非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 171-175
非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。
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第171章 東から来た屍:
「少し……考えさせて。」姜恒は心が乱れ、どんな顔をして耿曙に向き合うべきかわからなかった。
「わかっている。」耿曙は真剣に答えた。自分だって長い時間さんざん悩んだ。姜恒にだけ一杯の酒を飲み干す間に答えを出せと言えるはずがない。
「せかすつもりはない。今夜以降、二度とこの話を持ち出さない。例えお前がすべて忘れたり、俺が何も言わなかったことにしたってかまわない。俺はただ言っておきたかった。言ってしまったら、だいぶすっきりした。」
姜恒はとても恥ずかしくて耿曙と目を合わせられず、川面に目をやった。その時だった。河の中に黒い影が見えた。姜恒は我に返った。「あれは何?」
耿曙はすぐに警戒し、姜恒に後ろに隠れるようにと合図し、黒い影を見ようとした。だが黒い影はただ流されるままになっている。川に潜んだ刺客ではなさそうだ。近くに流れてきた時、それが屍だということがわかった。これまで数えきれないほど屍を見てきた姜恒でもこの光景には鳥肌が立った。美しい星夜の静寂の中、たくさんの屍が続々流れてきたのだった。
「死体だ。」姜恒は立ち上がった。一時耿曙の話から気持ちがそれた。「こんなにいっぱい!」たくさんの屍が済水の東側から水の流れに乗って漂流してきた。
姜恒は顔を向けて河の流れを見やった。最初の一体に続いて、三体、五体、死んだ人々の顔は下向きに水中に埋もれている。その数はますます増えてくる。
「兄さん。」
耿曙が水中をのぞき込むと、今や水中は漂流する屍でいっぱいだった。河口付近に堆積しだしている。両岸にいた鄭国の人々も気づいて、大騒ぎになってきた。
千を超える遺体が流れてきて済州城内に漂着した。やがて騒ぎは収まり、人々は済水橋の上や、岸辺に立って、灯火と天の川にが照らされた目の前の光景を見ていた。
孫英があの少年の手を牽いて橋の上に来て川に目をやり、二人に向かって口笛を吹いた。
耿曙は岸辺に船をつなぎ、二人は急いで船を降りた。屍の数はどんどん増えてきて済水を埋め尽くすようだ。その光景は町中に衝撃を与え、ますます多くの人が集まってきて、竿で遺体を岸に引き上げだしたが、鄭軍が大声を出して人々を追い払った。
「禹南から来たんだな。禹南城外の河が済水まで通じている。」耿曙が姜恒に言った。連日の豪雨で、黄河、長江ともに氾濫した。亡くなった人々が川の水にのまれた。水位も上がり、二万近い遺体が済水に流され、まっすぐ鄭の地に入ってきたのだろう。
耿曙は中原の地形を熟知している。四つの関だけでなく、河川についても詳しい。
地形についてはその通りだった。翌日、太子霊が調査報告をさせると、確かに禹南から死体は流れてきたのだが、禹南でこんなに死体が出たのは、汁琮がすでに潯水三城に近づいて来たからだった。
一夜明けた城内では人々の間に一気に不安が広がり、城から逃げる者も出始めた。
「出て行く者は引き留めなくていい。そのまま行かせなさい。」太子霊は淡々と言うと、立ち上がった。そして意外にも全く関心を持たずに出て行った。殿内いっぱいの文官、武官は顔を見合わせた。孫英が報せを持ってきた。「禹南は全城死んでも投降しない構えで、汁琮に屠城され、老若男女合わせて、一万四千七百人が命を落としました。奴らは禹南に二十五万の兵を集結させたのです。」孫英は殿内に腰を下ろし、深刻な表情で報告した。殿内は水を打ったように静まり返った。
姜恒が言った。「汁琮が屠城したのは見せしめのためでしょう。南の人たちに知らしめたいのです。自分が屠城すると言ったら、本当に屠城するのだ。投降しなければ、死あるのみだと。この後潯水三城を攻めるときは、兵力を節約するために、まず投降を呼びかけるのかもしれません。各位どう対応すべきかお考えはありますか。」
一同は青ざめていた。今日集まった者たちの表情はとても変だった。先ほど姜恒は正殿に来るまでの途中で、公卿家は荷物をまとめて済州を離れ、夷州などに逃れ始めたという話を耳にした。ここにいる士大夫家主たちは、自分は済州に残って死ぬつもりで準備をしたのだろう。家族や後継ぎだけでも命の危険を心配しなくて済むように逃がしたのだ。だが土地を失ったら、彼らとて、どのくらい持ちこたえられるだろう。
辺均が咳ばらいをして話し始めた。「雍人が南下し、今やその勢いは止められません。強く出れば強く当たられる。死んでも退かずでは、結局民を苦しめます。今までの道のりで、汁琮は交渉の機会さえ与えようとしなかったため、彼の要求が何なのかもわかりません。」
役人たちは何も言わなかったが、姜恒が見た感じではそれぞれに思うところはあるようだ。
諸令解が冷静に尋ねた。「左相のお考えでは、汁琮は何を望んでいると思われますか?我らが引き換えに差し出せるものは何でしょうか?王室の者の首か?それとも南方の城鎮でしょうか?」
辺均は言った。「一時の辱めに耐え、成りを潜めて時を稼ぎ、東の山から再起の日が昇るのを待つのも、一つの方法かと……。」
「火に油を注ぐだけだ。」諸令解が言った。「油が尽きねば、火も消えぬ。左相はよもやお考えか。雍と土地を分かてば、やつらの東進の歩みは止められるとでも?!」
辺均は反駁されることはわかっていた。だが、それはここにいる役人たちも考えていたことだった。ただ自分からは言い出せなかっただけだ。
「お二方はどうお考えかな?」諸令解は姜恒と耿曙に向かって言った。
姜恒が口を開く前に、耿曙が言った。「あんたと話しても仕方がない。話すべき相手が戻るのを待つ。」
朝廷は烈火のごとく怒りに燃えた。太子霊が席を立った後で、怒りの矛先を見つけたとばかり、誰もが罵詈雑言を耿曙に浴びせた。国君の面子などもう知ったことではない。
耿曙は動じず、姜恒の方を見た。姜恒は夕べの一件で、急に耿曙が違う人になったような気がしていた。以前なら彼がすることは何でも姜恒には慣れ親しんだことであった。
すごく落ち着いている……と姜恒は思った。雍都にいた時も、耿曙は雍臣に対して、こんな風に相手に対してお構いなしな、何を言われようが気にもしないという態度をとっていた。ただ自分がそのことに注意を払っていなかっただけだ。今何を考えているんだろう?
姜恒はふとまた疑問に思い、自分が思っていたほど耿曙を理解していなかったことに気づいた。だがその堂々とした態度は、心を落ち着かせ、頼りがいを感じさせた。
その時、知らせを告げる声がして、姜恒の逡巡はそこまでとなった。
「龍于将軍、登朝ーーー。」
龍于が殿内に入ってくると、罵り声がぴたりとやんだ。鄭国では名実ともに高く権威ある将軍ではあるが、今この時にここに現れるとは誰も思っていなかった。龍于は相変わらず俊美であったが、憔悴したように見える。姜恒は数年前に一度会ったことがあったが、その時は眼差しに少し哀愁を漂わせつつも、精気みなぎる様子だった。今は鄭王の喪に服し、黒い袍に身を包んでいる。亡霊のように立つ長身を見て、姜恒の脳裏には三つの文字が浮かんだ。未亡人。
「来たのですね。」龍于は姜恒と耿曙を見て言った。姜恒は頷いた。龍于が言った。「崤関から二万の兵を連れて来ました。途中で潯水三城から四万と、梁軍の最後の御林軍、八千を足して六万八千です。王陛下は私に、力を尽くしてお二方に協力し、汁琮を撃退して王都を守るようにと仰せになりました。」この言葉に対し殿内で異議を唱える者はいなかった。
「上々だ。」耿曙はようやく望みの物を得て、「兵馬を集め、すぐに出発し、潯東を救援しに行ってくれ。」と言った。
「わかりました。」龍于は頷き、朝臣たちに言った。「後方支援については、大人各位にご手配願います。」
落雁の戦いで車倥が命を落とし、その弟の車擂が軍を引き継いでいる。龍于の地位は、今や代鄭最老の上将軍となった。その日のうちに、城内では兵馬の準備が始まった。姜恒は後方物資の調整を始め、耿曙が軍の兵糧不足や補給で問題を抱えないよう確保を行った。
「私たちは一緒に出征するの?」姜恒は耿曙に尋ねた。
耿曙と龍于は兵簿を見ながら、兵士たちの再編成をしていた。午後には軍隊の検閲をして、明日になったら兵士たちと寝食を共にして、戦時体制に慣らす。
「お前は行きたいのか。」耿曙が尋ねると、姜恒はしばらく黙った後で頷いた。
「なら一緒に行こう。」耿曙は言った。
あの夜以降、耿曙は人が変わったようだった。夜には姜恒と一緒に寝ようとせず、何事も姜恒の決定を求めない。自分のことは自分で決め、姜恒のことは彼に選択させるようにした。例え姜恒が刺殺される危険にさらされるとしても、耿曙はもう強いることはしなかった。
龍于が言った。「戦況は随時変わるもの。私も姜大人が随行して参与した方がいいと思います。」
姜恒は頷き言った。「ただ、兄は今顔を見せるわけにはいかないので、私が変装術を施します。」英傑として追封された雍国王子がまだ生きていて、敵軍を率いて雍軍と戦うのだ。ことは重大で、そう簡単に知られるわけにはいかない。―――彼が姿を現す時、それは汁琮が死ぬときでなくては。
龍于は耿曙が何を考えているか見当がついているようだったが、問いただそうとはしなかった。姜恒は言った。「私は趙霊の様子を見てきます。明日はもう出兵することになるので。」
耿曙は頷き龍于と打ち合わせを続けた。姜恒は書房を出て、太子霊の神殿の前に行った。
太子霊の温和な話し声が聞こえ、戸を開けて入っていくと、彼は一人の侍衛に抱かれて書を読んでいた。「ああ来たか。これは趙炯だ。趙炯、こちらは姜大人だよ。」
