非天夜翔 山有木兮 日本語訳 第6章

非天夜翔 山には木があり

第6章 枕の下の玉:

 

「母さん」

夕食の時、姜恒は「本を全部読んだら、武術を教えてくれませんか」と言った。

「世の中の本は永遠に読みきれません。そんな身の程知らずなことを言うなんて、自分で両ほほを叩いたほうがいいですね。」

「じゃあ、私は……じゃあ、武術を教えてください。私は必ずよく本を読みます。」

「豚や犬を殺す技術を学びたいと。私が死なない限り、いいえ、私が灰になっても、一生あなたに武術は習わせないから、あきらめなさい。」

「どうしてですか?!」姜恒はがっかりした。「もし誰かが私を殴ったら?」

「殴らせればいいでしょう。殴り返さず、言い返さず、それこそ聖人です。殺されたとしてもその方がいいのです。」

 

姜恒は黙っていたが、しばらくしてから「耿曙には武術を教えているのに。」と言った。

「仁を求めて仁を得る。」昭夫人は言った。「剣で人を殺す者は、剣の下で死ぬ運命を得る。彼にはそんな運命がふさわしい。」

「でも、死なない人がいますか?『人の天地の間に生くるは、白駒隙を過ぐるが若し。忽然たるのみ。注然猛然 莫出ずや、油然漻然 莫入ずや。生已化し、又死と化す。生物之を哀れみ、人類之を悲しむ』…」

昭夫人は冷ややかに笑った。「武術を習わせないからと、口答えのために覚えたての文章を口にするとはね。恥ずかしいと思わないのですか?」

「私はただ……」姜恒は仕方なく、「わかりました。」と言った。

姜恒は母親が剣を使えることを知らなかった。耿曙が来たことで、彼が考えたこともなかった秘密がたくさん明らかになり、閉ざされた小さな世界はあっと言う間にひっくり返された。

「耿曙は私の兄弟ですか。」

昭夫人の茶碗を持った手がほんの少し震えた。この子は世間のことを知らなくとも、愚かなわけでは全くない。色々気づいているのだ。

 

「明日から作文を始めなさい。」と昭夫人は冷ややかに言った。「食べ終わったらお行き。」

「あの耿曙は……」

「私はいつか彼が気にくわないことをしたら、気まぐれに彼を殺してしまうかもしれない。」昭夫人は息子に対し真剣に言った。「彼の首が離れている場面を見たくなければ、母に彼のことをやたらと思い出させないでくれないかしら。」

姜恒:「……」きっとそうなんだ。母が耿曙を殺すことはあまり心配していなかった。母は誰に対してもそうだから。眼差しに現れているのは怒りや脅威ではなく、自滅的な嫌気だ。物心ついてから母が笑っているのを見たことがない。それでも母親の態度のことで耿曙に謝りたかった。今の彼には、突然できた兄弟がどんな意味をもたらすのか、まだ理解できていない。しかし、これからはずっと一人ぼっちではないのだとはわかった。

 

耿曙は桶に冷水を入れて、裏庭で体を拭いていた。姜恒は廊下の柱の後ろから彼を見た。

耿曙は顔を上げて彼を見た。姜恒は笑って、手招きをした。

 

「薬を変えてあげる。」と姜恒は言った。

「いい。」耿曙は言った。

姜恒は「さあ、」と言い張った。

 

耿曙は振り返って、部屋の中を見た。衛婆は窓の下で縫いものをしていた。耿曙は廊下に向かって行った。姜恒は思わず彼の手を引き、2人は裸足で姜恒の房へと走っていった。

昨夜のように、姜恒は薬を塗り、耿曙は身を横にして彼の好きにされたが、今日の会話は、昨夜よりも少しだけ親しげになった。「効いたでしょう。」

「うん」

「ほら、役に立つと言ったでしょう。」姜恒は笑った。

耿曙の目はずっとあの玉玦を見ていた。姜恒が昨夜枕の下に入れたのが少し見えていた。

姜恒は耿曙がこの玉玦を気にしているのを見て、衛婆に首にかける紐を編んでもらってから返そうと思っていた。家に玉がないわけでもなく、彼にとってこれはただの石にすぎない。

 

「手は痛くない?剣の練習の後で、上がらなくなってない?」姜恒はまた尋ねた。

耿曙は首を横に振って姜恒を見た。今夜姜恒は目に終始笑みを浮かべている。耿曙は少し眉をひそめて、彼の表情の下の意味を判断しているようだ。

 

