非天夜翔 山有木兮 翻訳の練習 91-97

非天夜翔が好きすぎて自分が読むために200話翻訳しました。万が一同じような趣味のかたが読んでおもしろいと思って下さったら是非原作を正規のルートで手に入れて読んでみてください。営利目的ではありません。要求があれば、すぐに削除します。

ーーー

第91章 同銘縁:

 

「戻れ!すぐに!」耿曙は姜恒を引き戻した。屏風の内側には明かりがついている。相手には姿は見えないが、影は見える!姜恒は焦っていてつい忘れていた。

「ようこそ、趙兄。」水峻は言った。「おかけください。」

あの時、玉璧関で羅宣の一撃を受け、孫英は死にかけた。だが、孫英にとって幸いだったのは、羅宣が姜恒を遠くまで逃がすのに忙しかったために、功力を尽くさなかったことだ。結果として、孫英は命を取り留めた。しかし、公孫武が孫英の解毒をしていた時に災難にあった。中毒した孫英が内力で必死に抵抗して死ななかったのに対し、毒を治療した医者が毒粉をあびて死んでしまったのだった。(この医師は公孫武ではないようで、公孫武は後でまた登場する。)

この出来事は太子霊を恐れさせ、逃亡した姜恒と耿曙を追跡するために大勢の刺客を放つのを踏みとどまらせた。孫英は三月も床に伏せ、血を抜き、毒を薄めたりして、ようやく回復した。

 

「趙兄」こと孫英が氐人外客に会いに来たのは明らかだ。相変わらず浪人の格好をして、2本の長刀を背負っている。彼が水峻と挨拶しようとした時、屏風の後ろに人影が見えた。

孫英は屏風に目を向けながら、「町中をずいぶんと探したんだが、酒を売っている場所は見つからなかった。」と笑った。酒場の店員や客がそれを聞いて警戒した。孫英は大雑把な性格で、思いついたことは何でも言ってしまう。この話が地元の禁忌を犯すということに注意などしなかった。

水峻は慌てて「趙兄、お座りください…」と言った。

孫英は足を止めず、屏風の前まで来て開けようとした。

瞬間、耿曙は姜恒の驚愕の表情を見て正体を見破られないようにと咄嗟の判断を下した。姜恒を抱いて台に座らせ口づけをし始めたのだ。

姜恒もすぐに我に返って耿曙の背中に腕を回し、顔を背けた。二人は呼吸も荒く一つに抱き合った。耿曙は一度手を戻して服をひっぱって開いて、胸元を露出させ、衣の乱れた様子を演出した。

孫英が近づいてくると、耿曙の動きは本格的になり、姜恒の体を押さえ付けて舌をからませ始めた。誰に教わったでもなく自然に出て来た動きだ。

姜恒:「……」姜恒の頭の中で、ぱちん!と、何かが突然決壊した。

 

「趙兄」水峻は小声で言った。「早く戻って下さい。」

孫英は屏風の向こうに人がいたなんて知らなかったというふりをした。「すまん、すまん。」耿曙は姜恒の上から起き上がると、振りむいて、いらついた表情で孫英を見た。耿曙は変装しており、体で姜恒を遮ったが、姜恒は顔をそむけた。長い髪を乱して、孫英の目を避けた。恥ずかしくてたまらない、ように見せる。

「悪かったな。」孫英と耿曙は、初めて会った者同士として視線を交わした。どうやら屏風の向こうでは酔って、ああいうことをしていたようだ。片方が出て行こうとして、もう片方が引っ張って戻らせたといったところか。疑いの必要なし。

「えへん!」店主は不満極まりない。水峻に目で合図した。『ここは自分の酒場だ。客が規則を守らないのは困る。』

孫英は去ったが、姜恒はまだ動揺していた。耿曙を見ると、耿曙は手を上げ、まだ起きないように合図して、そのまま抱いていた。だが肘で体を支えて、体の下にいる姜恒の口元を袖で拭いてやった。耿曙の顔は変装していても体は素のままだ。白皙の胸元からは熱く男性らしい匂いがして姜恒に安心感を与えた。ここで手を下せば孫英を倒すことも可能だが、二人の正体もばれてしまう。

 

屏風の向こうから聞こえる水峻と孫英の会話は、道中ご苦労様だとか、何日かかったかなど挨拶程度だ。孫英は酒場をあまり安全ではないと思っているようで、場所を変えることを提案した。すぐに氐人たちはきれいさっぱりいなくなった。姜恒はほっと息をついて衣服を整えだした。耿曙が起き上がり、姜恒のことも起こし、二人は上の空のまま見つめ合った。店主が謝罪しに来た。「あれは私も知らない男です。嫌な思いをさせました。」

「気にしないで。」姜恒は手をふった。耿曙はつまみの分の支払いをして言った。「もう帰る。」

 

「風呂に入ろう。」耿曙は姜恒と店を出ると言った。

姜恒は水峻の件をどうしようかと考えながら、頷いた。

二人は浴衣を持って浴場に行った。秋の夕方は少し肌寒かった。汗塞山麓には温泉があり、灝城に流れて、巨大な天然浴場を作っていた。耿曙は竹林に囲まれた場所を使うために金を払って、姜恒と湯池に入った。

 

「洛陽の湯ほどじゃないな。」

「シー!」姜恒は思考を巡らせているところだったが、耿曙に声を低めるよう注意した。耿曙はしばらく耳をすませてから言った。「付近半径二十歩以内には誰もいない。心配するな。水音で声も消され姿も見えない。驛駅の方は壁に耳ありだ。気を付けて話そう。」

姜恒は頷いた。耿曙は武将ではあるが、ある意味刺客に近い。どこに行ってもまずは周囲を観察して、疑わしい人は排除し、逃走路を確保する。これは子どものころ姜夫人に教え込まれた習慣だ。姜恒にも同じ習慣がある。だから代王李宏は彼をこう評価したのだろう。「刺客に育てられた子供」と。耿曙が問題ないというなら本当に問題ないのだ。

「どうすればいいと思う?奴から鉱石を買うなんて無理だ。そんな余裕はない。父王が知ったら物は取り上げ、奴は捕らえられるはずだ。」

姜恒は声を少し小さくして答えた。「水峻は山沢の命を助けたいだけだ。金鉱のことは重要視していない。汁琮を説得して彼を解放させればそれでことは終わる。」

「衛卓のおっさんが承諾しないだろう。お前に言われたから解放しましたじゃ、奴の面子はどうなる?」

「解放しないでも、何年か処刑を遅らせるならできるかも。でも肝心の山沢が捕らえられていたら、不正を暴けない。彼と話ができたらなあ。」

「正体を明かそう。変装をやめて衛城主に会いに行くんだ。俺を怒らせる勇気は奴にはないだろう。」「彼はあなたに会わせないよ、ただ言い訳をしてごまかすだけだ。」

 

耿曙は考えてみた。「もし再び反乱がおきたら、衛家の私兵だけでは相手にならない。落雁が助けに来るのを待つしかない。つまり、俺に頼まなければならなくなる。」と言った。

姜恒が考えたのも同じことだ。3年前の反乱がもう一度起きたら、衛家だけでは止められず、落雁城に助けを求めるしかない。今では騎兵はすべて耿曙の手にあるので、衛家は彼に相談せざるを得ない。

「もう一度考えてみよう」姜恒は答えた。「焦らなくていい。実際、衛家が土地を隠して、報告していないことを朝廷に知らせるだけで、山沢の無念を晴らすことができる……でも、朝廷は知っていると思う?」

 

耿曙は何も言わなかった。姜恒に背を向けて座らせ、腰の傷跡の所を洗ってやり、最後に体を曲げて火傷痕にそっと口づけをした。姜恒はくすぐったくて耿曙をどかした。どうも耿曙は5年前より再開してからの方が、より直接的で、触ったり口づけしたりをしないではいられないように思える。嵩県では抵抗を感じていたが、今ではすっかり慣れてしまって少しも嫌な気持ちはしない。

 

「水峻の峻の字は山へんで、山沢の沢はさんずい、つまり水へんだな。」

「うん。そういうのを易銘っていうんだ。名前をつけた時、両家の関係が良好だったんだね。だから、お互いの姓氏を子供の名前に交換してつけたんだ。」

耿曙は雍宮で色々なことを学んでいたので、世代ごとに同じ‘へん’の名前ををつけることを知っていた。例えば汁瀧、汁淼は水つながりなのは、水がこの世代のへんだからだ。先代は汁琅と汁琮で王へんだ。汁綾の本名は王へんに靇だが、彼女はこの字が書きにくすぎて嫌いだった。画数が多すぎて疲れると、自分で綾に変えた。

「同銘っていうのもあるよ。姓氏が違う相手と名前の字の一部を同じものにするのが同銘。」「俺の曙とお前の恒だな。(日つながり)」

「そうだね。」姜恒は笑い出した。湯につかりながら、耿曙はまた彼を抱こうとした。二人は素っ裸なので姜恒はちょっと恥ずかしくなって、耿曙の手をふさぐために手拭いを渡した。耿曙は意図に気づかずに受け取って湯からあがった。

 

本当にそうなのかな?姜恒は大きくなるにつれだんだんとわかって来た。母は耿曙の母親の聶七を恨んでいた。そうでなければ耿曙が潯東に来た日にあんなふうに苦しまなかったはずだ。二人のどちらが生まれた時にも、昭夫人は耿淵に既に別の思い人がいるとは夢にも思わなかったはずだ。名前に同銘を使うなんてことがあり得るだろうか?

むしろ生まれ持った縁なのかもしれない。お互いの魂の中に刻まれ、変わることのない絆なのだと信じたい。

 

「寒くないか?」

お風呂からあがると、耿曙は黒の、姜恒は空色の浴衣を着て、草履を履いて宿場に帰った。帰路に身に着けているのは素肌の上に縛り付けた浴衣だけだ。

「寒いと言ったら服を脱いで私に着せてくれるつもり?それを脱いだら下には何も着てないでしょう。」「別にかまわない。寒いのか?」

姜恒はすぐに耿曙を止めた。町の中で裸になったら牢屋行きだ。「もうすぐ着くから……」

耿曙の変装はすっかり洗い流されている。空は薄暗くなっている。明日またやり直そうか。姜恒は考えた。聞き取り調査はだいたい終わった。もう変装しなくても大丈夫だろう。

しかし、宿場に戻ると、入り口では雍軍が二人を待ち構えていた。

「あの二人です!」小二(宿の従業員のこと)は姜恒を見て言った。「なんてこった。男だったんだ!」姜恒は、変装はといていなかったが、男物の浴衣を着ていた。小二は耿曙に脅されて悔しく思って復讐のために官兵を呼んだようだ。

「奴らは闇で酒を買ったんですよ!荷物を調べて下さい。酒の匂いがするはずです。」

耿曙:「……」

耿曙は来ていた浴衣の袖を少しまくりあげた。剣は部屋に置いてきたが、このくらいの相手なら素手で充分叩きのめせる。ちょっと行儀が悪いだけだ。

だが姜恒には別の考えがうかび、耿曙の袖を引いて何事か囁いた。

耿曙は拒否しようとしたが、姜恒は顔を確認できるように、灯を耿曙の顔に近づけた。

「彼だったのは確か?」姜恒は小二に言った。

小二は目をぱちくりさせた。変装がとれた耿曙の顔は同じ人物と言い切れない。声は似ている気がするが。

「もう一人の商人の方は?」雍兵隊長は耿曙を見て小二が描写した姿とは違うと思った。

「私はお役人と一緒に行きます。」

「男だったなんて、くそ~!」小二は叫んだ。

「男だったら何だっていうの?」姜恒は再び耿曙に目配せした。

「我らと一緒に来るんだ!」雍兵は姜恒に言った。

耿曙:「……」

 

深夜、姜恒は一人、灝城の牢に入れられた。浴衣姿のまま押し込まれていた。

「ここでおとなしくしているんだな。飲酒か?飲酒だったよな。鞭でさんざん叩かれた後でも酒を飲む気になれるかな?」隊長は小声で言った。

耿曙は今頃きっと衛蕡を困らせていることだろう。腰牌を見せられたら衛蕡は大慌てで

自ら釈放しにやってくるはずだ。そして条件を交渉しだすだろう。

牢に連れて来られる道すがら、耿曙が漆黒の闇の中、浴衣も着替えぬままに壁の上を走って追いかけて来るのが見えた。自分がひどい目にあわされていないことを確認するまで安心できないのだ。そして最後に指笛の音が聞こえた。

 

海東青が飛んできて牢の天窓のところに止まった。姜恒は私刑を受けるとは思わなかった。禁酒令違反は死罪ではないし、3日も閉じこめたら釈放されるだろう。毒を打たれたりもしないはずだ。雍国の法律は無情だが、無情なりの良さもある。大きな問題がない限り、私刑されることはあまりないのだ。

姜恒は浴衣を整え、しけっぽい牢の中に座った。牢の中にいるのは自分だけのようだ。獄卒の巡回は終わった。出て行くとしよう。壁には数十房分の牢の鍵が掛けてあった。

 

「風羽。」姜恒は天窓にとまっている海東青を小声で呼んだ。

海東青が翼を広げ、降りて来た。

姜恒は遠くにある鍵を指さして言った。「鍵を取ってきて。鍵だよ。」

海東青:???

