」と言った。

 

「だから酒はあまり飲まない方がいい。」姜恒は界圭に背追わせず、ゆっくりと歩いていた。「今は知らないということは、いつまでも知らないということではない……。」

「いつかわかります……。」二人の姿は少し前と後ろになったまま、明るい月の下でだんだん遠くなって行った。

 

 

 

第99章 変法案:

翌日、姜恒は寝不足であくびをしていた。昨夜少し風邪を引いたようで、くしゃみも出る。耿曙は一晩中よく眠っていた。数ヶ月間、めったに自分の寝台で寝られなかったせいか、熟睡し、姜恒のところに行くのをすっかり忘れてしまった。(羅宣の薬だもん)そのため少し後ろめたさを感じていた。「お前はいつも布団をはぐから。だめだ、今晩は俺が移って来ないと。」

姜恒はそばにいた界圭をにらんだ。『あなたのせいだからね。』

「兄さんは仕事に行かなければだめでしょう。」姜恒と耿曙は部屋で朝ご飯を食べた後で、長い廊下を歩いていた。「以前洛陽にいた時だって、あなたが毎日部屋にいたことはなかったのに。あなたの玉璧関は?」耿曙は寝すぎて肩や首が痛く、しばらく動けなかった。姜恒も頭が痛くなった。今日から、彼は東宮に行き、太子瀧の政務処理に協力することになっていた。

 

「昨日は夜中に、何をしに出て行ったの?」汁綾は曾宇と話していたところに、3人が来たのを見て、姜恒に尋ねた。姜恒は「月を見に行きました。」と答えた。

昨夜、界圭にさらわれて、城市外に連れ出されたことは誰も知らないはずだ。汁綾は知っていたのか。宮内で起きる一挙一動も彼女の目から隠すことはできないようだ。汁綾が書き写した冊子を投げてきた。姜恒は目を通したが、何か所か書き換えられていた。汁綾が自分を守るためにしたのだろう。明らかにすべきでない話もいくつかあったからだ。

「汁淼、一緒に来なさい。」汁綾が耿曙に言った。

耿曙は驚いて「何のためにですか?」と言った。

「さあ、どう思う?!」汁綾の声が少し大きくなった。お叱りを受けそうだ。姜恒は彼を押して、さっさとついて行かせた。

東宮に赴任した最初の日だ。太子瀧はあくびをしていた。目を覚ましたばかりで、宮人は殿内を掃除し、寒くなってきたので、火鉢を置いていた。そこへ姜恒が到着した。

鄭国貯君、太子霊宮では門客だった。前回役人として働いたのは5年前、洛陽でだった。

「こんなに早く来たの?」と太子瀧が言った。「私はまだ、君を朝食に誘おうかと思っていたのに。」

姜恒は太子瀧の席下に並べられた座席を見た。東宮の腹心構成員は全部で14人。この14人が、汁琮が退位した後の雍王朝廷の権臣になるのだろう。太子は真ん中、3段目の高台に座り、左側は太子太傅の陸冀、太子少傅の曾嶸、太子少師の周游などの文官、右側は耿曙など武官の席だった。

「ここに座って」太子瀧は自分のそばに斜めに置かれた机を指して彼の席を教えた。

姜恒は待遇の高さに驚いた。彼の席はすべての文武官の上に置かれていた。太子瀧のそばで、2段目に位置していた。

「父王が指定したんだ。」と太子瀧は笑う。「座って、あまり規則にこだわらなくていい。」

姜恒は頷いたが座らなかった。「新法案巻はどこですか?」

太子瀧は食盒を開けて朝食を取り始めた。「東側の棚の上。」

姜恒は太子瀧に目をやった。食盒の中身は二つ三つの小皿に十月に食べる団子だけだ。雍国王室の生活というのは南方四国とくらべたら、質素としか形容できない。北方は気温が低く凍てついている。物資も乏しい。長年中原へ思いをつのらせるのもわかる気がする。

「どうかした?」太子瀧は姜恒の表情を見て怪訝に思った。

「いえ、案件が皆ずいぶん散らばっていますね。」姜恒は苦笑した。

太子瀧は少し気まずい思いをした。姜恒はできれば東宮全体の蔵巻の棚を押し倒して、一から並べなおしたくなった。「左相にもそう言われる。私が悪いんだ。」

それぞれの政令には朝廷部門の意見と東宮の承認がいる。そこに陸冀と管魏が審査意見をつけ、汁琮が「既読」をつける。送り返されたものに、東宮でくどくどと執行提案をつける。各人が奏章に1、2句を付し、左右丞相が再検閲し、汁琮が再承認する。

奏巻を振り開くと、まるで千里江山図のように長い。

姜恒は「流れを簡略化しなければ。ちょっと考えてみます。」と言った。

太子瀧は「伯母上も悠長すぎると言っている。」と言った。

これは雍地の伝統だ。雍侯が落雁に建国した時には、これでよかった。各方面の提案を考慮する必要があったからだ。しかし今の雍の国土と政務は、遠い昔とは全く違う。古い方法をそのまま使えば、ただ時機を逃すだけだ。

 

東宮の幕僚が続々とやって来た。人数は鄭国より少ないが、役職がものものしい。入内すると先ず太子瀧に拝礼した。太子瀧は食べかけの食盒をしまった。姜恒は書巻を抱いて、自分の席に着いた。

「昨日、琉華殿で会っているから、姜太史のことはみなご存じですね。」太子瀧が言った。姜恒は本の中から頭を上げて、みなに拱手した。陸冀の席は空席だ。右相は東宮に来ることは少ない。幕僚の首席はもちろん曾嶸だ。曾嶸は普段通りの表情で、笑顔を向けてきた。姜恒の高待遇に不満はないようだ。

