非天夜翔 相見歓 第41章ー第45章

第41章 裏切り:

 

段岭はまるで荒野の刺客のようだった。腰には短剣をつけ、腰帯の上には薬を入れた小袋をつけ、衣類は風呂敷に包んで背負っている。まともに食べることもせず、野宿をして、彼はやせ細り、日焼けもした。

城外をうろうろしてだいぶたつ。兵士が城を出入りするのに必要な文書を調べているで、うかつに出て行くこともできない。捕まって牢に入れられるかもしれないからだ。

遥か彼方からやってきて、あと一歩で城に入れる。だが、最後の一歩という時だからこそ、気を引き締め、注意深くあらねばならない。段岭は何度も何度も再会の場面を想像した。だが、李漸鴻の教えが脳裏に刻み込まれているのだ。——成功が近づいた時こそ最も気をつけなくてはならない。

 

最悪の可能性は城に入ったところで捕らえられることだ。万が一、牧曠達の手の者に行く手を遮られれば、李漸鴻に告げることなく、直接牢に入れられるかもしれない。だから、絶対にここから城に入って行くことはできないのだ。

段岭は長い間じっと観察を続けた。そして西川城門を出入りする様子を見ていると、査察がそれほど厳密ではないことに気づいた。そこでまるまる三日待ち、深夜になり、守城の衛兵たちが酔っ払ったところで、段岭は何歩かで跳び上がってみて、城楼の上にある、小さな門からこっそりと入り込んだ。

 

だけどどこに行ったらいいだろう?深夜の西川は城全体が静けさに包まれている。巡夜士兵が通り過ぎると、段岭は小さな路地裏奥深くに潜んで、警戒しながら、外を伺い見た。

皇宮はどこだろう?段岭は考えた。こんなやり方ではだめだ。こそこそと、壁の上を這って金殿に入って行くわけにいかないだろう。誰か話を通してくれる人を探さなければ。だが、どんなふうに話せばいいのか?

玉玦はもうない。唯一身の証として差し出せるのは、バドからもらったこの短剣だけだ。父さんも見たはずだ。自分は使者だと偽ろうか?そしてこの短剣を父さんのところに持って行かせ、見てもらうのだ。あの日父さんはこれをちらっと見ただけだったけど、覚えているだろうか?うん、きっと覚えているだろう。

 

段岭は緊張して、目を閉じることもせずに一夜を過ごし、夜が明けた頃には疲れ果てていたが、頭はとてもさえていた。

春の日の西川の繁華街は活気にあふれていた。お腹がすきすぎて眩暈がしていた段岭は路地裏からこっそりと出て来た。誰かが自分の様子を見ているのに気づくと、歩を速め、街中で紫蘇うどん(そんな食べ物があるのか)を大盛一杯食べると皇宮に行って運試しをすることに決めた。

もしうまくいかなかったら、落雁にいた時のようなやり方で、西川に暫く留まって、またゆっくりと方法を考えればいい。

「道を開けろ、道を開けろ——!」

誰かが通りを開けさせ、牧曠達の馬車が街道を通り過ぎた。人々は慣れているようだったが、段岭は遠くに立って見守った。牧曠達はやはりまだ生きていたのか。

 

午後になり、段岭は皇宮の外をうろうろしていた。唯一の身の証である、バドにもらった骨製の短剣は隠し持っている。

「すみません、」段岭は声をかけた。通りの外にいた守衛は段岭を探るように見たが、何も言わなかった。「陛下は宮殿にいらっしゃいますか?」段岭は再び尋ねた。

答えはない。守衛はこうしたことに慣れてしまっているようだった。段岭が懐に手を伸ばすと、守衛はすぐに警戒し段岭を見た。

「行け!」衛兵が二人、刀を抜いた。段岭は急いで何歩か退くと、「陛下にお渡しいただきたい物があるのです!」と言った。

「どうしたんだ?」中からまた誰かが出てきた。背後には二人の衛兵が控えている。おそらく小隊長なのだろう。「名前は?」

「段某です。」両手で短剣を持って差し出し、「持ち主にお返しいたしたく、陛下にお渡し願いたいのです。」

隊長は胡散臭そうに段岭を見て、「どこから来た?戸籍証書は?」と言った。

「私は鮮卑山から参りました。西川人ではありません。」

隊長が言った。「どこに住んでいる?所在地を残して、帰って待て。」

「ここで待たせていただきます。」段岭にはそう言うしかない。宿なしなのだから。

隊長は再び言った。「陛下は皇宮にはいらっしゃらない。ここで待っても無駄だ。」

 

段岭は心の中でガンと音がした気がした。何てことだ。父さんはいないのか?!

