非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 161-165

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第161章 鹿おどし:

 

庭の梨の花は散った。李の木には青い実がなり始めた。夕日が西に落ちる頃、蝉が次々に鳴き、天は茜色の夕霞で満たされる。

「夕飯だぞ、恒児。」色々あった後、初めての日は無事過ぎた。翌日の午後、耿曙は姜家をきちんと片付け終え、池の側に座って姜恒のためにししおどしを作った。姜恒は開口一番、こう言った。「汁琮がどうして私を殺したいのかようやくわかったよ。そうくるのが正常に見えてきた。」

耿曙には時々、姜恒の寛大さが理解できない時がある。汁琮は汁琅と姜晴を毒殺した。血脈を断ち、人を殺し、今の状況に陥れた。更に姜恒を何度も殺そうとし、苦しめ続けている。それが姜恒の目から見ると、全て「正常この上ない」になってしまう。

「お前は両親のために……仇を打ちたいか?」耿曙は言葉に気を付けながら尋ねた。

「私が生きているだけで、汁琮は食事も喉を通らず、夜も眠れないはず。私がまだ生きていると知った日から、既に彼はずっと苦しめられている。だけど、全てに決着をつけたいとは思っているよ。」耿曙は姜恒の心情が理解でき、すぐに頷いた。

「界圭が出て行ったのもそれが理由でしょう?きっと姜太后と相談して決めたんだね。」

全ては姜恒の最終的な決定次第なのだ。彼は姜恒が選択した通りにするつもりだ。雍宮ではこのことについて何も言わない。界圭はしばらく姜恒の世界から消えるつもりだ。もし彼が汁炆の身分を回復することを選び、雍国に戻って汁琮に復讐し、真相を明らかにするつもりなら、界圭は彼の全てを注いでくれるだろう。

 

「すまない、恒児。」耿曙は手に持った青竹を置いて、姜恒の傍まで来て腰を下ろした。耿曙はこれ以上ないくらい慙愧に耐えなかった。姜恒は笑った。「あなたがどうして謝るの?あなたがいなかったら、私はとっくに死んでいたのに。」

「そうではない。」耿曙は心の奥深くに刺さっていたとげをようやく抜き出そうとした。「お前の腰のあざのことだ。俺は……どうしていいかわからない……あれは俺のせいだ。あの日、火事で……。」

そう言われて姜恒は思い出した。実際耿曙にとっては一番馴染みの箇所だ。火事になった家から逃げる時に姜恒は耿曙を押した。燃えて落ちてきた天井に押しつぶされそうだったからだ。だが代わりに自分が燃え盛る梁木の下敷きになった。痣のあった腰にやけどを負い、今では痣は火傷の痕に取って代わった。

あれは姜恒の正体を証明できる唯一の証拠だった。それが運命のいたずらか、耿曙自身のせいで、その証拠を失ってしまった。

 

耿曙は姜恒の単衣をめくり上げて、つらそうな目で腰の辺りを見た。姜恒は横を向いて、長い間慣れ親しんだ手触りを感じた。すぐに姜恒は顔を上げて耿曙の唇に軽く口づけをした。形のない手を彼の心の中に送って、突き刺さっていたとげを抜いてあげるような気持だった。

耿曙:「!!!」

姜恒はふと気まずくなった。「気に……気にしないで。私が誰にしろ、こういった証明はいらないのだから。」耿曙は一瞬で顔も首も真っ赤になった。姜恒を直視できない。姜恒もなぜか鼓動が早まってきた。耿曙の唇は熱く、肌には大人の男性の安心感が漂い、頼れる感覚の中にも、若者の清々しさも残っている。

「俺は……恒児……俺は思うんだが……。」耿曙は少し目が眩んできた。日の光が廊下に差し込んで、二人とも少し目を開けられなくなった。

「私は……。」姜恒は無意識に唇をなめた。池の魚がポチャンと音を立てた。

二人は急に少し黙り込んだ。耿曙は話を中断した。言葉が何も出て来なくなり、黙り込んで、下を向いたまま立ち上がり、池の傍まで歩いて行って座り込んだ。何かしようと思って、またししおどしを作り始めた。

姜恒は耿曙を見た。思考が止まった感覚だ。さっきのほんの一瞬の耿曙の唇の熱く柔らかな感覚が頭の中に留まって消えて行かない。

夏が来たなっと……姜恒はこの感覚を追い出そうとがんばった。今まで耿曙に別の思いを抱いたことはなかった。だが、二人が兄弟ではないとわかった今、少し奇異な動悸を覚える。まるで耿曙の体に今まで気づかなかった未知の感覚ができたかのようだ。

 

「ちょっと出かけないか、恒児?」耿曙は簡単に工具をしまった。

「いいね、」姜恒はまだ昔歩いた道を思い出せなかった。

「しばらくはよくわからないと思うことでも、だんだんとわかって来るさ、焦らなくていい。」耿曙は真剣な顔で言った。

ししおどしが流水をためて傾き、石の上に倒れてコンッと軽い音を立てた。

「じゃあ行こうか。」ちょっと城内を散歩でもしようと言う意味かと思いきや、耿曙は荷物をたくさん鞄につめて、馬に載せ、ずいぶん遠くに行きそうな勢いだ。この時耿曙の内心は複雑だった。未だ終わっていない刺客の襲来を受けたくはないが、汁琮が送って来る殺し屋を一人また一人と相手にするのも結構煩わしい。もう我慢の限界に来ている。あと何人か襲ってきた日には、ひょっとしたら理性を捨て去り、黒剣を手に自ら汁琮の首をはねて全てに決着をつけたくなるかもしれない。

潯東に殺し屋が来たということは、自分たちは後を追われている。そして自分たちが生き延びたことを汁琮も突き止めたかもしれない。姜恒を殺すためなら、汁琮は一切を顧みず、鄭郢相争う旧越国の地にも攻め入って来るだろう。全城の民が再び殉死させられるかもしれない。自分は姜恒を無事に逃がせると確信してはいるが、潯東が再び戦火に陥ったら耐えられるはずがない。

汁琮の遣わす二人目の斥候が現れる前に、しばらくここを離れなければ。それにもう一つ、自分にはやるべきことがあった。もうこれ以上先延ばしにはできないことだ。

「行くぞ。」耿曙は馬の背を叩き、姜恒を座らせ、再び二人で一騎に共乗りした。

               (夕飯は食べなかったのかな、勿体ない)

 

姜恒は耿曙の腰を抱き、「馬もかわいそうに。人ふたりと荷物まで載せられて。」と言った。「途中でもう一頭買って……。」耿曙が馬を動かし、後巷から出て行こうとした正にその時、城内を巡回する治安官がまた二人を見つけた。

「お二方!もう出て行くんですか?」治安官は馬を歩かせ近づいてきた。耿曙は顔を見合わせても表情を変えない。治安官は言った。「昭夫人は今どちらに?」

姜恒は驚いた。「覚えていらっしゃるのですか?」

「もちろん覚えていますよ。」治安官は微笑んだ。「あの頃お二人はまだ小さかった。もし昭夫人がいなければ、潯東は城を破られ、どれだけの無辜の民が死んだかわからない。この前、雨の中で稲光した時に、お二人の顔がわかりました。あなたは姜恒だ、そうでしょう?」

「あんたらを救うために、もうすこしで俺たち二人は殺されるところだった。」耿曙が言った。姜恒は耿曙の腕をつねって、『そんなこと言ってはダメ』と合図した。「母は既に他界しました。後悔はしていませんでした。どうぞご心配なく。」

「お二人はどちらに行かれるのですか?帰られたと思ったらもう行くのですね。外は混乱を極めているというのに。」

耿曙は少し考えてみた。この男が外部のどんな情報網とつながっているかわからない。今は簡単に人を信じられない。間違いがあれば、取り返しのつかない災いを招くからだ。

「私にもわからないのです。どこに行くつもりなの?」姜恒は耿曙に尋ねた。治安官は馬を下りて、再び二人に話しかけた。「あの時の昭夫人の大恩に、我らはまだ答えていません。いかがでしょう、県丞府で酒でも飲みませんか?」

「あんたの馬はなかなか良さそうだ。」耿曙が突然言った。

治安官「……。」

 

数秒後、耿曙と姜恒は一人一騎に乗って、潯東県東北に面した道を走り去った。

「あなたは彼にひどすぎない?彼には何の罪もないのに。」姜恒は苦笑いせざるを得なかった。耿曙は答えた。「人の心は計り知れない。気を付けるに越したことはない。」姜恒は馬を走らせ、耿曙に追いついて尋ねた。「どこに行くの?」

