非天夜翔 相見歓 日本語訳 第91章ー第95章
第91章 新居:
李衍秋は何かを感じたようだったが、馬車の近くでしばらく黙り込んだ後、「奔霄、主人を換えたら、もう言うことを聞かないつもりか?」と言った。
奔霄は鼻を鳴らした。李衍秋は手綱を振るうと「ハァッ!」と言った。
奔霄は動き出したが、しばらくすると納得いかない様子で振り返り、長街を何歩か歩いた。
謝宥と蔡閏は笑い出した。「皇宮に帰るぞ!」李衍秋は声を上げ、それから武独に言った。
「何日か奔霄を借りるが、またお前に返そう。お前の怪我の様子ではまだ騎馬は無理だろうからな。」
武独が頷くと、謝宥が面白がって言った。「その怪我は暴れ馬に落とされてできたんじゃないか?」誰もが大笑いし、李衍秋さえ笑い出したが、蔡閏は武独に、「しっかり治す様に。」と言った。明るい黄色の外套が翻り、血のように赤い楓の葉に映えた。
武独は李衍秋が離れて行くのを見送ると、車の中に戻って来た。
「ごめんね。」段岭は武独に言った。
武独は何か考え事をしていたが、その言葉を聞くと不思議そうに尋ねた。「何がだ?」
段岭は、謝宥も李衍秋も武独に対して失礼で、バカにした態度をとっていると感じていた。
聞いているとつらかった。武独が自分のためにこんな怪我を負ったということは、言い換えれば、李家には彼に借りがあるということなのに。武独は段岭の気持ちがわかったようで、ふとおかしくなり、首を振って、「このくらい大したことない。」と言った。
武独がこんな風に寛大になるとは段岭は思ってもみなかった。以前なら昌流君に何か一言嫌味を言われれば半日くらい怒っていたのに、今は全く気にしていない様子だ。
武独は肘を車の端について、道に沿って植えられた木々の紅葉を見ていた。段岭は近づいて、背後から彼の肩にもたれた。武独は振り向いて「さっきは陛下に姿を見られなかったか?」と尋ねた。段岭は首を振った。ほんのわずかな瞬間、李衍秋と目が合ったのは確かだが、一瞬のことだし、竹簾で隔てられていた。李衍秋が自分に気づいたはずはない。
「叔父上はどんな方なの?」段岭が尋ねた。
「お体が弱く、いつも病気がちだ。いつも病気がちな人というのは得てして少し怒りっぽくなるものだ。」
秋の日の光が万丈に照り付けていた。李衍秋は太和殿の外で馬を停めた。風が吹いて道の両側の旗を翻させていた。
「吾皇万歳!」黒甲軍の大軍が一斉に片膝をついた。
謝宥と蔡閏がゆっくりと近づいてきた。李衍秋は立ち止まったまま物思いに耽っていた。
先ほど、あの一瞬、彼は何かを感じ取っていた。
「ご苦労。」李衍秋が言うと、黒甲軍は潮が引くように後退し、一本の道を作り出した。
李衍秋は正殿に入った。江都皇宮は古びた部分を大規模修繕され今では西川よりも豪華になっている。太監が前に出て来て、李衍秋の外套を脱がせると、李衍秋は走廊を進んで行った。
鄭彦、郎俊侠も既に着いていた。李衍秋は東宮の外に出て行き、辺りを見まわし、郎俊侠が走廊の下に座って笛を吹いているのを見かけた。李衍秋が通り過ぎても、彼は立ち上がって拝礼しなかった。
「道中疲れたな。行って休むとしよう。」李衍秋は郎俊侠にはかまわずに、蔡閏にだけ向かってそう言った。蔡閏はその背を追って行き、「明日は吉辰、祝日でもありますから、叔父上は早くお休みください。」と言った。
李衍秋が答えた。「家は変わっても薬は免除してもらえないだろう。安心なさい。」
蔡閏は東宮の僕役たちと李衍秋を見送った。
秋景色の宮中では、牧錦之が鏡に向かって眉を描いていた。衣装や装飾品も届いていて、一箱一箱開けて調べているところだった。
「また誰かが陛下のお心を惑わせているのですか?」牧錦之は鏡に映った李衍秋に向かって眉を上げ、笑顔で言った。
「そんなことできる者がいるものか。」李衍秋は牧錦之の後ろに立って答えた。「慧眼な皇后でも見間違うことはあるようだな。」
牧錦之は簪を置いて言った。「太子門客の件ですが、今日申し付けておきました。科挙が終わったら人選を行い、太子によく選んでいただきますわね。」
李衍秋はよそよそしい調子で、「さすがは皇后の采配だな。」と言った。
夫婦二人はそれ以上の話もせず、李衍秋は話し終えると出て行き、牧錦之は鏡の中から彼の姿が消えるのを見ていた。李衍秋は自らの寝宮に戻ると、殿外の晴天を見上げた。
鄭彦が廊下に座って誰かに箱を開けて酒を探させていた。
「鄭彦。何でまたこんなところにいるんだ?」李衍秋は眉をひそめた。
「太子に嫌われているからですよォ、陛下。烏洛候穆がいさえすれば、臣など白い目で見られて追い出されるだけです。誰にも見向きもされなければ、自ら楽しみを見つけるしかないでしょう?」鄭彦が言った。
「私は烏洛候穆を見た瞬間、心の中に謂れのない怒りを感じた。四大刺客はそれぞれに何らかの欠けがあるようだ。こうして見ると、最も志の低い武独の方が、お前たちよりは立派に思える。もし武独がお前たちに毒を盛って一人二人と消していったら今頃どうなっていたかと思うことがあるぞ。」
その話は鄭彦にも向けられているようだ。李家の二人の兄弟は、一人は才気を明らかにし、一人は心に鋭さを秘めている。鄭彦は李衍秋の性格はよくわかっており、彼が怒っているのを感じた。
鄭彦はすぐに謝った。「陛下お許しください。臣はすぐに東宮に参ります。」
鄭彦が去ると、李衍秋は長々とため息をついた。
「陛下、お薬をお持ちしました。」宮女が薬を持って来た。李衍秋は受け取って飲むと、庭に投げ捨てた。瑠璃碗がガシャンと音を立てて砕け散った。
「うわァ———!」段岭はようやく新居に着いた。
相府は武独と段岭に特別な一軒を与えた。正府と道一本隔てただけの場所で、西川にあった僻院よりずっとずっと大きい。部屋は四つで入り口が二つ。一面は塀に面して、裏庭には専用の馬小屋も合った。主事一名と僕役二人もつけられている。庭には山や池が作られていて、
池の後ろは竹で覆われ、横には桃の木が一本植えられていた。細い川が池の中に注がれ、うねうねと曲がりくねった流れとなって出て行っている。丞相府から引かれている竹管が塀の上に架けられているのだ。
「相爺(丞相殿)のお言いつけで、お二人が戻られたらまずはゆっくり休まれるようにとのことです。旅の汚れを洗い流されたら、今夜食事に来られるようにと仰っております。」
お付きの主事がそう言うと、「皆下がってくれ。世話は結構だ。」と前庭にいた武独が言った。
段岭はあちこち見て回っていた。新居は錦の屏風や斜めに光が差し込む窓があり、瓊花院を思い出させた。床は青磁ばりで、段岭が勉強するための書房まであった。
主事は慎重に武独を支えて部屋に入らせ、「かしこまりました。」と言った。武独がそう言うだろうとわかっていたようだったが、庭に立ったまま、そこから離れようとはしなかった。
段岭は少し考えてから主事に言った。「武氏の家には江湖の機密やら、毒物がたくさんあるんだ。あなたたちが間違って怪我でもしたら大変でしょう。だから家の敷地内には来ない方がいい。用があったら、私が直接相府に伝えるから。みんな帰っていいよ。」
これには主事も頷いて、段岭と武独に頭を下げていとまを告げた。そんなことを聞いて居残る者などいない。どんなふうに死ぬことになるかわかったものじゃないからだ。
段岭は壁の向こうから声をかけて来た。「お金もあるよ!二百両も!」
段岭は潼関の埋蔵金のことを既に牧曠達に報告していた。あの金の山を牧曠達がどうするつもりかはわからないが、もし使う気になれば、城一つくらいは余裕で買えるだろう。このくらいの恩賞は何でもないはずだ。それでも段岭はうれしかった。これで少なくとも毎日焼餅を食べなくて済むだろう。
武独は部屋に座り、「何か食べたかったら、俺が買いに行ってくるからな。」と言ったが、段岭は、「あなたは座っていて。動かなくていいよ。」と言った。
段岭は布団を持ってきて、武独のために敷いてやり、寝台に枕も置いた。武独は段岭を見て、
「お前がそこで寝ろ。俺は地面で寝る。床で寝ていてもお前は守れるぞ。」と言った。
「夜中に水を飲みたくなった時にあなたを踏みつぶすかもしれないよ?」段岭は笑って言った。
武独は何か月か前に自分が言った言葉を思い出した。二人は共に大笑いした。
武独は「おれがやる。」と言ったが、段岭は真剣な表情で、「どうして言うことがきけないのかな。」と言った。
「わかった、わかった。だが、俺にも何かやらせろ。俺は怪我をしただけで廃人になったわけじゃないんだぞ。」
