非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 175-180

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第176章 汁家の一員:

 

界圭が東宮の外に姿を現した。姜恒は眉をあげた。

太后が到着されました。 曾嶸、周游と共にお越しください。」

太后が午後安陽に到着したため、雍国重臣が招集された。正殿内では汁琮が安らかに横たわっていた。まるでもう死んだかのようだが、喉からはひいひいと、か細い声がして、わずかに胸が上下している。目は閉じたままだ。

姜恒と曾嵘、周游が正殿についた時、王の寝台の前にはすでに少なからぬ人が集まっていた。姜恒は耿曙に合図されて隣に座り、曾嶸と周游は末席に腰を下ろした。

汁琮の寝台の前には、左に太子瀧、右に汁綾がおり、主座には姜太后が座っていて、いつも通り、界圭がその後ろに控えていた。

太后から左手には管魏、陸冀、現在の衛家当主である衛賁がおり、軍人席には呼び戻された朝洛文と、耿曙の下座に各族長:山沢と水峻、孟和、郎煌がいた。

 

「皆そろいましたよ、母后。」汁綾がそっと告げた。

太后はお茶を飲んでいて、あまり息子を見ようとさえしていない。自業自得と思っているのか。太子瀧は悲しみのせいで少し上の空の様子だったが、姜恒が来ると視線を送った。姜恒は頷き、東宮のことは心配なく、自分が解決したと示した。

姜恒は耿曙の方に顔を向けた。まさか太后は今この時彼の身の上を明かすつもりではないか。耿曙は姜恒の手を握ったが、少し汗をかいており、やはり緊張しているようだ。

 

「おそらく陛下は長くないでしょう。」姜太后がゆっくりと話し始めた。「みなが揃っているこの時に言うべきことは言って、後々間違いが起こらないようにしなくてはなりません。」誰も口を挟まなかったが、すべての視線が汁琮に注がれた。

「私は十四で落雁に嫁いできました。先王の元に来て、今年で五十年がたちます。雍国で三人の子を生しました。琅児のことは皆も覚えているでしょう。」

一同はそれぞれに、「はい。」と言った。

 

温和で礼儀正しい汁琅は、君臣と力を合わせて大雍に隆盛をもたらした。そして汁琮があちこちに征戦に向かうに足る強固な地盤を作り上げた。それがなければ、汁琮のような暴挙はもっと早くに国を滅ぼしていただろう。

「琅児の後は琮児が継ぎました。琮児はこのところ、国君としての行動が非難されることも多かったようですが、それについてはここでは言わぬことにします。おそらく、功過併せ持つといったところでしょう。」

誰も何も言わないが、汁琮が残した負の功績のことはみな骨身にしみてわかっていた。

だが耿曙は言った。「その通りです。父王は功もあり、過もありました。私がその証明です。」

「功過相半」については、姜恒も同意できた。汁琮が関を出て行かなければ、中原の局面は打開できなかった。だが、彼は人を殺し過ぎた。殺さなくていい人までも。(羅宣もな)

 

「今王は逝こうとしています。皆の者、前に来て送ってやってください。瀧児や、お前の父は大雍の中原への野望を叶えつつあります。次はお前が父に代わるのです。」

太子瀧は嗚咽しながら言った。「はい、王祖母。」

汁綾を先頭に、一同が次々に前に出て汁琮に叩頭した。姜恒と耿曙の番が来ると、二人は手を前にあげて、彼のために三度頭を下げた。

 

拝礼が終わると一同は元の場所に戻り、姜太后が再び口を開いた。「これからのことをどうするか、各自意見を言ってもらいたい。」

 

誰も何も答えない。管魏はもう一年も政務に干渉していない。陸冀は汁琮について南に下ったが、すべて汁琮の命令通りにしていた。だがこれまでの汁琮を支持すれば自分の立場を悪くする。自らの戦いをより楽しむためだけに、天下の民を家畜扱いする汁琮の国策を良しとするものは朝廷の内外問わず誰もいない。

衛賁は父の衛卓が安陽で死んだために朝中に呼ばれたが発言権はない。雍国四大公卿、周曾耿衛の内、衛家は先の氐人の乱で打撃を受け、その後当主の衛卓を失ったことで勢力は衰えていた。汁綾は軍の管理はするが、政務に口は出さない。残りの三族族長は、外族ということで当然誰も何も言わない。

殿内がしばし静まり返った後、太子瀧が言った。「姜恒?」姜恒は顔を上げた。太子瀧が言った。「今日は東宮でどんなことを決めたの?一年前に決めた変法細則の内、まだ施行待ちのことも多いのはわかっている。あなたは東宮にはいなかったけど、私はいつも譲らずに決して手放さなかったよ。」

姜恒は微笑んだ。太子瀧がいつも努力する人なのはよく知っている。―――彼は自分への期待を裏切りたくない。例え汁琮の威厳に立ち向かってでもだ。

曾嵘と周游も姜恒を見た。姜恒は咳ばらいを一つしてから言った。「意見があります。」

 

太后が言った。「言いたいことがあるなら言いなさい。ここにいるのは皆仲間です。今日の雍はそなたたちの雍で、今日の天下は、そなたたちの天下です。」

太后は汁瀧に言っているようだが、実は暗に姜恒に対して言っていた。

身分が承認されようがされまいが、彼には太子としての真価がある。現に今日東宮で汁琮が作った法令をことごとく廃案にした。姜恒は太子の職責を執行したのだ。

 

「私も自分を部外者とは思っていませんよ。部外者だとしたら無礼過ぎます。」

誰もが笑いをもらしたが汁綾だけは複雑な表情で姜恒を見ていた。だが皆もすぐに、今笑うのは不適切だと気づいた。汁琮が生死の境にいるのだ。みな表情を重苦しくし直した。

「雍国が関を越えた今、我が国の国土をゆるぎないものにすることが急務です。梁国遺民を落ち着かせ、四国との新たな共存方法を探すのです。」姜恒は皆に向かって言った。

それは全ての大臣たちがずっと思ってきたことだ。山河を打つのは易いが、山河を収めるのは難い。脅すだけでは人々を治めることはできない。汁琮のような狂ったような征戦では、屈服させることはできたとしても、いつかはしっぺ返しを食らうだろう。

「それは私の意見でもあります。」太子瀧が言った。

姜恒は頷き、言った。「暫し軍を減らします。まずは潯水の風戎軍を撤退させましょう。」朝洛文は、うん、と言った。「特に意義はない。」

風戎人は年初に玉壁関を越えてから、まるまる半年中原にいる。皆もう家に帰りたがっていた。朝洛文だって人殺しが好きなわけではないし、麾下兵たちは異国の水が合わず、故郷を恋しがっていた。

「玉壁関はもう内地になったわけですから、たくさんの兵を置く必要はなくなりました。落雁と安陽の守備は一年交代にし、四つの軍隊を解散させて、家に帰って屯田するか、中原で農務についてもらいましょう。」

「賛成よ。」汁綾が言った。

姜恒は続けた。「将来的には、年間を通して洛陽を天下の中心とし、商業貿易に力を入れ、南北を結ぶ拠点とすべきです。」

「その通りだ。」陸冀が言った。

「徐々に王都洛陽を天下の中心として二都制を推進し、落雁を北都、洛陽を中都とします。落雁は塞外への中心拠点として、洛陽は中原を統率するために。

ですがまずは、各国に照会します。一時休戦して、冬季に連合会議を開催し、残りの中原領土の帰属について話し合いましょう。」

 

この時、突然汁琮が全身の気力を尽くして震えながら片手を上げ、死に直面した者の咆哮をあげた。両目を見開き、正殿の天井を見つめている。最後の力を振り絞って恨みと殺意を伝えようとしているかのようだ。

「父王!」太子瀧が急いで様子を見に行ったが、汁綾はじっと長兄の様子を見つめていた。

太后が片手でそっと太子瀧を押さえ、もう一方の手を汁琮の胸に置いた。刹那殿内は静まり返ったが、姜太后の内力によって汁琮はすぐに落ち着き、再び安静になった。

「まだありますか?続けなさい。」姜太后が淡々と言った。

「ありませんが、殿下は早急に国君を継承すべきです。国内の混乱を避けるために。」

 

「耿曙が姜恒を見たが、姜恒は耿曙の背中を軽く叩いて、それ以上何も言わなかった。

「意義のあるかたはいますか?」姜太后が再び尋ねた。

誰にも異議はない。この夜、雍国はついに元の軌道に戻った。

 

