非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 166-170

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

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第166章 けじめ:

 

「彼に手を貸すつもりか?」耿曙は部屋に着くと武袍を脱いだ。単衣も透けるほど汗をかき、布地が体に張り付いて、引き締まった背中の線を現している。全く済州は熱すぎる。だがこの空の様子だと嵐が来そうだ。

姜恒は書簡を置いて辺りを見回した。聞かれたことには応えず、「ここはね、海閣を出て初めてちゃんと住んだ場所なんだ。……おかしいよね。趙起はいったいどうしたのだろう?」

耿曙は姜恒の近くに行って腰を下ろした。二人とも単衣姿だ。姜恒は顔を上げて耿曙を見つめた。耿曙はしばらく考え、余計なことは言わないことにした。知らないままにした方がいいこともある。本人が言いたくなかったのなら尊重しよう。

「汁琮はすぐにやって来るだろう。梁国は滅びたし、今、彼を止められる者はいない。」

「そうだね。だから彼を助けることは、自分たちを助けることにもなる。」姜恒は答えた。耿曙はしばらく黙ってから、卓上にあった竹筒から算木を取って机に置いた。

「今俺は彼が俺にどのくらいの兵を貸せるかと考えている。」

「きっと『どれぐらい欲しい?』と聞いてくるよ。兵を得たら、汁琮を打ち負かすことができるの?」

耿曙はしばらく考えた。鄭軍と雍軍は全く違う。鄭軍を率いたことはないので確実なことは言いにくい。

姜恒:「彼に勝ったらその後はどうするの?鄭国が雍国を亡ぼすのを手伝うの?」

「恒児。」耿曙は行き詰まり、算木から目を上げて姜恒を見つめた。姜恒は呟くように言った。「汁琮を殺して、汁瀧を殺し、行く手を阻むなら、汁綾も一緒に殺す?最後に私のために王位を奪還してから鄭国を滅亡させ、四国を平定して、私を天子にする?」

耿曙は確かにそう考えた。姜恒に何も隠すつもりはない。

「そんなことしたら、私たちは汁琮と何が違うの?」姜恒はため息をついた。

「お前は雍国の正当な太子だ。それが一番の違いだ。」

「だから私のための殺人は殺人に入らないって?私のために人を殺すのは理にかなっているって?」

「俺はそんなつもりじゃ……もういい。」耿曙は姜恒が自分に賛成すると思っていた。二人で鄭国に来たのは太子霊を助太刀するだけでなく、姜恒の地位を取り戻すためではなかったのか?

「寝よう。」姜恒はまたため息をついて最後に言った。「私もちゃんと考えてみないとね。」

「汁琮は罪を認めないぞ!お前は天下に訴えて、彼に退位を迫るつもりか?そんなのは妄想だ!」姜恒は耿曙を見た。耿曙は怒ってはいなかった。

「今はそのことは考えたくない、後でまた話そう。それでいい?」

耿曙は頷いたが、姜恒は真相を明らかにしたいのは自分だって同じだと思った。

 

姜恒は寝台に横たわった。放浪の末、ようやく再び身を寄せる場所を得た。汁琮がいつ軍を率いてやって来るかや、大挙して自分の行方を探していることをもう心配しなくていいのだ。だが耿曙は屏風の向こうに布団を敷いて、寝そべった。

「兄さん?」姜恒は起き上がった。耿曙は屏風の向こうから「うん、」と言った。

「怒ったの?」

「何だって?」耿曙は我にかえって答えた。「いや違う。ただ暑すぎるからお前がよく眠れないんじゃないかと思ったんだ。」

「こっちに来てよ。」

「いやだ。」耿曙はがんばって言い張った。

「やっぱり怒ってるんだ。」

「違うったら!」耿曙は少し苛ついて答えた。「話が聞こえなかったのか?」

姜恒:「……。」

二人はもう長いこと言い争いをしていなかった。最後にしたのは林胡人の隠里の外でだ。まさかこんなつまらないことで喧嘩になるとは思いもしなかった。

姜恒は仕方なく答えた。「わかったよ。」耿曙は振り返って屏風の向こうを見たが何も言わなかった。ずいぶん後になってから、耿曙が声をかけた。「恒児。」

姜恒は眠くてたまらず、うとうとしながら振り向いた。「何?」

「何でもない、寝ろ。」耿曙は再び口下手の情けなさを思い知った。言いたいことがたくさんあるのになぜか口から出て来ない。

 

夜半過ぎ、雷鳴が轟いた。遅まきながら鄭の地についに嵐がやってきた。この雨で干ばつの心配はなくなった。今年の秋の収穫は心配なさそうだ。涼しく爽やかな空気が部屋に入って来た。耿曙はずっと目を開けたままだった。

姜恒を海に連れて行ったあの日に、耿曙はあることを決心した。望んでいる答えを得るまで、もう以前の様に姜恒にべたべたするのはやめるのだ。二人にとってよくないことだからだ。知らずにいれば、姜恒は全てを今まで通りの兄弟の間の親しさだと単純に思うだろう。今では二人は以前とは違うのだからと、耿曙は自分に言い聞かせ続けた。けじめをつけるべきなのだ。

 

翌日、姜恒は鄭国朝廷に上がった時にも、まだあくびが出た。朝廷の半分以上の人は、彼を知っている。彼が耿曙と共に姿を見せた時、大きなざわめきが起こった。

太子霊改め鄭王は王座について恭しく告げた。「姜先生が戻られました。聶将軍は我が国に初めてお越しです。お二方お座りください。」

「何が聶将軍だ?!」老臣の一人がすぐに耿曙を見わけ、怒号を上げた。「あれは死すべき屠夫!耿曙だ!耿淵の息子だぞ!」

 

諸臣たちはこの世にこんな恥知らずがいるのが信じられなかった。両国の血の仇は海より深い。両手を血に染めた殺戮者が、堂々と鄭国朝堂に座している。こんなことは死んでいった数万の兵たちへの侮辱だ!

太子霊は何も行動を起こさなかった。姜恒の力はよくわかっている。きっとうまくやるだろう。だが先に口を開いたのは耿曙だった。

「その通り、俺は耿淵の息子だ。母の姓をとって聶海という。大晋驃騎将軍に封じられて、洛陽より騎都尉の職を賜った。父は十五年前、琴鳴天下の変を起こし、四国公卿を殺した。俺は汁琮の義子でもあった。雍軍を率いて、おたくら鄭軍に勝った。数万人の鮮血で手を染めている。あの後、梁国国都安陽を破った……。」

そう言って耿曙は空いている席に座り、机の上に黒剣を置いた。

「……聶某は武芸が並みで父には及ばない。だがもし鄭国朝堂を血に染めようと思えば、誰も正殿大門から逃げることはできない。」

耿曙は一同を見渡し、少し口調を改めた。「だがここに来たのは殺すためでなく救うためだ。勿論仇を打ちたい人がいるなら、すぐに来られよ。こちらは座して動かずに、そちらから先に十手受けよう。」

 

それを聞いて、殿内は静寂に満ちた。この朝堂に耿曙に手出しできる者などいない。この場に弓矢を持ちこませ、彼に向かって乱射するよう、太子霊が命じでもしない限り、誰にも何もできなかった。

太子霊はため息をつき、何か言ってほしいと、すがるような目で姜恒を見た。まずい雰囲気だが二人が現れればこうなることは姜恒にはわかっていた。戦争とは自分が生きるために相手を殺すものだとかいった一般論を説いてみたところで何になる?理屈は誰でもよくわかっている。大争の世、鄭は雍を攻め、雍は梁を攻めた。情け容赦などない。二人の立場が変わったということこそが最大の問題だ。

 

「各位大人、何年もご無沙汰いたしました。」姜恒は逆にのんきな口調で言った。耿曙の威圧を受けてしばし言葉を失っていた一同は、特に罵り言葉をぶつけようとしなかった。姜恒はとても落ち着いていた。鄭人は彼を深く恨んではいない。雍国に家臣として仕えたことは知っていたとしても、結局のところ、彼は直接殺人を行ったわけではない。

 

「来られたのですね。」幼い声がそう言った。姜恒は声のする方に顔を向けた。太子霊の御座の左手で、一番上の席に、十代の少年の姿があった。彼の両脇には二人の老臣が控えて、彼を守っている。

「梁王ですか?」服装からすぐにその少年が誰かわかった。安陽城が落ちた後、項余に釈放され、鄭国に逃げ込んだ梁王畢紹だった。畢紹は王服を着ていた。亡国の王と言えども、礼節は尊守し、姜恒に対し先に起手した。

姜恒は起手を返し、「梁王、ごきげんはいかがですか。」と言った。

「よい。」畢紹は答えた。「太史大人と天子のごきげんはいかがですか。」

二人はお互いに拝礼した。姜恒は答えた。「天子は崩御されました。」

「天下より哀悼を。」畢紹が言った。

殿内はまた暫し沈黙した。畢紹は耿曙を見てから姜恒に視線を戻した。「我が王都の民である梁人が鉄騎に蹂躙されなかったことについて、姜大人に感謝申し上げます。人々を国都から逃がし、生き延びる機会を与えられました。」

