非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 151-155

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第151章 油紙の包み:

 

耿曙は誰にも声をかけることなく、ただ姜恒の手を握り、静かに街角に立っていた。

「道が狭くなった。」最後に耿曙は姜恒に言った。

姜恒は笑った。「前はあなたが子供だったからだよ。」耿曙は頷いた。そうかもしれない。

大戦の後、城内で最初に店を開けたのは葬儀屋だった。あちこちで葬儀が行われている。どこの家にも兵士として亡くなった家族がいるのだろう。酒を撒いて、跪き蒼天を仰いで泣き声を上げている姿も見られた。

姜恒は食べ物を買った。耿曙は黒地に金縁の雍国武服を着ていた。露店主の中には彼の姿を見ると、怒らせないようにと店じまいをしてしまう者も少なくなかった。

 

「好きだった女の子とかいなかったの?」姜恒は耿曙に尋ねた。耿曙は一軒の露店の中を覗き込みながら、「ここの娘は嫁に行った。好きだったわけじゃない。まだ五歳だった頃だ。」姜恒が見ると、店守りをする娘は魂を失ったような様子で、血に染まった木牌を握りしめていた。二人は娘に声をかけることなく、耿曙は顔を見せないように、市場に向かって行った。

そして飴屋の店先で桃花糖を少し買い、姜恒の口に一つ食べさせた後、残りを慎重に包んだ。

 

「子供の頃父さんは、俺に会いに家に来る時にここで飴を買ってきてくれた。店主が盲目だったからかもしれない。盲目の苦労が分かるから応援したかったのかもな。」

「素敵なところだね。」

「ああ。俺は六歳のときから週に三日、縄をつけた木の盆を首にかけて、市場で売り歩いた。」

かつて聶七は耿曙を連れて安陽に移り住んだ。耿淵が王宮に潜入し、王子畢頡の琴師となった。聶七は自活するために家で灯芯を作り、耿曙が市場に持って行って一日おきに売り歩いた。値段を下げろと言われても耿曙は一切受け付けず、買いたいなら売り、買わないならそれまでとした。母が一生懸命作った物だったからだ。わずかな売り上げは聶七に渡し、聶七は耿曙に衣服を作ったり、米や麺を買ったりした。

 

姜恒はその光景を想像して面白がった。六歳の耿曙が木盆を担いで市場を歩く姿はきっと、鞍縄をつけた仔馬のようだっただろう。

「売り口上を叫んだの?」姜恒が尋ねた。

「恥ずかしくて無理だった。だけど母さんは上等の綿を使って灯芯を作ったから、火が長持ちすると言って王宮の人が買って行った。ただ彼らは気づかなかったが、最後に母さんは

芯に毒を仕込んだんだ。あの日、王宮では火をつけた灯が黒くなって、皆目が見えなくなった。」                           (ひでーな)

彼女の灯芯は有名で、市場の人たちは彼女を『灯芯女』と呼んでいた。人前に出ることは少なく、他人に対しては子持ちの寡婦だと言っていた。一人息子と寡婦はお互い助け合って生きていた。だが町の人たちは皆、盲目の琴師が灯火ごとに母子に会いに来ていることを知っていて、子供は私生児で、灯芯女は宮の琴師に気持ちがあるのだろうと勘ぐっていた。

その盲目の男が四国の大人物を殺したという報せが安陽中に広まると、全天下が衝撃を受けた。人々はようやく盲目の男の名を知った。―――耿淵というのだと。

 

「子供の頃あなたの話を聞いて、いつもわからなかったことがある。」姜恒が言った。

「何がわからなかったんだ?」耿曙と姜恒は手を繋いで、街道が終わるところまで歩き、青石板の石段のついた山道を二展まで上がって行った。(二展とは?時々横道があるのかな?)

「父さんが死んだ後、彼女はどうしてあなたを置いて逝ってしまったんだろう?」

耿曙は頷いた。「俺も母さんを恨んだ。あんな風に俺を一人ぼっちにして置いていくなんて、残酷すぎると思った。」

「でもね、後になってだんだんわかってきた。」姜恒が言った。母のことだけでなく、聶七の選択も理解できた。殉死する者の気持ちも、なぜ耿曙を置いていったかも理解できる。

別れの日に母が言った、『本当はお前を連れて逝こうと思った。』という言葉の意味も。

 

「俺にもわかった。」耿曙は姜恒にそう言うと、首をかしげて横顔に口づけをした。

姜恒は真っ赤になったが、耿曙はおちついていた。「お前に出会えてよかった、恒児。そうでなければ、この人生は残酷すぎた。」「もう過ぎたことだよ。」姜恒はそう言った。

 

耿淵が事件を起こした時、聶七は全てが終わったとさとったのだ。

「入って来ては駄目。」あの日聶七は部屋の中からそう言った。「曙児、開けないでね。」

あの日、全城が大混乱していた。報せを聞いた耿曙は売れ残った灯芯にかまわず、急いで家に帰った。あの日の午後、まだ彼の父親が殺人者だとは知らない市場の人たちが皆、梁国は終わりだと言っていた。彼は母にこの話を伝えないとと思った。大人になりかけだった彼はすぐにでも母と盲目の父をつれてどこか安全なところにかくまわねばと思っていた。

ーーー

聶七は家の梁に白綾をかけ、結び目を作りながら、窓の外の息子にむかって笑いかけた。「みんなの言うでたらめを聞いてはだめ。大丈夫だから。」

耿曙は疑惑でいっぱいになり、部屋の中の母の影を見て、「母さん、何をしているの?」と尋ねた。

「何でもないわ。着替えをしているのよ。午前中の売り上げはいくらだった?」

「二銭だよ。」耿曙が答えた。「買い物客なんていなかった。みんな荷物をまとめて、家を出て行くと言っていた。俺たちも出て行くの?父さんは?俺は父さんを探しに行く。宮のなかにいて、大丈夫かな。」

「母さんが行くから少し待ってちょうだい。あなたはお酒を買ってきて、母さんが父さんのところに行くのを待っていてね。その二銭を使ってお酒を買うのよ。さあ、行って。」

「うん。」九歳の耿曙は体をひねって、首にかけた帯をとると、酒を買いに走って行った。 耿曙が酒を持って家の扉を押した時、母親はすでに死んでいた。一通の手紙と剣、父が首にかけていた玉玦、それに文字が読めない耿曙には内容がわからない心法書を残して。

ーーー

そして今、大きくなった耿曙が姜恒を連れて帰って来た。二人は廃屋を通り過ぎた。屋根には青草が生えていて、こわれた壁には火事の痕跡があった。

「ここなの?」

「いや、屠殺夫の家だ。」

「屠殺夫?お隣さん?」

「うん。」耿曙は扉の外でしばらく立ち止まった。姜恒を連れて、山際まで歩いて行くと扇門を押し開けた。室内は灰と塵でいっぱいだった。十余年もの間、誰も訪れなかったのだ。

室内にあった物は全て持ち出され、あるのは壊れた寝台だけだった。耿曙は寝台の上に座って、母親が首を吊った横梁を見上げた。

 

姜恒は耿曙が子供の頃に使っていた物を見られるかと思っていたが、こんなに月日がたって、家はすでに廃墟となっていた。今きっと耿曙はただ静かに座っていたいだろう、そう思った姜恒は彼の邪魔をせず、傍らに腰を下ろした。

耿曙の心はずっと前の記憶の中をさまよっていた。そうして座っている内に、日は西に傾き、午後の陽光が窓から室内に入り、一つの影を投じさせた。

 

物音がして耿曙は我にかえった。「何をしている?」姜恒は地面に座り込んでくしゃみをし、起き上がりながら言った。「ここに地下室があるね。」

「うん、母さんが物を入れていた。」

「誰にも見つかってないんだろうね。」

一枚の木板を動かすと、穴倉があった。大きくはなく、一辺が五、六歩くらいか。

子供のころには何故地下室があるのかわからなかったが、母が作らせたのだろう。ある日、父が暗殺を実行し、誰かが調べに来た時に、息子をかくまおうとしたのかもしれない。

 

姜恒は膝を抱えて座り、ずっと前に羅宣の所にも地下室があって、銅の取っ手を手にしたが、結局下りなかったことを思い出していた。「見てみたいか?あるのは酒だけだ。父さんが帰って来た時に飲むためだ。父さんは酒を飲みながら、母さんが作った料理を食べるのが好きだった。俺を抱いて、琴を弾いて聞かせて、寝かしつけてくれたんだ。」

姜恒は父親になじみがない。だが耿曙が記憶を呼び起こして話す中に、少しずつ、父親の姿を思い浮かべるようになった。「それはいいね。」姜恒は耿曙の思い出話を聞くと、自分もそれを経験したかのような気分になった。そして羨ましくもあり、残念でもあった。

 

「俺は……ごめん、恒児。」ふと耿曙は気づいた。自分が覚えているようなことを、姜恒は経験したことがなかったのだ。聶七と耿淵が自分を愛してくれたようには、誰も恒児を愛してくれなかった。子供の頃から、いつも孤独に暮らし、本当は昭夫人も彼を愛していたとしても、子供の頃にはわからなかったはずだ。

「何であやまるの?降りて見てみようか。お酒を飲みたくはない?私が取って来てあなたに飲ませてあげる。」姜恒は笑った。

「俺が行く。下は真っ暗だ。お前じゃ場所がわからないだろう。」

 

