非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 171-175

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第171章 東から来た屍:

 

「少し……考えさせて。」姜恒は心が乱れ、どんな顔をして耿曙に向き合うべきかわからなかった。

「わかっている。」耿曙は真剣に答えた。自分だって長い時間さんざん悩んだ。姜恒にだけ一杯の酒を飲み干す間に答えを出せと言えるはずがない。

「せかすつもりはない。今夜以降、二度とこの話を持ち出さない。例えお前がすべて忘れたり、俺が何も言わなかったことにしたってかまわない。俺はただ言っておきたかった。言ってしまったら、だいぶすっきりした。」

 

姜恒はとても恥ずかしくて耿曙と目を合わせられず、川面に目をやった。その時だった。河の中に黒い影が見えた。姜恒は我に返った。「あれは何?」

耿曙はすぐに警戒し、姜恒に後ろに隠れるようにと合図し、黒い影を見ようとした。だが黒い影はただ流されるままになっている。川に潜んだ刺客ではなさそうだ。近くに流れてきた時、それが屍だということがわかった。これまで数えきれないほど屍を見てきた姜恒でもこの光景には鳥肌が立った。美しい星夜の静寂の中、たくさんの屍が続々流れてきたのだった。

 

「死体だ。」姜恒は立ち上がった。一時耿曙の話から気持ちがそれた。「こんなにいっぱい!」たくさんの屍が済水の東側から水の流れに乗って漂流してきた。

姜恒は顔を向けて河の流れを見やった。最初の一体に続いて、三体、五体、死んだ人々の顔は下向きに水中に埋もれている。その数はますます増えてくる。

「兄さん。」

耿曙が水中をのぞき込むと、今や水中は漂流する屍でいっぱいだった。河口付近に堆積しだしている。両岸にいた鄭国の人々も気づいて、大騒ぎになってきた。

 

千を超える遺体が流れてきて済州城内に漂着した。やがて騒ぎは収まり、人々は済水橋の上や、岸辺に立って、灯火と天の川にが照らされた目の前の光景を見ていた。

孫英があの少年の手を牽いて橋の上に来て川に目をやり、二人に向かって口笛を吹いた。

耿曙は岸辺に船をつなぎ、二人は急いで船を降りた。屍の数はどんどん増えてきて済水を埋め尽くすようだ。その光景は町中に衝撃を与え、ますます多くの人が集まってきて、竿で遺体を岸に引き上げだしたが、鄭軍が大声を出して人々を追い払った。

 

「禹南から来たんだな。禹南城外の河が済水まで通じている。」耿曙が姜恒に言った。連日の豪雨で、黄河、長江ともに氾濫した。亡くなった人々が川の水にのまれた。水位も上がり、二万近い遺体が済水に流され、まっすぐ鄭の地に入ってきたのだろう。

耿曙は中原の地形を熟知している。四つの関だけでなく、河川についても詳しい。

 

地形についてはその通りだった。翌日、太子霊が調査報告をさせると、確かに禹南から死体は流れてきたのだが、禹南でこんなに死体が出たのは、汁琮がすでに潯水三城に近づいて来たからだった。

一夜明けた城内では人々の間に一気に不安が広がり、城から逃げる者も出始めた。

「出て行く者は引き留めなくていい。そのまま行かせなさい。」太子霊は淡々と言うと、立ち上がった。そして意外にも全く関心を持たずに出て行った。殿内いっぱいの文官、武官は顔を見合わせた。孫英が報せを持ってきた。「禹南は全城死んでも投降しない構えで、汁琮に屠城され、老若男女合わせて、一万四千七百人が命を落としました。奴らは禹南に二十五万の兵を集結させたのです。」孫英は殿内に腰を下ろし、深刻な表情で報告した。殿内は水を打ったように静まり返った。

 

姜恒が言った。「汁琮が屠城したのは見せしめのためでしょう。南の人たちに知らしめたいのです。自分が屠城すると言ったら、本当に屠城するのだ。投降しなければ、死あるのみだと。この後潯水三城を攻めるときは、兵力を節約するために、まず投降を呼びかけるのかもしれません。各位どう対応すべきかお考えはありますか。」

一同は青ざめていた。今日集まった者たちの表情はとても変だった。先ほど姜恒は正殿に来るまでの途中で、公卿家は荷物をまとめて済州を離れ、夷州などに逃れ始めたという話を耳にした。ここにいる士大夫家主たちは、自分は済州に残って死ぬつもりで準備をしたのだろう。家族や後継ぎだけでも命の危険を心配しなくて済むように逃がしたのだ。だが土地を失ったら、彼らとて、どのくらい持ちこたえられるだろう。

辺均が咳ばらいをして話し始めた。「雍人が南下し、今やその勢いは止められません。強く出れば強く当たられる。死んでも退かずでは、結局民を苦しめます。今までの道のりで、汁琮は交渉の機会さえ与えようとしなかったため、彼の要求が何なのかもわかりません。」

役人たちは何も言わなかったが、姜恒が見た感じではそれぞれに思うところはあるようだ。

諸令解が冷静に尋ねた。「左相のお考えでは、汁琮は何を望んでいると思われますか?我らが引き換えに差し出せるものは何でしょうか?王室の者の首か?それとも南方の城鎮でしょうか?」

辺均は言った。「一時の辱めに耐え、成りを潜めて時を稼ぎ、東の山から再起の日が昇るのを待つのも、一つの方法かと……。」

「火に油を注ぐだけだ。」諸令解が言った。「油が尽きねば、火も消えぬ。左相はよもやお考えか。雍と土地を分かてば、やつらの東進の歩みは止められるとでも?!」

辺均は反駁されることはわかっていた。だが、それはここにいる役人たちも考えていたことだった。ただ自分からは言い出せなかっただけだ。

 

「お二方はどうお考えかな?」諸令解は姜恒と耿曙に向かって言った。

姜恒が口を開く前に、耿曙が言った。「あんたと話しても仕方がない。話すべき相手が戻るのを待つ。」

朝廷は烈火のごとく怒りに燃えた。太子霊が席を立った後で、怒りの矛先を見つけたとばかり、誰もが罵詈雑言を耿曙に浴びせた。国君の面子などもう知ったことではない。

耿曙は動じず、姜恒の方を見た。姜恒は夕べの一件で、急に耿曙が違う人になったような気がしていた。以前なら彼がすることは何でも姜恒には慣れ親しんだことであった。

すごく落ち着いている……と姜恒は思った。雍都にいた時も、耿曙は雍臣に対して、こんな風に相手に対してお構いなしな、何を言われようが気にもしないという態度をとっていた。ただ自分がそのことに注意を払っていなかっただけだ。今何を考えているんだろう?

姜恒はふとまた疑問に思い、自分が思っていたほど耿曙を理解していなかったことに気づいた。だがその堂々とした態度は、心を落ち着かせ、頼りがいを感じさせた。

 

その時、知らせを告げる声がして、姜恒の逡巡はそこまでとなった。

「龍于将軍、登朝ーーー。」

龍于が殿内に入ってくると、罵り声がぴたりとやんだ。鄭国では名実ともに高く権威ある将軍ではあるが、今この時にここに現れるとは誰も思っていなかった。龍于は相変わらず俊美であったが、憔悴したように見える。姜恒は数年前に一度会ったことがあったが、その時は眼差しに少し哀愁を漂わせつつも、精気みなぎる様子だった。今は鄭王の喪に服し、黒い袍に身を包んでいる。亡霊のように立つ長身を見て、姜恒の脳裏には三つの文字が浮かんだ。未亡人。

 

「来たのですね。」龍于は姜恒と耿曙を見て言った。姜恒は頷いた。龍于が言った。「崤関から二万の兵を連れて来ました。途中で潯水三城から四万と、梁軍の最後の御林軍、八千を足して六万八千です。王陛下は私に、力を尽くしてお二方に協力し、汁琮を撃退して王都を守るようにと仰せになりました。」この言葉に対し殿内で異議を唱える者はいなかった。

 

「上々だ。」耿曙はようやく望みの物を得て、「兵馬を集め、すぐに出発し、潯東を救援しに行ってくれ。」と言った。

「わかりました。」龍于は頷き、朝臣たちに言った。「後方支援については、大人各位にご手配願います。」

落雁の戦いで車倥が命を落とし、その弟の車擂が軍を引き継いでいる。龍于の地位は、今や代鄭最老の上将軍となった。その日のうちに、城内では兵馬の準備が始まった。姜恒は後方物資の調整を始め、耿曙が軍の兵糧不足や補給で問題を抱えないよう確保を行った。

「私たちは一緒に出征するの?」姜恒は耿曙に尋ねた。

耿曙と龍于は兵簿を見ながら、兵士たちの再編成をしていた。午後には軍隊の検閲をして、明日になったら兵士たちと寝食を共にして、戦時体制に慣らす。

「お前は行きたいのか。」耿曙が尋ねると、姜恒はしばらく黙った後で頷いた。

「なら一緒に行こう。」耿曙は言った。

 

あの夜以降、耿曙は人が変わったようだった。夜には姜恒と一緒に寝ようとせず、何事も姜恒の決定を求めない。自分のことは自分で決め、姜恒のことは彼に選択させるようにした。例え姜恒が刺殺される危険にさらされるとしても、耿曙はもう強いることはしなかった。

龍于が言った。「戦況は随時変わるもの。私も姜大人が随行して参与した方がいいと思います。」

姜恒は頷き言った。「ただ、兄は今顔を見せるわけにはいかないので、私が変装術を施します。」英傑として追封された雍国王子がまだ生きていて、敵軍を率いて雍軍と戦うのだ。ことは重大で、そう簡単に知られるわけにはいかない。―――彼が姿を現す時、それは汁琮が死ぬときでなくては。

 

龍于は耿曙が何を考えているか見当がついているようだったが、問いただそうとはしなかった。姜恒は言った。「私は趙霊の様子を見てきます。明日はもう出兵することになるので。」

耿曙は頷き龍于と打ち合わせを続けた。姜恒は書房を出て、太子霊の神殿の前に行った。

太子霊の温和な話し声が聞こえ、戸を開けて入っていくと、彼は一人の侍衛に抱かれて書を読んでいた。「ああ来たか。これは趙炯だ。趙炯、こちらは姜大人だよ。」

姜恒:「……。」

趙炯という名の侍衛は、見た感じ、太子霊より少し若く、三十を過ぎたくらいだろうか。特段美男というほどでもなく、容姿は平凡だが、性格はとても良さそうだった。

「遠縁のいとこなんだ。」太子霊は体を起こしたが、姜恒はそのままで大丈夫と合図した。趙炯は太子霊を胸に持たれかけさせ、一時でも動きたくなさそうだ。

「お別れを言いに伺いました。明日、私たちは共に潯水に向かいます。」姜恒が言うと太子霊は頷いた。「私はあなたたちと一緒に行った方がいいか、それとも済州に残った方がいいかな?」

「状況次第ですが、まずはお残り下さい。必要があれば手紙を持って行かせ、お来しいただきます。」

太子霊は再び頷いた。姜恒は興味深げに趙炯という侍衛をちらちら見ずにいられなかった。「彼はダメだぞ。」太子霊が笑った。「戦えはしない。私の傍にいてくれるだけだ。」

姜恒も笑顔を見せた。太子霊の衣服ははだけ、白い胸を露出させていた。体の前に置かれた趙炯の手を握って言った。「私が死ぬとき、趙炯も一緒に逝ってくれる。その時は宜しく頼む。できれば彼を私の傍に葬ってくれ。」

「わかりました。」姜恒は頷いた。

「感謝いたします、姜大人。」趙炯がようやく一言言った。

姜恒は幸せそうな二人を見て思った。ひょっとして太子霊にとっては今が人生で一番自由な時なのではないだろうか?この何日か、彼はもう鄭の国君でも、子供の父親でもない。誰かのために生きることも、別の人物を演じることもない。本当の自分になれたのだ。姜恒はもう趙霊の邪魔をしたくなかったので、二言三言話した後、すぐに退席を告げた。

 

寝室に戻った時、龍于と耿曙は王宮を出て、軍隊の確認に出かけた。夜になって戻ってきてからは、再び戦術と対策の話し合いをしていた。ほとんどは城内守備についてだ。姜恒は二人の邪魔をしなかった。深夜になって龍于は帰って行った。

耿曙は肩を動かし、ため息をついた。姜恒が変装用の下地を練り終えやってきた。

「一日中何もやることがなかったような感じだな。」耿曙が鏡を通して姜恒を見て言った。姜恒は口を尖らせた。「あなたがいないと始まらないでしょう。さあ、少し上を向いて。」

「俺の話のせいで、集中できないんじゃないか?」

「口を開かないで。」

姜恒は柔らかな指先で耿曙の顔をなぞり、下地を塗り重ねて顔の輪郭を変えていく。耿曙の顔は少し熱を帯び、首筋が少し赤みを帯びてきた。

二人がともに育ってきた年月に、これよりずっと親密な行動をしてきた。それでも今、耿曙の温潤な唇を見ると、姜恒は胸がどきどきしてきた。そして耿曙が自分に口づけした時のことを思い出していた。耿曙の性格は剛強無比だ。越人の、『瓦として全うするより玉として砕けることを望む』気質が体の隅々までいきわたっている。だが、その唇は彼の心と同じく柔らかい。そのやさしさは全て姜恒に向けられてきた。

「何か別のことを考えた方がいいぞ。」耿曙は口角を整形された後で言った。「この後やることがたくさんあるだろう。」

姜恒は上の空だったことに気づいた。鄭国の危機に対応しなくてはならない時に、判断力を欠き、こんなことを考え続けてしまうなんて。

「何を考えたらいい?顔を少し横に向けて。」

「うまくいったらその後どうする?お前は天下統一の大業を今でもやる気か?」

「汁琮が死んだら、梁国が復国して、天下は再びバラバラになる、そう思っているんでしょう?」

「もしくは、鄭国が雍国を撃退するのを後押しし、再び裏切って汁琮の位に座り、自分で鄭を打つというのはどうだ?」

姜恒は笑い出した。「興味ないよ。」

「そうか。」耿曙は言った。

すでに解決不能な問題になってしまったような気はしていたが、それでも姜恒は言った。

「確かに考えたことはある。今までに二人で天下五国全てに行ったけど、洛陽天子王宮にあった政務文書もの内容を、どこの国の国君よりも自分の方がよく理解しているって。」

「うん。」

「五国の状況も私は大体わかっている。そうだね、あなたの言う通り。私も真剣に考えてみなくてはね。はい、できた。」

 

耿曙は鏡に映った自分の姿を見た。目立たない風貌の男になっている。眼差しを除けば自分を汁淼と見抜く人はいないだろう。「今度は誰の顔だ?」耿曙が尋ねた。

「趙起だよ。とりあえずこの設定でいこう。」

「俺はお前に何とかしてほしいと思っているわけじゃない。」耿曙は少し離れたところに行って、自分の寝床を整え始めた。「事実として向き合ってほしいだけだ。恒児。」

「わかっている。」姜恒にもよくわかっていた。耿曙は、恋愛感情の問題が別の方面に影響しないようにと言っているのだ。だけど、その恋愛感情ってやつは、耿曙の方が自分に投げてきた難問じゃないか!時々あなたを殴りたくなることがあるよ、兄さん。

『兄弟』は前回同様一人は寝台で、一人は屏風の外で眠りについた。耿曙は礼節を守り、姜恒を尊重しているつもりで、姜恒もそれがわかっているから耿曙の尊重を無下にできなかった。

 

 

ーーー

第172章 神秘客:

 

翌日、大軍は予定通りに出発した。見送る者は誰もいなかったが、龍于はそれに慣れているようで、耿曙と共に軍を率いて、夜明け前に済州城を出て、潯水に向けて南下した。

自分が故郷に戦争に行くなどとは、姜恒はずっと考えたこともなかった。潯水三城は、潯東、潯陽、潯北で角の形になる、郢との国境の大都市だが、住民は国都済州に避難しており、潯東と同じく既に空城となっていた。城外には二十五万の雍軍がおり、営帳が鄭から郢への路上に一直線に展開し、山野に渡り広がっていた。海東青が空高く旋回していた。―――もう一羽の海東青の方だ。

 

姜恒は遠方の小さな黒点をじっと見つめた。「黒爪のほうだ。孟和が来たのか、兄の朝洛文の方かも。」それか二人ともか。風羽は安陽を逃げる時に耿曙が送り返した。鷹を連れていれば、二人の居場所がわかってしまうからだ。この時二人は姜家の屋根の上に立っていた。

「平陸は易きに処し、右背に高きを、前に死(低地)を、後に生(高地)を。此処すべし平陸之軍也」耿曙が言った。「覚えていたの?」姜恒は笑った。「勿論だ。汁琮は甘く見たな。」

「こんな諺もある。『一力十会に降りる』、強大な力の前では何もできない、という意味。二十五万の大軍を抱えていれば、当然油断だってするよ。次に来るのはきっと朝洛文の先鋒だね。」

「だが安心するのはまだ早い。兵営に火をつけられたらかなり厄介なんじゃないか。晩夏初秋で吹くのは北風だ。」耿曙が言う。

「彼らがそれに気づかないはずはないね。」姜恒はこの数日で知性を取り戻してきたようだ。「考えられる理由はただ一つ。火計を恐れていないんだ。遅くとも今夜には城を落とすつもりだから。」

二十五万もいればイナゴの大軍が通り過ぎるように後には草一本残らない。ちっぽけな町など津波のように押し寄せる兵の威力にはなすすべもない。城壁だって軽くひと押しで倒れてしまうだろう。汁琮はいつだって絶対的力量の信奉者だ。圧倒的な数の相手の前では、どんな計略も、謀略も役に立たないと考えている。彼から見れば今の潯東を落とすことは戦争のうちにも入らない。

 

城内では姜家の屋敷が臨時の拠点となっていて、情報が行き来している。耿曙は手持ちの兵を城壁の上の送ろうとしていた。「あんたを信用している。」耿曙は龍于に言った。龍于は鎧兜をつけ、耿曙に返した。「安心してくれ。我が武功は五大刺客には及ばないにしても通常の殺し屋なら寄せ付けもしない。姜恒のことはちゃんと守る。」

耿曙は姜恒に告げた。「行ってくる。」

「いってらっしゃい。がんばって戦ってきてね。」姜恒は答えた。

耿曙は四千の兵馬を連れて潯東を離れ、城外の夜闇に消えていった。

姜恒は不安で胸がどきどきしていた。遅くとも今夜中に汁琮は城攻めを始めるだろう。もう一人の武将、車擂は城壁を死守すべく兵を準備していた。

だけど、もし汁琮が来なかったら?自分の読み間違いだったらどうしよう。もし汁琮が今夜城を襲わず、彼の大軍が厳重に守りに徹していれば、兵営に忍び込もうとしている耿曙は最悪の場合、戻ってこられないかもしれない。退こうとしたところで、この四千人は全滅を待逃れないだろう。

 

龍于はずっと姜家邸宅の居間に腰を下ろし物思いにぼんやりしていたが姜恒に言った。

「何かやることを見つけないと。夜までまだしばらくある。琴はありますか。お父上は琴芸の達人だったのですから、きっとあなたも上手いのでしょう。」

兵営配置図を見ていた姜恒は顔を上げ、手を広げて見せた。「ありませんよ。戦に出るのに琴を持っていく人はいないでしょう。」

「それは残念だ。じゃあ、私が笛を吹いてあげましょうか?」

「それはいいですね。」姜恒は礼儀正しくそう言った。

 

龍于は笛を吹きだした。心を動かす優しい曲で、少し哀愁がこもっていた。高音が繰り返されるところは桃花が空一杯に舞い散るかのようだ。姜恒は軍法をしまった。全て決められた通り。あとは結果を待つだけだ。汁琮の主力部隊がここにうまくはまってくれれば、その後の戦局は制御できる。曲が停まると、姜恒がふと言った。「世間には五大刺客がいるというでしょう。」「うん、」龍于は笛を拭きながら言った。「耿淵、項州、羅宣、界圭、神秘客。」

 

「最後の一人はいったい誰なんでしょう?」姜恒が言った。

龍于:「誰か知られたら神秘ではなくなるから、もう『神秘客』とは呼ばないのでは?」

「龍于将軍は越人なのですか?」姜恒は話題を変えた。

「はい。姜大人は私が神秘客ではないかとお考えなんですか?」龍于は突然笑い出した。

姜恒は答えなかった。この最後の大刺客について、ずっと前から疑問に思っていた。大争の世でも彼が手を下したという話は聞かない。だが人を殺したことはあるはずだ。さもなくば、大刺客として名を連ねるはずがないではないか?

「私たち越人は、国は滅びても天下中に武の大家を輩出しました。」龍于が言った。

「うん。五国の中でも将校や、侍衛、国の大将軍に至るまで越出身者は多いですね。」

「学問の方で天下中に排出されたのはあなただけですが。」

「天下中にというにはまだまだですよ。」

「だけどあなたの本質はやはり武人だと思います。」龍于が笑顔で言った。「そう考えれば、ひょっとして姜大人があの神秘客なんじゃないかと私は疑っていますよ。」

 

姜恒には龍于が言わんとすることがわかった。ひょっとすると元々そんな人はこの世にいなかったのかもしれない。神秘客は国家転覆の際に身を挺して現れる人なら誰でもあり得るということなのだろう。そう考えれば、もう疑問に思わなくなった。

「少し寝たらいい。きっと刺客は今夜は来ないでしょう。」龍于が言った。

「そうですね。」姜恒は客間で服を着たまま横たわり、小机にもたれて少し休んだ。一時辰もすると、潯東に夜のとばりが下りた。

 

夢の中に母の姿が現れた。「母さん?」姜恒はびっくりして言った。

「昭夫人は居間を歩いてきて姜恒の傍に座った。何も言わずに微笑みながら抱き寄せ、頭をなでてくれた。居間の真ん中には黒い眼隠し布をつけた耿淵が座っていた。

「帰りなさい、恒児。」耿淵は片手で琴を押さえ、姜恒に向かって言った。「帰りなさい、息子よ。お前の本当の家に。」昭夫人は姜恒を抱く手を緩めて彼を見つめた。姜恒は目に涙を浮かべ、母の袖をつかんで離さなかった。(そんな優しいママだったか?)

だがその時、天井ががらがらと崩れ落ちた。無数の燃え盛る流星が空から降ってきた。姜恒ははっとして目をさました。城攻めの叫びや殺戮の声が聞こえてきた。

「何時になった?」すぐに姜恒は尋ねた。

「子の刻です。」龍于が急いで部屋の外から入ってきた。「あなたの予測通り、城攻めを始めましたね。さあ一緒に来て!」

姜恒は鎧兜をつけ(お♡)、龍于とそれぞれ戦馬に乗って城壁へと馳せた。火矢が城内に射ち込まれ、無数の邸宅が炎上した。兵士たちは城壁に上がって、油を下にまいた。

攻城の第一陣は十万。それを監督する部隊が行き来している。姜恒は急いで城壁に上がった。遠方から海東青がやってくるのが見えた。人影が城壁の上に現れ、龍于は弓矢を構えた。

「味方です!」すぐに人影の正体がわかった姜恒は、龍于を制止した。城壁に上がってきた界圭が叫んだ。「何でまたこんなところにいるのです?!」

 

雍軍が城頭に上がろうとしている。それは雍の鎧兜をつけてはいるが、汁琮が中原から臨時に集めた新軍だ。死士部隊として送り込まれ、味方の放つ矢の雨の中、退くことを許されぬ死戦を強いられ、城壁を上っていた。(ひでーな)

「汁琮が来たの?」姜恒が今最も恐れているのは自分の判断が間違っていることだ。

「知りませんよ!あなた方を探すようにと太后に命じられて来たんです。」界圭が答えた。

 

界圭は剣を抜いて姜恒の周りを守った。姜恒は龍于に頷いて見せた。龍于は姜恒の安全が確保されたのがわかると、領軍のため、走り去って行った。城壁の上も下も死体が積み重なり山となっていた。姜恒は界圭に説明する間もなく、城頭に飛び上がると燃え盛る火矢を天に向かって射た。城内の屋根の上に配置されていた兵たちが、次々に火矢を放った。火矢の雨が城外を覆いつくすと、次の瞬間潯東城門が開き龍于が軍を率いて出て行った。

 

龍于は少年の頃に名を上げた。ある戦いで郢国十万の大軍を退けたのだ。今や四十を超え、正に盛年。汁琮の部隊が強敵に遭遇したのは間違いない。

「兄上はどこです?!」界圭は姜恒の後ろで剣を構え、城壁の上で姜恒に向かってくる敵軍を切り殺していた。その時、雍軍が突然撤退の金を鳴らし、兵を退かせた。

「あそこだよ。」姜恒は界圭に遠方の、ある場所を見るように示した。

雍軍の後陣で突然大火が上がった。火は風の勢いに乗り、営帳を席巻していった。城門辺りの脅威も暫しなくなった。龍于軍が戦線を制圧し、城壁から一里の先まで押し返していた。

 

「朝洛文はよくやりました。まさかあなたたち二人が参戦してるとは思わないでしょうが、負けても恨みっこなしですね。」界圭が言った。

「あなたって……。」この時姜恒はついに今までに起きた色々なことの意味がわかった。

界圭は謎めいたようなしぐさをした。醜く、傷跡だらけの顔にあたたかな笑顔を浮かべると、なぜだかこの上なく英俊に見えた。『しっ』という仕草をし、それ以上言わないようにと示した。姜恒が会心の笑顔を見せると、界圭が突然言った。「あなたを抱きしめてもいいですか?」

姜恒はじっと立っていた。会計は手を伸ばしてそっと自分の方に引き寄せた。「照れくさいものですね。まあいいか。」界圭は独りごちた。どちらも少し気まずく感じ、再び黙り込んだ。姜恒は界圭に言いたいことがたくさんあった。『ありがとう』という言葉は軽すぎる気がした。まるで侮辱するかのようにさえ感じる。界圭は暗闇の中で静かに姜恒を見つめた。

「私の父さんは……、」とうとう姜恒は口を開いた。「私が父さんなら、あなたを大事にしたと思うよ。」界圭は顔を背けない。攻城の火の光が彼の横顔を映し出した。「気にしないで。私は幸せでしたよ。彼は私に好くしてくれたけど、ただ私たちは一緒に生きる運命になかったってだけです。」

 

「あの年に……。」姜恒がまたそっと言い出した。界圭が言った。「一つだけよくわからないことがあるのですよ。太后もよくわかっていないんです。お父上は彼の手で死んだのだと思いますか?」

 

姜恒はびくりとした。彼は界圭に感謝の意を伝えようとしていたのだが、そのことを彼がずっと考え続けていたとは思っていなかった。結局再び、彼らの間に重苦しい空気が流れた。

「証拠はないんだ。太后にもないんだね。汁琮が兄を殺そうと考えたとしても証拠がなければ、罪には問えない。あの時に彼も殺していたら雍国も汁家も終わっていた。それでもし父が本当に病死だったら?それに父を殺したことと、継承者である私を殺そうとすることは、別の話だからね。」

 

「私にとっては別に。」界圭は考えを巡らせながら真剣に答えた。「彼がやったのなら、雍国がどうなろうと、血脈の継承がどうであろうと、十九年前、次男坊の首に剣を当ててすっきりきれいに切り落としていましたね。」

「あなたは間違ったことはしていない。もう自分を責めないで。」姜恒は言った。

「そうですね。」界圭は何とか笑って見せ、自分の頭をなで上げた。本当は姜恒のあごに手を伸ばしてからかってやりたそうだったが、結局はがまんして再び独り言を言った。

「まあよかった、あなたが生きていて。最初はあなたが好きだったわけじゃありませんから、あなたのために汁琮を殺そうとは思わなかった。こんなこと言っても悪く思わないでくださいね。」姜恒は微笑んだ。「わかっているよ。」もちろん界圭が最初から自分を好きだったはずはない。自分は姜晴の子だ。界圭にとっては姜恒の存在は、彼が汁琅を失ったことを意味していた。

しばらくして界圭はゆっくりと話し始めた。「でも今は違いますよ。あなたはお父上そっくりだ。彼がまたあなたを殺そうとするなら、私だって容赦しません。まあすぐではないかもしれませんね。ご存じのように、刺客は手を下すまでに時期を見ることがありますから。だけど言っておきますね。もしあなたが死んだら私は絶対に復讐します。」

姜恒は笑い出した。「まだそこまではいっていないから。」

 

 

雍軍の第一陣は空回りに終わった。大軍は潮が引くように退いていった。わずか三時辰のうちに、城壁下では二万弱が死に至った。だが本当の主力はまだ出動していない。

耿曙は顔を燻されて真っ黒にして戻ってきた。姜恒はすぐに変装面膜を取り換えた。偽装を解くと、耿曙の英俊な容貌が再び現れた。

耿曙は界圭を見ても全く意外に思わず「主力部隊は誰の兵だ?」と尋ねた。

「風戎人です。太子瀧がやっかいなことになっています。何か方法を考えて下さい。」

耿曙と姜恒は視線を交わした。姜恒は先に少し界圭から聞いていて、南征の主力部隊は風戎人だろうと思っていた。朝洛文と孟和に軍を率いさせ、陸冀自ら監軍するのだろう。そして曾宇直下軍は照水にいるのだ。彼の推測と完全に符合している。

姜恒が尋ねた。「汁琮は?」界圭が答えた。「さあ。私は直接潯東に来ましたから。」 

 

「彼を見ていない。」耿曙は言った。「俺は大営ギリギリまで行ったが、彼はいなかった。たぶん王帳は空だ。恒児、お前が当たりかもしれない。」

姜恒は長い間黙って考えていた。今が正念場だ。一歩でも棋ち間違えば、神州全体の連続崩壊をもたらす。皆彼の決定を待った。界圭は疑惑でいっぱいという風に、目を細めた。

「何をしようというのです?」界圭が尋ねた。姜恒は耿曙に言った。「計画通りに。」

耿曙は頷き、龍于に行った。「これから国都で何が起ころうと、龍将軍は絶対に潯東を離れないでくれ。」

「わかった。」龍于が答えた。「私はここで最後まで戦おう。」

次に耿曙は界圭に言った。「俺たちと一緒に来てくれ。汁瀧のことは移動中に話そう。」

姜恒、耿曙、界圭は姜家屋敷を後にした。姜恒は振り返って龍于を一瞥した。龍于は頷いて、「行ってくれ。武運を祈る。聶将軍、姜大人。」

 

城外では雍軍がすっかり撤退していた。北門の小門を開け、耿曙が兵権を引き渡して、姜恒、界圭と三騎で北に向かった。

「雍宮で何が起きているの?」姜恒が尋ねた。

東宮が雍王の南征に反対し、汁瀧は元の計画通り、五国連合会議を招集したがりました。結果、意見を提出した門客全てが汁琮に殺されました!汁瀧は勅令を受けて東宮に軟禁されています。汁琮は気が狂ったかのようです。」界圭が言った。

耿曙が言った。「彼はずっと気が狂っている。今に始まったことじゃない。知らなかったのか?」

「ですが汁瀧は秘密裏に門客に命令を下しています。あなたたちが生きていることを知って、私に伝言してきました。あなたたちは戦い始めたが、自分もだ。心配しないでほしい。朝廷をちゃんと回していくよう力を尽くすからと。」

                         (いい子過ぎるシルタキ)

梁国の民が略奪にあっていないのは汁瀧が力を尽くしているからだ。中原に二度と大乱が発生しないように、もう人が人を喰らうような煉獄にならないようにと。彼は周游に連絡して、秘密裏に食料を持って安陽を離れ、難を逃れた民の救済をさせていた。

「管魏は?」姜恒が尋ねた。

「管相は落雁に残りました。引退して太后に付き添っています。遷都してくる者は誰もいません。私が落雁から来たのはあなたたちが城内にいるんじゃないかと心配してのことです。」

海東青が飛んできた。姜恒に笑みがこみあげ、耿曙は上を向いて口笛を吹いた。海東青は彼の肩の上に降りてきた。「風羽!おかえり!」姜恒が言った。

空が白みかけたころ、三人は潯北城外に着いた。鄭国王都に続く官道に鄭軍の信使がやってきた。一瞬驚いたように立ち止まり、彼らの横を通り過ぎる。

「何があった?!」耿曙は馬を停めて、遠くから叫んだ。

「急ぎの知らせですーーー!崤関陥落!王都より龍将軍に至急の救援依頼ですーーー!」

 

 

第173章 卜卦籤:

 

一夜のうちに、守備が空虚となった崤関が大火に遭遇した。宋鄒が玉壁関を焼き払った時のように、崤関も完全に陥落した。閉じた門を破り、雍国の本当の主力が汁綾の指揮のもと、関内に突入し、そのまま済州へと進んで行った。

二十五万の大軍は浔東で帝国の主力部隊を押さえている。今や済州城内に兵は一万もおらず、鄭国に亡国の命運が迫っていた。

姜恒の計画では、口を開けて、汁琮の主力部隊を鄭国の中まで誘い込み、済州城前まで引き込んで、兵力を効果的に分散した後で決戦に持ち込むというものだ。

「もし汁琮が支力部隊にいなかったらどうするんですか?」界圭が尋ねた。

「いるさ。」耿曙が答えた。「鄭国王城を奪い取るその時を彼が逃すはずはない。」

 

耿曙ほど汁琮をよく理解する者はいない。こんな国を滅ぼす戦いを汁琮が他人にやらせるはずはない。必ず自ら鄭国王都に攻め入り、宮殿の階段を駆け上がり、彼の人生における至福の時を享受するはずだ。

 

済州に着くと、雍国の兵馬が城外に駐屯しているのが見えた。汁琮は潯水侵攻のために兵を送ったが、龍于に阻止された。彼は五万の雍軍軽騎兵に崤関を越えてそのまま済州に向かわせた。現在、その五万の兵に、以前趙霊が落雁を攻略した方法を用いて地下道を張り巡らさせている。城壁を一気に崩れさせ、鄭人に復讐を宣言するためだ。

更に汁琮は城外の五万の大軍の前に出てきて、太子霊に向かって言った。「逆賊姜恒を引き渡せ!城内にいるのはわかっているぞ!趙霊!城壁を降りて出てこい!そうすれば全城の民の命は見逃してやろう!」

姜恒と耿曙は急いで城に入って行った。孫英は東城門で待機していて、二人を連れて城楼に上がり、角楼の後ろに身を潜めた。九千強の兵がぽつぽつと城壁の上に布陣した。

群臣を率いた太子霊は城外戦場からの汁琮の挑発を見ても何も行動せず、逆に笑い出した。「時局が逆転したな。今日は君が兵を連れてくる番か、雍王。」太子霊が言った。

 

汁琮は手の中の烈光剣を弄びながら、城頭を眺めた。曾宇、汁綾が傍らで守った。雍国の将校全員が鄭人への深仇を骨身に刻んでいる。一旦城壁が敗れれば、屠城はま逃れないだろう。

「お前の父もどき(龍于)は潯水で我が国の大軍に抑えられている。お前を助けには来ないぞ!越地の陥落は後でもいい。まだ何か話はあるか?」

「亡国の戦いは死ぬまで終わらぬ。雍王、くだらないおしゃべりはやめて来るなら来い!血のつけには血で償う!」太子霊がそう言うと、汁琮は冷笑した。太子霊が投降しないのはわかっていた。振り向いて命令を下す。騎兵が押し寄せてきた。連日の急行軍の後、片時の休みもなく、一口の水も飲まぬままに攻城が開始された!

 

刹那済州は戦場となった。済州は四百年前に封じられたかつての鄭候の生まれた地だ。河外に広がる平原の土壌は柔らかく、植物の栽培に適してはいるが、西川や落雁のように堅固ではない。汁琮の新しい戦法は、済水の上流をせき止め、河川を氾濫させる。丸太を押し動かして大水を押し入れた後、兵馬にその丸太に乗って城楼へ登らせるというものだ。

 

「ここはあなたに交代する。」太子霊が急いで城壁を降り、耿曙に視線を送った。

耿曙は頷いた。姜恒と界圭は遠くから洪水が起こり、丸太が城壁の下にたまっていく様子を見ていた。「どのくらい持ちこたえます?」界圭が尋ねた。

耿曙:「長くても三日だ。城壁が敗れたら、町での戦いに彼らの主力を導く。」

界圭はしばらく黙っていたが、その後で、「いったい何をする気です?」と尋ねた。

「界圭、」姜恒が突然言い出した。界圭は姜恒を見た。姜恒は城壁を降りていく。耿曙は後を追わず、兵の布陣を解き始めた。城壁の高所に守備軍を置いて、残りの七千人を城内に戻し、各戦略要地に配置した。姜恒は済州橋の上に立った。町には人っ子一人いない。

「よく考えてみたよ。」姜恒は振り返って橋の中央で界圭と向き合った。「界圭、私は太子炆の身分に戻ることに決めた。今この瞬間から、あなたにとって私は汁炆だ。」

界圭は笑い、頷いた。

「汁炆の名のもとに私への協力を要請する。かつてあなたが我が父のために差し出した一切が、彼の死後汁琮の手中にある。今、私は父のために、昔年の仇、国賊汁琮を誅することを欲する。」

 

「忠誠をお誓いします。太子炆。」界圭は傷を負って使えなくなってしまった左手は垂らしたまま、右手を胸の前に置いて、済州橋の上で片膝をついた。

「膝を上げて。あなたの忠誠、私は永遠に忘れない。」

界圭は黄昏時の空の下、彫刻のように動かない。姜恒は手を伸ばして界圭の肩に置き、体を折って彼の右手を握り、引っ張り起こした。「さあ行こう。勝敗が決する時だ。」

 

 

太子霊は今生最後の二日間を、どこにも行かず、侍衛から一切の報告を受け付けずに、宮中奥深くで過ごした。

「天理も倫理ももうどうとでもなれ、だ。」太子霊は趙炯に笑いかけた。趙炯は何も言わずに、ただ太子霊の姿を見つめていた。雪のように白い肌と均整のとれた体。趙炯と太子霊は抱き合い、太子霊は手を伸ばして御簾を下ろした。二人の息遣いがその外に漏れ出た。(何かなー。取ってつけたようなこのBLエピソード必要かなあ。)

日が落ち、夜が明け、今生最後の日が訪れた。趙炯は太子霊を沐浴させ、香を焚しめ、体の隅々まで拭き上げた。趙炯は一糸まとわぬ姿で太子霊の前に片膝をつき、その体に口づけた。「何をお召しになりますか?王服ですか?」

「いや、麻布の袍がいい。子供の頃お前と初めて会った時も私は麻布の袍を着ていたのを覚えているよ。」趙炯は麻布の長袍を持ってきて太子霊をくるんだが、太子霊は袖を通さず、体に半分まとったような状態のままでいた。二人はそのまま彫刻になってしまったかのように、日の光に照らされた廊下に立ち、ずっと互いを見つめあった。遠方より殺戮の声が近づいて来た。「城が敗れたぞーーー!」といった叫び声が宮外から聞こえてきた。

 

姜恒が庭園に入ってきた。「王陛下、時間になりました。」太子霊は趙炯の手を離した。「それでは、私は先に行くよ。」趙炯は頷いた。太子霊はもう振り返らず、姜恒について宮殿を後にした。姜恒が庭園を出ようとした時、小さな音が聞こえた。あれは短剣で肉体を切り裂く音だ。鉄刃が骨身を裂くあの音を彼はもう何度も聞いていた。彼らの背後では趙炯が短剣で自らの心臓を突き刺していた。

 

鄭宮の中は混乱を極めていた。宮外正門前には死体が散らばり、汁琮の軍隊が次々に国都に入ってきた。だが、街中であらかじめ伏せてあった兵に行く手を阻まれている。

「王陛下!」大臣たちが慌てふためいてやってきて叫んだ。「早くお逃げください!ここを離れるのです!雍軍が入ってきました!」

太子霊は聞く耳を持たない。王服を脱ぎ棄て麻布袍一着のみを見にまとい、腰には剣さえ佩いていない。まるで彼の国家を見るかのように、彼の臣民たちを見つめていた。

遠方では済州が燃え出し、雍軍が火の海を抜けて、途切れることなく一直線に近づいて来る。

「始めましょう。」姜恒がそっと言った。

太子霊は何も言わず、背を向けて宗廟まで行くと、一歩一歩上がって行った。顔を返り血で染めた耿曙が鎧兜姿で宗廟に来て、二人に合流した。界圭も来た。四人は階段を上り、鄭国宗廟に入って行った。

太子霊は先ほど沐浴して香を焚きしめ、体はまだ血で汚れていない。列に置かれた祖霊の牌位に向かい、火をともした。

「お三方、一杯付き合ってくれ。」太子霊は酒をついで三人に渡した。界圭は姜恒に目で指示を求め、姜恒は飲むようにと示した。三人はそれぞれ飲み干した。激戦のせいで脱力した耿曙の手は少し震えていた。彼は姜恒に頷いて見せた。本当は少し休むべきなのだと姜恒は思った。だがこの後、傍らに太子霊の生首を置いて、姜恒は血だまりの中、耿曙の腕に抱かれる筋書きになっている。そして汁琮が近づいたところを、耿曙が一撃して勝負を決めるのだ。姜恒は暫く彼を鄭国の守護神獣、青龍像の隣に座らせた。

「私は天井裏に隠れていますね。」界圭が言った。

 

姜恒は太子霊の傍に付き添った。太子霊が言った。「おかしな話なんだが、姜恒、あなたに初めて会った時、私は既にある予感がしていたんだよ。」

「どんな予感ですか?」その時姜恒が考えていたのは、かつて洛陽で、死にゆく姫珣と趙竭に付き添っていた時のことだった。

「この生涯を終える時に傍にいるのは、ひょっとしたらあなたかもしれないとね。今や、その予感が現実になったというわけだ。」

「まだ死んでいないだろう。」耿曙が口をはさんだ。太子霊は笑った。彫像の前でひざまずいていると、宗廟の下から伝令の叫び声がした。

「姜恒、天下の未来の気数を知りたいかい?」

「卜卦をされるのですか?」

太子霊は傍の、竹籤を入れた籤筒を持ち上げた。「国君として、神州の機運を占わせてくれ。信じるかどうかは別として。」

耿曙は彫像の後ろで息を整えていた。姜恒は短剣を取り出し、言った、「占ってください。私もとても知りたいです。」

だがその時、姜恒はふと痺れのようなものを感じた。舌から腕に、全身へと広がっていく。動けない……もう口も開けない。最初に考えたのは:あの酒だ。太子霊は頷き、姜恒に微笑んだ。

 

済州城の大火は広がり始め、炎は城東、城南を飲み込んで行った。汁琮の五万の鉄騎は城内に散らばり、秋の楓葉のように、路上を真っ赤に染めていく。街中に置かれた伏兵もまもなく一掃されるだろう。

「報告――――!王宮前道路は全て押さえ、曾将軍が宮城を奪取し始めます!」

「汁綾!」汁琮が叫んだ。汁綾が軍を率いて前に出てきた。「お前の持ち場はどうだ!」

「城西は既に抑えたわ!でも火の勢いが強すぎて、兵がおおぜい火にのまれてしまったのよ!もうどうにもできないわ!もう殺しはやめて!王兄!」

汁琮は冷ややかに一笑した。

曾宇がやってきて叫んだ。「王陛下!大臣たちはみな王宮内にいます!」

「趙霊は?」

「宗廟に逃げました。御林軍八百が宗廟を守っています!」

「曾宇は公主の火消しを手伝え!私にはまだ話がある。趙霊とはよーく離さないとな。」

汁琮は三千の兵馬と共に、火の海の中、最後の道を進み、山の上高くに建てられた鄭国宗廟に向かう。両側の激しい炎と濃烟はまるで国を挙げての盛大な祭りのようだ。

「車輪斬りしろ、草一本残すな。」汁琮は最後に曾宇に申し付けた。

曾宇はため息をつき、しぶしぶ頷くと、兵たちに車輪の準備をさせた。まもなく鄭国は本当の意味での滅亡に直面する。―――車輪より背の高い成年男子は全て斬首されるのだ。

 

宗廟前には最後の八百の御林軍が集結していた。汁琮は一言、囲い込んで矢の雨を降らせるようにと命令した。そして遺体となった八百人をそのままに、鮮血を垂らしながら雍軍は次々に階段を上り、宗廟へと入って行った。

汁琮は馬を降りず、騎馬したまま階段を上り、宗廟外広場に置かれた巨大な鼎の前に行く。そしてひらりと馬を降りると、天子が下賜した青銅の鼎を片手で弾き、宗廟高所に掲げられた大鐘に目をやった。「鼎を安陽に持っていけ。趙霊はどこだ?」

「中にいます!」親衛兵が叫んだ。

宗廟の四方を包囲していた雍軍は、強弩を手に持って、一瞬のうちに正堂になだれ込むと散らばり、中央に向けて弩を構えた。

「やはりここだったか。」汁琮は全身鎧兜に身を包んでいた。精緻な作りの王冑の鎧の音を響かせながら、彼は鄭国宗廟へ入って行った。

ガラガラと音をさせて、太子霊が籤筒を揺らしていた。姜恒の口や舌の痺れは緩やかに退いていったが、それでも遅すぎた。太子霊が酒に痺れ薬を入れていたとは!

汁琮が姜恒を見た時、彼はゆっくりと短剣を取り出そうとしていたため、自刎するつもりだろうと考えた。姜恒の武芸では、防備を施した自分を殺すのは到底不可能だ。数千の強弩が太子霊と姜恒双方に向けられている。

 

「やっと雍王の登場か。ずいぶん待ったぞ。」太子霊が軽い口調で言った。

汁琮は太子霊から十歩の距離まで近づいた。青龍像の陰にもう一人誰かいるようだが、気を付ければ大丈夫そうだ。これだけ距離もあり、自分は鎧兜を身に着けている。例え相手が剣を投げてきても自分には通用しない。それにどうやら太子霊は布衣をまとっているだけで、武器など持っていないようだ。

「何をしているのだ?ご先祖様に加護を求めているのか?」汁琮は嘲るように言った。

「天下の気数を占っている。神州の気運だ。死に直面した国君の占いは最も霊験あらたからしい。雍王はすぐに私を殺したいか?それとも結果を見たいかな?」

烈光剣を体の前に掲げた汁琮は切り立った山麓のようだった。鎧兜に宗廟の天窓から秋の日差しが当たり、光を反射させる姿はまるで武神のようだ。

「見てやってもいいぞ。」汁琮の顔に笑みが浮かんだ。

ガラ、ガラ、ガラ。太子霊は最後に三回ゆすった。

 

 

姜恒はもう動くことができた。元々彼の計画では、太子霊を刺し殺し、自殺のように見せかける。耿曙が太子霊の頭を持って、汁琮が殺されたと言って親衛兵の注意をひいている間に、界圭が現れて汁琮を刺殺する。

耿曙が動けなかったのはわずか片刻で、汁琮が宗廟前に着いた時には、姜恒より先に回復していたーーーだが彼も手を下せず、黒剣を握ったまま、距離を見計らっていた。

なぜ太子霊が彼らに毒を盛ったのかはわからないが、それは重要ではない。失った機会は元に戻せない。汁琮があと二歩前に進めば、耿曙にも成功の見込みがあった。だが汁琮はそれ以上進もうとはしなかった。おそらく青龍像の後ろに誰かいると気づいているのだろう。

かつて姜恒に刺殺されかけた経験から、彼は以前よりとても注意深くなっていた。鎧兜の重装備を考えれば、歩は悪い。

 

一本の竹籤が音を立てて地に落ちた。

太子霊は髪をかき上げながら、竹籤を拾い上げた。そのまま優雅に立ち上がり、そして、振り返って汁琮に向かい合った。汁琮は眉を揚げた。太子霊は僅かに笑みを浮かべて言った。「あなたと私の望み通り、神州は平らかになる。上吉だ。」

姜恒はふとあることを思いだした。:伝説の中の、未だ顔を見せない五番目の大刺客!

十歩離れたところで、汁琮は口を開きかけた。諷刺のためか、射撃を命じるためか、だが、そこで双目を大きく見開いた。

太子霊の竹籤が、手を離れ、光のように飛んで来るーーー。目前に迫る!

生死の際で、汁琮はすぐ烈光剣を握り振り払おうとしたが、竹籤は小さく、烈光剣の刃を掠めて通り過ぎた!僅か半寸、ほんの僅か半寸の差で、汁琮は逃れようと後退したが、すべては一瞬の間に起きた!

竹籤は音もなく、鎧兜に守られた汁琮の、一番防備が薄弱な喉元に突き刺さった!

刹那、竹籤は汁琮の首を貫いた。喉の中に残った釘のせいで、引き抜くことができない。首の後ろから籤の端が突き出していた。

汁琮:「……。」

汁琮は苦痛の声を上げ、地に倒れた。目的を遂げた太子霊は嘲るように微笑んだ。次の瞬間、雍軍が大声をあげて入ってくると、全員同時に矢を放った。耿曙が大声をあげて彫像の陰から出てきて姜恒を抱え込み、転がって柱の陰に入った。太子霊は目を閉じた。千の矢が体中を射抜き、その勢いで体が青龍像に当たった。鮮血が噴出し、部屋中に飛び散った。体中に矢が刺さり、口から噴き出した鮮血が顔を染めた太子霊は、宛ら深紅の花籠のようだった。

太子霊は万の矢で青龍像に釘付けされながら、最後の力を振り絞って、姜恒を指さしてから、汁琮を指さした。手指が震え、何かを示したかったようだが、そこで首が垂れた。

晋惠天子三十六年、秋、鄭王趙霊薨去

 

 

 

ーーー

第174章 穴の開いた体:

 

「王陛下!」兵士たちは狂ったように叫んだ。宗廟は混乱に満ちた。

汁琮は苦しみもがき、自身の喉をつかんだ。

兵たちは姜恒を探し始めた。姜恒はそれを見て、しばしの衝撃から我に返った。耿曙の耳元で何か囁くと、すぐに彼の変装面膜を取り、柱の外に力いっぱい押し出した。

「早く!」耿曙はまだ茫然としていたが、すぐに太子霊が死の直前に出した最後の暗示を理解した。

「父王!」耿曙が咆哮した。汁琮が倒れたことで兵士たちは大混乱に陥っていたが、耿曙の出現で変化が起きた。

「私です!」耿曙は叫んだ。親衛兵たちは、目を見張った。耿曙は死んだはずではなかったのか?

「私は死んでいません!」耿曙は急いで汁琮の前まで来ると大声を上げた。「私に見せてください!趙霊が姜大人をさらったので、私は彼を救いに来たのです!」

姜恒が急いで伝えた短い指示を耿曙は覚えて、すぐさま自分の言葉に直して発した。兵士たちは脇に控えた。巨大な雍軍を束ねる主を欠いた今、汁琮の義子である耿曙を疑う者はいなかった。

 

喉に竹籤が刺さった汁琮は口を開いても言葉にならない。竹籤はちょうど器官の位置に刺さり、硬い素材は血脈をふさいで鮮血を溢れ刺すことはなかった。ただ水揚げされた魚のように、苦し気に息を継ぐしかできない。現れた耿曙の姿を見て何を思ったのか、この上ない恐怖を目に宿していた。逃げようとしたが、息が途切れ力が出ない。震える手で耿曙を押しのけようとした。耿曙はすぐに汁琮の手をつかみ、声を低めて「父王!父王!」と言った。

汁琮は恐れおののいて顔を背けた。足の震えが止まらない。親衛隊の一人が、「淼殿下!どうしますか?」と言った。

 

姜恒がようやく柱の陰から出てきた。界圭も天井から飛び降りてきた。姜恒が現れると、兵士たちは警戒し始めた。姜恒は反逆罪に問われたものの、それは汁琮がつけた罪名だ。

「姜大人は裏切っていませんよ。」界圭が姜恒を後ろにかばって言った。「彼は鄭王に連れ去られたのです。太后が私を遣わしたのは姜大人を救うためです。」親衛隊の兵たちは顔を見合わせた。界圭は続けた。「私が誰かもわからないのですか?」

「どいて、私が見ます。」姜恒は一同に告げた。親衛隊も界圭に保証され、だんだんと疑惑を打ち消していった。ただ一人、汁琮だけが、大きく目を見開き、耿曙の腕の中でもがいていたが、何も話すことができないのでどうにもならない。

「抜いてはダメ。」姜恒はとどめを刺そうとする耿曙の剣を制止し、彼への暗示を込めて言った。「抜いたら死にます。早く行って武英公主と曾宇将軍に知らせてきて。さあ行って!」

もし耿曙が黒剣でとどめを刺せば、父殺しの汚名が雍国中に知れ渡るだろう。例え宗廟内の御林軍全員の口封じをしたとしても、「火は紙に留まらず」で、いつかは皆の知るところとなるはずだ。耿曙が姜恒を見ると、姜恒は頷いた。

 

「平らに寝かせて、木の上に頭を乗せる。そうしないと息ができないから。」

姜恒が近づくと汁琮の目がぴくぴくした。喉を触ろうとする手を耿曙が引き離し、竹籤に触らせないようにした。汁琮は姜恒の双眸をじっと見つめ続けた。なぜか、長兄の汁琅が死にゆく時の眼差しを思い出そうとした。あの時の眼差しは目の前の姜恒と同じように、冷たかったか、それとも同情的だったろうか?それとも漠然としていたか?よくわからない。わかっているのは一つだけだ。―――自分はもう完全に終わった。

 

耿曙は汁琮にそれ以上姜恒を見させないようにした。不測の事態を避けるため、担架を持ってくるよう言いつけると、汁琮を担架に乗せ、彼を護送して宗廟を出て行った。直前に目で界圭に合図をすると、界圭は理解し、頷いた。

「私たちも行こう。」姜恒は振り向いて跪き、血まみれになった太子霊の遺体に三拝した。「あなたのご配慮に深く感謝致します。鄭王。」

 

 

その日の午後、事態は急展開した。勝利に浸っていた雍軍全員が、雍王が刺されたという知らせを聞いた。鄭宮正殿内で、汁綾と曾宇は目の前の状況が全く信じられなかった。死んだと思っていた耿曙が生き返り、姜恒も再び顔を見せた。界圭が姜恒の身を守っている。そして汁琮が刺された。全てはあっという間のできごとだ。一体何がどうなっているのか?

汁綾は震え、寝台に突っ伏して大声で泣いた。「兄さん?!兄さーーーん!いったいどうしたのよ?どうして彼を守らなかったの?御林軍は皆死ぬべきよ!」耳まで赤くして言い争ったこともあったが、長兄が死んだあと、彼女の兄は汁琮ただ一人だけだった。

 

「伯母上!落ち着いて下さい!父王は死んだわけではありません!」今や耿曙は汁綾が事態を収拾不可能にしやしないかと心配になった。汁綾は身も世もなく泣いたあと、寝台に座って、耿曙に顔を向けた。

姜恒が言った。「今は竹籤に触れてはいけません。まず安陽に戻ってからゆっくり対策を考えましょう。」曾宇に至っては気を失わんばかりだ。耿曙になぜ生きているのかと聞くことさえできない。あなたは人なのか鬼なのか?姜恒はなぜこんなところにいるのか?とも。ただ繰り返すだけだ。「どうしたらいい?いったいどうしたらいいのだ?」

 

姜恒は二人に言った。「治らないことも考えて、この地に留まるのはやめましょう。今はなるべく早く医師に診せなくては。」汁綾は少しずつ落ち着きを取り戻し、しゃくり上げていた。だが姜恒はわかっていた。喉に入った竹籤を治す方法はない。太子霊は、百年に一度あるかの美しくも無情な一撃を完成させた。あの籤には彼の持てる修力が注がれており、手投げの剣の勢いで射られている。例え耿曙が黒剣を持って防ごうとしても防ぎきれなかったかもしれない。

喉はまさに汁琮の唯一の弱点だった。射抜いた後で血脈をふさぐ。抜けば鮮血があふれ出して器官をふさぎ、肺に溜まって血を吐いて死ぬ。「上吉」と書かれた籤は最後の瞬間まで彼を苦しめる。そして呼吸がままならず、ゆっくりゆっくり断続的に窒息し続けながら、死んでいく。耐えがたい拷問だ。

 

「どうしよう?」汁綾は少しずつ落ち着いて来た。長兄は治るかどうかわからない重症だが、雍軍は鄭国王都を奪い取った。「朝洛文は潯水にいる。うちの兵たちはみな王宮の外にいるわ。」汁綾は曾宇に言った。

「撤退です。軍を集め、済州を出ましょう。」耿曙が言った。

「何ですって?これだけの代償を払ったのよ。気でも狂ったの?」

「気は確かですよ!」耿曙は人を食ったような態度で、大声で言った。「撤退と言ったのです!まだ足りませんか?ここに留まって国葬を待つのですか?」

「二人とも……少し落ち着いて。」姜恒はあきれたように言った。

昏睡状態に陥った汁琮が喘ぎ声をあげた。夜に響く梟の鳴き声のように不気味だ。

「あんたたち二人はどうしてここにいるの?」汁綾はついに自分を取り戻したようだ。

耿曙が近くの卓について言った。「郢人の中に義士がいて、身代わりになってくれたので、死なずに済みました。恒児は逃げたところを趙霊につかまったので、俺が助けに来ました。」

「私が証明できますよ。太后が私を遣わせました。」界圭は手を挙げて、見るともなくちらっと汁琮に目をやり、汁綾に向かって言った。

 

「そうなの?」汁綾は疑わしげだ。

「海東青に手紙を届けさせますか?」

汁綾は疑惑を拭い去れない。生きていたなら汁淼はなぜ落雁に戻ってこなかったのか?だが今はそんなことを聞いている場合ではない。

「俺が軍を引き継ぎます。軍心が動揺しないようにしなければ。万が一鄭軍が反撃してきたら困るでしょう。」

 

一同は汁綾を見た。汁琮が刺された反動は大きい。これ以上何も言わずに汁綾が頷いてくれさえすれば、すべてが丸く収まる。汁綾は耿曙の双眸を見つめた。彼の目の中に何か信頼に足る証拠を探し求めるかのようだ。姜恒は汁綾の後ろで、合図をした。胸を叩いて耿曙に眉を、揚げて見せる。耿曙は心得たとばかりに細いひもを引っ張り上げて玉玦を取り出し、汁綾に見せ、そのまま黙って待った。

汁綾は振り返って姜恒を一瞥し、もう一度耿曙を見て、最後に言った。「行って。」

 

翌朝、雍軍は済州から撤退した。鄭人たちは悲しみに暮れながら太子霊の遺体を王陵に葬った。

「彼はまだ字を書けるよ。」姜恒は小声で言った。「もし遺言でも残されたら厄介だ。

あなただってずっと手を握っているわけにはいかないでしょう。」

「大丈夫だ。俺は彼の手の穴道を封じている。今のところ手は動かせない。」耿曙が答えた。

二人は視線を交わし、日が落ちそうな中、小声で相談をしていた。耿曙はいつも通り、姜恒にお茶を淹れてやっていたが、その表情も以前通り心配事で満ちていて、最後にはまたため息をついた。姜恒には彼の気持ちがわかった。汁琮の罪は動かしがたい事実だが、それでも四年もの間、例え利用目的ではあったとしても、耿曙に家庭的で温かく幸せな時間を与えてくれたのだ。「もう過ぎたことだ。これからはお前の出方次第だ。」

 

耿曙にできることはこれでもう終わった。次は姜恒の選択次第だ。二人の前には新たな道ができ始めている。耿曙は汁琮の親衛隊を手に入れ、王子の身分を回復した。御林軍大統領も兼任し、部下は五万だ。曾宇が残りの三万を率いて崤関を守っていて、大軍を手にしているのは耿曙だけだ。彼らは最も有能な将校たちで、落雁にいた時は彼の直下軍のような存在だった。この五万の軍があり、姜恒が頷いてさえくれれば、安陽で政変を起こし、徹底的に雍国を改革して、天下の未来のための局勢を作れるかもしれない。

 

「兄さん、私は……。」姜恒は彼に伝えたかった。今は時期が悪い。力により安陽に反旗を翻しても成功しない。汁琮が重傷を負った今、太子瀧だけが、雍国国内の局勢をまとめられる。その太子瀧も殺されたら、やっとのことで安定させた雍国の国内情勢はすぐにでも崩れ落ちてしまうだろう。(そこなの?)

「気にするな。」耿曙がこのところ一番多く口にする言葉が、「大丈夫だ。」と「気にするな。」だ。姜恒は悲しそうに笑った。「叔母上のところに行ってくる。」

必要がなければ、彼は絶対に汁綾を敵に回したくない。彼女はいい人だ。汁綾の眼中には、天下取りの征戦も、中原統一も重要ではないとわかっている。彼女にとって一番大事なのは家族だ。汁琮が必要とするなら、汁綾が彼のために血みどろになって戦う理由はそれだ。嗜虐的な戦いはしない。剛強な性格だが、心は優しい。耿曙に似ている。愛情を向けるかどうかは自分で判断する。耿曙を可愛がり、愛情の一片を姜恒にも傾けてくれる。

 

汁綾は木の下に一人で座っていた。帰国への途上、天気は曇り。この間何度も汁琮を見舞ったが、だいたいいつも昏睡していた。たまに意識があるとき、耿曙も傍にいた。彼女は直感的に汁琮にはなにか言いたいことがあるが、言えずにいるのだとわかった。それで汁琮に文字を書かせてみてはと提案し、耿曙が筆を持たせてみたが、手が震えて書くことはできなかった。長兄をじっくり観察した汁綾の心に疑問が浮かんだが、耿曙に尋ねることはしなかった。だが彼女はいつも姜恒に対しては壁を作らずにいられない。理由はわからないが、姜恒を家族としては、どうしても受け入れられないのだ。

 

「伯母上、」姜恒はお茶を一杯持ってきて、汁綾の近くに座った。

「呼び方が違うわよ。」汁綾は細砂で小さな銀杯を磨いていて顔も上げずに答えた。

「兄のまねです。少し気分はよくなりましたか?」

「まあまあね。ちょっと疲れたけど。何か話があるの?」

ここのところ、汁綾は髪を乱し、目は真っ赤だ。耿曙と姜恒が無傷で戻ったことは喜ぶべきことなのに。

「私はあんたが嫌いよ。」ふと汁綾が言った。「なぜかはわからない。でも初めて会った時から嫌いだった。」

姜恒は小声で言った。「知っています。」

彼女と自分の父親とは仲が良かったのだろうか?姜恒も考えたことがあった。彼女に真相を告げたら、すべてが変わるだろうか?中原人の風習では、姪は母方の叔父と親しく、甥は父方の叔母と親しいものだ。父親の女性版のような感じだからのようだ。

 

「だけどあなたは私が歴訪から持ち帰った《雍地風物志》を監修して書き直してくれました。今でもよく覚えています。」姜恒が言った。あの年、姜恒はほとんど半年間、雍地を歴訪して十万字近い小冊子を書いた。落雁に戻った時、率先してそれを読んだのが汁綾だった。

汁綾は姜恒の意見も聞かず、遠慮なく赤を入れたり、注をつけたりした。姜恒はもちろんその理由がわかった。:この話は冊子に書いてはいけない。公卿や士大夫家族に害を及ぼすからだ。

汁綾は顔を上げて姜恒を見た。「そんな小さなこと、よく覚えていたわね。」

 

姜恒は笑顔を絞り出した。過去を振り返って、汁綾が自分に良くしてくれた出来事はこの一件だけだ。だが汁綾が敵意を持っていないのだと確認するには十分だった。大体の時に、彼女ははっきり物を言う。今さっきの『あなたが嫌い。』のように。もし天下の人たちが皆彼女のようにまっすぐだったら、物事はこれほど面倒ではなかっただろう。

「そのわけはね、」汁綾は銀牌をしまうと言った。「汁家があんたに借りがあって、あんたはそれを取り返しに来たように思うからだと思うわ。それで嫌な気分になるのね。」

姜恒は言った。「そんな風に考えたことはありません。」

「わかっている。でも事実はその通りよ。だけど淼児からはそんな風には感じないけど。」

姜恒と汁綾は視線を交わした。その時、界圭が汁綾の後ろに来て、ゆっくり首を振った。

姜恒に何も言わないようにと伝えているのだ。だが汁綾の武功では、当然界圭の足音が聞こえたはずだが、彼女は振り返らなかった。

「兄はずっとあんたを殺したがっていた。そうでしょう?」汁綾はとても小さくそう言った。姜恒は界圭のことも汁綾のことも見ずに頷いた。

「あんたも兄を殺したがっている。あんたたちの間にいったいどんな恨みつらみがあるの?あんたは淵兄さんの子で、あんたの父親が雍国のためにしたことは、うちの二兄さんのためでも大兄さんのためでもない。……誓って。誓いなさい、姜恒。私に話すと。二兄さんがこんな風になったのは、あなたとは……。」

「殿下。」界圭がついに口を開いた。姜恒は少し不本意だ。解決方法は自分で考えたいし、界圭が二人の会話に割って入れば、もともと弱かった汁綾との信頼関係に再び亀裂が生じる気がする。

「界圭。」姜恒は離れるようにと暗示した。

汁綾は何も言わない。連日の疲れが極限に達していたし、今回の出来事は打撃を与えた。汁琅の死よりも大きいかもしれない。

「お嫌でしょうけど言わせてください。」界圭が言った。「今回の済州での件がなければ、汁琮はずっと逃げられていたでしょうか?あなたも私も太后でさえも皆はっきりわかっていたはずです。こうなるのは時間の問題だったと。」

「それとは違うわ。」汁綾は身震いした。姜恒を見つめる眼差しには隠し切れない恨みの色が見えた。あれが偶然起こったはずがない。全ては姜恒の手の内だったのではないか?

