非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 110-115

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第110章 雍廟の鐘:

 

太子瀧は宗廟の前に立っていた。髪を乱したまま目を大きく見開いて、眼前の、敵軍に攻め落とされた落雁城を見る。彼の家のあちこちで火が立ち上っている。人々が泣き叫ぶ声が、寒風と大雪の合間を縫って遠くから聞こえて来る。

どれが敵軍で、どれが雍軍なのか。兵士たちは皆、髪も眉も雪に覆われ、血染めの鎧も大雪のせいで元の色がわからない。まだ生きている人もあちこちで殺され、死ねば雪に覆われる。

落雁城の本街道から命を顧みずに宗廟に向かって来た人々が、時間がたつごとにさらに多くの死体となって次々と地を埋めていった。

 

「汁」と書かれた王旗が近づいてくる。太子瀧は全力を尽くして剣を振るいながら宗廟前に戻って来た。「殿下!」御林軍が包囲を抜けて来た。太子瀧は両手で剣を持ち、宗廟の階段を下り、大雪の中、必死で戦ったが、鄭軍も死を恐れぬ戦いぶりで近づいてきた。太子瀧を捕らえて雍国の宗廟を焼き払えば、大戦の終結を宣言できるからだ。

 

雪花が顔に落ちてくる。何をすべきかはわからない。だが恥を忍んで生きながらえ、国家存亡の時に北地へ逃げて行くよりは、家族と共にここで命を終えたい。そのために雍国最後の血脈が耐えようとも知ったことか。落雁が踏みにじられ、家族が死んでいくのを見届けることなどできるはずがない。

 

「今はまだその時ではない―――!雍人はまだ死なない!」

太子瀧が檄を飛ばした。すると御林軍は鼓舞され、士気が上がった。雍軍は百年来、勝つか死すか、選択肢は二つだけだ。それが貧しさから逃れる唯一の手段だったからだ。兵たちは太子瀧に続いて宗廟前の階段を降り、背水の陣とばかりに押し寄せて来る鄭軍に立ち向かった。

 

今、太子瀧は初めて『死』というものに直面していた。死は正に迫り来ている。鮮血が顔にかかったが、そんなことには気づかなくなった。目に映るのは殺すべき者か殺しに来た者だけだ。彼が発した声は殺戮の濁流にのみ込まれていった。

 

だが次の瞬間、全ての音が消えて無くなった。一人の刺客が目の前に現れた。浪人のようなふうたいで、口の端を上げ偽の笑顔を浮かべていた。刺客は両手に持った長刀の刃を旋回させ、太子を守っていた御林軍の兵を切り殺した。

「勇気はすばらしいが、実力が伴いませんな。」孫英は嘲笑した。二本の長刀が太子瀧の左肩と右足に向けられる。これが当たれば自分は体を真っ二つにされ、引きちぎられた木偶のごとく、鮮血を噴出して地に落とされる。太子瀧の瞳孔が収縮した。

 

その時だった。黒い戦馬に乗った年若き武将が咆哮を上げながら、彗星のごとく走り込んで来た。奔馬は浪人を突き飛ばし、不意を突かれた浪人は空中に鮮血をまき散らしながら、吹っ飛んで行った!

耿曙が馬上から頭を下げて、汚れにまみれた顔で太子瀧を見た。

太子瀧は体中の力が抜けてしまったような気がした。手に持っていた剣がガランと音を立てて落下した。

「兄さん、」太子瀧の声は震えていた。「私は、今度は、逃げなかったよ。」

耿曙は宗廟の高所を指さして小声で言った。「あそこに上がっていろ。」

太子瀧の呼吸はようやく少し落ち着いてきた。少し後退してから、階段を上り始めた。涙が止めどなく流れる。「兄さん!恒児は?」

耿曙は馬の鼻を長い街道に新たに集まった鄭軍に向けた。今まさに宗廟に突入しようとしている。

「汁瀧、」耿曙は少しだけ顔を向けた。

「兄さん?」

「よくやった。」耿曙は軽口をたたくように言った。「耳の上の血をちゃんと拭き取れよ。兵士たちに告ぐ――――!隊伍を組みなおせ!」

耿曙は烈光剣を掲げた。御林軍と林胡人はたちまち彼の前に集まった。林胡人は弓矢を持って後方に行き、御林軍は盾を構えて片足だけで跪いた。盾からは長槍が伸びている。

「死んでも退かぬと誓え!宗廟を守れ!王室を守れ!」

「死んでも退かぬと誓う!」万の兵たちは一斉に叫んだ。

 

戦馬に乗った耿曙のそびえるような高き姿は、煉獄で何千何万の鮮血を浴びて復活した魔神のようだった。視線の先には長い街道の両脇から湧き出て陣を組もうとしている鄭軍の姿があった。

「かつて俺の父があんたの父の命を奪った。」耿曙の声が蒼白の空の下に響いた。太子霊はこの城のどこかにいるはずだ。「今日はあんたが俺の手中で死ぬ番だ!」

耿淵がよみがえったかのようだ。鄭軍はしんと静まり返り、前進しようとする者はいなかった。その時、遠方から鳴金が聞こえて来た。(鳴金=撤退の合図)

 

―――

城南にて。

汁琮は、耿曙が連れて来た風戎戦士に支えられていた。全身に血を浴び、殺気に満ちているが、体のどこかに当たった矢のせいで、視界がぼやけていた。

彼は城南壁から敵軍を駆逐するのに成功し、戦線を城外に推し進めていた。

汁琮は遥か彼方にある巨鼓と、木々の生い茂った山頂を見た。耿曙が敗局を挽回した後、鼓声は停まっていた。あれは姜恒だろう。……彼以外にはあり得ない。

 

姜恒と耿曙が連れて来た北方全土の外族が王都を救ったのだ。それを考え、汁琮はため息をついた。長兄の呪詛が消え去ったようだ。――自分が何をしたにしろ、兄も祖先の一人として、この国家を守ることに尽力してくれたのかもしれない。

再び遠くから鳴金の音が聞こえると、敵軍は潮がひくがごとくに撤退していった。

汁琮は周りを見回した。鄭軍は暫時撤退し再戦するつもりで鳴らしているのか、それとも本当に兵を退く合図なのか。どちらにしても最も困難な時はついに終わったのだ。

 

その時、宗廟のある長城から巨鐘が三度ならされた。『ゴーン、ゴーン、ゴーン』

雍国全軍は一斉に武器を掲げて勝利の雄たけびをあげた。勝ったんだ!

汁琮は城前に馬を駐め、太子霊の戦車が百歩外に停まっているのを見た。戦いを放棄した鄭軍がその周りに集まってきていた。言いたいことはあるだろうが、声にならない言葉は全て大雪のなかに埋もれてしまった。

汁琮はつぶやいた。「いつかまた戦おう。待っていろ。孤王はお前の済州を隅々まで破壊し尽くしてやる。鶏一羽、犬一匹に至るまで何も残らないようにな。」

 

 

―――

鐘の音が聞こえた。姜恒の意識は少しずつこの世界に引き戻されて来た。冷たい雪花が

顔に落ちて来た。誰かがいる。時が逆戻りして不思議な記憶が蘇って来るような気がする。重なり合うような感じだ。いつだったか、こんな風に誰かが自分を抱いて、大雪の中、走り続けていたことがあった。いつ?どこで?

暖かな涙が顔に落ちた。姜恒は安らかな気持ちだった。十八年前にも、雪の夜、この人の腕の中にいたようだ。「ハンアル……恒児!」界圭の声が遠くなったり、近くなったりして聞こえて来る。目の前の光景に白い霧がかかり、消え去った。姜恒は再び長い夜に包まれていった。

 

「目を覚ました!」

「姜大人が目を覚ましたわ!すぐに知らせを!」女性の声が叫んでいる。

姜恒の胸に激痛が走った。力を振り絞って起き上がろうとすると割れるような頭痛がした。「あああ、痛たたた。」姜恒は痛みに呻いた。「玄武神に胸を踏まれたようだ。」目覚めて、最初に見えたのは耿曙だ。憔悴しきった顔をして、目は真っ赤、髪は乱れ、全身は汚れきっている。

「動くな。お前は傷を負っている。胸を剣で突かれたんだ。横になっていろ。」

耿曙の声は少し落ち着きを取り戻していた。

姜恒は帳頂の花紋を見た。自分の部屋ではない。耿曙の寝室のようだ。

「薬を受け取れ。少しはましか?」耿曙の視線は姜恒から離れず、声は震えていた。

「平気。ただ、……痛っ。」姜恒は眉をしかめた。

 

胸の傷がずきずきと痛む。だが昔、両足を折った時よりずっとましだ。あの時は羅宣が鎮痛薬を与えてくれたのに、息をするだけで傷が痛んでいた。

「筆を貸して。自分のための薬を処方するから。」

界圭が一陣の風の如く門を押し開けて入って来て、姜恒を見るなり手を伸ばして脈を診た。「言ってくれ。記憶する。」耿曙は簡単に言った。

姜恒は薬材の名前を告げた。界圭が言った。「私が行きます。ご自身が医者ですから、一番わかっていますよね。」耿曙はすぐにうなずき、界圭はまた出て行った。

姜恒は無理して笑おうとして傷がひどく痛んだ。耿曙の手をひっぱると、耿曙は黙ったまま、頭を下げて、姜恒の左手に顔をうずめた。

姜恒の手の中に、熱い涙が落ちたかと思うと、耿曙が大声で泣きだした。

こんなに大泣きする耿曙を見るのは初めてだ。再会したあの日だって、泣いたと言うより、喜びの涙を浮かべただけで、それもすぐに姜恒に宥められた。

こんなにつらそうに泣いている耿曙を見ると錯覚じゃないかとさえ思う。ちょっと前まで耿曙は威風堂々と北地の大軍を招集していたのに、こんなにもろい一面があるなんて。

「大丈夫だよ、兄さん。私は大丈夫。ほら、ちゃんと生きているでしょう?」

耿曙は泣きすぎて体が震えていた。嗚咽しながら言う。「俺には無理だ。ハンアル。気が狂いそうだった。」姜恒は疲れた笑みを浮かべた。「ほらほら、もう泣かないで、兄さん。大丈夫だから。怪我は……たいしたことない、本当にたいしたことないんだから。」しばらくたってから、耿曙は喘ぎながらも平静を取り戻したが、姜恒の手を放さなかった。

 

「みんなはどうなった?」こうして雍宮にいるってことは勝ったんだな。耿曙なら勝つとわかっていた。いつだってそうだったもの。耿曙は聞かれたことには応えず、「お前が胸元に入れていた帳簿に剣が刺さったせいで深くは入らなかったんだ。」と言った。姜恒は噴き出しそうになったが、笑おうとしたら傷が痛んだ。「衛大人に命を救われたなんて。ああっ!笑えない…。」耿曙も笑いかけたが、その笑顔は苦悩に満ちていた。

 

