非天夜翔 相見歓 日本語訳 第87章ー第90章

《巻三 東風還又》

 

阿房舞殿に 羅紗袖揺れる 

金谷名園 玉楼起こり 

隋堤古柳に 龍舟繋ぐ   (それぞれの時代の栄華)

 

振り返るなどできようか

東風は今も吹くけれど

野の花の咲く晩春の時

美人烏江に身を投げる

 

戦火赤壁を焼き尽くし

玉門関に将軍は死す

秦漢の烽火に心傷つき

民は苦しみ 文人憂う

 

——元代·張可久《売花声·懐古》

(東風は革命の勢いを暗示する言葉のようです。和歌での春の季語『こち』とは無関係。)

 

第87章 告白:

 

七月七日、上梓之盟が締結されて十三年後、陳、西凉の間で再び紛争が起きた。

七夕の夜に起きたこの戦いは、夜空に走る稲妻の如く、一日もたたないうちに集結した。

それどころか、開戦したという情報が遼、元、陳、それぞれの朝廷に届く前に、党項軍は何の功もなく引き返して行ったのだった。

 

七月七日、潼関の戦いで、秦岭の伏兵、及び入城した西凉軍の合計死者数は一万七千人、捕虜は一万三千人となった。翌日、西凉太師の赫連達は急報を出し、偽装馬賊と正規軍並びに騎兵隊を呼び戻し、残った兵を集めて三十里後退した。

そして、その同日の夜、潼関主将だった辺令白は病が治らず、息を引き取った。

 

翌日早朝、新任の欽差官が潼関に到着し、軍を再編成して、辺令白の兵権を引き継いだ。

「出発前に牧相が私に仰ったのです。あなたは頭脳明晰で、理路整然と物事を行い、各方面に配慮ができる人だと。今こうして一見して、なるほどその通りだと、ため息が出る程感心しておりますよ。」

鄭隶は還暦を過ぎた年頃で、真っ白な髭を蓄えている。段岭の祖父の御代にはこの人は南陳軍を率いて長城の外に出兵したこともあった。彼に潼関の鎮守を任せるのは最高の選択と言えよう。

段岭は慌てて言い返した。「とんでもない。費先生と武独がいてくれたおかげです。」

段岭は鄭隶の前で本心から謙遜した。今回潼関の危機回避は確かに自分の指揮下で成し遂げたが、任務執行の過程では漏れが多く、二度も命を失いかけた。もし武独がいなければ、自分だけでは何もできなかっただろう。

鄭隶は王、謝の二人を留任し、簡単に軍隊の再編成をすませた。鄭隶がすぐに謝昊を使い始めたのを見て、これであれこれ言わなくていいと段岭は思った。そして潼関の任務は全て終わったので、まだ残務処理があったにも関わらず、さっさと切り上げ、鄭隶に別れを告げて西川に帰ることにしたのだった。

 

 

「俺はお前に会ったことがあるよな。七年前、上京の薬屋でだ。」

武独はついに全て思い出したようだ。

七夕の夜、段岭はようやく武独に打ち明けることができた。「うん、私だよ。あなたは金烏で私をびっくりさせたでしょう。」

「だけどお前は……。」武独にはよくわからなかった。そして今までのことが次々に記憶によみがえって来た。

秋の豪雨が過ぎ去って、潼関の空は一片洗われたように澄み渡っていた。馬車は再び南に向かって進んでいる。前と同じ聾唖の男が御者を務め、車内には武独と段岭が座っていた。

(でも牽いてるのは奔霄なのかな)

 

秦岭を出て、巴山に入った頃、段岭は御者に言って車を路肩に停めさせた。道の両側は全て楓林だ。段岭は武独を支えて車から下ろし、楓林の中でしばらく休んでから、水を汲んできて薬を換えてやった。

後ろでは楓の葉が火焔のように真っ赤になっている。(まだ七月だよなあ、確か。)

あの戦いで掌を負傷し、踝も挫いた武独は、車を降りて山に入ると、大きな岩の上に座り、

折り畳み台にはだけた右足を乗せた。段岭は軟膏を混ぜ合わせて薬を交換した。まずは踝の消炎薬を、次に左手の包帯を取って、止血し肌再生を促すための薬をつける。

 

「手の傷は一か月くらいで殆ど良くなるよ。化膿させなければ大丈夫。踝の方はもう少しかかるかな。筋骨を痛めたら百日はかかる。ここ数日は特に注意しないとね。」

武独は段岭から目を放さずにじっと見つめながら、「かまわないさ。」と言った。

「あなたは軽功があんなに優れているんだから、絶対に病根が残らないようにしないと。」

その時武独が言った。「俺に話があるって言ってただろう?照れなくていいぞ。ここは周りに誰もいない。何でも言って大丈夫だ。」

段岭は笑いながら言った。「その前に洞窟にいた時、あなたこそ何か話があるって言ってたでしょう。何だったの?」

あの夜は二人とも多くを語れなかったし、党項人が撤退してからは、色々な仕事が続いていた。武独はここ二日、ずっと考えていた。七年前の雪の夜、上京の薬屋でなぜ段岭に会ったのか。だが考えても考えても理由がわからなかった。段岭は父親が薬商だと言っていた。だったらひょっとしてあの薬局の主人だったのだろうか?

「まず先に聞かせてくれ、一体全体なんであの時俺はお前に会ったんだ?お前は潯北人じゃなかったのか?」武独が眉をひそめて尋ねた。

「ご縁ってやつかな。」段岭は答えた。「私たちは出会う運命だった。あの時からそう決まっていたんだね。」

段岭は慎重に武独の手に薬をつけた。

武独は不自然な様子で山野を覆う楓の木に目をやった。紅くなった葉があちこちで舞い落ちていた。

「縁だって?俺は……俺は師門に誓いを立てたんだ。一生妻も娶らず、家族も持たない。家業さえ持たないとな。」

「どうしてなの?」段岭は尋ねた。

「刺客というのは皆そういうものだからだ。」武独が答えた。「家族や妻を持てばそれが弱点になる。敵を殺せば、相手の遺族が復讐を求め、妻や子を殺したり、家を焼くかもしれない。殺人を生業とする人間に前途があると思うか?」

「だったら師父と師母は?二人は夫婦じゃないの?」段岭がまた尋ねた。

「彼らは内縁だ。名義はない。だが俺の心の中では彼女はずっと師母だ。上梓城が破れた時、師父は戦って死んだ。師母も後を追った。お前が着ている白虎明光鎧はそれ以来行方不明だった。山河剣法も助けに行った趙奎が持って行ったんだな。」武独が言った。

「それじゃあ、それを探すためにあなたは趙奎についた。そうでしょう?」

武独は頷いた。「趙奎は一旦それを見つけたらきっと俺が出て行くと思って隠しておいたんだろう。」

「それを見つけたから、どうするつもりなの?師門を復活させるつもり?」段岭は尋ねた。

武独は答えた。「師門はもう後を継ぐ者がいない。かつての伝承からもすでに心は離れている。鎮山河はまだ見つかっていない。だが白虎堂には一つの職責がある。世の中が乱れた時、

帝君を守ることだ。」武独は話を続けた。「ところが帝君は俺なんかに護ってもらおうと思っていない。太子は俺に声をかけてきたが、わかっているんだ。彼が必要としているのは、聞き分けのいい刺客で、白虎堂の後継者ではない。結局のところ、俺が必要なわけではないんだ。」

段岭は心の中で思った。私は必要としている。すごく必要としているよ!