「王道に従いました。我が本分です。」姜恒は淡々と答えた。

梁王の横にいた老臣はフンと声を出した。不満やる方ない。そもそも姜恒と耿曙が攻めて来なければ、安陽は敵の手に落ちなかったではないか。姜恒も眉を揚げて、老臣を冷笑した。

耿曙は黙っていられなかった。「俺たち二人が兵をあげて梁を滅しなければ、梁国は末永く千代に八千代にずっと安泰だったとでも言うつもりか?」

それを聞いて臣たちは騒然となった。姜恒はあきらめたように苦笑した。この場に来てから面倒は増す一方だ。

「ということは、大梁は聶将軍の仁徳に感謝せねばなりませんな。城を奪っただけで殺さなかったことに。」その老臣は代々王に仕えてきた梁の大貴族で、名を春陵という。歯を食いしばるまでに恨みに満ちた悲痛な口調でそう言った。耿曙の皮を剥がし肉を裂いてやりたいほどに恨んでいる。

姜恒は落ち着いた口調で返した。「もしかつて梁軍が洛陽に入った時に、同じように民のことを顧みていたなら、こんにちのようなことにはならなかったでしょう。」

「それは屁理屈だ!」春陵は怒号を挙げた。「鄭王!我らは亡国の臣となり、済州に身を寄せました。そして再びこのような恥辱を受けています!先王にどう顔向けできましょうか!」

 

太子霊は状況が良くないとみて、説得を始めようとしたが、春陵は短剣を抜き出して、自刎しようとした。命を以て訴えようというのだ。だが畢紹の反応は早かった。素早く短剣を掴んだ。鮮血が噴き出し、王袍を赤く染めた。

「相国いけません!姜太史は我らを救ってくれたのです!一時の衝動でこんなことをして何になりますか?!我らが共に自刎すれば祖先に報いることができるのですか?!」

春陵は血だらけになった畢紹の手を見てたちまち号泣し、少年梁王を抱きしめた。

 

太子霊は再びため息をついた。鄭臣たちは何も言えなくなった。不幸比べをするならば、梁王が一番ひどい目にあっている。その彼が折り合いをつけたというのに、鄭人に何が言えようか?畢紹は片手を春陵の背に載せ、やさしく撫でて慰めてやったが、その双眸は姜恒をしかと見つめている。姜恒は思った。もしもっと早く畢紹に出会って、しっかりと育てあげられたなら、この少年は天子となる素質があったかもしれない。だが運命に操られてこうなった。実に残念だ。

                  (結構上からだよな、姜恒も)

 

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第167章 殿前での争い:

 

再び殿内にしばしの静寂が訪れた。末席についていた孫英が包帯を持ってきた。太子霊はそれを受け取ると畢紹に向かって、「梁王、これを巻いて下さい。」と言った。

「自分で致します。」畢紹は答えて、血だらけになった手に包帯を巻いた。

太子霊はため息をついて、「先ほど言った通り、姜太史と聶将軍がここに来たのは、私を苦境から救うためです。」

「その苦境の原因を作ったのは彼らです。」冷ややかな口調の別の声がした。

姜恒が目を向けると、それは三十歳くらいの文官で、かつて彼が東宮で仕えていた時にも朝廷の官をしていた、名を諸令解という文官だ。服装からして今は鄭国右相のようだ。

諸令解は皆に向かって言った。「もし姜恒が雍国の変法を助けなければ、玉壁関で我が大鄭があのように大敗せず、汁琮が関を超えて、好き放題することもなかった。彼こそ諸悪の根源だ!」

「過ぎたことだと言っているのだ!」太子霊は本気で怒りだした。「右相!古傷を抉り出さなければ気が済まないのか?そんなことをして一体何になるというのだ?」

「古傷に触れているのではない。この二人を信用できないと言っているのです。」諸令解は冷ややかに言い放った。

 

姜恒が言った。「仕えた主人のためにやったことです。私にはなぜ理解できないのかわかりません。右相、もし私が雍臣として、雍国の俸禄を得ながら、鄭人が雍人に対峙するのを助けますと言ったらそれを信じられますか?再び寝返ってあなた方に全てを売り渡すのが怖くないですか?

 

(雍国がスパイとして姜恒を鄭国に送り込むはずがない。姜恒が裏切って雍国の情報を鄭国に売り渡すかもしれないから、そんな危険をおかすはずがない、という意味です。翻訳の下手さもあるけど原文も回りくどい書き方をしている。)

 

諸令解は返す言葉がなかった。姜恒は話を続けた。「鄭に身を投じたからには、鄭国に絶対の忠誠を貫きます。雍国にいた時は雍国のためだけを考えていました。今再び鄭に来たからには、皆さんは私を信じて大丈夫です。」

 

太子霊が言った。「その通り。姜先生が我が国のためにかつて汁琮暗殺という義挙に出てくれたことは皆もその目で見たでしょう。最近の事情は我が望みに沿わないものではあったが、少なくとも私は姜先生を信じています。」

諸令解がまた口を開いた。「朝三暮四に過ぎぬ。彼らを信用できないことをお許しください。あなたたちは雍国の犬だ!」

「罪を認めますか?」左相である辺均がこの場に参戦した。「汁琮は虎狼のごとく関を出て戦争を始めた。これは明らかに侵略です!あなたたちはその虎狼の爪と牙だったのでしょう。」

姜恒はばかばかしいと思ったが、耿曙は穏やかに声を出した。

「罪を認めるか?あんたら鄭人は天子を脅かし、洛陽の民を屠殺して、天子と趙将軍を死に追いやった!あの時の借りを俺は今正にあんたらに返させようと思っているぞ!」

 

すぐにまた全朝臣たちが騒然となった。太子霊は咳ばらいをした。目の前の局面はすでに収拾不能な状態になった。最悪の状況は考慮していたはずだが、恨みの持つ力を軽視しすぎていたようだ。

「罪を認めるか?」周りの𠮟責も罵倒も押さえつけるように再び耿曙の声が響いた。今度は太子霊に向かって言う。「軽々しく戦争を起こし、落雁に強攻をかけたことを!」

諸令解は怒号を上げた。「座して関わらねば、汁琮が関を出なかったというのか?汁琮こそ悪魔の申し子だ!」

 

刹那朝廷中の者たちが一斉に感情を爆発させた。姜恒が何か言おうとした時、梁王畢紹が傷を包帯で巻き終え、再びそっと声を出した。

「罪を認める。かつて洛陽で起こしたことは我が罪である。」

春陵は未だ涙も乾かぬ内に、梁王のこの言葉を聞き、慌てふためいた。「王様、そんなことを言ってはなりません!あなたに何の罪がありますか?当時あなたはまだ五歳だったのですよ!」姜恒は再び畢紹と視線を合わせた。殿内が静まった。畢紹の声だけが聞こえた。

「天子を死なせ、洛陽に攻め入ったことは我が大罪です。それは五国の罪でもあり、汁雍の罪でもある。」

洛陽で起きたことについて、五国の国君がかつてのことを直視し、責任を認めたのを姜恒はこの時初めて聞いた。姜恒はうなずき、太子霊を見た。太子霊は心得たように一笑し、言った。「私も罪を認める。あの年の行いは間違いだった。」

孫英は咳ばらいをした。洛陽侵攻時には、まだ前の鄭王がいて、あれは朝廷が満場一致で決定した。天子を手に入れねばならない。姫珣を汁琮の手中に落としてはならない。太子霊がどうがんばろうと、あれは天下の必然だった。

姜恒は「それで……」

二人の表明を聞いた耿曙は言った。「それなら、俺も罪を認める。悪魔の申し子に仕えたこと、それが俺の罪だ。これより弟とともに、これまで犯した罪を償うつもりだ。」

 

雰囲気が少し和らいだ。席を埋めるのは皆、書を読みつくした文化人だ。理性を取り戻せば、誰もがわかっていることだった。今の困局の世においては、姜恒や耿曙のような者を責められないと。かつての琴鳴天下の殺戮は忌むべきことではあるが、二人に血の仇を背負わせるべきではない。結局のところ、すべては悲劇で、誰もがその望まざる悲劇に巻き込まれたのだ。

姜恒は耿曙の隣に腰を下ろした。「それじゃあ私たちはこれで、ようやく将来についてちゃんと話し合いを始められますね。」

「誰の将来でしょうか?」再び畢紹が尋ねた。

「梁の将来、鄭の将来、五国の将来、つまり天下の将来についてです。」姜恒が言った。耿曙はもう何も言わずに、手に持った剣をじっと見つめていた。

「あなたたちは怪物を世に放ったんだ。やつが何をしでかすかしっかり見てみるといい。」諸令解は言った。

太子霊は姜恒に言った。「あなたたちがつけた大火は止めなければ天下全てを焼き尽くすでしょう。姜先生、我らが全力を尽くせばこの火は消せると信じてはいますが、そのために我らが払う代償は大きいはずです。」

姜恒は考えた末言った。「まずは手順に従って汁琮が何をしたのか聞かせてください。鄭王は色々と情報をお持ちと存じますので。」

 

太子霊は左相辺均に状況報告するようにと指示した。鄭国が持つ雍国についての情報が必要だ。それがなければ深い議論はできない。姜恒がずっと主義としてきた考えは、「己を知り彼を知れば百選危うからず」これに尽きる。

 

