非天夜翔 相見歓 日本語訳 第26章ー第30章
第26章 戦事:
段岭は薬を持って部屋に帰り、蔡閏に薬を煎じてやった。蔡閏は力なくうめいていた。
「彼は来たのか?」蔡閏が尋ねた。
「誰?父さんのこと?来たよ。」段岭は答えた。蔡閏は、ああ、と言い、段岭は話を続けた。
「今夜は剣の練習はしなかった。」
蔡閏はゆっくりと息を吐いた。薬が出来上がった。段岭が蔡閏に飲ませようとして体を支えた時、首からつった布袋の赤紐が揺れた。先ほど李漸鴻と話をした時に、取り出して見たのだった。蔡閏は布袋を手に取って言った。「初めて名堂に来た日にバドと殴りあったのはこれが原因だったって聞いたよ。これは玉玦なのかい?」
段岭は言った。「うん。さあ、薬を飲んで。」
蔡閏は笑って言った。「バドは首からかけていた物に興味津々だったんだろうけど、二度と君にちょっかいを出さなかったな。」彼は袋の外から触ると、段岭の単衣の中にしまってやった。「玉の片割れ、合わせると一つになる半玦か。」
「玉璜なんだ。」段岭は答えた。
蔡閏は薬を飲み終え横たわった。段岭は「強い薬を飲ませたから、一晩ぐっすり眠ったらきっとよくなるよ。」と言った。
その夜、段岭は剣を枕の下に置いて横たわったが、眠ることはできなかった。鉄馬に跨り鉾を振るう父の姿ばかりが心に浮かぶ。敵の首を切り落とす姿や、一矢も違えずに矢を射る、威風堂々とした姿だ。
夜が更けても蔡閏は寝台の上でゼイゼイと喘いでいた。黒い雲が月を遮り、雨も降って来た。
静まり返っていた大通りを、馬が水たまりを踏みしめて進んで行く気配がした。低くこもったような音を立てている。段岭は起き上がって、窓の外を覗き見た。近くをたくさんの兵士が通り過ぎていき、北門の外に向かって行くようだ。戦馬はいつものパカパカという音ではなく、明らかに低くくぐもったような音を立てている。
それは奇襲の責務を負った四千人の軍隊だった。馬の蹄に布を巻き、李漸鴻の指揮下、音を立てずに北門を抜けて、丘を抜け、東側にいる元軍の後方に回り込もうとしている。
ちょうどその時、一方の元軍も南に向かっており、上京の西門を攻撃しようとしていた。
土砂降りの森の中、耶律大石と李漸鴻はそれぞれ甲冑に身を包んでいた。
耶律大石が言った。「あんたの読み通りだな。偽情報を出したことが功を奏した。」
李漸鴻は言った。「私の今一番の懸念は、北門と西門の兵力が実際に少なすぎることだ。」
耶律大石は答えた。「主要兵力を城壁の上に置いたままにして置いたら、余計安心できない。オゴタイはそこまで賢くはないだろう!」
李漸鴻が言った。「耶律大石、直言を許せ。君は蔡聞に一隊与えて守らせるべきだ。」
耶律大石は李漸鴻を見た。「李漸鴻、総帥は私だ。兵を分けよ!」
李漸鴻は指示に従い進まざるを得なかった。耶律大石と同時に丘を離れ、兵を二方に分けて、静かに敵の後方に進んで行く。ひと月の間、城の囲い込みに耐えたのは、この夜のためだ。
李漸鴻と耶律大石は協議の結果、元軍に対して消耗戦を仕掛けることにした。立秋をめどに、偽情報を流して、元軍を捕える。選んだのは今夜だ。
元軍の大軍は既に西門の下に集まり、静かに攻城梯を上っていた。
巡防司を率いていた蔡聞は冷たくとがった矢を構えた。(のかなあ)
李漸鴻は二千の精鋭を率いて、大地を轟かせ、途切れることなく元軍の後方に迫った。
「殺れ———!」李漸鴻は咆哮した。
「殺れ———!」二千の決死隊が元軍の大営に突入した。一斉に火を起こし、火油、火缶を放つ。馬は嘶き、食料、干し草は燃え上がり、天に向かって炎が立ち上った。
元軍の一人が松明を掲げて、鐘突き台に上った。李漸鴻は馬を馳せながら、一矢を投じ、元兵は鮮血を飛ばして鐘の上に倒れた。
「殺れ———!」耶律大石は軍を率いて包囲攻撃を開始し、油庫に火を放って爆破させた。
時を同じくして元軍の首領も怒号を上げ、投石機を使って火缶を上京城内に飛ばし始めた。
あちこちで火の手が上がる中、城防司は矢を放ち始めた。たちまち元軍の死体が折り重なる中、大営が急襲を受けたとの知らせが届く。石を括り付けた矢が城楼の上から嵐のように降り注ぐ中、元軍は罠に嵌められたのだと悟った。
オゴタイが兵を率いて、大声で怒鳴りながら近づいて来る。耶律大石は両翼からの挟み込みを始めたが、元軍は訓練されており、臨機応変に隊形を変えて、城下の攻城部隊を維持させた。耶律大石は遼語で、オゴタイは蒙古語で互いに怒鳴りあう。
「口喧嘩してどうする!」李漸鴻が叫んだ。「戦え!怒鳴りあうな!」
李漸鴻は元軍大本営を焼き払い終えて、軍を率いて来たところだ。第三隊が戦場に加わったことで、上京西門の下は、屠殺場と化した。三方を同時に封鎖された元軍は唯一の退路である南方に撤退するはずだった。だが、オゴタイは大胆な決断を下した。———耶律大石の方に向かって突進し始めたのだ。
李漸鴻は、陣形が変わったのを見て、まずい!と思った。一矢放って、伝令兵を打ち、兵は馬上で即死したが、時すでに遅し、五万の元軍が巨人の如く方向転換を始めた。
決死隊を率いていた李漸鴻らは死んでも退かぬ覚悟で抵抗したが、オゴタイ率いる主力部隊は耶律大石に向かって猛然と突撃していく。元軍が潮のように押し寄せ、耶律大石は抵抗しきれず、隊列は崩れ、先鋒隊も押し出される。その中に李漸鴻率いる軍は刃のように切り込んでいく。矢が当たり、落馬しかけた耶律大石を李漸鴻が際どいところで拾い上げ、再び馬に上がらせた。
「城門を開けよ!」李漸鴻が叫んだ。
南門が開けられ、用意してあった二万の伏兵がついに解き放たれた。オゴタイは北門に向かって逃げて行った。オゴタイの逃げていく方向を見た李漸鴻は急いで南門に入り、上京城内を通り抜けて、先回りしてオゴタイを迎え撃つべく北門に向かった。
遼軍二万余りに対し、元軍は一万近くを失ったが、まだ四万余りが残っていた。北門と西門での交戦は熾烈を極め、オゴタイの先鋒部隊が北門に到達すると、すぐに火缶があちこちに投げられ、北門内は一片の火の海と化した。
城壁から投げ入れられた火缶は孤を描いて、辟雍館の庭内にも入り込んだ。ボッと音を上げて、炎が立ち上がった。段岭ははっと目を覚ました。
館にいた者が皆大声を上げた。叫び声を上げながら扉を開けて、少年たちが裸足で駆け出して行く。段岭は剣を握り、蔡閏を揺さぶり起こした。炎は既に扉の外にまで来ていた。
「元軍が殺しに来た!」誰かが叫んだ。
「慌てるな!」段岭は窓から外に飛び出して叫んだ。「西の方に逃げるんだ!」
段岭の近くの部屋の少年たちが皆出て来た。誰かが叫ぶ。「戦うぞ!城は破られた!投降するな!」
「どうやって戦うつもりだ?丸腰で刃を受けるつもりか?!早く逃げよう!強がるな!」
それでも言い張る者は少なくない。段岭は残念そうに言った。「じゃあ、君は残ればいい。私は付き合わない!」
「私!逃げる!」赫連博が叫んだ。
「待てよ、待て!」みんな段岭を追って、付いて来た。
「祭事は?!」
「気にするな!自分の命は自分で守るんだ!」
「弓矢を持っていく!」
「外で拾えばいい!」段岭は剣を持って、走りながら言った。
唐祭事が現れて叫んだ。「慌てるな!みんな裏の路地を走って行きなさい!まだ火がついてない方に向かって走って!名堂で落ち合いなさい!」
既に路地に入って行った者も何人かいた。段岭は辺りを見渡し、父が言っていた逃亡路のことを思い出した。名堂ではない、西城に向かって行こう。
耶律大石は限りある兵力から兵馬をかき集め、今夜オゴタイの部下を一網打尽にしようとした。そのため、北門の守備が手薄になった。一刻もなく城門は破られ、元軍が仲間の死体を乗り越えて城内に入って来た。
その時、蔡聞は城防軍を率いて急いで北門の援護に向かった。城に入った二千人の元軍は大通りから路地にまで散らばり、女子供、老人、誰彼見境なく、目に映った者全てに矢を放った。すぐに城内は死体であふれ、家屋は焼け崩れた。巡防軍は必死で抵抗し、北城区にまで元軍を押し返した。
辟雍館は既に燃え上がっていた。雑僕たちは火を消そうとしていたが、元軍に矢を射られて殺された。段岭はもう他人に構う余裕もなく、振り返って剣を抜いた。剣光が放たれ、同時に元軍兵も刀を抜いて迫って来た。切り付けられそうになって、段岭は本能的に剣を構えた。剣の刃を上に向け、刀を振り上げた元兵を迎え撃つ。刀と剣の刃を交わしあい、元兵の腕が切り落とされた!元兵が落馬した。