だが彼女には証拠がない。調べさせることすらできない。汁綾は背を向けて去って行った。再びあの時宗廟にいた兵士たちを呼んで何度も問いただしてみたが、すべて姜恒の言った通りで、長兄のために状況証拠を覆すことはできなかった。

 

 

 

ーーー 

第175章 屑籠行き:

 

「しゃべり過ぎてはだめですよ。彼女には、お祖母上が全てちゃんと説明してくれますから。」界圭が責めるように言った。

「あのひとは私の伯母上だ。家族なんだよ。それに真実を告げようとしたわけじゃないし。」界圭はため息をついた。「彼女のことよりもあなたがしっかり考えておくべきなのは、安陽についてから、従兄殿にどう対峙すべきかですよ。」

「対決するつもりなんてないよ。」姜恒の答えは界圭には意外なものだった。「しないどころか、今はしっかり支えてあげなきゃ、雍国は大乱に陥ってしまう。ここまで来るのは大変だったし、神州再統一にはあともう少しなんだから。」

耿曙は篝火の横に座って二人の会話を聞いていたが、何も言わなかった。

「もう少し?」界圭は苦笑いを隠さない。「四国の内一国を得ただけで、もう少しですか?」

姜恒は頷いた。「そうだよ。長い夜が終わり、朝陽が見え始めている。」

これには界圭だけでなく、耿曙も理解に苦しんだ。今の雍国では天下統一までまだずっと遠いはずだが、姜恒の目から見ると、もうあと一歩のところにいるらしい。

 

「それじゃ、この後は?この後はお前の方も難関がくるだろう?」

「この後のことは、汁瀧次第だ。一人では決められない。」

界圭はしばらく黙った末、考えを変えたようだ。「いいでしょう。あなたが支えたいと思うなら、私も無理強いはしません。でもね、あまり無邪気ではだめですよ。無邪気さというのは子供のためのものです。人に好かれるためのね。あなたは永久に子供ではいられないのですよ。」

「ご意見に感謝いたします。」姜恒は無表情で言った。

ふと耿曙が笑い出した。「そんなことない。俺は大好きだぞ。」

界圭は森の中に消えていき、姜恒は耿曙に傍に戻って休んだ。翌日雍軍は出発し、それから五日後、ようやく新王都安陽に到着した。

 

汁琮負傷の報せは一足先に安陽に伝わっていた。報せを受けた各族の族長たちは、それぞれ自ら太子瀧の近くに戻ってきた。王都は一晩中緊張した雰囲気に包まれたが、汁琮負傷とだけは全域に知れたものの、どの程度の負傷かは不明だった。数年前汁琮が玉壁関で暗殺されかけた時は城内に風雨が巻き起こったようで、人々は不安に陥ったが、彼はすぐに良くなった。今回もひょっとしたらそんな感じかもしれない。

 

耿曙は馬車を護送し、秘密裏に安陽宮殿に入った。この宮は山際に建っていて、歩いて行くと言い張った姜恒も途中で息が切れた。かつて畢頡は毎日この王宮を上ったり下りたりして、さぞ疲れたのではなかろうか?

 

禁足を命じられた太子瀧だが、今はそれもなくなった。耿曙は群臣を招集せず、まずは太子瀧を父親に会わせた。太子瀧は耿曙と姜恒の姿を見ると、二人を抱きしめて放さず、それから耿曙一人を抱きしめて、放さなかった。太子瀧は目を潤ませ、声を震わせた。「二人とも生きていたんだね。本当に不幸中の幸いだった。」

姜恒は太子瀧の様子を観察した。以前よりさらに成熟したようだ。一度別れた後会う度に、太子瀧はいつも一回り成長していた。姜恒はほっと息を吐き、太子瀧と抱き合った。その抱擁は数多の言葉に勝っていた。

「もう大丈夫。みんな帰ってきた。みんな帰ってきた……。」太子瀧はそっと囁いた。

耿曙の眼差しは複雑だった。姜恒は太子瀧の肩越しに耿曙と視線を交わし、太子瀧の背中をぽんぽん叩き続けた。さあ、もう済んだことですよ、と伝えるためだ。

「父王を見舞ってやれ。」耿曙が促した。

 

太子瀧は寝台の前に来て汁琮を見ると、悲しみのあまり、号泣した。彼は寝台の端に座り、汁琮の手をしっかり握りしめた。汁琮は我が子の泣き声を聞いて意識が戻り、握り返そうとしたが、手は動かなかった。

殿内では一片の静寂の中、太子瀧の泣き声だけが響いた。姜恒と耿曙は離れて座っていた。その時、殿外から通達が聞こえた。「管相、陸相が謁見をご希望です。」

管魏は杖をついていた。雍王負傷と聞き、急ぎ落雁からやってきたのだ。一夜にして年をとったか、髪は既に真っ白だった。陸冀も潯水から駆けつけた。疑わしそうに姜恒を見たが、何も尋ねなかった。二人はまず汁琮のけがの様子を見た。その時、汁琮の口が開き、何か言いたそうだったが、声にはならなかった。

太后もこちらに向かっておられます。明日の夜までには到着されるでしょう。」管魏が言った。「太后はお怪我をなさっているから、そんな長旅をされない方がいいのですが。」姜恒が応じた。

管魏は相変わらずの温和な声音で言った。「殿下に残された我が子が死ぬかもしれないのなら、何としてでも一目お会いしたいのです。」

陸冀は軍報を得て詳細に調べ、彼の疑惑は汁綾より強い。だが今は責任を追及している場合ではなく、証拠がないのでは追及すべき責任さえ見つからない。

太子瀧の泣き声も徐々に収まってきた。管魏は「殿下、嘆き悲しみ過ぎてはなりません。これから大雍は存亡の危機に直面するのですから。」と言ったが、その言葉はむしろ姜恒と耿曙に向けられたものだ。耿曙は真剣な表情で言った。「俺は国内に隠れている。朝廷は相国お二方にお任せする。」

管魏は本来落雁の姜太后の元で余生を過ごそうと考えていたが、今回は来ないわけにはいかなかった。だが、自分と陸冀が彼らを信用するなら、雍国の状況は暫しこのまま維持できるだろう。

 

太子瀧はしぶしぶ頷いた。確かに汁琮は大勢の人を殺した。関を越えてから、十万人近くを殺したことになる。凶暴性が爆発したかのようで、誰の言うことも聞かなかった。

この半年間朝臣たちは彼の殺戮行為に、ひたすら反対してきた。鄭国討伐前も、父子は不愉快極まる悶着の末、太子瀧は軟禁されることになった。汁琮は自信満々で、自分が勝って帰れば、それが彼英断の証明になり、再び息子を従わせられると信じていた。

だが太子瀧が最も案じていたことがついに起きてしまい、父は死ぬよりつらい苦痛を強いられている。

 

陸冀が考えた末言った。「太后が来られたら相談しましょう。名医を見つけられれば、ひょっとしたらお救いできるかもしれません。」

『ひょっとしたらお救いできる』という部分で陸冀の考えが読み取れる。こんな風に言う人は大抵、『救いようがない』ことがわかっているのだ。中原の名医たちは、長引く戦乱の間にどこかに消えてしまった。姜恒が知っているのは公孫武だけだが、その彼すら行方不明だ。それに彼は鄭人びいきだから、見つかったとしても陸冀にも呼び寄せられないだろう。

 

それから何日か、できることと言えば落雁から人を遣わすことだけだったが、何分にも雍国の医堂は官府が握っていて、ほとんどは軍医だ。医師たちは安陽王宮を出入りはするが、結論は一つだった。:竹籤は抜けません。時を稼ぎましょう。できる限りの延命を。

こうして汁琮は喉に釘を刺したまま、王の寝台に横たわって苦し気に喘ぎ続けた。竹籤の根元から血がにじみ出て、どす黒くなっていた。太子瀧は芦菅を使って水を与え、父親の喉をうるおそうとしたが、汁琮は全て飲み込むことさえ困難で、日一日とやせ衰えていった。

 

「以前のようにお前が東宮に戻ったらどうだ?」耿曙が姜恒に言った。太子瀧は、はっと我に返った。「仕事は山積みなんだ。恒児が戻ってくれたら助かるよ。」そして玉玦を外して姜恒に渡した。「玉玦を持って、東宮を率いてほしい。」

耿曙は玉玦をじっと見たが、姜恒は受け取ろうとせず、「元々私がやるべきことですから。」と言った。「受け取れ。」耿曙が言う。姜恒はそれでも受け取ろうとせず、立って席を離れた。

そして東宮諸政務を引き継ぎに行った。太子に替わって暫時後継者の責を担うためだ。

 

耿曙は太子瀧と一緒に正殿内にそのまま残った。死を目前にした汁琮が制御不能になって、言うべきでないことを口走るのを阻止するためだ。耿曙の目的は明明解解で、一旦姜恒を殺そうとした汁琮は敵となった。耿曙の信念は無情なまでに揺るぎなく時には姜恒を怯えさせるほどだが、汁琮が完全に死んだことを確認するまでは、最後まで貼りつく所存だった。

 

「玉玦を受け取るべきでしたよ。さっきは最高の機会だったのに。」界圭が陰から姿を現し姜恒に付き添った。姜恒は界圭を一瞥し、「あれがなければ、私は私でなくなるの?」と言った。

「頑固なところはお父上そっくりだ。」

「どっちの?」

界圭は笑った。姜恒が東宮に入っていくと、官員たちが待っていた。―――太子が軟禁されている間、彼らはどうやって安陽東宮で国内政務を処理していたのだろう。きっと薄氷を踏むような日々だったに違いない。汁琮の脅威が日増しに高まっていく中、王意を忖度して政務を制定せねばならなかったはずだ。少しでも誤れば、汁琮の怒りにふれ、身の危険をおよぼしたのだろう。

姜恒が見まわしたところ、落雁時代の面々は皆来たようだ。曾榮、周游他の青年たちは皆、変法の時の東宮門客たちだ。今や皆官職を得て、必ず来る太子瀧への王位継承の日を待っているのだろう。

「姜大人。」曾榮が頭を上げた。「やっと帰られましたか。お会いできる日を心待ちにしておりました。」

「やっと帰れたよ。みんな元気なの?どのくらい減った?」

「空いている席の者は、皆死にました。」

 

なぜかとは姜恒は聞かなかった。士族の弟子たちはみな健在なのを見れば、汁琮は士族の利益を考えて彼らに手出しはできなかったのだろう。ただし、弱小の一族出身の同僚が、汁琮に反対意見を提出したせいで殺されたことで、世家の出の者にも類が及んだはずだ。

 

姜恒の席は今でもあった。太子瀧は遷都してからも、それまで通り、姜恒と耿曙、それに牛珉たちの席は残していた。

「逝ってしまった人の席を取っておいてどうするの?これから人が増える一方で、すぐに置いておけなくなるだろうに。」

「太子が譲らないのです。心ではわかっているはずなのですが、子供のようで。私たちも言ったのですが。」曾榮が言った。

姜恒は暫く黙り、最後に言った。「じゃあ好きにさせてあげよう。」

 

周游が言った。「どうなっていますか?我らも王陛下にお目にかかれないのです。太子殿下はもうずっとこちらにいらしていません。禁足が解けてからは彼の部下にも会っていなくて、自分たちで政務を処理しております。」

姜恒は太子瀧の隣にある自分の席につき「今は何をしているの?見せてくれる?」と言った。

 

「四等階制です。現在試行中の。」曾榮は姜恒に一巻の文書を広げて見せた。

「廃案だ。」姜恒は情け容赦なく言い放った。年若い官員たちは言葉を失った。

東宮政務処理について全権を一時引き継いだ。陸冀ももう彼には説明しなくていいと言いに来た。これは絶好の機会だ。この機に何もかも片付けてしまわないなら、私はもう知らないからね。」

一同ははっと我に返り、すぐにやったーと大声をあげた。曾榮も笑みを浮かべて、姜恒に突き返された文書を持って廃案処理を始めた。

「征兵令です。」白奐という名の官員が言った。「秋の終わりまでに中原から三十万徴兵し、鄭国戦後の補員とし……。」

「廃案だ。年初の新法に合わせて調整して。」

周游:「梁、鄭両国商人の持つ商路を取り消し、財産を没収……。」

姜恒:「廃案。どうかしている。」

 

相槌を打つ者はいない。汁琮はまだ死んだわけではない。万が一奇跡的によみがえったら、天子の剣で姜恒を血祭りにあげるだろう。だが皆汁琮の考えにはずっと反対だった。機会に乗じてたくさんの法令が横に飛ばされ、すべて曾榮が拾うこととなった。その内、曾榮も背後に置いた屑籠に次々投げ入れるようになった。

「徭役(強制労働)令、大運河開拓、水軍設立、南下による……。」

「廃案。お金がない。」

「国を挙げて、八十一個の天子鼎を鋳……。」

「廃案。一体どんな大きな夢を見ているんだ?」

「婚配令、若い女性を登記簿に……。」

「廃案。」

「四国士追放……。」

「廃案。」

「王宮再建……。」

「廃案。」

 

姜恒が一切を廃案としたことで、ようやく東宮は肩の荷を下ろすことができ、曾榮はほっと息を吐いた。汁琮が決めた数々の法令を一旦施行してしまえば、苦労して得た領地で民の造反が起こり、再び関を出て行くことになるだろう。

静寂の中、最後に曾榮が言った。「もうありません。姜太史。」

姜恒は暫しの沈黙の末、言った。「周游は照会を発布して、各国に通知して。五国連合会議はそのまま行うが、時期は冬季に改めます。」周游が返事をし、姜恒は皆に向かって言った。

「太子の国君継承の宜の準備を始める。陸相に連絡して。」

「国は一日たりとも君を欠けません。正しいお考えです。」白奐が頷いた。

 

姜恒はしばらく黙った後で再び言った。「連議章程を起草する。十年間の停戦、休養生息のためだ。梁王畢紹は亡国の君なれど、天子が封じた身分であることに変わりはない。雍人はその封地を占領した。次にすべきは梁人を安心させること。畢紹と相談して、説明をつけるようにしなくては。」

 

曾榮は何も言わない。これは微妙な問題だ。放っておけば明らかに梁国への占領行為で、梁人はいつか反旗を翻すだろう;だがその地を手放すとなれば、戦死した兵たちは浮かばれない。「あなたなら方法を見つけられると信じている。」姜恒は曾榮に言った。

「これは国の大策ですので、慎重にならなくては。」

姜恒は頷いて話を続けた。「土地を測り直して、我が国が占領した土地には雍の法律に則った分田法の下、田地を中原民に分け与える。四等階級制度は廃止し、誰でも耕せるようにしよう。これについては管相と相談して。彼がここにいる間にね。国葬の後には帰ってしまうかもしれないから。」

「そのやり方なら理にかなっていると思います。」曾榮が言った。

 

姜恒は政務処理を終え、曾榮はもう一つの文書を渡したが、声は出さなかった。それは姫霜と太子瀧の婚儀の義であった。汁琮が出征前に決めたものだ。重要な話だと姜恒にはわかっていた。雍国の国事であると同時に王室の私事でもあるからだ。

 

 

 

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 166-170

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第166章 けじめ:

 

「彼に手を貸すつもりか?」耿曙は部屋に着くと武袍を脱いだ。単衣も透けるほど汗をかき、布地が体に張り付いて、引き締まった背中の線を現している。全く済州は熱すぎる。だがこの空の様子だと嵐が来そうだ。

姜恒は書簡を置いて辺りを見回した。聞かれたことには応えず、「ここはね、海閣を出て初めてちゃんと住んだ場所なんだ。……おかしいよね。趙起はいったいどうしたのだろう?」

耿曙は姜恒の近くに行って腰を下ろした。二人とも単衣姿だ。姜恒は顔を上げて耿曙を見つめた。耿曙はしばらく考え、余計なことは言わないことにした。知らないままにした方がいいこともある。本人が言いたくなかったのなら尊重しよう。

「汁琮はすぐにやって来るだろう。梁国は滅びたし、今、彼を止められる者はいない。」

「そうだね。だから彼を助けることは、自分たちを助けることにもなる。」姜恒は答えた。耿曙はしばらく黙ってから、卓上にあった竹筒から算木を取って机に置いた。

「今俺は彼が俺にどのくらいの兵を貸せるかと考えている。」

「きっと『どれぐらい欲しい?』と聞いてくるよ。兵を得たら、汁琮を打ち負かすことができるの?」

耿曙はしばらく考えた。鄭軍と雍軍は全く違う。鄭軍を率いたことはないので確実なことは言いにくい。

姜恒:「彼に勝ったらその後はどうするの?鄭国が雍国を亡ぼすのを手伝うの?」

「恒児。」耿曙は行き詰まり、算木から目を上げて姜恒を見つめた。姜恒は呟くように言った。「汁琮を殺して、汁瀧を殺し、行く手を阻むなら、汁綾も一緒に殺す?最後に私のために王位を奪還してから鄭国を滅亡させ、四国を平定して、私を天子にする?」

耿曙は確かにそう考えた。姜恒に何も隠すつもりはない。

「そんなことしたら、私たちは汁琮と何が違うの?」姜恒はため息をついた。

「お前は雍国の正当な太子だ。それが一番の違いだ。」

「だから私のための殺人は殺人に入らないって?私のために人を殺すのは理にかなっているって?」

「俺はそんなつもりじゃ……もういい。」耿曙は姜恒が自分に賛成すると思っていた。二人で鄭国に来たのは太子霊を助太刀するだけでなく、姜恒の地位を取り戻すためではなかったのか?

「寝よう。」姜恒はまたため息をついて最後に言った。「私もちゃんと考えてみないとね。」

「汁琮は罪を認めないぞ!お前は天下に訴えて、彼に退位を迫るつもりか?そんなのは妄想だ!」姜恒は耿曙を見た。耿曙は怒ってはいなかった。

「今はそのことは考えたくない、後でまた話そう。それでいい?」

耿曙は頷いたが、姜恒は真相を明らかにしたいのは自分だって同じだと思った。

 

姜恒は寝台に横たわった。放浪の末、ようやく再び身を寄せる場所を得た。汁琮がいつ軍を率いてやって来るかや、大挙して自分の行方を探していることをもう心配しなくていいのだ。だが耿曙は屏風の向こうに布団を敷いて、寝そべった。

「兄さん?」姜恒は起き上がった。耿曙は屏風の向こうから「うん、」と言った。

「怒ったの?」

「何だって?」耿曙は我にかえって答えた。「いや違う。ただ暑すぎるからお前がよく眠れないんじゃないかと思ったんだ。」

「こっちに来てよ。」

「いやだ。」耿曙はがんばって言い張った。

「やっぱり怒ってるんだ。」

「違うったら!」耿曙は少し苛ついて答えた。「話が聞こえなかったのか?」

姜恒:「……。」

二人はもう長いこと言い争いをしていなかった。最後にしたのは林胡人の隠里の外でだ。まさかこんなつまらないことで喧嘩になるとは思いもしなかった。

姜恒は仕方なく答えた。「わかったよ。」耿曙は振り返って屏風の向こうを見たが何も言わなかった。ずいぶん後になってから、耿曙が声をかけた。「恒児。」

姜恒は眠くてたまらず、うとうとしながら振り向いた。「何?」

「何でもない、寝ろ。」耿曙は再び口下手の情けなさを思い知った。言いたいことがたくさんあるのになぜか口から出て来ない。

 

夜半過ぎ、雷鳴が轟いた。遅まきながら鄭の地についに嵐がやってきた。この雨で干ばつの心配はなくなった。今年の秋の収穫は心配なさそうだ。涼しく爽やかな空気が部屋に入って来た。耿曙はずっと目を開けたままだった。

姜恒を海に連れて行ったあの日に、耿曙はあることを決心した。望んでいる答えを得るまで、もう以前の様に姜恒にべたべたするのはやめるのだ。二人にとってよくないことだからだ。知らずにいれば、姜恒は全てを今まで通りの兄弟の間の親しさだと単純に思うだろう。今では二人は以前とは違うのだからと、耿曙は自分に言い聞かせ続けた。けじめをつけるべきなのだ。

 

翌日、姜恒は鄭国朝廷に上がった時にも、まだあくびが出た。朝廷の半分以上の人は、彼を知っている。彼が耿曙と共に姿を見せた時、大きなざわめきが起こった。

太子霊改め鄭王は王座について恭しく告げた。「姜先生が戻られました。聶将軍は我が国に初めてお越しです。お二方お座りください。」

「何が聶将軍だ?!」老臣の一人がすぐに耿曙を見わけ、怒号を上げた。「あれは死すべき屠夫!耿曙だ!耿淵の息子だぞ!」

 

諸臣たちはこの世にこんな恥知らずがいるのが信じられなかった。両国の血の仇は海より深い。両手を血に染めた殺戮者が、堂々と鄭国朝堂に座している。こんなことは死んでいった数万の兵たちへの侮辱だ!

太子霊は何も行動を起こさなかった。姜恒の力はよくわかっている。きっとうまくやるだろう。だが先に口を開いたのは耿曙だった。

「その通り、俺は耿淵の息子だ。母の姓をとって聶海という。大晋驃騎将軍に封じられて、洛陽より騎都尉の職を賜った。父は十五年前、琴鳴天下の変を起こし、四国公卿を殺した。俺は汁琮の義子でもあった。雍軍を率いて、おたくら鄭軍に勝った。数万人の鮮血で手を染めている。あの後、梁国国都安陽を破った……。」

そう言って耿曙は空いている席に座り、机の上に黒剣を置いた。

「……聶某は武芸が並みで父には及ばない。だがもし鄭国朝堂を血に染めようと思えば、誰も正殿大門から逃げることはできない。」

耿曙は一同を見渡し、少し口調を改めた。「だがここに来たのは殺すためでなく救うためだ。勿論仇を打ちたい人がいるなら、すぐに来られよ。こちらは座して動かずに、そちらから先に十手受けよう。」

 

それを聞いて、殿内は静寂に満ちた。この朝堂に耿曙に手出しできる者などいない。この場に弓矢を持ちこませ、彼に向かって乱射するよう、太子霊が命じでもしない限り、誰にも何もできなかった。

太子霊はため息をつき、何か言ってほしいと、すがるような目で姜恒を見た。まずい雰囲気だが二人が現れればこうなることは姜恒にはわかっていた。戦争とは自分が生きるために相手を殺すものだとかいった一般論を説いてみたところで何になる?理屈は誰でもよくわかっている。大争の世、鄭は雍を攻め、雍は梁を攻めた。情け容赦などない。二人の立場が変わったということこそが最大の問題だ。

 

「各位大人、何年もご無沙汰いたしました。」姜恒は逆にのんきな口調で言った。耿曙の威圧を受けてしばし言葉を失っていた一同は、特に罵り言葉をぶつけようとしなかった。姜恒はとても落ち着いていた。鄭人は彼を深く恨んではいない。雍国に家臣として仕えたことは知っていたとしても、結局のところ、彼は直接殺人を行ったわけではない。

 

「来られたのですね。」幼い声がそう言った。姜恒は声のする方に顔を向けた。太子霊の御座の左手で、一番上の席に、十代の少年の姿があった。彼の両脇には二人の老臣が控えて、彼を守っている。

「梁王ですか?」服装からすぐにその少年が誰かわかった。安陽城が落ちた後、項余に釈放され、鄭国に逃げ込んだ梁王畢紹だった。畢紹は王服を着ていた。亡国の王と言えども、礼節は尊守し、姜恒に対し先に起手した。

姜恒は起手を返し、「梁王、ごきげんはいかがですか。」と言った。

「よい。」畢紹は答えた。「太史大人と天子のごきげんはいかがですか。」

二人はお互いに拝礼した。姜恒は答えた。「天子は崩御されました。」

「天下より哀悼を。」畢紹が言った。

殿内はまた暫し沈黙した。畢紹は耿曙を見てから姜恒に視線を戻した。「我が王都の民である梁人が鉄騎に蹂躙されなかったことについて、姜大人に感謝申し上げます。人々を国都から逃がし、生き延びる機会を与えられました。」

「王道に従いました。我が本分です。」姜恒は淡々と答えた。

梁王の横にいた老臣はフンと声を出した。不満やる方ない。そもそも姜恒と耿曙が攻めて来なければ、安陽は敵の手に落ちなかったではないか。姜恒も眉を揚げて、老臣を冷笑した。

耿曙は黙っていられなかった。「俺たち二人が兵をあげて梁を滅しなければ、梁国は末永く千代に八千代にずっと安泰だったとでも言うつもりか?」

それを聞いて臣たちは騒然となった。姜恒はあきらめたように苦笑した。この場に来てから面倒は増す一方だ。

「ということは、大梁は聶将軍の仁徳に感謝せねばなりませんな。城を奪っただけで殺さなかったことに。」その老臣は代々王に仕えてきた梁の大貴族で、名を春陵という。歯を食いしばるまでに恨みに満ちた悲痛な口調でそう言った。耿曙の皮を剥がし肉を裂いてやりたいほどに恨んでいる。

姜恒は落ち着いた口調で返した。「もしかつて梁軍が洛陽に入った時に、同じように民のことを顧みていたなら、こんにちのようなことにはならなかったでしょう。」

「それは屁理屈だ!」春陵は怒号を挙げた。「鄭王!我らは亡国の臣となり、済州に身を寄せました。そして再びこのような恥辱を受けています!先王にどう顔向けできましょうか!」

 

太子霊は状況が良くないとみて、説得を始めようとしたが、春陵は短剣を抜き出して、自刎しようとした。命を以て訴えようというのだ。だが畢紹の反応は早かった。素早く短剣を掴んだ。鮮血が噴き出し、王袍を赤く染めた。

「相国いけません!姜太史は我らを救ってくれたのです!一時の衝動でこんなことをして何になりますか?!我らが共に自刎すれば祖先に報いることができるのですか?!」

春陵は血だらけになった畢紹の手を見てたちまち号泣し、少年梁王を抱きしめた。

 

太子霊は再びため息をついた。鄭臣たちは何も言えなくなった。不幸比べをするならば、梁王が一番ひどい目にあっている。その彼が折り合いをつけたというのに、鄭人に何が言えようか?畢紹は片手を春陵の背に載せ、やさしく撫でて慰めてやったが、その双眸は姜恒をしかと見つめている。姜恒は思った。もしもっと早く畢紹に出会って、しっかりと育てあげられたなら、この少年は天子となる素質があったかもしれない。だが運命に操られてこうなった。実に残念だ。

                  (結構上からだよな、姜恒も)

 

ーーー

第167章 殿前での争い:

 

再び殿内にしばしの静寂が訪れた。末席についていた孫英が包帯を持ってきた。太子霊はそれを受け取ると畢紹に向かって、「梁王、これを巻いて下さい。」と言った。

「自分で致します。」畢紹は答えて、血だらけになった手に包帯を巻いた。

太子霊はため息をついて、「先ほど言った通り、姜太史と聶将軍がここに来たのは、私を苦境から救うためです。」

「その苦境の原因を作ったのは彼らです。」冷ややかな口調の別の声がした。

姜恒が目を向けると、それは三十歳くらいの文官で、かつて彼が東宮で仕えていた時にも朝廷の官をしていた、名を諸令解という文官だ。服装からして今は鄭国右相のようだ。

諸令解は皆に向かって言った。「もし姜恒が雍国の変法を助けなければ、玉壁関で我が大鄭があのように大敗せず、汁琮が関を超えて、好き放題することもなかった。彼こそ諸悪の根源だ!」

「過ぎたことだと言っているのだ!」太子霊は本気で怒りだした。「右相!古傷を抉り出さなければ気が済まないのか?そんなことをして一体何になるというのだ?」

「古傷に触れているのではない。この二人を信用できないと言っているのです。」諸令解は冷ややかに言い放った。

 

姜恒が言った。「仕えた主人のためにやったことです。私にはなぜ理解できないのかわかりません。右相、もし私が雍臣として、雍国の俸禄を得ながら、鄭人が雍人に対峙するのを助けますと言ったらそれを信じられますか?再び寝返ってあなた方に全てを売り渡すのが怖くないですか?

 

(雍国がスパイとして姜恒を鄭国に送り込むはずがない。姜恒が裏切って雍国の情報を鄭国に売り渡すかもしれないから、そんな危険をおかすはずがない、という意味です。翻訳の下手さもあるけど原文も回りくどい書き方をしている。)

 

諸令解は返す言葉がなかった。姜恒は話を続けた。「鄭に身を投じたからには、鄭国に絶対の忠誠を貫きます。雍国にいた時は雍国のためだけを考えていました。今再び鄭に来たからには、皆さんは私を信じて大丈夫です。」

 

太子霊が言った。「その通り。姜先生が我が国のためにかつて汁琮暗殺という義挙に出てくれたことは皆もその目で見たでしょう。最近の事情は我が望みに沿わないものではあったが、少なくとも私は姜先生を信じています。」

諸令解がまた口を開いた。「朝三暮四に過ぎぬ。彼らを信用できないことをお許しください。あなたたちは雍国の犬だ!」

「罪を認めますか?」左相である辺均がこの場に参戦した。「汁琮は虎狼のごとく関を出て戦争を始めた。これは明らかに侵略です!あなたたちはその虎狼の爪と牙だったのでしょう。」

姜恒はばかばかしいと思ったが、耿曙は穏やかに声を出した。

「罪を認めるか?あんたら鄭人は天子を脅かし、洛陽の民を屠殺して、天子と趙将軍を死に追いやった!あの時の借りを俺は今正にあんたらに返させようと思っているぞ!」

 

すぐにまた全朝臣たちが騒然となった。太子霊は咳ばらいをした。目の前の局面はすでに収拾不能な状態になった。最悪の状況は考慮していたはずだが、恨みの持つ力を軽視しすぎていたようだ。

「罪を認めるか?」周りの𠮟責も罵倒も押さえつけるように再び耿曙の声が響いた。今度は太子霊に向かって言う。「軽々しく戦争を起こし、落雁に強攻をかけたことを!」

諸令解は怒号を上げた。「座して関わらねば、汁琮が関を出なかったというのか?汁琮こそ悪魔の申し子だ!」

 

刹那朝廷中の者たちが一斉に感情を爆発させた。姜恒が何か言おうとした時、梁王畢紹が傷を包帯で巻き終え、再びそっと声を出した。

「罪を認める。かつて洛陽で起こしたことは我が罪である。」

春陵は未だ涙も乾かぬ内に、梁王のこの言葉を聞き、慌てふためいた。「王様、そんなことを言ってはなりません!あなたに何の罪がありますか?当時あなたはまだ五歳だったのですよ!」姜恒は再び畢紹と視線を合わせた。殿内が静まった。畢紹の声だけが聞こえた。

「天子を死なせ、洛陽に攻め入ったことは我が大罪です。それは五国の罪でもあり、汁雍の罪でもある。」

洛陽で起きたことについて、五国の国君がかつてのことを直視し、責任を認めたのを姜恒はこの時初めて聞いた。姜恒はうなずき、太子霊を見た。太子霊は心得たように一笑し、言った。「私も罪を認める。あの年の行いは間違いだった。」

孫英は咳ばらいをした。洛陽侵攻時には、まだ前の鄭王がいて、あれは朝廷が満場一致で決定した。天子を手に入れねばならない。姫珣を汁琮の手中に落としてはならない。太子霊がどうがんばろうと、あれは天下の必然だった。

姜恒は「それで……」

二人の表明を聞いた耿曙は言った。「それなら、俺も罪を認める。悪魔の申し子に仕えたこと、それが俺の罪だ。これより弟とともに、これまで犯した罪を償うつもりだ。」

 

雰囲気が少し和らいだ。席を埋めるのは皆、書を読みつくした文化人だ。理性を取り戻せば、誰もがわかっていることだった。今の困局の世においては、姜恒や耿曙のような者を責められないと。かつての琴鳴天下の殺戮は忌むべきことではあるが、二人に血の仇を背負わせるべきではない。結局のところ、すべては悲劇で、誰もがその望まざる悲劇に巻き込まれたのだ。

姜恒は耿曙の隣に腰を下ろした。「それじゃあ私たちはこれで、ようやく将来についてちゃんと話し合いを始められますね。」

「誰の将来でしょうか?」再び畢紹が尋ねた。

「梁の将来、鄭の将来、五国の将来、つまり天下の将来についてです。」姜恒が言った。耿曙はもう何も言わずに、手に持った剣をじっと見つめていた。

「あなたたちは怪物を世に放ったんだ。やつが何をしでかすかしっかり見てみるといい。」諸令解は言った。

太子霊は姜恒に言った。「あなたたちがつけた大火は止めなければ天下全てを焼き尽くすでしょう。姜先生、我らが全力を尽くせばこの火は消せると信じてはいますが、そのために我らが払う代償は大きいはずです。」

姜恒は考えた末言った。「まずは手順に従って汁琮が何をしたのか聞かせてください。鄭王は色々と情報をお持ちと存じますので。」

 

太子霊は左相辺均に状況報告するようにと指示した。鄭国が持つ雍国についての情報が必要だ。それがなければ深い議論はできない。姜恒がずっと主義としてきた考えは、「己を知り彼を知れば百選危うからず」これに尽きる。

 

辺均は一つ咳ばらいをしてから、ゆっくりと話し始めた。

「汁琮は今や中原の大半を占拠しています。洛陽、安陽、漢中、捷南、嵩県琴川一帯は既に手の内にあります。三日前、曾宇が群を率いて照水城を攻撃し始めました……。」

姜恒が予想していた通りの速さだ。しかもしれは落雁にいた時に彼自身がたてた南征大計によるものだ。この後は長江が汁琮の歩みを阻むだろう。江州は守りやすく攻めにくい。汁琮は水軍を持っていないので、直接攻撃はしないだろう。最善なのは、潯水三城に沿って進む路線だ。潯東、潯北、潯陽を取って越地に侵入し、長江に沿って北東に戻り、崤関を迂回して、鄭国に入る。

 

一城失えば、城々を失う。南方四国は百年もの間、硬直状態にあったが、一つの地が落ちたことが、崩壊の連鎖を招いた。崤関に駐留する龍于軍を呼び戻せば、汁綾は軽々と崤関を攻め落とし、済州は更に危険になる。

戦争の進行具合よりも姜恒が気になるのは、雍国の手に落ちた城市に住む人々がどうなったかだ。辺均の情報は事態が一層ひどい状態であると知らしめた。雍国は遷都を始めた。行先は洛陽ではなく安陽だ。落雁城は莫大な移民団を送っている。夏のうちに中原に入り、安陽に新王宮を作って、雍国の人々も梁国境内にぞくぞくと送り込まれていた。遷都というのは国にとって時間がかかり、簡単には収まらないものだ。

だが汁琮は鶴の一声で国を挙げての移民と定着を成し遂げようとしていた。

半月前には40万人の雍人が玉壁関に移ってきた。そして太子瀧を首とする東宮門客が新たな国都を据えるための新制度を遂行しようとしていた。それはかつて落雁にいいた時に姜恒が基礎作りをした計画に沿っていた。ただし、一点違いがあった。

 

汁琮は統治する人々を四等に分けることにした。;一等は雍民、二等は雍人と共に関内に移住する風戎、林胡、氐三族で、「関外民」と呼ぶ。三等は嵩県、洛陽などの天子遺民、「中原民」と呼ぶ。四等が歴年の征戦後の捕虜、鄭、郢、梁人、及び代人の一部、これを「賎民」と呼ぶ。

 

「新たに付け足したのか。」姜恒は冷ややかに言った。皆は姜恒の嘲弄を聞いたが何も言わなかった。

「一等民にも公卿、士などの貴族と、大多数の官がいます。二等は武人が多く、三等四等は彼らに使われます。賎民は農工商には携われず、苦役に服すか、兵になるしかありません。当然この場合の兵の待遇は雍正規軍とは全く違います。」

                      (宋鄒はどうしたろう?)

 

辺均は汁琮の四等人制について別段思うところはない。雍国ほど厳格な階級制度ではないにしろ、どの国でも貴族と平民ははっきりと区別されている。この報告をしたのは、汁琮の新朝廷がさらに領土を広めるための体制づくりができたことを知らせるためだった。雍国はこのような効果的な運転で、軍隊の補強をし、後方支援も充実させ、鄭国を責め破るのは時間の問題だ。

 

「目下のところ、汁琮の軍隊は中原流民や戦争捕虜を加えて、さらにまた拡大しています。その数、26万、照水攻略後は更に増加しております。

姜恒は頭の中で目算してみた。中原の土地、雍国の効率性、軍に引き入れ可能な人数。

辺均は言いかけた。「私が推測したところ……。」

「50万。」姜恒は先にこの問題について答えた。「嵩県の食糧庫を徴用し、軍需費を最大限に圧縮して民を戦場に送る。4ヶ月あれば、汁琮は50万の兵を率いて戦える。その内10万人が主力軍、つまり風戎と雍の中堅戦力に、氐人5万を加えた数だ。」

姜恒は一同に説明した。「残りの35万は新兵だ。彼らの腹を満たしてやり、前線に送る。何人死のうが、汁琮にとってはどうでもいい。」

 

その場にいた全員が沈黙した。50万の軍隊とは。たとえ代、鄭、郢の三国が連合を組み召集をかけたところで20万も集められまい。半分にも及ばない数だ。

「鄭国はどのぐらいの兵を集められる?」沈黙を破って耿曙が口を開き、尋ねた。

「4万だな。一万は崤関に置いておかねばならない。」

諸令解が言う。「汁琮の新兵は寄せ集めで戦場での実力はないかと……。」

「鄭軍の戦力もそんなもんだろう。似たり寄ったりだ。」耿曙は情け容赦なく皮肉る。

諸令解が青筋を立てたのを太子霊は視線で制した。耿曙はただ事実を言ったに過ぎない。

畢紹が言った。「私の持つ八千の御林軍を聶将軍にお渡しできます。最後まで私に従ってくれた勇士達ですので、どうぞ善き扱いをお願いします。」

「俺の命令で戦えるのか?」耿曙が言った。姜恒は苦笑し、考えた末、太子霊に言った。「熊耒に手紙を送りましょうか。あの親子は私たち兄弟を殺そうとはしましたが、こんな時ですので……。」

「郢王は薨去された。郢太子も亡くなった。ご存じなかったのか?」

「何ですって?!」姜恒は衝撃を受けた。ここまでの道のりであまり情報を得てこなかった。ほとんどの時間、鄭国にいたこともあるが。

「どうして死んだのだ?父子ともに死んだのか?」耿曙も驚いていた。

太子霊が説明してくれた。「一夜にして怪死した。死因は不明だ。羋清が公主の身分を以て補政している。今や羋家が権力を掌握しているから、公主が子を持てば羋家が未来の国君として後押ししていくだろう。」

太子霊も江州での怪事件についてはよくわかっていない。ことが起きた時にはその場に人はいなかったため、事実に基づけば、郢王と太子はおそらく同時に服毒死したのだろう。

これ以外にも、十万の郢軍が安陽で全滅した。今や江州には二万の守備兵しかいない。郢地の南方大城にいたっては空城となっている。

「代国が関を出るなら、我が国に十万の兵を援助することも可能だが、汁瀧が姫霜と成婚することになると、おそらく……。」

 

それもまた姜恒が最初に建てた計画通りだ。こうして考えてみると、汁琮は自分の計画を余すところなく活用している。これを打開しようとすれば、挟み撃ちにあう。勝ち目はない。

話すべきことは話し終え、太子霊は地図を広げさせた。黒一辺倒だ。汁雍は「水徳」を以て国を立て、水は黒で表現される。今や中原の大半が汁琮の手の内ということだ。

地図を殿内に広げさせ、太子霊は合図をした。何か方法があれば、どうぞという意味だ。

姜恒はしばらく黙りこみ、救いを求めるように耿曙を見た。この期に及んで耿曙の真剣みは増した。姜恒の分析を求めることもない。軍事戦略は彼の方が得意分野だからだ。

 

外部から知らせが届き、孫英が立ち上がって、退席を告げた。

耿曙はしばらくの間、中原の地図を見た末に言った。「照水城の兵を増やして、何としてでもここを守ることでしか、汁琮の動きを止める手はないな。」

照水を失えば、雍軍そこを拠点として東南方へ向かい、潯水三城を攻撃し、越地に侵入する。そして元々潯水一帯には駐留軍は少ない。

(照水は耿曙が梁から奪って今は郢国軍が駐留している。鄭国に近い。潯水三城は鄭国の城)

 

姜恒が言った。「江州に協力を要請して二方向から照水を救援しよう。ここをしっかり守らないと。一旦照水が陥落したら郢国の国都も危険に……。」その時、孫英が急ぎ足で入ってきた。「悪い知らせです。照水が落ちました。汁琮は全城を水攻めにし、七万の民を溺死させました。駐留していた郢軍の半数は死傷し、残りは江州に逃げました。」

それを聞いて耿曙は地図の上に置いてあった木棋を一掃した。殿内は静まり返った。

「戦うのはもう無理だ。投降するか逃亡するか、どちらかを選ぶしかない。」

太子霊は眉間を手で押さえ、長い溜息をついた。

 

 

ーーー

第168章 死を以て制す:

 

鄭国では連月の大干ばつがようやく終わったと思いきや、七日間連続の暴雨に見舞われた。瀧のように降り注ぐ雨に、済州城は浸水し始めた。王宮はもともと低地に建てられたため、水が流れ込んで床上浸水し、机も椅子も水に浮いた。

耿曙はレンガを積んで入り口をふさぎ、水流を防いだ。天を仰いでいつ雨が止むだろうかと考える。嵐は南方の大地を襲いはしたが、汁琮の侵略も足止めしてくれた。少なくともここ数日内に潯水三城に侵入してくる心配はない。だが雍国がいつまでも中原中腹に留まっているはずはなく、来るものはくるのだ。城内の公卿は荷物をまとめ、人心は怯え、逃げる準備を始めた。だが、どこに逃げられるというのだ?郢国か?代国か?

 

済州では投降について意見が出始めた。公卿、士大夫にとっては国君が誰であろうとかまわない。家族が安全であれば、国は捨ててもいい。問題はその価値があるかだ。

剣の修練を終えた耿曙が戻ってきて言った。「誰かが話しているのを聞いた。趙霊を汁琮に差し出す代わりに鄭人の自治権を取るとか。」

耿曙は王宮の庭園で練剣していた。雨が降りやまぬ中、庭園外にいた二人の士大夫が話をしていた。雨の音で誰にも聞かれないと思ったのだろう。だが耿曙の聴力は鋭い。全てはっきり聞こえていた。

 

姜恒は苦笑した。「じゃあ、今度逃げるときは道連れも多そうだね。」

姜恒は三日間、太子霊の政務上の難題を解決して過ごした。鄭国では雍国と同じような骨身を削るほどの変法はできない。削られる骨のあたりが反旗を翻しそうだからだ。できる範囲内での規則の更新くらいしかできないが、国内情勢をしばし安定させることはできそうだ。だが戦火が届けば、作り直した危なっかしい均衡など、あっという間に転覆するだろう。

その時、一人の娘が二人の神殿の外に楚々とやってきた。「姜先生。」娘が微笑んだ。

「わあ!あなたなの!」姜恒はすぐに笑顔を見せた。「流花!来てくれたんだ、早く入って!」

耿曙は流花に目をやって、姜恒に向かって眉を上げた。知り合いか?姜恒は古い友に会えて嬉しかったが、趙起がいないのが残念だった。(やっぱ男の方が……)

「以前私に長い間仕えてくれたんだ。」姜恒は彼女を長兄に紹介した。

耿曙:「?」

「違う、違う。」姜恒はすぐに耿曙の誤解に気づいて訂正した。「あなたが考えているような意味でじゃないよ。」

流花は微笑み「王陛下がお二人をお呼びです。」とだけ告げた。

 

姜恒はまた全然からの知らせが届いたのだろうと、耿曙と一緒に太子霊のもとを訪れた。

雨は少しずつ止みかけている。今日、正殿には太子霊と少年梁王の畢紹、それに七歳の少年と十四歳の少女がいた。畢紹は子供たちと話していた。姜恒と耿曙が来たのがわかると、太子霊は子供たちに言った。「早く姜大人と聶将軍にご挨拶なさい。」

「先生!」趙慧はずいぶん大きくなっていた。今年でもう十四歳だ。

「練武に励んでいますか?」

          (読み返して確認したけど、二人は初登場なんだよな。)

趙慧は照れ臭そうに笑い、立ち上がろうとしたが、太子霊が引き留めた。「ここで披露しなくていい。あれが誰かわからないか?」

趙慧は耿曙を見て、彼こそが、李宏を負かして「天下一」となった例の人だとわかった。姜恒より耿曙にずっと関心を持ったが、父親の手前、好き勝手はしなかった。

 

王族は礼儀を重んじる。趙慧は英気にあふれ、趙聡はまだ七歳だが、より聡明で鋭いように見えた。

姜恒は趙聡の手を牽いた。太子霊はため息をついた。「機会があれば、趙聡も君に弟子入りさせたかったが、残念ながらその時間はなさそうだ。」

「誰にでも機縁というものがあります。強いることはできません。立派に育っておいでですよ。」姜恒は言った。

「あの時あなたが言わなければ、慧児に武芸を習わせようとは考えもしなかったよ。慧児、これから、姜先生と聶先生はすごく忙しくなるから、二人の邪魔をしてはいけないよ。わかったかい?」

趙慧は言いたいことが山ほどありそうだったが、仕方なく答えた。「わかりました。」

「暇なときに聶海に何手か見てもらえると思います。」姜恒は笑顔で言った。

「さあさあ、お前たちはもう帰りなさい。」太子霊は子供たちに言った。

 

「汁琮が潯陽を落とした。」太子霊は扉を開けて山を眺めながら言った。「目下、潯水一帯に十三万の兵を集結させている。汁綾は三日前に崤関下に兵を据えた。龍将軍が南下して越地救援に向かうのを待って崤関に強攻をかけるだろう。」

四人はしばらく黙ったままだった。太子霊は考えた末、話を続けた。今日、車擂将軍が最後の四万の兵を率いて潯水三城に先回りし、汁琮を阻撃しに向かった。」

畢紹は十二歳とは言え、すでに国君らしい面持ちで言った。「雍人は潯東の民を殺さず、城内を大挙して捜索したとのこと。きっとあなたを探しているのですね。」

姜恒はうなずいた。どうやら二人が来る前に太子霊は畢紹と色々話し合ったらしい。姜恒を見る目はわずかに疑惑を帯びていたが、それについて何も尋ねようとはしなかった。

雨音が小さくなってきた。耿曙は廊下まで行って天を仰いだ。7日続いた大雨も止もうとしている。雨に阻まれなくなった汁琮はすぐにでも越地を占領するだろう。

ついに太子霊が問いた。「聶将軍、われらに勝算はどのくらいあるか?一分でもかまわぬ。」姜恒は耿曙を見た。耿曙はずっと口を開かなかった。

畢紹と太子霊は黙ったまま、視線を交わした。太子霊は言った。「あの時の姜先生の言葉を今でも覚えている。汁琮を殺すのは、天下の千万の子供たちが、お二人のような永遠の別れを遂げないためだと。」

「王陛下が覚えていらしたとは。」

「覚えている。忘れたことはない。」

畢紹が尋ねた。「もう一度汁琮を暗殺することは不可能でしょうか。」

「そんなことを言ったのか?」耿曙がふと尋ねた。姜恒は少し以外に思ったが、耿曙を見てうなずいた。耿曙の表情が少し和らいだ気がした。

太子霊が言った。「聶将軍、もし私が我が国の全ての兵をあなたの指揮下に預けたとしたら、われらに幾分かの勝算はあるか?」

耿曙は何も言わない。太子霊はつづけた。「五分の勝算があれば試してみたい。もちろん、全くダメなら、無駄死にすべきではない。民を守るために国を献げて投降するのが上策だろう。」

それを聞いて姜恒にはわかった。太子霊はもう覚悟を決めていたのだ。今や国内の論調は、彼を支えようという気はない。降りずに死ぬまで戦うより、亡国の君として投降すれば、民に塗炭の苦しみをもたらすよりましだと。」

「もし五分の勝算はあるが、あんたはより大きな代償を支払うことになると言ったら、やるか?」耿曙は振り返って尋ねた。

太子霊は笑顔で答えた。「私が支払わない代償があると思うか?言ってみてくれ。」

「あんたの首だ。」耿曙は答えた。

殿内は刹那静まり返った。姜恒でさえ、耿曙がそんなことを言うとは思いもしなかった。

 

「私のを持って行ってくれ。」しばらくして畢紹が沈黙を破った。「私はもともと畢家の人間じゃないんだ。春相と重将軍が畢氏の後継に充てるために……。」

「あんたの首は役に立たない。あんたは汁琮の落雁の仇じゃないからな。」耿曙は遠慮なくそう言った。

「いいだろう。」太子霊は微笑んだ。「汁琮を亡き者にするためなら、私は何だってする。」

姜恒「……。」彼をぬか喜びさせたいだけじゃないの?姜恒は耿曙を疑いの目で見たが、耿曙は自信たっぷりに姜恒にうなずいて見せた。「ちょっと……もっといい方法があるんじゃないの?」

「後悔しないようよく考えてくれ。」耿曙は太子霊に言った。

「後悔など勿論しない。何が必要だ?」太子霊は尋ねた。

「鄭国の兵力の全てを俺にくれ。それでも勝算は五割だ。よく考えてくれ。」

「考える必要などない。梁王、我が子たちをあなたに託したいがいいか?」

畢紹は頷いた。「二人を我が手足のごとく大事にします。」

 

姜恒は座り込んだ。耿曙は「兵力配置図を持ってこさせてくれ。ここで見てみたい。」といった。太子霊は軍簿を持ってこさせた。耿曙はそれを広げてくまなく目を通した。

鄭国軍の状況を読み解くためだ。他三人は何も言わずに見守る。耿曙が姜恒に目をやって言った。「恒児、お前たちはお前たちで話してくれ。俺にかまうな。」

姜恒は思った。あなたの発言に震撼したというのに、太子霊はちょっと考えただけで、こんな重要な決定をするし、雰囲気はまるで死を目前にした夕べのように沈み込んでいる。これでいったいまだ何を話せって?

だがさっき話した感じだと、太子霊は自分に会わせようとわざわざ子供たちを呼び戻したようだが、このままいけばまた彼らを送り出すことになるだろう。

 

「いくつにおなりですか?」姜恒は色々考えたが、気まずい雰囲気を解こうとして、畢紹に尋ねた。

「十二歳です。年が明ければ十三です。」小梁王が答えた。

太子霊は座って茶を飲みながら、軽い口調で言った。「梁王のお母上は鄭人なのだ。」

畢紹が言った。「母は王宮で侍女をしていました。」

姜恒はふと思い出して微笑んだ。「流花に会いましたよ。」

太子霊も笑顔で言った。「あの娘はずっと宮中にいてね、あなたたちと梁王を逃がすときに同行させようと考えていたのだよ。別の考えもあった。あなたはまだ妻を娶っていないだろう、姜恒?確かまだだったよな。」

「あ……。」姜恒が再び断ろうと考えていた時、耿曙が紙の山から顔を上げて尋ねた。

「恒児、あの娘が好きなのか?」

いったい何の話なの?なぜ急に自分の人生の一大事についての話になったのか?だがようやく雰囲気は活気づいた。

 

「姜太史はまもなく二十歳ですよね。まだ家督をついでいないのですか?安陽が落ちていなければ、私は来年成婚する予定だったのですよ。」畢紹が言った。

「あなたはまだ子供ではないか。まだ何も知らないだろう?成婚する年頃ではないのに。」太子霊が畢紹に言うと、畢紹は眉をひそめた。「知っていますよ!」

畢紹はこの時ようやく子供らしくなった。姜恒も笑い声をたてた。畢紹の婚約者がどこにいるか聞こうと思って、ふと安陽城が落ちたことを思い出した。万一城内で死んだのだとしたら、雍国の罪は増える。色々聞くのはやめておこうと思った。

 

「梁国は代国に婚約の意を提出したのだ。」太子霊が姜恒に説明した。「李霄には十四になる娘がいる。だが今の状況下では可能性は低いだろう。」

姜恒は頷いた。耿曙は一枚紙をめくってから再び言った。「恒児、お前がもし流花を好きなら、娶ったらいい。」

太子霊は言った。「いえいえ、姜先生にはもっといい縁談があるだろうが、二人は知り合って長いし、側仕えする者がいなかったようだから……。」

「出身など関係ない。」耿曙が答えた。(性別もな)

「兄さん!」

「嫌いなのか?」耿曙は鄭王と梁王の面前で姜恒に告白を迫る気か。困り果てた姜恒は言った。「済州城は落ちませんから、そんな必要ありません。」

太子霊は言った。「君が男性を好むなら、私の侍衛はもう多くはないが、皆粒ぞろいだぞ。趙起と同じように、後であなたに何人か選んでもらおう。好きに扱ってくれればいい。」

「王陛下!」姜恒はこれ以上無理だった。「みんなして一体全体どうして私の人生の一大事にそんなに関心を持つのですか?」

畢紹と太子霊が同時に大笑いした。姜恒は顔を真っ赤にした。古来より越人は男風の傾向があるという。越地が滅びて鄭、郢二国に併合されたとき、男同士の契りも広まった。鄭王は龍于を寵愛した。上の世代の行いは下の世代に影響する。太子霊は既婚者ではあるが、幼少時から、龍于に躾けられ、龍于を母のごとく扱っていた。何も不思議はない。だが姜恒はこの手の話になると、面の皮が薄すぎて、太子霊のからかいに耐えることができない。

畢紹が尋ねた。「姜大人は越人なのですか?」

「二人の父親は耿淵だ。お忘れか?」太子霊は畢紹に言った。

畢紹は頷いてそれ以上聞かなかった。耿淵の名が出ると、誰もが自然と興をそがれる。

 

 

ーーー

第169章 七夕祭り:

 

姜恒は少し心配そうに耿曙の顔色を窺った。耿曙の計画というのは、鄭、雍二国の兵力をあらかじめ知ったうえで成り立つ。計画を完璧なものにするためには緻密な分析が必要だ。生死を分かつ一戦だ。ほんの少しの油断も許されない。

畢紹が再び話し始めた。「二年前、鄭王はよくあなたの話をしていました。」

姜恒は淡々と言った。「あまりいい話ではないでしょうね。」

「どうしてわかった?」と太子霊は冗談を言った。

畢紹は言う。「中原に伝わる噂では、姜大人を得れば、天下を得る、だそうです。」

姜恒は苦笑いした。「それはつまり、私が金璽を持っているからですね。」

金璽は姫珣が姜恒に託した。元を正せば洛陽が大火に滅したのは、何度も言うように諸侯が天子を殺そうとしたからだ。だが古い話を蒸し返しても面白くはない。

姜恒は頭が痛む思いだった。どんな話をしようと底にはいつも暗流が漂い、嫌な気分だった。だが、畢紹は姜恒に興味を持ったようでまた尋ねた。「あなたは以前海閣で学んだのですか?」

姜恒は頷いた。ふとまだ現れたことのない最後の刺客のことを思い出した。確かに孫英ではなかった。一体誰なのだろう?だが畢紹が再び尋ねたことでその疑問は頭から消えた。

畢紹:「海閣についてすごく興味があるのです。」

太子霊が言った。「龍于将軍がずっと前に鬼先生に会ったことがあって、何手か指南されたことが今日の武芸につながったと言っている。」

「それならそこで何年も修行したら天下一になれるのでは?」と畢紹。

「海閣の目的は、理想というべきかな、武芸にはないのです。天の外に天あり、人の外に人あり。海閣の武功が優れているからといって『天下一』とは無関係な話です。」

それは確かな話だ。耿曙は海閣で学んだことはないが、今や、己の力で、武道の頂点の向こう側を垣間見た。だが、古来より、武術についての絶対的権威というものはない。

「それなら、目的は何なのですか?」畢紹が尋ねた。

「大争の世を終わらせ、天下に再び暫しの平和を取り戻すこと。だけど、天下は長らく合わされば必ず分かち、長らく分かたれれば、必ず合わさる。誰にも保証はできません。平和な時が何千年も続かなくても、四、五百年続けば、素晴らしいのではないでしょうか。」

 

畢紹は頷いた。姜恒はふと思い出した。山を下りる前に持っていた大きな志の多くは消えてしまったかもしれない。描いた理想は完全に消えたわけではないが、現実は自分の想像と大きく違いすぎていた。もし汁琮が完全勝利を収めれば、それはそれで別の道からの終結となるのかもしれない。自分の当初の計画とは天地の差があるが、神州の統一達成には違いない。

 

太子霊が畢紹に言った。「姜先生が初めて済州に来た時の話は全て覚えているよ。」

姜恒は笑った。「身の程知らずがしゃべったことなど、今となっては全て忘れ去りました。」

「俺と再会したせいだ。俺のせいだな。」耿曙が言った。彼は今兵簿を重ね合わせ、筆を持ち、鄭軍の器を計算し始めていた。

「そんなことないよ。」姜恒は笑った。

「そうだ。俺のせいだ。姜恒が雍国に身を投じたのは。それが災いの元となった。あの時俺がいなければ、あんたは今頃天子だった、趙霊。」

「計算を続けて。もう言わないで。」

だが耿曙の話は事実だ。あの頃彼がいなければ、姜恒は鄭国に留まっていただろう。当時の鄭国は雍のような鉄の軍隊とまではいかずとも、可能性はあった。三年の時をかけて、国内の障碍を一掃し、梁国と連合を組めば中原の覇となっていただろう。

「あなたがいなければ、私はとうに玉壁関で死んでいたよ。」(いや、師父が助けただろう)

「運命のいたずらだな。」太子霊が最後に言った。「全ては運命だった。君たちの命数でもあり、中原の命数でもあった。それだけだ。」

 

姜恒は頷いたが、嘆息せずにいられなかった。「私はもともと天下の戦いを止める目標を持った一介の文人で、実際には人畜無害だったはずなのに、一体どうして最後には五国の人たちがみんなして殺そうとする悪漢になってしまったのだろうな?」

畢紹が言った。「その道理は私がわかります。古来より大抵そういうものなのです。咎も誉もないのは凡庸な者だけ。肩にそんな責任を負ったからには、自分ではどうにもならないのです。」

姜恒はまさか十二歳の子供に慰められるとは思わなかったが、頷くことにした。耿曙は全ての文書や軍法を見終えて、腕を組んでしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。

「初歩的な戦術だが、罠が必要だ。」それは姜恒に向けた言葉だった。耿曙は顔を向けて姜恒を見て言った。「汁琮を誘い込んで絶好の機会を得たい。」

「つまり前回同様に、最後はやはり彼を暗殺するのかな。」姜恒は苦笑いせざるを得ない。「全部ではない。お前は俺を単独で汁琮と会わせる機会を作れるか?」

それを聞いて姜恒は耿曙の決意を知った。汁琮を殺さない限り休むことはできない。自らの手で義父を殺せばその罪は天下に轟くだろうが、耿曙は気にしないだろう。

心を決めた耿曙は自分より揺るぎないのだ。

姜恒は太子霊を見てしばらく考え、再び耿曙を見て言った。「もし、王陛下が私を殺したと言って、あなたが鄭王を殺して、私の仇を打つためだと言って、鄭王の首を持って雍国に再び身を投じたら、汁琮は信じるかな?」 

「私がなぜあなたを殺す?理屈に合わないな。」太子霊が言った。

「私たちは元々敵同士ですから。」

 

畢紹は二人が何でもないことのように、相手を殺すことについて話し合っているのを見て、鳥肌が立ってきた。王は自分の命などみじんにも気にかけていないのだ。

「まあそうだな。汁琮は私の首を見たらさすがに疑うことはないだろう……惜しむらくはこの目で汁琮の死を見られないことだ。」

「だめだ。それだと俺はお前のそばを離れなくてはならない。」

「私はしばらく隠れていいればいい。あなたが逃げられればの話だよ。安全にそこを離れられる?」再三確認せざるを得ない。今回暗殺任務を請け負うのは耿曙だからだ。

「もう一度よく考えてみよう。」耿曙はかなり慎重だった。

畢紹が言った。「みんなで一緒に考えてみましょう。聶将軍、ここには四人いますから。」

 

こうして皆で話し合うことになったが、最初の部分を聞いただけで姜恒は耿曙の神経はず太すぎると思った。背中が冷や汗でいっぱいになった。太子霊と畢紹は目を瞑り、黙り込んでいた。

「こんなのダメダメ。」姜恒はあまりに危険すぎると思った。耿曙は太子霊の首を掲げて、何万もの兵のいる中で汁琮を殺すというのだ!武芸が優れているとはいえ、生身の人間だ。乱射されればまもなくその場で死ぬことになる!

「汁琮を殺せば、二人は雍国の仇となる。誰が事態を収拾する?」太子霊が尋ねた。

「今と何か違いがあるか?」

畢紹が言った。「淼……聶将軍がすぐ国に戻ればいいと思いました。そうすれば、戦争を止められる。」太子霊も畢紹も同じ考え方をした。雍での耿曙の名声は高い。その耿曙を汁琮は裏切り、英雄の礼を以て汁淼を葬った。汁琮が口無しとなり、彼の死後に耿曙が国に大軍を引き継ぎ、朝廷に影響を与えれば、侵略の歩みを止められると。さもなくば、汁琮の死後、雍軍は再び攻めてくるだろう。

 

姜恒は殿内を歩き回ってしばらくしてから言った。「もし汁琮が死んだら、あなたが雍軍の統帥になるの?」

「さあな。お前は俺にどうしてほしい?」耿曙は淡々と答えた。

二人は視線を交わした。最初の問題に戻ってしまった。だが太子霊と畢紹に知らせるつもりはない。「少し計画を修正したら、こちらにも機会があるかもしれない。」

耿曙は姜恒に言うようにと合図し、姜恒は更に危険な計画を話した。

それを聞いた太子霊は「わかった。引き受けよう。」と言った。畢紹は太子霊を見た。太子霊は頷いた。心配しなくていいと示すためだ。「あなたの言った方法にしよう。」

 

 

午後になると、知らぬ間に雨がやんでいた。

殿内は静まり返っていた。最後に太子霊が言った。「そういうわけで、死ぬ前の日々をしばし楽しませてもらおう。」

「何でも好きなように過ごしてください。時間はあまりありません。朝廷のことでもう心を悩ませませんように。」

「鄭国と梁国のことをあなたたちに頼めるか?姜恒、私を失望させないよな?」太子霊は真剣に言った。

「力を尽くします。かつて天子も私に天下を託しましたが力及ばず、慙愧に耐えません。」姜恒はそっと言った。

「あなたは絶えず努力をしたのでしょう。だったら十分では?」畢紹が言った。

太子霊は笑った。「私は初めて自分のために楽しく生きられる。これまで長い間、本当はもううんざりだったのだ。」

姜恒:「……。」

汁琮が軍を率いて来るまで、長くて三か月、早ければ二十日だろう。太子霊がこうして国のために犠牲になる決心をしたからには、自分は鄭国の将来を含め、後のことについてしっかり手配しなければ。

「今日は七夕だ。お二人は城内で楽しんできてくれ。」

 

午後になり、耿曙は座ったままだったが、そこへ趙慧が興味津々にやってきた。

「私の徒弟だよ。」姜恒は耿曙に紹介した。

「それでは稽古をつけようか。」耿曙はゆっくりと立ち上がった。ちょうどいい運動になりそうだ。「趙慧だったな?俺に木の枝を一本持ってきてくれ。」

趙慧は興奮しながらも警戒していた。耿曙はあまりに有名だ。結果は決まっている。耿曙の近くに近寄ることもできない。近寄ろうとすれば、のど元に枝を突き付けられる。

「打ちこめない。五年もがんばって修練したのに一手も出せないなんて!もしあなたが剣を持っていたらとっくに死んでいたわ!」

姜恒は笑った。「私は何て言ったっけ?武を習うのは争いに勝ち人を殺すためだっけ?」趙慧は何も言わない。どうやら少機嫌を損ねたようだ。

だが耿曙は少し疑問に思ったようで尋ねた。「君の功夫は誰に習ったんだ?」

趙慧は姜恒を見てから耿曙を見て、しばらくしてから答えた。「龍将軍です。」

「龍于だって?そうは見えなかった。」

「そう見えないからって、役に立たないっていうの?」趙慧は反発した。

「そうは見えなかったが、彼の武功はまあまあいい。」

姜恒は少し驚いた。耿曙の口から「まあまあいい」という言葉が出るとはかなりの高評価だ。

「一つ拳法を授けてやる。きっと学びたがるはずだ。」

「あなたが教えてくれるものなら何でも学びたいわ。」そこで趙慧はがっかりした顔をした。「でも明日になったらもう越地に行かなくては。」

「書いておいてやる。」耿曙は部屋に戻ると、机に向かった。姜恒は筆を渡した。耿曙は硯で墨をすると、武功心得を書き写した。

「まだ覚えていたの?」姜恒はそっと尋ねた。

耿曙は頷いた。趙慧は好奇心に満ちた顔をして尋ねた。「これは何ですか?」

「天月剣心得だ。君のその砕玉心法は俺には授けられていない。教えてくれる人がいなかったからだ。心得通りに力を尽くして修練すればいい。砕玉心法は習わない方がいい。拳法だけでは絶世の使い手にはならないし、君は刺客に向いていない。遊びとして学べばいい。」

 

趙慧は大喜びで剣心得を受け取った。宝物を受け取ったかのように、二人に向かって感謝した。だが姜恒にはよくわかった。耿曙は自分たちの未来の命運がどうであれ、この武芸が受け継がれず消えてしまわないように、託す相手を探していたのだ。黒剣と山河剣式については、前者は耿家が所有してきたものなので、彼の自由にできる。伝承が尽きたとしてもまあ仕方がないかもしれない。後者は彼独自の剣なので、なおのことだ。

 

「弟を守ってやるのだよ。縁あらば、いつかまた。」姜恒は言った。

趙慧はもう十四歳、彼らが直面している状況をある程度わかっている。目を潤ませて二人にもう一度別れを告げた。別れた後で、姜恒はこの生涯で唯一の徒弟のことを考え、とても残念に思った。あの子に学問を授けたこともなければ、武芸を教えたこともない。毎回、会っていた時間さえ短く、身に着けた教養を伝える相手はいなかった。

「全ては消えゆくものだ。あまり気にするな。」耿曙が言った。

「それもそうだね。」姜恒は頷くと言った。「さ、行こう。お祭りを見に行こうよ。」

 

何日も続いた大雨の後で、済州城もようやく涼しくなった。黄昏の空は火のようだ。耿曙と姜恒は越服に着替えて王宮を後にした。

「公子方はどちらも越人なのですね。」道案内をする流花が笑顔で言った。

「うん。」耿曙は年初に郢宮にいた時のことを思い出した。熊耒が二人に越を復国させる意思があるか探りを入れてきた。まさかその後、姜恒の身分の方が変わってしまうとは。

流花がいるので、姜恒は戦争のことについて話せなくなり、いっそ今日はしっかり休むことに決めた。「前に済州に来た時には楽しく出歩くこともなかったんだよ。」

「ここが好きか?」

七夕の夜の天の川は星が溢れんばかりだ。流花は二人を市まで連れて行き、姜恒の後ろに静かに身を控えた。城内は、いつまた雨が降るかという緊張感はあったものの、連日の大雨の後で、ようやく外に出る機会を得られた人々で、町は活気づいていた。

町中に七夕の星灯が掲げられていた。星灯は竹ひごと紙を糊付けして、大小さまざまな球形を作り、一つ一つに灯をともしたもので、通りや桟橋で小さな光がそよ風に揺られていた。

「どこだって好きだよ。」姜恒は遠くを望んでから、再び耿曙を見て微笑んだ。「あなたと一緒なら、どこにいても楽しいよ。」耿曙は橋の欄干に腰かけて水中を眺めた。流花はうっすらと笑みを浮かべて二人を見ていた。(腐女子?)今日の彼女はとても美しく装っている。

太子霊は彼女を越女の服装に着替えさせ、姜恒の近くに侍り案内役をさせた。姜恒は本当は耿曙と二人でいたかったが、流花が来たからには一緒に遊び歩かねば、一人きりで宮に返せば寂しい思いをさせてしまうだろう。

 

男二人に女一人。ちょっと変な感じだが、姜恒は静かすぎれば話題を探し、冷たいあしらいにならないように気を配った。「君はいつ頃済州に来たの?ここで生まれたの?」

「もう長いです。物心ついたころは済州城にいて、8歳で宮仕えを始めました。」

姜恒は耿曙に言った。「流花は琴を弾くのがすごくうまいんだよ。」

「うん。」耿曙は上の空で答えたが、視線は橋の下の水辺にいる少年に向いていた。少年は水辺をうろついて、誰かを待っているようだった。

他人がいると耿曙はほとんど話さない。「兄はいつもこうなんだ。話すのが好きじゃなくて。」

「俺は話すのが嫌いじゃないぞ。お前には毎日話しているだろう。あれじゃ足りないか?」

流花は笑いながら言った。「聶将軍はただ人見知りなだけなんですね。」

「何を見ているの?」姜恒は流花とばかり話していて耿曙がつまらなくなったのかと思い、手を伸ばして連れ戻そうとしたが、耿曙は逆に姜恒の手を引っ張って欄干に座らせた。

「あの子を見ている。」耿曙が言った。

「早まったことをしようとしているの?」姜恒も水辺でうろついている少年を見た。何やら焦りと不安を感じているようだ。

「いや、人を待っているんだ。」耿曙が言った。ぱっと見でも少年が越服を着ているのがわかった。なぜか越人に対してはいつも親しみを感じる。三人は橋の下の様子に注意をひかれた。しばらくすると別の人影が現れた。大人の男性だ。

「本当だ。誰かを待っていたんだね。どうしてわかったの?」

「人を待っている時はあんな感じだからだ。少し不安そうで。」

それから橋の下で少年を見つけた男性は、少年を腕に抱きしめて口づけをした。

姜恒:「……。」

姜恒は急におかしくなってそれ以上見なかったが、耿曙が「あれは孫英じゃないか?」と言った。「え?」姜恒は見直した。本当だ、孫英だ!