太后がまた言った。「それでは、ここからは私たちに時間を与えてください。

最後は私たち家族で王陛下の傍に付き添いたいのです。」

一同はそれぞれ立ち上がって退席を告げた。姜恒は自分が「家族」に入るかわからなかったが、姜太后は、「恒児、そなたは残りなさい。」と言った。

殿内には太子瀧、耿曙、姜恒、汁綾、姜太后の五人が残った。長い長い静寂の後、姜太后が息を吸って立ち上がり、汁綾がすぐに母を支えた。

「私は三人の子を持ちました。まずは琅児、次に琮児、最後に生まれたのが綾児です。」

「母さん。」汁綾は涙に目を潤ませた。

「今までに私はたくさんの話を聞いてきました。郢人であれ、梁人であれ、或いは鄭人でも……王室の中では兄弟で争い、手と足がいがみ合うようなことがあるそうです。不思議に思っておりました。兄弟がですよ、なぜ互いに殺しあったりするのです?」

汁綾は刹那顔色を変えた。母は何を言おうとしているのだろう。長兄汁琅が死んだあと、朝野では流言が広まった。汁琮が汁琅を殺したのだと。だが汁綾は一切信じなかった。

 

「ある日、梁国からの報せを聞きました。畢頡が兄の畢商を殺したと。」姜太后はそこで耿曙を見た。「ここから遠くない後殿の中だそうですね。」

「覚えています。あの年私は五歳でした。畢商もおそらく父さんが殺したんです。その事実を知っている人は少ないですが。」

「太子商の死の理由は、古来から今までで初めてというわけではありません。耿淵の手で殺されたとしてもあまり関係はありません。」

彼らには姜太后のいう意味は当然分かる。畢商が耿淵の手で死んだとしても、雍国が殺した内には数えられない。政変を起こしたのは当時権力を奪い取った上将軍、重聞だからだ。

「母后?」汁綾は呼び方を変えた。今の太后の話には妙なほのめかしがあるような気がする。母はいったい何を言おうとしているのだろうか?

太子瀧もそれは感じ取っていた。かすれた声で尋ねる「王祖母?」

太后は殿前に立ち、案陽宮外の美しい夕焼けを眺めながら、つぶやいた。「琅児は生前、大雍で最もふさわしい国君でした。琮児が後を継いだのは他にいなかったからです。当時汁瀧はまだ子供でした。」

「兄が亡くなれば弟が継ぐ。それが天下の正統です。姑祖母、私はそれが、理にかない、情にもかなっていたと思いますよ。」姜恒が応じた。

太子瀧は顔中疑惑でいっぱいだった。姜太后は遠い遠い血筋である姜恒になぜ王位の正統性について語っているのだろうか?だが汁綾にはその答えがわかった。信じがたいという風に目を大きく見開いて姜恒を見つめた。唇が震え始めた。彼女にはついに知ったのだ。だがあまりにも遅すぎた。汁綾の背筋に寒気が走った。

 

太后は言う。「私たちは家族です。将来何が起ころうと、私の望みは子供たちが親しみあい愛し合うことだけです。私たちは越人、彼らとは違います。私たちは人で畜生ではないのですから。」

 

姜恒には姜太后が暗示することがわかった。―――姜恒が何をしようとじゃまするつもりはない。彼は正当な太子なのだから。姜恒は内孫で、それは汁瀧と同じ。太后にとっては二人の立場は一緒なのだ。だが、最後に姜恒と汁瀧が殺しあうことだけは絶対にしないでほしい。汁琅と汁琮の間の恨みはそこで終わらせてほしい。ある日姜恒が王位を奪い返したとしたら、姜恒と耿曙には汁瀧を大事にしてほしい。後顧の憂いをなくすために殺すような、畢商と畢頡のように王宮を血に染めるようなことはしないでほしい、そう言っているのだ。

「それは当然です。」姜恒は姜太后の要求に答えて言った。

「母さん?」汁綾は再び呼び方を変えた。

太后は意味深長に汁綾を一瞥したが何も言わなかった。顔を耿曙の方に向け、彼をじっと見た。答えを待っている。太子瀧ははっと我に返ったが、姜太后の言葉に込められた深意を誤解した。無理に笑顔を作って言った。「王祖母、何をおっしゃるのですか?あり得ません。私たちは兄弟なのですから。」

耿曙は姜太后と見つめあった。彼女の眼差しが尋ねている。「そなたは情けをかけられますか?そなたのもう一人の弟に、そなたは情けをかけられますか?」

「兄さん、」姜恒は微笑みながら耿曙の手を揺らした。耿曙は姜恒と視線を交わし、姜恒は頷いた。

「私は二人を守ります。恒児のことも汁瀧のことも傷つけさせません。ただ……いや、いいです。とにかく約束します。王祖母。」

太后は今のが耿曙の最大の譲歩だとわかった。だがここまでが限界なのだ。

太后は再び汁琮の寝台まで歩いて行き、彼の胸にそっと手を乗せた。

「ただ何なの?」汁綾は一番恐ろしい結果を思い浮かべ、声が震えていた。

「二人が口喧嘩しなければです。」耿曙が答えた。

太子瀧は煙に巻かれたような気分で苦笑いしたが、ふと以前から聞きたかったことを思い出した。「もし私が恒児と口喧嘩したら、兄さん、あなたはどちらの味方になるの?」姜恒は何も言わないが答えはわかっている。太子瀧だってよくわかっているはずなのに。

「当然恒児だ。まだわかってなかったのか?」

太子瀧は笑い出した。「わかっていましたよー。ただあなたの口からききたかっただけです。」

姜恒が言った。「いいえ。正しい方につきますよ。兄の性格はよくわかっています。でも私たちは口喧嘩しないようにしましょう。兄を困らせますから、そうでしょう。」

太子瀧は暫く心の底から笑った後で、目を赤くして頷いた。

「そうだね。父王の前で誓います。生涯恒児と兄さん、私たちは兄弟で、家族です。」

汁綾の心情は複雑だった。姜太后を見ると、姜太后は汁琮の胸に置いた手を離した。

汁琮はゆっくりと呼吸をし、全身を震わせたが、再び最後の意思表明をすることはできなかった。

太后はそなたと言う時と、お前、あなたたちと言う時とあって、統一すべきかなとは思うけど、原文は你だけなのでまあいいかな。一応、子、孫はお前、距離がちょっとだけある場合はそなたにしてはいる。)

 

 

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第177章 桃花の薫り:

 

殿内に再び静寂が戻った。姜太后は姜恒が手に持つ文書を見て尋ねた。「それは?」

「代国からの……手紙です。」今は縁談を持ちかけるのに最適な時期ではないだろう。

皆の注意が手紙に引き付けられ、姜恒は「まだ読んでいないのです。」と言った。

「置いておきなさい。汁綾、汁淼。」姜太后は言った。「太子瀧を連れて軍に行き、見舞いの言葉を告げたい千夫長たちに会ってきなさい。」

 

汁綾は母が姜恒に話があるのだろうと思い、太子瀧に向かって、「行きましょう。」と言った。太子瀧は疑問にも思わなかった。姜恒は祖母の母方の家族の出だ。姜恒に頷いて見せると、姜恒は「明日は朝から仕事が山積みですから、東宮の方に戻ってください」と言った。耿曙は姜恒を見たが、姜恒は大丈夫だと合図し、三人はすぐに退室の挨拶をした。

来た人は去って行き、殿内に残されたのは姜太后と姜恒そして瀕死の汁琮だけとなった。姜太后は寝台の前に座って静かに姜恒を見つめた。姜恒の心に万感がこみあげてきた。見返す祖母の眼差しには、初めて会った時と同じ、懐かしい感覚があった。

 

「おいで、炆児。抱きしめさせてちょうだ……。」姜太后は嗚咽で最後まで言えなかった。姜恒は震えながら進んで行き、姜太后の胸の中に飛び込んで行った。そしてついに大声で泣きだした。姜太后も涙で顔を濡らしていた。彼女の体には昭夫人と同じ香りがした。桃花だ。桃花の薫りが錦袍に焚き染めてあった。

 

「大変な思いをしましたね、私のかわいい子……。」姜太后は姜恒を抱きしめて号泣した。「琅児や、晴児や、昭児……みんなごめんなさい。母は生涯、何も間違ったことはしなかったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……天はなぜこんな風に私を……。」十九年前、姜太后は既に心を痛めていた。あの時息子を亡くした苦痛が、今になってついに押さえきれなくなり、姜恒を抱きしめて苦しいほどに涙した。

姜恒は姜太后の泣き声を聞いて、心が引き裂かれる思いがし、再び泣き崩れた。今はまだ子供を失った親の気持ちはわからないが、昭夫人との別れを思えば、その気持ちに共感できた。

しかも痛愛する二人の息子の一方が他方を殺したのだ。そして手を下した方も今、死に直面している。汁琅と汁琮の母として、こんなにも長い間、彼女はどうやって耐えてきたのだろう?