耿曙は銅の取っ手を引き、記憶を頼りに降りて行った。地下室に入ったことはなかったかもしれない。聶七は彼が蔵の酒をひっくり返すのを心配した。酒瓶は棚に置かれ、ほとんどは飲み終わっていて、三瓶だけ残っていた。一瓶持ち上げた時、横にあった金属の箱に触れた。

耿曙の動きが停まった。覚えている限り、子供の頃こんなものを見たことはなかったはずだ。

「転ばないように気を付けてね。」姜恒の声が上から聞こえた。

「平気だ。」耿曙は箱を開け、中に入っていたものに触った。

 

姜恒は簡単に部屋を掃除しようとその場を去った。すると耿曙の頭の上に光が落ちて来た。耿曙は箱の中身を出した。小さな油紙の包だった。中には一枚の布が入っていた。薄暗い中、目を凝らしてみると、表面にはまだらな血の跡がついていた。

『これは何だろう?』

布の中には一通の手紙が入っていた。十余年前の手紙だ。崩れそうな脆い紙に書かれている。耿曙は注意深く開けてみた。あて名は「昭児親展」となっている。信じがたい思いに、はっと息を吸った。

 

「兄さん?」

「すぐに上がる。どいていてくれ。」耿曙はそう言うと、急いで油紙の包みを懐中にしまった。手が震えていた。姜恒はくしゃみがとまらなかった。あまりにも埃まみれだった。耿曙は酒を持って上がって来ると、「ここでは飲まない。母さんの墓に行こう。盃がないか探してみる。」と言った。「わかった。」姜恒は鼻を指でつまんで揉んだ。

 

耿曙の表情は明らかに変わり、呼吸が早くなっていた。だが、上がって来る時に吸い込んだ埃のせいで、くしゃみが止まらなくなり、二人は競うようにくしゃみをし合った。それが姜恒のツボにハマって大笑いし、耿曙も知らない間に涙目になって笑いが止まらなくなった。

 

 

午後、安陽城北、墓地にて。

耿曙は酒を三杯注いだ。一杯を聶七の墓前に置き、残りは姜恒と二人で献杯して飲み干した。「来るのはこれば最後かもしれない、母さん。」耿曙が言った。

「兄さん、それはないよ。きっとまた機会がある。」

耿曙は少し考えてから、姜恒の話には続けずに、墓碑に向かって言った。

「ちゃんと恒児を見つけたよ。これから先も、ずっと二人で一緒にいる。」

姜恒は感動して目が真っ赤になり、最後には泣き出した。かつて耿曙が母親の遺体を抱えて山を登り、墓を掘って彼女を埋めて土をかけ、葬った様子を想像した。

 

あの日、安陽は混乱していて、首を吊った灯芯女のことに注意を払うような人はいなかっただろう。耿曙は墓碑を書いてもらうための金さえなく、父親の遺体を納めに行くこともできず、目印として、何も書いていない石碑を置いたのだ。その後、耿淵の遺体は安陽城門の上に掲げられ、三月晒された。越地では、既に荒廃していた耿家の祖廟を、怒り狂った鄭王が暴き、祖先の遺骨に鞭うった。

 

それから十五年たった。報せは潯東にも届き、姜昭の耳にも入ったが、彼女は何もせず、あたかも無関係であるかのように、姜恒を育て上げた。聖賢書を学ぶことを教え、姜恒に対して誰にも恨みを抱かせないようにした。一度だけ父親について語ったことがあったかもしれないが、淡々とした一言だけだ。「あの人はあんな生き方をするべきじゃなかった。」

 

耿曙は手を伸ばして、姜恒を抱いた。口の端に笑みを浮かべて。これからとても難しいことをしなければならない。二人が進む道は長く、いばらのとげに満ちている。潯東を離れた時よりもさらに厳しい道のりだ。だが彼はこの瞬間、ついに二人の宿命を受け入れた。

姜恒はまだ十余年前の悲しみに浸っていた。だが耿曙はそっと言った。

「恒児、お前に知らせたいことがある。」

「何?」姜恒は落ち着いて、頭を上げて耿曙を見た。

 

耿曙は懐中に手を入れかけた時、突然光る何かを視線に捕らえた。手を下について、動作を変え、背負っていた黒剣の剣柄を握った。視線は姜恒を越え、彼の後方に向けた。

墓地の下に、漢人の服装をした老人がいた。背中をまるめてゆっくりと近づいて来る。

右手に持った杖は暗い灰色をしている。姜恒はそれが何でできているかわかった。――死者の背骨だ。左手には精巧な作りの小刀を持ち、銀の光を放つ鋭い剣には鞘がなかった。さっきの光は細剣が陽光を反射させたものだった。

 

 

第152章 鉄ののぼり

 

姜恒は耿曙の視線を追った。 二人はゆっくりと立ち上がった。

老人は枯れ木のようで、歩き方はゆっくりだ。だが目標は自分たちだ。なぜなら墓地には他に誰もいなかったから。袍襟には紅色の匂月が縫いとられている。匂月からは血が滴っている。

「あれは強敵だ。俺が奴を押さえている間に、お前は郢国兵営まで走っていけ。できる限りの速さで走るんだ。」姜恒は何も言わなかった。正殿にいた時と全く同じ殺気を感じた。耿曙が「強敵だ」と言うのを始めて聞いた。つまり本当に強敵だということだ。

 

「きっと血月の門主だね。」姜恒が言った。「お前もそう思うか。」耿曙は黒剣を右手に移し替えながら言った。「俺が手を出したら、お前はすぐに逃げるんだ。俺もすぐにそっちに行くから。」

『逃げるなら一緒に』的なことをいうつもりは姜恒にはなかった。凄腕対決だ。自分が居残ると言い張れば、耿曙の気が散る。

「残念だな。」

「何がだ?」

「彼に勝ったら、あなたは本当に天下一になれるのに。こんな試合に証人がいないなんて。」

耿曙は口角を少し上げて言った。「行くぞ!」

耿曙は、愚か者の様に相手が目の前に来て構えるのを待ったり、一、二、三の類の掛け声をかけたりせず、敵が山道を登り切らない機を捉えて、先手を打ちに行った。

 

姜恒は思い立って体を丸めると、山道を転がり落ちて行った!

「若者よ、焦りすぎだ。」老人は不気味に言い放った。金属が擦れる様な声だった。

耿曙は天を崩すような一撃を山の上から繰り出し、老人の首を断とうとした。耿淵が再来したとしてもその勢いを越えることはできない。黒剣には稲妻のごとき力を携えて。

老人は黒剣を敢えて迎えようとはせず、突然身を引くと、体を奇妙な角度に曲げ、腰椎が折れたかのように体をそらし、左手の剣、右手の杖を放った!

細剣は危うく耿曙の胸を突きそうになったが、黒剣の柄が止めた。だが細剣はそのまま耿曙の喉元に向かった。耿曙はよけようとして、墓碑にぶつかった。

              (ああ、戦闘シーンの翻訳が苦手だ。特にカンフー)

老人はだみ声で言った。「お前は私の弟子を四人殺した。お前が直接殺してはいない者も、数にいれてやればだが。お前の父親は天下一の刺客だと言われているが、わしから見れば、月並みにすぎない。」

耿曙は黒剣を斜に構えた。武袍の襟が山の風になびいた。

「そっちも馬鹿ではなかったのだな。我慢できずに門主自らお出ましか。門派の弟子を一人ずつ送って来て死に追いやるよりいい方法だ。」

老人は冷笑した。

耿曙が言った。「腕に覚えがあるなら、名を名乗れ。黒剣は無名の輩は切らん!」

「血月だ。黒剣を渡せ。雇い主の息子を殺したくない。」

「自分で取りに来ればいい。取れるものならな。」

 

血月と名乗った老人は言った。「聶海よ、ここでわしを取り押さえていれば姜恒は安全だとでも思っているのかね?」耿曙は色を変えた。大きな間違いを犯した。姜恒を自分の近くに置いておくべきだったのだ。

「それ以上言うな。」そう言うと耿曙は墓碑に飛び乗り、再び老人へと向かって行った。

 

その頃姜恒は斜面を滑り降り終えて、心を落ち着けようとしていた。墓地の方向に顔を向けずにはいられなかったが、衣服を整え、山際の市場に向かって行った。こういう時こそ、焦りを見せずに、落ち着かねばならない。耿曙なら大丈夫だ。あんなやつ叩きのめしてくれる。彼は耿曙の力を盲目的に信じていた。今大事なことは、自分をしっかり守ることだ。

姜恒は剣を持っていない。持たないことが習慣になっている。更に耿曙がついていることで、かつての警戒心を失っていた。危険の中に身を置く感覚がわからなくなっている。だが、この時は周囲の人間一人一人の動向を注意深く観察した。すると自分を見ている人がいるのに気づいた。目が合うとその人は巷の中に身を隠した。

 

姜恒は歩を速めた。山際の街を通り抜けている時、一人の門番が剣を抜いて巷中から現れた!姜恒は立ち止まり、振り返った。男が剣を持って迫って来た!バタンと音がして、窓が開き、鋭い刀を持った物売りが現れ、同時に姜恒に向かって来た!近くにいた人たちは慌てふためいた。

姜恒は屋台の上に飛び乗った。羅宣が教えた数少ない武芸がようやく役に立った。敵は相手を甘く見た。姜恒は戦えはしないが、何とか逃げることだけはできるのだ!