武独が段岭に世話を焼かれて落ち着かないのは、段岭の正体のせいではなかった。この年になるまで、誰かにこんな風に世話をやかれたことがなかったからだ。
「それじゃあ、お風呂に入ったら。」段岭は武独に言った。
武独は手を上げて自分の服の匂いを嗅ぎ、赤くなった。段岭は誰かに湯の用意をさせるよう伝えに行った。小間使いたちが大桶を角部屋に持って来て、熱い湯に冷水を混ぜてかきまぜていった。
「自分で洗える。」武独は急いで言った。
「さっさと脱いで。」段岭は武独が脱ぎ捨てた服を裏庭に持って行ってたらいに入れて水につけ、部屋に戻ってきれいな服を探し出した。牧曠達が言いつけて用意させていたようだ。そう言えば、さっきの主事はあんなに丁寧に世話してくれたのに、心づけを渡すのを忘れてしまった。
それから段岭は清潔な着替えを持って来ると、袖をまくり上げて、武独を洗ってやることにした。武独は手に包帯を巻いていて、濡らすことはできない。逆の手で体を擦っていたが、
段岭が入って来ると、顔から首まで真っ赤になった。
段岭は武独を押さえて、全身をきれいに洗い始めた。怪我をした日以来、武独はずっと入浴できていない。左手を桶の縁に於いて、壮健な肩や背を露出させ、段岭に擦ってもらうが。
「そこに手を入れるな。やめろ、やめろ。撫でおろすな!」
風呂桶は大きすぎて、段岭は半身乗り出して探り入れるしかない。武独としては段岭が真剣に洗ってくれようとしているのはわかったが、何分にも、あちこち撫でまわされて耐えがたくなってきた。
「足を少し上げて。」
武独はふと段岭をからかってやりたくなり、片手で段岭を抱え込み、風呂桶の中に引っ張り込んだ。ザブンと音がして、風呂桶の周りは水浸しになった。
段岭は怒って「ちょっと!」と言った。
段岭は全身ずぶぬれになった。武独は顔を赤くして笑いながら、「お前が洗え。俺はもういい。」と言った。「あなたは体中汚れているんだから、動かないで!」
段岭は単衣もずぶぬれの袴子も脱ぎ捨て、素っ裸になって武独の太ももに座った。
そして突然心の奥底におかしな感情が沸き上がった。今まで武独と肌を触れ合わせても感じたことのない感覚だった。
段岭は顔を赤らめた。子供の時に窓越しに郎俊侠の体を見た時のことを思い出した。だが武独に対しては鼓動が更に強くなり、何かとても新鮮で刺激的な感情が、薄い紗に隠された後ろから彼のことを待っているようなそんな気持ちになっていた。
「なんで何も言わなくなったんだ?」武独の方は我に返って片手を桶の縁にゆったりともたれさせたまま、もう一方の手で、段岭の白皙の肩を叩いて不思議そうに顔を覗き込んだ。
「な……何でもないよ。」段岭は緊張して言った。
その時、武独は何かに気づいたようで、ニヤリとした顔をした。段岭は、あ、と声を出して、顔を背けて武独の胸を手拭いで擦り洗った。
部屋の外から足音が聞えて来て、二人は同時にはっとした。
「おーい、兄さん、あんたは俺に一杯借りがあっただろう。」鄭彦の気だるげな声が聞えて来た。段岭は跳び上がるほどびっくりした。鄭彦に会ったことがなかったので、丞相府の人間が勝手に入り込んできたのかと思ったのだ。武独は片手を段岭の腰に回し、自分の方に引き寄せた。
鄭彦は脚を停めることなく、角部屋の扉を押し開けた。すると武独が裸の段岭の体を抱いて、自分の体にもたれさせ、頭を肩の上に埋もれさせている場面が見えた。
武独が少年を抱いて一緒にふろに入っている!
「ジョンヤン!お前は目が見えないのか!さっさと出て行け!」武独はイライラと言い放った。鄭彦は大笑いした。そして笑いやまぬまま、急いで扉を閉めると、「続けてくれ。俺に構わなくていい。いや、まさかこんなことになっているとはな。」
武独は言った。「外で待っていろ。くだらないことは言わなくていい。」
鄭彦の足音が遠のいて行くと、段岭はようやく頭を上げた。今まで全身裸の武独と寄り添って心臓が高鳴り、互いの が ていた。
二人は互いに息を切らした。武独はシッという仕草をして、とりあえず洗い終えるようにと示した。段岭はつばを飲み込み、武独の髪をもみ洗いしてやった。
「よし、と。」段岭は小声で言うと、急いで出て行こうとし、危うく滑りそうになった。
「気をつけろ。」武独は急いで手を伸ばし、段岭の腰を抱えてしっかり立たせた。段岭は大急ぎで体を吹いて長袴をはいた。顔の赤みはひき、武独を支えて湯舟から出させると、体を拭いてやった。股下を拭いてやっている時、布が な に触れ、二人は互いに顔を赤らめた。武独は外袍を羽織った。既に歩くことはできるが、少しよろよろしている。一歩一歩走廊の前を歩き、鄭彦の傍を通り過ぎて主房にたどりついた。
「ずいぶん早かったな。驚かせてしまったかな。」鄭彦が言った。
武独は鄭彦を汚い言葉で罵り、角部屋にいた段岭は驚いた。初めて武独が口汚く罵るのを聞いた。いくらもしないうちに、木履の音が聞こえて来て、武独がカランコロンとゆっくり近づいてきた。そして段岭に乾いた服を渡して着替えるように言った。
待っていたとばかりに小間使いたちが風呂桶を片付け初め、武独は髪を湿らせたまま、浴衣を羽織って、素足のまま長椅子にもたれ架け、ようやく鄭彦を接待し始めた。
第92章 寂滅:
「まだ怪我が良くなっていないから、お前だけ酒を飲め。俺は薬を飲む。」武独は冗談口調でそう言うと、鄭彦に敬意を示す意味で薬碗を持ちあげた。鄭彦は苦笑いして呟いた。
「本日二度目の同じ言葉だ。」
武独としては当然鄭彦がどこからやって来て誰に会って来たのかわかっていた。そこで問いかけたりはせず、更に鄭彦に段岭を紹介しようともしなかった。返しが何もないので鄭彦は暫く待ち続け、その間段岭をしっかりと観察した。口角をわずかに上げ、武独に眉を上げて見せて、『このまま紹介しないつもりなのか?』と伝えて来た。武独はイラついた表情で、「くだらん話はいいだろう。いったいここに何しに来たんだ?」と言ったが、段岭は自分から進み出てあいさつした。「ワンシャンと申します。ジョン兄さん、初めまして。」
鄭彦は段岭をじろじろ見てから、机に身を乗り出して、「君を見るとある人を思い出すな。」と言った。武独と段岭は示し合わせたかのように同時にびくりとした。
「だが将来は義理の母子になる身だ。雰囲気が似てもおかしくないか。」鄭彦は突然ゲラゲラと大笑いしだした。武独はたちまち怒りの声をあげた。「ふざけるな!」
「義理の親子って誰の事?」段岭が尋ねた。
「断腸草を取ってきてくれ。」武独が冷たく言った。
鄭彦は急いで手を上げ、もう笑いものにしないと伝えた。そして段岭に説明した。「淮陰候夫人の端平公主のことだ。」
ある思いが段岭の心の中を駆け巡った。「どんなところが似ていますか?」
鄭彦は手を上げて自分の口角に当てた。やはり口元が似ているんだなと段岭は思った。
武独は冷たく答えた。「俺はあの姚箏という女が本当に苦手だ。彼女の話をしないでくれ。」
「いつ東宮入りするつもりだ?今日も太子はお前が来ると言っていたぞ。」鄭彦が気だるげに言った。武独はそっと段岭の手を握り、心配するなと伝えて来た。
「『呼べばすぐ来て、払えばすぐ去る』か。烏洛候穆が出て行ったので俺が呼ばれただけだ。
どうやらお前では不満だったらしいな、鄭彦。」
「去ってない。帰って来たぞ。遷都の前日のことだ。」鄭彦が答えた。
武独は疑わし気に色々考えてみたが、それは想定内ではあった。
「失寵したか。」武独が言うと鄭彦は首を振って、「どうだろうな。多分もう出て行くことはなさそうだ。」と言った。
「あいつはいったいどこから来たんだ?ずっと不思議だった。先帝の近くに侍っていたという記憶もないんだが。」
段岭はドキドキしながら聞いていた。武独はこれを自分のために聞いているのだ。鄭彦は淮陰候姚復と交流がある。おそらく朝廷が知らない情報も持っているのだろう。
案の定、鄭彦は話し出した。「烏洛候は鮮卑の姓で、国の名前でもある。」武独は黙ったまま手に持った杯を弄んだ。
「淮陰候から、あの無名客の過去について聞いたことがある。鮮卑、烏洛候国は、百年前に我が大陳に三戦続けて破れ、民族あげて鮮卑山の奥深くに移り住んだ。ほとんどは名前を隠して猟師などになっていた。だが二十年前、陳、元が鮮卑山で小規模な紛争を起こした。
「長林の役。」段岭が言った。
「そう、長林の役だ。」鄭彦は段岭が知っていたことが少し不思議そうだったが、特に問い返しもしなかった。だが、段岭の方から言った。「相府の奏折でその戦について読んだことがあるんです。」
