非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 103-109

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第103章 河辺の紙灯:

 

下元節の前日、陸冀は自ら東宮に足を運んだ。怒りが爆発していた。

もう東宮など知るものか。みんないったいどうなってしまったのだ!

陸冀の来訪を聞きつけると、姜恒は誇らしげに迎えに出た。耿曙もやって来た。彼は文官ではなかったが、軍の態度を表明したかったのだ。太子が采配を振るう現在の東宮は雍国の若い世代が集う場となっていた。門客の誰もが陸冀の孫の世代だ。陸冀は驚き、突然自分が年を取ったことに気づいた。

 

陸相。」一同は皆、礼儀正しく陸冀に拝礼した。

陸相。」太子瀧も誇らしげにうなずいた。姜恒がいる今、陸冀への忌憚はなくなっていた。一方、曾嶸は右相と言い争いたくはなかった。意見が合わなければ東宮が陸冀に叱咤される。だが姜恒は彼を恐れていないようだ。曾嶸は姜恒がした提案について知らされていなかった。それについては気分を害した。だが、朝廷に戻って以来姜恒がしてきた提案は全て、曾家の利益になるものばかりだ。山沢の保護がその一例だ。それは父との協定のためだろう。そう考えれば、彼が東宮を率いている限り、自分の身内は守られるはずだ。

陸冀が冷やかに一言尋ねた。「君等は何をしているのだね?」

太子瀧が答えた。「変法の準備です。本日草案の初稿を提出しますので。」

「聞かせてもらえるかな。」陸冀の言葉は冷たさを増す。

 

姜恒は始めるようにと指図した。まずは曾嶸から、耿曙、周游、一人一人が基本的な考え方と方向性について述べた。姜恒はそれぞれの提案の概要を真剣に書き付けていて、陸冀との議論に備えられなかった。だが、当初陸冀が抱いていた敵対的な態度はだんだんと収まり、彼は身を入れて聞き始めた。どの変法の方向性も深く考え抜かれている。この若者たちは大雍に受け継がれた様々なことを打ち砕いて一から組み立てなおそうとしているのだ。表も裏もすっかり変える大改革の目的はたった一つ。全ては同じ方向を目指している。雍国を最短時間で調整し、中原での覇権争いに参与できるようにすることだ。

「右相?」太子瀧が遠慮がちに声をかけた。

陸冀は全行程を気難し気に聞き終えたが、論評はしなかった。「年をとったものだな。」陸冀はため息をついた。東宮殿内は静まりかえり、姜恒は筆をおいた。

陸冀はもともと姜恒の非現実的な考えを強く批判しなければならないと考えていた。

だが、全てを聞き終えた時、ふとかつての出来事が頭をよぎり、言葉が出なくなった。

「君等がいいと思うならやりなさい。」陸冀が言った。姜恒は陸冀への対策を早々に立てていた。だが、陸冀が自ら考えを変えるとは思ってもみなかった。

 

東宮の門客が解散した後は、三か月の相互審閲に入る。姜恒が本を抱えて部屋に帰ろうと歩いていると、途中で再び陸冀に出くわした。右相はいつも通る道で彼を待っていたのだ。「陸相。」姜恒は遠慮がちに微笑んだ。陸冀もよそよそしい態度で言った。

「朝堂で言ったことについてだが、誰にも執着はある。気にしないでくれたまえ。」

「勿論です。」姜恒は笑顔を見せた。

陸冀は穏やかな口調で言った。「十八年前、君とよく似たことを考えた人がいたのを思い出したよ。」姜恒は誰のことかとは問わなかった。雍国は広大でその歴史も百年以上続いている。同じことを最初に言い出したのが自分でなくても不思議はない。

「その方はどうなりましたか?」姜恒には話の続きを促した。

「その後、彼は死んだ。」陸冀はそう言ってから、推し量るように姜恒を見た。

「誰だって死ぬものです。」姜恒は再び微笑んだ。その表情を見た陸冀は衝撃を覚えた。「ですが、一度起きた火は受け継がれ、いつまでも燃え続けるでしょう。成されるべきことは人が去ってもいつか成し完えるものです。そうでしょう?」

「その通りだが、」再び陸冀の顔色が変わった。「死んでしまえば何もできない。」

「勿論です。でも死を恐れてばかりもいられません。」姜恒は一笑した。姜太后が界圭に自分を護衛させる理由がわかってきた気がする。

陸冀は去って行く姜恒の後ろ姿を立ち止まってずっと見つめていた。

 

「誰の事を言っているんだろうなぁ。」姜恒は眉をひそめた。「十八年前か。」

昼食を食べ終えた耿曙が顔をしかめていた。

「どうかしたの?」

「俺はここを出ることになった。下元節二日目の朝だ。」

「え?そんなに早く?どこへ行くの?」

「嵩県だ。」姜恒と耿曙は視線を交わした。汁琮への提案は却下されたようだ。金璽を手放したくないのだ。それで耿曙に四国連合軍の後陣に廻り込む準備をしに行かせるのだろう。「お前はどうする?一人で王宮にいるつもりか?」

変法が一番重要な段階だという時に汁琮がそう動くとは思っていなかった。これでは進むことも退くこともできない。兵を率いて嵩県に向かわせるなら、耿曙には参謀が必要だ。だが、自分が行ってしまったら東宮はどうなるだろう。

 

下元節当日、汁琮が書房に姜恒を呼びよせた。姜恒には屏風の後ろに誰かが隠れているような気がしたが、尋ねはしなかった。汁琮の決断を変えようとも思わなかった。太子瀧と耿曙が言うには、汁琮は何かを決定する前には全てを考慮するのをいとわないが、一旦決定した後は、誰の忠告もきかないそうだ。

「どうやら、王陛下は玉壁関を強攻する方を選ばれたようですね。」

「その通りだ。落雁に来て間もない君は知らないだろうが、孤王は……」

「了解しております。」姜恒は言った。

姜恒に話をさえぎられた汁琮はそれ以上話を続けず、静かに息をついてから頷いた。

「それならいい。」

「ただ王陛下にご注意いただきたいのです。趙霊の門客が北方に紛れ込んでいます。孫英が灝城に現れたことがそれを証明しています。ずっと追跡調査をさせていますが、孫英の消息はつかめなくなっております。玉壁関を攻撃される際にはどうぞご注意下さい。」

「孤王は気を付けるとする。それで君は?」

汁琮には何か考えがあって自分を呼び寄せたのだろう。国君の権威に抗うことなどできないのに聞く必要があるのか。「臣は王陛下のご命令に従います。」

「昨夜孤王も色々と考えてみたが、汁淼一人を嵩県に送るのは心配だ。君が彼について行ってほしい。東宮の変法についてはちゃんと進めるつもりだ。」

姜恒は汁琮の双眸を見つめた。自分の好敵手。今に至っても完全に信頼しようとしない。それはいい。わからないのは汁琮が自分との間に置きたがる微妙な距離感だ。暗殺未遂の件が未だに尾を引いているのだろうか。汁琮は立ち上がり、書房内を歩き回りながら言った。「国事を二つ同時に全うするのは難しい。目下のところ、我らの最重要事項は玉壁関奪還だ。変法は時間をかけて進めていく。だから君は汁淼に着いて嵩県に向かい軍隊の管理に専念してくれ。」

「はい。」

東宮については、右相陸冀が自ら監督し、君の代わりをする。落雁に手紙を送る時は機密に注意するように。交互審閲に君が関わる必要はないと思う。」

「私が担当する外族外務にかんしては平邦令の中に殆ど全て書かれています。」

「君は賢いからな。」汁琮は姜恒に眉を上げて見せた。「行きなさい。東宮主導の変法が成功するかどうかはこの一戦にかかっている。その前に少しのお別れがあるだけだ。」

汁琮が今、切に求めているのは威信だ。威信を打ち立てるためには、耿曙を助けて戦功をあげさせる必要がある。それができれば朝廷内の変法への反対意見などばっさりと切り捨てられるのだ。

「それでは王陛下に勝利がもたらされますことを。」姜恒は汁琮に拝礼した。

姜恒は余計なことを言わずに汁琮の命令を完全に受け入れた。汁琮にはそれが意外だった。姜恒が出て行くと、衛卓が屏風の影から出て来た。「何の弁明もしなかったぞ。」汁琮は軽く眉をあげた。

衛卓は言った。「弁明しても無駄ですから。」汁琮は黙り込み、衛卓は続けた。

「先ほど大臣たちが言い合っていたのですが……」

「何をだ?」汁琮は冷たく言ったが、答えはわかっていた。

「言い合っていたのは、彼が……十八年前に先王が残した変法宗巻を……」

汁琮の表情が恐ろし気になり、衛卓はそれ以上言うのをやめた。

「お前の刺客衛隊の訓練の方はどうなっている?」汁琮は穏やかに尋ねた。

「全部で122人です。いつでも王陛下のご命令に従えます。

「追って行かせろ。南方にいる時なら機会があるだろう。汁淼の注意がそれた時に手を下せ。うまく偽装して趙霊の仕業を装え。」

「わかりました。界圭に近づかせないようにしなければ。」

「彼の事は何とかする。惜しいことだ。良い家臣なのに仕える主を間違えるとは。そうそう、汁淼の鷹に気をつけろ。」

 

その日の夕方、汁琮は特赦令を公布した。山沢を氐族族長の名義で暫時東宮に留め置く。三年前の反逆ついて別の事実が判明したため、真相究明を待つ。

この命令を知った姜恒には、汁琮の計画がわかった。先ずは戦争を理由に、自分を落雁から追い出し、権力の中心から遠ざける。それから陸冀を東宮に送り変法の詳細を監督させる。そうやって全てを自分の管理下におさめたいのだ。最後に少しだけ譲歩して山沢の罪を保留にし、息子を手懐けた。

「あなたの父王は大した人だよ。」姜恒と耿曙は約束通り城外の砂洲で灯を放っていた。

「俺はうれしいけどな。汁瀧は来ないのか?」

「待っていれば来るよ。うれしいって何が?」

耿曙は笑みがこみ上げるのを隠せない。「落雁を離れてお前と二人だけでいられる。」

姜恒は苦笑した。このところ耿曙には気の晴れる間がなかったことに気づいたのだ。そういえばいつも眉をひそめていた。理由は二人ともあまりにもやるべきことが多すぎたせいだ。一緒に食事をする時間もなく忙しく動き回っていた。姜恒には変法詳細の審議があり、耿曙は軍議を除けば、いつも軍における変法の提案書を書いていた。

 

こうした終わりなき職務は姜恒が与えたものだ。耿曙の任務は増え、自分の修練の時間も、部下へ稽古をつける時間もなくなった。だが彼は文句ひとつ言わないばかりか、いつも何とか姜恒の負担を減らせないかと考えていた。

姜恒が夜半に東宮から戻ると、耿曙はまだ灯をつけて真剣に治軍計画を書いていた。

姜恒はいつも思っていた。汁琮も汁瀧も、王室の貴人は誰も本当の意味で忠誠心のある部下を持っていない。雍国文武百官が王室の命令に従うのは最終的には自分の利益のためだ。姜恒だけが天子のような扱いを受けている---一人だけ心から尽くしてくれる臣子がいる。それは耿曙だ。何を言おうと絶対に疑いを持たず力を尽くしてくれ、盲目的に信頼してくれる。                       (臣なの?)

 

「紙灯はできているの?」今日はうんざりすることが多かった。だが、耿曙に養父の悪口を言うつもりはない。

「当然だろう。俺には作る暇がなかったから部下に作らせた。お前に言われたことを忘れるわけがない。ほら見ろ。」耿曙は紙灯を一重ね、取り出した。

そこには、衛婆、項州、昭夫人、姫珣、趙竭の名が書いてあった。  (聶七は?)