「王祖母……。」姜恒は落ち着こうと努めた。姜太后の声には壊れた琴の弦のような、こすれるような響きがあり、それはよくない傾向だ。しゃくり上げながら、「王祖母、悲しみ過ぎてはいけません。お怪我に触ります。」と言った。

太后は目を閉じ、姜恒を放した。涙は流れ続けた。長い時がたち再び目を開けた時、姜恒は祖母がずいぶん年を取ったことに気づいた。

こんなに近くで見たのは初めてだったが、今まで彼の目に映る姜太后は、古希の声を聴きながらも依然として威厳に満ちていた。落雁からの途上、彼女の髪は一夜にして白くなり、皺が深まり、身嗜みもとれた。

 

ようやく太后は落ち着きを取り戻し、姜恒の手をしっかりと握りしめた。涙に潤んだ瞳で、じっくりと姜恒を見ているが、見えているのは別の誰かだ。思い続けてきた我が子、最愛の息子、汁琅なのだ。

「お前にこんな才能があることを父上が知ったら、きっととても喜んだでしょうね。あちこちで自慢話をしたことでしょう……。」姜太后は涙を流したまま笑い出した。

 

姜恒は実の父に会ったこともない。彼にとっては未知の領域の話だ。再び悲しみが襲ってくるのは否めなかったが、もう泣かないようにした。姜太后が悲しみ過ぎないように、気持ちをこらえて頷き、何も言わないことにした。

「お前の祖父上が生きていれば、きっとそれはかわいがったでしょう。」姜太后は再び嗚咽しながら言った。「子や孫の中でお前が一番良く似ている……初めて会った時に、祖父上の若いころそっくりだと思いました。……誰もあまり会ったことがないのですよ。子らが生まれた時、祖父上はもう三十歳でしたが、雍太子だった時に初めて会った時の彼は、あなたと判で押したようにそっくりでした。」

この時は姜恒も納得した。「祖母上。」姜恒はつぶやいた。

「これをお前にあげます。」姜太后は一通の封書を取り出し、振って見せた。油紙で覆われている。落雁を離れる時に持ってきたのだろう。「受け取りなさい。私はもう行きますね。」

太后はつかまりながら立ち上がり、涙をぬぐった。姜恒ははっとして「どこへ行かれるのです?」と尋ねた。姜太后は答えず汁琮に目をやった。「落雁に帰ります。私はもう年です。お前はいつか時間ができたら桃の花の咲くころに会いに来ておくれ。」

 

「王祖母!」姜恒は追いかけたが、扉の外に控えていた界圭は、それ以上追わないようにと合図した。姜太后は振り返りかけて動きを止め、「終わらせてやりなさい。これも運命です。」と言った。姜恒は歩みを止めた。姜太后は袍襟を風になびかせ、正殿を去って行った。

界圭が扉の外から姜恒に戻るようにと示した。殿内には姜恒と汁琮だけが残された。

 

姜恒は姜太后からもらった手紙を置いて、振り返り一回り見渡した。落日が殿内を照らし、汁琮の顔の上に残陽を落とした。汁琮は安らかに横たわっていたが、しばらくすると激しくせき込み両目を見開いた。その顔はげっそりと痩せて目が落ちくぼみ、顔色は死者のような灰色だった。喉に刺さった竹籤から少しずつあふれ出た血が乾いて迹をつけている。

姜恒は寝台のところまで戻って静かに汁琮を見つめた。日は上りまた沈む。潮は退きまた満ちる。時間の大海がこの場に押し寄せ、恨みつらみに満ちた日々をのみ込もうとしていた。

 

「叔父上。」姜恒が声をかけた。汁琮は激しくせき込み全身を震わせた。姜恒を見る眼差しは恨みに満ちていた。ついに彼は負けた。人生で重きを置いていたものがこの一瞬で崩れ落ち、自分の命運さえも他人の手にゆだねられている。幾晩も彼を苦しめ続けた悪夢が、この瞬間現実のものとなった。

ここ数日、彼は途切れ途切れにたくさんの夢を見た。耿淵の夢、汁琅の夢、父親の夢、果ては子供の頃に一度会っただけの祖父、上上上任雍王の夢まで見た。

雍国の桃花や巨挙山の雪の夢、初めて騎馬を習った時の夢も。あの時耿淵は両手を合わせて彼が掌に足をかけて馬に乗れるようにしてくれたのだった。

子供の頃高熱を出した時のことも夢に見た。長兄が夜通し寝床の傍にいてくれ、医書を見ながら、気脈を通すための針灸を焦り顔で施してくれたのだった。

子供の頃、兄さんは自分をとても大事にしてくれていたっけ。……汁琮は奇妙に感じた。自分はなぜ長兄を毒殺したのだろう?誰にもわからないし、自分でさえもわからない。ひょっとしたらあまりにも素晴らし過ぎた人だったからかもしれない。誰もが彼の味方だった。

耿淵も、界圭も、管魏、陸冀、雍国の大貴族たち、誰もが例外なく彼を賞賛した。兄は人々を春風を浴びたような気持ちにさせるのだ。父母が一番かわいがったのも兄だった。

長兄の彼への愛情は、首を絞められるような気持にさせた。子供のころからずっと、兄に追いつくことができなかった。王家の人たちも群臣たちも、汁琮のことはいつだって彼の弟としか見なかった。まるでおまけかなにかのように。

今や、息子でさえも兄さんの息子の前では衆人の注意をひかない。自分と汁琅、耿淵……この三人は、汁琅、姜恒、耿曙と驚くほど似ている。

 

姜恒が枕元に来たその瞬間、汁琮は再び七歳の時、高熱がひかなかったあの日を思い出した。汁琅が静かに枕元に座っていた。汁琮は口角を上げた。目の前がぼんやりしてきた。

姜恒は汁琮の様子を伺い、彼が十分苦しみつくし、潔い死を望んでいると思った。

汁琮の口の形から声にならない言葉を読み取った。彼は言っていた。―――『兄さん』と。

記憶の中の汁琅がだんだんと姜恒に重なってきた。長兄、兄嫁、耿淵、界圭……たくさんの人の姿が走馬灯のように回っていた。

姜恒は小声で告げた。「あなたと私の間の恨みは、今日で終わりにします。生ある者は皆死ぬ。天子でさえもです。さようなら。」そして姜恒は汁琮の喉にささった竹籤を抜いた。

血が噴き出すこともなく、もがきもしない。喉に詰まった血の塊が気管をふさいで、汁琮は最後の息を吸うこともできなくなった。顔色が鉄青色に変わり、最後の力を振り絞って上げかけた両手も上がり切れずに喉に落ちた。首吊りした人のように大きく目を見開き、喘ぎたくも、もがきはしない。両足がばたばた動き、顔が白黒し、恐怖で顔がゆがんだ。

最後の瞬間に気持ちが少しでも楽になるようにと、姜恒は汁琮の手を握った。最後に汁琮はゆっくりとおとなしくなり、手から力がなくなって落ちた。

 

 

秋風が安陽別宮に吹き抜けた。あまたの白帳幕が風に揺れた。十五年前、耿淵が琴鳴天下の変を起こし、梁王畢頡を連れ去った。十五年後、同じ場所に遠路やってきた雍王は異国で死の床に就いた。それは運命の定めか。始まりがあれば終わりもある。

晋惠天子三十六年,秋,雍王汁琮薨去

 

 

ドーン、ドーン、ドーン。王宮に葬鐘が鳴り響いた。

太子瀧と耿曙は午門(正門)前にいた。千夫長たちの見舞いの言葉を受け終え、ゆっくりと王宮に帰る途中で鐘の音が聞こえ、そちらを仰いだ。

太子瀧が耿曙に言った。「なぜかはわからないけど、父さんが軍を率いて鄭国に向かった時から、こんな日が来ると思っていました。」耿曙は何も答えない。以前の無口な彼に戻っていた。