姜恒:「……。」
趙炯という名の侍衛は、見た感じ、太子霊より少し若く、三十を過ぎたくらいだろうか。特段美男というほどでもなく、容姿は平凡だが、性格はとても良さそうだった。
「遠縁のいとこなんだ。」太子霊は体を起こしたが、姜恒はそのままで大丈夫と合図した。趙炯は太子霊を胸に持たれかけさせ、一時でも動きたくなさそうだ。
「お別れを言いに伺いました。明日、私たちは共に潯水に向かいます。」姜恒が言うと太子霊は頷いた。「私はあなたたちと一緒に行った方がいいか、それとも済州に残った方がいいかな?」
「状況次第ですが、まずはお残り下さい。必要があれば手紙を持って行かせ、お来しいただきます。」
太子霊は再び頷いた。姜恒は興味深げに趙炯という侍衛をちらちら見ずにいられなかった。「彼はダメだぞ。」太子霊が笑った。「戦えはしない。私の傍にいてくれるだけだ。」
姜恒も笑顔を見せた。太子霊の衣服ははだけ、白い胸を露出させていた。体の前に置かれた趙炯の手を握って言った。「私が死ぬとき、趙炯も一緒に逝ってくれる。その時は宜しく頼む。できれば彼を私の傍に葬ってくれ。」
「わかりました。」姜恒は頷いた。
「感謝いたします、姜大人。」趙炯がようやく一言言った。
姜恒は幸せそうな二人を見て思った。ひょっとして太子霊にとっては今が人生で一番自由な時なのではないだろうか?この何日か、彼はもう鄭の国君でも、子供の父親でもない。誰かのために生きることも、別の人物を演じることもない。本当の自分になれたのだ。姜恒はもう趙霊の邪魔をしたくなかったので、二言三言話した後、すぐに退席を告げた。
寝室に戻った時、龍于と耿曙は王宮を出て、軍隊の確認に出かけた。夜になって戻ってきてからは、再び戦術と対策の話し合いをしていた。ほとんどは城内守備についてだ。姜恒は二人の邪魔をしなかった。深夜になって龍于は帰って行った。
耿曙は肩を動かし、ため息をついた。姜恒が変装用の下地を練り終えやってきた。
「一日中何もやることがなかったような感じだな。」耿曙が鏡を通して姜恒を見て言った。姜恒は口を尖らせた。「あなたがいないと始まらないでしょう。さあ、少し上を向いて。」
「俺の話のせいで、集中できないんじゃないか?」
「口を開かないで。」
姜恒は柔らかな指先で耿曙の顔をなぞり、下地を塗り重ねて顔の輪郭を変えていく。耿曙の顔は少し熱を帯び、首筋が少し赤みを帯びてきた。
二人がともに育ってきた年月に、これよりずっと親密な行動をしてきた。それでも今、耿曙の温潤な唇を見ると、姜恒は胸がどきどきしてきた。そして耿曙が自分に口づけした時のことを思い出していた。耿曙の性格は剛強無比だ。越人の、『瓦として全うするより玉として砕けることを望む』気質が体の隅々までいきわたっている。だが、その唇は彼の心と同じく柔らかい。そのやさしさは全て姜恒に向けられてきた。
「何か別のことを考えた方がいいぞ。」耿曙は口角を整形された後で言った。「この後やることがたくさんあるだろう。」
姜恒は上の空だったことに気づいた。鄭国の危機に対応しなくてはならない時に、判断力を欠き、こんなことを考え続けてしまうなんて。
「何を考えたらいい?顔を少し横に向けて。」
「うまくいったらその後どうする?お前は天下統一の大業を今でもやる気か?」
「汁琮が死んだら、梁国が復国して、天下は再びバラバラになる、そう思っているんでしょう?」
「もしくは、鄭国が雍国を撃退するのを後押しし、再び裏切って汁琮の位に座り、自分で鄭を打つというのはどうだ?」
姜恒は笑い出した。「興味ないよ。」
「そうか。」耿曙は言った。
すでに解決不能な問題になってしまったような気はしていたが、それでも姜恒は言った。
「確かに考えたことはある。今までに二人で天下五国全てに行ったけど、洛陽天子王宮にあった政務文書もの内容を、どこの国の国君よりも自分の方がよく理解しているって。」
「うん。」
「五国の状況も私は大体わかっている。そうだね、あなたの言う通り。私も真剣に考えてみなくてはね。はい、できた。」
耿曙は鏡に映った自分の姿を見た。目立たない風貌の男になっている。眼差しを除けば自分を汁淼と見抜く人はいないだろう。「今度は誰の顔だ?」耿曙が尋ねた。
「趙起だよ。とりあえずこの設定でいこう。」
「俺はお前に何とかしてほしいと思っているわけじゃない。」耿曙は少し離れたところに行って、自分の寝床を整え始めた。「事実として向き合ってほしいだけだ。恒児。」
「わかっている。」姜恒にもよくわかっていた。耿曙は、恋愛感情の問題が別の方面に影響しないようにと言っているのだ。だけど、その恋愛感情ってやつは、耿曙の方が自分に投げてきた難問じゃないか!時々あなたを殴りたくなることがあるよ、兄さん。
『兄弟』は前回同様一人は寝台で、一人は屏風の外で眠りについた。耿曙は礼節を守り、姜恒を尊重しているつもりで、姜恒もそれがわかっているから耿曙の尊重を無下にできなかった。
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第172章 神秘客:
翌日、大軍は予定通りに出発した。見送る者は誰もいなかったが、龍于はそれに慣れているようで、耿曙と共に軍を率いて、夜明け前に済州城を出て、潯水に向けて南下した。
自分が故郷に戦争に行くなどとは、姜恒はずっと考えたこともなかった。潯水三城は、潯東、潯陽、潯北で角の形になる、郢との国境の大都市だが、住民は国都済州に避難しており、潯東と同じく既に空城となっていた。城外には二十五万の雍軍がおり、営帳が鄭から郢への路上に一直線に展開し、山野に渡り広がっていた。海東青が空高く旋回していた。―――もう一羽の海東青の方だ。
姜恒は遠方の小さな黒点をじっと見つめた。「黒爪のほうだ。孟和が来たのか、兄の朝洛文の方かも。」それか二人ともか。風羽は安陽を逃げる時に耿曙が送り返した。鷹を連れていれば、二人の居場所がわかってしまうからだ。この時二人は姜家の屋根の上に立っていた。
「平陸は易きに処し、右背に高きを、前に死(低地)を、後に生(高地)を。此処すべし平陸之軍也」耿曙が言った。「覚えていたの?」姜恒は笑った。「勿論だ。汁琮は甘く見たな。」
「こんな諺もある。『一力十会に降りる』、強大な力の前では何もできない、という意味。二十五万の大軍を抱えていれば、当然油断だってするよ。次に来るのはきっと朝洛文の先鋒だね。」
「だが安心するのはまだ早い。兵営に火をつけられたらかなり厄介なんじゃないか。晩夏初秋で吹くのは北風だ。」耿曙が言う。
「彼らがそれに気づかないはずはないね。」姜恒はこの数日で知性を取り戻してきたようだ。「考えられる理由はただ一つ。火計を恐れていないんだ。遅くとも今夜には城を落とすつもりだから。」
二十五万もいればイナゴの大軍が通り過ぎるように後には草一本残らない。ちっぽけな町など津波のように押し寄せる兵の威力にはなすすべもない。城壁だって軽くひと押しで倒れてしまうだろう。汁琮はいつだって絶対的力量の信奉者だ。圧倒的な数の相手の前では、どんな計略も、謀略も役に立たないと考えている。彼から見れば今の潯東を落とすことは戦争のうちにも入らない。
城内では姜家の屋敷が臨時の拠点となっていて、情報が行き来している。耿曙は手持ちの兵を城壁の上の送ろうとしていた。「あんたを信用している。」耿曙は龍于に言った。龍于は鎧兜をつけ、耿曙に返した。「安心してくれ。我が武功は五大刺客には及ばないにしても通常の殺し屋なら寄せ付けもしない。姜恒のことはちゃんと守る。」
耿曙は姜恒に告げた。「行ってくる。」
「いってらっしゃい。がんばって戦ってきてね。」姜恒は答えた。
耿曙は四千の兵馬を連れて潯東を離れ、城外の夜闇に消えていった。
姜恒は不安で胸がどきどきしていた。遅くとも今夜中に汁琮は城攻めを始めるだろう。もう一人の武将、車擂は城壁を死守すべく兵を準備していた。
だけど、もし汁琮が来なかったら?自分の読み間違いだったらどうしよう。もし汁琮が今夜城を襲わず、彼の大軍が厳重に守りに徹していれば、兵営に忍び込もうとしている耿曙は最悪の場合、戻ってこられないかもしれない。退こうとしたところで、この四千人は全滅を待逃れないだろう。
龍于はずっと姜家邸宅の居間に腰を下ろし物思いにぼんやりしていたが姜恒に言った。
「何かやることを見つけないと。夜までまだしばらくある。琴はありますか。お父上は琴芸の達人だったのですから、きっとあなたも上手いのでしょう。」
兵営配置図を見ていた姜恒は顔を上げ、手を広げて見せた。「ありませんよ。戦に出るのに琴を持っていく人はいないでしょう。」
「それは残念だ。じゃあ、私が笛を吹いてあげましょうか?」
「それはいいですね。」姜恒は礼儀正しくそう言った。
龍于は笛を吹きだした。心を動かす優しい曲で、少し哀愁がこもっていた。高音が繰り返されるところは桃花が空一杯に舞い散るかのようだ。姜恒は軍法をしまった。全て決められた通り。あとは結果を待つだけだ。汁琮の主力部隊がここにうまくはまってくれれば、その後の戦局は制御できる。曲が停まると、姜恒がふと言った。「世間には五大刺客がいるというでしょう。」「うん、」龍于は笛を拭きながら言った。「耿淵、項州、羅宣、界圭、神秘客。」
「最後の一人はいったい誰なんでしょう?」姜恒が言った。
龍于:「誰か知られたら神秘ではなくなるから、もう『神秘客』とは呼ばないのでは?」
「龍于将軍は越人なのですか?」姜恒は話題を変えた。
「はい。姜大人は私が神秘客ではないかとお考えなんですか?」龍于は突然笑い出した。
姜恒は答えなかった。この最後の大刺客について、ずっと前から疑問に思っていた。大争の世でも彼が手を下したという話は聞かない。だが人を殺したことはあるはずだ。さもなくば、大刺客として名を連ねるはずがないではないか?