彼はどこに行ったのかと聞きかけて、答えるはずがないと思い至った。もし隊長がこれを誰かほかの人に持っていったら?その時思い出した。父さんは言っていた。自分には四叔父がいるのだと。……きっとまだ宰相の手に落ちてはいないだろう。それに牧曠達はこの短剣の意味を知らないはずだ。

「いつ頃お帰りなのですか?」段岭は尋ねた。

「わからん。」隊長が答えた。

段岭は通りに置かれた箱にのって皇宮の裏門の中を首を伸ばして見た。

日が傾き始めた。

段岭は立っているのに疲れて、椅子に座り、皇宮から出て来る人、一人一人を見始めた。

太監、侍衛、宮女、誰もに希望を見出して。だが彼らは急いで通り過ぎ、あまり留まることもなかった。

 

だんだん日が暮れてきた。夜を過ごす場所を探さなくては。先ほど通り過ぎた楓水橋、あの橋の下でなら寝られそうだ。

父さんはどこに行ったのだろう?段岭は色々考えてみた。皇宮の中には既に灯がともっており、辺りは薄暗くなってきた。彼は一度去ろうと決めた。明日また来ればいい。

 

また誰かが出てきた。彼はハッとして、しばらく動けなくなった。

「その人はどこにいる?」それは郎俊侠の声だった。

郎俊侠は豪華な袍子を着て、段岭が知っている人と同じ人物とは思えなかった。

最後にほんのわずかな間、見た郎俊侠は瓊花院でずぶぬれになっていた。だがあの時でさえ、走り寄って抱きつきたい衝動にかられたのだった。

 

だが、今目の前にいる郎俊侠は、暗紅色と黒の武袍を身にまとっている。肩幅が広く腰がしっかりした、均整の取れた体に黒い武靴を履き、頭には黒い帽子をかぶり、帽子の下には紅色の細紐が下がっている。温潤な唇、濃い眉、腰には三尺ある鞘に収まった青峰を佩き、まるで傷のない完美な碧玉のようだった。(小指は昌流君に斬られたけど)

 

(美男の形容で必ず、温潤な唇、と書かれるのだけど、どんな口なのか今一わからない。たぶん、厚ぼったい色気のある口元なのだろうけど、日本語ならどう形容すべきか?)

 

段岭はこんな着飾った郎俊侠を始めて見た。きっと役人になったのだろう。段岭は緊張した。

瓊花院での出来事を思い出し、箱の後ろに隠れて、出て行くのはやめることにした。

逃げ出しながら、彼は今まで何度も考えたことを再び考えた。なぜあの時郎俊侠は自分を連れ出そうとしたのだろうか。なぜ彼は何も言ってくれないのか。耶律大石が言っていた裏切り者とは彼のことなのだろうか……。だが彼を信じたかった。違う。あの時瓊花院で自分に向けた郎俊侠の眼差しだけが、彼を信じる根拠だった。

 

「段岭?」郎俊侠の声がした。段岭が隠れている方向を向いている。

段岭はドキッとした。見ると郎俊侠はあちこち探し、守衛にも訪ねている。守衛は戸惑ったような表情をしているが、答え方はとても丁寧だった。郎俊侠は腕にたくさんの数珠をつけ、腰には碧玉の腰佩をつけている。腰帯にも暗金の留め具がついていて、着ている武袍には雲紋や虎の刺繍がしてあり、夕日を受けてわずかにきらめいていた。

なんて格好いいんだろう、と段岭は思った。以前はいつも青袍を着ていて、侍衛服を着た姿を見たことがなかった。(見とれている場合か?)

 

「段岭!」郎俊侠は彼が近くにいることに気づいているようだった。焦ったように呼び掛けて来る。「出て来てくれ!君だってことはわかっている!私を信じて!」

段岭は不安な気持ちのまま立ちあがった。郎俊侠は振り返り、二人の目が合った。

段岭の目が真っ赤になった。郎俊侠は一歩前に進み、段岭は無意識に後退した。郎俊侠は追

いかけてきて、段岭を荒々しく抱きしめた。「郎俊侠……。」段岭は嗚咽した。

郎俊侠は目を閉じ、ゆっくりと息を吐きだした。まるでこれまで生きてきた気力が消えてなくなったようだ。段岭は逆手に郎俊侠の背を抱いた。ふと、昔大雪が降る夜に、彼がけがをした時のことを思い出した。自分を迎えに来て家に戻った時にも、こんな風に自分をきつく抱きしめて、精魂尽きたようになっていたっけ。

 

都のとある家に帰ってくると、郎俊侠は扉を閉めた。段岭はドキドキしながら彼を見ていた。ここまでの間、何も言わなかった。もし郎俊侠が本当に自分を殺す気なら、自分には逃げられるはずがない。逃げたとしても逃げきれない。おそらく多くのことは、最初から運命づけられているのだ。

「ここはあなたの家なの?」段岭が尋ねた。

郎俊侠が言った。「陛下から賜った住まいだが、宮殿にいることがほとんどだ。」

「父さんは?」段岭は尋ねた。

「今でも外で君を探している。前の月には何日か京城にいらしたが、それから戻っていない。」

「早く父さんに手紙を送ってよ。」段岭が言った。

郎俊侠は答えた。「あの刀を見た時、君に違いないと思った。既に秘密裏に手紙を届けさせている。今は牧曠達が朝野に権力をふるっていて、真実を曲げることも簡単にできる。

君は絶対に姿を見せてはいけないよ。」

段岭は頷いた。郎俊侠が言った。「まずは体を洗ってくれ。食事を終えたらまた詳しく話をする。」

邸宅は贅沢だったが、誰もいなかった。郎俊侠は段岭を側院に連れて行って沐浴させた。湯につかると段岭はようやくほっとした。聞きたいことはいっぱいあったが、何から聞けばいいかわからなかった。扉を叩いてから郎俊侠が入って来た。子供の頃のように、湯舟につかっていると、郎俊侠が袖をまくり上げて髪を洗ってくれた。

