非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 156-160

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第156章 訴悲歌:

 

夜が更けた。郢軍は有史以来最も厳重な守備を固め、雍軍が処刑の前に囚人を救いに来るのを防いだ。「最後に一言君に聞きたい。淼殿下。」屈分と項余が大牢に来て耿曙と向き合った。

項余が真剣な表情で言った。「太子殿下はこの度のことに心を痛め、最後に君に選択の余地を与えることをお決めになった。君は自分の死に方を選んでいい。」

屈分は項余を見た。彼はそんな命令を聞いていない。だが別にいい。結局は死ぬのだ。どんな死に方だって別に関係ないだろう。

 

「俺は聶海だ。」耿曙は淡々と言った。牢の壁に背を持たれて座り、死牢の外の夜空を眺めていた。項余は尋ねた。「言ってくれ。どんな死に方がいい?」

「焼き殺してくれ。」耿曙は考えて、前に項余が指示した通りに答えた。

屈分が言った。「だが焼死は相当苦しいだろうに。」

「俺は火が好きだ。俺を焼き殺す時には南を向かせてくれ。南を見ていたい。」

屈分は疑わしそうに項余を見たが、項余は頷いて、その通りにしようと示した。

「彼と酒を酌み交わしたい。」項余は屈分に言った。「皆出て行ってくれ。明日私は刑を見ないつもりだ。彼が死ぬのを見たくない。」

 

屈分は考えてみたが、二人だけでいさせたからといってどうなるものか?穴でも掘って逃げるとか?項余がこの責任を負いたくないのはよくわかる。まあいい。功労は全て自分のものになるのだから。そこで大牢を出る時、侍衛長に言いつけた。「守りを固めて、例の鷹には気をつけろ。」五千人近くが牢の外を囲んでいる。人壁ができるほどだ。夜通し強弩から手を離さないようにしてもある。例え項余が奴を逃がそうとしたところで、翼をつけても飛ぶこともできまい。「奴は火刑に架けろ。」屈分が命じた。

郢軍は銅柱と鉄槌をたずさえて、飛星街道の中央に集まった。一つ離れた街道には雍軍の防衛線がある。あたりの家屋は既に全て空っぽになっていて、千歩もの空き地となっていた。

 

郢軍は街道の真ん中に銅柱を打ち据えた。鉄槌が音を立てる中、遠方から歌声が聞こえて来た。

 

「豈に衣無しと曰い、なんじと裳を同じうせんや……。」

 

それは城北の雍軍大営から、誰からともなく上がった歌声だった。月が輪をかけて輝くこの夜、八万の雍人は眠れぬ夜を過ごし、歌声が上がると、すぐに一から十、十から百と増えて、安陽の月夜に響き渡った。

 

「……王于きて師を興こさば、 我が甲兵を修め、なんじと偕に行かん……。」

 

郢軍兵士はその歌声を聞いて、一瞬動作を止めた。

「早くしろ!」監督兵が催促した。

兵たちは薪を一つ一つ銅柱の下に積んでいき、小さな山を作ると、上から油をかけた。

 

 

城外では、姜恒と界圭が静かに馬から降りた。

 

「……豈に衣無しと曰い、なんじと裳を同じうせんや……」

 

界圭は手を伸ばして姜恒を押さえ、二人は首を伸ばして城内を見ようとした。郢軍部隊は城内に集中していて、南門の守備は空虚になっていた。いるのは城を出て行く民だけだ。

「誰かが歌を歌っていますね。雍人です。」界圭の言葉に姜恒は突然、心中に不吉な予感を覚えた。

 

「……王于きて師を興こさば、 我が甲兵を修め、なんじと偕に行かん……。」

 

二人は城内の遠方から届く歌声を聞いた。それは八万の人たちが月夜に各々そっと吟じた歌だった。皆の悲痛な思いが込もった歌が一つになって川の様に流れをつくり、天地の間を震わす音量となっていた。

 

「私が左のあれを狙うから、あなたは右のあれを狙って。」姜恒は城壁の高所から二人の衛兵に狙いを定め、界圭に向かって小声で言った。

姜恒は鉤つき縄を持って何度か回した。だが界圭はまっすぐ城壁に飛び上がると、何歩か動いて城楼に飛び移った。二人の兵士が声もなく倒れた。界圭は振り返って姜恒に向かって口笛を吹いた。姜恒は鉤つき縄を放り出して界圭に引っ張り上げてもらうことにした。

二人は郢軍大営を望んだ。大牢の外は鉄壁の守りを固められていた。

 

項余が大牢を出て来た。屈分の親兵は彼を一目見てから、牢の中を見た。項余は振り返って、牢獄の入り口に意味深長な一瞥を投げた。親兵は先ず中に入って確認したが、耿曙が中にいたので、頭を上げて行って良しと示した。

項余が何も言わずに馬に乗って、郢軍大営を出ようとした時、雍軍の歌声が聞こえて来た。

 

「豈に衣無しと曰い、なんじと裳を同じうせんや……。」

 

項余はゆっくりと馬を走らせて町の中に進んで行き、また顔を向けて遠くを見た。

 

「……王于きて師を興こさば、 我が甲兵を修め、なんじと偕に行かん……。」

 

それは雍人が耿曙に送った別れの歌だった。彼に向けての、最後の、厳粛なる誓いの言葉でもあった。項余はその歌声を聞くと、ゆっくりと大営を離れ、城南に向かって走って行った。

 

姜恒と界圭は城楼高所から遠方を眺めていた。

姜恒には郢軍の計画が読めた。遠方の河の上に一万を超える兵を駐屯させている。打ち込んだ木の杭を抜けば、黄河の水が入って安陽は冠水する。

「明日彼らは黄河の流れを変えて城を水攻めにするつもりだ。はやく武英公主に手紙を送って知らせないと。」

「まずはお兄上を救ってそれから話しましょう。」界圭が言った。

 

郢軍はほぼ水軍だ。洪水と氾濫が起きたらすぐに乗船し、水に慣れていない雍人が何もできずにいるところに矢を射るのだろう。

よく考えられた計画だ。恐れ知らずの屈分は賭けたのだ。雍軍はきっと全軍が城内に留まり、王子殿下の処刑を直に見て、悲憤高まったところで宣戦するつもりだろうと。そこへ洪水が押し寄せる!ザブン!これで誰もどこへも行かれない!

屈分は興奮して体が震えてきた。明日は彼の名が天下に鳴り響く日となる。汁淼を捕らえ、汁琮を溺死させる。天下の名将、私以外に誰がいる?!

 

 

姜恒は海東青が旋回する方向を注視していた。二人だけで、五千人の防衛を突破するのは不可能だ。屈分はきっとすごく警戒している。だれかが彼らの注意を引かなくては。汁綾が郢軍陣地を攻撃するのを待って、それに乗じて界圭を紛れ込ませれば大牢に近づける。

姜恒は海東青を呼び戻そうとした。汁綾に知らせ、彼女の助けを求めるためだ。何度か口笛を吹いたが、海東青は少し近づいても降りてこようとしない。だがあまりあからさまに口笛を吹くわけにはいかない。付近の守備兵に見つかるかもしれないからだ。にわかに焦りがこみ上げて来た。

 

「誰か来ました。」界圭が言った。

月光の下、誰かが騎馬で疾走し、城南大門までやって来た。郢軍将校の服装をしている。項余が馬を操り、片手を顔に伸ばして、顔の変装を取った。現れたのは耿曙の姿だった。海東青がすぐに降りて来て彼の肩に停まった。

 

「風羽!」高所から声が聞えてきた。耿曙は信じられない思いで頭を上げた。月光が彼の顔を照らした。城楼から飛び降りた姜恒は瞬間体がかたまった。

耿曙が馬から飛び降り、前に何歩か進んだ。姜恒は泣きそうになりながら這い上がって耿曙に向かって行った。

 

「天地と我は同じ悲しみを持ち、万古と我は同じ仇を―――。」

 

雍軍の戦歌の声は更なる歌声を呼び、後に続く。悲憤の情を尽くし、未だかつてない憤怒の思いが軍内に絶えることなく蔓延して行った。歌を禁じる勅令が出てからも兵たちの激情を抑えることはできなかった。

 

「……死生の契りは広く、なんじと成説し、」

 

歌声の響く中、姜恒は城壁の階段を駆け下り、一切を顧みず、耿曙に向かって身を投げた。「大丈夫だ。恒児、俺はもう出て来られたから……。」

姜恒は耿曙の肩の前に顔をうずめて号泣した。耿曙はしっかりと彼を抱きしめ、顔を上げて城内を見やった。

「さあ行きますよ。感極まってる場合じゃない!逃げてからまた泣きなさい!私が汁綾に手紙を出します!」界圭が言った。

耿曙は姜恒ごと城楼に飛び上がった。そして空いている方の手で鉤付き縄を城壁にひっかけると、飛ぶ鳥の様にふわりと滑り降りて夜の闇に入って行った。

 