「私たち越人は、国は滅びても天下中に武の大家を輩出しました。」龍于が言った。
「うん。五国の中でも将校や、侍衛、国の大将軍に至るまで越出身者は多いですね。」
「学問の方で天下中に排出されたのはあなただけですが。」
「天下中にというにはまだまだですよ。」
「だけどあなたの本質はやはり武人だと思います。」龍于が笑顔で言った。「そう考えれば、ひょっとして姜大人があの神秘客なんじゃないかと私は疑っていますよ。」
姜恒には龍于が言わんとすることがわかった。ひょっとすると元々そんな人はこの世にいなかったのかもしれない。神秘客は国家転覆の際に身を挺して現れる人なら誰でもあり得るということなのだろう。そう考えれば、もう疑問に思わなくなった。
「少し寝たらいい。きっと刺客は今夜は来ないでしょう。」龍于が言った。
「そうですね。」姜恒は客間で服を着たまま横たわり、小机にもたれて少し休んだ。一時辰もすると、潯東に夜のとばりが下りた。
夢の中に母の姿が現れた。「母さん?」姜恒はびっくりして言った。
「昭夫人は居間を歩いてきて姜恒の傍に座った。何も言わずに微笑みながら抱き寄せ、頭をなでてくれた。居間の真ん中には黒い眼隠し布をつけた耿淵が座っていた。
「帰りなさい、恒児。」耿淵は片手で琴を押さえ、姜恒に向かって言った。「帰りなさい、息子よ。お前の本当の家に。」昭夫人は姜恒を抱く手を緩めて彼を見つめた。姜恒は目に涙を浮かべ、母の袖をつかんで離さなかった。(そんな優しいママだったか?)
だがその時、天井ががらがらと崩れ落ちた。無数の燃え盛る流星が空から降ってきた。姜恒ははっとして目をさました。城攻めの叫びや殺戮の声が聞こえてきた。
「何時になった?」すぐに姜恒は尋ねた。
「子の刻です。」龍于が急いで部屋の外から入ってきた。「あなたの予測通り、城攻めを始めましたね。さあ一緒に来て!」
姜恒は鎧兜をつけ(お♡)、龍于とそれぞれ戦馬に乗って城壁へと馳せた。火矢が城内に射ち込まれ、無数の邸宅が炎上した。兵士たちは城壁に上がって、油を下にまいた。
攻城の第一陣は十万。それを監督する部隊が行き来している。姜恒は急いで城壁に上がった。遠方から海東青がやってくるのが見えた。人影が城壁の上に現れ、龍于は弓矢を構えた。
「味方です!」すぐに人影の正体がわかった姜恒は、龍于を制止した。城壁に上がってきた界圭が叫んだ。「何でまたこんなところにいるのです?!」
雍軍が城頭に上がろうとしている。それは雍の鎧兜をつけてはいるが、汁琮が中原から臨時に集めた新軍だ。死士部隊として送り込まれ、味方の放つ矢の雨の中、退くことを許されぬ死戦を強いられ、城壁を上っていた。(ひでーな)
「汁琮が来たの?」姜恒が今最も恐れているのは自分の判断が間違っていることだ。
「知りませんよ!あなた方を探すようにと太后に命じられて来たんです。」界圭が答えた。
界圭は剣を抜いて姜恒の周りを守った。姜恒は龍于に頷いて見せた。龍于は姜恒の安全が確保されたのがわかると、領軍のため、走り去って行った。城壁の上も下も死体が積み重なり山となっていた。姜恒は界圭に説明する間もなく、城頭に飛び上がると燃え盛る火矢を天に向かって射た。城内の屋根の上に配置されていた兵たちが、次々に火矢を放った。火矢の雨が城外を覆いつくすと、次の瞬間潯東城門が開き龍于が軍を率いて出て行った。
龍于は少年の頃に名を上げた。ある戦いで郢国十万の大軍を退けたのだ。今や四十を超え、正に盛年。汁琮の部隊が強敵に遭遇したのは間違いない。
「兄上はどこです?!」界圭は姜恒の後ろで剣を構え、城壁の上で姜恒に向かってくる敵軍を切り殺していた。その時、雍軍が突然撤退の金を鳴らし、兵を退かせた。
「あそこだよ。」姜恒は界圭に遠方の、ある場所を見るように示した。
雍軍の後陣で突然大火が上がった。火は風の勢いに乗り、営帳を席巻していった。城門辺りの脅威も暫しなくなった。龍于軍が戦線を制圧し、城壁から一里の先まで押し返していた。
「朝洛文はよくやりました。まさかあなたたち二人が参戦してるとは思わないでしょうが、負けても恨みっこなしですね。」界圭が言った。
「あなたって……。」この時姜恒はついに今までに起きた色々なことの意味がわかった。
界圭は謎めいたようなしぐさをした。醜く、傷跡だらけの顔にあたたかな笑顔を浮かべると、なぜだかこの上なく英俊に見えた。『しっ』という仕草をし、それ以上言わないようにと示した。姜恒が会心の笑顔を見せると、界圭が突然言った。「あなたを抱きしめてもいいですか?」
姜恒はじっと立っていた。会計は手を伸ばしてそっと自分の方に引き寄せた。「照れくさいものですね。まあいいか。」界圭は独りごちた。どちらも少し気まずく感じ、再び黙り込んだ。姜恒は界圭に言いたいことがたくさんあった。『ありがとう』という言葉は軽すぎる気がした。まるで侮辱するかのようにさえ感じる。界圭は暗闇の中で静かに姜恒を見つめた。
「私の父さんは……、」とうとう姜恒は口を開いた。「私が父さんなら、あなたを大事にしたと思うよ。」界圭は顔を背けない。攻城の火の光が彼の横顔を映し出した。「気にしないで。私は幸せでしたよ。彼は私に好くしてくれたけど、ただ私たちは一緒に生きる運命になかったってだけです。」
「あの年に……。」姜恒がまたそっと言い出した。界圭が言った。「一つだけよくわからないことがあるのですよ。太后もよくわかっていないんです。お父上は彼の手で死んだのだと思いますか?」
姜恒はびくりとした。彼は界圭に感謝の意を伝えようとしていたのだが、そのことを彼がずっと考え続けていたとは思っていなかった。結局再び、彼らの間に重苦しい空気が流れた。
「証拠はないんだ。太后にもないんだね。汁琮が兄を殺そうと考えたとしても証拠がなければ、罪には問えない。あの時に彼も殺していたら雍国も汁家も終わっていた。それでもし父が本当に病死だったら?それに父を殺したことと、継承者である私を殺そうとすることは、別の話だからね。」
「私にとっては別に。」界圭は考えを巡らせながら真剣に答えた。「彼がやったのなら、雍国がどうなろうと、血脈の継承がどうであろうと、十九年前、次男坊の首に剣を当ててすっきりきれいに切り落としていましたね。」
「あなたは間違ったことはしていない。もう自分を責めないで。」姜恒は言った。
「そうですね。」界圭は何とか笑って見せ、自分の頭をなで上げた。本当は姜恒のあごに手を伸ばしてからかってやりたそうだったが、結局はがまんして再び独り言を言った。
「まあよかった、あなたが生きていて。最初はあなたが好きだったわけじゃありませんから、あなたのために汁琮を殺そうとは思わなかった。こんなこと言っても悪く思わないでくださいね。」姜恒は微笑んだ。「わかっているよ。」もちろん界圭が最初から自分を好きだったはずはない。自分は姜晴の子だ。界圭にとっては姜恒の存在は、彼が汁琅を失ったことを意味していた。
しばらくして界圭はゆっくりと話し始めた。「でも今は違いますよ。あなたはお父上そっくりだ。彼がまたあなたを殺そうとするなら、私だって容赦しません。まあすぐではないかもしれませんね。ご存じのように、刺客は手を下すまでに時期を見ることがありますから。だけど言っておきますね。もしあなたが死んだら私は絶対に復讐します。」
姜恒は笑い出した。「まだそこまではいっていないから。」
雍軍の第一陣は空回りに終わった。大軍は潮が引くように退いていった。わずか三時辰のうちに、城壁下では二万弱が死に至った。だが本当の主力はまだ出動していない。
耿曙は顔を燻されて真っ黒にして戻ってきた。姜恒はすぐに変装面膜を取り換えた。偽装を解くと、耿曙の英俊な容貌が再び現れた。
耿曙は界圭を見ても全く意外に思わず「主力部隊は誰の兵だ?」と尋ねた。
「風戎人です。太子瀧がやっかいなことになっています。何か方法を考えて下さい。」
耿曙と姜恒は視線を交わした。姜恒は先に少し界圭から聞いていて、南征の主力部隊は風戎人だろうと思っていた。朝洛文と孟和に軍を率いさせ、陸冀自ら監軍するのだろう。そして曾宇直下軍は照水にいるのだ。彼の推測と完全に符合している。
姜恒が尋ねた。「汁琮は?」界圭が答えた。「さあ。私は直接潯東に来ましたから。」
「彼を見ていない。」耿曙は言った。「俺は大営ギリギリまで行ったが、彼はいなかった。たぶん王帳は空だ。恒児、お前が当たりかもしれない。」
姜恒は長い間黙って考えていた。今が正念場だ。一歩でも棋ち間違えば、神州全体の連続崩壊をもたらす。皆彼の決定を待った。界圭は疑惑でいっぱいという風に、目を細めた。
「何をしようというのです?」界圭が尋ねた。姜恒は耿曙に言った。「計画通りに。」
耿曙は頷き、龍于に行った。「これから国都で何が起ころうと、龍将軍は絶対に潯東を離れないでくれ。」
「わかった。」龍于が答えた。「私はここで最後まで戦おう。」
次に耿曙は界圭に言った。「俺たちと一緒に来てくれ。汁瀧のことは移動中に話そう。」