山際の町は大混乱となった。姜恒は門番から逃れようとあちこち走り回り、殺し屋は何度か、路肩の屋台にぶつかりながら、ついに姜恒に追いつこうとしていた。その時後ろから、鷹の鳴き声がして、海東青が飛んで来た。すぐに悲鳴があがり、門番は鷹につかまれ血まみれになった。物売りが矢を射ったが、海東青は高く飛んでよけた。門番が歩を停めた瞬間、背後に誰かが現れた。

 

「蟷螂が蝉を捕らえる時、黄雀が後ろにいる。」界圭が棒読みの様に言った。

「殺し屋だって書は読まねば。」そして門番を剣で貫いた。「坊や、気を付けて!左に向かって走れ!振り返らないで!」

 

界圭が来てくれた!姜恒は少しほっとした。界圭は軒に飛び乗り、壁を走ってやってきた。姜恒は走りながら、界圭の腕を掴んで叫んだ。「いつ来てくれたの?」

「ずっとついてましたよ!」界圭はそう叫ぶと、姜恒を軒の上に引っ張り上げた。

「奴らは全員出動しました!8人です。今のが一人目。軍営に行って項余を探して。彼ならあなたを守れます!」姜恒は飛び降りようとしたが、界圭は道の逆側に姜恒を押し出したため、街道の市場の上に落っこちた。ジグザグに曲がった山道は屋台で溢れ、姜恒が店の上に落ちて来ると、人々は驚きの叫び声をあげて一斉に去って行った。

 

『物売り』は消えた。界圭は姜恒が逃げて行った道に向かい、後ろについて護衛した。

敵は新手の護衛に備えていなかった。ずっと潜伏していたが、一旦姿を見せれば、警戒を呼び、不意打ちはできなくなる。界圭が壁から瓦に飛び降りると、パラパラと音を立てて無数の瓦が壊れて、三人めの敵が姿を現した。のぼりを持った占い師だった。

    (状況がわからん。屋根を破って下から出たのか?持っている物もわからん)

 

占い師は何も言わずに、鉄ののぼりを振った。上には鋭利な刃物がついていた。のぼりは鱗型の盾となって界圭の喉に向けられた。

姜恒は山際の市場の上で何とか這い上がりながら考えた。:船頭、洗濯女、御者、給仕、物売り……あとは何だっけ?八人全部やって来たんだ!

海東青が空を飛んでいたが、人々の中に紛れ込んだ殺し屋を見つけることはできない。姜恒は呼吸を整えて逃げるしかなかった。

 

(翻訳もひどいけど、元々の原作もカンフーの対決シーンはわざとゴチャゴチャ派手な形容詞がいっぱいついて、大げさに書いてある。わざと大衆時代劇っぽくしているのだと思う。大げさすぎてどうしてもそのまま訳せない。物や人から波動やら気やらが出て来る状況は日本人にはちょっと受け入れがたいし。)

 

山の上では耿曙が黒剣を振るっていた。夜の帳を引き裂くキラ星のように光を放つ。黒剣剣法は比類ない。老人は黒剣を真正面から受けないように交わし続けた。これが中原一の不世の神兵器、万剣の尊、黒剣か!こんな剣を受けたら、無情にも体が寸断されてしまうだろう!目の前の少年は武功は強悍だが、まだ若すぎる。持っているのが黒剣でなければ、血月が全力で対決すれば、誅殺できたかもしれない。

 

山裾から恐慌した叫び声が聞こえて来る。姜恒が逃走しているということだ。だが生きている。できるだけ早く敵を始末しなければならない。血月を墓地の果てまで追い詰めると、生涯の修業の成果たる一撃を放った!満天の夜闇が黒剣の刃に収まった。   

「死ね。」耿曙は無情に言い放った。血月はついに逃れられず、杖を前にして正面から剣を受けた。

「いい剣だ。」老人は陰鬱な声をあげた。老人が右手に持った骨杖を振ると、杖は骨鞭となって、黒剣に絡みつき、左手の細剣が直接耿曙の喉に向かった!四十年焼きいれた骨鞭は錆鉄のようで、黒剣に砕かれ飛び散ったが、同時に耿曙の動きを止めた。耿曙は目を見開き、体は反らされ宙に飛んだ。老人の剣が音もなく彼の喉に下に向かった。

 

「寄越せ。」老人は口角に笑みを浮かべた。ギン!と音がして、老人の剣は玉玦の真ん中に当たり、細剣ははじけ飛んだ。老人ははっとした。耿曙の黒剣の返しは間に合わず、左手を延ばして拳を向けた。

拳と拳が相打ち、耿曙は五臓六腑の気血が狂ったように沸き立ち、前に受けた内傷が衝撃を受けた。老人は血を吐き、空中に血霧が飛び散った。耿曙は息を止めようとしたが、内傷が呼吸を求め、血霧を吸い込んで両目が黒くなった。血液には毒があったのだ!

老人は口角に血を付けたまま、黒剣を奪おうと、力を尽くし、素手で耿曙の剣刃を掴み、狂気の叫び声を上げた。「寄越せ!」

 

耿曙が手を離すと、老人は黒剣を奪い、耿曙は空いた手で拳を突き出した。唇を少し動かし、罵り言葉をつぶやきながら。二度目の拳は強烈で、老人の胸に当たった瞬間、骨が粉々に砕け、再び血霧が噴出した。

耿曙は勢いに乗って2本の指で黒剣を挟み、剣を奪い返した。老人は苦しみながら悲鳴を上げ、細剣を振り上げて、耿曙の腹を突き刺したが、彼は老人を突き飛ばし、細剣は耿曙の鮮血と共に体から抜け出た。老人は糸の切れた凧のように崖に落ちて行った。

 

耿曙は血を吐き、黒剣で体を支えて、何歩か歩くと、また血を吐いた。歩いては足を止めて、3度目の血を吐いた。目の前の光景がぼやけた。彼は全力を尽くして気を落ち着かせた。まだ倒れてはいけない!

「本当に奴は……やはり……強敵だった。」耿曙は一人呟いた。「恒児……待っていろよ。俺を……待っていろよ。」 彼はよろけながら、山の下に向かって走って行った。

 

 

姜恒は山際に沿った一本道を駆け下りていた。体が大きく、黄色い髪の胡人が現れ、道をさえぎった。胡人は両手を合わせて彼に向かって拝礼した。

「どうして今回は予告無しなの?」姜恒は歩を停め、周囲の地形を見定めた。界圭は別の敵に押えられている。自分でなんとかしなくては。

「アナタハ殺シニクイ。予告シテタラ、ツカマラナイ。」胡人は拙い漢語で説明した。

胡人は合わせていた手を離し、両手に短剣を持って体を揺らしながら近寄って来た。一息に十歩近く距離を縮めて来る。姜恒は身を翻して避けたが、あやうく短剣を受けそうになる。

その時、黒い武服に身を包んだ姿が屋根の上に現れた。耿曙が空を蹴って、降りて来た。人々は大慌てで逃げ回った。

「兄さ――――ん!」姜恒が大声をあげた。耿曙は黒剣を手に持ち、体を支えた。口角には血がついていて、手にも鮮血がかかり、腹部からも血がにじんでいる。

 

彼は姜恒の後ろに来て、残忍な笑みを浮かべ、胡人にゆっくりと言った。「お前らの門主は俺が殺したぞ。」胡人は驚いたが、何も聞かずに、両手の短剣を回して耿曙に向かって行った。耿曙が黒剣を掲げて左の拳で剣身を叩くとその威力で胡人は震えながら後退した。

「怪我をしているじゃない!」姜恒が言った。「早く逃げろ!」耿曙は叫んだ。「俺にかまうな、奴らの標的はお前だ!」姜恒は迷うことなく背を向けて小巷に入って行った。高所では、界圭と占い師が既に数十手を交わして戦っていた。長剣を振るえば、剣は鱗型の鉄のぼりと打ち合い、金属のぶつかる音が上がった。血月門の殺し屋など単独では彼の相手ではないはずなのに、どうしたことか。目の前の相手は攻めはそうでもないが、守りが固い。狙いを定めてかかっていってもどうしても決定打を出せない。

 

界圭は突然手を引いた。「どうでしょう、もう座って茶でも飲みませんか?こんな風に戦って何が楽しいのです?」占い師はのぼりを手に持ち、笑顔を浮かべたが、防御態勢を解こうとはしない。

「中原五大刺客の一人、界圭の力はこんなものか。」占い師が言った。

「どういたしまして。誰かが勝手に言い出したことです。大刺客なんていいことなしですよ。いつも警戒していないとひどい目にあいますしね。」

そう言いながら界圭は剣を収めたが、その前に脅かすように剣を突く動きをした。占い師は本能的に鉄のぼりで防ごうとしたが、界圭は突然動きを変え、占い師に向かって行った。

「私は三歳の子供か?!」占い師は嘲笑した。

「弱点発見。」界圭は不気味につぶやき、体ごと剣をのぼりにぶつける。占い師は全力で、のぼりを振り、界圭の全身は鱗型の鋭利な刃物で凌遅のように削がれそうになるが、それにもかまわず、片手で鉄のぼりを掴みにかかった。血が飛び散って、界圭の左手は血肉が削られべたついたが、右手の剣はのぼりの隙をついて、相手の喉をまっすぐ貫いた。占い師は目を大きく見開いて気を失った。界圭は傷を負った腕を垂らし、占い師をちらっと見てから道に血を垂らしながら、山を下り、姜恒のいる所まで飛び去って行った。