「なんじの手を執り……なんじと共に老いん……。」

耿曙は姜恒を抱いて馬に乗ると、自分の前に座らせた。二人は共に騎馬し、界圭は既に城壁を離れて、汁綾へ手紙を届けに行った。耿曙は壁の向こうにある千年の王都安陽を眺望した。

再開後、二人はどちらも何も言わず、静かに壁の向こうから伝わって来る歌声を聞いていた。

「なんじの手を執り、なんじと共に老いん……。」

「なんじの手を執り、なんじと共に老いん……。」

まるで二人を見送ったかのように、歌声が徐々に止まった。耿曙は馬の鼻を前に向け、姜恒を連れて、東方の官道に沿って去って行った。

 

ーーー

空が明るくなってきた。屈分は自ら大牢を訪れた。最後の重要な段階だ。ここで逃げられるわけにはいかない。親衛兵に耿曙を牢から連れ出させた。彼は全身傷だらけで、敗れた衣から見える白皙の胸は血痕だらけだった。髪は乱れ、三日間飲食を断たれ、虫の息であった。

 

屈分は自ら囚人を検分した。「王子、いい人生でしたな。お父上が琴鳴天下の変を起こした日に、あなたの最後はこうなると決まっていたのです。激烈な一幕と、これ程多くの人からの送別、生きてきたかいがありましたな。」

 

耿曙は何も答えず、目を閉じていた。親衛兵が彼の首に鉄枷をつけた。耿曙は裸足で足枷をジャラジャラ言わせながら、飛星街道前の銅柱にはりつけにされた。雍軍が総出となると、すぐに四方八方、王宮の長城、屋根、街道内、全てが双方の軍隊で埋め尽くされた。話をする者はなく、大城市安陽は死の城となったかのようだった。全ての人が飛星街道中央の火刑の様子をじっと見守っていた。銅柱にはりつけにされた耿曙は両手を垂らしてうなだれていた。

「おい、」耿曙は下にいた衛兵に冷静な口調で言った。「俺に南方を向かせろ。」

衛兵は前に進んで指示を仰ぎ、回答を得ると、ゆっくり銅柱を回した。

 

この時汁琮は王宮の高台から飛星街道中央を眺めていた。これで軍を抑えられなくなり、混戦となった時、こちらにどのくらい勝ち目があるだろうか。少なくとも七割はある。

時々彼は思った。郢国人は自信過剰で本当に愚かだ。水軍出身の夷人が、どうやって雍軍と戦うつもりなのだ?だが耿曙が火刑されようと柱に縛り付けられている様子を見た時、汁琮の心には幾分か辛く名残惜しい気持ちが残った。

 

「雍王!」屈分が叫んだ。「城を出て行け。そうすれば彼の命は奪わぬ!」

汁琮はそれを聞いて思った。責めるなら姜恒を責めろ。つく人間を間違えたのだ。天下を征服したのちには、耿曙を一国の王に追封しようと思っていたのに、こうして父子は対立した。国内にこの話をどう伝えようか、各族に何というかはよく考えてある。大雍の全国、上下あげて怒りの炎を焚きつけ、煽動すれば、彼らは中原全ての土地を焼き尽くすだろう。彼は傍らに座って松の実を手に取って皮をむき、今から始まる死刑を気を静めて待った。

 

郢軍が火刑のための油をかけた。曾宇は目を真っ赤にして、衛兵が銅柱を動かした時には、ついに耐えられずに咆哮した。「こちらを向かせろ!我らの王子だ!我らの上将軍だぞ!」雍軍は今にも動乱となりそうだった。だが耿曙は明るい声を出した。

「焦るな!誰だって死ぬのだ!遅かれ、早かれ、誰もが死ぬ!何を急ぐことがある?」

 

耿曙の声はいつもと変わっており、ずいぶんしゃがれていた。同時に双眸を見開いて、百歩離れたところにいて、命令を下そうとしている屈分に嗜虐的な目線を送った。屈分の顔は見えないが、どこにいるかは知っていた。

屈分は冷笑した。「死が迫っているというのに、冷静な物言いだ。点火しろ。焼き殺せ。」

命令を受けた兵が火を高く掲げ、十八万の兵士が見守る中、馬を走らせてきた。手に持った火からは、黒い煙が北風に乗って、延々と南方の大地に向かってたなびいた。

百歩、五十歩、三十歩、十歩……。

 

 

―――

第157章 風に乗った烟:

 

そこから千里離れた、江州。

郢王は体を動かしていた。今日の修練の効果は最高だ。半年たって、姜恒の言う通り、燕の様に身軽になった。露水を飲み終え、寝殿に戻る時、太子安が手紙を持って急ぎやって来た。

「父王、安陽から手紙が来ました。」太子安が言った。

「何と言ってきた?」熊耒は気楽な調子で、自分で茶をついた。

「汁淼を捕らえ、姜恒は逃げました。項余が逃がしたのではないかと私は思います。」

「まあいい。」熊耒が言った。「生かしてやろう。たかが文人だ。何ができる?汁淼さえ殺せればいい。」

太子安が答えた。「安陽はもう手に入ります。項余は思う所があるようですが、屈分がよくやっています。」

「私が思うに、項余があの若者を見る目つきがあやしい。帰ったら処分しないとな。」熊耒は太子安の近くを通り過ぎながら、軽い調子で言った。

太子安は二通の手紙を読んで、屈分が一挙に安陽を奪い取る報告を待つことにした。退席を告げようとした時、羋羅が急いでやって来た。

 

「王陛下、殿下。」羋羅が心配そうに声をかけた。

「正午前に政治の話はするな。」郢王は息子に修行の邪魔をされ、不満に思ったところだった。「お前たちは出て行って話せ。」

羋羅は顔を青ざめさせ、声を低めて続けた。「王陛下、殿下、重要なお話なのです。そうでなければ、属下はこんな時間には……。」

 

太子安はどきりとした。正殿内に、郢王熊耒と太子安が端座した。侍衛が白布にくるまれた遺体を持って来た。羋羅が言った。「項家の執事が、蔵酒を置く地下室で見つけたそうです。地下室には風が通らず、油布に包まれて木箱に入れられ、釘が打ってあったそうで……。」

羋羅は声を震わせながら、白布を開き、恐ろしげな項余の顔を露出させた。太子安は顔が引きつり、郢王はすぐに顔をそむけた。「これこれこれ……これは誰だ?項余じゃないのか?いったいどういうことだ?!」

 

羋羅は一通の手紙を持ち、震える声で言った。「項夫人が、遺体の手の中にこの手紙を見つけました。あて名があります……王陛下並びに太子殿下……親展と。」

太子安は瞬時に背が冷や汗でいっぱいになった。立ち上がり、おっかなびっくり少し近づいて、死者の顔をよく見てみたが、項余に間違いなかった。遺体の保存状態はよく、全く腐敗が進んでいない。何か薬物で処理したのかもしれない。しかし、開けてみた後では、何か甘い香りがわずかに漂ってくる。

 

「手紙に触るな。」熊耒は項余の鼻の下の血痕を見て、中毒死だと分かると、羋羅に言いつけた。「読め、お前が読むんだ。」羋羅は恐る恐る手紙を開け、震える声で、読み上げた。

「郢王熊耒、太子熊安、……ご挨拶申し上げます……ごきげんよう。」

羋羅は恐怖に満ちた眼差しで太子安に目を向け、それ以上読むのを止めた。太子安がせかすと、羋羅が続けた。

 

「私は寂寂無名の輩です。生前には刺客の誉れを有すも、天の浮雲の如く早々に散りました。私が誰かは追求しなくていいでしょう。無名の村に住み、かわいがっていた幼弟もまた無名の人間……。お二人に死を賜ったようなもの。郢、代両国の軍人の手により死にました。昔年、項余が政戦から凱旋する時に立ち寄った滄山のふもとの楓林にて百人隊に屠殺され死んだのです……。」

項余の顔はねじ曲がり、死ぬ前に耐え難い苦痛を味わったのは明らかだった。

 

―――

千里離れたところでは炎が立ち上っていた。

耿曙は静寂の中、烈火に吞まれていった。火焔が彼の双脚に蔓の様に伸びていき、ぼろぼろの黒い武袍を焼いた。脚が黒く焦げた跡、腿、腰が燃える。

 

彼は焼き殺される人のあげる苦痛の叫びをあげず、静かに目の前の光景を見守っていた。大勢の人々の表情、まなざしを。背後にいる人達(雍)の眼差しが悲痛に満ちているのを彼は感じていた。目の前にいる人達(郢)でさえ、同情心を感じざるを得なかった。

 

屈分がやってきた。馬に乗って近づき、思った。いったいどういうことだ。こんな風に焼かれながら、苦痛の叫び声もあげないとは?彼は耿曙の体が焼き尽くされる様子を見て寒気を感じた。腿部も焼けて真っ黒に焦げている。音を立てて鮮血が溢れ、火焔に噴き出して、青い煙が立ち上った。耿曙の唇が動いた。彼をあざ笑っているかのように。

痛みを感じないのか?屈分は疑惑を感じた。なぜ助けを求めない?