孫英は少年の手を牽いて、橋の下から上がってくると、口笛を吹いた。

「姜大人!美人連れでお楽しみのようですな!」

姜恒:「………………」

 

(げーーー。こいつ虱ついてんじゃなかったか?38章で書かれていた虱男はだらしない服装の男=孫英とは別か?でも汚そうな奴だよな。毎日風呂入って服装と髪型だけだらしないってわけでもないだろうに。)

 

 

ーーー

170章 王子と船に乗るなんて:

 

「孫先生はご冗談がお好きなんです。やっていられません。公子はお気にされませんよう。」

流花が苦笑いしながら言った。 姜恒は孫英の言った意味はよくわからなかったが、それよりもこの呼称を聞いて笑い出した。「もうずいぶん前から『公子』なんて呼ばれていないよ。」

耿曙は傍らで二人の会話を静かに聞きながら、水に映った星空をじっと見ていた。

「耿家は越地の公候ですもの。公子でなくて何とお呼びするのですか?」流花が尋ねた。

 

姜恒は悲しそうに微笑んだ。「公子なんてものじゃない。ただのみなしごだったのに。」

耿曙が突然振り返り「ちょっと市を見てくる。」と言った。

姜恒は流花に言った。「行こうか。」

「お前たちは橋の上で待っていろ。市は人が多い。俺もすぐ戻る。」

耿曙は刺客が現れるのを恐れているのだろうと思い、姜恒はそれ以上言い張らず、耿曙を見ていた。耿曙は済水橋を下って市に歩いていくと、頭上に星灯が揺れる中、小さな店先で足を止めていた。

 

店には装飾品がたくさん置かれ、恋人たちがあれこれ選んでいた。耿曙は下を向いて目の前の装飾品を見ては、済水橋の上に目をやり、姜恒と流花がおしゃべりしたり、笑ったりする姿を眺めた。再び孫英が近くまで来た。少年を連れ、耿曙に向かって口笛を吹いた。

耿曙ははっとして孫英に目をやった。孫英は市の一角を見るよう促した。暗がりから後ろを窺うような人影が出てきた。孫英は眉を上げ、背中を指さした。剣を持ってこないなんてのんきすぎないか?という意味だ。耿曙は何も答えず、金櫛のついた翡翠の簪を選んで買うと、身を翻して橋の上に向かって行った。 

 

「恒児。」耿曙は橋の横に立って姜恒を手招きした。その時、姜恒は流花と過ごした半年間のできごとや、趙起がどうして記憶を失ったかについて話していたが、耿曙に中断されてそっちに向かって行った。耿曙は姜恒に簪を渡し、流花を指した。「これをやる、恒児、彼女に贈れ。」

姜恒:「!!!」

姜恒はびっくりして、振り返って流花を見てから、再び耿曙を見た。

ふと喪失感のようなものを覚えたが、何とか笑って見せた。

「彼女が好きになったの?私はてっきりあなたは……。」

「違う。お前が彼女に贈れと言ったんだ。」

「ああ?」姜恒は一瞬呆けてしまった。「な、何で?」

「行くんだ。お前はもう成婚する年齢だ。今まで娘に心動かされたことはないのか?」

「いやいやいや、」姜恒は振り返って流花を一瞥し、すぐに耿曙に言った。「何を言っているの?兄さん!からかわないでよ。」

「からかってなどいない。お前は彼女と一緒にいると楽しそうだ。早くいけ。まだわからないのか?」姜恒はばかばかしいと思って玉簪を耿曙の手の中に戻そうとしたが、耿曙は受け取らず、真剣に姜恒の目を見つめ、堅持するように言った。「恒児。」

 

姜恒は耿曙と視線を交わし、まだ何か言い足りないのだと分かった。笑顔を見せて手を振ると、橋の上まで戻って流花と二言三言話した。流花は理解したというように頷き、姜恒と二人で耿曙の方を見た。

     美きまなこ 麗しきかな  巧き笑み あざやかなるかな

 

流花は橋の上を離れ、一人で王宮へ帰って行った。姜恒は玉簪をしまい込むと耿曙のそばに来てニヤリと笑った。「いくら払ったの?」

「さあな。何で行ってしまったんだ?」

「急に用事を思い出して王宮に帰ったんだよ。」

「追いかけろ。」耿曙は言い張った。

姜恒は耿曙の顔色を窺った。複雑な気持ちだった。

「あなたでも贈り物を買うことを知っていたとはね。」姜恒は人を酔わせるような笑顔を見せた。「今度女装するときにつけるのにいいな。」

耿曙:「……。」

 

姜恒は欄干に背をもたれて天の川を仰いだ。耿曙は不思議そうに尋ねた。「何を見ている?」

「お星さま。子供のころ、夏の夜にはよく屋根の上でお星さまを見ていたよね。」

「お前が彼女に再会して嬉しそうだったから、俺は思ったんだ。鄭宮にいた時に、もう……もうきっと……。」そう言って耿曙は両手で拳を作り、親指である動作をした。

「そんなバカな!」姜恒は大笑いした。「誰かを好きになったらあなたに言っていたよ。」

耿曙は頷いた。「まあいい。」

姜恒は耿曙を見て再び言った。「でもあなたの言う通りかも。兄さん、あなただって……。」

「聞いてくれ、恒児。」耿曙は顔を向けて、姜恒の話を遮った。後半の言葉を言わせないために。「心の中に、ずっと前から言いたいと思っていたことがあるんだ。」

「どんなこと?」姜恒は尋ねた。

耿曙は何も言わず、数息後、姜恒の腕をつかみ、荒々しく胸の中に引き入れた。

あまりに急な動作で姜恒がまだぼんやりしていると、耿曙が言った。「気をつけろ!刺客だ!」

 

瞬間、黒い影が橋の下から転がり出てきた。姜恒は耿曙の腕に抱かれ、横向きに黒影を回避した。黒影は痩せていて、猟師に扮していた。短剣をかざして姜恒に向かってくる。耿曙は仰向けに体をそらした。姜恒の髪が上に向かってなびく。髪が三筋切れ落ちた。

耿曙は黒剣を持ってきていなかった。急いで手を下そうとはせず、橋の欄干の前に転がり出ると、猟師を避けるため、ザブン!と音を立てて水中に飛び込んだ。

市にいた人たちが水音を聞いて何があったのかと駆けつけてきた。「誰かが心中したぞーーーー!」

 

「兄さん!」姜恒はすぐに水の力に押されて水面に出られなくなったが、耿曙の動きは早く、水に落ちるとすぐ、姜恒を水面まで引っ張り上げ、息を吸って再び水中に潜ると、横向きに彼の口に息を渡した。

 

二人は川の中を潜水して泳いだ。灯が映って美しい。猟師は短剣をしまい、川岸まで来ると、弓矢を出して、水中に向けた。

済水の下流には小舟がたくさん浮かんでいた。漁のための船だ。猟師は水音を聞いて、船着き板から船の上に飛び乗った。そして船から船へと橋代わりにして二人の後を追った。

 

姜恒は船に這い上がった。全身ずぶぬれだ。耿曙は声を出さないようにと合図して船の上に留まった。「ここで待っていろ。」耿曙は姜恒の耳元でごく小さな声で囁いた。

姜恒は頷いた。夏の夜だ。水に落ち、ずぶぬれになったところで寒くはない。耿曙が夜の闇の中に潜入していく姿を見守った。

猟師の耳がぴくりと動いた。ゆらゆら浮いていいる小舟の橋に沿って、音もなくゆっくりと歩いていく。

次の瞬間、背後に音もなく掌が近づいてきた。ゆっくり、とてもゆっくりと。ほんのわずかな風を伴って。背中に掌が触れ、猟師はまずいと気づき、身をかわそうとした。「待て。」

敵の背中に当てた掌の動きは柔らかだったが、猟師は視界が真っ暗になり、鮮血を吐いた。五臓六腑が震えとともに深く傷つき、一歩前に進み、何とか振り返って短剣を出して、耿曙を死の道連れにしようとした。しかし耿曙は左手で振り払い、猟師の頭頂に一撃加えた。

この第二打は剛猛覇道で、相手の頭蓋骨は粉々になった。猟師は死を前に言葉を発する間もなく身を崩し、音を立てて水に落ちていった。

水音を聞いて、姜恒は小舟の上に上がった。耿曙の風に臨む玉樹の如き長身が、満点の星明かりの下、少し腕を動かしながら、ゆっくりと近寄ってきた。

「もう大丈夫だ。」耿曙が身にまとっていた越人の武衣は濡れて体に貼りつき、引き締まった男性の胸や腹、背筋の輪郭を現わしていた。

「前回の殺し屋だった?」

「うん。残るはあと一人だ。今夜はもう来ないだろう。王宮に帰るか?」

耿曙から見れば、敵が突然現れ、死んだことは一羽の鳥が飛んで行ったのと大差ないことのようだ。「大丈夫ならよかった。」姜恒は船に座って服の水を絞った。それから耿曙に笑いかけ、少し残念そうに言った。「それじゃあ……帰ろうか。」

耿曙は星明かりの下、姜恒の顔を見て、考えが浮かんだ。「帰りたくないのか?じゃあ、このまま舟遊びに行くか?」

「そうだね。」姜恒はすぐに頷いた。

 

すぐに彼は縄をほどいて、櫂を持った。岸辺に停まっていた小舟は二人を乗せて、再び済州城の中へと動き出した。

耿曙は船尾に立ち、姜恒は船頭に座った。暗闇で見る人もいない。姜恒は外衣を脱いで横に置き、単衣と袴姿になった。そして両岸にきらめく灯火を眺めた。耿曙は一度船を停めて、岸辺で酒と食べ物を買い、船まで持ってくると、ゆっくり河を下った。

二人が通ってきた済州の教坊や、酒場の明かりが見え、夢の中にいるようだ。

「飲むか?」耿曙も白い単衣姿で船上に座り、手に持った酒を姜恒に振って見せた。

「私にはあまり飲ませたくないんじゃなかった?」姜恒は笑顔で、「あなたについであげる。」と言った。「俺がやる。」耿曙は酒壷を持って二杯つぎ、一杯を姜恒に渡した。「乾杯だ。弟弟。」

耿曙が「弟弟」と呼ぶのをずいぶん聞いていなかった。ずっと「恒児」と呼んできたのに、そう呼ばれると変な感じだ。

姜恒は笑顔で飲み干し、「桃花醸、越酒だね。」と言った。

 

「さっき言ったように、」耿曙は一杯飲み干し、もう一杯ついだ。そして真剣な顔で言った。「俺の心の中に、ずっとずっと前から言いたかったことがあるんだ。」

「どんなこと?」姜恒は不思議そうに尋ねた。「いったいどんなことなの?」

さっきの橋の上での話は、刺客とやりあったことですっかり忘れていた。「さっき橋の上で言いたかったのは………まあいい。飲もう。」

「話してよ。そんなに深刻にどんなことなの?」

「いいんだ。」耿曙はため息をついて言った。「飲もう、ほら、恒児。俺たちもうずいぶん一緒に酒を飲んでなかったな。俺は今でもお前が酔っ払った時のことを覚えているぞ。雪の中で歌っていた。覚えているか?」耿曙は二杯目をついできた。

「どんな歌?」姜恒は茫然として尋ねた。

「どうして何もかも忘れてしまうんだ?」耿曙は忍びない思いだった。

「ああ!『天地と我とは同根、万物と私とは一体——』」あの時耿曙は遠く城壁の上にいた。聞いていたのか。

「ちょっと待て。」そういうと、耿曙は船から飛び降り、岸辺の上の小楼に走って行った。楼内からは琴の音が小さく聞こえてきていた。すぐに中から叫び声が聞こえ、耿曙が手に琴を持って、ぐるぐる振り回しながらまた船に飛び乗ってきた。

「あーあ。」姜恒は泣くべきか笑うべきか迷った。「人の物を取ってきちゃったの?」

「金を置いてきたさ。数日後に俺はこの城のために戦うんだぞ。民を守るためだ。彼らから琴を買い取るくらい何だ。」

姜恒は時々思うことがある。耿曙のこの野放図でざっくりし過ぎた性格は何ともならないと。こんなに月日がたっても、彼の中には未だにやんちゃ坊主な部分が残っていて、ちっとも変っていない。

 

「歌ってくれ。」耿曙は琴を膝の上に置き、姜恒の双眸をじっと見つめた。「俺がお前に琴を奏でてやる。俺は耿淵の息子だ。お前が剣を使える程度には俺も琴を弾ける。何でも弾くから歌え。」

姜恒は膝を抱え、笑顔を輝かせた。「桃の夭夭,灼灼たるその華……。」

「この子ここに嫁ぐ、その室家に宜しからん……。」

耿曙は弦をつま弾いた。小舟はゆっくりと星の河を進む。辺りには色とりどりの夢が広がる。済水の上で琴の音が響くと、無数の水珠が水面に落ちて細かな軌跡を作り出し、河に映る満天の星々と混ざり合うようだった。

「兼葭(けんか)蒼蒼たり 白露霜と為る 噂のあの人 水の一方に在り……」

 

耿曙が琴を弾くと、水に映った天の川が動き出すかのようだ。小舟が進むごとに千万の柔らかな光の軌に取り込まれていく。

 

「星河如覆,山川凝露。伴此良人,有斯柏木……。」

耿曙は琴を見ず、姜恒の横顔を見つめていた。左手で弦を抑え、右手で弾く。ぱらぱらと琴が鳴る度、二人の傍から水に落ちて次々とさざ波がたつ。

「あとは何を歌えばいい?教えて?」姜恒の瞳に両岸の灯が映る。この船にいると、世の中から隔絶され、二人だけになったようだ。

「俺がお前に歌ってやりたい。」

「じゃあ私が弾く番だね。」姜恒は琴を取ろうとしたが、耿曙は「座っていろ。」と言った。

 

琴の音がやみ、すべては静寂の中にあった。そして再び、ぱらんと震えるような音が響いた。

「何というゆうべ 船を曳いて流れの中に」耿曙は小声でそっと歌い出した。 

「何という日 王子と船に乗るなんて」

 

二人で小舟に座り、琴を奏で歌いながら、耿曙はずっと薄明りを受けた姜恒の秀でた顔立ちと美しい目元を見つめていた。

「恥ずかしがってもいいでしょう とがめないで下さいね」姜恒は笑顔で声を合わせた。

「心は千々に乱れています 王子にわかってほしいのです」耿曙は姜恒に訴えかけるように唇を動かした。その瞬間、姜恒は耿曙の表情に何か感じるものがあった。

「山には木があり 木には枝がある」耿曙は声を低めた。「山には木があり……木には枝が……。」琴の音が停まり、辺りは一片の静寂となった。

耿曙は琴を置いた。姜恒は何も言わずに、耿曙の視線を避け、水に映った満天の星々を見た。

耿曙は三杯目の酒をつぎ、姜恒に手渡した。「さあ、飲め。これがさっき橋の上で俺がお前に言いたかったことだ。」

姜恒は突然我を失った。すぐに意味が分かったが、それはあの日、自分の正体を知った時以上に突然の衝撃だった。

「一度だけ言う、恒児。」耿曙はもう自分の心から逃げるのをやめようと決めた。杯を持ち、真剣そのものの表情だ。「恒児、俺の恒児。」

「兄さん、」姜恒は慌てた。「言わないでいい。私は……わかったから……。」

「言わせてくれ、一度だけ。」耿曙が重ねて言った。

顔を背けるわけにもいかず、姜恒は耿曙の双眸をじっと見た。耿曙は少し悲しそうに笑った。

「答えなくていい。何も言うな。お前がすぐに受け入れられないのはわかっているし、これから俺のことをどう扱おうとかまわない。兄でいてほしいなら、俺はずっと弟のように待する。今まで通りのようにするさ。俺の心にはお前ひとりだけ、ずっとそうだったし、今もそうだ。これからもずっとそのままだ。

「もしお前が……俺の気持ちに応えてくれるなら、俺はお前のために何でもできる。お前のためなら喜んで死ねる。愛している、恒児。欲張り過ぎなのはわかっている。こんなに多くを持っているのに、それでも足りないんだ。もっと多くが欲しい。」

 

姜恒は初め、針の筵に座るような気持だった。今までそんな風に考えたことがなかったからだ。だが耿曙の熱く甘やかな眼差しを見た時、受け入れがたいとは微塵も思わなかった。

「ゆっくり考えてくれ。どれだけ長くかかっても構わない。俺は永遠にお前の傍にいる。兄を好きだと思わなければ、絶対に無理するな。お前は自分の家を持ち、妻子を持つべきだ。お前が幸せで、自由自在に生きられれば、俺は何でも大丈夫だ……うん。俺は何でもできる。待つことも、いつでも手を離すこともできる。」

 

「恒児、さあ、これを飲み干せ。」耿曙は一息に飲み干し、姜恒は酒を手に持ち、耿曙を見つめて、ずっと何も言えなかった。

 

小舟は満天の星影の中、済水を漂った。

何という夕べ 舟を曳いて流れの中に

何という日か 王子と船に乗るなんて

山には林があり 水には華がある

山の川が夜露を集め、天の河が落ちてきて 人の世界を煌めかせる。 

「私は……。」姜恒は心乱れ、胸が狂ったように高鳴った。「考えさせて、兄さん。」

耿曙は重荷を下ろした気分で頷いた。もう自分がこれ以上言う必要はないとわかっていた。

 

――巻六・霓裳中序・完――

 

 

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 161-165

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第161章 鹿おどし:

 

庭の梨の花は散った。李の木には青い実がなり始めた。夕日が西に落ちる頃、蝉が次々に鳴き、天は茜色の夕霞で満たされる。

「夕飯だぞ、恒児。」色々あった後、初めての日は無事過ぎた。翌日の午後、耿曙は姜家をきちんと片付け終え、池の側に座って姜恒のためにししおどしを作った。姜恒は開口一番、こう言った。「汁琮がどうして私を殺したいのかようやくわかったよ。そうくるのが正常に見えてきた。」

耿曙には時々、姜恒の寛大さが理解できない時がある。汁琮は汁琅と姜晴を毒殺した。血脈を断ち、人を殺し、今の状況に陥れた。更に姜恒を何度も殺そうとし、苦しめ続けている。それが姜恒の目から見ると、全て「正常この上ない」になってしまう。

「お前は両親のために……仇を打ちたいか?」耿曙は言葉に気を付けながら尋ねた。

「私が生きているだけで、汁琮は食事も喉を通らず、夜も眠れないはず。私がまだ生きていると知った日から、既に彼はずっと苦しめられている。だけど、全てに決着をつけたいとは思っているよ。」耿曙は姜恒の心情が理解でき、すぐに頷いた。

「界圭が出て行ったのもそれが理由でしょう?きっと姜太后と相談して決めたんだね。」

全ては姜恒の最終的な決定次第なのだ。彼は姜恒が選択した通りにするつもりだ。雍宮ではこのことについて何も言わない。界圭はしばらく姜恒の世界から消えるつもりだ。もし彼が汁炆の身分を回復することを選び、雍国に戻って汁琮に復讐し、真相を明らかにするつもりなら、界圭は彼の全てを注いでくれるだろう。

 

「すまない、恒児。」耿曙は手に持った青竹を置いて、姜恒の傍まで来て腰を下ろした。耿曙はこれ以上ないくらい慙愧に耐えなかった。姜恒は笑った。「あなたがどうして謝るの?あなたがいなかったら、私はとっくに死んでいたのに。」

「そうではない。」耿曙は心の奥深くに刺さっていたとげをようやく抜き出そうとした。「お前の腰のあざのことだ。俺は……どうしていいかわからない……あれは俺のせいだ。あの日、火事で……。」

そう言われて姜恒は思い出した。実際耿曙にとっては一番馴染みの箇所だ。火事になった家から逃げる時に姜恒は耿曙を押した。燃えて落ちてきた天井に押しつぶされそうだったからだ。だが代わりに自分が燃え盛る梁木の下敷きになった。痣のあった腰にやけどを負い、今では痣は火傷の痕に取って代わった。

あれは姜恒の正体を証明できる唯一の証拠だった。それが運命のいたずらか、耿曙自身のせいで、その証拠を失ってしまった。

 

耿曙は姜恒の単衣をめくり上げて、つらそうな目で腰の辺りを見た。姜恒は横を向いて、長い間慣れ親しんだ手触りを感じた。すぐに姜恒は顔を上げて耿曙の唇に軽く口づけをした。形のない手を彼の心の中に送って、突き刺さっていたとげを抜いてあげるような気持だった。

耿曙:「!!!」

姜恒はふと気まずくなった。「気に……気にしないで。私が誰にしろ、こういった証明はいらないのだから。」耿曙は一瞬で顔も首も真っ赤になった。姜恒を直視できない。姜恒もなぜか鼓動が早まってきた。耿曙の唇は熱く、肌には大人の男性の安心感が漂い、頼れる感覚の中にも、若者の清々しさも残っている。

「俺は……恒児……俺は思うんだが……。」耿曙は少し目が眩んできた。日の光が廊下に差し込んで、二人とも少し目を開けられなくなった。

「私は……。」姜恒は無意識に唇をなめた。池の魚がポチャンと音を立てた。

二人は急に少し黙り込んだ。耿曙は話を中断した。言葉が何も出て来なくなり、黙り込んで、下を向いたまま立ち上がり、池の傍まで歩いて行って座り込んだ。何かしようと思って、またししおどしを作り始めた。

姜恒は耿曙を見た。思考が止まった感覚だ。さっきのほんの一瞬の耿曙の唇の熱く柔らかな感覚が頭の中に留まって消えて行かない。

夏が来たなっと……姜恒はこの感覚を追い出そうとがんばった。今まで耿曙に別の思いを抱いたことはなかった。だが、二人が兄弟ではないとわかった今、少し奇異な動悸を覚える。まるで耿曙の体に今まで気づかなかった未知の感覚ができたかのようだ。

 

「ちょっと出かけないか、恒児?」耿曙は簡単に工具をしまった。

「いいね、」姜恒はまだ昔歩いた道を思い出せなかった。

「しばらくはよくわからないと思うことでも、だんだんとわかって来るさ、焦らなくていい。」耿曙は真剣な顔で言った。

ししおどしが流水をためて傾き、石の上に倒れてコンッと軽い音を立てた。

「じゃあ行こうか。」ちょっと城内を散歩でもしようと言う意味かと思いきや、耿曙は荷物をたくさん鞄につめて、馬に載せ、ずいぶん遠くに行きそうな勢いだ。この時耿曙の内心は複雑だった。未だ終わっていない刺客の襲来を受けたくはないが、汁琮が送って来る殺し屋を一人また一人と相手にするのも結構煩わしい。もう我慢の限界に来ている。あと何人か襲ってきた日には、ひょっとしたら理性を捨て去り、黒剣を手に自ら汁琮の首をはねて全てに決着をつけたくなるかもしれない。

潯東に殺し屋が来たということは、自分たちは後を追われている。そして自分たちが生き延びたことを汁琮も突き止めたかもしれない。姜恒を殺すためなら、汁琮は一切を顧みず、鄭郢相争う旧越国の地にも攻め入って来るだろう。全城の民が再び殉死させられるかもしれない。自分は姜恒を無事に逃がせると確信してはいるが、潯東が再び戦火に陥ったら耐えられるはずがない。

汁琮の遣わす二人目の斥候が現れる前に、しばらくここを離れなければ。それにもう一つ、自分にはやるべきことがあった。もうこれ以上先延ばしにはできないことだ。

「行くぞ。」耿曙は馬の背を叩き、姜恒を座らせ、再び二人で一騎に共乗りした。

               (夕飯は食べなかったのかな、勿体ない)

 

姜恒は耿曙の腰を抱き、「馬もかわいそうに。人ふたりと荷物まで載せられて。」と言った。「途中でもう一頭買って……。」耿曙が馬を動かし、後巷から出て行こうとした正にその時、城内を巡回する治安官がまた二人を見つけた。

「お二方!もう出て行くんですか?」治安官は馬を歩かせ近づいてきた。耿曙は顔を見合わせても表情を変えない。治安官は言った。「昭夫人は今どちらに?」

姜恒は驚いた。「覚えていらっしゃるのですか?」

「もちろん覚えていますよ。」治安官は微笑んだ。「あの頃お二人はまだ小さかった。もし昭夫人がいなければ、潯東は城を破られ、どれだけの無辜の民が死んだかわからない。この前、雨の中で稲光した時に、お二人の顔がわかりました。あなたは姜恒だ、そうでしょう?」

「あんたらを救うために、もうすこしで俺たち二人は殺されるところだった。」耿曙が言った。姜恒は耿曙の腕をつねって、『そんなこと言ってはダメ』と合図した。「母は既に他界しました。後悔はしていませんでした。どうぞご心配なく。」

「お二人はどちらに行かれるのですか?帰られたと思ったらもう行くのですね。外は混乱を極めているというのに。」

耿曙は少し考えてみた。この男が外部のどんな情報網とつながっているかわからない。今は簡単に人を信じられない。間違いがあれば、取り返しのつかない災いを招くからだ。

「私にもわからないのです。どこに行くつもりなの?」姜恒は耿曙に尋ねた。治安官は馬を下りて、再び二人に話しかけた。「あの時の昭夫人の大恩に、我らはまだ答えていません。いかがでしょう、県丞府で酒でも飲みませんか?」

「あんたの馬はなかなか良さそうだ。」耿曙が突然言った。

治安官「……。」

 

数秒後、耿曙と姜恒は一人一騎に乗って、潯東県東北に面した道を走り去った。

「あなたは彼にひどすぎない?彼には何の罪もないのに。」姜恒は苦笑いせざるを得なかった。耿曙は答えた。「人の心は計り知れない。気を付けるに越したことはない。」姜恒は馬を走らせ、耿曙に追いついて尋ねた。「どこに行くの?」

耿曙は振り返って姜恒に目をやり、ちょっとからかってやろうと、わざと速度を上げた。「着けばわかるさ。」

「待ってよ~!」姜恒は叫んで、再び追いかけて行った。

 

―――

落雁城の桃の花がようやく開いた。北の春は来るのが遅い。

雍国はついに安陽を占領した。国土の版図は120年で二度目の玉壁関越えをし、中原の中心部にまで達した。安陽の一戦で、十万の郢軍は全滅した。雍国もすぐに撤退したものの一万の兵を失った。だが次の日大雨が降り、西北風が吹いて、毒烟は消え去り、雍軍は再び戻って来て、静謐な死城となった安陽を占領し、片づけを始めた。

城南方の死体は山と積んで三日三晩焼き続け、たくさんの鳥の餌となった。

同時に雍国は倉を開き、金を使って梁国を滅ぼした南方の大勝利を祝った。

雁は北に帰った。天地を覆い、落雁城外の砂洲に降りた。次の世代をはぐくむために。

 

桃花殿では咳をする声が止まることはない。既に年老いていた姜太后は一年前の宗廟前での一戦のせいで、明らかに体力が落ちていた。南方から頻繁に届く報せを聞き、姜太后は確信した。汁琮は前途にある障害は全て取り除く決意を強めたのだと。だが目下の所、彼女の孫のほうは、更に大きな難題を突き付けられている。それを解決してやらなければ。

数日前、太子瀧は足を休める間もない忙しさで、東宮において会議を行っていた。雍国が中原に入ってから、どのように役人を派遣するか、民を落ち着かせ、皆を同じ一つの目標に向かわせるか:すなわち、雍国の遷都、つまり、百数年前の故郷に戻るという目標だ。

だが新しい国都を洛陽にするか、安陽にするかは議論の余地がある。幸いなことに、この広大な過程に対峙した時、太子瀧は一括りの文書を見つけた。その文書は変法宗巻の中に埋もれ、棚の端にぽつんと置かれていた。書の上には「遷都之議」と書かれていた。それは十余年前、汁琅が書いたものだ。国君を引き継ぐ者にあて、汁琅が雍国のために寄贈した、数十年先までの国の重点策だった。それを、姜恒は朝廷入りした後で見つけ出し、汁琅の政令の横に、一万字近く、注釈をつけて、変法政令の横に置いておいたのだ。

 

汁琅が決めた大枠を姜恒が改定した。新たな朝廷で、いかに各級官員を置くか、どう税制を改定するか、田地の測り直し、民の移転、商業貿易や学堂の改革……変法総網に基づいて、関内、関外に同一国策を実現する方法……。太子瀧は宝を見つけたような気持ちで、すぐに東宮議政を招集した。群臣に策を問い、雍国が全面的に南に移る準備を始めた。

ちょうどその日、安陽から雷に打たれるような衝撃的な知らせが届いた。―――王子汁淼が捕らえられ、死すとも屈せず。姜恒は行方知らず。

ガン!太子瀧は脳内に一撃を受けた気がした。何とか立ち上がろうとして、東宮で吐血し、その場に崩れ落ちた。

群臣が大慌てで集まって来て、すぐに太子瀧を桃花殿まで運んで、医師に見せた。群臣たちの話を聞いた姜太后は徐々に事の経緯を知った。

姜恒が裏切ったという者もいれば、耿曙は実は死んでいないという者もいる。だが、姜恒と耿曙の消息はともかく、ここにいる孫は今にも死にそうだ。それが、急な怒りが心を攻撃したことと、心の喪失だと分かった姜太后は、太医を帰らせ、自ら銀針を使って、持てる内力を孫に注入した。(出た!ファンタジー東洋医学GOGO!)

少しの間違いもあってはならない……姜太后は心が焚きつけられるように急いた。何としてでも汁瀧を守らなくては。

界圭はまだ戻って来ない。違う、きっと違うのだ。ずっと世の中というものを見て来た姜太后は直感した。姜恒と耿曙は無事なのだと。

「ロンアル?」姜太后が声をかけた。太子瀧はついに目覚めた。意識が戻ると喘ぎ声を上げた。姜太后は年老いた手で彼の脈を確かめた。すぐに、太子瀧は大声で泣きだした。

「泣き出せたら大丈夫。泣くことができたら……もう心配ない。」姜太后は疲れた声で言った。太子瀧は今日太后の袖をつかみ、嗚咽した。「おばあ様……。」

「きっと大丈夫ですよ。」姜太后は太子瀧をだきしめてやさしく言った。「馬鹿な子ですね、事情もまだはっきりしないというのに、お前の方が泣きすぎて死んでしまったら、お前の兄弟たちは帰って来れもしないでしょう?」太子瀧は人目も気にせず、姜太后に抱き着いて大声で泣いた。姜太后はそっと息をついた。

 

翌日、太子瀧は朝廷を休みにした。

後宮で丸々一昼夜眠った後、天地は暗く、頭が痛んだ。全身血まみれの耿曙がこちらに向かって大声を上げる夢を見たかと思うと、崖から落ちていく姜恒が目を見開いてこちらを見ている夢を見た。意識を取り戻してからは、手に玉玦を持って雍室宗廟に上がり、姜恒と耿曙のために黙祷を捧げた。海東青はもう半年も戻ってきていない。この数か月耿曙に何か起きていようとは考えてもいなかった。

この日、汁琮が戻って来た。太子瀧は急いで出迎えに行った。城中の民が出迎え、歓喜の声を上げている。汁琮の名声は頂点に達した。彼は盛世の偉大な君主となった。百年余前に強大な雍国をこの地に切り開いた、開国の君に並び立ったのだ!

「父王!」太子瀧は、しかしながら、何の崇拝の色も示さずに、台座の下まで駆け寄った。

「お前の兄は戦死した。」汁琮は腰を下ろすと、開口一番そう言った。「慶功宴の後、彼のために三日間の国葬を行う。」

太子瀧は驚愕の表情で汁琮を見つめた。目の前が暗くなってきた。

「姜恒は行方知らずだ。私が汁淼を救えなかったことを許せず、他国に身を投じた。」

大惨事の後、汁琮は人を遣って全城を捜索したが、姜恒の遺体は見つからなかった。耿曙の玉玦も未発見だ。そのことが彼にはとても気になっていた。時を同じくして郢国から報せが届いた。―――太子と郢王が同時に怪死した。郢国朝廷は大混乱をきたしている。だが勿論それは、雍国にとってはいい報せであった。焼死したのは耿曙ではないのではないか?だが彼の死は見届けた。姜恒に至っては、汁琮は何としてでも行方を掴み、どんな代償を払ってでも探し出して殺すつもりだ。

「今人を遣って姜恒を探させている。」汁琮は言った。「この世に生まれれば誰もが死ぬものだ。瀧児、お前はあまり……ロンアル?」

「殿下!太子殿下!」朝臣は太子がまた吐血するのではないかと心配した。

太子瀧は手をふった。一月前には考えもしなかった最も残酷な結果だ。彼はふらふらと歩き出し、ゆっくりと朝殿を出て行った。

「どこへ行く?」汁琮の威厳に満ちた声が背後から聞こえて来た。太子瀧は振り返って汁琮を見た。夕日が差し込み父と子の間を光の川が隔てた。

太子瀧の眼差しが変わった。汁琮が見たことのない表情をしている。いったい何を考えているのだ?汁琮は無意識に視線を回避したいと思った。彼を騙している。皆を、実の息子さえも騙しているのだ。汁琮は耿曙を殺した。そのせいで、我が子の眼差しを少し恐れた。その一瞬の気持ちの揺らぎで、太子瀧は言いくるめようとする言葉に埋もれた醜い真相を感じ取ってしまった。父子は長年お互いの心を読み、通じ合わせてきた。そうした長年の暗黙の了解のせいで、太子瀧はそこに何か別の事情があることに気づいてしまったのだ。

「私が恒児を探しに行きます。」太子瀧はそっと告げた。

「気でも狂ったか。」汁琮の口調は穏やかだったが、太子瀧の無力の反抗は軽く退けられた。「太子を東宮に送れ。どこにも行かせるな。」

 

 

―――

第162章 鞘を抜いた剣:

桃花殿に夕日が黄金色の光を落とした。姜太后は影の中に静かに座っていた。

「お帰り。」姜太后は足音を聞いて声をかけた。

「ただいま、母上。」汁琮は王服に着替えて殿内に歩いてきた。「ただいま帰りました。先祖が残した遺願、今回少しだけ前に進めることができました。」

太后は淡々と答えた。「今日は体調が悪くて、お前を出迎えに行けませんでしたが、全城軍民が総出でお前を歓呼していたのは、深宮にいても聞こえてきました。」

汁琮は姜太后の前に行き、身を折って拝礼した。

太后の膝の上には鞘を抜いた剣が置いてあったが、天月剣ではなかった。

「子供たちはどうしていますか?」姜太后が再び尋ねた。汁琮は応えず、母の手の中の剣を見つめた。この距離だと、姜太后が突然剣を抜けば、自分を死に至らしめると目算した。

「汁淼は戦死しました。」汁琮は簡単に答えた。「姜恒は逃げました。どこの国に行ったかは不明で、行方を捜しているところです。」

「『逃げた』と?」今日太后は冷ややかに言った。

「はい。姜恒は郢国に付いて裏切り、長兄を売りました。そのせいで汁淼は敵の手に渡り、壮絶な犠牲を払いました。」

 

母と子は長い間沈黙していた。姜太后は何も言わない。ちょうどかつて、汁琮が彼女の元を訪れて、汁琅の死を告げた時のようだ。

「お前の兄は中原大計を立てていた。最後は耿淵の息子がお前のためにその第一歩を完成させ、鈴をつける役を担ったのですね。」汁琮は何も言わなかった。

「ロンアルはいい子です。本当なら二人と力を合わせていけたのに、残念です。あの子に会いましたか?」

「人は誰でも死ぬものです。今回死ななくても別の死に方をしたかもしれません。今は受け入れられなくても、だんだんと諦めがつくでしょう。」

「その通り、遅かれ早かれ私たちも皆死にます。諦めなかったとしてもどうなる?いらっしゃい、私を立たせておくれ。」

 

汁琮は近づこうとせず、姜太后の厳格な顔つきをじっと見た。母は昔からこうだった。こんな表情で自分を厳しく仕付け、汁琅のことは更に厳しく仕付けた。優しかったのは父といる時だけだった。二人の子の内では、母は汁琅の方をよりかわいがった。それは汁琮にとってはっきりしていた。汁琅の後には娘が欲しかったのだ。何の因果か、汁琮は三兄妹の真ん中に生まれ、一番かわいがられない存在だった。汁綾の方がずっと母の歓心を得ていた。

「母上はお体の具合がお悪いのだから、横になって下さい。がんばりすぎますな。」

「私にもできることはあります。」姜太后は剣を傍らに置いて淡々と言った。「琮児、何を考えているのです?いらっしゃい。もうずっと母に心配事を話していないでしょう。」

汁琮はなぜか背に汗をかいた。もう姜太后は手に何も持っていない。汁琮は仕方なくゆっくり前に進んだが、鋭利な剣からずっと目が離せなかった。

「衛卓も死んだとか。」

「はい。」汁琮は応えると、台座の前まで来た。姜太后は手を伸ばした。汁琮は片手を背に当て構えたが、姜太后は片手を汁琮の背に置いて立ち上がった。

「どんな風に死んだのです?」姜太后は汁琮を手にかけたりせず、ただ尋ねた。

「郢軍との交戦時に……矢が当たって死にました。」

 

太后は安陽での一戦の詳細を知りはしないだろう、少なくとも今は。戦の途中で起きた様々な言いにくい出来事はまだ母の耳には届いていない。推測に頼っているはずだ。推測だけでは、今の時点で母に自分は殺せないだろう。

「それならちゃんと葬ってやりなさい。」汁琮は母親を支えながら、桃花殿の外に出て、庭でほころび出した花を眺めた。「はい。三日後に、汁淼と衛卓二人の御霊を送ります。立派な葬儀にしようと思います。」

「南への遷都については、汁家が長年待っていた日がついに来ました。瀧児は門客と遷都のための準備をしているようですよ。」汁琮が尋ねるのを待たず、姜太后はそっと告げた。「母后は行きませんが、お前たちは行きなさい。」

「母后……。」汁琮は言葉を飲み込んだ。夕霞に向き合った姜太后の顔は落ち着いていて、心は昔々、少女の頃に戻ったかのようだった。「お前の父王に嫁いだ時に、落雁が母后の家となりました。桃花もあり、あの人もここにいます。最後の瞬間まで落雁で過ごすことが、私の望みです。さ、行きなさい、王陛下。我が子よ。二人の子供のことだけが悔やまれますが。」

汁琮は姜太后の手を離した。大赦を得たかのように半歩後退し、お辞儀をして答えた。「そうですね。」そしてそれ以上何も言わずに出て行った。

 

太后は落日と夕霞の中に立っていた。彫像のように。しばらくすると、界圭が木の裏から現れた。鞘を抜いた天月剣を握っていた。

「私にはできなかった。」姜太后は沈んだ声で言った。

「彼は賢いので、木の後ろに刺客が隠れていたのはわかっていたでしょう。」界圭が言った。姜太后はため息をついた。界圭は姜太后を責めず逆に「人には情があるものです。」と言った。

「炆児に渡しなさい。もしあの子が戻ってくる気があるならね。汁瀧に会いに行っておやり。」(↑剣のことかなあ)

界圭は頷き、半歩下がってから、東宮の方に向かって行った。

 

「どこに行くのですか?」界圭は太子瀧の前に現れた。語気はほんの少し柔らかくなっている。太子瀧は荷物を背負って、外を守る侍衛の方を見ていた。界圭が来たことで希望を見出したようだ。界圭は近づくと、太子瀧の荷物を取って、近くの台の上に載せた。

「二人は生きています。言えるのはそれだけです。」それを聞いた太子瀧は突然力が抜けた気がした。「早く言ってほしかった。」

太子瀧は界圭を見ても何を考えているのか全くわからない。子供の頃から、ずっと界圭が怖かった。顔がめちゃくちゃになっている人というのは子供にとっては恐怖だ。

「どうしてなの?二人はどこへ行ったの?案陽城ではいったい何が起こったの?」

「言えるのはそれだけです。」界圭は言葉を繰り返した。

何も聞け出せないことがわかっても、太子瀧にとって、二人が生きているということが分かれば十分だった。

「二人はまた戻って来るかな。」太子瀧は再び尋ねた。

「言えるのはそれだけです。」界圭はもう一度繰り返した。

太子瀧は長椅子まで戻って腰を下ろすしかなかった。

 

「私にはずっと解せなかったんですよね。あなたは子供の頃からどうしてそんなに聞き分けがいいのですか?」界圭が言った。太子瀧は界圭を見た。それはみんなが言っていることだ。口にはしない人も心の中ではそう思っている。もし前に界圭にそんなことを言われれば、父親との関係に亀裂を入れようとしていると考え、話をそらそうとしただろう。だが今や違う。姜恒が彼を変えた。家族との関係に何か影のようなものが存在するのを彼は鋭敏に感じ取った。父と祖母、父と叔母、祖母と姜恒、耿曙と父……。界圭は妙な顔で太子瀧を見て言った。「今までの人生で、一度くらいお父上に反抗しようと思ったことはないんですか?」太子瀧は応えず、黙って座っていた。

「ああ、思い出しました。確かに反抗したことがありましたね。落雁が消滅しそうになった時、あなたは反抗しました。実はあなたはいつも反抗しているけど、自分のやり方でやっているだけなんですよね。」

「界圭、いったい何が言いたい?」太子瀧はふと語気に少し威厳を込めた。

「君たち三兄弟は、一人は剣のよう、一人は書のよう、一人は盾のようですが、実は根っこはそっくりです。」界圭は背を向けて寝殿を離れる際、少しだけ振り向いて言った。「時々、あなたと姜恒は、鏡を隔てて向かい合っているように思えることがありますよ。」太子瀧は界圭の後ろ姿をじっと見た。

「あなたが成すべきことをしっかりなさって下さい。」界圭は扉を閉める前に、もう一度拝礼し恭しく告げた。「ご縁がありましたら、またお目にかかります。」

 

 

三日後、雍国王子汁淼と衛卓は同時に出棺した。盛大な葬儀だった。太子瀧は何も言わず、自ら汁淼の御霊に付き添い、汁琮は衛卓の棺を送り出し、雍都落雁を巡った。汁淼は生前の衣冠を宗廟に納め、衛卓は大雍忠臣祠に納められた。

遷都の話が議題に上がった。汁琮は自ら場所を選んだ。雍国版図は更新した。北の遠山から南の嵩県まで、元々天下の半分の場所を閉めていたのが、黄河を越えて、安陽、洛陽にまで延び、剣のような形をした中腹の地を含むようになった。剣の先端は嵩県だ。

雍国が関を出たことは天下を驚愕させた。梁国は滅亡した。だが、汁琮は天下に知らせた。十月十五日、下元節当日、洛陽にて行われる『五国会議』は元の通り行うと。

 

―――

時は盛夏。姜恒が耿曙について山脈を越えた時、遠くから波の音が聞こえてきた。「もう着くぞ。」耿曙は二頭の馬を牽いた。姜恒は既に抑えきれずに驚きの声を上げて、耿曙を追い越して山を進み、崖に立って狂ったように叫んだ。

「海だ!海だーー!」姜恒は大声で叫んだ。ついに生まれて初めて本当に自分の目で海を見ることができた。大海はこんなにも広大で、空が一望できる。海鳥が鳴く声が聞える。夏の強い日差しを受けた水面は黄金色にキラキラ輝いていた。浅瀬には漁船が行きかい、砂浜の砂は細かく柔らかな白い色をしていて塩の粉のように見える。

 

姜恒は信じられない思いで耿曙を振り返った。耿曙は行けばいいと示しながらも、周囲の様子に気を配った。姜恒は砂浜に走って行った。袍の裾を踏んで転びそうになると、すぐに外袍を脱ぎ捨て、靴も脱いだ。そして海の水の中に立って目の前の景色を驚きの目で見つめた。

「ほら見て!」姜恒は貝殻を拾って耿曙に見せた。耿曙は浜辺に馬を繋ぐと、「ちょっと待っていろ。どこか宿を借りられないか探してみる。気が済むまで見ればいい。」

 

かつて耿曙に「海を見に行きたい」と言った時のことを覚えている。七歳の姜恒は、自分は一生姜家の高い壁の外には出られないのだと思い込んでいた。実際にはこの世の殆どの人は死ぬまで故郷を離れる機会はないのではないだろうか?だが自分のこの言葉を耿曙はずっと覚えていてくれていた。十二年間、彼はずっと忘れなかったのだ。

そして今、ついに二人は海辺にやって来た。碧い浪と晴れた空の下、大海の向こうには、雲霧に包まれた仙山があるのだろうか?羅宣、松華、鬼先生はもう海の向こうで新しい生活を始めているのだろうか?

耿曙は雍国国土を巡視していた時、最東端で、切り立った海岸線を見たことがあった。そこはごつごつとして海の水も黒ずんでいた。さびしく荒涼とした場所だった。越地の端は、大地と海の恵みに満ちた土地で、夏の盛りのこの時期、全てがとても美しかった。白い単衣を身にまとい、砂浜で水と戯れる姜恒は無限の碧空と海が混ざり合う中に一体となって溶け込んでいるようだ。耿曙に笑みがこみ上げた。この一月で初めての笑顔だった。

 

彼は姜恒からあまり離れない場所に腰を下ろし、黒剣を膝の上に置いて、周囲の動向に注意を払っていた。あまり人はいなかったが。姜恒は海を見た瞬間に心を煩わす一切を忘れてしまったかのようだ。すぐに半身を水にぬらした。時々振り返って耿曙が砂浜にいるのを確認すると、耿曙は目の上に手をかざし、姜恒に微笑みかけた。昔見た北方の海とは全く違うな、と耿曙は思った。

 

 

―――

第163章 無用剣:

 

夜になると、耿曙が海岸近くで越人漁師から借りた茅葺小屋を簡単に片づけて、二人で住めるようにした。「何て美しいんだろう。」姜恒は呟いた。夜になっても浪の音は変わらず、夜空は満天の星で満たされた。

「お前がいたいだけここにいればいい。一生でもかまわない。」

姜恒は笑い出した。「お金がすぐになくなっちゃうでしょう?」

「俺が魚を捕ればいい。やり方は覚えられるだろう。」

 

海辺は灼熱の暑さで、耿曙は漁師たちに習って袴だけを履いて、上半身と素足を晒して砂浜を行き来した。姜恒は薄衣一枚だけ着て、毎日猟師が網を投げたり引いたり、魚釣りをする様子を見ていた。中原の戦乱など、ここの人たちには関係ないようだった。

あまり遠くないところに鄭国の小漁村があり、毎月一日、十五日に市を開いていた。二人は村まで行って必要な物資を調達した。夜になると、二人で肩を寄せ合い砂浜に座って夜空に広がる広大な銀河を眺めた。万古の昔から銀河も日の出日の入りも変わりない。それこそ蒼い海が桑畑となってもだ。それに比べれば、天地の間にいる人間など儚いもので、まるで浜辺の砂山のようなものだ。

 

「兄さん、」姜恒は顔を向けて耿曙を見た。

「うん、」耿曙は目を閉じて自分の腕を枕にして砂浜に横たわっていた。

「この生涯で……。」

耿曙はさえぎった。「俺たちの生涯はこれからずっと続く。『この生涯』とか言うな。縁起が悪い。」姜恒は笑いながら言った。「たくさん勉強して、たくさんの人にあったけど、でもね、」

耿曙は姜恒をさえぎらず、目を開けて夜空の星を眺めた。

「時々思うんだ。何をしようと役には立たないなって。なのに、今までずっと真剣に、役立てるための学問としてでなく学んできたことがあったかなって思うんだよね。」

「あるだろう?洛陽にいた時はそうではなかったか?」姜恒は考えてみて納得した。

 

その時、耿曙は姜恒の明るい双目に名残惜しそうな気持をを見てとった。姜恒は彼の前に近づいて来て星空をさえぎった。二人の顔は近づき、耿曙はすぐに鼓動が早まった。この一年、何度も心の中で考えては停まらず、苦しめられてきた思い。ずっとわかっていた自分の内心に今向き合うことができた。

俺は彼が好きだ。俺は恒児が好きなのだ。

耿曙は自分の心に直面し、認めた。ただの兄弟の間の感情ではない、もっと多くを求めている。彼は目をそらさず姜恒を見つめた。口づけしたいと思った。真実を告げたあの日から、二人の間には微妙な変化が現れた。姜恒はもう彼の体を撫でまわしたりからかっていたずらしたりしなくなった。あの時々思いついてふざけて触って来る行動も影をひそめた。

「何が言いたい?」耿曙は手を伸ばして姜恒の首の後ろを抑えた。彼をよく見てみる。美しく、心を動かす容姿だ。子供の頃から今に至るまでどれだけ見ていても見飽きることがない。自分のものにできるのなら何でも差し出してしまいたいほど好きだ。

「あなたは思ったことはない?何のために剣を修練するのかって?」

「ないな。」耿曙は考えた末答えた。「俺が剣を修練するのはある人を守るためだ。ある人というのはお前のことだ。」

姜恒は笑った。耿曙は彼が自分に口づけすることを期待したが、彼は何もしなかった。理由はわかる。姜恒は今はまだこのことに思い至っていないからだ。待っていよう。彼が自分の側にいさえすればいい。一生待ったってかまわない、耿曙は心に思った。

「俺の視界を遮っているぞ。」耿曙はいらついたようなふりをして言った。

 

姜恒は笑って耿曙の横に体を戻した。耿曙は再びきらめく星河に目を向けた。あの夜、姜家の庭でずっと念頭に置いた、『天道』が見えた気がした。

「無用の用か?」耿曙は突然そう言った。

今まで学んできたのは、全て、ある明確な目的のためだ。黒剣心訣を修練するのは姜恒に付き添い守り、自身の運命を主導するため。武を習うのは復讐のため、それとも二人の望みを叶えるため……。

 

「無用の用か。『天道は仁にあらず、万物を以て芻狗と成す。』本当の天道には万物の区別はない。『用いる』ことを気にしない。目的や願望、理想が何であれ関係ない。天地は変わらず、日が昇り、月が沈む。星座はまわり、星は移る……。」

「即ち何のためでもない。」耿曙はかつて読んだ書を思い起こして呟いた。

天道の前では、万物の誕生も崩壊も、一瞬現れては消える浪の花と同じだ。生と死は輪転する。この世の全ての生命と人間の間に何の違いがあるだろうか?

「天道。」耿曙は一刹那、満天の星空の下で、よぎってはすぐ消えゆきそうになる考えをつかみ取った。

姜恒:「?」

耿曙は体を起こし、横に置いてあった黒剣を掴んだ。そして星河と大河に向き合い、何かに入り込んだようになった。

 

姜恒は不思議そうに彼を見た。すぐに耿曙は黒剣を持ち、波に向かって走って行った。姜恒も体を起こしたが何も尋ねなかった。瞳に映る耿曙は波の音に合わせて歩を停め、砂浜から潮が引く水の線の前に立ち、夜空の星を望んでいた。

姜恒は少し後ろに離れた。すぐに耿曙は剣を振り上げ、天の星の軌道と潮の満ち引きの間に弧を描き、横に剣をひき、前に突き、横に倒した黒剣を平らに切った。

姜恒はすぐにわかった。耿曙はこの夜、武人としての最後の山を越えようとしている!今までの生涯で学んだ武術の域を突破しようとしているのだ!

彼は耿曙の邪魔をする気はなかった。驚きと仰慕の念でいっぱいの目をして、石の上に座って見ていた。

 

その後、耿曙は長い瞑想状態に入った。十五分くらいたっただろうか。彼は振り返って潮が満ちる間に歩を進め、再び剣を振るった。星空は巡り、海の上に星が落ちた。(?海は東側では?)一晩中、姜恒は石に腰を下ろして耿曙を見続けた。東の空が明るくなった。耿曙は全部で9手振った。その9手の中には、安陽城にいた時に、一瞬だけ天心が開いた時に見出した型もあった。あの時は、姜恒が歌った「天地と我とは同根、万物と私とは一体」が再び聞こえて来た!だが、あの時にはまだ知らなかった。一千万の兵を前にして、数千年間誰もが越えることができなかった壁を自分が突き破ったのだということを。

彼の父の耿淵でさえ、琴鳴天下の曲を弾き終えた時にようやく垣間見た境地だ。

 

「掴めたよ。恒児!」耿曙は振り返った。姜恒はあくびをしつつも期待の表情を示そうとした。「あなたが作り出した剣法なんだね。つまりあなたが大宗師だ!」

羅宣に聞いたことがある。武人が一生道を究めれば、人の世の境を越え、天道を覗き見ることがあるのだと。そこに到達する者は少ない。殆どの人は平凡なまま、名人の地位を得たとしてもそこで一生を終える。だがその壁を越えた者は『武聖』と呼ばれるのだ!天道を覗き見たら何の役に立つのかという問いに、実は何もと答えられて姜恒は笑ったのだった。武聖の域に達した者も簡単にはいかないのだなあと。

 

「だがもう忘れてしまった。太陽が出てきたら、もう何も思い出せない。」耿曙は悔しそうだ。「私が覚えているよ。ほらね?砂浜に描いておいてあげたよ。」姜恒は耿曙を引っ張った。

姜恒は実は一晩中退屈だったので、耿曙の創った剣法を記録しておいたのだった。

耿曙はすぐに言った。「俺はもう一度練習するから、お前は帰って寝ていろ。」

姜恒は小屋に戻って眠った。耿曙は外で剣の練習を始めた。一晩眠っていないのに感覚は研ぎ澄まされていた。夜になると姜恒は食事を作った。「大国を治めるのは小料理を作るようなもの。」と言いながら、鮮魚を料理した。耿曙は簡単に食べ終えると再び眠ることなく、心法の修練をした。三日後、耿曙は姜恒に剣法を見せた。黒剣、天月剣、烈光剣の剣法を全て融合させた。最後に自分が編み出した九手の剣法に心法を組み込んだ技は完全無欠だった。

 

姜恒自身の武学はまあまあ程度で、できるとまでは言えないものだが、それでも耿曙が今までと違っていることは感じ取れた。

「本当にすごいよ!」姜恒は感嘆した。

耿曙は苦笑いした。姜恒が奥義を理解できないのはわかっていた。だが、それでも興奮した。

「次に誰かと戦う時になれば、お前にもわかるさ。もっとも今はもう誰とも戦いたくないがな。」

「技に名前をつけたらどう?」姜恒が提案した。

「無用の用、だから、『無用剣』というのはどうだ?」

「ひどい名前だよ!」

「じゃあ、お前が決めてくれ。」

姜恒は考えた末、「『山河剣法』はどう?」と言った。

「『山河剣法』か!いい名前だ。」

 

耿曙はひそかに感じていた。姜恒の心情にも変化があったようだと。海辺で数か月過ごし、二人は世界から隔絶していた。自分は星河の下、武道の極致にある境界の外を垣間見、姜恒も世の大道の有りかについて結論を見出したようだった。

「心が決まったのか?」

「心が決まったよ。」姜恒は頷いた。耿曙はほっとしたが、それ以上聞かなかった。姜恒がこれから進みゆく道を選んだのだとわかった。もう二度と大争の世や、最終勝者を誰にするかについて関わりたくはないはずだ。耿曙自身が、二度と剣を殺人のために使ったり、誰かを勝たせるために使いたくないのと同じだった。だが、山河剣法という名を聞いた時、耿曙にはわかった。姜恒は何か行動を起こそうとしている。そして自分の剣は永遠に彼の側にあるだろう。

 

数日後、姜恒は再び市場に行った。ついたちの市の日で、活気にあふれていた。

「誰かが私たちを尾行している。」姜恒は小さな店の前で歩を停め、耿曙に言った。耿曙は振り返って見た。「俺が行って声をかけてくるか?」

市場には民に扮した斥候が何人かいて、遠くから様子を伺っていた。ふと、耿曙の様子が以前とは違うことに姜恒は気づいた。山河剣法を編み出したあの夜以来、雰囲気が明らかに変わっていた。以前より穏やかで、鋭さを内に秘めている。以前の様に危険を感じてすぐに黒剣の柄に手を伸ばすことがなくなった。

今や黒剣は彼の飾りになったかのようだ。帯で背に巻き付けてはあるが、誰かが尾行しているのに気づいても、耿曙は背に手を伸ばして黒剣を取ることはなかった。今の彼は、この神兵を軽々しく使おうとはしていない。

 

姜恒がまだ決めかねている内に、耿曙は小石を手に取り、家屋の影に隠れている男に向かって投げつけた。男は一声、うめいて逃げて行った。

「誰が送り込んで来たんだろう?」

耿曙は何も言わずに姜恒の手を牽いて、振り返り、市場に背を向けて砂浜に向かって歩き出した。集まっていた斥候は耿曙を目にして大慌てで去って行った。

「あれ!お久しぶりです!」姜恒が声をかけた。

木の影からよく知る人影が現れた。両手に刀を持っている。

「お久しぶりです、羅先生。」孫英が笑いかけた。「それとも姜大人とお呼びするべきでしょうか。」

「またお前か。」耿曙が眉をひそめて前に進んで行った。孫英は冷笑し、突然刀を突き出した。

「気を付けて!」姜恒は孫英が突然耿曙を攻撃してくるとは思わなかった。彼の攻夫を試すつもりなのだろう。そういえば、落雁城では孫英はこてんぱんにやられたはずではあったが、耿曙と正面切って戦う機会はなかったのだった。

だが、耿曙は一度の動きで孫英の刀刃を掴んだ。鋳鉄のような二本の指で少しひねると、孫英は前に引き寄せられた。そこへ左の素手で腹部を一突き。孫英は吐血し、耿曙に横に投げ出され、刀も落ちた。

姜恒:「……。」

耿曙は振り返って姜恒に言った。「奴は神秘客じゃないぞ。」

姜恒:「………………。」

 

孫英は痛みに耐えながら立ち上がった。やれやれ完敗だ。耿曙の黒剣の力を試そうと思ったが、素手で突き飛ばされるとは思わなかった。だが姜恒にしてみれば、孫英の武芸は頂点を極めているわけではないが、五大刺客にわずかに及ばない程度ではないかと思っていた。

だが、羅宣と戦ったとして、ここまであっさり完敗するだろうか。

                  (でも師父は11万人を瞬殺したから)

「彼は……わかった。違うならいい。」

耿曙は地を這う孫英に向かって尋ねた。「お前の主人に何を命じられた?」

孫英の矜持はズタズタだったが、立ち上がって服をたたいた。腹が痛み、内心ではくそったれと罵りつつも表面上はさわやかに言った。「太子霊は今や王陛下となられました。お二人に門客として済州にお越しいただくことをお望みです。」

「私たちが潯東城にいた時から、既に行動が筒抜けだったんだね。」

孫英は姜恒の知力は耿曙の武芸に匹敵することを知っていた。自分がどうこうできる相手ではない。「その通りです。」孫英は素直に認めた。「どうされますか?大鄭は国士の礼を以てお迎えし、過去のあれこれは全て帳消しと致します。」

 

姜恒と耿曙は視線を交わした。鄭国は今や亡国の危機にある。梁国は滅び、崤関が最前線となった。落雁が攻め入られたのはちょうど一年前、汁琮の次の目標は済州で間違いないだろう。今の耿曙は刺殺を恐れない。五大刺客も、例え父が生き返ったとしても、彼を倒すことはできないだろう。「お前が決めてくれ。」

「もし行かないといったらどうする?」もし行かないと言ったら、太子霊は自分を殺すように命じたのではないか?あなたはそのために来たのではないのか?

孫英はしばらく息を整えてから、しぶしぶと言った感じで告げた。「もしお二人が行きたくないと言えば、王陛下が自ら足を運ばれるでしょう。国内情勢は緊迫しています。一本髪を引っ張れば全身が動くような状態で、国君が済州を離れるのは危険を招きます。」姜恒にとっては笑えない話だった。

孫英は話を続けた。「このまま行きましょう。雍国は今刺客を放って姜大人の行方をくまなく探しています。お二人の荷物は後で誰かに運ばせます。」

      (まあ、色白の二人はあんまり長い間海辺にいない方がいいよ。)

 

 

―――

第164章 禁足令:

 

中原には夏が来たが、落雁城は今でも涼しい。汁琮は安陽に戻って来ていた。姜恒はまだ見つかっていない。そのことは唯一の変数であり、汁琮の心に刺さったとげでもあった。

彼はどう来るつもりだろうか?それに耿曙が焼死した時に蔓延した毒烟はどこから来たのだろうか?安陽で起きた異変について考える時、汁琮はかすかに震えを感じた。今や彼は安陽王宮の広々とした高台に立ち、ゆっくりと復興し始めた街を見下ろしていた。梁国王都を占領してから、雍人たちが続々と関を越えてやって来て、死城となっていたこの町を生き返らせた。

 

あの怪事件は彼が見守る中で起きた。耿曙の体に何が起きたのだろう?彼を焼いた薪の中に毒が混ぜ込んであったのだろうか?汁琮は考えた末、可能性は一つしかないと結論付けた。雍軍が彼を助けないと踏んだ郢人が、火刑の際に、辺り千歩の人間を毒煙で殺そうともくろんだが、天候の見積もりを誤り、また毒の殺傷力を低く見積もりすぎて、十万の大軍が風を受けて死んだということだ。

 

これによって汁琮は一つの教訓を得た。同じ城内を大軍でいっぱいにしないことだ。陸冀が進言して来た。新都を選ぶなら安陽は避けた方がいいと。十万余りが死んだ城では冤魂が留まったままで、陰気が重くこもっていると。陸冀のような天下に謀略をし尽くした者が、あの年になって鬼神のたぐいの虚無な話を信じるとは。

それに対する汁琮の答えはこうだ。「生きている時にも恐れなかったものを、死んでから何を恐れることがある?」

陽剛の気が強い雍軍なら、そのような冤魂など押しつぶせる自信が汁琮にはあった。

                       (それも虚無な話では?)

信じられないなら、今の安陽を見るがいい。こんなにも回復してきているではないか?目下、耿曙は死に、姜恒は逃げて行方知らずだ。彼は絶対に復讐しに来る。一刻も早く彼の消息を掴まねば。更に悩ましいのは、王子の死について、東宮に広まっている噂だ。不快な話をする者が少なくない。その声は増え続け、無視できないところまで来ていた。

安陽に遷都した初日に、東宮が決めた策は、王令を発布して、梁国の人々を安陽に戻らせることだった。過去は問わないとして……馬鹿を言うな。汁琮が差し止められてよかった。

 

これ程多くの人を全部追い出すとしたら大変だ。場所ができてよかったではないか。雍国人が移り住み、彼らの家を住処として。彼らの財産も糧も、全て安陽に置いたままだ。それでいいではないか?

千里の道をはるばる落雁からやって来たのだ。カッコウが巣を奪ったわけではない。これは皆の戦利品なのだ!汁琮は部下に略奪を許さなかった。それは勝ち取った果実が自分たちの物だからだ。それなのに太子瀧は安陽を梁人に渡せと言うのか?!