太子瀧の目には抑えがたい悲しみがあった。汁琮の死は耿曙と姜恒の悪い知らせを聞いた時より心を砕いた。耿曙のことは予想外だったのに対し、父親の死は、彼には止めることのできない宿命のように思えたからかもしれない。狂った馬で疾走し、そのまま深淵に駆け込んで行く父を間近で見ているかのようだった。引くことも、叫ぶこともできずに、ただただすべてが起こるのを見ることしかできなかった。耿曙は慰めたいと思ったが何と言っていいかわからずに、「俺も父さんが他界した時、とてもつらかった。いつかきっと過ぎたことだと思えるようになる。」と言った。

太子瀧は顔を上げて耿曙を見た。耿曙は暫く考えてから再び言った。「あの時、父さんが良くないことをしたのはわかっていた。ちょうどお前が今、父王が良くないことをしたとわかっているように。だがそれでもお前にとっては父は父だ。その気持ちはわかる。」

姜恒に対してとは違い、耿曙が太子瀧に心の内を話したことはほとんどなかった。姜太后の言葉のせいなのか、耿曙は、姜恒と汁瀧が戦うかもしれない未来についての危惧を暫し手放した。この時、汁瀧は耿曙の目に本当の弟として映るようになったのだった。

「私にもわかるよ。」太子瀧が言った。耿曙は太子瀧を見てほっと息をついた。

耿曙には太子瀧がとても孤独であることがわかった。姜恒と同じく孤独だ。これまで彼は全てを持ち合わせてきたが、今の彼は、本当に独りぼっちとなった。そうなることも運命に定められていたのかもしれないが。

太子瀧は初めて耿曙を待たずに、一人で階段を歩き出し、山際に沿った道を上り始めた。かつて梁王畢頡が寝殿へ戻るために上った坂道を。広大な山河を背景に、その姿は、かつての梁王と同じく、とても小さく、とても孤独に見えた。

 

 

ーーー

第178章 三朝に仕えた臣:

 

三日後、耿曙と汁瀧が葬り出した棺を汁綾が引き継いだ。玉壁関の外(南→北)に運んで、落雁城雍王室宗廟に安葬するのだ。慣例に従い、太子瀧は三か月喪に服した後、国君の位につく。一つの時代が幕を下ろした。雍国の時代は天子の時代となり、安陽が雍国の新都城となる。汁琮の葬儀の翌日、太子瀧は群臣を招集し、残った政務処理を正式に開始した。

東宮所有の臣下全員が集まった。汁琮の薨去、それは雍国始まって以来最も厳重な正念場で、その程度は汁琅の死後の比ではない。

だが陸冀と管魏は三朝に仕えた老臣として、かつて汁琅の死にも対応した。汁琮の死によって諸問題が解決した今、新たな厄介ごとは生みたくない。姜恒こそが新たな厄介ごとではあるが、本人が少なくとも今は雍国に内乱を起こさせないと決めている。みなの目標は同じ、国内情勢を落ち着かせることだ。

 

雍国四大家の内、曾家と周家に至っては管内に移住せず、塞外にとどまっているが、東宮新権力の中心は彼らの家の長子たちなので、それで十分だろう。

衛家は衛卓の死後、軍権を衛賁が継承し、それまで通り御林軍統領として太子の護衛に当たっている。汁綾、曾宇が武官を代表して列席し、そのほかには太子の下に耿曙がいる。

管魏がゆっくりと話し始めた。「姜大人、曾大人、周大人はここに来て変法宗巻を改定されたそうですね。中原情勢について考えるところがあってのこととお見受けしますが。」

「その通りです。」曾嵘が答えた。

姜恒は言った。「変法よりも、今私たちが直面する別の問題として、戦乱が原因で故郷を離れた流民への対応があります。」

陸冀は姜恒を見た。時に彼の考えが読めない。汁琮は生前、姜恒に対し明らかに強い嫌悪感を持っていた。死ぬまで諦めない勢いだった。宮中で囁かれる噂を陸冀も聞き及んではいたが、今のこの姜恒の様子を見るに、そんな感じは全くない。

陸冀は尋ねた。「どう処置されるつもりかね?」

 

太子瀧は最もつらい日々を終え、落ち着きを取り戻しており、真剣に話し出した。

陸相、大人各位、私たちは新たな対策について話し合いました。東宮官員を主とし、左右相の補佐を受け、護民官を派出しようと思います。まずは安陽から始め、洛陽、照水を含む関中まで範囲を広げ、戦後の民の生活を安定させる責を負うのです。」

「そうだ。そうすべきだ。」管魏が言った。陸冀は何か言いたげだったが、差し控えていた。一番の関心は民にではなく、新朝廷の権力構造にあった。それは雍国がどんな方向性を持って中原に足がかりを作るかにかかわってくる。

「もう『東宮』と簡単に称してはいけませんな。国君は既に逝去され、安陽は新しい朝廷を立てようとしているのです。この朝廷は天下の将来の状況を決めることでしょう。

 

「それに関してですが、私からお話があります。」姜恒が口を開いた。

「拝聴させていただきましょうか。」陸冀が答えた。

姜恒には余計な話から始める必要はなかったし、するつもりもない。ここにいる人たちなら、政令の合理性についてあれこれと長ったらしい講釈をする必要がないからだ。

「人事の移行についてですが、東宮は中原に関する諸事務を処理する責を負っています。新朝廷に移行するには、王陛下の生前の計画に基づき、ほんの少しの改正をします。北方落雁は、管相に監国していただき、南方安陽に関しては陸相にいていただきたいと思います。」

反対意見はない。両都制というのは汁琮が生前に決めたことだ。太子が中原を掌握し、国君はそのまま落雁にいて、移行が完成すると。

 

「軍事面は?」汁綾が尋ねた。

「朝洛文と風戎軍には玉壁関まで戻ってもらい、後方守備をしてもらいます。来年春までは、曾宇将軍に照水に駐留してもらい、武英公主には崤関の責を負っていただきます。汁淼王子と衛賁将軍には安陽にいていただきます。衛賁統領は御林軍を、淼殿下には雍軍主力をお任せします。雍軍は十万で編成し、残りの兵たちは屯田農務につかせ、来年春からの耕作に備えてもらいます。」

「特に意見はない。」耿曙が言った。

「私もよ。」汁綾が言い、曾宇も賛成した。

それは三年以内に神州を統一するという汁琮の計画とは明らかに異なるものではあったが、反対する者はいなかった。汁琮は急ぎ過ぎた。滅ぼされるがままになっている国はない。南征の主力武将たちも皆これ以上戦いたくなかった。兵たちは家に帰りたがっているし、国力も回復させねばならない。やり過ぎれば再び四国の抵抗を、招きかねない。

 

陸冀が言った。「考え方はとても良いが、十万残すだけで、敵が反撃してきたらどうするつもりかね?」

姜恒は暫く黙り、太子瀧が答えた。「それは初めの予定に従って行う五国連合会議の結果次第です。」周游が文書を広げて説明した。「連合会議は天下の興亡だけでなく、雍国が関内に根を下ろすことができるかにもかかわってきます。うまくいけば、全く新たな展開が期待できます。四国の反撃を引き起こさないだけでなく、雍国の中原における足場を強固にすることができるでしょう。ですが、東宮……ではなく朝廷ですね、は、まだその提案を完成させていません。

「しっかりやってくれ。話し合いで決着がつかなければ、戦いで決着をつけるしかなくなるからな。」耿曙が言った。姜恒には耿曙が言わんとしていることがわかった。国家間には時に妥協を許さず、話し合いでは決着がつかずに強硬手段に出ることがある。会議の準備には携わっていないものの、それがよくわかっている耿曙はそのことを忘れないようにと言っているのだ。

 

姜恒は答えた。「わかっています。このほかにも梁の臣下、鄭の臣下、照水に関しては郢の臣下でさえ仕えさせることになるでしょう。」

管魏も陸冀も何も言わなかったものの、姜恒の提案も、姜恒自身の立ち位置も、とても大胆で冒険的だと考えていた。落雁にやってきた最初の日から、この少年は自らの主張を声に出していた。―――私は天下人です、と。地域同士を融合させ、国家間の隔たりを埋めるために、彼はどんな時でも自らの力を余すところなく注いできたのだ。塞外三族に対しての態度も同じだ。今は関内四国に対して同じ態度をとっている。彼は新たな雍国の地を、五国の士がそれぞれの才能を発揮できる場所にし、徐々に融合することで、最終的には互いを区別しないようにさせたいのだ。

「慎重に進めてください。急いて仕損じることのないように。」管魏はそれだけ言った。

姜恒は頷いた。太子瀧はお茶で喉を潤してから言った。「今はこんなところです。新しい連合会議の議事日程が決まりましたら、審議のため、周游が朝廷に提出します。」

一同は頷いて、それぞれ退席を告げた。汁琮の死後、群臣の心を苦しめた国難がようやく一段落ついた。

 