 

武独は続けた。「趙奎も、牧相も、それに太子もだ。先帝を除けば、みんなが欲しいのは人殺しのための刀だ。だが誰も責められないな。乱世というのは本来誰もが殺し合うだけの時代なのだから。」

段岭は言いたいことを飲み込んだ。武独は段岭が自分を励まそうとしているのだろうと思い、彼の肩をポンポンと叩くと言った。「シャナル(山児)、お前は?何か計画があるのか?お前が出世したがっているのはわかっているぞ。お前は今年もう十六才だ。いつまでも俺について回るだけでは出遅れてしまうんじゃないか?」

「え、……何が?」段岭は何だかおかしくなったが、同時に心の中が暖かくなった。

「七年前、俺は任務で上京に行った。そうだな、きっとお前の言う通りだ。あの時お前に出会ったのはきっと縁なんだな。その後、天の神様がお前を俺のところに送ってくれた。それもまた縁なのかもしれない。」

それを聞いて段岭は心の中に様々な思いがこみ上げて来た。縁なのだろうか?きっと生まれた時から全てこうなると決まっていたのだろう。南陳太子になること、李漸鴻の息子として上京に住むことになり、あの日武独に会うと決まっていたのだろう。

 

「俺は家族は持たないが、お前は違う。こんな風に一生俺に付き合うことはない。帰ったらよく考えよう。もう満十六歳になったのだから、お前もいつか……。」

「勿論あなたに一生ついていくよ。」段岭は武独の手に包帯をしっかりと巻いて言った。「私だって結婚はしない。でも家業を立てるのはありだな。」

「お前は……。」武独はどうやら段岭がそう言うだろうと思っていたようで、「俺についてきたら、名も功も何もないんだぞ。それでいいのか?一生俺の小姓をする気か?お前の功名はどうなる?のし上がりたいんじゃなかったのか?」と言った。

「あなたの師父と師母と同じだよ。」段岭が言った。

武独の顔が赤らんだ。段岭自身も今のはちょっと違ったかと思った。

一枚の楓の葉が舞い散り、地面に積み重なった落ち葉の上にカサッっと小さな音を立てて落ちた。(七月ではないのかなあ)

 

武独は段岭を見つめた。「じゃあ、……お前の望みも……やっぱり……。」

「やっぱり何?」段岭が目を見開いた。

武独は考えた末、「まあいい、まあいい。好きに話せ。」と言った。

段岭が不思議そうな顔をすると武独が言った。「お前は運がいいな。ついて回った相手が鄭彦じゃなくて。それならまあ……まずはそう決めればいい。」

「鄭彦?鄭彦とどんな関係が?」

「何でもない。車に戻るぞ。」武独は手を振ってそう言い放った。

段岭が言った。「ちょっと待ってよ。私にはまだあなたに話したいことがあるんだから。」

武独:「?」

段岭は武独の手を引いて、しばらく考えた。そして突然武独がなぜそんな話をしたのかがわかった。これまではそうしたことについて話すことはできなかった。牧曠達たちには、突然どこかから現れた少年は武独の友人の息子ということになっていたのだから。だが二人の心の中でははっきりしていたことで、武独にもわかっていた。段岭は暫くの間、彼の保護を求めていただけで、いつか出て行くだろうということが。

それでああいう話をしてきたのだ。

それで段岭の話を聞いて武独は喜び、彼をちゃんと扱うことでその気持ちに報いようと考えたのだ。

 

 

「父さんが逝ってしまったことは、今までの人生で一番つらいことだった。」段岭は話し始めた。岩の上に座って武独の手を牽いたが、武独はその指を開いて、手をつなぎ、しっかりと力を入れて放そうとしなかった。その表情は少し不自然だ。「俺がお前を大事に守ってやる。」

「初めて会った夜を覚えている?」段岭が尋ねた。

武独は笑い出した。「親父さんは栄昌堂の医者だったのか?お前は人参を手に持って産婦に飲ませるんだと言ってたな。」

段岭は答えた。「あれは烏洛候穆に飲ませるための物だったんだ。あなたに刺されて死にかけていたから。」

武独:「……。」

武独の顔から笑みが消え、信じがたいといった表情で段岭を見つめた。

段岭は言った。「『祝』は、私が人生で初めて殺した人間だった。あの頃、烏洛候穆は父さんの命令で上梓に私を探しに行き、見つけてからは私を上京城内に匿ったんだ。あなたは陳国影の部隊を引き連れて、日夜奔走し、私の行方を捜していた。祝が死んだ二日後には学堂に私を探しに来たけど、人違いをして蔡閏を攫おうとしたよね。

あの後も私は上京で暮らしていき、二年前の春に父さんが私の元に戻って来た。

私が知っているはずがないとあなたが思ったようなことは、全部父さんが教えてくれた。

兵の戦わせ方とか、軽功縦跳とか……。父さんは私に射矢の訓練をさせ、山河拳法も教えてくれた。」

段岭は武独の手を振りほどいて立ち上がり、「見てて。」と言った。

そして気持ちを集中させて山河掌の記憶を思い起こした。さっと一歩踏み出すと、楓の葉が舞い上がった。武独は震撼の極致にいた。段岭は血のように赤い楓の葉が舞い散る中で、縦横来去、収掌、側身平按という動きをとり、最初から最後まで一通り掌法を打った。

「ちょっと間違えたところがあるけど、大体合ってると思う。」段岭は少し不安げに言った。

武独は言葉も出なかった。段岭は再び武独の隣に座って彼を揺さぶった。「ねえ、武独、ちゃんと聞いている?」

「そ……それからどうした?」武独は声を震わせた。頭が真っ白になっている。

 

段岭は武独の手を取って、元の通りに手をつないだ。「それから、上京城が破れ、私は父さんを待ちきれずに、蔡閏と一緒に逃げたんだ。」

その頃には武独は震える程驚愕し、ひたすら段岭を見つめ続けていた。段岭は我に返ったように言った。「私にもその後何が起きたのかはわからない。何とかして西川にたどりついた時には、全てが今のようになっていたのだから。誰が私に成りすましているのかも、何もかも本当にわからない。郎俊侠……烏洛候穆は私に毒を飲ませて、私を川に投げ捨てた。たぶん私は流れに乗って下って行って、あなたに救われることになったんだと思う。」

 

「ごめんね、武独。」段岭が言った。「これまでたくさんあなたに嘘をついてきた。でもどうしても言えなかったんだ。あなたが牧相の側の人だと思ったから……。」

武独はよろよろと岩から降りた。段岭はぽかんとした。

「おま、あなたは……そうだったのか……なんか変だと思っていた……。」武独は声を震わせた。「あなたが本当の殿下……お前は……あなたは……。」

武独は傷だらけの体で、すぐに段岭の前に跪いた。

「そんなやめてよ!」段岭は急いで言った。

「殿下、私が無能だったせいで、先帝をちゃんとお守りできませんでした……。」武独は息を乱しながらそう言った。

段岭も急いで跪くと、武独に「早く立ってよ!」と言った。

「そちらこそ……。」武独は段岭を断たせようとした。

「そっちこそ!」段岭も急いで言った。

二人はしばらくじっと見つめあった。武独は突然段岭をぎゅっと抱きしめた。激動に言葉が出てこない。今までおかしいと思っていたことは、この事実を知ったことで全て説明がついた。