「何日たったの?」姜恒は耿曙の口元や顔に伸びた無精ひげを見た。目は落ちくぼみ、一夜にして年を取ってしまったようだ。「三日だ。」耿曙が答えた。

その三日間、耿曙は何もせず、どこへも行かず、口も利かず、寝食もせず、ただひたすら枕もとで自分を見守っていたのだろう。

「少し休んで。私も良くなってきているから。」もし剣があと一寸深く刺さっていたら大変だった。衛家を捜索して探し出した帳簿のおかげだ。それに界圭がちょうどいい時に来て刺客を始末してくれて助かった。

 

「死者はどれくらいになった?」姜恒は弱々しく尋ねた。

「しらん。」耿曙はずっと姜恒から目を離さない。「界圭がお前を抱いて王宮に戻ってから、他の事は何も聞いてない。」

「あなたの父王はまだ生きている?」

「生きている。皆生きている。姜太后もだ。少し傷を負ったが。」

 

姜恒は寝殿に何人も若い女性がいるのに気づいた。桃花殿に仕える侍女の服装だ。太后が自分に仕えさせたのだろう。目が覚めた時、報告に行った人もいたっけ。

「みんな越女だ。故郷の者を王祖母がつかわしてきた。」

「食べる物はある?」姜恒が聞くと、越女は答えた。

「ございますよ。姜大人は何を召し上がりたいですか?」

「お粥を少し持って来て。私は食べないけど、淼殿下に食べさせて。私のことは待たないで大丈夫。このままだと兄は疲れて先に死んでしまうかも。」

耿曙は苦笑いしたが、姜恒の手を握ったまま放そうとはしなかった。しばらくすると界圭が戻って来た。姜恒に薬剤を見せると、姜恒は何とか頷いてみせた。「じゃあ煎じて。」

 

扉の外から守衛を務めていた越女の声が聞こえた。「姜大人は目覚めたばかりです。太后のご命令で、お話があっても何日かたってからまたお越しいただくようにとのことです。郎煌の声がした。「わかっている。王子を探しに来たんだ。」

耿曙が顔を上げた。姜恒は声をかけた。「烏洛候煌なの?入ってもらって。」

越女は戸を開けたが、郎煌は入って来ようとせず、戸の外から姜恒を見た。

「山沢が傷薬を作ったんだ。塗り薬だ。飲み薬は君が処方した通りに界圭が調合しているのを見た。でも宮中の医師の方はあまり優秀そうじゃないな。氐人は漢人ほど薬に詳しくはないけど、打ち身や刀傷の薬ならお手の物だ。」姜恒は体を少し上げて頭を下げた。

「兄さん、行って。きっと大事な話があるんだよ。」耿曙は素直に立ち上がろうとしてめまいを起こし、座り込んだ。もう三日も何も口にせず、神経をすり減らし続けていた。ふらふらと歩いたかと思うと、壁に手をついて、しばらく休んだ。

「何の用だ?」

「ちょっと来てくれ。話したいことがある。」

耿曙は振り返って「すぐ帰るからな。」と言った。

部屋にいた三人の越女は耿曙の様子を面白がって、にやりとしたが、姜恒が不思議そうに見ると、笑いを引っ込めた。           (腐女子?)

「殿……界大人、私どもが致します。」越女の一人が界圭のところに来て跪いた。

界圭は咎めるような視線を送り、娘は口をつぐんだ。

よく聞こえなかった姜恒は界圭の顔を見た。

界圭は跪いて薬湯を煎じていたが、いつの間にか自分を見ていたようだ。

「まだ痛みますか?」

「ちょっとね。どうして私の居場所がわかったの?」

最後の瞬間に界圭が来てくれなかったら今頃自分は死んでいただろう。あんなに色々想定したのに、まさか太子霊が自分に刺客を差し向けて来るとは思いもしなかった。本当に賢い人だ。自分が高台で指揮をとると計算したのだろうか、それとも前もって衛兵の中に間者を送り込んでいたのだろうか。

 

耿曙は出陣する時に百人の守備隊を姜恒のために置いて行った。太子霊が全軍を出動させてから、周囲は詳細に偵察したし、孟和が何度も海東青を放って監視していた。待ち伏せできたはずはない。自分がいた後陣に突撃するのは不可能だった。だがまさか耿曙の手の者に鄭国の刺客が紛れ込んでいたなんて!

 

第111章 銀面具:

 

「私は黒剣を賜って趙霊暗殺のために遣わされたのですが、半日探し回っても居場所が見つかりませんでした。」界圭の語調は落ち着いていた。

「戦いが始まると撃鼓を打ち鳴らす者がいるのに気づきました。あなただろうと思って、旧交を温めようと向かったのですが、まさかあんなことに出くわすとは思いませんでした。」

「任務をちゃんと遂行すべきだったんじゃない?暗殺も未遂だったのにふらふら持ち場を離れるなんていったいどういうこと?」

落雁は落ち、宗廟は壊され、七鼎は持ち去られました。あなたのお父上の神主牌も焼かれてしまったのに、仇討ちして何になります?世界中の皆が殺し合っても一人の命に換えられません。」姜恒は微笑もうと努力した。「本当かな。あなたにとって私が世界中の人の命と引き換えになるほどとは思ってなかった。ご寵愛に恐悦至極だよ。」

 

界圭は太子霊暗殺を放棄すべきではなかった。敵の総帥をほったらかして自分のことを

探しに来た。国家存亡の時に唯一の機会を放棄したとなれば、国家への裏切りと取られてもおかしくない。「社交辞令ってやつですよ。誇張したんです。わかりませんか?」

姜恒は苦笑いした。界圭は何げない口調で続けた。「まあ、恥ずかしいのでやめましょう。それよりもお兄上です。…やさしくしてやってあげなさい。お兄上はそれこそ狂乱して世界中の人を虐殺しそうでしたから。あなたがもし目を覚まさなければ、…鄭国の人口は?」

「一千四百万くらいかな。」

「一千万以上があなたに殉死させられたでしょうね。」

「私だって好きで刺されたわけじゃないよ。」姜恒は心の中でため息をついた。「太子は?雍王は?太后は?他のみんなはどうなった?」

「太子は本来逃がされるはずだったのに、あの坊やは逃げる気など全くなく、城を出たかと思うと戻って来て宗廟を守ったんです。かわいそうに片耳を失いました。切り落とされた耳は雪に埋もれたのか、いくら探しても見つかりませんでした。」界圭は何でもないように言っているが恐ろしい状況だったに違いない。

 

「王子たちは四人とも無傷です。雍王子だけはあなたのせいで命が縮んだかもしれませんがね。風戎王子、林胡王子、氐王子は皆生き延びました。林胡人が一番ひどくやられました。王子たちは皆あなたに会いに来ましたが止められました。」

「雍王は?」

「少し怪我をしました。静養中です。太后は矢を三本受けました。重症ではありませんが、お年なので、しっかりお休みいただかねばなりません。まあ、この侍女たちに聞いて下さい。私も戻ってからまだ桃花殿には行っていないんです。ここでずっとあなたの護衛をしていましたから。この娘は案渓、こっちは依水、一番若いこの娘は明紋、皆太后の手の者です。じゃまにしないで下さいね。」

 

三人の越女は界圭と姜恒が話している間、口を挟むことはなかったが、姜恒が目を向けると、一番年若い娘が嬉しそうに笑って「太后の傷は大丈夫です。ご心配なく。」と言った。ほっとした姜恒は太子瀧の怪我の方に思いを移した。「少し良くなったら太子の様子を見に行かないと。」

 

界圭は煎じた薬を冷ましながら言った。「あなたのところの宋鄒って部下は、火を放って玉壁関を丸焼けにしたんですよ。大した玉ですな。」

姜恒:「……」

宋鄒もかなりな輩だ。連日の乾燥した天気に乗じて、当初の計画だった火計を実行して、武英公主の関破りを後押ししたのだろう。         (宋鄒最高か)

「奪回できたの?」

「奪回できました。両側の山にまで燃え移りましたけどね。太子霊と李霄が合流したところを曾宇が追撃して、承州城も奪回できましたし、奴らを潼関の南に追い払いました。やっぱりあなたの関心は軍報にあるようですね。」

「ああ……よかった。天と地に感謝だ。」

思った通りだった。落雁の危機さえ脱し、雍国が抗戦し始めれば、太子霊にはもう雍国境内で長期戦に及ぶ力はなかった。最初からこの戦争は双方の国を挙げての大きな賭けだった。こちらが勝って、太子霊は賭けに負けた。それだけだ。

 

「外はまだ雪が降っているの?」姜恒が尋ねた。

「ええ。もう三日も降り続けてやみません。」

「鄭軍は何万人もが凍死するだろうね。」

 

天気の力とは神の助けのようだ。太子霊が東蘭山畔の海岸から一路進んで来た時には、

天気は鄭に味方した。そして落雁城の壁を崩す瞬間までは敵が天候に恵まれ、勝利を手にしようとしていた。だが、最後に姜恒と耿曙に形勢を逆転され、あわてて逃げようとした時、天候も急に手のひらを返し、今まで与えた恩を取り返すかのように、太子霊から全てを奪い去った。

 

「少し粥を食べてから薬を飲んで下さい。」界圭は姜恒を見つめ続けている。耿曙と同じような表情だが、耿曙の自責の念とは少し違う、どうにもならない苦しみが見えた。界圭の眼差しにあるのは責任感といったところか。こういう眼差しを汁琮もしていた。議事か何かで殿に上がった時に見たことがある。汁琮が我が子に向けた眼差しが全く同じような責任感を帯びていた。心の声が聞こえるようだ。「かわいいが目の離せないちびすけめ。」

 

「薬は半分太子にのませてね。痛み止めだから。」耿曙は出て行ってずいぶんたつのに、まだ戻ってこないのかな?「自分の心配だけしていなさい。早く薬を飲んで、飲んだら寝るんです。」界圭には姜恒の考えがわかったようだ。

姜恒は意識を取り戻したが、すっかり弱っていた。衣を開いて郎煌が持って来た薬を界圭に塗ってもらった。とても気持ちいい。氐人先祖伝来の霊薬らしい。薬を換えてもらった姜恒は椀の粥を殆ど食べ終え、鎮痛の薬湯も飲んだため、眠くなってきた。

「少し休むよ……兄さんが戻ってきたら起こして。」言うや否や眠りに落ちていった。

 

 

庭園内の石山は雪に覆われていた。凍った池の中を魚が泳いでいたが、水草は凍り付いていた。

「そろそろ出て行こうと思う。」郎煌は長い廊下の途中で足を止め、耿曙に話しかけた。

耿曙は疲労困憊で、意識さえはっきりしていない。頭を振ってから、廊下の傍の雪をとって顔にこすりつけた。

「話というのは?」郎煌が自分を呼びつけたのは別れを告げるためでないだろう。

郎煌は剣を抱えて、庭園に振るささめ雪を眺めた。雪は太子霊が落雁に攻め入った日から、もう三日も降り続けている。天が弔意を示しているのだろうか。北方の大地で戦死し永遠に故郷に戻ることもできない魂のために葬儀を行っているのだろうか。郎煌はしばらく口を開かなかった。

 