海東青は頭を振った。意味がわからない。姜恒は手で円を描いて、鍵を回すしぐさをして、風羽に固く閉まった鉄格子の向こうに行かせた。鳥の体は伸縮自在で、苦労せずに出て行った。海東青は振り向いて姜恒を見た。姜恒は牢屋の壁を指し続けた。海東青は突然理解し、飛んで行くと、鍵をくわえて帰ってきた。

「違う違う!それじゃない。一つ目のだよ。」

海東青松はくちばしを開けて、また飛んで行った。姜恒はいい子だ、賢い子だとおだてたが、海東青は面倒くさがり、何度かに分けて24本の鍵を全部くわえて帰ってきた。

 

姜恒:「……」まあ、うまくいったので、姜恒は牢の扉を開けた。その時、外からドンという音が聞こえ、緊張が走った。続いて、獄卒が階段から転げ落ちてきて、気を失った。耿曙がどこかで拾ってきた棋子を手に握って、足早に降りてきた。浴衣姿のままだ。

「大丈夫か?心配したぞ!」耿曙はすぐさま姜恒を抱きしめた。姜恒は苦笑した。

「まだ線香一本分の時間もたってないよ!」

「出て来てどうするつもりだ?!」

「おとなしく閉じ込められていろっていうの?衛蕡のところに行ってと頼んだでしょう。彼はどこ?」

「お前が牢に入れられたっていうのに、俺がそんなところに行かれるか?」

姜恒はもう耿曙にはお手上げだった。

「行くぞ。」

「待って!山沢を探しに行かないと。どんなめにあっていることか。」

牢の奥へと姜恒は通路を駆け抜けて行った。そして気づいた。両側の房のどこにも囚人の姿がない。「水峻の話だと、ここでいいはずだ。」姜恒は少し疑い始めた。「どうして守衛がこんなに少ないんだろう。」

「中には少ないが、外にはいっぱいいたぞ。だが、全部俺が解決してやった。」

この地下牢に入るには、曲がりくねった通路と、重兵が守る兵庫校場を通らなければならない。夜中の三更、姜恒が入れられた時にははっきり見えなかったが、耿曙が乗り込んで来た時に、彼の剣で倒されたのは百人以上だった。

「いないね。」姜恒は焦り始めた。水峻に騙されたということはあるだろうか。

「地下に何かあるぞ。」耿曙は剣で蓋板を叩き、身をかがめて鎖がついているのを見つけた。姜恒は鍵を探そうとしたが、耿曙は剣で鎖を切り、穴蔵の扉を開けた。

「ここにもいないとしたら、別の方法をとろう。」

 

姜恒には耿曙の別の方法がどんなことかわかりすぎていた。急いで地下に降りながら言った。「衛蕡を引っ張ってきて首に刀を突きつけてしゃべらせるのはナシだよ。……そんなことしたら、東宮に戻ってからどうやって生きていくつもり?」

耿曙はこれまで原則やら同僚やら関係もなく生きてきた。姜恒が喜ぶなら何でもできる。汁の家族を除けば、人が死のうが生きようがどうでもいい。

だが、姜恒がほっとしたことに、ようやく山沢が見つかった。

地下室の下には水牢があり、虫の息の犯人が縛られていた。体中ぼろぼろだ。そこはまさに暗黒で、ぼんやりした月の光しかなかった。

 

姜恒は小声で言った。「山沢なの?山沢?聞こえている?」

山沢はまだ若い男だった。髪は乱れ、鞭で打たれた血痕だらけで、かつて姜恒が玉璧関牢に囚われていた時のような姿だった。耿曙は息をのんだ。彼を救うかは、姜恒の決定に従うつもりだったが、この姿を見て、耿曙も憐れみを感じた。

山沢はすでに答えられる状態ではなく、半昏睡状態に陥っていた。姜恒は壁にかかっていた水牢の鍵を探し出した。彼を抱えて、ひき出すと耿曙に渡した。

「行こう。外に出る時は気を付けて。」

 

外は、気を失った兵士でいっぱいだった。姜恒が人を救うのは初めてではない。山沢は衛氏の私牢にいた。代国の離宮に比べれば、守備の点でかなり劣る。汀丘にさえ侵入したことを考えれば、灝城などは話にもならない。

「誰も殺してない、えらいぞ。」姜恒は耿曙をほめた。

耿曙:……

耿曙は山沢を背負って、一歩で壁の上に上がった。それから振り返って姜恒に手を伸ばし、引っ張り上げる余裕もあった。「さあどこに行く?」耿曙が尋ねた。

驛駅には戻れない。小二がまた役人を呼ぶだろう。衛家にはまだ何も知らされていないだろうから、夜の内は大丈夫だ。夜が明けてから報告を受けることになる。昨夜私的に飲酒した人を捕まえたところ、三年間閉じ込められていた囚人と一緒に逃げられましたと。衛蕡は朝目が覚めてから事の経過を聞いて、どんな顔をするだろう。

 

「水家に行こう。」姜恒は言った。耿曙にも異議はない。虫の息の山沢を背負い、城内の衛兵をうまく回避し、水宅の大門を叩いた。

 

 

ーーー

第92章 衛氏兵:

水峻はまだ熟睡していた。急に起こされて驚いたものの、すぐにしゃんとなった。

「彼ですか?」姜恒は耿曙の手で寝台に寝かされた山沢を指さし、水峻に尋ねた。

水峻は囚人の顔を見ると、すぐに彼を抱いて泣き出した。そして顔を撫で、頭を肩に埋めた。耿曙は肩を押しながら、姜恒に目をやった。泣き声は姜恒の頭にキンキン響いた。一晩中走り回って、頭が痛くなっていたのだ。

「彼はまだ生きている。水峻、早く薬を探して体調を整えてあげよう。」

「玉壁関でお前が意識を失っていたのを見た時、俺の心は引き裂かれたぞ。今や、お前は人に思う存分泣かせてやることもできないのか。」

 

姜恒は笑みをうかべ、耿曙とそばに座って待つことにした。水峻がやっと悲しみから立ち直ってきた。「ありがとうございました。ありがとうございました、2人とも。もう一生彼に会えないと思っていました。」それは、かつて姜恒と耿曙も思ったことだった。二人は手をつないで、静かに水峻を見ていた。胸が熱くなった。

水峻は「名医を探さなければ……」と言った。

 

自身が医術に精通している姜恒は、自ら脈を取り、薬を処方した。水峻は人をやって買いに行かせた。「できるだけ早く彼を町から出さないと。」水峻は、なぜ知り合ったばかりの商人が反乱を起こした友を救い出してくれたのかも、「聶海」がなぜ容貌を変えたのかも、よくわかっていなかった。「ありがとうございます。」水峻は耿曙の前に出て、単衣姿のままひざまずいた。「聶兄に感謝いたします。」

 

「俺だとわかったのか。」耿曙は変装を解いたのに水峻がすぐ見分けられたのが意外だった。「声が同じですから。」水峻は涙を拭ったが、喜びのあまりまた涙があふれ出た。「この後何が起ころうと、全ての力を尽くしてお二方を守ります。お二方は今から氐人の生死の交です。この誓いは決して破られることはありません。」

姜恒は「大した苦労はしていないんだよ。水公子、夜が明けたら、衛家は必ず城中を大挙して捜査するはずだ。気をつけて。」と答えた。

 

水峻はうなずいた。家来に言いつけて、姜恒と耿曙に休んでもらうよう手配させた。耿曙は夜中まで忙しく働いたが、人助けはいつものことだ。普段通り、部屋に入ると寝台に上がって浴衣を脱ぎ、裸で姜恒を抱くと、すぐさま眠りについた。

姜恒の方は目が冴えていた。心の中にたくさんの疑問が生じてくる。山沢を救出すれば、きっと汁琮の怒りに触れる。だが彼の性格上、誰にも自分の権威を貶めさせはしないはずだ。きっと何か方法を考えて山沢を無罪にするだろう。汁琮の体面を守ることが全ての氐人の命を守るのだ。「兄さん。」姜恒は囁いた。耿曙はすでに熟睡していた。姜恒も眠くなり、間もなく眠りに落ちた。

 

翌朝、もう日が高くなってから、辺りの騒々しい物音で二人は目を覚ました。耿曙が先に目を覚まし、部屋に用意されていた氐人の服に着替えた。雍人の服装とあまり変わらないが、襟元と腰のあたりが少し違う。氐人貴族は襟元に夜明珠を何個かつける習慣がある。姜恒が起き上がると、耿曙が洗面を手伝った。外には一人もいなかった。

姜恒:?

二人は廊下を通り抜けた。既に意識を取り戻した山沢がいた。庁内は屏風で遮られ、水府の家兵が全員集められていた。水峻は話をしていたが、足音が聞こえると、屏風の後ろから振り向いた。

「お二方、今、家の外は衛氏の家兵に囲まれています。私は城市中の氐人を集めて、背水の陣を敷いて彼らと戦うつもりです。」

姜恒:……。

 

これは予期せぬことだった。衛家は証拠がないまま、水家を包囲したのだ。水峻の様子では、生死をかけて戦うつもりなのは明らかだ。「絶対にだめだ!」たちまち姜恒は色を失った。

水峻は言った。「もう引き返すことはできないのです。衝突が起きたら、あなた方に護衛をつけるので、混乱に乗じて灝城を離れて下さい。城中で混乱が起きれば、城門は無人になります。衛蕡は城中全ての兵を集めていますから…」

 

「俺が彼を衛宅から連れ出したんだぞ。無傷で脱出するなどた易い。俺たちのことは心配するな。自分のことだけ考えろ。」耿曙は声を曇らせた。

屏風のかげから山沢が言った。「開けろ、恩人に直接お礼を言う。」

水峻は屏風をどけた。山沢は意識を取り戻した後、簡単に身なりを整えていた。やつれて青ざめてはいても、英俊な顔立ちだった。真っ黒な長髪で、幅広な青い長袍を着て寝台に腰掛け、短刀を握っていた。

水峻は悲しそうな笑みを浮かべた。山沢は「足がうまく動かない。水牢の中で長い間幽閉されていた上に、さらに…」と言った。

姜恒は「先ずはよく休んで。起きて来ちゃだめだ。」と言った。

山沢は寝台の上に座りなおすと姜恒と耿曙に三拝した。

耿曙はしばらく黙っていたが、「今、外の状況はどうなっている?」と尋ねた。

 

水峻は言った。「衛家は2千人の兵を連れて来ました。水家に通じる四方の通りと灝城の主要な通りを封鎖しています。ですが、氐人は城市内に4万人います。だから私たちは彼らを恐れません。」

姜恒は言った。「衛家の装備は万全で、軍馬も持っている。氐人には農耕具しかない。勝算はないよね……たとえ勝ったとしても、衛蕡の頭を切り落としたら、どうなる?」庁内の4人は沈黙した。だが、しばらくすると山沢が言った。「おっしゃるとおりです。先生、この行動は落雁城を怒らせるに違いありません。彼らは軍隊を派遣して、灝城を攻撃しに来るでしょう。」

「もちろん、あなたたちにも勝算がないわけではない。雍国でひとたび内戦が起きれば、風戎人も林胡仁もすぐに呼応するはずだ。だけど必然的に灝城が最初に嵐が起こる場所になるだろうね。」

耿曙が補足した。「あんたたちがこの屋敷を守り抜けることが前提だ。」

 

姜恒ほど雍国の苦境を知っている者はいない。鄭都、済州城にいた時から彼は予測していた。汁琮が死ねば雍国は必ず崩壊すると。強権弾圧の下に収められたすべての矛盾が、血雨生臭い風になり、雍の百年の基業を飲み込むだろう。

では、山沢が春に斬首されるまで、そうしたことは一切起こらないのではないだろうか。そんなことはない。

「水峻、あの鄭国の趙先生は、何と言って君たちを説得したの?」

姜恒は正確にすべての鍵となる部分に切り込んだ。水峻は瞬間顔がこわばった。山沢が水峻に言った。「お二方に話してもいいだろう。」

水峻はため息をついた。「趙英は私たちに武器を供給し、来年の春、山沢が処刑されたら、悲しみに乗じて、氐人に抗争させるつもりだ。鄭国は外から合流し、同時に玉璧関を出て、落雁城を攻める。」