辺均は一つ咳ばらいをしてから、ゆっくりと話し始めた。

「汁琮は今や中原の大半を占拠しています。洛陽、安陽、漢中、捷南、嵩県琴川一帯は既に手の内にあります。三日前、曾宇が群を率いて照水城を攻撃し始めました……。」

姜恒が予想していた通りの速さだ。しかもしれは落雁にいた時に彼自身がたてた南征大計によるものだ。この後は長江が汁琮の歩みを阻むだろう。江州は守りやすく攻めにくい。汁琮は水軍を持っていないので、直接攻撃はしないだろう。最善なのは、潯水三城に沿って進む路線だ。潯東、潯北、潯陽を取って越地に侵入し、長江に沿って北東に戻り、崤関を迂回して、鄭国に入る。

 

一城失えば、城々を失う。南方四国は百年もの間、硬直状態にあったが、一つの地が落ちたことが、崩壊の連鎖を招いた。崤関に駐留する龍于軍を呼び戻せば、汁綾は軽々と崤関を攻め落とし、済州は更に危険になる。

戦争の進行具合よりも姜恒が気になるのは、雍国の手に落ちた城市に住む人々がどうなったかだ。辺均の情報は事態が一層ひどい状態であると知らしめた。雍国は遷都を始めた。行先は洛陽ではなく安陽だ。落雁城は莫大な移民団を送っている。夏のうちに中原に入り、安陽に新王宮を作って、雍国の人々も梁国境内にぞくぞくと送り込まれていた。遷都というのは国にとって時間がかかり、簡単には収まらないものだ。

だが汁琮は鶴の一声で国を挙げての移民と定着を成し遂げようとしていた。

半月前には40万人の雍人が玉壁関に移ってきた。そして太子瀧を首とする東宮門客が新たな国都を据えるための新制度を遂行しようとしていた。それはかつて落雁にいいた時に姜恒が基礎作りをした計画に沿っていた。ただし、一点違いがあった。

 

汁琮は統治する人々を四等に分けることにした。;一等は雍民、二等は雍人と共に関内に移住する風戎、林胡、氐三族で、「関外民」と呼ぶ。三等は嵩県、洛陽などの天子遺民、「中原民」と呼ぶ。四等が歴年の征戦後の捕虜、鄭、郢、梁人、及び代人の一部、これを「賎民」と呼ぶ。

 

「新たに付け足したのか。」姜恒は冷ややかに言った。皆は姜恒の嘲弄を聞いたが何も言わなかった。

「一等民にも公卿、士などの貴族と、大多数の官がいます。二等は武人が多く、三等四等は彼らに使われます。賎民は農工商には携われず、苦役に服すか、兵になるしかありません。当然この場合の兵の待遇は雍正規軍とは全く違います。」

                      (宋鄒はどうしたろう?)

 

辺均は汁琮の四等人制について別段思うところはない。雍国ほど厳格な階級制度ではないにしろ、どの国でも貴族と平民ははっきりと区別されている。この報告をしたのは、汁琮の新朝廷がさらに領土を広めるための体制づくりができたことを知らせるためだった。雍国はこのような効果的な運転で、軍隊の補強をし、後方支援も充実させ、鄭国を責め破るのは時間の問題だ。

 

「目下のところ、汁琮の軍隊は中原流民や戦争捕虜を加えて、さらにまた拡大しています。その数、26万、照水攻略後は更に増加しております。

姜恒は頭の中で目算してみた。中原の土地、雍国の効率性、軍に引き入れ可能な人数。

辺均は言いかけた。「私が推測したところ……。」

「50万。」姜恒は先にこの問題について答えた。「嵩県の食糧庫を徴用し、軍需費を最大限に圧縮して民を戦場に送る。4ヶ月あれば、汁琮は50万の兵を率いて戦える。その内10万人が主力軍、つまり風戎と雍の中堅戦力に、氐人5万を加えた数だ。」

姜恒は一同に説明した。「残りの35万は新兵だ。彼らの腹を満たしてやり、前線に送る。何人死のうが、汁琮にとってはどうでもいい。」

 

その場にいた全員が沈黙した。50万の軍隊とは。たとえ代、鄭、郢の三国が連合を組み召集をかけたところで20万も集められまい。半分にも及ばない数だ。

「鄭国はどのぐらいの兵を集められる?」沈黙を破って耿曙が口を開き、尋ねた。

「4万だな。一万は崤関に置いておかねばならない。」

諸令解が言う。「汁琮の新兵は寄せ集めで戦場での実力はないかと……。」

「鄭軍の戦力もそんなもんだろう。似たり寄ったりだ。」耿曙は情け容赦なく皮肉る。

諸令解が青筋を立てたのを太子霊は視線で制した。耿曙はただ事実を言ったに過ぎない。

畢紹が言った。「私の持つ八千の御林軍を聶将軍にお渡しできます。最後まで私に従ってくれた勇士達ですので、どうぞ善き扱いをお願いします。」

「俺の命令で戦えるのか?」耿曙が言った。姜恒は苦笑し、考えた末、太子霊に言った。「熊耒に手紙を送りましょうか。あの親子は私たち兄弟を殺そうとはしましたが、こんな時ですので……。」

「郢王は薨去された。郢太子も亡くなった。ご存じなかったのか?」

「何ですって?!」姜恒は衝撃を受けた。ここまでの道のりであまり情報を得てこなかった。ほとんどの時間、鄭国にいたこともあるが。

「どうして死んだのだ?父子ともに死んだのか?」耿曙も驚いていた。

太子霊が説明してくれた。「一夜にして怪死した。死因は不明だ。羋清が公主の身分を以て補政している。今や羋家が権力を掌握しているから、公主が子を持てば羋家が未来の国君として後押ししていくだろう。」

太子霊も江州での怪事件についてはよくわかっていない。ことが起きた時にはその場に人はいなかったため、事実に基づけば、郢王と太子はおそらく同時に服毒死したのだろう。

これ以外にも、十万の郢軍が安陽で全滅した。今や江州には二万の守備兵しかいない。郢地の南方大城にいたっては空城となっている。

「代国が関を出るなら、我が国に十万の兵を援助することも可能だが、汁瀧が姫霜と成婚することになると、おそらく……。」

 

それもまた姜恒が最初に建てた計画通りだ。こうして考えてみると、汁琮は自分の計画を余すところなく活用している。これを打開しようとすれば、挟み撃ちにあう。勝ち目はない。

話すべきことは話し終え、太子霊は地図を広げさせた。黒一辺倒だ。汁雍は「水徳」を以て国を立て、水は黒で表現される。今や中原の大半が汁琮の手の内ということだ。

地図を殿内に広げさせ、太子霊は合図をした。何か方法があれば、どうぞという意味だ。

姜恒はしばらく黙りこみ、救いを求めるように耿曙を見た。この期に及んで耿曙の真剣みは増した。姜恒の分析を求めることもない。軍事戦略は彼の方が得意分野だからだ。

 

外部から知らせが届き、孫英が立ち上がって、退席を告げた。

耿曙はしばらくの間、中原の地図を見た末に言った。「照水城の兵を増やして、何としてでもここを守ることでしか、汁琮の動きを止める手はないな。」

照水を失えば、雍軍そこを拠点として東南方へ向かい、潯水三城を攻撃し、越地に侵入する。そして元々潯水一帯には駐留軍は少ない。

(照水は耿曙が梁から奪って今は郢国軍が駐留している。鄭国に近い。潯水三城は鄭国の城)

 

姜恒が言った。「江州に協力を要請して二方向から照水を救援しよう。ここをしっかり守らないと。一旦照水が陥落したら郢国の国都も危険に……。」その時、孫英が急ぎ足で入ってきた。「悪い知らせです。照水が落ちました。汁琮は全城を水攻めにし、七万の民を溺死させました。駐留していた郢軍の半数は死傷し、残りは江州に逃げました。」

それを聞いて耿曙は地図の上に置いてあった木棋を一掃した。殿内は静まり返った。

「戦うのはもう無理だ。投降するか逃亡するか、どちらかを選ぶしかない。」

太子霊は眉間を手で押さえ、長い溜息をついた。

 

 

ーーー

第168章 死を以て制す:

 

鄭国では連月の大干ばつがようやく終わったと思いきや、七日間連続の暴雨に見舞われた。瀧のように降り注ぐ雨に、済州城は浸水し始めた。王宮はもともと低地に建てられたため、水が流れ込んで床上浸水し、机も椅子も水に浮いた。

耿曙はレンガを積んで入り口をふさぎ、水流を防いだ。天を仰いでいつ雨が止むだろうかと考える。嵐は南方の大地を襲いはしたが、汁琮の侵略も足止めしてくれた。少なくともここ数日内に潯水三城に侵入してくる心配はない。だが雍国がいつまでも中原中腹に留まっているはずはなく、来るものはくるのだ。城内の公卿は荷物をまとめ、人心は怯え、逃げる準備を始めた。だが、どこに逃げられるというのだ?郢国か?代国か?