「どこへ行くつもりだ?」

「まだわからない。汁琮は秋以降にきっと借りを取り戻しに行くだろう。彼の怪我が治る前には落雁を離れないと。」

「彼は行かない。俺は君たちに約束した。林胡人には新しい住処を与えると。」

「聞いたよ。太子は来年にも変法を進めるそうだね。だが、万が一のことがある。私はまだ君たち雍人を信用しきれないんだ。」

「それで?離れる前に仇を打とうと考えたか?」

「君にかなうはずないからな。しばらく保留にする。君が老いて剣を持つこともできなくなった頃に私は年若い林胡人を連れて君を殺しに行く。君が李宏を負かしたようにね。」

耿曙と郎煌は風雪吹きすさぶ回廊に向かい合って立っていた。耿曙の目は血走り、屈強そうな面持ちになった。「最後まで付き合おう。」耿曙は淡々と言った。

「風羽は?死んだのか?」郎煌は突然尋ねた。

耿曙はそっと口笛を吹いた。海東青が翼をはためかせて飛んで来ると彼の腕にとまった。

翼には包帯を巻いている。玉壁関まで飛んで行ったときに矢が当たったのを、汁綾が治療したのだ。鷹は頑強にも飛び続け、落雁の勝利、大雍の玉壁関奪還の報せを運び、新たな知らせを届けるため再び飛んで行った。

 

郎煌は手の甲を使って風羽を軽く叩いた。風羽はいやがらない。

「君を覚えているんだな。」耿曙は海東青はかつて林胡人が雍王室に献上した鷹だと知っていた。「生涯一人の人間しか見ようとしない。永遠に忘れず、その人の子々孫々までもわかるのだ。海東青がそれまで生き延びればの話だが。」郎煌は淡々と語った。

 

「ここに残ればいい。君の敵討ちは終わっていない。俺は君が修練し終えるまで待つ。」

「君を恨んではいない。本当だ。理由は……君はよく言えば一本の刀、悪く言えば一匹の犬だ。林胡人を殺したがったのは君ではない。君の頭を勝ち割ったとして何の意味がある?それで復讐を遂げたと自分を騙すのか?首謀者は汁琮だというのに。」

耿曙は黙ったまま何も言わなかったが、彼にもその通りだと分かっていた。

「汁琮が君を養った理由は君だって早くからわかっていただろう。」郎煌は用心深く周りを見渡した。他に話を聞いている者がいないのを確認すると口を開いた。「だけど、君を呼びつけたのはその話をするためではない。ある秘密を知っている。君の父親に関することだ。私もいつか死ぬ。その日はすぐ来るかもしれない。よく考えたが、この秘密を墓まで持って行くことはできない。」

「どの父だ?死んだ方か?生きている方か?」

「生きている方だ、聞きたいか?」

 

耿曙は郎煌の双眸をじっと見た。嘘を言っているだろうか。姜恒なら、郎煌の表情や何かを読み取ることができたかもしれないが、耿曙には人の心を読むことなどできない。ただ直観に従うだけだ。その直感が、郎煌はうそを言っていないし、言おうともしていないと告げていた。

「言ってくれ。場所を変えるか?」

「必要ない。私はただ君に伝えたかったんだ。君の養父がどんな人間か。信じるか信じないかは君次第だ。」

「俺は彼の元に来て五年たつ。君よりよくわかっている。」

郎煌は思う所があるように、大雪を眺めて手を伸ばした。「彼が実の兄を殺したことは知っているか?」

「知らないし、信じない。」

「十八年前大シャーマンが汁琅の病を診た。死に至る慢性毒に犯されていた。」

「言葉に気をつけろ。それが父に何か関係があるか?」耿曙は声を低めた。殺気を帯び、剣は持っていなくてもいつでも郎煌の喉を締め上げそうだ。

 

「一国の国君に毒を盛るなど、太后、汁綾、汁琅の妻の姜晴以外に誰ができる?」

こういうことに関して耿曙は家族を無条件に信頼し、よそ者の話など聞く耳を持たない。

「行くぞ。一緒に父王の所に行って直接聞いてみよう。君の話が事実だとしても、君が殺されないよう俺が守る。」

郎煌は笑い出した。「まだ続きがあるんだ。そんなに早く私に死んでほしいのか?」

耿曙がにらむと郎煌は眉を上げてゆっくり語り出した。「これを知る者はこの世で二人だけ。一人は死んだけど、君を加えたら三人になる。」

「……十八年前、汁琅が薨去した後、姜晴は赤子を一人残したんだ。」

耿曙は相変わらず動じない。「それで?」

「姜晴の出産には、大シャーマンが助産をした。私は七歳だった。大シャーマンは私を連れて王宮に行ったあの日、王后の薬の中に堕胎薬を見つけたんだ。確かまだ妊娠八か月の時だ。彼女は急にひどく出血した。大シャーマンは私に宮外にいた一人の御前侍衛を探して来るように言った。あることをさせるためだ。」

郎煌が記憶をたどりながら語るのを聞きながら、耿曙の眉は少しずつ上がっていった。

落雁城市に行って死んだ嬰児を見つけて来るよう言ったんだ。血まみれにして、生まれた赤子と取り換えるためだ。侍衛は期待を裏切らず、すぐに探し出してきた嬰児の遺体を私に渡した。私が大シャーマンに渡すと、大シャーマンは生まれた赤子を持って来た。生きていたか死んでいたか、わからなかったが、すごく軽かった。早産でもあったし、泣き声もたてなかった。狐の毛皮の中に包まれていた……」

 

耿曙は息が止まりそうだった。郎煌の話がうそでないなら、それは……朝廷に荒波を引き起こす出来事だ。雍国は晋礼を尊び、嫡男を長とする。汁琅が死ねば、その遺児が太子となるはずだ。国君の位を継承するために……汁琮は実の長兄を殺しただけでなく、姜晴も見逃さず、更に根絶やしにするために、お腹にいた嬰児までも殺そうとしたのだ!

 

「赤子が死んだかどうかは知らない。」郎煌は目を見開いて少し近づいて来て耿曙にむかってゆっくりと告げた。「それは私が問題にすることではない。私はその侍衛に赤子を渡した。侍衛は赤子を抱いて宮を出て、それ以降のこと、赤子がどうなったかもわからない。」

「侍衛はどこにいる?」

「君のすぐ近くにいるかもね。あの時は純銀の面具をつけていた。背は高かったと思う。誰だったにしろ、私はまだ子供だった。よく覚えていない。」

 

話し終えると郎煌の目に笑みが浮かんだ。「さあこれで私が荒野に散ろうとも、この秘密が消えてなくなることはなくなった。だけど、誰かに話すなら、くれぐれも慎重にな。誰が知ることになっても、その誰かは汁琮にとっては目の中の釘となるはずだから。」「なぜ俺に話した?」   (目の上のたんこぶじゃないんだ。ずっと痛そう)

「期待しているからだよ。ある日、君の手で汁琮を死に追いやることになるかもしれないじゃないか。自ら育てた犬に手を噛まれる。きっと面白い場面になるはずだ。いつかそんな日が来ることを願うよ。」

「おれはやらない、おれを育てたのは汁琮だ。汁琅じゃない。」

 

「君の玉玦は実の父親から譲り受けたものだろう?その玉玦を持つ者はもう一つの玉玦を持つ者を守る。汁瀧の方の玦は盗まれた物だ。耿淵の主人が汁琮でなくて汁琅だったように、君にも本当の主人がいることになるね。」郎煌はいたずらっぽく言った。

「そんな者はいない。俺には主人などいない。いるとすればこの世にたった一人だけ。

それは汁瀧でも、汁琅でも、汁琮でさえない。」耿曙は威嚇するように語気を強めた。

郎煌はしばらくの間、耿曙を見ていた。

 

その時、優し気な声が二人の会話をさえぎった。山沢が長廊に現れた。

「族人の遺体を集めて今から追悼するようだ。烏洛候、君も行くかい?」

 

郎煌が連れて来た林胡人の死傷者が一番多かった。連れて来た三千人の内、二千人近くが戦死した。無名村で姜恒に救われた者たちが恩を返すために戦ったのだ。救われた命だ、惜しくないとばかりに。

「野の草と同じ、死ねば星河に戻るだけ。追悼して何の意味がある?哀悼するのは自分の時にもしてほしいからだろう。」郎煌は淡々と言った。

山沢は笑って、「淼殿下、」と言った。だが耿曙はもう誰とも話すつもりはなかった。

精神が限界を超えていた。ほんのちょっとの刺激を受けても気を失ってしまいそうだ。

彼は山沢の横を何も言わず通り過ぎ、顔を向けることもなく立ち去った。

山沢は不思議に思った。郎煌は少しにやりとした。これで最後の使命が終わったからだ。

氐人と林胡人は昔から友好関係にある。風戎人だけは少し受け入れがたいが、それでも

雍人に対する時は三族は一致した態度をとる。

 

「一杯やるか?」郎煌が尋ねた。

離宮を出られない。まだ禁足中なんだ。」山沢は答えた。

「今の雍人を見てみろよ。鉄の軍隊って感じか?今招集された三族が暴動を起こしたら、

線香一本燃え尽きるまでに一切合切が塵となって土にかえるぞ。」

山沢は小さくため息をついた。「雍人を殺せば、鄭人が来るだけだ。いつになったら決着がつくことやら。それに、約束を果たさせなくていいのか?姜恒はまだ臥せったままだ。救いに来てくれない。君が暴動を起こせば王族の凌遅は、まのがれない。」

「彼ならもう目覚めたよ。」

「それなら、汁琮は命拾いしたな。」山沢は輝くような笑顔を見せた。

 

 

 

第112章 砕玉心玦:

 

耿曙が姜恒の神殿に戻った時、界圭は屏風の後ろに座って寝台によこたわった姜恒の様子を注意深く見守っていた。耿曙が戻ったのを見ると「シーッ」と言った。

「さっき薬を飲んでまた寝ました。」耿曙は黙って姜恒の傍に行き、薬を換えた傷口を調べると、椀に半分残っていた粥を飲み下して寝台に頭を倒して眠りに落ちた。

 

太子瀧の左耳があった場所は血だらけになったが、血止めはうまくいって、今は顔の周りに白布を巻いていた。あの時、鄭軍は宗廟の中まで侵入してきた。乱戦の中、浪人姿の刺客が自分の前にいた二名の護衛を切り殺し、彼の片耳をそぎ落としたのだ。耿曙が駆けつけてくれたのは幸いだった。兄が来なければ、孫英は手中の刀を軽く振り回しただけで、自分の頭をスパンと切り落としていただろう。

「兄さんはどうしてる?」太子瀧は痛みに耐えながら尋ねた。薬を調合していた周游は

「恐らく……忙殺されているんだと思います。三族軍はまだ城内に駐留しており、我らの方は一万に満たない状態なのです、殿下。」

 

王宮も、落雁城も、一目で狼藉の跡がわかる状態だ。宮中の文官たちは政務を回復させるため全力を尽くしているところだ。この大戦による、死傷者数、慰労金、埋葬のこと、外族連合軍への補償金、城壁の修復費用などの統計が必要だ。

 

