非天夜翔 山有木兮 日本語訳 第21章:

非天夜翔 山には木があり

第21章 黄布の包み:

 

「外の様子はどうだった?」姜恒はまた尋ねた。「奴らは侵攻してくるだろうか」

項州(シェンジョウ)は考えた。「難しいところだね。ちょっと待って…」

外から足音が聞こえてきた。

項州は覆面をつけ立ち上がろうとしたが、姜恒はすぐに彼を押して、大丈夫だと合図した。彼は何年も晋廷内にいて、足音で誰かわかる。案の定、しばらくすると、趙竭(ジャオジエ)が門外に現れた。

 

趙竭は項州を見た瞬間、剣に手を置いたが、それが項州だとわかると、手を離した。

「またこのダンマリか。」項州の軽い口調で姜恒は気づいた。「知り合いなの?」

趙竭は答えず、姜恒を見て、手招きした。項州は眼中にないようだ。

「王が私をお呼びなんですか。」

趙竭はうなずき背を向けて出て行った。項州は「行こう。今は、天子のそばにいるのが

一番安全だ。」と言った。

 

項州は姜恒の手を引いて、御花園の前の長い廊下を通り、本殿の中に入った。

項州が夜行服を着ていることにようやく気づいた。暗闇の中の黒豹のようだ。

半身が溶けた雪でびしょびしょになっている。

 

―――

「そなたにいくつか言いたいことがある。」姫珣(ジシュン)は王座に座り、目に笑みを浮かべて姜恒を見てから覆面をした項州に視線を落とした。項州が誰なのかには少しも関心がないようで、「姜卿と二人だけで話をさせてくれないか。」と尋ねた。

 

項州はうなずいて、姜恒に向かって言った。「俺は耿曙を見に行ってくる。敵軍を退ける方法があるかもしれない。」

姜恒は彼の大きく暖かい手を離し、心配そうに「くれぐれも気をつけて。」と言った。

項州はまた微笑み、姜恒の頭を触ってから部屋を出た。趙竭はずっと項州を待っていたようだ。項州が来ると、二人で肩を並べて去っていった。

 

殿内では火鉢が盛んに燃えているが、姫珣の顔は青ざめている。「そなたの家の侍衛か?」

姫珣が尋ねた。姜恒は首を横に振って、「母の友達です。」と言った。

姫珣はそっと言った。「こんな時に来るなら、きっととても良い友達なのだろう。」

「そうですね。」姜恒は潯東を離れた後、項州が守ってくれていたと言いたかったが、今はそんな時ではない。姫珣には重要な話があるに違いないと思い、余計なことを言わなかった。

彼は姫珣の目の前の天子卓の上に、小さな黄色い布包みが置いてあることに気づいた。

手のひら大で、それまでは見たことがなかった。

姫珣はしばらく黙っていたが、広々とした殿中で、真剣に「姜恒」と言った。

姜恒はなぜか不吉な予感がした。

姫珣は「上がって、これを持っていきなさい。」と言った。

「これは……何ですか。」姜恒はドキドキした。姫珣はまた「大丈夫、上がって。」と言った。姜恒人生で初めて御段を上り、天子卓の前に来て、ひざまずいてそばに座った。姫珣は黄布包を開けて、彼に見せた。中は手の平手大の薄い印、三寸四方、一寸の厚さだ。真っ黒で、どっしりとしている。

「一に金、二に玉、三に剣、四に神座。これが『一金』、天子金璽だ。普天下唯一の。」と姫珣は言った。「洛陽城が破れたら、それを身につけて持って行き、誰にも知られないようにしてほしい。」

姜恒:「!!!」

姜恒は信じられないまま姫珣を見た。姫珣は言った。「これはお父上の黒剣と同じ起源を持つ。3000年前、天外の隕石鉄で作られたものだ。『金璽』と呼ばれているが、金ではない。

黒剣を除いて、何物でも切ることはできない。」

 

「いえ、いけません。」姜恒は、それが大晋、さらには神州大地王朝全体の正統を象徴する国器であることがわかった!