「食事ができたよ。」郎俊侠が言った。

段岭:「あの日、あなたは……。」

「あの日、牧相が私を上京に行かせた。君を殺して、君の首を王爺に送りつけるためだ。」

郎俊侠は段岭の髪を洗いながら言った。冗談でも言っているみたいだ。「何も言えなかった。城内には他にも牧曠達が送り込んだ奸細がいると思ったのだ。一度は尋春を疑った。」

「命令に従うことも王爺の元に行くこともできず、自分で判断するしかなかった。そこで君を一時避難させて、人質にされないようにしようとしたんだ。」

そう言うと、郎俊侠は腰に付けた袋の中から何かを取り出した。それはあの透きとおった玉玦だった。彼が玉玦を段岭に付けると、段岭は心が震えるほど驚いた。

「ど……どこで見つけたの?」

「薬戸村だ。今度はなくしてはいけないよ。君は死んだと思っていたから、敢えて陛下には渡せなかった。君を思い出させてしまうと思ったんだ。でもよかった。天は我が大陳を助けてくれた。君はまだ生きていたんだ。」

「尋春は私を売ったりしなかった。私を守って逃がしてくれた。そのために自分の命を犠牲にしてくれたんだ。」段岭は言った。

郎俊侠はそれ以上何も言わなかった。段岭は沐浴を終え、立ち上がった時少し恥ずかしく感じた。

「大きくなったな。」郎俊侠が言った。(このタイミングで?どこを見ている?)

彼は新品の袍子を段岭に着せた。そして子供の頃のように手を牽いて、走廊を通り庁堂に入って行った。郎俊侠は簡単な食事をいくつか用意してくれた。段岭は座るとすぐに箸を持って食べ始めた。

「陛下が戻られたら、すぐに君に会えるように手配する。今は朝廷の状況が不穏だから、それからのことはよく計画を練らなくては。」

「どうして?」段岭が尋ねた。

一瞬黙った後、郎俊侠は口を開いた。「四王爺にはお子がいない。牧曠達の妹の牧錦之を娶られたので、彼らは牧錦之が子を生すのを望んでいる。君が現れなければ、帝位は牧家の意のままになる。」

「だけど、父さんがそうはさせないでしょう……。」

「彼は戻る気がないんだ。君を見つけるまで、西川には戻れないと言う。彼は小婉を失った。君まで失いたくないのだ。」

段岭は何も言わずに、途方に暮れた子供のように郎俊侠をぼんやりと見つめた。

「あなたは私の母さんに会ったことがあるのでしょう?」段岭が言った。

郎俊侠は何も言わずに酒を一口飲んだ。

段岭は呆けたように郎俊侠を見た。突然頭が重くなり、お腹が刺すように痛んだ。

「郎俊侠、お腹が痛い。」段岭が言った。

 

郎俊侠はじっと段岭を見つめ続けた。ようやく段岭は腹痛の理由がわかった。

二人はそのまま見つめあった。段岭の腹痛はどんどん強くなっていく。痛さに唇を咬み、眉をひそめた。全身が氷水に浸かったように感じ、意識があいまいになってきた。

彼は唇を引き上げたが、声が出なかった。ゆっくりと倒れ、卓上に伏せた。最後には目を閉じ、世界が一片の暗闇と化した。最後の一瞬、彼は郎俊侠の手が自分の手を覆ったのを見た。小指が無くなっていた。段岭が最後に考えたのは:「誰があなたを傷つけたの?」だった。

 

 

郎俊侠は段岭の手をそっと握ったままでいた。扉の外に立っていた蔡閏が窓越しに小声で言った。「ほらな。彼は私のことなんか尋ねもしなかった。きっと私は死んだとでも思ったのだろう。」

郎俊侠は暫く黙った後で、尋ねた。「彼に会っておきたくないか?」

蔡閏は入ってこようとしなかった。最後に郎俊侠は玉玦を外させると、卓上に置き、段岭を抱えて戸をくぐった。蔡閏は既に走廊から消えていた。

 

段岭は手を垂らしていた。沐浴したてで肌はきれいだった。髪は下ろされ、目は閉じたまま、熟睡しているようだ。郎俊侠は彼を担いで走廊をぬけ、裏庭に着くと、彼を車の上に置いた。

腰をかがめて、真剣な表情で衣服を整えてやると、外袍を脱がせて、単衣一枚にし、彼の額をゆっくりと撫でた。

郎俊侠は馬に鞭をあて、馬車を動かして裏庭から出ると、城門に向かって走らせた。

蔡閏は手に玉玦を握りしめ、二階の欄干の所から、黙ってその様子を見ていた。

桃の花が大地を覆い、夜になると飛び散った。月光の下、馬車は岷江の畔に停まった。

江水は東に向かって滔々と流れている。郎俊侠は車の中の段岭を抱き上げると、川沿いの崖に向かって歩いた。背後では桃の花びらが風に舞い、月光を受けて遠くにまで飛んで行った。

 

彼は段岭を抱いていた。かつて上梓から連れ出した時のように。死んだような世界から連れ出し、温かな春の中に連れて行った。そして今度は温かな春の夜から連れ出し、永遠の暗闇の中へと連れて行くのであった。

緩やかな笛の音が響く中、彼は段岭を抱いていた。戦場から十里の桃園へ。風砂の荒野から、緑豊かな江南に。

 浮生は夢の若し、歓を為すこと幾何ぞ?