それは口から出まかせではなかった。相府で学んでいた時、先生が牧磬と自分に長林の役について分析した論文を書かせたのだ。その戦は本当に苛烈なものだった。
「この子は牧磬の伴読なんだ。」武独が口を挟んだ。「知識人をいじめるなよ、鄭彦。知識人の腹の中は真っ黒なんだからな。」
鄭彦は、うん、と相槌を打って、「確かに。知識人は扱いづらい。気をつけないと、筆の力で、何世代にも渡って罵られ続けることになるからな。」
段岭は笑い出した。鄭彦は話を続けた。
「長林の戦いで、陳と元は鮮卑山を戦場にした。残っていた烏洛候国の末裔たちは、度重なる戦乱の中で大勢死んでいった。元が攻め込み、陳が撤退する。陳が反撃に出れば、元が逃げる、といった具合に遊撃が続いたせいだ。当時烏洛候穆はまだ8歳だった。」
「彼の村も破壊されたの?」段岭が尋ねると、鄭彦は、「おそらくな。」と答えた。
「それから鎮命将軍秦兆の麾下にいた黎辛という名の武功の高手が、軍を退く際に烏洛候穆を救った。そして彼を魯南に連れて行って弟子として指導した。秦将軍は淮陰候に手紙を書いてそのことを知らせたんだ。ただ子供を一人とだけ告げて名前を教えていなかったから、その後もずっと誰も烏洛候穆の本名を知らなかったというわけだ。」
「俺は『無名客』と呼ばれていたのは知っていたが。」武独が言うと、鄭彦は手酌で杯を満たしながら、「そうだ。」と言った。「その後で、上梓の戦いがあり、秦兆は殉国した。そしてその数年後、黎氏の淬剣台が一夜のうちに粉々に壊されて、門下の弟子が青峰剣を盗んで逃げだした。白虎堂に追跡令が行ったからお前も知っているだろう。あいつはあちこち逃げ回った末に、最終的には先帝の庇護を受け、麾下に収まった。先帝は鎮山河を持っていたから、白虎堂出身の刺客には手出しできなかった。ご先祖様からの教えだからだ。」
「烏洛候穆がいるなら、俺が東宮の門客になることはないだろう。彼らも俺には目もくれないさ。」武独が言うと、鄭彦が突然笑い出した。「何日か会ってなかっただけなのに、今のお前は人が変わったみたいだな。ひょっとして家や妻を持ったせいで、おとなしくして危険を冒さないことを覚えたのかな。」
武独は言った。「鄭彦、武様はお前を毒殺できないかもしれないが、三か月ほどしゃべれなくさせることなら簡単にできるんだぞ。」
鄭彦は片膝を押さえてゆっくりと立ち上がった。「つまらんなぁ——。いつごろ皇宮に入るつもりだ?」
「傷を負って動けん。送らないぞ。」武独は淡々と言った。「ご縁があればだな。用がなければもう来るな。池に落とされたくなければな。」
「いつまでも待たせるわけにはいかないぞ。何をわざわざ?」
「もう一度言う。送らないぞ。」
鄭彦は仕方なく頷くと笑いながら出て行った。段岭が武独を見ると武独は頷いた。段岭は立ち上がって鄭彦を門の外まで見送った。鄭彦が馬に乗って去って行った後に、奔霄が大門の外で待っていた。鄭彦が連れ帰ってくれたのだろう。段岭は奔霄を裏庭の馬小屋に連れて行って休ませ、頭を叩いてやった。
「彼は太子のために探りに来たんだね。」段岭は武独に言った。
「そう思ったか?」武独が尋ねた。
段岭は頷いた。「きっと太子が奔霄を返しがてら探らせたんだ。」
武独は何も言わずに、部屋の長椅子の上にもたれていて、落ち着いた気分ながら、眉を少しひそめていた。段岭にはずっと疑問に思っていたことがあった。道中で武独に聞くこともしなかったが、今、鄭彦が郎俊侠の話をしたことで、これまでの彼の行動を色々と思い出してきていた。父から聞いた話、上京城内で御者に成りすましたこと。国家が危機に瀕した時に、偽の太子を連れ帰って、牧曠達の布局を乱したこと……。あの日料理に毒を入れ、自分を川に落とした。だが潼関で再会した時には、あのおかしな巡り合わせの中で命を救ってくれ、駕蘭羯との死闘も惜しまず、自らの身の危険も全く顧みなかった。
「あなたが私を助けてくれた時のことだけど、私が侵された毒は寂滅散だと言っていたよね。あれはいったいどういう薬なの?」
「鎮静剤の一種で、毒に侵された者は、話ができず、思考が停止して、生ける屍のようになる。死んだように見せかけられるが、丸一日以内に解毒しなければ、その後も生ける屍として生きることになる。」
段岭は心をぎゅっと引き絞られたような気持になった。「つまり殺す気はなかった。」
武独は段岭を一瞥して言った。「かもな。だがお前を思考を持たない状態に変えることで、彼の命令通りに行動する生ける屍として残しておいて、いつか利用する気だったかもしれないぞ。」
「その毒はどこから来た物なの?」段岭は好奇心を隠せずに尋ねた。
「古くから君主や役人を操るのに使われてきたものだ。つまりこういうことだ。とある辺境の大臣がひそかに勢力を拡大させようとする。殺しはせず、寂滅散を使って暫く操った後で、目的を達成してから遺体を処理するんだ。」
解毒の機会があったということは、郎俊侠が本気で災いの元を取り除こうとしたわけではないことを証明しているのではないか。少なくともあの時点ではだが。段岭は今までに何度もその問題について考え続けた。郎俊侠の毒は、自分を守るためで、毒を飲ませて川に捨ててから、翌日助けに来ようとしたのではないだろうか?いや、そんな考えはあまりにも希望的観測に過ぎる。もう一度郎俊侠を信じるとしたら、自分は愚の骨頂に他ならない。それでずっと武独にさえも相談できなかったのだ。
「彼は潼関で私を殺そうとしなかった。」段岭が再び言った。
「お前を殺せば潼関は混乱するからな。あの夜お前が俺と一緒にいるのを見た時から、あいつはお前のことを気に留めていた。だが俺たちの潼関行きは任務執行のためなのは明らかだった。判断に迷うところだ。再びお前に手を下せば、疑いをもたれるだけでなく、牧相の計画を妨害することにもなる。彼らと牧家とは時に持ちつ持たれつの関係を維持する必要があるんだ。」
「彼には私を殺す絶好の機会が二度もあった。」段岭は眉をひそめた。「でも手を下さなかった。一度は秦岭の峰のてっぺんで、二度目は潼関の城壁で。」
武独はだんだん不機嫌になってきたが、さすがに段岭に怒りをぶちまけるわけにもいかず、気持ちをごまかす様に、うん、とだけ言った。だが段岭は大陳……いや、歴史上最も顔色の読める太子である。彼は武独の様子を観察して、自分が郎俊侠を許そうとしているのが気に入らないのだとわかった。そこでそれ以上話を続けるのは止めて、薬を探しに行き、武独の足の怪我の治療を始めた。足の方は殆ど良くなってきている。あと何日かで、問題なく歩けるようになりそうだが、軒に飛び乗ったり、塀の上を歩いたりするのはもうしばらく休む必要があるだろう。
「怒っているの?」段岭が尋ねると、「何だって?いや……そんなことないぞ。」武独は決まり悪そうに答えた。段岭は武独の踝に薬をつけながら、足の裏をくすぐってやった。
武独は慌てて「やめろ!」と言った。
段岭はまだ彼を押さえていて、武独は顔を赤らめたが、どうすることもできない。以前のように叩くわけにもいかずに、長椅子の上にもたれて大声を出すことしかできなかった。
最後には仕方なく、身を翻して段岭をつかみ、自分の体の下に押さえつけて、片手で彼の両腕をつかんだ。二人はケラケラ笑いながらじゃれ合い、段岭は「もうしない!もうしないから!」と言った。
「本当にもうやめるか?」武独は段岭の腕を押さえつけたまま、耳元で囁いた。「武様にお仕置きさせない方がいいと思うぞ。」段岭は武独を見つめた。二人は共に顔を赤らめた。段岭の目には笑みが浮かんでいたが、心にはさざ波が立っていた。ようやく武独は段岭を開放し、しっかりと座らせた。しばらく二人とも何となく気まずく、何を話せばいいかわからなくなった。幸い、その時外から扉を叩く音がして、武独が「誰だ?」と声をかけた。
段岭が急いで扉を開けに行くと、牧磬が自分から飛び込んできて大声で叫んだ。
「ワンシャン!ずっと待ってたんだぞ!いったいどこで何をしてきたんだ!」
再び牧磬に会えて段岭はやっぱりうれしかった。急いで進み出て抱き合った時、ふと、以前武独に自分が薄情だと言われたことを思い出し、ついつい武独を見てしまった。武独もこちらを見ていて、その表情を見る限り、自分が言ったことを恥じているようだった。
「潼関に行ってきました。」段岭が武独を見ると、武独は「入っていただけ。」と言った。