太子瀧:「本日より、東宮は春に交付される変法の準備に入ります。期間は三か月。初項、決議、再考の手順を踏みます。春までに行うことは多く、事務は繁忙します。卿候各位の尽力を願います。」

 

太子滝の話はいつも穏やかだ。汁琮のような「必ず成功させなければならない」という勢いはないが、幕僚たちに従わぬ者はいない。

曾嶸は「昨日姜大人の話を聞いて、多くのことを考えさせられました。夜通し考えましたが、ことは千頭万緒で、どこから話したらいいか分かりません。」と言った。

周游は代国で姜恒に任務を妨害されたことに今でも不満がある。姜恒の東宮での立場は、曾、周、二家と同じ高さなので手を出しにくいが、耿曙がいない時なら、彼に嫌がらせの一言くらい言ってもいいだろう。そこで周游は笑いながら言った。「姜大人にはもう何か考えがあるのではないですか。半年も遊歴してきたのだから、旅先で全て準備できたでしょう。」

例え笑いたくても笑う者はいない。もし姜恒が本当に変法の原案を出してきたらどうする?出る杭は打たれる。弾圧されたくはない。

だが、姜恒は平然と言った。「いいえ。各地への歴訪は大人各位も経験されているはずのことですから。私の場合は、この機会を利用して、我が父が生前すごしてきたこの国を見て回りたかったというのもあるのですが。」

それを聞いた者たちは突然、これまでずっと目を向けて来なかったある事実を思い出した。姜恒は太史官である前に、耿淵の息子というもう一つの身分を持っているのだ。耿曙は王室に養子として入った。姜恒は正真正銘、耿家の唯一の跡継ぎで、名義上の嫡男でもある。

雍国四大家、耿、衛、周、曾はかつて、侯を封じた士大夫家族だ。耿家は子孫に恵まれず封地もないが名門だ。さらに母の姜昭は、姜太后の出身でもある越地の大貴族だ。耿家は封地を持たぬ分、王族とのつながりは、他三家の上にある。

まして耿淵は「国士」であっても、雍国朝野には報いる術がなく、功労は子孫に継承させることしかできない。例え姜恒がぼんくらであったとしても、汁氏は彼を侯に封じ、封地を画し、代々彼の子孫を養わなければならないのだ。

姜恒は、出身を強調しないのは振りかざしたくないからで、ここの誰よりも地位が低くはないことを仄めかしたのだ。朝臣はこの半年間、姜恒に振り回されてうっかりしていた。彼個人の名声があまりにも大きいため、みな一時彼の身分を忘れていたのだ。

 

曾嶸は彼に対する父の評価を思い出した。何としても姜恒とうまくやれ、決して敵になるな。万が一敵対してしまった時には手段を選ばずに彼を排除せねば、結果は想像にたえない。しかし、姜恒は今のところ、他の士族に対抗する意思はないようだ。彼らは少なくとも今は盟友であり、同じ船の上にいる。

「それでは姜大人はこれについてどう思いますか」と曾嶸は言った。年若い文官の一人が笑い出した。「姜大人はもう提案している。姜大人は苦労をいとわないらしいからな。」姜恒はその若者を見た。卓上の名牌には「牛珉」とある。普段の議事は名牌を置かない。お互いに知り合いだからだ。姜恒のために太子瀧が手配してくれたのだ。

 

「牛大人の言うとおりです」姜恒は自分が持ってきた紙の巻物を広げた。「私も真剣に考えました。法を変える細部は、千頭万緒。一を引いて全体を動かすことは、つまり、誰もが別々に草案したものを、一つ一つ論じることができるわけではありません。時間と労力がかかるだけでなく、意見の相違をからです。先日、細則から新法を16則に分けて、政務定款、育才、税改革、軍務、屯田、工務…」

全員が首を伸ばして、姜恒の手の中の薄い紙を見た。姜恒はそれを太子瀧に渡した。

「……商業貿易、外交、族内務、外族内務、外族外務など」姜恒は言った。

「一人一項分担して、初稿があがったら持って来てみんなで討論して決定するというやり方はいかがですか?宜しければまず本日はそれについて話し合いましょう。」

太子瀧は変法総網を受け取った。ほとんどの項目には、東宮幕僚の二名の名前が書いてあった。彼はその意味が分からず、姜恒を見ると、彼は目で合図をした。

 

曾嶸が「姜大人のやり方はいいと思いますが、すべてを一人に任れば、思わぬ問題が出るのではないでしょうか。」と言うと、姜恒は「曾大人がおっしゃる意味は?」と聞き返した。曾嶸は傍にいた周游に目をやった。周游は明らかに真剣になっている。彼はいつも家柄を最も重視する。姜恒が耿家の後裔であることを思い出すと、彼に対する敵意は弱まった。まるで彼も「自分たちの側の者」になったかのようだ。

「1つの提案には、少なくとも2人で協力しあって、相互に審査すべきです。」周游が言った。

太子瀧「……………………」

太子瀧は驚いて笑った。姜恒は事前に幕僚たちの考えを読んでいたのだ!