 

すぐに火焔は耿曙の腰部に達し、横に垂らした二本の腕を呑みこんだ。耿曙が左手を上げて、火焔に置いた。何かをつまみ上げようとしているように、焼かれるに任せ、持ち上げた。炎が彼の左手に移ると、偽装が燃え尽き、はがれ出た左手は漆黒の金属的な質感だった。腕は黒光りし、手から腕に蔓延した鱗が肩からむき出しになった左胸の心臓の位置まで達していた。彼の左半身は鱗で満たされ、半人半妖の邪魅妖魔のようだった。

 

何が起きたかわからない郢軍がざわざわしだした。耿曙は屈分に笑いかけた。眉をあげ、炎の中で何か一言つぶやいた。屈分がまだ理解できずにいるうちに、耿曙の左手は炎に焼かれて緑色の血液を爆出させた。肩からも血が飛び散り、炎に焼かれて、青い煙を出し、それは風に乗って全城に蔓延して行った。

 

烈火が焼き移り、耿曙の首から顔が火に包まれて、顔から変装が剥がれ落ちた。屈分はそこに知らない男の顔を見た!

これは誰だ?屈分は一瞬見えたがはっきりわからない。すぐに顔が炎に焼かれて炭となり、頭髪も焼き尽くされ、顔が漆黒の塊となって骸骨のような形態を表した。閉じた双眸もすぐに焼き尽くされた。全身の血液が沸騰し、勢いよく溢れ出た。左手の青緑色の鮮血は薪にかかって、立ち上った烟には甘い香りがした。屈分は知らず知らず咳き込んだ。鼻孔から血液が垂れて来た。彼は手に取ってその血を見た。

 

雍軍は何が起きているのかまだわからなかったが、一瞬後に、街道にいた郢軍に爆発のような衝撃が走り、先を争うように逃げて行った。

屈分は我にかえって、火刑が行われたところから急いで離れようとしたが、何歩か歩いたところで、血を吐き、その場に倒れた。彼は自分の吐いた血の中でもがき、這い出ようとした。

 

はりつけにされ火刑を受けた人の目の前には一片の赤い血が残り、見開いた目と、口角には残忍な笑顔が現れているようだった。その足元から黄河の岸に至るまでの十万の郢兵は、郢国大将軍屈分と同じように咳き込み、その声は耳を覆うほどだった。十万人、十万人もの兵が、麦の波のように次々と倒れ、辺り一帯には青い煙が蔓延した。

火が焼き尽くした後には黒く焦げた炭となった姿だけが残った。

 

背後にいた雍軍も、次々届いて来る咳血の声を聞き、混乱し始めた。

汁琮は何かがおかしいと思ったが、何かはわからなかった。郢軍は突如大混乱に陥った。雍軍は本能的に王宮の方に向かって逃げて来た。

曾宇が咆哮した。「陛下!早くお逃げください。誰かが毒をまきました!」

汁琮はすぐに色を変えて王宮に入り込んで扉を閉じた。「撤退だ!城外に撤退する!」

 

雍軍は今風上にいる。逃げるなら今だ。煙はすぐに拡散するだろう。汁琮はもう安陽城を顧みなかった。部下の命を守らなければ。十万の郢軍は城南で全滅していた。

雍軍は一片の混乱の後、すぐに秩序を取り戻した。後方から仲間を連れ出し、主力部隊を城外に撤退させて保護した。そして、安陽の西門と、北門を開け放ち、王旗さえ拾わぬままに慌てて城を逃げ出て行った。

 

風向きが変わった。

松華は裸足で安陽城内を歩き、飛星街道をまっすぐ歩いてきた。城の中は静まり返り、きこえてくるのは風の音だけだ。屋根の上は鳥の死骸だらけで、家畜の声も聞こえない。

彼女の前にあるのは壮観ともいえる光景だ。十一万人、十一万人、誰一人として逃げられなかった。それが安陽の広々とした街道を埋め尽くしていた。建物の内外や巷中に倒れた郢軍兵士の鼻や口からは血がしたたり落ち、城南に向かって倒れている。彼らの船が停泊しているところに向かって這おうとしていたようだ。

 

桟橋の上も、甲板の上も、船の上も死体だらけで、帆が開きかけ、舵を取ろうとして倒れた者の前にも鮮血が塊となっていた。

火刑の後で、逃げ切れなかった雍軍が王城門外を埋めていた。兵士たちは武器を握りしめたまま死んでいた。火刑の後に起きた強風の中の爆発は、天の怒りと罰のようだった。

この世に残った痕跡である、死体の分布する方向を見れば、銅柱を中央に、風力の及ばなかった北方の被害は少なく、彗星の尾のような形に安陽城南に大半は拡散したようだった。

 

松華は銅柱の下に立って、燃え尽き炭となった死体を見上げた。

死体はどくろの完璧な形態を保持していた。左手は消失し、頭を垂れ、漆黒の眼窩には二つの空洞があるだけで、松華を見ているようにも見える。

一陣の風が吹き起り、死体はガタンと音を立てて、崩れ落ち、灰と化して、狂風に巻き上げられ天に昇って行った。

松華は軽く拝礼し、小さな木箱を取り出して遺骨を納めた。そして黄河の岸辺に止めてあった船に乗り、中原の大地を去って行った。

風はどんどん強くなり、空一面に暗雲が広がり、小雨が降りだした。雨はざあざあと降り続き、安陽の街道を洗い流し、青石板の路面に付いた血が小渓となって低地に向かって流れて行った。

 

 

―――

千里離れた、郢都江州。

朝露が暖かな日差しの眩しい光をはねかえしている。王宮内では飼っている金糸雀の声もやみ、死の静寂となっていた。正殿では項余の死体が黒い水たまりと化していた。太子安は双目を見開いたまま王卓の傍らに倒れ、息はなかった。

 

郢王熊耒は七竅から血を流し、胸の前に垂らした白髭も鮮血にまみれていた。唇は震え、息は微弱だった。羋羅は柱にもたれて倒れていた。目を見開き、既に死んでから時間がたっていたが、手には一通の手紙を持っていた。

 

【本来は貴殿ら父子が反目するようそそのかし、基業を挫き、大王宮が奸佞によって崩壊していくのを親眼で見たいと思っていました。;万年椿木も焚焼し尽くす。舎弟が受けた借りを返させようとしましたが、無辜の民を犠牲にするのは余りにも無益。】

 

【わが命も既に長くはなく、三年を残すのみとなりました。王宮に潜入したのはそのためです。大変楽しませていただき、それに関しては感謝申し上げます。】

【我が一生にはあまり時が残されておらず、古き友とまた会えれば、この人生に遺憾はありません。】

 

【ともかく、この数か月楽しく過ごさせていただき、後は気分よく事に及べます。貴国十万兵士の命をいただき、貴殿父子二人とともに連れて行きます。貴大郢はこれより、二度と征戦の力を持つことはなく、ただ他国に占領され、宗廟を焼かれ、大切にしていた物を奪われ、貴殿のご遺体は暴かれて枯骨が鞭うたれることでしょう。】

 

【それではこれにて。鄭重敬上】

落款:刺客羅宣

 

(師父は最後の時間を恒児と一緒に過ごしたくて呼び寄せたんだろうな。郢王熊耒は体を鍛えたおかげで、太子や羋羅が死んだ後もなかなか死なないという芸の細かさ。)

 

 

 

―――

第158章 家路につく:

 

黄河の水は荒れ狂ったように流れ、空では稲妻が光り、地に突き刺さる。

耿曙と姜恒は全身びしょぬれになって驛駅に飛び込んだ。

姜恒は心も体も疲れ果てていた。安陽で何が起きたのか耿曙に尋ねる気にもならなかった。項余がどうやって彼を逃がしたのか、雍軍と郢軍が大戦に突入したのか。それもどうでもいい。彼の人生で大事なことは一つだけだ。