耿曙は振り返って姜恒に目をやり、ちょっとからかってやろうと、わざと速度を上げた。「着けばわかるさ。」

「待ってよ~!」姜恒は叫んで、再び追いかけて行った。

 

―――

落雁城の桃の花がようやく開いた。北の春は来るのが遅い。

雍国はついに安陽を占領した。国土の版図は120年で二度目の玉壁関越えをし、中原の中心部にまで達した。安陽の一戦で、十万の郢軍は全滅した。雍国もすぐに撤退したものの一万の兵を失った。だが次の日大雨が降り、西北風が吹いて、毒烟は消え去り、雍軍は再び戻って来て、静謐な死城となった安陽を占領し、片づけを始めた。

城南方の死体は山と積んで三日三晩焼き続け、たくさんの鳥の餌となった。

同時に雍国は倉を開き、金を使って梁国を滅ぼした南方の大勝利を祝った。

雁は北に帰った。天地を覆い、落雁城外の砂洲に降りた。次の世代をはぐくむために。

 

桃花殿では咳をする声が止まることはない。既に年老いていた姜太后は一年前の宗廟前での一戦のせいで、明らかに体力が落ちていた。南方から頻繁に届く報せを聞き、姜太后は確信した。汁琮は前途にある障害は全て取り除く決意を強めたのだと。だが目下の所、彼女の孫のほうは、更に大きな難題を突き付けられている。それを解決してやらなければ。

数日前、太子瀧は足を休める間もない忙しさで、東宮において会議を行っていた。雍国が中原に入ってから、どのように役人を派遣するか、民を落ち着かせ、皆を同じ一つの目標に向かわせるか:すなわち、雍国の遷都、つまり、百数年前の故郷に戻るという目標だ。

だが新しい国都を洛陽にするか、安陽にするかは議論の余地がある。幸いなことに、この広大な過程に対峙した時、太子瀧は一括りの文書を見つけた。その文書は変法宗巻の中に埋もれ、棚の端にぽつんと置かれていた。書の上には「遷都之議」と書かれていた。それは十余年前、汁琅が書いたものだ。国君を引き継ぐ者にあて、汁琅が雍国のために寄贈した、数十年先までの国の重点策だった。それを、姜恒は朝廷入りした後で見つけ出し、汁琅の政令の横に、一万字近く、注釈をつけて、変法政令の横に置いておいたのだ。

 

汁琅が決めた大枠を姜恒が改定した。新たな朝廷で、いかに各級官員を置くか、どう税制を改定するか、田地の測り直し、民の移転、商業貿易や学堂の改革……変法総網に基づいて、関内、関外に同一国策を実現する方法……。太子瀧は宝を見つけたような気持ちで、すぐに東宮議政を招集した。群臣に策を問い、雍国が全面的に南に移る準備を始めた。

ちょうどその日、安陽から雷に打たれるような衝撃的な知らせが届いた。―――王子汁淼が捕らえられ、死すとも屈せず。姜恒は行方知らず。

ガン!太子瀧は脳内に一撃を受けた気がした。何とか立ち上がろうとして、東宮で吐血し、その場に崩れ落ちた。

群臣が大慌てで集まって来て、すぐに太子瀧を桃花殿まで運んで、医師に見せた。群臣たちの話を聞いた姜太后は徐々に事の経緯を知った。

姜恒が裏切ったという者もいれば、耿曙は実は死んでいないという者もいる。だが、姜恒と耿曙の消息はともかく、ここにいる孫は今にも死にそうだ。それが、急な怒りが心を攻撃したことと、心の喪失だと分かった姜太后は、太医を帰らせ、自ら銀針を使って、持てる内力を孫に注入した。(出た!ファンタジー東洋医学GOGO!)

少しの間違いもあってはならない……姜太后は心が焚きつけられるように急いた。何としてでも汁瀧を守らなくては。

界圭はまだ戻って来ない。違う、きっと違うのだ。ずっと世の中というものを見て来た姜太后は直感した。姜恒と耿曙は無事なのだと。

「ロンアル?」姜太后が声をかけた。太子瀧はついに目覚めた。意識が戻ると喘ぎ声を上げた。姜太后は年老いた手で彼の脈を確かめた。すぐに、太子瀧は大声で泣きだした。

「泣き出せたら大丈夫。泣くことができたら……もう心配ない。」姜太后は疲れた声で言った。太子瀧は今日太后の袖をつかみ、嗚咽した。「おばあ様……。」

「きっと大丈夫ですよ。」姜太后は太子瀧をだきしめてやさしく言った。「馬鹿な子ですね、事情もまだはっきりしないというのに、お前の方が泣きすぎて死んでしまったら、お前の兄弟たちは帰って来れもしないでしょう?」太子瀧は人目も気にせず、姜太后に抱き着いて大声で泣いた。姜太后はそっと息をついた。

 

翌日、太子瀧は朝廷を休みにした。

後宮で丸々一昼夜眠った後、天地は暗く、頭が痛んだ。全身血まみれの耿曙がこちらに向かって大声を上げる夢を見たかと思うと、崖から落ちていく姜恒が目を見開いてこちらを見ている夢を見た。意識を取り戻してからは、手に玉玦を持って雍室宗廟に上がり、姜恒と耿曙のために黙祷を捧げた。海東青はもう半年も戻ってきていない。この数か月耿曙に何か起きていようとは考えてもいなかった。

この日、汁琮が戻って来た。太子瀧は急いで出迎えに行った。城中の民が出迎え、歓喜の声を上げている。汁琮の名声は頂点に達した。彼は盛世の偉大な君主となった。百年余前に強大な雍国をこの地に切り開いた、開国の君に並び立ったのだ!

「父王!」太子瀧は、しかしながら、何の崇拝の色も示さずに、台座の下まで駆け寄った。

「お前の兄は戦死した。」汁琮は腰を下ろすと、開口一番そう言った。「慶功宴の後、彼のために三日間の国葬を行う。」

太子瀧は驚愕の表情で汁琮を見つめた。目の前が暗くなってきた。

「姜恒は行方知らずだ。私が汁淼を救えなかったことを許せず、他国に身を投じた。」

大惨事の後、汁琮は人を遣って全城を捜索したが、姜恒の遺体は見つからなかった。耿曙の玉玦も未発見だ。そのことが彼にはとても気になっていた。時を同じくして郢国から報せが届いた。―――太子と郢王が同時に怪死した。郢国朝廷は大混乱をきたしている。だが勿論それは、雍国にとってはいい報せであった。焼死したのは耿曙ではないのではないか?だが彼の死は見届けた。姜恒に至っては、汁琮は何としてでも行方を掴み、どんな代償を払ってでも探し出して殺すつもりだ。

「今人を遣って姜恒を探させている。」汁琮は言った。「この世に生まれれば誰もが死ぬものだ。瀧児、お前はあまり……ロンアル?」

「殿下!太子殿下!」朝臣は太子がまた吐血するのではないかと心配した。

太子瀧は手をふった。一月前には考えもしなかった最も残酷な結果だ。彼はふらふらと歩き出し、ゆっくりと朝殿を出て行った。

「どこへ行く?」汁琮の威厳に満ちた声が背後から聞こえて来た。太子瀧は振り返って汁琮を見た。夕日が差し込み父と子の間を光の川が隔てた。

太子瀧の眼差しが変わった。汁琮が見たことのない表情をしている。いったい何を考えているのだ?汁琮は無意識に視線を回避したいと思った。彼を騙している。皆を、実の息子さえも騙しているのだ。汁琮は耿曙を殺した。そのせいで、我が子の眼差しを少し恐れた。その一瞬の気持ちの揺らぎで、太子瀧は言いくるめようとする言葉に埋もれた醜い真相を感じ取ってしまった。父子は長年お互いの心を読み、通じ合わせてきた。そうした長年の暗黙の了解のせいで、太子瀧はそこに何か別の事情があることに気づいてしまったのだ。

「私が恒児を探しに行きます。」太子瀧はそっと告げた。

「気でも狂ったか。」汁琮の口調は穏やかだったが、太子瀧の無力の反抗は軽く退けられた。「太子を東宮に送れ。どこにも行かせるな。」

 

 

―――

第162章 鞘を抜いた剣:

桃花殿に夕日が黄金色の光を落とした。姜太后は影の中に静かに座っていた。

「お帰り。」姜太后は足音を聞いて声をかけた。

「ただいま、母上。」汁琮は王服に着替えて殿内に歩いてきた。「ただいま帰りました。先祖が残した遺願、今回少しだけ前に進めることができました。」

太后は淡々と答えた。「今日は体調が悪くて、お前を出迎えに行けませんでしたが、全城軍民が総出でお前を歓呼していたのは、深宮にいても聞こえてきました。」

汁琮は姜太后の前に行き、身を折って拝礼した。

太后の膝の上には鞘を抜いた剣が置いてあったが、天月剣ではなかった。

「子供たちはどうしていますか?」姜太后が再び尋ねた。汁琮は応えず、母の手の中の剣を見つめた。この距離だと、姜太后が突然剣を抜けば、自分を死に至らしめると目算した。