「周大人のおっしゃるとおりですね。私が迂闊でした。」姜恒はほほ笑んだ。

周游はうなずいた。「一人が主で、一人が補助。補助の者は審査を担当し、提案に責任を持つ。」みな、それがいいと言った。

太子瀧は巻を見た。「外交」の項には周游の名前があり、その下には姜恒とある。

太子瀧は言った。「それでは私が各項を読みあげるので、各位のご意向をお教え下さい。」

周游が笑いながら言った。「私は先に外交を取りたいです。姜大人は私にご指南いただけませんか。」姜恒は「勿論です。」と笑った。

そこで外交面の改革については、周游を主とし、姜恒を補佐とした。

「政務規約」太子瀧は軽く「うん」と言った。主事者の名前が書かれた場所は空いていて、下には内廷主務、遅潦という名の役人がついていた。

「殿下以外に適任者はいません」と曾嶸が言った。

「そうですね。そうだと思います。」太子瀧は笑った。

遅潦は最後尾の席に座っていた。東宮と朝廷の間の政務報告を担当している。「私が太子を補佐させていただきましょう。」と彼は言った。太子瀧は自分の名前をつけた。

「育才は?」太子瀧が言った。上の「白奐」の二文字を見ながら、声を出さずに東宮の臣下たちを眺めていた。白奐が手を上げて「私はこの項をやりたいです。」と言った。曾嶸が手を上げた。「私が白兄を補佐します。」

太子瀧はうなずいて順番に呼んでいった。軍外務は耿曙が任された。それぞれの項目の主、補助の人は、すべて姜恒の予想通りだった。議定案を前にして、全て規則通りに手配された。さらに太子瀧を笑わせたのは、まだ変法の総綱を見たことがない東宮の幕僚たちが、すべて自発的に提案したことだ。

変法案作りには、内情が複雑に絡み合い、利害も絡み合う。まずは嫌疑を避ける必要がある。だがそれ以外にも、寒族、士大夫、王族、役人など各方面がそれぞれの利益を勝ち取り、互いに牽制し、均衡を取る必要がある。姜恒は意外にもすべて事前に予想していたのだ!曾嶸は『税金改革』を取った。最も重要な項の一つで、姜恒でも難しい。地主の数は多く、うまくやる必要がある。さもなくば改革は難航するだろう。

「外族外務」と太子瀧。

「私がやりましょう。」姜恒は言った。「殿下には私の補助をお願いします。」

太子瀧は喜んでうなずいた。16項は担当が決まった。残りは“外族内務”と“商業貿易”だ。姜恒は誰にふり分けるか書いていない。

「外族外務が解決すれば、内務も自然に解決できます。商業貿易は、東宮外で人選し、殿下はそれを最後に解決させるのはどうでしょうか。」

「いいですよ。」太子瀧は半日ですべての任務をふり分け肩の荷が下りた。昨夜も悩んでいたのだ。変法は重要だ。気持ちはあっても複雑すぎる。絡み合った糸、乱麻のようだ。3ヶ月で新法を提出するのは容易ではない。姜恒がこの朝の時間だけで、快刀で乱麻を断ち切るように総網を切り分けて解決し始めるとは思わなかった。

「それでは、一度解散しましょう。」太子瀧は言った。「遅くなりましたね。午後はまたやることがあるので。」

 

閣僚は次々と立ち上がって退却した。曾嶸は帰る前に姜恒に何か言おうとしたが、ふと太子瀧の机にある変法の総綱と、その下に書かれた一連の名前を見た。

曾嶸:「……」

姜恒はすぐに机の前に立ち、曾嶸に笑いかけてから、眉を上げた。気づいた太子瀧は総綱を片付けた。しかし、曾嶸はすでに見てしまっていた。彼は衝撃を受け、言おうとしていたことを忘れてしまった。「曾兄?」姜恒は尋ねた。曾嶸はハッとした。「恐れ入ります。愚兄は無駄に年を取っただけです。周家と一緒にわが家で宴を開きたいと思っていますが、殿下と姜兄弟はお越しいただけますか?」と言った。

「いいですよ。」太子瀧は門客が去ると、またいつもの姿に戻り、「いつですか」と尋ねた。曾嶸はみんなの長兄のようだ。年長者としての余裕があって上品で清俊だ。姜恒は彼に好感を持っていた。周游は、「それでは何日か後、下元節が終わったら、招待状を送ります。」

『これから死ぬほど忙しくなるというのに、あなたたちはまだ席を並べて食事する気があるのですね。普段どれだけ暇なんですか!』姜恒は思ったが、太子瀧が承諾した以上、断るわけにもいかないので、頭を下げた。

 

 

 

ーーー

100章 敵を誘う餌:

 

雍国の民は洛陽と同じく一日二食だが、宮中には簡単な冷食が用意されていた。太子瀧は姜恒と急いで食べた。午後には汁琮が軍務会議を開く。姜恒は本来参加する資格がなかったが、太子瀧が堅持したため、書斎に連れて行かれた。

界圭もついてきた。幽霊のように一言も言わない。太子瀧は彼が姜恒についているのを見た。以前彼が一歩も離れず自分の後ろについていた日々を思い出すと、気分が悪くなるので、努めて見ていないようにしなければならなかった。

「どうやって彼らの名前を書いたんだい?」と太子瀧は姜恒に言った。

「遊歴中、兄に詳しく聞いたんです。東宮の皆さんの出身、普段責任を負っていること。」

「一つも違ってなかった。」太子瀧は感心した。「君は本当に私より東宮をよく知っている。人を知る術は師門で教わったの?」姜恒は「そんなところです。でも油断してはいけません。世の中で最も覗きにくいのは、人の心ですから。」と答えた。