 

今までの色々な出来事は、汁琮の無情な裏切りによって全て完全に終わった。彼がやってきたことの全ては水の泡となった。だけど幸いなことに耿曙は変わらずここにいる。ずっと一緒にいて離れることはない。

姜恒は息を切らして長椅子に座り込んだ。やるせない表情だ。耿曙は黒剣を背負ったままで、ここまでの道のり、警戒を解こうとはしなかった。

「ここも安全ではない。すぐに離れなければ。一晩寝たら出て行こう。」耿曙が言った。「疲れたよ、兄さん。すごく疲れた。」

「少し休んだらよくなるよ、恒児。昔潯東を出て洛陽に向かった時に比べたら、あれより大変なことはないさ、そうだろう?」

姜恒は少し麻痺したような表情で頷いた。耿曙は窓辺に立って、天地をひっくり返したような雨の様子を見た。「この後どこに行こうか?」姜恒はすっかり途方に暮れていた。

「お前はどこに行きたいんだ?行きたいところならどこへでも一緒に行こう。」

姜恒はもう何も言えずに寝台に横たわるとすぐさま寝入ってしまった。

 

耿曙は黒剣を置いて、姜恒の傍に横たわった。片手に黒剣を持ち、外から聞こえて来る物音に耳を澄ました。雨音、足音、戦馬の嘶き、それらが一つにまじりあって聞こえて来る。姜恒が夢を見ながら、無自覚に抱きついてきた。耿曙はその手を離すと肩にしっかりかけさせた。

 

翌日、耿曙は姜恒に食べ物を買ってきて、干糧を準備すると日が昇る前に再び出発した。姜恒はどこに行くのか尋ねたかったが、耿曙は答えた。「まだ行きたいところを決めてなかったから、兄についてくればいい。」姜恒は頷いた。耿曙は馬にのると姜恒を連れて、崤関の東側の道を折れて南に向かい、一路進んで行った。

 

「やつらはまだ来るかもしれない。血月の刺客のことだ。お前を殺してもいないし、黒剣を奪うまでやつらは気を許さないかもしれない。」

耿曙は道中極力誰とも話さないようにしていた。普通の民にしか見えない相手に対してもだ。姜恒は尋ねた。「項余はどうした?あなたはどうやって逃げ出したの?」

耿曙は簡単に答えた。「きっとこういうことだ。項余は大将軍だから、当然何かの手段を使ったのだろう。」

 

耿曙には疑っていることがあったが、姜恒に真相を話すのは止めた。自分でさえも彼が最後にどう始末をつけたのかはっきりわかっていない。だが項余が彼を変装させ始めた時、耿曙は彼の正体がわかった。あの人はずっと姜恒のそばから離れたことはなかったのだろうと考えていた。項余は言っていた。「彼には何も言わないでほしい。君だって彼が苦しむのは見たくないだろう?」

 

耿曙は項余の言いつけを忠実に守り、簡単に説明をした。こっそりと大牢を抜けださせ、安陽に送り出してくれたと。変装のことは言わなかった。城壁の下で姜恒と再会した時に、一歩先に取っておいてよかった。さもなくば疑心をひきおこしただろう。

姜恒は耿曙の傷や毒がこんなに簡単に良くなったことも疑問に思ったが、耿曙が理由として、項州が昔、族弟であった項余に与えた薬が海閣から持って来たものだったと言って、姜恒の疑問を打ち消した。

「郢軍と雍軍はどうなったんだろうね。」

「界圭が戻って行ったから、きっと消息を探ってくれるだろう。」

 

 

耿曙は馬を走らせ、分かれ道を曲がった。姜恒は突然その道をよく知っていることに気づいた。「兄さん!」姜恒はまわりの景色を思い出した。

「うん。」耿曙が答えた。

道の両側は梨の木でいっぱいだった。季節は初夏で、暴風雨によって梨の花は落ち切ってしまい、泥の中に埋もれていた。

「兄さん、」姜恒は荒廃した棚田の向こうにある城郭を見つけ、信じられない気持ちだった。「家に帰るんだね!」

「そうだ、家に帰ろう。」耿曙はここまでの道のり、常に心ここにあらずであった。馬に鞭を当てて、「ハアッ!」と言った。

「下ろしてよ!ねえ、下ろして……。」姜恒はすぐに言った。

「動き回るなよ。」耿曙はあきらめたように言った。こんな反応をすることはわかっていたので、しぶしぶといった感じに馬から下ろしてやった。

 

姜恒は泥水も気にせずに道を走って行き、遠くまで見渡した。その時雨がまた降って来た。けぶる様な霧雨に初夏の景色が包まれている。潯東城が見え隠れしていた。耿曙も馬を下り、鞍から傘を一本出して姜恒に差し出した。だが、姜恒はさそうとはせず、田んぼのあぜ道をぼんやりと抜けて、城内に入って行った。青石板の道は昔のままで、鳥の声が絶えることなく聞こえて来る。城内で炊烟が上がっているか見ようとしたが、ほとんど煙は上がっていなかった。

以前住んでいた町に速足で歩いて行き、懐かしい街道や小巷をきょろきょろと見回した。

 

「小さくなった!」姜恒はあちこち見回した後で、振り返って言った。「ここは小さくなったよ!兄さん!」耿曙は馬を引きながら、四方の巷の奥まで見回して、殺し屋が潜んでいる形跡がないことを確認した。「俺たちが大きくなったからだ。」耿曙は答えた。

 

数えきれないくらい何度も、二人で肩を並べて屋根に座って午後を過ごし、姜家の大宅のてっぺんから城内の景色を見下ろした。今、路地と路地の間を歩いてみると、意外にも道はこんなにも狭くなっている。彼はかつての家に向かって走って行き、突然姜家が火事で破壊されたことを思い出した。「家はもう無いのだったね。」姜恒は振り返って言った。

 

耿曙の答えを聞かずに姜家があった巷の行き止まりまで歩いて行くと、廃墟となったはずの場所に、今でも邸宅があった!昔とそっくりだが、よく見るとほんのわずかな違いもある。

「いったいどういうこと?」姜恒は自分が夢を見ているのではないかと疑い始めた。焦って振り返り耿曙を探したが、白い霧の通りに耿曙の姿はなかった。

 

「兄さん!兄さ―――ん!」姜恒はあちこち探し回った。

霧の中に押し殺したような苦しそうな泣き声が聞こえて来た。「あなたなの?」姜恒が尋ねた。「俺だ。」耿曙の声は震えていた。彼は歩を停めた。悲痛な思いが抑えきれない。真相を知ったあの日から自分の中の幻覚に苦しめられている。姜恒が己の本当の運命と向き合うことになれば、それまで持っていた美しい思い出も風に飛ばされて行ってしまうだろう。なぜ天はこんなにも残忍に彼を扱うのか?彼がいったい何をしたというのか?

 

耿曙は目を真っ赤にしながらも、少しずつ落ち着いてきた。

「これは……」姜恒は振り返って耿曙の手を引っ張った。狐につままれたような顔をして尋ねる。「どういうことなの?私たちの家は……燃えてしまったのではなかった?」

耿曙は応えず、姜恒をじっと見た。姜恒は耿曙の赤くなった目をじっと見た。「どうしたの?」

姜恒は手を延ばして、耿曙の眉を撫で、疑問でいっぱいの表情で彼を見つめた。

「何でもない。」耿曙は首を振って、気持ちをしっかり持った。「おいで、恒児。」

 

耿曙は剣で鎖を切った。「そんなことしていいの?私たちが出て行ってから、誰かがここを買って立て直したのではないの……もう別の人の家ではないのかな。」耿曙は目に涙をためながら、説明した。「別人の家ではない。ここは俺たちの家だ。」

 

耿曙は門を押し開けた。庭には雑草が生い茂っている。姜家の木柱は色あせていたが、何年か前に塗りなおしたようだった。埃だらけで、何年も誰も住んでいないようで、物が雑多に部屋の真ん中に置かれていた。姜恒の記憶の中で最後に見た家は、崩れ落ちて完全に灰となるまで焼けつくされていた。彼は呆然とした表情で、庁堂に入って行った。そこは母が毎朝座っていた場所だった。茶卓の上に、絹に書かれた手紙が置かれていた。何行か文字が書かれている。

 

【恒児、兄は生きている。兄は落雁城で毎日お前を待っている。もし家に帰ったなら、ずっとここを離れるな。城の県丞を探して、俺に手紙を届けさせてくれ。すぐに行くから。】

 

