非天夜翔 相見歓 日本語訳 第11章ー第15章

第11章 血縁:

 

名堂を卒業する最後の日、大先生は子供たち一人一人に青龍石を渡した。青龍石には、遼文字と漢字でそれぞれの名前が刻まれており、表には漢字印、裏には遼文字印がつけられていた。「これは玉衡山で産出された石だ。大先生は庁堂の中央に座って優雅な作法でお茶を飲みながら言った。「この石がどこから来たものか、決して忘れるでないぞ。」

十余人の子供たちは大先生に向かって頭を下げた。今日で名堂での学業は終わり、六月になったら、大先生以下先生方連盟での推薦状を持って、辟雍館に行き、入学試験を受ける。

段岭は封書箱を持った時、突然心に不思議な感覚を覚えた。

「私は漢人なの?」その日のうちに段岭は郎俊侠に尋ねた。

「勿論漢人だ。」郎俊侠は厨房で魚の腸を切り除けながらいつも通りの飄々とした話し方で言った。「君は漢人の中の漢人だ。」

段岭はもう以前のぼんやりした子供ではない。郎俊侠が何かを匂わせていることを鋭敏に察知した。「それは、どういう意味?」

郎俊侠は冗談交じりに答えた。「文字通りの意味だ。書物で調べて来るといい。」

「でも私の苗字は段だ。中原四大姓には入っていないよ。」

「いつか全部わかる。」

段岭は何の気なく厨房の片隅に立って、郎俊侠が魚を切る様子を見ていた。郎俊侠の手の動きは巧みで、少し手を動かすだけで、魚肉を薄紙のように切り分けていた。段岭は手伝いたいと思ったが、郎俊侠に「君子厨房に入らず。勉強しなさい。」と言われてしまう。

 

段岭は退屈だったが、郎俊侠と共に長く暮らしていて、彼の言うことを聞く習慣がついていた。仕方なく庭に出て行って、一本の長竿を持ち上げ、適当に振り回した。

「いつになったら武芸を教えてくれるの?」段岭が尋ねた。「約束してくれたでしょう。名堂を卒業したら、騎射や武芸を教えてくれるって。」

「『侠は武を以て法を犯す。』武を習うのは学のない荒くれ者がすることだ。習ってどんないいことがある?武術なんか学べば厄介ごとに巻き込まれるだけだよ。」

「『儒は文を以て法を乱す。』それでもみんな四書五経を読むじゃないか。」

 

郎俊侠はたちまち言葉に詰まった。段岭の思弁は明晰で、頭脳は聡慧だ。もう郎俊侠の言うことを全て正しいと思う子供ではなくなっていた。弁明する時の頭の回転は速く、既に郎俊侠には言いくるめられない時がある。

「人が刃物で、私が魚肉だとしたら、武芸を修めていなかったら、切り刻まれてしまうでしょう。」段岭は大まじめにそう言った。

「君には一生涯守ってくれる人がいる。」郎俊侠は手を拭きながら言った。「手中の剣を置き、卓上の筆を取るべし。王道こそが君の剣となる。人はこの世で一つのことを極めるべきだ。君は医学を修めたいし、武も学びたい。少し欲張りなのではないかい?」

段岭が言う。「ブアルチジンが言ったんだ。誰にも頼ることはできない。頼れるのは自分だけだって。」郎俊侠は口角をほんの少し上げて尋ねた。「私も頼りにならないかい?」

段岭:「あなたは勿論私を守れるよ。でも万が一あなたが……危険な目にあったら、私はどんなふうにして守ればいいの?」

郎俊侠は気楽な口調で言った。「君のことを護れなかったら、私は職務失格だ。もしいつか、誰かが私を殺しに来るとしても、別に大丈夫だ。私が死んだら、当然別の誰かが来て、君の前にも後ろにも立ちふさがって君の替わりに剣を受け……。」

だが、郎俊侠が話し終える前に、段岭は彼の背中を摩りながら、「あり得ないよ。その時は私があなたの前に立ちふさがるからね。」と言って、そのまま身を翻すと去って行った。

空から光が入ってきて、まな板の上に落ちた。郎俊侠はいつの間にか包丁で指に軽い切り傷を作っていたが、彼はまだ気づいていなかった。

 

 

段岭は裏庭で物干しざおを立てて、二人分の白い単衣と薄袴を掛けた。新しい家に移ってから、郎俊侠は人を雇わず、家の管理や飲食などの一切を自分でやっていた。段岭が学堂にいる時も、郎俊侠は時々彼の様子を見に来て、名堂に付け届けをしたりもしていた。

休みの時も郎俊侠は食べる物、着る物を買い、段岭が何不自由ないようにしてくれていた。

段岭は時々不思議に思い、お金はどうしているのかと、聞いたことがあったが、郎俊侠の答えは、心配しなくていい、の一言だった。

 

春もまだ浅い季節、段岭は勉強疲れで鬱屈してきていた。郎俊侠は近くに座って墨をすったり、香を焚いたり、手を拭くための熱い布を用意したりしていた。段岭は気だるくなり、心の深いところで何か不思議な気持ちが蠢くのを感じた。落ち着かない気持ちで、郎俊侠が部屋を出て行った好きに、そーっと這い出て、花鏝を持って花壇に花を植えに行った。

汝南にいた時、彼はよく花匠が花を植えたり、剪定したり、植え替えたりするのを見ていて、そうしたことをやりたがった。郎俊侠は何度か止めさせようとして失敗し、好きにさせることにした。勉強に差しさわりがないならいいことにしたのだ。

勉強勉強、そればっかりだ。……段岭は勉強がきらいではなかったが、あまりにも勉強ばかりしていると気持ちがふさいでくる。二歳年上の蔡閏は既に辟雍館に通っている。バドは向学心はあまりなく、名堂を卒業してからは、どこに行ったのかわからない。別れも告げられてはいない。段岭は何度も彼を訪ねて行ったが、一度も会えずにいた。バドの家は薄暗く、暗いばかりか怖くもある。バドの父親は段岭を敵視して、もう来るなと言っていた。彼が漢人だからだ。逆に、赫連博の母親がとても親切なのは、きっと漢人とタングート人の関係がいいからだろう。彼のお母さんは段岭の手をひいて、色々話しかけては、どもりのある息子と仲良くしてくれたと感謝していた。

名堂には行かず、辟雍館にはまだ入学していないので、段岭はいつも家で庭いじりをして過ごしていた。この日は牡丹の苗をそっと掘り起こした。別の場所に移植するためだ。だが、突然、背後から郎俊侠の声がした。「今度から花匠に来てもらうことにしよう。そうすれば君の気が散らなくてすむだろうからね。」段岭はびっくりして、危うく根元を切り落とすところだった。「自分で世話をしたいんだ。」

郎俊侠は眉を少しひそめながら言った。「六月には試験があるというのに、君の心はふらふらしているようだ。」

段岭はゆっくりと腰を伸ばしながら言った。「これから勉強するところだったんだよ。」

郎俊侠は再び言った。「私も戒尺を持つことにしよう。学堂を出てから、君の手を打ってきちんとさせる人がいなくなったからね。」

段岭はハハハと笑い出した。郎俊侠は自分を叩いたことなどないし、注意する時にも感情的になることはない。感情の起伏が少なく、廊下の傍の竹のように静かに立っている人だ。

 

「ひょっとしたら、瓊花院に一晩連れて行ってほしいかい?」郎俊侠が尋ねた。

段岭は頬を赤らめた。名堂の大人になりかけの少年たちは日ごろから男女のことについて興味津々だ。バドと赫連博は一度彼を連れて庭の破れた柵から抜け出し、瓊花院に忍び込んだことがあった。ちょうど蔡閏の兄が丁芝と酒を飲んでいるところが見えた。瓊花院がどんなところなのか、段岭にもだいたいはわかっていた。それで顔を赤らめて部屋に入って行ったのだった。だが、郎俊侠は「なぜ顔を赤くする?」と言った。

 

段岭が部屋に戻る途中、郎俊侠の姿が廊下を行ったり来たりするのが見えた。春の穏やかさのせいで、机に突っ伏して眠ってしまい、気づくと空が暗くなっていた。当然夜は眠れずに、寝返りばかり打っている。もうずっと前から郎俊侠と一緒に寝てはいなかったが、壁の向こうで動いている音は聞こえることがあった。

「水でも飲むかい?」扉の向こうから郎俊侠が尋ねた。段岭は、あ、と声を出したが、応えはしなかった。郎俊侠は外に座っていてまだそのままいるようだ。

「まだ寝ないの?」段岭は寝返りを打ち、半睡半醒のまま尋ねた。

「眠れないから、しばらく座っているんだ。」と、郎俊侠は答えた。

 

翌日、空は晴れ渡っていた。目が覚めた時、郎俊侠が外から声をかけた。「段岭、私は用事があって出かける。昼間はいないが、夕方には戻って来るよ。」

段岭はうとうとしながら返事をした。まだ寝台で惰眠を貪っていた。暖かな日差しが窓から入ってきて、顔に落ちると、頭を動かして、日差しを避けた。日差しが動くと、段岭も動く。日差しに沿って頭を動かし、顔に当たるのを避けていた。

李漸鴻は窓の外に立ち、黙って段岭を見ていた。埃まみれの麻衣を身にまとい、乾いた唇は少し震えていた。

「彼が我が子か。」李漸鴻が言った。

「はい、殿下。」郎俊侠が答えた。懐から黄ばんだ出生届を出し、両手で恭しく李漸鴻に提示したが、李漸鴻は受け取らないばかりか、出生届を見ようともしない。郎俊侠は小声で言った。「あの年、玉壁関を南下し、段家に戻られた時、王妃はすでに身ごもっておられました。上梓が陥落したため、王妃は小殿下に御身分について何もおっしゃらなかったのです。難産で……あの子だけが残されました。」

 

李漸鴻の腕は刀傷だらけで、耳の下にも一本傷跡がある。数年前、彼は逃亡の途についていた。南陳の刺客に大挙して追われ、大抵の人では受け入れがたい苦難を受けたが、唯一の息子に類が及ぶのを恐れ、すぐには北上しなかった。傷を癒した後、郎俊侠の故郷でもある、鮮卑人の神山に身を潜めた後、高麗に入り、商隊に紛れ込んで西羌に行き、南陳朝廷の誰もが彼が死んだと考えていることを確信してから、西羌を出て上京に入った。その道は、とてもとても長い時間を要し、最後には儚い一つの信念だけが彼を支えていた。郎俊侠と約束した場所にたどり着いた時、彼は歩を進めることも、信じることもできず、彼を待っているのが何なのかを考えることさえできなかった。一番ありそうなのは、そこに何もないことだ。一旦その扉を叩いてしまったら、彼を向かい入れるのは、徹底的な永遠に続く孤独という運命かもしれない。

幸い天は彼に対し薄情ではなかった。暗黒の前途に手を伸ばした時、一つの灯火を与えてくれた。宏漠な生死という河の中に一艘の船を与えてくれたのだ。その灯火は弱々しく揺らめいてはいても、彼の生命の全てを明るく照らしてくれたのだった。