         (こっちの方が耿曙VS老人よりは状況がわかりやすかった)

 

ーーー

第153章 前にも敵、後ろにも敵

 

姜恒は山道を駆け下りていた。まだ四里近く走らないとならない。心臓が飛び出てきそうなほど、ドキドキしており、意思の力だけで何とかがんばっていた。

 

一方、中山道で熾烈な戦いを展開した耿曙は目がよく見えなくなっていた。毒が体内に蔓延し、充血した目のせいで、目の前に血の塊が見えるようになっていた。彼は風の動きだけで状況を把握していた。胡人はまだそれに気づいていないようで、一陣の風を巻き上げながら迫って来ると、短剣を耿曙の喉元ギリギリまで突き出した。突然耿曙の天心が開いた。武芸の果てに天道を見出したのか。

 

「天地と我とは同根、万物と我とは一体。」

洛陽での雪の夜の姜恒の歌声が耳に響いてきた。この瞬間彼は草木や白雲、飛ぶ鳥と同化したような不思議な境地に入った―――

―――耿曙は身を反らした。短剣は首筋をかすめ、浅い血痕を作った。

短剣を回避すると、玉玦が動きに合わせて浮き上がり、鋭い刃先で紅紐が切れた。玉玦は地面に落ちていった。勝負と生死がその瞬間に決まった。耿曙は左手を延ばして玉玦を取り、剣を持った右手は動かさなかったが、剣は胡人の胸を突いた。胡人が短剣を繰り出す時、体ごとぶつかってきたためだ。鮮血が噴出し、耿曙の半身を染めた。

「イイ……動キダ。」胡人はゆっくりと頭を下げて死んでいった。

 

耿曙の手は震えが止まらなかった。既に戦い尽くし力が出ない。大咆哮を一声上げ、力いっぱい剣を抜くと地面に突きさして体を支えた。もう見えなくなりそうだ。目の前の景色がぼんやりした塊となって近くなったり遠くなったりしていた。頭を動かして、音で状況把握しようとする。海東青が鳴き声を上げて彼に方向を教えた。

「恒児!」耿曙は左手で玉玦を握りしめ、右手に黒剣を持って、よろよろと山を下り始めた。

後には血の跡が続いていた。「俺を待っていろよ……お前に手出しはさせないからな……。」

 

姜恒は山裾まで駆け下り、山道を出たところで、界圭と門番の二人に同時に落ちて来た。山麓に建っている家の屋根が押しつぶされて、大きな音を立てた。門番は起き上がると姜恒に向かって飛びかかり、姜恒は2歩で壁に駆け上がり、宙返りをして着地した。

界圭は持っていた剣を姜恒に投げた。姜恒は空中で剣を受け取ると、背を向けて飛び去った。門番は追いかけようと袖を震わせたが、界圭が手を伸ばし、門番の足首を引っぱって地面に引きずり下ろした。

姜恒は大声を上げながら剣を振り下ろし、門番の頭を切り落とした。

姜恒:「……。」

界圭の左腕からは血がしたたり落ち、その手指は白骨が露出して左手は既に使い物にならない。姜恒は喘ぎを止められない。界圭が「私に剣を下さい。まだ次がありそうですから。」と言った。「あと何人?」姜恒が尋ねた。「私が二人殺しました。あなたが一人、兄上が二人。難しい勝負です。」

 

血月門十二人、門主を入れると十三人。江州で四人死亡。今日安陽で更に五人死亡。門主も耿曙の手で葬られた。あと四人いて、どこに隠れているかわからない。

門主が死んだことでみんな逃げてくれたら、それが一番いいのだけど。

 

「私にはもういないような気がする。」姜恒が言った。

「この辺りにはいませんが、あの辺にいます。見えますか?」

山を下りた城内の通りに雍軍が大勢現れた。内側に三層、外側に三層。三千人近くいる。雍軍は屋根の上から小巷を守り、強弩を町の中心に向けていた。姜恒に退路はない。騎兵は層になって湧き出て来て前路を塞いだ。

「姜大人。」衛卓が声をかけた。

「朝廷から命を受けた役人を謀殺するつもり?」姜恒が言った。

「密謀反叛の罪で、王命を執行しに参りました。お察し下さい。」

 

辺り一面八方で矢が構えられている。汁琮は今日、何としてでも自分を殺す気なのだ、と姜恒にはわかった。だがここまで大事になれば、屈分が気づかないわけがない。おそらく、今頃どうやって自分たちを救い出そうか考えているところかもしれない。

「時間を稼ぎましょう。郢人がすぐに来るはずです。ああ、まさか郢人が命を救いに来るのを待つ日が来ようとはね。」界圭が小声で言った。

衛卓が手を上げると、兵たちは一斉に強弩を引いた。衛卓がほがらかな調子で言った。

 

「界大人、私は三つ数えます。三つ数えたら、矢を放ちます。すみませんが姜大人から離れていただけますか。あなたを射殺してしまったら、太后に向ける顔がなくなりますので。」

「彼らはここであなたを殺す気ですよ。どうしますか?」界圭が姜恒に尋ねた。

「あなたは逃げて。兄さんに言ってね。私の仇を打とうとしないでって。」

衛卓:「三——!」

界圭:「私は逃げたくないです。あなたと一緒に死にたいですね。本当は十数年前にそうすべきでした。」

姜恒:「……。」

姜恒は界圭の前まで走って行って、彼の盾となり、衛卓に向かって言った。

「国を挙げて私を殺しに来るなんて、やっぱり、すごく光栄に感じるよ。」

衛卓:「礼儀を尽くす価値のある人ですから。二——!」

姜恒はもう周り中の弩を見ようとせず、山の上を見上げた。洛陽で雪崩を起こしたあの日のように、耿曙との距離が、近いのか、遠いのかはわからないが、生死という距離を隔てようとしているのは確かだ。そしてあの日と同じように、彼はやっぱり来てくれた。

 

半身を血に染めた耿曙が右手に黒剣、左手に玉玦を握りしめ、長く伸びた通りをよろけながら歩いてきた。「恒児……恒児。」耿曙は喉の奥から野獣のように咆哮した。

「兄さん!」

衛卓は数えるのを止め、この様子を見つめた。一瞬、彼は耿曙が射程距離に入り、問題を一気に解決した方がいいか迷った。さもなくば、いつか彼は復讐するだろうし、その標的は他ならぬ自分になるのだから。

 

「恒児!」姜恒の声を聞いた耿曙はすぐに力を取り戻した。良く見えなくても彼が目の前にいることがわかった。血の跡をつけながら体を引きずって来た耿曙に姜恒は急いで飛び込み、彼を抱きとめた。耿曙は玉玦を姜恒の手に渡し、しっかり握らせてから、彼の体をそっと引き離し、姜恒と界圭の前に進み出た。

「淼殿下、王御陛下がすぐにあなたを連れ戻すよう仰せです!」

「俺は聶海だ。」耿曙はまるでひどい侮辱を受けたかのように最後の力を振り絞って叫んだ。「俺は聶海だ!畜生!みんな良く聞け!俺は汁淼じゃない!」

その場にいた者はみな耿曙の勢いに押され、しかと彼を見つめた。

耿曙は視界がぼやけて、騎馬した衛卓のおぼろげな人影しか見えなかった。

「申し訳ありませんが、お退きください。」衛卓は慇懃に言った。「矢が当たるかもしれませんので。」

「俺は聶海だ。」耿曙は右手で黒剣を倒し持ち、左手は構えの型をとった。

「淼殿下なんかじゃない。よく覚えておけ——。」

そう言い終えた時、姜恒は大声をあげた。

 

虚影と化した耿曙が通りの二十歩先まで瞬時に移動し、黒剣を掲げ、『帰去来』剣法を繰り出した!