「四年前、俺は俸禄を使って、周游に南方の商人を探させて潯東に行かせ、この場所を買って以前の家を復元させたんだ。汁琮が言ったはずだが、お前は忘れたんだな。」

天地の間に一片の静寂が訪れた。姜恒の目に涙が込み上げて来た。彼は耿曙を見てから、姜家の大宅に目をやった。

 

「俺は思ったんだ……。」耿曙の声が震えた。「あの時……お前は死んだかもしれないが、万が一そうでなかったら?もし……お前が生きていたとしたら、俺を探そうと、潯東に戻って来るかもしれない……ひょっとしたら、以前の家に探しにくるかもしれないと……。」

 

姜恒は雑然とした庁堂に立ち、目からは涙が次々流れ出て止まらなかった。袖で涙をぬぐうと、子供の頃に戻ったような気持になった。彼は何も言わずに頷いた。

「もし一生待っても来なければ、その時は雍国で待つのは止めて、潯東に戻って来てここで余生を過ごそうと思ったんだ。」

姜恒は耿曙の前までやってくると彼に抱き着いて、彼の肩に顔をうずめた。二人は静かに抱き合っていた。時の流れの中に置かれた一体の彫像のように、どんなに長い時がたっても変わることはない。

 

雨は更に強まった。姜恒はぼんやりと家屋の軒から落ちて来る雨のしずくを見ていた。耿曙は馬を後院にある厩舎にいれ、側廊で火盆に火を焚き、びしょびしょになった袍を乾かし、家の掃除を始めた。

「兄さん、」姜恒は頭をあげて、ぼんやりしたまま声をかけた。

「うん?」耿曙は手を止めなかった。

「瓦の模様が前と違うね。以前は桃花だったけど、今のは玄武だ。」姜恒は笑い出した。

昔姜恒は雨がきらいだった。雨の日には何もできないからだ。勉強が終わると、軒下に座って雨が落ちて来るのを見るしかなかった。

「俺には思い出せないところも多かった。やっぱりお前はよく覚えているな。何日かしたら川で魚を釣って来て、池に放って飼おう。竹も植えないとな。」

 

耿曙は庭の中を見回した。雍都で指示を出した時、周游に特に申し付けたのは、家を建て直す時に、庭に木を植えることだった。だが、どんな木だったか思い出せない。李だったかもしれない。木にはぶらんこがついていた。それはよく覚えていた。

彼は寝室を片付け、部屋にあった雑多なものを居間の端に置いた。ほとんどは焼け落ちた廃墟の中から拾いだした物だった。銅や鉄の塊が多い。昭夫人が持っていた鄭銭だ。火に焼かれて塊となった。木製の物はほとんど焼けてしまった。耿曙が姜家を再建していた時、汁琮もこの場を訪れ、耿淵の使っていた琴を見つけ出した。

 

「俺は何か買いに行ってくる。」耿曙は姜恒を見て考えを変えた。「一緒に行くか。」

「いいね。」姜恒は立ち上がった。今に至ってもまだ少し素直に喜べずにいる。夢を見ているような気持なのだ。耿曙は傘をさして、姜恒と一緒に出掛け、城内をあちこち歩いた。

 

潯東は郢鄭戦の後、二年続けて飢饉が起き、人々の多くは逃げて行き、城内には今や千戸に満たない人しか住んでいない。玄武祠堂の外に集まって、小さな市を作り、日常に必要な物が売られていた。

 

姜恒は滅多に外に出なかったので、城内に住む民は彼の子供の頃の様子を覚えていない。誰も姜恒と耿曙のことを知らないが、推し量るような疑いの目で見る人もいた。色々聞いてこなくて良かった。まだ午後だと言うのに空は薄暗かった。官府は祠下に移転していた。姜恒はよく考えた末、県丞に挨拶に行かないことにした。かつての県丞はもう亡くなった。官もみな変わっているだろう。

 

「何を買う?」耿曙は少し不安そうに肉屋の前に立って尋ねた。「鴨はあるか?豆腐も一緒に買ったら少し安くできるか?」肉屋の婦人は熱心で、鴨を耿曙の腕の中に押し付けて言った。「あらあら、うちの鴨はすごくおいしいわよ。湖の魚を食べて育ったのよ。鴨と一緒に卵も買ったら、更にお得よ。お兄さんたちここの人じゃないわよね。いつここに来たの?」

 

耿曙はもう何年も食材の買い物なんてしていなかった。一国の王子なのだから、食材の良し悪しに気づかいなどする必要なかった。姜恒は耿曙が人間の生活圏に戻って来て買い物でのやり取りに苦労し、言葉が出にくくなっているのに気づいた。

 

「親戚を訪ねて来たのです。これがそうですね?」姜恒は笑いかけた。姜恒は越なまりで話した。子供の頃、高い壁の外に出ることはなかったが、外から聞こえて来る人々の話を聞いていた。昭夫人の口調にも呉越なまりがあった。土地の人はその言葉を聞くとすぐに納得したようだ。こうして耿曙はに三日分の食材を無事買うことができ、再び姜恒と家に戻ると彼のために食事を作った。家に戻ると、高い壁はあっという間に外の世界から二人を隔絶し、中の世界は耿曙と姜恒の二人きり、幸せな小天地に戻った。

 

買って来た鴨は殺さずに庭の池に放すことにした。耿曙は肉を煮込み、鴨の卵は蒸して羹にして、じゅんさいを炒めて一緒に食べた。

「夢を見ているみたいだ。」午後になり、雨が止むと姜恒はしゃがみ込んで庭の草取りを始めた。「今でもまだ本当だとは信じられないよ。」耿曙は廊下に座って茶を飲みながら言った。「お前はゆっくりしていろ。俺が明日庭を片付けるから。」

 

「あなたこそ座っていて。」姜恒はごきげんで手の中の草を眺めた。「家を以前の様に戻したいんだ。」

それを聞いて耿曙は心苦しく感じた。例え姜家を以前の様に戻したところで、かつていた人たちはもう戻って来ない。家を建て直した時、庭の西側に昔の様に小さな部屋も残していた。そこは衛婆がかつて住んでいた場所だ。西棟の昭夫人の寝室もがらんとしていて、寝台もなければ衣装戸棚もない。庁堂の一角にあった書房には机と椅子があるだけで、以前書棚に置いてあった姜恒の作文は全て燃えてしまい、その灰ですら地下深くに埋もれている。悪意ある放火によって二人は持てる全てを失った。そして姜恒の最後の身分証明となるものさえもあの時失ってしまった。それを考えるとまた気持ちを抑えられなくなりそうで、耿曙はただ、下を向いて茶を飲んだ。

 

 

―――

第159章 毛皮のおくるみ:

 

夜になり、姜恒はすっかり疲れて寝台に横たわるとそのままぐっすり寝入ってしまった。耿曙は黒剣を寝台の横に置き、ずっと目を覚ましていた。夜が更け、全てが寝静まった頃、耿曙は静かに起き上がって、かつて武芸の修練をしていた庭の中に出て行った。

雨がやみ、黒雲は消え、梅雨時には得難いキラキラ輝く星河が見えた。耿曙は庭に静かに座り、膝の上に黒剣を置いて夜空を仰いだ。「父さん、母さん、夫人。」耿曙は呟いた。耿曙の目に星の輝きは映っても、その夜故人の魂は彼の側に来てはくれなかった。

「夫人、俺は恒児をちゃんと守れませんでした。全て俺のせいです。」

 

池の水に満天の星が映る。耿曙は長い長いため息をついた。昭夫人が夜半に長い髪を垂らし、眠れずに姜家の庭を歩く姿が見えたような気がした。彼女が潯東で7年も、7年もの間、潯東で待ち続ける様子が見えたような気がした。春が来て、秋が来て、寒さが来て、暑さが過ぎ、7年もの長い年月を待ち続けた末に、耿淵が亡き者となり、項州が一体の琴を彼女のために持って来た様子が。

 

耿曙自身はどうだっただろうか?昭夫人が父を待っていた年月、母親と安陽城内で、貧しいながらも楽しく暮らし、父は十日ごとに会いにきてくれ、酒を飲み、琴を弾いてくれた。昭夫人の側にいたのは、活発で遊び好き、世間の人の悪意を知らない甥っ子だけだった。

あの頃の姜恒は純粋な心で、これが彼の人生だと信じていた。それなのに、今、最後に残ったその思いでさえも奪い取られようとしている。耿曙は膝をついて立ち上がり、部屋に戻ろうとしたその時に、ふと、ずっと前に、昭夫人がこの庭で言った言葉が耳の奥に聞こえて来た気がした。あの日姜恒はいなくて、耿曙は一人で剣の修練をしていた。