「汁淼は戦死しました。」汁琮は簡単に答えた。「姜恒は逃げました。どこの国に行ったかは不明で、行方を捜しているところです。」

「『逃げた』と?」今日太后は冷ややかに言った。

「はい。姜恒は郢国に付いて裏切り、長兄を売りました。そのせいで汁淼は敵の手に渡り、壮絶な犠牲を払いました。」

 

母と子は長い間沈黙していた。姜太后は何も言わない。ちょうどかつて、汁琮が彼女の元を訪れて、汁琅の死を告げた時のようだ。

「お前の兄は中原大計を立てていた。最後は耿淵の息子がお前のためにその第一歩を完成させ、鈴をつける役を担ったのですね。」汁琮は何も言わなかった。

「ロンアルはいい子です。本当なら二人と力を合わせていけたのに、残念です。あの子に会いましたか?」

「人は誰でも死ぬものです。今回死ななくても別の死に方をしたかもしれません。今は受け入れられなくても、だんだんと諦めがつくでしょう。」

「その通り、遅かれ早かれ私たちも皆死にます。諦めなかったとしてもどうなる?いらっしゃい、私を立たせておくれ。」

 

汁琮は近づこうとせず、姜太后の厳格な顔つきをじっと見た。母は昔からこうだった。こんな表情で自分を厳しく仕付け、汁琅のことは更に厳しく仕付けた。優しかったのは父といる時だけだった。二人の子の内では、母は汁琅の方をよりかわいがった。それは汁琮にとってはっきりしていた。汁琅の後には娘が欲しかったのだ。何の因果か、汁琮は三兄妹の真ん中に生まれ、一番かわいがられない存在だった。汁綾の方がずっと母の歓心を得ていた。

「母上はお体の具合がお悪いのだから、横になって下さい。がんばりすぎますな。」

「私にもできることはあります。」姜太后は剣を傍らに置いて淡々と言った。「琮児、何を考えているのです?いらっしゃい。もうずっと母に心配事を話していないでしょう。」

汁琮はなぜか背に汗をかいた。もう姜太后は手に何も持っていない。汁琮は仕方なくゆっくり前に進んだが、鋭利な剣からずっと目が離せなかった。

「衛卓も死んだとか。」

「はい。」汁琮は応えると、台座の前まで来た。姜太后は手を伸ばした。汁琮は片手を背に当て構えたが、姜太后は片手を汁琮の背に置いて立ち上がった。

「どんな風に死んだのです?」姜太后は汁琮を手にかけたりせず、ただ尋ねた。

「郢軍との交戦時に……矢が当たって死にました。」

 

太后は安陽での一戦の詳細を知りはしないだろう、少なくとも今は。戦の途中で起きた様々な言いにくい出来事はまだ母の耳には届いていない。推測に頼っているはずだ。推測だけでは、今の時点で母に自分は殺せないだろう。

「それならちゃんと葬ってやりなさい。」汁琮は母親を支えながら、桃花殿の外に出て、庭でほころび出した花を眺めた。「はい。三日後に、汁淼と衛卓二人の御霊を送ります。立派な葬儀にしようと思います。」

「南への遷都については、汁家が長年待っていた日がついに来ました。瀧児は門客と遷都のための準備をしているようですよ。」汁琮が尋ねるのを待たず、姜太后はそっと告げた。「母后は行きませんが、お前たちは行きなさい。」

「母后……。」汁琮は言葉を飲み込んだ。夕霞に向き合った姜太后の顔は落ち着いていて、心は昔々、少女の頃に戻ったかのようだった。「お前の父王に嫁いだ時に、落雁が母后の家となりました。桃花もあり、あの人もここにいます。最後の瞬間まで落雁で過ごすことが、私の望みです。さ、行きなさい、王陛下。我が子よ。二人の子供のことだけが悔やまれますが。」

汁琮は姜太后の手を離した。大赦を得たかのように半歩後退し、お辞儀をして答えた。「そうですね。」そしてそれ以上何も言わずに出て行った。

 

太后は落日と夕霞の中に立っていた。彫像のように。しばらくすると、界圭が木の裏から現れた。鞘を抜いた天月剣を握っていた。

「私にはできなかった。」姜太后は沈んだ声で言った。

「彼は賢いので、木の後ろに刺客が隠れていたのはわかっていたでしょう。」界圭が言った。姜太后はため息をついた。界圭は姜太后を責めず逆に「人には情があるものです。」と言った。

「炆児に渡しなさい。もしあの子が戻ってくる気があるならね。汁瀧に会いに行っておやり。」(↑剣のことかなあ)

界圭は頷き、半歩下がってから、東宮の方に向かって行った。

 

「どこに行くのですか?」界圭は太子瀧の前に現れた。語気はほんの少し柔らかくなっている。太子瀧は荷物を背負って、外を守る侍衛の方を見ていた。界圭が来たことで希望を見出したようだ。界圭は近づくと、太子瀧の荷物を取って、近くの台の上に載せた。

「二人は生きています。言えるのはそれだけです。」それを聞いた太子瀧は突然力が抜けた気がした。「早く言ってほしかった。」

太子瀧は界圭を見ても何を考えているのか全くわからない。子供の頃から、ずっと界圭が怖かった。顔がめちゃくちゃになっている人というのは子供にとっては恐怖だ。

「どうしてなの?二人はどこへ行ったの?案陽城ではいったい何が起こったの?」

「言えるのはそれだけです。」界圭は言葉を繰り返した。

何も聞け出せないことがわかっても、太子瀧にとって、二人が生きているということが分かれば十分だった。

「二人はまた戻って来るかな。」太子瀧は再び尋ねた。

「言えるのはそれだけです。」界圭はもう一度繰り返した。

太子瀧は長椅子まで戻って腰を下ろすしかなかった。

 

「私にはずっと解せなかったんですよね。あなたは子供の頃からどうしてそんなに聞き分けがいいのですか?」界圭が言った。太子瀧は界圭を見た。それはみんなが言っていることだ。口にはしない人も心の中ではそう思っている。もし前に界圭にそんなことを言われれば、父親との関係に亀裂を入れようとしていると考え、話をそらそうとしただろう。だが今や違う。姜恒が彼を変えた。家族との関係に何か影のようなものが存在するのを彼は鋭敏に感じ取った。父と祖母、父と叔母、祖母と姜恒、耿曙と父……。界圭は妙な顔で太子瀧を見て言った。「今までの人生で、一度くらいお父上に反抗しようと思ったことはないんですか?」太子瀧は応えず、黙って座っていた。

「ああ、思い出しました。確かに反抗したことがありましたね。落雁が消滅しそうになった時、あなたは反抗しました。実はあなたはいつも反抗しているけど、自分のやり方でやっているだけなんですよね。」

「界圭、いったい何が言いたい?」太子瀧はふと語気に少し威厳を込めた。

「君たち三兄弟は、一人は剣のよう、一人は書のよう、一人は盾のようですが、実は根っこはそっくりです。」界圭は背を向けて寝殿を離れる際、少しだけ振り向いて言った。「時々、あなたと姜恒は、鏡を隔てて向かい合っているように思えることがありますよ。」太子瀧は界圭の後ろ姿をじっと見た。

「あなたが成すべきことをしっかりなさって下さい。」界圭は扉を閉める前に、もう一度拝礼し恭しく告げた。「ご縁がありましたら、またお目にかかります。」

 

 

三日後、雍国王子汁淼と衛卓は同時に出棺した。盛大な葬儀だった。太子瀧は何も言わず、自ら汁淼の御霊に付き添い、汁琮は衛卓の棺を送り出し、雍都落雁を巡った。汁淼は生前の衣冠を宗廟に納め、衛卓は大雍忠臣祠に納められた。

遷都の話が議題に上がった。汁琮は自ら場所を選んだ。雍国版図は更新した。北の遠山から南の嵩県まで、元々天下の半分の場所を閉めていたのが、黄河を越えて、安陽、洛陽にまで延び、剣のような形をした中腹の地を含むようになった。剣の先端は嵩県だ。

雍国が関を出たことは天下を驚愕させた。梁国は滅亡した。だが、汁琮は天下に知らせた。十月十五日、下元節当日、洛陽にて行われる『五国会議』は元の通り行うと。

 

―――

時は盛夏。姜恒が耿曙について山脈を越えた時、遠くから波の音が聞こえてきた。「もう着くぞ。」耿曙は二頭の馬を牽いた。姜恒は既に抑えきれずに驚きの声を上げて、耿曙を追い越して山を進み、崖に立って狂ったように叫んだ。