牧府とは言っても、側院では武独が一家の主だ。武独の許可をとったので、牧磬は靴を脱いで上がって来た。段岭は小机を置いて、湯を沸かして牧磬のために茶をたてた。
(時代から言って、よくドラマにでてくる抹茶みたいなお茶なんだろうな。)
いつものように先に武独に出したが牧磬は別に気にせずに笑いながら段岭に言った。
「武独が怪我をしたから、君が明日勉強しに来れるかわからないって聞いたんだ。まだ待つように言われたけど待てずに、とりあえず君に会いに来たってわけさ。」
「ここのところ、どんな調子でしたか?」段岭が尋ねると、「それ聞くのか——。砂を咬み続けるようだったっつーの。」と牧磬は答えた。
(原文では『口から出て行った鳥が戻ってくるくらい、うざったかった』とムーチンは言っている。検索してみたら、水滸伝由来で、口から鳥が消えたぞ=味気ない、みたいな明代のはやり言葉があったみたいだ。やっぱこの小説は架空の国とはいえ明初期想定なんだな。)
段岭が武独を見ると武独は言った。「王山は明日からあなたとの学習に戻ります。全て以前の通りです。」
「今夜、父上の所に来るのか?父上が君に聞いて来いって。ただの家宴で、人も少なく、酒も飲まない。」
段岭は武独を見た。ずっと隠れているわけにもいかない。戻って来たからにはやはり牧曠達の所に報告に行かなくては。武独は答えた。「すぐに参るべきでしたが、一日遅れても丞相は許して下さると思っております。ええ、もちろん伺います。」
(なんか、この二人は時々昭和の夫婦みたいなんだな)
牧磬は何だか不思議な気がした。武独は今回の任務から戻って来てから随分と礼儀正しくなったようだ。以前のように人を見下したような態度でどんなことも、うん、ああ、ですませようとする感じではなくなっている。「じゃあ、そう伝えておくな。日暮れ頃、辺閣で待っている。」
段岭は立ち上がって見送ろうとしたが、牧磬は手を振って、その必要はないと伝えて、そのまま出て行った。
「牧相は今夜、私に色々聞いて来るだろうね。あまり質問が多いと馬脚を現わしてしまいそうでこわいよ。」段岭が言った。
武独は手を振って、「心配するな。俺を近くにおいておけば代わりに答えてやるから。」
武独は片手を長椅子に置いた。段岭は彼の着替えを探しに行った。相府は上質な袍子を用意しておいてくれた。人は服装で変わる。武独は体が引き締まって、背も高い。蜀錦で仕立てた新袍に着替え、武袖をつけると、まるで別人のようだ。段岭の方も深藍色の袍子を身につけ、光り輝く美玉のようだ。
だが腰飾りがない。段岭は武独の腰元を見て思った。いつかあの玉玦を取り戻したら、『錦綉河山』の方の片玦は絶対彼がつけるべきだ、と。
「どうした?」武独は片時も目をそらさずに段岭の姿だけを見つめていた。
段岭は笑って言った。「なんでもないよ。行こうか。」
第93章 夜宴:
鄭彦は馬に乗って皇宮の裏庭にある馬小屋にたどりつくと、ひらりと馬から降りた。
もう黄昏時で、小雨も降り始めている。
蔡閏はちょうど夕飯を食べていて、近くには郎俊侠が座っていた。
「どうだった?」蔡閏が尋ねた。
「武独と話して探りを入れてみましたよ。」鄭彦は開いていた座卓について、冷茶を杯に入れて飲み干した。「臣の見るところ、どうやら東宮に入る意思はなさそうですね。奔霄も送り返して来ました。」
蔡閏は何も言わずにひたすら咀嚼していた。
「武独の所には少年が一人いるんですね。王山という名前で、あれがおそらく牧相が潼関に派遣した特使でしょう。 殿下が武独を引き入れたいと思われるなら、この機会にあの少年の面倒も見るといいでしょう。」
蔡閏が、うん、と言った時、部屋の外から先触れの声がした。「殿下、お出でになりました。」
「入っていただけ。」蔡閏が言った。
蔡閏が敬語を使ったのに気づいた郎俊侠は少し眉を顰め、殿外を見た。
骨と皮ばかりにやせ細った三十いくつかの男がいた。暗い目つき、荒れた肌、清潔な粗布の袍子を身につけ、顔はあざだらけだ。一陣の風を起こしながら静かに歩き、殿内に入って来た。
「馮(フォン)、殿下に拝謁申し上げます。」男はそう言って、両袖を払って蔡閏に拝礼した。
「彼も恩赦されたと私に言わなかったんですね。」郎俊侠が冷ややかに言った。
鄭彦の方は知っていたので、馮という名のこの男を見てもただ笑っただけで何も言わなかった。(非天先生、いつも、「黙っていた」→の後にすぐセリフを持って来る。)
「今知ったじゃないか。烏洛候穆。殿下はやはりとてもお優しいのだ。怒りっぽくては体によくないぞ。」
郎俊侠は鄭彦の皮肉には構わず、視線を蔡閏に向けた。蔡閏は気まずそうに咳をした。
「馮、立ちなさい。あそこがお前の場所だ。」そして右手で末席を指さした。
馮は郎俊侠と鄭彦に行礼し、だみ声で言った。「罪臣馮、お二方に御挨拶申し上げます。」
「誰もが罪人だ。だからこそ聖賢の教えが必要なのだ。こうして東宮に来たからにはこれからは真面目に生きなさい。」馮はうっすら笑みを浮かべた。蔡閏は彼に一杯与え、馮は力なくすすった。殿外には西風が起き、落ち葉がハラハラと舞い落ちた。まるで庭中が血だまりのようだった。
秋風が静かに吹き、天の川が夜空にきらめいている。
丞相府の中も灯があちこちに点され、様々な色の光で辺閣の宴席を照らしていた。
影絵師たちも来ており、曲を奏でたり歌ったりしながら、幕布に影人形たちを映し出して、虞朝に江州にいた狼男の故事を語っていた。(ちょっとドラマの狼殿下を思い出すな)
席上には蒸し器に入った半斤の雄蟹、七両の雌蟹が給されていた。
牧磬は興味深げに影絵を見ていた。段岭は牧磬に蟹の殻を剥いて渡しながら、時々言葉を交わし、武独は箸で蟹みそや蟹肉を取り出して、甲羅に入れて段岭の近くに置いた。牧磬の相手をしていて自分の方が熱いうちに食べ損なわないようにとの配慮だ。
「私にくれるの?」段岭が笑うと、武独はさっさと食べろと合図したので段岭は蟹を取りに行った。
「遅くなった!」牧曠達が笑いながらやって来た。「遷都が決まって以来、バタバタと色々やることが多くて、すっかり時間に遅れてしまった。」
皆一斉に立ち上がった。昌流君と長聘、牧曠達の両腕たる文武一対が後について入って来た。
武独の面子を立てるためだろう。「お気遣いなく。観劇を楽しんでおりました。」
皆それぞれ牧曠達に挨拶し、牧曠達は長聘に言った。「いつも話にだけ聞く君の師叔(費宏徳)だが、知っていれば王山に足に絡みついてでも連れ帰って来させたのにな。」
皆大笑いした。
「この老いぼれに構わず、食べなさい。元々遠方から戻って来た二人への労いの宴だ。熱いうちにさあ。」牧曠達が言うと、段岭は笑顔で返した。「牧相が御多忙なのは存じ上げておりますので、戻って顔をお見せできたことだけで、ご報告に代えさせていただきます。」
牧曠達は賞賛を込めて頷いた。「今回のお前たちの働きは素晴らしかった。大きな心の憂いを払ってくれた。潼関は少なくとも十年は安泰でいられるだろう。今日陛下には申し上げた。陛下はお前をとても褒めておられたぞ、武独。」
武独は淡々と、うん、と頷いただけで、「丞相の鴻福のおかげです。」と言った。
庁内にいた者たちは武独の変化に気づいたようだった。だが皆一瞥しただけで何も言わず、ただ一人長聘だけが笑いながら言った。「かつては師叔について動くことを常に望んでいたものですが、十年前に別れたきり音沙汰なかったのです。今回、王山小兄弟が先生にお目にかかることができたとは、正にご縁のなせる業としか言えませんな。」
段岭は「費先生はとてもお元気でした。」と言った。
段岭は、これまで全て手紙を通じて伝えて来た情報を、詳細に話し始めた。潼関に着いた時から、最後の一戦に至るまで。実に危うい綱渡りだった。だが、牧曠達と長聘の疑いを招かぬように、殆どの計略は武独が立てたことにした。牧曠達は話を聞きながら時々頷いていたが、長聘はひたすら蟹を食べてながら、その視線は段岭には置かずに、影絵の方に向けられていた。
段岭が話し終えると、武独は潼関での布陣や敵軍の軍事力についていくつか付け足した。
牧曠達が、「武独、お前の兵や陣の動かし方、兵力を固めたり遊撃を行うやり方には天賦の才があるようだ。」と言うと、脇から昌流君が口を挟んで、「趙奎将軍の受け売りだろう。今なら声高らかに歌い上げられるな。」と言った。
牧磬は昌流君の言い分に、プッと噴き出した。段岭は武独を見たが、武独は昌流君の挑発など気にもせず、謙虚に頷いて、「才ある人に何年も使えながら、何も学んできませんでした。勝てたのは皆のおかげです。」と言った。