 

耿曙はそれを聞いてすぐに理解した。山沢を救っても救わなくても違いはない。来年の春に王室が直面する危機がさらに深刻になるだけだ。

「彼はどうやってここに来たの?」姜恒は水峻に要求に応じたかどうかは聞かなかった。「よくわかりません」水峻は答えた。「玉璧関の険しい山々の間に、まだ誰も知らない小道があるのではないでしょうか。」

 

外のざわめきがさらに大きくなった。衛蕡が来たようだ。「水家は門を開けて、捜査させよ」という怒号が聞こえる。

水峻は「時間がない。すぐに恩人方を送り出さなければ。私が衛蕡を引き止めに行く。」と言うと、急いで出て行こうとした。だが、姜恒と耿曙のそばを通る時、また2人に向かって身をかがめた。庁内には山沢と、耿曙、姜恒の三人が残された。

「氐王子、私を信じてくれますか?」姜恒が突然言った。

「氐人は早くに帰化しております。王子と言えましょうか?今や私は雍国の一市民にすぎません。部族の土地を守るため、己の命を投げ出して奔走するのみです。先生が私の命を救おうと考えてくださっているならそんな必要はありません。我らの抱える問題を消し去っていただけるのでなければ。」

とても賢い人だ、と姜恒は思った。自分たちの正体もわかっているのかもしれないが、それについては何も言わない。

「皮膚がなければ毛はどこにつく(基礎がなければ崩壊する例え)と言いますよね。鄭国につけば、雍国に帰化するより良くなると思うんですか?」

「わかりません。わかっているのは、雍人が私を殺したがっているということだけです。」

姜恒はため息をついた。

「国家が転覆すれば、各民族も必ず危険にさらされる。」と姜恒は言った。「鄭人が氐人を利用するのは、雍国に脅かされているからだ。だがその下に隠された真意を見るべきだ。塞外の地が崩壊すれば、各民族がそれぞれ自ら政治を行う。やがて鄭人の手によって新たに奴隷となるだけだ。」

山沢はしばらく黙ってから口を開いた。「姜恒、あなたには未来が見えるようですね。」

「私は力を尽くします。」と姜恒は言った。「でも結果は予測できません。好転するかもしれないし、もっと悪くなるかもしれない。賭けてみませんか。これはあなたの唯一の機会です。」山沢が考えたのはほんのわずかな間だった。すぐに決断し、頷いた。

 

姜恒はほっとした。そして耿曙を眺めて、頼む、という顔をした。耿曙はすぐには分からず、疑惑を顔に現した。しかし突然、姜恒との長年の暗黙の了解から、ぴんと閃いたようだ。何も言わずに庁堂を出て行った。

 

水宅の外では剣を持った衛家の家兵が取り囲んでいた。町のあちこちで起こった暴動は下火になっていた。衛家は3年前の流血の乱を恐れていたが、最初の矢が射られた後、動乱は収拾がつかなくなっていた。衛蕡は四十いくつかの中年男だ。大きな戦馬に乗って戦場と化した場所にやっと現れたところだった。

「水峻!ここは灝城、雍国の国境だぞ。お前たちはまた造反するつもりなのか?!」

 

水峻は衛蕡に直面すると、まるで別人のようになり、真剣に言った。「衛蕡、私の家を捜索するなら、本来ならば王族を呼んで、法に基づいて行うべきだ。そして、落雁城が発行した捜査令状を出さなければならないはずだ。」

 

衛蕡は冷笑した。衛氏は灝城を長年治めてきた。国から派遣された役人は、彼らの言いなりだ。逆らうことなどできるものか。

「あなたにはまだわからないのか。この城の本当の主人が誰なのか。」

そう言うと、衛蕡は手を上げた。水峻が再び抵抗するのを待って命令を下し、水宅に突入させようとした。しかしその時、門がゆっくりと開き、耿曙が出てきた。

衛蕡は一瞬自分が幻を見たのかと思って、上げた手を下ろすのを忘れてしまった。

耿曙は氐人の服装をし、鞘に収めた剣を手にして、衛蕡を端然と見た。

「お前の兵を帰らせろ。」耿曙は冷たく言った。

衛蕡は数ヶ月前に耿曙を見たばかりだった。彼が練兵していた時、衛蕡は自ら部下を率いて、軍をねぎらいに行った。しかし、まさかその上将軍汁淼が水家に現れるとは夢にも思わなかった。

「淼殿下?」衛蕡はまだ信じられなかった。

「本将軍は一度しか言わない!」耿曙は一声、恫喝した。

 

耿曙の威厳は、汁琮の上にさえある。汁琮は雍国の王で戦神でもあるが、玉璧関で刺されたことで多少君威が損なわれた。一方の耿曙はここ数年、塞外で音に聞く汁琮の直弟子である上に、鐘山戦で李宏もかなわぬ相手としてさらに名を馳せた。

衛家の兵士は怖くなって、少し後退した。

衛蕡は上げていた手をおろし、身を翻して馬を降りると、すぐに表情を変えた。

「殿下、やつらは皆逆賊です。昨夜氐人は監獄に押し入って逆賊の頭目を連れ出したのです。」耿曙が親指で剣格を弾くと、寒光を放つ剣の刃が現れた。

「彼は俺が連れ出した。それがどうした?異議でもあるのか?」

衛蕡の頭の中で何かが音を立てた。家主としてのカンが働き出す。事態は思っていたよりもずっと深刻だ。衛家はきっと誰かに諮られたのに違いない。

 

水峻は手の震えをこらえきれず、深呼吸し、自分を抑えて耿曙の方を見ないようにした。「いえ、殿下。」衛蕡の見識では、耿曙は東宮を代表している。耿曙の介入は東宮の態度を意味する。これは彼が解決できる問題ではない。

耿曙一人の登場で、数千の兵はたちまちきれいさっぱり撤退した。

姜恒は庭に立って、それを見ていた。

衛蕡は「よろしければ、殿下にお立ち寄りいた……」と言った。

「時間がない。」耿曙はばっさりと衛蕡を拒絶すると大門を閉めた。

 

姜恒:……

耿曙:?

姜恒:「少しは彼の面子をたててあげればよかったのに。」

耿曙:「奴に抗っている時に、たててやるような面子があるのか?そんなことしたら奴はまたやってきて面倒を起こすんじゃないか?俺にはわからん。」

姜恒はそれもそうだと考えなおした。耿曙は単純なようだが、人の心に真っすぐ対峙する術は、大巧不工(人工の極みより自然の形)の境地でもある。

 

水峻はついに耿曙の身分を知ったわけだが、それが彼らにとって幸運なのか不幸なのかはまだわからない。山沢がふらつきながら寝台を下りてきた。「どこに行きますか?私は準備ができています。」水峻がとんできて耿曙と姜恒を見つめた。

「私と一緒に落雁城に来て。弁明するにはそれしかない。」

水峻:「それじゃ車裂きされてしまうかもしれない。」

姜恒:「だけどされないかもしれない。」

 

山沢は水峻の方に手を置いた。「だめだ。君を行かせやしない、山沢。」

山沢は言った。「私は二人を信じるよ。」

 

 

ーーー

第93話 煮凝り:

 

その日の午後、衛蕡は伝書鳩を放った。朝廷で役人をしている父に、めんどうなことになったと大至急知らせるためだ。これからしばらく朝廷内で彼に対し吹きつける血の雨に対する準備をしなければならない。

 

「彼らは城を出ました。」部下が報告に来た。

「護衛は何人だ?」衛蕡は尋ねた。

「護衛はいません。姜恒、汁淼、山沢の三人だけです。」

 

衛蕡は三人を路上で殺す方法を考えた。落雁に帰る道中、誰にも知られずにまとめて殺してしまうことができるだろうか。耿曙は武芸が卓越している。一対一なら李宏を負かすこともできる人物だが、千軍万馬と乱矢を防ぐことはできない。姜恒……この人物の攻夫は未知だが、汁琮を一剣で殺しかけた刺客だ。武芸が全くできない山沢のことは論外にしてよかろう。

しかし三人のうちの一人でも逃げきれたら、更に大きな問題を引き起こす。日頃衛家の悪事に目をつぶっている汁琮だが、汁淼は彼の息子だ。王族に手出しすれば話は別だろう。「彼らを尾行させろ。見つかるんじゃないぞ、充分心して行け。」

 

秋が深まり、塞外は一面黄金色に染まっていた。

三人は野外に設営した。山沢は自分のめんどうは自分でみて姜恒と耿曙に迷惑をかけないように努力していた。この日は姜恒に替わって自ら茶を煮出していた。

「あなたは王都の方ですか。」山沢は尋ねた。

「いいえ、私は雍人ではありません。」姜恒は笑顔で答えた。

「私が言ったのは王都洛陽のことです。」

「そうとも言えます。」姜恒は思い返してみた。「洛陽では三年間暮らしました。どうしてわかったのですか?」

「王都の人は昼食後にみなお茶を一杯飲みます。塞外にはない習慣です。」

「子供のころ、兄は漆工や木工なんかをしてお金を手に入れるとすぐに私にのませるためにお茶を買ってきてくれたんです。お茶はお酒よりいい。飲むと気分がすっきりします。」

「お二人は一緒に育ったんですね。私と水峻みたいだ。私たちの父母は早くに亡くなったので、私たち二人は互いに命を預け合って生きてきました。」

姜恒は頷いた。山氏、水氏の族長は数日の間に立て続けに命を落とした。何かあったに違いない。山沢が言わない限り、姜恒も聞く気はなかったが。

耿曙が周囲の見回りを終えて戻って来た。「何で自分でやっちゃうんだ。お茶を淹れてやろうと思って急いで戻って来たのに。」

姜恒は昼食を取り出して耿曙に渡した。水峻が彼らのために用意した米飯と羊肉の煮凝りだ。寒冷な秋の天候のおかげで三日たってもまだ食べられた。

 

耿曙は煮凝りを溶かして羹にするために鉄なべを火にかけた。

山沢が尋ねた。「どんな様子でしたか?」

「誰かが追跡しているのは確かだ。二隊かもしれない。」耿曙は海東青に偵察させていたので、灝城からずっと尾行されているのは知っていた。だがとても遠く離れている。

姜恒はだんだんと山沢に一目置くようになってきた。

彼はとても聡明だ。姜恒が塞外で知り合った中で山沢が一番聡明だ。雍人文化に精通し、書物による知識も豊富だ。頭の回転もとても速く、知略に富む。三年前の反乱は彼の策による。汁氏の奇襲攻撃ですぐに覆されてしまったが。

山沢は身の周りに潜む危険に対して、姜恒よりもはるかに警戒度が高い。姜恒の知略と耿曙の警戒心を併せ持つ策士のようだ。この数日、山沢と話ながら、もっと早く知り合いたかったと姜恒は思っていた。雍国がこの氐族の王子を東宮に入れず、太子瀧の策士にしなかったのは残念だ。才能が無駄になってしまった。

姜恒氏は山沢と話す時、頑ななまでに終始礼儀を保った。話は国略と大雍の現状に終始した。耿曙はそばで食事をしながら、耳を傾け、何も意見を言わなかった。

「あなたはどう思う?」姜恒は時々耿曙に聞いた。彼は落雁で4年間生活していたので、王宮の環境にもっと詳しいはずだ。

「よくわからん。」耿曙は立ち上がりお茶を入れに行った。「だがお前たちの話を聞く限り、雍国はすぐにでも滅びそうだ。」

 

姜恒は笑った。確かにそうだ。大厦(家)将に傾けり。人々はまだ気づかずに過ごしているが、一つの国の転覆は、往々にして一夜のうちに起こる。汁琮が負け戦を喫すれば、雍国の各民族はすぐさま崩壊するだろう。山沢はお茶を飲み終え、杯を置いた。

「私は今では思っています。お二人がいれば雍国は崩壊しないかもしれないと。」

「それはどうでしょうね。」姜恒は笑った。

耿曙は杯や食盒を片付けながら言った。「行くぞ。落雁に一日早く着けば、一日早く寝台で横になれる。」

山沢は三年もの間、水牢に入れられていた。体は回復しつつあるが、長時間の旅は病根を悪化させる恐れがある。できるだけ早く落雁に着いて、医者に診せなければならない。

行く道は長いが、帰る道は短い。一日また一日と過ぎていく。道中、姜恒が最も多く話題にしたのは、雍国の現状と、東宮、朝堂の人のことだった。耿曙は何の躊躇もなく洗いざらい話し、姜恒と山沢に好きなように分析させた。