姜恒、耿曙、界圭は姜家屋敷を後にした。姜恒は振り返って龍于を一瞥した。龍于は頷いて、「行ってくれ。武運を祈る。聶将軍、姜大人。」
城外では雍軍がすっかり撤退していた。北門の小門を開け、耿曙が兵権を引き渡して、姜恒、界圭と三騎で北に向かった。
「雍宮で何が起きているの?」姜恒が尋ねた。
「東宮が雍王の南征に反対し、汁瀧は元の計画通り、五国連合会議を招集したがりました。結果、意見を提出した門客全てが汁琮に殺されました!汁瀧は勅令を受けて東宮に軟禁されています。汁琮は気が狂ったかのようです。」界圭が言った。
耿曙が言った。「彼はずっと気が狂っている。今に始まったことじゃない。知らなかったのか?」
「ですが汁瀧は秘密裏に門客に命令を下しています。あなたたちが生きていることを知って、私に伝言してきました。あなたたちは戦い始めたが、自分もだ。心配しないでほしい。朝廷をちゃんと回していくよう力を尽くすからと。」
(いい子過ぎるシルタキ)
梁国の民が略奪にあっていないのは汁瀧が力を尽くしているからだ。中原に二度と大乱が発生しないように、もう人が人を喰らうような煉獄にならないようにと。彼は周游に連絡して、秘密裏に食料を持って安陽を離れ、難を逃れた民の救済をさせていた。
「管魏は?」姜恒が尋ねた。
「管相は落雁に残りました。引退して太后に付き添っています。遷都してくる者は誰もいません。私が落雁から来たのはあなたたちが城内にいるんじゃないかと心配してのことです。」
海東青が飛んできた。姜恒に笑みがこみあげ、耿曙は上を向いて口笛を吹いた。海東青は彼の肩の上に降りてきた。「風羽!おかえり!」姜恒が言った。
空が白みかけたころ、三人は潯北城外に着いた。鄭国王都に続く官道に鄭軍の信使がやってきた。一瞬驚いたように立ち止まり、彼らの横を通り過ぎる。
「何があった?!」耿曙は馬を停めて、遠くから叫んだ。
「急ぎの知らせですーーー!崤関陥落!王都より龍将軍に至急の救援依頼ですーーー!」
第173章 卜卦籤:
一夜のうちに、守備が空虚となった崤関が大火に遭遇した。宋鄒が玉壁関を焼き払った時のように、崤関も完全に陥落した。閉じた門を破り、雍国の本当の主力が汁綾の指揮のもと、関内に突入し、そのまま済州へと進んで行った。
二十五万の大軍は浔東で帝国の主力部隊を押さえている。今や済州城内に兵は一万もおらず、鄭国に亡国の命運が迫っていた。
姜恒の計画では、口を開けて、汁琮の主力部隊を鄭国の中まで誘い込み、済州城前まで引き込んで、兵力を効果的に分散した後で決戦に持ち込むというものだ。
「もし汁琮が支力部隊にいなかったらどうするんですか?」界圭が尋ねた。
「いるさ。」耿曙が答えた。「鄭国王城を奪い取るその時を彼が逃すはずはない。」
耿曙ほど汁琮をよく理解する者はいない。こんな国を滅ぼす戦いを汁琮が他人にやらせるはずはない。必ず自ら鄭国王都に攻め入り、宮殿の階段を駆け上がり、彼の人生における至福の時を享受するはずだ。
済州に着くと、雍国の兵馬が城外に駐屯しているのが見えた。汁琮は潯水侵攻のために兵を送ったが、龍于に阻止された。彼は五万の雍軍軽騎兵に崤関を越えてそのまま済州に向かわせた。現在、その五万の兵に、以前趙霊が落雁を攻略した方法を用いて地下道を張り巡らさせている。城壁を一気に崩れさせ、鄭人に復讐を宣言するためだ。
更に汁琮は城外の五万の大軍の前に出てきて、太子霊に向かって言った。「逆賊姜恒を引き渡せ!城内にいるのはわかっているぞ!趙霊!城壁を降りて出てこい!そうすれば全城の民の命は見逃してやろう!」
姜恒と耿曙は急いで城に入って行った。孫英は東城門で待機していて、二人を連れて城楼に上がり、角楼の後ろに身を潜めた。九千強の兵がぽつぽつと城壁の上に布陣した。
群臣を率いた太子霊は城外戦場からの汁琮の挑発を見ても何も行動せず、逆に笑い出した。「時局が逆転したな。今日は君が兵を連れてくる番か、雍王。」太子霊が言った。
汁琮は手の中の烈光剣を弄びながら、城頭を眺めた。曾宇、汁綾が傍らで守った。雍国の将校全員が鄭人への深仇を骨身に刻んでいる。一旦城壁が敗れれば、屠城はま逃れないだろう。
「お前の父もどき(龍于)は潯水で我が国の大軍に抑えられている。お前を助けには来ないぞ!越地の陥落は後でもいい。まだ何か話はあるか?」
「亡国の戦いは死ぬまで終わらぬ。雍王、くだらないおしゃべりはやめて来るなら来い!血のつけには血で償う!」太子霊がそう言うと、汁琮は冷笑した。太子霊が投降しないのはわかっていた。振り向いて命令を下す。騎兵が押し寄せてきた。連日の急行軍の後、片時の休みもなく、一口の水も飲まぬままに攻城が開始された!
刹那済州は戦場となった。済州は四百年前に封じられたかつての鄭候の生まれた地だ。河外に広がる平原の土壌は柔らかく、植物の栽培に適してはいるが、西川や落雁のように堅固ではない。汁琮の新しい戦法は、済水の上流をせき止め、河川を氾濫させる。丸太を押し動かして大水を押し入れた後、兵馬にその丸太に乗って城楼へ登らせるというものだ。
「ここはあなたに交代する。」太子霊が急いで城壁を降り、耿曙に視線を送った。
耿曙は頷いた。姜恒と界圭は遠くから洪水が起こり、丸太が城壁の下にたまっていく様子を見ていた。「どのくらい持ちこたえます?」界圭が尋ねた。
耿曙:「長くても三日だ。城壁が敗れたら、町での戦いに彼らの主力を導く。」
界圭はしばらく黙っていたが、その後で、「いったい何をする気です?」と尋ねた。
「界圭、」姜恒が突然言い出した。界圭は姜恒を見た。姜恒は城壁を降りていく。耿曙は後を追わず、兵の布陣を解き始めた。城壁の高所に守備軍を置いて、残りの七千人を城内に戻し、各戦略要地に配置した。姜恒は済州橋の上に立った。町には人っ子一人いない。
「よく考えてみたよ。」姜恒は振り返って橋の中央で界圭と向き合った。「界圭、私は太子炆の身分に戻ることに決めた。今この瞬間から、あなたにとって私は汁炆だ。」
界圭は笑い、頷いた。
「汁炆の名のもとに私への協力を要請する。かつてあなたが我が父のために差し出した一切が、彼の死後汁琮の手中にある。今、私は父のために、昔年の仇、国賊汁琮を誅することを欲する。」
「忠誠をお誓いします。太子炆。」界圭は傷を負って使えなくなってしまった左手は垂らしたまま、右手を胸の前に置いて、済州橋の上で片膝をついた。
「膝を上げて。あなたの忠誠、私は永遠に忘れない。」
界圭は黄昏時の空の下、彫刻のように動かない。姜恒は手を伸ばして界圭の肩に置き、体を折って彼の右手を握り、引っ張り起こした。「さあ行こう。勝敗が決する時だ。」
太子霊は今生最後の二日間を、どこにも行かず、侍衛から一切の報告を受け付けずに、宮中奥深くで過ごした。
「天理も倫理ももうどうとでもなれ、だ。」太子霊は趙炯に笑いかけた。趙炯は何も言わずに、ただ太子霊の姿を見つめていた。雪のように白い肌と均整のとれた体。趙炯と太子霊は抱き合い、太子霊は手を伸ばして御簾を下ろした。二人の息遣いがその外に漏れ出た。(何かなー。取ってつけたようなこのBLエピソード必要かなあ。)
日が落ち、夜が明け、今生最後の日が訪れた。趙炯は太子霊を沐浴させ、香を焚しめ、体の隅々まで拭き上げた。趙炯は一糸まとわぬ姿で太子霊の前に片膝をつき、その体に口づけた。「何をお召しになりますか?王服ですか?」
「いや、麻布の袍がいい。子供の頃お前と初めて会った時も私は麻布の袍を着ていたのを覚えているよ。」趙炯は麻布の長袍を持ってきて太子霊をくるんだが、太子霊は袖を通さず、体に半分まとったような状態のままでいた。二人はそのまま彫刻になってしまったかのように、日の光に照らされた廊下に立ち、ずっと互いを見つめあった。遠方より殺戮の声が近づいて来た。「城が敗れたぞーーー!」といった叫び声が宮外から聞こえてきた。
姜恒が庭園に入ってきた。「王陛下、時間になりました。」太子霊は趙炯の手を離した。「それでは、私は先に行くよ。」趙炯は頷いた。太子霊はもう振り返らず、姜恒について宮殿を後にした。姜恒が庭園を出ようとした時、小さな音が聞こえた。あれは短剣で肉体を切り裂く音だ。鉄刃が骨身を裂くあの音を彼はもう何度も聞いていた。彼らの背後では趙炯が短剣で自らの心臓を突き刺していた。
鄭宮の中は混乱を極めていた。宮外正門前には死体が散らばり、汁琮の軍隊が次々に国都に入ってきた。だが、街中であらかじめ伏せてあった兵に行く手を阻まれている。
「王陛下!」大臣たちが慌てふためいてやってきて叫んだ。「早くお逃げください!ここを離れるのです!雍軍が入ってきました!」
太子霊は聞く耳を持たない。王服を脱ぎ棄て麻布袍一着のみを見にまとい、腰には剣さえ佩いていない。まるで彼の国家を見るかのように、彼の臣民たちを見つめていた。
遠方では済州が燃え出し、雍軍が火の海を抜けて、途切れることなく一直線に近づいて来る。
「始めましょう。」姜恒がそっと言った。