二人は馬に乗って砂洲の畔に行った。日が暮れると、耿曙と姜恒は紙灯に火をともした。

「ハンアル。」耿曙がふと声をかけた。その時姜恒は眉をひそめたまま考え込んでいた。今日の汁琮の話、自分との間に線を引くような眼差し……。こんなに時間がたった後でも暗殺されかけたことを根に持っていたのか。

姜恒は耿曙の方に振り向いた。耿曙は彼の手を引きしばらく考え込んでから口を開いた。

「何て言ったらいいかわからない……全ておれの為なんだよな。お前が雍国に来たのもこんなに日夜苦労ばかりしているのも……俺は……それがちょっとつらいんだ。」

姜恒は笑顔を浮かべ、二人は空一杯に浮かぶ灯を眺めた。

「お前にこんな重荷を負わせ疲れさせることになるとは思わなかったんだ。」耿曙は全部わかってくれていたんだ。姜恒の胸は感動で震えた。自分が何も言わなくても、耿曙の目には見え、心で感じてくれていたのだ。「すまない、ハンアル。」耿曙は少しつらそうに心の内を明かした。姜恒は彼を自分に少し引き寄せたが、耿曙はそのまま彼を腕の中に抱きしめた。

「兄さん、これはちょっと。」姜恒は少し恥ずかしくなった。砂洲の両側には寄り添い合う恋人たちがたくさんいた。耿曙が自分をこんな風に抱いているのは少し変な感じがする。だが耿曙は彼を放そうとしない。「ハンアル、俺は……」

その時、ふと近くに界圭がいることに気づいた。姜恒は耿曙を引きはがした。界圭は川岸に沿ってゆっくり近づいてきた。川に浮かべた灯には一つの名が書かれていた。「琅」

「ちょっとお邪魔します。陛下は玉璧関戦を始めるようですね。」界圭が声をかけた。「わかっている。」耿曙はお邪魔されたくなどなかった。嫌そうに言って眉をしかめた。「だからなんだ?」

太后は私を留め置くことにしました。王室を刺客から守るためです。」

「理にかなった話だ。お前は嵩県まで着いて来なくていい。」

界圭は厳粛な面持ちで頷くと姜恒に向かって眉をあげた。

「小太子、生きて帰って下さいね。あなたがいなくなったら、つまらなくなりますから。」

姜恒に笑みがこみ上げた。耿曙は姜恒に手をかけ、「俺が守るから大丈夫だ。」と言った。

その時、ふと腑に落ちたことがあった。「十八年前に、変法を試みたのは汁琅なの?」

界圭の表情が一変し、姜恒を長い時間、推し量るように見てから頷いた。

「どうぞお気をつけて。」

 

「兄さん!」太子瀧が侍衛を引き連れてやって来た。周囲にいた人々は自発的に場所を開けた。耿曙はぎこちなく笑って見せた。明日は遠くに行ってしまうのだと思うと、少し心が優しくもなる。太子瀧は大声を出した。「二人だけで行ってしまうなんてひどい。私だけ置いていかれるとは思わなかったよ。」

 

姜恒は太子瀧の耳元に近づき、何事か囁いた。太子瀧は目を見開き、疑わし気に姜恒を

見たが、姜恒の促すような眼差しに、しぶしぶ頷いた。

「どうぞお気をつけて。」姜恒は言った。 (↑これの種明かしが見つからない)

「君も。どうか気をつけて。」

深夜になっても飛灯は放たれ続けていた。灯火は天へと進み続け、そのまま天の川となるかのようだ。天の川は夜空を明るく染め、深い暗黒を成した長城の一端まで続いていた。

 

翌朝日が昇ると、姜恒と耿曙は軽装のまま馬を走らせた。玉壁関を迂回し、険しい山岳に沿って古道を進み、松林を通り抜ければ中原大地にたどり着く。耿曙は海東青を放った。風羽は天空を旋回し、周囲に危険がないことを示した。梁国と洛陽の国境を通り抜ける時、耿曙は東の方に目を向けた。

「帰りたい?」姜恒はずっと昔に潯東の家を離れてから一度も戻ったことはなかった。「いや、いい。」一方の耿曙はここ数年の潯東の事情については詳しかった。

「いつか帰れる。急ぐことはない。」

 

 

ーーー

第104章 渡兵船:

 

中原の大地に冬が来た。だが南に向かう道は、寒風吹きすさぶ落雁城の冬に比べれば穏やかだ。嵩県に着いて目にしたのは暖かく輝く冬景色だった。琴川五支流のほとりには水車が数多く置かれ、新たに作られた用水路が碁盤の目のように縦横に交錯し、町全体を灌漑していた。嵩県は山々に囲まれた桃源郷のようだ。この世のどこかで天が翻り、地が覆ろうとも、嵩地だけはいつも通りだ。

耿曙は封侯委任状を持って来た。雍王より武陵侯に封じられたのだ。姜恒は太史職に戻った。宋鄒は2人が秘密裏にやって来たことには疑問を持たず、この1年間に起きた出来事を報告し始めた。

東宮の混乱した文書体系を経た後では、宋鄒の治県は実に素晴らしく感じられた。すべてが秩序だっている。「お求めでした斥候ですが、この一年でまあまあ訓練し終えました。候殿と太史大人にすぐにでもお使いいただけます。」

 

姜恒は沐浴し服を着替えると寝台に横になった。耿曙はすぐに軍の様子を見に行った。

春になれば出番が来る。冬の内に最後の訓練をしておかなくてはならない。

「斥候を放って各国の動向をよくよく監視させて。特に代国と鄭国をね。」

この二国は雍と地続きだ。代国の新王は鄭国と血縁関係がある。彼らの同盟は他の国々より強固だ。宋鄒は命令を受けた後で、「姜大人はずいぶんお痩せになられましたね。」と言った。「疲れたよ。」姜恒は軽くため息をついた。「力を尽くしても難しいこともあるよね。」

宋鄒は考え考え言った。「時間のかかる難題もありますね。あまり時間がかかりすぎれば、事を難しくさせる人も、老いたり死んだりしてしまうかもしれません。」

「確かに。」姜恒は笑い出した。「でも私だって死ぬかも。誰が先かはわからないよ。」宋鄒も笑いだし、姜恒は首を振った。ふと思った。嵩県城主府は、雍都落雁城とは別の、もう一つのわが家のようだ。きっと耿曙と再会して最初に彼らを受け入れ守ってくれた小天地だからだろう。

 

「代国公主が商人に持って来させました。」宋鄒は一本の剣を持ってきた。「謝礼として、だそうです。」「烈光剣だ。」あの時耿曙はこれを持ち出せなかった。姫霜は西川で自分たちがやったことの感謝の証として嵩県に送ってくれたのか。今や名義上の代国王は李霄だが、実態は姫霜の支配下にある。

 

「兄嫁は大した人だな。」姜恒は笑いながら言った。

「何が兄嫁だ。」耿曙は烈光剣を抜くと、その刃を見ながら冷たく言った。「婚約はとっくに破棄した。また俺を笑いものにするとは、罰を与えてやらねばな。」

「うわぁ剣を置いて!ふざけて使う物じゃないよ。」姜恒は剣を構えてみせる耿曙に言った。耿曙は姜恒の手をねじって、寝台に押さえつけると、もう一方の手を鞘にあてて、剣を見もせず抜くふりだけした。姜恒は剣を取り上げると、そのまま剣の鞘を、耿曙の胸に押し当てた。「どうした?」耿曙は姜恒を押し付け、顔を近づけて言った。「俺を殺したいのか?」姜恒は頬を赤く染めて、わざとらしいしぐさで剣を耿曙に押し出した。

「兄を殺したくなったらな、」耿曙の声は低く耳に心地よく響いた。彼はゆっくりと襟を開きながら言った。「ここを刺せば俺は死ぬ。」姜恒は耿曙の首の横に剣を当てた。耿曙の熱い息を感じて鼓動が早くなった。「あげる。ほら、受け取って。」

姜恒は海閣の古書で読んだことがあった。一に金璽、二に星玉、三に剣、四に神座。

烈光は日輪の象徴、天月は月輪の象徴だ。黒剣の意味は長々し夜の満点の星光だった。

耿曙はずっと前から黒剣を使っていた。父の形見だからだ。だが常に兵器を必要とする彼にとって、神兵である烈光剣よりふさわしいものはない。

耿曙は起き上がり、烈光剣を抜き出して真剣に眺めまわした。

「あなたは正に烈光って感じだね。実に明るく朗らかだ。」

「俺じゃない。それはお前だ、恒児。お前が笑うと空が晴れわたるようだ。」

「軍の様子はどうだった?」姜恒は耿曙の背中にくっついて二人は一緒に剣を見つめた。その話になった途端、耿曙は憂鬱になった。軍陣がまだまだだ。兵法書を持ち出して粛々と布陣し直すしかないだろう。

 

昼過ぎだった。姜恒は嵩県の地から変法の内容を審閲していた。

耿曙は寝台に体を投げ出し、腕の中に姜恒を抱いて片手で書を持ち、どうやって越地を攻めるか考えていた。汁琮が玉壁関を攻め出したらすぐに軍を動かして、越地潯陽城を攻める。うまくすれば別宮にいる老鄭王を生け捕りにできるかもしれない。だが、万が一太子霊が罠にかからなかったらどうする?

衛卓と管魏の計画ではその場合耿曙は済州城を攻撃する。鄭国の国都を攻撃されては太子霊とて我関せずとはいかないだろう。だがこの二万の兵で敵国の首都が落とせるのか?最悪の場合、敵は鄭国国境内に戻って、膠着した持久戦を展開するだろう。

 

耿曙は無意識に姜恒の服の中に手を入れて、背中を撫でていた。海東青を撫でるかのように。姜恒はこんな小春日和に気持ちがよくなってきて、足で耿曙の足の甲をさすりながら、うとうとと眠りに落ちていった。半分うつらうつらしている時に、宋鄒が何か報告しに来たのがわかった。話を聞いた耿曙は冷静に「わかった。」と言っていた。

「どうかした?」姜恒は少し目が覚めてきた。

「斥候からの報告だ。鉄を運送する商隊が胶州にたくさん向かっているらしい。もう少し寝ていたらいい。」

姜恒はあくびをして起き上がった。二人は庁内にいる時、面倒くさがって正装せず、中衣のままでいた。姜恒は白一色、耿曙は黒衣に黒袴。半日の巡軍を終え、午後は姜恒に付き添うために戻って来たのだ。「胶州か。」姜恒は壁にかかった地図を見ながら考えた。

胶州は鄭国最果ての地、東は大海に面し、北は崇山麓だ、そんな所で製鉄するなど尋常ではない。「鉄を作っているのかな。」

「それは聞かなかった。宋鄒を呼んでもう一度聞いてみるか?」

姜恒は首を振った。耿曙は手に持った書巻を卓に置いた。「風呂に入るか。」

城主府の裏には温泉があった。耿曙は連日の練兵で筋肉痛になり、湯池で体を休めたかった。二人が嵩県に来て既に二月あまり、あと二十日で耿曙は出陣だ。二万の雍軍を率いて嵩県を出て、梁地に入り、補給代わりの略奪をするために一路潯東に向かう。姜恒には受け入れがたいが汁琮が決めたことだ。きっとやるのだろう。

「何日か練兵はやめたら?」

「肩をもんでくれ。大丈夫だ。行軍には影響しない。」

耿曙の肩も背も凝っていた。姜恒は何度かもんでやった。耿曙が一枚の木の葉を湯の上に浮かべて進めるとさざ波が起きた。姜恒はふと動きを止めた。

耿曙:?

姜恒は木の葉をじっと見つめていた。耿曙は近づいて彼の頬に口づけた。

「どうかしたか?」

姜恒は夢から覚めたように、ザバンと音を立てて湯から出た。「待て!どうしたんだ?」姜恒は浴衣を羽織り、裸足で庁内に走って行った。耿曙も急いで浴衣を着ると追いかけた。

「走るな!説明してくれ!」

「水運だ!」

耿曙は姜恒を横抱きにして庁内に入って行った。姜恒は叫んだ。「宋鄒を呼んで!早く!商会の統領も呼んできて!」

 

線香一本分の時間もたたないうちに、庁内に四人が揃った。宋鄒、嵩県商会統領の趙逡、雍軍の万夫長が二名。

「少し落ち着け。」耿曙は浴衣だけを身にまとって机の後ろに座り、姜恒はまだ髪も乾かぬまま、心配そうに地図を見つめていた。宋鄒が「玉壁関から何か言ってきたのですか?」と尋ねた。「いいえ。」姜恒は地図の前まで行って、胶州港のところに赤く丸を付けた。「胶州から海路を使ったら一番遠くだとどこまで行ける?」

商会の統領が答えた。「胶州は鄭国の軍事重要拠点らしく、探れません。斥候も入り込むのはとても難しいのです。海洋船は南越と行き来していますが、港を出た後どこに行くのかはわかりません。ただ予測としては鄭国が開戦するのは確実です。なぜなら彼らは……」

「なぜなら彼らは胶州に大量の鉄を送っているから。」姜恒は話を引き取った。

「その通りです。それが今日得た情報です。」宋鄒が言った。

「つまり、半月は前の情報ってことだね。」

統領の趙逡は頷いた。「実際のところ、彼らが鉄を運送していた時期はもっと前です。私どもの推測ですが、夏に入る前には送り終えていたと思います。」

「胶州港を出て、秋冬風に乗れば一番遠くはどこまで行ける?」

一度も海を見たことがない姜恒が海運についてこんなに理解しているとは耿曙は思ってもみなかった。

「それは海運関係者を探して聞いて見なければ。呉越を行きかう商船につてがありますが、今嵩地にいるかどうかはわかりません。姜大人どうされますか?」宋鄒が尋ねた。「斥候に連絡して。今から言うところに補給拠点がないか調べさせて。」