「お前たち二人はいったい何を企んでる?」耿曙は懐疑的に言った。

「彼を知り己を知れば百戦危うからず。あなたたち漢人の言葉ですよ。」山沢は笑った。「世道人心。世の中の道徳は人の心によるからね。」姜恒が続けた。

 

瞬く間に時は過ぎていく。落雁城に続く道で、姜恒はまたあの風戎人に遭遇した。

「孟和!」孟和は冬用の狩服を着て、遠くから姜恒に笑いかけた。

「孟和!」姜恒も孟和に向かって叫んだ。どちらの名前も「永恒」という意味を持つことで、二人は互いに親近感を覚えていた。

孟和は姜恒たちの後ろを指さして何か言っていた。

山沢が言う。「誰かが私たちを尾行していると彼は言っています。」

耿曙は言う。「かまわん。ついて来させればいい。」

孟和は再び何か言っていた。山沢が伝えた。「誰か護衛につけてほしいか聞いています。」

「どうせずっと護衛して来ていたんだろう?灝城を出ていくらも行かない内に後ろについて来ていたんだから。」孟和は山沢に頷き、山沢も座ったまま礼を返した。

「二人は知り合いなの?」姜恒は興味を持った。

山沢は一瞬ためらった。姜恒はまだ孟和の正体を知らないようだ。だが孟和が言おうとしないなら、自分も口出しすべきではない。「一度会ったことがあるのです。」

「熊はどうした?」姜恒は耿曙に通訳させようとした。だが耿曙が何か言う前に孟和は意味が分かって半年かけて学んだ漢語で答えた。「元気だ!このくらい大きくなった!」

「大きくなったなら、山に返さないと。餌をたくさん与えちゃだめだ。自分で獲物を捕れなくなってしまうよ。」

「逃がす前に君に見せる!」

二頭の熊を落雁城に連れて行ったらみんなびっくりして逃げ惑うよ、と姜恒は思ったが、孟和は冗談を言っているだけだった。耿曙は車を御しながら、口笛を吹いた。風羽が飛んできて、車の前に降りた。孟和は手を振って、馬を駆って、狩りの続きをしに行った。

 

それから三日後、下元節が近づいていた。姜恒は町中につるされている絹と紙灯を見た。雍人は黒を国色とする。五徳終始説では黒は水に属す。北方の神を象徴する玄武を護国の神とし、汁氏は更に水の神を尊崇する。水官を祭る下元節は、1年の中で最も盛大な祝日だった。

姜恒は半年近く野人のような日々を外で過ごした後で、国都に戻った後、荒廃した地から文明の国に戻ったようで、心中感慨深かった。人が多く集まるにぎやかな場所は、結局のところ美しい。千年以来、神州の大地に住みついた人々は、分業したり、協力したりして作り上げたのだ。素晴らしい詩書を、都市を、村、町、大城市を、国都を。多くの星が月を取り巻く。それが山河と社会のあるべき姿だ。

 

この日、汁琮は姜恒が帰朝し、耿曙も一緒に戻って来たと報告を受けた。

この半年、斥候が届けた姜恒の密告は一日として停まることはなかった。汁琮は既に彼に嫌気がさしていた。嫌気の原因は姜恒が暴いた傷跡の一つ一つが実際に存在していたという事実だ。汁琮にもそうした問題は解決しなければならないことは十分わかっていた。だが良薬口に苦し、たくさん飲めば、苦しい。姜恒はほとんど彼の口をこじ開けて、休ませることもなく次から次へと強引に飲み込ませた。それは彼の怒りを生んだ。それに目下の所、一番重要なのは外患だ。外患を放ったらかしにしておいて、このような厄介ごとばかりもたらすとは。

 

「彼らは町に入ったのか?」汁琮は尋ねた。

曾宇は答えた。「はい。淼殿下も戻られました。」

「他に連れは?」

「一人いるようです。」

曾宇は、兄の曾嶸から忠告されていた。曾家はまもなく衛家と対立することになるだろうと。姜恒については、彼らの父の布石だ。ある程度守ってやらねばならないだろう。汁琮には連れが誰なのかははっきりわかっていた。姜恒のしでかしたことについての不満が弥増す。東宮を支える立場として行ったことはある程度理解できる。だが曾家の陰謀に加担して東宮を巻き込むべきではなかった。

汁琮が名義上国君である以上、彼が生きている限り、太子瀧は言うことを聞かねばならない。後継者となることが決まった身であってもだ。

 

「玉壁関の状況について話し合おう。」汁琮は不快なあれこれは脳の片隅に追いやることにして朝廷の臣下たちに向かって言った。

今日、彼は群臣を招集した。朝廷の文官、武官の半分以上が来ていた。耿曙も間もなく戻って来る。彼にはすぐに玉璧関奪還に向けて戦法を務めてもらうつもりだ。汁琮は先によく策を練っておきたかった。

机の上にある、金璽が押された東宮宗巻を整理し始めた曾嶸は、玉璧関の動向を報告した。鄭国太子霊はいまだに兵を動かしていない。そんな中、鄭国王が長くないようだと、南方からの報告があった。国君が崩御すれば、太子霊は済州に戻って後を継がなければならない。権力の入れ替わりが始まり、戦争どころではなくなるに違いない。雍国はこ正にこの機会を待っていた。太子霊もそれは重々承知だ。汁琮に機会を与えない為、先に攻め込む可能性は高い。

 

汁琮は近年国政についてあまり質問していない。民生、貿易、外交などにはあまり興味がなく、今では東宮に投げている。管魏に処理させ、大枠で彼の意思に従えばいいと考えていた。彼が興味を持っているのは戦争だけだ。他国の土地を占領し、南方の人々を捕虜にし、少しずつ自分の力を強める。盤上の賭け事のように、相手をひねりつぶして恐れおののかせることが、彼に言いようのない満足感を与えた。軍務についてなら、彼は自ら干渉していた。

曾嶸は、半分くらいまで報告して、ふと声を止めた。

本殿を満たす数の大臣たちが一斉に外を眺めた。その静寂で汁琮は大戦について巡らせていた思いから意識を取り戻し、彼らの目線を追った先に二人を見つけた。耿曙と姜恒が風塵にまみれた姿で殿内に立っていた。

汁琮:「戻ったか。」

耿曙は抱拳して身をかがめた。「戻りました。父王にご挨拶申し上げます。」

姜恒は目元に微笑みを浮かべ、持っていた杖を置くと、氐人の服装に包んだ身をかがめて、雍王に対し頭をさげた。「戻りました。王陛下にご挨拶申し上げます。」

汁琮は山沢のことは話題にせず、淡々と言った。「無事に戻って何よりだ。城外での野人のような生活はさぞ苦労が多かったことだろう。身を清めたら王祖母に会いに行くがいい。」

廷臣は2人を静かに見ていた。旅人のような身なりの姜恒は、臣下たちを見てほほ笑んだ。「どうした?恒児は何か言いたいことがあるのか?だったら申して見よ。」汁琮は尋ねた。

雍国王室は、中原諸国のように上下の礼を厳守していなかった。汁琮は姜恒の姿を見て、大変な苦労をしたのだろうと感じた。城外で半年間奔走したのは、すべて彼の国のため、大雍のために尽力したのだ。心中の嫌悪感が少し薄まり、いっとき、尊敬とも危惧ともつかぬ思いが沸き上がって来た。

「先に行っていて。」姜恒は耿曙に言った。耿曙は汁琮に再び拝礼すると頷いて出て行った。

汁琮は姜恒を懐疑的に見た。山沢のことをどう説明するつもりだろうか。衛家の行為は大体わかっていた。耿曙が山沢を救ったことでは一晩腹を立てていたが、よく考えてみれば、衛氏の傲慢ぶりについては以前より耳にしていた。やつらの鼻をへし折ってやったのは悪いことではなかったかもしれない。

だが姜恒は山沢については何も言わず、周囲を見渡して言った。「おや、陸大人は?」旅立つ前に、汁琮に出発の挨拶をしに来た時にいた人を彼は全て記憶していた。今見ると、かなりの人がいなくなっている。

「彼の門生が汚職に手を染めていたので、車裂きにした。陸冀は高齢なため、受け入れられず、自宅で休んでいる。」

「ああ、」姜恒は頷いた。「周大人は?」

「周游が三年前軍報を誤って伝えたことが、東蘭山の林胡人の虐殺につながった。閉門して反省するよう促した。」

殿外から足音が聞こえてきた。--界圭だ。だが、彼は殿内に入らず、殿外に控えた。界圭が来るということは、母、姜太后に用があるということだ。母后は姜恒に会いたがっているのだ。

姜恒は耳を傾けず顔も向けなかった。「衛大人はなぜいらしていないのですか?」

「病にかかって家で床に臥せっている。立つこともできぬようだ。」

姜恒は頷いた。汁琮は辛抱強く待つ。きっと話があるに違いない。

「本日早いうちに、王陛下はお時間がありますか?」

「ある。何をしたい?」

「外での我が見分について、お話ししたく存じます。」

 

曾嶸は顔色を変えた。姜恒がこんなにすぐ騒動を起こし、衛家を攻撃しようとするとは思わなかった。まだ姜恒とは何も打ち合わせていない。この若僧はなぜ勝手に話を進めて、何の準備もさせないつもりなのか。

 

 

ーーー

第94話 三重の面:

「私もぜひ聞かせてほしい。だが、まずは何日か休まなくてよいのか?」

「鉄は熱いうちに打てと言います。忘れてしまうも怖いですから。もし王陛下がおいやでなければ、私の無駄話を……」

「界圭、太子を呼んで来い。」汁琮は外に控えていた界圭に言うと、話を曾嶸に向けた。「上朝した担当部門の大臣たちを、琉華殿に集めよ。彼らが欲しがっていた『説明』の機会が来たとな。」それを聞いて、姜恒は、汁琮が猛威を振るって弾圧を行ったことがわかった。彼の手紙のせいで、多くの大臣が処分されたようだ。

「君は先に着替えをしなさい。」汁琮は優し気な表情で言った。

「はい。」姜恒は答えた。「それでは後でな。」汁琮は淡々と言った。

 

本堂内には、雍国朝廷三公九卿、文武官及び部下計四十二人が、席次に従って着席していた。汁琮は王の席に、武衣姿で両足を少し広げて着席した。それはとても行儀悪いしぐさだが、汁琮はもともと人目を気にせず、彼に注意する者もいなかった。

太子瀧がそそくさと前に出て来て席に着いた。

誰か一人のために、春分でも秋分でもない時に琉華殿議政が臨時で開催されるのは、雍国議政の場においては最高の待遇だ。かつて管魏が雍に入った年に一度行われたことがあった。その時の『問議』の主催者は、汁琮の父王であった。

琉華殿は郢国の朝陽学宮を模して建てられた。今では毎年春と秋の二回、太子主催で開かれる。その名も『東宮議政』という。この国を強大にさせる方法を見出す意図がある。汁琮は王位を継承してから、まあただ足を運んではいた。だが、知識人の抱える書物は分厚く、聞いていると眠くなるばかりで素晴らしい考えなど浮かんだためしがない。しかし、今日は姜恒のために議政を開いた。彼の才の深さを明らかにしなければならない。この旅で姜恒が行ったことは、彼の能力を証明していた。

 

「姜恒が帰ってきた。」汁琮は王位に座ると、「国都に着いたばかりで、水も飲まず、飯も食わず、孤王に問政を要求したのだ。今日は彼のためにこの会を開いた。」と言った。

太子瀧は席についた時にはすでに曾嶸に操られかけていた。実は姜恒が戻る前に曾嶸は父から密信を得ており、東宮の主である太子に、姜恒の、国を憂い、民を憂いる高尚な行為を誇張して話した。太子瀧は半信半疑だった。姜恒は旅の前にも落雁に三日間しかいなかったのでまだ真偽はわからない。これは彼の腕前を見る良い機会だ。

「王児?」汁琮が声をかけた。

「姜卿は我が大雍のために苦労をものともせず奔走してくれました。お話を傾聴させていただきます。」

 

太子瀧は姜恒の側に立っていた。彼にも長い間言いたかったことがたくさんある。だが父は彼が息子だという理由で話を聞こうとはしなかった。父にとっては、息子はずっと子供だ。だが、曾嶸が言うように、例え長年連れ添った夫婦でも、妻はだんだん夫の言うことをきかなくなり、口論が絶えなくなったりするものだ。最も親しい人より他人の言うことのほうが聞けるものだ。それを考えると、太子瀧はあきらめと悲しみを感じた。

だが、彼は何としても姜恒を守るつもりだった。まだ交流は少なくても、お互いにしっかりした暗黙の了解があるからだ。姜恒は単独行動をしているように見えて、実は東宮全体を代表している。こんなに遅くなったが汁琮は生まれて初めて反抗されているのだ。