「来たか。」汁琮は呟いた。

彼の実の息子がやって来た。一月前に落雁を出て、風塵にまみれて今安陽に到着した。太子瀧は汁琮の後ろに来て拝礼した。汁琮は振り返らなかった。

「子供の頃よく言っていたな。南に行って、書物に書かれた中原の楽土を見てみたいと。父はお前に答えた。いつか我らも戻れると。ほら、ごらん。客としてきたのではない。中原は今やお前のものだ。」

 

汁琮は前方を指さして、太子瀧によく見るように促した。これはお前のものだと。子供の頃から父は息子に何も与えなかったが、今、人生で唯一の贈り物をしていた。汁琮は振り返った。息子の瞳に歓喜の色が浮かんでいるのを期待して。

だが太子瀧は何も言わず、複雑な表情をしていた。

「まだピンとこないか?」汁琮は太子瀧がまだ耿曙が死んだ悲しみの中にいるのだろうと、ゆっくり傍まで歩いて行った。太子瀧は目を潤ませていた。彼の母親である音霜公主にそっくりだった。嫁いでからというもの、彼女はいつも幸薄い表情をしていた。

 

「人は去るものだ。」汁琮は左手を延ばして息子の顔に当て、親指でそっと目の角をぬぐってやった。「おばあ様も死ぬし、伯母上も死ぬ。父も例外ではない。皆最後はお前の元を去って行く。」太子瀧が一瞬わずかに身をかわそうとしたことで、汁琮もついに察した。

「何か言いたいことがあるのか?」汁琮は手を離し、不愉快そうに言った。「お前は間もなく神州の天子となる。言いたいことがあれば言うのだ。そんな風におびえることはない。」

太子瀧は汁琮をしかと見つめた。「これは私が望んだものではありません、父王。」

汁琮は突然興をそがれた。このところ、息子が変わったことには気づいていた。

「誰に何を教えられた?」汁琮の口調が冷ややかになった。

「誰にも何も。父王、これはあなたが望んだものでしょう?」太子瀧の口調はしっかりしていた。汁琮は前に一歩踏み出し、危険な語気を帯びて、太子瀧に向かって言った。

「気でも触れたか?敵を憐れんでいるのか?梁人が鄭人と落雁を滅亡させようとしていた時、やつらが我らを哀れんだか?」

太子瀧は深く息を吸い、顔を上げて父親をじっと見た。「父王……。」

「そんなことを、お前は兵士たちの前で言えるのか?」怒りのあまり汁琮の手は震えた。

「雍国のためにあちこちで戦い、命を差し出している者たちが、お前の話を聞いたら、どんなに心を痛めることか!」

「父王!」

「今になって悔やまれる。お前を一緒に連れて行き、この世の煉獄のような戦場をよく見せておくべきだった。あれを見た者なら、絶対にそんな言葉は……。」

「父王!!」太子瀧は怒号した。「あなたは今までちゃんと私の話をきいたことがありますか?」汁琮は刹那口を閉じた。

「私に話をする機会を与えていただけませんか?」太子瀧は問いかけた。

父子は黙ったまま向かい合った。

「言いなさい。」汁琮は冷たく答えた。

「父王、敵とは誰ですか?」

汁琮:「……。」

太子瀧は高台の前まで歩いて行き、安陽全城を見渡し、再び振り返って汁琮に言った。

「あなたの敵とは誰ですか?あなたに敵はいません。十年後、あなたは天子となるのです。彼らは皆、臣民です。みな行き場を失ったあなたの臣民です。なぜ彼らに自分の家に戻らせてやらないのです?あなたは彼らの新王です。梁人はすでにあなたの民なのです。私にもわかっています。戦争は不可欠だ。神州を再統一するためには悲惨な犠牲も伴うでしょう。重い代価を伴なうことも。……ですが……。」太子瀧は城内を指さし、信じがたい思いで言った。「父王、あなたは決められました。彼らの家を奪い取り、放浪の末死に至らしめ、雍人のみを留まらせると!」

 

安陽は荒涼となり果てた。人々は逃げ、鬼城のようになった。だがすぐに雍人が移り住んでくる。汁琮は絶対に梁人を戻らせたくなかった。

「誰がお前にそう言わせたのだ?」汁琮は冷ややかに問いただした。姜恒は逃げ、耿曙は死んだ。今や我が子を手なづける者はいないはずだ。それなのになぜだ?今になって、太子瀧の背後にあの幽霊が立っているというのか?!

「誰でもありません。最初から最後まで私の考えです。父王、なぜ信じてくれないのですか?」

曾嶸か?周游?それともあの寒族出身の士子か?

「お前は家臣たちを抑えられない。」汁琮は太子瀧の能力と国君としての素質を鍛え直す必要があると考えた。「奴らの口を押えられない。奴らの心もだ。姜恒に毒されている。心は女々しいやさしさでいっぱいだ。自国の者に厳しく、敵にはおやさしい。」

太子瀧は汁琮が聞き入れることはないだろうとわかっていた。今日は既に反抗の極限まで行った。この後は、彼の怒りの炎を受けるだけだ。

「戻って反省しなさい。お前の軟弱さを。」汁琮は冷たく言った。

「はい。」太子瀧は小声でそう言うと背を向けて去って行った。

今の「はい。」は「いやです。」に聞こえた。穏やかだが、今までになく頑固だ。太子瀧は汁琮の更なる猛烈な怒りを焚きつけることに成功してしまった。汁琮は高台に立ち、息子に向かって怒号した。「よくよく反省するんだ!自分の間違いがわかってから!再び朝廷に上がって来い―――!」

                        (GOGOシルタキ!)

 

翌日、太子瀧は禁足させられ、壁に向かって跪いて反省させられた。

汁琮は東宮の門客全員からの激しい抵抗を受けることになった。日頃は汁琮の言うことに反対しない曾嶸や周游も黙っていられず、国君への質問を始めた。

「王陛下、安陽に来たばかりで、政務が煩雑です。こんな時に太子殿下が禁足とは、いったい何をなさったのですか?」

周游も言った。「五国会議については、どういたしましょう。安陽を占拠したことで、四国人は動揺しております。落ち着かせるための手立てを何かしなくては……。」

 

汁琮には真実を告げる気は毛頭ない。「お前たちがいるではないか。太子は不参加でも東宮の職責は変わらない、何か問題があるか?」

東宮は腐っている。根まで腐っている。それが汁琮の考えだった。自分は征戦だけしたいのであって、政務は行いたくない。姜恒が来てから、太子瀧と若い官僚たちは皆だめになった。すぐに立て直さなければ。皆は顔を見合わせた。曾嶸はうまく誘導しようとした。「太子瀧が禁足してその理由も知れないとなりますと、天下人が太子がいないことで何を言い出すかわかりませんが、いかがいたしましょうか?」

「敵に同情したことだ!それが彼の罪だ!」汁琮は突然怒鳴り声を上げた。

 

東宮の官僚たちは冬の蝉の様に黙りこくった。だが言葉は発しなくても汁琮を見る眼差しには堅持や執着が見られる。汁琮にも理屈の上ではよくわかっている。曾嶸は曾家を代表している。士族の子弟にはそれなりの配慮が必要だと。だがこの時、沸き上がる暴虐的な考えを抑えきれなかった。この中から何人か殺して、東宮を完全に服従させたい。

「王陛下、政務の決策をいかがしますか。」曾嶸が尋ねた。

「孤は国君だ。」汁琮は一語一語ゆっくり言った。「孤自ら行う。君たちはこう思っているのか?孤は政務を東宮に託しているから、もうずっと前から国君ではないと?」

誰も何も言えず、曾嶸も最後には譲歩した。

周游が言う。「現在使者を手配しており、先ず、郢、鄭両国にしばしの和議を……。」

「和議?和議とは何だ?」

その言葉で誰ももう幻想さえ描けなかった。

「出兵だ!」汁琮は言いなおした。「来月出兵して、鄭国を攻める!落雁の血の借りを返させに行くぞ!天下に知らしめるのだ。大雍を攻撃しようとする者は、孤が必ず償わせると!

お前たちの政務文書は書房に持って来い!処理を終えたら御駕親征だ!」

 

 

―――

第165章 鬢の白髪:

 

七月流火、盛夏の夜には満天の星。済州城では蝉がうるさいぐらいだ。

「恒児、あまり太子霊を信じるなよ。」耿曙が小声で言った。今では姜恒の安全を守り切る自信があるが、ただずっと太子霊はきらいだった。

                  (過去の何かを感じ取っているな)

「あの人が私を殺そうとしたことはないよ。」言った後で思い出した。太子霊は耿曙を殺そうとはした。だが結局は殺し損ねた。姜恒は元々現実的なたちで、やたらと仮定をしてみない。だがもし、あの時耿曙を助けた結果がどうであれ、二人が兄弟だとわかったら、太子瀧は見逃してくれただろうかと考えた。あの時は風雪の崤関から耿曙を助け出したが、その後、五国の中で、太子霊は自分たちを殺そうとしない唯一の太子だったことははっきりしている。

 

「そうだな。」耿曙も最後に頷いた。「俺たちが雍国を出たことを知っても害しようとしなかった。」だんだんと謎が解けてきて、落雁城外で姜恒に刺客を差し向けたのは他ならぬ汁琮だとわかった。逆に太子霊は両国が対峙し、双方が国の命運を賭けていた時でも、姜恒を殺そうとは考えなかった。

「きっとたくさん話があるんじゃないかな。」姜恒はそう締めくくった。

今回の済州来訪で色々な問題を一気に解決できる予感がした。まあもし解決しなかったら、耿曙と二人、この天下で本当に落ち着ける場所を探そう。この世の桃源を探して暮らすのだ。

自分の旅は鄭から始まった。ひょっとしたら鄭で終わるのかもしれない。見えない力と運命の手に導かれて千の山、万の水を乗り越え、最後に再び済州城に戻って来た。

 

「申し訳ありませんが、」孫英が馬車を停めて言った。「鄭軍は大戦でお二人の顔を覚えたかもしれません。宮に入る時には顔をお見せになりませんようお願いします。」

「誰かが復讐しに来るからって?」耿曙は不真面目な調子で尋ねた。

「勝敗は兵家の常とはいえ、生きていた人を失えば、捨て置けぬ者はいるものです。

危険は冒せませんので。」孫英の言葉を聞いた姜恒は上げようとしていた窓の帳を

下ろしておくことにした。

 

「俺の記憶だと確かあの戦争を仕掛けて来たのは鄭国の方じゃなかったか?」耿曙が言う。

「そうです。ですが戦いに敗れれば、受け入れがたい思いがあるものでは?」

「武を習う者は、戦場では何が起きてもおかしくないと知るべきだ。負けるのが嫌なら戦うな。」

孫英は笑った。「淼殿下にそういわれては誰も戦いに行きたがらないでしょうな。」

姜恒は何も言わずに黙って聞いていた。いつの時代も勝てば官軍だ。前回は鄭国が負けた。しかも徹底的に負けた。もしも太子霊が勝っていたなら、雍都は鄭国の手中に落ち、汁琮、姜太后、汁綾は捕らえられて済州に送られていただろう。状況は違っていた。

「着きました。どうぞ。」孫英が恭しく言った。

 

数年前初めて来たときと比べて、済州はより重苦しい感じがした。夏の夜、雲が重く垂れこめて、これ以上ない蒸し暑さだ。姜恒は馬車の中で汗だくになっていた。宮の中は寂寞かつ荒涼感に満ちていた。

「姜先生の寝室は片付けました。以前と同じ部屋です。淼殿下は……。」

「一緒でいい。」

「案内はいらないよ。」鄭宮内の場所はよく覚えていた。約半年暮らしたのだ。目を瞑っても歩けるくらいで、孫英の付き添いはいらなかった。「私について来てね。」姜恒は耿曙に笑顔を見せた。耿曙はふざけていないで、まず王に会いに行こうと伝えた。

「俺も彼には言いたいことがある。趙霊とはちゃんと話しことがなかったからな。彼はどんな人間だ?」

前々回、耿曙は趙霊の顔を見ることもなく、関内で捕まり、車裂きにされそうになった。

前回、彼らは落雁城内で顔を合わせたが、敵同士なので当然話などしなかった。

どんな運命のめぐりあわせか、雍国の宿敵と因縁の再会をするのだが、それまでのことは水に流して暫し手を組んで汁琮に対抗することになる。

 

「彼はね、気さくな人。」姜恒は考えながら言った。「謙虚で、少なくとも謙虚に見せていた。」姜恒は耿曙の手を牽いた。二人は手を繋いで、前廊を抜けた。その時姜恒はこの寂寥感がどこから来るものかわかった。鄭宮は人が減っていた。以前いた侍衛も六割近くに減っているのではないか。

「書房付近に誰も巡回していないなんて。」姜恒は不思議に思った。

「金がないからです。」書房から太子霊の声が聞えた。「お入り下さい。」

姜恒は扉の外で立ち止まったが、耿曙に引っ張られて書房に入った。太子霊は四か月前に王位を継承し、金糸で刺繍された紫の衣をまとっていた。服だけでなく、封王用の簡易な冠もつけていた。数年前より少し老けて見え、もみあげに白髪が混じっていた。

眼差しは変わらず生き生きと明るく、耿曙と姜恒が来たのを見ると、どうぞという仕草をした。

 

「先生は鄭国にとってはよそ者ではないと思っていますよ。」太子霊の温和で礼儀正しい態度は昔のままだった。「聶将軍もどうぞごゆるりと。家にいると思って下さい。」

耿曙は頷いて座った。姜恒がとてもくつろいでいるのに気づいた。雍宮にいた時より、力が抜けている。太子霊への挨拶さえ省いている。まるで長年の知己に会ったかのようだ。

姜恒と太子霊が友だった時期もあったのだ。そして敵になった。敵と友、彼らの関係は変化したが、月日が流れても変わらないことがある。二人の間で通じ合うものがあることだ。姜恒は汁琮とも趙霊とも敵になったり味方になったりした。どちらの時も通じ合う何かがあった。そうした暗黙のうちの理解がある限り、姜恒は楽しく感じられた。

 

「どうしてお金がないのですか?」姜恒は遠慮なく、自分でお茶を淹れに行った。太子霊の近くには世話係がいなかったからだ。

「戦争で使い果たしたのか。」耿曙が冷ややかに言った。

「その通り。三万人近くが死に、慰労金が必要だった。彼らの妻子を養わねばならない。それに今年は不作で収入も減った。」

姜恒は耿曙に茶を渡した。鄭茶は口当たりは苦いが、後味にほんのりと甘みが残る。彼はしばし太子霊の様子を観察した。痩せたし憔悴している。腕には服喪の為の麻布をかけている。

「暑くはありませんか?夏の暑い盛りにそんなにいっぱいお召しでは。」

耿曙:「……。」

鄭都はもともと蒸し暑い。姜恒は単衣短袴を着てくればよかったと思っていたが、太子霊は王袍を着ていてもっと暑いだろうと思った。(もう王様なのにいつまで太子呼ばわり?)

「あなた方のせいじゃないか?」太子霊はあきれたように言う。「今夜あたり来るだろうと思って面倒だから先に着ておいたのだ。封王が朝臣に面会するのに袍を着ないで迎えるわけにはいかないだろう?」姜恒は大笑いした。太子霊は続けた。「この王袍ってやつをまだ着慣れてなくてね。毎日上朝する時だけでもう限界だ。ちょっと失礼するよ。」

太子霊は屏風の影に服を着替えに行った。最初は色々話したいと思っていた耿曙も、こんな風にされて、口を開く気を失った。姜恒が「気さくな人」と言った意味がわかった。

 

「まだ聶将軍に謝っていなかったな。」太子霊は屏風の影で服を脱いだようで影が映っていた。耿曙は答えた。「結構だ。両国は戦っていた。敵に情けをかければ、味方を苦しめることにつながる。理解している。」

姜恒はお茶を飲みながら、太子霊の机の上にあった文書をめくって見た。被災者支援の件、鄭王逝去後の国事の引継ぎ、それと朝臣からの奏章の山だ。

「……それでもやはり謝りたい。」太子霊は帯をまきながら出て来た。薄手の麻衣一着をまとい、均整の取れた文人らしい体と白皙の肌が見え隠れしていた。太子霊は姜恒に少しどくよう合図して、王卓の前に跪き、耿曙に向かって真剣に言った。「あの時二人が兄弟だと知っていれば、あなたを殺そうとはしなかった。実のところ、姜恒が雍国の手中に落ちたと知って、最初はあなたと交換しようと考えたのだ。だが、彼が戻ってきた以上、あなたの父は私の父を殺したのだから、私は仇を取らないわけにはいかなかった。」

「当然だ。俺でもそうしただろう。」耿曙は答えた。

太子霊は耿曙に一拝した。「聶将軍にはご理解いただけたと信じることにする。」

「それでこれからどうする?」

「これからだが、我らの間には依然として血の仇は存在する。だが今は共通の敵がいる。仇や恨みで物が見えなくなってはならない。まずは大局を重んじなければならない。仇の方は、この件が解決してから、また考えてみても遅くはない。」

耿曙はうん、と頷いた。太子霊は姜恒を言い訳に使ったのかもしれないし、耿曙としてはまだ信じ切れていない。だが今の話については疑わない。一世代前の血の仇は存在し続け、この悲劇は二人の肩にのしかかり続けるが、いつかは決着がつくだろう。それまでの間、しばらくは協力し合うことができる。耿曙としては自分の立場ははっきりさせた。姜恒も同じ気持ちのようだ。

 

「朝政文書がたまっていますね。門客たちはみなどこへ行ったんですか?あなたを手伝う人はいないのですか?」姜恒は文書をめくりながら言った。

「あなた方の国に殺されたよ。私を守って潼関を越えさせようとしてね。あの夜のことは一生忘れないだろう。」

姜恒:「……。」

鄭軍は敗走し、落雁から逃げ帰る後ろを曾宇に追撃された。太子霊の出征についてきた門客は多少の武芸の心得があり、危険な状況下、追撃してきた雍軍の先鋒を押さえて戦死した。

門客たちは皆空身で重装備の騎兵に対峙した。例え武芸がもっと強かったとしても屠殺の難を逃れることはできなかっただろう。終いには太子霊の車の車軸は赤黒く染まった。六百いた門客は、帰国時には四十七人になっていた。国に戻った太子霊は門客の遺体を回収し、遺族に多額の慰謝料を払った。そして生き残った者たちは故郷へと帰らせた。

太子霊は簡単に説明したが、姜恒にはその場の悲惨さが想像できた。雪夜の潼関で、孫英に守られながら太子霊は生還した。その後ろには五百余りの遺体が大雪の上に散らばっている。矢を受けた者もいれば、雍軍の長刀で胸を突かれた者もいるだろう。そうして彼らは他国で死んだのだ。

 

「だが後悔はしていない。そうした戦いはあるものだ。死んだのが宗廟ではなく潼関だったということだ。」

生きて戻ってきた太子霊は梁国を救わなかった。そして今汁琮が最大の危機をもたらそうとしている。その内彼はやって来る。鄭国は落雁で惨敗した後、力を失った。汁琮が崤関を越えてやってきたら、鄭国は全城あげて、命の限り戦わなければ、亡国以外の未来はない。

「私が見たところ、今の状況もそう変わっていないようですね。気を付けなければ、あなたは宗廟で死ぬことになる。」姜恒は奏折をめくりながら言った。

「自分の家で死ねる方が、潼関で死ぬよりずっといい。」太子霊が答えた。

 

「どうした?」眉をひそめた姜恒に耿曙が尋ねた。

「すごく大変そうだ。」一度の大戦が鄭国にもたらした問題がここまで深刻だとは思わなかった。太子霊は二人に何も隠すつもりはないようだ。「車将軍が犠牲になった。今年二月に父王が薨去され、国内の公卿はこの戦争をとても不満に思っている。」

「そうらしいですね。」姜恒は耿曙の隣に座って、群臣からの鄭王霊を攻撃する文章を読み始めた。(おお、ようやく王霊になった!)

「軍事費は全くない。龍于将軍だけが私の味方だ。今は崤関を守っている。」

「法を変えてやったらどうだ?変法はお手の物だろう?」耿曙が言う。

「事態を悪化させるだけだよ。」姜恒は苦笑いした。鄭国は雍国と根本的に違っている。雍国は汁家独裁だ。それでも変法を進めるには多方面から抵抗を受けた。太子霊の朝廷は利害が錯綜している上に、敗戦によって王の威厳は地の底にまで落ちた。変法を強攻すれば、反発を呼ぶだけだ。

「姜恒、私に替わって政務処理をしてもらえるだろうか?夜も更けた。まずは休んでくれ。職務については明日細かく打ち合わせよう。」

「わかりました。死んだ馬を診る獣医の役目しかできませんが。」

「先は長い。あなた達に相談したいことはまだあるが、急がず、ゆっくりやって行こう。」

耿曙は姜恒のために奏巻を集めて、眉をあげ、行くぞ、帰って寝ようと合図した。

ちょうど姜恒が退室の挨拶をしようとした時、太子霊はふと思い出して言った。

「そうだ、以前、君に仕えさせた趙起を覚えているかい?」

勿論覚えていた。趙起のことは忘れたことがなかった。趙起は自分が一番孤独だった時期に側にいてくれた。短い間ではあったが、家族の様に思っていた。

「私も彼に会いたいと思っていたところです。」姜恒は、もしまだ宮にいるなら自分のところに来させてもらえないかと言おうとした。だが太子霊は言った。「不思議なことに、君が出て行ってから、趙起もいなくなったんだ。」

「え?」

「私は人を遣ってあちこち探させたんだ。無断で出て行ったのかと思ったからなのだが、結果、潯西で彼を見つけることができた。更におかしいのは、彼はあの時のことを全く覚えていなかったのだ。自分は皇陵を離れたことはないし、国都に行ったこともないと言い張るのだよ……気がふれたかのようだった。」

姜恒:「……。」

「私は彼に王宮に戻ってくることを強要しなかった。もし君が……。」

「結構だ。天意だろう。強制しなくていい。」耿曙には事情がだいたい読めたようだった。姜恒の方はわけがわからなかった。そんなに全て忘れてしまうなんて趙起は高熱でも出したのだろうか?だが、太子霊がそう決めたのなら、自分も無理強いはしまいと考えた。

(師父が代国で耿曙に化けた時、姜恒は薬の匂いで感づいたのに、趙起は匂わなかったのかな?それに確か、流花と相談して趙起は「女性がだめなら自分ならどうです?」と言ってたけど、OKしてたら色々と大丈夫だったのか。)

 

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 156-160

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第156章 訴悲歌:

 

夜が更けた。郢軍は有史以来最も厳重な守備を固め、雍軍が処刑の前に囚人を救いに来るのを防いだ。「最後に一言君に聞きたい。淼殿下。」屈分と項余が大牢に来て耿曙と向き合った。

項余が真剣な表情で言った。「太子殿下はこの度のことに心を痛め、最後に君に選択の余地を与えることをお決めになった。君は自分の死に方を選んでいい。」

屈分は項余を見た。彼はそんな命令を聞いていない。だが別にいい。結局は死ぬのだ。どんな死に方だって別に関係ないだろう。

 

「俺は聶海だ。」耿曙は淡々と言った。牢の壁に背を持たれて座り、死牢の外の夜空を眺めていた。項余は尋ねた。「言ってくれ。どんな死に方がいい?」

「焼き殺してくれ。」耿曙は考えて、前に項余が指示した通りに答えた。

屈分が言った。「だが焼死は相当苦しいだろうに。」

「俺は火が好きだ。俺を焼き殺す時には南を向かせてくれ。南を見ていたい。」

屈分は疑わしそうに項余を見たが、項余は頷いて、その通りにしようと示した。

「彼と酒を酌み交わしたい。」項余は屈分に言った。「皆出て行ってくれ。明日私は刑を見ないつもりだ。彼が死ぬのを見たくない。」

 

屈分は考えてみたが、二人だけでいさせたからといってどうなるものか?穴でも掘って逃げるとか?項余がこの責任を負いたくないのはよくわかる。まあいい。功労は全て自分のものになるのだから。そこで大牢を出る時、侍衛長に言いつけた。「守りを固めて、例の鷹には気をつけろ。」五千人近くが牢の外を囲んでいる。人壁ができるほどだ。夜通し強弩から手を離さないようにしてもある。例え項余が奴を逃がそうとしたところで、翼をつけても飛ぶこともできまい。「奴は火刑に架けろ。」屈分が命じた。

郢軍は銅柱と鉄槌をたずさえて、飛星街道の中央に集まった。一つ離れた街道には雍軍の防衛線がある。あたりの家屋は既に全て空っぽになっていて、千歩もの空き地となっていた。

 

郢軍は街道の真ん中に銅柱を打ち据えた。鉄槌が音を立てる中、遠方から歌声が聞こえて来た。

 

「豈に衣無しと曰い、なんじと裳を同じうせんや……。」

 

それは城北の雍軍大営から、誰からともなく上がった歌声だった。月が輪をかけて輝くこの夜、八万の雍人は眠れぬ夜を過ごし、歌声が上がると、すぐに一から十、十から百と増えて、安陽の月夜に響き渡った。

 

「……王于きて師を興こさば、 我が甲兵を修め、なんじと偕に行かん……。」

 

郢軍兵士はその歌声を聞いて、一瞬動作を止めた。

「早くしろ!」監督兵が催促した。

兵たちは薪を一つ一つ銅柱の下に積んでいき、小さな山を作ると、上から油をかけた。

 

 

城外では、姜恒と界圭が静かに馬から降りた。

 

「……豈に衣無しと曰い、なんじと裳を同じうせんや……」

 

界圭は手を伸ばして姜恒を押さえ、二人は首を伸ばして城内を見ようとした。郢軍部隊は城内に集中していて、南門の守備は空虚になっていた。いるのは城を出て行く民だけだ。

「誰かが歌を歌っていますね。雍人です。」界圭の言葉に姜恒は突然、心中に不吉な予感を覚えた。

 

「……王于きて師を興こさば、 我が甲兵を修め、なんじと偕に行かん……。」

 

二人は城内の遠方から届く歌声を聞いた。それは八万の人たちが月夜に各々そっと吟じた歌だった。皆の悲痛な思いが込もった歌が一つになって川の様に流れをつくり、天地の間を震わす音量となっていた。

 

「私が左のあれを狙うから、あなたは右のあれを狙って。」姜恒は城壁の高所から二人の衛兵に狙いを定め、界圭に向かって小声で言った。

姜恒は鉤つき縄を持って何度か回した。だが界圭はまっすぐ城壁に飛び上がると、何歩か動いて城楼に飛び移った。二人の兵士が声もなく倒れた。界圭は振り返って姜恒に向かって口笛を吹いた。姜恒は鉤つき縄を放り出して界圭に引っ張り上げてもらうことにした。

二人は郢軍大営を望んだ。大牢の外は鉄壁の守りを固められていた。

 

項余が大牢を出て来た。屈分の親兵は彼を一目見てから、牢の中を見た。項余は振り返って、牢獄の入り口に意味深長な一瞥を投げた。親兵は先ず中に入って確認したが、耿曙が中にいたので、頭を上げて行って良しと示した。

項余が何も言わずに馬に乗って、郢軍大営を出ようとした時、雍軍の歌声が聞こえて来た。

 

「豈に衣無しと曰い、なんじと裳を同じうせんや……。」

 

項余はゆっくりと馬を走らせて町の中に進んで行き、また顔を向けて遠くを見た。

 

「……王于きて師を興こさば、 我が甲兵を修め、なんじと偕に行かん……。」

 

それは雍人が耿曙に送った別れの歌だった。彼に向けての、最後の、厳粛なる誓いの言葉でもあった。項余はその歌声を聞くと、ゆっくりと大営を離れ、城南に向かって走って行った。

 

姜恒と界圭は城楼高所から遠方を眺めていた。

姜恒には郢軍の計画が読めた。遠方の河の上に一万を超える兵を駐屯させている。打ち込んだ木の杭を抜けば、黄河の水が入って安陽は冠水する。

「明日彼らは黄河の流れを変えて城を水攻めにするつもりだ。はやく武英公主に手紙を送って知らせないと。」

「まずはお兄上を救ってそれから話しましょう。」界圭が言った。

 

郢軍はほぼ水軍だ。洪水と氾濫が起きたらすぐに乗船し、水に慣れていない雍人が何もできずにいるところに矢を射るのだろう。

よく考えられた計画だ。恐れ知らずの屈分は賭けたのだ。雍軍はきっと全軍が城内に留まり、王子殿下の処刑を直に見て、悲憤高まったところで宣戦するつもりだろうと。そこへ洪水が押し寄せる!ザブン!これで誰もどこへも行かれない!

屈分は興奮して体が震えてきた。明日は彼の名が天下に鳴り響く日となる。汁淼を捕らえ、汁琮を溺死させる。天下の名将、私以外に誰がいる?!

 

 

姜恒は海東青が旋回する方向を注視していた。二人だけで、五千人の防衛を突破するのは不可能だ。屈分はきっとすごく警戒している。だれかが彼らの注意を引かなくては。汁綾が郢軍陣地を攻撃するのを待って、それに乗じて界圭を紛れ込ませれば大牢に近づける。

姜恒は海東青を呼び戻そうとした。汁綾に知らせ、彼女の助けを求めるためだ。何度か口笛を吹いたが、海東青は少し近づいても降りてこようとしない。だがあまりあからさまに口笛を吹くわけにはいかない。付近の守備兵に見つかるかもしれないからだ。にわかに焦りがこみ上げて来た。

 

「誰か来ました。」界圭が言った。

月光の下、誰かが騎馬で疾走し、城南大門までやって来た。郢軍将校の服装をしている。項余が馬を操り、片手を顔に伸ばして、顔の変装を取った。現れたのは耿曙の姿だった。海東青がすぐに降りて来て彼の肩に停まった。

 

「風羽!」高所から声が聞えてきた。耿曙は信じられない思いで頭を上げた。月光が彼の顔を照らした。城楼から飛び降りた姜恒は瞬間体がかたまった。

耿曙が馬から飛び降り、前に何歩か進んだ。姜恒は泣きそうになりながら這い上がって耿曙に向かって行った。

 

「天地と我は同じ悲しみを持ち、万古と我は同じ仇を―――。」

 

雍軍の戦歌の声は更なる歌声を呼び、後に続く。悲憤の情を尽くし、未だかつてない憤怒の思いが軍内に絶えることなく蔓延して行った。歌を禁じる勅令が出てからも兵たちの激情を抑えることはできなかった。

 

「……死生の契りは広く、なんじと成説し、」

 

歌声の響く中、姜恒は城壁の階段を駆け下り、一切を顧みず、耿曙に向かって身を投げた。「大丈夫だ。恒児、俺はもう出て来られたから……。」

姜恒は耿曙の肩の前に顔をうずめて号泣した。耿曙はしっかりと彼を抱きしめ、顔を上げて城内を見やった。

「さあ行きますよ。感極まってる場合じゃない!逃げてからまた泣きなさい!私が汁綾に手紙を出します!」界圭が言った。

耿曙は姜恒ごと城楼に飛び上がった。そして空いている方の手で鉤付き縄を城壁にひっかけると、飛ぶ鳥の様にふわりと滑り降りて夜の闇に入って行った。

 

「なんじの手を執り……なんじと共に老いん……。」

耿曙は姜恒を抱いて馬に乗ると、自分の前に座らせた。二人は共に騎馬し、界圭は既に城壁を離れて、汁綾へ手紙を届けに行った。耿曙は壁の向こうにある千年の王都安陽を眺望した。

再開後、二人はどちらも何も言わず、静かに壁の向こうから伝わって来る歌声を聞いていた。

「なんじの手を執り、なんじと共に老いん……。」

「なんじの手を執り、なんじと共に老いん……。」

まるで二人を見送ったかのように、歌声が徐々に止まった。耿曙は馬の鼻を前に向け、姜恒を連れて、東方の官道に沿って去って行った。

 

ーーー

空が明るくなってきた。屈分は自ら大牢を訪れた。最後の重要な段階だ。ここで逃げられるわけにはいかない。親衛兵に耿曙を牢から連れ出させた。彼は全身傷だらけで、敗れた衣から見える白皙の胸は血痕だらけだった。髪は乱れ、三日間飲食を断たれ、虫の息であった。

 

屈分は自ら囚人を検分した。「王子、いい人生でしたな。お父上が琴鳴天下の変を起こした日に、あなたの最後はこうなると決まっていたのです。激烈な一幕と、これ程多くの人からの送別、生きてきたかいがありましたな。」

 

耿曙は何も答えず、目を閉じていた。親衛兵が彼の首に鉄枷をつけた。耿曙は裸足で足枷をジャラジャラ言わせながら、飛星街道前の銅柱にはりつけにされた。雍軍が総出となると、すぐに四方八方、王宮の長城、屋根、街道内、全てが双方の軍隊で埋め尽くされた。話をする者はなく、大城市安陽は死の城となったかのようだった。全ての人が飛星街道中央の火刑の様子をじっと見守っていた。銅柱にはりつけにされた耿曙は両手を垂らしてうなだれていた。

「おい、」耿曙は下にいた衛兵に冷静な口調で言った。「俺に南方を向かせろ。」

衛兵は前に進んで指示を仰ぎ、回答を得ると、ゆっくり銅柱を回した。

 

この時汁琮は王宮の高台から飛星街道中央を眺めていた。これで軍を抑えられなくなり、混戦となった時、こちらにどのくらい勝ち目があるだろうか。少なくとも七割はある。

時々彼は思った。郢国人は自信過剰で本当に愚かだ。水軍出身の夷人が、どうやって雍軍と戦うつもりなのだ?だが耿曙が火刑されようと柱に縛り付けられている様子を見た時、汁琮の心には幾分か辛く名残惜しい気持ちが残った。

 

「雍王!」屈分が叫んだ。「城を出て行け。そうすれば彼の命は奪わぬ!」

汁琮はそれを聞いて思った。責めるなら姜恒を責めろ。つく人間を間違えたのだ。天下を征服したのちには、耿曙を一国の王に追封しようと思っていたのに、こうして父子は対立した。国内にこの話をどう伝えようか、各族に何というかはよく考えてある。大雍の全国、上下あげて怒りの炎を焚きつけ、煽動すれば、彼らは中原全ての土地を焼き尽くすだろう。彼は傍らに座って松の実を手に取って皮をむき、今から始まる死刑を気を静めて待った。

 

郢軍が火刑のための油をかけた。曾宇は目を真っ赤にして、衛兵が銅柱を動かした時には、ついに耐えられずに咆哮した。「こちらを向かせろ!我らの王子だ!我らの上将軍だぞ!」雍軍は今にも動乱となりそうだった。だが耿曙は明るい声を出した。

「焦るな!誰だって死ぬのだ!遅かれ、早かれ、誰もが死ぬ!何を急ぐことがある?」

 

耿曙の声はいつもと変わっており、ずいぶんしゃがれていた。同時に双眸を見開いて、百歩離れたところにいて、命令を下そうとしている屈分に嗜虐的な目線を送った。屈分の顔は見えないが、どこにいるかは知っていた。

屈分は冷笑した。「死が迫っているというのに、冷静な物言いだ。点火しろ。焼き殺せ。」

命令を受けた兵が火を高く掲げ、十八万の兵士が見守る中、馬を走らせてきた。手に持った火からは、黒い煙が北風に乗って、延々と南方の大地に向かってたなびいた。

百歩、五十歩、三十歩、十歩……。

 

 

―――

第157章 風に乗った烟:

 

そこから千里離れた、江州。

郢王は体を動かしていた。今日の修練の効果は最高だ。半年たって、姜恒の言う通り、燕の様に身軽になった。露水を飲み終え、寝殿に戻る時、太子安が手紙を持って急ぎやって来た。

「父王、安陽から手紙が来ました。」太子安が言った。

「何と言ってきた?」熊耒は気楽な調子で、自分で茶をついた。

「汁淼を捕らえ、姜恒は逃げました。項余が逃がしたのではないかと私は思います。」

「まあいい。」熊耒が言った。「生かしてやろう。たかが文人だ。何ができる?汁淼さえ殺せればいい。」

太子安が答えた。「安陽はもう手に入ります。項余は思う所があるようですが、屈分がよくやっています。」

「私が思うに、項余があの若者を見る目つきがあやしい。帰ったら処分しないとな。」熊耒は太子安の近くを通り過ぎながら、軽い調子で言った。

太子安は二通の手紙を読んで、屈分が一挙に安陽を奪い取る報告を待つことにした。退席を告げようとした時、羋羅が急いでやって来た。

 

「王陛下、殿下。」羋羅が心配そうに声をかけた。

「正午前に政治の話はするな。」郢王は息子に修行の邪魔をされ、不満に思ったところだった。「お前たちは出て行って話せ。」

羋羅は顔を青ざめさせ、声を低めて続けた。「王陛下、殿下、重要なお話なのです。そうでなければ、属下はこんな時間には……。」

 

太子安はどきりとした。正殿内に、郢王熊耒と太子安が端座した。侍衛が白布にくるまれた遺体を持って来た。羋羅が言った。「項家の執事が、蔵酒を置く地下室で見つけたそうです。地下室には風が通らず、油布に包まれて木箱に入れられ、釘が打ってあったそうで……。」

羋羅は声を震わせながら、白布を開き、恐ろしげな項余の顔を露出させた。太子安は顔が引きつり、郢王はすぐに顔をそむけた。「これこれこれ……これは誰だ?項余じゃないのか?いったいどういうことだ?!」

 

羋羅は一通の手紙を持ち、震える声で言った。「項夫人が、遺体の手の中にこの手紙を見つけました。あて名があります……王陛下並びに太子殿下……親展と。」

太子安は瞬時に背が冷や汗でいっぱいになった。立ち上がり、おっかなびっくり少し近づいて、死者の顔をよく見てみたが、項余に間違いなかった。遺体の保存状態はよく、全く腐敗が進んでいない。何か薬物で処理したのかもしれない。しかし、開けてみた後では、何か甘い香りがわずかに漂ってくる。

 

「手紙に触るな。」熊耒は項余の鼻の下の血痕を見て、中毒死だと分かると、羋羅に言いつけた。「読め、お前が読むんだ。」羋羅は恐る恐る手紙を開け、震える声で、読み上げた。

「郢王熊耒、太子熊安、……ご挨拶申し上げます……ごきげんよう。」

羋羅は恐怖に満ちた眼差しで太子安に目を向け、それ以上読むのを止めた。太子安がせかすと、羋羅が続けた。

 

「私は寂寂無名の輩です。生前には刺客の誉れを有すも、天の浮雲の如く早々に散りました。私が誰かは追求しなくていいでしょう。無名の村に住み、かわいがっていた幼弟もまた無名の人間……。お二人に死を賜ったようなもの。郢、代両国の軍人の手により死にました。昔年、項余が政戦から凱旋する時に立ち寄った滄山のふもとの楓林にて百人隊に屠殺され死んだのです……。」

項余の顔はねじ曲がり、死ぬ前に耐え難い苦痛を味わったのは明らかだった。

 

―――

千里離れたところでは炎が立ち上っていた。

耿曙は静寂の中、烈火に吞まれていった。火焔が彼の双脚に蔓の様に伸びていき、ぼろぼろの黒い武袍を焼いた。脚が黒く焦げた跡、腿、腰が燃える。

 

彼は焼き殺される人のあげる苦痛の叫びをあげず、静かに目の前の光景を見守っていた。大勢の人々の表情、まなざしを。背後にいる人達(雍)の眼差しが悲痛に満ちているのを彼は感じていた。目の前にいる人達(郢)でさえ、同情心を感じざるを得なかった。

 

屈分がやってきた。馬に乗って近づき、思った。いったいどういうことだ。こんな風に焼かれながら、苦痛の叫び声もあげないとは?彼は耿曙の体が焼き尽くされる様子を見て寒気を感じた。腿部も焼けて真っ黒に焦げている。音を立てて鮮血が溢れ、火焔に噴き出して、青い煙が立ち上った。耿曙の唇が動いた。彼をあざ笑っているかのように。

痛みを感じないのか?屈分は疑惑を感じた。なぜ助けを求めない?

 

すぐに火焔は耿曙の腰部に達し、横に垂らした二本の腕を呑みこんだ。耿曙が左手を上げて、火焔に置いた。何かをつまみ上げようとしているように、焼かれるに任せ、持ち上げた。炎が彼の左手に移ると、偽装が燃え尽き、はがれ出た左手は漆黒の金属的な質感だった。腕は黒光りし、手から腕に蔓延した鱗が肩からむき出しになった左胸の心臓の位置まで達していた。彼の左半身は鱗で満たされ、半人半妖の邪魅妖魔のようだった。

 

何が起きたかわからない郢軍がざわざわしだした。耿曙は屈分に笑いかけた。眉をあげ、炎の中で何か一言つぶやいた。屈分がまだ理解できずにいるうちに、耿曙の左手は炎に焼かれて緑色の血液を爆出させた。肩からも血が飛び散り、炎に焼かれて、青い煙を出し、それは風に乗って全城に蔓延して行った。

 

烈火が焼き移り、耿曙の首から顔が火に包まれて、顔から変装が剥がれ落ちた。屈分はそこに知らない男の顔を見た!

これは誰だ?屈分は一瞬見えたがはっきりわからない。すぐに顔が炎に焼かれて炭となり、頭髪も焼き尽くされ、顔が漆黒の塊となって骸骨のような形態を表した。閉じた双眸もすぐに焼き尽くされた。全身の血液が沸騰し、勢いよく溢れ出た。左手の青緑色の鮮血は薪にかかって、立ち上った烟には甘い香りがした。屈分は知らず知らず咳き込んだ。鼻孔から血液が垂れて来た。彼は手に取ってその血を見た。

 

雍軍は何が起きているのかまだわからなかったが、一瞬後に、街道にいた郢軍に爆発のような衝撃が走り、先を争うように逃げて行った。

屈分は我にかえって、火刑が行われたところから急いで離れようとしたが、何歩か歩いたところで、血を吐き、その場に倒れた。彼は自分の吐いた血の中でもがき、這い出ようとした。

 

はりつけにされ火刑を受けた人の目の前には一片の赤い血が残り、見開いた目と、口角には残忍な笑顔が現れているようだった。その足元から黄河の岸に至るまでの十万の郢兵は、郢国大将軍屈分と同じように咳き込み、その声は耳を覆うほどだった。十万人、十万人もの兵が、麦の波のように次々と倒れ、辺り一帯には青い煙が蔓延した。

火が焼き尽くした後には黒く焦げた炭となった姿だけが残った。

 

背後にいた雍軍も、次々届いて来る咳血の声を聞き、混乱し始めた。

汁琮は何かがおかしいと思ったが、何かはわからなかった。郢軍は突如大混乱に陥った。雍軍は本能的に王宮の方に向かって逃げて来た。

曾宇が咆哮した。「陛下!早くお逃げください。誰かが毒をまきました!」

汁琮はすぐに色を変えて王宮に入り込んで扉を閉じた。「撤退だ!城外に撤退する!」

 

雍軍は今風上にいる。逃げるなら今だ。煙はすぐに拡散するだろう。汁琮はもう安陽城を顧みなかった。部下の命を守らなければ。十万の郢軍は城南で全滅していた。

雍軍は一片の混乱の後、すぐに秩序を取り戻した。後方から仲間を連れ出し、主力部隊を城外に撤退させて保護した。そして、安陽の西門と、北門を開け放ち、王旗さえ拾わぬままに慌てて城を逃げ出て行った。

 

風向きが変わった。

松華は裸足で安陽城内を歩き、飛星街道をまっすぐ歩いてきた。城の中は静まり返り、きこえてくるのは風の音だけだ。屋根の上は鳥の死骸だらけで、家畜の声も聞こえない。

彼女の前にあるのは壮観ともいえる光景だ。十一万人、十一万人、誰一人として逃げられなかった。それが安陽の広々とした街道を埋め尽くしていた。建物の内外や巷中に倒れた郢軍兵士の鼻や口からは血がしたたり落ち、城南に向かって倒れている。彼らの船が停泊しているところに向かって這おうとしていたようだ。

 

桟橋の上も、甲板の上も、船の上も死体だらけで、帆が開きかけ、舵を取ろうとして倒れた者の前にも鮮血が塊となっていた。

火刑の後で、逃げ切れなかった雍軍が王城門外を埋めていた。兵士たちは武器を握りしめたまま死んでいた。火刑の後に起きた強風の中の爆発は、天の怒りと罰のようだった。

この世に残った痕跡である、死体の分布する方向を見れば、銅柱を中央に、風力の及ばなかった北方の被害は少なく、彗星の尾のような形に安陽城南に大半は拡散したようだった。

 

松華は銅柱の下に立って、燃え尽き炭となった死体を見上げた。

死体はどくろの完璧な形態を保持していた。左手は消失し、頭を垂れ、漆黒の眼窩には二つの空洞があるだけで、松華を見ているようにも見える。

一陣の風が吹き起り、死体はガタンと音を立てて、崩れ落ち、灰と化して、狂風に巻き上げられ天に昇って行った。

松華は軽く拝礼し、小さな木箱を取り出して遺骨を納めた。そして黄河の岸辺に止めてあった船に乗り、中原の大地を去って行った。

風はどんどん強くなり、空一面に暗雲が広がり、小雨が降りだした。雨はざあざあと降り続き、安陽の街道を洗い流し、青石板の路面に付いた血が小渓となって低地に向かって流れて行った。

 

 

―――

千里離れた、郢都江州。

朝露が暖かな日差しの眩しい光をはねかえしている。王宮内では飼っている金糸雀の声もやみ、死の静寂となっていた。正殿では項余の死体が黒い水たまりと化していた。太子安は双目を見開いたまま王卓の傍らに倒れ、息はなかった。

 

郢王熊耒は七竅から血を流し、胸の前に垂らした白髭も鮮血にまみれていた。唇は震え、息は微弱だった。羋羅は柱にもたれて倒れていた。目を見開き、既に死んでから時間がたっていたが、手には一通の手紙を持っていた。

 

【本来は貴殿ら父子が反目するようそそのかし、基業を挫き、大王宮が奸佞によって崩壊していくのを親眼で見たいと思っていました。;万年椿木も焚焼し尽くす。舎弟が受けた借りを返させようとしましたが、無辜の民を犠牲にするのは余りにも無益。】

 

【わが命も既に長くはなく、三年を残すのみとなりました。王宮に潜入したのはそのためです。大変楽しませていただき、それに関しては感謝申し上げます。】

【我が一生にはあまり時が残されておらず、古き友とまた会えれば、この人生に遺憾はありません。】

 

【ともかく、この数か月楽しく過ごさせていただき、後は気分よく事に及べます。貴国十万兵士の命をいただき、貴殿父子二人とともに連れて行きます。貴大郢はこれより、二度と征戦の力を持つことはなく、ただ他国に占領され、宗廟を焼かれ、大切にしていた物を奪われ、貴殿のご遺体は暴かれて枯骨が鞭うたれることでしょう。】

 

【それではこれにて。鄭重敬上】

落款:刺客羅宣

 

(師父は最後の時間を恒児と一緒に過ごしたくて呼び寄せたんだろうな。郢王熊耒は体を鍛えたおかげで、太子や羋羅が死んだ後もなかなか死なないという芸の細かさ。)

 

 

 

―――

第158章 家路につく:

 

黄河の水は荒れ狂ったように流れ、空では稲妻が光り、地に突き刺さる。

耿曙と姜恒は全身びしょぬれになって驛駅に飛び込んだ。

姜恒は心も体も疲れ果てていた。安陽で何が起きたのか耿曙に尋ねる気にもならなかった。項余がどうやって彼を逃がしたのか、雍軍と郢軍が大戦に突入したのか。それもどうでもいい。彼の人生で大事なことは一つだけだ。

 

今までの色々な出来事は、汁琮の無情な裏切りによって全て完全に終わった。彼がやってきたことの全ては水の泡となった。だけど幸いなことに耿曙は変わらずここにいる。ずっと一緒にいて離れることはない。

姜恒は息を切らして長椅子に座り込んだ。やるせない表情だ。耿曙は黒剣を背負ったままで、ここまでの道のり、警戒を解こうとはしなかった。

「ここも安全ではない。すぐに離れなければ。一晩寝たら出て行こう。」耿曙が言った。「疲れたよ、兄さん。すごく疲れた。」

「少し休んだらよくなるよ、恒児。昔潯東を出て洛陽に向かった時に比べたら、あれより大変なことはないさ、そうだろう?」

姜恒は少し麻痺したような表情で頷いた。耿曙は窓辺に立って、天地をひっくり返したような雨の様子を見た。「この後どこに行こうか?」姜恒はすっかり途方に暮れていた。

「お前はどこに行きたいんだ?行きたいところならどこへでも一緒に行こう。」

姜恒はもう何も言えずに寝台に横たわるとすぐさま寝入ってしまった。

 

耿曙は黒剣を置いて、姜恒の傍に横たわった。片手に黒剣を持ち、外から聞こえて来る物音に耳を澄ました。雨音、足音、戦馬の嘶き、それらが一つにまじりあって聞こえて来る。姜恒が夢を見ながら、無自覚に抱きついてきた。耿曙はその手を離すと肩にしっかりかけさせた。

 

翌日、耿曙は姜恒に食べ物を買ってきて、干糧を準備すると日が昇る前に再び出発した。姜恒はどこに行くのか尋ねたかったが、耿曙は答えた。「まだ行きたいところを決めてなかったから、兄についてくればいい。」姜恒は頷いた。耿曙は馬にのると姜恒を連れて、崤関の東側の道を折れて南に向かい、一路進んで行った。

 

「やつらはまだ来るかもしれない。血月の刺客のことだ。お前を殺してもいないし、黒剣を奪うまでやつらは気を許さないかもしれない。」

耿曙は道中極力誰とも話さないようにしていた。普通の民にしか見えない相手に対してもだ。姜恒は尋ねた。「項余はどうした?あなたはどうやって逃げ出したの?」

耿曙は簡単に答えた。「きっとこういうことだ。項余は大将軍だから、当然何かの手段を使ったのだろう。」

 

耿曙には疑っていることがあったが、姜恒に真相を話すのは止めた。自分でさえも彼が最後にどう始末をつけたのかはっきりわかっていない。だが項余が彼を変装させ始めた時、耿曙は彼の正体がわかった。あの人はずっと姜恒のそばから離れたことはなかったのだろうと考えていた。項余は言っていた。「彼には何も言わないでほしい。君だって彼が苦しむのは見たくないだろう?」

 

耿曙は項余の言いつけを忠実に守り、簡単に説明をした。こっそりと大牢を抜けださせ、安陽に送り出してくれたと。変装のことは言わなかった。城壁の下で姜恒と再会した時に、一歩先に取っておいてよかった。さもなくば疑心をひきおこしただろう。

姜恒は耿曙の傷や毒がこんなに簡単に良くなったことも疑問に思ったが、耿曙が理由として、項州が昔、族弟であった項余に与えた薬が海閣から持って来たものだったと言って、姜恒の疑問を打ち消した。

「郢軍と雍軍はどうなったんだろうね。」

「界圭が戻って行ったから、きっと消息を探ってくれるだろう。」

 

 

耿曙は馬を走らせ、分かれ道を曲がった。姜恒は突然その道をよく知っていることに気づいた。「兄さん!」姜恒はまわりの景色を思い出した。

「うん。」耿曙が答えた。

道の両側は梨の木でいっぱいだった。季節は初夏で、暴風雨によって梨の花は落ち切ってしまい、泥の中に埋もれていた。

「兄さん、」姜恒は荒廃した棚田の向こうにある城郭を見つけ、信じられない気持ちだった。「家に帰るんだね!」

「そうだ、家に帰ろう。」耿曙はここまでの道のり、常に心ここにあらずであった。馬に鞭を当てて、「ハアッ!」と言った。

「下ろしてよ!ねえ、下ろして……。」姜恒はすぐに言った。

「動き回るなよ。」耿曙はあきらめたように言った。こんな反応をすることはわかっていたので、しぶしぶといった感じに馬から下ろしてやった。

 

姜恒は泥水も気にせずに道を走って行き、遠くまで見渡した。その時雨がまた降って来た。けぶる様な霧雨に初夏の景色が包まれている。潯東城が見え隠れしていた。耿曙も馬を下り、鞍から傘を一本出して姜恒に差し出した。だが、姜恒はさそうとはせず、田んぼのあぜ道をぼんやりと抜けて、城内に入って行った。青石板の道は昔のままで、鳥の声が絶えることなく聞こえて来る。城内で炊烟が上がっているか見ようとしたが、ほとんど煙は上がっていなかった。

以前住んでいた町に速足で歩いて行き、懐かしい街道や小巷をきょろきょろと見回した。

 

「小さくなった!」姜恒はあちこち見回した後で、振り返って言った。「ここは小さくなったよ!兄さん!」耿曙は馬を引きながら、四方の巷の奥まで見回して、殺し屋が潜んでいる形跡がないことを確認した。「俺たちが大きくなったからだ。」耿曙は答えた。

 

数えきれないくらい何度も、二人で肩を並べて屋根に座って午後を過ごし、姜家の大宅のてっぺんから城内の景色を見下ろした。今、路地と路地の間を歩いてみると、意外にも道はこんなにも狭くなっている。彼はかつての家に向かって走って行き、突然姜家が火事で破壊されたことを思い出した。「家はもう無いのだったね。」姜恒は振り返って言った。

 

耿曙の答えを聞かずに姜家があった巷の行き止まりまで歩いて行くと、廃墟となったはずの場所に、今でも邸宅があった!昔とそっくりだが、よく見るとほんのわずかな違いもある。

「いったいどういうこと?」姜恒は自分が夢を見ているのではないかと疑い始めた。焦って振り返り耿曙を探したが、白い霧の通りに耿曙の姿はなかった。

 

「兄さん!兄さ―――ん!」姜恒はあちこち探し回った。

霧の中に押し殺したような苦しそうな泣き声が聞こえて来た。「あなたなの?」姜恒が尋ねた。「俺だ。」耿曙の声は震えていた。彼は歩を停めた。悲痛な思いが抑えきれない。真相を知ったあの日から自分の中の幻覚に苦しめられている。姜恒が己の本当の運命と向き合うことになれば、それまで持っていた美しい思い出も風に飛ばされて行ってしまうだろう。なぜ天はこんなにも残忍に彼を扱うのか?彼がいったい何をしたというのか?

 

耿曙は目を真っ赤にしながらも、少しずつ落ち着いてきた。

「これは……」姜恒は振り返って耿曙の手を引っ張った。狐につままれたような顔をして尋ねる。「どういうことなの?私たちの家は……燃えてしまったのではなかった?」

耿曙は応えず、姜恒をじっと見た。姜恒は耿曙の赤くなった目をじっと見た。「どうしたの?」

姜恒は手を延ばして、耿曙の眉を撫で、疑問でいっぱいの表情で彼を見つめた。

「何でもない。」耿曙は首を振って、気持ちをしっかり持った。「おいで、恒児。」

 

耿曙は剣で鎖を切った。「そんなことしていいの?私たちが出て行ってから、誰かがここを買って立て直したのではないの……もう別の人の家ではないのかな。」耿曙は目に涙をためながら、説明した。「別人の家ではない。ここは俺たちの家だ。」

 

耿曙は門を押し開けた。庭には雑草が生い茂っている。姜家の木柱は色あせていたが、何年か前に塗りなおしたようだった。埃だらけで、何年も誰も住んでいないようで、物が雑多に部屋の真ん中に置かれていた。姜恒の記憶の中で最後に見た家は、崩れ落ちて完全に灰となるまで焼けつくされていた。彼は呆然とした表情で、庁堂に入って行った。そこは母が毎朝座っていた場所だった。茶卓の上に、絹に書かれた手紙が置かれていた。何行か文字が書かれている。

 

【恒児、兄は生きている。兄は落雁城で毎日お前を待っている。もし家に帰ったなら、ずっとここを離れるな。城の県丞を探して、俺に手紙を届けさせてくれ。すぐに行くから。】

 

「四年前、俺は俸禄を使って、周游に南方の商人を探させて潯東に行かせ、この場所を買って以前の家を復元させたんだ。汁琮が言ったはずだが、お前は忘れたんだな。」

天地の間に一片の静寂が訪れた。姜恒の目に涙が込み上げて来た。彼は耿曙を見てから、姜家の大宅に目をやった。

 

「俺は思ったんだ……。」耿曙の声が震えた。「あの時……お前は死んだかもしれないが、万が一そうでなかったら?もし……お前が生きていたとしたら、俺を探そうと、潯東に戻って来るかもしれない……ひょっとしたら、以前の家に探しにくるかもしれないと……。」

 

姜恒は雑然とした庁堂に立ち、目からは涙が次々流れ出て止まらなかった。袖で涙をぬぐうと、子供の頃に戻ったような気持になった。彼は何も言わずに頷いた。

「もし一生待っても来なければ、その時は雍国で待つのは止めて、潯東に戻って来てここで余生を過ごそうと思ったんだ。」

姜恒は耿曙の前までやってくると彼に抱き着いて、彼の肩に顔をうずめた。二人は静かに抱き合っていた。時の流れの中に置かれた一体の彫像のように、どんなに長い時がたっても変わることはない。

 

雨は更に強まった。姜恒はぼんやりと家屋の軒から落ちて来る雨のしずくを見ていた。耿曙は馬を後院にある厩舎にいれ、側廊で火盆に火を焚き、びしょびしょになった袍を乾かし、家の掃除を始めた。

「兄さん、」姜恒は頭をあげて、ぼんやりしたまま声をかけた。

「うん?」耿曙は手を止めなかった。

「瓦の模様が前と違うね。以前は桃花だったけど、今のは玄武だ。」姜恒は笑い出した。

昔姜恒は雨がきらいだった。雨の日には何もできないからだ。勉強が終わると、軒下に座って雨が落ちて来るのを見るしかなかった。

「俺には思い出せないところも多かった。やっぱりお前はよく覚えているな。何日かしたら川で魚を釣って来て、池に放って飼おう。竹も植えないとな。」

 

耿曙は庭の中を見回した。雍都で指示を出した時、周游に特に申し付けたのは、家を建て直す時に、庭に木を植えることだった。だが、どんな木だったか思い出せない。李だったかもしれない。木にはぶらんこがついていた。それはよく覚えていた。

彼は寝室を片付け、部屋にあった雑多なものを居間の端に置いた。ほとんどは焼け落ちた廃墟の中から拾いだした物だった。銅や鉄の塊が多い。昭夫人が持っていた鄭銭だ。火に焼かれて塊となった。木製の物はほとんど焼けてしまった。耿曙が姜家を再建していた時、汁琮もこの場を訪れ、耿淵の使っていた琴を見つけ出した。

 

「俺は何か買いに行ってくる。」耿曙は姜恒を見て考えを変えた。「一緒に行くか。」

「いいね。」姜恒は立ち上がった。今に至ってもまだ少し素直に喜べずにいる。夢を見ているような気持なのだ。耿曙は傘をさして、姜恒と一緒に出掛け、城内をあちこち歩いた。

 

潯東は郢鄭戦の後、二年続けて飢饉が起き、人々の多くは逃げて行き、城内には今や千戸に満たない人しか住んでいない。玄武祠堂の外に集まって、小さな市を作り、日常に必要な物が売られていた。

 

姜恒は滅多に外に出なかったので、城内に住む民は彼の子供の頃の様子を覚えていない。誰も姜恒と耿曙のことを知らないが、推し量るような疑いの目で見る人もいた。色々聞いてこなくて良かった。まだ午後だと言うのに空は薄暗かった。官府は祠下に移転していた。姜恒はよく考えた末、県丞に挨拶に行かないことにした。かつての県丞はもう亡くなった。官もみな変わっているだろう。

 

「何を買う?」耿曙は少し不安そうに肉屋の前に立って尋ねた。「鴨はあるか?豆腐も一緒に買ったら少し安くできるか?」肉屋の婦人は熱心で、鴨を耿曙の腕の中に押し付けて言った。「あらあら、うちの鴨はすごくおいしいわよ。湖の魚を食べて育ったのよ。鴨と一緒に卵も買ったら、更にお得よ。お兄さんたちここの人じゃないわよね。いつここに来たの?」

 

耿曙はもう何年も食材の買い物なんてしていなかった。一国の王子なのだから、食材の良し悪しに気づかいなどする必要なかった。姜恒は耿曙が人間の生活圏に戻って来て買い物でのやり取りに苦労し、言葉が出にくくなっているのに気づいた。

 

「親戚を訪ねて来たのです。これがそうですね?」姜恒は笑いかけた。姜恒は越なまりで話した。子供の頃、高い壁の外に出ることはなかったが、外から聞こえて来る人々の話を聞いていた。昭夫人の口調にも呉越なまりがあった。土地の人はその言葉を聞くとすぐに納得したようだ。こうして耿曙はに三日分の食材を無事買うことができ、再び姜恒と家に戻ると彼のために食事を作った。家に戻ると、高い壁はあっという間に外の世界から二人を隔絶し、中の世界は耿曙と姜恒の二人きり、幸せな小天地に戻った。

 

買って来た鴨は殺さずに庭の池に放すことにした。耿曙は肉を煮込み、鴨の卵は蒸して羹にして、じゅんさいを炒めて一緒に食べた。

「夢を見ているみたいだ。」午後になり、雨が止むと姜恒はしゃがみ込んで庭の草取りを始めた。「今でもまだ本当だとは信じられないよ。」耿曙は廊下に座って茶を飲みながら言った。「お前はゆっくりしていろ。俺が明日庭を片付けるから。」

 

「あなたこそ座っていて。」姜恒はごきげんで手の中の草を眺めた。「家を以前の様に戻したいんだ。」

それを聞いて耿曙は心苦しく感じた。例え姜家を以前の様に戻したところで、かつていた人たちはもう戻って来ない。家を建て直した時、庭の西側に昔の様に小さな部屋も残していた。そこは衛婆がかつて住んでいた場所だ。西棟の昭夫人の寝室もがらんとしていて、寝台もなければ衣装戸棚もない。庁堂の一角にあった書房には机と椅子があるだけで、以前書棚に置いてあった姜恒の作文は全て燃えてしまい、その灰ですら地下深くに埋もれている。悪意ある放火によって二人は持てる全てを失った。そして姜恒の最後の身分証明となるものさえもあの時失ってしまった。それを考えるとまた気持ちを抑えられなくなりそうで、耿曙はただ、下を向いて茶を飲んだ。

 

 

―――

第159章 毛皮のおくるみ:

 

夜になり、姜恒はすっかり疲れて寝台に横たわるとそのままぐっすり寝入ってしまった。耿曙は黒剣を寝台の横に置き、ずっと目を覚ましていた。夜が更け、全てが寝静まった頃、耿曙は静かに起き上がって、かつて武芸の修練をしていた庭の中に出て行った。

雨がやみ、黒雲は消え、梅雨時には得難いキラキラ輝く星河が見えた。耿曙は庭に静かに座り、膝の上に黒剣を置いて夜空を仰いだ。「父さん、母さん、夫人。」耿曙は呟いた。耿曙の目に星の輝きは映っても、その夜故人の魂は彼の側に来てはくれなかった。

「夫人、俺は恒児をちゃんと守れませんでした。全て俺のせいです。」

 

池の水に満天の星が映る。耿曙は長い長いため息をついた。昭夫人が夜半に長い髪を垂らし、眠れずに姜家の庭を歩く姿が見えたような気がした。彼女が潯東で7年も、7年もの間、潯東で待ち続ける様子が見えたような気がした。春が来て、秋が来て、寒さが来て、暑さが過ぎ、7年もの長い年月を待ち続けた末に、耿淵が亡き者となり、項州が一体の琴を彼女のために持って来た様子が。

 

耿曙自身はどうだっただろうか?昭夫人が父を待っていた年月、母親と安陽城内で、貧しいながらも楽しく暮らし、父は十日ごとに会いにきてくれ、酒を飲み、琴を弾いてくれた。昭夫人の側にいたのは、活発で遊び好き、世間の人の悪意を知らない甥っ子だけだった。

あの頃の姜恒は純粋な心で、これが彼の人生だと信じていた。それなのに、今、最後に残ったその思いでさえも奪い取られようとしている。耿曙は膝をついて立ち上がり、部屋に戻ろうとしたその時に、ふと、ずっと前に、昭夫人がこの庭で言った言葉が耳の奥に聞こえて来た気がした。あの日姜恒はいなくて、耿曙は一人で剣の修練をしていた。

疲れて地面に座り込み少し休もうとしていた。昭夫人が彼の後ろに来て、軽くため息をついた。あの年彼はまだ十歳で、疑問に思って振り向くと、昭和夫人が物思いに耽りながら、黒剣を見つめ語りだした。

「誰にでも行くべき場所があるものです。この剣はあなたの父が持っていたように見えて、実は数えきれない人の命を託してきたのです。皆、黒剣は無名の輩を斬らないといいますが、私から見れば、殺人は結局殺人です。殺人の目的は運命を生かすため。あなたの運命を、天下人の運命を生かすためです。いつかあなたも知る日が来る。この剣が、あなたにとって、恒児にとってどんな意味があるのかを。」

 

無名の輩を斬らない……耿曙は自分がずっと父の堅持を貶めてきたことに気づいた。彼は黒剣を持って、先陣を切って戦ってきた。使う機会が少なかったはずがない。

あの時はわからなかった昭夫人の話の深意が、いまになってやっとはっきりわかった。

「その意味を知りました。よくわかりました。」耿曙は満天の星河に向かって言った。

十一年前の昭夫人の小さなため息に答えると、黒剣を収めて部屋に戻って行った。

 

翌日、姜恒は起きるとすぐに庭の片づけ続けた。耿曙はあきれたように言った。「少し休んでろってば。どうして動き回っていないといられないんだ?」

「私は好きでやっているんだから、あなたは剣の練習でもして、私にかまわないで。」

 

耿曙は潯東までの道中、気が気でなかった。しかも姜家の建て替えのことは、汁琮もよく知っている。知っているどころか、特別に人を遣って耿淵の琴を探し出しまでした。――安陽城で、彼らは自分が焼け死んだと思っているだろうか?それに汁琮が自分のことを死んだと思っていたとしても姜恒を探すのは止めないだろうし、絶対に他国に逃亡させはしないはずだ。姜恒が潯東に戻ったかもしれないと考えて、誰かに調べさせるだろうか?