太子霊は何も言わず、背を向けて宗廟まで行くと、一歩一歩上がって行った。顔を返り血で染めた耿曙が鎧兜姿で宗廟に来て、二人に合流した。界圭も来た。四人は階段を上り、鄭国宗廟に入って行った。
太子霊は先ほど沐浴して香を焚きしめ、体はまだ血で汚れていない。列に置かれた祖霊の牌位に向かい、火をともした。
「お三方、一杯付き合ってくれ。」太子霊は酒をついで三人に渡した。界圭は姜恒に目で指示を求め、姜恒は飲むようにと示した。三人はそれぞれ飲み干した。激戦のせいで脱力した耿曙の手は少し震えていた。彼は姜恒に頷いて見せた。本当は少し休むべきなのだと姜恒は思った。だがこの後、傍らに太子霊の生首を置いて、姜恒は血だまりの中、耿曙の腕に抱かれる筋書きになっている。そして汁琮が近づいたところを、耿曙が一撃して勝負を決めるのだ。姜恒は暫く彼を鄭国の守護神獣、青龍像の隣に座らせた。
「私は天井裏に隠れていますね。」界圭が言った。
姜恒は太子霊の傍に付き添った。太子霊が言った。「おかしな話なんだが、姜恒、あなたに初めて会った時、私は既にある予感がしていたんだよ。」
「どんな予感ですか?」その時姜恒が考えていたのは、かつて洛陽で、死にゆく姫珣と趙竭に付き添っていた時のことだった。
「この生涯を終える時に傍にいるのは、ひょっとしたらあなたかもしれないとね。今や、その予感が現実になったというわけだ。」
「まだ死んでいないだろう。」耿曙が口をはさんだ。太子霊は笑った。彫像の前でひざまずいていると、宗廟の下から伝令の叫び声がした。
「姜恒、天下の未来の気数を知りたいかい?」
「卜卦をされるのですか?」
太子霊は傍の、竹籤を入れた籤筒を持ち上げた。「国君として、神州の機運を占わせてくれ。信じるかどうかは別として。」
耿曙は彫像の後ろで息を整えていた。姜恒は短剣を取り出し、言った、「占ってください。私もとても知りたいです。」
だがその時、姜恒はふと痺れのようなものを感じた。舌から腕に、全身へと広がっていく。動けない……もう口も開けない。最初に考えたのは:あの酒だ。太子霊は頷き、姜恒に微笑んだ。
済州城の大火は広がり始め、炎は城東、城南を飲み込んで行った。汁琮の五万の鉄騎は城内に散らばり、秋の楓葉のように、路上を真っ赤に染めていく。街中に置かれた伏兵もまもなく一掃されるだろう。
「報告――――!王宮前道路は全て押さえ、曾将軍が宮城を奪取し始めます!」
「汁綾!」汁琮が叫んだ。汁綾が軍を率いて前に出てきた。「お前の持ち場はどうだ!」
「城西は既に抑えたわ!でも火の勢いが強すぎて、兵がおおぜい火にのまれてしまったのよ!もうどうにもできないわ!もう殺しはやめて!王兄!」
汁琮は冷ややかに一笑した。
曾宇がやってきて叫んだ。「王陛下!大臣たちはみな王宮内にいます!」
「趙霊は?」
「宗廟に逃げました。御林軍八百が宗廟を守っています!」
「曾宇は公主の火消しを手伝え!私にはまだ話がある。趙霊とはよーく離さないとな。」
汁琮は三千の兵馬と共に、火の海の中、最後の道を進み、山の上高くに建てられた鄭国宗廟に向かう。両側の激しい炎と濃烟はまるで国を挙げての盛大な祭りのようだ。
「車輪斬りしろ、草一本残すな。」汁琮は最後に曾宇に申し付けた。
曾宇はため息をつき、しぶしぶ頷くと、兵たちに車輪の準備をさせた。まもなく鄭国は本当の意味での滅亡に直面する。―――車輪より背の高い成年男子は全て斬首されるのだ。
宗廟前には最後の八百の御林軍が集結していた。汁琮は一言、囲い込んで矢の雨を降らせるようにと命令した。そして遺体となった八百人をそのままに、鮮血を垂らしながら雍軍は次々に階段を上り、宗廟へと入って行った。
汁琮は馬を降りず、騎馬したまま階段を上り、宗廟外広場に置かれた巨大な鼎の前に行く。そしてひらりと馬を降りると、天子が下賜した青銅の鼎を片手で弾き、宗廟高所に掲げられた大鐘に目をやった。「鼎を安陽に持っていけ。趙霊はどこだ?」
「中にいます!」親衛兵が叫んだ。
宗廟の四方を包囲していた雍軍は、強弩を手に持って、一瞬のうちに正堂になだれ込むと散らばり、中央に向けて弩を構えた。
「やはりここだったか。」汁琮は全身鎧兜に身を包んでいた。精緻な作りの王冑の鎧の音を響かせながら、彼は鄭国宗廟へ入って行った。
ガラガラと音をさせて、太子霊が籤筒を揺らしていた。姜恒の口や舌の痺れは緩やかに退いていったが、それでも遅すぎた。太子霊が酒に痺れ薬を入れていたとは!
汁琮が姜恒を見た時、彼はゆっくりと短剣を取り出そうとしていたため、自刎するつもりだろうと考えた。姜恒の武芸では、防備を施した自分を殺すのは到底不可能だ。数千の強弩が太子霊と姜恒双方に向けられている。
「やっと雍王の登場か。ずいぶん待ったぞ。」太子霊が軽い口調で言った。
汁琮は太子霊から十歩の距離まで近づいた。青龍像の陰にもう一人誰かいるようだが、気を付ければ大丈夫そうだ。これだけ距離もあり、自分は鎧兜を身に着けている。例え相手が剣を投げてきても自分には通用しない。それにどうやら太子霊は布衣をまとっているだけで、武器など持っていないようだ。
「何をしているのだ?ご先祖様に加護を求めているのか?」汁琮は嘲るように言った。
「天下の気数を占っている。神州の気運だ。死に直面した国君の占いは最も霊験あらたからしい。雍王はすぐに私を殺したいか?それとも結果を見たいかな?」
烈光剣を体の前に掲げた汁琮は切り立った山麓のようだった。鎧兜に宗廟の天窓から秋の日差しが当たり、光を反射させる姿はまるで武神のようだ。
「見てやってもいいぞ。」汁琮の顔に笑みが浮かんだ。
ガラ、ガラ、ガラ。太子霊は最後に三回ゆすった。
姜恒はもう動くことができた。元々彼の計画では、太子霊を刺し殺し、自殺のように見せかける。耿曙が太子霊の頭を持って、汁琮が殺されたと言って親衛兵の注意をひいている間に、界圭が現れて汁琮を刺殺する。
耿曙が動けなかったのはわずか片刻で、汁琮が宗廟前に着いた時には、姜恒より先に回復していたーーーだが彼も手を下せず、黒剣を握ったまま、距離を見計らっていた。
なぜ太子霊が彼らに毒を盛ったのかはわからないが、それは重要ではない。失った機会は元に戻せない。汁琮があと二歩前に進めば、耿曙にも成功の見込みがあった。だが汁琮はそれ以上進もうとはしなかった。おそらく青龍像の後ろに誰かいると気づいているのだろう。
かつて姜恒に刺殺されかけた経験から、彼は以前よりとても注意深くなっていた。鎧兜の重装備を考えれば、歩は悪い。
一本の竹籤が音を立てて地に落ちた。
太子霊は髪をかき上げながら、竹籤を拾い上げた。そのまま優雅に立ち上がり、そして、振り返って汁琮に向かい合った。汁琮は眉を揚げた。太子霊は僅かに笑みを浮かべて言った。「あなたと私の望み通り、神州は平らかになる。上吉だ。」
姜恒はふとあることを思いだした。:伝説の中の、未だ顔を見せない五番目の大刺客!
十歩離れたところで、汁琮は口を開きかけた。諷刺のためか、射撃を命じるためか、だが、そこで双目を大きく見開いた。
太子霊の竹籤が、手を離れ、光のように飛んで来るーーー。目前に迫る!
生死の際で、汁琮はすぐ烈光剣を握り振り払おうとしたが、竹籤は小さく、烈光剣の刃を掠めて通り過ぎた!僅か半寸、ほんの僅か半寸の差で、汁琮は逃れようと後退したが、すべては一瞬の間に起きた!
竹籤は音もなく、鎧兜に守られた汁琮の、一番防備が薄弱な喉元に突き刺さった!
刹那、竹籤は汁琮の首を貫いた。喉の中に残った釘のせいで、引き抜くことができない。首の後ろから籤の端が突き出していた。
汁琮:「……。」
汁琮は苦痛の声を上げ、地に倒れた。目的を遂げた太子霊は嘲るように微笑んだ。次の瞬間、雍軍が大声をあげて入ってくると、全員同時に矢を放った。耿曙が大声をあげて彫像の陰から出てきて姜恒を抱え込み、転がって柱の陰に入った。太子霊は目を閉じた。千の矢が体中を射抜き、その勢いで体が青龍像に当たった。鮮血が噴出し、部屋中に飛び散った。体中に矢が刺さり、口から噴き出した鮮血が顔を染めた太子霊は、宛ら深紅の花籠のようだった。
太子霊は万の矢で青龍像に釘付けされながら、最後の力を振り絞って、姜恒を指さしてから、汁琮を指さした。手指が震え、何かを示したかったようだが、そこで首が垂れた。
晋惠天子三十六年、秋、鄭王趙霊薨去。
ーーー
第174章 穴の開いた体:
「王陛下!」兵士たちは狂ったように叫んだ。宗廟は混乱に満ちた。
汁琮は苦しみもがき、自身の喉をつかんだ。
兵たちは姜恒を探し始めた。姜恒はそれを見て、しばしの衝撃から我に返った。耿曙の耳元で何か囁くと、すぐに彼の変装面膜を取り、柱の外に力いっぱい押し出した。
「早く!」耿曙はまだ茫然としていたが、すぐに太子霊が死の直前に出した最後の暗示を理解した。
「父王!」耿曙が咆哮した。汁琮が倒れたことで兵士たちは大混乱に陥っていたが、耿曙の出現で変化が起きた。
「私です!」耿曙は叫んだ。親衛兵たちは、目を見張った。耿曙は死んだはずではなかったのか?