黒剣は一瞬にして下から上へ、衛卓の戦馬の腹に向かっていった。地が動き山が揺れ、剣は衛卓を馬ごと切り裂いた!刹那しんと静まり返った後、雍軍は恐慌した叫び声と共に慌てふためいて後退して行った。

半身を血だまりに倒した衛卓はそれが自分の血なのか馬の血なのかわからないまま、白いひげだけが動いていた。耿曙はそれを見ることもなく傍らに立って告げた。

「道を開けろ。」

騎兵は敢えて武器を掲げなかった。主師が死に、命令を下す者はいない。雍軍は肝を冷やした。耿曙は雍国で名をあげて久しい。この武神の威勢を前にして、矢を放とうとする者はいなかった。

「三つ数える!道を、開けろ!三!」耿曙は怒号を上げた。

耿曙が数を数えだすや否や、騎兵は急いで後退し、長い通りを空けた。その場にいた者は、耿曙を見てから、道に転がった衛卓の遺体を見た。悪夢の中にいるかのようだった。

 

姜恒は急いで近寄ると、耿曙の腕を自分の肩にかけさせ、手に持っていた黒剣をとった。

道を進んだが、雍軍は遠く離れていた。

「屈分!」姜恒はついに郢軍駐屯地にたどり着いた。「屈将軍!」

「着いたのか?」耿曙が尋ねた。

「着いたよ!やっと着いた。どうして誰もいないの?屈将軍?!どこ?誰かいる?」

彼は四方を見回した。早く薬を見つけて、耿曙と界圭の怪我を治療しなくては。

 

だがその時、埠頭の空き地に無数の郢国軍が押し寄せ、強弩を3人に向けて来た。

屋根の上には屈分が立っていて、三人を見下ろしていた。

姜恒は頭を上げて、信じられない思いで屈分を見た。

場内は静まりかえっていた。

「よく見えないんだ……恒児、教えてくれ、どうなっているんだ?」

姜恒は耿曙を見てから、界圭に視線を移した。「何でもないよ。」姜恒はさらりと言った。

屈分が少し考えながら言った。「姜大人、すみません。全て殿下のご命令で、我らにもどうしようもなかったのです。」

今の言葉で状況がわかった耿曙が尋ねた。「どれくらいいるんだ?」

「五千です。全て弓隊で、今にも全て撃ち込まれそうです。」界圭が答えた。

これでもう自分たちを救える人はいなくなったと悟った姜恒は顔を向けて耿曙を見てから、前に出て行った。「私は抵抗しないから、二人を逃がしてあげて、屈将軍。」

 

耿曙が小声で言った。「あんたは彼を連れて逃げろ。俺はあんたらのために時間を稼ぐ。俺のことはもう救いに来なくていい。」

「あなたが彼と逃げて下さい。これであなたが死んだら、彼はもう私に口をきいてくれなくなりますから。」界圭が言った。

姜恒が屈分を見上げると、屈分は口を引っ張り上げて何か言いたそうにした。残念そうな表情をしている。

「奴らはすぐに俺を殺しはしない。まだ機会がある。俺は毒に当たって目が見えない。あんたはまだ片手で剣を使えるだろう。それにあんたは奴らの標的でもない。」

界圭は考え直して頷いた。「わかりました。努力してみましょう。」

「これはあんたの宿命だ。彼を落雁から連れ出した日から、今日のことは決まっていたんだ。」

 

屈分が高所から言った。「どうやらはっきりお教えしなければいけませんでしたね、姜大人。殿下はあなたの命だけでなく、お兄上の方も奪うように仰ったのです。」

「私はてっきり長陵君は郢国でそんなに好かれていないんだと思っていたよ。甘かったね。」

「長陵君は確かに好かれていません。」屈分が言った。「ですが、あなたのお母上の姜昭は太子殿下にとって最愛の上将軍、羋霞将軍を殺しました。あの方は本当なら太子妃になるはずだったのです。このことを知っている人はあまりいませんが……。」

 

姜恒は眉を上げて冷ややかに言った。「こんなに大勢いるところで、王族の私生活を語るのは不適切ではないの?」項余もどこかにいるのかな?救いに来てくれないのだろうか?

「姜大人は本当に肝が据わっていらっしゃる。こんな時にさえ冗談を言う気分になるとは。もうあなたを救いに来る人はいません。手を下す前にきちんと説明をするようにと太子殿下がお命じなので申します。殿下はあなたご自身のことはとてもお好きなのですが、何分にも不倶戴天の仇、放っておくことはできないのです。どうぞ来世では二度と刺客の息子として生まれませんように。」

姜恒は少しも恐れることなく黒剣を振り上げ、屈分と兵士たちに顔を向けた。

「さあ来い。」姜恒は冷静に言った。ああ、これだけは屈分に言っておかないと。「あなただけは覚えていたんだね。兄さんだけじゃなくて、私も刺客の息子だってこと。」

 

三度目の大戦は海東青の鳴き声と共に幕を開けた。今にも満天の矢の雨が降ろうという時、馴染みのある鉄蹄と殺戮の声が聞えて来た。助けが来た。項余ではなかった。もう一羽の海東青に導かれた、もう一隊の雍軍だった。

風戎人と汁綾率いる軍隊が、宣戦することもなく、留まることもなく戦場に突入してきた!

 

「先に殺してしまえ。」屈分が命令を下した。

矢が放たれた。耿曙は前に出て来て、体を盾にして姜恒を守る。屈分は屋根から飛び降りた。戦いの行方はともかく、この場で二人を葬ってしまわなくては!絶対に逃すことはできない。耿曙を復活させてしまったら、果てしない復讐を待つことになる。

 

汁綾が叫んだ。「二人を渡せ!さもなくば貴様の狗命を取るぞ!屈分!このイカレ野郎!」

いきなりの混戦となった。項余は姿を見せない。耿曙は振り返り、素手で屈分の顔を殴った。

姜恒は黒剣を持って耿曙の元に向かった。たくさんの兵が押し寄せて来て、姜恒は黒剣を振り回し、何とか斬り捨てた。だが耿曙は姜恒と界圭から離れながら、二人に向かって叫んだ。「行くんだ!」

「兄さ―――ん!」姜恒は叫んだ。「私を置いて行かないで!こんなの嫌だ―――!」

 

耿曙は姜恒に背を向け、敵軍に立ち向かった。界圭は迷うことなく片手で姜恒を抱え込み、何も言わずに侍衛達をかき分けて、二本の矢を体に受けながら、黄河に飛び込んで行った。

耿曙は屈分と向かい合った。双目は閉じたままだ。どうせもう何も見えない。目を開けていても仕方ない。彼はゆっくりと黒剣掌法を展開し始めた。「試してみるか。今日天下一を倒す幸運を充てることができるかどうか。」

屈分は冷笑し、長剣を抜いて耿曙の双掌に向けた。

 

 

大きな音を立てて、姜恒は黄河へと落ちていった。逃れようとしても界圭が固く抱えていて離さない。二人は黄河の水の中に潜って泳いだ。目の前は漆黒で、水中を浮いたり沈んだりした。界圭に水面に押し出され、姜恒は必死で呼吸をしたが、話す間もなく、再び、水にまきこまれていく。界圭の力も限界に来ていた。行きもつけずに遅れて来ると、今度は姜恒が彼に手を差し伸べ、もう一方の手に黒剣をしっかり握って水面へと上がって行った。

 

夜になり、黄河の岸辺、水の流れが緩やかなところに姜恒はついにたどり着き、丸い石河原に這い出て来た。界圭は血の混ざった咳をした。手の怪我は既に白くなっている。失血が多すぎて気を失いかけていた。「兄さん、」姜恒は叫び声を上げた。「兄さん!」誰もいない山谷に声がこだました。界圭はうめき声をあげて、体を上げ、座ろうと試みたが、力尽きて倒れ込んだ。「界圭!」

「まだ……安全ではありません。奴らはすぐに……川沿いを捜索して……私たちの行方を。探しなさい……隠れる場所を。私にかまわずに。」

 

姜恒は暗闇の中で立ち上がり、あちこち探して、壁の下に紅花を見つけた。すりつぶして界圭の傷口に塗ると、彼を助け起こして自分の肩に腕をかけさせ、沢に向かって歩いて行った。

「風羽の声が聞えた。すぐに戻って兄さんを救わないと。」

「雍王は彼を殺しません。」界圭は弱々しくつぶやいた。「彼のことは心配しないで、自分のことを心配なさい。」

姜恒は激しく呼吸しながら、気持ちを落ち着け、冷静になろうとつとめた。耿曙がしばらくの間はきっと大丈夫だと言うことはわかっている。郢国は雍人が城内にいるうちは耿曙を頃推すことはないだろう。何か交換条件を出すかもしれないが。汁琮は耿曙に失望したとはいっても、耿曙が養子であることに変わりはない。

 

界圭は目を開けて、姜恒の顔をじっと見た。「あなた達二人の立場は違います。殺そうとしない限り、汁琮は彼の命は守るでしょう。ですが、あなたには何もない。あなたの命を気に掛ける人はいません。わかりましたか?自分で自分を守るのです。」

「あなたたち二人がいれば、私にはそれで充分。」姜恒は息を吸った。

界圭は疲れ果てたような笑みを浮かべた。「今の言葉だけで、私はあなたのために死んでもかまわなくなりましたよ。さあ、来るがいい!」界圭は力を奮い立たせ、黒剣を握った。「この命をかけて、……まだ何人か殺せるかやってみますか。」

「動かないで!」姜恒は界圭を押さえた。「もう誰も私のために死んでほしくないよ!」

ここまでの道のりで、姜恒は既に多くの死を見て来た。彼は無力感に苛まれていた。今や、耿曙も敵の手の中に落ちた。殺す、殺される、と、わずか十九年の人生は常に殺戮のさ中にあった。

「それがあなたの運命ですから。」界圭が姜恒を見る眼差しは今までになくやさしかった。少し項余のようでもあった。「もう話さないで。少し休んで。どうやって兄さんを救いに戻れるか、方法を考えてみる。」

 

 

ーーー

第154章 喉を突いた刃:

 

安陽城内で突然起きた小さな動乱はすぐに収束した。郢国軍は汁綾の親衛隊を防御線の外送り、汁琮は兵を収めるよう命令を伝えた。

汁綾はまさか長兄が姜恒と耿曙に手を下すとは思わなかった。関与した者は緘口令を強いられていたが、兵士たちから聞いた噂は真実だったのだ。

汁綾にはとても信じられなかった。「どうしてなの?どうしてあの子たちを手にかけようとしたの?」

「理由などない。もううんざりだからだ。死ぬべきだ。癇に障るからだ。それだけだ。」

「彼はあなたの外甥なのよ!」汁綾は殆ど咆哮していた。「彼の母親は母さんの姪!彼は私たちの家族なのに!彼はあなたの部下の一人でも兵の一人でもない!汁淼は淵兄さんの息子なのよ!」