「責めたりしないよ。あなたを責めたりするわけがない。あなたは何も悪くないんだもん。

でも、もしあなたが自分に罪があると思うなら、私が亡くなった父皇に替わって許すから、今からはもうそのことは心の中から消していいよ。」段岭が言った。

武独は段岭を更にきつく抱きしめた。力がこもり過ぎて痛いくらいだった。

「立って、武独。」段岭は武独を立たせた。二人はずっと見つめあった。様々な思いが心に沸き起こったが、言葉は何も出て来なかった。

 

 

 

 

第88章 恐れ多さ:

 

「俺に言うべきじゃなかった。」武独は眉をひそめて段岭に言った。

段岭は答えた。「もしあなたにも言えないなら、この世に信じられる人はもう誰もいなくなってしまう。赫連は以前上京で学んでいた時の同窓生だったんだ。その彼でさえ、私の正体は知らない。でももうこんな風には生きられない。時々本当に気が狂うんじゃないかと思ったよ。」段岭は武独を見て、とてもつらそうに眉をひそめた。

 

「わかった。」と武独が言った。「おま……ああっ、俺はてっきり……まあいい。今何を言っても無駄だ。俺を見てくれ。」

「何?」段岭は不思議そうに武独を見た。

武独が言った。「いや、言いたかったのは、一緒に少しずつ進んで行こう。これだけは保証する。俺はお前を売らない。」

「心配してないよ。」段岭は笑い出し、再び寄り添い、武独を抱きしめた。彼の懐にもたれかかると、武独は不自然に身動きした。顔が紅潮し、手足がこわばっていた。

「動かないで。しばらく私を抱きしめていてくれないかな。」段岭は小声で言った。

武独は座り込んだまま段岭を胸に抱いた。段岭は不思議な気持ちになった。久しぶりに味わう感覚だ。いつも武独を抱いて寝るのが好きだったが、今回は今までと違う。ようやく心の中にため込んでいた全てをはきだすことができた。分かち合ってくれる人を見つけることができたのだ。

 

武独は呆けたように座り込み、無意識に手を上げて再び段岭の肩を抱いた。

今まではこんな風に抱きついても、心が半分宙ぶらりんになっているような気がしていた段岭だったが、今は、そしてこれからは、心がしっかりと収まるべきところに落ち着くのだと感じていた。ようやく心のよりどころを見つけられたのだ。

武独:「……。」

武独は下を向いて、段岭を見た。目を閉じ、まつ毛に夕日の光が煌めいている。

武独はまだ夢の中にとらわれているような気分だった。夕日が照らす中、楓の葉が二人の周りで舞い飛んでいる。一切のことが全く変わってしまったような気がしていた。

武独が尋ねた。「おま、あなたは……いったい何という名前なんだ?」

「李若。『東に扶桑あり、西に若木あり』から来ている。でもこれから誰もいないところでは段岭と呼んで。その名前を忘れたくないんだ。」

 

段岭はドキドキしながら武独の表情を観察した。武独は今や完全に打ちのめされていた。武独はもう事実を受け入れられたようだと思っていた段岭だったが、二言三言話した後で気づいた。武独はすっかり混乱していて、本能的に何か口に出していたに過ぎなかったのだ。

「頼む……誓ってくれ。俺をからかっているんじゃないと。ワンシャン、お前……。」

段岭は苦笑いした。「あなたをからかってどうするの!自分の人生を笑いのネタにするはずがないでしょう?太子のふりをして何が楽しい?ばかばかしいだけだよ。」

武独も確かにそうだなと思った。それでもまだ様々な思いがこみ上げてくる。朝から晩まで一緒にいた人物の正体が突然変わってしまった、とか、自分が李家に感じていた罪の意識をようやく拭い去ることができた、とか、朝堂に座っていやがるあの野郎は偽物だったのか!とか。まさに喜怒哀楽入り混じった百もの感情が言葉にならないまま心を埋め尽くしていたのだった……。

「でもね、太子であるかどうかにかかわらず、私は変わらず私のままだよ。武独?」

武独はまだ混乱したままだった。段岭はこらえきれずに笑い出し、「ちょっと、武独。」と彼のことを押してみた。

武独は我を忘れそうになる度、段岭に現実に引き戻され、途方に暮れたように段岭を見つめた。「もう行かなくちゃ。もうすぐ日が暮れる。」段岭は武独を自分の肩にもたれ架けさせて立ち上がらせようとした。武独は慌てて言った。「臣……臣は自分で歩けます。」

「そういうのはナシ。」段岭は苦笑いしつつ、強制的に武独の腕を自分の肩にかけさせて、もたれ架けさせると、ゆっくりと山を下りて行った。

 

残陽に照らされた楓林は光の海のようだった。武独の世界がひっくり返ったのが段岭にはわかった。ゆっくりと考えて受け入れてもらうために、これ以上話題にしないことにしよう。武独が今以上に混乱してどうしていいかわからなくならないように。

車に乗る前に、段岭は万里奔霄をポンポンと叩き、優しく頭を撫でてやった。奔霄は鼻を鳴らして顔を近づけ、段岭をじっと見た。武独は愕然とした表情で奔霄を見た。ようやく、全てに説明がついた。

「私を覚えているんだよ。見てて。」(話題にしないんじゃなかったのか)

段岭は少し離れたところまで歩いて行き、父に習った通りに奔霄に口笛を吹いた。奔霄は彼の所に歩いて来た。段岭が走り出すと、奔霄はついて行った。暴れ馬の影などどこにもない。

段岭は奔霄の鞍に跨り、ゆっくりと落ち着いて背に騎った。「行こうか。これ以上遅くなると、野宿することになってしまう。」

 

車に乗ってから、武独は段岭と一緒に座ろうとしなかったが、段岭も無理に引き寄せようとはしなかった。二人は行きと同じような状態で座り、いつも通り、まるで何も起こらなかったかのようだった。

武独が長い沈黙に入り込んでしまうと、段岭は少し緊張してきた。どんなふうに反応するかわからなかったが、こんな反応とは思っていなかったのだ。だが、ドキドキしながらも、

「少し寝るから、着いたら起こしてね。」と言った。

「ああ。」武独は即答した。そして、一瞬目が合ったが、すぐに視線をそらしてしまった。

きっとすごく不安なんだろうと段岭は思った。自分の正体が変わったことで武独はまだ震撼の真っただ中にあるのだ。

段岭は武独の膝に座った。体が触れ合っていれば武独の不安も消えるかもしれないと考えて、そのまま這い上がって、武独の懐にもたれかかってみたのだが、武独は体をひきつらせた。「殿下!」

「シィッ!」御者が聾唖者なのはわかっていたが、万が一フリをしたのならどうするのだ?