 

済州では投降について意見が出始めた。公卿、士大夫にとっては国君が誰であろうとかまわない。家族が安全であれば、国は捨ててもいい。問題はその価値があるかだ。

剣の修練を終えた耿曙が戻ってきて言った。「誰かが話しているのを聞いた。趙霊を汁琮に差し出す代わりに鄭人の自治権を取るとか。」

耿曙は王宮の庭園で練剣していた。雨が降りやまぬ中、庭園外にいた二人の士大夫が話をしていた。雨の音で誰にも聞かれないと思ったのだろう。だが耿曙の聴力は鋭い。全てはっきり聞こえていた。

 

姜恒は苦笑した。「じゃあ、今度逃げるときは道連れも多そうだね。」

姜恒は三日間、太子霊の政務上の難題を解決して過ごした。鄭国では雍国と同じような骨身を削るほどの変法はできない。削られる骨のあたりが反旗を翻しそうだからだ。できる範囲内での規則の更新くらいしかできないが、国内情勢をしばし安定させることはできそうだ。だが戦火が届けば、作り直した危なっかしい均衡など、あっという間に転覆するだろう。

その時、一人の娘が二人の神殿の外に楚々とやってきた。「姜先生。」娘が微笑んだ。

「わあ!あなたなの!」姜恒はすぐに笑顔を見せた。「流花!来てくれたんだ、早く入って!」

耿曙は流花に目をやって、姜恒に向かって眉を上げた。知り合いか?姜恒は古い友に会えて嬉しかったが、趙起がいないのが残念だった。(やっぱ男の方が……)

「以前私に長い間仕えてくれたんだ。」姜恒は彼女を長兄に紹介した。

耿曙:「?」

「違う、違う。」姜恒はすぐに耿曙の誤解に気づいて訂正した。「あなたが考えているような意味でじゃないよ。」

流花は微笑み「王陛下がお二人をお呼びです。」とだけ告げた。

 

姜恒はまた全然からの知らせが届いたのだろうと、耿曙と一緒に太子霊のもとを訪れた。

雨は少しずつ止みかけている。今日、正殿には太子霊と少年梁王の畢紹、それに七歳の少年と十四歳の少女がいた。畢紹は子供たちと話していた。姜恒と耿曙が来たのがわかると、太子霊は子供たちに言った。「早く姜大人と聶将軍にご挨拶なさい。」

「先生!」趙慧はずいぶん大きくなっていた。今年でもう十四歳だ。

「練武に励んでいますか?」

          (読み返して確認したけど、二人は初登場なんだよな。)

趙慧は照れ臭そうに笑い、立ち上がろうとしたが、太子霊が引き留めた。「ここで披露しなくていい。あれが誰かわからないか?」

趙慧は耿曙を見て、彼こそが、李宏を負かして「天下一」となった例の人だとわかった。姜恒より耿曙にずっと関心を持ったが、父親の手前、好き勝手はしなかった。

 

王族は礼儀を重んじる。趙慧は英気にあふれ、趙聡はまだ七歳だが、より聡明で鋭いように見えた。

姜恒は趙聡の手を牽いた。太子霊はため息をついた。「機会があれば、趙聡も君に弟子入りさせたかったが、残念ながらその時間はなさそうだ。」

「誰にでも機縁というものがあります。強いることはできません。立派に育っておいでですよ。」姜恒は言った。

「あの時あなたが言わなければ、慧児に武芸を習わせようとは考えもしなかったよ。慧児、これから、姜先生と聶先生はすごく忙しくなるから、二人の邪魔をしてはいけないよ。わかったかい?」

趙慧は言いたいことが山ほどありそうだったが、仕方なく答えた。「わかりました。」

「暇なときに聶海に何手か見てもらえると思います。」姜恒は笑顔で言った。

「さあさあ、お前たちはもう帰りなさい。」太子霊は子供たちに言った。

 

「汁琮が潯陽を落とした。」太子霊は扉を開けて山を眺めながら言った。「目下、潯水一帯に十三万の兵を集結させている。汁綾は三日前に崤関下に兵を据えた。龍将軍が南下して越地救援に向かうのを待って崤関に強攻をかけるだろう。」

四人はしばらく黙ったままだった。太子霊は考えた末、話を続けた。今日、車擂将軍が最後の四万の兵を率いて潯水三城に先回りし、汁琮を阻撃しに向かった。」

畢紹は十二歳とは言え、すでに国君らしい面持ちで言った。「雍人は潯東の民を殺さず、城内を大挙して捜索したとのこと。きっとあなたを探しているのですね。」

姜恒はうなずいた。どうやら二人が来る前に太子霊は畢紹と色々話し合ったらしい。姜恒を見る目はわずかに疑惑を帯びていたが、それについて何も尋ねようとはしなかった。

雨音が小さくなってきた。耿曙は廊下まで行って天を仰いだ。7日続いた大雨も止もうとしている。雨に阻まれなくなった汁琮はすぐにでも越地を占領するだろう。

ついに太子霊が問いた。「聶将軍、われらに勝算はどのくらいあるか?一分でもかまわぬ。」姜恒は耿曙を見た。耿曙はずっと口を開かなかった。

畢紹と太子霊は黙ったまま、視線を交わした。太子霊は言った。「あの時の姜先生の言葉を今でも覚えている。汁琮を殺すのは、天下の千万の子供たちが、お二人のような永遠の別れを遂げないためだと。」

「王陛下が覚えていらしたとは。」

「覚えている。忘れたことはない。」

畢紹が尋ねた。「もう一度汁琮を暗殺することは不可能でしょうか。」

「そんなことを言ったのか?」耿曙がふと尋ねた。姜恒は少し以外に思ったが、耿曙を見てうなずいた。耿曙の表情が少し和らいだ気がした。

太子霊が言った。「聶将軍、もし私が我が国の全ての兵をあなたの指揮下に預けたとしたら、われらに幾分かの勝算はあるか?」

耿曙は何も言わない。太子霊はつづけた。「五分の勝算があれば試してみたい。もちろん、全くダメなら、無駄死にすべきではない。民を守るために国を献げて投降するのが上策だろう。」

それを聞いて姜恒にはわかった。太子霊はもう覚悟を決めていたのだ。今や国内の論調は、彼を支えようという気はない。降りずに死ぬまで戦うより、亡国の君として投降すれば、民に塗炭の苦しみをもたらすよりましだと。」

「もし五分の勝算はあるが、あんたはより大きな代償を支払うことになると言ったら、やるか?」耿曙は振り返って尋ねた。

太子霊は笑顔で答えた。「私が支払わない代償があると思うか?言ってみてくれ。」

「あんたの首だ。」耿曙は答えた。

殿内は刹那静まり返った。姜恒でさえ、耿曙がそんなことを言うとは思いもしなかった。

 

「私のを持って行ってくれ。」しばらくして畢紹が沈黙を破った。「私はもともと畢家の人間じゃないんだ。春相と重将軍が畢氏の後継に充てるために……。」

「あんたの首は役に立たない。あんたは汁琮の落雁の仇じゃないからな。」耿曙は遠慮なくそう言った。

「いいだろう。」太子霊は微笑んだ。「汁琮を亡き者にするためなら、私は何だってする。」

姜恒「……。」彼をぬか喜びさせたいだけじゃないの?姜恒は耿曙を疑いの目で見たが、耿曙は自信たっぷりに姜恒にうなずいて見せた。「ちょっと……もっといい方法があるんじゃないの?」

「後悔しないようよく考えてくれ。」耿曙は太子霊に言った。

「後悔など勿論しない。何が必要だ?」太子霊は尋ねた。

「鄭国の兵力の全てを俺にくれ。それでも勝算は五割だ。よく考えてくれ。」

「考える必要などない。梁王、我が子たちをあなたに託したいがいいか?」

畢紹は頷いた。「二人を我が手足のごとく大事にします。」

 

姜恒は座り込んだ。耿曙は「兵力配置図を持ってこさせてくれ。ここで見てみたい。」といった。太子霊は軍簿を持ってこさせた。耿曙はそれを広げてくまなく目を通した。

鄭国軍の状況を読み解くためだ。他三人は何も言わずに見守る。耿曙が姜恒に目をやって言った。「恒児、お前たちはお前たちで話してくれ。俺にかまうな。」

姜恒は思った。あなたの発言に震撼したというのに、太子霊はちょっと考えただけで、こんな重要な決定をするし、雰囲気はまるで死を目前にした夕べのように沈み込んでいる。これでいったいまだ何を話せって?