これには段岭の方が噴き出しそうになった。武独は再び蟹肉をたくさん載せた甲羅を段岭に渡しながら、牧曠達に向かって言った。「間もなく科挙だと思い、シャナルの勉強が遅れてしまうことを恐れて急いで戻ってまいりました。」
「お前も家族持ちになったようだな。太子がお前を褒めていた。戻ったからには、よく考えてみると言い。」牧曠達が武独に言ったが、武独は黙っていた。
「そう言えば、府でもちょうど貼りだそうと思っていたところなのだが。」長聘が興味深げに言った。「来年春の科挙について、ここの府は郷試が免除されることになった。まあ王山の論文なら、三年も待つ必要はないと思う。会試を受けても大丈夫なはずだ。だが、彼の生い立ちについて武先生に教えてもらわねばならない。名帖に書いて夫子(先生)にお渡しするのでな。」
段岭はドキッとした。長聘がそう出るとは思わなかった。自分を探ろうとしているのだ。ただ自分の正体を疑っての探りかどうかはまだわからないが。だがどうやら武独は既に対策を立てていたようで、段岭に向かって言った。「お父上の下の名前は何だったかな?あの頃いつも『大兄貴、大兄貴、』とばかり呼んでいて、名前を度忘れしてしまったようだ。」
「王晟です。」段岭は答えた。
「王晟だ。」武独はため息をついて、考えた末、話し始めた。「ワンシャンは子供の頃から母がおらず、父親は薬商人で、時には医者として病気の診察もしていました。私とは潯北で知り合って、いつも私のために珍しい薬草を探してきてくれました。北に南にとあちこち旅してきたために、普通の子供に比べて知識が豊富です。放浪の暮らしをさせないようにと父親は元々私に彼を託そうとしていたのですが、当時私は誰かの傘下に身を置き、自分のことさえ構えなかったために、この親子を支えることはできなかったのです。」
段岭は父のことを思い出した。武独の語る自分の生い立ちは作り話だったが、時々父の記憶と重なる部分もあり、思わず過去を思い出して万感溢れてきた。
「医者を生業とする者は得てして慈悲深いものだ。先祖の加護もあろう。お父上はいい方だったのだな。」長聘が言うと、段岭は頷いた。武独は再び笑顔を浮かべ、横に座って段岭の肩を叩き、手を牽いて、その手を握って指をこすり合わせた。段岭の心は温かくなった。武独は演技をしているのではない、自分を励まそうとしてくれているのだ。
「この子は小さいころから人に好かれるたちで、父親の恩徳に触れた人たちに様々な技術を教えてもらってきたのです。三教九流(儒教、仏教、道教とその支流)、兵法、鍛冶、蹴鞠、異教の踊り、裁縫、芸妓、範囲が広すぎて私でも全部は把握しておりません。出生の日時、八字によると結婚に向かないということで、王大兄は私について行かせ、ゆくゆくは面倒を見てほしいと言っていたのです。」
「それならお前の言う通りにしよう。」牧曠達はそう言ってから長聘の方を向いた。
「医商世家の王氏、潯北祖籍。上にはそう報告すればいいのではないか。医療関係はまっとうな職業だ。他のことは書かなくてもいいだろう。」
長聘は笑いながら言った。「残念ながら医療の知識は活かせないだろうが、役人として世を治め、世の中の病根を取り除くのも悪くはないだろう。」
それは段岭を高く評価しての言葉だった。段岭は急いで長聘と牧曠達に礼を言った。
牧曠達は卓に置かれた酒を一杯武独に渡し、「黄酒を少し飲んで蟹で冷えた胃を温めなさい。お前がけがをしたのはわかっている。暫くの間、府に留まって静養するといい。考えが決まったらまたお前に仕事を頼むことにする。」
牧曠達が言わんとしているのは、太子が自分を欲しがっている件だと武独にはわかった。
牧家に有利と見れば、牧曠達は当然自分を東宮入りさせるだろう。自分が牧家に報告する意思があるなら、東宮の動向を掌握できる。しかも耳目となる者は毒に精通したこの武独なのだから。
だが、段岭の考えは別の所にあった。以前太子が武独を呼び出した時は、武独の忠誠心を信じて牧相府に置いておくためだった。牧曠達の家臣でいる方が役に立つのに、なぜ考えを換えたのだろうか?
「これ以上はやめておきます。この酒は後に残るので。」武独は手を振った。そして、杯に残した酒を段岭に手渡したので、段岭は飲んでみた。だが牧曠達と長聘はこの後も議事が残っているので、二人は先に戻って休むことにした。
回廊を通り抜けて相府を出た時、武独が急に、「見てみろ。」と言った。
夜空に天の川がきれいに出ていて、狭い路地の上にかかっている。二人は脚を停めて、七夕の夜のことを思い出していた。
「お前の誕生日を祝うのをすっかり忘れていたな。あの日は戦争になったせいで、他の全てのことを忘れてしまった。」武独が段岭にそう言うと、段岭は小声で言った。「私の誕生日は十二月なんだ。まだ間に合うよ。」
段岭と武独は部屋に戻った。二人とも少なからず酒を飲んでいた。武独はよっこらしょっと床に横たわり、酔った目を開けて段岭を見た。段岭も気だるげに片づけを終えるとすぐに武独の隣に身を横たえた。
「東宮に入りたい?」段岭が尋ねた。
武独はしばらく黙っていたが、「烏洛候穆と太子の悪事の証拠を探せるかもとは思っている。」と答えた。段岭は言った。「私はいつもあなたの近くにいたいよ。離れ離れになりたくない。」
「だったら行かない。」武独は手を伸ばして段岭の肩の上を軽く叩いた。それから横を向き、二人は向かい合って床の上に横たわり、互いを見つめあった。
「まだ時間はある。牧相は科挙が終わったらきっともう一度あなたの意思を尋ねるだろうから。」段岭が言った。
武独は眉をひそめた。「何でそう思うんだ?」
段岭が答えた。「彼はあなたの忠誠心を確信したいはず。だから私を相府に置いて、あなたを牽制すると思うんだ。」
武独はすぐに理解した。ということは、牧曠達は自分たち二人の感情が深まったことに気づいている。だから段岭を門生として育て上げることを交換条件として、武独を門客という立場で太子の近くに置く暗棋に仕立てたいのだ。
「ただ私がわからないのは、」段岭は少し酔った勢いから、両手で武独の顔を覆った。
「太子が何で急にそんなにもあなたを欲しがるようになったかってことなんだ。以前の態度とはまるで違うでしょう?」
だが武独にはもう段岭の話は聞こえてこなかった。酔いが現れた目に映るのは段岭の顔だけだ。段岭の瞳は潤んでいて、まるで星明かりが映っているように輝いていた。
「段岭。」武独が言った。
「うん?」段岭はふと思った。武独一人さえ、いつまでも自分の傍にいてくれれば、人生は本当に素晴らしいだろうと。武独が牧曠達の前で言ったように、彼は家族を持てず、段岭自身も家族を持つことなどできない。こんなに多くの秘密を抱える身では、あまりにも危険を増やし過ぎるだろうから。
「お前はいつか皇帝になる。」武独が言った。「今日牧相の前で言ったのは事実ではない。いつかお前は美しい太子妃を娶ることになる。その人はお前の皇后になるだろう。お前には子供ができ、孫もでき……。」
段岭は答えた。「結婚なんてしないよ。」
「俺を、武独のことを覚えていてくれ。」武独は酔いを帯びた口調で言った。「今夜のことを覚えていてくれ。俺とお前が相府の床に一緒に横たわっているこの夜のことを……。」
「しないってば。」段岭はもう一度言った。
彼はもうとても眠かったが、眠りに落ちて行く間に、考えていたことの答えが閃いた気がした。ひょっとしたら太子は牧曠達が自分に毒を盛ろうとしていることに気づき、身の危険を感じて、落ち着かない日々を送っているのかもしれない。;それから父の言葉を思い出した。
一切を与えられても執着をやめられない人がいる。誰かがその人の持てる一切を渡して来たら、相手にも当然自分の一切を渡し返すべきなのに……。
段岭は武独の懐で眠りについた。
武独はゆっくりと目を閉じ、下を向いた。そして桂花黄酒の匂いがうっすらと残る唇をそっと段岭の鼻に押し当てた。
第94章 学生の護り方:
翌日段岭が目覚めた時、武独は庁内でぼんやりと、段岭の起床を待っていた。卓の向かい側には朝食用の粥が置かれている。
「今日は勉強に行くんだろう。」武独は碗を持って段岭に向かってそう言った。
段岭は勉強に行くことを思い出すと同時に少し心がざわめいた。まるで昔に戻って上京の家で李漸鴻に言われたかのようだった。「息子よ、今日は勉強に行くんじゃないのか。」
いつだって父に傍にいてほしかった。離れ離れにならないで済むならどんなによかったことだろう。辟雍館に入学した時は牢に入れられたような気持になったものだった。