彼はかつて李漸鴻の懐に横たわった時のように、武独にもたれかかった。片手を武独の腰の後ろに回し、まるで大きな枕であるかのように、壮健な胸に頭をのせた。本当は眠くもなかったが、武独には時間が必要だとわかっていたので、目を瞑り、寝たふりをして、考える時間を与えたかった。

 

道中は静かで、聞こえるのは時々御者が馬に鞭を打ったり、掛け声をかける声、そして車輪が回り、道をガタガタと動く音だけだった。気づくと武独はとても慎重に、段岭を起こしてしまうのを恐れるかのように動き出した。段岭が自分の肩に置いた手を握って、胸の前に置くと、そーっと外袍を取って二人の体の上にかけた。

上弦の月が上がり、山々や、大地や河を明るく照らした。長江にたつ銀色のさざ波はまるで夢のように煌めき、光と影を浮かび上がらせ、きらびやかな夢の世界にいるかのようだ。

初めは寝たふりをしていた段岭も、武独の呼吸が落ち着いてきたのに気づくと、本当に眠くなってきた。

 

武独は夢の中で、馬車が大きな木の橋の真ん中に停まり、御者がどこかに行ってしまったのに気づいた。辺りは天地を照らす銀色の月光に包まれている。誰かが車に乗って来た。それは李漸鴻だった。彼は武独に尋ねた。「我が息子は寝ているのか?」

「寝ています。」武独は簡潔にそう答えた。

李漸鴻が言った。「お前に託そう。しっかり面倒を見てやってくれ。」

 

「武独?」段岭は武独を揺さぶり起こした。馬車は停まっていた。まだ秦岭を出たばかりだ。行きより帰りはずっとゆっくりで、最初の夜は京畿路に向かう分岐点の川辺に泊まることになった。河辺には一軒の客桟があった。

武独は目覚めた瞬間には、彼の世界をすっかり変えてしまった出来事のことは忘れてしまっていたようだった。

「夢を見ていた。」武独は欠伸をした。段岭に枕にされて痺れた手で段岭をポンポンと叩き、早く膝から降りろと合図した。武独が元に戻ったようだとわかった段岭は荷物をまとめて車を降りて宿に向かい始めた。「どんな夢?」

「先帝が夢に出て来た——。」武独は一瞬唖然とした。思い出してきたようだ。

段岭:「……。」

武独:「……。」

「父さんの夢を見たの?」段岭が尋ねた。

武独は答えた。「俺にお前を託すそうだ。」

武独は再び意識し始めたようだ。目の前にいるこの人物は南陳の本当の太子だ。朝廷にはまだ承認されておらず、しかも他人にその身分を乗っ取られているとはいえ、彼こそ目下唯一の李家の血脈なのだ。

 

二人はいつも通りに見せに入って行った。段岭が武独の世話をすると武独は恐縮して何度も立ち上がっては段岭に座らされた。段岭はまず奔霄を裏庭に牽いて行って休ませ、それから夕食を部屋に運んでくるように指示した。二人は卓袱台の両側に向き合って座り食事を始めた。左手をぐるぐる巻きにされて碗を持てない武独が右手に箸を持つと、段岭は尋ねた。

「食べさせてあげようか?」

「いやいやいや、自分で食べられる。」武独は急いで断った。

段岭はおかずを箸でつまんで武独の口に入れてやった。武独は何とも言えない表情になった。

段岭は考えながら言った。「あなたと私は……えっと、今まで通りでいられるよね。この前、私のことを薄情だと言ったでしょう。でもそれは本当に仕方なかったからなんだ。」

 

雷に打たれたかのようだった。武独は突然全て理解した。段岭はあまりにも大きな責任を負わされた上に、あまりにも多くの危険にさらされて、それでも自分を信じてくれたのだ。

誰かがこのことを知れば、命の危険にさらされることがわかっていながら。

「俺はお前を絶対に護る。もう二度とどんな危険な目にも合わせない。誰にもお前を傷つけさせはしない。」

段岭は心を動かされた。武独が自分を売らないことはわかっていたが、こんなにも固く、疑う余地のないほどに決意してくれるとは思っていなかった。

 

再びの短い沈黙の後、武独はもう食べ物を飲み下せず、箸をおいて尋ねた。

「それで、これから俺たちはどうしたらいいんだ?」

「これから?」段岭は考えた末、答えた。「あなた次第だけど、今日あなたが言ったのと同じだよ。あなたが家族を持つつもりがないなら、これからは私たちが……。」

「俺が言うのは、どうやって朝廷にもどるかってことだ。」武独は真剣に答えた。

「あなたは今の太子に会ったことがあるんでしょう?私は自分の身分を証明するものを何も持っていないんだ。それに母親似で、父さんにはあまり似ていない。偽太子が外見をどうしたのかは……。」

「あいつはその蔡家のガキだったんだな。」武独は今までずっとあの日のことを考えていた。自分が蔡閏に剣を向けた時の、烏洛候穆の反応が不可解だった。七年余りもずっと疑問に思っていたことが、この日この時ようやく理解できた。

おかしいと思っていたことの全てには、ちゃんと答えがあったのだ。

「ふうん、やっぱり蔡閏だったのか。そうだろうなとは思っていた。」段岭が答えた。

段岭の心に寂しさと悲しさが沸き上がって来た。だが何となくそうじゃないかとも考えていた。だって上京から逃げ出した後で、蔡閏の消息はつかめなくなっていた。あの鮮卑山から蔡閏はうまく逃げ出せたのだろう。その後で郎俊侠が自分を探しに来て、「太子」を朝廷に連れ帰ったのだ。彼は一緒に父さんから山河拳法を習ったのだから、成りすまし役としては最適だ。

 

眉をひそめた武独に段岭は言った。「彼だって父とは似ていないのに。」

「奴に会えばわかる。烏洛候穆はきっと薬や小刀を使って奴の容貌を換えたんだろう。眉毛、目の角や唇の線、確かに先帝に少し似せている。」武独は段岭を真剣な眼差しで見つめて、「お前の方がずっと器量よしだが。」と言った。だが、段岭は蔡閏のことを考えてイラついたように頷いた。

武独が言った。「四王爺……じゃなくて、陛下ならお前がわかるんじゃないか?」

段岭は答えた。「どうだろうね。賭けてみる?で、あなたが私を彼のところに連れて行ってくれるの?」

武独は頷いた。「本当にそうしたいなら会わせるのは難しくない。だけどよく考えた方がいい。会った後で、何を言い、何をして、お前を信じさせるかをな。あの偽物が朝廷に戻ってきた時、四王爺は俺を奴に会わせた。俺は俺はおかしな巡りあわせで名堂で奴に会っていたから、信じて頷いてしまったんだ。」

そう言った武独は慙愧に堪えぬ思いで眉をひそめ、鬱憤を晴らすべく怪我した方の手で卓を叩いた。彼が再び心を痛めないようにと段岭は急いで言った。「あなたには関係のないことだよ!誰かが私に成りすましているなんてあなたにわかるはずがないんだから。」

そして段岭は言った。「ゆっくりと長い目で見て計画を立てて行こう。」

武独は頷くと、つかまり立ちして、片付けに行こうとしたが、段岭が急いで彼を寝台に行かせて、「私が行く。あなたは怪我をしているんだから。」と言った。

 

武独はじっと段岭を見つめ、彼があれこれと動き回る様子を目で追っていた。段岭にはわかっていた。武独には現実を受け入れるための時間がもう少し必要なのだと。さっきまで武独は驚きと恐れを感じてはいたが、それでも全く疑おうとはせず、全て真実だと考えた。

武独が父についていたのはほんの短い時間だったが、なんとか段岭の様子を観察してみた。それでもこの時点で既に心に疑惑は全くなかった。段岭は片づけを終え、今まで通り、寝台に上がり、武独の隣に横たわると、嬉しそうに布団を引っ張って二人の体の上にかけた。

武独は硬直し、段岭を見て、自分は寝台の下に降りて床で寝るべきだろうかと考えた。

だが段岭は武独の手を引っ張り、今まで通り、彼の肩を枕に、責任の入った包みを武独に投げつけて身軽になった気持ちで眠りにつこうとしていた。

 

「ねえ、聞いてくれる?」

武独:「……。」

武独は「はい」ではかしこまり過ぎ、「ん?」では砕けすぎると思った。自分は今いったいどういう立場なのだろうか。太子の私的侍衛か、先帝から遺児を委託された托孤大臣なのか?