太子瀧はうなずいた。「そうだね。人の心はこの世で、唯一の変数だ。」

「殿下、法改正について、知っておいてほしいことがあります。取りかかるごとに、先にするべきことと後でいいことを分けて、順番に従って進めてください。」

太子瀧はしばらく黙り込んだ。「管相も昔よくそう言っていた。何事も、まず何をし、後に何をするか、頭の中ではっきりさせなければならない。大国を治めることも小鮮を調理することも違いはない。今日君が彼らをきっちりと動かしているのを見て、本当に自分を恥じたよ。あんな方法を使うとは思わなかった。」

太子瀧は実際に管魏にそういわれたことがあった。正直に言って、今日の姜恒は管魏のようだった。管魏は何事もあのようにゆっくり、慌てず、すべてを掌握してすすめる。自分は彼についてこんなに長く学んできたのに、やってみようとしてもうまくいかない。

姜恒は笑った。「殿下は自責する必要はありません。私はかれこれ六か月考えてきたのです。法を変えるということは、大雍建国の礎にまで及ぶ話です。国君と言えど、そのようなこと体験したことがないはずです。人を使うこと、信じること、信じた人に裏切られないようにすること。それさえできればうまくいきます。政務の何もかもを自分でやろうとすれば、いつか疲れて死んでしまいますよ。」

太子瀧は小さい頃から国君になるべく育てられてきた。国君になるのは難しい。しかるべき人に振り分ける方が簡単だ。優秀な人を善用して、きちんと扱い、国君の名の元に権限を与え、かつ制限する。百官を均衡化し、彼らが謀反を起こさないようにすれば、成功するはずだ。姜恒が学んだことは主に執行の部分に特化して生かされている。「国君」よりもむしろ難しく複雑だ。洛陽にいた時、天子姫珣を学習対象として、海閣で更に知識を深めた。太子瀧は国を管理する術を教えられたが、姜恒が学んだのは天下全体を管理する術だった。

 

「いとこだとは思えないことがあるよ。」太子瀧は手を伸ばし、姜恒の耳をつまんで、「弟みたいだ。」と笑った。姜恒は太子瀧がこんなに親しくしているとは思わなかった。すぐに顔が赤くなったが、いつも耿曙にしているように押しかえすわけにはいかず、受け入れるしかなかった。

「あとで父王が玉璧関の戦いについて話し合う。陸冀、衛卓たちもみんないる。言いたいことがあれば、率直に言ってもいいけど、衛将軍の面子を考慮しなければだめだよ……」

姜恒は老臣たちの前であまり話すつもりはなかったが、急に心が動いて、太子瀧に小声で何か囁いた。太子瀧は一瞬疑惑の色を見せてから、目を大きく開き、笑った。

「何をこそこそやっているの?」汁綾が殿内から出てきて、眉をひそめた。

太子瀧はすぐに姜恒から離れ、「行こう。」と言った。

第二場国事之議が正式に始まった。汁琮、耿曙、衛卓、管魏、陸冀、曽宇、汁綾が出席したほか、周家の親戚の田栄、衛卓の2人の弟子を含む数名の雍軍重将がいた。

 

「どれだけ待たせるつもりだ?」汁琮は怒っていた。

「昼前まで変法について議論しておりました。遅れて申し訳ありません。父王、お許し下さい。」「まあよい。」汁琮は言った。「田栄が玉璧関戦の詳細な計画を話してくれた。」

田栄は遅れて来た太子瀧と姜恒に要点を押さえて、簡潔に説明した。管魏の提案は嵩県に駐留する奇兵を派遣し、越地にある老鄭王の別宮を攻撃することである。そうすれば、玉璧関を制御している太子霊は必ず救援に戻らなければならず、その間に玉璧関を奇襲することができる。

だが、この計画を実行するには3つの問題がある。:まず、誰かが嵩県に軍隊を異動させなければならない。次に、嵩県の雍軍は2万人しかいない。万が一、越地を攻撃できず、膠着状態に陥っても、この最後の奇兵は役に立たない。第三に、もし太子霊が自分の父親を助けなかったら?鄭王はどちらにしろ間もなく死ぬ可能性が高いからだ。

それを聞いた太子瀧が言った。「助けないはずがない。趙霊は親不孝の汚名を負いはしないでしょう。」汁琮もうなずいた。彼も趙霊はきっと助けに行くだろうと思っていた。

それなら、彼は何を悩んでいるのだろうか。姜恒は汁琮を観察した。目下の兵力では玉璧関を攻略するには足りないかもしれない。奇兵の協力がいる。しかし嵩県の2万人の軍隊は、すでに矢面に立っており、各国は非常に警戒している。耿曙が自ら兵を率いて行っても、出動した途端、各国が協力して討滅しに来るだろう。その時、汁琮はこの中原の棋子さえ失う。

 

「君はどうだ?」汁琮は姜恒に尋ねた。「何か妙案があれば聞かせてくれ。」

みんなが姜恒を見たが、姜恒は少し考えてから、「お手上げですね。」と笑った。

姜恒は太子瀧に目をやった。太子瀧はしばらく沈吟し、耿曙を眺めた。

耿曙は「私が兵を率いて行きます。恒児を同行させて下さい。行軍路線が適切であれば、六割がた越地を打てる自信があります。」と意を表した。

「四割の危険が伴うのね。潯陽三城に閉じ込められるかも。」汁綾が言った。

管魏は言った。「また別の問題もあります。玉璧関の戦いが速決しなければ、落雁城から絶えず増援を派遣しなければならず、その間、国内兵力が手薄になるでしょう。」

 