万物は再び眠りについた。天地の様に、ずっとずっと。

段岭の遺体は崖から投げ落とされた。 岷江に落ちた時、バシャンと水音がたった。

そして暗闇の中、底の見えない水の流れに動かされ、渦の中に巻き込まれていった。

 

深夜、馬車が宮廷の外に停まった。侍衛が簾を開け、蔡閏が下りてきた。

「殿下。」

蔡閏は歩きながら玉玦を腰に付けた。侍衛が小声で告げた。「烏洛候穆は馬車で河辺に向かい、死体を一体川に投げ落としました。」

蔡閏は尋ねた。「途中でどこかに停まったか?」侍衛は首を振った。蔡閏は頷いた。

侍衛は前に出て言った。「陛下がお目ざめになり、あなた様をお呼びです。」

「烏洛候穆が戻ってきたら、寝に行っていいと伝えてくれ。今日はもう来なくていいと。」

蔡閏は急いで謁見に向かい、暗闇の中に消えて行った。

 

 

岷江支流の川岸は石がゴロゴロした河原になっている。

遠くから馬の蹄の音がしてくる。男装をした娘が袍襟をなびかせて、馬を走らせていた。

二匹の猟犬が走ってきて、石ころだらけの河原に打ち上げられた死体の匂いを嗅いだ。

娘は疑わしそうに草むらを見つめた。猟犬が、わんわんと吠えながら、段岭の顔の匂いを嗅いだ。

後ろから馬に乗った男性が追いついて声をかけた。「郡主!」

娘は、端平公主(漸パパの妹)と淮陰候の間に生まれた長女で、肩書は従平郡主、名は姚箏という。この日は城に来ていて、男性の装束に身を包み、岷江の河原で馬を走らせていた。山道に入ると、二匹の愛犬は山並みに沿って飛ぶ様に走って行き、影も残らぬほど速い。姚箏はようやく追いついたところで、石の上に少年の体を見つけ、言葉を失った。

 

黒い袍姿の男が腰帯をなびかせ、馬を走らせて追いついた。日の光がまぶしくて目を開けていられない様子の男は、外ならぬ武独である。

「郡主。」武独は全くどうしようもない、といった感じで話しかけた。「このあたりの山道は走りにくく、春先で蛇も出てきており危険です。帰りましょう。」

「あんたはいったい何様なの?私のお守りの番になったから仕方なく来たとでも?ついてきたくないなら、自分だけ帰ればいいわ!」

武独は河原に誰もいないのを確認した。陽光が燦燦と降り注ぎ、花々が盛りだ。馬を下りると辺りを見回し、蛇蝎の類がいないのを見て取ると、頷いて、何も言わずに川辺に立った。

 

姚箏はフンと言い、武独は何とか怒らないように努力して、眉をひそめ、辺りを見回した。

草むらで犬たちが吼えているのを見ると、そちらに向かって歩いて行く。姚箏はひらりと馬を下りて、川辺に立った。輝くような表情だ。

「郡主。」武独は再び振り返って言った。「川に近づきすぎてはいけません。この辺りは流れが乱れているところが多いので。」

姚箏は武独の言うことなど気にしない。武独は草むらの中に段岭の傷だらけの体が倒れているのを発見した。姚箏は暫く立っていたが、再び近づいて行った。「あら、こんなところに死体があったの?」

武独は片膝をついて段岭の息を確かめた。既に呼吸はないようだ。

「体に致命傷はないようですね。何処の家の子供でしょうか。」

「死んでいるんでしょう。」姚箏が言った。

武独は段岭の首元を押さえて脈を確かめた。姚箏が言った。「行くわよ。」

「待ってください。」武独が言った。

姚箏は嘲笑うように言った。「戻らなければ、あんたのご主人にまた叱られるわよ。」

武独は振り返って姚箏に目をやり、何か言いたげだったが、こらえた。ちょうどその時、

段岭の頸脈が少しだけ動いた。

武独は眉をしかめ、呟いた。「毒殺されたのか?」

姚箏が突然言った。「ねえ、武独、あんたは人を毒殺できるって聞いたわ。だったら、逆に死人を救うこともできるんじゃないの。ちょっと試してみたら?もしも死人を生き返らせることができたら、あんたが欲しい物を、父の前でせがんであげてもいいわ。」

「私は正々堂々と事を行いますから。欲しい物など何もないし、淮陰候の前では事実だけを言ってください。」武独は言った。

武独は段岭の傍に片膝をつき、不可解な表情で、薬袋から小瓶を出すと、丸薬を一つ取り出した。

「本当に生き返らせるつもり?」姚箏は武独を理屈に合わない奴だと思った。

武独は何も答えず、丸薬を砕いて、段岭の口に入れ、彼の喉を押してから立ち上がった。

「ですが、もし彼が本当に生き返ったら、それは賭けに勝ったことになりますかね?」

姚箏は片眉を上げて武独を見た。それから、石河原を歩いて、ひらりと馬に乗り、馬の上から江水を眺め、しばらくしてから再び言った。「本郡主は信用を大事にするのよ。もちろんいいわ。」