「母さんはいつもああなの。」姜恒は考えていたが、ついに口を開いた。「悪く思わないで。」

耿曙は返事をせず、少しぼんやりしていた。姜恒はまた言った。「彼女はよく鞭で私のことも叩くの。本を読んでいないと…」

「一度読んだだけで、暗記できるのか?」

「えっ?」姜恒はわけがわからず、うなずいた。「うん、そう。万章は読んだ?」

耿曙は「字は読めない。」と言った。

姜恒は驚いた。「字が読めないの?」

姜恒には想像できないことだった。世の中には字を知らない人がいるのか。「どうして字を知らないの。字を覚えるのは……生まれつきのことじゃないの?」

「誰も教えてくれなかった。字を覚えるのは生まれつきではない。」耿曙はきっぱりと答えた。姜恒心の中に一つの考えが生まれた。『ちょうどいい!私が教えてあげる!私があなたに字を教えるから、あなたは私に剣を教えて!』

だが手の薬を取り替えると、耿曙は立ち上がって、「じゃ、行く。」と言った。

姜恒は追いかけて出ようとしたが、耿曙はさっさと扉を閉め、彼を部屋の中に閉じ込めた。

姜恒は冷たい扱いには慣れている。母はそうで、衛婆もそうなので、耿曙のこの行動は、

別に何ともない。部屋に帰って横になるしかなかったが、耿曙の態度も気にしなかった。

 

夜になると部屋の外で風の音が大きくなった。姜恒はぼんやりと眠っていたが、誰かが寝台のそばに立っているのを感じて、目を開けた。「誰?」姜恒は驚いた。なんと耿曙だった。

耿曙は静かに立ったまま、枕の下からはみ出ていた玉玦を見た。

姜恒は「あなたの部屋は寒いの?上がってここで寝ますか。」と言って、寝台に場所を譲った。

 

耿曙は裸足で中衣姿のまま、枕の下の玉玦を見つめていた。二人はしばらく黙っていた。

耿曙は突然「これは父がくれたものだ」と言った。姜恒は玉玦を枕の下から出して、耿曙に渡した。「知ってるよ。あなたの物だって知ってる。紐を編んでから、返そうと思ってた。」と言った。耿曙はまた長い間沈黙していたが、最後には背を向けて姜恒の寝室を出て行った。

姜恒は玉玦をつかんで、追いかけた。耿曙は「もういい、お前が持ってろ」。と言った。

強い風が吹いて扉が開くと、姜恒は目をこらして耿曙の姿を追った。冷たい風に吹かれて、すっかり目が覚めていた。

「兄さん!」姜恒は突然叫んだ。耿曙は振り返った。目には驚きの色があった。姜恒がもう一度言おうとした時、耿曙は廊下の向こうに消えてしまった。

 

 

一晩中風が吹いて梨の花は散った。外壁の隅では花が咲きだした。

この日姜恒は書斎で芦紙に文章を書いていた。

 

昭夫人は一巻きの剣譜を耿曙の前に投げて、「前三項、午後に試験をします。」と言った。

昭夫人が去った後、前庭には剣を練習する耿曙と筆管を噛んで文章を作る姜恒が残された。

耿曙は少し絶望的に姜恒にむかって「どうしたらいい?」と言った。

 

姜恒は急いで、「読んであげるよ。ほら、かして」と言った。

姜恒が剣譜を何度か読み上げると、耿曙はうなずいて、剣の練習を行った。姜恒は何行か字を書き、机の下に枕で隠した絃を取り出しては、何回か編み、また机の上の芦紙を見て、更に庭の耿曙を見た。一心三用、心は三方にあった。

 

「また忘れた。もう一度読んでくれるか?」耿曙は突然剣譜を持って、姜恒に聞いてきた。姜恒は頼られてうれしかったので、急いで筆を置いて、半分編んだ紐を持って出てきた。

「肩は淵のように重く。沈めて動かさないという意味です。」と言った。

「わかった。」耿曙はまた彼を文章つくりに戻らせて、剣の練習を始めた。

 

『字を教えてあげようか?』姜恒は考えたが、言わなかった。書にあったのだ。

『待人の道、恩を以って挟み応じず、也、交易を作り来ることで応じず』恩を売って取引するのは人の道に外れる。耿曙に剣を教えさせることは取引になるだろう。

 

「剣を教えることはできないよ。」耿曙は、今日は初めてたくさん話をしてくれる。

「わかってる。」姜恒は仕方なく言った。「母は私に武術を習わせない。」

「いや、そうではなくて、まだ自分が覚えていないからだ。」耿曙は予想外の答えをした。彼は手を振って剣の練習に専念し、「覚えてからだ。」と言った。

 