「私は死んでいません!」耿曙は急いで汁琮の前まで来ると大声を上げた。「私に見せてください!趙霊が姜大人をさらったので、私は彼を救いに来たのです!」
姜恒が急いで伝えた短い指示を耿曙は覚えて、すぐさま自分の言葉に直して発した。兵士たちは脇に控えた。巨大な雍軍を束ねる主を欠いた今、汁琮の義子である耿曙を疑う者はいなかった。
喉に竹籤が刺さった汁琮は口を開いても言葉にならない。竹籤はちょうど器官の位置に刺さり、硬い素材は血脈をふさいで鮮血を溢れ刺すことはなかった。ただ水揚げされた魚のように、苦し気に息を継ぐしかできない。現れた耿曙の姿を見て何を思ったのか、この上ない恐怖を目に宿していた。逃げようとしたが、息が途切れ力が出ない。震える手で耿曙を押しのけようとした。耿曙はすぐに汁琮の手をつかみ、声を低めて「父王!父王!」と言った。
汁琮は恐れおののいて顔を背けた。足の震えが止まらない。親衛隊の一人が、「淼殿下!どうしますか?」と言った。
姜恒がようやく柱の陰から出てきた。界圭も天井から飛び降りてきた。姜恒が現れると、兵士たちは警戒し始めた。姜恒は反逆罪に問われたものの、それは汁琮がつけた罪名だ。
「姜大人は裏切っていませんよ。」界圭が姜恒を後ろにかばって言った。「彼は鄭王に連れ去られたのです。太后が私を遣わしたのは姜大人を救うためです。」親衛隊の兵たちは顔を見合わせた。界圭は続けた。「私が誰かもわからないのですか?」
「どいて、私が見ます。」姜恒は一同に告げた。親衛隊も界圭に保証され、だんだんと疑惑を打ち消していった。ただ一人、汁琮だけが、大きく目を見開き、耿曙の腕の中でもがいていたが、何も話すことができないのでどうにもならない。
「抜いてはダメ。」姜恒はとどめを刺そうとする耿曙の剣を制止し、彼への暗示を込めて言った。「抜いたら死にます。早く行って武英公主と曾宇将軍に知らせてきて。さあ行って!」
もし耿曙が黒剣でとどめを刺せば、父殺しの汚名が雍国中に知れ渡るだろう。例え宗廟内の御林軍全員の口封じをしたとしても、「火は紙に留まらず」で、いつかは皆の知るところとなるはずだ。耿曙が姜恒を見ると、姜恒は頷いた。
「平らに寝かせて、木の上に頭を乗せる。そうしないと息ができないから。」
姜恒が近づくと汁琮の目がぴくぴくした。喉を触ろうとする手を耿曙が引き離し、竹籤に触らせないようにした。汁琮は姜恒の双眸をじっと見つめ続けた。なぜか、長兄の汁琅が死にゆく時の眼差しを思い出そうとした。あの時の眼差しは目の前の姜恒と同じように、冷たかったか、それとも同情的だったろうか?それとも漠然としていたか?よくわからない。わかっているのは一つだけだ。―――自分はもう完全に終わった。
耿曙は汁琮にそれ以上姜恒を見させないようにした。不測の事態を避けるため、担架を持ってくるよう言いつけると、汁琮を担架に乗せ、彼を護送して宗廟を出て行った。直前に目で界圭に合図をすると、界圭は理解し、頷いた。
「私たちも行こう。」姜恒は振り向いて跪き、血まみれになった太子霊の遺体に三拝した。「あなたのご配慮に深く感謝致します。鄭王。」
その日の午後、事態は急展開した。勝利に浸っていた雍軍全員が、雍王が刺されたという知らせを聞いた。鄭宮正殿内で、汁綾と曾宇は目の前の状況が全く信じられなかった。死んだと思っていた耿曙が生き返り、姜恒も再び顔を見せた。界圭が姜恒の身を守っている。そして汁琮が刺された。全てはあっという間のできごとだ。一体何がどうなっているのか?
汁綾は震え、寝台に突っ伏して大声で泣いた。「兄さん?!兄さーーーん!いったいどうしたのよ?どうして彼を守らなかったの?御林軍は皆死ぬべきよ!」耳まで赤くして言い争ったこともあったが、長兄が死んだあと、彼女の兄は汁琮ただ一人だけだった。
「伯母上!落ち着いて下さい!父王は死んだわけではありません!」今や耿曙は汁綾が事態を収拾不可能にしやしないかと心配になった。汁綾は身も世もなく泣いたあと、寝台に座って、耿曙に顔を向けた。
姜恒が言った。「今は竹籤に触れてはいけません。まず安陽に戻ってからゆっくり対策を考えましょう。」曾宇に至っては気を失わんばかりだ。耿曙になぜ生きているのかと聞くことさえできない。あなたは人なのか鬼なのか?姜恒はなぜこんなところにいるのか?とも。ただ繰り返すだけだ。「どうしたらいい?いったいどうしたらいいのだ?」
姜恒は二人に言った。「治らないことも考えて、この地に留まるのはやめましょう。今はなるべく早く医師に診せなくては。」汁綾は少しずつ落ち着きを取り戻し、しゃくり上げていた。だが姜恒はわかっていた。喉に入った竹籤を治す方法はない。太子霊は、百年に一度あるかの美しくも無情な一撃を完成させた。あの籤には彼の持てる修力が注がれており、手投げの剣の勢いで射られている。例え耿曙が黒剣を持って防ごうとしても防ぎきれなかったかもしれない。
喉はまさに汁琮の唯一の弱点だった。射抜いた後で血脈をふさぐ。抜けば鮮血があふれ出して器官をふさぎ、肺に溜まって血を吐いて死ぬ。「上吉」と書かれた籤は最後の瞬間まで彼を苦しめる。そして呼吸がままならず、ゆっくりゆっくり断続的に窒息し続けながら、死んでいく。耐えがたい拷問だ。
「どうしよう?」汁綾は少しずつ落ち着いて来た。長兄は治るかどうかわからない重症だが、雍軍は鄭国王都を奪い取った。「朝洛文は潯水にいる。うちの兵たちはみな王宮の外にいるわ。」汁綾は曾宇に言った。
「撤退です。軍を集め、済州を出ましょう。」耿曙が言った。
「何ですって?これだけの代償を払ったのよ。気でも狂ったの?」
「気は確かですよ!」耿曙は人を食ったような態度で、大声で言った。「撤退と言ったのです!まだ足りませんか?ここに留まって国葬を待つのですか?」
「二人とも……少し落ち着いて。」姜恒はあきれたように言った。
昏睡状態に陥った汁琮が喘ぎ声をあげた。夜に響く梟の鳴き声のように不気味だ。
「あんたたち二人はどうしてここにいるの?」汁綾はついに自分を取り戻したようだ。
耿曙が近くの卓について言った。「郢人の中に義士がいて、身代わりになってくれたので、死なずに済みました。恒児は逃げたところを趙霊につかまったので、俺が助けに来ました。」
「私が証明できますよ。太后が私を遣わせました。」界圭は手を挙げて、見るともなくちらっと汁琮に目をやり、汁綾に向かって言った。
「そうなの?」汁綾は疑わしげだ。
「海東青に手紙を届けさせますか?」
汁綾は疑惑を拭い去れない。生きていたなら汁淼はなぜ落雁に戻ってこなかったのか?だが今はそんなことを聞いている場合ではない。
「俺が軍を引き継ぎます。軍心が動揺しないようにしなければ。万が一鄭軍が反撃してきたら困るでしょう。」
一同は汁綾を見た。汁琮が刺された反動は大きい。これ以上何も言わずに汁綾が頷いてくれさえすれば、すべてが丸く収まる。汁綾は耿曙の双眸を見つめた。彼の目の中に何か信頼に足る証拠を探し求めるかのようだ。姜恒は汁綾の後ろで、合図をした。胸を叩いて耿曙に眉を、揚げて見せる。耿曙は心得たとばかりに細いひもを引っ張り上げて玉玦を取り出し、汁綾に見せ、そのまま黙って待った。
汁綾は振り返って姜恒を一瞥し、もう一度耿曙を見て、最後に言った。「行って。」
翌朝、雍軍は済州から撤退した。鄭人たちは悲しみに暮れながら太子霊の遺体を王陵に葬った。
「彼はまだ字を書けるよ。」姜恒は小声で言った。「もし遺言でも残されたら厄介だ。
あなただってずっと手を握っているわけにはいかないでしょう。」
「大丈夫だ。俺は彼の手の穴道を封じている。今のところ手は動かせない。」耿曙が答えた。
二人は視線を交わし、日が落ちそうな中、小声で相談をしていた。耿曙はいつも通り、姜恒にお茶を淹れてやっていたが、その表情も以前通り心配事で満ちていて、最後にはまたため息をついた。姜恒には彼の気持ちがわかった。汁琮の罪は動かしがたい事実だが、それでも四年もの間、例え利用目的ではあったとしても、耿曙に家庭的で温かく幸せな時間を与えてくれたのだ。「もう過ぎたことだ。これからはお前の出方次第だ。」
耿曙にできることはこれでもう終わった。次は姜恒の選択次第だ。二人の前には新たな道ができ始めている。耿曙は汁琮の親衛隊を手に入れ、王子の身分を回復した。御林軍大統領も兼任し、部下は五万だ。曾宇が残りの三万を率いて崤関を守っていて、大軍を手にしているのは耿曙だけだ。彼らは最も有能な将校たちで、落雁にいた時は彼の直下軍のような存在だった。この五万の軍があり、姜恒が頷いてさえくれれば、安陽で政変を起こし、徹底的に雍国を改革して、天下の未来のための局勢を作れるかもしれない。
「兄さん、私は……。」姜恒は彼に伝えたかった。今は時期が悪い。力により安陽に反旗を翻しても成功しない。汁琮が重傷を負った今、太子瀧だけが、雍国国内の局勢をまとめられる。その太子瀧も殺されたら、やっとのことで安定させた雍国の国内情勢はすぐにでも崩れ落ちてしまうだろう。(そこなの?)