「風戎人が都を守れます。」太子瀧が言った。

「王都を風戎人に任せて安心できるのか?今回は孤王が自ら出征するのだぞ。」

汁琮だけではない。すべての将校が出動する。耿曙は入関して兵を動かす。汁綾は先鋒、汁琮が主力を率いる。田栄は補給と後衛、曾宇は王都を守る。

 

玉璧関が重要すぎて必死になる雍国の様子を、始作俑者とばかりに嘲笑しながら野次馬見物する者もいるだろう。

(始作俑者:最初に兵馬俑を考え出した者は子孫を絶やす。真似をした者が最後には本物の人間を埋めることになるから。→邪悪な考えに最初に手を染めた者という意味だそうです。BL小説なのに子孫を絶やすことが不幸の例とされるとは。まあいいけど。)

 

衛卓は言った。「玉璧関を失ったのは、まさに天下の大(=荒唐無稽)だ。それなのに、その原因となった姜太史はどう救うか考えもしない。」

太子瀧はすぐさま表情を変えた。衛卓は面と向かって姜恒を攻撃した。自分が前に出て守ってやらねば。姜恒を貶めさせるものか。太子瀧は遠慮なく言った。「そんなに重要な関を、父王が刺されたから取られたというのですか。衛大人こそ反省すべきものだと思いますよ。」

汁琮:「……」

息子がこんな風に強硬な態度をとるのを初めて見た。ずっと望んでいたことなのに、それが姜恒のためだという事実が彼を不快にさせた。一方、衛卓は反論されて言葉を失った。それは事実だ。雍国軍の士気はずっと前から汁琮次第だった。その汁琮が暗殺されかけた時、軍はかなり深刻な混乱状態に陥ったのだ。

「一年前、姜恒はまだ雍国の臣ではなかった。」という汁琮の口調は厳しくなり、怒りを衛卓にぶつけた。「孤王はあの話は持ち出すなと言ったはずだ。私の命令が聞けぬのか。」

衛卓はすぐに身をかがめて謝罪した。耿曙は姜恒を見て眉を上げた。姜恒は軽く首を横に振った。管魏を見ると、目には笑みを浮かべていた。彼がもっと良い方法を提案するのを待っているのだ。太子瀧は長いこと考えた末、「私に考えがあります。各位にお聞かせしたいのですが。父王」と言った。

「言ってみろ。何を吹き込まれたんだ。」

彼はやはり息子を信じている。太子瀧は最も聡明なわけではない。「最も聡明」なことは太子に必要な資質ではない。彼が率いる東宮には、雍国で最も聡明な人たちがいる。それで十分だ。

 

太子瀧は少し考えてから地図の前に行き、しばし眺めた。「この戦いは、玉璧関を取りに行っているようで、実は関内四国との戦争です。」

「その通りだ。」汁琮はうなずいた。これはまさに午前中に管魏が繰り返し強調した点だ。6年前に洛陽で敗戦して得た教訓だ。天子崩御以降、どの国と戦おうと、実際は全天下と戦っているのだ。

「だから、この戦いに勝つには、四国の同盟を崩壊させなければならない。」

「彼らはまだ同盟を形成してませんよ。」と姜恒は注意した。「表面上はね。」と太子瀧は答えた。姜恒は注意しているようで太子瀧を励ましている。二人で組んだ芝居だ。うまくいっている。「そうだ。」と汁琮はまたうなずいた。本当は自信がない。この戦いにまた他国が巻き込まれて、新しい変数が生まれるのではないかと。

 

太子瀧は一つ息をつくと説明を始めた。

「ここ数年来、各国はいつもあやうい均衡を保ってきました。一国が強くなれば、残り三か国が連携して対抗する。鄭、郢による潯東の戦いはそのいい例です。ですから、玉璧関を奪還するためには、先ず四か国を分裂させて、趙霊を孤立させる。彼から盟友を奪うのです。」

「どうやって孤立させるんだ?」耿曙が尋ねた。

太子瀧は汁琮の前の机に置かれた金璽を示し、「5カ国会合を招集する。」と言った。

「何だと?」汁琮はまさか、太子瀧がそんな提案をするとは思わなかった。

管魏は表情を変えた。太子瀧はみんなを見る勇気がなく、「玉璧関で五国の会合を開くのです。」と繰り返した。「もう一度やつらを刺すのか?」汁琮は不審げな顔をした。こんなことは息子の考えとは思えない。

「いいえ」太子滝はゆっくりと言った。「まず、金璽を諸侯たちに見せて、姫天子の遺命を読み上げるのです。神州を統一した者が金璽を得るのだと。」

会議は突然中止され、波紋が広がった。

汁琮には絶対受け入れられない。せっかく手に入れた天子金璽を手放せるか。

だが管魏にはこれが悪辣極まりない策略であることが分かった。

汁琮が公に天子の遺命を受けたと宣言し、授璽人として伝国の金璽を取り出す。五国会合の場で「全ての国が候補である」と告げたら、国君たちはどうするだろう。

そこで汁琮は態度を表明する。「自分は永遠に雍王で、天子の位を狙うつもりはない。誰が次の天子なのかについては、自分に能力があると思う者は金璽を持っていけばいい」と。姜恒の考えでは、誰も手は出せないはずだ。では太子霊に渡すのか?太子霊は手を出す勇気があるだろうか。手を出せば、あっという間に鄭国が天下共討の敵となり、盟友はすぐに消え散る。四国の国君は誰もが欲しがっているのに、誰にも受けとれないという点で一致している。少なくとも現時点では難しい。「その後は?」管魏が尋ねた。「金璽を洛陽に送り、嵩県に駐留している軍隊を派遣して、王軍として守るのです。」その結果、金璽は引き続き汁琮の手中にあるというわけだ。