そう言うと、姜恒は、胶州沿岸の海岸線を北に向かい、雍国境の海岸まで線を引いた。雍国は広大で人口が少ない。ほとんどの土地は人のいない荒れ地だ。更にそびえたつ東蘭山が屏風の役割を果たし、海岸線を隠している。この時、姜恒の脳裏を別の考えがよぎった。「孫英も船で来たんだったよね。ただ何人だったかはわからなかった。」

耿曙は厳粛な面持ちで言った。「すぐに手紙を送る。」「東宮に送って。」

もし憶測が間違っていなければ、太子霊は雍国東北に兵を送っているはずだ……雍地の海岸線はもうずっと守備が手薄だ。まだ手遅れでないことを願う。

「この期に及んで出兵計画はなしだ。」姜恒は耿曙に言った。

「危険すぎるな。」耿曙も考え込みながら言った。

「一旦太子霊が玉壁関防衛線を迂回出来たら、雍国の後方に兵を送るはずだ。ここにいるあなたの兵は最後の希望になる。出兵しなければ戦機を遅れさせることにはなるけど、越地に行ってしまったら、最後の砦を失うことになる。」

耿曙はしばらく無言だったが、最後にはこの件に関しては姜恒に従うことに決めた。

「だが、玉壁関を牽制するための兵は出さなければ。雍国が軍を進めようとしたら…」「そんなことしても死にに行くだけだよ。さっき私に刺すよう言ったのは誰だった?」「わかった。」もちろん姜恒は皮肉を言っている。このところ、姜恒はずっと心配していた。出兵の時が来たというのに兵を出すなと言ってくる。

 

耿曙は海東青を放ったが、戻って来た汁琮の答えは、「わかった。」の一言だった。

「わかったってどういうこと?人をやって調べさせないと言うの?」全く信じがたい話だ。

「父王が分かったって言うことは分かったってことだ。俺に何ができる?」

 

この時、宋鄒が呼び戻した商船が帰って来たと告げに来た。姜恒は耿曙の腕の中から出て正装すると名前を尋ねる間も惜しんで尋ねた。「胶州を出た海洋船が北上したら一番遠くではどこまで行ける?」

「大人にお答えします。私めは最近呉地にのみ行き来しており具体的な状況はわからないのですが、途中で聞いた話では……。」

「知っているだけ全て話して。」

「……鄭地には港は四か所。南越などへの往来に使っており、海へは行きません。鄭国の船は殆どが河船です。海上航行する大きな船を使いたければ郢国人の助けを必要とします。ですが、胶州港から北へ向かう航路は今まで誰も使っていませんでした。鄭国としても商売人に胶州を通らせはしません。官船であれば……胶州と北方の林港なんかは昔は往来があったそうです。ただ北上する海路には暗礁が多く、春夏の間はまともにたどり着く船はないでしょう。」

「筆を持って。例外はいつ?」姜恒は彼に朱筆を渡した。絶対にまだ続きがあるはずだ。

船商はしばし考えてから海域の一部を丸く囲った。「大人がおっしゃる通り例外は秋から冬にかけてです。一か月だけ西南風が北に向かって吹くためにこの時期に胶州を出れば東蘭山の最東端に近づけますが、うまく接岸できる場所があるかどうか。私めが……。」

姜恒は衝撃を受けた。ああどうか、鄭人が送った軍隊がいまだ雍国境を通過していず、

いまだ林胡人と氐人を味方につけることに成功していないでいてくれ。さもなくば……。

「一艘の船が運べる人数は?」耿曙はこの期に及んでも平静を保っていた。

「多ければ二千、少なくとも八百でしょうか。」船商は答えた。「貨物を積んでいなければ、まあ、平均二千はいけるでしょう。正し商路の場合は往復しますが、この海路で戻って来ることはできません。どうやら鄭国は雍国から海路を使って戻るつもりはないようですから……。」

姜恒は寝台に座り込み、上の空のまま手を振って、下がっていいと示した。耿曙を見ると、依然として冷静なままだ。

「そう多くはないかもしれない。十隻としても二万人だ。」

「風羽は帰って来た?玉壁関で軍を率いるのは誰?」

「武英公主だ。父王は落雁に居て俺たちが潯東に攻め入ったという連絡を待っている。」

約束の日までもうあと十日のところまできているが耿曙は兵を動かしてはいない。おかしいのは落雁城からの報せがないことだ。最後に使いが嵩県に来たのは三日前だ。『汁琮が怒り狂っている』と耿曙の出陣を催促していた。『敵の後方から挟み撃ちにしろと言っただろう。なぜいつまでも嵩県の兵を動かさない?!』

その後使いは来ていない。耿曙が海東青を往復させるのには四日必要だ。

ちょうどその時、海東青が血染めの布を巻いて城主府に戻って来た。

書いてあったのは、たった一行。

落雁包囲される。至急助けを。」

 

(馬鹿なしるおやじ)

 

58章で羅望の将軍府に連れて行ってくれた鄭国商隊の趙頭領は、原作でも‘頭’領だった。ここで嵩県商会の趙統領という人が出て来るが、こっちは原作でも‘統’領となっていた。違いはわからないけど、原作に準ずることにする。

ーーー

第105章 車裂き刑:

 

雍が立って120年のこの年、四国連合軍が玉壁関に集結し、三度目になる対雍国大戦が始まった。太子霊は潯東城を郢国と共用し、郢王は潯東から派兵を行った。鄭国は六万の奇兵を胶州港より海路で北上させて東蘭山に送り、山中に潜伏させた兵は一夜のうちに灝城を攻め落とした。

 

十一月、玉壁関を拠点として湧いて出たかのような四国連合軍は武英公主との決戦に及んだ。落雁城から玉壁関への道は太子霊の歩兵が封鎖し、援軍は近づけなかった。

 

十一月七日、落雁城が包囲された。汁琮直属の御林軍は孤軍となり、武英公主に至急救援を求める軍令を送った。その頃灝城、山陰の両城では反乱が起きていた。長年虐げられてきた林胡人と氐人が反旗を翻したのだ。城守軍は玉壁関に動員されており、駐留軍は八千足らず、王都落雁との連絡も断ち切られていた。幸いなことに風戎人が支配する大安などの北方都市では未だ動乱が起きたとの報告はない。

汁琮は一夜にして追い詰められた。太子霊の鄭軍がこんなに早くやってくるとは思わず、全く準備ができていなかった。今年は暖冬で未だ大雪が城を守ってくれていない。天の神さえ情け容赦なく大雍を滅ぼそうとしているかのようだ。

 

武英公主とて援軍を送りたいのは山々だが、何せ玉壁関連合軍がいち早くその意図を察知し、その都度攻撃を仕掛けてくる。雍軍が今撤退すれば背後から攻撃され、全軍が壊滅してしまうだろう。唯一の希望は中原に置いたままの耿曙と姜恒が率いる兵だ。

今頃耿曙があの国を打ちに出ているはずだ。あの国が即時撤退すれば玉壁関の勢力は弱まるだろう。

 

「あなたの義父はよく反省すべきだね。」二人は兵を率いて嵩県を出ようとしていた。姜恒は、威風堂々とした二万の黒鎧軍隊に目をやった。「もしまだ話をするような機会が残っていればだけどね。」

「そんな機会があれば、まず玉壁関を打てというだろうな。」

「最悪の手だよ。打たなかったら雍国がなくなるとでもいうの?」

耿曙:……

姜恒:「あなたは国のために命をささげるつもり?」

耿曙は姜恒に目を向け、姜恒は眉を上げて答えを待っていた。「俺の命はお前のものだ。」

「わかっているならよかった。力を尽くそう。」姜恒は馬に鞭を打った。「ハァッ!」

大雍の希望を背負った奇兵だ。どこかの国になど行くつもりはない。洛陽を抜け、向かうは玉壁関だ。

 

落雁、雍王宮、十一月十三日。

落雁城は建国以来初めて城攻めを受けていた。玉壁関が天然の防壁の役割を果たし、これまで戦線が国に入って来ることはなかった。この半年間、戦の準備をする中で、汁琮は管魏、陸冀、姜恒に繰り返し忠告をうけていたが、まさかこんなことになるとは思わなかった。

落雁は城攻めを想定した演習をしたことがない。それにこんな水滴さえ凍る冬に城攻めに来るものなどいるはずがなかったのだ。南方人は極寒の何たるかを知らない。奴らが冬にこの国都を攻めに来るなどということが起ころうはずがない。

そして今、汁琮はついに己の傲慢さの代償を払わされていた。太子霊率いる鄭軍は既に城外に駐屯している。砂洲平原まで延々と陸路を進みやってきた兵は六万だ。

「敵は現在防御のための工事を行っております。」軍報を読み終えた曾嶸が報告した。「塹壕を大量に掘っているのですが、付近の守備が厳重で斥候はそれ以上近づけません。

管魏は眉をひそめた。「ただの塹壕だとしたらいったいなぜそんなに警戒しているのだ?」

陸冀が言った。「地下に道を作ろうなどと妄想しているのならそれは不可能だ。城内に敷き詰められた岩は全て巨挙山から運んだものだ。落雁は凍土の上にある。春になれば凍土が溶けて地盤は緩くなる。地盤を固めるために国をあげて固い岩を敷き詰めたのだ。それに万が一地下道を作れたとして出口の大きさは限られるので問題にはなるまい。」

管魏は言った。「敵が何をしているのかは調べる必要がある。」

「城攻めしたいならやらせておけばいい。」衛卓は集まった者に向かって言った。「冬の食料は確保している。我らにはまだ勇猛果敢な騎兵が二万いる。この暖かな気候が過ぎ去り、北の冬将軍が来るのを待って総攻撃すれば太子霊の軍隊など全滅させられる。」それは汁琮の考えと一致している。あんな奴らなど恐れるに足らない。

 

「それでは玉壁関はどうなるのだ?」今や堪忍袋の緒が切れた管魏が衛卓に言う。

「このまま冬の作戦を続ければ、落雁を守り切れたとしても反撃できる勝算はなくなる。」

「管相、」陸冀が言った。「玉璧関防衛の中心は、鄭、梁の二国だけ。この二国のいずれかが敗れれば、もう一方は自ら立ち去るに違いありません。太子霊が我が国の奥地に深く入り込んでいる今は、まさに決戦の絶好の機会です。辛抱強く待って、一挙に叩き潰せば、玉璧関は自滅するでしょう。」

 

太史瀧が言った。「灝城、山陰の両地にも兵を送らねば。城はすでに陥落しています。変法はまだ未完成です。もし林胡人の残党と氐人が敵に与したらどうなるでしょう?」衛卓は冷たく一笑した。「氐人がいつ戦闘を学んだのです?烏合の衆にすぎないでしょう。」

「送れる兵はいない。誰が助けに行くというのです?」陸冀が言った。

「私が行きます。私に五千騎兵下さい。」太子瀧が言った。太子瀧は今日の議政に彼の幕僚となった山沢を連れて来ていた。山沢は太子瀧の後ろに控え、一言も発しなかった。誰も答えようとせず、太子瀧に目を向ける者もいない。

「君たち氐人は鄭国に説得されて、反逆に加担したと思うかね。」汁氏は山沢に向かって何気ない一瞥を投げた。心の中では相変わらず冷静に、いくつかの勝算を見積もっていた。

山沢は答えた。「氐人がどうするか私にはわかりませんが、ですが雍王、あなたがそうした傲慢な態度を続ければ、今にも落雁城は滅亡するでしょうね。」

大臣たちは青ざめ、衛卓は怒りの声をあげた。「不届きもの!」

太子瀧は山沢を止めなかった。父を見る目には期待と悲しみの両方の色が浮かぶ。

「ほお?続けろ。姜恒は君に何か妙計を与えてくれたのかね?」

汁琮は太子瀧に目をやる、何気ないしぐさで松の実の皮をはがしては口に入れる。玉壁関での談判の日と同じように。誰よりも父をよく知る太子瀧にはわかる。心の不安を緩めるためにこうしたちょっとした動作が必要なのだ。更に重要なのはこうした動作で内心を隠し、人に心を読ませないようにすることだ。

「この戦争は初めの一歩から間違っていた。一歩進むごとに間違いも増える。至るところで先制され、今の局面に至った。雍王は南方四国のどこも自分の敵ではないと考えている。でも実際は?あの時あなたは殺されかけただけでなく、玉壁関を失ったのだ。」汁琮は動作を止めた。瞬間、殿内に危険な空気が充満した。「それは東宮の考えなのか?」太子瀧は答えなかったが、沈黙が語っていた。

「雍王は凍てつく天候の北方で城攻めなどするはずがないと思っていたが、生憎敵はやって来た。そして今、半日話し合った末に、守りを固め、戦いを拒めば、太子霊は落雁城に手が出せず、いつか撤退するだろうと結論付けた。

…ですが雍王、敵の統帥は、相手がそう来るだろうとを考えもしなかったのでしょうか。」山沢は問い返した。

「もしあなたが太子霊ならどんな作戦を建てますか?当然、速戦速決でしょう!しかも、誰も考えられないほど、敵が決して思いもしないほど速く来るはずです!」

殿内は水を打ったように静まり返った。汁琮は手の中の松の実を親指でこすっていた。

山沢に反論する言葉が見つからないようだ。

「雍王は自らの武威は天下無敵だと思っている。自画自賛に浸って久しいが、一生傲慢ではいられません。重聞亡き後、天下一の武神になったと。ですが、武神であれ軍神であれ、そうした時代はもう終わります。あなたの息子が終わらせるのです。李宏が汁淼に負けたように。『琴鳴天下』以前に武神と呼ばれていた人の内、残っているのは雍王、あなただけです。太子霊はただ雍王に挑んでいるだけではない、必勝の決心をしているのです。そうでなくてはこんなところまで来たりしないでしょう。」

 

言い終わった山沢は汁琮に向かって眉をあげた。その時汁琮にはわかった。これは姜恒がこの男に言わせたのだ!東宮の者の内、姜恒と山沢の二人だけが死を恐れない。姜恒が死を恐れないのは、誰にも手出しされないとわかっているからだ。山沢が死を恐れないのは、一度甦った身だからか。

「父王、山沢の話は耳に痛いとは思いますが、我らは現実を直視すべきなので……」

海東青は東宮と嵩県を頻繁に行き来している。今の話は姜恒の意向で東宮が与えた容赦ない反撃なのだ!