「持っていくのだ。これは私がそなたに託した使命だ、姜恒。」

姜恒はついに事の深刻さに気づいた。それまで言ってきたことは自他を欺くための言葉に過ぎず、この29歳の天子は、誰よりもよくわかっていた。晋天下は、もう終わりなのだと。

 

姫珣はそれを元のように黄色の布で包み、姜恒が受け取るのを見た。姜恒は目に涙を浮かべて、戸惑い、「いったいどこに持って行ったらいいのでしょうか。」と尋ねた。

「好きなようにすればよい」と姫珣は言った。「守れないと思うなら、誰もいない場所を探したり、湖の底に沈めてもいいし、ずっとそばに持っていてもいいだろう。姜卿、約束してくれ、そなた自身の目でこの世の中を見に行くのだ。」

姜恒は姫珣を見ている。

姫珣「……大争の世、王道の式微。五国の争いは、天下の人々を無休の戦火に陥れたが、いつか、誰かがこの乱世を終わらせると信じている。その時、そなたは天子金璽を、その者の手に渡すのだ。」姫珣はため息をつくと、立ち上がった。「郢人は偏安、梁人は尊大、鄭人は律儀で、代人は無鉄砲………雍人は武を振りかざし無情だ。」

話を聞いた姜恒は、涙が止まらなかった。天子は洛陽に軟禁されながらも、天下を守る心を捨てたことはなかったのだ。

 

「民は、この苦しみに長い間悩まされてきた。該当者がいないというのが私の考え違いであればとずっと願ってきた。五国の中で、誰かがこの王道を受け継ぐことができればと考えた。聖賢でなくてもいい。完璧な人などいないのだから。見つけたら、私の代わりに、天子金璽を授けて、彼に天下を統一させて、この砕けた山河を取り戻してほしい。」

 

「約束してくれ、約束してくれ、姜卿、そなたたちの道はまだ長い。」姜恒は声を詰まらせて「はい、吾王。」と言った。そして、彼は気を落ち着けて、また「私は命をかけてこれを守ります。」と言った。

姫珣は笑って言った。「その必要はない。結局のところ、物は物に過ぎず、そなたたちの命より大切ではない。」

 

姜恒は姫珣を見つめ、姫珣はまた言った。「それを私の最後の、美しい願いと思ってほしい。

百年、千年後にも、世の中にはそんな人がいないかもしれないが…。」

「きっといます。」姜恒はうなずいた。「きっといますよ!」

 

姫珣は姜恒を見て、かすかに笑った。「もしいなければ、いつかそなた自身が、この大争の世の荒波を恐れず、金璽を持って、自ら王になってもかまわない。その時、彼らは血で血を争い求めた『正統』が、そなたの手に落ちていたことに気づく。その場面は、きっと面白いに違いない。」

姜恒:「……」

 

―――

洛陽、城楼の高所:

項州、趙竭と耿曙は遠方を望んでいた。項州は「俺は考えが定まらない。梁軍の上将軍は申涿だ。申涿自身の武芸も優れ、手下の死士は雲のようだ。鄭軍は太子霊(リン)が自ら兵を率いている。太子霊は……ただ、俺には成功できる自信がない。」と話した。

趙竭は何かのしぐさをし、耿曙は「彼はあなたにどのくらい自信があるかと聞いた」と言った。

項州は何も言わないが、ふつうに考えても、将校を1人暗殺するのは極めて困難で、非常に注意しなければならない。ましてや戦時中だ。双方厳重に警備している。

「武芸が優れていると言っても、修行者ではない。自身はまあある。羅宣がいればよかったんだが。」耿曙は羅宣が誰なのか聞かなかったし、趙竭と項州がお互いを知っていることにも疑問に思わなかった。項州は今まで通り何か方法を考え出そうとするだろう。少なくとも姜恒は姫珣と一緒にいる。それが一番安全だとわかっていた。

 

「彼ら双方もお互いの将校を暗殺しようとしているとしたらどうだろう。一挙に事を成す必要はなく、挑発を通じて彼らを退かせることができないか。」耿曙は新しい方法を提案した。さっきの姜恒の言葉に啓発されている。だが趙竭は首を横に振った。意味は『実行不可能』だ。「そろそろ来るぞ。動き出した。」項州は言った。

趙竭は哨を取り出し、力を入れて吹こうとしたが、項州がとめた。「ちょっと待て。思い出したことがある。暗殺に失敗したら、俺はあらゆる手を尽くして、命を守って帰って来る。

洛陽を脱出するしかなくなったとして、町に入る途中、こんな場所を通ったことを覚えている。……北の霊山には峡谷がある。あれを試してみてはどうだろうか?」

趙竭は、指摘されてすぐに思い出し、壁から地図を外して、望楼の机の上に広げた。

 

耿曙は「谷内は道が狭く、守りやすく攻めにくい。確かに勝負を展開するのにいい場所だ。」と言った後で、再びため息をついて、眉をひそめた。「しかし、天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及ばずだ。我らの手元にいる兵員はあまりにも少ない。」

 