「うん。」姜恒は爽やかに笑った。

『万章』を読み終えると、姜恒は3編の読後の解を書かなければならなかった。昭夫人はそれを見た後、評価はせず、芦紙を閉じたまま棚に置いて、「次は『天論』を読むように」と命じた。

「去年の秋に読みました」と姜恒は答え、暗唱した。「天行には常があり、尭のために生きず、桀亡のために……」

昭夫人は袖を撫でて「忘れて。『秋水』を読みなさい。」と言った。

「秋水の至る時、百川灌漑す。流れの大きさ、両崖の間に牛馬を繋がず……」

「いいでしょう。」昭夫人は少し怖くなった。部屋中の書物を8歳の子供が読み終えてしまうとは?!

「『大取』は?」昭夫人は緊張感を隠して姜恒を見ていたが、幸いにも今度は姜恒にもわからなかった。「大取とは何ですか?」

「墨翟老先生からの書簡です。」昭夫人はほっとした。「墨翟先生って誰ですか」姜恒はまた好奇心を持って尋ねた。「この前の黄色い髪のおじいさんのことです。」と昭夫人は言った。

姜恒は思い出した。あの胡人のような大きな老人は姜家の数少ない客の一人だ。

姜恒は竹簡をたくさん抱いて、よろよろと机に置いた。昭夫人は手に竹簡を握って、「これを読みなさい。初二から読み始めて。怠けたら痛い目にあいますよ。」と言うと、庭の耿曙に向き直って、剣の技を矯正した。

 

 

姜家では毎月1日と15日を休みとしていた。

月末に姜恒は試験を楽々終えた。母の表情から、一貫して申し分ない出来だとわかる。だが、一貫して誉め言葉は少なく、たださらりと一言、「まあまあです。」と言われた。

明日は休みで、本を読む必要はない。今までは姜恒は何もすることがなくて、退屈で頭の上に草が生えそうだったが、今は耿曙がいる。仲間を得た今、思い切り何かしたくてたまらない。もし二人でこっそり抜け出すことができたら最高だ。

 

夜になり、雨風の音が途切れ切れに続いていた。東棟の明かりが消えた後、姜恒の小さな姿が静かに廊下を通り抜け、裏庭に回り、耿曙が住んでいた仕事場の窓の下に来た。中からは重苦しい息づかいが聞こえた。姜恒は軽く窓をたたいてみたが、返事がなかったので、部屋の戸を押し開けた。寝台のそばに近づいた時、布団の中の耿曙はちょうど寝返りをうったところだった。

 

「兄さん、」姜恒は小声で言った。「寝てるの?」

耿曙は姜恒が深夜に突然現れるとは思わなかったようで、起き上がって座り、寝台を少し譲ったが、布団を片手に持って、顔を遮った。

「出てけ!な、何しに来た?早く行けよ!」

姜恒はしーっと言った。「具合が悪いの?」

姜恒は手を伸ばして触ったが、耿曙はすぐに腕でふさいだ。夜風が寝台のそばの窓をさっと開けると、わずかな夜の光を借りて、耿曙の顔に2本の涙の跡があるのを見えた。

耿曙の呼吸は次第に穏やかになり、姜恒は寝台に登って、ひざまずいて窓を閉めた。

耿曙の顔に疑問の表情が現れ、二人の子供はしばらくじっと見つめあった。姜恒はやっと彼の目的を思い出して、懐から玉玦を取り出し耿曙の手に渡した。玉には拙く編まれた赤い房が付いていた。

 

「これをあげる。」姜恒は膝を抱いて、耿曙の寝台に座った。「父さんと母さんに会いたい?」

本来なら姜恒の父が耿曙の父だが、彼は一度も会ったことのない男が、彼に「父親」と認められる資格があるとは思わなかった。耿曙にとってだけ、本当に完全な家庭を持っていたのかもしれない。耿曙は玉を受け取ると、視線を合わせ、「うん」と声を出した。

「父さんのこと、話してくれる?」姜恒は思わず尋ねていた。

「また今度な。帰って寝ろ。行って。」

耿曙は布団を開けて横になった。姜恒は「うん」と答えた。

「奥さんと婆には言うな。」耿曙は布団の中から言った。

姜恒はこの小さな秘密を守るつもりだった。彼は耿曙のために戸を閉めて、東棟に帰った。耿曙は足音を聞いた後、寝台から起き上がり、窓を小さく開けて外を見ていた。