「父さんが他界してからの一年で、今日ほど幸せなことは今までなかった。これでまた話ができるようになったって感じ。」

段岭の顔に笑みが浮かんだ。武独は思った。まるで山を下りて江州に来たあの日に、満開の桃の花から花弁が舞い飛んできたときのようだ。風が吹いて来て、目の前の幕布がぱっと開けて、世の中の景色が目に飛び込んできた時のようだ。

その瞬間、武独はこの世で最上の物を全て彼に与えたいと思ったが、残念なことに自分は何も持っていなかった。考え抜いた末に、ドキドキしながら言った。

「手を……怪我していていなければ、あの曲をお前に吹いてやりたかった。」

「うん。」段岭は答えると目を閉じ、武独の肩を枕にして丸くなり、眠りにつく間際に言った。「また今度だね。先は長い。もう寝るね。眠くて。」

段岭は笑顔のまま夢の世界に入って行った。

 

 

 

 

第89章 恩赦:

 

西川、夜。

「殿下ァ」鄭彦(ジョンヤン)が気だるげにやって来て言った。「明日はもうご出発の日ですから、早く身を清めてお休みくださ~い。」

机について、山積みの奏折と向かい合っていた蔡閏は、鄭彦を一瞥してよそよそしく言った。

「鄭卿は先に休まれたらいい。」

「まだ待ってるんですかァ?」鄭彦はいつも酒瓶という酒瓶を開けたがり、口の方も閉じておくことを知らない。蔡閏は時々武独がこいつを毒殺してくれればいいのにと本気で思う。

「誰をだね?」蔡閏は笑顔で問い返した。「私には待ち人などいないが、鄭卿には誰か待っている人がいるのかな。」

「そりゃあ——当然死体になった誰かとか?」

蔡閏はもう笑顔を浮かべられず、浮かべたのはひどい形相だ。鄭彦の方は笑顔で言った。

「あなたの四叔父上のところに行って酒でも飲もうと思っていますが、殿下はどうされますか?待っていたところで、死体も戻っては来ませんよ。」

蔡閏は顔をひきつらせたまま、「鄭卿は冗談好きだな。」と言った。

「明日になったら恩赦が発布されるんでしょう。」鄭彦は杯を揺らしながら言った。「小悪党どもがみんな揃って放免されるそうじゃないですか。殿下の仁心は相当なものですな。」

蔡閏は再び顔を引きつらせ、取り繕うように言った。「死に至るほどの罪ではない。特に今は人手が足りない時期だ。ひょっとして鄭卿は『馮』のことについて何か言いたいのかな?」

鄭彦は笑顔を張り付けたまま、蔡閏をじろじろと探るように見た。

「あなたは、お父上に似ていませんね。」

その瞬間蔡閏の顔色が一変した。殺意さえ帯びたようなひどい表情だ。だが鄭彦は再び気だるげに言った。「人生は短く苦しい。楽しめるうちに楽しまなくてはね。」

「鄭卿。」蔡閏の声は震えていた。抑えきれぬ憤怒を帯びているようだ。「戻って休まれよ。祭日は終わった。今日はもう来なくていい。疲れた。」

だが鄭彦は出て行こうとせず、蔡閏の机の前にある階段に座り、現王朝の皇位継承者に背を向けたまま呟いた。「ある所に大きな染色機がありました。それは近づく者を皆、どんな人にでも変えてしまうのです。」

蔡閏は凍り付いたように言った。「鄭卿は何が言いたいんだ?『馮』に気をつけろと言いたいのか?」

鄭彦は言った。「馮の悪知恵は確かに険悪ですな。全て陰謀で陽謀はない。だが特に警戒するほどではない。いや、ちょっと急に先帝のことを思い出しただけです。」

 

「この世の全ては色とりどりで、あまりにも色彩に溢れすぎている。その者がいる場所によって、色を変えてしまうのです。;ですが唯一先帝だけは一つの色しか持たなかった。」

そこまで言うと、鄭彦は立ち上がり、蔡閏に笑顔を向けた。「黒でもいい、白でもいい。

先帝は鎮山河を手にしてどっしりと構えて動かなかった。彼にずっとついていれば初心に帰ることができた。他の全ての色が褪せて消え去り、白紙となった時に、そこに一点の『天道』を垣間見ることができた。殿下にも是非そのことは覚えておいていただきたい。」

蔡閏は一瞬心を揺さぶられたように感じた。鄭彦は蔡閏に軽く頭を下げると、それまでの酔態を消し去り、袍襟を立ち上げて、すたすたと去って行った。途方に暮れた蔡閏を一人殿内に残したまま。

 

秋風が吹いて庭は落ち葉でいっぱいになった。残り少ない宮中に残った人たちは、明日の移動の準備をしていた。

李衍秋は庁内に座り、庭の景色をぼんやりと眺めていた。皇后牧錦はすでに牧家の遷都隊と共に去っており、広大な皇宮はがらんとして静まり返っていた。机に置かれた薬湯さえ冷めきっている。

鄭彦が走廊を歩いて来て、眠そうな顔で李衍秋の隣に腰を下ろした。

「飲みましょう!」鄭彦は酒瓶を持って李衍秋に掲げた。「私は酒を、あなたは薬を。」

李衍秋は薬碗を持ち、鄭彦の杯と打ち合わせた。

東宮から来たところか?」李衍秋が尋ねた。

「陛下の大事なあの方はまだ東宮で折子を読んでいますよ。鄭彦は長椅子の縁に背を持たれていった。「あの様子を見ると、あなたには少し似ているようですが、先帝には全く似ていませんね。」

李家は武力で国を建てた。そのため代々受け継がれる礼儀作法はあまり厳しくない。李衍秋も臣下たちを大らかに扱っており、鄭彦は身分が特別なこともあって、二人は君臣というよりは長い付き合いの友のようだった。

「皇兄とは全く性格が違う。」李衍秋はため息をついて首を振った。「だが心根はやさしい。きっと母親似なのだろうな。」

鄭彦は何か思うところがあるような様子で星空を見上げた。李衍秋が言った。「さっき仮寝した時に、皇兄の夢を見た。命日には現れなかったのに、今になって来てくれたようだ。」

鄭彦は相槌を打たず、ぼんやりと酒を飲んだ。

「夢の中で橋の上にいた。おそらく向こう岸はこの世ではないのだろう。橋の下は月の光に満ちていた。彼は私に言ったんだ。『皇児が帰って来たぞ。遷都するんだろう。もう一年たったな。』と」

 

鄭彦は今回は答えて言った。「恩赦の件、陛下は考え直した方がいいのではありませんか?