「海だ!海だーー!」姜恒は大声で叫んだ。ついに生まれて初めて本当に自分の目で海を見ることができた。大海はこんなにも広大で、空が一望できる。海鳥が鳴く声が聞える。夏の強い日差しを受けた水面は黄金色にキラキラ輝いていた。浅瀬には漁船が行きかい、砂浜の砂は細かく柔らかな白い色をしていて塩の粉のように見える。

 

姜恒は信じられない思いで耿曙を振り返った。耿曙は行けばいいと示しながらも、周囲の様子に気を配った。姜恒は砂浜に走って行った。袍の裾を踏んで転びそうになると、すぐに外袍を脱ぎ捨て、靴も脱いだ。そして海の水の中に立って目の前の景色を驚きの目で見つめた。

「ほら見て!」姜恒は貝殻を拾って耿曙に見せた。耿曙は浜辺に馬を繋ぐと、「ちょっと待っていろ。どこか宿を借りられないか探してみる。気が済むまで見ればいい。」

 

かつて耿曙に「海を見に行きたい」と言った時のことを覚えている。七歳の姜恒は、自分は一生姜家の高い壁の外には出られないのだと思い込んでいた。実際にはこの世の殆どの人は死ぬまで故郷を離れる機会はないのではないだろうか?だが自分のこの言葉を耿曙はずっと覚えていてくれていた。十二年間、彼はずっと忘れなかったのだ。

そして今、ついに二人は海辺にやって来た。碧い浪と晴れた空の下、大海の向こうには、雲霧に包まれた仙山があるのだろうか?羅宣、松華、鬼先生はもう海の向こうで新しい生活を始めているのだろうか?

耿曙は雍国国土を巡視していた時、最東端で、切り立った海岸線を見たことがあった。そこはごつごつとして海の水も黒ずんでいた。さびしく荒涼とした場所だった。越地の端は、大地と海の恵みに満ちた土地で、夏の盛りのこの時期、全てがとても美しかった。白い単衣を身にまとい、砂浜で水と戯れる姜恒は無限の碧空と海が混ざり合う中に一体となって溶け込んでいるようだ。耿曙に笑みがこみ上げた。この一月で初めての笑顔だった。

 

彼は姜恒からあまり離れない場所に腰を下ろし、黒剣を膝の上に置いて、周囲の動向に注意を払っていた。あまり人はいなかったが。姜恒は海を見た瞬間に心を煩わす一切を忘れてしまったかのようだ。すぐに半身を水にぬらした。時々振り返って耿曙が砂浜にいるのを確認すると、耿曙は目の上に手をかざし、姜恒に微笑みかけた。昔見た北方の海とは全く違うな、と耿曙は思った。

 

 

―――

第163章 無用剣:

 

夜になると、耿曙が海岸近くで越人漁師から借りた茅葺小屋を簡単に片づけて、二人で住めるようにした。「何て美しいんだろう。」姜恒は呟いた。夜になっても浪の音は変わらず、夜空は満天の星で満たされた。

「お前がいたいだけここにいればいい。一生でもかまわない。」

姜恒は笑い出した。「お金がすぐになくなっちゃうでしょう?」

「俺が魚を捕ればいい。やり方は覚えられるだろう。」

 

海辺は灼熱の暑さで、耿曙は漁師たちに習って袴だけを履いて、上半身と素足を晒して砂浜を行き来した。姜恒は薄衣一枚だけ着て、毎日猟師が網を投げたり引いたり、魚釣りをする様子を見ていた。中原の戦乱など、ここの人たちには関係ないようだった。

あまり遠くないところに鄭国の小漁村があり、毎月一日、十五日に市を開いていた。二人は村まで行って必要な物資を調達した。夜になると、二人で肩を寄せ合い砂浜に座って夜空に広がる広大な銀河を眺めた。万古の昔から銀河も日の出日の入りも変わりない。それこそ蒼い海が桑畑となってもだ。それに比べれば、天地の間にいる人間など儚いもので、まるで浜辺の砂山のようなものだ。

 

「兄さん、」姜恒は顔を向けて耿曙を見た。

「うん、」耿曙は目を閉じて自分の腕を枕にして砂浜に横たわっていた。

「この生涯で……。」

耿曙はさえぎった。「俺たちの生涯はこれからずっと続く。『この生涯』とか言うな。縁起が悪い。」姜恒は笑いながら言った。「たくさん勉強して、たくさんの人にあったけど、でもね、」

耿曙は姜恒をさえぎらず、目を開けて夜空の星を眺めた。

「時々思うんだ。何をしようと役には立たないなって。なのに、今までずっと真剣に、役立てるための学問としてでなく学んできたことがあったかなって思うんだよね。」

「あるだろう?洛陽にいた時はそうではなかったか?」姜恒は考えてみて納得した。

 

その時、耿曙は姜恒の明るい双目に名残惜しそうな気持をを見てとった。姜恒は彼の前に近づいて来て星空をさえぎった。二人の顔は近づき、耿曙はすぐに鼓動が早まった。この一年、何度も心の中で考えては停まらず、苦しめられてきた思い。ずっとわかっていた自分の内心に今向き合うことができた。

俺は彼が好きだ。俺は恒児が好きなのだ。

耿曙は自分の心に直面し、認めた。ただの兄弟の間の感情ではない、もっと多くを求めている。彼は目をそらさず姜恒を見つめた。口づけしたいと思った。真実を告げたあの日から、二人の間には微妙な変化が現れた。姜恒はもう彼の体を撫でまわしたりからかっていたずらしたりしなくなった。あの時々思いついてふざけて触って来る行動も影をひそめた。

「何が言いたい?」耿曙は手を伸ばして姜恒の首の後ろを抑えた。彼をよく見てみる。美しく、心を動かす容姿だ。子供の頃から今に至るまでどれだけ見ていても見飽きることがない。自分のものにできるのなら何でも差し出してしまいたいほど好きだ。

「あなたは思ったことはない?何のために剣を修練するのかって?」

「ないな。」耿曙は考えた末答えた。「俺が剣を修練するのはある人を守るためだ。ある人というのはお前のことだ。」

姜恒は笑った。耿曙は彼が自分に口づけすることを期待したが、彼は何もしなかった。理由はわかる。姜恒は今はまだこのことに思い至っていないからだ。待っていよう。彼が自分の側にいさえすればいい。一生待ったってかまわない、耿曙は心に思った。

「俺の視界を遮っているぞ。」耿曙はいらついたようなふりをして言った。

 

姜恒は笑って耿曙の横に体を戻した。耿曙は再びきらめく星河に目を向けた。あの夜、姜家の庭でずっと念頭に置いた、『天道』が見えた気がした。

「無用の用か?」耿曙は突然そう言った。

今まで学んできたのは、全て、ある明確な目的のためだ。黒剣心訣を修練するのは姜恒に付き添い守り、自身の運命を主導するため。武を習うのは復讐のため、それとも二人の望みを叶えるため……。

 

「無用の用か。『天道は仁にあらず、万物を以て芻狗と成す。』本当の天道には万物の区別はない。『用いる』ことを気にしない。目的や願望、理想が何であれ関係ない。天地は変わらず、日が昇り、月が沈む。星座はまわり、星は移る……。」

「即ち何のためでもない。」耿曙はかつて読んだ書を思い起こして呟いた。

天道の前では、万物の誕生も崩壊も、一瞬現れては消える浪の花と同じだ。生と死は輪転する。この世の全ての生命と人間の間に何の違いがあるだろうか?

「天道。」耿曙は一刹那、満天の星空の下で、よぎってはすぐ消えゆきそうになる考えをつかみ取った。

姜恒:「?」

耿曙は体を起こし、横に置いてあった黒剣を掴んだ。そして星河と大河に向き合い、何かに入り込んだようになった。

 

姜恒は不思議そうに彼を見た。すぐに耿曙は黒剣を持ち、波に向かって走って行った。姜恒も体を起こしたが何も尋ねなかった。瞳に映る耿曙は波の音に合わせて歩を停め、砂浜から潮が引く水の線の前に立ち、夜空の星を望んでいた。

姜恒は少し後ろに離れた。すぐに耿曙は剣を振り上げ、天の星の軌道と潮の満ち引きの間に弧を描き、横に剣をひき、前に突き、横に倒した黒剣を平らに切った。

姜恒はすぐにわかった。耿曙はこの夜、武人としての最後の山を越えようとしている!今までの生涯で学んだ武術の域を突破しようとしているのだ!