だがさっき話した感じだと、太子霊は自分に会わせようとわざわざ子供たちを呼び戻したようだが、このままいけばまた彼らを送り出すことになるだろう。

 

「いくつにおなりですか?」姜恒は色々考えたが、気まずい雰囲気を解こうとして、畢紹に尋ねた。

「十二歳です。年が明ければ十三です。」小梁王が答えた。

太子霊は座って茶を飲みながら、軽い口調で言った。「梁王のお母上は鄭人なのだ。」

畢紹が言った。「母は王宮で侍女をしていました。」

姜恒はふと思い出して微笑んだ。「流花に会いましたよ。」

太子霊も笑顔で言った。「あの娘はずっと宮中にいてね、あなたたちと梁王を逃がすときに同行させようと考えていたのだよ。別の考えもあった。あなたはまだ妻を娶っていないだろう、姜恒?確かまだだったよな。」

「あ……。」姜恒が再び断ろうと考えていた時、耿曙が紙の山から顔を上げて尋ねた。

「恒児、あの娘が好きなのか?」

いったい何の話なの?なぜ急に自分の人生の一大事についての話になったのか?だがようやく雰囲気は活気づいた。

 

「姜太史はまもなく二十歳ですよね。まだ家督をついでいないのですか?安陽が落ちていなければ、私は来年成婚する予定だったのですよ。」畢紹が言った。

「あなたはまだ子供ではないか。まだ何も知らないだろう?成婚する年頃ではないのに。」太子霊が畢紹に言うと、畢紹は眉をひそめた。「知っていますよ!」

畢紹はこの時ようやく子供らしくなった。姜恒も笑い声をたてた。畢紹の婚約者がどこにいるか聞こうと思って、ふと安陽城が落ちたことを思い出した。万一城内で死んだのだとしたら、雍国の罪は増える。色々聞くのはやめておこうと思った。

 

「梁国は代国に婚約の意を提出したのだ。」太子霊が姜恒に説明した。「李霄には十四になる娘がいる。だが今の状況下では可能性は低いだろう。」

姜恒は頷いた。耿曙は一枚紙をめくってから再び言った。「恒児、お前がもし流花を好きなら、娶ったらいい。」

太子霊は言った。「いえいえ、姜先生にはもっといい縁談があるだろうが、二人は知り合って長いし、側仕えする者がいなかったようだから……。」

「出身など関係ない。」耿曙が答えた。(性別もな)

「兄さん!」

「嫌いなのか?」耿曙は鄭王と梁王の面前で姜恒に告白を迫る気か。困り果てた姜恒は言った。「済州城は落ちませんから、そんな必要ありません。」

太子霊は言った。「君が男性を好むなら、私の侍衛はもう多くはないが、皆粒ぞろいだぞ。趙起と同じように、後であなたに何人か選んでもらおう。好きに扱ってくれればいい。」

「王陛下!」姜恒はこれ以上無理だった。「みんなして一体全体どうして私の人生の一大事にそんなに関心を持つのですか?」

畢紹と太子霊が同時に大笑いした。姜恒は顔を真っ赤にした。古来より越人は男風の傾向があるという。越地が滅びて鄭、郢二国に併合されたとき、男同士の契りも広まった。鄭王は龍于を寵愛した。上の世代の行いは下の世代に影響する。太子霊は既婚者ではあるが、幼少時から、龍于に躾けられ、龍于を母のごとく扱っていた。何も不思議はない。だが姜恒はこの手の話になると、面の皮が薄すぎて、太子霊のからかいに耐えることができない。

畢紹が尋ねた。「姜大人は越人なのですか?」

「二人の父親は耿淵だ。お忘れか?」太子霊は畢紹に言った。

畢紹は頷いてそれ以上聞かなかった。耿淵の名が出ると、誰もが自然と興をそがれる。

 

 

ーーー

第169章 七夕祭り:

 

姜恒は少し心配そうに耿曙の顔色を窺った。耿曙の計画というのは、鄭、雍二国の兵力をあらかじめ知ったうえで成り立つ。計画を完璧なものにするためには緻密な分析が必要だ。生死を分かつ一戦だ。ほんの少しの油断も許されない。

畢紹が再び話し始めた。「二年前、鄭王はよくあなたの話をしていました。」

姜恒は淡々と言った。「あまりいい話ではないでしょうね。」

「どうしてわかった?」と太子霊は冗談を言った。

畢紹は言う。「中原に伝わる噂では、姜大人を得れば、天下を得る、だそうです。」

姜恒は苦笑いした。「それはつまり、私が金璽を持っているからですね。」

金璽は姫珣が姜恒に託した。元を正せば洛陽が大火に滅したのは、何度も言うように諸侯が天子を殺そうとしたからだ。だが古い話を蒸し返しても面白くはない。

姜恒は頭が痛む思いだった。どんな話をしようと底にはいつも暗流が漂い、嫌な気分だった。だが、畢紹は姜恒に興味を持ったようでまた尋ねた。「あなたは以前海閣で学んだのですか?」

姜恒は頷いた。ふとまだ現れたことのない最後の刺客のことを思い出した。確かに孫英ではなかった。一体誰なのだろう?だが畢紹が再び尋ねたことでその疑問は頭から消えた。

畢紹:「海閣についてすごく興味があるのです。」

太子霊が言った。「龍于将軍がずっと前に鬼先生に会ったことがあって、何手か指南されたことが今日の武芸につながったと言っている。」

「それならそこで何年も修行したら天下一になれるのでは?」と畢紹。

「海閣の目的は、理想というべきかな、武芸にはないのです。天の外に天あり、人の外に人あり。海閣の武功が優れているからといって『天下一』とは無関係な話です。」

それは確かな話だ。耿曙は海閣で学んだことはないが、今や、己の力で、武道の頂点の向こう側を垣間見た。だが、古来より、武術についての絶対的権威というものはない。

「それなら、目的は何なのですか?」畢紹が尋ねた。

「大争の世を終わらせ、天下に再び暫しの平和を取り戻すこと。だけど、天下は長らく合わされば必ず分かち、長らく分かたれれば、必ず合わさる。誰にも保証はできません。平和な時が何千年も続かなくても、四、五百年続けば、素晴らしいのではないでしょうか。」

 

畢紹は頷いた。姜恒はふと思い出した。山を下りる前に持っていた大きな志の多くは消えてしまったかもしれない。描いた理想は完全に消えたわけではないが、現実は自分の想像と大きく違いすぎていた。もし汁琮が完全勝利を収めれば、それはそれで別の道からの終結となるのかもしれない。自分の当初の計画とは天地の差があるが、神州の統一達成には違いない。

 

太子霊が畢紹に言った。「姜先生が初めて済州に来た時の話は全て覚えているよ。」

姜恒は笑った。「身の程知らずがしゃべったことなど、今となっては全て忘れ去りました。」

「俺と再会したせいだ。俺のせいだな。」耿曙が言った。彼は今兵簿を重ね合わせ、筆を持ち、鄭軍の器を計算し始めていた。

「そんなことないよ。」姜恒は笑った。

「そうだ。俺のせいだ。姜恒が雍国に身を投じたのは。それが災いの元となった。あの時俺がいなければ、あんたは今頃天子だった、趙霊。」

「計算を続けて。もう言わないで。」

だが耿曙の話は事実だ。あの頃彼がいなければ、姜恒は鄭国に留まっていただろう。当時の鄭国は雍のような鉄の軍隊とまではいかずとも、可能性はあった。三年の時をかけて、国内の障碍を一掃し、梁国と連合を組めば中原の覇となっていただろう。

「あなたがいなければ、私はとうに玉壁関で死んでいたよ。」(いや、師父が助けただろう)

「運命のいたずらだな。」太子霊が最後に言った。「全ては運命だった。君たちの命数でもあり、中原の命数でもあった。それだけだ。」

 

姜恒は頷いたが、嘆息せずにいられなかった。「私はもともと天下の戦いを止める目標を持った一介の文人で、実際には人畜無害だったはずなのに、一体どうして最後には五国の人たちがみんなして殺そうとする悪漢になってしまったのだろうな?」

畢紹が言った。「その道理は私がわかります。古来より大抵そういうものなのです。咎も誉もないのは凡庸な者だけ。肩にそんな責任を負ったからには、自分ではどうにもならないのです。」

姜恒はまさか十二歳の子供に慰められるとは思わなかったが、頷くことにした。耿曙は全ての文書や軍法を見終えて、腕を組んでしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。

「初歩的な戦術だが、罠が必要だ。」それは姜恒に向けた言葉だった。耿曙は顔を向けて姜恒を見て言った。「汁琮を誘い込んで絶好の機会を得たい。」

「つまり前回同様に、最後はやはり彼を暗殺するのかな。」姜恒は苦笑いせざるを得ない。「全部ではない。お前は俺を単独で汁琮と会わせる機会を作れるか?」

それを聞いて姜恒は耿曙の決意を知った。汁琮を殺さない限り休むことはできない。自らの手で義父を殺せばその罪は天下に轟くだろうが、耿曙は気にしないだろう。

心を決めた耿曙は自分より揺るぎないのだ。

姜恒は太子霊を見てしばらく考え、再び耿曙を見て言った。「もし、王陛下が私を殺したと言って、あなたが鄭王を殺して、私の仇を打つためだと言って、鄭王の首を持って雍国に再び身を投じたら、汁琮は信じるかな?」 

「私がなぜあなたを殺す?理屈に合わないな。」太子霊が言った。

「私たちは元々敵同士ですから。」

 

畢紹は二人が何でもないことのように、相手を殺すことについて話し合っているのを見て、鳥肌が立ってきた。王は自分の命などみじんにも気にかけていないのだ。

「まあそうだな。汁琮は私の首を見たらさすがに疑うことはないだろう……惜しむらくはこの目で汁琮の死を見られないことだ。」

「だめだ。それだと俺はお前のそばを離れなくてはならない。」

「私はしばらく隠れていいればいい。あなたが逃げられればの話だよ。安全にそこを離れられる?」再三確認せざるを得ない。今回暗殺任務を請け負うのは耿曙だからだ。

「もう一度よく考えてみよう。」耿曙はかなり慎重だった。

畢紹が言った。「みんなで一緒に考えてみましょう。聶将軍、ここには四人いますから。」

 

こうして皆で話し合うことになったが、最初の部分を聞いただけで姜恒は耿曙の神経はず太すぎると思った。背中が冷や汗でいっぱいになった。太子霊と畢紹は目を瞑り、黙り込んでいた。

「こんなのダメダメ。」姜恒はあまりに危険すぎると思った。耿曙は太子霊の首を掲げて、何万もの兵のいる中で汁琮を殺すというのだ!武芸が優れているとはいえ、生身の人間だ。乱射されればまもなくその場で死ぬことになる!