段岭を見た瞬間、彼はついにいくばくかの救済を得ることができた。目から涙がこぼれ落ち、全身に力がみなぎった。その目には温かく柔らかな色が満ち溢れていた。

 

「我が子は目元が母親そっくりだ。口元は父皇に似ている。我が李家の口だ。」李漸鴻が言った。「はい、殿下。」郎俊侠が答えた。李漸鴻は眠っている段岭から目が離せなかった。この五年で段岭は随分成長した。温潤な唇、美しい輪郭、鼻筋は李漸鴻に似て高い。

「今年で十三歳です。十二月六日が誕生日で。」郎俊侠はまだ出生届を両手で持ったままだ。

「ああ、そうだ。あの年の二月だ。小婉が私の元を離れて南方に行ったのは。」李漸鴻はつぶやいた。

「申し訳ありません。再三過ちを犯し、結局王妃殿下をお守りできなかったばかりか、殿下のお役にも立てませんでした。あの夜、胡昌に殿下を探しに行ったのに、武独に阻止され……。」

「いいや。」李漸鴻は一字一句はっきりと告げた。「郎俊侠、お前の犯した罪は、これで全て帳消しだ……。」

 

段岭が寝返りをうつと、陽光が彼のまだ幼さが残る顔を照らした。李漸鴻は思わず一歩前に進み、危うく窓枠にぶつかりそうになった。

彼は段岭を見つめた。まるで烈日下の砂漠で力が尽きかけた旅人が、死を目前にしてついに遠くにオアシスを見つけたかのようだった―――。

―――渇望とともに恐れがあった。あれは、この世の果てで、もうもうたる風烟を上げる蜃気楼に過ぎぬのではないだろうかと。

 

 

 

第12章 玉玦:

 

段岭は寝台の上でごろごろ転がりながら寝ていたが、燦燦とした陽光からついに逃げられずに、暑くて目を覚ました。

「郎俊侠!」段岭は叫んだ。窓の外で、郎俊侠は動きかけたが、李漸鴻が指を振って留めた。彼は段岭の出生届をちらっと見ただけで、しまっておくようにと郎俊侠に返した。

部屋の中の段岭は、郎俊侠がさっき用があってでかけると言っていたのを思い出し、寝台を下りて服を着た。それから、外袍をしっかり着込んで顔を洗い、扉を開けて欠伸をしながら庭に出た。

 

「ご命令通りに、名堂に入学させて、たくさん勉強されました。小殿下はとても聡明で、既に論文も書かれています。

李漸鴻は答えず、急いで長廊を通り抜けて、段岭が進む方向を追って行き、扇門の後ろに立って、段岭の様子を見た。段岭は厨房に食べ物を探しに行って、すぐに郎俊侠が準備して行った食盒を見つけたようだ。

「武芸はまだか?」李漸鴻が尋ねた。

「武芸にのめり込んで、他が遅れてはいけませんので。」

李漸鴻はずっと黙ったまま、目を赤くしてずっと段岭を見つめ、目が離せなかった。

「殿下?」

李漸鴻は一歩前に歩み出たが、また少しためらい、門の後ろに立ったまま、ずっと前に進めなかった。千軍万馬と戦うことは恐れぬ彼が、今、我が子の前に進み出ることができずにいる。「私を恨んでいないだろうか?」李漸鴻が尋ねた。

「決して。」郎俊侠が答えた。「ずっとお会いできるのを待っておられました。私は彼に言ったのです。桃の花が咲いたら、殿下は戻ってこられるだろうと。」

李漸鴻は息を吸うと、震えながら門を隔てて手を上げたが、扇門を押し開けられずにいた。

段岭は一人で昼ご飯を食べている時に、小鳥が一羽来たのを見ると、ご飯粒を少し取って、食べさせた。李漸鴻は門の後ろで微笑んだ。

 

四書五経は学んでいます。丸暗記しただけで内容まではわかっていませんが、辟雍館に入学してから先生に習うことになっています。字もとてもお上手で、衛夫人(衛鑠)の筆陣図に従って習っています。『孫氏』『呉子』『司馬』などの雑書も学び、『詩経』『古詩』はお気に入りです。色々学ぶのが好きで、暇があれば、医経草学をよく読んでいます。」

「端平公主はきっと我が子を気に入るだろう。」李漸鴻が呟いた。「天文術数、雑学百家、興味の範囲がとても広いから。」

 

段岭は食べ終えると、自分で食盒を片付けると、うん、と伸びをしてから、庭園に腰をおろして物思いに耽った。日の光が彼の顔に当たり、少年らしいその顔をくっきりと映し出した。

春の日に萌える草花のように清々しい。ぼんやりしている時でも、段岭は様々なことに想いを馳せていた。学問のことを考えたかと思うと、彼の小天地である花壇のことを考える。

 

「辛い食べ物がお好きです。殿下の好みに似ていらっしゃる。草花を植えるのが好きで、汝南段家の時にやり方を覚えたようです。興味の範囲も広すぎて臣には全て教えきれず、少しばかりの見聞をお与えするだけで、日ごろは勉強を監督することに重きをおいています。

「我が息子は上京に、好きな娘などはいないのかな?」李漸鴻が言った。郎俊侠は首を振った。(女性はだめじゃない?)

 

郎俊侠が一日中出かけて、誰にも干渉されないことは珍しい。そこで段岭は最初に花の世話をしようと決めた。庭に行くと、桃の花が開いていた。段岭は、わあ!と声を上げた。うれしくてしかたない。今年は桃の花がよく咲いて、ここ数年で枝も伸びた。地面にも花弁がおちている。段岭は急いで部屋に戻って木箱を一つ持って来ると、落ちていた花弁を中に入れた。それから薬草に水をやりに行った。

水やりをしている時に、ふと背後に人影を感じた。「出かけたんじゃなかったの?」段岭が振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。驚いたが、怖がりはしなかった。『この人は雇うと言っていた花匠?郎俊侠が本当に花匠を雇ったのかな?だけどこの人は、そんな風には見えないけど。』

 

彼は郎俊侠より背が高く更に逞しい。顔や輪郭も剛硬で、上京人より肌の色が濃い。深い双目は星のように煌めき、口元は優し気で鼻筋が高く、漆黒の瞳は明るく澄んでいる。みすぼらしい身なりなのに、段岭が上京で会ったどんな男性よりも素敵だった。体は屈強で、人に安心感を与える。

彼は頭に被っていた傘を取ると、明るく輝きつつも、少し赤くなった目で、段岭をしかと見つめた。

 

段岭はこの人物に不思議な親近感を覚えた。まるで夢の中で会ったことがある人のようだ。

「これは君が植えたのかい?」李漸鴻が尋ねた。

段岭は頷いた。李漸鴻はゆっくりと歩いて行き、段岭は小さな台に座って、花壇の植物を見てから、李漸鴻に目をやった。李漸鴻は段岭の近くに跪き、目線を彼と同じ高さにした。そして、視線を花壇に移したが、すぐにまた段岭の顔に戻した。「これらは何の花なんだい?」

「これは芍薬、これは鶏血藤、胡蘭草、九展塔………。」段岭は李漸鴻に彼の小天地を紹介した。李漸鴻の視線はずっと段岭の顔から離れず、しばらくすると、段岭に笑いかけた。段岭もなぜかわからないが、笑顔を返した。

「どうして泣いているの?」段岭が尋ねた。李漸鴻は首を振り、一言も発しなかった。

段岭は袖で彼の涙をぬぐってやると、座る場所を譲った。李漸鴻は段岭の後ろに胡坐をかいて座り、段岭は鏝で土を掘り返した。「ミミズは持っている?春になったから、ミミズを見つけて放そうと思っているんだ。」

「明日君に捕まえてきてやろう。」李漸鴻が答えた。

 

「私は勉強しに行かないと。」段岭は書房に戻ったが、李漸鴻は彼について家に入って来た。最初は花匠かと思った段岭だが、それらしくは見えないので尋ねた。「あなたは郎俊侠の友達なの?郎俊侠はまだ帰ってこないよ。今日は用事があって出かけたんだ。」

李漸鴻は頷いた。段岭は彼を書房に招き入れて、お茶を淹れて渡した。「辺海雪芽だな。」と、李漸鴻は言った。「飲んでわかったの?」段岭は笑顔を見せた。「私が町で買ってきたんだ。さあ、顔を拭いて。」段岭は手拭いを濡らして彼に渡した。

 

李漸鴻がまた尋ねてきた。「最近はどんなことを学んでいるのかい?」

「『麟史』を読んだ。」と段岭は答えた。「どこまで読んだ?」李漸鴻が尋ねる。

「『左伝』は飛ばした。今は『谷梁伝』を読んでいる。先生に言われた。私は深く踏み込もうとしないって。」李漸鴻は笑った。「そこは『十三経注疎』と合わせて読める。」

段岭は閉じていたその本を開いて、李漸鴻に見せた。「成康書店で借りてきたんだ。あなたも学問を習ったことがあるの?」

李漸鴻はお茶を一口飲むと答えた。「少しだけだ。四書五経は、全部は読んでいない。文章を書くのもうまくはない。ご先祖様から受け継がれてきた学問を荒廃させてはならないな。君はよくやっている。」

「あなたは漢人なの?」段岭は好奇心を持った。李漸鴻は日のあたる場所に座っていた。光が斜めに射してきている。彼はみすぼらしい服装をしていても、何とも言えない威厳と高貴な空気を身にまとっていた。「そうだ。我が家からはずっと昔、ある聖人を生み出している。」

段岭は驚いて尋ねた。「何という方なの?」

「考えてごらん?」李漸鴻が言う。

「あなたの名字は?」

李漸鴻は笑い出した。「李だ。」

段岭が言った。「飄風は朝を終えず。驟雨は日を終えず。」

李漸鴻は頷いた。「『天地尚久しきこと能わず。況や人を於いてをや?』その通り。李耳(老子)のことだ。」

段岭は目を見開いた。李漸鴻は話を続けた。「我が家は四人兄弟で、私は一番勉強をしなかった。いつもご先祖様に申し訳ないと思っているよ。」

段岭は笑って言った。「あなたは別のことで優れているのでしょう。背中にあるのは剣ではない?」段岭は李漸鴻が横に置いた細長い箱に気づいた。李漸鴻はそれを取ると、机の上に置き、開けて段岭に見せた。段岭は驚愕した。「これがあなたの佩剣?」

「気に入ったかい?」李漸鴻が答えた。箱の中には黒々とした重剣が入っていた。長さは段岭の背ほどもあり、剣柄には太極図が刻まれ、剣身には珍しい銘文がついている。とても古そうだが、まるで新品のように煌めいている。段岭は触ろうと手を伸ばしたが、李漸鴻は二本の指で彼の手を押さえ、触らせなかった。

 

李漸鴻は、手の向きを変えて段岭の掌を握りしめて説明した。「隕鉄の重剣で、四十斤あるが、刃先に舞い落ちた毛髪を断ち、鉄を泥のように削る。気を付けないと、指がすっぱりと切り落とされる。」