彼は耿曙の邪魔をする気はなかった。驚きと仰慕の念でいっぱいの目をして、石の上に座って見ていた。

 

その後、耿曙は長い瞑想状態に入った。十五分くらいたっただろうか。彼は振り返って潮が満ちる間に歩を進め、再び剣を振るった。星空は巡り、海の上に星が落ちた。(?海は東側では?)一晩中、姜恒は石に腰を下ろして耿曙を見続けた。東の空が明るくなった。耿曙は全部で9手振った。その9手の中には、安陽城にいた時に、一瞬だけ天心が開いた時に見出した型もあった。あの時は、姜恒が歌った「天地と我とは同根、万物と私とは一体」が再び聞こえて来た!だが、あの時にはまだ知らなかった。一千万の兵を前にして、数千年間誰もが越えることができなかった壁を自分が突き破ったのだということを。

彼の父の耿淵でさえ、琴鳴天下の曲を弾き終えた時にようやく垣間見た境地だ。

 

「掴めたよ。恒児!」耿曙は振り返った。姜恒はあくびをしつつも期待の表情を示そうとした。「あなたが作り出した剣法なんだね。つまりあなたが大宗師だ!」

羅宣に聞いたことがある。武人が一生道を究めれば、人の世の境を越え、天道を覗き見ることがあるのだと。そこに到達する者は少ない。殆どの人は平凡なまま、名人の地位を得たとしてもそこで一生を終える。だがその壁を越えた者は『武聖』と呼ばれるのだ!天道を覗き見たら何の役に立つのかという問いに、実は何もと答えられて姜恒は笑ったのだった。武聖の域に達した者も簡単にはいかないのだなあと。

 

「だがもう忘れてしまった。太陽が出てきたら、もう何も思い出せない。」耿曙は悔しそうだ。「私が覚えているよ。ほらね?砂浜に描いておいてあげたよ。」姜恒は耿曙を引っ張った。

姜恒は実は一晩中退屈だったので、耿曙の創った剣法を記録しておいたのだった。

耿曙はすぐに言った。「俺はもう一度練習するから、お前は帰って寝ていろ。」

姜恒は小屋に戻って眠った。耿曙は外で剣の練習を始めた。一晩眠っていないのに感覚は研ぎ澄まされていた。夜になると姜恒は食事を作った。「大国を治めるのは小料理を作るようなもの。」と言いながら、鮮魚を料理した。耿曙は簡単に食べ終えると再び眠ることなく、心法の修練をした。三日後、耿曙は姜恒に剣法を見せた。黒剣、天月剣、烈光剣の剣法を全て融合させた。最後に自分が編み出した九手の剣法に心法を組み込んだ技は完全無欠だった。

 

姜恒自身の武学はまあまあ程度で、できるとまでは言えないものだが、それでも耿曙が今までと違っていることは感じ取れた。

「本当にすごいよ!」姜恒は感嘆した。

耿曙は苦笑いした。姜恒が奥義を理解できないのはわかっていた。だが、それでも興奮した。

「次に誰かと戦う時になれば、お前にもわかるさ。もっとも今はもう誰とも戦いたくないがな。」

「技に名前をつけたらどう?」姜恒が提案した。

「無用の用、だから、『無用剣』というのはどうだ?」

「ひどい名前だよ!」

「じゃあ、お前が決めてくれ。」

姜恒は考えた末、「『山河剣法』はどう?」と言った。

「『山河剣法』か!いい名前だ。」

 

耿曙はひそかに感じていた。姜恒の心情にも変化があったようだと。海辺で数か月過ごし、二人は世界から隔絶していた。自分は星河の下、武道の極致にある境界の外を垣間見、姜恒も世の大道の有りかについて結論を見出したようだった。

「心が決まったのか?」

「心が決まったよ。」姜恒は頷いた。耿曙はほっとしたが、それ以上聞かなかった。姜恒がこれから進みゆく道を選んだのだとわかった。もう二度と大争の世や、最終勝者を誰にするかについて関わりたくはないはずだ。耿曙自身が、二度と剣を殺人のために使ったり、誰かを勝たせるために使いたくないのと同じだった。だが、山河剣法という名を聞いた時、耿曙にはわかった。姜恒は何か行動を起こそうとしている。そして自分の剣は永遠に彼の側にあるだろう。

 

数日後、姜恒は再び市場に行った。ついたちの市の日で、活気にあふれていた。

「誰かが私たちを尾行している。」姜恒は小さな店の前で歩を停め、耿曙に言った。耿曙は振り返って見た。「俺が行って声をかけてくるか?」

市場には民に扮した斥候が何人かいて、遠くから様子を伺っていた。ふと、耿曙の様子が以前とは違うことに姜恒は気づいた。山河剣法を編み出したあの夜以来、雰囲気が明らかに変わっていた。以前より穏やかで、鋭さを内に秘めている。以前の様に危険を感じてすぐに黒剣の柄に手を伸ばすことがなくなった。

今や黒剣は彼の飾りになったかのようだ。帯で背に巻き付けてはあるが、誰かが尾行しているのに気づいても、耿曙は背に手を伸ばして黒剣を取ることはなかった。今の彼は、この神兵を軽々しく使おうとはしていない。

 

姜恒がまだ決めかねている内に、耿曙は小石を手に取り、家屋の影に隠れている男に向かって投げつけた。男は一声、うめいて逃げて行った。

「誰が送り込んで来たんだろう?」

耿曙は何も言わずに姜恒の手を牽いて、振り返り、市場に背を向けて砂浜に向かって歩き出した。集まっていた斥候は耿曙を目にして大慌てで去って行った。

「あれ!お久しぶりです!」姜恒が声をかけた。

木の影からよく知る人影が現れた。両手に刀を持っている。

「お久しぶりです、羅先生。」孫英が笑いかけた。「それとも姜大人とお呼びするべきでしょうか。」

「またお前か。」耿曙が眉をひそめて前に進んで行った。孫英は冷笑し、突然刀を突き出した。

「気を付けて!」姜恒は孫英が突然耿曙を攻撃してくるとは思わなかった。彼の攻夫を試すつもりなのだろう。そういえば、落雁城では孫英はこてんぱんにやられたはずではあったが、耿曙と正面切って戦う機会はなかったのだった。

だが、耿曙は一度の動きで孫英の刀刃を掴んだ。鋳鉄のような二本の指で少しひねると、孫英は前に引き寄せられた。そこへ左の素手で腹部を一突き。孫英は吐血し、耿曙に横に投げ出され、刀も落ちた。

姜恒:「……。」

耿曙は振り返って姜恒に言った。「奴は神秘客じゃないぞ。」

姜恒:「………………。」

 

孫英は痛みに耐えながら立ち上がった。やれやれ完敗だ。耿曙の黒剣の力を試そうと思ったが、素手で突き飛ばされるとは思わなかった。だが姜恒にしてみれば、孫英の武芸は頂点を極めているわけではないが、五大刺客にわずかに及ばない程度ではないかと思っていた。

だが、羅宣と戦ったとして、ここまであっさり完敗するだろうか。

                  (でも師父は11万人を瞬殺したから)

「彼は……わかった。違うならいい。」

耿曙は地を這う孫英に向かって尋ねた。「お前の主人に何を命じられた?」

孫英の矜持はズタズタだったが、立ち上がって服をたたいた。腹が痛み、内心ではくそったれと罵りつつも表面上はさわやかに言った。「太子霊は今や王陛下となられました。お二人に門客として済州にお越しいただくことをお望みです。」

「私たちが潯東城にいた時から、既に行動が筒抜けだったんだね。」

孫英は姜恒の知力は耿曙の武芸に匹敵することを知っていた。自分がどうこうできる相手ではない。「その通りです。」孫英は素直に認めた。「どうされますか?大鄭は国士の礼を以てお迎えし、過去のあれこれは全て帳消しと致します。」

 

姜恒と耿曙は視線を交わした。鄭国は今や亡国の危機にある。梁国は滅び、崤関が最前線となった。落雁が攻め入られたのはちょうど一年前、汁琮の次の目標は済州で間違いないだろう。今の耿曙は刺殺を恐れない。五大刺客も、例え父が生き返ったとしても、彼を倒すことはできないだろう。「お前が決めてくれ。」

「もし行かないといったらどうする?」もし行かないと言ったら、太子霊は自分を殺すように命じたのではないか?あなたはそのために来たのではないのか?