 

「誰か来い。」汁琮はこの妹が感情的になれば、本当に剣を抜いて自分に迫ってくるかもしれないと思い、部下に言いつけた。「武英公主を連れ出して、落ち着かせるのだ。」

「この畜生め!」汁綾は剣を抜いて地面に突き刺した。

「何をするつもりだ?お前も私を裏切るつもりか?」

兵士たちがやってきて、汁綾を囲んだが、それ以上彼女に近寄ろうとはしなかった。

「あんたの方が私たちを裏切ったのよ!」

 

郢軍は望み通り、雍国の王子を捕まえた。少し紆余曲折があったし、結局姜恒に逃げられたが、姜恒には逃げられても構わなかった。彼は武芸ができたとしても、国君を暗殺するほどではなかったからだ。耿曙に逃げられてはやっかいなことになる。

屈分は手紙を書き、早馬で、江州に送った。そして黄河沿いに人をやって、逃走した姜恒と界圭の行方を探した。

 

戻って来た項余が軍帳に入って来た。「一日いなかっただけで、こうも色々起きるとは。」

「そうだろう。いい戦いを見逃したな。少年梁王は送り出したのか?」屈分が尋ねた。

項余は傍らに腰を下ろすと言った。「鄭国に向かっている。」

「これで、彼らの仇は雍国だけになったな。」屈分が言った。項余は一杯茶を飲むと立ち上がった。「どこに行くんだ?本当の大戦が始まるのは明日だぞ。」

「王子殿下を見に行ってくる。結局、最後は今日のようなところに落ち着くわけだな。」

 

「まさかと思うが、奴を解放するつもりじゃないだろうな、項将軍。」

「いいや。彼を逃がしてどうする?人を殺す者は最後は結局自分も殺される。世の中とはそうしたものだ。やり直しはきかない。例外もない。」

屈分は前に置いた手紙を見直した。やはり書き直そう。もう少し自分の功績を強調して報告せねば。

 

 

牢に入れられた耿曙はもう何も見えず、目の前は真っ暗だった。全身傷だらけで、内傷も外患もひどく、玉壁関で捕らえられたあの日に戻ったかのようだった。数年前、仲間が死んだ後、彼は一人で玉壁関の関門を守り続けた。一万以上の敵が襲ってきて、力が尽きた。あの日、殺したのは一千人か、二千人か?もう覚えていない。だがあの月夜に比べて、自分の武功はずいぶん進歩した。姜恒が落雁に来て以来、以前にも増して修練を積み、自己の武芸に磨きをかけた。今日に至って、武道の至高の境地を窺い見るようになった。ほんのわずかな間だったが、天心が開く瞬間という、たいていの人が一生求めても得られない終着点に達したことがわかった。間もなく命尽きるとしても確かにそれをつかみ取ることができたこの一生、満足でないはずがあるだろうか。

昭夫人の声が耳の中で響く。

「剣で人を殺す者は、剣の下で死ぬ運命を得る。彼にはそんな運命がふさわしい。」

そうだな。これが俺の運命なんだ。

 

足音が近づいてきて、耿曙は耳を傾けた。

「あなたは血月を打ち負かしたのですね。」項余の声が牢の扉の外から聞こえた。

「奴は恨んでいたか?」耿曙は項余がなぜ今頃来たのかと聞いたりはしなかった。救わなかったのは事実だが、理由がどうであれ仕方ない。本来項余には自分たちを助ける義務はなかったのだから。

 

「聞くところによると彼はずっと海閣に執着があったようです。鬼先生に中原から追い出され、輪台で兵を募り、いつか巻き返しを図ろうと準備していたとか。」項余が言った。

「負け犬の逆恨みだな。」耿曙は冷ややかに言った。

「上将軍、彼の服の中からこんなものを見つけました。」部下は項余にそう言って、耿曙が持っていた油紙の包を項余に渡した。「外で待っていろ。呼ばれるまで入って来るな。」項余は部下に命じた。「見るな。」耿曙が言った。項余は動きを止めた。だが耿曙は考えを変えた。

「まあいい。見てくれ。」

 

耿曙は自分がもう長くないと分かっていた。ひょっとするとこれが最後の時間かもしれない。話ができる唯一の人物は敵でも味方でもない項余だが、言っておきたいことがあった。

「そういうことだったのか。」項余は油紙の中身を読むと、元通りに包みなおした。

「彼に言ってもらえるか?」耿曙が尋ねた。

「江州を出た日に言った通り、会うのはあれが最後でした。その機会はもうないでしょう。」

「もしいつか、人を介して彼に知らせることがあれば、どうか、その人には言い方に気を付けるようにと伝えてほしい。彼がつらい思いをしないように……昭夫人の息子ではないとか、耿淵の息子でないとか、みなし子だとか思わせないでほしい。この世の中で、全くの一人ぼっちではないと……。」耿曙の言葉は一人語りのようだ。まるで夢の中にいるように。

「……必ず思い出させてほしい。俺たちに血のつながりはなくても、俺は変わらず彼の兄だと……。彼が弟であろうとなかろうとそんなことは重要ではない。彼は彼だから。彼は恒児だから……。」

 

突然項余が言った。「君を誤解していたようだな。」

「何だって?」耿曙は見えていない双目を見開いた。

項余は持って来た瓶を床に落として粉々に砕き、入っていた丸薬を外に出した。耿曙は疑問でいっぱいになりながら、手を伸ばして薬に触れた。しばらくすると項余は立ち上がって出て行った。

 

 

―――

翌朝。

姜恒が界圭の息があるか確かめると、界圭は目を閉じたまま、淡々と言った。「まだ生きていますよ。」姜恒はほっと息をついて、界圭の体を探り始めた。界圭は再び口を開いた。

「私の体をやたらと撫でまわさないで下さい。私はお兄上ではないんですからね。」

姜恒は聞かなかったことにした。「お金はある?」

「銀の面があります。あなたのお父上がくれたものです。持って行って砕いてお金に換えて下さい。」

 

「へえ、お面は父さんがあなたにあげたんだ。二人がそんなに仲良しだと思わなかった。私は買い物をしてこなくては。郢軍の大営に兄さんを救いに行く準備のためだよ。だけどまず……あなたのためにどこか養生する場所を見つけて来るから待っていて。」

界圭は気合を入れなおし、黒剣を取ってそれを背負った。

 

「あなたはどう思います?耿淵の奴は、汁琅と汁琮どっち贔屓だったのでしょうね。」

界圭は片手を姜恒の肩にかけてゆっくりと山道を歩いた。

姜恒は気が重すぎて、界圭の話には全く興味がわかなかった。「汁琮かな。」適当に言う。

「そうは見えなかったな。」界圭が言った。

「もう死んだ人のことでいつまでも焼きもちをやいてなくてもいいんじゃないの?」

姜恒は界圭が汁琅を愛していたことはわかっていた。友達とか兄弟の愛ではなく、恋人を愛する本当の愛情をもって汁琅を愛していた。みんなが、「界圭の痴情」というのはそのためだ。

 

「焼きもちだけではありませんよ。耿淵の魂はまだ彷徨っていると思いませんか?彼の鬼魂がこの黒剣には憑いているんです。天意とも言えますがね。あなたに何かある時にはいつでも、剣を持つ人が違っていたとしても、最後には必ず黒剣があなたを救うのですから。」

姜恒は「うん、」と言いながら、さっきまで考えていた救出計画に思考を戻した。

まずは変装用の道具を用意しなくては。それから界圭を郢軍兵に変装させて大営に潜入させ、耿曙を探して連れ出させる。解毒薬も要しなくては……どんな毒に当たったのだろう?目が見えなくなったということは、血月の毒だろうか?

 

「私は最近ふと思ったですよね。昔、汁琮は耿淵をどう扱っていたか考えてみたけど、そんなに良かったっていう風には見えませんでした。」界圭は頭を撫でながら、少し疑わしそうな表情で話を続けた。「友情の為だけに耿淵は自分の目を害して安陽に7年も潜伏したりは絶対しないと思うんです。しかもですよ、成功したらさっさと妻と子を連れて逃げればいいじゃないですか。なんだって安陽に残って自害なんかしたのでしょう?」

 

姜恒の心は今、焚きつけられているかのように急いていた。それなのに界圭はいつまでも切々と回想を続けている。あきれ笑いしそうになるが、界圭に話を止めさせるのはよくないだろう。界圭は心に思うことがたくさんあっても誰にも聞かせられずにいるに違いない。汁琮は元々彼を相手にしないし、姜太后の前で話すこともできない。太子瀧にもだ。話せる相手と言えば私だけなのだろう。

 

界圭は再び真剣そのものといった感じで言った。「それで私は考えたのです。耿淵は汁琅が死んだときに殉死しようと心に決めていたのだろうなとね。」

姜恒は言った。「奥さんがいたんだよ。子供もね。汁琅のことを好きだったはずないよ。汁琅はあなたのもの。あなたの、界大旦那の、界殿下のものです。誰も取らないから、心配しないで大丈夫!」

 