疲れて地面に座り込み少し休もうとしていた。昭夫人が彼の後ろに来て、軽くため息をついた。あの年彼はまだ十歳で、疑問に思って振り向くと、昭和夫人が物思いに耽りながら、黒剣を見つめ語りだした。

「誰にでも行くべき場所があるものです。この剣はあなたの父が持っていたように見えて、実は数えきれない人の命を託してきたのです。皆、黒剣は無名の輩を斬らないといいますが、私から見れば、殺人は結局殺人です。殺人の目的は運命を生かすため。あなたの運命を、天下人の運命を生かすためです。いつかあなたも知る日が来る。この剣が、あなたにとって、恒児にとってどんな意味があるのかを。」

 

無名の輩を斬らない……耿曙は自分がずっと父の堅持を貶めてきたことに気づいた。彼は黒剣を持って、先陣を切って戦ってきた。使う機会が少なかったはずがない。

あの時はわからなかった昭夫人の話の深意が、いまになってやっとはっきりわかった。

「その意味を知りました。よくわかりました。」耿曙は満天の星河に向かって言った。

十一年前の昭夫人の小さなため息に答えると、黒剣を収めて部屋に戻って行った。

 

翌日、姜恒は起きるとすぐに庭の片づけ続けた。耿曙はあきれたように言った。「少し休んでろってば。どうして動き回っていないといられないんだ?」

「私は好きでやっているんだから、あなたは剣の練習でもして、私にかまわないで。」

 

耿曙は潯東までの道中、気が気でなかった。しかも姜家の建て替えのことは、汁琮もよく知っている。知っているどころか、特別に人を遣って耿淵の琴を探し出しまでした。――安陽城で、彼らは自分が焼け死んだと思っているだろうか?それに汁琮が自分のことを死んだと思っていたとしても姜恒を探すのは止めないだろうし、絶対に他国に逃亡させはしないはずだ。姜恒が潯東に戻ったかもしれないと考えて、誰かに調べさせるだろうか?

潯東は、鄭、郢両国の境にある、かつて越国だった地だ。汁琮が大軍を送って姜恒を殺そうとするなら、先ずは郢国を打ち、次が鄭国だろう。だが汁琮は姜恒の行方を太子霊に知らせたりするだろうか?いや、それはない。耿曙はかつての義父のことをよくわかっている。

 

彼は姜恒が潯東に戻って身を隠すとは絶対考えないだろう。汁琮なら考えるはずだ。姜恒は一切を顧みず、焼死した『耿曙』の仇を打つだろうと。仇討ちの方法はただ一つ、鄭へ再び自分を売ること。鄭が汁琮の敵だからだ。自分の一撃を受けた血月門主は崖から落ちたが、あれで死んだのだろうか?死んだとしても、殺し屋はまた来るかもしれない。油断は禁物だ。

 

耿曙は剣を持ち、真剣にかつての昭夫人の教えを思い返していた。当時は子供でわからなかったことが、今思い返せば、姜昭が彼に教えたのは武道の心得であると共にこの世の大道の極みであった。あの時は小さすぎて何もわからなかったのが悔やまれる。がんばって思い出さなければ。彼は黒剣剣法を練習したくて、安陽城で戦った時の心境を思い返そうとしたが、うまくいかなかった。すぐに空から再び細雨が降り始めた。

 

「恒児!部屋に入れ!かぜをひくぞ!雨が降って来た!」

耿曙は振り返って黒剣を置いた。姜恒の返事が聞えた。戸を開けて部屋に入ると、姜恒は昭夫人の寝室だった場所の部屋を片付けていた。焼け残った遺物の大きな塊から、色々取り出しては分別して、手が灰だらけになっていた。

「俺がやるから。汚れるぞ。」

「別にいいよ。」

 

目の前にある物はみな、焼け残って倒れた廃墟から拾いだしたもので、中にはさび付いた銅鏡と二つに折れた玉櫛があった。どちらも母が使っていた物だ。姜恒はそれらに触ると、昭夫人に触れたような気持になった。

「恒児。」耿曙は心配になった。

「大丈夫だよ。懐かしいよね。」姜恒は笑った。耿曙は姜恒と一緒に座った。姜恒は乳白色の磁器杯のかけらを拾い上げた。「これを覚えている?」

耿曙は答えた。「覚えている。初めて来た日に夫人がびっくりして落として割ったんだ。」

「母さんが杯をあなたに投げつけたんだよ。私は外から全部見ていたんだから。」

「そうだったかも。」

「でもね、母さんはあなたを恨んではいなかった。本当だよ。母さんは本当は……優しい人なんだ。」

「わかっている。」耿曙は答えた。「あの人は俺の母さんでもあるんだから、恒児。」耿曙は姜恒の頭を撫でた。姜恒は悲しそうに笑った。次に見つけたのは一本の筆で、狼の毛は既に焼け焦げている。他にいくつか炭の塊を取り出した後、彼は銅の箱を見つけ出した。

 

鍵は熱で折れ曲がっている。耿曙はその銅箱をじっと見て思い出した。昭夫人と衛婆が二人を置いて家を出た時だ。冬の朝で、姜恒はその箱から一着の毛皮の上着を見つけ出した。あれは昭夫人の部屋から出て来た。きっと昭夫人が衛婆に言いつけて耿曙のために作らせたのだろう。姜恒は短剣を使って鎖を解き、箱を開けて中を見た。

 

あの時、衣服は全部取り出した。底に残っていたのは毛皮の塊で、血痕が点々とついていて、何のための毛皮なのか見てもよくわからない。耿曙は黙ったまま見つめた。

「あの時もちょっとおかしいなって思ったんだよね。これはいったい何だろうね?きれいに洗ったらあなたの服の内張りに……。」

「それはお前が生まれた時にお前を包んだ毛皮のおくるみだ。」耿曙が突然言った。

姜恒:「?」

「こんなにたくさんの血が!」姜恒はひっくりかえしてよく見てみた。母がどこで自分を生んだのか知らないが、きっとすごくつらい思いをしたに違いない、と思った。

「恒児。」姜恒は狐皮のおくるみを箱に戻し、不思議そうに耿曙を見た。

耿曙はしばらく黙っていた。長い長い時間がたったかのように思う頃、姜恒が再び尋ねた。

「どうしたの?兄さん、何か言いたいことがあるの?」

「それは界圭が持って来たものだ。十九年前、彼はその狐皮にお前を包んで、お前を夫人のところに連れて来たんだ。」

「え、何?」姜恒はしばらく耿曙の言う意味が分からなかった。子供の頃の自分と界圭にどんな関係があるというのか?耿曙は姜恒を見ることができず、下を向いてその毛皮をじっと見つめていた。この箱が出て来たのは天意だ。時が来たのだ。もう隠すことはできない。どんなに残酷な結果になろうと、彼はそれに向き合わねばならないのだ。

姜恒は大きく目を見開き、瞳孔が収縮した。無意識に耿曙の手を取り、力を込めていた。

「界圭はどうして……。私は……私は潯東で生まれたのではないの?どうして?兄さん?何を知っているの?教えてよ!」

 

姜恒は耿曙の考えを推し量るように彼を見つめた。氷窟に押し込まれたような気分だ。半年くらい前から、耿曙は時々こういう表情をするようになった。理由はわからなかったが、心配事があるのはわかった。この道のりで、耿曙の心は更に重くなっていき、何か言いたいことを言いよどんでいるようだった。今、ようやく気付いた。それらすべての背後にある隠された危険に。まるで姜家大宅が再び崩壊し二人がその下に埋もれるかのように…姜恒は敢えてその先は考えなかった。だが、ついに耿曙は口を開いた。

 

「お前は冬至の日に生まれた。冬至の日に、落雁で生まれたんだ。界圭はお前を守るために、お前を盗み出して、まずは安陽に連れて行った。お前を……俺たちの父さんに託そうと思ったんだ。」

「だが父さんはその時すでに……危険な身だった。彼はお前を守り切れないことを恐れ、手紙を書いた。界圭にお前を連れて南に行き、潯東のお前の母さんを訪ねて行かせた。だけどなぜかその手紙を界圭には渡さず、お前を連れて行かせたんだ。」耿曙はずっと頭を上げることができなかった。姜恒の反応を見ることができなかったのだ。彼は懐からゆっくりと油紙に包まれた手紙を取り出した。

 

「お前の本当の父親は……汁琅だ。」耿曙は震えながら、油紙を開いた。「お前の母親は雍国王后姜晴だ。あの年みんなお前は死んだと思った。お前の別の名前は、……汁炆だ。お前の位牌は、雍国宗廟に今でも供えられている、玄武座の前だ。恒児……恒児!」