その勇気を考えると、太子瀧は姜恒が自分にはできなかったことを代わりにしてくれているような気がした。朝臣の内、どれだけの人が喜び、どれだけの人が憂えているか知れない。周、衛二家の派閥は、すでにびくびくしていた。姜恒がどれだけの証拠を持っているか分からないからだ。今後、汁琮は再び大規模な粛清を行うのだろうか。どれだけの者が車裂きされるのだろうか。

 

「それでは始めてもらおうか。」汁琮の態度は慇懃だ。心の中でどんなに毛嫌いしていようと、表面的には知識人を敬う態度をとる。結局のところ、彼も名君にはなりたい。人は誰でも死ぬが、後に残される評価は消えないのだから。

琉華殿では議論の声が沸き起こっていた。

「姜卿、中へどうぞ。」太子瀧は朗らかに声をかけた。

姜恒が入って来ると、議論の声がぴたりとやんだ。

朝堂に来る一時辰前に、姜恒は黒袍に着替えていた。その姿は『風に臨む玉樹のごとし』だが、顔には三重の面をつけている。

再びがやがやという声が沸き起こった。汁琮も戸惑ったような表情をしていた。

 

ごきげんよう、王陛下、ごきげんよう、太子殿下。」姜恒は汁琮に向かって身をかがめてから、太子瀧に拝礼し、朝臣に向かって抱拳した。

太史瀧は雰囲気を和らげようとして笑顔を見せて言った。「これはどういうこと?お面はどこから持って来たの?」

 

「私は風戎人です。」姜恒は朗らかに告げた。

汁琮は眉を上げた。

姜恒は琉華殿を数歩歩きながら、真剣に言った。「この土地で千年以上生活してきました。」汁琮は手を下ろし、傍に座っていた管魏は笑顔を引っ込め、厳粛な面持ちで姜恒を注視した。

「私たちは塞外で最も勇猛な武者、風の如く行き来する狩人です。」姜恒は皆に向かって言った。「元々私たちは中原人の友であり、敵ではなかった。だが、いつからなのか、こんな恨みが生まれ、だんだんと死闘の場に身を置くようになっていきました。」

万里の長城の南北で、突然戦争が始まった原因は、私たちがたくさんいて、とても強かったからのようです。」姜恒は言った。「私たちは南方に脅威を与えた。そこで、晋帝は、雍候に言ったのです。『彼らを攻めなければ、遅かれ早かれ、彼らの方が攻めてくる』と。

こうして戦争が始まりました。晋帝は雍侯を派遣して、私たちを討伐しに来ました。

雍候は私たちの土地を占領しました。長城以北は、一夜にして全て壊滅し、風戎人は雍人の奴隷となりました。私たちは仲間を集めて雍人に戦いを挑み始めました。」

朝臣の一人が言った。「天下とは得てして弱肉強食なものだ。傍らに敵がいれば、安らかに眠ることなどできまい。」

「おっしゃる通りです。私も敵に感服しました。先手必勝は世の常です。この苦難は、いつかきっと終わるでしょう!」

姜恒は汁琮の方を向いた。「誰かに聞いたことがあります。中原人は九族を断罪する時も、父、子、孫の三代までとするそうですね。既に百十九年、百十九年が過ぎました!私たちはいつこの重い足かせをはずされるのでしょうか?」

「塞外はもともと私たちの土地でした。」姜恒は続けた。「今では大雍の懐の中でぐるぐるめぐっています。私たちの土地を奪って、私たちに売る。我が一族の男たちは、軍功で得た褒賞で、正に命をお金に換えて、雍人の手から、私たちの土地を高値で買い戻します。

だが、彼らは私たちの軍資金を横領し、私たちの妻と子供を追放し、私たちが商業に使う道を断ちました。私たちは分散して住んでいましたが、村と村の間では、絶えず連絡を取り合っていました……。」

この時、白衣に着替えた耿曙が武英公主の後ろに着いて朝同に現れ、汁琮の近くに腰を下ろした。珠簾の影にも誰かが腰掛け界圭が傍らに控えた。姜太后も来たということだ。つまり王族全てが話を聞き始めたということだ。

 

「……あらゆるところに密偵がいます。」姜恒は一歩前に出て、声を低めた。「でも私たちは諦めていません。いつか、自分の土地、自分の猟場を取り戻す日が来るでしょう。告げ口などする必要はありません。恨みや憎しみはすべて心の中にしまっておきます。生まれてすぐに知るのです。私たちは自分のためにのみ戦う。雍国も雍軍もどうでもいい。屈辱は今だけだ。絶え間ない恥辱はいつか終わるはずだからです。」

「向かう所敵なしの雍軍と言いますが、風戎人の流した血のおかげではありませんか?剣が南方を向いている時はいい。いつかその傷を自らが負う日に……雍軍が山が崩れるがごとくに敗れたその時は、私たちは奮起して雍に対抗するでしょう。」

朝堂内は静まりかえった。

「それなら、お前はどうしたいのだ?」汁琮は冷たく言った。

「わかりません。」姜恒は最初の面を取り去り、二番目の面を現した。

 

「王陛下ごきげんよう、太子殿下ごきげんよう。」姜恒は面の奥で双眸に笑みを浮かべた。「大人の皆さま、こんにちは。私は林胡人です。」

耿曙は姜恒から目を離さず、顔に何とか笑みを張り付けた。

「私にはわかりません。さっぱりわかりません。なぜ兄弟だと言ってくれた雍人が一夜にしてこんな風に全てを変えてしまったのか。」

汁琮はもう座ってなどいられなかった。彼がこの世で最も忌み嫌うのは汁琅と比べられることだ。考えも言葉も行いも、天下の名君と朝臣たちが尊敬する兄を超えることは一生できないだろうからだ。彼の死が早すぎたせいだ、と汁琮は常々思っていた。聖人だって間違いは犯すものだ。兄は罪を犯す前に死んでしまったのだ。死んだ者は生きている者より良く見える。兄は今や、太后にも妹にも、雍国の朝野全ての者にとって、完璧に近い存在として確立してしまった。

 

風戎人をどのように扱うかは、生前、汁琅から提案されていた。彼らの兵役を徐々に免除し、塞北の国内通商を回復すべきだと。しかし、汁琮には人が必要だった。刀剣を持って、戦場に行って戦うことができる人が必要だった。そこでこの提案は無期限に放置された。

姜恒の言う『一夜にして』は、汁琅の在位時と、汁琮が継いだ後に天地の差があると示唆している。「お前たちが東蘭山の鉄鋼を渡さなかったからではないか。」汁琮はつい自ら答えてしまった。

実際、林胡領を強制徴用することに、一部の朝臣は反対していた。だが、汁琮の行為に賛同する人も少なくなかったので、最終的にはそれを強行した。汁琮の行為に不満を持つ者は多い。だが、中原と長年敵対する風戎人はともかく、林胡人は雍人にとって、最も確固たる友人であった。林胡討伐は、道義的には何も言えない。

「鉄鋼を渡すとは、規則に則ってお金をもらって売り渡すことだと思っていました。」姜恒は語気を強めた。

陸冀が冷たく言い放った。「国を強くせねばならなかった時に、何万項もの良田、宝の山があったのに指をくわえて見ていればよかったと言うつもりか。」

「国とは誰の国のことでしょう。百年前、私たちは盟友でした。雍人は私たちを守ると約束した。私たちは戦士にならなくてよかった。悪い話ではなかったが、もし私たちが雍人の言うことを信じなかったら、こんなことにはならなかった。私たちの妻子は家畜のように連れ去られた。男は風戎人のように雍人のために戦うことはできないので、労役させられたり、殺したりしました。」珠簾の後ろから、小さなため息が聞こえた。

 

「もう起こってしまったことだ。だからといって林胡人は反旗を翻すつもりか?」

「いいえ。」姜恒はすぐに否定した。「反旗は翻しません。もともと反抗などしなかった。ただ私は思うのです。私たちはきっといい事例になっただろうなと。この土地にやって来る者たちに教えてやりたい。あなたの妻子も連れていかれますよ、あなたは故郷を失いますよ。あなたのいる所に雍国がほしがっている物があるというだけの理由で。事前にどんな約束を交わそうと白紙となります。そっぽを向きたくなればそうするだけだ。私に起きたことはあなたにも起こりうる。今日私が殺されるなら、明日はあなただ。あとは時間の問題だ。大争の世では、生きるためなら親しい人も家族も見捨てる。兄弟だって反目する。王道さえとっくに存在しなくなったのに、林胡人などどうとでもなるだろう。千年の伝承、一朝に尽きる。それも必然だ。」

「だったらお前はどうしたいのだ?」汁琮の声は凍るように冷たい。

「わかりません。」姜恒は二番目の面を取り去り、三番目の面を現した。

 

「私は氐人です。」姜恒はまっすぐに告げた。

ついに一番深刻な問題の番が来た。衛卓はここ数日病を装っていたが、もう逃げられない。彼は軽く咳をした。

「私は大雍のために土地を耕してきました。私は国の六割を養っています。」

太子瀧は姜恒を見つめ、ついに心を決めて勇気を振り絞った。「氐人に罪はない。」その瞬間全ての朝臣が震撼した。汁琮は深く息を吸った。顔には怒りの炎が現れていた。息子は姜恒に操られているのか?!だが、姜恒は東宮と私的に交流していないはずだ。二人の発言も行いも汁琮は全て把握している。このような場で敢えて姜恒への支持を表明するとはどういうことだ?!

山沢が灝城で乱を起こした時、太子瀧はまだ若く、政務処理を学んでいた。だが、彼は確かに同情していた。衛家のために抑えたものの、何が正しく、何が間違いなのかはわかっていたのだ。

 

曾嶸がすぐに呼応した。「その通りです。ですが反乱を起こすべきではありません。反乱は死罪です。」

「私は反乱を起こしましたか?」姜恒は言った。「そうでしょうか。雍王に対し戦ったらそれは反乱と言うべきですが、私は雍王に対し戦いましたか?」

姜恒のたてた最も巧妙な作戦だ。氐人の抗争の対象を、汁家王族から公卿衛家に移した。

「官府を代表して王陛下に申し上げます。陛下は騙されたのです。私たちの土地を占領し、私たちを奴隷にした者がいます。陛下が遣わした役人は、私たちのために正義を司るどころか、共謀したのです。私たちは落雁に知らせようとしましたが、手紙を届けようとした仲間は途中で殺されました。何日も待った末、現れたのは王軍の鉄騎、光り輝く刀鋒でした。仲間の死は、将軍たちの功績になるのでしょうか。」

衛卓の顔は青ざめていたが、反論はしなかった。

「それも仕方ありません。自分たちに起きたことでなければ他人事です。私たちは何百年もの間に、雍人に融合したつもりでしたが、雍人は私たちを身内とは思わなかった。それは氐人の宿命で、変えることはできません。機会を待ちましょう。本当の機会が来ることを。鄭国は人を遣して、助けてやるから一緒に雍人を倒そうと言ってきました。もちろん、承諾してはいません。わが家の問題の解決を外敵に求めることはできませんから。」

汁琮は顔面がぴくぴくとひきつるのを感じた。姜恒はすべての宿怨を容赦なく取り上げて、いつか外族が謀反する日が来ると警告しているのだ。殺人による治安維持は、本質的には恐怖による支配だ。今でこそ重兵を握っているが、敗戦すれば、国のあちこちで容赦なく火の手が上がることだろう。

今回は先ほどのように「だったら何がしたい?」と尋ねることもなく、汁琮は姜恒に対する嫌悪をあらわにした。繰り返し注意を促す目の前の青年の正体は雍人だ。何と言おうと、誰の立場に立とうと、風戎人でも林胡人でも氐人でもない。三族の立場に立って警告を促しているだけで、私心は一切ないのだ。だが、こいつを殺してやりたい、もしくは舌を切り取ってやりたい。こんなことを言うやつを始末し、黙らせれば一切の問題が消え失せるように思えるのだ。

 

この時、朝臣たちは思っていた。こんな容赦ない罵倒に対して、汁琮はどう対応するだろう。議論の声が沸き起こった。汁琮は深く深く呼吸した。突然疲れを感じた。彼が正に、「孤王は理解した。」と言おうとした瞬間、姜恒は最後の面を取った。

「私は雍人です。」途端に朝堂内は再び静まり返った。

 

 

ーーー

第95話 天下人:

 

姜恒はそれほど簡単に汁琮を解放する気はなかった。これからは君と臣であると共に好敵手としてやっていくのだ。この好敵手のことをよく研究してきてわかったことがある。汁琮という人はしっかり理解できさえすれば、怒りに身を負かせたりはしないのだ。