界圭は嫉妬している。到底受け入れられないことだった。汁琅が死んだと知った時、彼は殉死せず、耿淵にその役を奪われた。それは一生越えられない壁となった。共に死にもしなかったのに、どの面下げて彼を愛していると言えるだろうか?毎夜思い出し、ずっと後悔し続けている。だが、生きることを選んだ理由を考える時、全ては汁琅の忘れ形見のためだという所に行きついた。その思いは、今までの年月ずっと彼の支えとなっていた。

 

「汁琅のいったいどこがそんなにいいの?彼のために死にたいだの生きたいだの思う人がそんなにたくさんいるなんて。」姜恒が尋ねると、界圭は、「たくさんいませんよ。私だけじゃないですか?」と言った。姜恒は自分が言ったことを考えて、そうか、と思った。

「彼は孤独な人でした。あなたと同じようにね。私だけが彼を愛していた。ああそうだ、あなたのためならどんな危険も厭わない人間が、あなたには二人います。ということは、彼の倍ですね。」姜恒は心の中で呟いた。『はいはい、その通りだからもう話は止めて。私は今、一刻も早く兄さんを救わないとならないのだから。』

 

渓谷には薄霧が立ち込めていた。界圭は遠くから犬の鳴き声が聞こえて来るのに気づいた。

「あなたの鷹は?」

「偵察している。」姜恒は空を仰いだ。今では海東青の飛び方をだいぶ読めるようになっていた。「山里に誰かいる。」

「早く逃げましょう。おそらく我々をつかまえに来たのですよ。」

 

 

船頭、洗濯女、占い師、物売り、門番、胡人、

給仕、番頭、御者、兵士、狩人、刺客。

十二人に加えて、血月門の門主。今回の中原での任務は前代未聞の惨敗が続いていた。

門主は深手を負っていた。黒剣を手に入れることができなかっただけでなく、既に9人失っていた。老人は咳き込みが止まらなかったが、薬を飲んでから、すこしずつ楽になってきていた。耿曙が捕らえられたことで、大きな障壁は無くなった。あとは半分死にかけた界圭と武功が人並みの姜恒だけだ。

 

岩に腰を下ろした門主に刺客が言った。「例の鷹が近くにいるのが見えました。」

「黒剣を手に入れろ。輪台に戻ったら、しばらくゆっくり休めるだろう。」老人が言った。刺客は門主をじっと見た。鬼骨鞭は黒剣に砕かれ粉々になり、血月は重傷を負った。あの若者は本当に凄腕のようだ。狩人が口笛を吹くと、一匹の犬が戻って来た。

「彼らは少し離れたところにいます。我らは後を追いましょうか?」

「一緒に行くとしよう。離れ離れにならないように気を付けよう。勝ち目が見えた時こそ、慎重に動くのだ。」

体の大きな兵士がやって来て老人を背負い、沢に沿って山に入って行った。やがて、昨夜、界圭と姜恒が河から上がった場所に着いた。

「どうした?」覆面をつけた刺客が、表情のすぐれない狩人に問いただした。

狩人は犬を見るようにと示した。飼っている猟犬を四匹追跡に出したのに戻って来たのは一匹だけだ。「みんなどこに行ったんだ?」狩人は一人呟いた。

刺客は本能的に何かあると感じたが、その答えはすぐにわかった。

 

渓流の畔に、7、8才くらいの少女が座っていた。黒い袍を着て裸足の両足を渓流に浸けている。足元には猛犬の死体が三つあって、流れ出た血が川の水をうっすら赤く染めていた。

彼女には殺気はなく、刺客ではない。彼らから十歩離れたところに座っているだけで、全く危険な雰囲気はなかったが、それでも黒衣の少女が一人だけでこんな山深くにいる光景は、とても奇異な感じがした。手には一本の剣を持っている。

 

「わしを下ろせ。」老人は彼女を知っていた。少女の名は『松華』、彼女の剣は、『繞指柔』と言う。松華は顔を上げて彼らを眺めた。

「弟子には弟子の規則が、師父には師父の規則がある。違うか?」

老人は応えなかった。重々しい表情で少し後退してから腰につけた細剣を抜いた。

松華はただそれを見ただけだったが、老人は手の震えを止められなかった。すでに鬼骨鞭を失い、重傷を負った体では、松華には三手も出せないかもしれない。

松華は再び言った。「国君には国君の規則が、兵士には兵士の規則が、天子には天子の規則があり、刺客にだってあるのだ。刺客の規則が。」

 

刺客は老人の様子を見て、うかつに手を出そうとはしなかった。自分はきっとここにいる人物の相手ではないかもしれないと思った。

最後に松華は言った。「規則を破るのはよくない。家に帰ってしばらく待つべきだ。」

「私の弟子がすることだ。君には関係ない。」

「関係ない。」松華は渓流の方を向き、冷たく流れる水の様に視線を戻した。「だがお前が手を下すなら、関わらねば。初めにみんなで決めたはずだ。我らが去ったからと言って、お前たちがなぜ勝手に戻って来る?」

「それなら、我らは去ることにする。」老人が言った。

「気を付けて。送らない。」松華はゆっくりと言った。

老人は半歩後退してゆっくりと振り返った。だが振り返った瞬間、松華が手を上げ、軽く震わせた。その場にいた者が同時に大声を上げて退いた。

老人の首の後ろから貫かれた繞指柔剣が喉を突き破って刃を見せていた。彼は、一人の少女の剣によって家畜の様に殺された。手を出す間もなかった。

 

三人の弟子は肝を冷やして退き続けた。松華は追いかけもせず、無表情のまま言った。

「剣はいらない。お前らにやる。」血月の死体を収めようという者はなく、みな次々に逃げて行った。老人は目を見開いたまま、自分がこんな荒れ果てた山の中で死んだのが信じられないようであった。彼の半身は渓流に浸かり、喉から流れ出た赤い血が、紅い帯の様に水の中に流れ出ていた。

松華は立ち上がると森の中へ、ひらりと消え去った。

                   (松華、犬は殺さないでほしかった。)

 

 

第155章 眠れぬ夜:

 

姜恒は天を仰いだ。「追っ手はいなくなったみたい。」

彼は界圭と共に渓谷を離れ、丸一日歩いた。界圭は初夏の柔らかい桃をもいで姜恒に食べさせ、二人は何とか腹を満たした。姜恒は村を探し始めた。

「気を付けて下さいよ。今や全天下があなたを殺そうと追っています。全く空前絶後の大盛況ですよ。」確かに今や全世界が敵となった。郢、代、鄭、梁、雍、どの国も皆彼を殺したがっている。こんなにも天下の敵となるなんて、姜恒自身も思いもよらなかった。彼が死んだ暁には天下人はさぞ喜ぶことだろう。

 

夕闇が迫る頃、姜恒はようやくどこかの村にたどり着いた。そこには安陽から逃げて来た人々が大勢いた。大戦の後、民の中には鄭国へと逃げた者もいれば、まだ陥落していない梁国東方の小城鎮のどこかへと逃げた者もいた。

 

姜恒は最初に界圭を休ませ、次に簡単な情報収集を始めた。十二歳の小梁王は逃がされて、今では崤関に入った。鄭国が軍備を増強し、梁軍を終結させており、梁の復国を計っているところだろう。

逃げて来た民は色々な物資を持って来ていた。姜恒が最も必要としている薬や、変装用の芋の粉もあった。先ずは界圭の怪我を治さなくては。肉まで切れた手に薬を塗りなおして包帯を巻かなくては。界圭は失血した後、水に落ち、高熱を発していた。熱を下げようと、姜恒は倍の量の劇薬を煎じて、飲ませた。「きっと持ちこたえるから、ゆっくり休んで。」

界圭は見捨てられた子供の様に、全身汗びっしょりになって、とこの上で呻き続けた。

姜恒は芋の粉を捏ねて硝や明礬を混ぜ、変装の準備をした。

夜半過ぎ、界圭の熱がようやく下がって来た。

「何で私が耿淵の息子なんか気にしなきゃならないのです?」界圭は夢を見たのだろう。目覚めて第一声がそれだった。

また始まった。姜恒はそう思った。

「そうだ。何であなたが耿淵の息子なんか気にしなきゃならないんだろうね。あなたと彼は敵でも友でもなかったのに。さあ、顔を変えさせて。どんな風になるか見てみよう。」界圭はじっとして、姜恒にされるがままになっていた。

「二人で逃げましょう。お兄上にはかまわずに。」

「一人で行って。私も耿淵の息子だよ。」

界圭は何とか笑ってみせた。「すっかり忘れていました。」

「あなただけじゃなくて、みんな忘れているんだよね。」

黄河沿いでの話は皆に注意を促すためのようなものだ。この世の中でたった一つだけの、最後の未練を奪い去られた時、姜恒だって敵を巻き込んだ共倒れはできるのだと。

玉壁関での暗殺未遂など、傷が治った汁琮はもうその痛みを忘れてしまったらしい。

 

 

―――

安陽城南、大牢の中。

耿曙は全身汗だくだったが、奇跡的に生き伸びていた。再び少しずつ視力が戻り、内傷の痛みもわずかに残るだけだ。彼は天窓の柵を見上げた。ひょっとしたら逃げ出せるかもしれない。だが、屈分は先に想定していたかのように、徹底して食事も水も与えないようにしていた。耿曙の喉はひりひり痛んだ。少しでも水を飲み、腹を満たさねば、傷が癒えたとしても力が出ない。