「気にするな。」耿曙がこのところ一番多く口にする言葉が、「大丈夫だ。」と「気にするな。」だ。姜恒は悲しそうに笑った。「叔母上のところに行ってくる。」
必要がなければ、彼は絶対に汁綾を敵に回したくない。彼女はいい人だ。汁綾の眼中には、天下取りの征戦も、中原統一も重要ではないとわかっている。彼女にとって一番大事なのは家族だ。汁琮が必要とするなら、汁綾が彼のために血みどろになって戦う理由はそれだ。嗜虐的な戦いはしない。剛強な性格だが、心は優しい。耿曙に似ている。愛情を向けるかどうかは自分で判断する。耿曙を可愛がり、愛情の一片を姜恒にも傾けてくれる。
汁綾は木の下に一人で座っていた。帰国への途上、天気は曇り。この間何度も汁琮を見舞ったが、だいたいいつも昏睡していた。たまに意識があるとき、耿曙も傍にいた。彼女は直感的に汁琮にはなにか言いたいことがあるが、言えずにいるのだとわかった。それで汁琮に文字を書かせてみてはと提案し、耿曙が筆を持たせてみたが、手が震えて書くことはできなかった。長兄をじっくり観察した汁綾の心に疑問が浮かんだが、耿曙に尋ねることはしなかった。だが彼女はいつも姜恒に対しては壁を作らずにいられない。理由はわからないが、姜恒を家族としては、どうしても受け入れられないのだ。
「伯母上、」姜恒はお茶を一杯持ってきて、汁綾の近くに座った。
「呼び方が違うわよ。」汁綾は細砂で小さな銀杯を磨いていて顔も上げずに答えた。
「兄のまねです。少し気分はよくなりましたか?」
「まあまあね。ちょっと疲れたけど。何か話があるの?」
ここのところ、汁綾は髪を乱し、目は真っ赤だ。耿曙と姜恒が無傷で戻ったことは喜ぶべきことなのに。
「私はあんたが嫌いよ。」ふと汁綾が言った。「なぜかはわからない。でも初めて会った時から嫌いだった。」
姜恒は小声で言った。「知っています。」
彼女と自分の父親とは仲が良かったのだろうか?姜恒も考えたことがあった。彼女に真相を告げたら、すべてが変わるだろうか?中原人の風習では、姪は母方の叔父と親しく、甥は父方の叔母と親しいものだ。父親の女性版のような感じだからのようだ。
「だけどあなたは私が歴訪から持ち帰った《雍地風物志》を監修して書き直してくれました。今でもよく覚えています。」姜恒が言った。あの年、姜恒はほとんど半年間、雍地を歴訪して十万字近い小冊子を書いた。落雁に戻った時、率先してそれを読んだのが汁綾だった。
汁綾は姜恒の意見も聞かず、遠慮なく赤を入れたり、注をつけたりした。姜恒はもちろんその理由がわかった。:この話は冊子に書いてはいけない。公卿や士大夫家族に害を及ぼすからだ。
汁綾は顔を上げて姜恒を見た。「そんな小さなこと、よく覚えていたわね。」
姜恒は笑顔を絞り出した。過去を振り返って、汁綾が自分に良くしてくれた出来事はこの一件だけだ。だが汁綾が敵意を持っていないのだと確認するには十分だった。大体の時に、彼女ははっきり物を言う。今さっきの『あなたが嫌い。』のように。もし天下の人たちが皆彼女のようにまっすぐだったら、物事はこれほど面倒ではなかっただろう。
「そのわけはね、」汁綾は銀牌をしまうと言った。「汁家があんたに借りがあって、あんたはそれを取り返しに来たように思うからだと思うわ。それで嫌な気分になるのね。」
姜恒は言った。「そんな風に考えたことはありません。」
「わかっている。でも事実はその通りよ。だけど淼児からはそんな風には感じないけど。」
姜恒と汁綾は視線を交わした。その時、界圭が汁綾の後ろに来て、ゆっくり首を振った。
姜恒に何も言わないようにと伝えているのだ。だが汁綾の武功では、当然界圭の足音が聞こえたはずだが、彼女は振り返らなかった。
「兄はずっとあんたを殺したがっていた。そうでしょう?」汁綾はとても小さくそう言った。姜恒は界圭のことも汁綾のことも見ずに頷いた。
「あんたも兄を殺したがっている。あんたたちの間にいったいどんな恨みつらみがあるの?あんたは淵兄さんの子で、あんたの父親が雍国のためにしたことは、うちの二兄さんのためでも大兄さんのためでもない。……誓って。誓いなさい、姜恒。私に話すと。二兄さんがこんな風になったのは、あなたとは……。」
「殿下。」界圭がついに口を開いた。姜恒は少し不本意だ。解決方法は自分で考えたいし、界圭が二人の会話に割って入れば、もともと弱かった汁綾との信頼関係に再び亀裂が生じる気がする。
「界圭。」姜恒は離れるようにと暗示した。
汁綾は何も言わない。連日の疲れが極限に達していたし、今回の出来事は打撃を与えた。汁琅の死よりも大きいかもしれない。
「お嫌でしょうけど言わせてください。」界圭が言った。「今回の済州での件がなければ、汁琮はずっと逃げられていたでしょうか?あなたも私も太后でさえも皆はっきりわかっていたはずです。こうなるのは時間の問題だったと。」
「それとは違うわ。」汁綾は身震いした。姜恒を見つめる眼差しには隠し切れない恨みの色が見えた。あれが偶然起こったはずがない。全ては姜恒の手の内だったのではないか?
だが彼女には証拠がない。調べさせることすらできない。汁綾は背を向けて去って行った。再びあの時宗廟にいた兵士たちを呼んで何度も問いただしてみたが、すべて姜恒の言った通りで、長兄のために状況証拠を覆すことはできなかった。
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第175章 屑籠行き:
「しゃべり過ぎてはだめですよ。彼女には、お祖母上が全てちゃんと説明してくれますから。」界圭が責めるように言った。
「あのひとは私の伯母上だ。家族なんだよ。それに真実を告げようとしたわけじゃないし。」界圭はため息をついた。「彼女のことよりもあなたがしっかり考えておくべきなのは、安陽についてから、従兄殿にどう対峙すべきかですよ。」
「対決するつもりなんてないよ。」姜恒の答えは界圭には意外なものだった。「しないどころか、今はしっかり支えてあげなきゃ、雍国は大乱に陥ってしまう。ここまで来るのは大変だったし、神州再統一にはあともう少しなんだから。」
耿曙は篝火の横に座って二人の会話を聞いていたが、何も言わなかった。
「もう少し?」界圭は苦笑いを隠さない。「四国の内一国を得ただけで、もう少しですか?」
姜恒は頷いた。「そうだよ。長い夜が終わり、朝陽が見え始めている。」
これには界圭だけでなく、耿曙も理解に苦しんだ。今の雍国では天下統一までまだずっと遠いはずだが、姜恒の目から見ると、もうあと一歩のところにいるらしい。
「それじゃ、この後は?この後はお前の方も難関がくるだろう?」
「この後のことは、汁瀧次第だ。一人では決められない。」
界圭はしばらく黙った末、考えを変えたようだ。「いいでしょう。あなたが支えたいと思うなら、私も無理強いはしません。でもね、あまり無邪気ではだめですよ。無邪気さというのは子供のためのものです。人に好かれるためのね。あなたは永久に子供ではいられないのですよ。」
「ご意見に感謝いたします。」姜恒は無表情で言った。
ふと耿曙が笑い出した。「そんなことない。俺は大好きだぞ。」
界圭は森の中に消えていき、姜恒は耿曙に傍に戻って休んだ。翌日雍軍は出発し、それから五日後、ようやく新王都安陽に到着した。
汁琮負傷の報せは一足先に安陽に伝わっていた。報せを受けた各族の族長たちは、それぞれ自ら太子瀧の近くに戻ってきた。王都は一晩中緊張した雰囲気に包まれたが、汁琮負傷とだけは全域に知れたものの、どの程度の負傷かは不明だった。数年前汁琮が玉壁関で暗殺されかけた時は城内に風雨が巻き起こったようで、人々は不安に陥ったが、彼はすぐに良くなった。今回もひょっとしたらそんな感じかもしれない。
耿曙は馬車を護送し、秘密裏に安陽宮殿に入った。この宮は山際に建っていて、歩いて行くと言い張った姜恒も途中で息が切れた。かつて畢頡は毎日この王宮を上ったり下りたりして、さぞ疲れたのではなかろうか?