 

「だめだ」と汁琮は言った。「冒険が過ぎる。なくしたらどうする?」

姜恒には理解できない。たとえ私があなたを天子と認めても、天下が認めなければ意味がないではないか。あなたが今死ねば、これを持っていても何の役に立つというのか?ちょっと投げてやれば、皆が血まみれで争いあうのだ。抱え込むよりずっと役に立つのに、なぜやろうとしないのか。

太子瀧は考えた。「天子の遺命は10年です。王都を再建し、最も多くの土地を臣従させることができる者が天子の座を継ぐ資格があるかを彼らに伝えるのです。もちろん、戦争という方法で王都を陥れ、金璽を手に入れることもできますが。」

「そんなことをする人はいない。」陸冀もようやく気づいた。

 

それは、汁琮に、あまり心配しなくていいと注意するための発言でもあった。

汁琮がこの作戦を許可すれば、連合軍はお互いに猜疑心を生み、離反していくはずだ。その時、汁琮は趙霊に玉璧関の返還を要求することもできる。そうしないと、一国が出兵し、他国の領土を占領する、そんなことをしている間に、残りの三国が金璽を奪えてしまう。彼らには何のこともない。鄭国が雍国に引きずられるのも楽しみだ。

「この件は日を改めて検討する。」と汁琮は最後に言った。「散会。」

姜恒は心の中でため息をついた。汁琮には不本意極まりないのだろうが、事情は変わるもしれない。

 

 

ーーー

第101章 雲霄笛:

 

黄昏時、姜恒は太子瀧に話しかけた。「殿下、ちょっと宮を出るのですがお付き合いいただけますか?」太子瀧は行先を尋ねなかった。「いつでもいいよ。」だが、昼間姜恒と全く話せていなかった耿曙の方は尋ねた。「どこへ行くんだ?夕飯も食べるのか?俺も行く。」

その時汁琮が群臣たちと共に現れ、姜恒を一瞥した。先ほどの提案が誰の差し金なのかはわかっているぞ。あんなことは誰にも言えないから、王位継承者という立場にある太子瀧の口を借りて言わせたのだ。

汁琮は姜恒を見てまた別の誰かを思い出した。本来彼の妻となるはずだった姜昭だ。姜昭は彼に嫁ぐことを断固として拒否し、彼を烈火のごとく怒らせた。冷たく嘲り熱く貶し、間違っても自分に好感を持たないようにしていた。あの子は姜昭に育てられた。つけの催促にでも来たかのように、同じような態度で接してくる。  (さすが昭ママ)

 

「新法の進み具合はどうだ?」汁琮は居丈高な態度で三人の若者を見た。

「すぐに目鼻がつきそうです。」太子瀧が答えた。

汁琮は少し表情をやわらげて言った。「明日は来なくてよい。何もなければ汁淼は東宮にいなさい。」耿曙にとっては望むところだった。

 

「気づいたんだけど、私はここに来てからずっと彼を怒らせている。何を言っても怒らせてしまうんだ。」姜恒は笑った。

「さっきの話をしたのは私で君ではない。心配しないで。」太子瀧が言った。

耿曙は平服に着替えて来た。「いい方法なのに、なぜだめなんだ?」

耿曙には元々金璽に興味がない。ただの金属の塊にしか見えないものになぜ執着するのか、さっぱりわからなかった。

「どこへ行くの?」太子瀧が尋ねると、姜恒は「外族外務です。」と答えた。太子瀧は察した。やはりそうか。姜恒は山沢に会わせるため城市内にある宿に連れて行くつもりだ。

山沢はここにきてようやく傷が治って来たようで、太子を見ると急いで跪き拝礼した。

太子瀧は息を吐いた。「山卿、」

姜恒は山沢を城内にある一軒の隠れた宿に留まらせた。初冬の薄暗い光の中、長患いが癒えていない山沢は咳をしながら体を支え、なんとか太子に拝礼しようとしていた。

太子瀧は急いで近づき、その必要はないと伝えた。

太子瀧は記憶を掘り起こしてみた。小さい頃にきっと山沢に会っているはずだ。だが、記憶はあいまいだった。山沢が『塞外一の美青年』だとは前から聞いて知っていたが、先入観から、逞しい塞外蛮族を想像していた。こんなに弱々しいとは思わなかった。

山沢の顔色は蒼白だった。ずっと拷問を受けていたのは明らかだ。更に水牢に長い間閉じ込められていたため、深刻なリュウマチを患っている。病弱なその姿は太子瀧の同情心を掻き立てた。

太子瀧と山沢は無言のまま見つめ合っていた。姜恒も静寂を打ち破ることはせず、耿曙の横に座って静かに見守っていた。「瀧殿下、」山沢が口を開いた。

「お会いしたことがありましたか?」太子瀧はようやく一言言った。

「一度だけ。あなたが王位継承者として封じられた時に。」

「七歳のときか。」太子瀧はおぼろげに思い出した。

「私と水峻は来賓として招かれ、遠くからあなたを見たのです。」

「きっと盛大だったんでしょうね。」姜恒は雍史を簡単に覚えたので、太子瀧の封儲が雍国の一大行事だったことを知っていた。その年、まず汁琅が崩御し王后姜晴も亡くなった。耿淵が『琴鳴天下の変』を起こし、四国の恨みを招いた。北方の国は暗雲に包まれ、汁氏王族は民の信心を奮い立たなければならなかった。そこで汁瀧を封儲し盛大に祝ったのだ。