馮を開放してしまえば、天下の大乱につながるかもしれません。特に東宮は人手不足でもあります。先帝がおられれば心配はないのですが、今の東宮の主は将来一国の君主となる身、陛下は……。」

「恩赦は既に発布した。」李衍秋はため息をついた。「君子に二言なし。今更どうやって撤回しろと言うのだ?しかも馮については、栄児が特に要求してきたのだ。利害についてはお前にもわかっている通りだ。馮は影の部隊の参謀を長年勤めてきた。父皇に罪を問われて死牢に入れられたが、我が大陳への忠誠心を変わらず持ち続けている。」

鄭彦も首を振ってため息をついた。

「だがお前の言う通りだ。東宮にはまだ太子の門客がいない。それは実際由々しきことだ。栄児が戻って来てからの半年間、ずっと烏洛候穆が彼を護ってきたし、朝廷での決め事が多かったせいもあって後回しになっていた。今回の遷都が終わったら、彼のためにしっかりと手配してやらねばなるまい。」

 

「直言をお許し下さい。」鄭彦は酒を飲んでから口を開いた。「今の東宮には他にも欠けているものがあるように思えます。」

「求心力がないのだ。栄児には才能があり、その場その場で為すべきことはわかっている。朕のために奏折を読み解いて、民生を調べる、そうしたことには長けている。だがその上で決断することこそが、自分の役割だということがわかっていない。それで思うように動くということができないのだ。

「つまりこうとも言えるだろう。」李衍秋は薬湯を見つめた。黒々とした液体に映し出された自分の姿の中に、懐かしい他の誰かの姿を見ているように。「彼はまだ自分を李家の人間として見られていないのだ。政治を順調に進め、朝廷を落ち着かせる。それは朕を手助けすることであって、彼自身のための行動ではないのだが。」

李衍秋は薬を一気に飲み込み苦さに眉をひそめてから言った。「だが才能をひけらかすのも結局はいいことではない。鄭彦、私に替わって手伝ってやってくれ。太子に必要な侍読などの相談役を門客の名を以て招集してやってほしい。」

その時、急ぎ足に歩いて来る足音が聞えた。

「太子が謁見を希望されています。」部屋の外から侍衛が先触れをした。

李衍秋は軽く眉を上げて、鄭彦と走廊に目をやった。蔡閏が急ぎ足でやって来た。顔いっぱいに笑顔を浮かべている。蔡閏が頭を下げる後ろには一人の人物がいた。風塵にまみれた姿の郎俊侠だった。

 

「烏洛候穆か?」李衍秋は眉をひそめた。「何も言わずに職務を放棄した罪に問われる身だぞ。いったいどこに行っていたんだ?」

「叔父上。」蔡閏は近づいて座り込むと言った。「ですが、彼が持ち帰った物をご覧下さい。」

郎俊侠は鄭彦を一瞥した。初対面ではあっても、互いの名はよく知っていた。

「あんたが来たのか。」郎俊侠が言うと、「俺が来ましたよ。」と鄭彦は顔だけで笑った。

郎俊侠は背負っていた長剣を降ろし、両手で平らに持ち、卓上に置いた。剣鞘には、菩薩が妖を斬り魔を除く姿と伏せた白虎が彫刻され、剣柄は螺鈿に、光り輝く舎利が彫られている。

「運よく使命を遂行できました。」郎俊侠は答えると、門外に出て行き、指示を待った。

李衍秋は片手で剣柄を取り、剣を抜きだした。くぐもったような低い音を立てて現れた剣身は古びて、血痕が斑についたままだ。そこには三つの文字が刻まれていた。:断塵縁。

                        (こずるい奴、郎俊侠)

 

 

―――

朝陽が燦燦と輝き、風がそよそよと吹いていた。

山の棚田では農夫たちが秋の収穫にいそしんでいた。

段岭は川沿いの客桟の外で、ゆっくりと腰を伸ばした。それから小二(手伝い人)に桶を渡して水をくませた。お湯を沸かして武独に茶を飲ませ、薬を換えてやるためだ。

段岭にとってはこの一年で一番安らかに眠ることができた夜だったが、武独は一晩中眠れずに、寝返りばかり打ち、夜明け頃、ようやく眠りにつくことができた。そのためあまり寝ておらず、段岭が湯を沸かす音で、はっと飛び起きると、眉間に手を当てていら立ちを押さえた。「何時頃だ?」言ってしまってから武独はしまった、と思った。どこの世界に太子に時間を聞く臣下がいるのか。自分が先に起きて世話をすべきだろう。だがもうこうなったからには、どうしようもないではないか?

「夜が明けた頃だよ。大丈夫?具合悪くない?」段岭は尋ねた。

武独は充血した目で段岭を見た。「これからは、そういうことはやっぱり俺がすべきだろう。お前が……殿下という身分だからじゃなくても、俺がお前の世話をすべきだと潼関を出て来た時にそう思ったんだ。お前が俺について来るようになってから、いいことなんて殆どなかったからな……。」

段岭は武独が言いたいことが大体わかった。そこで言った。「そんなこと大事なことじゃないでしょう。もし蔡閏が偽物だと知らずに彼のお付きになったとしても、そんな風に言ったと思う?」

武独は言った。「そりゃ、そんなことはないさ。だけどお前と奴とは違うからな。」

昨日段岭は武独の頭を巨大な金づちで叩くような衝撃を与えた。考えると少し気まずい。そこで笑って言った。「じゃあもし、……烏洛候穆が朝廷に連れ帰ったのが私だったら、私達は別の立場で出会っていたはずだけど、あなたはやっぱり同じように思ってくれた?」

 

武独はそんな風には考えてみることはできなかった。この件について彼の頭の中は未だにとても混乱している。もし段岭が今のワンシャンではなく、二人が別々に生きていたら、自分はかつてのままの性格で、段岭に心を与えることなどなかっただろう。もしかしたら、彼に心を痛めて、特別に近しい関係になったかも知れないが、そこには当然『太子』に対する部下の真心という前提があったはずだ。

武独は暫く考えて、認めざるを得ず、「わかった。」とだけ言い、釈然とした態度で段岭を見つめた。二人は笑い合った。「夕べはずっとお前と例のことについて考えていた。」

段岭は武独の手に巻いた包帯を取り、薬を換えながら、頷きもせずに、うん、とだけ言った。

「お前に会わせたい人がいる。謝宥という奴だ。お前の身分が確定さえすれば、謝宥は自分の命を犠牲にしてでもお前を護るはずだ。」

「彼のことは知っているよ。」段岭は言った。「天子にのみ忠実、そうでしょう?だけど今の天子は、四叔父上だよ。」

武独は眉をわずかにひそめ、何も言わなかった。

段岭は話を続けた。「そもそも四叔父上が私のことを認めてくれるなら、蔡閏なんて全く何の脅威にもならないんだから。」

武独は頷いた。「もう一つお前が直面するかもしれない危険がある。俺はずっと牧相は偽者野郎と陛下に何かする気だと感じていた。この前の例の薬だが、彼は誰に使うか言わなかったが、おそらくは偽者野郎にだろう。」

 

段岭が武独の薬を換え終えると、武独は寝台から降りようとした。そこで段岭は武独に靴を履かせてやった。武独は下を向いて段岭の動きの一つ一つを見ていた。段岭の動きはいつも通りで、武独を自分の肩にもたれかからせ、彼を支えて外に出た。

空が澄み渡った秋の日、広野の空気は清々しい。段岭は河辺で顔を洗うと武独に言った。

「最悪の状況は、四叔父上が私のことを信じてくれないことだ。こちらには証拠は何もないから、全て終わることになる。」

「そういうことになるな。」武独は考えてみれば危険だと気づいた。運に左右されることになる。

「最高の状況は、四叔父上が私を認めてくれることだ。そして烏洛候穆と蔡閏をいっぺんに殺す。でもそれからは?」

それからは、朝廷の水面下で渦巻く権力闘争に向き合うことになる。——牧曠達はきっと何とかして自分を毒殺しようとするだろう。勿論、武独がいれば、毒については全く心配する必要はない。それでも牧曠達がどう出るかはわからない。