「汁琮を殺せば、二人は雍国の仇となる。誰が事態を収拾する?」太子霊が尋ねた。

「今と何か違いがあるか?」

畢紹が言った。「淼……聶将軍がすぐ国に戻ればいいと思いました。そうすれば、戦争を止められる。」太子霊も畢紹も同じ考え方をした。雍での耿曙の名声は高い。その耿曙を汁琮は裏切り、英雄の礼を以て汁淼を葬った。汁琮が口無しとなり、彼の死後に耿曙が国に大軍を引き継ぎ、朝廷に影響を与えれば、侵略の歩みを止められると。さもなくば、汁琮の死後、雍軍は再び攻めてくるだろう。

 

姜恒は殿内を歩き回ってしばらくしてから言った。「もし汁琮が死んだら、あなたが雍軍の統帥になるの?」

「さあな。お前は俺にどうしてほしい?」耿曙は淡々と答えた。

二人は視線を交わした。最初の問題に戻ってしまった。だが太子霊と畢紹に知らせるつもりはない。「少し計画を修正したら、こちらにも機会があるかもしれない。」

耿曙は姜恒に言うようにと合図し、姜恒は更に危険な計画を話した。

それを聞いた太子霊は「わかった。引き受けよう。」と言った。畢紹は太子霊を見た。太子霊は頷いた。心配しなくていいと示すためだ。「あなたの言った方法にしよう。」

 

 

午後になると、知らぬ間に雨がやんでいた。

殿内は静まり返っていた。最後に太子霊が言った。「そういうわけで、死ぬ前の日々をしばし楽しませてもらおう。」

「何でも好きなように過ごしてください。時間はあまりありません。朝廷のことでもう心を悩ませませんように。」

「鄭国と梁国のことをあなたたちに頼めるか?姜恒、私を失望させないよな?」太子霊は真剣に言った。

「力を尽くします。かつて天子も私に天下を託しましたが力及ばず、慙愧に耐えません。」姜恒はそっと言った。

「あなたは絶えず努力をしたのでしょう。だったら十分では?」畢紹が言った。

太子霊は笑った。「私は初めて自分のために楽しく生きられる。これまで長い間、本当はもううんざりだったのだ。」

姜恒:「……。」

汁琮が軍を率いて来るまで、長くて三か月、早ければ二十日だろう。太子霊がこうして国のために犠牲になる決心をしたからには、自分は鄭国の将来を含め、後のことについてしっかり手配しなければ。

「今日は七夕だ。お二人は城内で楽しんできてくれ。」

 

午後になり、耿曙は座ったままだったが、そこへ趙慧が興味津々にやってきた。

「私の徒弟だよ。」姜恒は耿曙に紹介した。

「それでは稽古をつけようか。」耿曙はゆっくりと立ち上がった。ちょうどいい運動になりそうだ。「趙慧だったな?俺に木の枝を一本持ってきてくれ。」

趙慧は興奮しながらも警戒していた。耿曙はあまりに有名だ。結果は決まっている。耿曙の近くに近寄ることもできない。近寄ろうとすれば、のど元に枝を突き付けられる。

「打ちこめない。五年もがんばって修練したのに一手も出せないなんて!もしあなたが剣を持っていたらとっくに死んでいたわ!」

姜恒は笑った。「私は何て言ったっけ?武を習うのは争いに勝ち人を殺すためだっけ?」趙慧は何も言わない。どうやら少機嫌を損ねたようだ。

だが耿曙は少し疑問に思ったようで尋ねた。「君の功夫は誰に習ったんだ?」

趙慧は姜恒を見てから耿曙を見て、しばらくしてから答えた。「龍将軍です。」

「龍于だって?そうは見えなかった。」

「そう見えないからって、役に立たないっていうの?」趙慧は反発した。

「そうは見えなかったが、彼の武功はまあまあいい。」

姜恒は少し驚いた。耿曙の口から「まあまあいい」という言葉が出るとはかなりの高評価だ。

「一つ拳法を授けてやる。きっと学びたがるはずだ。」

「あなたが教えてくれるものなら何でも学びたいわ。」そこで趙慧はがっかりした顔をした。「でも明日になったらもう越地に行かなくては。」

「書いておいてやる。」耿曙は部屋に戻ると、机に向かった。姜恒は筆を渡した。耿曙は硯で墨をすると、武功心得を書き写した。

「まだ覚えていたの?」姜恒はそっと尋ねた。

耿曙は頷いた。趙慧は好奇心に満ちた顔をして尋ねた。「これは何ですか?」

「天月剣心得だ。君のその砕玉心法は俺には授けられていない。教えてくれる人がいなかったからだ。心得通りに力を尽くして修練すればいい。砕玉心法は習わない方がいい。拳法だけでは絶世の使い手にはならないし、君は刺客に向いていない。遊びとして学べばいい。」

 

趙慧は大喜びで剣心得を受け取った。宝物を受け取ったかのように、二人に向かって感謝した。だが姜恒にはよくわかった。耿曙は自分たちの未来の命運がどうであれ、この武芸が受け継がれず消えてしまわないように、託す相手を探していたのだ。黒剣と山河剣式については、前者は耿家が所有してきたものなので、彼の自由にできる。伝承が尽きたとしてもまあ仕方がないかもしれない。後者は彼独自の剣なので、なおのことだ。

 

「弟を守ってやるのだよ。縁あらば、いつかまた。」姜恒は言った。

趙慧はもう十四歳、彼らが直面している状況をある程度わかっている。目を潤ませて二人にもう一度別れを告げた。別れた後で、姜恒はこの生涯で唯一の徒弟のことを考え、とても残念に思った。あの子に学問を授けたこともなければ、武芸を教えたこともない。毎回、会っていた時間さえ短く、身に着けた教養を伝える相手はいなかった。

「全ては消えゆくものだ。あまり気にするな。」耿曙が言った。

「それもそうだね。」姜恒は頷くと言った。「さ、行こう。お祭りを見に行こうよ。」

 

何日も続いた大雨の後で、済州城もようやく涼しくなった。黄昏の空は火のようだ。耿曙と姜恒は越服に着替えて王宮を後にした。

「公子方はどちらも越人なのですね。」道案内をする流花が笑顔で言った。

「うん。」耿曙は年初に郢宮にいた時のことを思い出した。熊耒が二人に越を復国させる意思があるか探りを入れてきた。まさかその後、姜恒の身分の方が変わってしまうとは。

流花がいるので、姜恒は戦争のことについて話せなくなり、いっそ今日はしっかり休むことに決めた。「前に済州に来た時には楽しく出歩くこともなかったんだよ。」

「ここが好きか?」

七夕の夜の天の川は星が溢れんばかりだ。流花は二人を市まで連れて行き、姜恒の後ろに静かに身を控えた。城内は、いつまた雨が降るかという緊張感はあったものの、連日の大雨の後で、ようやく外に出る機会を得られた人々で、町は活気づいていた。

町中に七夕の星灯が掲げられていた。星灯は竹ひごと紙を糊付けして、大小さまざまな球形を作り、一つ一つに灯をともしたもので、通りや桟橋で小さな光がそよ風に揺られていた。

「どこだって好きだよ。」姜恒は遠くを望んでから、再び耿曙を見て微笑んだ。「あなたと一緒なら、どこにいても楽しいよ。」耿曙は橋の欄干に腰かけて水中を眺めた。流花はうっすらと笑みを浮かべて二人を見ていた。(腐女子?)今日の彼女はとても美しく装っている。

太子霊は彼女を越女の服装に着替えさせ、姜恒の近くに侍り案内役をさせた。姜恒は本当は耿曙と二人でいたかったが、流花が来たからには一緒に遊び歩かねば、一人きりで宮に返せば寂しい思いをさせてしまうだろう。

 

男二人に女一人。ちょっと変な感じだが、姜恒は静かすぎれば話題を探し、冷たいあしらいにならないように気を配った。「君はいつ頃済州に来たの?ここで生まれたの?」

「もう長いです。物心ついたころは済州城にいて、8歳で宮仕えを始めました。」

姜恒は耿曙に言った。「流花は琴を弾くのがすごくうまいんだよ。」

「うん。」耿曙は上の空で答えたが、視線は橋の下の水辺にいる少年に向いていた。少年は水辺をうろついて、誰かを待っているようだった。

他人がいると耿曙はほとんど話さない。「兄はいつもこうなんだ。話すのが好きじゃなくて。」

「俺は話すのが嫌いじゃないぞ。お前には毎日話しているだろう。あれじゃ足りないか?」

流花は笑いながら言った。「聶将軍はただ人見知りなだけなんですね。」

「何を見ているの?」姜恒は流花とばかり話していて耿曙がつまらなくなったのかと思い、手を伸ばして連れ戻そうとしたが、耿曙は逆に姜恒の手を引っ張って欄干に座らせた。

「あの子を見ている。」耿曙が言った。

「早まったことをしようとしているの?」姜恒も水辺でうろついている少年を見た。何やら焦りと不安を感じているようだ。

「いや、人を待っているんだ。」耿曙が言った。ぱっと見でも少年が越服を着ているのがわかった。なぜか越人に対してはいつも親しみを感じる。三人は橋の下の様子に注意をひかれた。しばらくすると別の人影が現れた。大人の男性だ。

「本当だ。誰かを待っていたんだね。どうしてわかったの?」

「人を待っている時はあんな感じだからだ。少し不安そうで。」

それから橋の下で少年を見つけた男性は、少年を腕に抱きしめて口づけをした。

姜恒:「……。」

姜恒は急におかしくなってそれ以上見なかったが、耿曙が「あれは孫英じゃないか?」と言った。「え?」姜恒は見直した。本当だ、孫英だ!