耿曙は断崖で姜恒を待っていた。太子瀧は曾嵘たちとこの場を離れた。再び主席謀臣の報告を聞き取る必要があった。姜恒が殿外に歩いて行くと、秋の長雨がようやく収まり、洗われたように真っ青な空が見え、ようやく心が晴れた。

管魏が杖をついてやってきた。姜恒はすぐに拝礼した。「管相。」

「さっきの朝会で、私はふと疑問に思ったのだがね。」管魏が言った。

「どんなことでしょうか?」

管魏は杖をついてゆっくりと姜恒の傍まで来ると、一言一言をゆっくりと発した。

「いったい、雍国が、四国を併合するのだろうか。それとも、四国が、雍国を併合するのだろうか?」

姜恒も笑い出した。「そうですね、私も少し無茶な話だとは思います。少し変だし悲しい。」

「雍国が棋局の最終勝者になろうとしているように見えて、」管魏はのんびりと言った。「関内四国が、玉壁関を出てきた雍国をゆっくりと飲み込もうとしているとは誰が思うだろう。」

「百の河も海に入れば一つになります。誰が誰を飲み込もうが別にいいのではないでしょうか。」姜恒もゆっくりとそう言った。

「そうだな。天道は天道に他ならない。君の言葉も行いも天の道に従っている。海閣の威光は奥が深い。」

「過ぎたお言葉です。『天道は常にあり。尭のために存らず、桀のために亡せず。』ですから、『天道』と呼ばれるものは、人間にどうこうできるものではないので、私がいようがいまいが、もっと言えば鬼先生や海閣がなかったとしても、結果はそうなっていたのでしょう。」

管魏は頷いた。「連議規約については、私は口を挟まないので、君がこれでいいと思えば、それでいきなさい。」

姜恒は呼称が変わったことに気づいた。以前は『姜大人』と呼んでいたが、今は『君』と呼んでいる。そこには深い意味が込められているように感じた。「力を尽くします。管相。」

「君は初めて落雁に来た時から私心を抱いていなかった、抱くとすればお兄上のためだろうと思っていたよ。」姜恒は一笑したが、管魏は続けて言った。「ここ数年、君は雍国に多くをもたらしてくれた。今日私は思ったのだ。君のお父上がいらしたときの願望まで、もうあと一歩のところまで来たようだと。」

 

今の話で姜恒は知った。管魏はきっと自分の正体を見抜いていたのだ。だが三朝に仕えたこの老臣を追い詰めるようなことはしなかった。一生を雍国に捧げつくし、もう疲れ果てていることだろう。この上再び荒波に巻き込むようなことをするのは不公平だ。

「今は朝廷で、太子殿下に敬意を払ってはいても、いつか中原大地は再び君の戦場になることだろう。殿下は今は君の言葉に聞く耳を持っているが、いつか誰もが君に反対しなくなった時、それは最も危険な時だ。このことをよく覚えておきなさい、姜恒。」

姜恒は心の中に寒気を覚えた。管魏は危険を冒してでも彼に忠告しようとしたのだ。絶対に第二の汁琮になってはいけないと。

「覚えておきます。落雁方面については、管相にご苦労をおかけします。」姜恒は管魏に拝礼した。「またいつか。姜大人。」管魏は微笑みと共に姜恒に礼を返すと、ゆっくりと高台から坂を下りていき、その日のうちに安陽を離れた。

 

耿曙はどこだろう?

姜恒が管魏を見送った時には、耿曙は近くにいたはずなのに、振り返ったらもういない。

王宮の一角、山道の上から談笑する声が聞こえてきた。姜恒が顔を上げて見てみると、何人か、山際の小さな瀧の前にいる。その中の一人は耿曙のようだ。

最終から帰ってきて以来、耿曙は以前のように姜恒の傍にぴたりとついて離れないという風ではなくなった。まあ、たぶん、汁琮が死んだことで、限りない魔の手を姜恒に送り込む者がいなくなり、血月の殺し屋もあと一人だけとなったせいだろう。以前ほど姜恒の身の安全に気を配らなくてよくなった。それに、済水での告白の後、故意に姜恒と距離を置いているせいもある。安陽に戻ってからの数日、姜恒は多忙を極め、耿曙は傍らで黙って彼を見守っていた。昼間はそれぞれ別々に席につき、夜寝る時は、屏風の外に布団を敷いて寝ていた。

 

多くの時間を姜恒について過ごす人は界圭になった。界圭は忠実な護衛らしく、口を開くことはまれで、大部分の時は物陰に潜んでいるが、姜恒が顔を向けて探しているようだとわかると、さっと姿を現した。

「帰って何日か休んだ方がいいよ。」姜恒は界圭に言った。

「今、休んでいるじゃないですか。なぜです?やはり私が嫌なのですか?」界圭が言う。「違うよ。」姜恒は噴き出し、笑った。

話す機会が少ない分、界圭はその貴重な機会をとらえると、必ず姜恒をからかって遊びたがる。

「最近お兄上はご機嫌斜めのご様子ですねえ。言いたいことがあるのにしまい込んでいる。体に良くないです。」界圭がふざけた調子で言った。

「言いたいことがあるのに言えないのは私も同じだけどね。」姜恒は淡々と応じた。

界圭はクスリと笑った。きっと何か感づいているのだろうが、問題の出どころまではわかっていないはずだ。まあ耿曙の口数は少なくなる一方だから、界圭だって気づかないはずはなかった。

姜恒はしばらく考えた末、言った。「お金を上げるからお酒でも飲みに行って。あなたに三日間の休みを与えます。」

「わかりました。嫌われているからには、ご遠慮しませんとね。」

姜恒は苦笑いした。「そういう意味じゃないんだってば!ただ少しは休んでほしいんだよ。」界圭は全身刺し傷だらけなのに、自分を顧みずそのままにしているのが姜恒は心配なのだ。それに、界圭が傍にいれば耿曙も余計口数が減ることでもあるし。

姜恒は界圭を送り出すと、山を上って行った。だが、小瀧のところまで来た時、懐かしい姿を目にした。                             (♡)

 

 

ーーー

第179章 蓮花のつぼみ:

 

「宋大人!」 姜恒は大喜びだった。

宋鄒は太子瀧、周游と話をしていた。耿曙も小瀧の前に立って、池の蓮花を見ていた。宋鄒も微笑んだ。「姜大人、三日前弔問のために出発したのですが、一歩遅かったようです。先ほど着きましたが、皆さまは殿内で議事中とのことでお邪魔はしませんでした。」

太子瀧は初めて宋鄒に会ったが、周游は面識があり、皆で楽しく談笑していた。

宋鄒は天子直属の臣下であり、実は身分は一つ上だが、謙虚な態度で、太子瀧を「雍王」と呼んだ。太子瀧は彼のことがとても気に入ったようだ。もちろん、太子瀧と周游がもっと気に入ったのは宋鄒が持ってきた金の方だろう。―――宋鄒は嵩県より十万石の米と、三千両の金を耿曙名義で雍国に持ってきた。梁国復興に役立てるためだと言っている。実際は姜恒の口利きによるものなのだが。

 

「何を話していたのですか?」姜恒が笑顔で尋ねる。

「縁談だよ。兄さんのね。」太子瀧が答えた。

姜恒:「……。」

「耿曙は姜恒に目をやり言った。「皆、前にあった姫霜との縁談を復活させたいそうだ。お前はどう思う?」

「あなた次第ですよ。私たちがあなたに娶らせたいのではなくて、あなたがしたいか、したくないかです。」太子瀧は笑った。

「そうだね。」姜恒も笑顔を見せた。「それはあなた次第だ。でも娶とるのではなくて、嫁入りですから、注意が必要です。」

皆一斉に笑った。姜恒は行間で、自分の兄の嫁入りを仄めかしているのだ。

 

姜恒は周游に目をやった。この話はここ数日話してきたことだ。今の天下の状況は:

梁は既に敗れ、心配はない。

鄭は国君の趙霊が薨去し、済州も大戦の後で、休息が必要だ。

郢は羋清公主が摂政となり、後継者が若すぎるため、混乱が必須だ。

つまり今や唯一残った雍の敵は代国だけだ。

 