武独は真剣な表情で段岭を見た。「それからだが、俺はお前にあることを話す。だがそのことは決して牧相に知られないようにする必要がある。知られれば、俺たちは命を奪われるだろう。……まあ、何もないかもしれないが。」

段岭:「……。」

「もし失敗すれば、奴らはお前を殺そうとするだろう。俺たちは危険な目にあうだろうが、その時は大博打を打とう。奴らを全員毒殺してやる。」

「ええと、……その前に今言おうとしたのはいったいどんなこと?」

 

 

 

 

第90章 垣間見る:

 

「偶然聞いてしまったことがある。」武独はよく考えてみて、ここではまずいかもしれないと思い、川辺につないであった小舟を見て言った。「来い。川に漕ぎ出そう。」

段岭は船を操ることができない。武独と小舟に乗ると、武独は脚をふんばり、櫂で岸辺を突いた。すると小舟はまるで矢のように川の中心に向かって進み、それからゆっくりと停まった。他に誰もいなくなると、武独は座って段岭を近づかせ、肩を引き寄せた。そうしてふたりは船の上に座った。

「ある夜のことだ。俺は丞相府で探し物をしていた。」

「何を探していたの?」

武独は段岭の外袍を開いて、中に着ていた白虎明光鎧を現すと、段岭を見た。段岭は頷いた。

駕蘭羯が死んだあと、武独はこの明光鎧を剥ぎ取り、嫌そうな顔をしながら薬粉を使って何日も洗い続けた。そしてもう本当にきれいになったと確信すると段岭に身につけさせたのだっ。以来、ずっと着続けてさせている。返せと言うつもりはない。太子という身分であれば、尚のこと返させはしないつもりだ。

「俺は梁の上に隠れていて、偶然長聘と牧曠達が書房で密談しているのを聞いてしまったんだ。」武独が言った。「怪しげな話だった。長聘の言葉はこうだ。『懐妊の兆候が出る時期についてはよく考えなくてはなりません。計算が合わないようなことは絶対にないようにしなければ。』」

段岭の心は疑惑でいっぱいになった。「懐妊の兆候?身ごもるってこと?誰が身ごもるの?」

武独が言った。「牧相は一言頷いただけで、二人はそのまま別の話に移った。だが、俺は長聘は皇后の話をしたんじゃないかと疑いを持った。もし牧錦が陛下の御子を産めば、牧相は名実ともに、国姑爺になる。その後陛下が……されれば、大陳朝廷をわがものにできるということだ。」

武独は話を続けた。「そこへ太子が戻って来た。牧相にとっては面白くない話に違いない。彼の敵は太子だ。その位置に座る者は皆危険にさらされることになるだろう。」

 

そう考えれば、牧曠達が先に李漸鴻に対峙したのも理解できる。李衍秋に子ができれば、それは牧曠達にとっては外甥だ。そこへ郎俊侠が蔡閏を連れて帰って来た。それは牧曠達の計画を台無しにしたに違いない。だが牧曠達の智謀を以てすれば、ことはそんなに簡単には収まらないのではと段岭は考えた。

 

「それ以前に何を話していたんだろう?皇后は彼の妹で奥さんではない。『奇貨置くべし』で、大陳国全体を牧家の物に変えるつもりなのかな?」

段岭は早朝の川の流れを見つめながら、恐ろしい考えが浮かぶのを感じていた。

もし本当にそうなら、自分は牧曠達が隠し持つ陰謀を覗き見てしまったことになる。牧家にとっては致命的だ。武独はこの情報を明かしたことで、戦局を一気に覆すに等しい力を与えたも同然だ。

その後の道中、段岭はずっとこの問題について考えていた。武独の方は死ぬほど眠くなり、車の中でずっと眠っていた。最初の衝撃が過ぎ去り、再び目覚めた時には二人の関係はあるがままにもどっていた。目覚めた武独がぼんやりと段岭を見ると、彼はもう身分の問題について考えるのをやめており、馬車の窓簾の外の景色を見るように言った。岷江沿いの江州路の風景はとても美しく、山野の楓をずっと楽しむことができた。

 

西江波戸場に着くと、馬車は大船に乗せられ、川を下った。

大雁が南に飛んで行く。半年前、段岭が江州路を進みながら抱いていた恐怖心は既に跡形もなく消え失せ、武独と共に同じ道をはっきりと考えを固めながら進んでいる。

「お前の四叔父には、うかつに会うべきじゃないと思う。もし失敗したら、後がなくなるからな。」と武独が言うと段岭は頷いた。今は自分が暗い場所にいて、蔡閏が明るい場所にいる。危険な局面ではあるが、武独のことは奪い取ってやった。夜通し続く賭け事だとしたら、大博打に出ることだってできるだろう。

これからどうなるかはわからないが、少なくとも目の前にあることからやっていくことはできるはずだ。(ポジティブな段岭が好き)

 

武独が言った。「俺たちはこのまま相府に身を置いたほうがいいだろう。注意深く一歩一歩進んで行く限り、烏洛候穆は何もできないし、お前を殺そうともしないはずだ。ほら、お前がまだ生きていると分かったあの日からずっとそうだっただろう。」

段岭が一番恐れるのは郎俊侠のことだ。彼はもう宮中に戻ったのだろうか。もし戻って、万が一蔡閏に自分が生きていることを告げていたら、厄介なことになるのではないだろうか。

「どうしてかな?」

「奴だって牧相の注意を引きたくないだろうからな。何の縁もゆかりもない相府の門客を殺しに行けば、なぜかと思われる。賢い牧曠達のことだ。必ず全てを調べ上げるだろう。」

段岭も考えて納得した。例え自分が武独の近くにいると蔡閏が知ったとしても、郎俊侠に殺しに行かせはしないだろう。もし失敗すれば、牧曠達だけでなく、李衍秋も疑惑を抱く。太子という立場であっても、何の縁もゆかりもない無辜の人間を殺すことなどできないはずだ。自分をこの世から抹殺できる絶対の自信をもつことができるまでは、蔡閏も郎俊侠も敢えて手を出してくることはないだろう。

 

青山連なり、緑水揺蕩う。秋、江南に行き渡り、草木その葉を枯れさせる。

江州は元々中原第一の城と言われ、古くは江陵と呼ばれていた。王気が盛んな土地で、歴代王朝にとっては、外族が国境を侵して侵攻してくると、帝王が遷都してくる場所であった。

西川にも通じ、江南とも接する中原のハブ的地で、玉衡山を背にして長江を前に置く、恵まれた場所だ。

前回江州を通った時には、その門をくぐることができなかった段岭だったが、今、ようやく父が生前話してくれた場所を見ることができた。春には桃の花が咲き乱れ、秋には翠緑の中で蝉が鳴く。秋には楓の葉が城中を舞い飛び、冬には白雪に覆われる。そんな話だったが、確かに絵のように美しい、この世の絶景と言えた。

 

波戸場で船が停まると、到着を知らせる鐘が鳴った。大陳は遷都中のため、貨物であふれている。段岭は武独を支えて船を下りると、再び車に乗り、車簾を開け放って、好奇心いっぱいに外を見た。巨大な城市が地上に聳えている。過去から現在に至るまで、江州は戦乱に蹂躙されたことがない。千年もの歴史を積み重ね、五十万戸の都市となり、城壁は百里にも連なり、十里の長街は繁華を極めている。(そんな街を日本が・・・)