武独は顔色を一片させた。姚箏の言葉には皮肉が込められている。しばらくするとこう言った。「ご覧ください。彼は呼吸をし始めましたよ。」

「あらそう。」姚箏は武独を砂袋のようだと思った。叩いてもやり返さず、罵っても言い返さない。ここまでの道のりでも口を聞こうともしなかった。まったくおもしろくない。

「私は烏洛候と遊んで来る。あんたはもうついて来ないでちょうだいね。」

「待ってください!」武独は追いかけようとしたが、姚箏は一陣の風の様に山道を馬で走り去って行った。二匹の犬は武独に向かって吼えた。その声の中にさえ、役立たずに対する軽蔑の意味が込められているようだ。それから犬たちも姚箏を追いかけて去って行った。

 

 

早春の西川皇宮は花でいっぱいだった。風が吹く中、蔡閏は正殿の外に座って待っていた。

李衍秋が顔を洗い終えるのを、蔡閏は外で待っていたのだ。

「太子は来たか。」李衍秋が尋ねた。

「陛下にお答えします。太子殿下は一晩中外でお待ちになっておられます。」宮女が答えた。

李衍秋が言った。「入らせなさい。」

蔡閏は入内し、李衍秋に挨拶してから、側に近づいた。

「夕べ参りました時、叔父上はもうお休みになっておられました。ここのところ、あまりよく眠れないのですか?」

「夢を見たのだ。それでお前のことを思った。不安になってお前がどうしているかと聞いたのだ。」

殿内では家臣たちが忙しく動いていた。李衍秋が手を机に乗せると、宮女や太監が戒指をつけた。蔡閏は木盒から玉玦を取り出すと、片膝をついて慎重に李衍秋の腰帯につけた。

「お前が戻ってきた日の夢を見たのだ。」李衍秋は優しい笑顔を見せた。「だがお前の姿がおぼろげになって、だんだん見えなくなっていったので、私は焦ってしまったのだよ。」

李衍秋は悲し気に微笑んだが、蔡閏は笑顔を見せず、眼差しを曇らせた。

宮女が薬を掲げた。李衍秋はちらっと見ただけで受け取り飲んだ。

蔡閏が言った。「夕べは私もよく眠れず、父の夢を見ました。」

「お前に会いに行ったのかもな。」李衍秋はため息をついた。「このところ、兄上は私の夢には入ってこなかった。悪いと思ったのかもな。」

蔡閏が言った。「そんな風に思われてはなりません。叔父上は考え過ぎです。」

「まあいい。お前の従姉は会いに来ていないのか?」李衍秋は笑いながら尋ねた。

蔡閏は首を振った。李衍秋は侍衛に言いつけた。「人をやって郡主を呼んできなさい。昼食を共に取ることにする。」

 

昼になると姚箏が男装姿のまま皇宮に戻ってきた。靴には泥がついている。李衍秋と蔡閏に挨拶したが、蔡閏は夕べよく眠っていなかったため、うとうとしていた。

「ねえ、栄。烏洛候穆は?」

蔡閏が答えた。「夕べ私がよく眠れなかったので、来るなり出て行きました。彼は付き添うと言ったのですが、私が待たなくていいと言ったのです。でも来るように伝えました。午後になったら、どこに遊びに行かれるのですか?」

姚箏が答えた。「よく考えていないわ。その時になったらまた話せばいい。聞鐘山に行きたいと思ったのだけど、あなたはどうする?」

「私は行きません。折子を読まなくては。」蔡閏が言った。

「えー。」姚箏は苦笑いした。

李衍秋が姚箏に尋ねた。「お前の父上はいつお前を迎えに来させるのだ?」

「もしよかったらここに住んで帰らなくてもいいと思っていますけど。」

「だったらちょうどいいから縁談を持って来よう。」李衍秋が言った。

姚箏は顔色を一変させた。考えた末、気まずそうに微笑んで、「へへへ、叔父上、それは……。」

李衍秋が言った。「お前は家で結婚のことばかり言われるのがいやで、ここに来たのに、やっぱり顔も知らない相手と嫁がされそうになる。いっそ自分で探して来たらどうだ?」

 

姚箏は敢えて何も言わず、下を向いて、好きな物だけ選んで食べ始めた。外から先触れが、烏洛候穆が来たと言った。蔡閏は外で待つように言ったが、李漸鴻は料理を見てから、

偏殿で食べるように言った。

また誰かが「武独が郡主にお会いしたいそうです。」と言った。

李衍秋が言った。「帰らせなさい。そんなにしょっちゅう来てどうするつもりだ?」

そこで侍衛は武独に伝えに入った。

 

その時武独は腰牌を持たずに入宮したため、門の外で待たされていた。馬を一頭牽いており、その背にはある物が載っていた。ある物には布をかけて隠してある。半時ほど待たされてから、侍衛が来て、「お帰り下さい。郡主はお会いになりません。」と伝えた。武独は馬を牽き、街道を通って、自分の住居に戻った。——丞相府の偏院に。

 

相府には大門が四つ、四十八院、百余りの部屋があり、たくさんの門客を養っている。

その一番端の一角に、偏院が一つあった。三部屋、一院、馬小屋と薪小屋が一つずつだ。

李漸鴻が崩御してから、西川は人事を再編成した。武独は牧曠達の招きで、ここに住むことになった。

人は嗜虐的に彼を『三君に仕える男』と呼んだ。最初は趙奎、次にごく短い間、李漸鴻の麾下に、最後には牧曠達府にたどりついて、食客となった。ここしばらく、四大刺客は名を上げていた。烏洛候穆は太子を守って連れ帰り大功を上げた。鄭彦は淮陰候の元に隠居して対外的には世事を問わないと称していたが、実際は淮陰候姚複の腹心だった。昌流君はずっと牧曠達に重用されている。唯一人武独だけが、時の運に恵まれず、毎回任務を失敗させて終わっていた。仕えた主人二人が死んだ後では、捨て犬の様に、牧家に拾われていた。