山沢は穏やかな口調で言った。「あの時、殿下が『祭天書』を読み上げられた様子を今でも覚えています。月日がたつのは何と早いことでしょう。」

太子瀧はしばし記憶の中を彷徨った。そしてしばらくたってからゆっくりと暗唱した。

 

「蒼天に上告し、黄土に下慰する。

我、まさにこの国家の為に一生学ぶところを渇尽する。

我、まさに天下の万民を我が子嗣と視るなり。

我、まさに人々と悲しみを同じくし、また人々と喜びを同じくする。

我が土地は即ち人々の土地、我が当は一つとして所有無く、

我が得し所、即ち是れ人々得し所なり。

この土地に生きる子民等は、族裔を分けず、貴賤を分けず、

我将に君等と進退を同じくし、生死を共にする。

我、まさに大雍及び天下に至るまで帯領し向かいゆく、

升々平らかな盛世、錦繡たる前路へ。」

 

姜恒は雍国が封儲の際に述べる『祭天書』は知らなかった。だが、その形式は晋礼に則り、各国ひいては姫氏が立儲する際に述べる祭文を下敷きにして作られている。

難解な古語を多用し、知識人でさえ理解するのが困難だ。庶民には一言も理解できないだろう。雍人は武をもって国を立て、複雑すぎる文章は意図的に排斥してきた。比較的わかりやすいこの『祭天書』の文章は、そうした汁琮の方針にも合っているように思われた。

「素晴らしい文章です。どんな方が書かれたのですか?」姜恒は尋ねた。

太子瀧は少し恥ずかしそうに笑った。「私が自分で作った。伯母上に尋ねたら、『言いたいことを言えばいいのよ。みんなが聞いてわかる言葉を書きなさいね。』と言われたんだ。山沢が言った。「殿下が『祭天書』を読み上げられた時、心に様々な思いがまじりあうのを禁じえませんでした。」

太子瀧はしばらく黙った後で言った。「我、まさに天下の万民を我が子嗣と視る為り。この土地に生きる子民等は、族裔を分けず、貴賤を分けず、我、まさに君等と進退を同じくし、生死を共にする。」そして深く重いため息をついた。

「山沢、私に何か言いたいことがあるだろう」

山沢は笑顔を見せた。「いいえ。殿下があの時の言葉を覚えていらっしゃるとわかりましたからには、他に求めるものなどございません。私に一曲吹かせて下さい。」

太子瀧は端座した。山沢は骨笛を取り出すと、ほっそりとした指で孔を抑えて軽く音を出してみてから、吹き始めた。『雲霄』という名の北の地の笛だ。亡くなった者の腿骨で作られ、細微な音色は天に届くと伝えられる。山沢は頭を上げた。笛の音は悲しみを帯びている。北の大地をさまよう悲しい魂の痛みのようだ。

曲が始まったとたん、太子瀧の目に知らず知らず涙があふれた。

 

姜恒には山沢の深意がわかった。灝城からの帰り道、山沢と議論し続けていた。いったいどうすれば氐人の悔しさを伝え、遅れた真相の究明をするのか。最も重要なのは、太子瀧を説得することだ。彼がすべての問題の鍵となるだろう。山沢は万全な申立て案、詳細な証拠を用意し、落雁城に到着した初日に死を覚悟して陳述するつもりだった。結果を度外視せずに。だが、姜恒は考え抜いた末に、それは止めさせた。

 

太子瀧ってどんな人?姜恒がこの半年間で最も多く尋ねたのはそれだ。界圭だけでなく、耿曙にも聞いた。耿曙は一番長く儲君と一緒にいたが、太子瀧の人柄について、はっきりとは言えない。

彼は優秀な人だ。最も優秀な人ではないが、王者の仁がある。深宮の中でいつも守られて育った。性格は少しも汁琮に似ていない。善良で単純。雍国が強くなり、人々が良い生活を送ることを本気で望んでいた。いつも汁琮の前で努力し、自分の力を証明しようとしている。それが理由の一つで、耿曙は、姜恒の代わりに汁瀧を弟にすることには抵抗しても、彼を嫌ったことはない。

 

汁瀧は姜恒とも耿曙とも大きく異なる点がある。それは彼が常に努力していることだ。汁琮が彼に立てた目標のために苦労し努力する。たとえ多くの場合到達できなくても。玉璧関の戦いの時もそうだ。彼は自分を証明したかった。朝臣の承認を得たかった。姜恒がそういう努力をしているのを耿曙は見たことがない。耿曙も姜恒もおおらかで、

心に恥じないことだけを求めている。

 

だったら方法を変えたほうがいいのでは?事実を述べても役に立たない。信じない人は、永遠に信じないからだ。山沢は姜恒の提案を理解すると反省した。その通り、それは重要ではない。重要なのは、どうやって太子瀧の心を得るか、あるいは、どうやって彼に自分の心を取り戻させるかだ。

氐人と衛家の争い、土地の帰属、反乱など……それは重要ではない。

姜恒の「攻心之計」は、太子瀧に初心を思い出させてから、失望に直面させる。

耿曙が言ったように、太子瀧は多くの人の期待を抱え込んでいる。もし彼に「失望」を漏らしたら、彼は自分を見つめ直すだろう。

太子瀧の目から流れ出る涙を見た時、作戦が成功したことがわかった。

曲が終わると四人は再び黙り込んだ。山沢は骨笛を拭いてしまった。

太子瀧は涙を拭くと真剣に言った。「私と一緒に東宮へ行こう。山沢、あなた達の信頼を裏切ったのは私だ。あの時は、やってみたけど駄目だったと思っていた。今はわかる。努力が足りなかったんだ。でも今はもう違う。もう一度私を信じてくれないか……」太子瀧は嗚咽しながら言った。「山沢、我、まさに君等を守る。氐人を守る。」