孫英は少年の手を牽いて、橋の下から上がってくると、口笛を吹いた。

「姜大人!美人連れでお楽しみのようですな!」

姜恒:「………………」

 

(げーーー。こいつ虱ついてんじゃなかったか?38章で書かれていた虱男はだらしない服装の男=孫英とは別か?でも汚そうな奴だよな。毎日風呂入って服装と髪型だけだらしないってわけでもないだろうに。)

 

 

ーーー

170章 王子と船に乗るなんて:

 

「孫先生はご冗談がお好きなんです。やっていられません。公子はお気にされませんよう。」

流花が苦笑いしながら言った。 姜恒は孫英の言った意味はよくわからなかったが、それよりもこの呼称を聞いて笑い出した。「もうずいぶん前から『公子』なんて呼ばれていないよ。」

耿曙は傍らで二人の会話を静かに聞きながら、水に映った星空をじっと見ていた。

「耿家は越地の公候ですもの。公子でなくて何とお呼びするのですか?」流花が尋ねた。

 

姜恒は悲しそうに微笑んだ。「公子なんてものじゃない。ただのみなしごだったのに。」

耿曙が突然振り返り「ちょっと市を見てくる。」と言った。

姜恒は流花に言った。「行こうか。」

「お前たちは橋の上で待っていろ。市は人が多い。俺もすぐ戻る。」

耿曙は刺客が現れるのを恐れているのだろうと思い、姜恒はそれ以上言い張らず、耿曙を見ていた。耿曙は済水橋を下って市に歩いていくと、頭上に星灯が揺れる中、小さな店先で足を止めていた。

 

店には装飾品がたくさん置かれ、恋人たちがあれこれ選んでいた。耿曙は下を向いて目の前の装飾品を見ては、済水橋の上に目をやり、姜恒と流花がおしゃべりしたり、笑ったりする姿を眺めた。再び孫英が近くまで来た。少年を連れ、耿曙に向かって口笛を吹いた。

耿曙ははっとして孫英に目をやった。孫英は市の一角を見るよう促した。暗がりから後ろを窺うような人影が出てきた。孫英は眉を上げ、背中を指さした。剣を持ってこないなんてのんきすぎないか?という意味だ。耿曙は何も答えず、金櫛のついた翡翠の簪を選んで買うと、身を翻して橋の上に向かって行った。 

 

「恒児。」耿曙は橋の横に立って姜恒を手招きした。その時、姜恒は流花と過ごした半年間のできごとや、趙起がどうして記憶を失ったかについて話していたが、耿曙に中断されてそっちに向かって行った。耿曙は姜恒に簪を渡し、流花を指した。「これをやる、恒児、彼女に贈れ。」

姜恒:「!!!」

姜恒はびっくりして、振り返って流花を見てから、再び耿曙を見た。

ふと喪失感のようなものを覚えたが、何とか笑って見せた。

「彼女が好きになったの?私はてっきりあなたは……。」

「違う。お前が彼女に贈れと言ったんだ。」

「ああ?」姜恒は一瞬呆けてしまった。「な、何で?」

「行くんだ。お前はもう成婚する年齢だ。今まで娘に心動かされたことはないのか?」

「いやいやいや、」姜恒は振り返って流花を一瞥し、すぐに耿曙に言った。「何を言っているの?兄さん!からかわないでよ。」

「からかってなどいない。お前は彼女と一緒にいると楽しそうだ。早くいけ。まだわからないのか?」姜恒はばかばかしいと思って玉簪を耿曙の手の中に戻そうとしたが、耿曙は受け取らず、真剣に姜恒の目を見つめ、堅持するように言った。「恒児。」

 

姜恒は耿曙と視線を交わし、まだ何か言い足りないのだと分かった。笑顔を見せて手を振ると、橋の上まで戻って流花と二言三言話した。流花は理解したというように頷き、姜恒と二人で耿曙の方を見た。

     美きまなこ 麗しきかな  巧き笑み あざやかなるかな

 

流花は橋の上を離れ、一人で王宮へ帰って行った。姜恒は玉簪をしまい込むと耿曙のそばに来てニヤリと笑った。「いくら払ったの?」

「さあな。何で行ってしまったんだ?」

「急に用事を思い出して王宮に帰ったんだよ。」

「追いかけろ。」耿曙は言い張った。

姜恒は耿曙の顔色を窺った。複雑な気持ちだった。

「あなたでも贈り物を買うことを知っていたとはね。」姜恒は人を酔わせるような笑顔を見せた。「今度女装するときにつけるのにいいな。」

耿曙:「……。」

 

姜恒は欄干に背をもたれて天の川を仰いだ。耿曙は不思議そうに尋ねた。「何を見ている?」

「お星さま。子供のころ、夏の夜にはよく屋根の上でお星さまを見ていたよね。」

「お前が彼女に再会して嬉しそうだったから、俺は思ったんだ。鄭宮にいた時に、もう……もうきっと……。」そう言って耿曙は両手で拳を作り、親指である動作をした。

「そんなバカな!」姜恒は大笑いした。「誰かを好きになったらあなたに言っていたよ。」

耿曙は頷いた。「まあいい。」

姜恒は耿曙を見て再び言った。「でもあなたの言う通りかも。兄さん、あなただって……。」

「聞いてくれ、恒児。」耿曙は顔を向けて、姜恒の話を遮った。後半の言葉を言わせないために。「心の中に、ずっと前から言いたいと思っていたことがあるんだ。」

「どんなこと?」姜恒は尋ねた。

耿曙は何も言わず、数息後、姜恒の腕をつかみ、荒々しく胸の中に引き入れた。

あまりに急な動作で姜恒がまだぼんやりしていると、耿曙が言った。「気をつけろ!刺客だ!」

 

瞬間、黒い影が橋の下から転がり出てきた。姜恒は耿曙の腕に抱かれ、横向きに黒影を回避した。黒影は痩せていて、猟師に扮していた。短剣をかざして姜恒に向かってくる。耿曙は仰向けに体をそらした。姜恒の髪が上に向かってなびく。髪が三筋切れ落ちた。

耿曙は黒剣を持ってきていなかった。急いで手を下そうとはせず、橋の欄干の前に転がり出ると、猟師を避けるため、ザブン!と音を立てて水中に飛び込んだ。

市にいた人たちが水音を聞いて何があったのかと駆けつけてきた。「誰かが心中したぞーーーー!」

 

「兄さん!」姜恒はすぐに水の力に押されて水面に出られなくなったが、耿曙の動きは早く、水に落ちるとすぐ、姜恒を水面まで引っ張り上げ、息を吸って再び水中に潜ると、横向きに彼の口に息を渡した。

 

二人は川の中を潜水して泳いだ。灯が映って美しい。猟師は短剣をしまい、川岸まで来ると、弓矢を出して、水中に向けた。

済水の下流には小舟がたくさん浮かんでいた。漁のための船だ。猟師は水音を聞いて、船着き板から船の上に飛び乗った。そして船から船へと橋代わりにして二人の後を追った。

 

姜恒は船に這い上がった。全身ずぶぬれだ。耿曙は声を出さないようにと合図して船の上に留まった。「ここで待っていろ。」耿曙は姜恒の耳元でごく小さな声で囁いた。

姜恒は頷いた。夏の夜だ。水に落ち、ずぶぬれになったところで寒くはない。耿曙が夜の闇の中に潜入していく姿を見守った。

猟師の耳がぴくりと動いた。ゆらゆら浮いていいる小舟の橋に沿って、音もなくゆっくりと歩いていく。

次の瞬間、背後に音もなく掌が近づいてきた。ゆっくり、とてもゆっくりと。ほんのわずかな風を伴って。背中に掌が触れ、猟師はまずいと気づき、身をかわそうとした。「待て。」

敵の背中に当てた掌の動きは柔らかだったが、猟師は視界が真っ暗になり、鮮血を吐いた。五臓六腑が震えとともに深く傷つき、一歩前に進み、何とか振り返って短剣を出して、耿曙を死の道連れにしようとした。しかし耿曙は左手で振り払い、猟師の頭頂に一撃加えた。