汁琮は太子瀧と姫霜を結婚させる策略を立てていた。姫霜は姫家唯一の子孫で、太子瀧は雍国国君、姫霜は代国を事実上統治しているので、二人が結婚すれば一挙に天下の紛争を終結させる機会となる。姫霜が王后となって太孫を生めば、晋王室の血を引く雍人であり、名実ともに天子の資格を持つ。だがその提案は東宮から一斉に反対された。その理由は:

『おいしそうな餌を差し出されたら、食べても問題がないか、よく考えてみなければ。』

 

姫霜は一筋縄ではいかない女だ。彼女は決して象徴公主などではない。汁琮は世の女性は皆、風戎公主のように何とでもなると思っているが、王后を見くびっては、寝殿で命を落とすことになりかねない。昔から、策士策にはまると言う。太子瀧は元々性格が優しい。あっという間に王后の言うなりになってしまうかもしれない。結局のところ、嫁の実家が代国では、将来の東宮の行く末も安泰とはいかない。

だが、今日、宋鄒は新たな情報を持ってきた。―――それは代国からの文書で、李霄の提案だ。姫霜のお相手候補は太子瀧ではなく、耿曙だというのだ。

相手の目標は非常に明確だ。耿曙と姫霜を結婚させ、生まれた子供には王族の姓を継がせる。姫氏の血筋を残すためだ。両国は末永い姻戚関係となり、代国は戦を止め、国境を開放する。雍と通商、通婚を通して、ゆっくりと融合し、五十年後には一つの国家となることを目指す。そのためなら、李霄は天子を争うことを止め、代王の地位に留まってもいいそうだ。

 

耿曙が言った。「俺に選択肢があるのか?お前たちは口をそろえて、俺の意思がどうとか言うが、心の中では思っているはずだ。再び戦いたくなければ、結婚するしかないとな。」

太子瀧は笑いながら言い訳した。「私でも兄さんでも同じことで、どちらでもいいのです。彼女が王后になりたいなら、私がしたっていいのですが、残念なことに私は彼女の眼中にないのです。兄さんに子供ができたら太子にして、姓が姫でも耿でも汁でも私は一向にかまわないのですけどね。」

周游は咳ばらいをして、そんなことをむやみに言わないようにと注意した。―――耿曙は汁姓に改姓して宗廟に入ったが、結局のところ、汁家の出ではない。かつて汁琮は彼に約束していた。天下統一が叶ったら、耿曙は元の耿姓に戻ってよいと。

太子瀧は笑顔で言う。「どうかした?私は本当にかまわないんだよ。」

宋鄒は皆の表情を見たが発言は控えた。だが曾嶸は言った。「淼殿下の元に小太子が誕生すればそれは勿論すばらしいですが、それだと耿家が……。」

「耿家にはまだ姜恒がいるじゃないか?」

姜恒は笑ったが、何も言わなかった。

「で、お前はどう思う?」耿曙は姜恒に眉を揚げて見せた。

 

姜恒は耿曙と視線を交わした。姜恒に決めさせたいのだ。耿曙を求めるなら、もちろん断る。前回の代国でのように。だが求めないというのなら、耿曙は姜恒の天下統一の理想のために、固辞せず姫霜を娶るつもりだ。姜恒が頷きさせすれば、耿曙は何でもするつもりだった。

 

もし耿曙がこの縁談を断れば、雍国は戦の準備をせねばならないだろう。―――代国は梁のように弱くはない。中原で続いた大戦中も、剣門関外の西に位置して守られていた代国は、実力を温存していた。代王李宏の死後、李霄は軍を強化し、その数二十万に達する。この規模の軍なら、雍国と一戦交えるにも十分だ。

 

「私に何の関係がある?」姜恒は胸を痛めながらもみんなの前で何事もなかったかのようにふるまった。「やはり最初に戻って、あなた次第ってところですね。」

耿曙は再び姜恒に言った。「兄が結婚したらもうお前を可愛がらないんじゃないかと心配にならないか?」皆は笑いを押さえられなかった。二人の仲の良さは有名だ。弟がやきもちをやくのも理解に易いところだ。

太子瀧は言った。「兄さんだっていつかは結婚するはずとわかっていますよ。さっきから私たちは応援しているでしょう。恒児はあなたの意思を聞きたいんですよ。」

姜恒はじっと耿曙を見つめた。耿曙は何も言わなかったが、周りの誰も眼中になく、瞳に映るのは姜恒一人だった。耿曙は姜恒にまだ開いていない蓮花の蕾を手渡した。

「言ってくれ。」

「知らない。自分で決めて。」姜恒は笑顔でそう言うと、一同に頭を下げて立ち去った。もう耿曙に一言も言わせたくなかった。

 

 

夜になった。姜恒は周游が下書きした連合会議の草安を閲読していた。耿曙はずいぶん遅くなってから戻り、部屋に入ると腰を下ろした。「今夜から俺は隣の部屋で寝る。昔父さんの寝室だった部屋だ。」

「行けば。」姜恒は昼間の話を持ち出さなかった。

「遅くなったのは宋鄒と酒を飲んでいたからだ。」

「説明しなくていいよ。」姜恒は草案を閲読していたが、この夜は気持ちが落ち着かない。あのことが長い長い間心にのしかかり、もう耿曙に対する気持ちさえわからない。彼を愛しているか?それは聞くまでもない。誰よりも耿曙を愛している。二人は初めて会った瞬間から、永遠に離れられない運命にあったかのようだ。

ただ自分たちが一歩先の関係に進むことを考えると、少し怖くなるのだ。

 

「よく考えてみた。」耿曙が言った。「姫霜と結婚したらどうだろうかと。よく考えてみると、俺は以前彼女を好きだった。もっとよく考えてみれば、お前に対する好きとは違うが、それでも結婚したとしたら、彼女を愛することもできるかもしれないと思う。」

姜恒は動きを止めて、頭を上げて耿曙を見た。

耿曙は酔いが現れた目で、卓上の琴を見ながら、再び言った。

「それなら、代国はお前の側に立つだろう。梁、鄭、代、この三国がお前を天子に立てるかもしれない。お前は汁瀧を傷つけたくない、そうだろう?時が来たら俺が前面に出て、軍を率いて、文書を示し、お前の身分を回復して……。」

「私が天子になりたいと言ったことがあった?」

「お前は天子になる運命だ。違うか?俺は全てよく考えたんだ。時が来たら、汁瀧には退位を迫り、王位をお前に渡させる。俺がやるからお前は心配しなくていい。」

姜恒は案巻を置いた。「酔っているんだね。」

「酔ってなんかない。」耿曙はついに顔を向けて姜恒を見た。その手は琴の弦を弄んで何音かつま弾いている。「俺は今後悔している。済水でお前にあんなことを言うべきではなかった。お前を身動きとれなくさせたのだと痛感している。」

「出て行って!」姜恒は怒り出した。理由はわからない。ただ耿曙に怒りをぶつけてやりたかった。

「怒ったのか?」耿曙は再び琴弦をはじきながら、姜恒を見つめて、その表情から理由を探ろうとした。

「あなたは言ったのに。」姜恒は自分は欲張りすぎなのだとわかっていた。いったい自分は耿曙にどうしてほしいのか。何をさせたいのか?彼は一生を自分に捧げているのに。姜恒は震えながら、耿曙に言った。「あなたは言ったのに。」

耿曙は考えた末言った。「ああ、俺は言った。今は後悔している。言い過ぎたと思っている。地道に進めばお前の助けになるし、みんなにとってその方がいいだろう、恒児。だが物には順番がある。まずは天下を平定させて、お前の計画に従って戦争をなくしてから、お前の身分の問題を解決しよう。」

「出て行って。」

 

姜恒の目は涙で潤んでいた。耿曙の言葉は、今すぐにでも彼を失うということを彼に自覚させた。口をついて出た言葉は「出て行って。」だが、心の中では「置いて行かないで。」と言っていた。;立ち上がって耿曙のところまで行き、彼の腰をしっかり抱きしめて、胸の中に顔を埋めたかった。小さかった頃のように。

それでもはっきりわかっていた。自分がそういう関係を望まないなら、これ以上耿曙を引き留めることはできない。彼には自分の家庭を持つ権利があるのだから。

 

耿曙はそれ以上何も言わずに、琴を置くと、黙って自分の私物を集めて寝室を変える準備をした。「俺は隣にいるから、一声かければすぐ来るからな。」

耿曙はかつて耿淵が使っていた寝室に、姜恒は畢頡の寝室、太子瀧は畢商の住まいであったところを火事の後修繕し、新しくなった寝室を使うことになった。

 