趙竭はしばらく沈吟して、項州を見た。項州は「そうとも限らない。暗殺が成功したら、まだ勝算がある。」と言った。

趙竭は両手を真ん中に向けて『ひっくり返す』しぐさをし、地図に敵を誘引する線を引いた。耿曙ははっとした。希望が見えたかもしれない。「はい、それは可能です。」

項州も気づいた。「雪崩を利用して敵を阻む?しかし目下は火の油が足りず、霊山双峡を揺るがすには…」と言った。

耿曙は頭を上げた。城門の高いところに下がっている古時計。三人は黙っていた。

「できるだけ早く行動しなければ。」耿曙は言った。「恒児のことだけが心配だ…。」

項州は「安心しろ。今は安全だ。」と言った。

趙竭はまだ心配そうな顔をしていた。耿曙は彼の支配下で1年以上も働いていて、彼が言いたいことが少し推測できた。趙竭はまだ何か心配そうだが、何を心配しているのだろうか。

 

「鄭、梁二国軍とも動き出した。何か報せを受けたようだ。なぜ動き出したのだろう。」

城外の大軍が洛陽に向かって来ている。唯一の期待は外れ、歩兵を主力として両軍は展開し、都市を包囲した。

項州は「郢、代二国の軍隊ももうすぐ来るかもしれないが、雍国はすぐに洛陽を滅しにくるだろう。もう誰が天子を奪って、天下に号令するために拉致していくかわからない。……できるだけ早く行動しないと。時間がないぞ。」と言った。

耿曙は項州を見つめた。項州はうなずくと、何度か咳をし、左腕に精鋼の手首をつけて、身を翻し去って行った。

趙竭は全力をこめて哨を吹き、手元に残っているすべての兵力を集結して、開門の準備をした。項州を援護するためだ。注意を引きつけて、刺客がうまく後方に潜入して、両国の大将を暗殺できるようにするのだ。耿曙は項州について、早足で城壁を歩いた。「成功するかどうかにかかわらず、今日あなたは歴史に記されるでしょう。項州、気を付けて。」

項州は耿曙に笑った。「お父上はそうだったが、俺は歳月の波の花にすぎないさ。」

言い終わると、項州は両手を広げて、天地を飛ぶ鳥のように、空から飛び降り、夜の闇に消えた。

 

―――

四更時分(深夜一時~三時)

姜恒は天子卓の前にいた。まぶたが上がらないほど重いが、意識の遠い世界の果てで、激しい戦いの音がして目が覚め、はっとして頭を上げた。叫び声が近づいてきた。城が破られたの?!どうしてこんなに速く?

 

「誰か来てください!早く誰か!」姜恒は叫んだ。

「叫ぶ必要はない。」姫珣が淡々と言った。「宮人はみな私が帰らせた。」

姜恒は何も言わなかった。悲鳴、殺戮の声がこの千年の古都を取り囲み、前からも、後ろからも、さらには遠い霊山、城外からも、金戈鉄馬が一斉に震動し、彼らに迫ってきた。

 

「姜卿、そなたは琴を奏でることができるか」姫珣が突然尋ねた。

「でき……少しできます。」姜恒は耿曙と一緒に琴を弾いたことを思い出し、答えた。

姫珣は言った。「そなたの父上は生前、天下一の刺客であるとともに、天下一の琴師でもあった。きっとそなたの琴芸もすばらしいだろう。」

姜恒は「恥ずかしいことに、母は私に武を学ばせず、琴も学ばせませんでした。ほんの少ししかできないのです。」と答えた。

「よい。なんだか急に琴の音を聞きたくなった。もう長いこと聞いていない。角の箱に琴が入っている。仲尼が祖先に送ったものだ。持ってきてくれ。」

 

仲尼(孔子)が使っていた琴!姜恒の鼓動は急に速くなった。四方八方での戦や阿鼻叫喚が重要でなくなった。彼は琴を取ってきた。琴の造形は非常に古風で、鳳凰が天を飛ぶ模様が彫ってあった。弦をなでると、ほこりが舞った。

「私は……琴譜がなく、王がどんな曲をお聞きになりたいかも分かりません。」

「好きにせよ。私はもう20年も琴の音を聞いたことがないし好みもない。天下の民が飢え、凍えている。天子となってからは自ら娯楽を控え、万民と悲しみを共にすることに決めた。以来歌舞を楽しんだことはない。」姜恒はしばらく沈吟してから弦をおさえ、彼が奏でられる唯一の曲を弾いた。

 

「今夕何夕兮,搴舟中流(何という夕べ、 船を曳いて流れの中に)」

姜恒は少し感傷的な声でやさしく歌った。まだ12歳でありながら、色々なことを見すぎてきた。

 