段岭は叫んだ。「逃げろ―――!」
皆が路地に出て行った。その道も大乱のさ中にあった。道の両側の建物のあちこちが燃えていて、元軍と巡防司士が戦った後は死体だらけになっている。
蔡閏が叫んだ。「後退だ!みんな後退しろ!」
赫連博、蔡閏、段岭と同窓生たちは落ちていた弓矢を拾った。遼軍の物なのか、元軍の物なのかもわからない。そして、路地の中に退いた。三人は木板、桶などを拾って、身を護る盾とした。後ろに続く学生たちは辺り構わず矢を乱射した。
「一人やっつけたぞ!」少年の一人が興奮して叫んだ。
巡防司の姿が減って行くのを目の当たりにした蔡閏は叫んだ。「兄さん!兄さん!」
そこへ元兵が一人、現れた。段岭はすぐに馬の足を剣で砕いた。元兵は馬ごとひっくり返った。兵はワアワアと叫びながら刀を抜いて襲い掛かってきたが、段岭は身をかわし兵は空を叩いた。蔡閏と段岭が同時に手を出し、一本の剣が心臓を、もう一本が脊髄を突いて元兵は死んだ。
段岭:「……。」
元軍の数がどんどん増えていく。巡防司の抵抗が弱まったのを見て、大勢の元軍が路地裏にまで押し寄せて来た。段岭は、まずい、と思った。蔡閏が尋ねた。「走るか?」
「走ってはだめだ!一歩出たところで矢を射られる!後退だ!後退!」
元軍は次々に兵馬を送り込んでくる。今まさに防衛線が破られようとした時、別の怒号が路地の向こうから聞こえて来た。「オゴタイ!」李漸鴻の声が空にまで響き渡った。
段岭は目を見開いた。その時、万里奔霄が跳び上がり、路地前の平屋の屋根を乗り越えた。
血染めの甲冑を身にまとった李漸鴻が路地の中に斬り込んできた。左手には鎮河山剣、右手には長鉾を持ち、刀神の如く、僅か数呼吸で、辺りの元軍を斬り飛ばした。鮮血が飛び散り、馬ごと半分に切られた兵すらいた!
李漸鴻は馬の向きを変え、路地の中に入っていき、再び援軍の中を抜けると、北門の元兵を斬りに行った。
戦局は再び逆転した。段岭たちは路地から出て来た。瞬く間に李漸鴻はどこかに行ってしまい、目の前には生死を分ける一線上に遼兵と元兵がいるだけとなった。元兵の防戦はゆっくりと後退し、再び北門から駆逐された。戦っている遼兵たちは皆、甲冑を着て騎馬しており、
段岭にはどれが李漸鴻かわからない。(先頭か、空飛ぶ馬に乗っている人。)
「父さん……。」段岭は叫びそうになったが、フーレンボに手を引っぱられて、後ろから突っ込んできた戦馬から身をかわした。「行くぞ!」蔡閏が叫んだ。
十数人の少年たちは大通りを抜けて、西城区に入った。段岭は父のことが気がかりだったが、無理に追いかけはしなかった。それに蔡閏はまだ病気だ。皆が小道に逃げ込んだ時、遠くから蹄の音がして、三名の元兵が入って来た。矢を射続けている。皆が絶叫する中、段岭は馬に向かって突っ込んで行った。赫連博と蔡閏もそれぞれ木板を持って段岭を矢から守ろうとする。突然三度音が聞こえ、元兵たちは落馬した。李漸鴻が路地の外で馬の足を止めていた。空が明るくなりはじめた。辺りで殺しあう声はやむことがない。
「路地を通って西に迎え。名堂の中を通り抜けろ。灯はつけるな。」李漸鴻が言った。
少年たちは誰かの家の裏門に入って行った。段岭は一番後ろを歩き、振り返って、父の姿を仰ぎ見た。「さっき子供たちを何人も見た。」李漸鴻はハアハア息をつきながら、馬を下りて、段岭に小声で言った。「皆もうダメそうだ。一人一人救ってやりたかったが、ここに来て姿が見られてよかった。」段岭の目からいつの間にか涙が落ちていたが、李漸鴻は横の民家を指さして、早く行くようにと促した。「父はもう行く。」
第27章 戦乱の後:
段岭は頷き、急いで少年たちを追いかけて行った。人気はなくなり、城北を離れるごとに、声も聞こえなくなっていった。戦いの行方はどうなったのだろうか。蔡家の近くまで来ると、蔡閏が、「うちに隠れていよう。」と言った。少年たちは疲れた上にお腹もすいていたので、すぐに頷いて、蔡閏の家に入った。
蔡閏は食べ物を探し、雑僕を呼んだが、誰も来ない。家の中はぐちゃぐちゃに荒らされており、人も連れ去られたようだ。裏庭を見に行った段岭は壁の角で元兵が一人死んでいるのを見つけた。背中には矢が当たっている。矢を受けてからここまで逃げて来たようで、遺体はまだ暖かかった。
「死体があった。」段岭は水を飲んでから、何の気なく言った。
「気にするな。みんな前庁に来てくれ。」蔡閏が言った
赫連博は蔡家の厨房を探し回ったが、何もなかった。もう何日も火をつけてさえいないようで、冷え切っている。井戸水をくんで水を飲むことしかできない。庭木をつんで食べる者もいた。段岭が言った。「水をいっぱい飲んでお腹を満たそう。木の皮をはがして飲み込んだらお腹の足しにもできるかも。」
皆もう長い間空腹な状態が続いていた。段岭は蔡閏の額を触った。―――まだ熱がある。
皆で寄り添いあって横たわった。赫連博は鼾をかき、涎をたらしていた。段岭は枕を持ってきて、赫連博の隣に横たわり、剣を腕に抱えて眠った。
蔡閏は卓に突っ伏して眠った。皆が雑魚寝して、どれくらい経ったか、再び馬の蹄が聞えて来た。皆弾かれたように飛び起きた。段岭は剣を持って扉の後ろに立ち、外を覗き見た。巡防司士兵の姿が見えた。顔を血だらけにしている。「中に誰かいますか?」兵士が叫んだ。
赫連博が扉を開けに行ったが、段岭は身を隠したままだった。残兵が襲ってきたのではと思ったからだが、幸いにも兵士が言った。「戦いは終わりました。巡防司前の校場に行けば食べ物があります。」
皆天地に感謝した。フーレンボは急いで兵士を追いかけて、「元、元、元人はいっ行っ……。」と言ったが、兵士は聞き取れずに行ってしまった。少年たちは一斉に大笑いした。お互いの寝間着姿を見てまた笑う。まるで生まれ変わったかのようだ。
ゆうべちょっとした間食ができた段岭も今は空腹で目が回りそうだった。こんな大所帯で上京城の半分くらい歩き、雨まで降っている。道のりは苦労の連続だった。巡防司についた時にはすでに黄昏時だった。
巡防司の外には大勢の負傷兵がいて、痛そうにうめき声をあげ、甲冑もボロボロになっていた。北門内の火事は既に収まっており、上京は洗い流されたかのようだった。見ていた段岭はとてもつらくなり、李漸鴻を探しまわって、あちこちをうろうろした。ふと不思議な感覚がして、視線を向けた先に、父の姿があった。
李漸鴻は甲冑を黒ずんだ血でいっぱいにして、巡防司門の外でけがを負った耶律大石と話をしていた。段岭は走りかけたが、李漸鴻に横目で制された。その表情は厳しく、耶律大石と話を続けながら、左の手指をわずかに揺すった。段岭は理解した。耶律大石に自分の姿を見せたくないのだ。そこで人々の間をかきわけて、蔡閏を探しに行った。
担架が運び込まれる中、蔡閏は尋ねていた。「うちの兄はどこですか?」
「蔡公子。」声をかけた者がいた。兵士だった。段岭は蔡閏に付いて行った。兵士は蔡閏に餅を一切れ渡し、「まずは食べてください。」と言った。
蔡閏は受け取ったが、そのまま段岭に渡した。段岭はそれを懐にしまい、蔡閏について中に入り、城布で区切られた大棚のところに行った。棚は横たわる負傷兵でいっぱいだった。兵士はそのまま進み続け、最後の棚のところに行った。そこには全身を白布でくるまれた誰かが横たわっていた。
蔡閏は黙って遺体の前に跪き、白布を開いた。血まみれになった蔡聞の姿が現れた。顔は汚れ、胸からは鏃が半分突き出していた。手には折れた別の羽矢の半分を持っている。
「兄は武芸がダメだったんだ。耶律大石が兄を抜擢したのは、父のためだったのさ。」蔡閏は段岭に言った。「君の父さんに剣法を習いたかったのは、帰って兄に教えたら、命を護れるだろうと思ったからなんだ。」そう言い終えると蔡閏は気を失い、段岭の懐に倒れた。
段岭は涙を拭いた。意識を取り戻した蔡閏が兄の遺体を見たらつらいだろうと、力を振り絞って、彼を抱えて出て行った。外にいた兵士は緊張して、蔡閏の額を触った。———火傷しそうに熱い。何と言っても、国のために身を捧げた蔡聞将軍の家族だ。兵士は軍医を呼んで蔡閏を診察させた。