段岭は笑い出した。李漸鴻は段岭の手を持って、剣柄を握らせた。剣はまるで生きているかのように僅かに振動した。「剣の名前は何と言うの?」段岭が尋ねた。

 

「『鎮山河』と呼ぶ者もいる。」李漸鴻が言った。「私は『無名』と呼ぶ。なぜなら、この剣は、前世で『無名刀』と呼ばれていた。山河が陥落してから、外族の手に落ち、柔然の刀匠が五つの兵器に作り替えた。」段岭はじっと聞いていた。「それから、我が南陳が楼蘭を打ち破って、五つの兵器を取り戻し、再びこの剣を鋳造した。これは、天道を象徴し、山河を斬り、江河を断つ。西方の精金でしっかりと鋳造した、漢人伝国の剣だ。」

段岭は頷くと、剣を箱の上に置いた。「郎俊侠の持っている剣もすごく鋭利なんだよ。」

「あの剣は青峰という名だ。」李漸鴻が説明した。「郎俊侠の青峰、武独の列光剣、昌流君の白虹剣、鄭彦の紫電金芒、尋春の斬山海と空明法師の断塵縁、皆、前朝から伝承された名剣だ。その内、鄭彦、昌流君、武独、郎俊侠の四人は皆刺客だ。」

 

「あなたは?あなたはどこから来たの?」段岭はこの流浪の剣客にとても興味を持って尋ねた。「あなたは刺客なの?」

李漸鴻は首を振った。「私は南方から来た。行ったことはあるかい?」段岭は答えた。

「汝南城内に住んでいたけど、上京に来てからは、どこにも行ったことはないんだ。」

李漸鴻が言った。「今では故国となったな。私は最初西川に住んでいた。西川の町は賑わい、碧水は帯の如く,玉衡雲山には霧立ち上り、江州は灯紅酒緑の眠らぬ街だ。」

段岭は口元に笑みを浮かべた。李漸鴻は話を続ける。「江南は上京とは全く違う。木々は緑で、ここのような青色ではない。春になると桃の花が咲き乱れる。それに海もある。海は天のように果て無く続く。」

「全部行ったことがあるの?」段岭が尋ねると、李漸鴻は笑って頷いた。「それから滇南も。

滇南の美景はまるで仙境のようだ。雪は降ったことがなく、常春だ。滇南の湖水は鏡のように透き通ってきれいだ。それに玉壁関もある。玉壁関の麓は秋になると楓が雪のように降る。」段岭は頭の中がいろいろな光景でいっぱいになった。「私もいつか見に行けるかな。」

李漸鴻が言った。「君が行きたいなら、明日にでも連れて行ってやろう。」

段岭:「……。」信じられないといった感じに段岭は言った。「本当に?」

「もちろんだ。」李漸鴻は真剣に段岭に言った。「天を幕とし、地を筵とする。君が行きたいところならどこにだって行かれる。」

「でも勉強しなくてはならないから。試験に……受かってからでなくては、郎俊侠が行かせてくれないよ。」段岭は苦笑した。

「彼には君を止められないさ。この世で君が求める物は私が全て与えてやろう。今夜彼に行きたい場所を一言いえば、明日には出発できる。武術を習いたいかい?それなら私が教えよう。勉強もしたくないなら、もうしなくていい。」李漸鴻が言った。

 

段岭は唖然とした。この人は自分をからかっているのだろうか。だが、真面目に言っているようだし、それに何の疑いも持っていないように見える。彼は十三歳だが、まだ少年で、少年というものは遊びにどん欲だ。ずっと座ったまま生きていくことなどできようか。

「まあ……でもいいや。」段岭は思いを消し去った。出て行くことなどできない理由があった。「どうしてだい?」李漸鴻は段岭をじっと見つめた。

「私には待っている人がいる。郎俊侠が言ったんだ。その人はきっと来ると。」

「誰を待っているんだい?」李漸鴻が尋ねた。

段岭は考えた末言った。「父さんを待っている。郎俊侠が言っていた。父さんは特別な人なんだって。」

 

日が西に傾き始めた。時が止まってしまったかのようだ。窓の外の桃の花から、花弁が枝を離れ、池の中に舞い落ちた。池の中で小さな音がした。魚が水面をつついた音だ。

李漸鴻は腰に付けていた巾着から、とてもゆっくりと何かを取り出すと、机の上に置いた。

玉石が小さな音を立てる。彼はそれをゆっくりと段岭の前に押し出した。

「これを待っていたんじゃないか。」李漸鴻の声は喉で少し詰まったように聞こえた。

段岭は息を止めた。それは透き通った氷のような半月形の玉玦だ。そこには四つの文字が刻まれていた。段岭は震えて、自分の首にかかっていた布袋の赤紐を引っ張り出すと、恐る恐る半月形の玉玦を取り出した。雲紋、鷹羽、蜷龍が彫られた白玉には、二つ合わせて、八文字が刻まれていた。盛世天下、錦繍河山。

 

 

 

第13章 我が子:

 

夕闇が迫る頃、夕日が郎俊侠の影を長く長く映し出した。壁の外から射し込む残光が灰色の煉瓦を塞外の烽火のように染めている。

「郎俊侠!郎俊侠―――!」段岭は走廊を抜けて郎俊侠に向かって走って行き大声をあげた。「父さんが帰って来たんだよ!」郎俊侠は僅かに微笑み、段岭に向かって頷いた。

「父さんは……。」走ってきて息を切らした段岭は、立ったままハアハア喘いだ。

「知っている。」郎俊侠が答えた。

「だけど名字は李だよ。私も李なんだって。段晟じゃなかった。」段岭は眉をひそめた。

段岭は答えを求めるように郎俊侠を見たが、彼は言った。「今夜私は用を済ませに行かなくてはならなくなった。」段岭は言った。「帰って来たばかりなのに、また行かなくてはならないの?」郎俊侠は説明はせず、ただ手を伸ばした。段岭がびっくりして駆け寄ると、郎俊侠は彼を胸に抱いた。「それでいいんだ。」

それから彼は段岭を離すと、しっかりと立たせ、裾を持ち上げて段岭の前に跪いた。

「え?!」段岭は急いで支えようとしたが、郎俊侠は動かないようにと示して、身を伏せ一拝した。「ここでお別れです。」

「ちょっと待ってよ。」段岭は何かに気づいて言った。「行ってしまうということなの?どこに行くの?父さん!父さん!」

「そうです。」郎俊侠は跪いて頭を上げ、段岭の手を握ったまま、じっと彼を見た。「私が汝南に行ったのは、あなたを見つけるためでした。幸いこうして父子が再開できましたので、私の使命はこれで完了です。上京での任務も、これで一段落つきました。」

「いやだ......行かないでよ!一緒にいてくれると言ったでしょう?」

「おそらく、長くて一年半、早ければ数か月でまたお会いできます。ですが殿……お父上がこれからは成長を見守られます。例えあなたが中原の万里江山を望まれようと、彼はそれを与えられます。私はもうあなたには……私にはより重要な仕事がありますので。」

 

「行かないで!郎俊侠!」段岭の目はたちまち真っ赤になったが、郎俊侠は微笑みを浮かべて立ち上がっていた。「段岭。私はあなたの人生の中では通り過ぎる他人にすぎない。これからはお父上の言うことをよく聞くように。全心全意あなたに注げる人がいれば、もう二度とひどい扱いをされることはない。危険な目にあっても、命を顧みずあなたを救い、あなたのために心血を注げる人は、お父上以外、他には誰もいません

「段岭は死に物狂いで郎俊侠の手を握って離さず、彼を家の中に引き入れながら言った。「だめだ!だめだよ!あなたは行ったはずだ。どこにいこうとすぐに帰って来ると!」

郎俊侠は山の如く動かない。だが、その時、李漸鴻の声が背後から聞こえた。

「あることの調査を父さんが頼んだんだ。それがはっきりしなければ、父さんは一日として安心できないのでね。」李漸鴻が言った。郎俊侠は再び片膝をつこうとしたが、李漸鴻が必要ないという仕草をした。段岭はとてもつらかったが、郎俊侠に真剣に言われた。「段岭、いうことをきいてくれ。私は帰って来るから。」段岭はゆっくりと手を放さないわけにはいかなかった。「南に戻ってから、私のことを悟られぬように。」李漸鴻が再び言った。

「はい。」郎俊侠は答えた。

段岭にはまだ話したかったが、何をいうべきかわからなかった。李漸鴻は言った。「もう行きなさい。城門が閉まる前に。」郎俊侠は頭を下げて、「臣は失礼します。」と言った。

段岭は猛然と、「行くのは明日にしたら?」と言ったが、郎俊侠は一陣の風のように走廊から消えて行った。「待ってよ!あなたに何か持っていくものを……。」

段岭は部屋に入り、手当たり次第に、郎俊侠に渡すものを集めたが、外からは蹄の音が聞こえ、郎俊侠が行ってしまったのがわかった。段岭は郎俊侠に渡そうと集めた大量の荷物を抱えて出て行った。春の夜風が袍襟を撫でた。

 

今起きていることに、段岭はまだついていけていない。郎俊侠は行ってしまった。今日、あまりに突然全てが変わった。この五年間に起こった出来事を全部集めたよりも多くのことが起きた。彼は後を追い、慌てふためいて大声で叫んだ。「郎俊侠!郎俊侠!」

遠く望んでももう郎俊侠の姿はない。段岭は驚きのあまり見つめ続けた。李漸鴻が来て、郎俊侠は去った。日と月が入れ替わり、潮が引いたかのように、全てがこんなに突然変わった。

李漸鴻は眉をひそめて段岭を見ていた。抱きしめてやりたかったが、段岭は悲しみのあまり、喘ぎながら立っている。顔を真っ赤にして、今にも泣きだしそうだ。

何ものをも恐れぬ李漸鴻であったが、我が子の目に浮かんだ涙を見て落ち着いていられなかった。だが、慌てたところでどうしていいかわからない。

 

「本当に父が仕事を言いつけたんだ……。何日かのことだろう?大丈夫だから……。」

段岭は涙を拭き、嗚咽しながら言った。「いいんだ。わかっているから。」

「泣かないでくれ。お前の目から涙が流れる度、父の頭は、ズキズキと痛む。」

段岭はすぐに泣きながら笑った。李漸鴻は彼を横抱きにして家の中に連れ帰った。

ふさぎこんだ段岭を、李漸鴻は宥めたり、話したりして、励まそうとし、しばらくすると、段岭の気持ちもゆっくりと上向き始めた。―――それはきっと、夕飯の時に、李漸鴻が約束したからかもしれないが。全て終わったら郎俊侠を帰らせてきてまた彼の付き人にしてくれると。

「本当に?」段岭が尋ねた。

李漸鴻は言った。「お前が望むなら、もちろんいう通りにする。」

だが段岭は何かが違うと思った。「付き人」という言葉は重すぎる。自分と郎俊侠はそういう関係ではなかったはずだ。

段岭は名堂の名家の子供たちが、命令口調で、何人もの雑役を使っているのに見慣れていた。だが、郎俊侠が自分を「家臣」だと言っても、二人の関係は結局そういった人たちとは違っていた。