「今日何日兮 得与王子同舟……(何という日、王子と船に乗るなんて)」

 

大きな音をたてて殿門が押し開けられた。

血まみれの趙竭が左手に剣を、右手に酒壇を持ち、よろよろと入ってきた。

姜恒は驚いて琴を置き、立ち上がって支えようとしたが、姫珣は「琴を続けよ。立たなくてよい。」と言った。

姜恒は趙竭を見た。趙竭は血だらけのまま、姫珣を見てほほ笑んだ。

趙竭が笑っているのを見たのは初めてだった。彼の笑顔はとてもすてきだった。

彼は机を担いでいき、殿門を封鎖した。

 

「山有木兮,木有枝(山には木があり、木には枝がある)」姜恒は静かに歌った。

 

趙竭はかめを提げて、殿中に入ると、壇中の物を地面に倒し、鼻を突く火油の匂いを漂わせながら、かめの中身をまいた。姫珣はただ静かに趙竭を見ていた。

 

「心悦君兮,君不知……(慕っております ご存じなくても)」

 

姜恒は趙竭の挙動を見ていた。天子御階に沿って、火油をこぼしていく。

最後に趙竭は酒壇を投げ、天子卓の前に剣を置き、胸の鎧と武衣を脱ぐと、片手で姫珣を

抱いた。姫珣は体を横にして、趙竭の胸に寄りかかった。

 

「そなたは行きなさい、姜恒。」姫珣が言った。「これまでのこと、そなたとそなたの兄に感謝する。天は高く海は広い、そなたたちの一生はまだずっと長い。」

姜恒は立ち上がって、姫珣を見た。姫珣は言った。「金璽を持ってゆけ。後殿から霊山のふもとに通じる小道がある。そなたの兄を探しに行け。泣くな、そなたは大人だ。」

 

叫び声が近づいてきた。姜恒は涙をこらえて、うなずき、ひざまずいた。

「王、安らかに。」姜恒の声は震えていた。姫珣は笑った。「王、安らかなれば、天下、平らかなる、か。行け、平らかなる世は、いつか戻る。」姜恒は拝礼し、涙を拭いて、出て行った。

 

趙竭は腕の中の姫珣の顔を見て、唇を少し動かした。姫珣はほほ笑み、そっと歌った。

「何という日、王子と船に乗るなんて」

趙竭の視線は姫珣の顔に留まっている。まるで一刻でもはなすのが惜しいようだ。

殿門が何度も大きな音をたてた。兵士に押し開けられ、外から叫び声が聞こえてきた。

 

「雍軍も入ってきた!王!将軍!早く逃げてください……」続いて、悲鳴が響いた。

ついに雍軍が洛陽城外についた。雍、梁、鄭三国は洛陽城防を軽々と突破し、敵味方の区別なく大混戦を繰り広げた。

 

殿門が開いて雨のように矢が降り、梁国の兵士が次々と飛び込んできた。

趙竭は天子を抱き、二人は一緒に殿外を眺めた。

 

「山には木があり、木には枝がある」

姫珣は感傷的な笑いを浮かべて、この天下の民を見つめた。

趙竭は灯に手をかけ、地面に向かって押した。炎が燃え上がり、蛇行する長蛇のように、轟きながら、燃え広がっていった。

 

―――

姜恒は急いで皇宮を出た。背後から大きな音がして、火柱が上がった。洛陽宮殿は雪が舞い散る中で激しく燃え、殿頂から殿外へと、炎は四方に燃え広がり、あちこちで兵士が慌てて逃げ回っていた。

 

姜恒は放心し立ちつくしていた。黒木に赤い漆の尖碑、天下の王旗、炎はまるで光の柱を形成して、空を射そうとしているようだ。冬の夜空に天の川が輝き、層雲は退いた。北天星河に玄武七星が現れ、灼熱に輝いている。

何が起こったのかに姜恒が気づくまでにはずいぶん時間がかかった。はっとした姜恒はすぐに叫んだ。「兄さん?兄さん!」

 

隅から、しわがれた声がした。「誰を探してるんですか?」

姜恒は振り向いた。皇宮を出た時には、見つからなかったと思ったが、殿の影の下には

刺客が隠れていたのだ。細長い姿が暗闇から出てきた。かぶっていた笠を外し、ゆっくりとそばに置くと、その顔は造作がねじれており、その上頭も顔も傷跡だらけで、獰猛で恐ろしかった。

 

「太史ですね。」刺客は姜恒を見て言った。