門客は牧曠達に提言していた。武独は主君に不運をもたらす。そんな者はおかないほうがいいのではないかと。更に、李漸鴻は武独が暗殺したと言う者までいた。そういった話を聞くと牧曠達は大笑いした。そして武独の忠義を認めて、三千もいる門客の中の一席を与えたのだった。

 

武独は趙奎のことをよく知っていた。そういった者は雇い入れるか殺すかだ。それに除名されかけているとはいえ、曲がりなりにも四大刺客だ。きっと何かの役にはたつだろう。

牧曠達は表面的には武独に上士の礼を以て接しているが、実際はほとんど仕事を持って来ることもなく、ほとんどの時はただの暇人であった。昌流君からは見下され、武独は相府に住みながらも誰にも相手にされなかった。

昌流君は牧曠達に提言した。武独は潜伏していて、いつか、趙奎の仇を討つかもしれないと。それに対し牧曠達は答えた。「あり得ない。武独は最初から最後までお前の敵ではない。

その理由は奴は自分が何を求めているのかわかっていないからだ。」

昌流君は少し考えて納得した。武独には譲れない物がない。武功にしてもそうだ。それで誰にも相手にされないのだ。最初の頃、偏院には何人か僕役を置いていた。だが、牧家が武独に重きを置いていないのがわかると、日々の仕事をさぼり始めた。最後には武独が怒りを爆発させ、僕役たちを追い払い一人で住むことにしたのだった。

 

武独は家に戻ると、布を取り去り、段岭を降ろした。強い酒を段岭の顔にかけると、段岭は激しく喘ぎ始めたが、目覚めはしなかった。武独が色々調べていると、外に誰かが来て、丞相がお呼びだと伝えてきた。武独は仕方なく家を出た。

 

 

―――

第43章 覚醒:

 

牧曠達は茶をたてて飲んでいた。昌流君は傍らで昼食をとっており、小机の上に覆面が置いてあった。顔の入れ墨を露わにして、食べながら武独を見た。

「お前には、姚箏の遊びにつき合うようにと言ったのに、一体なぜ見失って自分だけ戻って来たのだ?」牧曠達は冗談めかした口調で尋ねた。

武独が答えた。「あの方は私をバカにしているのです。」

牧曠達は茶を一杯卓の上に差し出してやった。武独は少し心配そうな顔をして前に出て受け取り、一口飲んだ。

「面子というものは、自分で自分に与えるものだ。」牧曠達が言った。

「はい。」武独は自分が仏頂面をしていることはわかっていたが、何を言うべきかわからなかった。

牧曠達は言った。「女人をなだめる方法がわからないなら、学ぶのだ。その偏屈な性格を改めなくては。殺しに行けと言っても行かない。郡主をなだめに行けと言っても行かない。だったら言いなさい。何ならしたいと思うのだ?」

「必ず行きます。」武独は怒りを飲み込んで答えた。

「この処方を見なさい。」牧曠達は武独に一枚の処方箋を渡した。「薬を調合して効果を見て、一月以内に報告するように。」

武独はすぐに頷いた。牧曠達は言った。「効き目が定かでないなら、誰かで試すといい。」

武独が立ちあがり、退席を告げると、昌流君が思い出させた。「茶を。」

武独は仕方なく戻ると、丞相に茶を賞して飲み終えた。そして牧曠達に頭を下げると、昌流君に頷いて、部屋に戻って行った。

 

 

段岭は庭に横たわったままだった。少し前から目覚めていたが、口を開くのが怖かった。何か言ってそれが元で殺されることを恐れたのだ。門がバタンと大きな音を立てた。誰か帰ってきたようだ。

武独は部屋に戻ると、薬机を蹴り倒した。屈辱甚だしい。それから門柵の上に座って、万里に広がる晴天を眺めた。しばらくすると、段岭の所に来て、髪をつかみ、彼を置きあがらせた。段岭は目を開け、傍らに連れていかれると、恐怖に満ちた目で武独を見た。

彼はほんのわずかな時間で、彼が武独だということがわかった。その理由は彼の首にある入れ墨だ。一瞬で過去のできごとが心によみがえってきた。大雪の上京、金のサソリ玉……段岭は思った。今度こそは逃げられないだろう。

「名前は何だ?」武独は冷ややかに問いかけた。

段岭は口を開いたが、言葉が出て来なかった。

武独は眉をひそめた。険悪な表情で暫く見て、何かを思いついたように尋ねた。

「どこの人間だ?」

段岭は答えられなかった。だが、今の二言で気づいた。:今のところ、きっと大丈夫だ。

武独は自分が誰かわからないのだ。

彼が初めて上京の薬屋で武独に会った時は、暗かったし、雪が降っていた。自分はまだ8歳で、店の台の上から目を出して、武独を見ていたのだ。この様子だと、それ以来、武独は自分を見たことがないようだ。