「そうだな。」汁琮は息子の話を遮った。怒ってはいない。逆に太子を一人の相手として真剣に見始めた。彼は、太子とその謀臣たちを真剣に見つめ、うなずいた。「父は確かに敵を甘く見すぎた。」

山沢は最後に言った。「さらに言えば、雍王の座を継承してから、玉壁関を一歩でも出たことがありましたか?つまり武神の名は雍国内にしか存在しません。私の話は以上です。氐人が反逆すれば死あるのみですが、どっちみち落雁が陥落すれば私も死ぬことになります。雍王は、どうぞ私に潔い死をお与えください。」

 

今の話は汁琮の心の痛いところを攻撃した。事実だからだ。雍王と成って以来、雍国軍は未だに玉壁関を踏み出してはいない。嵩県は耿曙が王軍の名の元にしばし占領しているにすぎず、四国が万障繰り合わせて連合を組めば、将に雍国は制圧されるだろう。

「山沢。」太子瀧は山沢が言い過ぎたと思った。これは父の一番の泣き所なのだ。

「よく言った。」汁琮はつぶやいた。「人は目を覚まさなくてはな。諫言に感謝する。誰か、この者を皇宮校場外で斬首せよ。非常時にて車裂きはやめておく。」

「父王!」太子瀧はすぐに一歩前に出て、山沢をかばった。だが山沢は毅然とした態度で立ち上がり、殿外へ出て行った。「父王!灝城を失った今、山沢を殺せば氐人は敵に与します!」

「王陛下怒りをお納めください。」管魏も立ち上がった。「陛下、斬首はしばらくお待ちください。」曾嶸も言った。汁琮は皆を見た。―――自分がいない場所では、朝廷のどれだけの者が姜恒の側にいるのだろう。

 

「陛下!」周游が海東青を連れて殿内に走って来た。「風戎人から手紙が来ました!」周游が闖入し、皆の注意はすぐさまそちらに向いた。汁琮は動こうとせず、手を伸ばした。周游はうやうやしく手紙を王机に置いた。汁琮は読もうとせず、金璽で手紙を押さえた。東宮の態度がはっきりわかった。曾嶸、管魏、そして実の息子までもが、姜恒を信頼していた。

 

「だったら天牢に入れておけ。どうだ、山沢、孤王も全く人の言うことを聞かないわけではないだろう。」太子瀧はほっと息をついた。昨夜姜恒の手紙を読んでから夜を徹して門客たちと話し合ったのだ。汁琮を容赦なく批判してほしい。戦の勝敗についてはっきり指摘し、趙霊に対する汁琮の態度を非難するように。もし誰も彼を脅さなければ事態は収拾不可能になってしまう。手紙にはそう書いてあった。

 

汁琮は趙霊など眼中になく鄭国など彼の敵ではないと思っている。それは大敗につながる。姜恒が太子瀧に言わせるのはそれが必要だからだ。だが姜恒が不在の今、東宮には汁琮の権威に正面から挑むような者はいない。最後に山沢が心を決め、誰もが心の中では思っていることを東宮に替わって国君に指摘する役を引き受けた。汁琮が彼を殺さなくてよかった。計画の続きとして、太子瀧が送った視線を汁琮は見逃さなかった。

「汁淼に手紙を届けろ。計画通り越地を打たせるのだ。海東青は東宮にいるのだろう。奴らを越地から引きずり出したら、そいつらを一日囲んでから汁淼に王族の一人を殺させるのだ。」

汁琮は怒り狂っていた。趙霊がいったいどんなご大層な城破りの計を持って来たのか見てみたいものだ。六万の大軍が一晩かけて城を超えて攻め入って来たところで、待っているのは雍軍の強弩と鋭利な刃の嵐だ!

 

その時、牛珉という名の別の東宮謀臣が一歩前に踏み出して口を開いた。「王陛下、この度の大戦のかなめは玉壁関であって越地ではなかったと愚臣は思っておりました。今や、元々の計画通りにはいきません。汁淼王子には兵を率いて玉壁関を奪還していただくのが上策かと存じます。」

「車裂きに処せ。」汁琮は風戎人の手紙を読み始め、頭も上げないまま言った。「今のは容赦できん。」太子瀧は牛珉が突然発言するとは思ってもみなかった。彼は事態を掌握できなくなった。太子瀧はすぐさま跪き、血相を変えた。「父王!」

 

汁琮は手紙を開いて風戎人が書いた、曲がりくねったような一行の漢字を読んだ。

『風戎は一年前王室のために兵を出し、目下人手不足だ。雍王がすぐに太子を送ってくるなら、王家の血脈は守ってやろう。城に救援を送るのは良策ではない。』

「息子よ、時間を見つけてお前とよく話し合わねば。」汁琮は手紙をしまうと、実の息子に向かって言った。

牛珉は死ぬ間際までなぜ自分がたった一言のために車裂きに処されることになったのかわからなかった。惨叫が響き、寒士族の若者は鮮血をまき散らして、王宮城外でバラバラの屍となった。数十歩方円まで飛び散った血液は、レンガの隙間にまで染み入り、目に映る所全てを真っ赤に染めた。

惨劇を目の当たりにした太子瀧は思わず目を閉じ、悲痛な叫び声をあげた。

これは汁琮が東宮に与えた警告だ。姜恒よ、お前を呼び戻す気はない。さっさと出て行けと言っただろう。我が子よ、お前にも言っておく。自分はまだこの国の王だ。誰を殺さないかは利害の均衡で決めるが、誰を殺すかは、気分次第だ。

汁琮の乱心に臣下たちは寒気を覚え、十八年前、汁琅の死後に彼が行った大虐殺を思い出した。そうだ、彼はこんな風に人を殺せるのだった。ただ最近は減って来たというだけだ。

 

 

ーーー

第106章 兵法談議:

 

十一月十四日、落雁全城が戦闘準備に入った。曾宇は兵を集め、汁琮は鎧兜を身にまとい、出城に備えた。一万二千の騎兵を率いて鄭軍との戦いを展開するのだ。傍らにいるのは衛卓と曾宇だけだ。他の武将たちは皆汁綾に連れて行かせた。こんな時に義子がいないとは少し残念だ。彼はそれまで侍っていた侍女を下がらせ、がらんとした寝殿で鎧兜をまとった。もう十四年もこの殿内には妻も兄弟も息子も来ない。独り身だったあの頃に時が逆戻りしたかのようだ。

 

「私は城を出て決戦に臨む。」汁琮は振り返りもせず、胸甲と背甲の腰縄を自分で結んだ。「お前は城内に護衛をおいて、家の中にいなさい。大臣たちがまた何か言おうものなら死を与えるのだ。雍国存亡の時だ。国の上下を挙げて心を一つにせねばならん。ああだこうだと小賢しい議論をしている場合ではない。」

 

太子瀧は眠れぬ夜を明かした。頭の中は無残な死に方をした牛珉の姿でいっぱいだ。彼は自分が東宮に招いた。その才能に敬服していた。たった一言発したために殺されてしまうなんて。父は気が狂ってしまったのか。心の震えが止まらない。彼は父を見つめたまま、何も言葉が出なかった。

汁琮は息子に視線を向けて尋ねた。「手紙は送ったのか?」

太子瀧は顔面蒼白で髪も乱れていた。昨夜東宮に戻った時、机の上には牛珉が書いた草案が載っていた。悪夢の中にいるようだ。

「父王。」太子瀧の体は震えた。わかっている。父は子供の時と同じように家に居ろと言っているのだ。でも牛珉は死の直前自分に笑いかけたのだ。その意味はすぐにわかった。……気にしないで、いずれ勝てます。

汁琮は鎧兜をしっかり身に着けると振り返って、息子の横顔を撫で、その容貌を詳細に見た。本当に実の息子なのかどうか確認するかのようだ。姜恒の背後に立つ幽霊は夜な夜な彼を恐怖に陥れている。何も持っていないくせに。自分には息子がいる。それは、さまよえる魂に対する一番の心のよりどころだ。

 

太子瀧は半歩後退し、目を見開いた。どうしたらいいだろう。その時、ふと、姜恒が父を殺そうとした理由がわかった。勿論自分にはそんなことはできないが。

汁琮は息子の眼差しを、自分への畏怖と服従の表れと解釈した。

「恐れることはない。父はお前に替わって敵を殺してやるだけだ。」

十一月十四日、夜、雍王汁琮は自ら出陣した。

 

 

玉壁関を前にして、耿曙は言いようのない感覚を覚えていた。彼は汁琮が持ちこたえると信じていた。落雁城は落とされないと。だが、姜恒の話から分析すると、趙霊は侮れない。思慮深いのに大胆。思いもよらない方法で奇兵を送り、敵を追い詰め制しようとしている。姜恒は何度も警告している。趙霊はとても危険な敵だ。だが、例え自分が敵の立場で六万の兵を率いたとしても落雁城を落とす方法がわからない。もう十日も考えているのに。

「城壁に問題はない。百年もの間、戦争を経験していないとは言え、この点は信用できる。」耿曙は姜恒に繰り返しそう言っていた。

「中原四国は長い間お互いに攻撃し合ってきた。城を攻めたり、占拠したり。城攻めの経験という点では雍国は鄭人の相手ではないよ。」

「そうとも限らん。」耿曙はこの問題に関しては姜恒に賛同できなかった。

「何度も繰り返して言ってるってことがあなたの不安を証明している。自信がある時はあなたは何も言わないもの。」この世で姜恒より耿曙を詳しく知る者はいない。何気ない一言が図星をついていた。「そうだな。」耿曙は認めるしかなかった。

 

二人は大軍を玉壁関の麓に留まらせた。姜恒の判断だ。落雁城の状況はわからない。だが、玉壁関の内側には汁綾の防衛軍がおり、外側に耿曙の王軍が来れば、挟み撃ちの形がとれる。

目下のところ、玉壁関を守るのは主に四万の梁軍だ。郢人は大して戦力にならない。せいぜい三千くらいか。趙霊に65隻の海洋船を使わせたことで連合としての責任は果たしていた。代軍の所在は不明だが、関わっていないはずがない。ひょっとしたら既に潼関を越えて落雁城外で太子霊と合流しているのかもしれない。

 

宋鄒も来ていた。この大戦では、どちらが負けても天下の局面が大きく変わる。彼は既に姜恒に全ての牌を賭けていた。全幅の信頼を置き、姜恒がどの国を救おうが、その判断を信用し、全力を尽くして支えるつもりだった。

「理屈では、城攻めには不意を突いて不用意を攻める。それを可能にするのは二つだけ。一つ目は、新兵器の出現。即ち兵器の革新である。」と宋鄒はゆっくりと述べた。「その通り。」耿曙も兵法には精通している。「二つ目は、新戦術の出現。即ち戦術の革新である。『器』か、『術』か、あるいは両方を敵は手に入れたのだ。」

三人は松林の中の高台から玉壁関を望んだ。関の城楼では旗が風に舞っていた。

「新しい攻城兵器はないだろう。」行軍作戦に関して、耿曙の思考は冴えている。「趙霊は海から一挙に6万歩兵を送った。すでに輸送の限界だ。さらに大型攻城兵器を乗せて落雁に近づけば、速度を遅らせるのはもちろん、気づかれやすい。」

「うん。」姜恒は黙って考え込んでいた。

「ということは戦術か。一夜にして城壁を破るようなどんな新戦術があるだろうか。」

「わからない。」姜恒は眉をひそめた。人は時に無力だ。海閣を出てから早々に理解したことだ。この世の中、どんなに学んだつもりでも、まだその先があるものだ。

宋鄒は言った。「勿論趙霊の虚勢ということもあり得るでしょう。実際には何もないが、雍人が何かあると猜疑心を起こして城を出ないようにさせたのかもしれません。」

「策士策に溺れる、そういう策略も確かにあるけど、彼らしくない気がする。」

宋鄒は言った。「目下の最重要事項は、いかにして玉壁関を攻撃するかですね。ここを落とせれば自ずと落雁の危機も乗り越えられるのですから、慎重に行かねばなりませぬな。」