「私は彼にお前を迎えに行かせ、世話をさせたが、それでも我が子が小郎俊侠として成長していく様は見たくないのだ。」李漸鴻が言った。

「郎俊侠はとてもいい人だよ。」

「ああ、」李漸鴻は冗談交じりに言った。「とてもいい人だ。何度も裏切り、もう少しでお前の父を斬り殺すところだった以外は、総じていえば、まあ悪くないな。」

段岭:「……。」

「お前はこの先、彼以外にもたくさんの人と知り合う。見分けることを学ばねばならない。

お前に対して真心を与えているか、そのふりをしているのかをな。」

段岭は答えた。「私にはわからない。でも彼が真心を見せてくれていたのは知っている。」

「人を見る時にはその人の目をみることだ。」李漸鴻が言った。「お前と真心で接したいと思う者は、話している時思考を巡らせないものだ。ありのままの本性を見せ、知略を巡らせない。それから、人を知るには、その人の今だけを見てはならない。人には過去と、背景があるのだから。」

「大先生が言っていた。背景となる家系が何かを決めるのではないって。」

李漸鴻は言う。「家系のことではない。英雄は出身を問わず、家系は関係ない。背景というのは歩んできた人生のことだ。お前の友達がどんな人であるかは、その人の持つ背景が半分は決めるのだ。」

李漸鴻にそう言われてふと段岭は思い出した。郎俊侠は自分がどういう人間であるか、これまで一度も話してくれたことがなかった。段岭が度々尋ねても、郎俊侠は瓶の口を閉じたように何一つ漏らさなかった。(ママの味、梅ゼリーを作ってくれたけど)

「だけど郎俊侠は私にとてもよくしてくれた。」段岭は最後にそう言った。「彼の背景はきっと私には悪さをしなかった。彼は……えーと、私にとっては、いい人だ。」

 

 

郎俊侠との別れはとてもつらかったが、それでも彼は李漸鴻が来たことにはすぐに慣れた。

これまで郎俊侠は自分には勉強させるだけで、衣食住すべての面倒を見てくれた。だが、彼から世の中の渡り方について教えられたことはない。それについては李漸鴻はとてもよく話してくれた。夕飯の時、口の中に物が入っている時は離さないように注意はしたが、飲み込んでから話せば、どんなことを聞いても、辛抱強く全て答えてくれた。急に思いついたことも、「聞いてはいけない。いつかわかるだろう。」とは決して言わず、質問に答えてくれる。

食べ終えると、李漸鴻が郎俊侠の代わりになり、井戸端で水を出して茶碗を洗った。まるで天地の理であるかのように、当たり前に段岭の服も洗ってくれる。段岭はしばらく休んでから、李漸鴻に茶を淹れていた時に、ふと、彼はお風呂に入りたいかもしれないと思いついた。そこで、梍などの入浴用品と、郎俊侠がまだ着ていなかった新しい袍を持って、李漸鴻と一緒に銭湯に向かった。

 

上京の銭湯は夜通し灯がともっている。冬場は沐浴しにくいので、郎俊侠はよく段岭をここに連れてきた。干果物を食べたり、甘酒を飲んだり、下の階では講談も聞けた。(江戸の銭湯みたい。)勝手知ったる段岭は李漸鴻の手を牽いて銭湯に入って行くと、背伸びをして、番台に銀二両を置き、入浴手伝い人を頼んだ。李漸鴻はその姿を後ろから見て微笑んだ。

李漸鴻は灯火が煌々と輝く庁堂を見上げ、「父には手伝いはいらないから、来させなくていい。」と言った。段岭はきっと李漸鴻は誰かに付き添われるのに慣れていないのだろうと思い、自分で洗ってあげることにした。だが、李漸鴻が服を脱いで、裸になった時、段岭は飛び上がるほどびっくりした。彼の体は隙間の無いほど傷跡でいっぱいだった。刀傷、矢傷、逞しく割れた腹部には横一本の剣の痕があり、胸の上にも矢傷がある。広く厚い背中には大きな火傷の痕があった。

 

李漸鴻は息を吐いて、湯舟の中に体を沈めた。

(書いてないだけできっと、かけ湯くらいしたよね、漸パパ。)

湯舟には二人だけしかいない。段岭は荒布を持ったが、どうやって洗おうか迷った。

「父はいつも戦ってきて、体にはその時の傷が残っている。心配しなくていい。」

「これは……どうしてこうなったの?」段岭は尋ねた。彼の手は李漸鴻の脇の下にあった。

「これは延陀行に刺された痕だ。」李漸鴻が答えた。「その延陀行って誰?」段岭が尋ねた。

「西域第一の剣客と言われていたが、今ではただの死人だ。刀と剣を交えて、奴は私のわきの下を斬ったが、私は奴の喉を突いてやった。公平だろう。」

「じゃあ、これは?」李漸鴻は後ろを振り返り、「玉壁関の麓で元人にやられた。哲別の矢が鎧兜を貫いてこの痕をつけた。」

「哲別は?」

「逃げた、が、まだ生きている。だが長くは生きられないだろう。背中は火油をかけられて火傷したが、力いっぱい擦っていい。皮が剥がれたりはしないから。」

 

段岭は李漸鴻の体を洗いながら、黙って体の傷跡を数えた。李漸鴻の体はまるでつぎはぎだらけのようだったが、恐ろしいとは全く思わなかった。一つ一つの傷跡が、彼の強健で男性美にあふれた裸体に更なる力強い魅力を与えているように思えた。

「ここはもう見たかな?」李漸鴻は振り向いて段岭に目の角を見させた。李漸鴻の鼻筋は高く、小鼻の形も美しい。肌は健康的に浅黒い。目の角には目立たない痣があった。殴られたような。

段岭は李漸鴻の目の角を撫でて尋ねた。「これはどうしたの?」

 

「お前の母さんにやられたんだ。」李漸鴻は笑って言った。そして、湯舟に浮かべた盆のなかから、乳酪を一かけらとって、段岭に食べさせると、彼を腕に抱いて、額をごりごりとこすりつけた。段岭は気持ちいいと思った。李漸鴻は彼を前に座らせ、一緒に湯につかった。肌と肌が触れ合う。「どうしてなの?」段岭は尋ねた。

「父さんに逃げるように言われ、母さんは嫌だったんだ。」李漸鴻が言った。「あの夜、母さんは匈奴王カルス―の天幕にあった花瓶で父さんの顔を殴りつけた。本当に痛かったよ。お前は母さんに少し似ているんではないか?日ごろは人畜無害に見えて、いざとなるとどんなことでもできそうだ。」

段岭:「……。」

 

「その後は?あなたはやり返したの?」段岭が尋ねた。

「勿論しないさ。何ができる?」李漸鴻が答えた。彼はほっと息を吐いて、段岭を抱えた。この世の全てが彼の懐にあるかのようだ。

「お前は母さんを知っているのか?」

「ううん。」段岭は横を向いて李漸鴻の胸に頭を置いた。

入浴を終えると、李漸鴻は青い袍を着た。郎俊侠の新しい服は明らかに少し小さかった。

父子は二人で路地に沿って歩き、春風の中、家に向かった。李漸鴻は息子を背負い、青石板の道をゆっくりと歩いた。明るく遅い春を迎えた上京は、まるで目覚めたばかりの少女がゆっくりと伸びをしているかのようだ。梨の花びらが、月下に舞い上がり、何もない小道に落ちた。

「父さん、」段岭は少し眠くなり、李漸鴻の背中にもたれた。(13歳だよね)

「うん、」李漸鴻は何か考えているようだった。

段岭は不思議なことに気づいた。彼は今日初めて李漸鴻に会ったのに、ずっと昔から知っていたような気がした。何も言わなくても感じる、自然な流れのような親近感だ。彼らの魂の奥底深くに烙印を押された繋がり、紹介したり、質問しあったりする必要もない、まるで、李漸鴻が十年余りの年月、ずっと段岭の傍に寄り添い、朝起きた時はいなかったが、ただ、食べる物を買いに行っただけで、晩には戻って来たかのようだ。

 

それまでの悩みが遠くに消え去り、今あるのは安心感だけだ。―――なぜならわかっているからだ。自分のところに来たからには、永遠に離れないつもりだと。これまでの段岭の人生は、彼と会うために歩んできて、彼のいる世界で生きていくためのものだったと思えた。

「父さん、あなたは何歳なの?」段岭が尋ねた。

「二十九歳だ。お前の母さんと知り合ったのは、お前より少し大きい時で、十六歳になったばかりだった。」

「母さんはきれいだった?」

李漸鴻は悠然と答えた。「もちろんそれは美しかった。彼女が笑うと、永久凍土の白雪さえ溶けた。荒涼とした砂漠は江南とは違う。あのつらい日々に、父は一目で恋に落ちた。さもなくばお前が生まれるはずがないだろう?」

「だったら……。」

「ん?」

段岭はそれ以上聞かなかったし、聞くべきでないと思った。父さんはきっとつらいだろう。

「汝南では、段家にひどい目にあわされたか?」李漸鴻が尋ねた。

段岭は暫く黙っていたが、うそをつくことにした。「そんなことない。みんなあなたが来るとわかっていたし、よくしてくれたよ。」

李漸鴻は、うん、と言ってから、「郎俊侠は三度私を裏切った。その結果、間接的に数万人が死んだ。彼の人生で負ってきた思いが重なり、荒れ果てていた。そもそも彼があんなことをしなければ、父は母ともお前ともこんなに長い間離れていなくてすんだんだ。」

段岭:「……。」

「だが、幸い彼は心を失ってはいず、お前を汝南から連れ出してくれた。それも運命の導きだったのかもしれない。私は彼に約束したのだ。お前をしっかり守ってくれたら、それが彼の罪を贖うことになるのだと。もしそうしていなければ、無名剣の下、天の果て海の彼方までも彼を追って行き、この世に存在できぬようにしたであろう。」

 

それは自分の知らない郎俊侠の話だった。「彼は何をしたの?」

「この話は長くなる。」李漸鴻は考えながら言った。「いつか時間があるときにゆっくりと話してやろう。彼の背景を知ってからも、好き友と思えるなら、父はもちろんお前に無理強いはしない。今すぐ聞きたいか?」

段岭は本当は信じたくなかったが、父が自分を騙さないことも信じていた。それで頷くことにした。「だが今日はもう疲れただろう。寝るといい。」

 

家に戻ると、李漸鴻は彼を寝台に横たわらせたが、段岭は父の衣の袖を引っ張り、見つめ続けた。李漸鴻は考えて、段岭が言わなかった言葉を察すると、笑顔を見せて、外袍を脱ぎ、

胸ははだけたまま、膝丈の下袴のみ履いて、段岭の横に横たわった。

段岭は彼の腰に手をまわし、腕を枕にして、眠りについた。

 

風が松林を抜け、殺気を帯びた千軍万馬が虐殺を繰り返す。夜半の時、遠方の戦場では鮮血が飛び散り、戦友が死を前に悲痛な怒号を上げていた。再び無限の悪夢が一瞬にして襲い掛かってきた。李漸鴻は大声を上げて、猛然と目を覚まし、飛び起きた。