「俗に『不平則ち鳴く』と言います。私にだって言いたいことはあります。」

姜恒はゆっくりと皆の方を見た。

「どんな不平があるというんだい?」太子瀧が穏やかに尋ねた。

雍人は雍国の中で最も利益を受けて、一番厚遇されているはずだ。同族の者たちにどんな不平があるのか、太子瀧には全く思いつかなかった。

「まずは私の身の上をお教えしましょう。私の家族は6人です。まず私の祖父ですが、大雍のために水路を修理していましたが、死んでしまいました。大雍律法によると、55歳以上の男性は、家で子孫の扶養を受けてはならず、自活しなければならない。国の食糧を浪費することになるからです。」

陸冀は居心地悪く感じた。その法律は汁琮の意を受けて、彼が下した物だからだ。

 

「祖母ですか?どうでしょう。祖父が死んでから、祖母は消息が断ちました。彼女は山陰城に行って自ら山に入り、死を待ったそうです。彼女は年を取り、目も悪くなって針仕事もできず、力仕事もできないので、扶養してはならなかったのです。」

「父は木工技師でした。大雍のために、馬車の車軸を作っていました。母は私と兄を産み、一家四人で何とか暮らしていけました。ですがある日、父は仕事中に密探の嫌疑をかけられ、舌を切り落とされました。玉壁関での敗北について話したために政への「妄議」への罰を処せられたのです。

汁琮:……。

「町には千百四十八人の密偵がいます。彼らは朝廷の耳目で、官僚の世界の闇にひそむ、、『信寮』と呼ばれる者たちです。各国の密偵を捜査するという名の下にあちこちに現れ、実際には民を監視しているのです。民が政についてかたればすぐに……」

「お前たちには政について語る資格がないからだ!」汁琮はついに怒りの声をあげた。

「王宮前には意見箱があるだろう。あれは雍国の民のためのものだ!何か不平があれば、投書すればいいだろう!」

衛卓が諫めるように言った。「吾王が禁じているのは、民が是非も道理もわきまえず、人の心を惑わすでたらめな言葉を言うことだ!」

「ああ」姜恒はうなずいて言った。「兼聴すれば明らかになり、偏信すれば暗くなる。

意見箱には、ずっと前から誰も投書していないそうです。」そう言われた汁琮は言うべき言葉が出て来ず、太子瀧に視線を送った。太子瀧は正直に答えた。「その通りです。東宮ではもう三年も文を受け取っていません。」

 

「とにかく私の父は言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。あの人はもともと口に蓋ができない人だった。罪に問われても仕方ない。死罪は当然だ。玉璧関の敗を『妄議』するなんて。朝中の大人には許されても庶民が言ってはいけない。」

汁琮は怒りの炎を湛えて姜恒をにらみつけていたが、暖簾に腕押しといった感じだ。だが、汁綾は突然大声で笑った。この場面を風刺のようだと思ったようだ。笑い声はみなの顔をあおっているようだ。姜恒は話を続けた。

「だけど父が死んでしまって、どうしたらいいでしょうか。母は大雍律法に基づいて、再婚しなければなりません。雍国には人口が必要で、人は薪のように、多ければ多いほどいいからです。私の母はまだ出産できるので、彼女は大安城に送られて、結婚しました。義父となった人の顔は、見たことがありません。」

管魏は冷笑の声をあげた。誰に対しての嘲りなのだろうか。

「私と兄が取り残されました。兄は私を養うために兵になりたいと思いました。」

耿曙が黙ったまま姜恒を見た。姜恒は言った。「私の方は、本を読み、字を習いたいと思いました。ですが、私の運命は他人にゆだねられました。少傅府の人が審査に来たのです。兵になるのが相応しいか、学堂に通って字を覚えるのが相応しいか。

知識人はたくさんいりません。我が大雍においては、本の虫は良いことではない。歪んだ邪道に走りやすいとされるからです。徒党を組んで謀をしたり、民意を操って朝廷を脅かし、謀逆を先導したりする。言うべきことは言わず、言わないでいいことは言うからと。

ですが、学問をすれば役人になれると聞きます。私たちの生活も変わるかもしれない。「書生は役立たず」と皆言いますが、それならなぜ公卿の家では子弟に学問をさせるのでしょう。どうやら、学問が悪いのではなく、学問をする者の品格の方に問題があって、悪事に手を染めるようです。」

この話はその場にいた全ての者の顔に平手打ちを食らわしたかのようだった。太子瀧は目に悲しみの色を映し、汁琮は忍耐力を尽くして、その場で発作を起こさないようにした。その規則は、汁琮が自ら制定したものだ。汁琮にとっては、武が主、文は副だ。無学であるからこそ、武抑制文を重んじ、知識人を嫌う。知識人などろくなものではない。聖賢の言葉を重んじ、陰にどれだけ汚いことがあるかを知らない。知識人が多くいれば、紛争も増える。批判し合ったり、謀を巡らせたり、罠にはめようとしたり、言葉で言いくるめようとしたりして、とても危険だ。しかし、汁琮自身が好きでなくても、息子は苦学する必要がある。公卿大臣の子孫も、文韜を修習しなければならないことを認めざるを得ない。

「でも普通の庶民が子供に学ばせるためには、お金が必要です。少傅府を買収するには

十両必要です。兄は私を学堂に行かせたい。お金はどう工面しますか。」

姜恒はため息をついて、ゆっくりと言った。「結局私は百工寮に行きました。兄は労役について、雍軍のために物資を輸送しています。一生、私たちは国のために家畜になるのです。家畜のように労役し、家畜のように生きるのです。それもいいでしょう。そうあるべきです。」

「話は終わったか?」汁琮の声は押さえつけた怒りの炎を感じさせた。

 

「私は鄭人です。」

朝堂の人たち:「………。」

琉華殿に集まった群臣たちには思いもよらなかった。姜恒はまだ続ける気なのか!

だが実はここからが姜恒にとっては腕の見せ所、ここまでは前置きにすぎない。

「鄭人が私とどう関係があるというのだ?」汁琮は語気をよそよそしく変えた。嵐の前の静けさよろしく、危険な様子が垣間見える。

「なぜ鄭人は王陛下に関係がないと?私は将来あなたの民となりますのに。あなたは私たちの国を統治しようとされていたはず。私の聞き違いだったのでしょうか。」

汁琮は言葉を失った。「王陛下は金璽を手にされたと聞きました。近い将来天下を統一されるでしょう。私を早く助けに来て下さい。神州の万民は首を長くして待っております。雍王が民を苦しみから解放し、救ってくれる日をただただ待っているのです!」

汁琮は言葉を返さず、姜恒を注視した。

姜恒は振り返って群臣に向かった。「私は代人、郢人、梁人でもあります。十四年前、我が国の重臣が雍王に遣わされた刺客に殺されました。この天下は、間もなく、その名を雍と改めることになります。王朝は更迭され、興衰が入れ替わる。そうしたことは、実際のところ、我々民には大したことではありません。自分たちの日常が無事ならば、それで幸せなのですから……

……ただ、最近色々なことを耳にします。風戎人、林胡人、氐人、雍人……本当にたくさん驚くことがあり、身に染みる思いです。」

「雍王鉄騎が南下する日を待っていたのですが、」姜恒は残念そうに首を横に振った。

「はっきり言えません。彼を王に奉じたら、明日死ぬか生きるか。彼は確かに神州の天子かもしれないとは思いますが、神州統一は武力によるもので、刀兵の前に屈服するだけではないかと。しかし、世の中には千秋万代続く王朝もなければ、不老長寿の天子もいません。大丈夫、私は耐えられます。彼を耐え忍べば、私たちの息子、孫に託せる。」

「次は何人になるのだ?」静謐の中、汁琮が口を開いた。

姜恒は取り去った三つの面を並べると、真剣な口調で言った。

「私は風戎人、林胡人、氐人、そして雍人でもあります。」

彼は前に進み出ると両手で面を掲げ、汁琮の前の台に置いた。

「そして鄭人、梁人、郢人、代人でもあります。」姜恒は三歩後退した。

「金璽に叩頭いたします。天下の王権を正統に排された、汁琮天子に叩頭いたします。」

姜恒はひれ伏した。「私は天下人です。どうか、天下人を苦しめないようお願い申し上げます。天子は天下の父、民はあなたの子供なのですから。」

この挙動は、一瞬にして汁琮の怒りを一掃した。姜恒のすべての揶揄、皮肉、彼に向けられた怒りは、すべて「天子」の名の下に、完全に雲散霧消した。

姜恒は正式に彼が金璽を持つことができると認めた。この承認は、彼への叱責を相殺するのに十分であった。晋王朝の役人が封王を叱責したのではなく、民が天子に進言したのだから。

同時に汁琮は最も重要なことを気づかされた。彼は近いうちに、五国を統一しようとしている。彼は仁君になるしかなかった。選択肢はない。各国の人を自分の子供と見なさなければならないのだ。

「顔を上げなさい。」汁琮はため息をついて、淡々と言った。

姜恒は衣服を整え、体を起こし、汁琮を見上げて笑顔を見せた。

「孤王は君に答える。今日の話はきっと………」姜恒の眼差しを受けた汁琮は、突然黙り込んだ。

姜恒は自分の策略が功を奏したと分かっていた。彼は汁琮の過ちを指摘しただけでなく、汁琮の面子を全うさせた。そばに座っていた耿曙もほっとした。道中、姜恒は汁琮の処世についてたくさん質問をしてきた。汁琮の人となりは正確に掴んでいた。どうすれば彼を心から喜ばせ、自分の過ちを考えさせられるかを知っていたのだ。

だが、この瞬間、汁琮の表情は非常に奇妙になり、片手が震えていた。

「王陛下?」姜恒は眉を上げた。汁琮は何かを思い出したかのように目を細めた。

「父王?」太子瀧が横から声をかけた。汁琮の呼吸が早くなった。一瞬、落雁城をさまよう幽霊を見たような気がした!彼は言おうとしていたことを忘れ、姜恒が懐から冊子を取り出して机に置くまで、姜恒をじっと見つめていた。

太子瀧はそれを持ち上げ、「これは君が書いたのかい?」と言った。

「この半年間に途上で記したものです。些細なことから大きな出来事まで。殿下のお暇つぶしになれば幸いです。」

「ご苦労であった。下がって休みなさい。」ようやく汁琮は言葉を発した。視線は姜恒の顔に置いたままだ。笑顔の中に何かの痕跡をたどっているかのようだ。

姜恒はすぐに身をかがめて挨拶をすると琉華殿を後にした。

汁琮が命令を下さないので、臣下たちは立ち上がることができなかったが、太后は先に出て行った。群臣は汁琮がまだ何か話したいのかと思い、静かに待っていた。線香一本分の時間が過ぎた。ようやく汁琮が言った。「解散せよ。」

 

 

ーーー

第96章:

桃花殿内。姜太后は厳格な面持ちで、池の水面を見ていた。水辺には小さな楼閣があり、その中には姜家に代々伝わり、生前姜昭が持っていた宝剣「天月」が祀られている。姜太后は天月剣を外し、そっと剣を抜いた。寒光が彼女の老いた顔を映した。

「恒児を呼んできますか。」界圭が姜太后の傍らから尋ねた。

太后は「帰ったばかりなのだから、少し休ませてやりましょう。国のために骨を折る姿は父親そっくりです。」と淡々と言った。

界圭は「やはり知られましたね。色々手を考えたのに、今日突然気づくとは思いませんでした。」と言った。

太后は「遅かれ早かれ知ったでしょう。今日の姜恒の話を聞けば、琅児について何も言わずとも、話のそこここで、彼を思わせずにはいられなかった。」と言った。

界圭「しかし、今のところ証拠がなく、憶測にすぎません。」

太后はため息をついた。「一国の王が若者一人殺すのに証拠など必要ない。私も年です。剣さえ持てない。持てたとしても守ってなどやれません。あの時のことを知っている者は他にいますか。」

「林胡の例の息子を除けば、もういません。」と界圭は言った。

「烏洛侯家の彼は生きているのですか?」と姜太后は言った。

界圭は「殺そうとしたのですが、できませんでした。恒児に止められたのです。大シャーマンが王妃の出産を手伝った時、連れて来た息子なのですが、あの時はまだ幼かったので、覚えているとは限りません。」と話した。

「まあ、彼も宮中で手を下しはしないでしょう。あの子をしっかり守ってやるのですよ。」

界圭は抱拳の礼をとると、去って行った。姜太后は剣を鞘に収めた。キンという音が響き、林の鳥たちを驚かせた。

 

太子瀧は今日の父は少し変だと思ったが、何がどうとは言えなかった。姜恒の議政会での発言はただ容赦ないだけではなかった。もう何年も父に向かってあんなことを言った人はいない。