「父王は?」

「軍を調整中です。」周游は心配だった。現在汁琮は何とかがんばって朝廷に顔を出すようにしていた。王が負傷していることを三族軍が知ったなら、こんなに守備が空虚な落雁だ。皆が結託して王宮に火を放ちでもしたら、誰にもどうにもできやしない。

言い換えると、この三日間の方が、太子霊が城を攻撃しに来た時よりも更に危ういのだ。だが、汁瀧は日頃の彼の様子より、はるかに冷静な態度を保っていた。

 

周游は少し感服していた。耿曙が一人で万の敵を倒しても別に意外ではない。元々彼は武の天才だからだ。だが、太子瀧も剣を持ち、全身に血を浴びて己の命も顧みずに戦ったのだ。耿曙からほんの少し武芸を教わっていただけなのに、初めての戦争でこの活躍とは、正に凡人には非ざる勇気だ。

 

皆早く武英公主に帰って来てほしかった。それまでは、些細なことにもおびえる毎日だ。「きっと大丈夫だ。もし私が趙霊なら、戻ってこようとは思わない。」太子瀧が言った。

 

落雁城の修復は少しずつ始まっており、工事は暴雪の中でも行っていた。汁琮は耿曙に三族連合を解散するよう命じた。だが、孟和、郎煌、水峻は、姜恒が意識を取り戻し、彼の無事を確認してから撤退したいと回答していた。汁琮に何ができるだろう?軍隊の解散を強制すれば自分がむなしくなるだけだ。

 

「こちらは姜恒が送って来た薬です。」周游が言った。

太子瀧はすぐにでも起き上がって彼を見舞いたかったのだが、周游にしつこく説得されてとどまっていたのだった。周游は太子瀧を見てため息をもらした。太子瀧は子供のころからそういう目つき、ため息を見てきて、もう慣れっこになってしまっていた。

「お前の言うとおりだね。」

周游は気まずそうな顔をした。まだ何も言っていない。だが太子瀧には分っていた。

周游は自分のことについて責任を感じている。城を出たなら戦いに戻るべきではなかった。もし落雁城が陥落して、自分も城内で死んでいたら、雍国は完全に終わってしまっていたのだ。「だけどお前だって、少しは私の気持ちもわかってくれよ、周游。」

 

周游は黙ったまま頷いた。誰にだって情はある。高き地位にいたって、人は人だ。まだ十九歳の青年に、最大利益を考えた行動だけをとれというのは難しい。感情に突き動かされる時だってある。結局のところ、戦争には勝ったのだから、それでチャラだ。

目下、太子瀧の周辺に頼れる人は誰もいない。祖母は療養中、父親は傷を負ったまま朝廷に鎮座し、叔母は玉壁関で兵を統率している。長兄はというと、どこかに行ったまま顔を見せようともしない……。

 

東宮を招集して。」太子瀧は考え考え言った。「朝政の秩序を一刻も早く回復しないと。」

「殿下、そうお急ぎにならなくても。」

「行って。私たちがやるべきことはそれだ。」

「先に薬をお飲みください。」

 

太子瀧は姜恒が送って来た薬を飲み下した。左耳を失ったのは恥辱に違いない。

だが、おかしいかもしれないが、この数日一番考えたのは、復讐ではない。

この事態を引き起こした根本原因――――彼の父親だ。もう少しで、敵は宗廟を焼き、

国君と太子を殺し、雍国は亡国となっていた。越のように。

だけどよく考えてみたら、一番ではないな。耿曙が自分を認めて言ったあの一言だ。

あの短い一言が雷鳴のようにいつまでも頭の中に響いていた。

 

その日の午後、東宮は会議の招集を再開した。太子滝は国都の立て直しのほか、占領された山陰、灝城、承州の3地のための煩雑な任務を管魏から分担した。幕僚たちは太子が耳を失い、黒々と固まった血痕の上に白布を巻いた姿を見て、物も言えず、恥辱と怒りを持って、政務を処理し始めた。

太子瀧は薬の影響で瞼が重くなり、最後には机に突っ伏して眠ってしまった。

「殿下?」周游が声をかけたが、「暫く眠らせて差し上げよう。」曾嶸が書簡を戻しながら言った。「お疲れなのだ。大変な思いをされて。」

            (よかったね、シルタキ、わかってくれる人たちがいて)

 

四日目、鄭軍が潼関から撤退して代国境へ逃げ去ると、曾宇は追撃を止め、雍国西南の大門である潼関を奪還した。報せが雍都落雁に着いた頃、雪がやみ、陽光が輝いた。

 

姜恒は再び目覚めると、腰を伸ばし、臥せっていた耿曙の体を押した。

「おーい、起きて……。お、き、ろ!」姜恒は大声を出した。びっくりして飛び起きた耿曙は寝台から転がり落ちた。屏風の後ろの界圭もすぐに弾かれたように飛び起きて、二人同時に目を覚ました。「あいたたた、痛いぃ……。」姜恒の傷口はだいぶ癒えて来た。山沢が郎煌に渡した薬の薬効はすばらしく、息を吸った時にじんじん痛むくらいだ。」

「大丈夫か?夕べ兄がお前の傷に乗ったのか?」耿曙は焦った。

「平気、平気。」姜恒は急いで耿曙をなだめた。界圭は単衣姿のまま姜恒の顔色を観察していた。「だいぶよくなりましたね。太后にご報告に行ってきます。」

姜恒は体がむずむずしてきて、沐浴しに行きたいと思ったが、耿曙は絶対に許さなかった。傷口が化膿したらどうする?「俺が体を拭いてやる。むやみに動くな。気を付けて脱ぐんだぞ。」

扉の外にはまだ越女がいて、部屋の動きをうかがっていて、すぐにお湯を持って入って来た。「姜大人のお世話をしに参りました。」

「いや、いや、」姜恒は正に服を脱ぎ始めところで、すぐに顔を真っ赤にした。「男女の別があります。兄が手伝ってくれるし……。」越女たちは笑みを隠せず、姜恒はどうしていいかわからなかった。耿曙は侍女たちを屏風の後ろに控えさせて、姜恒の服を脱がせ、体を拭き始めた。二人の体の影が屏風に映り、越女たちは背中を向けた。

姜恒は太后の意図が掴みかね、侍女は送り返すべきだと思った。太子霊のあの夜の再来は避けたい。「皆、戻っていいよ。私はもう大丈夫。傷はよくなったから。」

「姜大人は私たちをお嫌いですか?」一番年長の、安渓という娘が笑った。

「違う違う。」姜恒は急いで言った。「私のかすり傷より、太后のことが心配なんだ……。」

「そうだ。姜大人はお前たちが嫌いだ。皆出て行け。」耿曙は姜恒の背中を拭きながら、いらついた口調で言った。安渓、依水、明紋の三人は同時に笑い出した。かしましいが、活気があふれるな、と姜恒は思った。

「殿下はひょっとして焼きもちですか?」安渓が言った。「私たち、姜大人に何もしませんのに。姜大人が私たちに取って食われるとでも?」耿曙は普段冗談の種にされることなどない。雍国では、上は役人から下は民草まで、みんなに尊敬されている。あの姫霜でさえ、しっかり礼は尽くしていた。こんな風に笑いものにされるなんてどういうことだ?

「君等に怒るつもりはない。夫人の家の者たちなのだから。」

越女の性格は明るくさっぱりしている。姜恒はこの親近感がどこからきたのかわかった。昭夫人も越人だ。母は軽々と鞘を出ない剣のような人だった。母の同郷人であるこの娘たちも剃刀のようにすっきりと鋭利この上ない。

               (親近感は明るいほうじゃなくて鋭いほうね。)

 

明紋が笑った。「お二人だって越人じゃありませんか。耿大人は当然越人ですよね。七姉さんがそうですもの。」耿曙は母の名を聞いて一瞬動きをとめた。

「私たちは皆、砕玉心玦を修練しております。姜大人は本当に怖がらなくて大丈夫ですよ。」

安渓はわずかに笑みを浮かべて真剣に言った。「いや…別に。」姜恒は耿曙に早く袴を履かせてと合図した。何だかこの娘たちにこのまま鑑賞されたり品評されたりしそうでこわい。

 

耿曙は姜恒に袴を履かせようとして苦心している。二人は半裸なまま、耿曙はうまく動けないが、姜恒の薬を張り替えたい。明紋は二人の影をしばらく見てから、屏風のこちらに来た。「殿下、やはり私がいたします。」

耿曙はもう断らなかった。くっついた布を変える時に姜恒の傷口が開くのが心配だ。自分は外に行って、冷たい井戸水で体を洗うことにした。  (寒そう)

明紋の手の動きは柔らかく、細やかで、姜恒の胸にくっついた布を上手に剥がし、何の損傷も起こさなかった。「氐人の薬草はすばらしいですね。あと何回か使えば姜大人のお体はすっかり良くなりそうです。」傍らで見ていた安渓が言った。

「うん、」姜恒は頷いた。ほら、やっぱり品評されるじゃないか。話題を変えようと聞いてみた。「砕玉心玦って何なの?」「武功の一種です。」明紋は姜恒にそっと薬をつけた。「この攻法を修練するには、一生、処女の身でいなくてはなりません。嫁ぐのも、出産もだめなのです。」

「ああ……そう。」姜恒にはそれぐらいしか言えない。だが耿曙は動作をとめた。

その攻法の名をどこかで聞いた気がするが、冷水を頭から浴びて震え、忘れてしまった。

 

 

朝食時、耿曙は姜恒が断るのも聞かず、彼に食べさせていた。界圭は桃花殿から戻って来て三人越女に言った。「太后が戻ってくるようにと仰せだ。もうここで看ていなくていい。」

「はい。」三人は姜恒と耿曙に別れの拝礼をして出て行った。姜恒はほっと息をついた。

「陛下はしっかり休んだら、まず自分の所に来るようにと仰せです。あなたが昏睡している時に三族の王子たちも来ていました。少ししたら、三族連合軍を解散させて族人たちを帰郷させて下さい。」界圭が言った。

姜恒ははっとした。三族はまだ城内に駐屯したままだった。集めた者が帰らせなくては。自分と耿曙が集めた援軍だ。当然自分たちが送り出さねば。

 

「汁琮は私が号令を出すのを嫌がらないかな?」

「むしろ気になって寝食もできない状態ですよ。何度もあなたを訪ねて来たのに、あなたは昏睡してるし、兄上の方は何も言わずにひたすらあなたを見るばかり……。」

耿曙は別に恥ずかしいとは思わない。そんなの、あたりまえじゃないか。

「……私は、そのうち雍王は跪いて頼むんじゃないかと思いましたよ。『早く起きてくれー』って。」

姜恒は思った。あなたは汁琮を敬う気が全くないばかりか、笑いものにするんだね。どうりで太子瀧があなたを嫌うはずだよ。

 

ーーー

第113章 腕の中でのため息:

「昨日郎煌はあなたに何の話をしに来たの?」姜恒は好奇心を持って耿曙に尋ねた。

どきりとした耿曙は界圭に目をやった。その時ふと何かに思い至った。

姜恒:「?」

姜恒は耿曙のことをトントンとたたき、界圭は界圭で疑惑の目で耿曙を見た。

「何でもない。いつ軍を撤いていいかと聞いてきた。」

本当は姜恒にうそをつきたくない。だが仕方なかった。郎煌が言った通り、一旦秘密が知られたら、汁琮は口をふさぎにかかるだろう。——自分の事も姜恒のことも守らなくては。さもなくば、二人とも危険の真っただ中に置かれることになる。いつかは話し合うことになるだろうが今ではない。