「唖者か?」武独が尋ねた。

段岭は壁の角に隠れた。武独の疑心を引き起こさないため、とても怖がっている風を装って、彼と目を合わせないようにした。

武独は段岭を推し量るように見ていたが、全くわからず、「何か言えよ。」と言った。

段岭は首を振った。口を開けて何か言おうとして、本当に声が出ないことに気づいた。言葉は唇まで来ているのだが、声帯がおかしい。小さく、「ああ」としか言えない。

武独はそれを聞いて、この少年は唖者なのだと思った。

 

武独は眉をしかめた。何かがおかしい気がするが、何なのかわからず、しばらくすると部屋に入って行った。武独が行ってしまうと、段岭は警戒しながら彼の挙動を観察し始めた。そして、武独が明らかに自分の正体に興味ない様子だとわかると、少しほっとして考え始めた。

ここはどこだろう?段岭は自分の置かれた境遇を位置づけようとした。だが、考え始めると、頭が割れるように痛みだした。まず西川に来て、郎俊侠に会った。二人は酒を飲み、郎俊侠は料理に毒を盛った……。

段岭は自分の衣服を見た。半分湿っている。手指は水に浸かってふやけている。

郎俊侠は自分を殺そうとしたのか?そうだ。少なくとも最後の一刻は。だが、なぜ自分は死んでいないのか?それにここにきたのは、自分を救ってくれたのは武独なのか?

 

武独は部屋で昼寝をしたが、すぐに起きて来て、庭の様子を見に来た。段岭はさっきの場所にそのままいて、膝を抱えて丸くなり、うとうとしかけている。まるで犬のようだ。

「食え。」武独は焼餅を二枚持って来ると、地面に落とした。それから碗に水を入れて段岭の前に置いた。段岭は武独に目をやったが、彼がくれた物に触れる勇気はない。

武独は部屋に戻った。段岭が庭から覗き見ると、武独は書を片手に、処方箋を研究している。

自分に構う暇はなさそうだ。空腹が理性を打ち負かし、段岭は焼餅を手にとると食べ始めた。

喉が焼けるように痛い。段岭は小声で話そうとしてみたが、言葉を発することができない。

毒で声を奪われたのだ。

 

郎俊侠はなぜ自分を殺そうとしたのだろう?段岭は身の危険を感じた。もし郎俊侠が自分が死んでいないことに気づいたら、きっと何とかして殺そうとするはずだ。命を守るためには今すぐにでも西川を離れなければ。

 

だが、父さんはどこにいるのだろう?きっと西川にはいない。居場所を聞き出すこともできないだろう。父さんの性格なら、きっと剣を一本背負って、一人万里奔霄に騎って、皇城を離れ、地の果てまでも自分の居場所を探しに行くはずだ。いつになったら再会できることか。

段岭の目の前には二つの道があった。一つは武独が自分の正体に気づいていないのに乗じて、すぐにでも逃げ出し、李漸鴻を探しに行くこと。もう一つは暫くここにいること。だが、うんと気をつけなくては。おそらく、牧家も、武独も自分の正体を知らない。郎俊侠だけが自分のことを知っている。だが、以前郎俊侠が自分を誰とも合わせないようにしていたことや、直接手を下したことを考えれば、郎俊侠はきっと自分が西川にいることを誰にも知られたくないはずだ。

二つ目の方が少し安全だ。少なくとも武独がここにいれば、郎俊侠に発見されることはない。ここで父さんが京城に戻って来る日を待つのだ。

段岭はしばらく様子を見ることに決めた。

 

 

武独は暫く処方箋と格闘して、頭が痛くなったようだ。庭にしばらく突っ立っていたが、縄に輪を作り、段岭の首にかけてきつく締めた。

段岭はすぐに顔に血が上った。武独が首吊りして殺そうとしていると思ったからだ。両手で輪を引っ張り緩めたが武独は何も言わず、縄を薪小屋の門に結び付け、まるで犬の様に段岭をつなぐと、庭を出て行った。

縄の届く範囲には、厠も、薪小屋もある。どうやら段岭は庭で飼われることになったようだ。

夜になると、武独は再びうんざりした様子で帰ってきた。段岭に食べ物を与え、段岭は食べた。室内に灯りがともり、武独の影が窓に映った。深夜になると武独は様子を見に出てきた。

庭に少年の姿はなかった。縄の端は薪小屋の窓に括り付けてあったが、もう一方は薪小屋の中に入っている。段岭はどうやら寝る場所を見つけたようだ。武独は突然おかしくなって、門を閉め、眠りについた。

 

段岭は薪小屋に横たわり、何とかして首の縄をほどこうとした。だが、それはゴム(牛筋かも)が入っているようで、しっかりと絡まっていて、どうやってもほどくことができなかった。仕方なくつけたまま眠ったが、不快なことこの上なかった。

頭の中では郎俊侠が出した料理のことを何度も考えていた。事実がはっきりしてからは、怒りは少しも感じない。ただとてもつらかった。つらいのは父の言っていたことが正しかったからなのか、郎俊侠が信頼を傷つけたからなのか、どちらなのかはわからない。

その夜、彼は冷たい薪小屋の中に横たわって夢を見た。

 

夢の中で、段岭はきらびやかな皇宮で目を覚まし、父を呼んだ。すると侍衛が急いでやってきて、「太子殿下、陛下は早朝こちらに呼びに来られましたよ。」と言った。

段岭は皇宮の寝台に横たわっていた。しばらくすると、父が朝廷用の服を着こなして、笑いながら入って来た。そして寝台に座って、「起きたか。」と言った。

段岭がうーんと言って、もう少し寝ていたいなあと思っていると、父は服を脱いで、自分の二度寝につきあってくれた。そして、帳の外に命じた。太子のために桃の花を折ってきて、花瓶に入れてやりなさいと。