宋鄒の言うとおりだ。玉壁関さえ奪還できれば、関の北にいる汁綾は即刻落雁城を救援しに戻れるのだ。

 

現在の戦局を北から南に見て行くと、まず、王都には御林軍、王都外の砂洲平原には鄭軍、玉壁関北には雍軍、玉壁関には四国連合軍、その南の松林には耿曙隊が控えている。

五つの軍隊が互いに牽制し合い、微妙な均衡を保っている。どちらかが先に撃破されれば、数珠つなぎに崩壊する。最南端にいる自分たちは、どうこの鎖を断裂し均衡を破ればいいだろう。

「別の考え方もある。北から鎖を断ち切る。先ず落雁を救う。落雁が救われれば、玉壁関もなんとかできる。」

 

耿曙は言った。「やはり南からだな。少なくとも俺たちの軍がある。関突破の攻略を立てたいが、先に叔母上に連絡をとりたい。風羽はなぜまだ帰ってこないんだ?」

噂をすれば、遠くの空から鷹の鳴き声が聞こえ、海東青が帰ってきた。三人は同時に頭を上げた。

風羽は王都落雁城の情報を持って来た。手紙を読んだ耿曙の表情が明るくなった。

汁琮は城を出て決戦し、趙霊先鋒軍を大敗させた。雍軍の勝利だ。汁琮は一騎当千、敵を殺し血流が河となった。最終的に太子霊全軍は5里後退し、雍軍兵は2千四百余を失った。

 

「父王は落雁を守った。俺たちにはまだ機会がある」耿曙は少し落ち着いた。北方一の武将という汁琮の肩書きは、伊達ではない。自分はほとんど汁琮の戦いを見たことがない。太子瀧でさえ、物心がついてから、父が戦争をしていた覚えがない。汁琮の戦績については、すべて噂でしか聞いたことがなかった。

「いいえ」姜恒は耿曙に注意した。「時間はあまりないよ。」

汁琮は兵を用いれば勇猛果敢で、共倒れになろうとも戦う勢いだ。だが、雍国が直面している最大の難関は兵員不足だ。勝利は士気を奮い立たせるのに役立つが、長期的に見れば、太子霊に少しずつ戦力を削られているのだ。

 

更に今、西南部の潼関が破れ、守将が殺された。代国軍はすでに雍地に全面的に侵入し、雍国西部のある第四の大城市「承州」を攻撃し始めた。「このまま南下して玉壁関を奪われたら落雁だっておしまいだ。」姜恒は軍帳の中を歩き回った。李霄は自ら出陣し、三万の軍隊を率いて来た。五日の内には王都の趙霊軍と合流し連合軍は九万となる。姜恒は耿曙と視線を交わした。彼の心の中の危惧が感じられた。

こうした大戦は雪崩のようなものだ。最初は小さかった雪の塊が、停まることなく加速し続け、より多くの兵馬を巻き込んでいく。姜恒は趙霊の雍国を徹底的に滅ぼそうとする信念を甘く見すぎていた。「最後に一つだけ方法がある、恒児。」耿曙は姜恒を見た。

 

夜になり、耿曙は素早く手紙を書き上げ、姜恒と相談してから海東青を飛ばせようとしていた。いつも通り小声で鷹に何か囁く。

夜明け前の玉壁関は真っ暗闇だった。風羽は翼を広げてはるかな山と夜空の間に飛んで行った。向かうは玉壁関の逆側だ。「後はあなたの義父の運次第だね。」「行くぞ。」二人が振り返った瞬間、遠くで甲高い哨の音が響いてきた。しまった!耿曙は振り向き、空に向か会って放たれる矢の音と海東青の鳴き声を聞いた!

「風羽――――!」耿曙が叫んだ。

姜恒の手足に寒気が走った。目を見開いて、漆黒の夜空に海東青が落ちていく姿を探した。耿曙は彫像のように立ち尽くした。姜恒は震える声で気休めを言った。「当たっていないよ。深夜でよく見えないし、命中させるなんて無理だ。兄さん、信じて!」

耿曙は拳を握りしめ、紅くなった目で姜恒を見たが、何も言わなかった。しばらくして耿曙はようやく落ち着きを取り戻した。「風羽なら傷を負っても手紙を届けてくれる。俺につかまれ、ハンアル!」

姜恒は息を切らしながら耿曙と馬に飛び乗った。将軍隊は宋鄒に預けて、東南の山々に向かって馬を走らせた。その道は関に沿って雍国領地へと入る秘密の山道だった。

 

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十二月三日、城を包囲されて二十八日目、雍都落雁城の王宮。

「敵は補給拠点を灝城に置きました。」管魏が敵の城包囲作戦の要について指摘していた。

「趙霊が雍国に兵馬を送り込むためには、兵を身軽にさせねばならず、たくさんの物資を持ち込むことはできませんでした。そこで先ず灝城を落として城内の物資を前線へと送らせるようにしたのです。大軍に物資を供給するための敵の作戦の第一歩でした。

汁琮は「ふむ、」と言った。「山沢を殺していたら、氐人は皆敵に与していただろうな。」この場に姜恒がいれば、大声で怒っていただろう。『最初から救いに行くべきだったんです。そうしなかったから灝城は趙霊の手中に落ちたのでは?!』

だが、姜恒だけでなく、太子瀧のことさえ今日はもう呼び寄せていない。汁琮は彼を部屋に閉じ込めている。勿論息子に反論する機会を与えないためだ。

 

汁琮は自分の絶対的な実力を信じている。三年前御林軍四千人を率いて城を出て決戦に及び、太子霊の一万近くの部隊を負かしてから自分は全く老いていない。

今日殿内に呼び寄せた参謀は、管魏、陸冀、衛卓、曾宇の四人だけだ。

陸冀は熟慮の末言った。「左相がおっしゃるのは、一隊率いて包囲を突破し、鄭軍の灝城からの補給路を断てるということですか。」

「どれだけの人数がいる?陸冀、君が自ら兵を率いるのか?」

実の所、陸冀は頭を悩ませていた。城が日一日と包囲され続けても、まあ兵糧は足りているが、民心の方が大問題だった。既に城内には反乱の兆しがある。強行突破し、鄭軍の補給路を断つにはどれだけの兵が必要だろうか。八千?一万?それで包囲を突破できるかは不確実だが、王都の守備が空虚になるのは確実だ。更に注意すべきは代国軍が近づいてきているということだ。「風戎人は?」管魏は聞いた。「やつらはあてにならん。」汁琮が答える。その時、周游が外からの情報を持ってやって来た。

 

「汁淼隊が玉壁関の前まで来ましたが、未だ動きがありません。」

汁琮はようやく耿曙の消息を得たが、期待通りではなかった。汁瀧、姜恒、汁淼……この三人はもう自分の命令を聞こうとしない。しかし特に評価はしなかった。管魏は言った。「殿下が武英公主と合流して玉壁関を奪還できれば、公主は雍軍を王都救援に送れます。」だが汁琮は周游を注視した。「話はまだあるのだろう。」

周游はため息をつき、頷いた。「承州城が落ちました。代軍が城を占領しています。」

汁琮は言った。「孤王が再び打って出る。兵はどれだけ残っている?」

大臣たちは沈黙した。汁琮はあきらめるつもりはなく曾宇を見た。

曾宇は答えた。「御林軍は三千余り、前回の決戦で負傷した兵の補充が必要です。王陛下、斥候からの情報によれば、趙霊は今朝また、二万の増援を得たそうです。」

雍国は灝城、山陰に続いて、第三の都市も破られた。汁琮は六つの城から八割の兵を徴収して玉壁関奪還に向かわせており、各城の守備は手薄になっていた。それが連合軍にあっさり敗れた理由だった。鄭国大軍は辛抱強く盟友が合流するのを待っている。汁琮は思ってもみなかった。落雁城の兵だけでは…心の底に不吉な二文字が沸き上がった――亡国。

 

姜恒の言葉が耳の奥に残っている。かつては管魏を除けば、誰も危言覈論するものはいなかった。雍国の内憂外患は途絶えることがないが、遠くの出来事のようだった。

変化が起こったのはほんの一月前の事だ。奴は順を追ってすべての棋路を整然と配置した。最後の時に向けて、徐々に進み、さらには敵に出陣させることまでした。太子霊は、稲妻のような速さで汁琮に壊滅的な一撃を与えようとしている。あの時玉壁関で趙霊を引きずり下ろし、四の五の言わせずにさっさと殺すべきだった。今になって汁琮は深く後悔した。

 

 

ーーー

第107章 血の誓い:

 

「武英公主を呼び寄せろ。玉壁関などもうよい。」

「絶対におやめ下さい!」臣下たちは同時に血相を変えた。衛卓に至るまで皆が汁琮の怒りに触れないように気遣いながらもすぐに止めようとした。

管魏は言った。「陛下!この時点で玉壁関前の守備を解けば、梁軍が押し寄せてきます!」

「皆、砂洲の前で生死を賭ける方を選ぶと言うのだな。」

汁琮の言葉に皆は不吉な予感がした。

 

「今はまだその時ではない。」姜太后の声が響いた。。

汁琮は姜太后を見た瞬間、目を血走らせ、心の中は殺意に満ちた。国が内外から包囲されて、最後の時を迎えようとしていることが未だに信じられなかった。

正装した姜太后が、ゆっくりと歩いてきた。後ろには界圭と目を真っ赤に泣きはらした太子瀧がついていた。

太后。」老臣たちは頭を下げた。長年先王に仕え、汁琅にも大臣の命を受けて仕えてきた者たちだ。「母后。」汁琮は少し落ち着きを取り戻した。

太后は鞘に収めた黒剣を持ち、王座の前まで来ると、裾を広げて傍らに座った。臣下たちは次々に頭を下げた。

「前線の報告がしばらくありませんね。陛下はいいことは知らせても悪いことは知らせないおつもりなのかもしれませんが、ちょっと噂を耳にしましたので。」

汁琮は黙ったまま頭を下げた。

 

太后にはご心配なきよう。敵軍は自ら退きましたので。」管魏が言った。

太后はため息をついた。「越国が滅びた時、私はまだ六歳でした。その後先王について来て、雍人となりましたが、心の底ではいつも自分は越人だと思っています。」

誰もが黙ったまま、姜太后が持つ黒剣を見ていた。

「母后?」

太后は汁琮の目を見てなだめるように言った。「雍人には雍人の堅持があるでしょう。越人にも越人の解決方法があるのです。長い間、朝政には関わらないようにしてきましたが、これも夫の家のため、皆の者、私の話を聞くだけ聞いてから、決議してはいただけませんか?」静まり返った堂内に反対する者はいなかった。

「界圭、耿淵なき今、黒剣はそなたに託す。行きなさい。黒剣は趙霊の実父、子閭を誅殺した。その息子の首もとれば、剣は再び天下に名を馳せるでしょう。姜太后は趙霊暗殺を一羽の鶏をさばくかの如く語り、その豪気は皆を震撼させた。「はい。」界圭は黒剣を受け取った。

 

「相手は非力な趙霊だとしても侮ってはなりません。卓絶した武芸の持ち主として対峙するのです。古来より今に至るまで、敵を軽視すれば足を踏み外すものです。

「謹んで太后の命に従います。」界圭は黒剣を背負って汁琮と姜太后に拝礼した。

「母后。」汁琮はため息をつき、口を開きかけたが、姜太后は悠々と話を続けた。

「ですが、趙霊を排除したところで戦況は難しいままですね。城が敗れるのは時間の問題。琮児、現実を見るのです。一人の武勇だけでは落雁の包囲を解くことはできません。」

誰にも言えなかったことを姜太后が言ってのけた。「王児や、今のこの局面で、お前は力を尽くし、最後の瞬間まで奮闘して、国と生死を共にするのです。もし幸運にも勝つことができたらそれが一番良いですが、もし勝つことができなかった時には、汁家の威名を辱めることはせぬように。」

「はい。」汁琮は言った。

「ですが、太子汁瀧にはまだ役目があります。大雍は今や孤立無援、誰もが裏切る状況だ。お前の護衛をつけて太子を城から逃がしなさい。」

それを聞いた管魏はゆっくりと頷いた。

「ですが、どこへ行かれます?今や我らは四国から仇敵と見なされておりますのに。」陸冀の問いに姜太后は、「関内に行かせると?いいえ、私が言うのは、太子に国君の命を持って、まず大安に行かせ、そこから南下して風戎人を集めさせよということです。王児、あなたはすぐに詔書を書いて、太子に渡しなさい。氐人、林胡人を赦免し、雍国境内の外族に、雍国のために外敵を駆逐させるのです。彼らを許すことは、元々すべきだったことです。」と言った。