「すぐにでも落雁から撤退させて。」姜恒は言った。

「そのつもりだ。王都は救われたばかりだ。味方を粗末に扱えば自分に返って来る。お前が撤退の指示を出してくれ。彼らにここに来てもらえばいい。」

耿曙の心情はまだ落ち着きを取り戻せていない。視線も定まらない。だが、汁琮が兄を殺したこと自体は、恐ろしいことだが王室内部の問題だ。本来の太子の生死や、更に‘界圭が’どこへ連れ出したかなども含めて、自分と姜恒には一切関わり合いのないことだ。姜恒は外族王子たちに会いに行きたがり、とめきれなかった耿曙は姜恒の手をとって同行するしかなかった。

 

その日の午前。

太子瀧は起床後、幕僚たちからの報告を簡単に受けた後、城内再建案に目を通し、曾嶸に文書を持たせて、自ら汁琮に事前報告をしに行った。言いたいことはたくさんあったが、今はその時ではない。重要なのは自分が成すべきことをしっかりやることだ。父親、叔母、祖母、皆それぞれ与えられた責任を果たしているのだ。

(↑耿曙が入ってない)

 

汁琮は衛卓、管魏の二人と話し合いをしていた。衛卓は城壁から落ちて右手を骨折し、腕を吊っていた。一夜にして年を取ったように見える。

太子瀧は言った。「工寮より、戦後再建の詳細があがってきました。父王にお目を通していただきたくよろしくお願い致します。」

 

「やらせなさい。見る必要はなかろう。費用は管相が決済する。」依然と変わらぬ堂々とした声で、汁琮は言った。曾嶸が管魏に拝礼し、管魏は着いてくるようにと示した。すぐに衛卓も出て行き、残された父子はお互いを推し量るように見つめ合った。戦いの後、初めての対面だ。汁琮は手招きをした。「来なさい。」

太子瀧が王卓の前まで行くと、汁琮は息子を自分の傍に座らせて、顔に巻かれた布をゆっくり剥がし、左耳の傷口を見た。

「戻って来るとは思わなかった。」汁琮の声はとても穏やかだったが、その大きな手は冷たく震えていた。「戻るべきではなかったのだ。」

 太子瀧は小声で告げた。「最初から逃げるつもりはありませんでした。」

汁琮はため息をついた。「あの時父が行ったことは全てお前を生き延びさせるためだったのだ。幸いにも汁淼が助けに来たが……。」

「姜恒もです。」太子瀧は思い出させた。

汁琮は布を剥がし終えた。元々我が子の耳があった場所は血の塊に塞がれた穴があるだけになっていた。しばらく動きを止めてから彼は話を続けた。「……お前が宗廟の前で死んでいたら、全てが終わっていたのだ。」

太子瀧は答えなかったが、目を見れば言いたいことは明らかだった。

『そうです。宗廟前で死んでいたら全て終わりでした。ですがそれは誰のせいですか?』牛珉が車裂きされ、辺り一面に血が飛び散った光景は今でも瞼から離れなかった。汁琮もそれには気づいていた。彼はため息をつくと、太子瀧を胸に抱きしめた。十四歳を過ぎてからは初めてだったが、自然にそうしていた。太子瀧は顔を横に背けてため息をついた。父とは和解するしかなかった。「お前は悪くない。悪いのは父の方だ。」自分のせいで、我が子が永遠に片耳を失った。この数日ずっと反省していた。「少し休みなさい。」汁琮は太子瀧を放すと、その双眸をじっと見つめた。「疲れすぎないようにするのだ。」

「誰もが忙しく働いています。家を建て直さねばなりませんし、民には住む場所が必要です。城壁も修復しないと。王兄さえ戻れば……そうだ、父上、姜恒の意識が戻りました。」

太子瀧の声が聞こえたかのように書房の外から声がした。

「王子殿下と姜大人がお目にかかりたいとのことです。」

「入らせなさい。」汁琮は息子の耳の傷を再び布で巻いた。

 

姜恒が部屋に入った時、汁琮は片腕で汁瀧を支え、もう一方の手で包帯を巻いてやっていた。それを見た時ほんの少し、嫉妬心を覚えた。自分も父親が生きていればあんな風に刺客に襲われることはなかっただろうに。だがそんな考えは振り払った。耿曙が父の代わりをして、どんなことでもやってくれていたではないか。

「ハンアル!大丈夫だった?」太子瀧はすぐに心配そうに言った。

「動くな。」汁琮はいらついて叱った。

「見ていいか?」耿曙も上がって来ると、片足で王台に跪いた。姜恒も近くに行き、三人で太子瀧の傷口を調べた。

「薬を持って来たのです。」姜恒は言った。

「昨日送ってくれた薬は良く効いたよ。痛みがずいぶんよくなった。もう飲み終えてしまったよ。」汁琮は顔色を変えたが、何も言わなかった。

「これは外用薬です。傷口の癒合を助けてくれます。」

汁琮はしばらく黙った後で、耿曙に言った。「皆回復してきたのだな。」

太子瀧は姜恒の傷を診たがったが、耿曙が触れさせなかった。「もう何日か休めばだいぶよくなるはずです。」

 

「聞くことはできますか?」姜恒は尋ねた。太子瀧は答えた。「大きい音も小さく聞こえるくらいで問題ない。まあ、もし聞こえなくなったとしても右耳があるし。」

外耳を失っても少し音が小さく聞こえるだけで鼓膜には影響しないらしい。太子瀧の場合は血の塊が耳の穴をふさいで聞こえにくくしているのだろう。

「必要な薬があれば何でも使えばいい。汁淼、弟を連れて行きなさい。」

姜恒は汁琮が自分に話があるのだとわかった。耿曙に、大丈夫だ、と頷いて見せると、

耿曙はため息をついた。ここ数日姜恒につきっきりで、もう一人の弟をないがしろにしていた。償いをする時かもしれないと考えて、太子について出て行った。

書院には姜恒と汁琮だけが残された。二人ともしばらく無言だった。

 

「ご注意しましたよね。」姜恒が口を開いた。

「話を蒸し返さないでいい。父親とそっくりだ。すぐに話を蒸し返したがる。人の不幸につけこんで笑いものにしたり、狼狽させたり。」

「父はそんな人だったんですか?」姜恒は眉を上げた。自分と耿曙が落雁を救ったせいか、今日の汁琮は不本意ながらも後悔の色を見せていた。汁琮は答えなかった。過去の様々な出来事が思いをよぎる。卓の端に体を傾け右手で支えて座っている。動きを見る限り、軽傷ではなさそうだ。少なくとも、彼の息子よりは重症だ。そして何か言葉にできない思いを抱いているように見える。

 

ついさっき、耿曙と姜恒が太子の近くにいた時、汁琮は奇妙な錯覚を覚えた。

三人とも自分の息子であるように思えたのだ。もう姜恒と和解したいと思った。

我が子は武芸に優れてはいない。耿淵の息子ほどには。賢いかと言えば、長兄の遺児ほどではない。時々、姜恒が実の息子だったらとさえ思う。その優秀さ、穏やかさ。

子供のころから国君となるべく育てられたことがないのに、一挙一動に太子としての気質がにじみ出ている。彼が我が子だったらどんなに良かっただろうか。

汁瀧は彼と比べれば……。

汁琮はそう考えるたび、汁瀧に対して罪悪感を覚えた。父親の事を、天地であるかのように信頼を寄せてくれる、か弱き我が子への裏切りであると。実の父親を毒殺した償いとして、姜恒を大事にしてやろうと考えなかったわけではないが、耿曙が汁瀧を拒絶するのと同じように、自分は本能的に姜恒を受け入れることができなかった。

 

「王陛下。」姜恒は真剣な様子で呼びかけた。汁琮の醸し出す拒否感を感じ取っている。

「君の言う通りだ。私が間違っていた。」汁琮は姜恒に何も言わせないように自分から話を終わらせた。この若僧は管魏よりたちが悪い。管魏はもうずっと前にくどくど説教を垂れるのをやめていた。誰だって大人として、何年も付き合っている内、少しずつ、相手の面子に気を付けるようになるものだ。だが姜恒はそうではない。

姜恒は意外にも思わなかった。この期に及んで反省の色が全くないとはもはや国君とは

思えない。

「羊を亡(うしな)いて牢を補う、未だ晩(おそ)し時為らず。」

(戦国策:羊が逃げた穴をふさげば、失った一匹は戻って来ないにしても他の羊は逃げない。失敗しても対策をとれば次につながる)

「ふん、」汁琮が考えていたのは他のことだった。「孤王は確かに敵を侮っていた。ここ数日、君が言った言葉が耳を離れない。孤王は傲慢で、自分にかなうものはいないと思っていた。長年負け無しで……実質的には負け無しで、何も見えなくなり、大雍が直面している危機を見逃したのだ。」

 

汁琮は「実質的な負け」と言い直した。玉璧関では姜恒に殺されかけたが、それは彼らの個人的な恨みにすぎない。最近では、自分の立場が非常に危険であることを知らせるために、兄が姜恒を遣したのかもしれないとさえ思っていた。

「……これからは、」汁琮は姜恒を見下ろした。「孤王はすべての敵に真剣に対峙する。国内のものであれ、国外のものであれ、身の回りのものであれ、万里の長城の向こうのものであれ」と言った。

 

姜恒は汁琮の話の行間の意味が読み取れず、真剣に言った。「雍人は鉄の軍隊を持っていると自負し、長年、傲慢に過ぎました。王陛下が今回の大戦で目を覚ますことができたのなら、不幸中の幸いでした。」

「変法はできるだけ早く推し進めなければ。武英公主は玉璧関を奪還したが、その場を安定させなければならない。今は内乱は避けなければ。」汁琮は長いため息をついた。今度は汁琮の言外の意味がわかった。「王陛下はご安心を。三族連合軍については、兄が解散させました。彼らは故郷で冬を越すでしょう。」と言った。

汁琮は「うん」と言った。姜恒は賢い。さらに得がたいことに暗黙の了解を持っていた。目が覚めて最初にしたことは、連合軍を解散させることだったとは。

 

「兄には雍人戦士の基準に従った慰労金を各部族に平等に渡すよう言いました。陛下には、異論をお持ちでないと存じますが。」

「異論はない。危機を救いに来てくれたのだ。忠誠には答える。」

「林胡人の反逆罪についても、王陛下の恩赦を希望致します。」

東宮に特赦令を出すようにさせよ。氐、林胡二族は放免。だが東蘭山の領地は出ぬように。」

 