潯東は、鄭、郢両国の境にある、かつて越国だった地だ。汁琮が大軍を送って姜恒を殺そうとするなら、先ずは郢国を打ち、次が鄭国だろう。だが汁琮は姜恒の行方を太子霊に知らせたりするだろうか?いや、それはない。耿曙はかつての義父のことをよくわかっている。

 

彼は姜恒が潯東に戻って身を隠すとは絶対考えないだろう。汁琮なら考えるはずだ。姜恒は一切を顧みず、焼死した『耿曙』の仇を打つだろうと。仇討ちの方法はただ一つ、鄭へ再び自分を売ること。鄭が汁琮の敵だからだ。自分の一撃を受けた血月門主は崖から落ちたが、あれで死んだのだろうか?死んだとしても、殺し屋はまた来るかもしれない。油断は禁物だ。

 

耿曙は剣を持ち、真剣にかつての昭夫人の教えを思い返していた。当時は子供でわからなかったことが、今思い返せば、姜昭が彼に教えたのは武道の心得であると共にこの世の大道の極みであった。あの時は小さすぎて何もわからなかったのが悔やまれる。がんばって思い出さなければ。彼は黒剣剣法を練習したくて、安陽城で戦った時の心境を思い返そうとしたが、うまくいかなかった。すぐに空から再び細雨が降り始めた。

 

「恒児!部屋に入れ!かぜをひくぞ!雨が降って来た!」

耿曙は振り返って黒剣を置いた。姜恒の返事が聞えた。戸を開けて部屋に入ると、姜恒は昭夫人の寝室だった場所の部屋を片付けていた。焼け残った遺物の大きな塊から、色々取り出しては分別して、手が灰だらけになっていた。

「俺がやるから。汚れるぞ。」

「別にいいよ。」

 

目の前にある物はみな、焼け残って倒れた廃墟から拾いだしたもので、中にはさび付いた銅鏡と二つに折れた玉櫛があった。どちらも母が使っていた物だ。姜恒はそれらに触ると、昭夫人に触れたような気持になった。

「恒児。」耿曙は心配になった。

「大丈夫だよ。懐かしいよね。」姜恒は笑った。耿曙は姜恒と一緒に座った。姜恒は乳白色の磁器杯のかけらを拾い上げた。「これを覚えている?」

耿曙は答えた。「覚えている。初めて来た日に夫人がびっくりして落として割ったんだ。」

「母さんが杯をあなたに投げつけたんだよ。私は外から全部見ていたんだから。」

「そうだったかも。」

「でもね、母さんはあなたを恨んではいなかった。本当だよ。母さんは本当は……優しい人なんだ。」

「わかっている。」耿曙は答えた。「あの人は俺の母さんでもあるんだから、恒児。」耿曙は姜恒の頭を撫でた。姜恒は悲しそうに笑った。次に見つけたのは一本の筆で、狼の毛は既に焼け焦げている。他にいくつか炭の塊を取り出した後、彼は銅の箱を見つけ出した。

 

鍵は熱で折れ曲がっている。耿曙はその銅箱をじっと見て思い出した。昭夫人と衛婆が二人を置いて家を出た時だ。冬の朝で、姜恒はその箱から一着の毛皮の上着を見つけ出した。あれは昭夫人の部屋から出て来た。きっと昭夫人が衛婆に言いつけて耿曙のために作らせたのだろう。姜恒は短剣を使って鎖を解き、箱を開けて中を見た。

 

あの時、衣服は全部取り出した。底に残っていたのは毛皮の塊で、血痕が点々とついていて、何のための毛皮なのか見てもよくわからない。耿曙は黙ったまま見つめた。

「あの時もちょっとおかしいなって思ったんだよね。これはいったい何だろうね?きれいに洗ったらあなたの服の内張りに……。」

「それはお前が生まれた時にお前を包んだ毛皮のおくるみだ。」耿曙が突然言った。

姜恒:「?」

「こんなにたくさんの血が!」姜恒はひっくりかえしてよく見てみた。母がどこで自分を生んだのか知らないが、きっとすごくつらい思いをしたに違いない、と思った。

「恒児。」姜恒は狐皮のおくるみを箱に戻し、不思議そうに耿曙を見た。

耿曙はしばらく黙っていた。長い長い時間がたったかのように思う頃、姜恒が再び尋ねた。

「どうしたの?兄さん、何か言いたいことがあるの?」

「それは界圭が持って来たものだ。十九年前、彼はその狐皮にお前を包んで、お前を夫人のところに連れて来たんだ。」

「え、何?」姜恒はしばらく耿曙の言う意味が分からなかった。子供の頃の自分と界圭にどんな関係があるというのか?耿曙は姜恒を見ることができず、下を向いてその毛皮をじっと見つめていた。この箱が出て来たのは天意だ。時が来たのだ。もう隠すことはできない。どんなに残酷な結果になろうと、彼はそれに向き合わねばならないのだ。

姜恒は大きく目を見開き、瞳孔が収縮した。無意識に耿曙の手を取り、力を込めていた。

「界圭はどうして……。私は……私は潯東で生まれたのではないの?どうして?兄さん?何を知っているの?教えてよ!」

 

姜恒は耿曙の考えを推し量るように彼を見つめた。氷窟に押し込まれたような気分だ。半年くらい前から、耿曙は時々こういう表情をするようになった。理由はわからなかったが、心配事があるのはわかった。この道のりで、耿曙の心は更に重くなっていき、何か言いたいことを言いよどんでいるようだった。今、ようやく気付いた。それらすべての背後にある隠された危険に。まるで姜家大宅が再び崩壊し二人がその下に埋もれるかのように…姜恒は敢えてその先は考えなかった。だが、ついに耿曙は口を開いた。

 

「お前は冬至の日に生まれた。冬至の日に、落雁で生まれたんだ。界圭はお前を守るために、お前を盗み出して、まずは安陽に連れて行った。お前を……俺たちの父さんに託そうと思ったんだ。」

「だが父さんはその時すでに……危険な身だった。彼はお前を守り切れないことを恐れ、手紙を書いた。界圭にお前を連れて南に行き、潯東のお前の母さんを訪ねて行かせた。だけどなぜかその手紙を界圭には渡さず、お前を連れて行かせたんだ。」耿曙はずっと頭を上げることができなかった。姜恒の反応を見ることができなかったのだ。彼は懐からゆっくりと油紙に包まれた手紙を取り出した。

 

「お前の本当の父親は……汁琅だ。」耿曙は震えながら、油紙を開いた。「お前の母親は雍国王后姜晴だ。あの年みんなお前は死んだと思った。お前の別の名前は、……汁炆だ。お前の位牌は、雍国宗廟に今でも供えられている、玄武座の前だ。恒児……恒児!」

姜恒は背を向けて、部屋を出て行くと廊下に進んで、雨を見つめた。耿曙は後を追った。「恒児!」耿曙は最も恐れていた時がついにやって来たと知り、手を伸ばして姜恒の腕をつかんだ。「お前は俺の弟だ。父さんも母さんもお前の父さんと母さんだ。ただお前の出生が、今まで考えていたのと違うだけだ。俺は永遠に俺だ、恒児!」

 

姜恒は全身が震え、呆けたように耿曙を見た。瞳には何も映し出していない。耿曙はどうしようもなくて彼を抱きしめたかったが、姜恒は身を翻し、雨の中に出て行った。

「恒児!」耿曙はすぐに黒剣を背負って追いかけた。

 

姜恒は速足で門の外の通りを走った。降り続ける雨を顔に受ける。この世が知らない世界になったようだった。耿曙は姜恒に近づこうとせず、後ろについて行った。姜恒は振り向いて大声で叫んだ。「ついて来ないで!」頭の中が真っ白になったようで姜恒はひたすら突き進んだ。耿曙は離れないように、その五歩後ろをついて行った。部屋の中に一陣の風が引き込み、広げた手紙が床に落ちた。

 

吾妻昭へ:

【雍宮の状況は以前あなたと私が考えた通りだ。汁琅の死には内情がある。】

【令妹は汁炆を生んだ後、大シャーマンの手によっても救えず。晴児は重い中毒で息を引き取った。私と界圭が間違っていなければ、汁琮は長兄を毒殺し、汁琅の子も難を逃れることはできないだろう。子供は界圭が落雁から連れ出した。本来なら私が養いたいが、私は既に盲目で、安陽に居ては安全ではないかもしれない……】

 

「恒児!」耿曙は雨の中をひたすら姜恒について行き、姜恒は目的もなく水たまりだらけの道を歩き続けた。心ががらんとして、魂が離れてしまったかのように茫然とこの世を眺める。

 

【彼があなたのところに連れて行ったのは、令妹と汁琅の唯一の忘れ形見だ。生かすも殺そうもあなたが決めてくれ。腰には痣がひとつある。太后がその目で見ているから証拠になるだろう……】

 

手紙はわずか数行で、途中までで終わっていた。十九年前の炭の跡が既に黄ばんだ紙に残っている。耿淵が考えを変えたのは、妻の性格なら、何も説明しなくてもわかるはずだと思ったからかもしれない。結局手紙は出さないままになった。

 

潯東の町に馬が走って来た。耿曙は急いで姜恒を引っ張り、彼の前に出てかばった。それは城内を巡回している五人部隊だった。武官長が大声で尋ねた。「何者だ?」耿曙は片手を背に回して、黒剣の柄を握りしめ、同じように大声で答えた。「潯東人です。」

武官は二人を一瞥して、姜恒を少女だと思ったようだ。口喧嘩の末飛び出して来たのだろうと、それ以上尋ねなかった。雨はますます強くなり、姜恒の全身はびしょぬれになった。

「帰りなさい!」武官が言った。

 

稲光がして、三人の顔を照らした。姜恒はその人に見覚えがあった。確か昔、潯東の城防治安官だった人だ。「行くぞ。」耿曙はこんな時に争いたくなくて、姜恒の手をひいた。姜恒はだんだんと落ち着いてきて、少しずつ思考力も戻って来た。治安官は馬を走らせて去って行った。姜恒は振り返って耿曙を見た。耿曙は彼の顔を濡らしているのが涙なのか雨なのかはっきりわからず、口づけしてやりたい気持ちになったが、彼が更に受け入れがたくなるのを恐れた。だが、見つめ合った時の姜恒の眼差しは今まで通りのように思えた。

「恒児。」

「兄さん。」

ようやく耿曙はほっとした。

「私は……大丈夫、兄さん。ただ……考えてもみなかったから、今まで……考えたこともなかったから。」この時になって初めて姜恒は全てをはっきり理解した。悲しみが一瞬にして沸き上がってきて、彼は耿曙を抱きしめて、雨の中、大声で泣きだした。耿曙は彼をしっかり抱きしめて、優しく言った。「大丈夫、大丈夫だ、恒児。今まで通りだ。何も変わらない。」

 

「同じではないよ。同じではないってわかっている。」姜恒はしゃくりあげながら言った。耿曙の思った通りだった。巨大な悲しみと虚無感が一瞬にして二人に襲いかかった。全てがこれまでと同じではいられなくなった。

 

何が変わってしまうのか姜恒にははっきり言うことはできなかった。そしてこれが痛みなのか転機なのかもまだよくわからない。だがこの時、耿曙の鼓動も、胸、肩、腕、体温さえもが今までとはほんの僅か違って感じられた。二人が慣れ親しんだ感覚はそれまで通りなのに、一瞬にしてその身が組み直されたかのようだ。それは蝶が蛹の殻から破り出て、翼を広げ、天に向かって羽ばたいていくのにも似ていた。

 

 

―――

第160章 心を決める:

 

一時辰後、姜恒は毛布にくるまり、唇を震わせながら寝室で火にあたっていた。

耿曙は彼に生姜茶を一杯与え、姜恒は疲れたようにため息をついた。

姜恒が落ち着きを取り戻すのは早かった。耿曙が意外に思ったほどだ。わずか一時辰後にはもう平静を取り戻したようだ。耿曙は敢えて何も言わなかった。今は静かに過ごしたいのだとわかっていたからだ。ちょうど昔、汁綾が姜恒の死を伝えた時、慰めの言葉など受け入れられず、ただ一人で自身の中に閉じこもっていたかった時の様に。きっとやり過ごせると耿曙は思った。真実を知るのは突然すぎたが、きっと全てうまくいくはずだ。

 

耿淵の手紙を読み終わった姜恒の第一声は、「もし父さんが私を置いてくれていたら、私たちは一緒に育っていたね。その年あなたはまだ二歳だったんだから。」だった。

 耿曙は頷いた。なぜ父が姜恒を受け入れなかったかは勿論わかっている。―――自分の身が危くなるからだ。汁琮が何かおかしいと思って、人を遣わして殺そうとしたら、聶七と耿曙にも累が及ぶかもしれない。無情にも思えるが、耿淵にしてみれば姜恒はいらない存在だった。それで姜昭に送りつけて、彼女の好きなように解決させようとした。自分の妻子を守るためだ。        (耿淵は第一章から嫌いだったぜ。)

 

界圭は耿淵の薄情さに驚いただろうが、そのことを口に出したことはなかった。そして界圭が姜恒を見る時の、あの眼差しの意味も耿曙にはわかった。

―――界圭には誰よりもよくわかっているのだ。姜恒が誰も欲しがらない子供だったことを。彼が人にもたらすのは危険と災難だったからだ。界圭は姜恒を見る度にやるせない気持ちでいっぱいになり、彼が本来与えられるべきだった愛を少しでも与えるために、自分にできる全てを尽くしてやりたいと思うのだろう。

 

姜昭が何も聞かずに妹の子を受け入れてくれてよかった。彼を育て、読み書きを教えて、いつか彼が身をたて家を成し、独り立ちできるように持てる力を注いでくれた。彼女は耿淵に置き去りにされたかもしれないが、ずっと何も聞かずに、変わらず息子の命を守って来た。「母はこの剣だけをあなたに残して行きます……。」姜昭の最後の言葉が今でも耳に残っている。あれは黄昏時だった。姜昭の涙の意味がようやくわかった。あの人にはわかっていたのだ。自分が死ねば、姜恒は本当に一人ぼっちになってしまうと。

 

耿曙は必死で涙をこらえた。今までずっと滅多に泣かなかった。だが姜恒を見るといつも胸が痛んだ。尤もその姜恒は今、努めて笑顔を見せようとし、逆に耿曙を慰めようとしている。

「このことをずっと長いこと胸の奥にしまっておいたのでしょう?」姜恒は耿曙に言った。耿曙は何も言えなかった。口を開くと嗚咽がこみ上げてきそうで、ただ頷くしかできない。

「どうしてもっと早く言わなかったの?」耿曙は姜恒を見つめたまま首を振った。「知らない方が幸せだと思ったのでしょう?」耿曙は再び頷いた。

 

姜恒は小声で呟いた。「兄さん、何だかすごく頭が痛い……。」

耿曙は、はっとして、姜恒の額に手を当てると熱が出ていた。

「熱が出ている。すぐに横になるんだ。」姜恒は意識がもうろうとしてきた。耿曙に抱き上げられて布団に入ると、服が汗で湿ってきた。

「きっと雨に濡れたせいだね、」姜恒はうめき声を上げた。「大したことない……薬を二服手に入れて、飲ませてくれたらすぐ良くなるよ……。」

刺客が来るのを恐れ、耿曙は姜恒の側を離れたくはなかったが、薬を手に入れて飲ませなくてはならない。近所の人に助けを求めたいが、この町は既にがらんとしていて住民の殆どは出て行ってしまっている。

 

「誰かいるか?」耿曙は振り向いた。その瞬間、巷に死体が転がっているのが見えた。死体がある場所は彼らの家からは少し離れている。半身が水に浸かり、血が低い方へと流れている。

 

界圭が左手を包帯でぐるぐる巻きにし、右手に天月剣を持って雨の中に立ち、耿曙に視線を送った。「先ほど、城内治安官を警戒させてしまいました。また一人殺したので、残りは二人です。」この殺し屋は兵士に扮していた。姜恒を殺そうとして界圭に不意を突かれ、背後から喉に剣を受けたようだ。「俺は薬を探しに行く。俺の家を知っているか?」界圭は何も言わずに姜家に向かって行った。

 

姜恒は意識が混沌とする中、界圭が近くにいるような気がしていた。彼は夢を見ていた。夢の中で界圭は真っ白な服を着て、自分を抱き、玉壁関を馬で越えていた。南への道を進み、越地に入ると沿道は満開の桃の花でいっぱいだった。

「起きて薬を飲め。」耿曙が声をかけた。姜恒は耿曙に抱き起されて薬を飲んだ。全身が熱くなり、また横になった。

夜になると、界圭は耿淵が残した手紙を読んだ。「耿淵のあほんだらめ、こんな手紙のことなんかちっとも知らなかった。」

「あんたに感謝する。ありがとう。」耿曙が言った。

「あなたに何の関係があるのです?あなたから感謝されるなんて、侮辱されたような気になりますね。」

 

耿曙は何も言わなかった。だが界圭は何だか嬉しそうで、口笛を吹き、顔がわずかににやけている。「これでわかりました。あなたのお父上は汁琅をどうとも思っていなかった。本当は私だって気づいていましたよ。でもまあそれならなぜ殉死したんでしょうね。まさか梁王畢頡のため?」

「黙れ。」耿曙は冷ややかに言った。

界圭は考えた末、立ち上がった。「知ったからには、私の方も今日からそのつもりでいませんとね。それでは行きます。」

 

耿曙は界圭を見た。こいつがろくな奴ではないことはわかっていた。内情を知る者は、郎煌、界圭、姜太后もではないかと考えているが、誰も自分では姜恒に真相を告げようとしなかった。皆、耿曙の決定を待ち、彼の肩に責任を押し付けた。そして今、姜恒は己の正体を知った。次には何が起きるのだろうか?

「失せろ。」耿曙は言った。

 

界圭は去り際に姜恒を見て、包帯に包まれた左手を持ち上げ、小声で告げた。

「私の右手は血にまみれています。でもねえ、あの年潯東に向かう時、私は左手であなたを抱いたんですよ、炆児。この先、誰もあなたに強要しません。あなたも自分に強要してはだめです。私はただあなたにずっと幸せに生きていてほしい、それだけです。」

そう言うと、界圭は外に出て、振り返って姜家の大門を閉めた。

 

「行きますね。」界圭は振り向いて言った。答える者がいなくてもかまわない。あの年、姜恒をここに連れて来た時、彼は姜家の門を開けておいた。十九年弾き続けた琴曲の最後の余韻が響き終えたような気がした。

 

空が晴れた。梅雨も終わりに近づいている。どこかから這い出て来た蝉がなき始めた。

姜恒は全身汗だくになり、蒼白な顔色で目を覚ますと、耿曙が作った粥を食べた。

「誰か来たの?」姜恒が尋ねた。

耿曙は手に尖らせた木片を持っていた。姜恒が目覚めるまで離れるつもりはなかったが、手持無沙汰だった。眠ることもできなかった。目を閉じるたびに1、2時辰しか眠れず、何か気を紛らわせるものが必要だった。

 

「界圭がお前の様子を見に来たが、もう帰った。」耿曙は答え、姜恒は頷いた。耿曙は血月の者が既にここを突き止めたことを知った。潯東ももう安全ではない。だが殺し屋はあと二人だけだ。界圭はそいつらのことは耿曙が自分で何とかできると考えて、落雁に戻って行った。彼は責任を引き渡した。あの最後の話は半分は自分に聞かせるためだったのだろう。

 

姜恒は体を動かすことにした。まだ少しくらくらするが、庭に出て、茶を煮出し、自分と耿曙に一杯ずつ煎れて、二人で静かに廊下に座った。姜恒は少し上の空だったが、耿曙はそのままにしておき、やるべきことをした。食事を作り、湯を沸かして、姜恒に沐浴させた。以前のようだ。時々庭に行って見ると、姜恒はまだぼんやりしていた。

 

姜恒は庭を眺めながら考えていた。ようやく色々なことがわかった。おかしいと思っていたことが、どうしてだったのか、腑に落ちた。―――界圭の話、姜太后の眼差し、汁琮が機会あるごとに見せる敵意、郎煌の意味ありげな態度。

汁琅と姜晴、実の両親の名前も彼にとっては全くの未知の存在だ。両親には会ったこともなく、雍宮で彼らの話をする者もいない。偶然耳にしたわずかな話もすぐに忘れてしまった。

それでも姜恒には彼らを恨む気持ちは全くない。選ぶことができたなら、誰が骨肉の別れ、家の崩壊、死別を望む?ただ姜恒が一番思うことは、「私は誰なの?」ということだ。

 

私は汁炆なの?それとも姜恒なの?というより、誰でもない気がするのだ。汁炆という身分はずっと前に失っている。それなのに今は姜恒でもなくなった気がする。

茫然から釈然までの距離は短かった。耿曙のいつもの眼差し、口に出してはいないが、一目瞭然の言葉によって、姜恒はすぐにはっきりわかった。

汁琮、界圭、昭夫人、耿淵にとっては自分は汁炆だ。太子霊や他の全ての人の前では自分は姜恒だ。 

(なぜここでタイズリン?他にいるでしょ、羅宣とか項州とか)

 

「兄さん、あなたは私を誰だと思う?」それだけはどうしても聞きたかった。

耿曙はどう答えようか迷った。姜恒に、お前は永遠に自分の弟だと言ってやりたかった。だが、別の思いのために、そうは言えなかった。

 

「俺がお前を誰だと思うかは重要ではない、恒児。肝心なのはお前が自分を誰だと思うかだ。」姜恒に少し笑顔が戻って来た。悲しみが消えていく。

「ちょっと知りたかったんだ。あなたの目から見て私は誰なのかって。」

実はよくわかっていた。耿曙が自分を見る目は既に以前とは違っている。だからこそ、どうしても知りたいのだ。

「今の俺の目から見たお前は汁炆、炆児だ。だけど心にいるのはいつだって姜恒だ。俺たちは兄弟ではない。でもやはり兄弟だ。それは玉玦やらお前の正体とは全く関係ない。」

 

姜恒は理解し、頷いた。耿曙の言葉は他の人にはわかりづらいかもしれない。でも二人は子供の頃から一緒に育った。姜恒には勿論よくわかる。二人が血のつながりのある関係ではなくなったとしても、耿曙の心の中にいるのは以前として自分一人だけだ。落雁を離れた日から後の耿曙の行いがそれを証明している。

「恒児、少し気分が晴れてきたか?」耿曙が尋ねた。姜恒は頷いた。

「恒児、自分を追い詰めるなよ、たとえ認めたくなくても、それは……。」

姜恒は耿曙に笑いかけた。どうやら折り合いがついたのだな、とわかった耿曙はそれ以上話すのを止め、立ち上がって家の片づけを続けに行った。姜恒を一人静かに過ごさせるために。

 

姜恒の前には二つの道があった。一つは何もなかったかのように今まで通り過ごすこと。二つ目は、奪われた物を取り返しに行くこと。勿論この道はずっと危険に満ち溢れている。だが、全てを知った今、どうして何もなかったかのようにできようか?

姜恒は海閣で修行していた時のことを思い出し、小さくため息をついた。入門初日に鬼先生は彼に尋ねた。『姜恒、お前さんはどのような人になりたいのだ?』

今や自分の名前は汁炆だ。それなら、自分はどのような汁炆になりたいのだろうか?

子供の頃からずっと、昭夫人も姫珣も、果ては鬼先生、羅宣、耿曙に至るまで……誰もが自分に告げる。この人生をどう過ごすか。『どうすべきか』ではなく、『どうしたいか』ここに至ってついに、姜恒は自分自身の心を決めた。

 

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 151-155

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第151章 油紙の包み:

 

耿曙は誰にも声をかけることなく、ただ姜恒の手を握り、静かに街角に立っていた。

「道が狭くなった。」最後に耿曙は姜恒に言った。

姜恒は笑った。「前はあなたが子供だったからだよ。」耿曙は頷いた。そうかもしれない。

大戦の後、城内で最初に店を開けたのは葬儀屋だった。あちこちで葬儀が行われている。どこの家にも兵士として亡くなった家族がいるのだろう。酒を撒いて、跪き蒼天を仰いで泣き声を上げている姿も見られた。

姜恒は食べ物を買った。耿曙は黒地に金縁の雍国武服を着ていた。露店主の中には彼の姿を見ると、怒らせないようにと店じまいをしてしまう者も少なくなかった。

 

「好きだった女の子とかいなかったの?」姜恒は耿曙に尋ねた。耿曙は一軒の露店の中を覗き込みながら、「ここの娘は嫁に行った。好きだったわけじゃない。まだ五歳だった頃だ。」姜恒が見ると、店守りをする娘は魂を失ったような様子で、血に染まった木牌を握りしめていた。二人は娘に声をかけることなく、耿曙は顔を見せないように、市場に向かって行った。

そして飴屋の店先で桃花糖を少し買い、姜恒の口に一つ食べさせた後、残りを慎重に包んだ。

 

「子供の頃父さんは、俺に会いに家に来る時にここで飴を買ってきてくれた。店主が盲目だったからかもしれない。盲目の苦労が分かるから応援したかったのかもな。」

「素敵なところだね。」

「ああ。俺は六歳のときから週に三日、縄をつけた木の盆を首にかけて、市場で売り歩いた。」

かつて聶七は耿曙を連れて安陽に移り住んだ。耿淵が王宮に潜入し、王子畢頡の琴師となった。聶七は自活するために家で灯芯を作り、耿曙が市場に持って行って一日おきに売り歩いた。値段を下げろと言われても耿曙は一切受け付けず、買いたいなら売り、買わないならそれまでとした。母が一生懸命作った物だったからだ。わずかな売り上げは聶七に渡し、聶七は耿曙に衣服を作ったり、米や麺を買ったりした。

 

姜恒はその光景を想像して面白がった。六歳の耿曙が木盆を担いで市場を歩く姿はきっと、鞍縄をつけた仔馬のようだっただろう。

「売り口上を叫んだの?」姜恒が尋ねた。

「恥ずかしくて無理だった。だけど母さんは上等の綿を使って灯芯を作ったから、火が長持ちすると言って王宮の人が買って行った。ただ彼らは気づかなかったが、最後に母さんは

芯に毒を仕込んだんだ。あの日、王宮では火をつけた灯が黒くなって、皆目が見えなくなった。」                           (ひでーな)

彼女の灯芯は有名で、市場の人たちは彼女を『灯芯女』と呼んでいた。人前に出ることは少なく、他人に対しては子持ちの寡婦だと言っていた。一人息子と寡婦はお互い助け合って生きていた。だが町の人たちは皆、盲目の琴師が灯火ごとに母子に会いに来ていることを知っていて、子供は私生児で、灯芯女は宮の琴師に気持ちがあるのだろうと勘ぐっていた。

その盲目の男が四国の大人物を殺したという報せが安陽中に広まると、全天下が衝撃を受けた。人々はようやく盲目の男の名を知った。―――耿淵というのだと。

 

「子供の頃あなたの話を聞いて、いつもわからなかったことがある。」姜恒が言った。

「何がわからなかったんだ?」耿曙と姜恒は手を繋いで、街道が終わるところまで歩き、青石板の石段のついた山道を二展まで上がって行った。(二展とは?時々横道があるのかな?)

「父さんが死んだ後、彼女はどうしてあなたを置いて逝ってしまったんだろう?」

耿曙は頷いた。「俺も母さんを恨んだ。あんな風に俺を一人ぼっちにして置いていくなんて、残酷すぎると思った。」

「でもね、後になってだんだんわかってきた。」姜恒が言った。母のことだけでなく、聶七の選択も理解できた。殉死する者の気持ちも、なぜ耿曙を置いていったかも理解できる。

別れの日に母が言った、『本当はお前を連れて逝こうと思った。』という言葉の意味も。

 

「俺にもわかった。」耿曙は姜恒にそう言うと、首をかしげて横顔に口づけをした。

姜恒は真っ赤になったが、耿曙はおちついていた。「お前に出会えてよかった、恒児。そうでなければ、この人生は残酷すぎた。」「もう過ぎたことだよ。」姜恒はそう言った。

 

耿淵が事件を起こした時、聶七は全てが終わったとさとったのだ。

「入って来ては駄目。」あの日聶七は部屋の中からそう言った。「曙児、開けないでね。」

あの日、全城が大混乱していた。報せを聞いた耿曙は売れ残った灯芯にかまわず、急いで家に帰った。あの日の午後、まだ彼の父親が殺人者だとは知らない市場の人たちが皆、梁国は終わりだと言っていた。彼は母にこの話を伝えないとと思った。大人になりかけだった彼はすぐにでも母と盲目の父をつれてどこか安全なところにかくまわねばと思っていた。

ーーー

聶七は家の梁に白綾をかけ、結び目を作りながら、窓の外の息子にむかって笑いかけた。「みんなの言うでたらめを聞いてはだめ。大丈夫だから。」

耿曙は疑惑でいっぱいになり、部屋の中の母の影を見て、「母さん、何をしているの?」と尋ねた。

「何でもないわ。着替えをしているのよ。午前中の売り上げはいくらだった?」

「二銭だよ。」耿曙が答えた。「買い物客なんていなかった。みんな荷物をまとめて、家を出て行くと言っていた。俺たちも出て行くの?父さんは?俺は父さんを探しに行く。宮のなかにいて、大丈夫かな。」

「母さんが行くから少し待ってちょうだい。あなたはお酒を買ってきて、母さんが父さんのところに行くのを待っていてね。その二銭を使ってお酒を買うのよ。さあ、行って。」

「うん。」九歳の耿曙は体をひねって、首にかけた帯をとると、酒を買いに走って行った。 耿曙が酒を持って家の扉を押した時、母親はすでに死んでいた。一通の手紙と剣、父が首にかけていた玉玦、それに文字が読めない耿曙には内容がわからない心法書を残して。

ーーー

そして今、大きくなった耿曙が姜恒を連れて帰って来た。二人は廃屋を通り過ぎた。屋根には青草が生えていて、こわれた壁には火事の痕跡があった。

「ここなの?」

「いや、屠殺夫の家だ。」

「屠殺夫?お隣さん?」

「うん。」耿曙は扉の外でしばらく立ち止まった。姜恒を連れて、山際まで歩いて行くと扇門を押し開けた。室内は灰と塵でいっぱいだった。十余年もの間、誰も訪れなかったのだ。

室内にあった物は全て持ち出され、あるのは壊れた寝台だけだった。耿曙は寝台の上に座って、母親が首を吊った横梁を見上げた。

 

姜恒は耿曙が子供の頃に使っていた物を見られるかと思っていたが、こんなに月日がたって、家はすでに廃墟となっていた。今きっと耿曙はただ静かに座っていたいだろう、そう思った姜恒は彼の邪魔をせず、傍らに腰を下ろした。

耿曙の心はずっと前の記憶の中をさまよっていた。そうして座っている内に、日は西に傾き、午後の陽光が窓から室内に入り、一つの影を投じさせた。

 

物音がして耿曙は我にかえった。「何をしている?」姜恒は地面に座り込んでくしゃみをし、起き上がりながら言った。「ここに地下室があるね。」

「うん、母さんが物を入れていた。」

「誰にも見つかってないんだろうね。」

一枚の木板を動かすと、穴倉があった。大きくはなく、一辺が五、六歩くらいか。

子供のころには何故地下室があるのかわからなかったが、母が作らせたのだろう。ある日、父が暗殺を実行し、誰かが調べに来た時に、息子をかくまおうとしたのかもしれない。

 

姜恒は膝を抱えて座り、ずっと前に羅宣の所にも地下室があって、銅の取っ手を手にしたが、結局下りなかったことを思い出していた。「見てみたいか?あるのは酒だけだ。父さんが帰って来た時に飲むためだ。父さんは酒を飲みながら、母さんが作った料理を食べるのが好きだった。俺を抱いて、琴を弾いて聞かせて、寝かしつけてくれたんだ。」

姜恒は父親になじみがない。だが耿曙が記憶を呼び起こして話す中に、少しずつ、父親の姿を思い浮かべるようになった。「それはいいね。」姜恒は耿曙の思い出話を聞くと、自分もそれを経験したかのような気分になった。そして羨ましくもあり、残念でもあった。

 

「俺は……ごめん、恒児。」ふと耿曙は気づいた。自分が覚えているようなことを、姜恒は経験したことがなかったのだ。聶七と耿淵が自分を愛してくれたようには、誰も恒児を愛してくれなかった。子供の頃から、いつも孤独に暮らし、本当は昭夫人も彼を愛していたとしても、子供の頃にはわからなかったはずだ。

「何であやまるの?降りて見てみようか。お酒を飲みたくはない?私が取って来てあなたに飲ませてあげる。」姜恒は笑った。

「俺が行く。下は真っ暗だ。お前じゃ場所がわからないだろう。」

 

耿曙は銅の取っ手を引き、記憶を頼りに降りて行った。地下室に入ったことはなかったかもしれない。聶七は彼が蔵の酒をひっくり返すのを心配した。酒瓶は棚に置かれ、ほとんどは飲み終わっていて、三瓶だけ残っていた。一瓶持ち上げた時、横にあった金属の箱に触れた。

耿曙の動きが停まった。覚えている限り、子供の頃こんなものを見たことはなかったはずだ。

「転ばないように気を付けてね。」姜恒の声が上から聞こえた。

「平気だ。」耿曙は箱を開け、中に入っていたものに触った。

 

姜恒は簡単に部屋を掃除しようとその場を去った。すると耿曙の頭の上に光が落ちて来た。耿曙は箱の中身を出した。小さな油紙の包だった。中には一枚の布が入っていた。薄暗い中、目を凝らしてみると、表面にはまだらな血の跡がついていた。

『これは何だろう?』

布の中には一通の手紙が入っていた。十余年前の手紙だ。崩れそうな脆い紙に書かれている。耿曙は注意深く開けてみた。あて名は「昭児親展」となっている。信じがたい思いに、はっと息を吸った。

 

「兄さん?」

「すぐに上がる。どいていてくれ。」耿曙はそう言うと、急いで油紙の包みを懐中にしまった。手が震えていた。姜恒はくしゃみがとまらなかった。あまりにも埃まみれだった。耿曙は酒を持って上がって来ると、「ここでは飲まない。母さんの墓に行こう。盃がないか探してみる。」と言った。「わかった。」姜恒は鼻を指でつまんで揉んだ。

 

耿曙の表情は明らかに変わり、呼吸が早くなっていた。だが、上がって来る時に吸い込んだ埃のせいで、くしゃみが止まらなくなり、二人は競うようにくしゃみをし合った。それが姜恒のツボにハマって大笑いし、耿曙も知らない間に涙目になって笑いが止まらなくなった。

 

 

午後、安陽城北、墓地にて。

耿曙は酒を三杯注いだ。一杯を聶七の墓前に置き、残りは姜恒と二人で献杯して飲み干した。「来るのはこれば最後かもしれない、母さん。」耿曙が言った。

「兄さん、それはないよ。きっとまた機会がある。」

耿曙は少し考えてから、姜恒の話には続けずに、墓碑に向かって言った。

「ちゃんと恒児を見つけたよ。これから先も、ずっと二人で一緒にいる。」

姜恒は感動して目が真っ赤になり、最後には泣き出した。かつて耿曙が母親の遺体を抱えて山を登り、墓を掘って彼女を埋めて土をかけ、葬った様子を想像した。

 

あの日、安陽は混乱していて、首を吊った灯芯女のことに注意を払うような人はいなかっただろう。耿曙は墓碑を書いてもらうための金さえなく、父親の遺体を納めに行くこともできず、目印として、何も書いていない石碑を置いたのだ。その後、耿淵の遺体は安陽城門の上に掲げられ、三月晒された。越地では、既に荒廃していた耿家の祖廟を、怒り狂った鄭王が暴き、祖先の遺骨に鞭うった。

 

それから十五年たった。報せは潯東にも届き、姜昭の耳にも入ったが、彼女は何もせず、あたかも無関係であるかのように、姜恒を育て上げた。聖賢書を学ぶことを教え、姜恒に対して誰にも恨みを抱かせないようにした。一度だけ父親について語ったことがあったかもしれないが、淡々とした一言だけだ。「あの人はあんな生き方をするべきじゃなかった。」

 

耿曙は手を伸ばして、姜恒を抱いた。口の端に笑みを浮かべて。これからとても難しいことをしなければならない。二人が進む道は長く、いばらのとげに満ちている。潯東を離れた時よりもさらに厳しい道のりだ。だが彼はこの瞬間、ついに二人の宿命を受け入れた。

姜恒はまだ十余年前の悲しみに浸っていた。だが耿曙はそっと言った。

「恒児、お前に知らせたいことがある。」

「何?」姜恒は落ち着いて、頭を上げて耿曙を見た。

 

耿曙は懐中に手を入れかけた時、突然光る何かを視線に捕らえた。手を下について、動作を変え、背負っていた黒剣の剣柄を握った。視線は姜恒を越え、彼の後方に向けた。

墓地の下に、漢人の服装をした老人がいた。背中をまるめてゆっくりと近づいて来る。

右手に持った杖は暗い灰色をしている。姜恒はそれが何でできているかわかった。――死者の背骨だ。左手には精巧な作りの小刀を持ち、銀の光を放つ鋭い剣には鞘がなかった。さっきの光は細剣が陽光を反射させたものだった。

 

 

第152章 鉄ののぼり

 

姜恒は耿曙の視線を追った。 二人はゆっくりと立ち上がった。

老人は枯れ木のようで、歩き方はゆっくりだ。だが目標は自分たちだ。なぜなら墓地には他に誰もいなかったから。袍襟には紅色の匂月が縫いとられている。匂月からは血が滴っている。

「あれは強敵だ。俺が奴を押さえている間に、お前は郢国兵営まで走っていけ。できる限りの速さで走るんだ。」姜恒は何も言わなかった。正殿にいた時と全く同じ殺気を感じた。耿曙が「強敵だ」と言うのを始めて聞いた。つまり本当に強敵だということだ。

 

「きっと血月の門主だね。」姜恒が言った。「お前もそう思うか。」耿曙は黒剣を右手に移し替えながら言った。「俺が手を出したら、お前はすぐに逃げるんだ。俺もすぐにそっちに行くから。」

『逃げるなら一緒に』的なことをいうつもりは姜恒にはなかった。凄腕対決だ。自分が居残ると言い張れば、耿曙の気が散る。

「残念だな。」

「何がだ?」

「彼に勝ったら、あなたは本当に天下一になれるのに。こんな試合に証人がいないなんて。」

耿曙は口角を少し上げて言った。「行くぞ!」

耿曙は、愚か者の様に相手が目の前に来て構えるのを待ったり、一、二、三の類の掛け声をかけたりせず、敵が山道を登り切らない機を捉えて、先手を打ちに行った。

 

姜恒は思い立って体を丸めると、山道を転がり落ちて行った!

「若者よ、焦りすぎだ。」老人は不気味に言い放った。金属が擦れる様な声だった。

耿曙は天を崩すような一撃を山の上から繰り出し、老人の首を断とうとした。耿淵が再来したとしてもその勢いを越えることはできない。黒剣には稲妻のごとき力を携えて。

老人は黒剣を敢えて迎えようとはせず、突然身を引くと、体を奇妙な角度に曲げ、腰椎が折れたかのように体をそらし、左手の剣、右手の杖を放った!

細剣は危うく耿曙の胸を突きそうになったが、黒剣の柄が止めた。だが細剣はそのまま耿曙の喉元に向かった。耿曙はよけようとして、墓碑にぶつかった。

              (ああ、戦闘シーンの翻訳が苦手だ。特にカンフー)

老人はだみ声で言った。「お前は私の弟子を四人殺した。お前が直接殺してはいない者も、数にいれてやればだが。お前の父親は天下一の刺客だと言われているが、わしから見れば、月並みにすぎない。」

耿曙は黒剣を斜に構えた。武袍の襟が山の風になびいた。

「そっちも馬鹿ではなかったのだな。我慢できずに門主自らお出ましか。門派の弟子を一人ずつ送って来て死に追いやるよりいい方法だ。」

老人は冷笑した。

耿曙が言った。「腕に覚えがあるなら、名を名乗れ。黒剣は無名の輩は切らん!」

「血月だ。黒剣を渡せ。雇い主の息子を殺したくない。」

「自分で取りに来ればいい。取れるものならな。」

 

血月と名乗った老人は言った。「聶海よ、ここでわしを取り押さえていれば姜恒は安全だとでも思っているのかね?」耿曙は色を変えた。大きな間違いを犯した。姜恒を自分の近くに置いておくべきだったのだ。

「それ以上言うな。」そう言うと耿曙は墓碑に飛び乗り、再び老人へと向かって行った。

 

その頃姜恒は斜面を滑り降り終えて、心を落ち着けようとしていた。墓地の方向に顔を向けずにはいられなかったが、衣服を整え、山際の市場に向かって行った。こういう時こそ、焦りを見せずに、落ち着かねばならない。耿曙なら大丈夫だ。あんなやつ叩きのめしてくれる。彼は耿曙の力を盲目的に信じていた。今大事なことは、自分をしっかり守ることだ。

姜恒は剣を持っていない。持たないことが習慣になっている。更に耿曙がついていることで、かつての警戒心を失っていた。危険の中に身を置く感覚がわからなくなっている。だが、この時は周囲の人間一人一人の動向を注意深く観察した。すると自分を見ている人がいるのに気づいた。目が合うとその人は巷の中に身を隠した。

 

姜恒は歩を速めた。山際の街を通り抜けている時、一人の門番が剣を抜いて巷中から現れた!姜恒は立ち止まり、振り返った。男が剣を持って迫って来た!バタンと音がして、窓が開き、鋭い刀を持った物売りが現れ、同時に姜恒に向かって来た!近くにいた人たちは慌てふためいた。

姜恒は屋台の上に飛び乗った。羅宣が教えた数少ない武芸がようやく役に立った。敵は相手を甘く見た。姜恒は戦えはしないが、何とか逃げることだけはできるのだ!

山際の町は大混乱となった。姜恒は門番から逃れようとあちこち走り回り、殺し屋は何度か、路肩の屋台にぶつかりながら、ついに姜恒に追いつこうとしていた。その時後ろから、鷹の鳴き声がして、海東青が飛んで来た。すぐに悲鳴があがり、門番は鷹につかまれ血まみれになった。物売りが矢を射ったが、海東青は高く飛んでよけた。門番が歩を停めた瞬間、背後に誰かが現れた。

 

「蟷螂が蝉を捕らえる時、黄雀が後ろにいる。」界圭が棒読みの様に言った。

「殺し屋だって書は読まねば。」そして門番を剣で貫いた。「坊や、気を付けて!左に向かって走れ!振り返らないで!」

 

界圭が来てくれた!姜恒は少しほっとした。界圭は軒に飛び乗り、壁を走ってやってきた。姜恒は走りながら、界圭の腕を掴んで叫んだ。「いつ来てくれたの?」

「ずっとついてましたよ!」界圭はそう叫ぶと、姜恒を軒の上に引っ張り上げた。

「奴らは全員出動しました!8人です。今のが一人目。軍営に行って項余を探して。彼ならあなたを守れます!」姜恒は飛び降りようとしたが、界圭は道の逆側に姜恒を押し出したため、街道の市場の上に落っこちた。ジグザグに曲がった山道は屋台で溢れ、姜恒が店の上に落ちて来ると、人々は驚きの叫び声をあげて一斉に去って行った。

 

『物売り』は消えた。界圭は姜恒が逃げて行った道に向かい、後ろについて護衛した。

敵は新手の護衛に備えていなかった。ずっと潜伏していたが、一旦姿を見せれば、警戒を呼び、不意打ちはできなくなる。界圭が壁から瓦に飛び降りると、パラパラと音を立てて無数の瓦が壊れて、三人めの敵が姿を現した。のぼりを持った占い師だった。

    (状況がわからん。屋根を破って下から出たのか?持っている物もわからん)

 

占い師は何も言わずに、鉄ののぼりを振った。上には鋭利な刃物がついていた。のぼりは鱗型の盾となって界圭の喉に向けられた。

姜恒は山際の市場の上で何とか這い上がりながら考えた。:船頭、洗濯女、御者、給仕、物売り……あとは何だっけ?八人全部やって来たんだ!

海東青が空を飛んでいたが、人々の中に紛れ込んだ殺し屋を見つけることはできない。姜恒は呼吸を整えて逃げるしかなかった。

 

(翻訳もひどいけど、元々の原作もカンフーの対決シーンはわざとゴチャゴチャ派手な形容詞がいっぱいついて、大げさに書いてある。わざと大衆時代劇っぽくしているのだと思う。大げさすぎてどうしてもそのまま訳せない。物や人から波動やら気やらが出て来る状況は日本人にはちょっと受け入れがたいし。)

 

山の上では耿曙が黒剣を振るっていた。夜の帳を引き裂くキラ星のように光を放つ。黒剣剣法は比類ない。老人は黒剣を真正面から受けないように交わし続けた。これが中原一の不世の神兵器、万剣の尊、黒剣か!こんな剣を受けたら、無情にも体が寸断されてしまうだろう!目の前の少年は武功は強悍だが、まだ若すぎる。持っているのが黒剣でなければ、血月が全力で対決すれば、誅殺できたかもしれない。

 

山裾から恐慌した叫び声が聞こえて来る。姜恒が逃走しているということだ。だが生きている。できるだけ早く敵を始末しなければならない。血月を墓地の果てまで追い詰めると、生涯の修業の成果たる一撃を放った!満天の夜闇が黒剣の刃に収まった。   

「死ね。」耿曙は無情に言い放った。血月はついに逃れられず、杖を前にして正面から剣を受けた。

「いい剣だ。」老人は陰鬱な声をあげた。老人が右手に持った骨杖を振ると、杖は骨鞭となって、黒剣に絡みつき、左手の細剣が直接耿曙の喉に向かった!四十年焼きいれた骨鞭は錆鉄のようで、黒剣に砕かれ飛び散ったが、同時に耿曙の動きを止めた。耿曙は目を見開き、体は反らされ宙に飛んだ。老人の剣が音もなく彼の喉に下に向かった。

 

「寄越せ。」老人は口角に笑みを浮かべた。ギン!と音がして、老人の剣は玉玦の真ん中に当たり、細剣ははじけ飛んだ。老人ははっとした。耿曙の黒剣の返しは間に合わず、左手を延ばして拳を向けた。

拳と拳が相打ち、耿曙は五臓六腑の気血が狂ったように沸き立ち、前に受けた内傷が衝撃を受けた。老人は血を吐き、空中に血霧が飛び散った。耿曙は息を止めようとしたが、内傷が呼吸を求め、血霧を吸い込んで両目が黒くなった。血液には毒があったのだ!

老人は口角に血を付けたまま、黒剣を奪おうと、力を尽くし、素手で耿曙の剣刃を掴み、狂気の叫び声を上げた。「寄越せ!」

 

耿曙が手を離すと、老人は黒剣を奪い、耿曙は空いた手で拳を突き出した。唇を少し動かし、罵り言葉をつぶやきながら。二度目の拳は強烈で、老人の胸に当たった瞬間、骨が粉々に砕け、再び血霧が噴出した。

耿曙は勢いに乗って2本の指で黒剣を挟み、剣を奪い返した。老人は苦しみながら悲鳴を上げ、細剣を振り上げて、耿曙の腹を突き刺したが、彼は老人を突き飛ばし、細剣は耿曙の鮮血と共に体から抜け出た。老人は糸の切れた凧のように崖に落ちて行った。

 

耿曙は血を吐き、黒剣で体を支えて、何歩か歩くと、また血を吐いた。歩いては足を止めて、3度目の血を吐いた。目の前の光景がぼやけた。彼は全力を尽くして気を落ち着かせた。まだ倒れてはいけない!

「本当に奴は……やはり……強敵だった。」耿曙は一人呟いた。「恒児……待っていろよ。俺を……待っていろよ。」 彼はよろけながら、山の下に向かって走って行った。

 

 

姜恒は山際に沿った一本道を駆け下りていた。体が大きく、黄色い髪の胡人が現れ、道をさえぎった。胡人は両手を合わせて彼に向かって拝礼した。

「どうして今回は予告無しなの?」姜恒は歩を停め、周囲の地形を見定めた。界圭は別の敵に押えられている。自分でなんとかしなくては。

「アナタハ殺シニクイ。予告シテタラ、ツカマラナイ。」胡人は拙い漢語で説明した。

胡人は合わせていた手を離し、両手に短剣を持って体を揺らしながら近寄って来た。一息に十歩近く距離を縮めて来る。姜恒は身を翻して避けたが、あやうく短剣を受けそうになる。

その時、黒い武服に身を包んだ姿が屋根の上に現れた。耿曙が空を蹴って、降りて来た。人々は大慌てで逃げ回った。

「兄さ――――ん!」姜恒が大声をあげた。耿曙は黒剣を手に持ち、体を支えた。口角には血がついていて、手にも鮮血がかかり、腹部からも血がにじんでいる。

 

彼は姜恒の後ろに来て、残忍な笑みを浮かべ、胡人にゆっくりと言った。「お前らの門主は俺が殺したぞ。」胡人は驚いたが、何も聞かずに、両手の短剣を回して耿曙に向かって行った。耿曙が黒剣を掲げて左の拳で剣身を叩くとその威力で胡人は震えながら後退した。

「怪我をしているじゃない!」姜恒が言った。「早く逃げろ!」耿曙は叫んだ。「俺にかまうな、奴らの標的はお前だ!」姜恒は迷うことなく背を向けて小巷に入って行った。高所では、界圭と占い師が既に数十手を交わして戦っていた。長剣を振るえば、剣は鱗型の鉄のぼりと打ち合い、金属のぶつかる音が上がった。血月門の殺し屋など単独では彼の相手ではないはずなのに、どうしたことか。目の前の相手は攻めはそうでもないが、守りが固い。狙いを定めてかかっていってもどうしても決定打を出せない。

 

界圭は突然手を引いた。「どうでしょう、もう座って茶でも飲みませんか?こんな風に戦って何が楽しいのです?」占い師はのぼりを手に持ち、笑顔を浮かべたが、防御態勢を解こうとはしない。

「中原五大刺客の一人、界圭の力はこんなものか。」占い師が言った。

「どういたしまして。誰かが勝手に言い出したことです。大刺客なんていいことなしですよ。いつも警戒していないとひどい目にあいますしね。」

そう言いながら界圭は剣を収めたが、その前に脅かすように剣を突く動きをした。占い師は本能的に鉄のぼりで防ごうとしたが、界圭は突然動きを変え、占い師に向かって行った。

「私は三歳の子供か?!」占い師は嘲笑した。

「弱点発見。」界圭は不気味につぶやき、体ごと剣をのぼりにぶつける。占い師は全力で、のぼりを振り、界圭の全身は鱗型の鋭利な刃物で凌遅のように削がれそうになるが、それにもかまわず、片手で鉄のぼりを掴みにかかった。血が飛び散って、界圭の左手は血肉が削られべたついたが、右手の剣はのぼりの隙をついて、相手の喉をまっすぐ貫いた。占い師は目を大きく見開いて気を失った。界圭は傷を負った腕を垂らし、占い師をちらっと見てから道に血を垂らしながら、山を下り、姜恒のいる所まで飛び去って行った。

         (こっちの方が耿曙VS老人よりは状況がわかりやすかった)

 

ーーー

第153章 前にも敵、後ろにも敵

 

姜恒は山道を駆け下りていた。まだ四里近く走らないとならない。心臓が飛び出てきそうなほど、ドキドキしており、意思の力だけで何とかがんばっていた。

 

一方、中山道で熾烈な戦いを展開した耿曙は目がよく見えなくなっていた。毒が体内に蔓延し、充血した目のせいで、目の前に血の塊が見えるようになっていた。彼は風の動きだけで状況を把握していた。胡人はまだそれに気づいていないようで、一陣の風を巻き上げながら迫って来ると、短剣を耿曙の喉元ギリギリまで突き出した。突然耿曙の天心が開いた。武芸の果てに天道を見出したのか。

 

「天地と我とは同根、万物と我とは一体。」

洛陽での雪の夜の姜恒の歌声が耳に響いてきた。この瞬間彼は草木や白雲、飛ぶ鳥と同化したような不思議な境地に入った―――

―――耿曙は身を反らした。短剣は首筋をかすめ、浅い血痕を作った。

短剣を回避すると、玉玦が動きに合わせて浮き上がり、鋭い刃先で紅紐が切れた。玉玦は地面に落ちていった。勝負と生死がその瞬間に決まった。耿曙は左手を延ばして玉玦を取り、剣を持った右手は動かさなかったが、剣は胡人の胸を突いた。胡人が短剣を繰り出す時、体ごとぶつかってきたためだ。鮮血が噴出し、耿曙の半身を染めた。

「イイ……動キダ。」胡人はゆっくりと頭を下げて死んでいった。

 

耿曙の手は震えが止まらなかった。既に戦い尽くし力が出ない。大咆哮を一声上げ、力いっぱい剣を抜くと地面に突きさして体を支えた。もう見えなくなりそうだ。目の前の景色がぼんやりした塊となって近くなったり遠くなったりしていた。頭を動かして、音で状況把握しようとする。海東青が鳴き声を上げて彼に方向を教えた。

「恒児!」耿曙は左手で玉玦を握りしめ、右手に黒剣を持って、よろよろと山を下り始めた。

後には血の跡が続いていた。「俺を待っていろよ……お前に手出しはさせないからな……。」

 

姜恒は山裾まで駆け下り、山道を出たところで、界圭と門番の二人に同時に落ちて来た。山麓に建っている家の屋根が押しつぶされて、大きな音を立てた。門番は起き上がると姜恒に向かって飛びかかり、姜恒は2歩で壁に駆け上がり、宙返りをして着地した。

界圭は持っていた剣を姜恒に投げた。姜恒は空中で剣を受け取ると、背を向けて飛び去った。門番は追いかけようと袖を震わせたが、界圭が手を伸ばし、門番の足首を引っぱって地面に引きずり下ろした。

姜恒は大声を上げながら剣を振り下ろし、門番の頭を切り落とした。

姜恒:「……。」

界圭の左腕からは血がしたたり落ち、その手指は白骨が露出して左手は既に使い物にならない。姜恒は喘ぎを止められない。界圭が「私に剣を下さい。まだ次がありそうですから。」と言った。「あと何人?」姜恒が尋ねた。「私が二人殺しました。あなたが一人、兄上が二人。難しい勝負です。」

 

血月門十二人、門主を入れると十三人。江州で四人死亡。今日安陽で更に五人死亡。門主も耿曙の手で葬られた。あと四人いて、どこに隠れているかわからない。

門主が死んだことでみんな逃げてくれたら、それが一番いいのだけど。

 

「私にはもういないような気がする。」姜恒が言った。

「この辺りにはいませんが、あの辺にいます。見えますか?」

山を下りた城内の通りに雍軍が大勢現れた。内側に三層、外側に三層。三千人近くいる。雍軍は屋根の上から小巷を守り、強弩を町の中心に向けていた。姜恒に退路はない。騎兵は層になって湧き出て来て前路を塞いだ。

「姜大人。」衛卓が声をかけた。

「朝廷から命を受けた役人を謀殺するつもり?」姜恒が言った。

「密謀反叛の罪で、王命を執行しに参りました。お察し下さい。」

 

辺り一面八方で矢が構えられている。汁琮は今日、何としてでも自分を殺す気なのだ、と姜恒にはわかった。だがここまで大事になれば、屈分が気づかないわけがない。おそらく、今頃どうやって自分たちを救い出そうか考えているところかもしれない。

「時間を稼ぎましょう。郢人がすぐに来るはずです。ああ、まさか郢人が命を救いに来るのを待つ日が来ようとはね。」界圭が小声で言った。

衛卓が手を上げると、兵たちは一斉に強弩を引いた。衛卓がほがらかな調子で言った。

 

「界大人、私は三つ数えます。三つ数えたら、矢を放ちます。すみませんが姜大人から離れていただけますか。あなたを射殺してしまったら、太后に向ける顔がなくなりますので。」

「彼らはここであなたを殺す気ですよ。どうしますか?」界圭が姜恒に尋ねた。

「あなたは逃げて。兄さんに言ってね。私の仇を打とうとしないでって。」

衛卓:「三——!」

界圭:「私は逃げたくないです。あなたと一緒に死にたいですね。本当は十数年前にそうすべきでした。」

姜恒:「……。」

姜恒は界圭の前まで走って行って、彼の盾となり、衛卓に向かって言った。

「国を挙げて私を殺しに来るなんて、やっぱり、すごく光栄に感じるよ。」

衛卓:「礼儀を尽くす価値のある人ですから。二——!」

姜恒はもう周り中の弩を見ようとせず、山の上を見上げた。洛陽で雪崩を起こしたあの日のように、耿曙との距離が、近いのか、遠いのかはわからないが、生死という距離を隔てようとしているのは確かだ。そしてあの日と同じように、彼はやっぱり来てくれた。

 

半身を血に染めた耿曙が右手に黒剣、左手に玉玦を握りしめ、長く伸びた通りをよろけながら歩いてきた。「恒児……恒児。」耿曙は喉の奥から野獣のように咆哮した。

「兄さん!」

衛卓は数えるのを止め、この様子を見つめた。一瞬、彼は耿曙が射程距離に入り、問題を一気に解決した方がいいか迷った。さもなくば、いつか彼は復讐するだろうし、その標的は他ならぬ自分になるのだから。

 

「恒児!」姜恒の声を聞いた耿曙はすぐに力を取り戻した。良く見えなくても彼が目の前にいることがわかった。血の跡をつけながら体を引きずって来た耿曙に姜恒は急いで飛び込み、彼を抱きとめた。耿曙は玉玦を姜恒の手に渡し、しっかり握らせてから、彼の体をそっと引き離し、姜恒と界圭の前に進み出た。

「淼殿下、王御陛下がすぐにあなたを連れ戻すよう仰せです!」

「俺は聶海だ。」耿曙はまるでひどい侮辱を受けたかのように最後の力を振り絞って叫んだ。「俺は聶海だ!畜生!みんな良く聞け!俺は汁淼じゃない!」

その場にいた者はみな耿曙の勢いに押され、しかと彼を見つめた。

耿曙は視界がぼやけて、騎馬した衛卓のおぼろげな人影しか見えなかった。

「申し訳ありませんが、お退きください。」衛卓は慇懃に言った。「矢が当たるかもしれませんので。」

「俺は聶海だ。」耿曙は右手で黒剣を倒し持ち、左手は構えの型をとった。

「淼殿下なんかじゃない。よく覚えておけ——。」

そう言い終えた時、姜恒は大声をあげた。

 

虚影と化した耿曙が通りの二十歩先まで瞬時に移動し、黒剣を掲げ、『帰去来』剣法を繰り出した!

黒剣は一瞬にして下から上へ、衛卓の戦馬の腹に向かっていった。地が動き山が揺れ、剣は衛卓を馬ごと切り裂いた!刹那しんと静まり返った後、雍軍は恐慌した叫び声と共に慌てふためいて後退して行った。

半身を血だまりに倒した衛卓はそれが自分の血なのか馬の血なのかわからないまま、白いひげだけが動いていた。耿曙はそれを見ることもなく傍らに立って告げた。

「道を開けろ。」

騎兵は敢えて武器を掲げなかった。主師が死に、命令を下す者はいない。雍軍は肝を冷やした。耿曙は雍国で名をあげて久しい。この武神の威勢を前にして、矢を放とうとする者はいなかった。

「三つ数える!道を、開けろ!三!」耿曙は怒号を上げた。

耿曙が数を数えだすや否や、騎兵は急いで後退し、長い通りを空けた。その場にいた者は、耿曙を見てから、道に転がった衛卓の遺体を見た。悪夢の中にいるかのようだった。

 

姜恒は急いで近寄ると、耿曙の腕を自分の肩にかけさせ、手に持っていた黒剣をとった。

道を進んだが、雍軍は遠く離れていた。

「屈分!」姜恒はついに郢軍駐屯地にたどり着いた。「屈将軍!」

「着いたのか?」耿曙が尋ねた。

「着いたよ!やっと着いた。どうして誰もいないの?屈将軍?!どこ?誰かいる?」

彼は四方を見回した。早く薬を見つけて、耿曙と界圭の怪我を治療しなくては。

 

だがその時、埠頭の空き地に無数の郢国軍が押し寄せ、強弩を3人に向けて来た。

屋根の上には屈分が立っていて、三人を見下ろしていた。

姜恒は頭を上げて、信じられない思いで屈分を見た。

場内は静まりかえっていた。

「よく見えないんだ……恒児、教えてくれ、どうなっているんだ?」

姜恒は耿曙を見てから、界圭に視線を移した。「何でもないよ。」姜恒はさらりと言った。

屈分が少し考えながら言った。「姜大人、すみません。全て殿下のご命令で、我らにもどうしようもなかったのです。」

今の言葉で状況がわかった耿曙が尋ねた。「どれくらいいるんだ?」

「五千です。全て弓隊で、今にも全て撃ち込まれそうです。」界圭が答えた。

これでもう自分たちを救える人はいなくなったと悟った姜恒は顔を向けて耿曙を見てから、前に出て行った。「私は抵抗しないから、二人を逃がしてあげて、屈将軍。」

 

耿曙が小声で言った。「あんたは彼を連れて逃げろ。俺はあんたらのために時間を稼ぐ。俺のことはもう救いに来なくていい。」

「あなたが彼と逃げて下さい。これであなたが死んだら、彼はもう私に口をきいてくれなくなりますから。」界圭が言った。

姜恒が屈分を見上げると、屈分は口を引っ張り上げて何か言いたそうにした。残念そうな表情をしている。

「奴らはすぐに俺を殺しはしない。まだ機会がある。俺は毒に当たって目が見えない。あんたはまだ片手で剣を使えるだろう。それにあんたは奴らの標的でもない。」

界圭は考え直して頷いた。「わかりました。努力してみましょう。」

「これはあんたの宿命だ。彼を落雁から連れ出した日から、今日のことは決まっていたんだ。」

 

屈分が高所から言った。「どうやらはっきりお教えしなければいけませんでしたね、姜大人。殿下はあなたの命だけでなく、お兄上の方も奪うように仰ったのです。」

「私はてっきり長陵君は郢国でそんなに好かれていないんだと思っていたよ。甘かったね。」

「長陵君は確かに好かれていません。」屈分が言った。「ですが、あなたのお母上の姜昭は太子殿下にとって最愛の上将軍、羋霞将軍を殺しました。あの方は本当なら太子妃になるはずだったのです。このことを知っている人はあまりいませんが……。」

 

姜恒は眉を上げて冷ややかに言った。「こんなに大勢いるところで、王族の私生活を語るのは不適切ではないの?」項余もどこかにいるのかな?救いに来てくれないのだろうか?

「姜大人は本当に肝が据わっていらっしゃる。こんな時にさえ冗談を言う気分になるとは。もうあなたを救いに来る人はいません。手を下す前にきちんと説明をするようにと太子殿下がお命じなので申します。殿下はあなたご自身のことはとてもお好きなのですが、何分にも不倶戴天の仇、放っておくことはできないのです。どうぞ来世では二度と刺客の息子として生まれませんように。」

姜恒は少しも恐れることなく黒剣を振り上げ、屈分と兵士たちに顔を向けた。

「さあ来い。」姜恒は冷静に言った。ああ、これだけは屈分に言っておかないと。「あなただけは覚えていたんだね。兄さんだけじゃなくて、私も刺客の息子だってこと。」

 

三度目の大戦は海東青の鳴き声と共に幕を開けた。今にも満天の矢の雨が降ろうという時、馴染みのある鉄蹄と殺戮の声が聞えて来た。助けが来た。項余ではなかった。もう一羽の海東青に導かれた、もう一隊の雍軍だった。

風戎人と汁綾率いる軍隊が、宣戦することもなく、留まることもなく戦場に突入してきた!