「父さん!」段岭はびっくりして、心臓が狂ったようにどきどきした。手探りで起き上がって見ると、李漸鴻が全身汗だくになって寝台に座り、ひきつけを起こしたように喘いでいた。

「父さん?大丈夫?」段岭は心配して尋ねた。

「悪い夢を見た。大丈夫だ。びっくりしただろう?」李漸鴻はまだドキドキしながら言った。

「何の夢を見たの?」段岭も子供の頃はよく悪夢を見た。叩かれる夢だ。だが、大きくなるうちにかつての汝南での記憶は薄れていった。

「人殺しだ。今でも死んでいった部下たちの夢を見る。」李漸鴻は目を閉じて答えた。

 

段岭は彼の少陽三焦のツボを押して彼が神経を休めるのを助けた。李漸鴻はゆっくりと横たわり、目を開けたまま、放心した。段岭は彼の懐に巻き付いて、胸元を枕に、首からかかっている玉玦を弄んだ。(恒児みたい)

「だんだん治って来るよ。」段岭が言った。

「お前も悪夢を見るのか?」落ち着きを取り戻した李漸鴻が尋ねた。

「前はね。」段岭は玉玦をいじっていて目を上げなかった。

「何の夢を見た?」

段岭は言い淀んだ。汝南で叩かれていたことは言いたくなかったし、もう過ぎたことだ。

「母さんの夢。」段岭は最後にそう言った。

「お前は母さんに会ったことがないのに、生まれる時の苦しみを夢に見ているんだな。生老病死、全ては苦しい。きっと全てよくなってくる。」

「今夜はできないけど、明日あなたに安定薬を買ってきて煎じてあげるよ。」

「まさか我が李家に薬学に長けた者が生まれるとはな。」李漸鴻は笑うと、横を向いて段岭を胸に抱き、鼻筋をこすりつけて言った。「将来何になりたい?医者になりたいか?」

「わからない。郎俊侠は……。」段岭が言おうとしたのは、郎俊侠が真剣に勉強していつか大業を成し遂げるように、父さんを失望させないように、と言ったことだった。だが、李漸鴻は、「お前は他人が言うことを気にしなくていい。将来お前がやりたいことがあれば、何でもやればいい。」と言った。

 

段岭は初めてそんなことを言われた。名堂にいた時は、上は大先生から下は奴僕まで皆が考えていた。人は高みに向かい、水は低地に流れる。文武を習得し、帝王家に仕える。人生とは上を目指して力を尽くすものだと。

李漸鴻は息子の前髪をかき上げ、その双眸を見つめた。「お前が医者になりたい、武芸を習いたい、例え修行をして和尚になりたいと思ったとしても、それで幸せになれるならやりなさい。」段岭は笑い出した。なりたいなら和尚になってもいいなんて、今まで誰も言わなかったことだ。だが、李漸鴻は大まじめだ。「さっき、お前は楽しそうに話していたな。まだ遊び足らないようだと思ったのだ。勉強は楽しくはないのか?」

段岭は考えながら答えた。「楽しいかと言われたら楽しくはない。勉強はするべきだけど、庭いじりの方がもっと好きなだけ。」李漸鴻は頷いた。「花匠になりたければそれもいい。」

「でも大先生が言うには、全ては品がなく、学問だけが高尚なんだって。」

 

「学問はすばらしい。」李漸鴻はため息をついた。「だが、お前が本当に好きでないなら、父も無理強いはしたくない。父はお前に幸せでいてほしいのだ。」

「じゃあ、明日はやっぱり花を植えに行くよ。」段岭は笑いながら目を伏せ、父の首にかかっている玉玦を自分の瞼に乗せた。そこには李漸鴻の体温が移っていた。

李漸鴻も笑って段岭を抱きしめると、目を閉じ、髪に残っている爽やかな梍の匂いをかいだ。

段岭はいつの間にか眠っていた。再び目が覚めたのは早朝だった。李漸鴻は肌脱ぎして、庭で武芸の修練をしていた。長棍をひゅうひゅう言わせ、桃の花が巻き上げられて次の瞬間には散っていた。      (五年もかけて咲かせたのに。)

段岭は欠伸をしながら、それを見ていた。李靳本は棍を収めると、再び掌法を繰り返した。切る、推す、翻す、覆う、集中する姿がとてもかっこいい。

段岭がしばらく見ていると、李漸鴻が掌を収め、「やってみたいか?」と尋ねた。段岭が頷くと、李漸鴻は一招一式と教えていく。「でも私は馬歩を練習したことがないから、足腰がだめだよね。」李漸鴻は答えた。「そんなことは気にするな。お前が楽しければそれでいい。」

段岭:「……。」

 

段岭は見様見真似で、掌法を一通り打ってみた。李漸鴻は良いとも悪いとも言わず、ただ一通り丸覚えさせた。「よし、まずは少しやってみて、興味が出たら、また練習してみよう。これを、「深入浅出」という。」

段岭は声をたてて笑った。彼の性格は自分の好みに合っている。少し疲れてきたところで、李漸鴻は朝食の時間だと気づいた。食べ終えると、段岭は、今までの習慣通り、「勉強しなさい」という言葉を待ったが、李漸鴻には催促する気は毛頭ないらしい。

「父さん、花の世話をしに行きたいんだけど。」段岭が言うと、李漸鴻は、行けばいいという仕草をした。段岭は庭いじりを始め、李漸鴻は竹を切って、花に水をやるための水路を作り始めた。だが、誰にも催促されないと、段岭は少し不安になってきた。動いていても心が落ち着かず、やはり勉強をしにいくことにした。

「良心に責められたか。」李漸鴻は茶碗を持って書房の外に座り、流れる白い雲を見上げた。

「なんだか心が落ち着かなくて。」

李漸鴻が言った。「どうやらやっぱり勉強はしたいようだな。」

 

段岭は少し気まずかった。李漸鴻が家に来てからというもの、ああしろ、こうしろとは決して言われず、何でも好きなことをしろと言われる。何もすることがないなら、座ってお茶を飲むだけでもいいのだ。だが、段岭の性格では、頭を押さえつけられればやりたくないが、誰にも催促されないと、つまらなくなってしまう。そこで、李漸鴻が催促するまでもなく、毎日自分から勉強をしに行った。そして時々は見様見真似で、李漸鴻から掌法を習った。

李漸鴻は一時も段岭から目が離せないようだ。町に買い物に行く時さえ、一緒に連れて行く。

いつも目の届くところにいて、寝る時も一緒に寝るし、昼間は同じ部屋にいた。

だが、何か思い悩むことがあるようで、段岭はある日、我慢できずに聞いてみることにした。「父さん、何を考えているの?」

「我が子のことを考えていた。」李漸鴻は答えた。段岭は笑いながら、書をおいて、彼を抱きしめに行った。李漸鴻は拭い去れぬ煩悩に悩まされるかのように眉をしかめていたが、段岭を見つめる眼差しはとても温かかった。

「楽しくなさそうだ。」段岭は手を李漸鴻の顔の両側に当てて彼の首を揺すりながら尋ねた。

「何か悩みがあるの?」

「ある。」李漸鴻は言った。「父はいつも悩んでいる。お前に何を与えられるだろうかと。」

段岭は笑いながら答えた。「私は五河听海里の碧玉餃子を食べたいよ。」

「それなら行ってみなくてはな。」李漸鴻は段岭を連れて美味しいものを食べに行く準備をすると彼の手を牽きながら、言った。「だけど考えているのは点心のことではない。」

段岭はよくわからないといった風に李漸鴻を見た。

「お前は家に帰りたくはないか?」李漸鴻は段岭に尋ねた。段岭は理解した。名堂で聞いた通りだ。漢人は皆家に帰りたがっているのだと。

「父はお前が持つべきだったもの全てを与えたいと思っているのだ。」

「私は十分満足しているよ。」段岭は言った。「人は、足るを知れば幸せでしょう。郎……」

 

段岭は危うく郎俊侠の名を呼びそうになって、彼がもういないことを思い出し、がっかりして、「ああ、彼はまだ帰らないのか。」と言った。郎俊侠が出て行ってだいぶたつが、段岭は

彼が家にいることに慣れてしまっていた。彼はどんなことを頼まれたのだろう?こんなにたっても戻らないのはなぜなのか?だが父は、彼が郎俊侠のことを思うのを嫌がっているようだ。段岭が彼のことを言い出すたび、李漸鴻は嫉妬心を覚えるようだ。

「郎俊侠はいつ頃戻るかな?」かつて、毎日言い続けた「父さんはいつ頃戻るかな?」の代わりに言うと、李漸鴻は答えた。「新しい家を準備して、お前を迎え入れようとしているんだ。」

 

 

 

第14章 救援:

 

郎俊侠のことが恋しい段岭ではあったが、だんだんと気づいてきた。父が帰らなければ、郎俊侠が去ることはなかったのだ。来る人がいれば、去る人もいる。―――郎俊侠が以前言っていたように、この世の良いこと全てを独占することはできない。何事にも負の面はつきものなのだ。そうしたことも含めて、天の神様が自分のために良かれとしてくれたことなのかもしれない。

 

段岭は驚くべきことに気づいてしまった。勉強していてわからないことがあると、李漸鴻に尋ね、彼は全部答えてくれるのだが、その答えは、大先生の教えと全く違うのであった。

但しつじつまはあっているので、段岭としてはそれでいいのだが。

「父さん、あなたはあまり勉強しなかったと言わなかったっけ?」

「命は有限だが、知識は無限だ。この世に学問を修めたと言い切れる者などいるのか?知識の断片を拾い集めたに過ぎないだろう。知識が増えるほど、納得は減るものだ。」

段岭はわかったようなわからなかったような気持で頷いた。この日、彼は一通り本をめくった後で、再び尋ねた。「『孔子曰、君子に三つの畏れあり。』それはどういう意味?」

「『天命をおそれ、大人をおそれ、聖人の言の葉をおそる。小人は天命を知らずして畏れぬ也り。』畏れとは怖がるという意味ではなく、尊敬と言う意味だ。天命を尊重すれば、身を安んじる。」李漸鴻が答えた。

「それじゃあ、その天命っていうのはどういう意味なの?」

「誰もがその一生のうちに、成し遂げねばならぬことを持っている。それは生まれた瞬間から定まっていることだ。耕し植えることである者もいれば、戦うことである者もいる。皇帝となることである者も。それぞれ違って、同じものはない。」

「だけど、自分の天命が何かどうしたらわかるの?」段岭が尋ねた。

「さあな、感覚的につかめるのだ。」李漸鴻は茶碗を置いてため息をついた。「父さんにもわからない。三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。聖人が言うには、人は五十歳になれば智慧を得るのだと。」

「長すぎるよ。」段岭は苦笑いした。

「そうだな。人生の前半は手探りで、あちこちぶつかりながら進み、天命のありかもわからない。全く時間の浪費だな。」李漸鴻は立って出て行った。段岭は今の父の話について考えていた。先生たちの言葉よりずっと興味深い気がした。

 

しばらくすると李漸鴻は玄関から出て行った。外は小雨がぱらつきだし、彼は稔笠をまとい、手には包みを持っていた。「今日は名堂に行くのではなかったか?まだ勉強するか?」

「あ!」段岭は思い出した。今日は『領巻』をしに行く日だ。最後に作った文章を名堂に提出し、大先生の印をもらって、それを辟雍館に送るのだ。危うく忘れるところだった。

(卒論的な?)