汁琮は目を真っ赤に血走らせて、最後には、うなり声を上げた。

 

「……汁淼と姜恒はきっと玉壁関を突破します。彼らが綾児と合流したらすぐに太子を援護させ、落雁を奪い返し、雍国を再建させるのです。」姜太后は簡単そうに説明した。「もしかしたら、城が敗れ、四国の軍が喜び祝うこともあるでしょう。でも塞外に遠征し雍国の都を奪ったがために、そこが墓場になるとは、彼らは夢にも思うまい。」話し終ると姜太后の厳しい目つきに暖かさが加わった。「私は、陛下、諸大人とこの地に残ります。雍王家が敗れる時には、趙霊、李霄や四国連合軍と共に果てようではないか。」

 

―――

十二月五日、東蘭山、山道にて。

「ハァッ!」姜恒と耿曙は戦馬を走らせ、追尾する敵兵を従えたまま東蘭山を出て平原に抜けて行った。「たった二人だけだ!もうよそう!」遠くから追跡者の声が聞こえた。姜恒は自分たちを狩人に変装させていた。耿曙はまだ矢を射ろうとしていたが、姜恒は「早く行こう!無駄な争いは無用!時間がないんだ!」と諫めた。

「まだ時間はある!」耿曙は言った。

 

塞北では半月も雪が降らず、山林は干ばつが激しい。暖冬は連合軍に侵入の機会をもたらした。太子霊は賭けに出た。雪が降り始め、寒さが本格的になれば、天地は凍てつき、城外では、いくら厳重な防寒措置をしても耐えられない。雪が降り始める前に、落雁に全面的な攻勢をかけなければならない。

 

「どうしてそんなに彼らを信用しているの?」姜恒は連日道を進みながら、緊張で心臓がドキドキしていた。「実を言うと彼らの事は別に信用していない。お前のことを信じているんだ、ハンアル。」姜恒は馬を駐めた。緊張が高まる。

「お前なら絶対やり遂げる。ハンアル、自分を信じろ。」

遠方に風戎人の一つ目の村落があった。それは姜恒が歴訪中、最後に立ち寄った風戎村落、狭木村だった。「行こう。」耿曙は姜恒に真剣な表情で声をかけた。

姜恒は変装を解くと、馬の綱を引いて、村落に入って行った。村の中には防御工事を施したあとが見られた。拒馬柵、濠など、連合軍の略奪に備えていた。風戎人は続々と立ち上がり、姜恒を見つけるとすぐに誰かが叫び出した。「神医だ!神医が来た!病人を診に来たんだ!早く彼を入れてあげろ!」守衛は拒馬柵をどかして、姜恒と耿曙を中に入れた。姜恒は叫んだ。「風戎人たち!」姜恒は相変わらず心もとなかった。だが、その時、耿曙が声を上げた。

「風戎人よ――――!我が兄弟たち、この地に生きる戦士たちよ!」

姜恒は驚いて耿曙を見た。耿曙は片手で綱を引き、もう一方の手で烈光剣を高く上げた。剣は冬の日差しを反射させた。彼は馬をゆっくり歩かせ、村の空き地を回った。

「敵がやって来た!塞外の地は間もなく陥落する。神医は君等を呼びに来た。君等の妻子、娘たちのために戦おう!」

風戎人は耿曙が戦士を招集しに来たとは思っていなかった。すぐに騒ぎが広がり、村の空き地を取り囲んだ。「我は大雍の王子!上将軍汁淼だ!我が名の元に君等に問う!取引を持って来た!私と一緒に、神医と一緒に王都を解放してくれたら、君等の土地を返すと約束しよう!」

姜恒は耿曙を見た。黒袍に身を包み、雍国の甲冑をつけている。威風堂々、戦靴で鐙を踏みつけると、戦馬は前足を昴起させ、一声嘶いた。続いて耿曙は烈光剣で腕を切りつけ、鮮血を散らせた。「この血をもって契とする。我に続け!」耿曙は彼らに考える時間を与えず、馬の首を回して村落を離れて行った。

「あれで本当に来てくれるかな?」姜恒は言った。

「わからん。」耿曙は答えた。

姜恒は耿曙の腕を包帯で巻きたかったが、耿曙は手を振って必要ないと示した。姜恒が振り返ると、馬が続々と狭木村を出て走って来るのが見えた。こちらを追いかけてやって来る。

「成功だ!」

耿曙は風戎人と生活を共にし、多くの戦地で共に戦った。彼らが求める物が何かよくわかっていた。姜恒の変法のおかげで、今まで言えずにいた言葉を言うことができた。風戎人のために力を尽くそう。彼らは兄弟なのだから。

王子の威名は風戎人の中に伝わって久しい。みな耿曙なら風戎人を勝利に導いてくれると信じていた。姜恒が来たことでその信頼は更に強くなった。

「風戎人!」耿曙は二つ目の村落に着くと、風戎語で叫んだ。「我、汁淼の名の元に、神医の名の元に、君等を呼びに来た。王都を解放しよう!」

耿曙が連れて来た最初の村の戦士四十名が証となり、村落の中央にはどんどん人がやってきた。「我と共に戦おう。血を以て誓う。これより我は君等の最も忠誠なる兄弟だ。」

耿曙は烈光剣を軽く滑らせ、鮮血を飛び散らせた。    (破傷風に気を付けて~)

それは風戎人が最も重きを置く血盟だ。誓いは延々と続き、死でさえ断つことはできない。二つ目の村落から出て来た者は一つ目より更に多かった。

 

「風が起きた!」姜恒が言った。

雍国の大地に北風が吹きすさび、冬将軍が到来した。

耿曙と姜恒は馬を走らせ、風戎人の村落を廻り続けた。ついてくる者は増え続けた。耿曙の左腕の傷跡も増え続ける。三日目、集まった風戎人は六千人近くなっていた。

風はどんどん強くなる。北方の大地にある風戎部落は連絡を取り合い、一から十、十から百へ、村落は耿曙の向かう道へ兵員を送って彼らと合流させた。

隊が一万人近くに膨れ上がった時、姜恒は夢を見ているような気持になった。

二人は昼間は各地を回り、夜には草をくわえて隊を編成した。一万を超える者たちが、わずか三日で自然な隊を作っていた。

             (兵糧とかはどうしたのかなあ。自分で持って来た?)

「もう鄭軍を打てるかな?奇襲をかける必要があるよね。」

「俺が自分で万夫長を務める。希望はある。」

 

 

十二月十日早朝。

遠方から哨が響いてきた。一万を上回る騎馬隊を引き連れて失踪してきた耿曙と姜恒は立ち止まった。鎧兜を付けた風戎人の若者が、数千人を率いて彼らを先回りして待っていた。

「孟和!」若者が叫んだ。

「孟和!」姜恒は笑顔を見せた。それは風戎の小王子孟和だった。

「戦いに出るところだ!君も行くか?」耿曙が聞いた。耿曙は烈光剣を左腕に当てた。孟和は小刀を取り出した。「あんたの親父が彼のために戦えと言うなら行かない。君が君等雍人のために戦えと言うなら、やっぱり行かない。」姜恒は遠くから孟和をじっと見ていた。「だけど神医のためなら行くよ!神医は風戎の恩人だ。血を以て誓う。恩返しの時だ!」孟和と耿曙はそれぞれ腕に傷をつけ、鮮血を放った。「これでお相子だ。行くぞ!」

耿曙が集めたのは一万四千人になった。みな優秀な騎兵だ。うまく指揮できれば、鄭軍を叩ける。城内にうまく配置すれば勝算もなくはない。だがまだ足りない。もっとたくさん兵がいる。

 

 

―――

十二月十二日深夜、灝城。

最初の火矢が灝城に射ち込まれた。カッコウの如く巣を占領していた鄭人も厳しい攻城戦を受けることになった。太子霊がこの地を占領した時には、城内の駐留軍はわずか二千だった。耿曙は騎兵を率いて一騎当先し、烈光剣で城門のつり縄を断ち切った。まるで天神が降臨したかのようだ!

 

姜恒は「待って」と叫ぼうとしたが、耿曙は『ここに居ろ』とその場を指し、姜恒を待機させたまま、一万越の人を連れて乗り込んでいった。姜恒は耿曙が兵を率いて戦うのを初めて見た。先陣を切るその姿に彼は感嘆した。耿曙は疾走させている馬の背から腕を広げて飛び上がり、城門の吊り縄に飛びつくと、城楼の高所に飛びあがっていった。姜恒はその姿をただ見つめることしかできなかった。彼の後ろでは風戎人が突撃を援護するために、満天の流星の如く火矢を放っていた。鄭国王旗は断ち切られ、風に飛ばされた。すぐに城楼に火が付き、吊り橋はガラガラと崩れ落ちた。風戎人がワアーッと城に討ち入り、たったの三時辰で、城を占領した。

「孟和!」姜恒は馬に乗って進みながら叫んだ。「彼らに言って!狼藉はだめだって!ここは自分たちの城なんだから!」孟和は答えた。「わかってる!わかってるよ!孟和!」

風戎人の性格は野蛮で粗暴だ。姜恒が禁止しなければ、この大城市が味方の手によって荒らされてしまったかもしれない。孟和は笑いかけて来た。姜恒はふとあることを思い出した。「城主府を略奪しに行こう。そこは好きにすればいい。ただ、帳簿を探すのを手伝って。見つけられればだけど。」

 

 

ーーー         

第108章 親心:

 

耿曙は軍を率いて城主府を包囲した。鄭軍の死傷者が至る所にいる。風戎人はみな生まれつきの射手だ。高地を占領すれば、何波もの矢の雨が降り続ける。何万もの弓矢が城主府に向けられていた。姜恒が駆けつけた時、戦いはすでに終わっていて、耿曙が城主府の門を蹴り開けていた。中に入ると、太子霊が派遣した官が目を丸くして、二人を見た。「お久しぶりです。」姜恒は彼を知っていた。済州王宮にいた太子霊の門客の一人だった。

「姜大人?」彼は驚き、慌てた。「殺さないでくれ!お願……」飛んできた矢が喉に命中した。姜恒はすぐに振り向いた。水峻が弓矢を手にしていた。武衣姿で髪を束ね、青い紐で結んでいた。「奴らは町に来てから、私たちの部族をたくさん殺したんだ。」

姜恒はうなずいた。「氐人たちは?」

「幸いにも、城が破られた時、知らせ回ったので多くは逃がすことができた。城外で待っている。」耿曙は「王都の包囲を破りに行くか?」と尋ねた。「行く。」水峻は言った。「軍隊を召集して来る。血の誓いはしなくていい。山沢を助けに行かなければ。彼はまだ落雁にいる。」

耿曙は「俺の目的は、人を救うことではない。戦うためだと言っておく。」と言った。「それなら彼らに聞いてくれ。」水峻は言った。「私にはできない。雍国の王子はあなただ。」耿曙は水峻について城主府を出た。城内にはすでにたくさんの氐人が集まっていた。

 

「氐人よ!」耿曙は高らかに声をあげた。「私について来てくれ!私は汁淼!約束する!共に戦ってくれたなら……」

氐人はそれぞれの居場所を離れ、大通りや路地から、灝城の主街道に来た。みな黙ったままだ。5万人近い人々が何も言わずに耿曙を見ていた。

「……本来氐人の物だったはずの全てを、君たちに返そう。」耿曙は腕に27番回目の血の痕を描いた。水峻は馬を御して道の真ん中に駐めると、耿曙を見た。数万人の人々はがやがやと話し合ったり叫んだりしていた。

水峻は耿曙に向かって言った。「氐人はあなたと姜恒を信じたい。だが王室は信じない。あなたは風戎人の血の誓いをした。そしてあなたは耿淵の子孫だ。私たちを二度と失望させないでくれ。氐人が雍人を信じるのは本当にこれが最後だぞ!」水峻は袖を外し、手首に血の誓いを刻んだ。

 

孟和がにこにこしながら、水牢から意識がもうろうとした衛蕡を引きずり出してきた。衛蕡は呼吸困難になるまで苦しめられた。姜恒は衛蕡を見ると、すぐに手に入れた帳簿を隠した。「すぐに連れて行って、意識を戻させて。」

「孟和、」孟和は姜恒が大好きだ。「私の膝に座って。ナツメを食べさせてあげる。」衛府の室内は快適で、旬の果物もある。孟和の膝に座るのは遠慮するが、おなかがすいていた姜恒は、袖で手を拭くと、片手に皿を持ち、もう一方の手で果物を持って食べ始めた。

                     (孟和いつのまにそんなに流暢に…)