姜恒は背を向けて、部屋を出て行くと廊下に進んで、雨を見つめた。耿曙は後を追った。「恒児!」耿曙は最も恐れていた時がついにやって来たと知り、手を伸ばして姜恒の腕をつかんだ。「お前は俺の弟だ。父さんも母さんもお前の父さんと母さんだ。ただお前の出生が、今まで考えていたのと違うだけだ。俺は永遠に俺だ、恒児!」

 

姜恒は全身が震え、呆けたように耿曙を見た。瞳には何も映し出していない。耿曙はどうしようもなくて彼を抱きしめたかったが、姜恒は身を翻し、雨の中に出て行った。

「恒児!」耿曙はすぐに黒剣を背負って追いかけた。

 

姜恒は速足で門の外の通りを走った。降り続ける雨を顔に受ける。この世が知らない世界になったようだった。耿曙は姜恒に近づこうとせず、後ろについて行った。姜恒は振り向いて大声で叫んだ。「ついて来ないで!」頭の中が真っ白になったようで姜恒はひたすら突き進んだ。耿曙は離れないように、その五歩後ろをついて行った。部屋の中に一陣の風が引き込み、広げた手紙が床に落ちた。

 

吾妻昭へ:

【雍宮の状況は以前あなたと私が考えた通りだ。汁琅の死には内情がある。】

【令妹は汁炆を生んだ後、大シャーマンの手によっても救えず。晴児は重い中毒で息を引き取った。私と界圭が間違っていなければ、汁琮は長兄を毒殺し、汁琅の子も難を逃れることはできないだろう。子供は界圭が落雁から連れ出した。本来なら私が養いたいが、私は既に盲目で、安陽に居ては安全ではないかもしれない……】

 

「恒児!」耿曙は雨の中をひたすら姜恒について行き、姜恒は目的もなく水たまりだらけの道を歩き続けた。心ががらんとして、魂が離れてしまったかのように茫然とこの世を眺める。

 

【彼があなたのところに連れて行ったのは、令妹と汁琅の唯一の忘れ形見だ。生かすも殺そうもあなたが決めてくれ。腰には痣がひとつある。太后がその目で見ているから証拠になるだろう……】

 

手紙はわずか数行で、途中までで終わっていた。十九年前の炭の跡が既に黄ばんだ紙に残っている。耿淵が考えを変えたのは、妻の性格なら、何も説明しなくてもわかるはずだと思ったからかもしれない。結局手紙は出さないままになった。

 

潯東の町に馬が走って来た。耿曙は急いで姜恒を引っ張り、彼の前に出てかばった。それは城内を巡回している五人部隊だった。武官長が大声で尋ねた。「何者だ?」耿曙は片手を背に回して、黒剣の柄を握りしめ、同じように大声で答えた。「潯東人です。」

武官は二人を一瞥して、姜恒を少女だと思ったようだ。口喧嘩の末飛び出して来たのだろうと、それ以上尋ねなかった。雨はますます強くなり、姜恒の全身はびしょぬれになった。

「帰りなさい!」武官が言った。

 

稲光がして、三人の顔を照らした。姜恒はその人に見覚えがあった。確か昔、潯東の城防治安官だった人だ。「行くぞ。」耿曙はこんな時に争いたくなくて、姜恒の手をひいた。姜恒はだんだんと落ち着いてきて、少しずつ思考力も戻って来た。治安官は馬を走らせて去って行った。姜恒は振り返って耿曙を見た。耿曙は彼の顔を濡らしているのが涙なのか雨なのかはっきりわからず、口づけしてやりたい気持ちになったが、彼が更に受け入れがたくなるのを恐れた。だが、見つめ合った時の姜恒の眼差しは今まで通りのように思えた。

「恒児。」

「兄さん。」

ようやく耿曙はほっとした。

「私は……大丈夫、兄さん。ただ……考えてもみなかったから、今まで……考えたこともなかったから。」この時になって初めて姜恒は全てをはっきり理解した。悲しみが一瞬にして沸き上がってきて、彼は耿曙を抱きしめて、雨の中、大声で泣きだした。耿曙は彼をしっかり抱きしめて、優しく言った。「大丈夫、大丈夫だ、恒児。今まで通りだ。何も変わらない。」

 

「同じではないよ。同じではないってわかっている。」姜恒はしゃくりあげながら言った。耿曙の思った通りだった。巨大な悲しみと虚無感が一瞬にして二人に襲いかかった。全てがこれまでと同じではいられなくなった。

 

何が変わってしまうのか姜恒にははっきり言うことはできなかった。そしてこれが痛みなのか転機なのかもまだよくわからない。だがこの時、耿曙の鼓動も、胸、肩、腕、体温さえもが今までとはほんの僅か違って感じられた。二人が慣れ親しんだ感覚はそれまで通りなのに、一瞬にしてその身が組み直されたかのようだ。それは蝶が蛹の殻から破り出て、翼を広げ、天に向かって羽ばたいていくのにも似ていた。

 

 

―――

第160章 心を決める:

 

一時辰後、姜恒は毛布にくるまり、唇を震わせながら寝室で火にあたっていた。

耿曙は彼に生姜茶を一杯与え、姜恒は疲れたようにため息をついた。

姜恒が落ち着きを取り戻すのは早かった。耿曙が意外に思ったほどだ。わずか一時辰後にはもう平静を取り戻したようだ。耿曙は敢えて何も言わなかった。今は静かに過ごしたいのだとわかっていたからだ。ちょうど昔、汁綾が姜恒の死を伝えた時、慰めの言葉など受け入れられず、ただ一人で自身の中に閉じこもっていたかった時の様に。きっとやり過ごせると耿曙は思った。真実を知るのは突然すぎたが、きっと全てうまくいくはずだ。

 

耿淵の手紙を読み終わった姜恒の第一声は、「もし父さんが私を置いてくれていたら、私たちは一緒に育っていたね。その年あなたはまだ二歳だったんだから。」だった。

 耿曙は頷いた。なぜ父が姜恒を受け入れなかったかは勿論わかっている。―――自分の身が危くなるからだ。汁琮が何かおかしいと思って、人を遣わして殺そうとしたら、聶七と耿曙にも累が及ぶかもしれない。無情にも思えるが、耿淵にしてみれば姜恒はいらない存在だった。それで姜昭に送りつけて、彼女の好きなように解決させようとした。自分の妻子を守るためだ。        (耿淵は第一章から嫌いだったぜ。)

 

界圭は耿淵の薄情さに驚いただろうが、そのことを口に出したことはなかった。そして界圭が姜恒を見る時の、あの眼差しの意味も耿曙にはわかった。

―――界圭には誰よりもよくわかっているのだ。姜恒が誰も欲しがらない子供だったことを。彼が人にもたらすのは危険と災難だったからだ。界圭は姜恒を見る度にやるせない気持ちでいっぱいになり、彼が本来与えられるべきだった愛を少しでも与えるために、自分にできる全てを尽くしてやりたいと思うのだろう。

 

姜昭が何も聞かずに妹の子を受け入れてくれてよかった。彼を育て、読み書きを教えて、いつか彼が身をたて家を成し、独り立ちできるように持てる力を注いでくれた。彼女は耿淵に置き去りにされたかもしれないが、ずっと何も聞かずに、変わらず息子の命を守って来た。「母はこの剣だけをあなたに残して行きます……。」姜昭の最後の言葉が今でも耳に残っている。あれは黄昏時だった。姜昭の涙の意味がようやくわかった。あの人にはわかっていたのだ。自分が死ねば、姜恒は本当に一人ぼっちになってしまうと。

 

耿曙は必死で涙をこらえた。今までずっと滅多に泣かなかった。だが姜恒を見るといつも胸が痛んだ。尤もその姜恒は今、努めて笑顔を見せようとし、逆に耿曙を慰めようとしている。

「このことをずっと長いこと胸の奥にしまっておいたのでしょう?」姜恒は耿曙に言った。耿曙は何も言えなかった。口を開くと嗚咽がこみ上げてきそうで、ただ頷くしかできない。

「どうしてもっと早く言わなかったの?」耿曙は姜恒を見つめたまま首を振った。「知らない方が幸せだと思ったのでしょう?」耿曙は再び頷いた。

 

姜恒は小声で呟いた。「兄さん、何だかすごく頭が痛い……。」

耿曙は、はっとして、姜恒の額に手を当てると熱が出ていた。

「熱が出ている。すぐに横になるんだ。」姜恒は意識がもうろうとしてきた。耿曙に抱き上げられて布団に入ると、服が汗で湿ってきた。

「きっと雨に濡れたせいだね、」姜恒はうめき声を上げた。「大したことない……薬を二服手に入れて、飲ませてくれたらすぐ良くなるよ……。」

刺客が来るのを恐れ、耿曙は姜恒の側を離れたくはなかったが、薬を手に入れて飲ませなくてはならない。近所の人に助けを求めたいが、この町は既にがらんとしていて住民の殆どは出て行ってしまっている。