禁足を命じられた太子瀧だが、今はそれもなくなった。耿曙は群臣を招集せず、まずは太子瀧を父親に会わせた。太子瀧は耿曙と姜恒の姿を見ると、二人を抱きしめて放さず、それから耿曙一人を抱きしめて、放さなかった。太子瀧は目を潤ませ、声を震わせた。「二人とも生きていたんだね。本当に不幸中の幸いだった。」
姜恒は太子瀧の様子を観察した。以前よりさらに成熟したようだ。一度別れた後会う度に、太子瀧はいつも一回り成長していた。姜恒はほっと息を吐き、太子瀧と抱き合った。その抱擁は数多の言葉に勝っていた。
「もう大丈夫。みんな帰ってきた。みんな帰ってきた……。」太子瀧はそっと囁いた。
耿曙の眼差しは複雑だった。姜恒は太子瀧の肩越しに耿曙と視線を交わし、太子瀧の背中をぽんぽん叩き続けた。さあ、もう済んだことですよ、と伝えるためだ。
「父王を見舞ってやれ。」耿曙が促した。
太子瀧は寝台の前に来て汁琮を見ると、悲しみのあまり、号泣した。彼は寝台の端に座り、汁琮の手をしっかり握りしめた。汁琮は我が子の泣き声を聞いて意識が戻り、握り返そうとしたが、手は動かなかった。
殿内では一片の静寂の中、太子瀧の泣き声だけが響いた。姜恒と耿曙は離れて座っていた。その時、殿外から通達が聞こえた。「管相、陸相が謁見をご希望です。」
管魏は杖をついていた。雍王負傷と聞き、急ぎ落雁からやってきたのだ。一夜にして年をとったか、髪は既に真っ白だった。陸冀も潯水から駆けつけた。疑わしそうに姜恒を見たが、何も尋ねなかった。二人はまず汁琮のけがの様子を見た。その時、汁琮の口が開き、何か言いたそうだったが、声にはならなかった。
「太后もこちらに向かっておられます。明日の夜までには到着されるでしょう。」管魏が言った。「太后はお怪我をなさっているから、そんな長旅をされない方がいいのですが。」姜恒が応じた。
管魏は相変わらずの温和な声音で言った。「殿下に残された我が子が死ぬかもしれないのなら、何としてでも一目お会いしたいのです。」
陸冀は軍報を得て詳細に調べ、彼の疑惑は汁綾より強い。だが今は責任を追及している場合ではなく、証拠がないのでは追及すべき責任さえ見つからない。
太子瀧の泣き声も徐々に収まってきた。管魏は「殿下、嘆き悲しみ過ぎてはなりません。これから大雍は存亡の危機に直面するのですから。」と言ったが、その言葉はむしろ姜恒と耿曙に向けられたものだ。耿曙は真剣な表情で言った。「俺は国内に隠れている。朝廷は相国お二方にお任せする。」
管魏は本来落雁の姜太后の元で余生を過ごそうと考えていたが、今回は来ないわけにはいかなかった。だが、自分と陸冀が彼らを信用するなら、雍国の状況は暫しこのまま維持できるだろう。
太子瀧はしぶしぶ頷いた。確かに汁琮は大勢の人を殺した。関を越えてから、十万人近くを殺したことになる。凶暴性が爆発したかのようで、誰の言うことも聞かなかった。
この半年間朝臣たちは彼の殺戮行為に、ひたすら反対してきた。鄭国討伐前も、父子は不愉快極まる悶着の末、太子瀧は軟禁されることになった。汁琮は自信満々で、自分が勝って帰れば、それが彼英断の証明になり、再び息子を従わせられると信じていた。
だが太子瀧が最も案じていたことがついに起きてしまい、父は死ぬよりつらい苦痛を強いられている。
陸冀が考えた末言った。「太后が来られたら相談しましょう。名医を見つけられれば、ひょっとしたらお救いできるかもしれません。」
『ひょっとしたらお救いできる』という部分で陸冀の考えが読み取れる。こんな風に言う人は大抵、『救いようがない』ことがわかっているのだ。中原の名医たちは、長引く戦乱の間にどこかに消えてしまった。姜恒が知っているのは公孫武だけだが、その彼すら行方不明だ。それに彼は鄭人びいきだから、見つかったとしても陸冀にも呼び寄せられないだろう。
それから何日か、できることと言えば落雁から人を遣わすことだけだったが、何分にも雍国の医堂は官府が握っていて、ほとんどは軍医だ。医師たちは安陽王宮を出入りはするが、結論は一つだった。:竹籤は抜けません。時を稼ぎましょう。できる限りの延命を。
こうして汁琮は喉に釘を刺したまま、王の寝台に横たわって苦し気に喘ぎ続けた。竹籤の根元から血がにじみ出て、どす黒くなっていた。太子瀧は芦菅を使って水を与え、父親の喉をうるおそうとしたが、汁琮は全て飲み込むことさえ困難で、日一日とやせ衰えていった。
「以前のようにお前が東宮に戻ったらどうだ?」耿曙が姜恒に言った。太子瀧は、はっと我に返った。「仕事は山積みなんだ。恒児が戻ってくれたら助かるよ。」そして玉玦を外して姜恒に渡した。「玉玦を持って、東宮を率いてほしい。」
耿曙は玉玦をじっと見たが、姜恒は受け取ろうとせず、「元々私がやるべきことですから。」と言った。「受け取れ。」耿曙が言う。姜恒はそれでも受け取ろうとせず、立って席を離れた。
そして東宮諸政務を引き継ぎに行った。太子に替わって暫時後継者の責を担うためだ。
耿曙は太子瀧と一緒に正殿内にそのまま残った。死を目前にした汁琮が制御不能になって、言うべきでないことを口走るのを阻止するためだ。耿曙の目的は明明解解で、一旦姜恒を殺そうとした汁琮は敵となった。耿曙の信念は無情なまでに揺るぎなく時には姜恒を怯えさせるほどだが、汁琮が完全に死んだことを確認するまでは、最後まで貼りつく所存だった。
「玉玦を受け取るべきでしたよ。さっきは最高の機会だったのに。」界圭が陰から姿を現し姜恒に付き添った。姜恒は界圭を一瞥し、「あれがなければ、私は私でなくなるの?」と言った。
「頑固なところはお父上そっくりだ。」
「どっちの?」
界圭は笑った。姜恒が東宮に入っていくと、官員たちが待っていた。―――太子が軟禁されている間、彼らはどうやって安陽東宮で国内政務を処理していたのだろう。きっと薄氷を踏むような日々だったに違いない。汁琮の脅威が日増しに高まっていく中、王意を忖度して政務を制定せねばならなかったはずだ。少しでも誤れば、汁琮の怒りにふれ、身の危険をおよぼしたのだろう。
姜恒が見まわしたところ、落雁時代の面々は皆来たようだ。曾榮、周游他の青年たちは皆、変法の時の東宮門客たちだ。今や皆官職を得て、必ず来る太子瀧への王位継承の日を待っているのだろう。
「姜大人。」曾榮が頭を上げた。「やっと帰られましたか。お会いできる日を心待ちにしておりました。」
「やっと帰れたよ。みんな元気なの?どのくらい減った?」
「空いている席の者は、皆死にました。」
なぜかとは姜恒は聞かなかった。士族の弟子たちはみな健在なのを見れば、汁琮は士族の利益を考えて彼らに手出しはできなかったのだろう。ただし、弱小の一族出身の同僚が、汁琮に反対意見を提出したせいで殺されたことで、世家の出の者にも類が及んだはずだ。
姜恒の席は今でもあった。太子瀧は遷都してからも、それまで通り、姜恒と耿曙、それに牛珉たちの席は残していた。
「逝ってしまった人の席を取っておいてどうするの?これから人が増える一方で、すぐに置いておけなくなるだろうに。」
「太子が譲らないのです。心ではわかっているはずなのですが、子供のようで。私たちも言ったのですが。」曾榮が言った。
姜恒は暫く黙り、最後に言った。「じゃあ好きにさせてあげよう。」
周游が言った。「どうなっていますか?我らも王陛下にお目にかかれないのです。太子殿下はもうずっとこちらにいらしていません。禁足が解けてからは彼の部下にも会っていなくて、自分たちで政務を処理しております。」
姜恒は太子瀧の隣にある自分の席につき「今は何をしているの?見せてくれる?」と言った。
「四等階制です。現在試行中の。」曾榮は姜恒に一巻の文書を広げて見せた。
「廃案だ。」姜恒は情け容赦なく言い放った。年若い官員たちは言葉を失った。
「東宮政務処理について全権を一時引き継いだ。陸冀ももう彼には説明しなくていいと言いに来た。これは絶好の機会だ。この機に何もかも片付けてしまわないなら、私はもう知らないからね。」
一同ははっと我に返り、すぐにやったーと大声をあげた。曾榮も笑みを浮かべて、姜恒に突き返された文書を持って廃案処理を始めた。
「征兵令です。」白奐という名の官員が言った。「秋の終わりまでに中原から三十万徴兵し、鄭国戦後の補員とし……。」
「廃案だ。年初の新法に合わせて調整して。」
周游:「梁、鄭両国商人の持つ商路を取り消し、財産を没収……。」
姜恒:「廃案。どうかしている。」
相槌を打つ者はいない。汁琮はまだ死んだわけではない。万が一奇跡的によみがえったら、天子の剣で姜恒を血祭りにあげるだろう。だが皆汁琮の考えにはずっと反対だった。機会に乗じてたくさんの法令が横に飛ばされ、すべて曾榮が拾うこととなった。その内、曾榮も背後に置いた屑籠に次々投げ入れるようになった。
「徭役(強制労働)令、大運河開拓、水軍設立、南下による……。」
「廃案。お金がない。」
「国を挙げて、八十一個の天子鼎を鋳……。」
「廃案。一体どんな大きな夢を見ているんだ?」
「婚配令、若い女性を登記簿に……。」
「廃案。」
「四国士追放……。」
「廃案。」
「王宮再建……。」
「廃案。」
姜恒が一切を廃案としたことで、ようやく東宮は肩の荷を下ろすことができ、曾榮はほっと息を吐いた。汁琮が決めた数々の法令を一旦施行してしまえば、苦労して得た領地で民の造反が起こり、再び関を出て行くことになるだろう。
静寂の中、最後に曾榮が言った。「もうありません。姜太史。」
姜恒は暫しの沈黙の末、言った。「周游は照会を発布して、各国に通知して。五国連合会議はそのまま行うが、時期は冬季に改めます。」周游が返事をし、姜恒は皆に向かって言った。
「太子の国君継承の宜の準備を始める。陸相に連絡して。」
「国は一日たりとも君を欠けません。正しいお考えです。」白奐が頷いた。
姜恒はしばらく黙った後で再び言った。「連議章程を起草する。十年間の停戦、休養生息のためだ。梁王畢紹は亡国の君なれど、天子が封じた身分であることに変わりはない。雍人はその封地を占領した。次にすべきは梁人を安心させること。畢紹と相談して、説明をつけるようにしなくては。」
曾榮は何も言わない。これは微妙な問題だ。放っておけば明らかに梁国への占領行為で、梁人はいつか反旗を翻すだろう;だがその地を手放すとなれば、戦死した兵たちは浮かばれない。「あなたなら方法を見つけられると信じている。」姜恒は曾榮に言った。
「これは国の大策ですので、慎重にならなくては。」
姜恒は頷いて話を続けた。「土地を測り直して、我が国が占領した土地には雍の法律に則った分田法の下、田地を中原民に分け与える。四等階級制度は廃止し、誰でも耕せるようにしよう。これについては管相と相談して。彼がここにいる間にね。国葬の後には帰ってしまうかもしれないから。」
「そのやり方なら理にかなっていると思います。」曾榮が言った。
姜恒は政務処理を終え、曾榮はもう一つの文書を渡したが、声は出さなかった。それは姫霜と太子瀧の婚儀の義であった。汁琮が出征前に決めたものだ。重要な話だと姜恒にはわかっていた。雍国の国事であると同時に王室の私事でもあるからだ。