孫英はしばらく息を整えてから、しぶしぶと言った感じで告げた。「もしお二人が行きたくないと言えば、王陛下が自ら足を運ばれるでしょう。国内情勢は緊迫しています。一本髪を引っ張れば全身が動くような状態で、国君が済州を離れるのは危険を招きます。」姜恒にとっては笑えない話だった。

孫英は話を続けた。「このまま行きましょう。雍国は今刺客を放って姜大人の行方をくまなく探しています。お二人の荷物は後で誰かに運ばせます。」

      (まあ、色白の二人はあんまり長い間海辺にいない方がいいよ。)

 

 

―――

第164章 禁足令:

 

中原には夏が来たが、落雁城は今でも涼しい。汁琮は安陽に戻って来ていた。姜恒はまだ見つかっていない。そのことは唯一の変数であり、汁琮の心に刺さったとげでもあった。

彼はどう来るつもりだろうか?それに耿曙が焼死した時に蔓延した毒烟はどこから来たのだろうか?安陽で起きた異変について考える時、汁琮はかすかに震えを感じた。今や彼は安陽王宮の広々とした高台に立ち、ゆっくりと復興し始めた街を見下ろしていた。梁国王都を占領してから、雍人たちが続々と関を越えてやって来て、死城となっていたこの町を生き返らせた。

 

あの怪事件は彼が見守る中で起きた。耿曙の体に何が起きたのだろう?彼を焼いた薪の中に毒が混ぜ込んであったのだろうか?汁琮は考えた末、可能性は一つしかないと結論付けた。雍軍が彼を助けないと踏んだ郢人が、火刑の際に、辺り千歩の人間を毒煙で殺そうともくろんだが、天候の見積もりを誤り、また毒の殺傷力を低く見積もりすぎて、十万の大軍が風を受けて死んだということだ。

 

これによって汁琮は一つの教訓を得た。同じ城内を大軍でいっぱいにしないことだ。陸冀が進言して来た。新都を選ぶなら安陽は避けた方がいいと。十万余りが死んだ城では冤魂が留まったままで、陰気が重くこもっていると。陸冀のような天下に謀略をし尽くした者が、あの年になって鬼神のたぐいの虚無な話を信じるとは。

それに対する汁琮の答えはこうだ。「生きている時にも恐れなかったものを、死んでから何を恐れることがある?」

陽剛の気が強い雍軍なら、そのような冤魂など押しつぶせる自信が汁琮にはあった。

                       (それも虚無な話では?)

信じられないなら、今の安陽を見るがいい。こんなにも回復してきているではないか?目下、耿曙は死に、姜恒は逃げて行方知らずだ。彼は絶対に復讐しに来る。一刻も早く彼の消息を掴まねば。更に悩ましいのは、王子の死について、東宮に広まっている噂だ。不快な話をする者が少なくない。その声は増え続け、無視できないところまで来ていた。

安陽に遷都した初日に、東宮が決めた策は、王令を発布して、梁国の人々を安陽に戻らせることだった。過去は問わないとして……馬鹿を言うな。汁琮が差し止められてよかった。

 

これ程多くの人を全部追い出すとしたら大変だ。場所ができてよかったではないか。雍国人が移り住み、彼らの家を住処として。彼らの財産も糧も、全て安陽に置いたままだ。それでいいではないか?

千里の道をはるばる落雁からやって来たのだ。カッコウが巣を奪ったわけではない。これは皆の戦利品なのだ!汁琮は部下に略奪を許さなかった。それは勝ち取った果実が自分たちの物だからだ。それなのに太子瀧は安陽を梁人に渡せと言うのか?!

「来たか。」汁琮は呟いた。

彼の実の息子がやって来た。一月前に落雁を出て、風塵にまみれて今安陽に到着した。太子瀧は汁琮の後ろに来て拝礼した。汁琮は振り返らなかった。

「子供の頃よく言っていたな。南に行って、書物に書かれた中原の楽土を見てみたいと。父はお前に答えた。いつか我らも戻れると。ほら、ごらん。客としてきたのではない。中原は今やお前のものだ。」

 

汁琮は前方を指さして、太子瀧によく見るように促した。これはお前のものだと。子供の頃から父は息子に何も与えなかったが、今、人生で唯一の贈り物をしていた。汁琮は振り返った。息子の瞳に歓喜の色が浮かんでいるのを期待して。

だが太子瀧は何も言わず、複雑な表情をしていた。

「まだピンとこないか?」汁琮は太子瀧がまだ耿曙が死んだ悲しみの中にいるのだろうと、ゆっくり傍まで歩いて行った。太子瀧は目を潤ませていた。彼の母親である音霜公主にそっくりだった。嫁いでからというもの、彼女はいつも幸薄い表情をしていた。

 

「人は去るものだ。」汁琮は左手を延ばして息子の顔に当て、親指でそっと目の角をぬぐってやった。「おばあ様も死ぬし、伯母上も死ぬ。父も例外ではない。皆最後はお前の元を去って行く。」太子瀧が一瞬わずかに身をかわそうとしたことで、汁琮もついに察した。

「何か言いたいことがあるのか?」汁琮は手を離し、不愉快そうに言った。「お前は間もなく神州の天子となる。言いたいことがあれば言うのだ。そんな風におびえることはない。」

太子瀧は汁琮をしかと見つめた。「これは私が望んだものではありません、父王。」

汁琮は突然興をそがれた。このところ、息子が変わったことには気づいていた。

「誰に何を教えられた?」汁琮の口調が冷ややかになった。

「誰にも何も。父王、これはあなたが望んだものでしょう?」太子瀧の口調はしっかりしていた。汁琮は前に一歩踏み出し、危険な語気を帯びて、太子瀧に向かって言った。

「気でも触れたか?敵を憐れんでいるのか?梁人が鄭人と落雁を滅亡させようとしていた時、やつらが我らを哀れんだか?」

太子瀧は深く息を吸い、顔を上げて父親をじっと見た。「父王……。」

「そんなことを、お前は兵士たちの前で言えるのか?」怒りのあまり汁琮の手は震えた。

「雍国のためにあちこちで戦い、命を差し出している者たちが、お前の話を聞いたら、どんなに心を痛めることか!」

「父王!」

「今になって悔やまれる。お前を一緒に連れて行き、この世の煉獄のような戦場をよく見せておくべきだった。あれを見た者なら、絶対にそんな言葉は……。」

「父王!!」太子瀧は怒号した。「あなたは今までちゃんと私の話をきいたことがありますか?」汁琮は刹那口を閉じた。

「私に話をする機会を与えていただけませんか?」太子瀧は問いかけた。

父子は黙ったまま向かい合った。

「言いなさい。」汁琮は冷たく答えた。

「父王、敵とは誰ですか?」

汁琮:「……。」

太子瀧は高台の前まで歩いて行き、安陽全城を見渡し、再び振り返って汁琮に言った。

「あなたの敵とは誰ですか?あなたに敵はいません。十年後、あなたは天子となるのです。彼らは皆、臣民です。みな行き場を失ったあなたの臣民です。なぜ彼らに自分の家に戻らせてやらないのです?あなたは彼らの新王です。梁人はすでにあなたの民なのです。私にもわかっています。戦争は不可欠だ。神州を再統一するためには悲惨な犠牲も伴うでしょう。重い代価を伴なうことも。……ですが……。」太子瀧は城内を指さし、信じがたい思いで言った。「父王、あなたは決められました。彼らの家を奪い取り、放浪の末死に至らしめ、雍人のみを留まらせると!」

 

安陽は荒涼となり果てた。人々は逃げ、鬼城のようになった。だがすぐに雍人が移り住んでくる。汁琮は絶対に梁人を戻らせたくなかった。

「誰がお前にそう言わせたのだ?」汁琮は冷ややかに問いただした。姜恒は逃げ、耿曙は死んだ。今や我が子を手なづける者はいないはずだ。それなのになぜだ?今になって、太子瀧の背後にあの幽霊が立っているというのか?!

「誰でもありません。最初から最後まで私の考えです。父王、なぜ信じてくれないのですか?」

曾嶸か?周游?それともあの寒族出身の士子か?

「お前は家臣たちを抑えられない。」汁琮は太子瀧の能力と国君としての素質を鍛え直す必要があると考えた。「奴らの口を押えられない。奴らの心もだ。姜恒に毒されている。心は女々しいやさしさでいっぱいだ。自国の者に厳しく、敵にはおやさしい。」

太子瀧は汁琮が聞き入れることはないだろうとわかっていた。今日は既に反抗の極限まで行った。この後は、彼の怒りの炎を受けるだけだ。

「戻って反省しなさい。お前の軟弱さを。」汁琮は冷たく言った。

「はい。」太子瀧は小声でそう言うと背を向けて去って行った。

今の「はい。」は「いやです。」に聞こえた。穏やかだが、今までになく頑固だ。太子瀧は汁琮の更なる猛烈な怒りを焚きつけることに成功してしまった。汁琮は高台に立ち、息子に向かって怒号した。「よくよく反省するんだ!自分の間違いがわかってから!再び朝廷に上がって来い―――!」

                        (GOGOシルタキ!)