 

外は守衛だらけで、彼には武器もない。その時、遠方から軍隊が動く音が聞えて来た。

また戦いが始まるのか?姜恒はどこへ行ったのだろう。安全でいるだろうか、血月に追われていないか。安陽では再び一触即発で開戦となりそうな状態だった。ほんの一月の間に、この千年の古都では有史以来最も立て続けに戦乱が起こっている。だが今日の所は、まだ郢軍は北城を強攻してはいない。少なくとも今のところは。城中の人々が山道を上って、四方八方の山の頂からその様子を怯えながら見守っていた。

 

数万もの郢軍が地を巻いて、城南に陣を開き、雍軍は城北から王宮を越え、郢軍と遥かに対峙している。梁都の主要道である飛星街を境として、双方待ちの態勢をとっていた。屈分と項余が全身を武鎧に包み、馬に乗ってゆっくりと前に出て来た。

汁琮、汁綾、曾宇も雍軍側に並んで、郢軍と向かい合った。汁琮は二日前の出来事について、将校たちや妹と話すつもりはなかった。そして今でも血月が姜恒の頭を持って来るのを待っていた。だが目下の所、外敵がいる。先に外敵を始末しなければ。

 

「雍王陛下、」屈分が朗らかに声をかけた。「いつになったら約束を果たしていただけるのでしょうか。」

「約束とは何だ?」汁琮は冷たく言い放った。「孤王は何の約束もした覚えはないが。」

屈分は笑顔を浮かべた。「話をしましょう。そちらには一人足りないようなのに、まだ気づいていないのですか?」

汁琮は朗らかに言った。「話があるならすればいい。君たち南方人の掛け合い漫才には慣れん。話がないならもう帰ってくれ。」

汁綾の顔が青ざめたが、言いたいことは飲み込んだ。

屈分が再び言った。「いいでしょう!ずばり言うことにします。お互い蛮夷同士、蛮夷の規則に従うことにしましょう。」

「自分を蛮夷と言うのはいいが、それは君たちだけだろう。なぜ孤王まで一緒にする?」

「あなたの息子を預かっています。彼の命はいらないのですか?」

 

雍軍兵たちは瞬時に大騒ぎとなった。皆、二日前の出来事のことは聞いていたが、何故汁琮が王子汁淼を手にかけたかはわからず、話はどんどん行きわたり、大きな噂となっていた。

だがまさか郢人が恥知らずにも堂々と雍国王子の命を使って脅しをかけて来るとは!

 

汁琮は応えなかったが、汁綾は冷たく問い返した。「何が欲しいの?」

屈分は答えた。「すぐに兵を連れて安陽を出て行くことです。それと金璽を渡してください。もう何日も立っていますよ。急いでください。もうここにあるのでしょう?そして玉壁関にお戻りを。機会があれば、またやりあいましょう!」

雍軍は怒りに沸き立った。これ以上ない憤りを込めて屈分をにらんだ。だが汁琮は言った。

「息子?息子とは誰だ?我が息子は落雁城にいる。他にどんな息子がいると言うのだ?」

 

屈分は汁琮が自分より更に恥知らずだったとは思っていなかった。彼の表情が一変した。つい先日、汁琮は王宮正殿で会った時に、自ら言っていたではないか。

『私には息子が二人いる。一人は落雁にいて、もう一人は君の目の前にいる。』

確かにそう言った。今になってそっぽを向いて知らぬというのか?屈分としては言い争う気はなく、冷笑するしかない。

「それでは、明日朝一番に、この場で彼に死を与えるしかなさそうですね!」

「それはご苦労なことだな。」汁琮は自分としては全くかまわないという意味を込めて言った。「明日は我らも参観させてもらおう。出立!宮へ帰るぞ!」

屈分:「……。」

雍軍はあっという間にきれいさっぱりいなくなり、屈分の当ては外れた。

項余は気楽な態度で一枚の桃の花びらを手のひらから放った。花弁は風に吹かれて自分の方に飛んで来た。ここ数日、西北からの風が吹いているようだ。

屈分は項余を見た。項余は言った。「お前が自分で言ったことだ。うまくいかなかったな。」

「奴はどっちみち死ぬことになっていた。」屈分は怒り心頭で馬を走らせ去って行った。

 

 

―――

まだ一日猶予があるかどうか姜恒にはわからなかったが、事態が急を要すことはよくわかっていた。彼は村で二頭の馬を買い、郢軍の服に着替えていた。海東青が飛んで行く方向に、界圭と二人、馬に鞭を当て、急ぎ安陽城に戻って行った。

待っていて……。姜恒は心の中で何度も言い続けた。兄さん、絶対に私を待っていてね。

そしてこの時、雍軍大営内では大騒動が沸き起こっていた。動乱と言えるほどだ。兵士たちは出撃命令を請い、王子を助け出しに行くことを求めた。安陽では今にも大戦が始まりそうだ。郢、雍双方は城の南北に分かれて強弩を架け合っていた。

 

耿曙はあの日、先頭に立って、血まみれになりながら雍国のために安陽を奪い取った。その姿は記憶に新しい。彼は全てを賭けて、命の限り戦って雍国を勝利に導いた。父は雍国の国士、息子は雍国の英雄だ。耿家は雍国のためにこんなにも多くを差し出したのだ。その彼に敵の手の中で屈辱的な死を与えることなどできようか?

 

汁綾は軍帳の中で、足の靴ひもを結んでいた。夜行服に身を包んでいる。様子を見に来た汁琮が、自身の軍隊を目にした。馴染みのある光景だ。―――あの年、耿淵の死が伝えられた夜も、軍中にはこんな破裂寸前の空気に満ちていた。全く一緒だ。

「どこに行く気だ?」汁琮は汁綾の軍帳に来た。部下は屏の外で待たせている。

「てっきりあなたは誰かを遣わして彼を救い出すつもりかと思っていたわ。」汁綾が言った。

「狂ったのか?十万の郢軍が城南に駐屯しているのに、お前は三千の兵を連れて忍び込む気か?奴らが今夜、それに備えていないとでも思っているのか?」

汁綾は怒りのあまり叫んだ。「だったら彼を死なせるの?!あなたの実の息子ではなくても、耿淵の残した子なのよ!雍国兵たちに言えるの?彼は自分に背いたって!だから救わないつもりだって!しっかり目を見開いて彼が死ぬのを見るつもりだって!」

汁琮は汁綾に返す言葉がない。彼自身にも説明できなかった。

汁琮は曾宇に言いつけた。「公主をよく見張っておけ。どこにも行かせてはならん。」

汁綾は突然剣を掲げて立ち上がった。だが長兄には備えがあった。軍営は刹那ざわついた。汁琮は汁綾に思い切り拳で殴られ、営帳外にまでふっ飛ばされた。

 

「陛下―――!」

すぐに親衛隊が押し寄せて来た。汁琮は目の角についた血をこすり落とし、ゆっくりと立ち上がると、曾宇に命じた。「彼女を玉壁関に送り返して、頭を冷やさせろ。」

曾宇は答えた。「はい。」

汁琮は厳かに告げた。「汁淼は敵の手に落ちた時、遺言を残したのだ。自分を救わないようにと。彼の元で戦った兄弟たち、将校たちには彼の死にざまを目に焼き付けてほしいと。永遠に忘れずに、いつか復讐を遂げてほしいと。」

 

曾宇は応えなかった。汁琮は再び言った。「長く生きたとて、死なない者がいようか?彼は自分の人生の終え方を早くからわかっていた。彼の英魂は大雍を守ってくれるだろう。いつか、江州王宮で再び会える。」曾宇は黙して語らなかった。汁琮が言った。「覚えたか?」

曾宇は答えた。「しっかり覚えました。」

「なら行け。」汁琮はそう命じながら、目の角を押さえた。汁綾の一撃は強かった。目の周りがじんじんと痛んだ。

 

死者の最後の言葉を作るのが彼は得意だ。操れない者は殺すしかない。だが殺すにしても、最後までその死を有意義なものにしなければならない。汁琮は誰にでもその人なりの価値があると信じている。生まれて死ぬまでに行う全てが、その価値には含まれる。

耿曙は、物として用い尽くした後も、彼の放つ余光、余熱が雍軍の士気を鼓舞してくれる。兵が哀悼する力を借りて、全軍に復讐の気持ちを湧き起こせれば、いつか江州を攻撃するときに都合がいいだろう。

汁琮は正殿の前に立って、心の中で言った。『君の息子はわからずやで私に背いた。これで君たちは一家三人、空の上で一家団欒できるだろう。」

 

知らせは万夫長以下、千人隊へ、更に百人隊へ、そして十人隊、五人隊へと伝わり、一夜にして全軍が知ることとなった。八万人が眠れぬ夜を過ごした。

安陽に最後まで残っていた人達も、この夜、先を争うように王都を出て行った。彼らの住処は、明日には空前絶後の大戦を迎えることになるからだ。蹄鉄の下、誰一人生き残ることはできないだろう。人々は潮が引くように南門に向かった。項余の部下である軍隊は姜恒との約束通り、城門を開けて、彼らを自由に出て行けるようにした。

そして安陽に残っているのは郢軍と雍軍だけとなった。明日の朝、耿曙の公開処刑が行われた後には、双方不死不休の決戦が待っているのであった。