巡防司兵士は板車を借り、段岭が蔡閏を運べるようにした。名堂についた時は深夜だった。蔡閏は少し良くはなっていたが、熱は下がったものの、時々うわ言を言っていた。校場で離れた赫連博や、辟雍館の少年たちの多くも戻って来たが、元軍が城に入って来た時に逃げ遅れて死んでしまった者も多かった。幸いすぐに逃げた者は助かり、唐祭事も生きていた。
大先生が名堂の子供たちに故事を放していた。「その後、管仲は公子白に一矢放ち、公子白は大声を上げて車の中で倒れたのだった。」
段岭は子供たちの後ろに座った。目を上げると大先生の横には灯盃があり、書閣に架けられた、《千里江山図》を照らしていた。それを見るとバドと別れた日のことを思い出した。生も死も、長い夢の中の出来事のようだ。
翌日、蔡閏はようやく目覚めたが、段岭は逆に疲れて眠かった。
「おい、何か食べなよ。」蔡閏が言った。
元軍が去って三日目、上京もようやく少しずつ秩序を取り戻していた。先生たちは食べ物を配ったが、食料はまだ悲しいほど少なかった。延那という名の同窓生が急ぎ足にやって来た。
「祭事が来た。みんな下の階に降りるようにって。」
段岭は蔡閏を支えて降りていった。祭事は名堂の扉を開けようとしていない。
「名前を呼ぶ。呼ばれたものは出て来て門のところで待ちなさい。萧栄……。」
呼ばれた学生は前に出て「はい」と答え、唐祭事は名冊に印をつけた。
「……いるか?」唐祭事が名前を呼んでも答えず、誰かが「いません。」と答えた。
「最後に見たのはいつだ?」唐祭事が尋ねた。
「元兵の矢に射貫かれ、死にました。」その誰かは答えた。
「そうか、死んだか。」唐祭事は名簿の上に〇をつけて、長い長い間、黙った後で、再び点呼を始めた。「フーレンボ」赫連博は一歩前に出て、「はい。」と答えた。唐祭事は頷いて、外を指さし、言った。「お母上が来られた。行きなさい。学館再開の時期については追って知らせる。」
赫連博は段岭を見た。何か問いたげな表情だったが、段岭は手を振った。李漸鴻は迎えに来ないと分かっていた。「蔡閏。」唐祭事が呼んだ。「いないのか?」
蔡閏が答えないので、段岭が代わりに、「彼はいます。」と答えた。
唐祭事は蔡閏を見て、「家の人が迎えに来るまで、庭で待っていなさい。」
「家には誰もいません。兄は死にました。」蔡閏が答えた。
唐祭事は言った。「それなら、一人で帰りなさい。学館再開の時期については追って連絡する。」出て行く蔡閏を段岭は追いかけようとした。唐祭事が気づいて呼んだ。「段岭?」
「はい、」段岭が答えた。唐祭事は「一緒に行って、蔡閏を送ってやりなさい。」と言った。
段岭は頷き、蔡閏について、庁堂を出て行った。みな上り始めた朝陽を受けて待っていた。
この場所で何度待ったことだろう。あの日、郎俊侠が現れるのを首を長くして待っていると、蔡聞が馬に跨って彼らに向かって口笛を吹いたっけ。あの時はまだバドもいた。待ち人が来ないのがわかると、誰もいなくなった後で、彼はゆっくりと部屋に戻って、布団を抱え、書閣に行って寝泊りしていた。
路地がざわついて来た。辟雍館と名堂、二つの院の保護者たちが、我が子を迎えに来て、玄関は人でいっぱいになった。顔は汚れ、服は乱れ、血の跡さえついている者もいる。
「母さ———ん。」
「お父さんが行ってしまったのよ……。」
泣き声が尽きない。どけどけと大声を出して門番から木牌を奪い取って中に入り込み我が子を連れて出て行く者もいた。
「蔡閏、」段岭はうちにおいでと言おうとしたが、蔡閏は、「君はもう行って。少し眠らせてくれ。」と言った。段岭は外袍を脱いで蔡閏の体にかけてやった。
李漸鴻が来た。いつもの粗布の服に頭には編み笠をかぶって柵の外に立っていた。朝日を浴びて段岭に笑いかけている。段岭は起き上がると柵の前まで走って行き、「仕事は終わったの?」と尋ねた。李漸鴻は彼に言った。「どうして袍子を着ていないんだ。風邪を引いたらどうする?さあ、行こうか。」
「牌子がないから、祭事を探して印を押してもらわないと。」
「我が子を迎えに来たのに他人の承認が必要なのか?いったいどういう道理だ。今行くから待っていろ。」そう言うと、李漸鴻は塀を上ろうとしたが、段岭に阻止された。
「しっ。」段岭は振り返って蔡閏を見た。前を向き直って口を開こうとしたところで、李漸鴻が手を上げて、わかった、と合図してから、さあ行こうと再び手招きした。
段岭は戻って祭事を探し、許可証を書いてもらってから、蔡閏を揺すった。蔡閏は目を開けたが、無表情で、まるで見知らぬ人を見るような目で段岭を見た。段岭は蔡閏の額をさわってみた。まだ少し熱がある。
「うちに行こう。さあ。」段岭が言った。
「何て?」蔡閏が尋ねた。
段岭は蔡閏が苦しんでいるのを見ても、何と言ったらいいのかわからない。いつの間にか李漸鴻が入ってきて、蔡閏を見ていた。蔡閏は再び目を閉じた。段岭が死んだように力ない蔡閏の半身を起こすと、李漸鴻が身をかがめて蔡閏を抱き上げ、段岭と一緒に家に帰った。
夜になった。家には食べ物がたくさんあった。段岭は蔡閏をしっかり休ませてから、井戸水を汲んで、父の髪を洗ってやった。李漸鴻は裸になって、井戸の横の台に座っていた。月光が彼の素肌を照らす。まるで狩りを終えて巣に戻った豹のようだ。
段岭は父の背中や胸を擦り洗いしてやった。血なまぐさい匂いが落ちてゆく。李漸鴻はどす黒い血にしまった掌を水桶で洗った。
「父さん。」段岭は桶を持ち上げ、父の頭に水をかけた。
「ああ、我が子よ。」李漸鴻が答えた。「誰にでもなすべきことがあるものだ。例え刀の山、火の海であっても、必ず死ぬとわかっていても、それでもやらねばならないことがあるのだ。お前は彼のために苦しんではならない。」
段岭は、うん、と言った。そして李漸鴻の後ろから腰に抱きつき、横顔を彼の背中に付けて、息を突いた。「私たちはきっとすぐに戻れるよ。」
その夜、就寝時、李漸鴻は布団を引っ張って、二人の上にかけた。
段岭はぼんやりと、帳の上を見ながら言った。「世の中に戦争がなかったらいいのに。」
「それはお前の四叔父がいつも言うことだ。」李漸鴻が言った。「私は勝って帰る度に、彼のその言葉を思い出す。」段岭は寝返りをうって、李漸鴻の腕にもたれ、目を閉じ眠りに落ちた。
翌日、蔡閏も目覚めた。熱も退いていた。体はまだ弱っているが、彼は床を出ようと思った。
庭から段岭と李漸鴻の会話が聞えて来た。
「こう跳ぶんだ。」李漸鴻が言った。「植木鉢の上から策に、そこから壁の上に。ほら行け。」
李漸鴻は段岭に壁に飛び上がるやり方を教えていた。軽くひとっ飛びに上がれと言うが、段岭は毎回壁から落ちる。李漸鴻が笑うと段岭は、「跳び上がれるわけないよ!あなたじゃないんだから!」と言った。
段岭は声変わりし始めていて、声がかすれ、鴨が鳴いているようだ。李漸鴻は真剣な顔をして、段岭の話し方をまねる。「跳び上がれないよ!父さん!引っ張り上げてよ!」
段岭は怒りながら笑ってしまった。なすすべもなく父をつかむと、李漸鴻は段岭の脇を支えて、助けてやった。蔡閏が床を出て来たのに李漸鴻は気づいた。
「少しましになったか?」李漸鴻が尋ねた。蔡閏が頷くと、李漸鴻は段岭に蔡閏を手伝ってやりなさいと指示した。
三人は卓を囲んで朝ご飯を食べた。蔡閏はずっと黙ったままで、最後には箸をおき、「ご迷惑をおかけしました。お世話になり感謝しています。もう行きます。」と言った。
段岭は、「きっと……」と言いかけたが、李漸鴻が言葉を遮った。「帰るのか?」
蔡閏は頷いた。「兄を引き取ってきます。家に誰もいないのはよくないので、やはり帰って見なければと思います。」
李漸鴻は頷き、視線で何かを伝えている。段岭は父の意図が分かり、「じゃあ……気を付けてね。何日かしたら会いに行くよ。」と言った。蔡閏は、「ありがとう。」と言った。
蔡閏が頭を下げたので、段岭は急いで礼を返した。蔡閏は急ぎ足に回廊を進み、家に向かった。大門を閉めることも忘れなかった。
第28章 国内外の状況を学ぶ:
誰にでもなすべきことがある。例え刀の山、火の海であっても、煮えたぎる中を通り、燃え盛る中を踏み越えても、それでもやらねばならないことがある。
蔡聞に他の選択肢はなかったのだろうか?