姜恒はしばらく考えてから言った。「軍は解散しましたが、三族の王子については東宮に残っていただきたいと考えております。」

汁琮は釈然としない様子でしばし沈黙していた。姜恒は説明した。

「此度落雁の危機に際し、三族は過去を顧みず助けに来ました。皆同じ船に乗っている者同士、助け合ったのです。つまりこういうことです。雍国の存続は三族の存続、雍国の崩壊は三族の崩壊でもあるのです。関内四国は、風戎、林胡、氐を分けて考えません。彼等にとっては雍人として一括りなのです。一つが栄えれば皆栄え、一つが損じれば皆損じる。

関内が雍国を征服すれば、三族は雍人奴隷となります。彼らの立場に立ってみれば、奴隷となるのは決してよいことではありません。こんな簡単な道理を彼らだってわからないはずはありません。……ですから、私は孟和、山沢、郎煌に東宮に残って太子に協力してほしいのです。」姜恒は真剣そのものだった。

 

「一つには外族連合のため、二つ目には、名義上外族が内務を行うことで、実際は東宮が立てた対策であっても、三族が一緒に決定したと印象づけられます。三つ目の理由は、いつか太子が王位を継承した後の政権の維持のためです。」

 

「風戎大王子の朝洛文は軍の左将軍だ。あと二人の王族は、理屈ではどちらかが雍国朝廷の方に入れば十分だろう。二人は多すぎる気もするが……まあいい、君が言うとおりにしよう。」

姜恒は頷きながらも眉を上げた。『やっと話を聞いてくれましたね。』

「玉壁関は奪還できたようですが、まだまだ危険です。くれぐれもお気をつけて。」

「その通りだ。鄭軍は退いたが、新たな連合軍が春か夏に入る前に襲撃してくるかもしれない。率いるのは代か梁のどちらかだろう。」

 

話を聞く限り、汁琮は既に管魏の分析を聞いたのだろう。だったらこの件で時間を浪費するのはやめておこう。「城壁の修復は重要ですが落雁の民が冬を越せるようにしなければ。灝、山陰、承州の三城は敵に占領され、略奪にもあったに違いありません。今年はずっと暖冬でしたが、その後酷寒となり状況はより厳しくなったことでしょう。国君として、最も重要視すべきは城壁でも防御でもなく、あなたの民であることをご承知おき下さい、王陛下。」

「戦後救済の件は東宮に言ってくれ。だが孤王にも少しは金を残しておいてほしい。姜恒、君は孤王よりもよくわかっていると思うが、何をするにも金が必要だからな。」

冬至は盛大に祝いましょう。お金を使って。人心を掌握するには、民の痛みを和らげねば。」

「わかっている。管相もそう言っていた。」

姜恒は頷くとゆっくり体を起こした。汁琮は彼が離席の挨拶をしようとしているのを見て、何か励ましの言葉でも言わなくてはと思った。自分たちは敵同士の身とはいえ、姜恒は大軍を連れてやって来て大雍と王室を守ってくれたのだ。国家を未曽有于の危機から救うためにはしばし休戦するのが好敵手というものだろう。

 

だが思いがけず、姜恒は王卓の所まで来ると、汁琮の脈を押さえた。怪我の様子を確かめたいようだ。「大したことはない。」汁琮がこんなに姜恒の近くにいるのはこれで二度目だ。

一度目は玉壁関で姜恒を胸に抱いた時だ。今なら汁琮はすっと手を出して姜恒を扼殺できる。恐怖に目を見開き、何が起こったのかわからぬまま、喉骨を握りつぶされ、苦しみの中死んでいく。そんなことを思い浮かべるほど、汁琮は姜恒殺害に近いところにいた。

 

ーーー

第114章 桃花殿:

 

だがその瞬間思い至った。姜恒の体には長兄の血が流れている。自分にも、汁瀧にも受け継がれた汁家の血、汁家の力だ。まるで血脈が共鳴し合ったかのようだ。祖先の霊魂たちが書房に集まって姜恒を守ろうとしているような気がして汁琮は恐怖を感じた。そうして再び、絶好の機会を逃したのだった。

 

「どうぞご自愛ください。」姜恒は手を戻した。汁琮の怪我が大したことないとわかってほっとした。こんな時に万が一汁琮が死にでもしたら困る。太子瀧は後継者と言ってもまだまだ成長途中で、実績もない。汁琮あってこそ、大雍の戦車は走り続けられるのだ。

「君もしっかり養生しなさい。」

姜恒が背を向けて出て行こうとすると、汁琮が声をかけた。「ハンアル。」

姜恒:「?」振り返って見た汁琮の表情は複雑だった。自分は人心への洞察力がある方だと思っていたが、何を考えているのか全くわからない。汁琮はしばらく黙ったのちに、「姑祖母を見舞ってやりなさい。」と言った。

「はい」姜恒は答えた。

 

桃花殿の外では、越女たちが雪を掃いていた。

姜恒が界圭を伴って入内した時、姜太后はちょうど薬を飲んでいるところだった。耿曙と太子瀧は殿の傍らにすわり、安渓は太子瀧に薬をつけていたが、姜恒を見るとニヤリとした。『御覧なさいな。太子はこんなにちゃんと言うことを聞いているでしょう。次はあなたの番ですよ。』そんなところか。

姜恒は見なかったことにして、姜太后に拝礼した。分厚い袍子を着こんだ姜太后はどこを怪我しているのかもわからない。顔色も正常で、いつも通り、無表情にうなずいた。「お母上も生前にはけがをしたことがありましたか?」姜太后が尋ねた。

「はい。」姜恒は答えた。耿曙が自分のとなりを叩いて、こっちに座るようにと合図しながら答えた。「夫人は古傷が治らず、郢、鄭が潯東で戦った時に、敵将を暗殺しに行ったことで、悪化させました。」姜恒は母がなぜ怪我をしたのか最後までわからなかったが、姜太后はそれについて話すつもりはないらしく、あきらめるしかなかった。

 

太子瀧が姜恒に話しかけた。「ハンアル、今処理しないとならない政務はある?」

「少しは休ませてあげなさい。人の目が届かないところを怪我したとはいえ、軽くはないのですから。」太子瀧はため息をつくと、頷いた。

 

界圭が桃花殿の奥からきて、姜太后の後ろに控えた。姜太后はわずかな動きで界圭と視線をかわし、界圭は殆どわからないくらいに頷いた。それを見た姜恒はハッとした。

太后は知っていたんだ!界圭が太子霊をほったらかしにして自分を探しに来たことを?いやいや、最初から太子霊の暗殺なんてなかったんだ。目的は最初から自分だった。太后の与えた任務だったんだ!

 

他の誰も気づかなかっただろう。だがずっと何かおかしいと感じていた。姑祖母である姜太后と一緒にいた時間は短い。だが、母の姜昭を通して自分たちは結びついていた------姜太后はやはりすごい人だ。亡国の危機にあった国難の時にも姜太后はきっと何も恐れなかったのだろう。自分自身の死も、息子や孫の死も恐れず、例え、趙霊が汁琮や汁瀧の首に剣を突きつけたとしても絶対に退くことはなかっただろう。

 

姜恒の身の安全は彼女が考慮すべき範囲外にあったはずだ。一方で、どうにもならない結末が待つ局面なら、太子霊も道連れにしようとした。落雁が攻撃される時、敵を待ち構え、共に命尽きるまで戦い、共に灰になろうとしていたのだ。それならなぜ?姜恒にはどうしてもわからない。自分の命がなぜそこまで重要なのか?

 

「心配なのは政務だけじゃないんだ。」太子瀧の声に引き戻された。「国庫がからっぽだ。もうずいぶん前からだ。冬を越すための物資も不足している。最初に占領された三城は略奪されて持って行かれた物も多いし。」

「それには既に対処しました。宋鄒に連絡して、嵩県の金と食料を至急送って来るようにさせています。国庫に資金が準備できたら、今度は嵩県を通して郢国から秘密裏に物資を購入させましょう。」              (苦しい時の宋鄒頼み)

それを聞いた太子瀧は一瞬で肩の荷が降りた気分だった。天と地に感謝します。民が飢え死にしないですみそうです。

「郢国が売らなかったらどうする。」耿曙は姜恒に聞いた。

「売るよ。本来彼らの敵は我々じゃなかったんだ。もし父が長陵君を殺さなければ、郢国と雍国の間には何の軋轢もなかったはずなんだから。」

太子瀧は言った。「東宮名義で手紙を書くよ。しばし郢国に頭があがらないけど、こうなったらできることをするしかないね。」

「私が書きます。あなたは写すだけでいいようにしておきます。」姜恒が言った。

「何の軋轢もなかったなら、長陵君は十四年前にどうして会盟に参加したの?」

「五国が大戦するなら、少しは儲け話も欲しいでしょう。今回だって郢国の連合軍への関与は最少で……」

「国事の話は止めなさい。」姜太后は相変わらずの落ち着いた調子で宣言した。

界圭が笑った。回復した姜恒の関心事は国事だ。耿曙は時々少しは話してくれたが、

軍務以外の、朝政の厄介ごとには関心が全くない。

それに対して太子瀧と一緒にいた時にはそれこそ話が尽きることがなかった。

姜恒が話せば、太子瀧は最高の聞き手となる。二人は小さな子供のように、空が暗くなっても話し続けていた。

そういった意味では姜恒と太子瀧はすでに知己であった、耿曙の人生目標の中で、その部分だけは欠けていた。

「姑祖母様は宗廟前で兵に切り付けられたと聞きましたが、お加減はいかがですか?」「姑祖父に嫁いでからは、武芸はやめて心も弱くなり、人を殺すこともなくなりました。」姜太后は淡々と言った。「ですがやらねばならない時には手心は加えません。安心なさい。」

太子瀧が尋ねた。「車倥の首はどうされました?」

「趙霊に送り返してやりましたよ。役立たずの愚か者には当然の報いです。」

「車倥が……死んだ?」姜恒は正に震撼した。一年前、まだ鄭国にいた時に車倥に会ったことがあった。猛々しく威風堂々とした武芸の達人だった。まさか、宗廟の前で姜太后にやられてしまうなんて。

太后は冷たくフンと言った。千里の向こうにいる鄭人に己の軽蔑の意を伝えようとしているみたいだ。

「何人死傷しましたか。」耿曙が尋ねた。行軍を長く続けて来た彼の関心事は死者数だ。「十四人です。宮内の規則に従って慰労金を出しましたよ。」

かつて越国が滅びた時、大勢の越人が大雍に逃げて来た。民に紛れていった者も多く、新たな雍人系統を作った。耿、衛の二家は越人系統だ。姜太后の身辺には二十四名の越女が仕えている。皆、武芸に秀でているが、太后や太子を守るために殉職する者も珍しくない。姜恒はため息をついた。

 

太后は話を続けた。「戦えば死者は出るものです。今回は車倥が死にましたが、明日は私かもしれません。大争の世では王家が絶えることもあるものです。かつてのように各国が国力もあらわに徒党を組んで戦っては散るという考えは通用しなくなるでしょう。成すべきことを為すのです。臆病になったり、衝動的になったりしてはいけません。愚か者にどうやって民が守れますか?」

 

それは姜恒への忠告と同時に太子瀧への忠告でもあった。姜太后はまだ孫の行為を許していない。逃げるべき時に逃げなかったことだ。もし耿曙が助けに来なければ、亡国の末路に落ちいっていたのだ。「はい。」太子瀧は言った。