この第二打は剛猛覇道で、相手の頭蓋骨は粉々になった。猟師は死を前に言葉を発する間もなく身を崩し、音を立てて水に落ちていった。

水音を聞いて、姜恒は小舟の上に上がった。耿曙の風に臨む玉樹の如き長身が、満点の星明かりの下、少し腕を動かしながら、ゆっくりと近寄ってきた。

「もう大丈夫だ。」耿曙が身にまとっていた越人の武衣は濡れて体に貼りつき、引き締まった男性の胸や腹、背筋の輪郭を現わしていた。

「前回の殺し屋だった?」

「うん。残るはあと一人だ。今夜はもう来ないだろう。王宮に帰るか?」

耿曙から見れば、敵が突然現れ、死んだことは一羽の鳥が飛んで行ったのと大差ないことのようだ。「大丈夫ならよかった。」姜恒は船に座って服の水を絞った。それから耿曙に笑いかけ、少し残念そうに言った。「それじゃあ……帰ろうか。」

耿曙は星明かりの下、姜恒の顔を見て、考えが浮かんだ。「帰りたくないのか?じゃあ、このまま舟遊びに行くか?」

「そうだね。」姜恒はすぐに頷いた。

 

すぐに彼は縄をほどいて、櫂を持った。岸辺に停まっていた小舟は二人を乗せて、再び済州城の中へと動き出した。

耿曙は船尾に立ち、姜恒は船頭に座った。暗闇で見る人もいない。姜恒は外衣を脱いで横に置き、単衣と袴姿になった。そして両岸にきらめく灯火を眺めた。耿曙は一度船を停めて、岸辺で酒と食べ物を買い、船まで持ってくると、ゆっくり河を下った。

二人が通ってきた済州の教坊や、酒場の明かりが見え、夢の中にいるようだ。

「飲むか?」耿曙も白い単衣姿で船上に座り、手に持った酒を姜恒に振って見せた。

「私にはあまり飲ませたくないんじゃなかった?」姜恒は笑顔で、「あなたについであげる。」と言った。「俺がやる。」耿曙は酒壷を持って二杯つぎ、一杯を姜恒に渡した。「乾杯だ。弟弟。」

耿曙が「弟弟」と呼ぶのをずいぶん聞いていなかった。ずっと「恒児」と呼んできたのに、そう呼ばれると変な感じだ。

姜恒は笑顔で飲み干し、「桃花醸、越酒だね。」と言った。

 

「さっき言ったように、」耿曙は一杯飲み干し、もう一杯ついだ。そして真剣な顔で言った。「俺の心の中に、ずっとずっと前から言いたかったことがあるんだ。」

「どんなこと?」姜恒は不思議そうに尋ねた。「いったいどんなことなの?」

さっきの橋の上での話は、刺客とやりあったことですっかり忘れていた。「さっき橋の上で言いたかったのは………まあいい。飲もう。」

「話してよ。そんなに深刻にどんなことなの?」

「いいんだ。」耿曙はため息をついて言った。「飲もう、ほら、恒児。俺たちもうずいぶん一緒に酒を飲んでなかったな。俺は今でもお前が酔っ払った時のことを覚えているぞ。雪の中で歌っていた。覚えているか?」耿曙は二杯目をついできた。

「どんな歌?」姜恒は茫然として尋ねた。

「どうして何もかも忘れてしまうんだ?」耿曙は忍びない思いだった。

「ああ!『天地と我とは同根、万物と私とは一体——』」あの時耿曙は遠く城壁の上にいた。聞いていたのか。

「ちょっと待て。」そういうと、耿曙は船から飛び降り、岸辺の上の小楼に走って行った。楼内からは琴の音が小さく聞こえてきていた。すぐに中から叫び声が聞こえ、耿曙が手に琴を持って、ぐるぐる振り回しながらまた船に飛び乗ってきた。

「あーあ。」姜恒は泣くべきか笑うべきか迷った。「人の物を取ってきちゃったの?」

「金を置いてきたさ。数日後に俺はこの城のために戦うんだぞ。民を守るためだ。彼らから琴を買い取るくらい何だ。」

姜恒は時々思うことがある。耿曙のこの野放図でざっくりし過ぎた性格は何ともならないと。こんなに月日がたっても、彼の中には未だにやんちゃ坊主な部分が残っていて、ちっとも変っていない。

 

「歌ってくれ。」耿曙は琴を膝の上に置き、姜恒の双眸をじっと見つめた。「俺がお前に琴を奏でてやる。俺は耿淵の息子だ。お前が剣を使える程度には俺も琴を弾ける。何でも弾くから歌え。」

姜恒は膝を抱え、笑顔を輝かせた。「桃の夭夭,灼灼たるその華……。」

「この子ここに嫁ぐ、その室家に宜しからん……。」

耿曙は弦をつま弾いた。小舟はゆっくりと星の河を進む。辺りには色とりどりの夢が広がる。済水の上で琴の音が響くと、無数の水珠が水面に落ちて細かな軌跡を作り出し、河に映る満天の星々と混ざり合うようだった。

「兼葭(けんか)蒼蒼たり 白露霜と為る 噂のあの人 水の一方に在り……」

 

耿曙が琴を弾くと、水に映った天の川が動き出すかのようだ。小舟が進むごとに千万の柔らかな光の軌に取り込まれていく。

 

「星河如覆,山川凝露。伴此良人,有斯柏木……。」

耿曙は琴を見ず、姜恒の横顔を見つめていた。左手で弦を抑え、右手で弾く。ぱらぱらと琴が鳴る度、二人の傍から水に落ちて次々とさざ波がたつ。

「あとは何を歌えばいい?教えて?」姜恒の瞳に両岸の灯が映る。この船にいると、世の中から隔絶され、二人だけになったようだ。

「俺がお前に歌ってやりたい。」

「じゃあ私が弾く番だね。」姜恒は琴を取ろうとしたが、耿曙は「座っていろ。」と言った。

 

琴の音がやみ、すべては静寂の中にあった。そして再び、ぱらんと震えるような音が響いた。

「何というゆうべ 船を曳いて流れの中に」耿曙は小声でそっと歌い出した。 

「何という日 王子と船に乗るなんて」

 

二人で小舟に座り、琴を奏で歌いながら、耿曙はずっと薄明りを受けた姜恒の秀でた顔立ちと美しい目元を見つめていた。

「恥ずかしがってもいいでしょう とがめないで下さいね」姜恒は笑顔で声を合わせた。

「心は千々に乱れています 王子にわかってほしいのです」耿曙は姜恒に訴えかけるように唇を動かした。その瞬間、姜恒は耿曙の表情に何か感じるものがあった。

「山には木があり 木には枝がある」耿曙は声を低めた。「山には木があり……木には枝が……。」琴の音が停まり、辺りは一片の静寂となった。

耿曙は琴を置いた。姜恒は何も言わずに、耿曙の視線を避け、水に映った満天の星々を見た。

耿曙は三杯目の酒をつぎ、姜恒に手渡した。「さあ、飲め。これがさっき橋の上で俺がお前に言いたかったことだ。」

姜恒は突然我を失った。すぐに意味が分かったが、それはあの日、自分の正体を知った時以上に突然の衝撃だった。

「一度だけ言う、恒児。」耿曙はもう自分の心から逃げるのをやめようと決めた。杯を持ち、真剣そのものの表情だ。「恒児、俺の恒児。」

「兄さん、」姜恒は慌てた。「言わないでいい。私は……わかったから……。」

「言わせてくれ、一度だけ。」耿曙が重ねて言った。

顔を背けるわけにもいかず、姜恒は耿曙の双眸をじっと見た。耿曙は少し悲しそうに笑った。

「答えなくていい。何も言うな。お前がすぐに受け入れられないのはわかっているし、これから俺のことをどう扱おうとかまわない。兄でいてほしいなら、俺はずっと弟のように待する。今まで通りのようにするさ。俺の心にはお前ひとりだけ、ずっとそうだったし、今もそうだ。これからもずっとそのままだ。

「もしお前が……俺の気持ちに応えてくれるなら、俺はお前のために何でもできる。お前のためなら喜んで死ねる。愛している、恒児。欲張り過ぎなのはわかっている。こんなに多くを持っているのに、それでも足りないんだ。もっと多くが欲しい。」

 

姜恒は初め、針の筵に座るような気持だった。今までそんな風に考えたことがなかったからだ。だが耿曙の熱く甘やかな眼差しを見た時、受け入れがたいとは微塵も思わなかった。

「ゆっくり考えてくれ。どれだけ長くかかっても構わない。俺は永遠にお前の傍にいる。兄を好きだと思わなければ、絶対に無理するな。お前は自分の家を持ち、妻子を持つべきだ。お前が幸せで、自由自在に生きられれば、俺は何でも大丈夫だ……うん。俺は何でもできる。待つことも、いつでも手を離すこともできる。」

 

「恒児、さあ、これを飲み干せ。」耿曙は一息に飲み干し、姜恒は酒を手に持ち、耿曙を見つめて、ずっと何も言えなかった。

 

小舟は満天の星影の中、済水を漂った。

何という夕べ 舟を曳いて流れの中に

何という日か 王子と船に乗るなんて

山には林があり 水には華がある

山の川が夜露を集め、天の河が落ちてきて 人の世界を煌めかせる。 

「私は……。」姜恒は心乱れ、胸が狂ったように高鳴った。「考えさせて、兄さん。」

耿曙は重荷を下ろした気分で頷いた。もう自分がこれ以上言う必要はないとわかっていた。

 

――巻六・霓裳中序・完――