李漸鴻の答えはこうだ。「ない。なぜなら、彼はそれを選ばないからだ。」
蔡聞と蔡閏の父、蔡鄴はもともと中原の名だたる学者だった。遼帝が上京を落とした時、蔡鄴は投降し、南面官体系を起草した者の一人となった。その後、陳国の策略により、蔡鄴は冤罪で遼帝に殺されるが、二人の息子の命は留め置かれた。一方で南に残った蔡氏も子孫が絶えた。後になって、耶律大石は蔡家の名誉を回復させたが、蔡氏をどう扱うかが難題となった。蔡家の後継者を南面官にするのは皆がいやがる。だが、北面官は韓氏と萧太后に牛耳られていて、耶律大石が口をはさむ余地がない。唯一の選択肢として武官だけが残されるが、蔡聞に最もふさわしい地位を考えれば、兵を率いるのはよくないだろう。家にはまだ養うべき幼い弟がいる。それなら蔡聞には上京巡防司という位を与えれば、きっと励みになるだろう。
蔡家は元々武将の家系ではない。蔡聞は勤勉に取り組み努力もしたが、何分にも修武に最適な時期を逸していた。必死でがんばっても大将の器ではなかった。戦乱が起きなければそれでもよかった。だが一旦国家に難が訪れれば、結果はこの通りだ。
李漸鴻は計画を執行する前に耶律大石に再三確認した。耶律大石は蔡聞の能力が及ばないことは認識していたが、忠誠心は揺るぎないので、命を懸けて上京城を護れると考えた。
確かに蔡聞は命を懸けた。そして、その庶子の命と、蔡閏の輝かしい前途を耶律大石への紛うことない忠誠心の引き換えにしたのだ。
「全て終わったことだ。死ぬと分かっていてもすべきことがある、それが『士』というものなのだ。」李漸鴻は息子にそう言った。
戦乱が終わり、上京はだんだんと正常な状態をとりもどしてきた。辟雍館は焼けてしまい、書物や典籍を修復したり整理したりするために、学生たちには休暇が与えられた。三日後、唐祭事は新たな場所を選び、学生たちは昼間そこに通って勉強をし、夜は家に帰らせることにした。
段岭は蔡閏に会うのがとてもつらかったが、李漸鴻の教えを守り、蔡閏が言わない限り、自分も何も聞かないことにした。まるで何事も起こらなかったかのように。蔡聞が亡くなってから、蔡閏は言葉少なになった。同窓生と話すことはとても少なく、段岭ともあまり交流を持たない。ほとんどが学習内容に関する話で、放課後はさっさと荷物を持って帰ってしまう。
それもあって、段岭は昼間は勉強を、帰ってからは李漸鴻に武芸を習う日々となった。今から始めるには時間が足らず、今まで多くの時間を浪費して生きてきたことはまさに罪深いことだった。
父の域に達するまで学び取れるのはいつのことだろうか?常にそう思うが、尋ねられない。代わりに聞くのが、「郎俊侠位になれるのはいつ頃かな?」だった。
李漸鴻は段岭に与えたあの剣を拭きながら言った。「天下にはこんなにたくさんの人がいるのに、合わせてもたった四名の刺客が名を成している。お前は刺客になるわけでもないのに、彼らから学んでどうする?」段岭には返す言葉がない。
「一つ一つ学んでいくのが大事だ。功夫は学ぶだけでなく、修練が必要だ。師父は門下に入れるが、修行するのは本人次第だ。」
段岭は、うん、と言った。数か月練習してきて、彼もとてもゆっくりながら少しは上達していた。内功の修練も少しはしてきた。郎俊侠や武独なる化け物からはかけ離れていても、何とか頑張って数歩で壁に飛び上がれるようにはなっていた。
また冬が来た。段岭は日にちを計算してみた。もし耶律大石が約束を守るなら、李漸鴻は出て行く頃だろう。だが、彼は何も尋ねず、李漸鴻も何も言わなかった。今年最初の雪が遅まきながら振ってきて、上京は一面の銀世界となった。司業から手紙が来て、春には辟雍館の修繕が完了すると言うことだ。全てが今まで通りとなる。三月になれば寄宿生活が始まる。
この日、李漸鴻は武芸を教え終え、段岭は息を整えていた。もう九か月も同じ一つの型の剣法だけを練習してきた。まだ庭で集中して練習していた時に、誰かが訪ねて来た。
「彼は裏切ったわ。」尋春の声がした。李漸鴻は走廊に立っていた。段岭が行こうとすると、李漸鴻は庭を指さし、面白がって来ないで、練習を続けるように指示した。
「行く前に命じておいた。必要なら暫く潜伏するようにと。」李漸鴻が答えた。尋春は何も言わない。彼女は照壁の外に隠れていたが、雪の上にその影が落ちていた。
「これから何年か、ここのことはあなたに任せることになるな。」李漸鴻が言った。
尋春はまだ黙ったままだ。
暫くして李漸鴻が再び言った。「あなたの仇にはいつか報いを受けさせるが今ではない。」
尋春はため息をついた。
李漸鴻が言った。「私自身が来ない限り、誰にも彼を連れて行かせないように。」
「はい。」尋春は答えた。段岭は雪が積もった庭で、ぼそぼそとした話し声を聞いていた。
尋春は何かを持っているようだ。しばらくして尋春はまた口を開いた。「これはあの年、私と師弟が分かれた時に、師父が彼に当てて書いた手紙です。十一年物間、廻り巡って結局彼のところには届かなかったのです。」
「彼は何歳だ?」李漸鴻は何の気なく尋ねた。
「あの年十六才でした。趙奎麾下に入った時は十九でした。もし彼が過ちに気づいてやり直そうとしたなら、王爺、どうぞ、彼の命を留めおき下さい。」
「過ちに気づくにしろ気づかないにしろ、良禽択木、誰にでも天命がある。殺されないためには殺すしかない世でなければ、郎俊侠とは違って、心優しい人物なのだろう。彼が私に誠意をもって投じるなら、彼を使うことも考えよう。もう行きなさい。」
尋春は少し腰を折って、別れの挨拶をした。
戻って来た李漸鴻は走廊の下に立っていた。段岭は剣を持ったまま、振り返って父の顔を見た。父子はしばらく黙ったまま見つめあった。
「父は行かねばならない。」李漸鴻が言った。
「いつまで?」段岭が尋ねる。
「早ければ一年、長くて二年だ。」李漸鴻が答えた。
「うん、」段岭は応え、剣の練習を続けた。李漸鴻は回廊を抜けて、庁堂に入って行った。
段岭はいつかこの日が来るとわかっていた。恐れてはいなかったが、少しがっかりした。
しばらく練習を続けてから、段岭は振り返って李漸鴻を見た。彼は庁堂の真ん中に座って、静かに自分を見つめていた。二人の周りを雪の花が舞っていた。
お前がいつか、最高の皇帝にはならなかったとしても、有史以来最も見目のいい皇帝にはなるだろうな。」李漸鴻が笑顔で言った。
段岭は気まずそうに笑った。彼は成長して、一挙手一投足に李漸鴻の持つ気概を受け継いでいたが、見た目は李漸鴻似ではなかった。庁堂と前庭の間に一枚の不思議な鏡があって、幼さが抜けきれない段岭を映すと、成熟した重みのある李漸鴻の姿が現れるかのようだ。
段岭は言った。「私はすごくすごく一緒に行きたいんだ。だけどわかってる。足手まといにはなれないって。私は……。」
「それ以上言わないでくれ。」李漸鴻は手を振った。「あと一言でも何か言われたら、父さんはもう行かれなくなってしまう。本当は行きたくなんかないんだ。」
いつの日からか、段岭は李漸鴻に抱き着くのが恥ずかしく思うようになっていた。この一年でたくさんのことを学んだ。李漸鴻といることで、彼の成長は加速し、大人のような思考や行いをするように、心も成熟してきた。
その日の上京は十年来で最も寒かった。大雪が扉をふさぎ、庭には二尺もの高さに雪が積もった。庁堂内に火炉を焚き、李漸鴻は段岭に、朝堂、政務や南陳に関することを教えた。
陳国は三省六部あるが、実際には文武二人の大将が権力を握っている。趙奎はかつて淮水の戦いで功を得た臣で、陳国軍が大敗した時に、李家を守り、西川に撤退させた。
牧曠達は荆川士族出身で、状元の地位を得て出仕し、朝廷入りしてからは大陳を安定させた支柱のような存在だ。