 

「先に殺してしまえ。」屈分が命令を下した。

矢が放たれた。耿曙は前に出て来て、体を盾にして姜恒を守る。屈分は屋根から飛び降りた。戦いの行方はともかく、この場で二人を葬ってしまわなくては!絶対に逃すことはできない。耿曙を復活させてしまったら、果てしない復讐を待つことになる。

 

汁綾が叫んだ。「二人を渡せ!さもなくば貴様の狗命を取るぞ!屈分!このイカレ野郎!」

いきなりの混戦となった。項余は姿を見せない。耿曙は振り返り、素手で屈分の顔を殴った。

姜恒は黒剣を持って耿曙の元に向かった。たくさんの兵が押し寄せて来て、姜恒は黒剣を振り回し、何とか斬り捨てた。だが耿曙は姜恒と界圭から離れながら、二人に向かって叫んだ。「行くんだ!」

「兄さ―――ん!」姜恒は叫んだ。「私を置いて行かないで!こんなの嫌だ―――!」

 

耿曙は姜恒に背を向け、敵軍に立ち向かった。界圭は迷うことなく片手で姜恒を抱え込み、何も言わずに侍衛達をかき分けて、二本の矢を体に受けながら、黄河に飛び込んで行った。

耿曙は屈分と向かい合った。双目は閉じたままだ。どうせもう何も見えない。目を開けていても仕方ない。彼はゆっくりと黒剣掌法を展開し始めた。「試してみるか。今日天下一を倒す幸運を充てることができるかどうか。」

屈分は冷笑し、長剣を抜いて耿曙の双掌に向けた。

 

 

大きな音を立てて、姜恒は黄河へと落ちていった。逃れようとしても界圭が固く抱えていて離さない。二人は黄河の水の中に潜って泳いだ。目の前は漆黒で、水中を浮いたり沈んだりした。界圭に水面に押し出され、姜恒は必死で呼吸をしたが、話す間もなく、再び、水にまきこまれていく。界圭の力も限界に来ていた。行きもつけずに遅れて来ると、今度は姜恒が彼に手を差し伸べ、もう一方の手に黒剣をしっかり握って水面へと上がって行った。

 

夜になり、黄河の岸辺、水の流れが緩やかなところに姜恒はついにたどり着き、丸い石河原に這い出て来た。界圭は血の混ざった咳をした。手の怪我は既に白くなっている。失血が多すぎて気を失いかけていた。「兄さん、」姜恒は叫び声を上げた。「兄さん!」誰もいない山谷に声がこだました。界圭はうめき声をあげて、体を上げ、座ろうと試みたが、力尽きて倒れ込んだ。「界圭!」

「まだ……安全ではありません。奴らはすぐに……川沿いを捜索して……私たちの行方を。探しなさい……隠れる場所を。私にかまわずに。」

 

姜恒は暗闇の中で立ち上がり、あちこち探して、壁の下に紅花を見つけた。すりつぶして界圭の傷口に塗ると、彼を助け起こして自分の肩に腕をかけさせ、沢に向かって歩いて行った。

「風羽の声が聞えた。すぐに戻って兄さんを救わないと。」

「雍王は彼を殺しません。」界圭は弱々しくつぶやいた。「彼のことは心配しないで、自分のことを心配なさい。」

姜恒は激しく呼吸しながら、気持ちを落ち着け、冷静になろうとつとめた。耿曙がしばらくの間はきっと大丈夫だと言うことはわかっている。郢国は雍人が城内にいるうちは耿曙を頃推すことはないだろう。何か交換条件を出すかもしれないが。汁琮は耿曙に失望したとはいっても、耿曙が養子であることに変わりはない。

 

界圭は目を開けて、姜恒の顔をじっと見た。「あなた達二人の立場は違います。殺そうとしない限り、汁琮は彼の命は守るでしょう。ですが、あなたには何もない。あなたの命を気に掛ける人はいません。わかりましたか?自分で自分を守るのです。」

「あなたたち二人がいれば、私にはそれで充分。」姜恒は息を吸った。

界圭は疲れ果てたような笑みを浮かべた。「今の言葉だけで、私はあなたのために死んでもかまわなくなりましたよ。さあ、来るがいい!」界圭は力を奮い立たせ、黒剣を握った。「この命をかけて、……まだ何人か殺せるかやってみますか。」

「動かないで!」姜恒は界圭を押さえた。「もう誰も私のために死んでほしくないよ!」

ここまでの道のりで、姜恒は既に多くの死を見て来た。彼は無力感に苛まれていた。今や、耿曙も敵の手の中に落ちた。殺す、殺される、と、わずか十九年の人生は常に殺戮のさ中にあった。

「それがあなたの運命ですから。」界圭が姜恒を見る眼差しは今までになくやさしかった。少し項余のようでもあった。「もう話さないで。少し休んで。どうやって兄さんを救いに戻れるか、方法を考えてみる。」

 

 

ーーー

第154章 喉を突いた刃:

 

安陽城内で突然起きた小さな動乱はすぐに収束した。郢国軍は汁綾の親衛隊を防御線の外送り、汁琮は兵を収めるよう命令を伝えた。

汁綾はまさか長兄が姜恒と耿曙に手を下すとは思わなかった。関与した者は緘口令を強いられていたが、兵士たちから聞いた噂は真実だったのだ。

汁綾にはとても信じられなかった。「どうしてなの?どうしてあの子たちを手にかけようとしたの?」

「理由などない。もううんざりだからだ。死ぬべきだ。癇に障るからだ。それだけだ。」

「彼はあなたの外甥なのよ!」汁綾は殆ど咆哮していた。「彼の母親は母さんの姪!彼は私たちの家族なのに!彼はあなたの部下の一人でも兵の一人でもない!汁淼は淵兄さんの息子なのよ!」

 

「誰か来い。」汁琮はこの妹が感情的になれば、本当に剣を抜いて自分に迫ってくるかもしれないと思い、部下に言いつけた。「武英公主を連れ出して、落ち着かせるのだ。」

「この畜生め!」汁綾は剣を抜いて地面に突き刺した。

「何をするつもりだ?お前も私を裏切るつもりか?」

兵士たちがやってきて、汁綾を囲んだが、それ以上彼女に近寄ろうとはしなかった。

「あんたの方が私たちを裏切ったのよ!」

 

郢軍は望み通り、雍国の王子を捕まえた。少し紆余曲折があったし、結局姜恒に逃げられたが、姜恒には逃げられても構わなかった。彼は武芸ができたとしても、国君を暗殺するほどではなかったからだ。耿曙に逃げられてはやっかいなことになる。

屈分は手紙を書き、早馬で、江州に送った。そして黄河沿いに人をやって、逃走した姜恒と界圭の行方を探した。

 

戻って来た項余が軍帳に入って来た。「一日いなかっただけで、こうも色々起きるとは。」

「そうだろう。いい戦いを見逃したな。少年梁王は送り出したのか?」屈分が尋ねた。

項余は傍らに腰を下ろすと言った。「鄭国に向かっている。」

「これで、彼らの仇は雍国だけになったな。」屈分が言った。項余は一杯茶を飲むと立ち上がった。「どこに行くんだ?本当の大戦が始まるのは明日だぞ。」

「王子殿下を見に行ってくる。結局、最後は今日のようなところに落ち着くわけだな。」

 

「まさかと思うが、奴を解放するつもりじゃないだろうな、項将軍。」

「いいや。彼を逃がしてどうする?人を殺す者は最後は結局自分も殺される。世の中とはそうしたものだ。やり直しはきかない。例外もない。」

屈分は前に置いた手紙を見直した。やはり書き直そう。もう少し自分の功績を強調して報告せねば。

 

 

牢に入れられた耿曙はもう何も見えず、目の前は真っ暗だった。全身傷だらけで、内傷も外患もひどく、玉壁関で捕らえられたあの日に戻ったかのようだった。数年前、仲間が死んだ後、彼は一人で玉壁関の関門を守り続けた。一万以上の敵が襲ってきて、力が尽きた。あの日、殺したのは一千人か、二千人か?もう覚えていない。だがあの月夜に比べて、自分の武功はずいぶん進歩した。姜恒が落雁に来て以来、以前にも増して修練を積み、自己の武芸に磨きをかけた。今日に至って、武道の至高の境地を窺い見るようになった。ほんのわずかな間だったが、天心が開く瞬間という、たいていの人が一生求めても得られない終着点に達したことがわかった。間もなく命尽きるとしても確かにそれをつかみ取ることができたこの一生、満足でないはずがあるだろうか。

昭夫人の声が耳の中で響く。

「剣で人を殺す者は、剣の下で死ぬ運命を得る。彼にはそんな運命がふさわしい。」

そうだな。これが俺の運命なんだ。

 

足音が近づいてきて、耿曙は耳を傾けた。

「あなたは血月を打ち負かしたのですね。」項余の声が牢の扉の外から聞こえた。

「奴は恨んでいたか?」耿曙は項余がなぜ今頃来たのかと聞いたりはしなかった。救わなかったのは事実だが、理由がどうであれ仕方ない。本来項余には自分たちを助ける義務はなかったのだから。

 

「聞くところによると彼はずっと海閣に執着があったようです。鬼先生に中原から追い出され、輪台で兵を募り、いつか巻き返しを図ろうと準備していたとか。」項余が言った。

「負け犬の逆恨みだな。」耿曙は冷ややかに言った。

「上将軍、彼の服の中からこんなものを見つけました。」部下は項余にそう言って、耿曙が持っていた油紙の包を項余に渡した。「外で待っていろ。呼ばれるまで入って来るな。」項余は部下に命じた。「見るな。」耿曙が言った。項余は動きを止めた。だが耿曙は考えを変えた。

「まあいい。見てくれ。」

 

耿曙は自分がもう長くないと分かっていた。ひょっとするとこれが最後の時間かもしれない。話ができる唯一の人物は敵でも味方でもない項余だが、言っておきたいことがあった。

「そういうことだったのか。」項余は油紙の中身を読むと、元通りに包みなおした。

「彼に言ってもらえるか?」耿曙が尋ねた。

「江州を出た日に言った通り、会うのはあれが最後でした。その機会はもうないでしょう。」

「もしいつか、人を介して彼に知らせることがあれば、どうか、その人には言い方に気を付けるようにと伝えてほしい。彼がつらい思いをしないように……昭夫人の息子ではないとか、耿淵の息子でないとか、みなし子だとか思わせないでほしい。この世の中で、全くの一人ぼっちではないと……。」耿曙の言葉は一人語りのようだ。まるで夢の中にいるように。

「……必ず思い出させてほしい。俺たちに血のつながりはなくても、俺は変わらず彼の兄だと……。彼が弟であろうとなかろうとそんなことは重要ではない。彼は彼だから。彼は恒児だから……。」

 

突然項余が言った。「君を誤解していたようだな。」

「何だって?」耿曙は見えていない双目を見開いた。

項余は持って来た瓶を床に落として粉々に砕き、入っていた丸薬を外に出した。耿曙は疑問でいっぱいになりながら、手を伸ばして薬に触れた。しばらくすると項余は立ち上がって出て行った。

 

 

―――

翌朝。

姜恒が界圭の息があるか確かめると、界圭は目を閉じたまま、淡々と言った。「まだ生きていますよ。」姜恒はほっと息をついて、界圭の体を探り始めた。界圭は再び口を開いた。

「私の体をやたらと撫でまわさないで下さい。私はお兄上ではないんですからね。」

姜恒は聞かなかったことにした。「お金はある?」

「銀の面があります。あなたのお父上がくれたものです。持って行って砕いてお金に換えて下さい。」

 

「へえ、お面は父さんがあなたにあげたんだ。二人がそんなに仲良しだと思わなかった。私は買い物をしてこなくては。郢軍の大営に兄さんを救いに行く準備のためだよ。だけどまず……あなたのためにどこか養生する場所を見つけて来るから待っていて。」

界圭は気合を入れなおし、黒剣を取ってそれを背負った。

 

「あなたはどう思います?耿淵の奴は、汁琅と汁琮どっち贔屓だったのでしょうね。」

界圭は片手を姜恒の肩にかけてゆっくりと山道を歩いた。

姜恒は気が重すぎて、界圭の話には全く興味がわかなかった。「汁琮かな。」適当に言う。

「そうは見えなかったな。」界圭が言った。

「もう死んだ人のことでいつまでも焼きもちをやいてなくてもいいんじゃないの?」

姜恒は界圭が汁琅を愛していたことはわかっていた。友達とか兄弟の愛ではなく、恋人を愛する本当の愛情をもって汁琅を愛していた。みんなが、「界圭の痴情」というのはそのためだ。

 

「焼きもちだけではありませんよ。耿淵の魂はまだ彷徨っていると思いませんか?彼の鬼魂がこの黒剣には憑いているんです。天意とも言えますがね。あなたに何かある時にはいつでも、剣を持つ人が違っていたとしても、最後には必ず黒剣があなたを救うのですから。」

姜恒は「うん、」と言いながら、さっきまで考えていた救出計画に思考を戻した。

まずは変装用の道具を用意しなくては。それから界圭を郢軍兵に変装させて大営に潜入させ、耿曙を探して連れ出させる。解毒薬も要しなくては……どんな毒に当たったのだろう?目が見えなくなったということは、血月の毒だろうか?

 

「私は最近ふと思ったですよね。昔、汁琮は耿淵をどう扱っていたか考えてみたけど、そんなに良かったっていう風には見えませんでした。」界圭は頭を撫でながら、少し疑わしそうな表情で話を続けた。「友情の為だけに耿淵は自分の目を害して安陽に7年も潜伏したりは絶対しないと思うんです。しかもですよ、成功したらさっさと妻と子を連れて逃げればいいじゃないですか。なんだって安陽に残って自害なんかしたのでしょう?」

 

姜恒の心は今、焚きつけられているかのように急いていた。それなのに界圭はいつまでも切々と回想を続けている。あきれ笑いしそうになるが、界圭に話を止めさせるのはよくないだろう。界圭は心に思うことがたくさんあっても誰にも聞かせられずにいるに違いない。汁琮は元々彼を相手にしないし、姜太后の前で話すこともできない。太子瀧にもだ。話せる相手と言えば私だけなのだろう。

 

界圭は再び真剣そのものといった感じで言った。「それで私は考えたのです。耿淵は汁琅が死んだときに殉死しようと心に決めていたのだろうなとね。」

姜恒は言った。「奥さんがいたんだよ。子供もね。汁琅のことを好きだったはずないよ。汁琅はあなたのもの。あなたの、界大旦那の、界殿下のものです。誰も取らないから、心配しないで大丈夫!」

 

界圭は嫉妬している。到底受け入れられないことだった。汁琅が死んだと知った時、彼は殉死せず、耿淵にその役を奪われた。それは一生越えられない壁となった。共に死にもしなかったのに、どの面下げて彼を愛していると言えるだろうか?毎夜思い出し、ずっと後悔し続けている。だが、生きることを選んだ理由を考える時、全ては汁琅の忘れ形見のためだという所に行きついた。その思いは、今までの年月ずっと彼の支えとなっていた。

 

「汁琅のいったいどこがそんなにいいの?彼のために死にたいだの生きたいだの思う人がそんなにたくさんいるなんて。」姜恒が尋ねると、界圭は、「たくさんいませんよ。私だけじゃないですか?」と言った。姜恒は自分が言ったことを考えて、そうか、と思った。

「彼は孤独な人でした。あなたと同じようにね。私だけが彼を愛していた。ああそうだ、あなたのためならどんな危険も厭わない人間が、あなたには二人います。ということは、彼の倍ですね。」姜恒は心の中で呟いた。『はいはい、その通りだからもう話は止めて。私は今、一刻も早く兄さんを救わないとならないのだから。』

 

渓谷には薄霧が立ち込めていた。界圭は遠くから犬の鳴き声が聞こえて来るのに気づいた。

「あなたの鷹は?」

「偵察している。」姜恒は空を仰いだ。今では海東青の飛び方をだいぶ読めるようになっていた。「山里に誰かいる。」

「早く逃げましょう。おそらく我々をつかまえに来たのですよ。」

 

 

船頭、洗濯女、占い師、物売り、門番、胡人、

給仕、番頭、御者、兵士、狩人、刺客。

十二人に加えて、血月門の門主。今回の中原での任務は前代未聞の惨敗が続いていた。

門主は深手を負っていた。黒剣を手に入れることができなかっただけでなく、既に9人失っていた。老人は咳き込みが止まらなかったが、薬を飲んでから、すこしずつ楽になってきていた。耿曙が捕らえられたことで、大きな障壁は無くなった。あとは半分死にかけた界圭と武功が人並みの姜恒だけだ。

 

岩に腰を下ろした門主に刺客が言った。「例の鷹が近くにいるのが見えました。」

「黒剣を手に入れろ。輪台に戻ったら、しばらくゆっくり休めるだろう。」老人が言った。刺客は門主をじっと見た。鬼骨鞭は黒剣に砕かれ粉々になり、血月は重傷を負った。あの若者は本当に凄腕のようだ。狩人が口笛を吹くと、一匹の犬が戻って来た。

「彼らは少し離れたところにいます。我らは後を追いましょうか?」

「一緒に行くとしよう。離れ離れにならないように気を付けよう。勝ち目が見えた時こそ、慎重に動くのだ。」

体の大きな兵士がやって来て老人を背負い、沢に沿って山に入って行った。やがて、昨夜、界圭と姜恒が河から上がった場所に着いた。

「どうした?」覆面をつけた刺客が、表情のすぐれない狩人に問いただした。

狩人は犬を見るようにと示した。飼っている猟犬を四匹追跡に出したのに戻って来たのは一匹だけだ。「みんなどこに行ったんだ?」狩人は一人呟いた。

刺客は本能的に何かあると感じたが、その答えはすぐにわかった。

 

渓流の畔に、7、8才くらいの少女が座っていた。黒い袍を着て裸足の両足を渓流に浸けている。足元には猛犬の死体が三つあって、流れ出た血が川の水をうっすら赤く染めていた。

彼女には殺気はなく、刺客ではない。彼らから十歩離れたところに座っているだけで、全く危険な雰囲気はなかったが、それでも黒衣の少女が一人だけでこんな山深くにいる光景は、とても奇異な感じがした。手には一本の剣を持っている。

 

「わしを下ろせ。」老人は彼女を知っていた。少女の名は『松華』、彼女の剣は、『繞指柔』と言う。松華は顔を上げて彼らを眺めた。

「弟子には弟子の規則が、師父には師父の規則がある。違うか?」

老人は応えなかった。重々しい表情で少し後退してから腰につけた細剣を抜いた。

松華はただそれを見ただけだったが、老人は手の震えを止められなかった。すでに鬼骨鞭を失い、重傷を負った体では、松華には三手も出せないかもしれない。

松華は再び言った。「国君には国君の規則が、兵士には兵士の規則が、天子には天子の規則があり、刺客にだってあるのだ。刺客の規則が。」

 

刺客は老人の様子を見て、うかつに手を出そうとはしなかった。自分はきっとここにいる人物の相手ではないかもしれないと思った。

最後に松華は言った。「規則を破るのはよくない。家に帰ってしばらく待つべきだ。」

「私の弟子がすることだ。君には関係ない。」

「関係ない。」松華は渓流の方を向き、冷たく流れる水の様に視線を戻した。「だがお前が手を下すなら、関わらねば。初めにみんなで決めたはずだ。我らが去ったからと言って、お前たちがなぜ勝手に戻って来る?」

「それなら、我らは去ることにする。」老人が言った。

「気を付けて。送らない。」松華はゆっくりと言った。

老人は半歩後退してゆっくりと振り返った。だが振り返った瞬間、松華が手を上げ、軽く震わせた。その場にいた者が同時に大声を上げて退いた。

老人の首の後ろから貫かれた繞指柔剣が喉を突き破って刃を見せていた。彼は、一人の少女の剣によって家畜の様に殺された。手を出す間もなかった。

 

三人の弟子は肝を冷やして退き続けた。松華は追いかけもせず、無表情のまま言った。

「剣はいらない。お前らにやる。」血月の死体を収めようという者はなく、みな次々に逃げて行った。老人は目を見開いたまま、自分がこんな荒れ果てた山の中で死んだのが信じられないようであった。彼の半身は渓流に浸かり、喉から流れ出た赤い血が、紅い帯の様に水の中に流れ出ていた。

松華は立ち上がると森の中へ、ひらりと消え去った。

                   (松華、犬は殺さないでほしかった。)

 

 

第155章 眠れぬ夜:

 

姜恒は天を仰いだ。「追っ手はいなくなったみたい。」

彼は界圭と共に渓谷を離れ、丸一日歩いた。界圭は初夏の柔らかい桃をもいで姜恒に食べさせ、二人は何とか腹を満たした。姜恒は村を探し始めた。

「気を付けて下さいよ。今や全天下があなたを殺そうと追っています。全く空前絶後の大盛況ですよ。」確かに今や全世界が敵となった。郢、代、鄭、梁、雍、どの国も皆彼を殺したがっている。こんなにも天下の敵となるなんて、姜恒自身も思いもよらなかった。彼が死んだ暁には天下人はさぞ喜ぶことだろう。

 

夕闇が迫る頃、姜恒はようやくどこかの村にたどり着いた。そこには安陽から逃げて来た人々が大勢いた。大戦の後、民の中には鄭国へと逃げた者もいれば、まだ陥落していない梁国東方の小城鎮のどこかへと逃げた者もいた。

 

姜恒は最初に界圭を休ませ、次に簡単な情報収集を始めた。十二歳の小梁王は逃がされて、今では崤関に入った。鄭国が軍備を増強し、梁軍を終結させており、梁の復国を計っているところだろう。

逃げて来た民は色々な物資を持って来ていた。姜恒が最も必要としている薬や、変装用の芋の粉もあった。先ずは界圭の怪我を治さなくては。肉まで切れた手に薬を塗りなおして包帯を巻かなくては。界圭は失血した後、水に落ち、高熱を発していた。熱を下げようと、姜恒は倍の量の劇薬を煎じて、飲ませた。「きっと持ちこたえるから、ゆっくり休んで。」

界圭は見捨てられた子供の様に、全身汗びっしょりになって、とこの上で呻き続けた。

姜恒は芋の粉を捏ねて硝や明礬を混ぜ、変装の準備をした。

夜半過ぎ、界圭の熱がようやく下がって来た。

「何で私が耿淵の息子なんか気にしなきゃならないのです?」界圭は夢を見たのだろう。目覚めて第一声がそれだった。

また始まった。姜恒はそう思った。

「そうだ。何であなたが耿淵の息子なんか気にしなきゃならないんだろうね。あなたと彼は敵でも友でもなかったのに。さあ、顔を変えさせて。どんな風になるか見てみよう。」界圭はじっとして、姜恒にされるがままになっていた。

「二人で逃げましょう。お兄上にはかまわずに。」

「一人で行って。私も耿淵の息子だよ。」

界圭は何とか笑ってみせた。「すっかり忘れていました。」

「あなただけじゃなくて、みんな忘れているんだよね。」

黄河沿いでの話は皆に注意を促すためのようなものだ。この世の中でたった一つだけの、最後の未練を奪い去られた時、姜恒だって敵を巻き込んだ共倒れはできるのだと。

玉壁関での暗殺未遂など、傷が治った汁琮はもうその痛みを忘れてしまったらしい。

 

 

―――

安陽城南、大牢の中。

耿曙は全身汗だくだったが、奇跡的に生き伸びていた。再び少しずつ視力が戻り、内傷の痛みもわずかに残るだけだ。彼は天窓の柵を見上げた。ひょっとしたら逃げ出せるかもしれない。だが、屈分は先に想定していたかのように、徹底して食事も水も与えないようにしていた。耿曙の喉はひりひり痛んだ。少しでも水を飲み、腹を満たさねば、傷が癒えたとしても力が出ない。

 

外は守衛だらけで、彼には武器もない。その時、遠方から軍隊が動く音が聞えて来た。

また戦いが始まるのか?姜恒はどこへ行ったのだろう。安全でいるだろうか、血月に追われていないか。安陽では再び一触即発で開戦となりそうな状態だった。ほんの一月の間に、この千年の古都では有史以来最も立て続けに戦乱が起こっている。だが今日の所は、まだ郢軍は北城を強攻してはいない。少なくとも今のところは。城中の人々が山道を上って、四方八方の山の頂からその様子を怯えながら見守っていた。

 

数万もの郢軍が地を巻いて、城南に陣を開き、雍軍は城北から王宮を越え、郢軍と遥かに対峙している。梁都の主要道である飛星街を境として、双方待ちの態勢をとっていた。屈分と項余が全身を武鎧に包み、馬に乗ってゆっくりと前に出て来た。

汁琮、汁綾、曾宇も雍軍側に並んで、郢軍と向かい合った。汁琮は二日前の出来事について、将校たちや妹と話すつもりはなかった。そして今でも血月が姜恒の頭を持って来るのを待っていた。だが目下の所、外敵がいる。先に外敵を始末しなければ。

 

「雍王陛下、」屈分が朗らかに声をかけた。「いつになったら約束を果たしていただけるのでしょうか。」

「約束とは何だ?」汁琮は冷たく言い放った。「孤王は何の約束もした覚えはないが。」

屈分は笑顔を浮かべた。「話をしましょう。そちらには一人足りないようなのに、まだ気づいていないのですか?」

汁琮は朗らかに言った。「話があるならすればいい。君たち南方人の掛け合い漫才には慣れん。話がないならもう帰ってくれ。」

汁綾の顔が青ざめたが、言いたいことは飲み込んだ。

屈分が再び言った。「いいでしょう!ずばり言うことにします。お互い蛮夷同士、蛮夷の規則に従うことにしましょう。」

「自分を蛮夷と言うのはいいが、それは君たちだけだろう。なぜ孤王まで一緒にする?」

「あなたの息子を預かっています。彼の命はいらないのですか?」

 

雍軍兵たちは瞬時に大騒ぎとなった。皆、二日前の出来事のことは聞いていたが、何故汁琮が王子汁淼を手にかけたかはわからず、話はどんどん行きわたり、大きな噂となっていた。

だがまさか郢人が恥知らずにも堂々と雍国王子の命を使って脅しをかけて来るとは!

 

汁琮は応えなかったが、汁綾は冷たく問い返した。「何が欲しいの?」

屈分は答えた。「すぐに兵を連れて安陽を出て行くことです。それと金璽を渡してください。もう何日も立っていますよ。急いでください。もうここにあるのでしょう?そして玉壁関にお戻りを。機会があれば、またやりあいましょう!」

雍軍は怒りに沸き立った。これ以上ない憤りを込めて屈分をにらんだ。だが汁琮は言った。

「息子?息子とは誰だ?我が息子は落雁城にいる。他にどんな息子がいると言うのだ?」

 

屈分は汁琮が自分より更に恥知らずだったとは思っていなかった。彼の表情が一変した。つい先日、汁琮は王宮正殿で会った時に、自ら言っていたではないか。

『私には息子が二人いる。一人は落雁にいて、もう一人は君の目の前にいる。』

確かにそう言った。今になってそっぽを向いて知らぬというのか?屈分としては言い争う気はなく、冷笑するしかない。

「それでは、明日朝一番に、この場で彼に死を与えるしかなさそうですね!」

「それはご苦労なことだな。」汁琮は自分としては全くかまわないという意味を込めて言った。「明日は我らも参観させてもらおう。出立!宮へ帰るぞ!」

屈分:「……。」

雍軍はあっという間にきれいさっぱりいなくなり、屈分の当ては外れた。

項余は気楽な態度で一枚の桃の花びらを手のひらから放った。花弁は風に吹かれて自分の方に飛んで来た。ここ数日、西北からの風が吹いているようだ。

屈分は項余を見た。項余は言った。「お前が自分で言ったことだ。うまくいかなかったな。」

「奴はどっちみち死ぬことになっていた。」屈分は怒り心頭で馬を走らせ去って行った。

 

 

―――

まだ一日猶予があるかどうか姜恒にはわからなかったが、事態が急を要すことはよくわかっていた。彼は村で二頭の馬を買い、郢軍の服に着替えていた。海東青が飛んで行く方向に、界圭と二人、馬に鞭を当て、急ぎ安陽城に戻って行った。

待っていて……。姜恒は心の中で何度も言い続けた。兄さん、絶対に私を待っていてね。

そしてこの時、雍軍大営内では大騒動が沸き起こっていた。動乱と言えるほどだ。兵士たちは出撃命令を請い、王子を助け出しに行くことを求めた。安陽では今にも大戦が始まりそうだ。郢、雍双方は城の南北に分かれて強弩を架け合っていた。

 

耿曙はあの日、先頭に立って、血まみれになりながら雍国のために安陽を奪い取った。その姿は記憶に新しい。彼は全てを賭けて、命の限り戦って雍国を勝利に導いた。父は雍国の国士、息子は雍国の英雄だ。耿家は雍国のためにこんなにも多くを差し出したのだ。その彼に敵の手の中で屈辱的な死を与えることなどできようか?

 

汁綾は軍帳の中で、足の靴ひもを結んでいた。夜行服に身を包んでいる。様子を見に来た汁琮が、自身の軍隊を目にした。馴染みのある光景だ。―――あの年、耿淵の死が伝えられた夜も、軍中にはこんな破裂寸前の空気に満ちていた。全く一緒だ。

「どこに行く気だ?」汁琮は汁綾の軍帳に来た。部下は屏の外で待たせている。

「てっきりあなたは誰かを遣わして彼を救い出すつもりかと思っていたわ。」汁綾が言った。

「狂ったのか?十万の郢軍が城南に駐屯しているのに、お前は三千の兵を連れて忍び込む気か?奴らが今夜、それに備えていないとでも思っているのか?」

汁綾は怒りのあまり叫んだ。「だったら彼を死なせるの?!あなたの実の息子ではなくても、耿淵の残した子なのよ!雍国兵たちに言えるの?彼は自分に背いたって!だから救わないつもりだって!しっかり目を見開いて彼が死ぬのを見るつもりだって!」

汁琮は汁綾に返す言葉がない。彼自身にも説明できなかった。

汁琮は曾宇に言いつけた。「公主をよく見張っておけ。どこにも行かせてはならん。」

汁綾は突然剣を掲げて立ち上がった。だが長兄には備えがあった。軍営は刹那ざわついた。汁琮は汁綾に思い切り拳で殴られ、営帳外にまでふっ飛ばされた。

 

「陛下―――!」

すぐに親衛隊が押し寄せて来た。汁琮は目の角についた血をこすり落とし、ゆっくりと立ち上がると、曾宇に命じた。「彼女を玉壁関に送り返して、頭を冷やさせろ。」

曾宇は答えた。「はい。」

汁琮は厳かに告げた。「汁淼は敵の手に落ちた時、遺言を残したのだ。自分を救わないようにと。彼の元で戦った兄弟たち、将校たちには彼の死にざまを目に焼き付けてほしいと。永遠に忘れずに、いつか復讐を遂げてほしいと。」

 

曾宇は応えなかった。汁琮は再び言った。「長く生きたとて、死なない者がいようか?彼は自分の人生の終え方を早くからわかっていた。彼の英魂は大雍を守ってくれるだろう。いつか、江州王宮で再び会える。」曾宇は黙して語らなかった。汁琮が言った。「覚えたか?」

曾宇は答えた。「しっかり覚えました。」

「なら行け。」汁琮はそう命じながら、目の角を押さえた。汁綾の一撃は強かった。目の周りがじんじんと痛んだ。

 

死者の最後の言葉を作るのが彼は得意だ。操れない者は殺すしかない。だが殺すにしても、最後までその死を有意義なものにしなければならない。汁琮は誰にでもその人なりの価値があると信じている。生まれて死ぬまでに行う全てが、その価値には含まれる。

耿曙は、物として用い尽くした後も、彼の放つ余光、余熱が雍軍の士気を鼓舞してくれる。兵が哀悼する力を借りて、全軍に復讐の気持ちを湧き起こせれば、いつか江州を攻撃するときに都合がいいだろう。

汁琮は正殿の前に立って、心の中で言った。『君の息子はわからずやで私に背いた。これで君たちは一家三人、空の上で一家団欒できるだろう。」

 

知らせは万夫長以下、千人隊へ、更に百人隊へ、そして十人隊、五人隊へと伝わり、一夜にして全軍が知ることとなった。八万人が眠れぬ夜を過ごした。

安陽に最後まで残っていた人達も、この夜、先を争うように王都を出て行った。彼らの住処は、明日には空前絶後の大戦を迎えることになるからだ。蹄鉄の下、誰一人生き残ることはできないだろう。人々は潮が引くように南門に向かった。項余の部下である軍隊は姜恒との約束通り、城門を開けて、彼らを自由に出て行けるようにした。

そして安陽に残っているのは郢軍と雍軍だけとなった。明日の朝、耿曙の公開処刑が行われた後には、双方不死不休の決戦が待っているのであった。

 

 

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 146-150

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第146章 絶密令:

 

耿曙が頭を上げると、そこには武英公主がいた。近くにはもう一羽の海東青が天を旋回していた。武営公主は長い髪を下ろし、月の光の下、白袍を身に着けていた。袖を上げて白い腕を出して裸足の足を渓流の冷たい水に浸し、月光に顔を照らされた姿は山に住む仙女のようだった。目の前にいるこんな佳人が塞外の女武神だとは誰が信じようか。

 

「驚いたでしょう?」武英公主は耿曙の呆けたような表情を見て面白がった。

「どのくらい連れて来たのですか?」耿曙はすぐに平静を取り戻した。汁綾が来ることはとっくに予想すべきだった。驚くことではない。

「三千よ。風羽を見つけたので足取りを追って沢沿いに来たの。あんたの父さんはカンカンよ。」二人は小川を隔てて向かい合った。耿曙はしばらく考えてから言った。「父王はご存知なのかと思っていました。」

 

「姜恒にやらされたの?家族の間では隠し事はなしよ。言われなくてもわかるでしょう。」

「隠し事などありません。全て大局のためです。あれは俺の判断でした。照水さえとってしまえば、あなたたちが玉壁関を出て安陽を攻撃できると思ったのです。」

「色々考えるようになったのね。」汁綾は淡々と言った。

汁綾は朝政、特に文官たちの決定に干渉することはめったにないが、汁琮が陰で姜恒を攻撃していることには気づいていた。衛卓の目つき、兵力の異動、人事任命、軍権の制約、耿曙が持つ軍権の制約……。そうしたことをたどっていくと、すべての兆候はある可能性を指していた。:耿曙は汁家を裏切るかもしれない。

 

「彼は何と?」耿曙は立ち上がって尋ねた。

「何も。」汁綾はおどけた調子で言った。「あんたの弟が一晩かけて許しを求めたおかげで、少なくとも今はあんたを煩わせないと決めたのよ。一度会いに行った方がいいわ。」

「後にします。今は目の前のことをしっかりこなさないと。」

汁綾は疑わしそうに耿曙を見た。この期に及んでも彼は一応雍国のことを考えている。そうでなくては趙霊が通りそうなところで梁への援軍を待ち伏せ攻撃しようとは思うまい。こんなことをする理由はただ一つ、雍への忠誠だ。

だが彼は以前とは別人のようになった。以前は感情のない野獣のようだった。噛めと言われれば、ただ向かって行った。今では自分の考えを持ち、自分で決断を下す。全て姜恒が来たことがきっかけだ。汁琮はそれに我慢がならないのだ。汁綾はそう考えていた。

 

「こちらに同行しますか?」耿曙は尋ねた。

彼は汁綾に真相を告げなかった。その理由は第一に証拠がないこと。第二に汁綾を自分と同じような状況に置きたくなかったからだ。秘密を知れば選択を迫られる。汁琮につくか、それとも汁琅の忘れ形見につくか。どちらにしても彼女には残忍な仕打ちだ。そんな思いをするのは自分だけで十分だと耿曙は思った。

 

「やるわ。」汁綾は立ち上がった。「来たからにはやる。だけどやはり、全部決着がついたら、あんたは父さんに会った方がいい。さもないと、あの人の気性ではどんな結果になるかわからないわよ。その時になって注意しなかったとは言わないでね」。

耿曙は背を向けて、汁綾に見守られる中、森の中に消えて行った。

 

―――

早朝、霧の中から鳥の声が聞えて来た。恐ろし気な声に姜恒は驚いて目を覚ました。「今のは何?梟かな?」姜恒は慌てたが、兵たちにもわからなかった。

あまりに短くて姜恒には判断できなかった。護衛が項余に報告し、すぐに返事が来た。「将軍の話では梟だそうです。それと、すぐに戻って来てあなたと一緒にお茶を飲むとのことです。どうぞご心配なく。」

 

姜恒はとても早く目覚めた。項余と一緒に郢国を離れ、一路北上し始めてから数日たった。玉衡山をまわって先ずは照水に行く。これは海閣を離れる時に通った道だ。あの年は洪水で川が氾濫していたが、今では山間部も青々として生命力にあふれていた。

項余は今回、姜恒を護送するのに、二万もの大軍を連れていた。これは郢国が出せる兵の全てということになる。郢国兵は十二万、そのうち八万は水軍で既に北上している。項余に陸軍二万を与えれば、残るは御林軍一万と江州を守る一万だけだ。

 

「なぜこんなに大勢連れて来たのですか?」姜恒は意外に感じた。項余は言った。「照水から梁人を追い出して南に向かわせ、照水を駐軍要地とするためです。」

それは郢国挙げての政策だ。汁琮はすぐにでも安陽を占領するだろう。将来郢国が中原で覇を競うなら、照水が雍の勢力と直接対峙する前線になるため、強固にしておく必要がある。照水を奪ったことで、郢国は天下統一への大いなる第一歩を踏み出したのだ。

 

「あなたの提言ではなかったのですか?」項余は姜恒のために茶を淹れていた。手袋をした手で茶葉を一つかみ取ると急須に入れる。

「ああ、確かにそう言いました。でも聞いてすぐ行動に移すとは思いませんでした。」

「あなたのおかげで大助かりです。最初はこんなに大勢集まって頭が痛む思いでしたから。」

姜恒:「?」

項余は煮出した茶を姜恒に渡し、しばらく考えてからまた言った。「あなたの見方はいつも賢いですから。いきましょうか。一日早く照水につけば、一日早くお兄上に会えますよ。」

 

軍が動き出した。姜恒は、彼の天幕を片付ける兵士の中に知り合いがいるのに気づいた。「あれ!帰って来たんですね?」姜恒は彼に笑いかけた。その若者は姜恒に気づくと、不自然な笑顔を見せて拝礼した。それは項余の家の御者だった。郢都に着いたばかりの時、姜恒たちを乗せた車を御し、通り道で見られる風土や人情を紹介してくれた。

 

「久しぶりですね。」きっと項余の妻が旅に出る夫を心配して、家臣を同行させたのだろうと姜恒は思い、ちょっとおしゃべりでもしようと思ったのだが、御者の若者はゆっくりと後ずさりながら、首を振り、何も言わずに行ってしまった。若者が背を向けた時、彼には両腕がなく、袖の中に何もないことに姜恒は気づいた。兵の一人が言った。「彼は太子に両手を切り取られ、舌も抜かれたのです、姜大人。あなたの話にお答えはできません。さあ、こちらへどうぞ。」

「いったいどうして?彼はどんな罪を犯したの?」

「わかりませんが、言うべきでないことを言ったのかもしれません。もう行かなくては、大人。」何かまずいことがあったにちがいないと思った姜恒は項余の元へ馬を走らせた。

「あなたの家の御者に一体何があったんですか?」姜恒は信じられない気持ちで尋ねた。

「項武と言うんです。小武と呼んでやって下さい。よく言うことを聞く子ですから、一声かければすぐに来ますよ。」項余は少しも驚いた様子もなく言った。

「私が言いたいのは……なぜ舌を抜かれてしまったの?あの日車に乗っていた私と聶海に、言ったことがいけなかったのですか?」

項余は馬を走らせて、ゆっくりと先頭についた。後ろにはどこまでも続く軍隊がついてくる。

「姜恒、あと三日で照水に着きますよ。」

当たっているのだ、と姜恒にはわかった。――項余が何も言わないのは、正しいからだ。だが姜恒はどうしても聞きたかった。「どうしてなの?」

「汁琮ならしないとでも?理解できませんか?」項余は嫌そうな顔をしないようにしたが、難しいようだ。姜恒が何も言わないと項余は「だから言ったでしょう。郢国王室に良い人間など一人もいないと。根まで腐りきっている。」

姜恒はしばらく黙り込んだ後で言った。「小武が私たちを連れて行ってはいけないところに連れて行ったからなのですね。」

「そうです。太子安が外国からの客の前で顔をつぶされた。今回連れて来るべきではなかったのですが、彼は照水に住む方がいいかもしれないと思ったのです。ただあなたに見られるとは思いませんでしたが。」

 

突然、項余は笑い出し、やさしい表情をとりもどして言った。「姜大人。」

その時姜恒は気づいた。項余は優しい笑顔の奥に、深い深い恨みを隠しているのだと。「今でも太子安を選びたいとお考えですか?」

「私は…」冷たく悲哀に満ちた語気に変わった。「以前は思っていたのです。自分が誰を選ぼうと、未来の天子に仕立て上げられる、少なくともその希望はあると。」姜恒は長いため息をつき、薄霧の向こうを見つめ、苦しそうに話を続けた。「でもようやくわかりました。自分には何も変えられない。自分はうぬぼれていただけだったのだと。」

項余は笑いながら言った。「そんなに卑下しなくていいでしょう。あなたは確かにたくさんの人を変えたことだと思いますよ。ただ言うなれば、これは彼らの問題なんです。」

「慰めてくれなくても大丈夫です。」姜恒は疲れたように言った。

諦めた方がいいのだろうか。この時初めて彼は思った。

 

「私にはなぜか予感がするのです。」項余は思いを巡らせるような表情で言った。「照水に着いたら、もう一生私たちは会えないかもしれない。そして、ある日あなたが郢都に行ったら、郢国は既に亡国となっているかもしれない。」

これから進む未来への道で何が待っているのか、姜恒にはわからない。だが項余の言葉は不吉に感じた。そこで姜恒は淡々と言った。「そういうことにはならないかな。死ぬのは恥を知るものばかり。恥知らずな面々は一向に変わらないものでしょう。」

 

「確かにそうですね。」項余は賛同して頷いた。「ところで、出発前に、殿下に密令を申し付かりました。屈分将軍に渡さなければなりません。」

「密令だったら、言ってはいけないとわかっているでしょう。密令を覗き見るのは褒められたことではありませんよね。」姜恒はそう答えた。項余は考えた末に言った。

「もう全部見てしまったので、自分一人の胸に納めてはおけません。あなたにも知っておいてほしいのです。『この世に永遠の敵はいず、永遠の友もいない。』といいますから。」

「そうですね。」今の言葉からすでに密令の内容が推察できた。実際自分が江州について間もないころから、項余は折を見て暗示していた。―――郢、雍同盟はもろい。いつ裏切られてもおかしくない。だがその時が、こんなに早く来るとは思ってもみなかった。

「逆もまた叱りです。永遠の友はいないが、永遠の敵もいない。私たちは友のままでいられると思いますか?」

「密令の内容は?」最後に姜恒は尋ねた。

「屈将軍に北上させ、黄河に沿って秘密裏に行軍し、鄭人に紛れ込んで、汁琮を襲う。雍国を玉壁関に戻らせて、安陽城を取れば、大戦果をあげられます。」

「残念ながら鄭人は私が先に追い払ってしまった。」

項余は笑った。「だから思ったのです。今日大人は謀りごとは嫌いに見えて、いつでも全てを計算に入れている。」

「太子安は照水を得ただけでは飽き足らず、安陽もほしいのか。……欲張りすぎだな。でも勝者が全てを欲しがるのは、世の常か。」そして少し考えてみた。

「だけど策はある。みんな仲良しのまま、屈将軍にも項将軍にも円満に任務を完了してもらえる策が。」

項余は頷いた。「ぜひお聞かせいただきたい。」

 

―――

第147章 鳴り終えた琴曲:

 

目の前を流れる賓河に沿って逆流する方向に進むと、源流のある地、照水にたどり着く。海東青が再び飛んで来た。持って来た報告書によれば、耿曙は崤山の西道で、武英公主と共に伏撃を成功させたとのことだ。その夜、鄭軍は耿曙の待ち伏せにはまり、形勢は瞬時に逆転した。耿曙は百里もの山林を焼き、落雁の一戦での王都の恥辱を晴らした。車倥亡きあと、鄭国は若き王族将軍趙崢に兵を任せた。年若く実戦経験に乏しい将軍は判断を誤って慌てて逃げて行き、三万の鄭軍は混乱した。

 

汁綾は機に応じて一万余を滅し、三千余りを捉えた。二羽の海東青に代わるがわる攻撃を受けた趙崢将軍は闇夜の中、馬の脚を踏み外し、崖から落ちて粉々に打ち砕かれた。残りの鄭軍は崤関に逃げ帰り、雍軍の待ち伏せ攻撃は大勝に終わった。そしてすぐに、耿曙と武英公主は兵を戻らせ、安陽に向かった。

 

梁国に終わりの時が来ていた。大戦があまりにも迅速に起きたため、群臣たちに備えはなかった。重聞亡き後、軍には名将はおらず、士大夫たちは権力争いに明け暮れた。重聞の族孫、十七歳の重劼が兵を率いて城を出た。叔祖父の仇である汁琮を相手に城外で戦ったが、梁軍はすぐに大敗した。重劼は汁琮にたったの一太刀で人馬共々真っ二つに切り殺された。汁琮の手には耿淵の黒剣が握られていた。黒剣を見た瞬間、梁国の誰もが、十五年前の悪夢を思い出した。

 

「投降し、献城せよ!」汁琮は気楽な調子で黒剣を一振りして鮮血を散らすと、背に負った剣鞘に収めた。「孤王はお前たちを死なせたくないのだ!」

曾宇が馬を走らせ、急ぎ汁琮の後ろに来た。汁琮は何か話があるのかと顔を向けた。汁琮は今、自分の戦績にとても得意になっていた。姜恒に剣を受けて以来、長い間、自ら兵を率いて出征していなかった。今こうして見ると、自分は今でも天下を征伐できるのだ。戦いの場を離れてもうずいぶん長いが、こうして安陽を囲い込んでいるとすぐに若き日に戦場で味わった殺戮の狂喜が蘇って来る。

今はただ人を殺したい。黒剣を振るって情け容赦なく切り殺し、人が死ぬ前に一瞬見せる驚愕の表情を味わいたかった。助けを求める叫び声を、それまで体を巡っていた血液が噴出してくる光景を楽しみたかった。

こうでなくては!

この瞬間、汁琮は心の底から満たされていた。自分はこの城の六十万の生死を決める神だ。これこそが天道だ!

 

「話せ。」

「殿下と武英公主が落ち合い、間もなく到着します。」曾宇が小声で言った。「彼らは趙崢を大敗させ、鄭軍はすでに崤関に退きました。」

「奴にも良心があったか。」汁琮は冷たく言った。「梁人どもに三日与える。三日たったらすぐに攻城を始める。」曾宇は全軍に命令を伝え、汁琮は最後の期限が来るまで我慢し始めた。

 

二日目の夜、安陽は未だありもしない援軍を待っていたが、来たのは耿曙の鉄騎だった。地平線の上を流れるように進む鉄騎は天を震わせ地を轟かせた。耿曙の部隊は『姫』と書かれた王旗掲げ、城の西側に集まった。これで、北、西の二方向の全てが雍軍となった。十万の雍軍が城を囲み、城内には二万の梁軍だけがいる。

 

「あんたたちの親戚は来れないよ!」汁綾は血肉のぬめる趙崢の首を、城楼高所に向かって持ち上げた。汁琮が馬を走らせ前に出て来た。これで彼の主力部隊全員が揃った。耿曙は遠くから汁琮を見た。胸の中に言葉にできない思いがあふれた。汁琮は耿曙を一瞥したが、何も言わずに城楼高所を見上げた。「投降せよ。」汁琮は言った。「孤王は梁候に存命の機会を与える。大人しく従え。」

 

耿曙は汁琮の言い分にかまわず、叫んだ。「梁王!」大軍は静まり返り、よく通る耿曙の声だけが空の下で響き渡った。「かつて洛陽に兵を送り、天子を死なせたあの時に、この日が来ることを考えたか?」

 

汁琮はひやりとした。こんなに月日がたっても耿曙があの時のことをずっと覚えていたとは思いもよらなかった。汁琮から見れば、自分を守る能力もない天子を殺すことなど、家畜一匹殺すのと変わらなかった。だが誰もがすっかり忘れ去った事実に耿曙は未だに執着し、五国国君を罪に問おうとしている。掲げられた『姫』王旗がその資格があることを世に示していた。ただの大義名分にすぎない。だがその大義は汁琮を不快にさせた。

 

「今こそ天子に替わって責任を問う。城門を開けよ!問答無用だ!」

それを聞いて、城楼高所に人の群れが現れた。老いも若きもいる。それは梁国大臣と大臣たちに囲まれた十二歳の少年梁王であった。

「雍王よ。」澄んで脆いが何者をも恐れない声が一字一句はっきりと告げた。「お前は耿淵に我が大梁の先王を殺させた。血の仇は未だ忘れ得ず。この十五年、梁人はお前の肉を食らい、お前の皮に寝ることを……。」

汁琮はそこまで聞いて、投降する気がないと知ると傲慢にも聞き終えることもせず、馬に後ろを向かせて、離れて行った。少年梁王は深く息を吸うと叫んだ。

「全城軍民、死んでも降りず――――――!!」

 

雍軍が攻城を始めた。夕闇が迫る中、油缶が投げ込まれ、火流星の如く城内に飛んで行った。巨石が飛び交い城壁を攻撃する。一万一千もの兵たちが、梯子を押し上げ、城楼に登って行った。

汁琮は敵の士気が瓦解する最後の一刻が来るのを天幕の中で松の実を剥がして食べながら待っていた。これは彼にとって、関を出て初の戦いで、とても重要な一戦だ。必ず大勝利を収めねばならない。そして四国に武を示し、彼らに告げるのだ。自分こそが天下一の戦神だと。だが、目の前の戦況は、安陽の堅固さを彼が見誤っていたことを告げていた。

 

汁綾が主天幕に入って来て、兜を脱ぐと顔を洗った。すぐに水盆は真っ赤に染まった。「暫時撤退するよう言った方がいい。苦戦しているわ。」

汁琮は表情を曇らせた。「既に言うべきことは言った。何としてもねじ伏せるのだ。さもなくば我らの面子はどうなる?」

汁綾はあきれたように言った。「何もしなければ、城内の人間は皆命を落とすわ。この様子だと三日たっても城は落とせない。例え障壁を越えたとしても城内を制するのは難しいわね。」

「汁淼はどうした?」汁琮は応えず、逆に問いただした。

「彼と彼の兵たちは最前線にいる。死者数を聞きに行ったら、すでに千人隊が四つ犠牲になったそうよ。」

「ここに来させろ。話がある。」汁琮は沈んだ声で言った。

汁綾はため息をついて、布巾で手を拭いた。「来ないと言っていた。今は戦闘に集中したいから後で話すって。」

汁琮は怒鳴り声をあげた。「攻城戦で命令も聞かずに先頭に立ち、戻って作戦の相談もしないとは。姜恒にそういわれたのか?!」

 

「作戦なんてあるの?」汁綾もそろそろ我慢の限界だった。「あなたの面子のために、戦濠も掘り終わっていないのに攻撃に出ているのよ!陸冀の役立たずに何かものすごい戦術でも出させたと言うの?私はあの子に少し休めって言いに行くわ!あの子は三日間急行軍で駆けつけて、一口の水も飲まずにつれて来た兵全てを差し出してあなたのために戦っているのよ。食事さえずっととってないんだから!」

 

汁琮は立ち上がった。いらだちを押さえられない。自分の八万の主力部隊は未だ動かしていない。攻城とはそういうものだ。先に出た者が先に死ぬ。耿曙は最も忠実に命令に従う将校ということになった。

汁綾が言った。「私に八千ちょうだい。」

汁琮は妹に兵符を渡した。汁綾は天幕を出る時、振り返って言った。「城を逃げる別の道がないか確かめに行ってくる。万一梁王が代国方向に逃げるとしたら、東門を開けるはず。」

汁琮は言った。「汁淼に攻城を続けろと言え。兵は死んだらまた集めればいいが、安陽を落とせなければ、我が生涯で二度と玉壁関を出ることは望めまい。」

 

攻城戦は洛陽陥落後、最も熾烈を極める戦いとなっていた。兵たちは途切れることなく前線に送られ、耿曙の兵力の消耗は激しく、一万人近くが死んだ頃、遂に城壁に突破口が開いた。

 

曾宇の主力部隊がついに出てきた。三万人が補充されたが、すぐに城内の梁軍が命を顧みずに押し寄せ、双方は膠着状態に陥った。耿曙にあと二万も親兵があれば、突破口を広げることもできたかもしれない。だが、彼の兵は減っていく一方なのに対し、曾宇の部隊は不慣れで、戦果を見て兵を補充することくらいしかできなかった。

 

耿曙は顔を灰で真っ黒にし、全身血まみれだった。先頭に立って城楼を攻めたが、梁軍に押し返された。背後に続く兵たちは自分たちの主師が自ら雲梯を駆けあがって行くのを目の当たりにして、死んでも退かぬ覚悟で戦った。(李信タイプね)

 

二日目の午後、空が暗い雲で覆われた。中原大地に雨季がやってきた。この雨の中、戦いはいつ終わるとも知れない。汁琮は天幕を出て空を見上げた。暴風雨となれば、城璧を越えるのは更に難しくなるだろう。

「全軍出動。」汁琮が命じた。「雨が降る前に西門を突破するのだ。皆汁淼の援護をせよ!すぐにだ!」

残り五万の大軍が戦場に投入された。城壁の下は積み重なった死体でいっぱいになった。生きている兵たちは同胞の屍の上を越え、再び雲梯を架けたが、高所から豪雨のように矢が降って来た。

 

耿曙は肩と大腿部に矢を受け、傷を負ったが、簡単に包帯をしてまた戦場へと入った。雍軍は緋色の『姫』王旗に従って、猛々しく戦った。一時、王旗が戦場の中心となった。梁人にも命運が尽きる時が迫っているのがわかった。ただこの攻勢の波を押さえ、亡国への運命に抗うだけだ。それが天下の未来の命運を決める限り。

 

双方の生死を決める最終決戦だ。すでに互いの持てる力も尽きかけている。汁琮は自分の軍隊が絶えず減り続けるのを目の当たりにし、ひそかに恐れを抱いた。――万が一安陽が落ちなかったら?

城を滅ぼしてやる!安陽を奪った暁には絶対に城を滅ぼす!頭の固い奴らを皆殺しにする。梁軍であろうと民であろうとだ。

 

彼は頭に兜をつけ、自ら戦場へと進んで行った。彼の養子が作った戦況の中に、最後の大戦を投入するのだ。彼には耿曙がどこにいるか見つけられなかった。目の前にはただ緋色の王旗が掲げられている。まるで姫珣が未だ死なず、趙竭の意志が耿曙に乗り移り、彼の軍隊を指揮しているかのようだ。

「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」

 

三日目の正午、城南から大声が上がった。刹那、雍軍は頭を上げた。

「南門が破れたぞ――――――!」城内から大声が伝わってきたが、耿曙は血で耳が塞がっていた。聞き間違いかと信じられないように尋ねた。「何だと?なんと言っている?」

将校が叫んだ。「殿下!敵の南門が壊されました!陛下があなたにすぐに城壁を奪うようにと命じられました。」

すぐに一騎やって来た。曾宇だ。曾宇は『汁』黒旗を掲げて叫んだ。「王子殿下!陛下があなたに城壁を奪えと命じています。あなたに渡すようにと、これを!」

 

曾宇は黒剣を耿曙の手の中に渡した。耿曙は留めてあった皮革を開いて剣鞘から黒剣を取りだした。汁琮の考えがわかった。『ここはお前の父が死んだ場所だ。彼の剣をお前にやろう。何をしようと、きっと力になってくれる。』

すぐに耿曙は叫んだ。「我に続け!必ず城壁を取るぞ!」

雍軍は狂ったような攻勢をかけた。梁軍はなぜか、大部分が西城壁から撤退していて、抵抗が減っている。雍軍はすぐに海のごとく城壁に押し寄せて行った。

安陽の命運が決まった。

 

弦が鳴ったような気がした。耿曙はついに十五年前、父が起こした琴鳴天下の余韻を聞いた。その琴の音は安陽に十年以上響き続けていたが、耿曙が来た瞬間、ついに完全に消え去った。彼は城楼に登って安陽の南を眺めた。六十隻の巨大な郢国船が停まっていた。白い帆が林立している様は、高く架せられた巨弩に見え、まるで父が空から神の兵器を持って助けにきてくれたかのようだ。

そのうち一隻の船首に小さな黒点があった。二羽の海東青が空を羽ばたき、千帆が競漕する中を、雄鷹が飛んでいた。あれは彼だ。姜恒に違いない。

 

安陽城が破れた。郢国水軍は守備がいなくなった南門を占拠した。梁軍は敗走し、王宮に逃げ帰った。その後雍軍は郢軍と合流し、どこもかしこもで殺し合いとなって、全城を席巻した。

梁人は山の上にある安陽王宮から矢を放ったが、無敵な十余万の連合軍を前に、逃げたり、死んだりし、梁都安陽は陥落した。

 

耿曙は馬を走らせて、風羽を追って城南の大通りを走って行った。姜恒が、項余と屈分の二人と話しているのが見えた。姜恒が笑顔を彼に向けた。

耿曙は馬から飛び降り、姜恒に向かって行った。姜恒も彼に向かって走って来た。耿曙は自分が全身血まみれなのに気づいたが、姜恒は全く気にせずぎゅっと彼を抱きしめた。「あなたは安陽に来るってわかっていたよ。」姜恒は彼を責めなかった。それどころか、耿曙ならそうするはずだと思った。

 

耿曙は姜恒を腕に抱いたが、両手は血まみれだったため、彼に触れようとはしなかった。「俺は彼に会って、問いただそうと思っている。」

姜恒は耿曙の耳元で言った。「どうして私を呼んでくれなかったの?私たちはどこでも一緒、そうでしょう?」耿曙は頷いた。

 

屈分が笑いながら言った。「まさに郢、雍に二国による最初にして最大の合作ですな。」耿曙は項余と屈分を見たが何も答えなかった。雍軍は安陽をとることに成功した。だが郢軍も城に入って来た。汁琮にとっては再び面倒なことになった。郢軍は城の東南を占拠し、雍軍は城の西北を占領した。この後、どうなるのだろう。項余が尋ねた。「雍王に会いに行きますか?」

姜恒は遠くを見ながら答えた。「私は急ぎませんが、あなた方は?」屈分が言った。「当然我らも急ぎません。雍王が我らにどう感謝するかわかりませんしな、ハ、ハ、ハ。」

汁琮はあなたに引っ掻き回されたくないに違いないけどね、と姜恒は思った。だが郢軍の助けがなければ、雍軍が安陽をとれたかどうかわからない。汁琮が表面上はきっと国君としての自制を保ち、彼らを追い出さない方に賭ける。

次に来るのが条件についての話し合いだと言うことは誰の目にも明らかだ。郢軍を撤退させるために汁琮は何らかの誠意を示さねばならないだろう。

 

 

―――

第148章 琴鳴殿:

 

姜恒が思った通り、曾宇が馬を走らせてきた。「王子殿下、姜太史、並びに郢国将軍のお二方、雍王が宮内で皆さんと議事を行いたいと申しております。」

姜恒は曾宇に言った。「殿下に少し休ませてあげて下さい。彼は疲れ切っています。曾将軍、帰って王に伝えて下さい。少し休んだら、二人一緒に伺いますからと。」

 

耿曙は崤関から急行軍でやって来て休む間もなく戦場に身を投じた。その間目を閉じて休む間もなかった。更に攻城が終わるや否や、姜恒の元に来た。彼の体力は既に限界を超えている。耿曙が頷くと、曾宇は何か言いたそうだった。姜恒は言いたいことが分かり、耿曙が腰につけた兵符を見た。「兵符はまだ返せない。兵たちを嵩県に帰らせる必要がある。さもなくば、兵力が不足してしまう。」

 

兵符を取り戻すように目地られてきた曾宇は、耿曙が断るとは思っていず、どうすべきかわからなかった。だが、自分の元には八千の兵が残っている。雍軍にいたっては六万だ。玉壁関を出た援軍で、安陽に軍事拠点を作れる。耿曙の部下には何もできないはずだ。戻るようにと姜恒に目で伝えられ、曾宇は去るしかなかった。

 

耿曙は座り込んで壊れかけた家屋の片隅にもたれかけた。項余が尋ねた。「場所を変えなくていいですか?」姜恒は答えた。「別にいいよ。少しここで休むことにする。」項余は護衛を集めた。衛士たちは自ら五十歩退いて、耿曙と姜恒をその場に残した。耿曙の鎧兜は隙間なく血で覆われ、顔は汚れ、髪は乱れ、手の上の血は塊となっていた。

「恒児。」耿曙が言った。

「うん。」姜恒は耿曙の怪我の様子を調べた。幸いにも全て軽傷だった。

「俺が何で安陽に来たかわかるか?」

「わかってる。動かないで。耳から血が出ている。」

彼は注意深く耿曙の耳に詰まった血の塊を取り出した。「丸木で突かれて、彼らは城壁から落とされたんだ……わからないだろう。」

「わかってるよ。」姜恒は小声で言った。

「わかってない。」耿曙は悲しそうに笑った。

「わかってる。」姜恒は耿曙の耳についた血を拭きながら、言葉を続けた。

「あなたは子供の頃安陽に住んでいて、梁人が投降しないことがわかっていた。だけどあなたの父王が最後には勝つ。城が破れたら、彼は怒って民を皆殺しにする。だからあなたは彼より先に城を破る必要があった。ここに住んでいる人の命を守るためだ。」

 

耿曙は今聞いた言葉が信じられず姜恒を見た。瞳が輝いていた。ここは耿曙の生まれた地だ。彼の母親は安陽に葬られている。姜恒はすぐにでも彼女の墓地を訪れて墓前に花を供えたいと思った。彼女が痛愛する我が子を自分に与えてくれたことに感謝したかった。互いに命を預けられる人を自分に与えてくれたことに感謝したかった。彼女は耿淵に全てを与え、彼の後を追って命さえ断った。残された我が子に潯東に行くように手配し、孤独だった自分の所へ行かせてくれた。

 

「私は項余に城南の封鎖を解かせたから、城内の民はみな逃げることができる。これで汁琮が怒り狂って民を殺すのを防げる。それに盟友が来たからには彼も下手なことはできないと思うよ。」

「お前は本当にわかったんだ!」耿曙はまるで子供の様に笑顔を浮かべた。

「勿論だよ。」姜恒はそっとそう言うと、耿曙の足の傷に薬をつけた。「会ったばかりの頃、教えてくれたでしょう。あなたは安陽から来た。住んでいた場所のことを熱心に話してくれた。町では市がたち、毎朝、お母さんは箱を持って市場に灯芯を売りに行った。そうでしょう?全部覚えているよ。」

「お前は全部覚えていたんだな。」耿曙は目を閉じた。彼は疲れ切っていた。

「兄も覚えている。全部覚えている。」彼は姜恒の肩にもたれた。「眠って。少し寝たら元気になるから。」

 

体が重くなってきた。鎧を付けたまま姜恒の肩にもたれた耿曙の体は少しずつずり落ちて、彼の腕の中に倒れた。姜恒は彼を抱くと、血まみれになった髪を指で梳きながら誰もいなくなった街道をぼんやり見ていた。

優しく柔らかな姜恒の手で撫でられ、耿曙は夢を見た。夢の中の彼は小さな子供に戻って安陽の家にいた。母が彼を抱いて子守唄を歌っていた。母は時々頭を撫でて、いつも一緒よ、どこにも行かないからねと伝えていた。

 

耿曙の部下がやってきた。城を破ってから、ずっと彼らの主師を探していて、ようやくこんな遠く離れた通りで見つけることができた。だが、近くまで行くと、重装備の郢軍に行く手を阻まれ、何度も身分を確認されてから近くに来ることができたのだった。

「太史大人、殿下に指示を仰ぎたいことがあって参りました。」一人の部下が言った。姜恒は内容を聞きもせずに指示をだした。「隊の人に言ってください。亡くなった兵士たちは家に返すこと。生き残った人には、嵩県と玉壁関のどちらに帰りたいか尋ねて、意に沿う方に行かせてください。」

「ですが、先ほど曾将軍にも聞かれたのですが。」

「彼が何と言おうと気にしないで。これは武陵候の意思だから。話す時には武陵候と言って、殿下と呼ばないように。行って。」

 

姜恒は、この行動によって汁琮に注意を促そうとした。耿曙は武陵侯に封されている。雍国が封じた正統な身分だ。雍国の規則によれば、耿曙には封地領兵を募る権利がある。古くからの条例で、公卿は家兵を持ち、その兵は王族のために働く。これは国君にも侵害できない募兵権だ。2万を超えない限り、国君は全権を与えなければならない。

勿論君王はそれを解除する権利を持つ。だが、候位を剥奪せず、耿曙の武陵候としての身分を承認するなら、彼の家兵には口出しできない。しばらくすると、一人の兵が戻って来て、雍軍が彼らを手放したことを知らせた。彼らは殉職した同胞を嵩県に連れ帰ることを希望した。全軍の被害は大きく、残ったのは八千余りだ。玉壁関に戻ることを百人余りが望んだ以外は、みな嵩県に戻ることを希望した。

 

「千隊ごとの名冊を下さい。私がここで再配分しますから、できたらあなたがそれを持って行って。」姜恒が言った。兵は松明を掲げた。耿曙は傍らで熟睡している。姜恒は灯の元で、兵の再編成をした。耿曙が必要とした時のために、二名の千夫長と部下に留まらせ、残りの全ての兵を嵩県に帰らせるようにした。

彼らが雍国に全てを捧げる人生は終結した。みんな戻って人間らしく暮らすべきだ。「さあ行って。」姜恒はそう言うと再び熟睡している耿曙の頭を撫でた。

 

夜になった。安陽宮は新しい国君を迎えた。

汁琮が門を押し開けると、こすれるような音を立てて銅門が開き、月の光が汁琮の黒い影を地面に投じた。彼はゆっくりと正殿に入って行った。

 

柱には未だに血痕が残っている。それはかつて耿淵が長陵君を殺した時に噴き出した血だ。十五年前、鮮血が銅門に隙間なくかかったあの日以来、梁国は正殿を封印した。後を継いだ少年梁王は東殿で議事を行い、百官たちも王朝が代変わりしてからは、簡単に洗い清めただけの正殿に誰も入って行こうとしなかった。まるでそこには鬼魂の一群が住み着いて、誰もいない深夜にみんなで天下を征伐する大略図について討論しているかのようだ。

 

汁琮は門を開けさせて全ての場所を事細かに眺めた。あれは耿淵の血だろうか、あれは敵の血だろうかと考えながら。かつて琴を奏でている時、なんと英俊洒脱な様子だったことか。剣を振るった時に最後に脳裏をかすめたのは自分の名前だっただろうか。彼は耿淵を仰ぎ慕っていた。

 

耿淵も界圭も長兄の仲間だったが、汁琮は子供のころから耿淵に敬服していた。汁琅に比べ、耿淵はより親切で、我慢強く、自分の苦しみを理解していた。子供のころから友と呼べるのは一人だけ、それが耿淵だった。耿淵が自分より汁琅が好きなのはよくわかっていた、だが、そんなことは耿淵への敬愛に微塵も影を落とすことはなかった。子供の頃、彼はよく長兄とけんかをした。界圭はいつだって兄の味方で、あの頃彼を助けてくれるのは耿淵だけだった。

大雍はずっと太子が政治を受け持ち、王子が軍を率いて出征する体制をとってきた。汁琅は国家を治める責任を負い、彼は征戦の重責を負った。

 

耿淵が暗殺に向かうことを決めたあの日を彼は永久に忘れないだろう。あれはまだ十二歳だった頃だろうか。あの頃、雍国ではみなが重聞の名に怯えていた。軍神の名をほしいままにし、雍国は彼の前に何度も大敗を喫し、玉壁関に退いて、そこから半歩たりとも南下することを許されなかった。

 

まだ十二歳だった汁琮は耿淵に言った。「私には彼を打つことはできない。すごく怖いよ。」「怖がらなくていい。」耿淵は時間がある時、よく汁琮の剣の修練につきあってくれた。指導をしたり、動作を調整してくれた。汁琅は界圭の方がずっと好きだったため、耿淵は一歩引いて弟との遊びに付き合ってくれたのかもしれない。年も彼の方が近かった。

 

「怖い気持ちはとめられないよ。」十二歳の汁琮が言った。同じ十二歳でも耿淵には、大人びた雰囲気があった。「彼を怖がるのを止めろという意味でいったんじゃない。いつか君が彼と対戦することになる前に、私が彼の命を取るつもりだからだ。」彼は衝撃を受けた。「君にそんなことができるの?」

「彼も人間だ。人間なら必ず死ぬ。何かおかしいかい?私はきっと彼を殺せる。」耿淵は軽く言ってのけた。まるでこの世に彼の相手になるものなどいず、生涯負けることなどないかのように。汁琮は尋ねた。「君は私のために彼を殺しに行ってくれるのか?」

「雍国のためにね。」耿淵は答えた。「私は雍人だ。さあ剣の練習をして。またお兄上に叱られるぞ。」

 

耿淵は何をする時でもいつもさらりと爽やかな様子だった。王室に対して何の要求もせず、自分の立場に満足し何も気にしていないようだ。界圭とは違う。界圭はおかしな条件を出してきては汁琅の気持ちを試すようなことばかりしていた。

たった一つの要求はある女性のためだった。「姜昭を私と行かせてほしい。」

十六歳の時、耿淵は汁琮に言った。「君は彼女が好きではないでしょう。」

汁琮は応えざるを得なかった。「君が好きなら、もちろんいい。」

汁琮は耿淵が望むものなら全て与えられた。そして最後に耿淵はあの日の約束を守った。

汁琮は王卓の前に座り、卓についた血痕の黒い染みを見た。あの時、耿淵はここで畢頡を刺し殺し、彼の死体のそばで琴を一曲演奏してから、命を断った。耿淵が去って行った日のことは今でもよく覚えている。名医である公孫樾が雍国に来て、彼のために薬を調合した。

 

汁琮は腕を組んで殿柱に背をもたれ、「明日出発するんだな。」と言った。耿淵はその日、雍宮中の色々な場所を歩き回ってから、汁琅、汁琮兄弟を見つめて彼の意思を伝え、鏡の中の自分を見つめた。

「そんなことしなくていい。」汁琮は眉をひそめた。

「私が決めたことは翻さないのは知っているでしょう。」

汁琅も来て、兄弟は耿淵を見た。耿淵は尋ねた。「姜昭はどうしている?」

「越地に帰った。」汁琮が答えた。

耿淵は頷いた。公孫樾は調合した薬を耿淵の前に置いた。「一時的に目虐いた状態になる薬です。長期間使えば解毒できなくなり、完全に失明します。耿公子は気を付けてお使い下さい。」