李漸鴻は覚えており、段岭を馬に乗せて門を出た。二人はあらかじめ準備してあった巻子を持って、まず墨房で試験の申し込みをしてから、城外に出かけることにした。

 

上京辟雍館は正鶴街の中ほどにあり、人の往来が多く、馬車も絶えない。外には既に馬車の列ができていた。皆高貴な家の者たちばかりだ。段岭は布衣を身にまとい、父と共に外に立った。

「みんなの立派な馬車が羨ましいか?」李漸鴻が尋ねた。

段岭は首を振った。前にいるのは名堂の同窓生たちで、一緒に勉強をしていた。彼らの家柄がこんなに立派だったなんて。だが、段岭は李漸鴻に言った。「先生の教えでは、人は清貧に甘んじて、自己の王たるべし、だって。」李漸鴻は頷いて言った。「先生の教えには屁理屈も多いが、その言葉は言う通りだ。」

段岭は笑いながら、登記しに行った。李漸鴻は笠を低く引き下ろして、顔の上半分を隠し、物陰の下で、行きかう人に気を配った。

 

「段岭!」蔡閏が遠くから叫んだ。「なぜ並んでいるんだ!私のところに来ればいい!」

段岭は名堂でもう三年学んでいるが、日ごろから交流する者はとてもすくない。郎俊侠の言いつけを護って、なるべく僻院にいることにしていた。同窓生と接することはあまりなく、唯一、初日に知り合った蔡閏、ブアルチジン、時々一緒に罰として立たされる赫連博だけが

仲間と言えた。

蔡閏は、彼の兄に連れられてきていた。段岭に手招きすると、李漸鴻が近づいて、蔡聞に拱手した。「いつも世話になっています。」李漸鴻が言うと、「どういたしまして。」と蔡聞は笑顔で拱手を返した。蔡閏は段岭の肩に手をかけ、自分の前に並ばせ、少年たちは少しおしゃべりをした。

段岭は蔡聞に会うことはまれで、どうしてもあの冬の日に郎俊侠がけがをしたことを思い出してしまう。あの数日後、段岭が名堂に戻ると、蔡閏が会いに来てくれた。右目が腫れているのを見て、家の大人に殴られたのだろうと心配してくれたのだった。

二人が同じ班で学んだ時間は短かった。段岭が学び始めた時、蔡閏は既に書文閣で四書五経を学んだり、論文を書いたりしていた。段岭が書文閣に進学してから蔡閏とは僅か数か月同窓だったが、蔡閏はすぐに家に戻って、兄が招いた人から個人的に習うようになり、二人はあまり顔を合わせなくなった。

 

だが、蔡閏家のことについて段岭は少し知っていた。蔡聞は長兄だが、二人は異母兄弟で、日ごろ蔡閏の衣食住を管理しているのは蔡聞だ。ちょうど郎俊侠と段岭のようで、そのため二人はとても仲がいい。それ以外にも、蔡閏と兄、郎俊侠と段岭は四人で外出したこともあった。一度は中秋花灯の夜で、二度目は上巳節に野遊びに出かけていた。

だが、丁芝は郎俊侠が好きで、蔡聞のことはそうでもないため、二人が顔を合わせると少し気まずい部分もあった。(蔡聞の方がいい人なのに。)

少年たちは列に並び、大人たちは傍で雑談をした。段岭は父のことを蔡聞に紹介するのを忘れていた。蔡聞はこの日、空色の常服を着て、とても素敵だった。いつもより武人らしく見え、鍛えたての利剣のようだ。話しているのは子供たちの学業のことで、郎俊侠の敬遠する態度に比べて李漸鴻は礼儀正しく接していた。

郎俊侠のことを聞かれると、李漸鴻は淡々と答えた。「彼は我が家の家僕で、本当はあまりかかわらせたくはなかったのです。仕事を終えて私が上京に来たので彼には南方で商売を手伝ってもらうことにしました。蔡聞は頷いて尋ねた。「段殿はご商売をされていると聞きましたが。」李漸鴻は少し頷いて言った。「あまりうまくいかず、別の生計を考えています。大志はあれど、乱世で被害を受けている者は多いものです。今はひとまずのんびりして、息子の成長を見守ってからまた考えるつもりです。」

蔡聞は笑いながら言った。「段殿のおっしゃりようからは、のんびりされているようにはとても思えません。ご謙遜を。」

李漸鴻の服装は華美ではないが、立ち居振る舞いや、言葉の端々、全てに彼の気質が現れ、とても成金などには見えなかった。近頃上京には様々な立場の人が入り混じっている。富貴な家の人たちが家族ぐるみで遼天子のお膝元に一時避難しに来ることも少なくない。蔡閏はあり得ることだとは思ったが、段岭の手前、先入観で色々考えるのはやめておいた。

 

蔡閏がある少年が走って来るのを見て意外に思い声をかけた。「赫連博!」

段岭も笑いかけた。「フーレンボ!」

「君も来たか!こっちに来いよ。」蔡閏が呼び寄せた。

赫連博も成長していた。いつも段岭と一緒に罰を受けて立たされていた彼は、十四歳にしては随分背が高い。肌の色は黒く、西羌の服を身にまとい、眉が高く目元の彫りが深いはっきりした顔立ちをしている。怒ったり威張ったりしないが、どもりがあった。

赫連博の後ろには管家(執事?)が付き添っていて、段岭と蔡閏に頭を下げた。赫連博は管家を帰らせると、何も言わずに二人の後ろに立った。

「ブアルチジンに会ったか?」蔡閏が尋ねた。赫連博は首を振って、李漸鴻を見た。初めて会ったのだった。「父さんだよ。」段岭はようやく紹介しなくてはと思いついた。

赫連博は片手を投げる拝礼をし、李漸鴻も頷くと、投手礼を返した。段岭が振り向くと、そこに馬車が停まっており、赫連博は段岭に「母さんだ。」と説明した。赫連博は母親に送られて申し込みに来たが、上京の習慣では女性は顔を見せられない。赫連博は一人で列に並ぶと、失礼を詫びる意味で、蔡聞たちに拱手した。(ママが挨拶しないけどごめんて)

 

三人の少年たちは暫くおしゃべりしていたが、順番が来ると、段岭が二人に先に行ってと言ったのに対し、赫連博が「どうぞ」という仕草をした。蔡閏と二人、最年少の段岭を先に行かせてやったのだ。

「お暇な時に段岭を我が家に来させて下さい。」蔡聞が言った。「南から先生をお招きしているのです。予習できれば勉強も楽になりますから。」

「それではお言葉に甘えさせていただきます。」

際聞は遠慮なくという仕草をした。段岭の方は、既に答巻を持って中に入って行った。そして、巻子を渡して印を押してもらい出てきた。李漸鴻は蔡聞に挨拶をして、段岭と一緒に、試験の代金を支払いに行った。

 

段岭と別れてからみんなどこかへ行ってしまって、彼は周りを見回さざるを得なかった。

李漸鴻が尋ねた。「もう友達は来ないのか?」

「バドが来ない。今日が申し込みの日だって言ったのに。」(自分も忘れてたくせに?)

李漸鴻は暫く黙ってから尋ねた。「他に友達はいないのか?」

「良くしてくれるのは彼らだけ。でもなぜか、みんな家の干渉が厳しいんだよね。」

李漸鴻:「忘れるところだった。郎俊侠はお前に干渉したか?」

段岭は首を振った。郎俊侠と別れてしばらくたつが、かつてのことを思い出すと、彼がいた時の安らかな時間をなつかしく感じてしまう。遊びたくなかったわけではないが、彼を失望させたくなかったのだ。だが、はたから見ると、蔡閏、赫連博、他の同窓生も皆あまり幸せそうには思えなかった。頭の上を暗い影に押さえつけられているような感じだ。

「赫連博たちは……うまく言えないけど、みんななんだか……なんだか……うーん……。」

李漸鴻が言った。「何かにとりつかれているようだ。彼らの後ろにいて、勉強しろとうるさい。声を立てて笑うことさえできない。」

段岭は笑った。「そうなんだ。」

「少年なのに大人びている。お前とは違う。」段岭は「うん」と言った。

李漸鴻が言った。「彼らはみな人質になったことで、小さいころから理解していることは他の人よりたくさんあるのだろう。」

「そのことは知っているけど、何か恐れることがあるの?」段岭は尋ねた。

李漸鴻は段岭の手をとって道を歩きながら答えた。(馬はどうした?)

「赫連博は西羌皇族、赫連栾の子で、ブアルチジンは元国の奇渥温の後継ぎだ。蔡聞、蔡閏の兄弟は北上した蔡家が上京で官職を得て、遼人女性との間に生まれた子たちだ。言い換えれば、父親はみな外族で、ほとんどが皇族、両国の和平と引き換えに、この地で人質になっている。一旦戦争が始まれば、彼らは殺されることになる。」

段岭:「……。」

 

「南陳の人質は誰なの?」段岭が尋ねると、李漸鴻は答えた。「南陳皇族は人質になっていない。漢人は強気なのでね。」

「名堂でお前が一緒に勉強している人の中には、他にもたくさん遼国南面官の子供たちがいる。(遼に投降した漢人の子供)敵と通じて造反すれば、遼帝は彼らの子供を殺すだろう。

韓という姓の子供を知っているか?」段岭はすぐに韓公子を思い出した。「いるよ!」

李漸鴻:「彼は実は遼人で、彼の父は南院太師だ。」(ある意味スパイなんだ)

段岭は頷いた。李漸鴻と道の入り口に立ち、打魚児港が近いその場所で、段岭は暫くの間遠くを見ていたが、「バドがどうしているか家に会いに行きたい。」と言った。

李漸鴻は段岭と打魚児港に入って行こうとしたが、巷内を調べている遼国兵士たちに見つかった。「何者だ?」兵はたちまち警戒した。

「私は……」段岭が口を開きかけた時、李漸鴻が肩を軽く押した。

 

「先ほど、息子が入試手続きをしていた時に、辟雍館の外で蔡将軍にお目にかかりました。」李漸鴻はすらすらと言ってのけた。「ブアルチジンがいなかったので、将軍が声をかけに行ってくれないかとおっしゃったのです。」

その将校は言った。「蔡聞には関わり合いの無いことだ。戻って彼に言え。関係ないことに首をつっこむなと。」李漸鴻は頷くと、段岭を連れてその場を去った。眉が少し上がっていた。「彼らはなぜ……。」