「さあ、食事をしなさい。食べ終えたら各自持ち場に行くのです。棺桶に片足を入れたようなこんな老婆のために貴重な時間を無駄にしてはいけません。」

 

午後:

界圭は姜恒の護衛に戻った。本日、東宮は正式に復興処理業務に入る。汁琮や管魏たちの負担を減らすためだ。姜恒が顔を出した時、東宮の諸門客たちの態度は以前とは違っていた。彼と耿曙はこの城内の人たちを救い、王族を救ったのだ。士大夫達の家族のことも救った。

賢い人にはわかっていた。姜恒は朝廷ではもはや相国の身分でもおかしくない。管魏の位を引き継いだとしても驚く者はいないだろう。耿曙は何とも思っていないようだ。家族を守るのは元々彼の仕事だからだ。そういうわけで皆の感謝の気持ちは自然と姜恒の方に向かった。

 

「人が減ったようですね。」姜恒は東宮の欠席が七名あるのに気づいた。「皆戦乱の中で死にました。牛珉以外ですが。牛珉は車裂き刑を受けました。」曾嶸が説明した。牛珉の話を聞いた時は姜恒もつらかった。東宮の門客たちの喜びの気持ちは消えた。残り六名は太子が落雁に戻って来た時に敵味方入り乱れての戦いの中で殺されたり、矢に当たって死んだりした。

太子瀧が責任を感じているのを姜恒は見て取った。その場に自分がいたら、牛珉に口を開く機会を与えなかったとは思う。だが、この結末に苦しむ太子瀧を見れば、そんなことを言う気にはならない。

太子瀧は言った。「変法はまた分担しなおそう。今日は担当がいなくなった分の職務の再分配をする。」

「それはちょっと待ってくれ。先に言いたいことがある。」耿曙が太子瀧に言った。

皆動きをとめて耿曙を見た。耿曙はしばらく考えてから姜恒と視線を交わした。この旅路でずっと考えてきたことだ。姜恒は大戦での手柄を利用して汁琮の説得に成功していた。「林胡王子郎煌と風戎王子孟和を東宮に招待した。」

山沢は太子瀧の後ろに控えていた。太子瀧は開戦前に姜恒と相談していたので後は時間の問題だとわかっていた。

「この度の落雁大戦では、王兄が連れて来た三族連軍に大いに助けられました。それで私にもわかったことがあります。大雍が困難な時に、三族が団結してくれました。かつては手と足のような関係だった兄弟たちです。私は東宮に彼らの席をおきたいと考えています。」

曾嶸が言った。「そうあるべきです。」誰も反対する人はいなかった。

外族が東宮に入って政治にかかわるのは歴史上初めての事だったが、この大戦を通して誰もが思い知った。内部分裂し争えば、国力を消耗する。一致団結してこそ、難関を越えることができると。三族の人たちは過去の恨みを持ち出さずに忠誠を表してくれた。雍人はそれにこたえるべきだ。それに実のところ、山沢が東宮の幕僚に就任してからの数か月、雍人の内務はかなり助けられていた。

 

孟和と郎煌がやってきたが、二人とも酒気を帯びていた。郎煌は「俺は読んだり書いたりはしなくていいんだろう?山沢と比べられたら俺たち二人は……。」

「いいから座って!何をごちゃごちゃ言ってるの。」姜恒が声をかけた。

皆は笑い出した。太子瀧は外族のことをあまり知らないが、幸い姜恒が孟和をおとなしくさせていた。孟和はにこにこと嬉しそうに席に着いた。郎煌はおぼつかない足取りで、まず太子瀧に拝礼してから、適当なところに腰を下ろした。そして、体の熱を逃がすため、襟を開いて健康そうな小麦色の胸元をあらわにした。

 

太子瀧が会議を進める。「では殉職された大人方の担当業務を確認し、姜恒が分配してください。」東宮内からサラサラと音がして、各自が案巻を整理し始めた。

「酒はあるか?」孟和が聞く。「ないよ。」姜恒は答えた。「飲みたかったら外に行って飲んできて。」郎煌は柱にもたれてだらりと座り、胸から腹まで大きく開いた姿のまま大声で言った。「私には別に意見なんてないんだが。」

 

太子瀧は説明した。「君たちに機会を与えるためなんだ。林胡人が欲しいもの、要らないものを変法に生かすために教えてほしいんだ。そうしたら君が気に入らない部分は私が差し戻すから。」太子瀧の威厳は健在だった。今回危険を冒して落雁を守ろうと戻って来たことは外族の者たちにも知れ渡っていた。姜恒は笑みをたたえつつ、郎煌を見た。『あまり大きく出ないようにね。』という意味だ。

「別に変法に意見がないと言ってるわけじゃないんだ。姜恒と山沢に任せておけばそれでいい。」郎煌の言葉に姜恒は反論した。「初めての会議なのにもううんざりしているの?少なくとも会議が終わるまでは何とか座っていてよ。」

姜恒にだってわかっていた。孟和は狩をしたり、戦ったりするのが好きで、座っているのは苦手だ。耿曙よりも更に苦手だ。郎煌は雍人と交流なんてしたくない。自分が太子瀧と相談して決めたのは、外族の王子たちの気持ちがどうであれ、必要な時に来られるよう、彼らの席は確保しておこう、ということだ。そうすれば話がある時には来れるし、話を聞きたければ聞きに来られる。

 

「こんなところで、誰かが私を殺そうとしたらお手上げだ。」郎煌が言った。

太子瀧は答えた。「誰もあなたを殺そうとしません。過去に罪とされたことは抹消しました。烏洛候王、私はまだあなたに謝罪をしていませんでしたね。」郎煌はいいからと手を振った。

突然耿曙の顔色が変わった。あることに思いあたったのだ。

彼は界圭を見た。何かが腑に落ちた気がする。

界圭が郎煌を殺そうとしたのは偶然だろうか?あの時自分は何もわかっていなかった。姜恒を怒らせる危険があると知りながらなぜわざわざ自ら郎煌を消そうとしたのか。割に合わないことだ。    (ここは本当に「危険」という言葉が使ってある。笑)

耿曙自身にとっては、『姜恒を怒らせる』のは大問題だ。自分だったら、他に選択肢があれば絶対に姜恒を怒らせはしない。このほんのちょっとした違和感が警戒心を引き起こした。

「兄さん?」

耿曙ははっと我にかえった。「何でもない。」

郎煌はおもしろそうに耿曙を見てから姜恒を見た。担当分けの打診が終わった頃には、東宮内はすっかり酒臭くなっていた。太子瀧には蛮族の連中がどうしてこんなに酒好きなのか理解できないが、担当分けを早めに切り上げて散会することにした。

ーーー

(この最後のシルタキの描写は話にリアリティを添えてるな、と思った。異文化交流って、理想は美しいけど、現実には違う価値観のぶつかり合いでもある。姜恒は林胡人が汚いとか臭いとか思ってはいけないキャラ設定だから、姜恒一人だと少し嘘くさくなってしまう部分を、より温室育ちの汁瀧が替わりに表現してくれているところがいい。)

 

ーーー

第115章 血月:

 

夜になった。

「最近何か心配事でもあるの?」姜恒が尋ねた。

「ない。」耿曙は姜恒のために寝台を整えると、屏風の向こう側にいる界圭の影に目をやった。界圭は以前のように、いつでも無言で姜恒の近くに控えている。姜恒も慣れてしまった。「本当かなあ。今までうそをついたことなんてないよね。」

「うん。ただ、まだ怪我が治っていないのに毎日こんなに忙しくしてお前の体が心配なんだ。」

耿曙が自分を騙せるはずがない。何があったにしろ、それ以上聞かないことにしよう。「寝よう。」耿曙は寝台に横たわると言った。姜恒もそっと横たわると、耿曙の腕を枕にした。耿曙は傷口に触れないように少し離れた。

「界圭、」耿曙が突然声をかけた。

「ふん?」界圭は帷帳の外から答えた。

「そこにいさせればいいよ。気にしないで。」

界圭はいつでも姜恒の近くにいる。つまり兄弟二人は秘密を持てない。どんなことも太后に知らせているだろうがそれは黙認している。最初は汁琮にも知らせていると思っていたが、郎煌の話を聞いて以来、耿曙は考えを変えた。

「お前はいつ頃王宮に来たんだ?」耿曙が尋ねた。

姜恒「?」

耿曙はなぜ急に界圭の身の上に興味を持ったのだろう。姜恒には理解できない。自分の家族以外のことや、知る必要がある場合を除いて、いつだって他人には無関心だったのに。姜恒は耿曙の顎をつまんで自分の方に向かせた。『どういうこと?』と目で尋ねる。耿曙は頭を下げて腕の中の姜恒を見て「シッ」という動作をした。

「ずいぶん前です。覚えていないくらい前ですね。」

「俺たちと同じ、越人だったよな?」

「まあそうですね。お二人はご自分を越人だと思っているんですか?お父上は汁氏について早々に北方に来たはずでしたけどね、そうでしょう?」

「姜晴を知っているか?あと、夫人のことも。」

「夫人とは?」

「昭夫人だ。」

「姜晴は知っています。姜昭はあまり。近寄らせなかったので。」

姜恒は笑った。母はきっと誰も近寄らせなかったのだろう。

だがその時、耿曙には遥か昔のちょっとした記憶が蘇った。確か八年前だ。昔すぎて本当にそんなことがあったかさえ、確信がもてないが……

 

血のような夕日が沈みかけていた。昭夫人が自分たちの元を離れる前の最後の日だ。

「私が修練した砕玉心玦と天月剣の合わせ技は、男のお前には学べません。黒剣心玦の方を常に修練しなさい。決してなまけてはいけません。」昭夫人の声が遠くから聞こえた。

「はい」耿曙はその話が自分に向けられているのだと気づいた。

「砕玉心玦とは何ですか?」あの時、姜恒も夫人に尋ねていた。

「瓦として全うするより玉として砕けることを望む。」

耿曙は時々あの頃のことを思い返すことがあった。そして、昭夫人は言葉少なではあっても一つ一つの言葉全てに深い意味があったような気がしていた。     

自分も無口な方だ。姜家に入ってからは輪をかけてそうだ。ずっと感じていた。あの日の昭夫人は自分に何か伝えたいことがありそうだったのだ。砕玉心玦……

そこで耿曙は昼間、明紋が言ったことを思い出した。

―――砕玉心玦を学ぶためには一生処女の身でいなくてはなりません――― 

だったら姜恒は…… 

 

顔を向けて、腕の中の姜恒を見た。姜恒は薬を飲んだせいで既に眠っていた。指を伸ばして姜恒の額にはわせ、仔細に目鼻立ちを見てみる。目元、鼻筋、口元。記憶の中の父の面差しはすでに曖昧になっていた。恐ろしい考えを振り払い、視線を別に向けたが、すぐに戻して、姜恒の温潤な唇の上に置いた。その時、姜恒が無意識に耿曙の首に手を回した。耿曙は何とか自分の頭の中からその考えを追い出すと、目を閉じた。まさか、そんなはずがない。耿曙は自分に言い聞かせ、全て忘れようと試みた。