「わかった。」耿淵は淡々と言い、公孫樾は退席を告げ、出て行った。

「一年以内に暗殺できるかわからない。」耿淵は考えながら、鏡の中の兄弟に向かって言った。「暗殺には忍耐が必要だ。機会を得るために何年も待つことになるかもしれない。だが、成功したと、南方から情報が届いたら、すぐに雍国は関を出て中原に入ってくれ。」

汁琮と汁琅は何も言わず、黙って耿淵を見つめた。

 

「ずっとみんなが望んで来たことだろう?」耿淵は笑顔を見せた。「いいことではないか。さあ、君たちのどちらが私に薬をつけてくれる?」

「私には無理だ。耿淵……。」汁琮は目に涙が溢れ嗚咽しながら言った。

「君がやってくれ、汁琮。」

汁琮は耿淵の方に向かって行った。彼には耿淵の心情がよくわかった。『光を失うくらい何だって言うんだ?』彼らは一生の目標を完成させるためならどんな犠牲でも負うように育てられてきた。長兄は生まれた時から太子となって国を継承する人として生きてきた。何の努力もせずにどんな人でも手に入れ、何でもないことの様に「王道」を口にできる人だ。人生の途中でどんな選択やどんな犠牲があるかなど知る由もない。一瞬の内に、永久の別れがくるなども。

 

汁琮は耿淵に薬を塗って、彼の双目の上に黒布を巻いた。

「これでよしと。」耿淵は嬉しそうに言った。

耿淵は出て行くことを知らせなかったが、王室の者たちは皆、彼を送りに来た。汁琅、姜晴、汁琮、姜太后までも。

耿淵は振り返ることもせず、顔に黒布を巻き、御者一人だけを伴って車に乗った。真っ暗闇の中、幼少から住み続けた落雁城を後にした。故郷を離れ、山深い玉壁関を出て、中原へと向かって行った。

七年後、汁琮が玉壁関を巡回していた時、南方から報せが届いた。彼は成功したが、安陽で死んだ。死ぬまで再び故郷を見ることはなかった。

 

暗闇の中、汁琮は生涯で一番親しかった兄弟が残した痕跡を見ていた。未だに彼の鬼魂がここにいるかのようだ。「君を家に連れ帰りに来たよ。」汁琮は暗闇に向かって言った。「本当はここの奴らを殉葬させようと思ったが、君の息子は姜恒の言うことを聞いて、彼らを逃がした。まあいい。気にすまい。私には、彼の言葉が、君の言葉の様に感じたのだ。」

 

―――

第149章 車輪斬:

 

耿曙が目覚めた。昨日の午後から今朝まで、十六時間も眠っていた。目覚めた時、姜恒が彼を抱いていた。どこかの家の軒下で、二人は毛布にくるまっており、雨は落ちてきていなかった。

「このまま目覚めないんじゃないかと思った。」姜恒は眠そうに言った。「ずっとこのままだったら、眠ったまま逝ってしまうんじゃないかって怖くなったよ。」

 

耿曙は腕を伸ばして、おどけた調子で言った。「お前の近くだとぐっすり眠れるんだ。」耿曙は首を押さえて、首をひねってポキポキ言わせながら、立ち上がって体を洗いに行った。郢国は城南に軍営を構え、梁の桟橋を建て直していた。姜恒は人を呼んで、耿曙に沐浴用の湯を沸かすよう言いつけた。耿曙は桶を持って来て、姜恒に頭をつけさせた。二人は桟橋の近くの一件の旧家屋の中で沐浴し、耿曙は武袍に着替え、姜恒は越人服を着て、手を携えて出て来た。

次に姜恒は軍営で耿曙に山盛り二杯の麺を食べさせた。食べ終えた耿曙は完全に元気を取り戻し、黒剣を背負った姿は、二日前とは大違いだった。あれは地獄の血海から這い出て来た魔神のようだった。

 

「あなたの父王に会いに行く?私も彼には聞きたいことがある。」耿曙はしばらく黙っていた。「郢軍を連れて来たのはそのためなんだよ。」

郢軍が城内に駐留している限り、汁琮だってそう簡単に二人に手出しできないはずだ。項余と屈分が二人の近くにいれば、汁琮は外面を守るはずで、一切を顧みず突然発狂して姜恒を殺したりはしないだろう。絶対に姜恒を守るようにと郢王は項余に口を酸っぱくして言っているのだから。

 

「行くか。」耿曙は考え込んだ。「父さんが暮らしていたところを見に行こう。」姜恒が言った。耿曙は少し複雑な表情をしたが、最後には頷いて、姜恒の手を引いて山を登って行った。

(安陽城は山に沿って建っている。第一章参照)

ちょうどその時、汁琮は安陽別宮の高台から、城内を見下ろしていた。屠城は実施せず、今はそうした手間は省いて、彼の元に来させることにしたようだ。

 

「『昔、戦地に向かった時には、柳がゆらゆら揺れていた。』」姜恒が言った。

「『今や、故郷に戻る道では 霙がびゅうびゅう吹き付ける』」耿曙が後を引き取った。

最近、天気はあまりよくない。王都安陽の空には曇が厚く垂れこめていた。

 

暴風雨が訪れようとしていた。どんよりとした天気は十五年前を呼び戻したかのようだ。

知らせを聞いた項余と屈分もやって来た。安陽正街を通ったが、耿曙が恐れた屠城は起こっていなかった。梁軍はいつまでも頑強に抵抗し死傷者は1万人近くに達した。町の民はびくびくしていたが、屈分は彼らを寛大に受け入れた。城外に逃げ始めた人々を、郢国軍は制止せず、残った者に対しては、郢軍は必ず安全を守ると明言した。南方には屠城という習慣はない。実際百年近く、屠城など聞いたことがなかった。征戦に勝てば、諸候は相手の資産や税収を全て得られる。屠城などという一時の感情で民心を失うのは惜しいだけだ。

 

塞北人が南にやって来る。住居を移し、財産を持って。郢国人と汁琮が協議した結果、郢国軍が撤退し、城を雍人に支配されるのを人々は恐れていた。

汁琮の「車輪斬」は良く知られていた。城が破れれば、車輪より背の高い大人の男は、首を切られる。それは彼が塞外から持ってきた習慣で、彼はすべての敵を恐怖によって支配しようにした。

 

姜恒のかつての話も、徐々に現実になりつつある。彼は汁琮だけでなく、雍国に対して尋ねた。『たとえあなたたちがすべての城を落としても、どれだけの人が喜んであなたを天子と見なすでしょうか。恐怖による支配はどのくらい持つでしょうか。』

耿曙は屈分に言った。「民が逃げようとしたら、貴国の照水城で受け入れることも考慮に入れるといい。」

屈分は言った。「さすが殿下は万民の味方ですな。梁人を大事に扱うと保証しましょう。皆天下人だ。項将軍にも言われているので、どうぞご安心下さい!」

「どのくらい連れて来たんだ?」耿曙が再び尋ねた。項余が答えた。「御林軍二千が照水を守っています。残り九万全部を連れて来ました。」

郢国は何の苦も無く分け前を得ることになった。これは姜恒の計略で、汁琮にとっては大迷惑だ。彼は事態をどう打開するだろう。

 

「塞外の狩人たちのことわざだ。『弓矢を獲物に構える時は、背後に猛獣がいるか確認を怠りやすいものだ。』」

屈分はハハハと笑った。耿曙が言うのは、『蟷螂が蝉を捕らえる時、黄雀が後ろにいる。』のことだ。狩人と獲物は言い換えだろう。太子安は持てる全兵力を送って来た。郢国の主力部隊全てがここにいる。もし汁琮が郢国を裏切り、敵対することになればどちらが勝つかわからない。気を付けなければ。

屈分は百戦を経験し、大雑把なように見えて実はとても繊細だ。だが姜恒は少しも彼を恐れなかった。彼らは安陽宮殿前の360段の階段をゆっくりと上った。それは四国特使たちが、かつて降りることを許されなかった道であった。

 

「黒剣はお前が持っていた方が、私が持つより役立つだろう。」汁琮の声が正殿から聞こえた。第一声は耿曙に向けられた。耿曙は皆に先立って殿内に入って行くと、両足を少し広げて立った。心の中で言う。『それは黒剣が星玉の守護剣だからだ。』

「烈光剣を私にくれ。黒剣はお前に返す。」汁琮が言った。

耿曙は烈光剣を差し出した。一つの交換儀式が完成したようだ。この日正式に彼が父、耿淵の責任を引き継いだかのようだった。だが、耿淵が彼の全てを以て守護する責任を負ったのは汁琮だったのか、亡くなった汁琅だったのかは、それぞれの心の中で明らかだった。

 

一同は歩を停めた。汁琮は姜恒を眺めまわし、姜恒も汁琮をじっと見つめた。

『私たち皆を殺せるような刺客を、彼は用意しているだろうか。』姜恒は考えた。別宮は東向きだった。他の五国の宮殿と同じく、天子のいるべき場所、洛陽の方を向いて建てられている。雍、郢二軍は安陽城を境にして駐留しており、屈分と項余は四千の兵を王宮の外に置いていた。汁琮だって手を下せないはずだ。汁琮は父ほどの腕ではない。本当に剣を交わらせれば、耿曙は逃さない。更に屈分、項余の護衛もあり、外には守備兵がいて何かあればすぐに入って来られる。汁琮だってそこまで己惚れてはいないだろう。

汁琮は耿曙を見て、突然笑い出した。

「屈将軍、項将軍、お二方にはご苦労をおかけした。おかけください。」屈分は頷いて、項余と共に右側に移動して腰を下ろした。姜恒だけが残された。

「姜恒、君も座りなさい。どこでも好きな場所でいい。」汁琮の眼差しには嘲りの色が見えた。耿曙が手招きし、姜恒は彼の隣に座った。姜恒はあちこち見回さずにはいられなかった。かつて彼の父がここで七人を殺害したのだ。

畢頡、重聞、遅延訇、長陵君、公子勝、子閭。そして彼自身を。

その内五人は、皆、大争の世を収束させる才能を持っていた。逆に彼らが同じ時代に生きていたからこそ大争の世は終結しなかったとも言える。最後に耿淵に一息に殺されたことで問題は解決せずに残ったのだ。一人だけ残しておけば、今の状況はずっとよかったのかもしれないが、全てが宿命であるかのように今や耿曙の身の上に落ちて来た。運命は二人を弄び、この道を通るように仕掛けた。きっと贖罪のためかもしれない。――天下人への贖罪だ。父が壊した物を息子たちが片付けなければならないのだ。

 

汁琮は今、かつて耿淵が座っていた場所に座していた。姜恒はおかしな感覚を覚えた。耿曙はどう思っているだろう。安陽に戻って来たことで、彼の感慨は自分よりずっと深いだろう。この時、耿曙は黒剣を膝の前に置き、片手を剣鞘において、黙って汁琮の話を聞いていた。

屈分、項余と話す汁琮の声が遠くなったり近くなったりして聞こえる。姜恒は上の空でそれを聞いていた。項余が話している。「殿下は末将に言いました。あなたに託されたことをやり遂げるようにと。」汁琮が言った。「やり遂げただけでなく、やりすぎなくらいだ。」

姜恒の注意力が会話に戻って来た。項余が言い残した後半の言葉はこうだろう。――『やり遂げたからには、報酬をいただかなくては。』

 

やはり汁琮と太子安は結託していた。きっと照水侵攻を決めて間もなくの頃だろう。太子安は汁琮に、手を組んで梁国を真ん中分けにしようと持ち掛けたのだ。屈分は再び大笑いしたが、目つきはとても鋭かった。汁琮は不真面目な調子で言った。「五国連合会議の際に、孤王は彼に欲しい物を渡すつもりです。ああ、今は四国でしたな。鄭国は破れ、代国にはその資格もない。あとは誰がいたかな?」

 

『金璽は?金璽が欲しいのでは?』姜恒は心の中で言った。

項余は屈分に目をやった。屈分はごくわずかに頷いた。急ぐことはない。『今じゃなくてもいいだろう。』

項余が再び尋ねた。「雍王は梁王と大臣たちをどうされるおつもりですか?」

「やっかいなことだ。あなた方と相談しようと思って、目下の所、牢に入れてある。私としては、根絶やしにしなければ、変数を残すことになると考えている。父の死を望む者はいない。その息子が十何年か後に復讐してくるかもしれないだろう?」

 

項余と屈分は何も言わずに、視線を交わした後、耿曙に目をやった。姜恒ははっとした。すぐに汁琮も耿曙を見た。「国君が他国の王族を死刑に処すのは規則違反だ。この世でそれができるのはただ一人だけ。天子を代表する者が国君に死を賜れる。」

汁琮が言ったことの意味が姜恒にもすぐわかった。梁王に死を賜る権利を持つのは姫珣だけだ。自分と耿曙は王軍の旗を掲げて梁を打った。汁琮は自分たちを梁人の敵として前面に出すつもりなのだ。耿曙が「自分にはそんなことできない」と言おうとした時、項余が言った。「大目に見てやりましょう。たかが子供です。何ができるというのです?」

 

汁琮は冷笑した。「項余将軍は子供にとても寛容と見える。」項余は淡々と答えた。「子持ちですし、年を取って子供に甘くなったのかもしれません。雍王には娘さんはいないのですか?」

「息子が二人、一人は落雁で国君となるべく学んでいる。もう一人はあなたに目の前にいて、国君を守ることを学んでいる。まあそう言うなら、息子たちのために『徳を積む』ことにするか。ただこのまま閉じ込めておくわけにもいくまい。」

「私に渡してくだされば、連れて行きますがいかがでしょう。」項余が言った。

「それではあなたに任せよう。」汁琮は淡々と答えた。

 

屈分はおかしな表情をして、項余の顔を見た。二人がこの件で話し合っていないのは明らかだが、項余が王室の命令を受けて梁国国君を生かそうとしているのかもしれない。だが、何のために?」梁人の民心を掌握するためだろう、と姜恒は推測した。決定権があれば自分だってそうする。十二歳の子供を殺しては梁国の激しい怒りと悲しみを呼び起こす。彼らの国を治めるなら、王には生きていてもらうほうがいい。

 

汁琮は襟元をはたいて、これでもういいか、と示した。

「話し合いはこれで終わりにするとしよう。お二人はいつ熊耒に報告をするのかな?」

屈分は笑って言った。「王陛下には礼節を以て北よりの天子の証をお迎えするようにと仰せです。何日かここにいるかもしれません。末将自ら金璽を受け取らせていただきましたら、すぐに南に帰らせていただきます。」つまり、金璽を受け取るまでは郢軍は退かないと言う意味だ。受け取ったとしても退くか退かぬかは彼ら次第とも。汁琮は怒りはせず、話を繰り返しもしなかった。

 

「それも良い。それなら、なるべく早く落雁に送って来るように言うとしよう。」

「すばらしいです。この日より、末将は、連れて来た兵たちに兄弟の邦を和睦を以て敬うようにと申し上げましょう。」

「兄弟の邦へ。」汁琮も賛同して頷き、『どうぞ』という仕草をした。談判は終了、お帰り下さい、ということだ。屈分と項余はそれぞれ立ち上がり、姜恒に目をやったが、姜恒は座ったままだった。「我らは外でお待ちしますね。」項余が姜恒に言った。姜恒は頷いた。これで彼らの話し合いは終わったが、郢人部隊はまだ宮外にいる。これなら汁琮も手出しできないだろう。

 

汁琮は笑顔で言った。「項将軍はお戻りいただいて大丈夫だ。一人は息子で、一人は外甥だ。何か待つ理由でも?」

項余が振り向いた。汁琮の眼差しにある何かには全く気付いていないように見える。「私の記憶違いでなければ、姜大人はまだ人質だったはずですが?末将は彼を連れて来ました。当然彼を連れ帰ります。それが王陛下のお申し付けですので。」項余は真面目な口調でそう言うと、すぐに嘲るような笑顔を見せた。「雍王がこの機に乗じて彼を連れて行こうとされても、そうはいきませんな。」

 

この時姜恒は項余がなぜかある人に似ていることに気づいた。ずっと忘れていたが、今の、『彼を連れて来ました。当然彼を連れ帰ります。」の言い方が、そっくりだ。ずっと前に、太子霊が遣わせて、自分に侍らせてくれた鄭国人、「趙起」に。

「それもそうだな。」汁琮は堅持しなかった。「孤王は肝に銘じる。お二方は殿外でしばし待っていてくれ給え。」項余は姜恒を見て頷き、屈分と共に出て行った。

 

殿外の曇空の下、屈分は腕を組んで、押し殺したような声で言った。「命令と違うぞ。」項余はしばらく屈分の顔を見て、眉を上げた。「金璽をもらうまでは手出しできない。」

「項将軍、」

「屈将軍。」項余は一歩も退かない。

「ここは私の言ったとおりにしろ。太子からの密令だ。」

「その密令は私があなたに渡したものだ。」

屈分は疑惑を顔に表した。項余が言った。「だが私にはあなたを止められない。よく考えてみるんだな。熊安の策は時々的確でないことがある。」

「私は王家から俸禄を得る人間だ。兵を率いる者として、言われたとおりに実行する。それに対してお前は何だ、項余。自分が寛容すぎるという自覚があるのか?」項余は『仕方ない』という仕草をした。「そういうことなら、準備しに行けばいい。」屈分は居丈高に、項余を探るように見た。項余は再び言った。

「私はここで彼らを待つ。金璽はまだ手に入っていない。そうだろう?」

屈分は冷笑を漏らし、階段を下りて行った。項余は階段に座って、殿内から響く言い争いの声に耳を澄ませた。耿曙が烈火のごとく怒っている。彼はこの雍国王子に対する自分の判断を修正すした方がいいかもしれないと考えた。

 

 

―――

第150章 屏風の裏:

殿内。

耿曙と姜恒は座ったままでいた。

「羽を収めたような固い座り方だな。海東青みたいだ。」汁琮は酒を飲んで笑った。姜恒は口を挟まなかった。自分は今何も言わない方がいいだろう。全て耿曙に従うのだ。この件は耿曙にとってすごく重要なことだから。

「恒児は江州で死にかけた。」耿曙は汁琮の意味ありげな風刺など気にせず言った。「まだ生きているじゃないか。死んではいない。恒児、死んだのか?」汁琮は笑った。

汁琮は酒杯を姜恒に掲げたが、彼らの分の酒はなく、自分だけが飲み干した。

 

「なぜですか?!」耿曙は怒りの声をあげた。声が殿内に響き渡った。姜恒は飛び上がる程驚いた。彼が自分のために汁琮に直面することはわかっていたが、こんな稲妻を落とすように怒る彼を見たことがなかった。耿曙は怒りのあまり震え、黒剣を固く握り締めた。

「私を殺したいか?」汁琮は突然失笑した。「お前の武功は全て私が教えたものだ。兵法も全て私について学んだ。それなのに今、お前は父の黒剣で私を殺すのか?父が聞いたら何というかな?」耿曙は黒剣を掲げて、黙ったまま正殿内を汁琮に向かって歩いて行った。

 

姜恒はすぐに「兄さん、」と言った。汁琮はそれを聞いて意外そうな顔をして姜恒を見た後、耿曙に目をやった。「本当なんだな。」耿曙は言った。

「お前が本当だと思うなら、そうだ。信じないなら違うということだ。私はお前にたくさんのことを教えた。息子よ、今、父王は最後に一つ教えよう……。」そう言うと、少し体を傾けて、耿曙に向かって言った。「世の中の人は信じたいことを信じるのだ。上は天子から、下は畜生まで。みなそうだ。真偽に意味はない。全てのことは、信じるか否かで決まるのだ。」

 

汁琮は軽く手を上げたが、姜恒は気づいた。彼の指がほんの少しだけ震えているのを。

「兄さん、」姜恒は立ち上がって、耿曙の空いている方の手を引っ張った。あれはわずかな動きではあったが、汁琮の恐れを表していた。汁琮は自分がもはや耿曙の相手にはならないとよくわかっていた。かつての玉壁関や潼関での対決の時とは違っていたのだ。

 

あの時、彼は相手が手を出さないと思ったため、ゆっくりと袍を外して、耿曙に殺すように言った。しかし今回は耿曙が本当に手を出すかもしれないと思っている。事態が収拾できなくなった以上、必ず先に準備をしているはずだ。このわずかな予感が姜恒を警戒させた。

汁琮が何も準備していないはずはない。きっと誰かを隠しているはずだ。誰かはわからないが、屏風の裏か、汁琮の背後にいて、今にも二人を刺そうと剣を拭いて待っているのだ。二人は死のすぐ近くにいる。もし耿曙が先に手を出せば、汁琮には二人を殺す理由ができる。

 

「もう行こう。もういい。」姜恒は言った。耿曙はふと顔を向けて姜恒を見た。唇が少し動いた。「いいや。」耿曙が言った。汁琮は両手を机の上に載せ、とんとんと叩いた。あれは合図だ。姜恒は直感した。

「もう行こう。終わりだ。汁琮、もう心配しなくていい。あなたが雍国にいる限り、私たちは落雁城には戻らないから。」姜恒は言った。

 

突然汁琮は大笑いした。何かおかしなことをきいたかのように。再び耿曙を見て、唇を少し動かした。何か言いたそうな表情だ。姜恒にはわからなかったが、耿曙にはわかった。『彼は知らないのか?いったいどうして知らないんだ?』

姜恒は疑惑の表情で耿曙を見た。耿曙はこの時考えを改め、冷たくなった姜恒の手を握った。

「あなたは俺を四年間育ててくれた。」耿曙は黒剣を収めて言った。「恒児と別れた後、俺に身を寄せる場所を与えてくれた。だが、俺の武功はあなたが教えたんじゃない。両親と夫人が伝授してくれた……。」汁琮は冷漠とした不思議な表情で、耿曙ではなく、姜恒の顔を見た。「……俺の兵法は、趙竭将軍が教えてくれたもので、あなたとは関係ない。あなたは俺を四年養ってくれた。俺はあなたに替わって塞外を平定し、三胡を征伐した。今回、あなたに替わって安陽を打った。育ててくれた恩返しだと思ってくれ。あなたのことを二度と父王とは呼べないが。」

「貸し借り無しか。」汁琮は頷いて釈然とした笑みをうかべた。「清算したからには出て行くと。まあそんな大口をたたくことはない。お前の父上がいた時に清算は終えている。私が耿家に借りがあったので、お前が私に借りがあったのではない。」

 

「恒児を殺しに人を遣ればいい。だが永久に成功することはない。もしまた俺を怒らせたら、自分の息子に気を付けるこ……。」汁琮は再び大笑いした。耿曙に話を続けさせる気は微塵もないようだ。「汁瀧に何の罪があるんだ?」汁琮はからかうように耿曙を見た。

「恒児には何か罪があるか?」耿曙は答えた。汁琮は笑うのをやめ、最後に一字一句はっきりと言った。「お前には失望した。」汁琮は真剣な表情で言った。「聶海、復讐のために、自分の弟を殺すようなことまで言うとは、全く失望させられたよ。」

「あなたにそれを言う資格はない。」汁琮と耿曙は同時に恐ろし気な表情で沈黙した。

 

「行こう、兄さん。」姜恒は耿曙にもう何も言わせたくなかった。耿曙の心がとても傷ついているのがわかっていた。ずっと本気で汁琮を父親として見て来たのだから。手に冷や汗をかいている。王卓の後ろにある「山河永続」と書かれた屏風の裏に殺気を感じていた。この刺客の腕は今までに来た中で最強かもしれない。それが汁琮の合図とともに、姿を現して剣で一突きして彼を殺すかもしれない。汁琮の前でこんな尊厳のない死に方をしたくはなかった。

 

だがその時、別の影が、彼らの後ろに現れた。耿曙はその足音を聞いたが、振り返りはしなかった。「まだ話が終わらないのですか?」項余が口角を少し歪ませて汁琮を見ていた。

 

「お前には失望した」と言った時、汁琮にはわかった。この息子が二度と戻って来ないと。役に立たず、言うことを聞かない者は排除しなくてはならない。いつか天に召された時に、耿淵には謝ればいいだろう。だが項余が突然現れたことで、機を逸した。最後に、あの言葉を言うことができなかった。このわずかな遅れで、彼は耿曙と姜恒を一気に片付ける機会を失った。

耿曙は最後に言った。「俺もあなたには失望した。おあいこだ」そして姜恒の手を固く握って、正殿を出て行った。

 

汁琮は王卓について、木彫りにでもなったかのように座ったまま、項余について、姜恒と耿曙が王宮を離れて行くのを見ていた。屏風の裏から刺客が現れた。とてもとても年老いて、顔はしわだらけ、白眉が垂れ、手は枯れ枝のよう、皮をかぶった骸骨のようだった。指が三本しかない骨ばった左手に小さな細剣を握っていた。

 

「お前たちは私の大事なものを壊したな。」汁琮の声音は平静だったが、抑制した憤怒を押さえられなかった。この血月たちが刺殺に成功してさえいれば、或いは失敗したとしても、きれいに退いていれば、自分の計画が耿曙に見抜かれることはなかった。天下争いの途上で、有能な助手であり、忠実な犬としてずっと命令を聞いていたはずだった。江州で彼らが見抜かれたせいで、汁琮は強大な棋子を失ったのだ。だが、成功したらどうだっただろうか?

 

彼はもう知っていたのだ。それを考えた時、汁琮は背後に悪寒を感じた。どうやって知ったのだ?誰が言ったのだろう?耿曙は自分が汁琅を毒殺したことを知っていた!実の兄を毒殺したことを!兄の子を王宮から盗み出したのは誰なのだ?そいつらはこれほど多くのことを自分から隠していたのか?!裏切られたような気分だ。裏切ったのはまさか実の母なのか。他の人のはずがない!

 

耿曙と姜恒が王宮を出て来ると、項余は二人に目を向けた。「私は梁王を連れて来なくては。」姜恒は落ち着き払った態度で、頷いて項余を送り出すと、耿曙を見た。「兄さん、」姜恒は彼の手をひっぱって軽く揺らした。

耿曙は王宮を出てからずっと無言だったが、顔を向けて、姜恒をじっと見た。

「恒児。」

姜恒は眉をあげて、彼の前に立ち、手を伸ばして頭を撫でてから、英俊な横顔を指の背で撫でた。「ほらほら、大丈夫だって。」姜恒はそっと言った。

「恒児。」耿曙は真剣な顔で言った。いいたいことがたくさんあるのに、いつもこうなる。言葉は喉元でつまり、口をついて出て来ない。心の中には天地を満たす程言いたいことが溢れているのに、姜恒の前に立つと、それらの思いは潮水のように退いて行ってしまう。何もつかめないままに。

 

言えるのは「恒児」だけ。何度も「恒児」と繰り返すだけ。生き別れた時も、この名を叫んだ。死に別れる時もきっと叫ぶだろう。喜びに涙しながら、引き裂かれるような悲痛を感じる時も、千言万語をこの二文字で表現してしまう。自分が持てる全てだから。この名を失ってしまったら、耿曙は二度と心を持てないだろう。何も話せなくなるだろう。

 

「これからどこに行こうか?」

姜恒も茫然示寂していた。彼も色々言うことを考えていた。汁琮をあざ笑ってやろうとか、責めてやろうとか。だが、耿曙が口を開いた時、何も言う必要はないことに気づいた。このことが耿曙に与えた苦しみに比べたら、汁琮が自分にしたことなど何でもないではないか。

「お前に俺の家を見せに行きたいんだ、恒児。」耿曙はとても落ち着いていた。やるべき任務を一つやり遂げた気持ちだった。

「子供の頃の家だ。生まれたところ。」耿曙は話を補って言った。

「いいね、行こう。ずっと行きたいと思っていたんだ。でも急がなくていいよ。あなたが思い出して悲しくなるのが心配だから。」耿曙はしばらく黙っていた後で、ようやく一言言った。「お前はいつもそうだ。お前の心は俺のことをいつも思っている。俺にはよくわかっている。」

 

姜恒は少しつらそうに微笑んで、耿曙と肩を並べて、王宮に側した山道を歩き、城西北の平民区に向かって行った。安陽は山に沿って建てられた街で、巷道も山に沿って伸びている。王都の主が変わり、人々はしばらく動転していたが、既にいつもの生活を取り戻していた。市場では商売が再開していた。町では人々が情報交換をしていたが、耿曙と姜恒の姿を見ると、人々は次々に屋内に入って行ってしまった。ここは人々が日々の暮らしを行う場所で、王宮とは全く違う、別の世界のようだった。

もう耿曙を見ても誰だかわかる人はいない。灯芯を作っていた女性が生んだ、警戒心が強くわんぱくな子供が、二十年後に上将軍となって戻って来るとは誰も思いもしなかっただろう。

非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 139-145

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第139章 身の置き場

 

「何もしないでね。」それが姜恒の最初の言葉だった。「絶対に何もしないで。あなたが危険な目にあったら私はどうなる?私にはもう何もなくなってしまうんだよ、兄さん。」

「わかっている。よくわかっているよ。」耿曙は悲し気に言った。

「でもどうしてなんだろう。」姜恒にはどうしてもわからなかった。道理ということであれば、理解できる。『素晴らしい始まりは往々にしてあるが、素晴らしいまま終わることはめったにない』(詩経大雅)というではないか。大臣殺しなど、よくあることだ。古今東西、どこででも起きている。汁琮が自分を殺したがるのはわかる。わからないのはなぜ今なのかだ。自分が汁琮ならこの時期に手を下しはしない。天下統一はまだ成し遂げられていない。自分の力を活用する場はたくさんあるのに。太子瀧はこのことを知っているのか?姜太后は?汁綾は知っているのだろうか?

 

耿曙は黙ったまま薬を飲み終えると立ち上がった。

「動かないで。」

「大丈夫だ、ハンアル。ちょっと外を歩きたい。一緒に行こう。王宮を出はしない。王宮内だけだ。」

姜恒は、最初の衝撃から次第に落ち着きを取り戻し、自らの知性を使ってこの問題を分析し始めたところだった。本当はじっくり考えていたいところだったが、耿曙は気持ちを入れ替えたいからと譲らなかった。そこで仕方なく付き合うことにした。耿曙は杖を使わず、少し歩くとすぐに腹部の内傷が痛みだした。それでも姜恒が処方した薬がよく効き、昨日よりはだいぶいい。彼は自分の状況を判断し、一月もしないうちに全快するだろうと考えた。ただ今の段階では気を付けなければならない。特にいつまた刺客が現れるかわからない内は。

 

「本当にどうしてなのかわからないんだ。彼との間には何の確執もないのに。ひょっとしたら玉壁関での暗殺未遂を恨んでいるのかもしれないけど、それを考えても、なぜ今なのか……。」姜恒が言った。耿曙は黙って聞きながら考えていた。今日はまだ更なる衝撃的な事実を姜恒は受け止めることはできないだろう。真相を知った時、何を思うだろうか。言うのも良くないし、言わないのも良くない。どちらも間違いであるのなら、一生隠しておきたいとさえ思ってしまう。だがそれでは彼を更に不公平に扱うことになる。俺は今、彼を騙している。いったいどうしたらいいのだろう。

「私を抑えきれないと考えたのかもしれない。彼が死んだら、汁瀧はきっと私の言いなりになるから、彼を守るために、私を殺そうと考えたのかも。」姜恒は独りつぶやいた。

「いや、違う。」耿曙も口ごもるようにつぶやいた。

 

一旦頭が冴えて来ると、様々な分析が止まらない姜恒だ。「あなたが私の傍にいる時は、私たちには『勤王之功』がある。彼の在位中に手を下さなければ、後になってからでは私をどうすることもできなくなるから……。」

「言っただろう、違うんだ、ハンアル。それだけではないんだ。」耿曙が言った。

二人は足を止め、見つめ合った。廊下の屋根から雨水が落ちている。雫が連なり、線のように見えた。言わんとしていることがわからず、姜恒は耿曙を見つめた。

「俺が悪いんだ。彼を信じるべきじゃなかった。俺が甘過ぎた。優しくされたし、お前が傍にいなかった。自分が誰かさえもわからなくなっていて、俺は……。」

「大丈夫だよ。」姜恒は逆に耿曙を慰めた。「あなたにとってはお父さんだったんだから。」

しかし耿曙は手を上げて、姜恒に支えなくていい、話し終えさせてくれと示した。一人で廊下に立ちすくみ、空から落ちて来る雨を見上げた。「あの夜、おれは突然あることに気づいたんだ。」

「いつのこと?」何を聞いていいかわからなかった姜恒は時間のことに触れてみた。

「お前が落雁城外で怪我をした日だ。あの日俺は郎煌と話した。部屋に帰るとお前は昏睡していて、逆に俺は全く眠れずにお前を見ていて、玉壁関での雪の夜のことを考えていた。

「ああ、私が彼を暗殺しかけたあの日だね。」

「ずっと何かがおかしいと思っていたんだ。今になって、今頃になって、ようやく思い出した。あの時、お前は太子霊に目隠しされていただろう?お前が前に話してくれたことを、もう一度言ってくれ。なるべく詳細を漏らさずにだ。」

姜恒は頷いて、当時の状況を耿曙に細かく説明してみせた。汁琮が彼を胸に抱いて、どんな風に彼の目隠し布をとって、双眸を見ていたかを含めて。

「あの時お前は感覚に頼っていて、彼が手の中に何を持っていたか知らなかった。」

姜恒は頷いた。耿曙は言った。「知っているか?あの時、彼はお前を抱きながら、短剣を握っていたんだ。あれは一番最初に彼に会った時に俺が彼に差し向けた兵器だ!」

姜恒:「!!!」

姜恒:「彼は知っていた!彼は私が刺客だと知っていたの?!」

「違う!彼は知らなかった。そこが肝心なんだ!もしお前が刺客だとわかっていたなら、お前を抱いたりするか?近くに寄せつけさえしなかったはずだ!」

あの時、汁琮が姜恒の本当の身の上を知っていたかはわからない。だが一つだけはっきりしているのは、汁琮は姜恒の言い分を全く疑わず、偽物でないとよくわかっていたことだ。それを前提に考えると、汁琮はあの夜、耿曙に知られずに自ら姜恒を殺そうと考えていたのだ。ただ彼は読み違えた。姜恒は耿淵の息子であるだけでなく、刺客でもあったことを。

結果、汁琮は殺す側から殺される側に立場が変わり、耿曙が部屋に入って来た瞬間に、短剣を見られたのだ。あの時は気づかなかったが、色々わかった後ではあれこそが鍵だったのだと思えた。

姜恒の方は逆に余計わからなくなった。汁琮とは最初からどちらかが死ななければならないような関係だったというのか。「どうしてなの?」それでは全く理屈に合わない。

「俺にもわからないが、不思議なのは、彼は俺に初めて会った時には殺そうとしなかった。」

「一つだけ説明がつくけど、いいや。やめておく。」姜恒は考えた末、そう言った。

耿曙は眉を上げて、物問いた気に彼を見つめた。

「いつか機会があったら、直接聞いてみるよ。これについては、私も確かではないから。」

耿曙は黙っていた。姜恒は何となくわかった気がした。自分がいなければ、耿曙の忠誠は汁家に余すところなく捧げられる。汁琮と太子瀧父子に、雍王室のために一生を捧げるだろう。

自分たちの父のように。だが、自分が戻った瞬間に事態は変わった。自ら育てた義子が太子瀧への忠誠を貫くか保証できなくなった。彼は姜恒のためなら死も厭わないからだ。それにしても急すぎる。なぜこうも急ぐ?根底にある原因がどうしてもわからない。

 

「お前はまた彼に会ってみたいか?」耿曙が尋ねた。

「あなたがいれば、私に恐れることなんてある?」姜恒は答えた。

その時、姜恒はもう一人の人物を思い出した―――界圭!

いつかの夜、落雁で、不合理にも界圭はいきなり彼を連れ去った。界圭がなぜ自分をどこかに連れて行きたかったのか、姜恒はついに理解した。当時は何の脅威もなかったが、界圭にはきっとわかっていたんだ。汁琮が彼を殺そうとしていると。

 

耿曙は何と答えていいかわからなかった。雍国の全勢力に対抗するには自分の力だけでははるかに及ばない。どんなに武芸に優れた刺客であっても万軍に攻め込まれたら一人の力が尽きるまで戦っても相手にはならない。だからこそ昭夫人はあの時命を失ったのではないか。それでも耿曙は真剣な表情で頷いた。―――これは二人の約束だから。

「うん。俺が守る。守りたい。」

「界圭は事情を知っていたに違いないね。」

「お前は帰って彼に聞いてみたいか?」耿曙は少し不安げに尋ねた。悔やんでいるような表情だ。だが姜恒は深く考えず、しばらくしてから、「それよりこれからどうしようかって考えているよ。」と言った。耿曙は言った。「俺はこの件を解決しに行きたいと考えている。」

そして彼は再び、ゆっくりと御花園の方に向かって回廊を歩き出し、支えないでいいと示した。「どうやって解決させる?」これまで長い間、二人が未来について語る時、主導権を持って二人の行く末を決める責任を負うのは姜恒の方で、耿曙はそれを受け入れてくれる、そうした関係性に慣れていた。

 

だが落雁城を出て以来、耿曙が変わったことに姜恒はだんだんと気づいてきた。決定権を担い、二人の命運を決める役になり始めた。二人の関係が以前とは違うかのように、どんなことでも耿曙が解決方法を考え出すのを待つようになった。

「恒児、俺の言うことを聞いてくれ。」

「私はあなたの言うことを聞きます。」姜恒は笑い出した。耿曙の姿を見て、確信した。耿曙は今まで通り、いつまでも永遠に一緒にいてくれる。彼の兄であり、彼の全てだ。

耿曙はゆっくりと庭園に向かって歩いて行った。体をまっすぐにし、怪我などしていないかのようだ。声音もとても落ち着いている。姜恒は鋭敏に感じ取った。彼は誰にも自分の怪我のことを知られたくないんだ。

書殿内で二人の幕僚と議事を行っていた太子安は、中に入って来た耿曙を見て頭を上げた。太子安は立ち上がって話しかけた。「刺客を二人捕らえたそうだね。状況についてはよく知らないが、項将軍が現在残党を捉えようと……。」

「太子、」耿曙が言った。

耿曙は手を背中に置き、雍国時代のような武将出身王子の風貌に戻っていた。彼がもう身分を隠すつもりがないことに太子安はすぐに気づいた。

「淼殿下はお決めになったのですか?」太子安が尋ねた。

耿曙は姜恒に目を向けることなく、言った。「決めました。貴国の軍隊をご準備下さい。三月三日、帰国のために出征します。」

耿曙は海東青を放って、嵩県に通知した。『全軍戦闘態勢に入るように。:太子安自ら、朝廷と父王を説得し、連合会議の前に、梁国の南半分を一挙に支配する。』

 

「ほお?」郢王熊耒は姜恒直伝の『神功』の第一段階を修練し終え、ここ最近、元気百倍だった。「子淼が我が国に助太刀して戦うって?そんなことがあるのか。条件は何だって?」

太子安は父親に向かって言った。「姜大人は彼の弟であるから、江州で我々が保護すること。郢雍には兄弟の盟があるので、それは当然でしょう。」

姜恒と耿曙は傍らに座って話を聞いていた。『子淼』はこの場にいるとは、太子安は言うわけにはいかない。「我が国は八万の兵馬を準備し、彼と落ち合った後、嵩県駐在の雍軍が本国の先鋒として戦います。」

姜恒は、「その時は私も嵩県に行って、あ……私と聶海は、兄の参軍として共に照水に出征します。」

郢王はすぐに表情を変えた。「それは駄目だ!絶対にダメだ!元々刺客に狙われているというのに、もし君に万が一のことがあったら、本王はどうすればいいと言うのだ?」

姜恒は一瞬判断しかねた。熊耒は本当に『神攻』の後継者を惜しんでいるのか、それとも人質を手元に置いておきたいのか。

 

「兄だけを行かせられません。」姜恒は言った。

「うん、彼の兄だけを行かせられない。我らは二人一緒であることが必須だ。」

耿曙はわざとかどうか、片手を烈光剣にのせ、横から口を出した。

姜恒は『ふざけないで』と目配せした。だがおそらく熊耒は既に耿曙の正体を疑っていたのではないだろうか。

熊耒:「それは……。」

「父王、姜大人は我が郢国がとても気に入られております。」

「必ず無事に戻って来ます。」姜恒は言った。利害関係のある中、熊耒の胸の内がはっきり読める。『汁淼はなぜ郢国の為に戦うのか?逃げ場を確保するためだろう。汁琮が彼らを殺そうとしているなら、雍国に戻ることなどできない。新たな身の置き場を探す必要があるのだな。』

 

大争の世においては、各国王族や公卿が難を逃れるために渡り歩くのはよくあることだ。汁琮の行いを太子瀧が賛成したはずがない。朝廷の大半も知らないのだろう―――それなら汁琮が死ねば、二人は大手を振って帰国することができる。ただ郢国に留まるためには、この国のために何かしなくてはならない。雍国の利益を損なわない限り、戦争に参加するのも全くアリだ。それが耿曙が初めて熊安に会って、この話を持ち掛けられた時に完全に拒否しなかった理由だ。あの時からずっと彼は考えていたのだ。二人の新たな身の置き場を探すために何ができるか。

 

「よかろう。」熊耒は少し考えて理解した。この二人は雍国には帰れないのだろう。だがなぜだろう。そっちの方面の情報はないが、あるとすれば、例の刺客の来歴だ。熊耒自身は国君として決して愚かではない。多少の疑問はあるが、まあ大丈夫だろうと考えて頷いた。「まあそれじゃあ、姜恒や、必ず無事に戻って来るのだよ。」

姜恒は笑顔で頷いた。

熊耒は立ち上がった。「ちょっと私に付き合え、姜恒。本王は最近考えていたことがあるのだ。」姜恒が耿曙を見ると、耿曙は頷いて、行けばいいと示した。

 

 

ーーー

第140章 武陵候:

 

それまでの陰鬱な雨があがり、春の日差しがまぶしかった。姜恒は裏切られた気分から抜け出ることができた。いつだって信じていたから。どこに行こうと耿曙さえ近くにいてくれれば自分は生きていかれる。生きていかれるだけではない。幸せに暮らしていけるのだ。

ただ、一度の誤判断がたくさんの面倒ごとを引き起こした。かつて海閣を出る時に、天下統一の決心をした。前途多難であることはわかっていたが、あの時想像したより事態は更に困難だった。

本当に難しい。あれほど心血を注いで雍国を変革させ、あの国に覇権争いできるだけの土台を作ったと言うのに、結果として汁琮に猜疑心を抱かせ暗殺されそうになるとは。これからいったいどうしたらいいだろう。二進も三進も行かない思いだ。雍を捨てて新たに郢を選ぶのか?それだと今まで支持していた雍国が敵になるのか?そんなことをすれば、天下をさらなる激烈な紛争に陥れるのではないか?強大な雍と、同じく強大な郢が戦えば、十万に上る規模の犠牲者が出るだろう。姜恒は途方に暮れていた。こんな話は誰にもできないし、耿曙の心配事を増やしたくない。

 

同じような迷いが熊耒の眼差しにも見られた。

「姜恒や、人は死んだ後、どこに行くと思うかね?」

姜恒は少し考えてから、気安い口調で言った。「王陛下、修練がうまくいけば、死ぬことはなくなるのですから、あなたがそれをご心配なさる必要はありません。」

「だがな、強風も豪雨もいつかは終わる。この世に永遠に続くものなどないだろう。」熊耒は全てを超越した者のように王袍の両袖を広げて、「天の神でさえ、永遠の命を持っているとは断言しないのに、国君という高貴な身ではあるが、一凡人にすぎない私が、口幅ったいことを言えるかね?」と笑った。

姜恒も笑顔を見せた。『あなたはやはり騙されてなどいなかったのですね。』と思いながら。「ですが今のところは、王陛下はご心配なさる必要はありません。」

 

熊耒は再び言った。「姜恒や、君は郢国に留まる気はないかね?初めて会った時から、君のことは気に入っていたのだ。かつてお母上が来た時のことは今でも覚えている。越人はずっと兄弟同然だった。残念なことにあの時、私は一番かわいがっていた息子を失った。今思えば、あの時認めるべきだったのだ。」

姜恒は思い出した。母の姜昭が復国を願い、最初に助けを求めた国君が郢王だった。姜昭は断られて国を出て行ったが、公子州は母のために王子の身分を捨てて江州を去ったのだ。

「私は郢国がとても好きです。兄もきっとここが気に入ると思います。」姜恒は言った。熊耒はしばらく考えて言った。「お兄上も越人だ、そうだろう?」

何が言いたいのだろう?姜恒は気を取り直して真剣に考えてみた。最初は暇つぶしのおしゃべりに付き合うだけかと思ったが、どうやら熊耒は何かとても大事なことを暗示しているようだ。

「はい。」姜恒は頷いたが、それもおかしな話だとは思った。

「あの時お母上は遠路はるばる本王に助けを求めに来た。助けたいのは山々だったが、時期が悪かったのだ。君は若いが、大局については誰より詳しいだろう。」

熊耒は意味深長な言い方をした。「君は聡明で鋭い。我が子の様にさえ思える。越人と郢人は、ずっと以前には血縁だった。決して死ぬんじゃないぞ。君等姜家は四百年もさかのぼれば、我が姻戚だった。私は君の叔父のようなものだ。生きて戻って来い!君にはまだやるべきことがたくさんあるのだからな。」

「陛下のご高配に感謝致します。生きて戻れるよう努力します。」姜恒は笑顔で言った。

「敵は面と向かってやって来るとは限らん。君の近くで、君が気づかないところに潜んでいるかもしれないぞ。行きなさい。私も修練をせねばな。」熊耒は最後にそう言った。

姜恒は、この話はきっと刺客は雍国が送って来ているのだと警告しているのだろうと考え、頷いてから、離席の挨拶をした。

 

「王は何だって?」耿曙が尋ねた。

初めて江州を離れることになって、姜恒は何だか離れがたい気持ちになった。河に落とされ、殺されかけたが、江州はそれでもたくさんの美しい思い出も作ってくれた。

少し離れたところに項余が兵を率いて彼らを護送しようと待っていた。熊耒は御林軍統領であり、上将軍でもある項余直々に二人を嵩県まで送らせることにしたのだ。姜恒を大事にし、重要視している証だろう。

「私に越復国を支持すると暗に伝えて来た。」姜恒は耿曙に言った。「かつて母が郢国に助けを求めた時に、力にならなかったために息子を失った。それをとても後悔しているんだ。」

「聞くだけ聞いておこう。」耿曙は今や国君というものに不信感を抱いている。今日受けた話を明日は翻すかもしれない。大争の世では、礼は崩れ、信頼は失われるものだ。

 

実は汁琮が彼に与えた心の傷は姜恒よりずっと深かった。彼は雍国のために体をはって尽くしてきた。軍を率いて戦うことも辞さず、家畜の様に生きた。唯一の心のよりどころが姜恒だったのだ。汁琮にもそれはよくわかっていた。姜恒が彼の命だとよく知りながらも、一切を顧みず、その命を奪おうとした。それが耿曙の怒りを燃え上がらせた。だが、姜恒の前ではそんな様子を見せないようにした。もし機会があれば、汁琮に復讐するだろう。だがそのために自分が死んで、姜恒が全てを失うことになったらと考えると、そんなことに耐えられるはずがなかった。

 

項余がやって来て、耿曙と姜恒に目をやった。「お送りしてからはしばらくお別れですね。」

姜恒は笑顔を見せた。「あなたは戦争にはいかなくていいのでしょう。」

「私は王の安全を守ります。照水の戦いの際にお目にかかることはないでしょう。お二人はお戻りになられるのですか?」

「多分。」姜恒は答えた。だが、項余は言った。「戻らない方がいいと私は思います。」

「どうして?将軍はもう私たちにはうんざりですか?実際確かにたくさんご迷惑をおかけしましたけど。」姜恒は笑って言った。

耿曙は目を細めて項余を見た。項余は両手で剣と鞘をもてあそびながら、気安い口調で言った。「刺客が次々に現れ、殺してもきりがないし、どこにいるかもわからないのでは確かにうんざりしますね。」

「どこかにはいるはずですから、『兵が来れば将で防ぎ、水が来れば土を盛る』だけです。」

項余は姜恒を見つめ、傍にいる耿曙は無視して眼差しに深い意味を込め、最後に言った。「前途は困難ですが、重々お気をつけて、姜大人。」

「青山つらなり、緑水たゆたう。また会う日まで、ごきげんよう。」姜恒は笑った。

 

耿曙と太子安は一つの約束を交わした。彼は軍を率いて郢国に替わり先鋒となって、連合会議の前に、梁地照水城を攻める。そこは姜恒が海閣を出てから最初に訪れた大城市だった。

交換条件として、太子安は、嵩県天子封地自治権を留め置く。この地への干渉は許さず、郢王へ一定の年貢を納めればいい。年貢は玉鉱の原石でもいい。

こうして耿曙は自分の封地保全し、飛び地である嵩県を、五か国の勢力の切れ目のような、『国の中の国』として残し、姜恒としばし住むことができるようになった。

勿論、人質として、姜恒は戦いの後、再び郢地に戻らなければならない。それは郢王の要求でもあったが、その後どうするかは彼に任される。

この軍事行動は雍国には全く知らされていない。意味するところは、耿曙が汁琮に対して命がけの挑戦を仕掛けたということだ。郢国軍を率いて郢国の戦争に加担する。朝廷に震撼と猜疑をもたらすのは必定だろう。

 

だが耿曙にはお構いなしだ。姜恒を除けば誰も信用できなくなった今、持てる力は何でも利用し、二人の安全を確保しなければならない。雍国が今後何を言おうと、しようと、後でまた話せばいい。耿曙は雍国を裏切ってどこかの国につくことも厭わないとさえ考えていた。

本来汁琮が何をしようが、耿曙は彼に背くつもりはなかった。だがこの仕打ちは耿曙の譲れない線を徹底的に超えていた。

 

「もし復国したら、あなたは国君だね。」姜恒は薄ら笑いを浮かべて言った。

「国君はお前だろう。お前は国君になりたいか?俺ならやはり界圭に戻ってもらって国君にさせるな。お前が忙しくなりすぎないように。」耿曙が言った。

姜恒は笑い出した。だが言うなれば、越人はもう歴史の塵に埋もれており、史書の中だけの存在だ。自国の土地は持たず、五国の民となった。過去のことは過去のこととしておくべきだ。虫の息を吹き返し、王族も貴族も殺戮された後で、『国』の概念だけが残ったところでいったい何になろう?

「なりたくないよ。本当にちっともなりたくない。」姜恒は言った。

耿曙は「うん。」と言った。二人は嵩県に帰って来た。姜恒にとっては4度めだが、やはりいつも美しい。宋鄒が既に来ており、自ら出迎えた。ここでの時間は全く変わらない。

二人を迎えた宗鄒は感無量といった感じで、「武陵候、姜大人、おかえりなさい。」と言った。宗鄒の呼び方が変わったことに気づいた姜恒は、何か聞いたのだろうかと疑問に思った。  (体をはって自治権を守ってくれたんだもんね。宋鄒から見れば。)

「出兵の準備をしろ。」耿曙は宋鄒に言った。「各級将校に伝えろ。三月三日に出征し、照水城外にて郢軍と落ち合う。」

宗鄒は頷いた。姜恒は自分の家に戻って来てようやくほっと息をついた。江州にいた時のように、作法に気を付けなくていい。ごろごろ横になったり、単衣に長袴のようなくだけた服装で歩き回れる。食事だって、襟を正してきちんと座り、最初に国君への感謝をしてから食べたりしなくていいのだ。

 

ここに来て姜恒が最初にしたいのは入浴だ。今回は耿曙も避けたりせず、全て脱ぎ捨てて、屋敷の裏にある温泉に行き、入浴した。

(本当にこの順番で書いてあった。温泉に着いて脱ぐじゃなくて、脱いで温泉に行った、となっている。将軍府だから、耿曙の家なのか。リビングで服を脱いでお風呂場にまっぱで行く感じか。でも確か、前回は外、結構歩いてたような……。)

 

「あなたはだんだん寡黙になってきている。心配事がだんだん増えてきているからだね。」姜恒は耿曙を見て言った。

耿曙は我にかえって、「出兵の詳細について考えていたんだ。心配事じゃない。」と言った。

「私はね、あなたはある人にだんだん似て来るって思っているんだ。誰だと思う?」

耿曙は眉を上げて「父さんか?」と尋ねた。

「ううん。私は会ったことないもの。趙竭将軍にだよ。」

「俺は別にしゃべれないわけじゃないぞ。」

姜恒は笑った。「あなたの態度が時々そっくりだと思うんだよ。そんなに眉を寄せないの。」そう言って、姜恒は手を伸ばして、耿曙のきりりとした眉を延ばした。

耿曙も笑顔を見せ、「来い。抱かせてくれ。」と言った。

姜恒は耿曙の胸にもたれ、二人は湯池の中に座って穏やかに晴れ渡った春の空を見上げた。

「趙将軍は王と一緒にいる時はきっとたくさん話があったが、他人に対しては話したくなかったんだろうな。」耿曙がふと独りつぶやいた。

「彼は話ができたの?」姜恒は驚いた。趙竭が口を開くのを見たことはなかったはずだ。

「いいや。だけど俺にはわかる。心の中にはたくさん話があったんだ。」耿曙が言った。耿曙には少しずつ趙竭のことがわかってきていた。なぜいつも重苦しい表情をしていたのかも。かつて人生の最も重要な段階である成長期に一番よく見ていた武人が趙竭だった。そして今の二人の状況も驚くほど彼らと似ていた。趙竭は姫珣を命のように大切に思っていた。彼の姜恒への思いと同じだ。天子と上将軍は大争の世では孤独だった。彼らにはお互いしかいなかった。:今の姜恒と自分も同じように孤独だ。

 

「恒児。」

「うん?」姜恒は耿曙の鎖骨の辺りを枕にして、ぼんやりしていた。

「言っただろう……ふざけるなと。」耿曙は姜恒の手をつまみ上げた。姜恒はこんな厳粛な様子を見る度に、ついからかいたくなってしまう。耿曙の唯一の弱点はあの辺りだけで、ちょっと触れるだけで、いつも大慌てになる。

耿曙は姜恒の足首をひっぱり、姜恒はびっくりして、湯池に滑り落ちて水を飲んでしまった。耿曙は彼を引っ張り上げたが、すぐに浴衣を着た。顔が真っ赤になっていた。

「俺は武将たちを招集して話をしてくる。」耿曙は姜恒を見ようとしなかった。心臓がどきどきしていた。「お前は好きなだけ湯につかってから来い。」

姜恒は顔にかかった湯を拭きながら言った。「そんなに急いでどうするの?」

耿曙はさっさと逃げてしまった。ちょっと急ぎすぎて、腹の患部が少し痛んだ。荒くなった呼吸を廊下に立ってゆっくりと収めていった。

 

自分たちは血のつながった兄弟ではないのだと姜恒に告げたかった。知ってほしいのに言えない。自分でも何を期待しているのかわからない。二人が兄弟でなければ、なれるかもしれない関係……今はまだ満たされない、もっともっとほしい。だが自分が欲しているものは、今まで姜恒が築き上げた全てを崩して、入れ替えることになる。それは耐え難いことだった。

耿曙は少し進んでは停まって、気持ちを収めようと努め、また少し進んでは停まった。事実を告げられた時の姜恒の顔を見たくない。きっととてもとてもつらい思いをするだろう。

 

武将たちが集まった場に着いた時にも耿曙はまだ少し上の空だった。

「間もなく出兵するのですね、殿下。」部下が言った。

庁に集まった将校たちは、皆、長年共に戦ってきた勇将ばかりだ。皆若く、雍国の方針で、結婚もせず、家も持っていない。幼少時に父母と別れ、軍寮で大きくなった。当然自分たちの両親が誰かも知らない。彼らは耿曙自らが、選んだ。王室から与えられた金はほとんどこの将校たちに分け与えた。彼らは落雁から耿曙に付き、玉壁関、洛陽、嵩県へと移動して、ここを拠点としてもう二年住んでいる。一人一人が彼に追随し、彼が行くところには彼らも行く。そして、牛や羊が、水と草を追うように、飛ぶ鳥が雲を追い、泳ぐ魚が水を追うように、耿曙は姜恒に追随している。

 

耿曙は王子としての威厳を取り戻して言った。「戦争はいいものではない。戦わなくて済むなら戦いたくはない。」

「兵の身で戦わなければ、何ができますか?」別の部下が言った。

「雍はいつ関に入るのですか?兄弟たちは当然のことながら待ちくたびれています。」

別の誰かが言った。

「わからない。」耿曙には事実を隠すつもりはなかった。「この作戦は、雍が要求したものではない。そして雍国には全く関係がないものだ。」

一同は静まり返った。皆、不審な表情をしている。

「この戦いは俺の一存で行う。そして、今後俺は雍国には留まらないかもしれない。」庁内は水を打ったように静まり返った。みなこれが意味することがはっきり分かっていた。耿曙は背反すると暗示しているのか?!しかも彼は雍国を裏切るかもしれないと、兵たちに隠すこともなく告げているのだ!

 

 

ーーー

第141章 晋廷の臣下

 

「照水城攻めに出たくない者については、俺も理解する。強制はしない。国に帰りたければ、帰っていい。明日、宗鄒に金を準備させるので、王室に従いたい者は、自分の兵をつれて、玉壁関に戻ってくれ。武英公主には俺が一筆記して、編入させてもらうようにする。俺に対してと同じようにそこで力を尽くしてくれ。」

誰も言葉を発しなかった。

 

入浴を追えた姜恒が、皮履をひっかけて髪を湿らせたまま現れ、一同を見渡した。一列五人、四列に座っている。兵役中の軍規は厳しく、座り方もしゃんとしている。耿曙も、兵たちも襟を正して座っていた。

長椅子に腰掛けた姜恒は、不思議そうな表情で、「皆に何を言ったの?」と尋ねた。「なんでもない。」耿曙は答えた。「お前は、侵攻路を考えて、線を引いてくれ。ほら。」

「先にちょっと見せて。」姜恒は照水の地図を広げた。「話を続けて。私にかまわないで。」

耿曙は将校たちに告げた。「お前たちには一晩、考える時間を与える。」

「私は王子殿下について行きます。去ったりしません。」すぐに誰かが声をあげた。

耿曙は、これがあたかも何でもない決定であるかのように表情を変えずに頷いた。

別の誰かも言った。「私も殿下について行きます。去る気はありません。」

姜恒は一同を見渡した。眼差しには笑みがあった。耿曙が何を言ったのかがわかったのだ。そのまま一人一人意思を表明した。二十名の千夫長の内、誰一人として帰国を望まなかった。

 

「よくわかった。それでは戻ってそれぞれの部下に問え。知らせていいのは百長までだ。今は、情報が漏れないように気をつけねば。照水城侵攻について、何か考えはあるか?」

姜恒は地図を持って、耿曙の膝を枕にして横になった。彼はいつもこんな感じなので、将校たちも慣れていて、特に変わらない。耿曙は自分の足を触り、姜恒に目を向けた。ちょっと気まずそうな顔をしている。

「考えはありません。いつも通りです。殿下の言うとおりにします。」万夫長が言った。

「そんなの駄目だよ。」姜恒が言った。耿曙はちょうど、「それでは解散」と言おうとして、ちょっと考えてから、頷いて言った。「そうだな。それでは駄目だ。」

姜恒は笑いながら耿曙を見上げると、手を伸ばして彼の耳を触った。耿曙は言葉に詰まり、「部下たちの前だ。ふざけるな。」とつぶやいた。

将校たちは笑った。それまで姜恒にあまり会ったことがなくても、耿曙の弟愛は有名だったので、誰も気にしなかった。

耿曙は姜恒が言わんとしていることがわかった。彼は汁琮から帯兵戦闘を学んだため、自然と汁琮のやり方をまねていた。作戦について、汁琮は部下たちの意見を聞かない。立てた計画を実行すればいい。このやり方では、すべての兵が駒になるが、いったん汁琮に何かあれば、全軍の崩壊をもたらしやすい。

「ダメだと言うなら、どうすればいい?」耿曙は姜恒に尋ねた。

姜恒は地図をぱっとおいて、顔を向けた。「一晩各自で考えてもらうんだ。話し合ってもいい。明日一番に各自が作戦計画を提出する。いくつかの作戦を合わせてもいいし、単独でもいいけど、意見を持ち寄ることはいつだって利益があるものだよ。」

「聞こえたか?」耿曙は一同に言った。一同はそれぞれ頷いた。耿曙は最後に言った。

「解散。」示し合わせたように千夫長たちは起立し、行礼して庁を出て行った。

 

「戦争のことは、お前は心配しなくていいぞ。」人がいなくなると、耿曙は姿勢を変えて、姜恒をもっといい体制で横たわれるようにし、下を向いて話しかけた。

「私が心配なのはあなたの怪我の方。」姜恒は目を上げて彼を見た。

耿曙は頭を下げて口づけしたいと切に思った。だが気持ちを押し殺し、唇をなめると、横を向いた。「もうだいぶいい。」

「戦場ではくれぐれも刺客に注意してね。」姜恒が言った。

「俺は手紙を書いて、界圭にお前を守りに来てもらうように頼んだ。」

「あなたの父王が知ったら、きっと……。」

「汁琮が怒り狂ったってかまうものか。お前も万夫長たちの態度を見ただろう?みんな俺について来ることを望んでいるんだ。」

「だけど、そんなことしたら、界圭にも累が及ぶのではない?」

姜恒は二人のために多くの人を巻き込みたくなかった。それに、界圭が事情を知って、自分を守ってくれたとしても、彼は太后の部下だ。言えないことも多いのではないだろうか。

「それは彼が自分で選ぶことだ。彼が来られないなら、項余に来てもらうさ。俺が出征する時に、お前を守るように言う。……だが先に言っておく。俺はなるべくお前を近くにいさせるが、どうしても守りきれない時には、お前もよくよく気を付けるんだぞ。」姜恒は少しつらい気持ちで耿曙を見た。急に胸が痛んできた。『戦いが始まれば、やるべきことがたくさんあると言うのに、私の身の安全にまで気を使わないといけないなんて。』

耿曙は姜恒が誤解したのかと思って慌てて言った。「お前を嵩県に置いて行きはしないぞ。そんなつもりはない。」

姜恒は悲しそうに微笑んだ。「違うよ。私は……逆に思ったんだ。私は家で待っていた方がいい。その方があなたに迷惑をかけずにすむでしょう。」

「そんなことがあるか。お前が必要なんだ。」

確かに姜恒も初めて耿曙と共に落雁城外で戦った時に力を証明してはいたが、耿曙の実力の方は前人未到とも言えるものだ。姜恒は疑うように耿曙を見た。「本当に?」

耿曙は真剣に頷いた。だが姜恒は見抜いていた。彼は一番安全だと思えるところに自分を置いておきたいのだ。憂慮を置き去って初めて、二人の未来のための戦いに専念できるからだ。

「でも何で項余なの?」姜恒は起き上がって座り、本気を出して耿曙のために作戦を立て始めた。「彼の武功が実際はかなりすごいってわかったから?」

ちょうどそう考えていた耿曙は問い返した。「お前も気づいたか?」

姜恒は項余が戦うところを見たことはなかったが、普通に考えても上将軍だ。実力はあるだろう。武芸は曾宇くらいか、耿曙ほどではないはずだが、御林軍を統率する者としての修練はしているはずだ。耿曙の場合は、元々の天才が幼少時より武を学んできたのだ。比べものにはならない。

だが、あの日、項余は二つの部屋をすり抜け、圧倒的な力で『給仕』を制した。拷問の仕方も手加減なしで、できることは何でもし、手段は残忍だ。最初の印象とは全く違う。あの時、姜恒は思った。項余はきっと見かけほど簡単ではないのだと。

「俺はただ、彼はお前を傷つけさせないだろうと思っただけだ。」耿曙はいやいやながらも本音を語った。「どうしてそう思うの?」

耿曙はそれ以上言いたくなかった。理由は項余が姜恒をやたらと見つめ、姜恒そっくりの少年を侍らしているからだ。姜恒はいつも項余に礼儀正しく接していたが、耿曙はいつも気分が悪かった。それが自分の欠点だと耿曙は少し反省もする。姜恒は、『愛、屋烏に及ぶ』を地で行き、耿曙に良くしてくれる人を大事に扱う。それなのに自分はどうだ?姜恒に少しでも好意を示す者を剣で刺してやりたくなるとは。自分は懐の狭い男だ。それはわかっている、わかっているがどうしようもできないのだ。

姜恒も別に答えを待ってはいない。地図を見てから、再び耿曙を見て、笑った。だが、すぐまた軽くため息をついた。「いつも天下が自分の家だって言っているでしょう。だけど何故か、天の神様は私たちを弄んでばかりで、安心して一所に留まらせてくれないって気がするんだよね。」

「その日はきっと来る。今回は以前とは違う。兄を信じろ、恒児。」

 

 

三日後、千夫長たちは計画をまとめ、姜恒は宋鄒を呼んで、詳細な報告を聞いた。

嵩県は二万八千人を出兵させる。耿曙の指揮の元、東に進み、沙江に沿って照水城を奇襲する。太子安は水軍を使い流れに逆らって北上させ、梁国南方のこの重要な城、照水を囲い込む。初めは耿曙の思いつきに過ぎない、衝動的過ぎないかと考えていた姜恒も、その日が迫るにつれ、だんだんとわかってきた――――。

 

この戦いは、勝ったようなものだ!耿曙から各国の情勢について聞かれたことはなかった。それは彼が既に五国都、六関に駐在する兵力を把握していたからだ。戦争とは外交と同じく、わずかな動きが全体を崩す。戦略に関して、耿曙は決して姜恒に引けを取らなかった。

郢国軍と嵩県軍が梁国南方の照水城に侵攻する。城には二万の駐留軍がいる。梁国はここを救うか、救わないか?救うとすれば、どこから兵を送るか?当然国内の兵馬をかき集め、南下させて、城攻めを解こうとする。だが軍を集めて送れば、国都安陽の守備は薄くなり、玉壁関にいる汁琮はすぐに安陽を取りに行くだろう。

「でも鄭国には気を付けてよね。太子霊が黙って見ているはずがないから。」姜恒が言った。「彼が崤山に兵を出すことはない。そこは把握できている。」耿曙が答えた。

耿曙は郢、梁、雍三国の均衡を考慮に入れているだけでゃなく、崤山以東の鄭国のことも考えていた。鄭国は黙っておらず、太子霊は梁国の包囲を解くために兵を送ろうとするだろう。

だが鄭国が兵を出せば、郢国は照水城包囲を耿曙に任せて、鄭軍の牽制に動く。太子安の主力部隊はすぐにでも方向転換し、潯陽三城を取りに向かう。

「そもそも雍国が安易に中原を攻めることができなかったのは、潼関で代国を押さえる必要があったからだ。留守に乗じて、李宏が攻め入って来ないようにだ。だが今、落雁は塞外三族を団結させたために、陥落の危険がなくなった。逆に郢国の方も北上できない。代国が虎視眈々と狙っているからな。」耿曙は説明した。姜恒は頷いた。

「鄭国は雍を攻められない。潯三城が郢に接しているために不安材料があるからか。」

「そうだ。この大戦での唯一の変数はあの国だ。」耿曙の思考は研ぎ澄まされたままだ。

姜恒にも言わんとすることはわかった―――巴郡にいる代国軍だ。郢国の主力部隊が梁国を攻めている間に、万が一代国が南下してきたらどうするか?