耿曙が帰ってきた。めちゃくちゃになった衛府と、衛家の金品や夜明珠を運んでいる風戎人を見て、怒りを爆発させた。

「城主の屋敷を略奪させたのは誰だ?!」耿曙は剣を手にして戻るなり、孟和に向かって怒鳴った。風戎人は狂犬の群れのように、灝城城主府内の財貨と家財を奪い始めた。幸いにも人は既に姜恒が連れ出していた。「私だよ。」姜恒は言った。「ナツメを食べる?」

「ああ。お前が言ったんならいい。俺はもう何も言わない。」耿曙はすぐに口調を変えた。

「あなた自身が前に言ったでしょう。衛家の立場を考えろって。」姜恒は城主府を出た。耿曙にナツメを食べさせると、皿を渡して中味をしまわせた。「彼のお父さん(衛卓)は私たちが息子の命を救ってやったお礼をしてくれないもの。殺しを許さない代わりだよ。お金は命とは違ってどうにでもなる。衛大人は息子の命の代わりになるなら少しくらいお金を払ってもいいと思うんじゃないかな。」

「彼の父親がまだ生きているならな。」水峻は衛家を憎んでいた。孟和の仲間が城主府を略奪するのをいい気味だと思う。温和な氐人にはやらせられないし、自分だって無理だ。

孟和は手を伸ばして水峻の顎を引き、「あなたの替わりに怒っているんだよ、美人さん?」と言った。「おふざけはおしまい!さっさと城を出るよ!王都が陥落したら、全て終わりだ!」孟和には落雁城の末路などどうでもいい。全ては耿曙と姜恒のためで、兵は出したものの、雍国などもっと大変な思いをすればいいとさえ思っていた。

だが水峻は違う。落雁城が落とされたら山沢も逃げられないだろう。姜恒よりむしろ彼の方が焦っていた。「山陰城は?」耿曙は氐人、風戎人、灝城の雍国兵を集めた。その数は既に三万人になろうとしていた。「やめておこう。」姜恒は答えた。やめると心配な人がいる。曾嶸と曾宇の父------曾家当主の曾松だ。だが、太子霊の補給路を断てた今、一刻も早く王都落雁の救援に向かわなければ。どちらかを取らなければならないなら、曾松だってきっと息子たちの命を優先させたいだろう。事態は複雑なことになっていたからだ。

山陰城の支配者は三日前にまた変わっていたのだ。固く閉ざされた城門の上には、太子霊が遣わした門客の首が晒されていた。城壁の上では長槍で突かれ、鮮血を滴らせたままの遺体が寒風の中で凍っていた。城門には血を使って大木の絵が描かれ、枝葉を広げていた。血で描かれた花の絵は見る物を震撼させた。

 

耿曙は城外で馬をとめた。風戎人、氐人を含め、臨時に招集された三万の大軍が山陰城を囲んでいた。耿曙は声を上げた。「烏洛候家の者よ、出て来てくれ、話をしよう!」

城楼の高所に郎煌が現れた。毛皮を身にまとっていた。以前姜恒が会っていた時にはほぼ丸裸だったので服を着るとすぐには誰だかわからなかった。郎煌は城外を見渡した。

「やあ元気か、ハンアル?」姜恒は頭を上げて高台を見てから耿曙に目を向けた。

耿曙:「君は何がしたい?」郎煌は口笛を吹いてから答えた。「造反、叛乱だ!他に何ができる?水峻か?君も来たのか?」姜恒は耿曙に、彼らに決めさせようと目で伝えた。「これから王都に行くんだ。君も来るかい?」姜恒は尋ねた。

 

「行かないね。君の隣の王子殿下、君の兄貴だが、私の部族をたくさん殺した。君には報いたいと思っているが、仇のために命を売る気はない。」

「だったら俺たちで山陰城を攻めてやろうか。」孟和はこの男が好きになれない。林胡人は塞外三族でも神秘的で怪しい連中だ。こういう輩と関わるとろくなことがない。

郎煌が言った。「それじゃあ戦うか?」

「兄さん、やめよう。彼は仲間にはなれないよ。」だが耿曙にとってははっきりしていた。林胡人の数は多くない。それに塞外で最も戦闘的な民族でもない。それでも彼にとっては大事なことだった。

「お前があの時言った言葉が忘れられないんだ。」

「何の事?」

「お前は言っただろう。風戎人、林胡人、氐人、どんな一族だって、皆対等だって。間違いを犯したら認めなくてはならない。俺は彼らに借りがあるんだ。」

言い終えると耿曙は馬を下り、烈光剣を手に城門に向かって行った。

山陰を占領していた林胡人は続々と弓矢を構えた。郎煌は手を上げて打つなと示した。

その時耿曙が城門の外に両膝で跪いた。「私は君等に謝罪する!私の所業を!是非もわからずに君等の族人を虐殺し、君等の土地から追い出した!」

万の軍勢はわらわらと前に押し寄せ耿曙に目をやった。

「林胡人は元々我らが盟友だったのに、恩を忘れ、義を欠いた。烏洛候煌、今日は絶好の機会ではない。私は落雁を救いに行かねばならない。だが、王都にて君を待つ。いつでも復讐しに来てくれ。」耿曙は剣を鞘に収めた。キンという音が響き渡った。

 

大軍勢は山陰城を離れた。姜恒が振り返ると、山陰城門が開く大きな音が響いてきた。

吊り橋が下ろされ、郎煌が大馬に乗り、腰に弯刀を携え、背中に弓矢を背負ったた三千の林胡軍を率いて城門を出て来た。

 

「これでみんな揃った。」姜恒が言った。「王子たち、行くよ。今日からは、私は王子と船に乗って、共に進んで行くんだから。」

 

 

―――

十二月十五日。

狂風は益々強くなっていった。落雁城は全面封鎖していて、外からの消息も絶たれている。だが汁琮は信じていた。もう一人の息子は今頃血まみれになって玉壁関を攻めているのだと。

しかし援軍を待つつもりはなかった。玉壁関は守りやすく攻めにくい。姜恒に殺されかけたあの日に、こうなることは決まっていたのだ。界圭からの連絡を待つつもりもない。暗殺とは忍耐を必要とすることだ。耿淵はあんなに長い間潜伏を続けたのだ。界圭だって簡単には済ませられない。十日、半月かかるのはあたりまえで、果ては数年に及ぶ。自分の死後に界圭が機会を見つけて復讐してくれるかもしれない。

 

「太子殿下がお別れのご挨拶をされたいと。」曾宇が正殿に入って来た。

単衣を身にまとった汁琮の顔には明らかな老いが見えた。「来させるな。会いたくない。このまま行かせるのだ。」こんな姿を実の息子に見られたくなかった。衛卓、管魏、陸冀の三人がここに留まって生死を共にしてくれる。太子瀧は最後の希望だ。曾宇に責任もって護衛させよう。

死ぬのも悪くない。みんな死ねば、あの時の秘密を知る者は誰もいなくなる。

汁琮はふと我にかえった。「曾宇、任せたぞ。」曾宇は頷いて正殿を出て行った。

 

汁琮は王袍を身にまとって、宗廟の前に行った。最初に手を合わせるのは、彼自身が手にかけた鬼魂だ。もしかしたら怨気が強すぎて、先祖から受け継いだこの国にまで呪詛が行きわたってしまったのか。息子の体に憑依して、一気にすべてを破壊しようとしたのかもしれない。大雍の半分は自分が作ったというのに、それも気にしないようだ。ならば、自らを犠牲にして敵と共に果てようとも、問題はなかろう。

彼は姜太后の言葉を思い出した。あの頃の姜昭は母に似ていた。自分は姜昭が好きだったのだろうか。好きだったかもしれないが、あの娘が育てた子供が、今自分の前に立ちはだかっている。

 

 

昼前、落雁城、門外に轟音が響いた。雍軍が包囲網への強硬突破を開始したのだ。

狂風が鄭王旗をはためかせた。この三月で初めて太子霊が将校たちの前に姿を見せた。車倥は北門の方向を監視していた。孫英率いる死士たちが太子霊の身辺を守っていた。車倥が言った。「殿下の読み通りですね。敵が包囲を突いてきました。曾宇が誰かを連れて防衛線を強攻突破しようとしていますが、汁琮の姿は見えません。」

太子瀧が応じる。「奴にも多少の親心があるということか。一切を顧みず送り出すとは、きっと汁瀧だろう。しかしどこへ逃がそうというのだろうな?」

「報告―――!」信使が馬を走らせ急ぎ陣へと入って来ようとした。

孫英たちはすぐに防衛体制に入り、勅令信使を近づけないようにした。信使は叫んだ。

「灝城陥落!卓大人死亡!」

太子霊は黙ったまま孫英を見た。孫英は言った。「姜恒の仕業か。玉壁関にいるとばかり思っていたが、どうやってそこまで行ったのだろう?」

太子霊は決断を迫られた。この包囲戦で最も重要な決断だ。「攻城せよ!ただの廃墟となる様を敵に見せてやれ。城に入ったら王族を生け捕りにし、その他の者は全員屠殺せよ。」

 

(プロット上仕方ないとはいえ、なぜ汁瀧をとらえて見せしめにしない?敵国の唯一の跡継ぎだぞ?鄭国兵に見せかけてこっそり連れ出したんでもなくて、防衛線を強攻突破してるのがわかっているのに見逃すか普通?9万の兵がいるんでしょうに。四国全部雍国の敵だから逃げ場がないと思ったから甘く見た?でも前に耿曙の事は殺そうとしたのになあ。)

 

 

 

ーーー

第109章 三胡の旗:

 

鄭軍は松明を持って、後陣から3里離れたところからそれぞれ壕に入って行った。たっぷりひと月かけて、数十万斤の凍土が地下道に沿って運ばれ、壕の両側に積み上げられた。落雁城壁に通じる、12本の地下道を掘ったために出た土だ。地下道は浅く、地下1丈だが、城壁の下をくねくねと10里近く続いている。その先は落雁城だ。磐石の巨岩が敷かれて、都市全体の地盤となっている。王宮ともなると、さらに掘ることさえできない。

だが、彼らの目的は地下道を城の下に掘ることではなかった。これで十分だ。深さ一丈余の地下空洞は、東蘭山で伐採された巨木で支えられ、うねうねと、地底に怪しい防御工事を築いていた。

大軍が城外に集結した。雍軍の残り7千人が次々と城壁に登り、強弩を手に6万の敵軍に立ち向かっていた。「何をするつもりだ?」衛卓は声を潜めた。「城攻めを強行する気か?」

代国軍はまだ来ていない。鄭国はもう攻城の態勢になっている。だが3丈を超える城壁は、攻城梯子がなければ、登ることはできない。

太子霊は戦車に乗り、強風の中、出陣した。鄭国大軍は武器を掲げて落雁に向かう。

太子霊は高らかに声をあげた。「汁琮!降参し、献城しろ!最後にもう一度機会を与えよう。出てきて謝罪しろ!お前の血の負債、そしてこの数年間に犯した罪にだ!」

汁琮は城楼の高所に現れ、弓を引いた。矢は流星のように飛んでいく。

孫英が瞬時に前に出て盾を持ち上げ、太子霊を守った。矢は盾を射抜き、盾はバリンと音を立てて粉々に砕けた。

 

汁琮が言った。「戦え!孤王がお前の族叔父同様にお前を始末してやる。よく見ていろ!」

鄭軍は怒りの声をあげ、義憤に燃えたぎった。

城門が開き、汁琮が出陣した。彼は絶対的な自信を持って、敵陣に突入し、万軍の中からまっすぐ太子霊の首を狙いに行った。太子霊が死ねば、連合軍は散り去る。

その時、太子霊はただ静かに黒鎧の汁琮を見ながら手に持った鈴を上げて、軽く振った。

「チリン」という音がすると、後陣で撃鼓が3度打たれた。ドン、ドン、ドン。

 

数万人の兵たちが天地を揺るがすような大声を上げた。すると地面がぐらぐらと揺らいだ。地底で何が起きたのか。すぐさま汁琮は色を変えた。衛卓が前に出て、汁琮を突いた。「陛下!気をつけて!」

城門の外では、地下通路に沿ってうねうねと火が急速に燃え移って行った。地底で爆発が起きた。炎は地下道の中で十数か所、支柱となっていた木を燃やし、木は折れ崩れ落ちていった!

 

砂州平野の果て、姜恒と耿曙は丘陵を越えた。その瞬間、姜恒はあり得ない光景を目にした。落雁城の南方10里に及ぶ城壁が、ガラガラと崩れ落ちていった。堀の前の地面が崩れるにつれて、巨石が地盤を押しつぶした。城壁の沈下は千万斤の塁で築かれた巨石を傾斜させ、溺れた巨竜のように、轟然と崩れさせた。

 

中央の3丈ある城門、つり橋から両翼に向かって崩壊の連鎖は続いた。瞬く間に城壁全体が咆哮をあげて倒れた。まるで神の力で下から押し上げられたかのようだった。

太鼓の音がさらに大きくなる。落雁城の前は舞い上がる土埃でいっぱいになった。天地を揺るがすような太鼓の音につれて、6万人の鄭国歩兵が雄たけびをあげて突撃し、城内に走り込んで行った!