夜になり、一台の馬車が東宮に入って行った。

 

初更時分(19-21時頃)、姜恒は政務を処理していた。耿曙は変法案の内、軍務に関する詳細をまとめていた。二人とも休む間がない。旅先で姜恒は耿曙にしつこいくらい言い聞かせていた。遊んでいる場合ではない、開戦前の準備を怠らないようにと。耿曙は聞く耳を持たず、今になって大慌てしている。「軍法関係の処理は終わったのに、どうしてこんなにぐちゃぐちゃなんだ?」耿曙が聞いた。

「あなたも気が付いた?」姜恒は太子瀧の元で政務を始めてから叫び出したい気分だった。耿曙は姜恒の机を見た。文書の処理は彼の得意とするところではない。法と規則は矛盾し合う。すっきりばっさりできればいいのに。

「あなたの義父上の言うとおりだね。あなたは開府すべきだ。」

(自分の府、家をもうけて属官を置くこと。)

太子瀧が将来王位を継承すれば、耿曙は雍国軍事大権の第一人者となる。軍は国の基本だ。一人で背負いきれるものではない。独立した幕僚体系が必要だ。

「お前も来るか?」姜恒が彼の府に住むなら、耿曙としてはいつ開府したっていい。

「それはもちろん。さもなければ私にどこに行けと言うの?」

「じゃあ、明日父王に話す。」耿曙は律令に手を焼いていた。全く頭の痛いことだ。

姜恒は苦笑した。「玉璧関戦の片がついてからにしたら。」汁琮もそのつもりで言ったはずだ。

その時太子瀧がやって来た。部屋の乱れ具合に目をやってから、耿曙に向かって言った。

「兄さん、どうして夕食に来なかったの?」

「忙しかったんだ。何もないなら帰れ。じゃまをするな。」

姜恒はにやりとした。自分と一緒にいたかっただけのくせに。桃花殿での朝晩の餐にちょっと顔を出すこともしないなんて。

 

太子瀧は傍に腰を下ろした。山沢は安全な場所に連れて行ったので姜恒に会いにきたのだ。姜恒は何も聞こうとせず、法令の記録に没頭していた。

太子瀧が口を開いた。「思いついたことがあるんだ。ちょっと難しいけど、いい方法だと思うから、君に相談したいと思って。」

「例の件を知ってる人は?」話の内容は山沢の冤罪を晴らすことだろうから、それだけは聞いておかなければ。姜恒はもう太子瀧を好きになっていた。汁琮との一番の違いは『謙虚さ』だ。汁琮のような傲慢さが全くない。いつも錚々たる面々に囲まれているせいで、他人に対して敬意を払うことが習慣づいているのかもしれない。

 

東宮には秘密なんてない。今頃はみんな知っているだろうさ。」耿曙が軽口をたたいた。太子瀧は少し驚いた。耿曙は今まで東宮についての意見など言ったことがなかった。何も関心がないのかと思っていた。太子瀧は頷いてしばらく黙って考えていた。

「山沢を赦免するには何か理由が必要だ。父王がどんな態度を示すかはわからないけど、衛家の大反対は避けられないと思う。そしてこの戦で衛卓は主将を務める。」

「その考え方は正しいです。」姜恒は太子瀧をほめた。それに名義上、逆賊とされている者の赦免を事後報告的に主張すれば、汁琮は気に入らないだろう。

 

耿曙は言った。「うまくやらないとな。一切は計画通りだと見せかけるんだ。山沢を救うところから、全部東宮の計画だ。計画なんかなくてもフリして、衝動的だとは思わせないようにすることだ。」太子瀧も耿曙も汁琮の性格を知り尽くしている。もし太子瀧が、自分が全て仕切ったと言い切れば、例え不満があったとしてもそんなものは消え去ってゆく。反対に、混乱して何を聞いても答えられずにおどおどしたりすれば、山沢の首は切り落とされてしまうだろう。

 

太子瀧が言った。「父王に呼ばれた時、私は何としても彼の信頼を勝ち取らなければならない。そのためにはどうしたらいいか?ハンアル、私の考えを聞いて。私はね……各族の継承者たちに通知を出して、東宮に招くつもりなんだ。」

たちまち姜恒の顔に賞賛の色が浮かび、笑顔で言った。「素晴らしい方法です!」

耿曙:?

「彼らにあなたの下で務めさせる。彼らの声に耳を傾けて、彼らの才能を重用する。山沢たちは大雍のために力を尽くす。主な目的は懐柔と安撫だけど、同時に彼らを、各民族の人質にすることにもなる。それで、すべての問題がきれいに解決できる。」

耿曙は姜恒を見上げた。姜恒は手にした奏章を太子瀧に渡した。

「まだ言ってないんだ。父王に受け入れさせるのは簡単じゃないとは思う。」

「明日の朝、私が言いましょう。」と姜恒は言った。「これは計画の詳細です。私の責任で行います。彼は後顧の憂いを解決でき、全力で南方と戦える。最善の方法だ。」太子瀧は立ち上がった。「わかった。私も戻ってもう一度よく考えてみる。もし陸冀が反対したら、私たちは何としても彼を説得しよう。その時父が何と言おうと、私は絶対に譲歩しない。」