南方皇帝は遷都以降長きにわたって病気がちでありながら、未だ太子を立てていない。四王爺、李衍秋(リエンチュウ)は朝政処理を手伝い、李漸鴻は征戦に出る。普通なら年長子が太子となるべきなので、李漸鴻が継承するはずだ。初めの内、李漸鴻は軍との関係が密接だったため、趙奎が最有力の後ろ盾だった。だが、時が過ぎるごとに、趙奎は李漸鴻を支持しなくなっていった。
「なぜなの?」段岭は尋ねた。
「兵を使いすぎたからだ。」李漸鴻は答えた。「功を上げることにどん欲だと。彼らは私が皇帝になったら大挙して兵を使い、大陳を滅亡に導くと考えたんだ。だが今の状況を見れば、遼国はもう最強の敵ではない。遼は中原の主となってだいぶたち、第二の漢となってしまった。彼らの北にはもう一匹の狼がいて、南下する機会をうかがっている。」
李漸鴻は話を続けた。「だから、これから進むべき道は、遼と連携して元を叩くことだ。恨みつらみはひとまず置いておく。互いに牽制しあっていては、遼も漢もブアルチジン家に滅亡させられる。彼らは鬼畜同然で、打ち落した城は血で洗うのだ。」
段岭は李漸鴻から遼国の体系についていろいろと学んできていた。遼太祖が中原に入ると、遼国朝廷は、南面官と北面官にわかれた。南面官の多くは漢人で、北面官には漢人は一人だけで、他は全て遼人だ。北面官はまた北院、南院に分かれて兵権を持っていた。
南院、北院は遼国の大権をもち、南院唯一の漢人、韓唯庸の背後には萧太后がいる。
北院大王は耶律大石だ。名堂卒業後に町を出て行ったのは、耶律大石に対する不安があったからだろう。
韓唯庸と耶律大石は、遼国の権力構造の中で対立していた。数年前に、韓唯庸の子、韓捷礼が上京に救学しに来たのは、人質という意味合いもあった。
耶律大石は若いころ、北方の虎と呼ばれていた。最近では怠惰な生活に深酒、女遊びで身を持ち崩し、今や矢を受けて落馬するとは、今後遼国が傾くのは推して知るべしだな。
「瓊花院の酒にはまさか……。」段岭は郎俊侠と初めて状況に来た日のことを今でも覚えていた。(気の毒に。忘れてあげなさいな。結局添い寝してくれたんだから。)
「毒があるかという話なら、それはない。」李漸鴻は答えた。「だが、飲み続ければ、精神に悪影響を及ぼすだろう。彼女らの標的は耶律大石ではない。遼帝と韓唯庸だ。」
「彼女たちが耶律隆緒を殺すのを待つことはない。あの老いぼれはまもなく崩御する。今の小皇帝耶律宗真は太后に目をつけられている。いつか上京に来たとしても瓊花院に行って彼女たちに機会を与えることはあり得ない。」
「ブアルチジン・バド、耶律宗真、蔡閏、赫連博、韓捷礼……彼らはいつかお前の敵となるだろう。」李漸鴻は最後にそう言った。
段岭はしばらく黙ったままだった。李漸鴻が言った。「お前に替わって一人ずつ処理できる。
父は南方に戻っても皇帝にはならない。お前のおじいさんはもう長くないし、朝政を処理することはできない。地位を継ぐお前の四叔父だが、彼はお前を太子に立てるしかない。他に誰もいないからな。」
段岭は、「父さんは?」と、尋ねた。
李漸鴻は答えた。「父は皇帝にはならない。まずは四叔父を牧曠達と趙奎の制御から救い出さなくては。」
段岭が尋ねた。「今、四叔父はどんな状態なの?」
「彼は病気がちだ。それに権臣から力を奪う方法がない。牧曠達の権力は朝野に及ぶが一番厄介なのは兵権を持つ趙奎の方だ。」
「どうして?私には牧曠達の方が手ごわそうに思えるけど。」段岭が言った。
「牧曠達は賢いからだ。」李漸鴻は言った。「あれは文人で、禅譲させてまで自分が皇帝になろうとは思わない。四叔父を操れば、やりたいことができて、皇帝になったも同然だ。
だが趙奎は違う。趙奎は自分が皇帝になりたいのだ。」
「武人だからか。」段岭は理解した。李漸鴻は頷いた。「淮水の戦いの後、彼は反心を抱くようになった。文人に遜り、兵馬を集めて私兵を養い。皇帝と称する日を待っているようだが、私が生きている限り、彼は安心できないのだ。趙奎こそ強敵だ。」
段岭は初めて父の話の中に『強敵』の二文字を耳にした。趙奎がとても厄介な相手なのは敏感に感じ取ったが、父は相手の底知れなさをよりはっきりわかっているのだろう。時々段岭は悔しく思うことがあった。自分が早く大きくなって父を助けてあげられればいいのにと。
だがよくわかってもいた。軍を率いて戦うことについて、自分は一生学んでも父の足元にも及ばないだろうと。
彼はふと郎俊侠が言った意味を理解した。言わなかった言葉も含めてだ。
武芸なんて学んでどうする?学んだところでお父上には遠く及ばない。天下の役に立ちたいのなら、やるべきことは、勉強して知識を得ることだ。
第29章 弱点:
上京は毎年冬になると氷づけの城と化す。 爆竹が鳴る中、段岭は十四歳になった。
除夜の日の夕べ、段岭は李漸鴻と向かい合って座っていた。
「二人で過ごす初めての年越しだな。」李漸鴻は笑いながら段岭に酒を注いだ。「少し飲め。酒は少しならいい。だがたくさん飲んではだめだ。」二人は正座した。段岭は「父さん、あなたに敬意を表して一杯捧げます。勝利がもたらされますように。」と言った。その声は、
もう既に子供らしい澄んだ声ではない。
李漸鴻は段岭と一緒に飲んだ。灯に照らされる中、李漸鴻は段岭を真剣に見つめて言った。
「大きくなったな。」
段岭は杯に入った分を飲み終えると、長く長く息を吐いた。本当は大きくなんてなりたくないよ、と段岭は心の中で言ったが、口に出しては、「大きくなったらだめなの?」と尋ねた。
「いいさ。」李漸鴻は言った。「父はお前が成長した様子がとても好きだ。」
段岭は笑い出した。父はそう言うが、それが本音ではないのが段岭にはわかっていた。なぜかは知らないが、李漸鴻が彼に剣を教え始めたあの日から、何かが変わったと感じていた。
辟雍館から帰ってから、父子はもう一緒に寝ていない。段岭が寝台にあがると、李漸鴻は同じ部屋で寝ようとせず、別の部屋に休みに行った。
この夜、段岭は酒を飲んだことで体が熱くなりなかなか眠れなかった。そこへ李漸鴻が来て、寝台に横たわったので、段岭は父のために場所をあけた。
「息子よ。父は明日行かなければならない。」
段岭:「……。」
段岭は寝返りを打って壁の方を向いたが、声は出さなかった。李漸鴻は手を伸ばして段岭を自分の方に向かせた。やはり目が赤くなっている。
「恥ずかしがることないじゃないか。」李漸鴻はからかうように笑って、段岭を胸に抱いた。
段岭:「……。」
段岭はもう一年近く武芸を練習し、体も成長したが、李漸鴻に抱かれると、まるで最初の日に戻ったようだった。李漸鴻は少し頭を下げて、段岭の双眸を見つめると、指を伸ばして首にかかっていた赤紐を引っ張り、玉璜を手繰り寄せた。
「父はお前に済まないと、お前の母さんにすまないと思っている、」李漸鴻が言った。
段岭は目線を上げて、父の瞳を見つめた。彼の双眸は漆黒の夜の一抹の星穹のようだ。
「この一生で一番の公開は、お前たちを探しに行かなかったことだ。」李漸鴻が言った。
「もう過ぎたこと……。」
「いいや。」
李漸鴻は首を振って、段岭の話を遮った。「この話をしなければ、父は永遠に心が休まらない。あの頃は若く血気盛んで、わからずやなのは小婉の方だと思い込んでいた。出て行ったって、明日には戻って来るだろうと。十年たっても彼女は帰ってこなかったが。」
「母はなぜ行ってしまったの?」段岭は尋ねた。
「お前のおじいさんが婚姻を許さなかったからだ。彼女は平民で、私は辺境の王爺だ。彼女は娶ると言う言葉をずっと待っていたが、私は応えなかった。皆私に牧曠達の妹を娶らせたがった。今は四王妃となったが。」
「それから?」段岭が尋ねた。