 

宋鄒が言った。「最近得た情報を集約するに、それはないと思います。」

耿曙と姜恒は一斉に宋鄒を見た。宋鄒はしばらく黙った後で言った。「情報の真偽は判断しかねると申し上げておかねばなりませんが……。」

「かまわないよ、言ってみて。」姜恒が促した。

「姜大人が人質となってまで結んだ雍郢、南北の盟ですが、完全に強固とは言えないようです。我らの商人からの情報では、郢王は代国とも秘密裏に協議を続けているそうです。」

耿曙は逆に重荷を下ろしたような表情で頷いた。「それで話が通る。後顧の憂いを無くすために郢国は大戦を始めるつもりなのだろう。」

郢国は未だ代国との連盟を放棄していなかった。郢雍、郢代、二つの戦いの可能性がある。誰が熊耒の仲間で誰が敵なのか、姜恒には判断がつかない。熊耒と李霄が同盟を組めば、自分の人質条項は破棄され、熊安の未来の太子妃は姫霜になる可能性が高い。

勿論今現在はっきり言えることは何もない。姜恒は項余の言葉を思い出した。

―――郢国王族に良い人間など一人もいない。

わかるのは、将来、熊耒と熊安は機会を見て、どちらかの同盟を破棄するということだ。ならば破棄される方にならないよう、気をつけなければならない。

「他には何だ?」耿曙は少しずつ人の表情を見ることを覚えてきていた。特に参謀の表情を。勿論姜恒が彼の首席参事だが、その姜恒が最も重きを置くのが宋鄒の意見だ。宋鄒の表情を見れば、何か言いたいことがあるのは明らかだ。

 

姜恒も地図を広げて宋鄒に言った。「話して。これまで長年に渡る、宋大人の私たち兄弟への恩顧には感謝して尽きないと思っています。かつて偶然お目にかかったご縁で……。」

宋鄒はすぐに「姜大人はご冗談を。お互い晋廷の臣下同士、恩顧などというものではありません。全ては生前の天子のご意向です。」と言った。

宋鄒は暗示していた。二人が何をどんな方法でしようが、目的は一つ。初心貫徹し、既に滅亡した晋王朝への忠義を忘れないなら、宋鄒は絶対的な忠誠を尽くすと言っているのだ。

「ただ属下は考えているのです。」宋鄒はしばらく考えたのち、慎重に話し始めた。

「既にあなたへの殺害計画が実行されている時に、姜大人が参戦されるのはあまりよくないかと。武陵候が気を付けられるとしても、やはり容易に……。」

耿曙は、そのことは姜恒と話し合って決定済みだと考え、立ち上がりながら答えた。

「心配するな。俺がしっかり看ている。」

「いらぬ話にお怒りになるかもしれませんが、戦場では一瞬にして全てが変わるもの。絶対的な把握など、誰ができましょうか。もしそうであれば、落雁城外であんな風に……。」宋鄒の態度はゆるぎなかった。いつもなら、彼は同じ話を繰り返すことなどしなかった。姜恒は頷いた。「そうだ。あなたの言うとおりだ。」

「恒児?」

「しばらく離れていよう、兄さん。私は江州に言って、あなたのために後方支援をする。」姜恒は真剣にそう言った。

耿曙は何も言えなかった。それが一番いいということは、二人ともよくわかっていたのだ。姜恒だって離れたくはなかったが、何を言おうと、耿曙は全力を尽くすはずだ。

「よく考えてみたか?」耿曙は尋ねた。姜恒は頷いた。

「この戦争は長引かない。長くて三か月、それで終結する。」

宋鄒はほっと息をついて頷いた。例え姜恒が嵩県に留まったとしても、彼にも全ては把握できない。だが郢王室の中にいれば、問題はないはずだ。耿曙が兵を率いて出て行く間、姜恒の身の安全を確保できる。

最後に姜恒は宋鄒に目をやって尋ねた。「宋大人、これが……うまくいくと思いますか?」

「琴鳴天下の変以降、五国は危うい実力の均衡を形成してきました。天子がいらした時にも長年の間にその均衡は何度か崩れかけ、極めて危なっかしいままに維持されております。李宏の逝去により、一年前から、その均衡が少しずつ打破されつつあります。今思えば、雍軍が本県に駐留し始めたことが、新たな天下百年の変化が始まる兆しだったのかも知れません。」

宋鄒は表面からの回答を避け、耿曙には彼の話の趣旨がわからなかったが、姜恒は理解した。

次に何がくるかは判断しかねても、破局の兆しがあり、各国が苦労しながら保っていた均衡は失われ始め、全ての国々が反目しあう全面戦争が始まるのだ。大争の世がついに最終局面に達し、決戦の火ぶたが切られようとしていた。

この決戦は五年、十年と続くかもしれない。だが、最後に勝ち残った者が、神州を統治し、全てに決着がつくのだ。

「そうして考えると、太子瀧が兄さんに嵩県を取りに行かせたのは、中原に打って出る重要な手だったってことだ。とても賢かったね。」姜恒が言うと、耿曙は「運だろう。」と軽く流した。         

 

 

ーーー

第142章 花を咲かせる方法:

 

三月三日、上巳の日の前日、翌日には約定通り、嵩県から出兵する。

姜恒も耿曙も節句を祝う気はなく、耿曙は一人、何もない部屋の中で烈光剣を置いた剣架の前に座って十二時辰の瞑想を行っていた。これは落雁城で身に着いた精神を養う習慣で、教えたのは汁綾だ。戦いに出る前に、心を静かに保つ。殺戮行為から精神を守り、覚醒状態を保つためだ。

姜恒は彼の邪魔をする気はない。この戦争の重要性はよくわかっている。二人の将来の行く末を左右する。宋鄒が姜恒に替わって監軍を行い、耿曙について出征する。姜恒は江州に戻り、耿曙のために後方支援をし、太子安との交渉や郢国兵の調整に協力する。姜恒は城主府に歩いて行った。正に有史以来最も厳格な守備体勢だ。三歩ごとに哨がおり、五歩ごとに守備兵がいる。更に宋鄒は府の外周一里以内を立ち入り禁止にした。次は侍衛に手をつながせるのではないだろうか。

 

「やはり早く出て行った方がよさそうですね。あなたにご迷惑をかけすぎるので。」姜恒は苦笑いした。

「万金の躯、座して堂に垂せず、理にかなっております。」

宋鄒は庭園で、彼が育てた芍薬を愛でていた。これは彼の瞑想の仕方だ。芍薬が天下に冠する出来栄えになっていなければ、職務を果たしていることにはならない。

「時々下官は考えるのです。嵩県も刺客を養成すべきだと。でなければ、こんな時に全くなすすべもありませんから。」宋鄒は姜恒に顔を向けて言った。姜恒は考えてみた。

「でも刺客を養成するということは、攻夫を修練するだけじゃない。一人の人間の命運を剥奪して、『忠誠』の名の元に、血を吐くような欲望を持たせることです。残酷すぎます。」

「そうですね。」宋鄒はこの点で、姜恒とよく似ていた。彼らは個人を尊重する。人の生命を、選択を、意思を尊重していた。似ているがゆえに理解できた。

 

彼は話題を変え、姜恒に言った。「今回、私は武陵候のために八千の兵を集めました。嵩県が出せる全てです。雍軍は候を尊敬しているとは言っても結局のところ汁家の兵ですから。」

「ありがとうございます。正に私が必要としていたことです。」姜恒は言った。

耿曙の二万の兵は征戦には長けているが、万一汁琮が雍軍を率いて来た場合、彼らはかつての同胞と戦うことができるだろうか?           (まじで宋鄒最高)

宋鄒はため息をついた。「あの時すぐにこうしていれば、洛陽は壊滅しなかったかもしれませんね。」

「来るべきものは来たでしょう。」姜恒は宋鄒の傍に座って彼を慰めた。「あの頃も嵩県は豊かだったでしょうが、八千の兵を持つ軍隊を集めるには十分ではなかったはず。」

七年前、嵩県は王都を養っていた。集めた金は全て朝廷に納めていたのにどこにそんな余力があったか。この七年県庫に納められた金が動かされることがなかったために今こうして兵を養い軍を出せるようになったのだ。

「姜大人の最終的な人選はまだ定まっておられないのですか?」

「まだです。定まったと思っていたのですが、今こうしてみるとまだだったようです。」姜恒は疲れたように言った。

宋鄒の言わんとすることが姜恒にはよくわかっている。洛陽を去ってから、彼らの目的はただ一つ。姜恒は金璽を受け取った。宋鄒は傍でそれを支える。姫珣の遺命に基づき、神州の統領たる者を選び、この大争の世を終結させる天子を選ぶことだ。

姜恒は最初に趙霊を選んだ。その後耿曙のために鄭国を諦めて雍を選ぶことにした。だが、汁琮の行いを見れば、彼を選ぶことはできなかった。汁琮が彼を殺そうとしているからではない。彼が目的のためなら、殺したいものを、それが誰であろうと殺す人間だからだ。それは決して容認できない。そんな者が権力を握れば政策を遂行できるはずがないからだ。

姜恒と宋鄒が直接この問題についてしっかりと話をするのは初めてだ。課せられた責任と目標を考えれば、彼らは役職の上下というより、戦友同士のようだった。この世に宋鄒ほど姜恒の苦労を理解できる者はいない。耿曙よりも彼の志向を理解していた。

 

「未来は霧に包まれている。」姜恒はやや茫然とつぶやいた。

宋鄒は芍薬を掘り起こして別の花壇に移し、振りむいて言った。「難しいなら、姜大人はご自分が名乗りを上げることもお考えになっては?」

姜恒は声を立てて笑った。「宋大人、本当は私に死んでほしいのでは?」

宋鄒が冗談を言っただけなのは彼にもわかっている。だが、姫珣は金璽を渡す時に、確かに言っていた。誰も見つからないなら、自分が天子として立ってもかまわないと。

姜恒はため息をついて如雨露を持ち、宋鄒が移植した芍薬の葉の上に水をかけた。

「国君に求める者は多いですが、色々考えると自分がなるのはどこかの王がなるより、更に良くなさそうです。本当に難しい。」

 

宋鄒はそれについては何も言わずに花を見ながら考えを巡らせていた。「姜大人、この芍薬ですが、西川で買って来させたものなのなのです。美しいと思われますか?」

「とても美しいです。宋大人がこういうことがお上手とは知りませんでした。」

「ですが、植えたばかりの時は、色も悪く、やせ細っていました。今ご覧になっているような、世にも美しい色とりどりで目を楽しませる花の色になるためには、一代また一代と、年を重ねるごとに、植え替えたり、剪定したりしてようやく今のようになったのです。」

姜恒は頷いた。宋鄒が花の育て方を通して、人選問題を討論しているのは明らかだ。

「一代ごとにより良くなっていった。そうでしょうね。最初私は国君を選ぼうとしましたが、後でそれは良くないと考えて、各国太子を見ることにしました。ですが、人は花と同じようにはいきません、宋大人。芍薬は自由自在に成長しますが、人はそうではありません。いつか影響を受けるからです。」

 

「私はいつも自分が欲しい花を植える時にはそれまであった株を抜いてしまうのです。労力には限りがありますし、土壌も、陽光も、養分には更に限りがありますから。」

姜恒は何も言わなかった。宋鄒は彼のやり方では手ぬるいと言っている。局面を打開する必要があると。「よく考えてみます。」と姜恒は答えた。

姜恒は各国の継承太子を比べてみた。梁国以外の太子たちには皆会ったことがある。実際一番ふさわしいのは汁瀧で、彼は将来相応しい国君になるだろう。だが、天子となるためには、まだまだ学ぶべきことが多かった。

目下の雍国の問題は、汁琮が我が子に変わってほしくないということだ。汁瀧には自分の信念を継承してほしい。姜恒の信念ではなく。

宋鄒の思考回路は簡単かつ直接的だ。あなたが汁琮を葬り去ればいいではないですか。何の問題があるのですか?とっとと汁琮に死んでもらえば、大手を振って汁瀧を担ぎ上げられる。問題は解決でしょう。

私の今の最重要目標は生き延びることだというのに。それを思い出すと泣き笑いするしかない。今は命の危険と隣り合わせだ。何とか生き延びられたら、汁琮をどうしようか考えよう。

 

次の日、大軍が出発する。姜恒を迎えに来た項余の軍も嵩県外に着いた。

嵩県は初めて県をあげての出兵を体験する。全県から軍に編入した成年男子たちは一年間の訓練を経て耿曙と姜恒のために戦闘準備を整えた。一声命令を出せば、質疑するものは誰もいない。なぜかと問う者もいないまま、人々は郢国を援護する任務についた。

「行ってくる。」耿曙は王軍の暗紅色の上に銀の鎧を身につけた。手には兜を持ち、重苦しい気持ちで、姜恒の視線を避けているようにも見える。

「がんばって戦ってきて。後方のことは、心配しないでね。」

耿曙は姜恒の唇をしばらく見つめたが、最後に大軍の面前でおかしなこともできまいと、ただ彼を自分に引き寄せて抱きしめた。「帰りを待っていろ。」耿曙は姜恒を抱いて、耳元で囁いた。「江州ではよく気を付けるように。既に風羽に手紙を送らせたから、界圭はすぐに来るはずだ。」

界圭が来ることを耿曙がこんなにも確信している理由が姜恒にはわからなかった。

「弟をよろしく頼む。」耿曙は姜恒を放して項余に向かって言った。

項余は頷いた。「ご安心を。太子安は彼が戻ると聞いて大変喜んでいました。」

「兄をよろしく頼みます。」姜恒も宋鄒に言った。

宋鄒は笑って「武陵候の安全は必ず守ります。」と言った。

 

耿曙は軍を率いて出発し、琴川を離れて行った。姜恒は二万八千人が遠ざかるのを見送った。すっかり見えなくなると、ため息をついた。これから耿曙は兵たちを連れて、梁、郢、代、三国に接する丘陵地を越え、漢中平原を北上する。さらに黄河岸に沿って東進し、広大な森林を越えて、一気に梁国境に攻め込み、照水に奇襲をかけるのだ。

再会してから二度目の大きな別れだ。姜恒が落雁城を出て歴訪の旅に出た時にはそれほどではなかった。だが今回、出征していく耿曙を見送った時、姜恒は、この長兄であり、彼の人生で一番大切な人が去って行ったことで、孤独の何たるかを感じていた。

 

今まで気づかなかった。耿曙は心の一番深いところに特別な孤独感と喪失感を残していった。その孤独感は野獣のような激しさで、徐々に心の中を食い荒らしていった。

「行きましょうか?」項余が声をかけた。「あなたが江州に戻ることにされるとは、思ってもみませんでした。」

「またあなたにご迷惑をおかけしたいと思いまして。」姜恒はからかうように言った。「迷惑なんてとんでもない。これは私の責任です。それにあなたがいれば楽しいですし。」姜恒は疑うように項余を見た。彼の話はいつも自分と少しかみ合わない気がする。二人は馬に乗って、山岳の間を越え、陸路江州城に向かった。(川はやめたのね)

 

項余は話題を変えた。「あなたの部下の宋鄒大人は大した方とお見受けしました。」「同僚です。階級の上下はあっても目標を同じくする同士です。ただ私が前面に出ていることが多いため、みんな彼を見くびってしまうのです。」

これは本当だ。五国中の人がみな宋鄒の力を見くびっている。そうでなければ玉壁関下にいた梁軍が宋鄒の罠にはまって全滅したりしないだろう。

「目標とは何ですか?」

「天下統一という目標です。」姜恒は馬の背からとうとうと流れる川の水に目をやった。項余は彼の左側に来て、騎馬の技術が至らないために滑落したりしないよう姜恒を守った。

「ほう?あなたは天下を統一したいと?」

「もちろん私がじゃないですよ。」姜恒は笑い出した。「それが私のいた師門が代々掲げている任務でしょう?」

項余は考えてから口を開いた。「海閣ですね。あなたの師父がそうさせたのですか?」

「いいえ。師父は私がこんなことをするよう求めませんでした。」

項余は手袋をした手を掲げて手綱を引き締め、何かを考えていた。

「師父はただ私を傍にいさせようとした。彼は兄さんと同じように、私を大事にして愛してくれました。だけど私は彼に頼ろうとしなかった……一緒に神州の地を離れて海の向こうに行こうとはしなかったんです。」

 

姜恒はなぜか、羅宣を思い出した。多くの人を敵に回してしまった今になってようやく、未来への道を進むのは苦しいと実感していた。羅宣はずっと自分を守りたいと思っていた。大争の世の終結も天下もどうでもいい。彼にとってはすべて屁みたいなものだ。姜恒が幸せに生きていくことだけが彼の望みだった。

 

「お兄上のためでしょう?当たっていますよね。どうあってもあなたは子淼殿下を放っておけなかったから。」項余が言った。

姜恒は笑った。「あの頃私は兄が生きていることは知りませんでした。ただ思ったのです。死んでいった人に替わって全てを終わらせたいと。行きましょうか。こんな風に進んでいたら、一月たっても江州にはたどり着けませんよね。ハアッ!」

項余は色を失った。「待って下さい!ここは塞外ではありません。滑りやすい山道だ!待ってください!姜大人!」

姜恒は耿曙から乗馬術を習っていて、山道を疾走し始めた。項余は驚き急いで追いかけた。

 

数日後、彼らは江州にたどり着いた。太子安は少し驚いたが、それも想定内だったようだ。姜恒が東宮に着いたのと時を同じくして耿曙が梁地侵入に成功したとの報告が届いた。

「漢中平原での初戦の結果です。」太子安は軍報を手に姜恒に言った。「王軍は大勝。梁国は手も足も出なかったそうだ。お疲れ様。」

熊耒が言った。「お兄上の行軍戦闘は噂通り素晴らしい!」

 

熊耒父子の姜恒に対する態度は前より親し気だ。耿曙が戦で勝利したことで、熊安さえ少し持ち上げるような態度をとっている。それはそうだ。耿曙の名声は知れ渡っている。五国でももっとも光り輝く将星なのだから。だが、姜恒は謙虚に言った。

「兄のやり方は粗野で、武芸に頼って、いつも先頭に立ち、身をもって統率するのが好きなのです。誰かが彼を見ている必要があります。本当は私が行けばよかったのですが。」

「さすがは汁琮の弟子だ。その名に恥じない。」熊耒が言った。

「太子殿下、これで落ち合う準備ができますか?」姜恒は尋ねた。

「急がなくていい。先に少し休んでくれ。それから話そう。しばらくの間、項余将軍についてもらって君の護衛をさせる。」熊安は慌てて言った。

姜恒は外套を脱ぎながら言った。「戦場では一瞬にして全てが変わります。なるべく早く動かなければ。」

項余は、「先に服を着替えて沐浴して下さい。少し気分よくなりましょう。」と言った。姜恒は言われた通り、寝殿に戻って沐浴をした。太子安は御林軍の中から何人か引き抜いて、姜恒の護衛を増やした。水も漏らさぬ体制にして彼の安全を絶対に確保するためだ。

項余は侍衛として彼に張り付くことになり、入浴中も台に腰掛けて傍に控えていた。

姜恒はやっていられない気分だ。そこまで神経質にならなくてもいいのに。

「誰かを遣わせてくれればそれで充分でしたのに。」姜恒が言うと項余は答えた。

「姜大人のお兄上は郢国のために戦っておられる。我が国としてはこのくらい当然です。もし私のことを気遣って下さるのなら、いつも安全に気を配って、あちこち動き回られないで下さると助かります。」

姜恒は笑った。入浴を終え、屏風の影で服を着ると、項余はそれを待って越服を持って来た。彼に外袍を着せて、まじめくさった顔で言った。

「あなたに何かあれば、兵を大勢連れた子淼殿下がどうなさるか心配ですので。」

姜恒は大笑いした。今や郢国の誰もが不安なのだ。万が一のことがあれば、耿曙は本当に兵を率いて戻って来て江州を攻撃してくるのではないかと。

 

姜恒が東宮に入って行くと、太子安が抱える策士たちが口々に「姜大人」と言って立ち上がって拝礼した。太子安は手招きし、笑顔で言った。「いらっしゃい。先に軍報を見てから、一緒に夕飯を食べましょう。」

何かちょっと恭しすぎるような……。だが軍報を見て理由がわかった。

耿曙が漢中平原から一千の兵馬を率いて梁国一万の守備兵を破ったのだ。敵軍の死者三千余り、捕虜七千!

そんなことがあり得るのか?!姜恒さえも衝撃を受けた。耿曙は一千の兵を連れて偵察に行き、深夜に敵軍に遭遇した。逃げなかっただけでなく、突撃して梁軍を嵩河岸まで追い詰め、疑いようのない大勝利を収めたのだった!

 

 

ーーー

第143章 夜の進軍:

 

軍報は宋鄒が自ら書いたものだ。耿曙がたった千人を連れていかにして敵陣を突破し、敵を壊滅させたかを描写していた。これ程の戦績をあげたのは最近百年では二人だけだ。一人はかつて梁国の軍神と呼ばれた重聞、彼は彼らの父、耿淵によって殺された。もう一人は代国の前国君李宏で、彼は耿曙に敗れた。

 

「わあ、前回より更にすごいですね。」姜恒は淡々と言った。

太子安が言った。「我が国の水軍は既に河をさかのぼって進んでおり、十日後には彼と落ち合うだろう。」

「私はあまり多くの死者が出ないことを願います。戦って死んでいくのは皆無辜の民ですから。」        

「それは当然だ。奪った時には城は空っぽじゃ、役に立たないからな。」太子安が言った。姜恒は数年前、照水を通ったことがある。洪水で川が氾濫したあの光景は未だ記憶に新しい。だが現実的には郢国がやらねば雍国がやるだけだ。汁琮が攻め入れば、兵の略奪を放任するが、耿曙が先に勝ち取ったことで、城内の民の命を守ることができた。ひょっとしたら五国が互いに最終決戦し、天下が混乱した時には照水が一番安全な場所かもしれない。

 

姜恒は嵩県で詳細な戦闘計画を立てている時に、絶対に放水によって城を破らないよう念をおし、耿曙は再三約束した。城を落とした後で、民の命に危害を加えてはならない。江州王宮についてから、太子安に詳細を説明した時、姜恒は太子に水軍が城を落とした後で、略奪させないよう約束させた。太子安は戦争に勝てさえすればよかったが、嵩県王軍が先鋒を果たしてくれたことに満足していたので快く承諾した。

姜恒の仕事は早く、一時辰ほどで補給の手配を全て終え、太子安に提出した。喜んだ太子安は宴を設けて姜恒を歓待しようとしたが、姜恒は軍法を収集し、「食事は結構です。戻って計画を練り直したいので。」と言った。太子安は引き止めようとしたが、項余が言った。

「殿下、姜大人は前線のことが心配なのです。今は考えをまとめていただきましょう。戦いが目標を達してから功を労うのでも遅くはありません。」

それもそうだと太子安は考え、それ以上強く求めなかった。

 

その夜姜恒は軍報を抱えて部屋に戻ると、宋鄒の蜘蛛の糸のような文字で書かれた報告書の中に、危険や変数、予期せぬ可能性がないかを探した。

項余が言った。「私がこの部屋で寝ても、姜大人はかまいませんか。いびきはかきませんので。」姜恒は笑って宮侍に言った。「上将軍のために寝台をもう一つ用意して下さい。」項余は辞退はせず、宮侍に屏風の外に小ぶりの寝台を置かせ、自分で布団を敷いて座った。

 

夜が深まったが姜恒はまだ眠らずに、十数通の手紙の一文字一文字を詳細に読んでいた。地形の描写や軍力の配置を包括する。

「国では皆、この一戦は避けられなかったと考えています。」

「うん。項将軍はどう見られますか?」

項余は寝台に腰掛けて、佩いていた剣を拭きながら、軽い調子で言った。「残念ながら、私は戦向きではないのです。」

「あなたは謙虚すぎます。」姜恒は笑った。

「本当です。私は御林軍を率いています。任務は王室を守ること。行軍作戦などの機会はあまりありませんでした。昔読んだ兵法書もすっかり忘れてしまいました。」

姜恒は何も言わずに、屏風に移った項余の影をちらりと見た。

「姜大人はどうです?あなたはどう見られます?」

「照水は問題なさそうですが、一番心配なのは雍国の動向です。」

耿曙が兵を率いて自ら郢国の為に戦えば、汁琮はきっと反応を示す。問題はどう反応するかだ。その予測が難しい。

「太子殿下が既に雍王に手紙を送っています。」項余が言った。

「うん、彼は汁琮と直接話し合うんだろうね?」

姜恒はあまり考えずに的を射てしまった。郢雍同盟について最大の立役者は郢王ではなく太子安のようだ。おそらく郢王熊耒はもともと反対だったが、最後に項余に説得されたのだろう。そう考えれば、太子安は実に野心的な人だ。

「あなたにはお見通しのようですね。ですが彼について私は多くを語れませんことを、姜大人はご了解ください。」項余が答えた。

それで欲しかった答えが得られた。やはりそうだったんだ。初め郢王と太子安は意見が合わず、国君と継承太子の間の隔たりは大きかった。太子安は汁琮と天下を二分することを望んだが、郢王はそれでは敵を助長させ、狼を引き入れることになるかもしれないと考えたのだ。

最後に太子安が項余に説得を依頼した。あの不老不死の話を使って熊耒が言わんとしていたのはそれだ。実の息子に王座を譲ってやると言い難い思いがあるのだ。

だったらあなたは誰の側にいるのですか?姜恒は心の中で問いかけた。最初は、項余は熊耒に忠実だと考えていた。だがこうしてみるとそうとも限らない。ひょっとしたら、本当に忠誠を誓う相手はその後継者の方なのかもしれない。

 

「彼は自国の兵とは戦わないという方に賭けます。でも私が汁琮だったら、この機会を利用して関を出る。そして、聶…汁淼と連携します。息子が南方の照水を打つなら、父親は北方の国都安陽を打つ。」

「理にかなっておりますな。彼は姜大人のおかげで儲かったと思うかもしれません。」

「そうなると、梁国は二つに切り分けられる。五国連合会議が始まるのを待つことなく、一夜にして全てが変わることになる。」

項余は「うん」と言った。

「だけど雍国が玉壁関を出たら向かう所は中原だ。郢が照水を占領すれば、黄河が新たな南北境界線になる。郢、雍は河を挟んで向かい合う。次には何が起こるだろう?」

「鄭、代もまだ滅びてはおりません。兄弟の盟が健在なうちは、姜大人はあまりご心配しなくていいのでは。」

「そうあることを願います。」姜恒は一字一句かみしめながら呟いた。

「まだお休みにならないので?もうとてもお疲れでしょう。」

姜恒はため息をついた。「休みます。」

項余は長剣を平らに持って横に伸ばし、灯の心を切って火を消した。室内は月光で満たされた。

 

 

―――

深夜、玉壁関にて。  

汁琮は手紙を手に取り言葉を失った。

「彼が何をしたって?」汁琮は信じがたい思いだった。

手紙は太子安の印により封じられており、同時に出兵することを求めている。雍は案陽を攻め、郢は照水を取る。数百年の歴史を持つ中原の大国梁は今、亡国の危機に瀕していた。

衛卓が言った。「殿下が突然出兵されるとは理屈に合いません。ひょっとして姜大人を押さえられているのでしょうか?」

「いや、ありえない!これが我が子の仕打ちとは?」

汁琮は最近耿曙が以前とは人が変わったようになったとは思っていたが、これはあまりにも異常な行いだ!

「王陛下、打って出ますか?」衛卓が尋ねた。

汁琮は何も言わなかったが、その時、戸外から太子の来訪が伝えられた。

「汁瀧か?」汁琮は我にかえった。これは彼らの計画なのか?

 

太子瀧は風塵にまみれていた。連夜玉壁関へと急いで来たのだ。本当なら落雁城にいるはずだ。汁琮は我が子を見てすぐに何かを疑い始めた。―――既成事実を先に作るなど、耿曙が自分で思いつくわけがない。  

「私も知ったばかりなんです。父王、関を出ましょう。」太子瀧は言った。

汁琮は冷ややかに尋ねた。「姜恒がお前に手紙を寄越したのか?彼は何と言っていた?」

太子瀧は首を振った。確かに彼らには既に連携する習慣ができていた。外で彼が何か行動をしたと知れば、太子瀧はまず疑問を抱くのではなく、その深意を探ろうとする。そしてすぐに行動を起こし、対策をとるのだ。事実、二人は何も言ってきていないし、手紙さえ送って来なかった。暗黙の了解がある今では、説明の必要がないからだ。

「私は既に連合会議に準備をした。」汁琮が言った。

「彼らが前に手をうったなら、絶対に何か理由があるはずです。絶好の機会を贈られたのなら、失うべきではありません、父王!」    (シルタキ立派になったなあ)

 

この時、太子瀧と汁琮の態度には大きな違いが見られた。

汁琮が最初に思ったのは、『我が養子が他人のために戦いに出ただと?』

太子瀧が思ったのは、『こんな絶好の機会を逃す手はない!』

汁琮は咆哮するように言った。「汁淼は気でも狂ったのか!手紙一つ寄越さないとは!」

「帰ったら話しましょう!父王!帰ってきたら話せばいい!あなたの覇業が今にも叶おうとしているのですよ!」

朝臣たちは皆事の重大さがわかり、太子瀧にしか汁琮を宥められないと考えた。それが夜を徹してここまで来た理由だった。

汁琮ははっと我にかえり、息子をじっと見た。「打とう。」汁琮は耿曙の裏切りについては後回しにすることにした。「私自らが兵を率いる。明日朝一番で出発だ。」

「兄には必ず納得のいく説明をさせます。父王。」どうやら太子瀧も先に事情を知らされていなかったようだ。だが国事が優先だ。今は兵を集めて出征しよう。

 

 

―――

月夜の漢中平原にて。

潜入には適さない夜だった。漆黒だったあの夜とは違い、狂風が雲を吹き飛ばし、明月が千里を照らしていた。

王軍は漢中が黄河に至る場所に来た。最後の軍営には一万の兵馬が駐留している。

平原での奇襲は難しい。馬蹄を木綿で包んだ三千の先鋒隊は先を急いでいた。地点に着くたびに簡単な調整をして、人家のある場所を迂回し、人里離れた丘陵の北側を選んで行軍した。

見張り台に向かって耿曙は長弓を引いて矢を放った。月に照らされ、百歩はなれたところで哨兵が喉を射抜かれ落下した。仲間はまだ気づいていない。また矢が放たれた。数か所ある見張り台の排除に成功した。風羽の偵察はない。耿曙はひたすら突撃を展開し、限られた条件の元、敵軍の壊滅に尽力する。

「命を受け、天子の怒りの火を与えに来た。火を放ち焼き払え!」耿曙は冷ややかに言うと、その身の後ろから火矢を取り出し、合図として天空に向けて放った。すぐに無数の火矢が天に放たれ、兵営に撃ち込まれる中、追い風に乗って耿曙は一騎で先導し、三千の兵が大営になだれ込んだ!

梁軍は熟睡していて無防備だった。慌てて武器を持って迎え撃とうとして出るも、流れ込んで来た鉄騎に切り殺された。

 

「私はただ偵察して欲しかっただけなのですが。」宋鄒が最後にやって来て、火の海となった敵営を見てやるせなさそうに言った。「殿下、あなたにはたったの三千しかいなかったのですよ。こんな風に突撃する必要はなかったのです。」

耿曙は遠くを見つめた。何年も前に洛陽を焼き尽くした火の海が一刻、まぶたの裏に蘇ってきたようだった。趙竭の怒りの炎が今になってもくすぶり続け、梁国に向かって渦巻いたかのようだ。                  (あんたら雍国は?)

宋鄒は最後尾で退きながら、「ですが、敵の力を消耗させるのはいいことです。これなら照水へ援軍を送れないでしょうから。」と言った。

「兵は数より能力だ。いつだってそうだ。ここの処理はあんたに任せて俺は別の所に行く。」

 

数日後早朝、風羽が江州に来た。海東青はまっすぐ東宮に飛んできた。あちこちで人々が驚いていたが、姜恒は頭を上げて呼びかけた。「風羽!」

風羽は姜恒の机に停まった。太子安が尋ねた。「君が飼っている猛禽か?」

太子安が手を伸ばして触ろうとすると姜恒は慌てて「殿下気を付けて。」と言った。

太子安は危うくつつかれて汁瀧のように机を血まみれにするところだったが、幸い姜恒が制止することができた。

「ちょっと見てみます。雍都から報せが届いたはず……。」そこで言葉が途切れた。

手紙がない。

風羽は耿曙が放った。界圭に知らせを届け、姜恒の護衛を依頼するためだ。だが風羽は戻って来たのに誰も来ず、手紙も持って来ていない。

いったいどういうことだろう?姜恒は眉をひそめた。

「どうしたんだ?」太子安が尋ねた。

姜恒は首を振った。「兄に手紙を送ってみます。」そう言うと、重苦しい気分で、風羽を抱いて寝殿に戻った。

 

 

ーーー

第144章 漫山树

 

風羽は飲食を終えると、再び翼を広げて飛んで行った。姜恒の手紙を付けて北方へと向かう。行先である耿曙の身辺では、王軍が既に陸路、照水を囲う配置についていた。

梁国の東、照水城付近に駐留していた四万の守備軍は耿曙によって、一隊、また一隊と取り除かれ、敗戦した梁軍兵は捕虜となるか、安陽へと逃げ帰った。

 

「これで大分楽になった。」耿曙は高所にある岩に座って烈光剣を弄び、剣を光らせながら振り回していた。下方に見える照水城を眺めながら。

現在城には三万の守備兵が残っている。郢国八万の水軍も河を上ってきており、城の水路を塞いでいた。照水城は背ろは山、前は河に面している。耿曙と宋鄒は城の突破方法を考えていた。風羽が戻ってきた。これで斥候の負担が減る。耿曙は鷹に城壁付近の兵力を偵察しに行かせ、自分は手紙を取って読みだした。

 

『照水城の地盤は粘り気のある泥が多い。春の初めには山岳の雪が解け、河の水位が上がる。くれぐれも注意して、準備なく攻めないように。』

耿曙は頭が痛くなってきた。姜恒は彼の見聞を知らせて来たが、どうするべきかは書いていない。短い文章の中にどういう方法をとるか書くのは難しい。それに可能な限り、損傷を少なくしなくてはならない。

だが行軍布陣、攻城の策を立てるのは姜恒の得意分野ではない。耿曙は自分で方法を考えねばならない。

「俺はちょっと出て来る。」耿曙は宋鄒に言った。耿曙には一人で静かに考える時間が必要なのだと宋鄒にはわかっていた。兵には彼の邪魔をしないように離れてついて行かせた。

 

溶けたばかりの氷水に満ちた瀧の中は骨身に滲みる冷たさだ。耿曙は山中の沢に来て、しばらく見つめた後、外袍を脱ぎ、袴一枚だけを身につけて瀧の下の岩まで歩いて行くと、座禅を組んで座り、体を打つ冷たい水の中で神経を集中させて考えた。      (ひえ~)

遠くから海東青の鳴き声が聞こえた。その時、耿曙の目は山岳を通り越して、密生して茂る森林を見ていた。一刻後、耿曙は瀧の中に歩いて行き、全身から水を滴らせて、下を向き、裸足の足が踏んでいる泥土を見た。

 

「策が見つかった。」耿曙が営帳に戻って来ると、郢国が派遣した上将軍屈分がちょうど宋鄒と話し合っているところだった。傍らにはあと何人か水軍の鎧をつけた将校たちがいた。

彼は屈分を何度か、主には王宮で見かけたことがあった。一番印象が深いのは初めて姜恒と水榭に行き、太子安と話し合った時だ。屈分の体は巨大で熊のようで帳篷に頭が届きそうだ。

粗野なだみ声で話し、腹に鎧を貼りつかせた大きな愚か者のようにも見えるが、言葉の中には耿曙に対する尊敬の念があった。

「殿下の戦い方はさすがです。これで我らが力を合わせれば照水城などた易く解決できますな。」

宋鄒は「屈将軍、私の見るところ、城内の士気は既に下がっております。城主への投降を勧めた方がいいかもしれませんね。」と言った。

屈分は手を振った。「随意に!随意に!出て来る時に王都から申し付かっております。淼殿下の言うとおりにするようにと!」

耿曙が「地図を広げて、見せてくれ。」と言った。一同は照水城付近の地形を見た。

「俺に策がある。山の雪が解けて水量が増している。濠を作って川の水を誘導し、城外の地まで送り込む。」

「前にも申し上げた通り、城に水を放つのは下策です。殿下。」宋鄒が言った。

「鄧水じゃない。」耿曙は言った。

照水城は二つの川と接している。北の山からは流れて来るのが賓河、南にあるのは長江支流の鄧水だ。古来より、照水は何度も河の反乱で城を壊されてきた。鄧水の水量は急に上がる。堤防を破壊する洪水で町全体が水没すると、死傷者は毎回10万人にもなった。耿曙が狙うのは、水量の少ない賓河の方だ。賓河は山から流れて来ると、城の前で湾曲し、鄧水に合流する。急に水量が増えれば、曲がり切れずに川岸を突き破って城壁に向かうはずだ。

「それはどうでしょうか。」屈分が言う。「賓河は水量が少なすぎて、城壁に達したとしても半丈程度です。城壁を破壊するには至りません。照水は水攻めを受けて何度も陥落しています。彼らも馬鹿ではないので、ずっと前に城壁を高くしているのです。」

宋鄒は何も言わずに耿曙を見た。彼がきっと答えを用意しているのがわかっているのだ。

耿曙は言った。「落雁城での一戦で学んだことは多い。山から四十万本の木を切って来るのに時間はどのくらいかかる?」

屈分は驚いて尋ねた。「四十万本ですか?何をする気で?」

宋鄒が言った。「水軍兵を皆来させなければなりませんね。切るのはすぐですが、運ぶのには時間がかかります。どこへ運ぶおつもりですか?」

「城壁前だ。」

「賓河を利用して運ぶことができるでしょう。ですが、そんなにたくさんの斧がありません。軍にあるのは三千くらいでしょう。」

「今から始める。このまま初めて輪番で行う。屈分、あんたの兵を全部呼んできてくれ。伐採した木は全て城壁前に置く。」

屈分の顔は疑惑に満ちていたが、江州からの指示なので黙って従った。

 

―――

江州城に海東青が飛んできて、耿曙からの手紙を届けた。姜恒は、「戦っている兄さんの傍にいてあげて、風羽。しばらくは来なくていいから。私はとても安全だから、兄さんを頼むね。」

と、耳元で優しく囁いて、風羽の羽毛を撫でてやった。それは耿曙に向けた言葉のようでもある。そして再び鷹を放ってやった。

 

項余はここ数日、姜恒の近くにいて、彼が文書を処理するのを見ていた。十万の大軍を管理するのはとても大変な任務だ。姜恒は長時間の囲い込みに備えて兵糧の手配もしなければならなかった。太子安は喜んで処理の全権を姜恒に与えた。たかが金じゃないか。王室は長年民から搾取しており、あまり戦はしていない。金ならいくらでもある。

 

項余が言った。「前線に行ってお兄上に会いたいですか?姜大人は王宮にじっと座っているのではなくて、軍に食料を届けに行きたそうですね。」

姜恒は笑って言った。「まだ本戦は始まっていないようです。」

「まもなくでしょう。ですが、あなたを護衛するはずの刺客はまだ現れていませんね。界圭でしたっけ?」

「彼には彼のしがらみがあるのでしょう。」姜恒はさらりと言った。

話し声が聞こえ、太子安の首席策士の羋羅が速足でやってきた。「姜大人、項将軍。」姜恒は目を上げて、羋羅の嬉しそうな顔を見た。「戦場で何か進展が?」

 

「進展と言ってもいいでしょう。」羋羅は机の上に手紙を置いた。「汁琮が部隊を率いて関を出て、梁国国都安陽への攻撃を開始しました。先鋒を務めるのは汁綾です。」

やはり来たか、と姜恒は思った。汁琮がこんな機会を逃すはずがなかった。

羋羅は嬉しそうだ。「現在、梁国は南北両面から攻撃されています。持ちこたえられないでしょう。」姜恒は羋羅の興奮に満ちた顔を見て、ただ、「ええ」と言った。

「太子殿下は真っ先にあなたに報告するようにと言いました。照水に動きはありません。私はこれで失礼します。東宮で郡の設置について協議せねば。」

羋羅が行ってしまうと項余が話しかけた。「あまりうれしくなさそうですね。」

「汁琮は兄とはちがいますから。国君の功績、即ち民の苦しみです。勿論喜べません。」本当は耿曙の出征だって姜恒から見たらいいことではない。ただ選択の余地がなかったのだ。

「この世は殺すか殺されるかではありませんか。殺されたくなければ殺すことを覚えるしかない。あなたの師父はそう教えなかったのですか?」項余は眉を上げた。眼差しは穏やかだ。 

「教えられましたが、私の性格では学べはしませんでした。」姜恒は笑った。

 

これからどうしたらいいのだろう。かつて梁軍は洛陽に侵攻した際、あちこちで大殺戮を展開した。天子さえも王座から引きずり降ろそうとした。:鄭軍が落雁城に攻め込んで来た時も手加減なしだった。大争の世では、王道は影をひそめ、殺戮によってのみ神州は平定される。「もう考えるのはやめます。できることは全てしました。結果を待つだけです。」

 

―――

四月五日、梁国南方の照水、北方の安陽が同時に急を告げた。郢、雍、二か国に攻撃され、代国は遅遅として兵を動かさなかった。鄭国は最速と言える速さで兵を集めて、救援と称して崤関を打ちに出た。これには郢国が反応し、精鋭部隊を派遣した。三国の兵馬を巻き込んだ前代未聞の大混戦が繰り広げられることとなった。

雍の参戦六万、梁国全域の兵馬は合わせて十万、郢水軍八万、耿曙率いる王軍約三万、鄭軍八万、合わせれば三十五万となる。

この規模は七年前の洛陽での一戦を上回るだけでなく、勢力の均衡を打破するものであり、天下は新たな局面を迎えていた。百年以上続いてきた大争の世の総決戦が、照水城陥落をもって、幕を上げようとしていたのだ。

 

四月六日早朝、一千万本もの材木が賓河を流れて、河の湾曲部にたどり着いた。郢国水軍がそれを押し上げ、嵩県騎兵が両岸に運んで縄でくくった。

木は次から次へと城壁にぶつかり、照水城守軍は騒然となった。城壁の高所より矢を放ったが、郢軍と王軍は材木の障壁に隠れて、木に当たった隙に逃げて行った。

照水城兵は最初、敵軍が木材を当てて城壁を破るのかと考えた。だが、城壁は堅固だったため、そのくらいの衝撃は恐れなかった。一日かけて、木は増え続け、夕暮れになると、城壁の下には40万本の大木が積まれていた。

夕闇が迫る頃、耿曙は武鎧をまとい、馬を城外に駐めた。兜を少し押し上げて、明るく澄んだ双眸を見せた。

「点火。」その時なぜか、項余に言った言葉が蘇ってきた。―――火遊びをする者は自分が滅せられる。俺は火遊びが好きなようだな。

 

耿曙は率先して長弓を引いた。一本の火矢が千万の火矢を率いて、城壁前の材木に飛んだ。河から上げられた時にすでに油を注いであった木は流星のように飛んで来た火矢が当たると、たちまち燃え上がった。東南から吹く晩春の強風に煽られ、炎は城壁に沿って立ち上ったが、高壁にさえぎられている。城の西側にいた人々は移動し、広大な城壁の様子を怯えながら見ていた。そこへ照水城主自らが様子を見にやってきた。

「既に二十年近く建っている城壁だ!」城主は梁国貴族で、名を遅昼と言う。かつて耿淵に殺された遅延訇は彼の伯父だった。その耿淵の子に城を攻められるとは。直接戦って、恨みをはらせないのを残念に思った。

「恐れることはない!」遅昼は天を見上げて言った。「まもなく雨が降る!一旦雨が降ってきたら奴らにはどうにもできない!」

火の勢いは激しいが、長くはもたない。例え付近の山林全ての木を持って来たところで、城内の民を焼き殺すことはできない。遅昼が恐れるのは城南にいる主力である水軍の方だ。

彼はもう耿曙の騎兵にかまうのはやめた。焼かれた城壁は熱く、誰もはしごを登ることはできない。兵力は城南に送り河側の守りを固めれば全てうまくいく。遅昼は冷笑した。「若き軍神だって?大したことはないな。」

火は一晩中燃え続けた。一方、賓川の上流、山腹の滝の下から流れ出る水は堰き止められて巨大な貯水湖と化していた。断木に阻まれ、水位が上がって、今にも崩壊しそうだ。

遅昼の判断は間違っていなかった。たくさんの木も一両日中には燃え尽きた。3日目の朝、城外は灰だらけとなり、黒煙が町全体に広がった。守備軍は咳こみ、目を燻され涙を流した。

 

空に暗い雲が垂れ込め、暴風雨の到来を告げる雷の音が聞えて来た。

「堤防を抽け。」耿曙は無表情のまま、第二令を発した。

哨が鳴り、山腹にいた三千近くの兵が谷間で水を堰止めていた断木を外した。人工堤が崩壊し、川の水が押し寄せて来た。

城を巡回していた遅昼は十里離れた山から響いてきた轟音と大地の震動に何が起きたのかわからなかった。

続いて、数日の間に貯めこまれた雪溶け水が、干上がった川床に沿ってゴオゴオと流れ落ち、河の湾曲部にむかって突き進んだ。そして一つの大波となって河を飛び出し、二日間焼かれた城壁に向かって吹き上がった。たった一波、それで十分だった。

真っ白い蒸気が天に向かって立ち上ったかと思うと、あちこちでピシピシと何かが裂けたような音がした。赤く焼けた石壁が急速に冷却され、一斉砲撃を受けたかのようにあちこちで音が鳴った。音はますます大きくなって、空の雷と混ざりあった。

 

落雁城崩壊の一幕が照水城外で再演されたようだ。太子霊は一月かけて十里の巨大な壁を崩した。それには及ばないが、五丈近くの壁が割れ、ガラガラ崩れ落ちる様もまた壮観だった。遅昼は目を見開いて、目の前の城壁がひび割れ、崩れ落ちていく様を目の当たりにした。

城外の青山、河湾、平原が眼前に広がっている。

耿曙は馬の上で無表情のまま、目の前に広がっていた高い壁が崩れ落ちて行く様を見ると、兜を引き下ろし、顔の上半分を隠し、温潤な唇を少し動かした。

遅昼は何をされたのかはっきりわからなかったが、城壁にできた巨大な開口部を前に、いかなる抵抗も無駄だと悟った。

つぎの瞬間、王軍騎馬兵たちが突進してきた。馬は瓦礫を踏みつけ、照水城へと突入していった。

 

 

―――

「これがその……実際の状況です。」

姜恒は耿曙からの手紙を手にして、朝廷の役人たちに初めから終わりまで説明し終えた。熊耒と太子安は全て聞き終えてもぽかんとしていた。姜恒の作り話ではないのか。

「実の所、私の想像より早かったようです。うん、確かに、確かに早い。当初の予測だと、五月初めか、一月はかかると思っていました。現在照水はもう郢国の属地です。屈分将軍が既に全城を管理しています。」

「ああ、……よかった。」太子安は夢でもみているかのようだった。

熊耒が突然大笑いした。「よくやったな!」熊耒はゆっくりと立ち上がるとため息をついた。「よかった、実によかった。」少しがっかりしているようにも聞こえる。

「若さとは、大したものだな。王児よ、後のことは頼んだぞ。」そう言って熊耒は行ってしまった。

太子安が近づいてきて、姜恒の手をとった。感慨深げだ。「すごいことだよ。郢国では十七年来こんな見事な勝ち戦は初めてだ。子淼の名声に嘘はなかったな。」

姜恒は笑顔で言った。「王の威光のおかげです」

「これからお二人は我が郢国の国士だ!」太子安は感動したように言ったが、眼差しには不自然な畏怖が見えた。

姜恒には一瞬彼が何を思ったかが分かった。:江州がこんな攻撃をうけたらどうすればいい?どうにもできないだろう!もし耿曙が同様の策を江州にしかけてきたら、城壁はもうどうにもならないだろう。

「実は、もし事前に知っていれば、火をつけさせはしませんでした。自然というのは計り知れません。万が一雨がふったら?雨がふらなくても城内に水車があったら火をつけ始めた時に、遠く離れたところから、城外に向かって水流を送れたはず……。」

「そうだ、そうだ。うまくいかなかっただろうな。うん。」太子安は少し安心したようだ。

「趙霊が落雁城を破った時と同様に、彼の策も、一度なら通用しますが、二度とは使えないでしょう。堤防を作っている時点で奇策とは言えないので、小手先の技として、考慮するに値しないと思います。」

姜恒は謙虚に言ったが、耿曙の策が見事だったのは明らかだ。軍神の名も言い過ぎではない。

今回の照水やぶりは、兵法で言う、天の時、地の利を最大級に生かしたもので、常人には到底思いつくものではない。戦場の地形を把握し、河川の湾曲を利用して大規模な洪水をおこし、長時間焼いた場所に堤防を壊して水を送れば熱い城壁も割れるのではと考えるところから、四十万の材木がどのくらいで燃え尽きるかにいたるまで。

耿曙は全ての手順を予測できた。それは長年の努力の積み重ねによって得られた力だ。思いついた作戦は例え利用できなそうでも書き付けておく。戦場に出ていない時の行動が物を言ったのだ。

 

 

ーーー

第145章 甘やかな場所:

 

「子淼殿にはお戻りいただこう。」太子安は落ち着きを取り戻すと、次の動きについて討論を始めるために、姜恒を伴って東宮に向かった。

「兄には別のところに行かせました。もう照水にはおりません。」

「え?」太子安は急に歩を止め、疑うように姜恒を見た。

姜恒には太子安の考えが読めた。耿曙の部隊は王軍と名乗ってはいても、大多数は雍国兵だ。郢国と連携して戦ったら、疑いを避けるためにもすぐに戻るべきだ。もしもそのまま彼が城内に駐留していれば、万一雍国が手のひらを反して照水を征服しだした時どうすればいい?

「どこへ行ったと?」太子安は不快に思った。姜恒が事前に相談してこなかったことが不満だった。だがすぐにいつもの笑顔を張り付けて、親し気な口調で、「雍王を支援しにいったとか?」と言った。

「照水での事後処理が終わったら、東北路を確保し、崤関から安陽に至る道に伏兵を置き、梁王を救いに行く趙霊を待ち伏せさせるようにしたのです。」姜恒は言った。「殿下、私たちはまだ完全勝利したわけではありません。成果を確固たるものにする必要があります。汁琮は何の予兆も見せず、突然南下して安陽城を攻撃し始めました。私は何の準備もしておらず、一か八か補助を試みたのです。事は急を要するため、あなたと協議する余裕はありませんでした。それにもし雍国が苦戦したところで、郢国軍は全て水軍ですから、彼らを救うことはできないでしょう。」

平たく言えばこういうことだ。あなたが私に黙って汁琮と連絡し合っていたことを責めないので、私が耿曙を指揮したことも責めないでほしい。だいたい耿曙は本来自分の側の人間だ。越権行為にすら当たらない。

姜恒は、太子安が彼の話を消化できるまでしばらく待って、話を続けた。

「照水は郢、雍、鄭にとって非常に重要な場所です。この城を手にすることによって、中原の主となりうる拠点を得たのです。だからこそ郢国が最初に狙ったのがここだったのですよね?」

「そうだ。」太子安は最初の計画のところに戻ってきた。心を落ち着け、「拠点はとても大事だ。」と言った。

雍も郢も中原人に言わせると『蛮夷』だ。一方は北、もう一方は南の。狭義での中原とは、洛陽、嵩県等の天子直轄地と、梁、鄭国の一部だけにすぎない。一般的には長江中流から下流の辺りを指すのだが、歴史上、それぞれが『蛮夷』の認識を持っている。黄河流域に拠点を持つことが重要なのだと姜恒にも当然理解できる。雍国なら嵩県、郢国は照水城というわけだ。この城を持つことで、郢国は中原の中央から軍を出し、四方を討伐でき、中原が長江と玉衡山に守られるという歴史に終止符を打つことができる。

「次は軍備増強ですね。一切の対価を顧みず、可及的速やかに照水を増強し、覇を争うための中原最大の拠り所として、この城を利用するのです。」

 

太子安は努めて表情を押さえ、うれしそうに頷いた。「君の言うとおりだ。慎重に行かなくてはな。ハハハハハ!」太子安が笑い終えるのを待ち、姜恒は再び言った。「私もこの二日で準備ができました。北上して、彼らと落ち合います。」

太子安はまた少し驚いたようだ。「君はこれで帰るのか?」

「帰ると言うよりも、兄が最も重要な任務を完了させられるように、彼を見に行かなくてはなりません。殿下に替わって軍を労いに行きたいのですか、いかがでしょうか?」

「それは……」太子安は少し疑わしそうに言った。「例の刺客のことは……。」

「秘密裏に出て行きます。誰にも知られないように。」

姜恒は変装術のことは言わないことにした。黙っていた方が無難だろう。耿曙の傍に行ったら変装は解くつもりだ。二人の関係はあまりにもよく知られているから、殺し屋が自分を認識できなくても耿曙を見れば、二人の態度でわかってしまうだろう。

太子安は心を決めたようだ。「それでは項余に君を遅らせよう。子淼の所まで送り届けられれば、私も安心できる。」姜恒もこの申し出は断らず、頷いた。

 

再び海東青が戻って来た時、姜恒は北に向かう準備を終えていた。項余が送ってくれるなら、変装の必要もないだろう。耿曙が手紙を送って来た。姜恒はうめき声をあげた。「また戻って来たのかい?もう来なくていいと言ったよね?早く行って。偵察の仕事があるんでしょう。」

姜恒が手紙を広げて字面を見ると、耳元に耿曙の声が聞えるような気がした。

『城攻め後、民は皆無事だ。俺が自分で見たし、略奪も殺人もするなと屈分にも言いつけた。恒児、安心しろ。お前に言われたことは俺はいつだって心に留めてある。』

 

門外で待っていた項余が姜恒に言った。「愚兄(私)はまだ少しやり残した仕事があるので、行って見て来ます。賢弟は侍衛を連れて先に出発していただいて結構です。」

姜恒は頷いて、門を出る前に、急ぎ、一言書き付けた。『私を待っていてね。』そしてすぐに門を出て馬に乗り、北に向かった。     (師父は何しに行ったのだ?)

 

 

河洛兵道。洛水が起伏にとんだ丘陵に続く、広々とした原野を抜け、黄河に合流する地。漢中と河套を離れ、将軍峰の麓に来た。耿曙は兵たちを率いて、再び一昼夜の急行軍を行い、鄭軍が必ず通る道で、部下たちを山林に散らして待ち伏せの準備をさせていた。

照水落城後、耿曙は金品を一切受け取らず、部下たちにも略奪を禁じた。最初の計画通り、八千の王軍は宋鄒に託して嵩県へと連れ帰らせ、直属の二万を連れて東中原に向かった。崤山から二百二十里の場所で、雍国のために、梁国唯一の希望である太子霊からの救援軍を寸断させるためだ。

 

海東青が戻ってきた。耿曙は布切れを広げて、姜恒からの一言を読むと、風羽に向かって言った。「こんなに急いでどうした?俺の恒児は元気だったか?」

風羽は勿論答えず、上を向いて不思議そうに耿曙を見た。耿曙は鷹を撫でてやった。二人は風羽の頭を同じように撫でることで、間接的に互いの手指を触れ合わせたようなものだ。

「何か食べたら、偵察に行ってくれ。いつもご苦労さん。一人で寂しいだろう。帰ったら嫁さんを見つけてやるからな。」

 

「よ!戻って来たな!」将校たちが神鷹を見に来た。みな風羽が大好きだ。この鷹が彼らの任務をかなり楽にしてくれるからだ。風羽なしでは戦地でどれだけの仲間を失ったかわからない。

一人の万夫長が耿曙の話を聞いて笑いながら言った。「嫁さんを見つけてやるべきですね。」

兵たちは渓谷で火を焚いて座り、海東青が食べる姿を見ていた。風羽は生肉をついばみ始めた。耿曙は心の中で呟いた。『俺たち皆未婚だというのに、お前の結婚の心配をしてやっているんだぞ。こんないい主人他にいないだろう?』風羽は食べ終え、渓水を飲み始めた。

耿曙は水に映る自分の姿を見た。皆自分は父に似ていると言う。だが彼は自分は刺客のようではなく、武将らしいと考えている。武将のような生活をし、武将のように飯を食う。

目下、自分は武将らしく石の上に両足を開いて荒々しく座り、片手を左膝に置き、背には一本の剣を背負っている。水の中の自分を見て思った。姜恒はこんな自分が好きだろうか?

聞いたことはなかったが、姜恒はどんな人が好きなんだろう。男でも女でも。姜恒の目には自分しかいないことはわかっている。それは好きだということではないか?自分が姜恒を好きなのと同じ好きという気持ちだろうか?そこは確信が持てない。

二人の間の感情がどういうものなのか、もうはっきりといえなくなった。初めは姜恒が誰であれ、お互いを守りあって一緒にいたかった。それが自分の責任であり、願望でもあった。それは好きということだろう?

 

夜になり、将校たちは篝火の前でおしゃべりをしていて、耿曙は近くに座って黙って聞いていた。一人の千夫長が聞いてきた。「殿下、我らはまた嵩県に帰れるのですか?」

耿曙は我にかえり、「帰りたいのか?」と尋ねた。

皆はお互いを見合って、目配せをし合ったが、耿曙の前では言いづらそうだった。

「帰りたいです。」万夫長が皆に替わって答えた。

「なぜだ?」耿曙はこの待ち伏せ攻撃が終わり、雍国が安陽を取ったらすぐに、自分の将軍権を返上しようと考えていた。

全員が笑い出した。

耿曙:「?」

万夫長が言った。「兄弟たちの多くは、武陵に二年間駐留して、皆思い人がいるのです。」

耿曙は理解した。雍国では士兵たちの結婚は自分で決められない。結婚は両親の決めることだが、皆幼少から両親とは離れ、棋子となるべく培養されている。七歳から軍寮で武芸を習い、誰も見合い話など持って来ない。いつか大雍官府が国君の名義で、彼らに婚儀を指定するだけだ。それは結婚というものなどではなく、交配だ。役所が適齢女性を住所ごとに分配し、軍人は十日から半月ほどの短い期間帰郷し、子作りをする。生まれた子は母が七歳まで養った後、国家に管理されるようになる。

ここにいる雍国兵たちは嵩県に駐留していたため、軍規から外れ、逆にこの地で恋愛をする機会を得たのだ。

「『温柔郷は英雄の墓場』だ。」耿曙が言った。

 (三国志辺りの言葉みたい。温柔郷は心休まる場所と遊郭と両方の意味があるようです。)

一同は敢えて物を言わなかったが、耿曙は話を続けた。「だが、それが人というものだ。戻れるよう努力する。」

それを聞いた兵たちはそれぞれほっと息をついた。

一人がいった。「私だって結婚までは望みません。また会えればそれで満足なのです。」

「言ってくれ。お前にそこまで思わせるのはどこの家の娘だ?」耿曙が尋ねた。

最初は誰も敢えて放さなかったが、耿曙の真剣な表情を見て、それが冗談でないと分かると、万夫長が話し始めた。全員が二十歳そこそこの若者だ。ずっと耿曙についていて婚配(!)を逸した。だがそれだからこそ、嵩県で自ら相手を見つけたのだ。

耿曙は彼らの思いを聞いた。全員ではないが、殆ど全員、よく知っていて名前で呼べる戦士たちが、心に願いを持っていた。ほとんどが、結婚し、家族を養うというものだ。彼らが落雁城や他の地に行っている間、恋人たちは彼らの帰りを待っていた。

兵たちの話を聞いている内に彼にははっきりわかってきた。姜恒と離れがたい理由、感情はずっと前から兄弟の間の絆だけではなかったのだと。

「恋人の為なら国を裏切れるか?」突然耿曙が尋ねた。

全員が瞬時に表情を変えた。万夫長が言った。「それは絶対ありません。ただ……。」

万夫長は耿曙について一番長い。敵に立ち向かう度に、先頭を行く耿曙の性格を最もよく知っていた。城府も持とうとしない人が、仲間を試そうとするはずがない。聞きたいことは、言葉通りの意味で聞きたいだけなのだ。

「ただ何だ?」

文人は言います。国と家は並び立たず。でももし並び立つなら、きっとすばらしいことでしょう。」

耿曙は頷いた。「結婚はいいことだ。二人の人間が一生涯、誰にも離れさせることはできない。」

「本当に好きになれる人に当たればですが。」万夫長は笑った。

耿曙は再び部下たちに問いかけずにはいられなかった。「いつも思わずにはいられず、一生涯一緒にいたい、他の人のことは考えられない。だが結婚はできない。それは何だ?」

「なぜ結婚しないのです?殿下はすぐに結婚すべきです!」将校たちは皆笑った。

「それで結婚せずに、どうするのです?おめでとうございます、殿下。どこの家の娘ですか?」

耿曙はそれ以上言わずに、剣を収めると、背を向けて歩き出し、口笛を吹いた。

「風羽!」

風羽は翼を広げて飛んで来ると、鎧をまとった耿曙の肩に停まった。

部下たちは耿曙が話を続けたくないのに気づいたが、皆彼を尊敬しているため、からかおうとする者は誰もいなかった。

 

耿曙は一人、真っ暗な森の中を進み、渓水にそって歩いた。

水に映った月の光が、無数の銀色の魚鱗のようにきらきらと輝いている。

俺はいつから恒児を愛しているんだろう?

それを考える時、恥ずかしさに耳を叩きたくなる。それなのに、思い出さずにはいられない。そうした記憶がいつも思いもよらない甘さをもたらしてくれるからだ。

飴を口にした時の様に、食べ終わって甘さが消えてしまってからもその味を思い出すかのようだ。

もしかしたら、山を越え河を渡り、いばらのとげに全身傷だらけになって潯東城にたどり着いた時、姜家の重い大門を開け、姜恒が自分に向かって手を伸ばしてきた、あの瞬間、もう彼を愛し始めたのか。

それとも昭夫人が二人の元を離れたあの黄昏時、姜恒が彼女の腕に抱かれ、自分の方を見つめ、孤独に目を潤ませたあの時か?

或いは、洛陽の城壁の上で、酒を飲んだ時か。自分は城の上に残り、去って行く姜恒をやるせない思いで見送っていた。あの雪の夜、姜恒は浮かれてご機嫌だった。雪の中で小動物のように跳ねまわり、走りながら歌を歌っていた。

「天地一指也、万物一馬也」

姜恒がこうした言葉を言う度に、説明できない不思議な気持ちになった。それに彼が詩書を読み上げている時にもだ。

「上古に大椿者有り,八千歳を以て春と為す,八千歳を以て秋と為す」や、

「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」

 

幼いころから今に至るまで、耿曙は常に感じていた。自分と姜恒の間にはいつも何か足りない物があると。どんなに彼を大事にし、楽しませ、愛していても、どうしても掴むことのできない、触れることさえできない小さな一部分があるのだ。

本能でもある、生命の最も強い欲望に答えてほしいと望む。だがそれを解き放つことはできない、姜恒が自分に与えてくれるのを待つしかない。

だが耿曙にとってそれを口に出すのはとても難しい。姜恒がどう反応するか全く予測できないからだ。仲の良かった兄弟が、突然別の関係になる。自分でさえ、考えれば考えるほど難しく思えた。だが彼が欲しい。どうしても彼が欲しい。自分が持つたった一つの願望だ。

 

雍国軍に身を置いていた時に男性同士の関係について耳にしたことがあった。そもそも子供の頃、姫珣と趙竭とのあの関係に偶然出くわしていた。あの時は衝撃を受けたが、よく考えてみれば、王と将軍がああなったのはごく自然なことで、あるべき姿のように思えた。

天下に広まった『越人歌』は、一人の船頭が王子に切々と愛を訴える歌謡だ。越人にとっては男性同士の恋愛は普通のことで、界圭が汁琅に抱くような絶対的な忠誠の体現でもある。

耿曙は姜恒以外の少年を愛したことはない。だが界圭のことを変だとは、一人の男性が別の男性に愛情を抱くことを異常だとは思わない。

あの日教坊で、姜恒だって「すごくよかったよね。」と言っていた。つまり、彼は受け入れられるということか?そう考えてみると、姜恒は毛嫌いしてはいないようだ。

耿曙は趙竭のことを思い出す度、趙竭が姫珣を渇望したのと同じように姜恒を完全に支配することを望んだ。だが後一歩及ばない。最後の一歩が。……姜恒が完全に自分だけのものになり、自分は彼の守護者として、刀の山も火の海も彼の為なら恐れず進む。

昔も今も、幼いころから今に至るまで、その一点には未だ到達できていない。姜恒の心の最後のその場所には。そして完全に自分の一部になるというところまでにも。

 

二人を阻む一番の問題は二人が男同士ということではなかった。……血のつながりだった。

もし真実を言わなければどうだろう?考えたことはあったが、それでは畜生のようではないか?姜恒は二人が兄弟だと思っている。兄弟の間で豚にも劣るようなことがあれば、彼はきっと怯えるだろう。

 

「偵察に行け。」耿曙は風羽に言った。風羽は翼を振って飛び去った。耿曙はため息をつき、川岸に座って顔を洗った。

 

「そっちが来ていると知っていれば、私は来なかったのに。」

馴染みの声が対岸から聞こえた。