 

「誰かいるか?」耿曙は振り向いた。その瞬間、巷に死体が転がっているのが見えた。死体がある場所は彼らの家からは少し離れている。半身が水に浸かり、血が低い方へと流れている。

 

界圭が左手を包帯でぐるぐる巻きにし、右手に天月剣を持って雨の中に立ち、耿曙に視線を送った。「先ほど、城内治安官を警戒させてしまいました。また一人殺したので、残りは二人です。」この殺し屋は兵士に扮していた。姜恒を殺そうとして界圭に不意を突かれ、背後から喉に剣を受けたようだ。「俺は薬を探しに行く。俺の家を知っているか?」界圭は何も言わずに姜家に向かって行った。

 

姜恒は意識が混沌とする中、界圭が近くにいるような気がしていた。彼は夢を見ていた。夢の中で界圭は真っ白な服を着て、自分を抱き、玉壁関を馬で越えていた。南への道を進み、越地に入ると沿道は満開の桃の花でいっぱいだった。

「起きて薬を飲め。」耿曙が声をかけた。姜恒は耿曙に抱き起されて薬を飲んだ。全身が熱くなり、また横になった。

夜になると、界圭は耿淵が残した手紙を読んだ。「耿淵のあほんだらめ、こんな手紙のことなんかちっとも知らなかった。」

「あんたに感謝する。ありがとう。」耿曙が言った。

「あなたに何の関係があるのです?あなたから感謝されるなんて、侮辱されたような気になりますね。」

 

耿曙は何も言わなかった。だが界圭は何だか嬉しそうで、口笛を吹き、顔がわずかににやけている。「これでわかりました。あなたのお父上は汁琅をどうとも思っていなかった。本当は私だって気づいていましたよ。でもまあそれならなぜ殉死したんでしょうね。まさか梁王畢頡のため?」

「黙れ。」耿曙は冷ややかに言った。

界圭は考えた末、立ち上がった。「知ったからには、私の方も今日からそのつもりでいませんとね。それでは行きます。」

 

耿曙は界圭を見た。こいつがろくな奴ではないことはわかっていた。内情を知る者は、郎煌、界圭、姜太后もではないかと考えているが、誰も自分では姜恒に真相を告げようとしなかった。皆、耿曙の決定を待ち、彼の肩に責任を押し付けた。そして今、姜恒は己の正体を知った。次には何が起きるのだろうか?

「失せろ。」耿曙は言った。

 

界圭は去り際に姜恒を見て、包帯に包まれた左手を持ち上げ、小声で告げた。

「私の右手は血にまみれています。でもねえ、あの年潯東に向かう時、私は左手であなたを抱いたんですよ、炆児。この先、誰もあなたに強要しません。あなたも自分に強要してはだめです。私はただあなたにずっと幸せに生きていてほしい、それだけです。」

そう言うと、界圭は外に出て、振り返って姜家の大門を閉めた。

 

「行きますね。」界圭は振り向いて言った。答える者がいなくてもかまわない。あの年、姜恒をここに連れて来た時、彼は姜家の門を開けておいた。十九年弾き続けた琴曲の最後の余韻が響き終えたような気がした。

 

空が晴れた。梅雨も終わりに近づいている。どこかから這い出て来た蝉がなき始めた。

姜恒は全身汗だくになり、蒼白な顔色で目を覚ますと、耿曙が作った粥を食べた。

「誰か来たの?」姜恒が尋ねた。

耿曙は手に尖らせた木片を持っていた。姜恒が目覚めるまで離れるつもりはなかったが、手持無沙汰だった。眠ることもできなかった。目を閉じるたびに1、2時辰しか眠れず、何か気を紛らわせるものが必要だった。

 

「界圭がお前の様子を見に来たが、もう帰った。」耿曙は答え、姜恒は頷いた。耿曙は血月の者が既にここを突き止めたことを知った。潯東ももう安全ではない。だが殺し屋はあと二人だけだ。界圭はそいつらのことは耿曙が自分で何とかできると考えて、落雁に戻って行った。彼は責任を引き渡した。あの最後の話は半分は自分に聞かせるためだったのだろう。

 

姜恒は体を動かすことにした。まだ少しくらくらするが、庭に出て、茶を煮出し、自分と耿曙に一杯ずつ煎れて、二人で静かに廊下に座った。姜恒は少し上の空だったが、耿曙はそのままにしておき、やるべきことをした。食事を作り、湯を沸かして、姜恒に沐浴させた。以前のようだ。時々庭に行って見ると、姜恒はまだぼんやりしていた。

 

姜恒は庭を眺めながら考えていた。ようやく色々なことがわかった。おかしいと思っていたことが、どうしてだったのか、腑に落ちた。―――界圭の話、姜太后の眼差し、汁琮が機会あるごとに見せる敵意、郎煌の意味ありげな態度。

汁琅と姜晴、実の両親の名前も彼にとっては全くの未知の存在だ。両親には会ったこともなく、雍宮で彼らの話をする者もいない。偶然耳にしたわずかな話もすぐに忘れてしまった。

それでも姜恒には彼らを恨む気持ちは全くない。選ぶことができたなら、誰が骨肉の別れ、家の崩壊、死別を望む?ただ姜恒が一番思うことは、「私は誰なの?」ということだ。

 

私は汁炆なの?それとも姜恒なの?というより、誰でもない気がするのだ。汁炆という身分はずっと前に失っている。それなのに今は姜恒でもなくなった気がする。

茫然から釈然までの距離は短かった。耿曙のいつもの眼差し、口に出してはいないが、一目瞭然の言葉によって、姜恒はすぐにはっきりわかった。

汁琮、界圭、昭夫人、耿淵にとっては自分は汁炆だ。太子霊や他の全ての人の前では自分は姜恒だ。 

(なぜここでタイズリン?他にいるでしょ、羅宣とか項州とか)

 

「兄さん、あなたは私を誰だと思う?」それだけはどうしても聞きたかった。

耿曙はどう答えようか迷った。姜恒に、お前は永遠に自分の弟だと言ってやりたかった。だが、別の思いのために、そうは言えなかった。

 

「俺がお前を誰だと思うかは重要ではない、恒児。肝心なのはお前が自分を誰だと思うかだ。」姜恒に少し笑顔が戻って来た。悲しみが消えていく。

「ちょっと知りたかったんだ。あなたの目から見て私は誰なのかって。」

実はよくわかっていた。耿曙が自分を見る目は既に以前とは違っている。だからこそ、どうしても知りたいのだ。

「今の俺の目から見たお前は汁炆、炆児だ。だけど心にいるのはいつだって姜恒だ。俺たちは兄弟ではない。でもやはり兄弟だ。それは玉玦やらお前の正体とは全く関係ない。」

 

姜恒は理解し、頷いた。耿曙の言葉は他の人にはわかりづらいかもしれない。でも二人は子供の頃から一緒に育った。姜恒には勿論よくわかる。二人が血のつながりのある関係ではなくなったとしても、耿曙の心の中にいるのは以前として自分一人だけだ。落雁を離れた日から後の耿曙の行いがそれを証明している。

「恒児、少し気分が晴れてきたか?」耿曙が尋ねた。姜恒は頷いた。

「恒児、自分を追い詰めるなよ、たとえ認めたくなくても、それは……。」

姜恒は耿曙に笑いかけた。どうやら折り合いがついたのだな、とわかった耿曙はそれ以上話すのを止め、立ち上がって家の片づけを続けに行った。姜恒を一人静かに過ごさせるために。

 

姜恒の前には二つの道があった。一つは何もなかったかのように今まで通り過ごすこと。二つ目は、奪われた物を取り返しに行くこと。勿論この道はずっと危険に満ち溢れている。だが、全てを知った今、どうして何もなかったかのようにできようか?

姜恒は海閣で修行していた時のことを思い出し、小さくため息をついた。入門初日に鬼先生は彼に尋ねた。『姜恒、お前さんはどのような人になりたいのだ?』

今や自分の名前は汁炆だ。それなら、自分はどのような汁炆になりたいのだろうか?

子供の頃からずっと、昭夫人も姫珣も、果ては鬼先生、羅宣、耿曙に至るまで……誰もが自分に告げる。この人生をどう過ごすか。『どうすべきか』ではなく、『どうしたいか』ここに至ってついに、姜恒は自分自身の心を決めた。