「その後、郎俊侠が罪を犯し、私は彼を軍法に則って処置しなければならなかった。彼女は郎俊侠のために嘆願してきた。彼の罪は死刑にするほどではないと。あの夜、私たちは喧嘩をして、夜が明けると彼女は出て行った。私は郎俊侠に後を追わせた。だがあいつは剣を持って追って行ったのに、彼女は連れ帰るなら死んでやると言って抵抗したと言うんだ。ああ、全く気が強かったよ……。」
李漸鴻はやるせなさそうに首を振って話を続けた。「だが父も気は強かった。多分彼女は南に戻ったのだろうと思ったし、いつかは娶るつもりだからいいじゃないかと。趙奎が朝廷の名の元に私の兵権を奪うまで、彼女のことは放っておいた。将軍岭から逃げる時になって、郎俊侠に彼女を探しに行かせたのだ。」
李漸鴻は最後に言った。「まさか彼女がもう亡くなっていて、しかもお前が生まれていたとは思いもよらなかった。」
「後悔した?」段岭が尋ねた。
「勿論だ。いつも考えている。いつか彼女を王妃に追封しようと。だがもう亡くなってしまったのに、追封したってどうなるだろうか?」
段岭は李漸鴻の首にかかった玉玦を弄び、父の腕を枕にした。李漸鴻はまた長い長い溜息をついた。「許してくれ、息子よ。お前が『父さん、恨んでいないよ』と言ってくれれば、彼女にも言ってもらえた気がするんだ。」
「ううん。」段岭は突然言った。李漸鴻は驚いて懐の中の息子を見た。
「あなたにはまだたくさん借りがある。」段岭は笑い出して言った。「だけど、ちゃんと生き延びて、う~んとう~んと年取ってからまた同じ話をしても遅くはないよ。」
李漸鴻の口角が少し上に上がった。「わかった。約束しよう。」
「撃掌の誓いだよ。」段岭はそう言い、李漸鴻は片手で段岭を抱き、もう一方の手で段岭と三回叩きあった。その夜は上京最大の大雪で、綿毛のような雪が空から舞い続けた。
翌日朝陽が昇り段岭が目を覚ますと、李漸鴻はもう行ってしまっていた。
「父さん!」段岭は起き上がってあちこちの部屋を探し回ったが、復学用の物が全て揃っていたのに、李漸鴻の姿だけはなかった。風呂敷包みの上に一本の剣が置いてあった。
復学初日の辟雍館はがやがやとにぎわっていた。部屋は建て替えや修繕を終え、木牌まで新しくなっていた。段岭は、勝手知ったるといった感じで、点呼を終えて自分で床を整えた。
「君のお父上は?」蔡閏も自分で床を整えていた。
「遠くに行ってしまった。」段岭は言った。
「いつ頃帰るんだい?」蔡閏は再び尋ねた。
「一年くらいたってからかな。」段岭はそう答えると、蔡閏とそれぞれの寝台の上に座って無言のまま向かい合った。蔡閏は笑い、段岭もつられて笑った。そこには何らかの暗黙の了解が込められているようだった。
―――
正月三日の西川。
「李漸鴻が戻ってきた。上京を出た後、博山、泣血泉、将軍岭を通り、西路を通って西川に入って来た。険しい道のりだったはずだ。
趙奎の書房には、牧曠達、昌流君、武独と、もう一人、文官がいて、皆で壁に架かった地図を見ていた。
「何と名乗っている?」牧曠達が尋ねた。
「清君側です。」趙奎が答えた。
「このことは、四殿下には隠しておけないだろう。」牧曠達が言った。
「丞相と将軍にお答えいたします。」牧曠達の首席策士であるその文官は、遠慮がちに言った。「敵に寝返った罪に問うのはいかがでしょうか。そうすれば四殿下を説得できるかと。」
「うん。」牧曠達は頷いた。
「調兵令を出して、兵を移させなくては。六年前に李漸鴻が逃亡した時、我らは一度兵員を異動させました。西路は元々彼の管轄地域だったので、戦わずに投降することが懸念されます。」
「やってみよう。」牧曠達は立ち上がった。「まだ遅くないなら、私が今から皇宮に行って、今聖(現帝)の名を以て発布しよう。天下に告げるのだ。彼は投敵と謀叛の二つの罪を犯したと。それから更に八大罪状をつけて、調兵令を発令する。だが、今調兵しても、遅すぎるのではないか。」
「彼を牽制するなら、私には方法があります。」趙奎は胸を張って言った。
牧曠達は目を細めた。趙奎は言った。「丞相はそちらを、お願いします。」
牧曠達は二人の腹心を連れて将軍府を出て、馬車に乗った。一文一武、昌流君が車を御し、文士と牧曠達は車に乗った。
「長聘(チャンピン)。」牧曠達は社内の長椅子に腰かけると声をかけた。「はい、丞相。」長聘という名の分子は恭しく応えた。「烏洛候穆は絶対に李漸鴻の弱点をつかんでいるに違いありません。」
「いったいどんな弱点だ?」牧曠達が呟くように言った。長聘は考えながら答えた。「四年前、武独と影の部隊が上京に行き、隊長が上京城で死んだのですが、あの時、李漸鴻はいなかったはずなのに、烏洛候穆はなぜ正体を明かしてまで武独と戦ったのでしょうか?唯一の可能性は、李漸鴻の妻子が上京城内にいたということです。」
「うむ。確かにそうだ。妻子を人質にできれば時間を稼げるだろう。あまり長くはもたないだろうが。」長聘は言った。「ただ、趙奎が彼を押さえておくだけでは済まさないでしょう。おそらく殺したがるかと。」
牧曠達は笑い出した。「それはまさに愚か者の夢物語というやつだな。」
長聘が言う。「趙奎は兵を用いるように事を行う男です。先のことはあまり考えない。急いで手を下さずに、まずは妻子を殺して、李漸鴻を動揺させるでしょう。そうやって敵をおびき出して罠に嵌め、殺す。楽にできると思っているはずです。烏洛候穆の協力を得られるなら、自ら李漸鴻に会うことさえしなくていい。首を送らせれば、趙奎の勝ちです。」
「その首は、四殿下の首より役に立つだろうな。」牧曠達はそう言って大笑いした。長聘も付き合って笑い声をあげた。牧曠達は言った。「食えない奴だ。」
馬車が停まり、昌流君に車から降ろされ、牧曠達は皇宮に入って行った。
李衍秋は廊下に立っていた。牧曠達はまっすぐに近づいて行くと、歩きながら李衍秋に拝礼した。「下がりなさい。」王妃、牧錦之が部下たちに命じた。
牧曠達は牧錦之に笑いかけ、手を背中において、廊下に立ったが、何も言わなかった。牧錦之は長兄を暫く見てから、背を向け去って行った。
李衍秋は牧曠達を推し量るように見た。牧曠達は一礼した。「王爺に御挨拶申し上げます。」
李衍秋は牧曠達の後ろに控えた昌流君に目をやってから、「牧相はしばらくお出でにならなかったな。」と言った。
牧曠達は言った。「今日は急を要する軍報があり、陛下にお知らせに参りました。」
「父皇は薬を飲んで休まれた。何事か申されよ。」李衍秋が言った。
「三王爺が耶律大石の兵一万を借り受けて、南に向かっておられます。清君側の名で西路を通り、三か月以内には西川城に到達されるでしょう。」
「三兄が死んだはずがないとわかっていた。」李衍秋は淡々と言った。
牧曠達は何も答えず、李衍秋が鍵となる、あの言葉を言うのを待っていた。
李衍秋は長い間ずっと黙っていたが、最後に一言言った。「兄に会いたいな。」そして背を向け去って行った。
牧錦之が柱の影から姿を現し、長兄をじっと見た。牧曠達は微笑みながら言った。
「私は元々気が利くたちなのだ。」そして封書を一部取り出すと、牧錦之に渡した。
灯が窓をぬけて、西川の氷雨を照らした。牧錦之は翡翠の台の上に黄錦を広げ、筆に墨をつけて、李衍秋に持たせた。牧曠達は手を背にあてて、外に立ち、微笑みながら待っていた。
しばらくすると、書房から大きな音が聞えた。李衍秋が台の上の硯や筆洗いを地面に放り出した音だった。牧錦之は聖詔を取り出し、牧曠達に渡し、彼はそれを受け取って去って行った。(四叔父、怒ったけど書いたんだ。)
正月十五日、玉壁関前に調兵令が発令され、軍隊が移動を始めた。
二月一日、李漸鴻が長城に到達したが、突風のように大荒野で姿を消した。
