非天夜翔 山有木兮 日本語訳 第19章

非天夜翔 山には木があり

第19章 測れぬ心

 

翌日、洛陽宮中の空気は張りつめていた。衛兵は皆、巡回を命じられた。と言っても宮中の御林軍はもともと多くなく、しかも800人のうち、50歳以上の老人が9割を占めている。身につけた剣は錆びていて、ただ守っていることを示すためだけにつけられた代物だった。若者はみな本殿前に配属された。

 

郢、代、鄭三国の特使は、同じ日に到着し、すぐさま殿上で激しい口論を繰り広げた。

郢国特使が言った。「吾王は天下の尊として、決して危険に関わるべきではありません。万が一、蛮夷の手に落ちたらどうなさるおつもりですか。郢地は長江を国境にしており、天険によって守られております。玉璧関が破られても、郢国は全てをあげて、天子の安全をお守りしたいのです。」

 

代国特使は言った。「代武王は剣門関にて守備を固め、百年間、代国には戦事がありません。郢国はどんな疫があるかもしれない南夷です。雍人と同じ蛮夷なのです!吾王、私たちと一緒に行きましょう。」

 

鄭国特使は述べた。「鄭国は東海に隣接し、三山を擁して障壁とできます。鄭国太后は、天子母妃と同宗姉妹で、鄭国は晋王家の母方の叔父の家です。家族は互いに思いあうもの。吾王の旅立ちをお望み申し上げます。」

 

代国特使は、「代武王の祖母も晋先王の母の元に生まれ、姫霜(ジシャオ)公主は代王の養女です。代国と王室は姻戚関係にあるようなもの。鄭国だけではありません。」とやり返した。

 

梁国特使は、「我らの馬車はすでに準備ができており、天子が望む限り、即出発することができます。吾王、情勢は険しく、雍人は今にも洛陽に侵入するでしょう。重ね重ねお願いいたします。我らをお選びください。そのために、我らは野を越え山を越え、荊を突き棘を切って、危険を冒してやって参りました…」と述べた。

 

王廷内は沈黙していた。全員まともに座っていられないような老人ばかりだ。太宰は姫珣に懇願の一瞥を投げたが、姫珣は動かなかった。「疲れたな。使臣たちを招待する故、まずは下がられよ。この続きは、数日後に話そう。」

使臣たちは慌てた。「いけません、陛下!」

梁国特使がまず前に出たのに続き、残りの3カ国の特使すべてが取り囲むように天子御段に上がってきた。無礼極まりない行為である。彼らは天子に迫った上に、更に説得したり脅したりしているのだ。

「下がられよ!」

姫珣の後ろから戒めの声を上げたのは執筆していた姜恒だった。使臣たちの無礼な振る舞いを姜恒が止めるとは、姫珣にも意外だった。趙竭は外に出て城の守りの手配をしており、姫珣のそばにいなかったが、幸いにも姜恒が殿内の使臣たちに一喝した。

しかし、特使たちは、姫珣の後ろにいる太史が子供であることがわかると、もう恐れなくなった。「吾王。」梁国特使は姜恒を眼中に置かず、一歩前に出た。その様子は、姫珣を王座から引き下ろそうとしているように見えた。

 

「誰か!」姜恒は怒りの声をあげた。

第二声が落ちると、耿曙が入ってきた。剣を抜く音がして、殿内はしんと静まった。姜恒は言った。「今一度吾王を冒涜する者は誰か。一歩前に出よ。その場で斬首し、以て天下に詫びることとする。」

「はい。」耿曙は答えた。

刹那、殿内は静まり返った。耿曙はもうすでに背が高く、目つきには激しい勢いがあった。特使たちは敢えてそれ以上続けなかった。

 

これは両国が交戦するということではない。天子はすでに衰えていても、依然として天下の主である。「冒涜」を理由に彼らをその場で斬れば、各国も受け入れるしかない。

特使たちがゆっくりと階段の下まで退くと、姫珣は皮肉な笑みを浮かべた。

「皆下がられよ。私にも、もちろん考えていることはある。」

 