 

翌日、太子瀧は禁足させられ、壁に向かって跪いて反省させられた。

汁琮は東宮の門客全員からの激しい抵抗を受けることになった。日頃は汁琮の言うことに反対しない曾嶸や周游も黙っていられず、国君への質問を始めた。

「王陛下、安陽に来たばかりで、政務が煩雑です。こんな時に太子殿下が禁足とは、いったい何をなさったのですか?」

周游も言った。「五国会議については、どういたしましょう。安陽を占拠したことで、四国人は動揺しております。落ち着かせるための手立てを何かしなくては……。」

 

汁琮には真実を告げる気は毛頭ない。「お前たちがいるではないか。太子は不参加でも東宮の職責は変わらない、何か問題があるか?」

東宮は腐っている。根まで腐っている。それが汁琮の考えだった。自分は征戦だけしたいのであって、政務は行いたくない。姜恒が来てから、太子瀧と若い官僚たちは皆だめになった。すぐに立て直さなければ。皆は顔を見合わせた。曾嶸はうまく誘導しようとした。「太子瀧が禁足してその理由も知れないとなりますと、天下人が太子がいないことで何を言い出すかわかりませんが、いかがいたしましょうか?」

「敵に同情したことだ!それが彼の罪だ!」汁琮は突然怒鳴り声を上げた。

 

東宮の官僚たちは冬の蝉の様に黙りこくった。だが言葉は発しなくても汁琮を見る眼差しには堅持や執着が見られる。汁琮にも理屈の上ではよくわかっている。曾嶸は曾家を代表している。士族の子弟にはそれなりの配慮が必要だと。だがこの時、沸き上がる暴虐的な考えを抑えきれなかった。この中から何人か殺して、東宮を完全に服従させたい。

「王陛下、政務の決策をいかがしますか。」曾嶸が尋ねた。

「孤は国君だ。」汁琮は一語一語ゆっくり言った。「孤自ら行う。君たちはこう思っているのか?孤は政務を東宮に託しているから、もうずっと前から国君ではないと?」

誰も何も言えず、曾嶸も最後には譲歩した。

周游が言う。「現在使者を手配しており、先ず、郢、鄭両国にしばしの和議を……。」

「和議?和議とは何だ?」

その言葉で誰ももう幻想さえ描けなかった。

「出兵だ!」汁琮は言いなおした。「来月出兵して、鄭国を攻める!落雁の血の借りを返させに行くぞ!天下に知らしめるのだ。大雍を攻撃しようとする者は、孤が必ず償わせると!

お前たちの政務文書は書房に持って来い!処理を終えたら御駕親征だ!」

 

 

―――

第165章 鬢の白髪:

 

七月流火、盛夏の夜には満天の星。済州城では蝉がうるさいぐらいだ。

「恒児、あまり太子霊を信じるなよ。」耿曙が小声で言った。今では姜恒の安全を守り切る自信があるが、ただずっと太子霊はきらいだった。

                  (過去の何かを感じ取っているな)

「あの人が私を殺そうとしたことはないよ。」言った後で思い出した。太子霊は耿曙を殺そうとはした。だが結局は殺し損ねた。姜恒は元々現実的なたちで、やたらと仮定をしてみない。だがもし、あの時耿曙を助けた結果がどうであれ、二人が兄弟だとわかったら、太子瀧は見逃してくれただろうかと考えた。あの時は風雪の崤関から耿曙を助け出したが、その後、五国の中で、太子霊は自分たちを殺そうとしない唯一の太子だったことははっきりしている。

 

「そうだな。」耿曙も最後に頷いた。「俺たちが雍国を出たことを知っても害しようとしなかった。」だんだんと謎が解けてきて、落雁城外で姜恒に刺客を差し向けたのは他ならぬ汁琮だとわかった。逆に太子霊は両国が対峙し、双方が国の命運を賭けていた時でも、姜恒を殺そうとは考えなかった。

「きっとたくさん話があるんじゃないかな。」姜恒はそう締めくくった。

今回の済州来訪で色々な問題を一気に解決できる予感がした。まあもし解決しなかったら、耿曙と二人、この天下で本当に落ち着ける場所を探そう。この世の桃源を探して暮らすのだ。

自分の旅は鄭から始まった。ひょっとしたら鄭で終わるのかもしれない。見えない力と運命の手に導かれて千の山、万の水を乗り越え、最後に再び済州城に戻って来た。

 

「申し訳ありませんが、」孫英が馬車を停めて言った。「鄭軍は大戦でお二人の顔を覚えたかもしれません。宮に入る時には顔をお見せになりませんようお願いします。」

「誰かが復讐しに来るからって?」耿曙は不真面目な調子で尋ねた。

「勝敗は兵家の常とはいえ、生きていた人を失えば、捨て置けぬ者はいるものです。

危険は冒せませんので。」孫英の言葉を聞いた姜恒は上げようとしていた窓の帳を

下ろしておくことにした。

 

「俺の記憶だと確かあの戦争を仕掛けて来たのは鄭国の方じゃなかったか?」耿曙が言う。

「そうです。ですが戦いに敗れれば、受け入れがたい思いがあるものでは?」

「武を習う者は、戦場では何が起きてもおかしくないと知るべきだ。負けるのが嫌なら戦うな。」

孫英は笑った。「淼殿下にそういわれては誰も戦いに行きたがらないでしょうな。」

姜恒は何も言わずに黙って聞いていた。いつの時代も勝てば官軍だ。前回は鄭国が負けた。しかも徹底的に負けた。もしも太子霊が勝っていたなら、雍都は鄭国の手中に落ち、汁琮、姜太后、汁綾は捕らえられて済州に送られていただろう。状況は違っていた。

「着きました。どうぞ。」孫英が恭しく言った。

 

数年前初めて来たときと比べて、済州はより重苦しい感じがした。夏の夜、雲が重く垂れこめて、これ以上ない蒸し暑さだ。姜恒は馬車の中で汗だくになっていた。宮の中は寂寞かつ荒涼感に満ちていた。

「姜先生の寝室は片付けました。以前と同じ部屋です。淼殿下は……。」

「一緒でいい。」

「案内はいらないよ。」鄭宮内の場所はよく覚えていた。約半年暮らしたのだ。目を瞑っても歩けるくらいで、孫英の付き添いはいらなかった。「私について来てね。」姜恒は耿曙に笑顔を見せた。耿曙はふざけていないで、まず王に会いに行こうと伝えた。

「俺も彼には言いたいことがある。趙霊とはちゃんと話しことがなかったからな。彼はどんな人間だ?」

前々回、耿曙は趙霊の顔を見ることもなく、関内で捕まり、車裂きにされそうになった。

前回、彼らは落雁城内で顔を合わせたが、敵同士なので当然話などしなかった。

どんな運命のめぐりあわせか、雍国の宿敵と因縁の再会をするのだが、それまでのことは水に流して暫し手を組んで汁琮に対抗することになる。

 

「彼はね、気さくな人。」姜恒は考えながら言った。「謙虚で、少なくとも謙虚に見せていた。」姜恒は耿曙の手を牽いた。二人は手を繋いで、前廊を抜けた。その時姜恒はこの寂寥感がどこから来るものかわかった。鄭宮は人が減っていた。以前いた侍衛も六割近くに減っているのではないか。

「書房付近に誰も巡回していないなんて。」姜恒は不思議に思った。

「金がないからです。」書房から太子霊の声が聞えた。「お入り下さい。」

姜恒は扉の外で立ち止まったが、耿曙に引っ張られて書房に入った。太子霊は四か月前に王位を継承し、金糸で刺繍された紫の衣をまとっていた。服だけでなく、封王用の簡易な冠もつけていた。数年前より少し老けて見え、もみあげに白髪が混じっていた。

眼差しは変わらず生き生きと明るく、耿曙と姜恒が来たのを見ると、どうぞという仕草をした。

 

「先生は鄭国にとってはよそ者ではないと思っていますよ。」太子霊の温和で礼儀正しい態度は昔のままだった。「聶将軍もどうぞごゆるりと。家にいると思って下さい。」

耿曙は頷いて座った。姜恒がとてもくつろいでいるのに気づいた。雍宮にいた時より、力が抜けている。太子霊への挨拶さえ省いている。まるで長年の知己に会ったかのようだ。

姜恒と太子霊が友だった時期もあったのだ。そして敵になった。敵と友、彼らの関係は変化したが、月日が流れても変わらないことがある。二人の間で通じ合うものがあることだ。姜恒は汁琮とも趙霊とも敵になったり味方になったりした。どちらの時も通じ合う何かがあった。そうした暗黙のうちの理解がある限り、姜恒は楽しく感じられた。

 

「どうしてお金がないのですか?」姜恒は遠慮なく、自分でお茶を淹れに行った。太子霊の近くには世話係がいなかったからだ。

「戦争で使い果たしたのか。」耿曙が冷ややかに言った。

「その通り。三万人近くが死に、慰労金が必要だった。彼らの妻子を養わねばならない。それに今年は不作で収入も減った。」

姜恒は耿曙に茶を渡した。鄭茶は口当たりは苦いが、後味にほんのりと甘みが残る。彼はしばし太子霊の様子を観察した。痩せたし憔悴している。腕には服喪の為の麻布をかけている。

「暑くはありませんか?夏の暑い盛りにそんなにいっぱいお召しでは。」

耿曙:「……。」

鄭都はもともと蒸し暑い。姜恒は単衣短袴を着てくればよかったと思っていたが、太子霊は王袍を着ていてもっと暑いだろうと思った。(もう王様なのにいつまで太子呼ばわり?)