それと郎俊侠はもう殺しに来ないだろうか。そんな暇はないかもしれないが、そもそも既に蔡閏に自分が生きていることを話したのだろうか。
「じゃあ、あなたは家で何をしているの?」段岭が尋ねると、武独は、「お前のことはちゃんと守る。心配するな。」と答えた。
「たぶん大丈夫だよ。牧磬がいる時は昌流君もだいたいいるし、例のあの彼は……私を探しにあそこまで入って行って面倒を起こすことはないと思う。」
すると武独が段岭を見たので、段岭は話を続けた。「あなたの怪我はまだ良くなっていないんだから、動き回ったらだめだよ。」
「足はもう殆どいいし、右手で剣を使える。」武独が答えた。
まさか武独は梁の上に座り込んで自分が勉強しているところを見張るつもりじゃないだろうか。毎日のことだ。それはあまりに大変すぎる。だからと言って太子として命じるわけにもいかない。武独を怒らせてしまうから。
「家で待っていたら寝てしまう。さあ早く食べろ。食べたら行くんだ。余計なことは言わなくていいから。」段岭は諦めて言った。「万が一昌流君に会っても喧嘩しないでね。」
「奴とは意見の相違があるだけだ。」
朝食を終えた段岭が片づけを始めると、武独はそんなこといいから、早く行けと急かした。
仕方なく段岭は書物を抱えて門を出たところで、振り返った。武独が箸や碗を片付けていた。辺院には僕役を入らせないことにしたので、食器は盆にのせて戸の外に置き、彼らに片付けさせるようにした。
「行ってきます。あなたは来ないでね。」段岭は武独に言った。
武独はさっさと行けという仕草をした。
段岭はあちこち廻って道に迷いかけた。新しい相府は西川の時より大きくなっていて、書堂にたどりついた時には牧磬と先生は先に来て待っていた。慌てて謝り、以前の規則通りに、牧磬と向かい合って座った。暫くすると、昌流君がやって得来て、牧磬の近くに座った。
しかも小机を持ってきてその前に胡坐をかいて座っている。
「何しに来たんだ?」牧磬が尋ねた。「勉強のお付き合いをしに。」覆面をつけていてわかりづらいが、昌流君の口調は少し不機嫌そうだ。
段岭が興味深げに目をやると、昌流君は《千字文》を両手で広げていた。彼は文盲だと牧曠達が言っていたのを思い出し、危うくお茶を机の上に噴出しそうになった。ひょっとして夕べ武独に痛い所を突かれて、これからは書けて読める刺客になろうと決意したのだろうか?(『才ある人に仕えながら何も学んで来なかった』ってところか。)
「以前学んでいたところを覚えているかな?まずは復讐しよう。」先生が言った。
「はい。」段岭の記憶力は抜群だ。西川を出る前に学んでいた《大学》をめくって、三章を暗唱した。先生は頷くと論文作りを教え初め、次は牧磬に言った。「しばらく遊んで来られたのですから、今日からは怠け心はしまい込んで勉強を始めましょう。ワンシャンも戻って来たことですし。またふざけた態度をとるようでは、手を板で打つことになりますが、恨まないでくださいね。」
どうやら牧磬は遷都以降勉強をさぼっていたようだ。先生にとっては全く頭の痛いことだろう。段岭は昌流君の方を向いて言った。「黄。天地玄黄、の黄です。」
昌流君は頷いたが声は出さなかった。
「王山、上ばかり見てどうしたのかね?」先生が尋ねた。
「何でもありません。夕べ寝ていて首がつったようです。」
実は梁の上に武独の姿がないかと探していたのだが、どうやら見つからない。まあ昌流君がいるのだから、武独が来る必要はない。だが、すぐに走廊から木履の音が聞えて来た。
「いったい誰が建てたんだ。あちこち曲がってばかりで、牧相自身は自宅で道に迷わないのか?」武独が言った。
書堂にいた者たちは一斉に武独を見た。武独は木履を脱ぐとしゃがんできちんとそろえ、まずは夫子(先生)に挨拶してから、小机を運んで段岭の横に座った。
一同:「……。」
「お前まで来たのか。」牧磬が言った。
「彼の勉強に付き合うためです。」武独は答えた。「『教え有りて類無し。』夫子、合ってますか?」
夫子は言った。「教え有る場に類無きように。学堂では喧嘩はご法度だ。」
段岭は、まさか武独の言う、「しっかり守る」方法がこんな公明正大なやり方だとは思わなかった。思わず笑ってしまう。だが武独は段岭の紙と墨を指さして、自分に構うなと伝えて来た。そして、無意識に昌流君の持つ《千字文》に目を遣ると、不思議そうに尋ねた。
「昌流君、お前は字が読めなかったのか?」
瞬間、空気が凍り付いた。
「復讐するんだそうだ。」牧磬がすぐに口を出した。
「古きを温ねて新しきを知る、を以て師と為べし。」段岭が言葉を補った。
昌流君:「……。」
武独は頷くとそれ以上何も言わなかった。昌流君は顔中汗だくになり、声を出して読むことはできなくなった。夫子は二人に論文を書かせ、一度立ち上がって出て行った。
夫子が出て行ってしまうと、段岭と牧磬はほっとして足を崩した。夕べ飲み過ぎた牧磬はまだ頭が痛く、机に突っ伏して眠り始め、段岭はだらりと小机にもたれて手をつき、片足を武独の太ももに乗せた。秋の日の光が燦燦と輝き、窓の外から入って来て、皆を暖かく照らした。ふと、段岭は、人生って素敵だなと感じた。勉強ですら意義深く感じる。もう孤独には感じなかった。
その様子を見た牧磬はちょっとやきもちをやいたようだ。「ワンシャン、こっちに来いよ。話がある。教えてほしいんだ。」だが段岭が立ちあがろうとすると、武独が言った。「まだ昼休みにもなっていないのに、何をしているんだ?」
仕方なく牧磬は座り続けた。結果、夫子は戻ってきた時に、二人の前にちゃんと論文が出来上がっているのを見ることができた。
その時鐘の音が聞え、昼食の時間を告げた。四人は食盒を以て走廊の木板の上に横一列に座って話しながら食べた。牧磬と昌流君は半分くらい食べたところで呼び出され、後には段岭と武独の二人が残された。
「二人はどこに行ったんだろう?」段岭は武独に言った。
「多分客が来たんだろう。もっとうまい物を食べに行ったんだ。お前も食べたいか?」
段岭は手を振った。午後の秋風は気持ちがいい。木の葉の間をサラサラと通り抜け、風鈴をチリチリと鳴らせている。陽光が斜めに差し込んでくる。江州は本当にいいところだ。四季がはっきりしていて、西川のようにいつも陰鬱な感じではない。
武独は段岭が疲れているように見えたので、自分にもたれかからせた。二人は回廊で寄り添い合って軽くひと眠りした。目が覚めた段岭は目を擦った。牧磬はまだ戻らず、武独は彼に剣の指南をしてくれることになった。それぞれが物差しを持つ。武独は片手を背に当て、背筋をしゃんとさせて庭の中にまっすぐに立ち、段岭に手本を見せた。
「肩を高く上げすぎだ。劈山式では、肩ではなく腕で型を決める。肩を上げたら斬り落とされてしまうだろう?」武独が言った。
段岭は見様見真似で猛然と打ちにかかった。だが、武独がひらりと身をかわしたので、段岭はつんのめりそうになった。武独は笑いながら、片手で段岭の腰を支え、抱え込んで起こしてやった。
「もう一度。」武独が言った。「俺の足が治ったら、今度は壁を飛び越える軽功を教えてやろう。」
その時牧磬が戻って来て、段岭に何かを渡して、「君にやる。」と言った。
それは珊瑚珠だった。段岭は一目でそれが元人の物だとわかった。これまで牧家にこういう珠はなかったように思うのだが。「これは、どうしたんですか?」段岭が尋ねた。
「父上にもらった。君にも一つ渡せと言われたんだ。」牧磬が言った。「剣の練習か?私にも教えてもらえるか?」
武独は牧磬が段岭に物をくれたのを見て、お返しもしないのはよくないと思い、彼に何手か教えてやることにした。段岭と牧磬は互いに打ち合って練習した。傍で見ていた昌流君が「お前は二人に山河剣法を教えているのか?!」と言った。
「お前には屁ほども関係のないことだ。」武独が答えた。
段岭:「……。」
今や白虎堂に残っているのは武独だけだ。当然彼が当主ということで、教えた人に教えられる。昌流君には口を挟めず、側で見ていることしかできないのだが、最後にもう一度尋ねた。
「心法は見つかったのか?」
「まだだ。」武独が答えた。
昌流君は嘲り笑った。「心法がないなら、形だけ練習して何になる?」
武独はイラついて言った。「グダグダ言ってないで、字の勉強に行け。」
昌流君:「……。」
その日から、武独と昌流君が段岭と牧磬の学習に加わった。昌流君は時々牧曠達に同行したが、武独の方は毎日いる。だんだんと寒い季節になり、書堂に火が置かれるようになった。