 

夜、汁琮の寝殿にて。

「界圭は城を出てから何もしていませんでした。最初から敵将を殺そうとはしなかったのだと思います。」片腕を吊った衛卓が汁琮に報告した。「私が放った刺客が言うには、彼はまっすぐ城外に行き、黒剣を持って姜恒を探しに行ったそうです。」

「まさか。そんなはずがない。」汁琮が言った。

「怪我をした姜恒を抱いて戻って来たのは界圭なのですよ。」

その意味するところを汁琮は敢えて考えたくなかった。界圭が姜恒を守りにいったのは、太后の命令だったというのか?むしろ彼は、界圭が半年間一緒に旅をしたことで、姜恒に情が湧いたのだと信じたかった。

「奴は半年間姜恒についていた。聞いたところでは、界圭にはおかしな性癖があるそうだ。ひょっとすると姜恒と……いや、それはないだろう。」

かつて界圭と長兄の汁琅の間に何かあったことは皇宮の皆に知れ渡り、朝廷で論議を引き起こした。界圭は素知らぬ顔をしていたが、汁琅はしばらく彼を遠ざけ、ほとぼりが冷めた頃呼び戻そうとした。ずっと長兄が一番親しくしていた相手は界圭だったが、男同士だ。男が別の男にそのような痴情を持つとは汁琮には全く受け入れがたいことだった。

「元々太子の周辺警護をしていた界圭がよそ者についたことも臣にはひっかかっておりました。」衛卓は言った。

「姜恒の身分は王室の親族であり、姜昭の名義上の息子でもある…おかしくはあるまい。」

汁琮は黙り込んだ。もし太后が知っていたとしたら厄介だ。自分の実母は当然長兄の実母ということだ。万が一、母があの年の出来事を全て知っていたら?

一人の息子が別の息子を殺した。母には選択の余地もなく、屈服するしかなかっただろう。自分がそのことで処刑されれば、なすすべもないままに雍王室には継承者が誰もいなくなったのだから。こんなに長い間、母はずっと耐え忍んでいたのだろうか。母が手を下すところをみたことはない。子供のころに、母は武芸の心得があると聞いたことはあった。だが、今回の宗廟での一戦では、車倥の首をとったのだ!気の毒な車倥。名のある大将であったのに、天月剣の前に手も足も出ず、鶏のように掻っ切られてしまうとは。あれは母からの警告だろうか?汁琮は考えれば考えるほど恐ろしくなった。あり得ない。そうだとしても自分に何ができる?実の母まで殺すのか?

 

汁琮は衛卓に言った。「……あり得ない。」

「王陛下は早く手を打たれた方がよろしいかと。誰であれ、とどのつまりは、我々は有史以来最も混乱した内外交戦のさ中にあるのですから。」

「その通りだ。お前の選んだ衛隊だが、人選に間違いないか?」

「臣は新たに選びなおしました。この者どもはかつて越が滅びた後、西域に逃れた者たちの末裔です。西域の姓に改名したものの、その師門は、海閣と拮抗する実力と言われています。その名も血月。」

「また異国人か。」

「今後十年の内に、我らには大量の刺客が必要となります。中原で名を成す五大刺客の内、羅宣はあの若僧の師父です。界圭は使えませんし、神秘客は正体不明、耿淵、項州は死にました。実際のところ、使える者はおりません。」

 

「その者どもは何か条件を出しているか?」

「血月のあるじの名が『血月』なのですが、男なのか女なのかもわかりません。以前中原に入って来ようとして、海閣に阻止されましたが、今や海閣は神州を離れました。血月が求めているのは人です。六歳の子供で、中原の子供でも、雍人の子供でも多ければ多い程いいと。剣門関より西北の河西走廊の辺りに国を建てたいのだそうです。城を建てた暁には中原を手に入れた雍国と洛陽をはさんで通称を持ちたいと言っております。この土地は中原とは接点がなく、神州の外にあるので、臣は彼らにやってもいいのではと考えています。」

「土地はいいが、人はどうやって探す?孤王にも人は必要だ。彼らにやれというのか?」

「急ぐことはありません。自分で探させればいいでしょう。血月は十二名の弟子を遣わすと言っております。」

「少なすぎる。」

「一人一人が耿淵並みの実力者だそうです。」

「ありえない。もしそうなら、今頃中原はそいつらの手に落ちているはずだ。」

「彼らは王陛下が天子となったら、耿淵大人の黒剣がほしいと言っておりました。これは臣が断りましたが。」

「黒剣はやってもいい。」

衛卓は驚いた。汁琮は黒剣を人にやってもいいと考えているのか?

「ですが、……結局のところ、耿家所有の物です。」衛卓はびくびくしながら言った。耿曙に黒剣を差し出すよう言う係にはなりたくない。きっと耿曙は差し出せと言われた剣でその者を刺し殺すだろう。かつてこの剣で命を奪われた者たちは皆名のある者たちだったのだ。

「黒剣は最初は耿家のものでもなかった。汁淼は使ったことがないし、父のことはあまり気にしていないようだ。まあ、後で話そう。孤王が天子になったら、何でもほしいままになるのだから。」汁琮は正しいかもしれない。耿曙は確かに黒剣には関心がない。火箸ででも人を殺せる上に、姜恒のことを除けば、天下のすべてのことについて、あまり関心を持っていない。

 

耿曙は汁琮と向かい合った時、またあの考えが頭をよぎった。例のことではない。目の前の男が、権力を奪うために実兄を毒殺したということが再び頭の中に浮かんだのだ。権力とはそんなに重要なのか。耿曙には分からない。人の世の眷恋については、すべて親から学んだ。耿淵は盲目にもかかわらず、逆にずっとすべてを見ていたようだ。生母聶七の幸福は、父一人の身にかかっていた。

 

自分と姜恒の様ではない。汁瀧との関係とは更に異なる。どうしたって想像できない。汁琅と一緒に育った汁琮が、どんな気持ちで事に及んだのか。養父に聞いてみたい気もするが、そんなことはできない。これは全て郎煌の陰謀なのかもしれない。耿曙はむしろそう思いたかった。話を聞いたのが姜恒であれば、ひょっとするとすぐに因果関係や時系列を考えて結論を出したかもしれない。だが自分には無理だ。真相など知りたくなかった。一旦真相が明らかになれば、自分のこれまでの人生は足元から崩れるかもしれないからだ。

 

「息子よ、どうかしたか?」汁琮が声をかけた。

耿曙は我に返った。鄭軍がしっぽを巻いて出て行ってから三日後、武英公主が帰って来た。汁琮はすぐに軍法会議を招開した。

汁琮はおかしいと思っていた。姜恒と戻って以来、耿曙は会議の途中でぼうっとすることが多くなった。二人が毎晩一緒に寝ていることは知っていた。そして耿曙は日中元気のない様子だ……まさかとは思うが、氐人の影響でおかしなことになっているのではないか?二人は兄弟だぞ!

二人はそのような関係なのだろうか。昨夜の界圭の話を思い出し、彼は目を閉じた。自分の兄弟と畜生にも劣る行為をするなど、人に知れたら、それこそ天下の笑いものだ。きっと違うよな?汁琮は考えるほど不安になり、すぐにでも耿曙に妻を娶らさねばと思った。その方面に興味はなかったはずだ。なぜなら太子瀧と朝夕一緒にいてもおかしなそぶりは見せていなかったのだから。違う違うあり得ない。汁琮は脳裏からその考えを振り払った。親子はお互い警戒心を抱きながら、向かい合っていた。

 

「どうなのよ!」汁綾は埃まみれになって王都に戻って来た。肺が破裂しそうな勢いで戻るなり水を飲む間もなく、怒りを爆発させた。絶対に鄭国に復讐してやる!

陸冀が言った。「現在は物資が不足しておりますし、冬は出兵するのに最悪な季節です。鉄、糧、全て集めなおさねばなりません。民には家が必要ですし、武英公主は……。」色々並べようと、一言に集約できる。:金がない。

 

「恒児の言うとおりだ。勝軍は先に勝ち後で戦を求め、敗軍は先に戦に行き後で勝を求める。国を挙げての大戦への準備は実際には戦場の外にあるのです。」耿曙が朗かに言った。汁綾は少し意外に思ったが、わかったわ、言うとおりにしてやろうじゃない、と思った。姜恒が戻ってから、耿曙は人が変わった。だが、今回姜恒は、彼の予測の正しさを証明した。言うことを聞かなければ、死への道が待っているだけだ。

「つまりお前の意見では開戦はできないということだな。」汁琮が言った。

「今は駄目です。勝てません。三族連合軍は関を出たことがなく、関内の戦い方には不慣れです。」汁綾は兵馬の都合がつけば、国内の怒りを武器に玉壁関を出て戦いたいと思っていた。安陽を落としてから、また考えればいいではないか。今なら、三族連合軍は六万、汁綾の部隊も六万、王都一万の御林軍と、宋鄒率いる王軍が二万、合わせて十五万だ。梁の常備軍は十万。今やらずにいつやるのだ?それなのに耿曙がすぐさま否定してくるとは。

 

叔母は知っているのだろうか。汁琮が彼女の兄を殺したことを?耿曙は心の中で、別の問題を考えた。叔母は、汁琮と汁琅、どちらとより仲が良かったのだろうか。今までの叔母の様子を細かく思い返してみる。彼女はそんな人ではない。叔母の心の中では家族が一番大事だ。耿曙が彼女の言うことを良く聞く理由の一つでもあった。

 

「一番いいのは、一旦戦を止めて、軍の編成をやり直し、風戎人を故郷に返すことです。その先のことは来年また話しましょう。誰もが分かっていることを、私の口から言う必要もないでしょう。」

耿曙が言った。姜恒が一番よく使う、「攻心の計」だ。争いの原因がどこにああるかはわかっている。誰もが認めたくない事実を持ち出しても仕方ない。耿曙だって学習したのだ。無駄な話し合いをいくらやっても時間が無駄になるだけだ。

 

殿内はしんと静まり返った。汁琮は賞賛の眼差しで耿曙を見た。成長したものだ。衝動的に動くこともなくなった。軍の上部が復讐のための戦いをいつ始めるかと言ってこようが、彼の考えははっきりしている。戦えない。難しすぎる。

 

姜恒は軍務には殆ど口を出さずに、耿曙に付いて策謀をめぐらす。汁琮が彼を容認できた理由の一つだ。姜恒は、自分が余計なことを言わなくても耿曙の軍事的才能で、対応できると信じているのだ。

「では復讐はいつできるの?」汁綾は言った。

東宮が郢国のことを解決できるようになったらすぐに。」

 

汁綾は文官たちに説得され続けた。陸冀は「死んだのはあなたの兄弟ではない」と言い、管魏は「金がなければ戦はできない」と言った。ついに彼女は甥の言葉に譲歩した。青は藍より出でて藍より青し。甥の才能は自分の上を行くことはわかっていた。「あまり待たせないでよ。」汁綾は言った。

「勿論です、伯母上。」耿曙は答え、姜恒を除いて、一番好きな家族を慰めた。