しかし姜恒は言った。あれができたのは肝が据わっているせいだけではない。最も重要な身分を持っているおかげでもある。彼は耿淵の嫡男だ。耿家と大雍の関係、汁家への忠誠心には誰も疑問を提することはできない。彼は大雍がより強くなることを望む。さもないと、彼は行き場を失う。姜恒は南方四国と結託せず、私心もない。

まして、姜恒は彼らのいとこだ。私心に左右されれば、利益も、立場もなくす。言葉は鋭いが、言っていることは正しい。父はきっと受け入れるだろうと太子瀧は思った。

かつては、管魏もあんなことを言っていた。だが、士大夫家同士の闘争が激しくなるにつれて、あのような話をする人は少なくなった。毎年春秋2回の東宮議政の場で、知識人たちは太子に雍国各地の情報を持たらした。弊害を直に批判する勢いは、姜恒に負けていない。しかし結局太子瀧はすべてを柔軟に済ませる方法を選び、内容を選んで、父に報告していた。そのことも多くの問題を解決できない原因となった。勿論、意見を言った者の命を守るためにしたことなのだが。

 

国を治めるというのは大変なことだ。父王も疲れている。先ほど、曾嶸がこっそり耳打ちした。『大雍の未来は太子の手中にあります。いつかあなたはこれらの問題に直面し、一つ一つ解決していくことになるのですよ』と。でも話に出たようなことを父王が放っておくとしたら、自分はどうやって解決したらいいのだろう。忍耐は良薬で、彼は待つことを学ばなければならないのか。

だが姜恒は、全てがいつ来てもおかしくない、民の問題をこれ以上待つことはできないと太子瀧に実感させた。今日の姜恒の言葉は、太子瀧を奮い立たせた。後継者に立てられてから、責任を感じ、この国のために何かしたいと思ってきた。どうして自分は汁琮の目に成長しない子供としてうつるのか。昨年の出関戦で、全力を尽したのはそれが理由だ。

この日、彼はやっと気づいた。多くのことで、自分はまだ統治者には遠い。父が突然刺された混乱に直面した時も、議政の場で姜恒に質問した時も、彼はまだ雍王になる準備ができていないことを認めざるを得なかった。自分は長い間待ちすぎたのだ。

姜恒に会いに行こう。これまでこの若者を軽視してきた心を収めよう。姜恒は従弟で、耿曙と同じく手足のような存在なのだ。嫉妬すべきではない。彼はそう自分に言い聞かせようとした。

 

太子瀧は一日かけて、姜恒が書いた冊子を読み、目がくらくらしていた。彼が浴室の前に来ると、界圭が外を守っていて、「しっ」という動作をしたのが見えた。中から耿曙と姜恒の会話が聞こえてきた。  

「お前に官職を与えなければならないだろうな。さもなくば面目ないだろう。」

「もう考えてると思うよ。きっと太史官だよ。他には考えられない。」

「お前は急ぎすぎだ。父王はきっと怒ってるぞ。」

「今日でなければだめだったんだ。なぜかわかる?今日に限っては、私を疑う人はいないからだよ。大臣たちと口裏を合わせたり、何か頼まれたりできない。誰かの意図で動いたわけではない。私は太子にも会ってないから、東宮の意向でもない…。」

落雁で数日休んでから議政を要求すれば、事態はさらに複雑になるだろう。数日の間に、人に買収はされないまでも、態度に多少影響がでるかもしれない。

 

「私も君は先に少し休むと思っていたよ。」太子瀧が浴室の外から言った。「でもあれでよかった。恒児、私が言えなかったことを言ってくれたんだね。」

中から水音が聞こえて来た。姜恒は急いで立ち上がった。耿曙は湯に浸かっていた。二人は小声で話していて、太子瀧が来たとは思わなかった。

「戻って待っていろ。」耿曙がおもしろくなそうな声を出した。

姜恒は急いで言った。「太子殿下。」

 

姜恒は裸だった。服を着て出て行くべきか、中で洗い続けるべきか。太子瀧は「大丈夫。外に座って待つよ。帰ってきてから、まだ君と話をしてないから。」と言った。そう言って、太子瀧は浴室の外に座った。また感慨深く言う。「君は私より勇気がある、恒児。私は君に学ばなければならないね。私は本当に役立たずだ。」

「なぜそんなことを?私は朝臣で、あなたは太子です。私なら言える話も、兄上には難しいでしょう。」

 

今の会話をどれだけ聞いたのだろうか。姜恒はやはり彼のことが好きだった。彼には汁琮にはない長所がある。心だ。彼は自省し、能力の限界を知っており、他人の意見を聞きたいと思っている。これは国君として極めて重要な資質だ。

「何しに来たんだ?」

「会いに来ただけですよ。恒児ずいぶん痩せたね。食事はまだなの?」

界圭が言った。「武英公主がお呼びなんですよ。」

太子瀧はほほ笑んだ。「じゃあ、一緒に行こうか。」

耿曙は以前太子瀧を少し煩わしく感じていたが、その理由は分からなかった。直感から、太子瀧は姜恒に代わって、自分の最も親しい人になるのではないかと考えたり、姜恒が去った後の自分の心の中のその場所を埋めるのではないかと考えたりしたせいかもしれない。

耿曙は4年前、姜恒が死んだことを認めたくなかったし、誰にも思い出させてほしくなかった。太子瀧は彼と一歩も離れず、姜恒の不在を思い出させたのが理由だろう。だが姜恒が生きていたことで、耿曙はあまり気にならなくなった。それに汁瀧が姜恒によくしてくれれば、耿曙も汁瀧をもっと大事に扱ってもいい。そんなわけで少し口調を和らげて尋ねた。

「父王は何だって?」

「特に何も言っていません。でも恒児はずいぶん父を怒らせたと思う。それでもいい。長い間、父に反抗できる人は一人もいなかったんだから。」

「国君の近くには嫌われ役が必要です。なかったらおしまいだ。」

太子瀧はまた誠実に言った。「父は君のことを嫌ってはいないはずだよ、恒児、君は素晴らしいよ。君がしたことは、私がずっとやりたかったことだ。」

かつて太子瀧も、姜恒のように、自国のすべてを渡り歩いてみたいと願っていた。隣に耿曙を伴って。しかし、彼は国王の後継者だ。どこにも行けない。この話をする時、彼の声は悲し気だった。

 

「私はあなたのために行ったのです。」姜恒はぐずぐずしてはいられなかった。服を着ると、太子瀧は、立ち上がって中に入ってきた。「わかっているよ。」太子瀧は静かに姜恒を見つめた。姜恒は中衣を着ていたが、耿曙はまだ素っ裸だった。それなのにまず恒児の外袍の腰帯を締めてやっていた。まるで彼の侍衛のようだ。「全部わかっている。」太子瀧はほんの少しいらだちを感じた。薄暗い室内の光の下で、彼はふと、自分はまだ裸の耿曙を見たことがなかったなと思った。一緒に風呂に入ったこともない。耿曙は皇宮では礼儀を守っていた。晋礼では王室の者に会うには、衣冠を正さなければならない。王族の前で裸になるのは失礼なことだ。

 

耿曙の体つきは父の体つきのようだ。太子瀧は幼い頃から武術を習う人に強いあこがれを感じていた。兄は疑う余地のない安心感を与えてくれる。兄がそばにいる限り、何も心配する必要はない。剣をなでるように、耿曙の体をなでてみたくなることもあった。男らしいたくましい体は、安心感と崇拝の気持ちを生み出した。

「行こう。」耿曙は衣服をしっかり着て外袍を整えた。耿曙の胸にかかった玉玦が太子瀧の目に映った。兄がいつも通り玉玦を身に着けている。いつでもどこでもこの玉玦がある限り、二人の関係は変わらない。耿曙が今まで通り自分のものだという最も重要な証拠だ。玉玦を見た瞬間、太子瀧はほっとして笑顔を取り戻した。

耿曙:?

姜恒は少し気まずく感じながら『どうぞ、』という仕草をした。太子瀧が誰に会いに来たのかは彼にもよくわかっている。未来の大雍国君だ。尊重しなければ。それに自分は彼から色々な物を奪ってきている。彼の人、鷹、侍衛も。今の所、太子瀧は他の事は別にいいようだ。気にしているのは耿曙のことだけだ。姜恒は人の心の機微を読み解くことに長ける。耿曙の態度次第で太子瀧とはうまくやっていけるだろう。自分は彼のように耿曙を失うのではないかと常に不安に駆られることはない。結局兄の心はいつも自分に向いているのだから。

 

耿曙は姜恒の手を引こうとしたが、姜恒は上手にそれを避けて太子瀧の後ろにつき、そっと首を振った。人前ではあまり親し気な態度をとらない方がいい。旅の帰り道でもずっと言い聞かせて来たことだ。耿曙が彼と近しいと自分が王室に取り入っているように誤解される。人によっては特別扱いされているととるだろう。

 

太子瀧は言った。「山沢と水峻のことはすまなかった。あの時私はまだ若すぎて。」

姜恒はほほ笑んだ。「彼らは太子を責めたりしません。」

「皆が山沢は氐人きっての美男子だと言う。そうなのかい?」

「殿下が彼の命を取り留めようとされるのはそれが理由なんですか?すぐにご自身の目で見られると思いますよ。」太子瀧と姜恒は同時に笑った。

「あと山沢はとても聡明だって。そう思う?」

「それは確かです。過去を気にせず起用したいと望まれるなら、山沢は東宮きっての逸材となるでしょう。」

「彼は今どこに?」

こうしたことは隠し通せるものではない。誰にも聞かれたことはなかったが、彼を信じることで解決方法がみつかるかもしれない。「城市にある氐人経営の宿、遠風楼です。会いに行かれますか?私としては、今はやめた方がいいと思います。」

「君と氐人問題をひっくり返す(翻案)方法を話し合いたいと思っていただけだよ。」「ひっくり返す(翻案)っていう言葉を不快に思う人もいるでしょうね。」姜恒は笑った。太子瀧は少し戸惑った。彼は中原人の皆まで言わず仄めかす言い方に慣れていない。姜恒はつい言ってしまってから、独り言で暗示し、太子瀧はしばらくしてようやく意味が分かった。(私も中原人ではないので、この部分の意味が全くわからない。昭和の人間なので星一徹がちゃぶ台(=案)をひっくり返すイメージしかない。)

 

「じゃあ、父王がどう決定を下すか見てみよう。半分は君の説得に応じていると思うから、もう半分は私ががんばるよ。」

姜恒は頷いた。「今の言葉で山沢があなたの人になることが運命づけられました。」

 

 

ーーー

第97章 奉剣閣:

 

桃花殿には王家の人々が集まり、汁琮が来て家宴が始まるのを待っていた。

太后が端座し、姜恒の挨拶を待たずして話しかけた。「出て行くと聞いた時にはもういない。そなたはそういう人なのですね。」

姜恒はほほ笑んで太后に挨拶をした。太后は責めるように言ったが、きっと心配してくれていたのだ。「急に思い立ってしまいました。姑祖母にはご心配をおかけしました。」

「界圭は何をしてそなたを怒らせたのです?」姜太后は不満気だ。

姜恒は賢い。何もかも説明することはできないのでただ答えた。「旅では苦労をかけてしまいました。兄が来たので、彼には宮殿に戻って先に休んでもらおうと思ったのです。」

太后はそれを聞くと淡々と言った。「まあよい。」

汁綾が言う。「よくもあんな話ができたわね。どうもあなたを甘く見ていたようだわ。」

太子瀧も笑いながら言った。「ハンアルの話は全て実話です。」

一時殿内に静寂が走った。姜太后はまたため息をついた。今日姜恒が琉華殿で語った話は、全て、かつて管魏が汁琮に言っていたことばかりだ。あの頃の管魏は天地をも恐れぬ気質だった。だが老いた今ではそれもしなくなった。一方の姜恒は鋭気を一身にまとい、何者も恐れない。

耿曙が言う。「父王は怒っていないだろうか。」

耿曙がこれを言うのは二度目だ。彼が気にするのは汁琮の態度だけだ。他の者が姜恒をどう思おうと、最終的に決めるのは汁琮だ。旅の前半のことは耿曙にはわからない。だが、姜恒の話は正しいと信じていた。姜恒はいつだって正しいのだ。弟があんなことを言ったのは何のためだ?もちろん大雍のためだ。大雍のためということは自分、耿曙のためだ。もし汁琮が許さず、姜恒を罪に問うなら、耿曙は再び家族の情を捨てるつもりだ。姜恒をここに居させることはできない。彼は色々なことをよく考えた。金璽は汁琮に渡した。義務は果たしたのだ。姜恒を連れて出て行ける。

 

汁綾は他人の不幸を楽しむように笑った。「待っていれば来るんだから、自分で聞いてみれば?」「俺には聞けない。」耿曙は答える。

「父さんは平気さ。忠言には耳を傾けるひとだから。」

「いいじゃない。東宮や左丞相が奏上してきた内容もあったでしょう。あなたは父の面前に奏折を突きつけて、ここに書いてあるから読めっていえばいいわ。」

姜恒は心の中でため息をついた。みんなの反応でわかるのは汁琮が国君としてふさわしからざるということだ。もし汁琅の時代であれば、話題にされるのは国君の態度についてではなく、どうやって問題を解決していくかであったろうから。

 

耿曙が再び尋ねた。「出兵はいつごろになるだろうか。」それを聞いた汁綾は笑顔をひっこめ、姜恒に向かって言った。「この様子だと玉璧関奪還の戦いはまた先延ばしにされそうね。国土を取り戻すのはいつごろになりそう?」

姜恒ははっと我にかえってすぐさま答えた。「いいえ、遅らせることはできません。すぐに準備を始めて来月には開戦せねば。早ければ早い程いいです。」

「何ですって?」汁綾は信じられなかった。先ほど汁琮の前にあれだけの内憂を持ち出したのだ。一つずつ解決していくのでは?国内情勢が不穏なのは、汁琮が刺されたときに気づいていた。あの時朝廷は大敵に備えるため動き出した。玉璧関奪回のことではない。各部族の反乱に備えるためにだ。それなのに姜恒はすぐにでも開戦しろと言うの?!