その時、殿外から報せの声がした。「雍国特使、汁綾(ジュウリン)公主が到着――」

すべての使臣は一瞬にして顔色を変え、殿外から黒いマントをつけた若い女性が足早に入ってきた。マントの風帽を外すと、その容貌は清麗で、薄暗い殿内が明るくなったようだった。女性は武衣を着ていた。色白で、年は20歳ぐらい。まず殿内を見て、何が起こったのか一目でわかったように、天子階段の前まで歩いていった。

 

姜恒ははっとしたが、姫珣は少し横を向き、手を振って、大丈夫だと合図した。耿曙は顔を背けた。美貌の女性はまずひざまずいた。

「吾王は、どのくらい召し上がりますか。どのくらいお休みになりますか。天下の万民で、天子を想わぬ者はなし。この生涯で見られる、栄寵は極みなし。」

「全て良い。」姫珣は答えた。「汁綾公主、立たれよ。」

汁綾はここで立ち上がり、軽蔑したように特使たちを一瞥した。続いて、趙竭も入ってきた。趙竭は闊歩して入り、御段を上ると、手を背で組み、両足を少しあけて、まるで山のように姫珣の側に立ちはだかった。

 

汁綾は笑顔で言った。「吾王、長兄は天子を落雁城にご招待したいと、私を御前へと特命派遣いたしました。天子の安全をお守りします。王様お輿へどうぞ。雍都にお連れ致します。」

集まった5カ国の特使は、一時何も言えなくなったが、沈黙の中、姫珣はゆっくりと口を開いた。

「帰って汁琮(ジュウツォン)に伝えよ、そなたら各国の王にも伝えよ。私はどこにも行かない。戦火が燃え広がったその時には、自ら洛陽を焼き払い、天子は万民と共に死ぬだろう。これにて退朝せよ。」

 

―――

冬の日、黄昏は血のようだった。姜恒はこの日の巻き物を持って出てきた。耿曙はすでに門の外で待っていた。「今夜、奴らを殺しに行く。」頭盔を外しながら、耿曙が言った。姜恒は血相を変えた。「やめてよ!特使を殺して何になるの?」

耿曙は今日の朝廷での一幕に腹を立てていた。姜恒は「雍国が関を越えてきたら四国大軍は洛陽に進駐する。遅かれ早かれみんな来るだろう。でも汁琮(ジュウツォン)が関内に入らない限り、彼らはそんなに大胆にはならないはずだ。」と話した。

 

玉璧関は今も雍国の手にある。「琴鳴天下の変」以来、汁氏は北地への唯一の関所をしっかりと守ってきた。四国が今、玉璧関を奪還しようとするなら、雍国の大軍を万里の長城の北に追い返し、洛陽を取ってそこから北上し、厳しい戦いをしなければならない。

 

ここ数日、姜恒は10年前の軍事文書をめくって、代、鄭、梁、郢は50万人の大軍を招集できると推定した。雍軍は、騎馬は上手いが歩兵は下手だ。南へ進めば進むほど、山嶺と丘陵の地は、騎馬戦に不利になる。郢国には長江天険と十万水軍もある。汁琮が聡明であれば、今南下して連合軍と戦うはずがない。

耿曙はしばらく黙っていた。3年かけて、彼もゆっくりと洛陽を新しい家にした。

ただ姜恒がいる限り、どこであろうと潯東と何の違いもない。

「俺たちは出て行くことになるかな。」と耿曙は言った。

「どこへ行ったらいいの?」姜恒は問い返した。潯東での出来事がまだ瞼に焼き付いている。

ふと耿曙は、かつて昭夫人がなぜ自分たちをここに来させたのかを理解した。「うん、ここにいよう。」耿曙はうなずいた。天下がいくら広くても、行き場はない。3年前、彼らは潯東から逃げて来た。今再び洛陽を脱出すれば、自分と姜恒は一生、この広大な大地をさまようことになるだろう。

 

二人はまた趙竭を見かけた。今回趙竭はわざわざ二人を探しに来て、自分について行くように合図した。

姫珣が寝殿で待っていた。二人が入ると趙竭は戸を閉め、戸外を守った。

姜恒は姫珣が今日の朝廷の話をしたいのかと思ったが、彼は沈黙していた。

--何も言わず、笑顔で二人を見つめていた。

「最近はどうだ。初めて洛陽に来た頃より、二人とも大きくなったな。」

姜恒は拝礼しようとした。礼に基づいて天子の垂問に感謝しようとしたが、姫珣は「もう拝礼する必要はない。顔を上げなさい。」と言った。

 

長く静謐な時間の後、姫珣は悠々とため息をついて、「今日の雍国特使をよく見たか。」と言った。姜恒は「はい」と答えるしかなかった。姫珣は姜恒の顔をじっと見て、何かを考えたようだが、言わなかった。(お?)