 

「ねえ、武独。」段岭は武独を押しながら話しかけた。「ここは西川よりずっと繁栄しているんだね。なぜ私の祖父上はここに遷都したがらなかったんだろう?」

「趙奎のせいだ。」武独は答えた。「謝宥と趙奎は不倶戴天の敵同士だ。先帝が一度おっしゃったことがある。謝宥と趙奎が互いに一歩ずつ譲れば、千万の命が犠牲にならずに済むのだと。」

その意味が段岭には何となくわかる気がした。政治家同士の争いよりも、武将同士の争いの及ぼす影響は大きい。その結果の重さもまた然りだ。謝宥と趙奎は互いに銃兵を持つ身だ。

祖父上の最後には人々の命を鑑みて、二人の大陳重将による内紛を避けるために、西川に遷都せざるを得なかったのだろう。

 

初めて江州に来た御者は、当てどなく走り続けた。江州は西川とは違い、城が内外に分かれている。内城には江州府があるが、今は皇宮が置かれ入ることはできない。外城は環状構造になっていて、内から外に向かって広がっている。一番外側の環は百八の民坊となっており、一坊には千戸ある。内側の一圏が商業地となっていて、環を貫いて全城に伸びる長街がある。

次の一圏には、学堂や、客桟などの民宿がある。合わせて九十六坊だ。天干地支のように、縦に甲乙…、横に子牛寅…と並んで、一環、また一環と重なる構造で、まるで大きな風水羅盤のようだ。それを長江が囲み込んでおり、六つの波戸場がある。

(詳しくは山有木兮の江州編を参照)

 

武独もきょろきょろと見回して、方向を見失っているようだ。段岭が尋ねた。「前に来たことがあるんでしょう?」

「忘れた。」と武独が答えた。「初めて来たときも道に迷って半日も城内を歩き回った末、鄭彦に連れて行ってもらったんだった。」

「奔霄ならわかるんじゃない?奔霄について行ったらどうかな?」

案の定、奔霄は道をよく知っていて、馬車を先導して、くるりと回ると小さな路地に入って行き、進んで行くと長街に出た。

段岭は上京や西川の碁盤の目のような構造に慣れている。江州ではどちらが北かもわからなかったら、気が付くと、奔霄はすでに皇宮の外で、呆れたように馬車を待っていた。

(ここで気づいた。奔霄は馬車なんか牽いて来なかったんだ!さすが皇宮御用達馬)

 

その時主街道で、道を開けさせるための銅鑼が鳴り、華やかな馬車が近づいてきた。黒鎧に身を包んだ武将が馬に乗ってやって来て言った。「道をふさいでいるのは誰だ?!」

段岭が言った。「しまった。車に乗っているのは誰だろう?」

武独が答えた。「俺が対応してくる。出てくるなよ。それに怖がらなくていい。」

「武卿か?」蔡閏の声が遠くから聞えて来た。自ら車を降りて来たようだ。「帰って来たのか!」蔡閏は馬車には気づかなかったが、奔霄に気づいたのだろう。

段岭が車簾の間から覗き見ると、車隊が長街に長々と続いていた。自分たちの運気は強すぎるに違いないと思った。遷都してきた太子と皇帝に皇宮外で偶然出くわすなんて!

 

太子の車の後ろには、古朴な八頭立ての馬車が続いている。あれはきっと、叔父上、この王朝の皇帝李衍秋に違いない!

蔡閏が車から降りて来たので、武独は手を車体について、挨拶するために動こうとした。だが蔡閏は自分から近づいて来て、武独に動かないように合図すると、車外で言葉をかけた。

「どうしてこんなにひどい怪我をしたんだ?」

「武芸が至らず、敵にやられましたが、大したことはありません。数か月で治るでしょう。」

武独は淡々と答えた。

その言葉を聞いて周りは静まり返った。謝宥は見知らぬ者であるかのように武独の様子を伺い見た。蔡閏が言った。「戻ったら医者をお前に遣わそう。今回は本当にご苦労だったな。」

武独は言った。「傷が癒えましたら、陛下にご報告に伺います。」そして抱拳し、蔡閏に言った。「殿下の江州遷都、おめでとうございます。竜蟠虎踞の地が雨風に恵まれ、国と民が安泰でありますように。」

蔡閏は会心の笑みを浮かべた。「お前は潼関に誰かを連れて行ったと聞いたが……。」

段岭は馬車の中でひやりとしたが、武独が車外で答えた。「王山はまだ戻らず、潼関におります。数日後には戻って来られるはずです。」

「そうか、それはよかった。戻って来たらまた話そう。」

 

車簾ごしに蔡閏を見た段岭の思いは複雑だった。注意深く簾の隙間から遠く離れた皇帝の御車を見ていると、謝宥が御車の車簾を開け、李衍秋が下りて来た。

「奔霄が勝手に動き回るわけがないと言っただろう。やはり武独が騎って来たのか。」

その瞬間段岭は雷に打たれたようになった。夢の中で日夜思い続けた人に再び会えたかのようだ。目元、眉、唇から表情に至るまで、彼の父親に瓜二つだった。不思議な気持ちが体中の血に交じってかけ廻ったかのようだ。まるであの時、庭で花を植えていた時に、父が背後に立っていた、あの時のようだ。叔父を見ると、李漸鴻が再び生き返ったように思えた。

「陛下。」武独は抱拳をした。

「それにしても、さすがは我が李家の馬だ。ゆくゆくは東宮に入れて門客にしてやろう。やはりお前は栄児と縁があるのだな。」李衍秋は気軽な口調でそう言うと、数歩進み出て、武独が何か言うのを待ったが、武独は何も言わなかった。感謝の言葉もなければ、頷きさえしない。蔡閏は表情を変え、気まずい雰囲気になった。最後には謝宥が声をかけた。

「武独、聞こえなかったのか?」

「聞こえました。」

幸い蔡閏が気を利かせて、李衍秋に言った。「叔父上、彼の怪我が治ってからまた話しましょう。」すると李衍秋は答えた。「そうだな。だが、しばらくお前に会えなかったのでな。」

「陛下のお心遣いに感謝致し……。」

ところが、それまでの言葉は武独にではなく、奔霄に向けられていたのだった。(やっぱり)

奔霄は顔を李衍秋に向けるとゆっくりと近づいて行った。李衍秋は馬の鞍を押さえると、ひらりと力強く馬の背に騎った。そして手綱を引くと、謝宥に言った。「朕はこのまま皇宮に行くとする。」

李衍秋は馬の背から、蔡閏に向かって手を伸ばし、彼を奔霄の背に引っ張り上げようとしたが、奔霄は首を振って、蔡閏を寄せ付けず、李衍秋だけを乗せて、ゆっくりと馬車の方に歩いて行った。(こっちだよ、まちがわないでって感じ?)

段岭はその時まだ車の外を見ていたが、奔霄がこんな風に近づいてきたため、李衍秋と簾を隔てて向き合うことになった。

その瞬間、武独は顔色を変え、まずい、と思った。段岭もまさかこんなことになるとは思っていなかったが、李衍秋は無意識に竹簾の間から段岭の双眸に目をくれた。

伯父と甥は竹簾を隔てて向かい合った。段岭はすぐに顔を背け、李衍秋の視線を避けた。

心は殴られたかのような衝撃を受けていた。

 

(奔霄グッジョブ。君は人間たちよりずっと賢い。)