二月十日、楡林、玉帯などの地は大敵に対し備えた。だが李漸鴻は四百里離れた居庸関に現れて、夜襲をかけ、部隊を分けて内外で呼応して居庸関を破ったが、そこから入り込むことはせず、勤王令を発布して兵馬を招集した。西川城を破って投降した者は、誰であろうとその功に報いると。
三月朔日、江州、揚州、交州、荆州は震撼した。これと同時に、朝廷は聖詔に玉璽を押し、李漸鴻を八大罪を犯したものとした。
だが李漸鴻は辛抱強く、兵を居庸関前に置いたまま、最初の、そして最も難しい一戦に備えた。東西の兵馬の入れ替えが終わり、疲弊したところを撃つためだ。
―――
李漸鴻がいなくても、段岭の生活は規律正しく行われていた。昼間は勉強し、夜は蔡閏と一緒に、剣と基礎的な功夫を練習した。上京は春の初めには日を遮るほどの黄砂が吹いた。
毎月一度の帰宅日が来て、段岭は荷物をまとめて、帰り支度をした。ふと、路地のあまり遠くないところに娘が一人立っていて、蔡閏と話をしてから、段岭の方を見た。丁芝だった。
随分しばらくぶりだ。彼女は蔡聞と付き合いがあったから、頼る者のいなくなった蔡閏のことを気にかけているのだろう。段岭が彼女に挨拶して通り過ぎようとした時、丁芝は彼に手紙を一通渡してきた。封の表面には何も書かれていない。すぐに李漸鴻からだとわかった段岭は急いで家に帰って封を切った。焼き印は削り落とされ、字体もいつもの父のものと違う。消息が分かるのを恐れ、きっちりとした、版で押したような書き方に換えられている。宛名も落款もない。
【寝返りをうてど、まんじりともせず。道は十中二辺りか。塞外の風砂、野を渡り、この世を塵にまみれさす。唯だ君の姿ばかりを想う。小天地の中、華やかに、生き生きと笑うその顔を。】
【この世に生き、誇りと山河の剣を持つ。君に南を返すため。】
【燃やせ!】
段岭にはこの手紙を燃やすことなどできなかった。何度も何度も読んではまた読み返した。
寝台の下に隠したが、夜中になってついに起き出し、じっくりともう一度読み返してから、ようやく身を切られるような思いで手紙を焼き払った。
(子の心親知らず。漸パパは自分が段岭のためにそうしたいだけじゃないのか。)
第30章 暗度陳倉(兵法第八計 敵の裏をかく)
三月十七日、李漸鴻はゆっくりと居庸関を出て、平原で戦い、西南軍を大敗させた。死者三千三百人に対して、一万六千七百人を味方につけ、そこからは一気に六城を抜いて、函谷関前まで迫った。(あ?函谷関?)
「李漸鴻見参。趙奎はいるか?」
守城軍は肝を冷やし、迎え撃つことなどできない。
「何を怖がっている!」函谷関衛は大声で怒鳴った。「大門を守れ!空を飛んで来るとでも思っているのか?!」
李漸鴻はしばらく待った後、再び叫んだ。「いないのか?それなら本王はここで待つとする!」
二万六千余りの兵馬が函谷関外に駐留している。その知らせは南方各地に届いた。各都市は不安になり、江州がどちらに着くのかを見定めようとした。だが、江州刺史、邵徳は兵を挙げるのを拒んだ。一か月かけて、朝廷は増兵し続け、四月十五日には、函谷関の兵力は、二十一万五千にまで達した。
この日、趙奎は函谷関内の軍帳にいたが、彼が来たことを知る者はいなかった。
「二十万人で打って出れば、彼を踏みつけにできるはずです。」武独が言った。(武独お前!)
趙奎が言った。「まだその時ではない。」
武独は壁に架かった地図を見て、「私にはわかりません。」と言った。
「お前にわからないことは多い。時には何度もよく考えてみることだ。」
武独は暫くじっくり考えていた。趙奎が言った。「なぜ烏洛候穆がこちらに寝返ったのかわからないのか?」
武独が答えた。「はい、この人は……。」
趙奎が言う。「お前は何度も何度も言っていたではないか。」
武独が何も言わないのを見て、趙奎が話を続けた。「なぜ考えてみないのだ。彼が李漸鴻を裏切るには当然裏切らざるを得ない理由があるのだと。」
「あの老女だけが理由ではない。他にも当然あるのだ。裏切らざるを得ない。これを李漸鴻が知れば、彼の首を斬るに違いない理由が。」
武独は目を細めた。
「報告———!」伝令が急いで入って来た。「江州敗れる!謝宥が投降しました!」
李漸鴻は遼国一万余りの兵馬を函谷関の下に留めて、千軍万馬の勢いを作り出しておきながら、夜のうちに兵を率いて黄河を渡り、こっそりと江州に向かった。そして江州がまだ遠くを仰ぎ見ている間に、城下にたどりついていた。江州は、黒甲軍の名を世に知らしめており、王権の守護者と自負していた。李漸鴻はその手に鎮山河剣を持ち、滔々と流れる兆候を前に馬に乗って、五万の黒甲軍に対峙していた。
「私はこの剣を手に、我が背後に大陳の子弟兵たちを率いて戦ってきた!私は知っている。この世には今でも権力を恐れず、勢いに流されずに、ただこの国家のために生きる者がいるということを。」
李漸鴻は、兵たちに向かって言った。「趙奎は国を裏切った。兵を挙げて私を助けたくない者は、今日、私の屍を越えて、江水を血に染めるがいい。ここに我が命を留める。開戦だ!無駄話は必要ない!」
鉄甲軍は一斉に盾を構えて天をも震わす怒号を上げた。その時、陣の後ろから声がした。
「待たれよ!」
「三王爺。」一人の堂々たる男が黒馬に乗って前に出てきた。「城内にお越しいただき、玉衡山のお茶でも一杯飲まれませんかな。」
李漸鴻は虎兜を押し上げ、精悍な顔を現わして、相手と向かい合った。
「謝宥、元気にしていたか?」李漸鴻が言った。「我が父はまもなくこの世を全うする!四弟は権臣に押さえつけられ、私を罵る詔書を発布させられた。この処理を、あんたは手伝ってくれるのか、くれないのか?」
謝宥は沈んだ声で言った。「熱き血潮は未だここにあり。未来は末永く、世が栄え、山河が輝くかは、やって見なければわからない。三王爺、城内でお話ししましょう。」
黒甲軍は一斉に両側に退き、一本の道ができ、李漸鴻は入城した。その日、江州城は李漸鴻に投降したと宣言した。
―――
五月五日、端午の節句。
その頃、上京では桃の花がはんなりと綻んでいた。段岭は家に戻る時に、二通目の手紙を受け取った。
【江州の波浪滔々たり、玉衡の雲海漫漫たり。山々の峰より見し、北の地は茫漠たり。
共に望めども共に語らえず。美しき月が君を照らさんことを願う。君の未来の私房護衛を拝借した。今のところ、全て順調。】
【燃やせ!】
南方の情報が伝わってきた。李漸鴻が十二城を続けて落とし、江州は無条件投降をしたとの。江州軍統領の謝宥を味方につけたことで、李漸鴻は兵を剣門関前まで進めた。
段岭は、『私房護衛』という言葉も理解した。江州軍は歴史的に皇室の正統だけを守ってきた。数百年来何度も再編、組み換えが行われてきたが、皇室に対する忠誠は揺るぎなく、例え虎符を提示されても従わせることはできない。歴代朝廷に引き継がれてきた信物(玉璽か?玉玦?)か、皇位継承者だけが兵を動かすことができる。江州を攻略できたのなら、今や李漸鴻は五万の江州軍を手にして、西川に入るための最後の天険にまでまっすぐ兵を進めているに違いない。
―――
趙奎が欲する首はいつまでたっても届かない。これでは届いたころには役に立たなくなってしまう。もし再び函谷関を死守すれば、李漸鴻に後方を丸ごとごっそり取られてしまう。
趙奎はもう兵を南下させて、より厳しい条件で李漸鴻と決戦するしかなかった。
「趙奎がなぜ国都を遷すにあたって、我が父を西川に連れて逃げ、江州に都をおきたがらなかったのかわかるか?」李漸鴻は剣門関の前で馬の足を止め、軍をまとめている謝宥に言った。謝宥は黙っていた。趙奎が遷都に当たって江州を避けたのはもちろん黒甲軍に制圧されないためだ。新都を江州にしてしまったら、趙奎は造反などできなくなってしまう。李漸鴻は質問の形をとっているが、行間では、なぜもっと早く行動を起こさなかったのかと謝宥を責めているのだ。