それから初雪が降り、日中の気だるさが増した。冬になると、武独は既に暖炉代わりだ。全身が暖かくて、手も足も温められる。段岭は片時も離れられなくなり、牧磬が嫉妬心を抱くほどだ。
江州の雪はサラサラしていてとてもきれいだ。風に舞って、あらゆる植物が薄い白妙で覆われたようになった。
今日は武独が書堂に着いたばかりのところを牧曠達に呼び出され、火にあたりながら楽しそうに談笑している段岭と牧磬を置いて出て行った。しばらくすると武独は急いで戻って来て、書堂の外で段岭に言った。「おれはちょっと王宮に行かなくてはならなくなった。」
「何かあったの?」段岭が尋ねた。
「わからん。なんでも外国の使節が来たとかで、陛下直々のお達しで、俺に彼らに会いに来るようにとのことだそうだ。」武独が答えた。
「だったら早く行って。夕飯には帰ってこられそうなの?」
「残念ながら宴もありそうだ。夜の内には戻って来るから、お前は自分でよく……。」
段岭は武独の言葉の後半が、「自分でよく気を付けるように。」だとわかり、頷いて見せた。
江州に戻ってまる三か月たったが、郎俊侠はまだ殺しに来ないし、太子の方も何の動きも見せない。もう自分のことは気にしなくなったのだろうか?段岭はだんだんと警戒心が薄れて来ては、気を引き締めなくてはと思い直して、注意を怠らないよう自分に言い聞かせている。
「シャン。」牧磬が段岭に声をかけ、段岭ははっと我に返った。「勉強しましょう。正月には試験があるのですから。」
牧磬はいつも段岭をこう呼ぶが、段岭は何か変な気がしていた。ただ下の名前を呼び捨てにしているだけなのだが、何となくなれなれしすぎるように感じるのだ。
「武独はすごくずるがしこいんだ。」牧磬は真剣そのものの表情で言った。「絶対に君を騙しているぞ。」
「何ですって?」段岭は『騙す』と『武独』が一緒に入った一文を耳にして、たちまち頭皮が痺れ、お腹が痛くなり始めた。(翻訳のせいで二文になっちゃったか)
「長聘が言ってたんだ。武独を信じてはダメだ。奴は君を思い通りにしようとしているんだから。」牧磬が答えた。
「いえいえいえ。彼が私を騙すはずがありません。」段岭は弁解し始めた。
武独が立身出世を求めるならば、自分の命はとっくに終わっていたはずだ。こんな風に牧磬と座って話なんてしていられるはずがないではないか?
牧磬は話を続けようとせず、書をめくった。段岭は少し好奇心を持った。牧磬が自分に良くしてくれているのはわかっていた。だが自分は薄情で、事情を話すわけにもいかない。いつか自分が王朝に戻ることに成功した暁には、牧家は自分を敵として反目するだろう。自分は牧曠達の秘密をあまりにも多く掌握してしまった。牧家はある意味自分の恩人でもあるというのに。だからこそ気持ちを押さえて牧磬と親しくなり過ぎないようにしているのだ。勉強や試験のこと以外には距離を置いて、友情をはぐくむ機会を彼に与えようとしない。それはいつかつけを支払う日が来たら、互いに余計苦しむことにならないためだ。
「長聘は何と言っていたのですか?」段岭は鋭敏に感じ取っていた。牧磬から今聞いた話は、長聘が直接言ったことではなく、何かの話の途中で出た言葉なのだろうと。
第95章 逃避行の行き先:
考えてみれば、段岭にとってこの世で一番申し訳なく思う相手は牧磬だった。以前交流があったどの友達に対しても真心で接していたのに、牧磬のことだけはいつも境界線の外側に置いている。もし十歳の時に知り合っていたなら、二人はきっと大の仲良しになれただろうに。
「長聘先生の話だと、武独は君をずっと傍に置いておきたくて、君の八字(誕生日時の命数)が結婚に向かないと言ったんだって。君を誰かに取られたくないからだ。君だってそれはひどいと思うだろう?」
さすがは長聘、と段岭は思った。あの夜の武独の言葉は自分でも確かに少し意外ではあったが、長聘はあんなちょっとした言葉まで、ちゃんと聞き逃さなかったのだ。
後から考えてみると、あれは一種の態度表明だった。牧家が私(段岭)に姻戚を迫って来たら終わりだから。牧曠達がどこかの女性に娘を生ませてないとは限らないのだし。
牧磬の話の前後には色々な情報があったはずだ。長聘が何の理由もなく段岭の結婚について話すわけがない。きっと牧曠達と話していた時に、牧磬に何か尋ねた流れで聞いた話なのだろう。
「別に大丈夫ですよ。」段岭は僅かに微笑んで言った。「武独と一緒にいられるなら、どちらでもいいことですから。」
牧磬の話を聞いて段岭は思った。自分の進む道がどうであれ、武独とはいつまでも一緒にいられるだろう。父さんのように独りぼっちでさすらうことなど自分にはできない。父を想うと、そんな生きざまが不思議でならなかった。時には蔡閏の方がまだ理解できる。戻って来てからまだ会ったことはないが、蔡閏は不安と恐怖に押しつぶされそうになって唯一すがった藁が郎俊侠だったのだろう。
牧磬の方は、武独が恩着せがましく段岭を縛り付けているのだと、段岭のために腹を立てていたのに、こんな風に言われては、それ以上武独の悪口を言えなくなってしまった。そこで仕方なく頷き、「君が好きならそれでいい。」と言った。
段岭は笑いがこみあげてくるのを感じた。頭の中に光景が浮かぶ——牧磬が長聘と父の会話を聞いて段岭に言いつけてやると息巻いている。牧曠達が彼には言うなと諭しても言うことを聞かない。牧磬は信じがたい話だと思ってせっかく教えてやったのに、その結果がこうなった。『私には人の気持ちが読める。』牧曠達はいつもそう言っている。段岭にもそれはよくわかる。だが、気の毒に彼の息子は全く人の気持ちが読めない。時々思うことがある。自分の方が牧曠達の息子のようで、牧磬の考え方はまるで自分の父親の李漸鴻のようだ。二人の父親が入れ替わった方が全てしっくりするのではないか。
「何がおかしいんだ?」牧磬が尋ねた。
「成長されましたね。」段岭が言った。
牧磬:「年寄り臭いことを言うなよ。」
「潼関にいた時、あなたにとても会いたかったです。」段岭が言った。
牧磬は笑って言った。「父上は遷都で忙しく、私の方は退屈で死にそうだったよ。毎日毎日君が帰って来るのを待っていたんだぞ。」
実は牧磬を思い出したことは一度もなかったが、ここでこう言えば、きっと彼は喜んでくれる。未来はわからないが、自分には好意を寄せてくれる人がいる。一人は武独で、一人は牧磬だ。ただこの二人のいる世界には天地の差があるにはある。
外では粉雪がひらひらと舞い落ち、二人は火にあたりながら、全く勉強する気になれなかった。段岭はいっそ書を放って、牧磬に向かって言った。「どこかに遊びに行きたいですね。どこに行きたいですか?」
牧磬はまさか勉強熱心な段岭が自分から遊びに誘ってくるとは思わず、目を輝かせた。
「行こう!君を連れて行きたいところがあるんだ!」
半日だけの逃避行が決行された時、ちょうど府には誰もいなかった。段岭はさっさと荷物をまとめて服を着替えに戻ると、牧磬について出て行った。馬車が路地の入り口に止まっている。段岭は尋ねた。「どこに行くんですか?」
「着いたらわかるさ。」牧磬は答えて、腰巾着をひっかきまわし、腰牌を探し出して握りしめ、段岭の手には手炉を持たせた。
「何者だ?」
馬車が暫く進み目的地に着くと、外を護っていた守衛が尋問してきた。答えようとした段岭に牧磬は何も言わないように指示し、車窓から腰牌を出して、「私だ。牧家の者だ。」と言った。
「牧家の若様。お一人で起こしですか?」
「父上に会いに来たんだ。」牧磬が言った。
守衛は腰牌を返して馬車をそのまま通した。段岭は思った。内閣に行くのだろうか?牧曠達の職場の?内閣だったら、一度見に言ってみたかったところだ。だが牧磬はずっと自分に黙っているように言ったまま、いくつもの検問所を通り過ぎた。馬車はあちこち曲がってから、ついに最終目的地に着き、牧磬が、「よし。降りよう!」と言った。
午後中小雪が舞い散り、どこもかしこも湿っている。馬車を下りた段岭はどこかの庭にいることに気づいた。塀は人二人分くらいの高さで、どうやら裏庭のようだ。
「いったいどこなんですか?」段岭は好奇心いっぱいに尋ねた。
牧磬は何も言わずに段岭を引っ張って、院内にある別の門に入って行った。内閣ってこんなところだっけ?進んで行くうちに、だんだんとまずい、まずい、と感じて来た。走廊と庭園を通り過ぎた時、まるで叩き起こされたかのように愕然とした。ここは皇宮だ!!