 

「しまった!」姜恒は叫んだ。耿曙はすぐに諫める。「まだ突撃を始めてはだめだ!主力部隊が到着するのを待つんだ!」

耿曙と姜恒が率いていたのは三千騎兵の先鋒だ。今鄭軍の後陣を襲撃すれば、逆向きに反撃され、全滅するだろう。都の陥落を目にしたとて、軍を展開して総攻撃を開始できるまで待たなければならなかった。

耿曙は振り返った。「列陣!!孟和、水峻、伝令を!各部は太鼓の音を聞け!」

 

 

太子瀧は、玉璧関が炎上するのを見た瞬間を忘れたことはない。そして今日、落雁の何里にも続く堅固な城壁が崩壊していくのをその目で目撃した。一瞬にして雍はすべての守備を失い、城壁にいた雍軍が犠牲となった。

落ち着け、冷静になるんだ……太子瀧は自分を戒め続けた。そして、悲しみの心を押し殺し、さっと向きを変えて剣を抜いた。

「まだ終わりではない、まだ終わってはいない!逃げてはいけない!援軍はきっと来る。皆の者、私に続け!今は敵軍が最も油断している時だ!行くぞ!敵の後陣を襲撃する!」

曽宇:「!!!」

「太子殿……」曽宇はすぐに言った。

太子瀧は馬の手綱を振り、長剣を掲げ、軍隊を反転させた。「我が王旗を担げ!私について後方に迂回し、彼らの後陣を奇襲せよ!」

確かに奇襲できる!鄭人は汁琮が血統を守るために太子を包囲突破させたと思っているだろう。敵軍の注意は汁琮にあり、太子は軽視されている。包囲突破に成功した太子瀧は勇敢に向きを変え、鄭軍の後方を奇襲しようとしていた!

御林軍はすぐに呼応した。太子瀧について行こう!曽宇が気づいた時には状況はすでに彼の処理能力の範囲を超えていた。彼には追いかけて行くことしかできなかった!

太子霊が準備に丸1カ月かけた作戦は、落雁の防衛体制をたやすく吹き飛ばした。たちまち6万人の歩兵が城に突入し、火を放ち始めた。

 

「援軍が来たようです。」孫英は戦車に乗った太子霊に告げた。

「ずいぶん速いな?」太子霊は少し意外だった。

「彼らです。姜恒が風戎人、林胡人、氐人を集結させました。」

「できるだけ早く王宮を攻め落とすように命じよ。汁琮の行方を探し、王族を人質に取れ。」

雍都落雁は建設120年以来、初めて戦火による破壊を経験した。煙が四方に上がり、人々は泣き叫んで逃げ回った。

 

 

耿曙の主力部隊がついに到着した。

耿曙は声に威厳を込めて言った。「太鼓を打て。恒児、お前は後方から号令を出せ。水峻、烏洛侯煌は左右の翼、孟和は中央に分かれて、俺について突撃だ!」

姜恒は耿曙のために兜をかぶせた。耿曙は姜恒の鼻筋に指を滑らせた。「待っていろよ。」

援軍が動き出した。潮のように丘を越え、鄭軍の後陣を飲み込み隠し去った。

姜恒は琴を持って崖の上に行き、号令を伝えるための巨大な太鼓を見下ろした。

ここからなら、城内に入る兵馬がはっきり見える。

彼が弦を鳴らすと、鼓手が太鼓をたたく。太鼓の音は轟き、音は10里にまで伝わった。

「トントン」

「ドーン!」

耿曙は中軍を集め、先鋒を突進させた。それはまるで鋭い刀のように、敵の後陣に突き刺さった。「奴らが入ってきます。」孫英が太鼓の音を聞いて言った。

歩兵2万人余りが城に突入した。「退くな。」太子霊は命じる。

耿曙の後ろでは衛隊が2つの王旗を担いでいた。一方は赤色で「晋」、もう一方は漆黒で「汁だ」。

「趙霊―――!」耿曙は咆哮した。「よくも弟を陥れたな。お前の命を奪ってやる―!」               (↑まじでただの言いがかり)

 

正午、宗廟にて。

戦いの音が近づいてきた。鄭軍が宗廟まで来ると、高所に華服を着た老女が立っており、周囲を侍女たちが守っていた。

「姜太后か?」車倥が兵の中から出てきた。最初の人質だな。後で太子霊が汁琮と姜太后、太子汁瀧を砂州に連れ出し、汁淼の面前で車割きにして見せつけてやるのだ。

「車将軍」姜太后は天月剣の鞘を手にしていた。「国を滅ぼす戦いだというのに、これだけしか連れて来ないとは、なんと軽率なこと。」

そう言うと、姜太后はゆっくりと剣を抜き出した。冷たい光が冬の陽を屈折させ、車倥は少し目を細めた。敵を甘く見すぎた。それが車倥の最後の考えだった。

侍女たちが飛んできた。車倥は叫んだ。「矢を放て――!女を近づけるな!」

しかし遅すぎた。姜太后は高い段上から降りず、ただ手を上げた。天月剣の弧光が瞬き、空中に月輪を描くように振り下ろされうなり声をたてた!続いておそって来たのは天地を覆うほどの矢の雨だった。

 

 

落雁城は一瞬にして破られた。

血まみれになった汁琮は、意識がもうろうとしていた。

瓦礫の中からもがきながら立ち上がると、遠くから大きな叫び声が聞こえてきた。

「雪が降ったよーー。」汁琮は慌てて振り向いた。するとそこは35年前の桃花殿で、彼は兄の汁琅と庭に立っていた。

「今年はどうしてまだ雪が降らないの?」

「雪が見たいのか?」

「うん……雪の日は、武術の練習をしなくていいんだもん。」

まだ9歳の汁琅が「それなら、私が雪が降るように祈ってあげる。」と笑った。

8歳の汁琮は「祈りが役に立つの?」と皮肉った。

「私は太子だもの。神様だって願いを叶えてくれるかもしれないよ。」汁琅は言った。夜になり、本当に雪が降った。汁琮が物心がついて以来、一番の大雪だった。

彼は朝起きると、早足で東宮に行き、兄の布団の中に潜り込んで、「兄さん!起きて!雪が降ったよ!」と叫んだ。汁琅はまだ半分寝ぼけたまま寝返りをうった。そして手を伸ばして彼を引っ張り、騒ぐなと言った。汁琮がわるふざけをして冷たい手を彼の懐にくっつけると、汁琅はびっくりして目を覚ました。

「こら!汁琮!早く降りろよ!」汁琅は笑い転げた。二人の兄弟は大笑いした。

汁琅は汁琮を懲らしめようとしたが、いつも汁琮に勝てず、しばらくするとあきらめて、二人は一緒に、殿外を真っ白に染める大雪を眺めた。

「耿淵?」汁朗は耿淵が来たのを見ると、弟を押しのけた。そして笑いながら起きて服を着ると、雪合戦をしに出て行った。

 

「兄さん……」汁琮の声は震えていた。廃墟の中で剣を見つけたが、兜はどこに落ちたのか。衛卓も行方不明で、見渡す限り敵軍だらけだった。

汁琮は大声で叫びながら、剣を振り、突進して来た歩兵を地に倒した。

「兄さん……どこにいるの?」汁琮は震えた。彼は周りを見回した。敵軍がさらに押し寄せてきた。雪もますます激しく降って来た。

『今日の雪は、あの日と同じだ。』

 

 

南門外、太子瀧率いる御林軍は落雁城の外周の大半を迂回し、再び戻って来た。その時、突然太鼓の音が聞こえた。「援軍が来た!」太子瀧はすぐに言った。「太鼓の音だ!雍鼓の音が聞こえた!兄さんだ!兄さんと姜恒が帰ってきたんだ!」

耿曙の名声は御林軍の中でも響き渡っている。たちまち士気が高まった。

太子瀧と御林軍は、刀のように鄭軍の後陣を突いた。鄭軍は彼らに気づくと、陣を張って抵抗し始めた。

 

汁琮は依然として乱軍の中で喘いでいた。もう本当に一人ぼっちだ。その時、遠方から響いてきた太鼓の音に彼は、はっとして目覚めた。

まずは「ドンドンドン」と三度鳴った。次に行雲流水のような連弾。繰り返し、繰り返し、徐々に早まって行くにつれ、天地が色を変えた。英霊がこの世に降りてきたのだろうか。

英霊は太鼓の音を使って呼び寄せた神兵天将を千軍万馬に変え、一挙に落雁城に突入させた――――。そして音は、一首の歌謡に変わった。

鄭軍が集団で取り囲んで来る。その時だった。前にいる兵たちをなぎ倒して、戦馬が駆け込んで来た。黒い影が進み来る道は噴き出した血に染まっていく。

耿曙が烈光剣を振り払うと、鮮血が雨粒のように空に散った。剣身は血に染まらず、寒光を放ったままだ。

「父王!」耿曙が叫んだ。

汁琮はぼんやり耿曙を見ていた。耿曙は急いで駆けつける。

汁琮は見渡した。太鼓の音の下で風向きが変わり、敵が背水の陣をしく番となっていた。

宗廟の前には死体が横たわっていた。姜太后は肩に矢を受けたまま、城外遠方を望んでいた。山沢は内宮を出て、宮壁の高所に立ち、翻る「氐」旗を見つけた。

雪が舞い降り、弦の上に落ちた。弦が振動すると、雪は引き裂かれた絹のように、風の中で舞い上がり、きらめきながら散っていった。

姜恒の音は、太鼓の音に変えられて遠くまで雷鳴のように鳴り響いていた。

「何という夕べ…」姜恒は知らずしらず口ずさんでいた。

 

孟和は風戎人を率いて背後を追って来た。王旗には大古の巨字で「風」と書かれている。軍馬で廃墟となった城壁を飛び越え、鄭国歩兵を斬り始めた。

 

「王子と船に乗るなんて……」

水峻は顔じゅう血だらけにして、剣を持って一足先に皇宮に入って行った。一声号令を出すと、氐人は戈を持って戦陣を組み、外城から襲ってきた敵軍に向かった。

 

「林」旗が舞い上がる。郎煌は三千猟師を率いて、壁上を渡り、皇宮の軒に登ると、それぞれが曲弓に矢をかけて、雍宮外を狙った。

 

姜恒は崖の上に座って雍都落雁を遠く望んだ。各部隊が太鼓の音を聞いて、雍宮に集まっている。まるで大きな棋盤のようだ。すべての棋子の配置は終わった。

姜恒は弦を押さえた。五弦が一斉に振動した。だが、最終盤を終えた瞬間、突然目を大きく見開いた。「来るのは、孫英だろうと思っていた。」姜恒はつぶやいた。

太鼓の音が止まった。鼓手は何も言わない。周りの衛士たちは皆死体となっていた。

「あなたは誰?」姜恒は尋ねた。刺客は答えなかった。無名の輩にすぎなかったのだ。

姜恒の胸から血が噴き出し、飛び散って琴を赤く染めた。

その時、狂ったような悲鳴が上がった。「ハンア——ル!」

界圭の姿が現れた。黒剣を手にし、刺客の頭に万力を尽くして剣を掃いた。たちまち刺客の脳みそがはじけ、姜恒を突き刺した剣は少し的を外した。

 

『漫天の星河が今墜落し、煉獄の火と成り尽くす。見上げる勇気さえもない。天が崩れ地は裂けた。滄海が桑林と為す程の長い長い時が流れた。』

 

姜恒の目の前がぼんやりしてきた。肋骨の下が冷たい。目を見開いて、焦った顔の界圭が気が狂ったように彼に向かって何かを叫んでいるのかを見ていた。まるで彼の名前ではなく、別の誰かを呼んでいるようだ。

彼は頭を振って覚醒させ、肋骨の下の剣を見てから血に染まった古琴に視線を移した。そして界圭を押しのけると弦を押さえ、最後の力を振り絞って、五弦を一斉に震動させた。

「バラン、バラン、バラン、バラン、バラン…」と5回。耿曙は風戎軍を集め、町全体、四方八方へと散らばらせた。

 

ふと耿曙は振り向いて、遠く、太鼓の音が聞こえてきた場所を望んだ。

この太鼓の音で全軍が同時に突撃を開始した。落雁8本道から中央雍宮に向かい、太子霊率いる鄭軍の息の根をとめるのだ。

烈光剣が輝くところには、天地の間に死生の契闊(別離)が増え続ける。

 

「同袍の血に染まりし襟翻し,撃鼓の響き,万世の声,帰るに帰れず 不安は募る」

 

「死生の契闊結びしに、子と誓い、子の手を執り、子と共に添い遂げん——」

 

太鼓の音は天地の鼓動のようでもあり、生ける者の脈動のようでもあった。死にゆく者の憤怒が絶え間ない血の川に流れ込み、雍国王都の全てを埋没させていった。

 

——巻四・鳳求凰·終——