耿曙が琴を片手に出ようとしたところに、酔っ払った界圭が戻ってきて危うくぶつかりそうになった。「どけ。」耿曙が言った。

界圭はべろんべろんに酔っていた。ちょうど気持ちがもやもやしていた姜恒は眉をしかめた。「いったいどれだけ飲んできたの?!」

「おや、引っ越しですか?」言うや否や、耿曙にはお構いなしにまっすぐ入ってくると、それまで耿曙がいた場所に寝そべり、「じゃあ、ここは私の場所ですね!」と言った。

姜恒:「……。」

戸が閉まる音がした。耿曙が出て行ったのだ。姜恒は界圭の様子を見て、酔い覚ましを煎じてやり、彼を起こして飲み下させた。界圭は酔った目を見開き、へへへと笑い声をあげると、壁の方を見て眉を揚げた。姜恒は疲れすぎてもう話す気にもなれず、界圭に、ちゃんと横になって、吐かないように言い聞かせて寝台に上がって眠りについた。夜中、壁越しに途切れ途切れに《越人歌》が聞こえていた。

 

 

ーーー

第180章 秋の葉の輪飾り:

 

太子瀧は東宮に座っていて、遠からぬところから聞こえることの音を静かに聞いていた。

「私は一生本当に自分だけの味方はいないんじゃないかって思うことがあるよ。」太子瀧が言った。「まさかそんな。」朝洛文が答えた。「武英公主に、汁淼殿下、姜大人、それに我らもおります。」

太子瀧は苦笑いし、それ以上説明しなかった。汁綾は彼が大変だろうと、朝洛文を傍に仕えさせるために送ってよこした。太子瀧にとっては従兄にあたり、一貫して彼を支持してきた風戎人でもある。風戎人は汁琮が嫌いだったが、この外甥には愛情を注いだ。老族長から朝洛文に至るまで、彼のことを二つの民族の未来を証明する存在とみなしていた。

 

「人は持たぬ物にばかり目が行き、持っている物のことは忘れてしまうものです。」朝洛文は言った。それは風戎人の諺だということを太子瀧は知っていた。小さいころから、母によく言い聞かされてきた。今あるものを大事にしなさい、と。母は汁琮に嫁いできたが、汁琮は母を愛してはいなかった。それでも母は落雁で楽しく暮らそうとしていた。庭の花園を小天地のように作り上げ、子ぎつねを飼い、毎日姜太后の元におしゃべりをしに行き、息子に絵の描きかたや読書、習字を教えた。

 

彼女は生前太子瀧に言っていた。母さんはいつかいなくなる。父さんもいつかいなくなる。それでも私たちは天上の星、地上の馬にもなる。死んだら万物と化してあなたの近くにずっといるからと。母のおおらかな楽観性は今の姜恒によく似ている。

風戎人は生死に重きを置かない。塞外三族は一様に生死に関して淡泊だ。雍人のように、死を一大事としてとらえていない。儒家は死後の話を禁止しているし、鬼神の類も信じない。つまり、人は死んだら何もなくなるのだ。

 

風戎人は儒家の主張に異論がある。一生をそんな風に解釈すれば、生前に多くを求めるようになるのは当然だ。「神を敬わず、恐れないことが、あんたがたの大争の世の原因だ。」老族長が生前汁琮に言ったことがあった。当時の汁琮は一笑した後で、頷き、「あなたの言う通りだ。」と言ったものだった。

人の命が一つなら、例え何千万人殺そうが、最後には自らの命で償うほかに何ができようか。それでいくと、より強いものの勝ちと言うことになるだけだ。

風戎人はどうだろうか?彼らの信仰によれば、生前多くの悪事を働けば、死後に諸神の怒りにふれ、懲罰を課される。煉獄で終わりなき苦を与えられるのだ。そのため三胡の間では、他に解決方法があるなら、殺人という手段はとらず、他に方法がないときのみに行う。

 

一番いい例は耿淵だ。あの時彼は六人殺したことで天下に血の海を作ったが、天下人は彼に何か報復できたか?彼とて命は一つだ。死ねばそれきり。死の直前まで全く後悔すらなかった。

そういう意味では、汁琮は勝ったが、彼の手に奪われた命は数えきれない。「大義」の名のもとに人の生死を左右するだけではなく、自己の病的な権力欲を満たすためだけに大地を血で染めた。今、ようやく彼は死んだが、家を追われ愛する人を殺された人たちは納得できただろうか。できなかったとすれば、彼がどうなれば納得できるというのか。

 

朝洛文は再び口を開いた。「臣下たちが話していることを耳にしたのですが。」

太子瀧は我に返って答えた。「私も聞いた。調べてみてくれ。」

「あれをお信じに?」

朝洛文は正直で頼れる兄貴分だ。十七歳年上で既婚、一男一女がいる。彼は耿曙よりもむしろ頼りになる。同じように無口だが。ただ、だいたいいつも戦いに出ていて汁瀧のそばにいることは少ない。だが太子瀧にはよくわかっていた。朝洛文が命を懸けて雍国のために戦うのは、汁綾のためでも、汁琮のためでもなく、自分、汁瀧のためなのだと。ちょうど耿曙が姜恒のためには一切を顧みないように、朝洛文は、未来の王位継承者である太子瀧のために全てを捧げているのだ。

 

済州の戦いの後、軍の中ではある噂が広がっていた。:姜恒と耿曙が共謀して汁琮を排除した。

「噂を信じていたら、面と向かって兄に聞いている。」太子瀧は答えた。つまりこういうことだ。信じていないし、そんな話ももう聞きたくない。朝洛文はそれについては何も言わず頷いた。「お気を付けください。」

「何に気を付けるのだ?父王を殺した人が、今度は私を殺しに来るから気をつけろと?」

朝洛文は言いたかった言葉を飲み込み、勧告するのはやめることにした。従弟の心根の優しさを誰よりもよくわかっている。彼の母同様、人との言い争いを嫌うのだ。

「父は自分で自分を死に追い込んだ。人間だ。神ではない。人間は死ぬものだ。」

「言い出した者がいるはずです。」朝洛文は剣を抜いて目をやり、再びさやに収めた。誰であろうと、太子瀧に手を出す者からはこの剣を使って守るので、心配無用ということだ。

「調べてみてくれ。」太子瀧は遠くから届いてくる《越人歌》を聞きながら言った。「たぶん噂を流したのは衛賁だ。」

「今は武官を処分すべき時ではありません。」

「わかった。」太子瀧は頷いた。

父が死に、軍は不安定な状態だ。今は汁綾、朝洛文、耿曙の三人が何とか落ち着かせているが、こんな時に衛家を処分すれば、他の者が不審を抱くだろう。

太子瀧は知っていた。衛卓は安陽での死の直前、耿曙からの攻撃を受けているのだ。耿曙は直接手を下したわけではなく彼の馬を切り殺したそうだ。だが年配の衛卓は驚いて落馬し、翌日には持ちこたえず命を落としたとのことだった。

 

衛賁は耿曙を深く恨んだことだろう。衛卓と彼らの間に何が起きたのかはわからないが、一時的に決着がついてはいても、衛家と姜恒の間には氐人を開放したことで摩擦が生じていた。

朝洛文は剣を収め、近づいて太子瀧の頭をなでた。もう休むようにということだろう。太子瀧は机の上に積み重なった文書を見て疲れで顔がひきつった。やらなければならないことがあまりに多すぎた。

 

 

夜半過ぎ、酔いがさめた界圭はゆっくりと部屋を出た。姜恒を起こさないようにそっと戸を開け、戸外に座って夜を明かした。夜が明けると耿曙も部屋から出て姜恒の部屋の前で待機しだした。まるで二人の侍衛のようだ。

界圭は耿曙の様子を見た。耿曙はまた眠れぬ夜を過ごしたようで、やるせなさそうに空を仰いでいた。

「もういいことにしたんですか?いらないなら私がもらいますよ。」界圭が言った。

耿曙は何も答えない。界圭は「汁家には借りがありますからね。もうずっと待っていました。先着順ということであれば、私の方が先に来ていますから。」と言った。

耿曙はやはり何も言わない。界圭は考えた末、頭をなでながらまた言った。「あの子は結構私を気に入っていると思うんですけどねえ。どう思いますか?」

 