「洛陽全てを守ることができるかどうか分からない。」姫珣は言った。

「趙将軍にもわからない。私は汁琮に捉えられ、彼の王旗になるつもりはない。

だが、そなたたちは違う。姜恒、そなたは耿曙と、汁綾(ジュウリン)公主について行くと良い。後で私は書を一封修め、雍国王室がそなたたちの世話をしてくれるように取り計らう。」

 

姜恒:「!!!」

姜恒は顔を向けて耿曙を見た。耿曙は今、二人の運命を決める責任を負い、「雍は敵です。私たちは行きません。」と思わず言っていた。

姫珣は驚いて、「そなたたちの父上は雍国の国士だ。私は汁琮兄弟二人の行為には同意しないが、耿淵の徳を考えて、汁琮はきっとそなたたちを大切にするはずだ…」と説明した。

「だからこそ、私は行きません。私は国士なんてどうでもいい。やつらは私たちの家を破壊しようとしているのに、どうして盗人を父にすることができますか。」

姜恒は耿曙の言葉の真意を理解していなかった。彼らが何年も一緒にいる内で、耿曙は初めて彼の意思を尋ねずに口を開き、決定を下した。しかし、耿曙の言葉は、まさに彼が言いたいことだ。耿曙はまた言った。「彼らは恒児(ハンアル)に多くのことをさせ、恒児に雍国のために命を売らせようとするかもしれません。私の父はすでに自分の命を差し出しています。私たちは二人とも父とは違います。私たちは雍国に借りはありません。」姜恒はうなずいて、「兄が行くと言ったところに、私も行きます。」と言った。

 

姫珣の目つきはさらに優しくなった。彼はうなずいて、「趙将軍が思っていた通りだ。

それもいい。それでは、昭夫人が帰ってきても来なくても、そなたたちはいつでも去ってよい。私たちの世話をする必要はない。」と言った。

耿曙はまだ少し不安で、口を開けようとした時、姫珣は「安心してよい。私は汁綾にそなたたちの身の上に関することは何も言わなかった。明日の朝、彼女は去る。」と言って、また謎めいた風に耿曙にまばたきをした。

                (姫珣たちは姜恒の正体にきづいてるのかな。)

―――

夜になった。姜恒は耿曙と並んで寝台に横たわっていた。

「兄さん。」姜恒は小声で言った。

耿曙:「うん。」

姜恒は布団の下で耿曙の手の甲を触ったが、耿曙は手を返して、手を握り、横を向いて、姜恒を懐に抱いた。二人はどちらも大きくなり、姜恒も少年の体になった。

耿曙は14歳だったが、宮中の侍衛と同じくらい背が高かった。姜恒は少し照れ始めたが、耿曙の灼熱の体、体の匂いに、愛着があった。耿曙は姜恒の頭を触りながら、やさしく囁いた。「もし危険があれば、お前は必ず俺と一緒に逃げるんだぞ。王の意図もそうだ。」姜恒は答えた。「わかってる。」

 

翌日、姫珣はすべての使者を遣わし、天子は無期限に罷朝すると天下に伝えた。

朝廷を罷めると言っても、ぼろぼろになった皇宮の入り口に木の札をかけただけだ。各封国はもうずっと前から天子令も天子礼も尊ばない。天子が何を決めたか、あるいは何を決めるかに関心を持っていない。体面を損なうことも趙竭の剣も気にしないでいいなら、各国の使者たちは天子階段に上がって姫珣を引きずり降ろしていただろう。

 

耿曙は罷朝の札を掛け、姜恒とお互いを見あった。

「正月だ。何か食べたいものがあれば、買いに行ってやる。」

「一緒に行きたい。私はすごく久しぶりに洛陽の町を歩くんだよ。」と言った。

 