「あなた方のせいじゃないか?」太子霊はあきれたように言う。「今夜あたり来るだろうと思って面倒だから先に着ておいたのだ。封王が朝臣に面会するのに袍を着ないで迎えるわけにはいかないだろう?」姜恒は大笑いした。太子霊は続けた。「この王袍ってやつをまだ着慣れてなくてね。毎日上朝する時だけでもう限界だ。ちょっと失礼するよ。」

太子霊は屏風の影に服を着替えに行った。最初は色々話したいと思っていた耿曙も、こんな風にされて、口を開く気を失った。姜恒が「気さくな人」と言った意味がわかった。

 

「まだ聶将軍に謝っていなかったな。」太子霊は屏風の影で服を脱いだようで影が映っていた。耿曙は答えた。「結構だ。両国は戦っていた。敵に情けをかければ、味方を苦しめることにつながる。理解している。」

姜恒はお茶を飲みながら、太子霊の机の上にあった文書をめくって見た。被災者支援の件、鄭王逝去後の国事の引継ぎ、それと朝臣からの奏章の山だ。

「……それでもやはり謝りたい。」太子霊は帯をまきながら出て来た。薄手の麻衣一着をまとい、均整の取れた文人らしい体と白皙の肌が見え隠れしていた。太子霊は姜恒に少しどくよう合図して、王卓の前に跪き、耿曙に向かって真剣に言った。「あの時二人が兄弟だと知っていれば、あなたを殺そうとはしなかった。実のところ、姜恒が雍国の手中に落ちたと知って、最初はあなたと交換しようと考えたのだ。だが、彼が戻ってきた以上、あなたの父は私の父を殺したのだから、私は仇を取らないわけにはいかなかった。」

「当然だ。俺でもそうしただろう。」耿曙は答えた。

太子霊は耿曙に一拝した。「聶将軍にはご理解いただけたと信じることにする。」

「それでこれからどうする?」

「これからだが、我らの間には依然として血の仇は存在する。だが今は共通の敵がいる。仇や恨みで物が見えなくなってはならない。まずは大局を重んじなければならない。仇の方は、この件が解決してから、また考えてみても遅くはない。」

耿曙はうん、と頷いた。太子霊は姜恒を言い訳に使ったのかもしれないし、耿曙としてはまだ信じ切れていない。だが今の話については疑わない。一世代前の血の仇は存在し続け、この悲劇は二人の肩にのしかかり続けるが、いつかは決着がつくだろう。それまでの間、しばらくは協力し合うことができる。耿曙としては自分の立場ははっきりさせた。姜恒も同じ気持ちのようだ。

 

「朝政文書がたまっていますね。門客たちはみなどこへ行ったんですか?あなたを手伝う人はいないのですか?」姜恒は文書をめくりながら言った。

「あなた方の国に殺されたよ。私を守って潼関を越えさせようとしてね。あの夜のことは一生忘れないだろう。」

姜恒:「……。」

鄭軍は敗走し、落雁から逃げ帰る後ろを曾宇に追撃された。太子霊の出征についてきた門客は多少の武芸の心得があり、危険な状況下、追撃してきた雍軍の先鋒を押さえて戦死した。

門客たちは皆空身で重装備の騎兵に対峙した。例え武芸がもっと強かったとしても屠殺の難を逃れることはできなかっただろう。終いには太子霊の車の車軸は赤黒く染まった。六百いた門客は、帰国時には四十七人になっていた。国に戻った太子霊は門客の遺体を回収し、遺族に多額の慰謝料を払った。そして生き残った者たちは故郷へと帰らせた。

太子霊は簡単に説明したが、姜恒にはその場の悲惨さが想像できた。雪夜の潼関で、孫英に守られながら太子霊は生還した。その後ろには五百余りの遺体が大雪の上に散らばっている。矢を受けた者もいれば、雍軍の長刀で胸を突かれた者もいるだろう。そうして彼らは他国で死んだのだ。

 

「だが後悔はしていない。そうした戦いはあるものだ。死んだのが宗廟ではなく潼関だったということだ。」

生きて戻ってきた太子霊は梁国を救わなかった。そして今汁琮が最大の危機をもたらそうとしている。その内彼はやって来る。鄭国は落雁で惨敗した後、力を失った。汁琮が崤関を越えてやってきたら、鄭国は全城あげて、命の限り戦わなければ、亡国以外の未来はない。

「私が見たところ、今の状況もそう変わっていないようですね。気を付けなければ、あなたは宗廟で死ぬことになる。」姜恒は奏折をめくりながら言った。

「自分の家で死ねる方が、潼関で死ぬよりずっといい。」太子霊が答えた。

 

「どうした?」眉をひそめた姜恒に耿曙が尋ねた。

「すごく大変そうだ。」一度の大戦が鄭国にもたらした問題がここまで深刻だとは思わなかった。太子霊は二人に何も隠すつもりはないようだ。「車将軍が犠牲になった。今年二月に父王が薨去され、国内の公卿はこの戦争をとても不満に思っている。」

「そうらしいですね。」姜恒は耿曙の隣に座って、群臣からの鄭王霊を攻撃する文章を読み始めた。(おお、ようやく王霊になった!)

「軍事費は全くない。龍于将軍だけが私の味方だ。今は崤関を守っている。」

「法を変えてやったらどうだ?変法はお手の物だろう?」耿曙が言う。

「事態を悪化させるだけだよ。」姜恒は苦笑いした。鄭国は雍国と根本的に違っている。雍国は汁家独裁だ。それでも変法を進めるには多方面から抵抗を受けた。太子霊の朝廷は利害が錯綜している上に、敗戦によって王の威厳は地の底にまで落ちた。変法を強攻すれば、反発を呼ぶだけだ。

「姜恒、私に替わって政務処理をしてもらえるだろうか?夜も更けた。まずは休んでくれ。職務については明日細かく打ち合わせよう。」

「わかりました。死んだ馬を診る獣医の役目しかできませんが。」

「先は長い。あなた達に相談したいことはまだあるが、急がず、ゆっくりやって行こう。」

耿曙は姜恒のために奏巻を集めて、眉をあげ、行くぞ、帰って寝ようと合図した。

ちょうど姜恒が退室の挨拶をしようとした時、太子霊はふと思い出して言った。

「そうだ、以前、君に仕えさせた趙起を覚えているかい?」

勿論覚えていた。趙起のことは忘れたことがなかった。趙起は自分が一番孤独だった時期に側にいてくれた。短い間ではあったが、家族の様に思っていた。

「私も彼に会いたいと思っていたところです。」姜恒は、もしまだ宮にいるなら自分のところに来させてもらえないかと言おうとした。だが太子霊は言った。「不思議なことに、君が出て行ってから、趙起もいなくなったんだ。」

「え?」

「私は人を遣ってあちこち探させたんだ。無断で出て行ったのかと思ったからなのだが、結果、潯西で彼を見つけることができた。更におかしいのは、彼はあの時のことを全く覚えていなかったのだ。自分は皇陵を離れたことはないし、国都に行ったこともないと言い張るのだよ……気がふれたかのようだった。」

姜恒:「……。」

「私は彼に王宮に戻ってくることを強要しなかった。もし君が……。」

「結構だ。天意だろう。強制しなくていい。」耿曙には事情がだいたい読めたようだった。姜恒の方はわけがわからなかった。そんなに全て忘れてしまうなんて趙起は高熱でも出したのだろうか?だが、太子霊がそう決めたのなら、自分も無理強いはしまいと考えた。

(師父が代国で耿曙に化けた時、姜恒は薬の匂いで感づいたのに、趙起は匂わなかったのかな?それに確か、流花と相談して趙起は「女性がだめなら自分ならどうです?」と言ってたけど、OKしてたら色々と大丈夫だったのか。)