姜恒は大まじめに言った。「難題なのは玉壁関をどう奪還するかではありません。その後にどうやって……」

「政治の話はやめなさい。」姜太后が二人の話をさえぎった。「行軍や戦争、治国や変法、そういったことは別の時にゆっくり話しなさい。」

「はい。」姜恒が言った。

汁綾は考えに没頭した。太子瀧は気分を和らげようとつとめた。「旅先で熊を二頭拾ったんだって?」姜恒は笑顔を浮かべて頷くと、手で大きさを示した。「このくらいの大きさです。孟和という人に預けました。」

「ああ、彼か。」太子瀧は思い出した。耿曙は眉をひそめた。「奴は誰なんだ?」

耿曙はなぜか知らないが、孟和があまり好きではなかった。

汁綾が答えた。「風戎人で最年少の王子よ。」

太子瀧が続ける。「彼の兄の朝洛文は風戎軍の左将軍なんだ。よく東宮にも来る。今度君も会えるよ。」

姜恒は頷いた。番狂わせがなければ、自分はこのまま東宮体系の中に組み込まれるだろう。汁琮は我が子の治国の才を伸ばしたがっている。目下、権威ある文官といえば、陸冀と管魏の二人だが、もう高齢だ。周游と曾嶸の二人は士大夫家出身で、それぞれに利害関係がある。耿曙が武将の側の空席を埋め、若い策士としては姜恒がいる。この二人は封地も、結党も持たないという点で最高の人選だが、唯一の弱点は二人の関係が近すぎることだ。

 

「烏洛候家の彼はまだ存命なのですか。」姜太后が言った。

「生きています。もう逃げました。きっと後悔していることでしょうね。」と姜恒。

汁綾が不満気に尋ねた。「何を後悔するの?」

「造反して反乱をおこさなかったことを後悔しているでしょう。」

姜恒は、郎煌が名義上は未だに逆賊なのを知っていた。塞外三族の中で、汁家に正面から宣戦した族長は彼だけだ。汁綾もそのことは何としても受け入れがたいところだろう。郎煌を赦免するには何か手立てを考えねばならない。

 

しかし汁綾は意外そうに言った。「造反?追い詰められて殺されそうになったから反撃しただけでしょう。自分の家族を守って何が悪いの?」姜恒は汁綾を見直さずにいられなかった。武英公主は実に賢い。汁綾は遠慮なく批判を続けた。「あの時私は出兵すべきでないと言ったはずよ。あなたたちは皆父を怖がって誰も彼を止めようとしなかった。あなたもよ、汁淼。行けと言われてただ従った。」

「もうよい。」姜太后が諫めた。汁綾は口をつぐんだ。姜太后が話を続けた。「海東青は、かつて烏洛候家が献上してくれたのです。今の状況を見て悲しんでいることでしょう。」姜恒は話を聞いて、姜太后の傍らに控えた界圭に目をやった。心中で思う。『あなたは郎煌を殺そうとしたけど、どうやらあれは姜太后の意思ではなかったようだね。』だが界圭は得意げに一笑し目配せをした。厚顔無恥なやつめ。

 

汁琮が到着した。殿内を見渡し、王の席に着くとため息をつき、袖のボタンをはずして告げた。「食べよう。」皆が置かれた食盒を開け、晩餐が始まった。

「王上、」姜太后が淡々と話しかけた。姜恒は箸をおいた。汁琮はその様子を見て言った。「ここは洛陽ではないし、これは家宴の席だ。堅苦しいしきたりに従わずともよい。食べる時は食べるのだ。」

今日の汁琮は何やら心配事があるようだ。「下元節の祭祀は全て準備できました。周軻が明日目録をお持ちしますのでご覧ください。」

「何日かしたら、姜恒を晴児の供養に連れて行きたいのです。彼は外甥にあたりますから。それと、南方に人を遣わせて実母の消息も調べてやりなさい。」

「そうですな。」汁琮は姜恒に目を向け、じっと視線を動かさなかった。

「こうしてこの子を見ていると、昭児のことを思い出します。あなたたちが一緒にならなかったのは本当に残念でした。」

姜恒は何とか笑顔を張り付けた。太后はやさしい人だとわかっている。

汁琮:「あれはあの娘が私に嫁ぎたがらなかったからだ。」

太后は箸をおき、思いにふけった。

汁琮は笑った。「そういうことだ。姜恒。」

姜恒は箸をとめて、真剣に言った。「王陛下。」

汁琮はしばらく黙ってから言った。「君の爵位は、天子朝中太史官だったな。」

姜恒は答えた。「はい、」

「先ほど、琉華殿で君が言ったことを孤王は永遠に覚えているぞ。」

「父さん、」太子瀧が少し慌てた。

汁琮は手をふって、息子を黙らせ、それ以上の説明を避けた。

しかし姜恒には汁琮の心が読めた。彼らは君と臣であり、好敵手だ。太子瀧は汁琮が言ったことを、姜恒の無礼に対する苦言ととったが姜恒にはその真意がはっきりわかった。『永遠に覚えている』のは、直言のことではなく、晋王の遺命に遵って彼を天子と奉じたあの行いのほうだ。あの拝礼で、それまでのことは全て帳消しになったと暗に示したのだ。

「君が孤王を天子として拝する以上、孤王も天子として、君を臣と見なす。これからも、君は洛陽にいた時同様、太史官の地位を引き継ぐ。ただ職務内容については少し調整する。東宮に加わって太子の政務処理に協力してほしい。」たちまち太子瀧は笑顔になった。「やった!」

耿曙は眉をひそめ、どこか不満気に姜恒を見た。だが姜恒は一笑した。得意げに目で告げる。『ほらね、当たってたでしょう?』

殆どは管魏の考えだろう。金璽が汁琮に奉じられている以上、寓意としては神州統一国家の正統な伝承を意味する。つまり、朝廷は姫珣から汁琮の手に渡ったのだ。姜恒は官制に従い、太史を引き継ぐ。非常に合理的だ。

(姫珣が泣いてんじゃないか?宋鄒も。)

 

「この冊子、」汁琮は言った。「私はざっと読んだが、字が小さすぎて頭が痛くなる。何日かしたら大きな字で清書させる。太后に1冊、朝中三公に1冊ずつ、孤王にも1冊もらい……汁瀧?」汁琮は姜恒に冊子を戻そうとしたが、汁綾が「先に見せて。」と言って先に持って行った。姜恒は「はい、」と答えた。

「誰かに命じればいい。君がしなくていい。一月後、東宮はこの『雍地風物志』に述べられていることについて、幕僚を集めて解決策を提出するように。」

太子瀧は答えた。「わかりました。」        (丸投げか)

 

「新法を春に公布できるように。」汁琮は述べた。「法は変えるべきだが、一部の条文は、むやみに廃棄・改変してはならない。法案が制定されたら、左相管魏、右相陸冀に渡して審議する。そのうち軍に関わるものは、上将軍汁淼、汁綾、大将軍衛卓に先に渡すこと。法案は冬至までに作り終え、琉華殿内で問政を開き、知識人たちの意見を募るように。」

「はい、」姜恒は頷いた。

「その中には先行すべき切迫したものもある。奏折を渡すので処置するように。我らには時間がない。開戦も控え、内憂外患、同時に解決しなければならない。時は人を待たない。」

「謹んで王令に遵います。」

 

「王上、」姜太后が再び口を開いた。「姜恒が戻って来たので、また界圭を仕えさせようと思います。」

「ああ、」汁琮は姜恒の視線を避けた。また何か思い出したようだ。

太后は姜恒に言った。「そなたが界圭に付きまとわれたくない、もしくは彼が何か罪を犯した時には、彼に自害させなさい。誰もいないところで彼を帰らせたりは決してしないように。」姜恒は急いで言った。「そんなまさか、姑祖母。」

この言い分は昭夫人の気質を思わせた。姜恒は腹の座った母親がまた一人できた気がした。

 

夜になった。姜恒は心の重荷を無事おろし、ほっとしていた。

今回は、本当に家に帰った気持ちになった。寝殿内はきちんと片付けられ、殿内はほこりもなく掃除されていた。いくつか置物が増え、側に本棚も入れられた。

耿曙は持ち帰った荷物を片付けた。かつて二人で暮らしていた時のように全て自分で行った。

「ここで寝るの?それとも部屋に戻るの?」姜恒は聞いた。

耿曙はちょうど上着を脱いで帯を解いているところだった。「ここで寝るに決まっているだろう?まだ聞くのか?お前と話したいんだ。」

「部屋に帰りなよ。」姜恒は催促した。「あなたがそういう態度だと、汁瀧がいやがるよ。私は彼から彼の兄上を取るようなことをしたくないんだ。」

「彼の兄上をとるってどういうことだ?あいつに何の関係がある?一緒に寝たことなんてないぞ。」耿曙には訳がわからない。

姜恒は耿曙を見た。その時、外から界圭の声がした。

「殿下、太子殿下がお部屋でお待ちです。お話がしたいそうです。」

姜恒は、ほらね?という顔をした。

「また来てどうするつもりなんだ?昼間ずっと一緒にいてまだ話したりないのか?夜にもまだ何か話したいのか?」

「本当だよねー、今の言葉をそっくりあなたに返すよ。」

耿曙:……

仕方がない。帰ってきた時、姜恒に約束した。雍宮では親しくしすぎてはいけない。姜恒は多くの人にとって、まだよそ者だ。まずは彼がゆっくりとここに溶け込むのが大事だ。彼にかまけて軍隊を放っておきでもすれば、汁琮を怒らせるだけだ。

「明日は作戦会議があるんでしょう。早く休んで。さあ、早く行って。」

「じゃ、夜中にまた来る。」姜恒の部屋は自分のところから近い。言い張ることはない。姜恒が耿曙を送り出すと、界圭が門の外で床をたたき、彼を見た。

「入って。」姜恒は言った。

界圭は「外がいいです。外は涼しいので。」と言った。

姜恒は笑った。「叔父上を床に寝かせる人がどこにいる?入って。」

すると界圭は布団を巻き付けて部屋に入り、姜恒の寝台に横たわった。

「降りて。降りないなら人を呼ぶ。」

「叫んでください。外には誰もいませんよ。私のほかに、誰が夜な夜なあなたの寝台のそばにいますか。私は太子瀧ではありませんしね。」

姜恒は作戦を変えた。「降りないなら、あなたに買って来たお酒はなくなるけど。」

界圭はすぐに身を翻し下りた。「お酒があるんですか?本当に私に買ってきてくれたんですか?」

姜恒は棚の前に行って、自分で持って行ってと合図した。下4壇にある酒は、すべて彼が灝城を出る時、水峻に頼んで準備させたものだ。

「そのうち東宮に奏上させて、禁酒令を解く。」と姜恒は言った。「でも、あなたは待てないようだから、先に飲んで。」

界圭は振り向いて姜恒を見た。「あなたが私を気遣ってくれたなんて。私はとても感動しました。」と言った。

「夜はあそこで寝て。」姜恒は屏風の外に置かれたもう一つの寝台を指さした。あまり界圭によくしてはいけない。さもないと、また勝手なことをし出すだろう。

「私はもう寝ますね。ああ、疲れた。」

界圭は棚の中から一壺取り出して抱え、座り込んだ。「ご恩にどうお応えしましょうか。」

「飲み終わったらさっさと寝て。それが恩返し。」