耿曙は立ち上がっ無言で立ち去ろうとした。姜恒が扉を開けて、不機嫌そうに声をかけた。

「どこにいるの?入ってきてよ。」

耿曙は忍耐を取り戻して尋ねた。「誰に言っている?」

「あなたです。これを収めるのを手伝って。読まないでね。」

姜恒は耿曙に一通の封書を渡した。落款はないが、桃花殿内で使われている封だから、太后が姜恒に渡したものだろうと当たりをつけて、懐中にしまった。

「これは周游に。」姜恒は界圭に別の文書を一束渡した。「私は二日間休みを取る。議政はお休みして安陽を一人で歩きたいから、ついて来ないでね。」

「それはだめですよ。」界圭は顔に笑みを浮かべて姜恒に言った。「じゃまにならないように、離れたところから見守っていますね」姜恒は言い張らず、界圭に目をやると立ち去った。

 

この日、姜恒は宗巻に注を付け、太子瀧と謀臣たちが討論し決定できるように用意しておき、一息つくため休みをとることにした。界圭のことは待たずに安陽宮を出て行く。秋が来て、安陽の楓は美しく色づき、山の上から下まで一層、また一層と続いている。

彼と耿曙が汁琮が放った刺客たちにここで殺されかけたのは、ついこの前だ。梁国人は風の噂に汁琮の死を知り、戦乱もまもなく収まるだろうと、続々と国都に戻ってきており、市場も活気を取り戻していた。

 

姜恒が王宮を出る時に振り返って見ると、耿曙が二十歩の距離を保って遠からぬところからついてきていた。姜恒が振り向けば、耿曙も楓の葉の舞う中で立ち止まり、姜恒が暫く見つめた後、前を向いて歩きだすと、耿曙もまた歩き出した。

 

界圭も太子瀧に謁見した後やってきた。姜恒の後ろに控え、耿曙と共に急がず送れず、近づきすぎないようにしていた。

「彼の生涯で一番の望みは何だと思います?」界圭がふと耿曙に尋ねた。

「さあな。」今回は耿曙も答えてやった。

「汁琅のことですよ。」

「なら、余計わからん。野心じゃないのか?」耿曙は冷ややかに言った。

界圭は一笑し、姜恒が市の前に立っているのを見ると、歩を速めて近づいて行った。姜恒は界圭にはお構いなしに、出店を見て回った。店の前には人々が集まり、銀杏と楓の枝で作った輪飾りを買っていた。それはまるで金紅色の花束のように見えた。梁人はこの輪飾りを戦争で死んだ家族の祭壇に供えるのだ。姜恒は一束買おうとして体を探りお金がないのに気づいた。

「私が持っていますよ。いくつ買います?」界圭が現れて尋ねた。

「一束でいい。」姜恒は振り返って耿曙を眺めた。静かに立っている。

「秋は気候がいいですから、点心でも買って一緒に山の上で食べませんか。」界圭が言った。

 

 

王宮内。

太子瀧は朝廷を見まわし、群臣を激励してから、軍報の閲読を再開した。大臣たちは太子が悲しみから抜け出してきたようだと感じていた。彼の悲しみは本物で、それまでの父子の軋轢を微塵も感じさせず、人々は敬服した。まあそれはそうだろう。汁琮には息子が一人いるだけだった。継承者という地位を廃したくてもそれは不可能だ。

太子が禁足を喰らった時、曾嶸たちは思ったものだった。汁琮に子が一人でよかった。もし何人かいれば、今頃継承者争いが起きていただろう。王子同士の殺し合いは、いつの時代のどの国家でも大きな災いをもたらす。王位を勝ち取った者が必ず粛清を行い、朝廷が資源を尽くして培ってきた治国の材がきれいに殺されてしまうからだ。

太子瀧はここ数年、素晴らしい成長を遂げ、汁琮が征戦に出れば国内政務は太子と幕僚が処理してきたため、朝政への移行はとても平穏だった。太子瀧はいつも姜恒が言っていた話を覚えていた。大国を収めるのは総菜を作るがごとし。魚が一尾手に入ったら、先ずこれをやり、次にこれをやる、という風に、秩序立てて行うべし。

軍務の方は煩雑だが、耿曙がいればバタバタ混乱することはないだろう。朝廷はほんの6、7日の間に勢いを取り戻した。管魏の引退や陸冀の権限移行さえ、大きく影響しなかった。

 

太子瀧は書房に戻った。朝洛文の報告がきた。本人は来なかったが別の人物が来た。

―――衛賁だ。思った通り、流言は衛賁発信のようだ。衛賁は拝礼後、黙っていた。

「何か説明することがあるだろう。」太子瀧が言った。衛賁は屈辱的な表情をした。

太子瀧は彼を見た。衛賁はすでに四十代で、朝洛文より年長だ。武芸の方は彼に及ばず、耿曙とは比較にならない。衛家はここ数年、大貴族にお定まりな運命をたどってきた。年をおうごとに衰退し、後継者に欠くという。衛家は曾家のような有能な文官を出さず、耿家のように若くして才気あるれる者もいない。

汁瀧の祖父の代には、衛家は昼間の太陽のように輝き、雍国の半分を掌握するほどだった。

伯父の汁琅が後を継ぐと、四大貴族の権勢は制限され、衛家は危険を察知して成りを潜めることを選んだ。だがうっかり成りを潜め過ぎた結果、凋落の道をたどり、曾家にお株を奪われた。それでも衛卓は汁琮の参謀として、不可欠な地位にあった。汁琮が在位中、太上皇となったとしても、衛家に危険はないはずだった。四大貴族の内、三家は東宮を選んだが、衛卓は彼の路線を貫き、汁琮の傍を決して離れようとはしなかった。

 

順調にいけば、汁琮の天下統一により、衛家は天子開国の攻臣となるはずだった。それなのに、すべてが一夜にして崩れ落ちてしまうとは。

汁琮の薨去は、衛家には青天の霹靂で、当主の衛卓は安陽で命を落としていた。

汁琮が衛卓の忠誠を鑑みて、彼の子孫への道を確保しておいてくれたのは幸いだった。落雁の一戦の後、守備体制を改変した際に、衛賁を御林軍統領とし、虎威将軍の官号を与えたのだ。御林軍は天子に絶対服従する直属部隊だ。衛賁は何度も太子瀧に暗示してきた。衛家は王室に絶対の忠誠を尽くすので、子孫へは善処を頼みます、と。

太子瀧はことを大きくするつもりはなかった。今のところ衛賁は味方で、それは朝洛文、耿曙や姜恒と同じ立ち位置だ。

衛賁は言った。「殿下はご存じない方がいいこともございます。」

太子瀧威は眉をしかめた。計画では、衛賁が何を言おうと、二言三言しかりつけ、それ以上言わないように言いつけるつもりだった。だが衛賁の言葉に、逆に疑心が沸き上がった。

「どういう意味だ?つまり、事情をはっきり聞くのはやめてあなたに罪を擦り付けてもいいということか?」衛賁は太子瀧をじっと見た。太子瀧は冷たく問いただした。「あの日何があった?」

衛賁はようやく答えた。「臣にもはっきりとはわかりません。あの殺害命令は、先王が下されたのです。」実は結構よく知ってはいた。衛卓が早くから色々暗示してきたため、例の年に起きたことまで衛卓は早くから知っていた。だが敢えて言わない。あるいは今は言わない。

今はまだ太子瀧の性格がつかめていないからだ。彼が第二の汁琮になるのかどうかも含めて。汁琮であれば、真相を知った後、耿曙と姜恒を抹殺してから、口をふさぐために自分を殺すだろう。太子瀧の態度を見極めなくてはならないが、相手の出方に少し疑問が生じていた。太子瀧は汁琮のやり方に賛成していなかったし、朝野のうわさでは父子は心が離れていたという。ここは慎重にいかねばならないだろう。

 

「つまりあなたは彼らに手を下したのだね。」太子瀧は遠慮なく尋ねた。

その言葉に答えるすべはない。汁琮の命令だ。誰が抗えるか?誰が敢えて抗えるのか?あなたが抗えたのは、彼の息子だからではないか!

「臣下として、主君への忠誠とは何だと心得ている?主人が間違ったことをしようとしたら止めることだろう!人は完璧ではない。死ねと言われたら死ぬのか?なぜかと問いもせぬのか?」    

これを聞いて衛賁は思った。やはり例のことを言わなくてよかった。父が生前言っていたことは実に正しい。太子瀧は薬を盛られて操られているのだ。彼は完全に姜恒の味方だ。例え外国と共謀したとしても、悪いのは彼の父親の方なのだ!

「はい、陛下。」衛賁は口答えもせず頭を下げた。

「もういい。」太子瀧は人を責め立てるのが好きではない。臣がつらそうな様子を見るのはもっと嫌いだ。「その話はもうするなと軍中に命令を下すのだ。」

「はい。」衛賁は淡々と答えた。