晋国歴では1年は冬至で終わる。霧に包まれた洛陽の町は珍しくにぎやかな雰囲気があり、街頭の市場が開かれていた。わずか4、50店舗で、3年の間に耿曙と姜恒は端から端までぶらぶら散策し、また逆の端から端までぶらぶらして、どの店も知っている。

しかし、それでも姜恒は楽しかった。あちこちに赤い提灯が掲げられ、家々の前に桃符が挿され、自家製の屠蘇酒が置かれていた。

 

「お酒を買いたい。もうお酒を飲んでもいいかな。」耿曙はいつも飲ませてくれず、自分も飲まない。彼らの父も酒を飲まなかったので、酒を飲むのはよくないことだと思っていたからだ。「飲めばいい。でもたくさんはだめだぞ。」

やっと大人たちが飲むものを味わうことができる。耿曙はお金を出して1壇買った。

 

今日の洛陽外城には、なぜか物乞いがたくさんいた。「どうしてこんなに人が増えたんだろう?」姜恒は驚いた。中原からの流民が多く、一望しただけでも数万人が洛陽に押し寄せたようだ。誰もが色々な方言を話していて、姜恒は何度聞いても、言っていることがわからない。

「雍軍が玉璧関に入った!」誰かが悲鳴を上げた。「おしまいだ!もうおしまいだ!洛陽は終わる!天下は終わる―!」突然、姜恒は潯東人を見つけ、よく知っているなまりを聞いた。

 

その人は2つの通りを隔てた近所の人だったが、姜恒を見分けられず、「あなたは誰ですか。あなたも鄭人ですか。あなたの名前は何ですか」と言った。姜恒は3年たって、自分が成長し、容貌が変化したことに気づいた。さらに玄武祠を出た時、町中の人々は慌ただしくちらっと見ただけだったし、以前は外出しなかったので、ほとんど誰も彼を知らなかった。

 

「何があったの?どうしてみんな洛陽に来たの?」

「戦争だ!粟を分けてくれませんか。子供も妻もそこにいます。鄭、梁の軍隊が来ます!洛陽を占領して、ここで雍人と戦おうとしているんです!」「いつ来るんです?」と聞きかけた姜恒を耿曙は警戒して引っ張った。潯東人と話をさせて彼のことを思い出させたくなく、乱暴に「相手にするな!」と言った。町中で人々が洛陽住民に向かって懇願していた。凍るような寒さの中、別の通りに出ると、より多くの避難者がいた。

 

「雍人が関内に入り、四国軍も到着したんだ。彼らは道で庶民を略奪したに違いない。そうでなければ、こんなに多くの流民がいるわけないもの。」姜恒の推測は間違っていなかった。

連合軍は急いで洛陽にやってきた。玉璧関は洛陽から遠いが、四か国は洛陽に近い。そのため連合軍は雍軍より一足先に洛陽に到着した。大軍は到着すると、沿道の村を略奪した。

軍規で制御しないからだが、つまりは制御したくないのだ。何しろ王都に入れば、洛陽の領土で、鄭、梁どちらの国でもない。火事場泥棒で、略奪したとしても自国民からではない。だったら自分たちに何の関係があるのか。

 

姜恒は息を深く吸い、「帰って趙竭に知らせないと。」と言った。

「とっくに知っているさ。警備しているところだ。しばらくは、他国軍隊は到着できない。心配するな。」

「じゃあ……」姜恒は色々考えてから、言った。「彼らにお金を渡して回ろうか?」

二人の兄弟のお金は使いきれないほど多いが、本当に戦争が始まれば、持っていくことはできないだろう。耿曙は元々金銭欲がなく気前がいい。姜恒の言うとおりにしようと、すぐ帰って銭函を取ってきた。街角で銭函をひっくり返し、ジャラジャラお金を落とすと、流民は先を争って奪いに来た。

 

「そういう風にじゃない!」姜恒はすぐに言った。「人に踏まれて死人が出るよ!」

耿曙は「いやそうでもない。もうなくなったから。行こう。」と答えた。

一千余りの金は多いようだが、庶民たちに分けるには十分でない。あっという間に奪われてしまった。姜恒は心の中に罪悪感を抱いた。この散財は、どれだけの争い、奪い合いを引き起こすだろうか。