「皇宮なんですか?」段岭は驚きに目を見開いた。
牧磬は大笑いした。段岭の見識を広めてやろうとして連れて来たのだ。彼の驚愕の表情を見て大得意だ。ただ牧磬が知らなかったことは、初めて来たこの場所は、実は段岭の家だったということだ。
段岭は頭の中で色々分析した。万が一にも今ここで蔡閏に見られてはならない。だが、もし蔡閏に出くわしたらどうなるだろうか?皇宮内で無意味な人殺しを命じるか?そう考えると、段岭は焦りと共に、一種の刺激を感じた。
牧磬はどうやら道に迷ったようで、「まずいな。西川ではないことを忘れていた。江州宮はこんなに広いのか。道が全然わからなくなった。」と言った。
段岭は、「焦らないで、聞いてみましょう。」と言った。
二人は侍衛が何人か回廊の下に立っているのを見つけた。隊長らしき武将が何か指示をしているところだった。段岭が進み出て道を尋ねようとすると、急にその武将が振り向いた。
その瞬間、牧磬は青ざめ、急いで段岭を引っ張って、「ダメだ、行くな!」と小声で告げた。
段岭:「?」
そう言われても段岭は既に武将の視線が届く範囲内に来ていた。彼は話を終え、突然現れた段岭に気づいた。その男性は身の丈八尺、剣の様な眉に眼光鋭く、黒甲冑姿で背には古朴な玄鉄盤龍棍を負っていた。
段岭の方は、毛皮を纏って相府書堂から出て来たばかりで、身だしなみも整えておらず、髪は前後にバラバラと下がり落ちていて、手には牧磬からもらった珊瑚珠の腕輪をつけていた。男性は一瞬身を震わせた。信じがたいといった表情で段岭を見つめる。まるで幻覚でも見たかのように。
段岭:「……。」
武将は今にも気を失いそうだったので、段岭はドキドキしながらも、手を伸ばして彼を前から揺さぶった。
「君は……。」武将は眉をひそめて言った。
風雪が過ぎる中、段岭は微笑みながら、まっすぐに立ち、武将に向かって礼儀正しく拱手した。まるで時間が後戻りし始め、天から舞い落ちて来た雪さえも、天際に向かって戻って行くかのようだった。光陰が逆流し、宮中の木から落ちた枯葉が枝に戻り、散った花が咲き初め、紅葉は緑になる。時光がゆがみを生じて無数の光景が瞬時に駆け巡り、あの年の塞北江南に戻ったかのようだった。
私は北海、君は南海、雁に手紙を頼んでも、遠すぎるよと断られ。
桃李春風一杯の酒 江湖夜雨十年の灯。(黄庭堅)
「在下、王山と申します。皇后殿下のお住まいはどちらかお教えいただけませんでしょうか。」段岭が言うと、謝宥はようやく我に返った。その時になって牧磬が段岭の後ろに走って来た。そして謝宥に向かって気まずそうに笑いながら、「謝将軍、伯母上に会いに来たんです。」と言った。
「謝将軍に御挨拶申し上げます。」段岭は急いで付け足した。
一瞬我に返っていた謝宥は再び放心状態に陥ってしまった。雪のかけらが舞い飛んできて、段岭の眉の上に落ちた。段岭は少し所在無げに少し眉を上げてみた。
すると、謝宥はゆっくりと手を上げて、走廊の奥を指さした。牧磬と段岭は急いで拱手して感謝を伝えた。牧磬:「ありがとうございます。謝将軍。」
「ありがとうございます。謝将軍。」段岭も牧磬に続けて言った。
(原文では『謝謝将軍。』なんかおもしろい。)
牧磬は段岭を引っ張って大急ぎで走り去った。謝宥は走廊に立ち尽くし、頭の中を金づちで叩かれたかのような眩暈を感じていた。
「あれが謝宥。重兵を持つ江州第一の武将、鎮国上将軍だ。」牧磬は段岭に説明した。
段岭の心は揺らいでいた。謝宥は自分の正体に気づいたのだろうか?きっと違うだろうな。武独や牧曠達でさえも気づかなかったのに、謝宥が気づくなんてことがあるか?母親似で、父に似ていない容貌は今や一種の隠れ蓑になっているのに。
「殺気に満ちていますね。先ほど私に向けられた眼差しと来たら、まるで私を殺したいかのようでした。」段岭が言った。
「あいつは誰に対してもそうなんだ。」牧磬は一年前に謝宥にあった時の印象が忘れられない。夏の嵐の中、牧曠達が李漸鴻の前に彼を連れて行ったのだ。息子を李漸鴻の徒弟として与えるためだったが、謝宥の威勢のほうが、牧磬には印象深かったのだ。
二人は長秋宮にたどりついたが、皇后牧錦之はいなかった。だが宮女が牧磬に気づいて笑顔で言った。「あらあら、急にいらしてどうしたのですか?」
「おば上は?」
「陛下と一緒に御花園の方にいらっしゃいます。」宮女が答えた。
牧磬はとりあえず、宮女に、長秋宮に置いてあった服を持って来させ、段岭と共に着替えることにした。牧磬の小姑ということは、牧錦之、つまり現王朝の皇后だ。言うまでもなく、こうやって訪ねて行けば、李衍秋に会うことになる。急に心臓がどきどきし始めた。それに万が一蔡閏と郎俊侠に出くわしたら一体どんな状況になるだろうか。
それに武独も皇宮に来ているはずだ。武独はどこにいるのだろうか?
段岭はやはり躊躇した。「私はやはり……顔を出すわけにはいきません。遠くから見るだけにさせていただきます。あなたが私を連れて来た時点で、すでに規則違反なのですから。」
牧磬が言った。「大丈夫さ。皇后は私の小姑で、陛下は私にとっては姑丈なんだ。何を恐れることがある?」
「いえいえ。私はやっぱりすこし怖いですよ。」段岭が言った。
段岭が恐れを抱かないはずはないだろう。こんな風にいきなり李衍秋の前に出て行ってしまえば、事態は掌握の手から完全に逃れてしまう。彼は執拗に断り、牧磬は仕方なく、
「わかったよ。遠くに立って眺めるだけにしよう。こっちも色々質問されなくて済むしな。」と言った。
御花園の外に着いた頃には雪は既にやんでおり、皇宮内は白玉の彫刻のようになっていた。御花園の光景を見た段岭の心は震えた。庭園に向かって亭内に置かれた小机の後ろにあの人が座っていた。庭園の中には、空いた場所があり、その周りを大勢の人が囲んでいた。
「真ん中におられるのが陛下だ。」牧磬は段岭を柱の裏に立たせて、説明した。
李衍秋の隣にいる女性は、当然牧錦之だろう。左側には一人の若者が座り、その後ろには牧曠達他二名の官員が座っている。元人の装束に身を包んだ使者が右側の主賓の席についている。
「元人が来たのですね。」段岭は手に付けている珊瑚珠のことを思い出した。やはりそうか。
「今日は十二月六日、太子のお誕生日なのです。」先ほどの管事職の宮女が二人に説明した。
「元人は使者を遣わして太子のお誕生日祝いに、贈り物を持って来たのですわ。」
段岭は頷いた。亭外の空き地に四人の男が立っている。互いに話したりはしていない。あれは、昌流君、郎俊侠、鄭彦と武独だ。段岭は一目で武独を見つけた。武独はどうやら既にうんざりしているようで、腕を抱えて城内を注視していた。
二人の元人が太子に、相撲の取り組みを披露していた。段岭は自然と名堂時代にバドに教えてもらった相撲の技を思い出していた。
(ん?ここで終わるの?)
―――
謝将軍の記憶が高速で巻き戻されていく過程の描写は、ドラマやアニメっぽいし、その後に、本編とは関係ない詩がいきなり挟まれるのは、まるでミュージカルでいきなり歌のパートが始まったり、ドラマで、主題歌やイメージソングが挿入される手法に似ていて、それがまた古詩だったりするのが、メディアミックスで、しかも絶対中国人しかできない手法だなといつも興味深く感じてしまう。