「何か言ったらどうだ。」李漸鴻は片足で謝宥をつついた。
「何も言えませんが、殺すことならできます。もう長いこと人を殺してきていませんが。」
謝宥が言った。趙奎の兵たちは既に来ており、天険の力を借りて守りに突いているが、趙奎自身はなかなか姿を現さなかった。
「夜長ければ夢多し。遅れるほどに変化が生じる。」謝宥が言った。李漸鴻は首を振った。
「進めぬな。」李漸鴻は呟いた。「別の方法を考えなければ。先はまだまだ長い。黒甲軍の命をこんなところで無駄に失えないし、もう無意味な殺戮をしたくない。我が大陳に徳をもたらさなくてはな。」
「あなた様らしくありませんな。」謝宥は李漸鴻に目をやった。
「私には息子がいたのだ。」李漸鴻は謝宥に言った。
謝宥が言った。「なるほど。暫し撤退しましょう。」
黒甲軍と、西北軍は全陣が後退し、剣門関から十二里のところまで退いた。
南方の戦いは膠着状態に陥った。古より、「剣門は天下の険」と言われてきた。趙奎は皇室を護衛して遷都する際、確かにいいところに駒を進めた。剣門は守りやすく攻めにくい。西川に入るためには漢中路か剣門以外に道はない。この二つの道を守りさえすれば、敵が西川に入るのは完全に阻止できるのだ。
剣門関下の水の流れは九で、山は高く切り立っている。趙奎は両側のどこにでも伏兵をおけた。李漸鴻が持てる兵力を無理やり押し出して決死の一戦をすれば、勝率は三割に満たないだろう。趙奎は待っていさえすればよく、李漸鴻は四方に危機が迫っていた。様々な勢力がこの戦争を見守っており、戦果は漢、遼、西羌、元、四族の関係に影響を及ぼす。剣門を攻め落とせず、大軍を西川に送れなくなれば、南方大陳は勢力を二つに分けられることになるかもしれない。趙奎の西陳、李漸鴻の東陳。陳国がそのような内戦で分断されれば、より強大な敵を引き付けることにつながるのだ。
―――
「もし戦わずに終わったら?」
「そりゃ、彼らはもう終わりさ。」外族の少年が同情を込めて言った。「遼国はまたあの国を分割統治できるか?」
「北では元人が虎視眈々と待っている。きっと南院が先に江南を取る。李漸鴻は西川の指示を失い、黒甲軍は内乱になれば、天子を守るさ。彼らは玉壁関を出られないし、遊撃も持久戦もできない。一旦我が大遼がまた江南まで下れば、きっと秋風が落ち葉を払う勢いで……。」
辟雍館の少年たちは射矢の練習をしていた。元軍が上京を侵略して以降、武術の時間が増えた。誰だって殺されたくはない。流鏑馬を学ぶ姿勢も真剣そのものだ。
段岭は彼ら話を傍らで聞いていたが、沈黙を守った。
「もしまた分割されることになったら、李漸鴻はまさに歴史に名を遺す南陳の罪人だな。」
遼国は背後にいる元に恐れを抱いていた。元はここ数年来虎視眈々と様子を伺い、南下する機会を待っている。南方で戦乱が起これば、耶律皇室はまず最初に再び南下を始め、中原南面を吸収し、江左などの地を根こそぎ奪ってから、ゆっくりと荆州、西川を手に入れ、長城を境として、元の侵入に抵抗するだろう。
李漸鴻が西川を狙い、遼国が南方を狙い、元が上京や北方を狙う。蟷螂が蝉を狙う時、後ろには黄雀がいる。一を牽けばすべてが動く。
射矢の授業が終わると、少年たちは南方の政局についての議論を続けたが、段岭はもう聞きたくなかった。ここ数日、初めはいい知らせがいくつも届いたが、その後より多くの悪い知らせが届いた。もし今年中に剣門関を落とせず、西川に入れなければ、李漸鴻は敵に挟み撃ちされる状況に陥るだろう。
「おそらく耶律大石は早々にこうなると分かっていたんだろうな。」部屋に帰ってから、蔡閏が突然そう言った。
「え、なに?」段岭はまだ考え込んでいたが、蔡閏の言葉で我に返った。「ああ…..うん。そうかもな。確かに。だけど彼の思惑通りに運ばないことも多いんじゃないかな。思うんだけど、韓唯庸は南方に兵を贈ったら、機に乗じて、淮水以南の国土を奪うんじゃないかな。」
「国土か。」蔡閏が言った。
段岭は蔡閏が身分上遼人なのに気づいて、言い直した。「漢人の国土っていうことだよ。」
「君のお父上はいつ頃帰るんだい?」蔡閏が尋ねた。
段岭は応えた。「わからない。南方は情報を封鎖したから。でも父さんは自分を守れると私は思っている。」
蔡閏は頷いた。二人が顔を洗い終えた時、院内で突然鐘が叩かれた。三、三、一。皆集合しろと言うことだ。二人は正庁前に行って列に並んだ。
耶律大石が来訪したのだ。北院大王の突然の降臨に、辟雍館全体が困惑した。唐祭事は前に進み出た。耶律大石と韓捷礼、そして華やかで上質な装いの少年が一人庁堂に入って来た。
少年は器量がよく、気品がある。段岭は一目見てわかった。——彼の地位は、韓捷礼や耶律大石よりももっと上だ!今の遼国で耶律大石より上の身分なのは、ただ一人:耶律宗真だ。
「陛下。」
辟雍館にいた者の中には既に耶律宗真だということが分かり、急いで拝礼する者もいた。だが、耶律宗真はとても気さくな人で、学生たちに笑顔で、「礼は結構だ。」と言った。
見た感じ蔡閏と同じくらいの年頃だ。彼は手を背に追って最前列のところまで行き、学生たちと交流し始めた。彼が問いかけ、学生が答えるといった感じだ。ふと、学生が手につけている数珠に目をやり、「家では仏を信仰しているのか?」と尋ねた。段岭はすぐに首にかけた赤紐を取ったが、部屋に隠しに行くのには遅すぎる。その時、蔡閏が段岭の背中をとんとんと指で叩き、段岭は手を広げて見せた。蔡閏は玉玦を取ると身をかがめて衣服を整え、体を上げると、再び赤い布袋を段岭の手の中に押し込んだ。段岭が握ってみると、中身が銅銭に換えられていた。段岭は大きな驚きを感じた。蔡閏は自分の懸念に気づいていたのに言わずにいてくれるようだ。
段岭の番になり、彼が前に進むと、耶律宗真は段岭の表情を観察してから彼に笑いかけた。
「君を知っているぞ。名前は確か……。」韩捷礼は苦しそうだ。段岭の名を度忘れしたようだ。
「段岭です。」段岭は笑顔を見せた。
「そうだそうだ。ブアルチジンと殴りあった例の彼だ。」
耶律宗真は笑い出した。「それなら朕に替わって敵討ちをしてくれたと言えるな。」
耶律大石は段岭を推し量るように見て、「家はどんなことを?」
「北と南を行き来して商売をしています。」段岭は応えた。
「これは何だ?」耶律宗真は段岭が首から下げた布袋に気づいた。
「父がくれた物です。」段岭は銅銭を中から出して彼に見せた。皆大笑いした。
耶律宗真は頷き、もう少し何か言おうとしたが、そこで、後ろから蔡閏が見ているのに気づいた耶律大石が言った。「あれが蔡聞の弟です。」耶律宗真は了解して、蔡閏を手招きした。
蔡武は上京を守るために命を投げ出した。耶律宗真はいたわり励ますような言葉をかけた。
段岭はその様子を近くに立って観察した。初めは耶律大石が自分を探しに来たのではないかと疑ったが、見ている限りそうではないようだ。耶律宗真は生徒たちの家柄にはあまり関心がなく、お眼鏡にかなった器量よしの少年には言葉を多めにかけ、その他の者には頷くだけに留めていた。(やれやれ遼も後継者で悩みそうだ)
耶律宗真が学堂での謁見を終えると、唐祭事は戻っていいと指示した。学生たちは重苦しい気分で戻って行った。庁堂を出ようとした時、段岭は玉玦のことを思い出した。蔡閏の視線を受けた時、ふと見透かされているような感じがした。
「返してくれるかい?それは私の護命銭なんだ。」蔡閏が言った。段岭だって勿論返すつもりだった。二人が交換しようとしたその時、唐祭事が走廊から声をかけてきた。「蔡閏、段岭、側院に来なさい。話がある。」