李漸鴻は段岭の唇に指をあてて、何も聞かないようにと示した。家に帰ると段岭はこのことはもう忘れて、庭いじりを始めた。しばらくすると、段岭は李漸鴻が庭に置いた長椅子に体を横たえて、沈みゆく太陽を見ているのに気づいた。目を細めて何かを考えているようだ。「父さん。」段岭は中に入ってもう寝ようと言おうとしたが、李漸鴻はしっかりと目を開け、手招きした。段岭は近づくと、父の体の上に乗り、李漸鴻は片手で段岭をかかえ、もう一つの手で彼の手を握った。「これはなんだ?泥だらけじゃないか。父さんの顔を泥化粧するつもりか?」段岭は両手を李漸鴻の体にこすりつけた。「おなかがすいたよ。」

「何が食べたい?ちょっと出かけて……。」

段岭は手を洗いに行こうとしたが、李漸鴻は彼を離さずに、彼の顔をじっと見てから、視線を合わせ、言った。「行く前に話をしよう。お前はブアルチジン・バドと仲良しなのかい?」

李漸鴻は少し深刻そうな顔をしていたため、段岭は心配になった。父は彼がバドの友達になってほしくないのかもしれないと思い、何と答えようか考えあぐねた。だがその一瞬の躊躇で、李漸鴻はわかったようで、「そうならそう、違うなら違うと言えばいい。」と言った。

「そうだよ。」段岭は答えた。

李漸鴻は言った。「人間は人生で何人かの友達は持つべきだ。さあ手を洗ってこい。」

 

午後(うん?午後?)李漸鴻は段岭を連れて、遼国で一番の場所に食事をしにつれて行った。

段岭は楼の端にもたれて辺りを見ながら、言った。「父さん、バドはよく彼の父さんに叩かれているんだって。それに私を訪ねてこないし。」

「お前を訪ねてこないのは監禁されているからだ。」李漸鴻はふざけた調子で言った。「彼の父親の奇赤の性格は凶暴だ。上京に人質に送られて、人から白い目で見られるのを、子供を殴って憂さ晴らししているんだ。」

「だったら、どうして周りの人は守ってやったり、監禁を止めさせようとしないの?」

「逃げるんじゃないかと思うからだ。」李漸鴻は外の通りを見た。そこはちょうどブアルチジン家のある場所だ。兵馬がたくさん集まり、守りは厳重だ。

「元遼両国の辺境は日増しに緊張を増している。ひょっとすると今月にも開戦するかもしれない。」

「どうしてわかるの?」

李漸鴻は答えた。「知っているからだ。アルキン山以北は、今頃大地に春が来た頃だ。元人は冬の間、消費し、春が来ると必ず兵をあげる。さもなくば食べる物に困るからだ。」

「開戦したらどうなるの?バドは危険な目にあうの?」段岭が尋ねた。

「遼帝はまだ幼く、太后が監国をしている。兵権は全て北院大王、耶律大石の手中にある。全ては奴の気分次第だ。気分が悪く、戦いで負けを喫すれば、ブアルチジン家にとっては厄介だ。取り押さえられて首を斬られることもありうるだろうな。」

たちまち段岭は緊張した。不安にさいなまれながら家に帰ると、李漸鴻が暫く考えてから言った。「彼を救いたいか?」

「どうやって救うの?父さん、彼を救い出せるの?」段岭は尋ねた。

頭を下げて顔を洗っていた李漸鴻は、顔も上げずに答えた。「私には救えない。救うのはお前だ。」

段岭:「でも、私がどうやって救い出せる?」

「そうだな。」顔を洗い終えた李漸鴻は手を拭きながら廊下に出ると言った。「どうやって救えるか。よく考えてみないとな。」

段岭:「……。」

「郎俊侠がいればよかったのに。三人なら二人よりは……。」

李漸鴻は真剣に言った。「こんな時にまで郎俊侠を持ち出さないでくれ。お前の父さんは南陳一の剣客なんだぞ。それなのに、実の息子にいつもいつも殺し屋風情と比べられて、全く悔しいよ。」

段岭:「…………。」

 

「だったら……。」

「さあ、お前が方法を考えてくれ。兵法は読んだか?講談を聞いたことは?お前の手の内には大侠客がいる。これをどう使う?ロバ役かそれとも犬役か。自分で方法を考えるのだ。」

段岭は笑い出した。李漸鴻は深刻な表情をして言った。「何がおかしい?大侠客はそうやすやすとは使えないぞ。全天下中で、こんな凄腕がお前の命令だけを聞くのだ。お前の方は絶好の布陣をしなければならないぞ。」

李漸鴻はそういいながら手を伸ばして、段岭に掴むようなしぐさをして、逃がした後には匿う場所が必要であることを示した。段岭は驚愕した表情をしていた。李漸鴻は部屋を出て行くと、裏庭に行って、段岭の服を洗い始めた。段岭は暫くの間、呆けたような表情をしていたが、李漸鴻の意図がわかると、心の中に急にある種の強烈な刺激を感じ、紙と筆を取りに、部屋に駆け込んで行った。

 

「父さん!」

「何だ、我が子よ。」服を洗っていた李漸鴻はふざけた調子で答えた。

段岭が走ってきた。手には地図を持っている。そこには脱出経路と、何人かの人の絵、どうやらブアルチジン家の守衛のようだ。

 

「大した行軍図だ。こんなきれいに絵を描いて。三角形でもつければそれでよかっただろうに。」段岭は頷き、説明を始めた。「まずは人を連れ出さないと。それから何とか方法を考えて明日城門が開いてから城外に連れ出そう。ここが彼らの家。私たちが午後に楼上でお茶を飲んだところでしょう?」

「うん、救い出したらどこに匿うんだ?」李漸鴻が尋ねた。「我が家か?」

「うちは城門から遠すぎる。地下室もないし、匿うにはよくない。万が一遼兵が彼らが逃げたのに気づいたら、きっと一軒一軒捜索するはず。城外に出さないように、人の出入りも止めるはずだ。」

「うん、とても賢い。」李漸鴻は楽しそうに笑った。

段岭が言う。「明日の朝から城が封鎖されるとしたら、匿う場所は―――ここだ!城門に近く、人知れず送り出すこともできる!」

「いいぞ!」李漸鴻が言った。「そうと決まったら父はごみを捨てて来るから、その後で人を救いに行こう。」段岭はその後を追って言った。「あの場所に何があるかちゃんと見ていないでしょう。名堂だよ!」

李漸鴻は服を干し終え、ごみを捨ててから言った、「名堂ならお前が勝手知ったる場所だな。それが一番だ。さあ行くぞ。」

「え?覆面をしないの?刺客はみな覆面をするものじゃないの?」

「出来損ないだけが覆面をするんだ。」李漸鴻が言った。

「それじゃあ……」自分は李漸鴻についていけないだろうと思った段岭は、地図を渡そうとした。「この道に沿って行くと……。」

「覚えられん。」李漸鴻は段岭をさっと背負うと、二歩で壁を駆け上がり、散歩目で部屋の上に上がって、屋根の上を飛び越えながら、平地を行くかのように暗闇に消えて行った。

段岭は危うく叫びそうになったが、何とか思いとどまった。李漸鴻は彼を背負ったまま、何本かの路地を駆け抜け、近くまで来ると、誰かの家の庭に飛び降り、犬に吼えられた。「わあっ、なんて大きな犬だ。フビライハンより狂暴そうだ。」

段岭:「……。」

 

「下りて来なさい。」振り返って見ると、そこは既にブアルチジン家横の路地だった。李漸鴻は片膝をついて、片手で段岭の腰を押さえ、瓦にもたれて立たせた。

「父さん、剣を忘れたね。取りに帰る?」

「使わない。」李漸鴻は上を向いて月を見た。ちょうど十五夜で、真ん丸な名月が大地を照らしていた。「何と美しい夕べだ。」李漸鴻が呟いた。

「あっちが陰になっている。隠れて動けるよ。」段岭は府内の一角を指さした。李漸鴻は頷いた。路地を遼兵が通り過ぎていく。段岭は足元を指さして気を付けるようにと合図した。

「ここで待っていろ。」李漸鴻は小さく告げると段岭に点心の入った包みを手渡した。退屈したらこれでも食べていろと意味らしいが、段岭にそんな余裕があるはずがない。

点心を段岭の懐に詰め込んだ次の瞬間には、李漸鴻の姿は見えなくなった。(パパ笑える)

遼兵たちが角を曲がった時、最後の一人の兵の後頭部に一撃し、月影に隠れていた李漸鴻が戻ってきた。背負っていた長弓と矢籠を降ろし、次に腰に付けていた陌刀の重さを計って高く放り投げた。段岭は緊張しすぎて、手を伸ばしても受け取れなかった。李漸鴻は再び投げたが、やはり取れない。三度目に、ようやく受け取れた。

李漸鴻は『よくできた。』という合図に親指を突き出した。

段岭は顔に汗をかいた。

(最後はちょっとコントみたい。ツッコミどころも多いけど。手渡しすればいいんじゃないかとか、そんな場合か、とか、そもそも落としたのを拾えばよかったんじゃないかとか。)

 

 

 

 

第15章 故人

 

李漸鴻は再び壁の上に飛び上がると、 矢を何本か手に取ると、それを折って投げ、つるつるした柱に当てた。弓矢を構えると、段岭は緊張して心臓が喉まで上がってきそうだった。

矢が放たれ、庭園の茂みに当たる。体が倒れる音がした。李漸鴻はすぐに別の木の中に、三本の矢を放った。その中にいた見張りが気を失い、木の枝にひっかかった。李漸鴻は再び

屋根の上に飛び乗ると、瓦の波を押さえ、細長い体を伏せて夜の闇に溶け込んだ。

「交代の時間だ。降りて来られるよ。」段岭が小声で告げた。

(パパたぶんここで一度屋根から降りたはず)

 

「半刻しかない。父さん、私はまだここで待っていればいい?」李漸鴻は段岭が手に持った刀を取り、言った。「戻って屋根の上を行くぞ、跳べ!」

李漸鴻は遼兵から奪った縄を軒の上に引っ掛けた。段岭は李漸鴻の腰につかまり、二人は弧を描いて、遼兵の頭の上を飛び越え、ブアルチジン家の庭に落下した。

地に足がつくとすぐに、李漸鴻は持っていた短刀を鞘ごと使って、近くにいた遼兵二人を転倒させた。そして段岭の手を牽いて、三歩助走をつけると、「もう一度、跳べ!」

 

段岭は跳び上がり、李漸鴻と共に、庭欄を飛び越え、走廊に入って行った。李漸鴻は片手で段岭の手を牽き、もう一方に陌刀を持って、何度か振り回して、更に何人か倒した。敷地内には巡回する遼兵もいる。李漸鴻は段岭を抱えて窓台の下に身を伏せた。

庁堂には灯がともっており、話し声が聞こえた。李漸鴻は段岭の方を向いた。段岭の眼差しは崇拝で満ち溢れていたが、何も言わない。顔に泥がついているのに気づくと、李漸鴻は手で払ってやった。

 

その時中からバドの声が聞えた。バドはとても興奮している。元人の話し声とともに、茶碗の割れる音がした。

李漸鴻:「彼か?」

段岭:「彼だ!」

 

李漸鴻は立ち上がると、段岭の手を牽き、庁門を通り抜けた。片足を軸にくるりと回って、守門兵を背後から叩くと、兵士は気を失った。そのまま力を込めて突き飛ばし、兵士は音もなく花壇の後ろに落ちた。

段岭は急いで庁堂に飛び込んでいき、李漸鴻もすぐ後について入って行った。

「バド!」

庁内に入ると、中にも守備兵がいた!バドと父親との激しい怒鳴りあいがぴたりと止まった。段岭は大慌てで李漸鴻の方に逃げ帰ったが、李漸鴻は一歩庁堂に足を踏み入れると、将棋の駒を両手に持ち、満点の花雨のように遼兵に向けて投げつけた。更に四名の見張りが気を失い崩れ落ちた。(この辺はカンフーの内力を込めたなんかだろうな。苦手)

 

「段岭?!」バドは驚いて言った。

「逃げるよ!君を救いに来たんだ!」段岭が言った。

段岭が現れたことこそが、どんな説明より多くを語っている。バドは父親を一瞥し、すぐに身を翻して段岭について出て行った。

「とってくるものがある。ここで待っててくれ。」バドが言った。

「時間がないよ!」段岭は焦った。

バドの父、ブアルチジンチィチが後を追って出てきた。李漸鴻は恭しく彼に頭を下げ、「どうぞ」という仕草をした。まずはお逃げください、という意味だ。

バドは走廊で足を止め、段岭は彼の手を引っ張った。「わかった。」バドは決断を下した。「逃げよう。」

段岭が言った。「お母さんを呼んで来ないと。」

バドは止まって下を向いた。段岭は訳が分からず、握った手を揺さぶった。バドが少し強く手を握ったような気がした。「母さんはもう逃げたから。」

段岭はほっとした。二人を連れ出す方が三人連れ出すよりは少しは安全だ。李漸鴻の方を振り返ると、彼は裏庭を指さした。既に護衛は全て李漸鴻が倒していた。チィチは気を失った護衛の山を見て怒り狂い、腰に付けた武器を抜いて、李漸鴻に振り上げた。

「シッ!」李漸鴻は厄介ごとを起こさないようにと合図し、チィチはじろりと李漸鴻をにらんだ。李漸鴻は裏庭からそっと出ると、また二人の護衛を転倒させ、四人は路地に沿って逃げ出た。

待ち伏せだ!」

 

段岭が見積もった時間はぴったりだった。交代の時間が来て、やって来た守衛たちが屋敷が荒らされていることに気づいて大声を上げた。たちまち外を巡回していた衛兵たちが集まってきて、前から護衛が一隊近づいてきた。ようやく怒りを発散する機会を得たチィチは正面から一撃し、馬の頭上から殴りかかって、騎兵を馬ごとその場にひっくり返した。

暗い路地から矢が乱れ飛んできて、チィチは戦いながら退く。李漸鴻が口笛を吹くと、チィチはそれ以上戦うのを止め、路地の小道に逃げ込んだ。城内は混乱を極めた。段岭が小声で言った。「こっちだよ。」

段岭とバドは手をつないで大急ぎで走った。遠くから城守が追って来る。李漸鴻は前に手をついて、どこかの家の庭に身を翻して跳びこむと、再び壁に上がって逃げた。瞬く間に大通りに出た。チィチは死ぬほど喘ぎながら、何とか追いつき、近くにいた一帯の兵たちを殺して来た。

「あっちだ!」

「隠れろ!」

バドは父親を連れに戻ろうとしたが、李漸鴻に止められた。

「放せ!」バドは怒って怒鳴った。

言っても聞かないだろうと李漸鴻はバドを傍に放り出し、段岭は急いで彼をしっかりと抱きとめた。バドに父親を助けに行かせてはならない。李漸鴻は壁をひらりを越えた。矢と共に兵たちの声も聞こえる。叫び声が聞こえる中、段岭はバドの口をふさいだ。二人とも心臓が飛び出そうにどきどきしていた。

 

それから、李漸鴻は元語で何か言い、二人は民家の裏庭の門を破ってひらりと入って行った。

チィチは無事だったが、息を荒くして李漸鴻をにらんでいた。段岭とバドはほっとして、李漸鴻が家の扉を蹴り開けると、中に入って行った。室内にいた女性が音を聞きつけて起きてきて、叫び声を上げようとしたが、李漸鴻が手に持った刀で鞘ごと彼女をひと押しし、寝台に戻るようにという仕草をした。「道を借りる。」李漸鴻は優雅にそう言うと皆を連れて玄関から出た。そして再び段岭を抱き上げた。段岭は苦笑いしつつ、バドに手招きした。チィチはバドを背負い、一同はあちこち進路を変えながら、上京の闇夜を飛ぶように逃げて行った。

 

「さあどう行く?」李漸鴻が尋ねた。追手をまいた後、段岭は行き先を指示し、名堂の庭の後ろにたどりついた。この日は休みではなかったので、子弟たち全員が宿舎で寝ていた。

植木鉢をどかして、バドが最初に入り、段岭が後を追った。李漸鴻は壁を乗り越えて入り、段岭の指示の下、書閣に向かった。勝手知ったるバドは植木鉢の下から鍵を取り出し、書閣に入った。

ついに目的地にたどり着いた。ここまでの道のり、段岭はどきどきしっぱなしだったので、長机の端にもたれてはあはあと息をついた。バドが灯をともすと、肌寒かった春の夜が急に暖かくなった気がした。

だが足音が聞こえ、まだ長い灯の芯を李漸鴻が指で叩いて、強く息を吹きかけて消した。

「ここで朝まで待つんだ。」李漸鴻は書閣の扉を閉め、振り返りもせずに、言った。「私は何とか君たちを城から出す方法を考える。」

「あれは誰だ?」

「父さんだよ。」

段岭は小声で答え、懐から点心を取り出した。「お腹はすいている?」バドは首を振った。

「少し食べてよ。先に食べておいて、逃げるための力をつけなきゃ。」

室内は真っ暗だった。窓の外から入って来る月の光が段岭の顔に落ちた。バドは茫然と段岭を見ていたが、しばらくすると手を伸ばして段岭の顔を撫でた。

「どうしたの?」今日のバドはいつもと少し違う。少し怖がっているようだが、言葉ではそうした感情を表現できないのだろう。

「何でもねえよ。赫連は?」バドが言った。

「元気そうだった。今日会ったんだけど、帰る時はもういなかった。君のことを伝えておくね。」段岭が言った。

「捕まったら、どうする気だ?」バドが眉をしかめた。

「平気だよ。父さんは凄腕なんだ。父さんがやったって誰にも知られていないしね。」

バドはため息をついて、書棚に背を持たれた。まるで気力を使い果たしたかのように、目を閉じている。「バド、大丈夫?」段岭はバドの手を引っ張って体をゆすった。バドは首をゆらゆらさせ、段岭は場所を譲り、膝に頭を載せさせた。李漸鴻が入ってきて子供たちの頭を撫で、外袍を二人の体にかけた。袍子にはまだ血なまぐさい匂いがしていた。さっきまでチィチが来ていたものだ。遠くでチィチが何か言った。段岭にはわからなかったが、バドは聞き取り、目を見開いた。

李漸鴻が彼に元語で答え、二人は話し合い始めた。元人の言葉は荒々しく、二人とも声を低めているので、こそこそと謀を密談しているかのようだ。段岭は父が外族の言葉まで話せるとは思わなかった。バドが黙って静かに聞いているのを見ると、段岭は彼を揺さぶって尋ねた。「二人が何を話しているか、わかる?」

「俺とお前の父さんたちは昔知り合いだった。敵同士だったが。」

段岭は唖然として口を開けた。信じられない。チィチが最後に言った言葉に、バドは顔を警戒させ、信じられないといった顔で段岭を見た。「お前が……まさかお前が……。」バドは驚愕している。段岭は戸惑った表情で尋ねた。「何?」

「バド!」チィチが重々しい口調で言うと、バドはそれ以上何も言わなかった。

「息子よ。」李漸鴻が声をかけた。書閣には一片の静謐が漂った。しばらくすると李漸鴻が言った。「こっちに来なさい。」

李漸鴻は体を段岭に向けた。段岭は何か言葉にできない危機を感じ、振り返ってバドを見てから、李漸鴻に目をやった。どうしようかと思っていると、バドが握っていた手を放し、行けと伝えた。父子二人は書物で埋め尽くされた書閣に座り込んだ。

チィチはバドの傍に来て、長いため息をついてから、その場に腰を下ろした。

「眠くなったか?」李漸鴻が尋ねた。

確かに眠かったが、段岭はこらえた。父は何を考えているのか。彼らとチィチ親子は長机を隔てて離れて座っている。まるで初めてバドとこの書閣で一緒に寝た時のようだ。灯皿だけがなかったが、代わりに白銀色の月光があった。段岭は李漸鴻の肩にもたれ、頭をこすりつけてから、しゃきっとしようとして頭を揺すった。

李漸鴻が言った。「元人は胡昌城への攻撃を始めた。友達を上京の外に送り出せば、危険はなくなる。もう心配しなくていい。」

段岭は、うん、と言って、バドがこちらを見つめているのに気づくと、李漸鴻を見て尋ねた。

「父さん、さっきバドの父さんと何を話していたの?」

「彼に頼みごとをしたんだ。いつかお前を南方に送り届けてほしいとね。」

段岭:「?」

父たちのことが理解できない。自分が南方に戻るのと何の関係があるのか?李漸鴻が尋ねた。「お前は南方に戻りたいか?父と一緒に北方で一生を終えたいか、それとも我らが故郷に戻りたいか?」

段岭:「……。」

 

「父さんと二人で一緒に戻るんだよね?」段岭が尋ねた。

李漸鴻は口角を少し上げて聞き返した。「違うと言ったら?」

段岭は答えた。「それなら行かない。」

「そうだ。お前がいるところに、父もいる。」

段岭はうん、と声を出した。「行きたいな。」

李漸鴻は答えず、バドの父親の方を見た。まるで段岭の答えが、彼の結論を裏付けていると言いたげだ。「人は故郷を思うものだ。例え我が子が敵国で生まれ、成長しても。」李漸鴻はゆっくりと言った。「体の中には元人の血が流れている。バド、君は故郷を見たことがあるか?」

バドは身震いし、チィチの方を見た。通訳しようとして、チィチに頭を押さえられる。

『聞き取れている。』という意味だ。チィチは拙い漢語で言った。「俺の息子。戻りたい。だがお前、希望少ない。お前、希望ない。」

李漸鴻が言った。「彼はまだフアール草原奥深くにある、あの深い青色の明珠を見たことがないが、きっと夢の中では何度も見ているはずだ。それが彼の天性。だから我が子も西湖畔の柳に向かい、玉衡山麓の濁流に向かうのだ。」バドは考えて、李漸鴻の話をすばやく通訳した。

チィチは身動きもせずに李漸鴻を睨んでいた。とても難しいその提案を考えているようだ。

「今夜を境にここは彼らの天下となる。」李漸鴻は最後に言った。「私は強要するつもりはない。答えがどうであれ、日が昇ったら、君たちはここを出ていける。これは取引ではないし、恩を着せるつもりもない。よく考えてみて