段岭は子供の頃に戻ったように、父の肩を枕にして、父の腰佩である玉玦を弄ぶ。

 

日差しが帳の間をぬけて入って来て、段岭の顔を照らした。彼は目を開けた。目覚めて、薪小屋の割れた隙間から塵を照らす光が入って来るのが見えた。冷たい床、薪や炭の匂いが漂っている。夜が明け、丞相府の鳥がうるさいぐらいに鳴いているが、武独の部屋は閉まったままだった。首に掛かっていた縄のせいで、一夜明けると、首に摩擦痕ができていた。

彼は井戸水を出して、顔を洗った。首や、酢えたような体の匂いも洗い流した。

 

武独は外から聞こえてくる音を聞いて、疑わし気に出てきた。真っ白な単衣を身にまとい、背の高くがっちりとした体で戸口に立って外の様子を、段岭が顔を洗い終え、庭の花に水をやっている様子を見ていた。あまり遠いところは、縄の制限範囲を超えていた。できる範囲だけにしておくしかない。最後に彼は桶に水を汲んで、庭の中央に置くと、前に押し出した。

自分に汲んでくれたのだと武独にはわかった。全て終えると、段岭は花壇の横に座り、壁にもたれて、青く晴れた空を見上げた。

武独は起きると、手早く顔を洗い、服を着替えて、家を出て行った。

段岭は庭にしばらく座っていた。今まで通り、問題の解決法を考える。突然起きた変化にも、彼の心はだんだんと落ち着きを取り戻してきた。郎俊侠の行いから推察すると、牧曠達は自分の存在を気に病んでいるようだ。まずは命を大事にしよう。先はまだ長い。

 

この数日、武独は連日出かけては戻って来る。朝出て行っては、昼、怒り狂って帰って来る。午後には薬を切ったり、煎じたり。そんな風に何日かたった後、武独は碗を持ってやってくると、段岭に、「口を開けろ。」と言った。段岭が口を開けると、武独は薬を口に注ぎ込んだ。薬が喉を通ると、火に焼かれるように苦しくなり、段岭は壁の傍まで這って行って吐いた。

だが武独は鼻で笑うようにして段岭の反応を観察していた。

段岭は五臓六腑がねじられたように痛み、しばらくのたうち回った後、花壇に吐いた。武独は暫く見ていて、段岭の首にまだ縄がかかっていて、傷口が赤く剥けているのに気づくと、部屋に入って剣を持って来た。そして段岭の首元に剣を当てた。段岭は本能的に身を引いたが、剣はあっという間に段岭の縄を断ち切っていた。

段岭はしばらく吐いた後、体中が疲れて地面に横たわった。まるで死んだ犬のようだ。

武独は椅子を持ってきて、近くに座ると冷ややかに尋ねた。「誰に毒を盛られたんだ?」

段岭の瞳孔が開いていくのを武独はしばらく観察し、この度は「字は書けるか?」と尋ねた。

段岭が手を動かしたのを見た武独は、指の間に炭を挟んだ。だが、段岭は手が震えて握ることができず、炭は落ちてしまった。武独の声が遠くなったり近くなったりしているように感じる。「その様子から見て、寂滅散を飲まされたようだ。簡単に手に入る代物ではない。誰であれお前の家に深い恨みを持っているようだな。」

段岭の五感六識はゆっくりと回復してきたようだ。彼は口を開けて、無意識に「あああ」と声を出していた。武独はその様子をまたしばらく観察してから、「毒はまだ出きっていないが、まずはこんなところだろう。」と言った。

 

ちょうどその時、だれかが庭に入って来た。昌流君だ。

「これはどういうことだ?」昌流君が疑わしそうに尋ねた。

「俺の実験台だ。試薬用のな。」武独が言った。

昌流君はそれ以上聞かずに、「牧相がお呼びだ。」と言った。

武独は立ち上がり、段岭を庭に放っておき、出て行った。

段岭はお腹が絞られるように痛み、吐いたり下したりした後、気分がだいぶ良くなり、夕方武独が戻ってきた時には、自分が吐いた場所を掃除して、花壇も掘り返してあった。

武独は毒龍草を持ち帰り、庭の泥の中に植えた。段岭は武独の行動を見ても何も尋ねなかったが、武独が移植した薬草に水をやり始めると、手を振って、今は水をやってはいけないと伝えた。武独は疑わしそうな顔をして立ちあがり、段岭は、自分にやらせてほしいと、仕草で伝えた。

武独は段岭を足蹴にして、碗に半分の水を花壇にかけた。結果、二日後、毒龍草の葉は黄色く変色して枯れてしまった。武独はその株を抜いて、根の部分が腐ったことに気づき、再び牧曠達に頼んで誰かにまた薬草を手に入れさせなくてはならなかった。今回は戻ってから、毒龍草を段岭に渡した。段岭は手で土を少し取り、水飲み用の碗に毒龍草と一緒に入れ、指で葉に少しだけ水を弾いてかけると、影の涼しい場所に置いた。

「お前は花匠なのか?」武独は尋ねた。段岭は武独を見た。

武独は考えていた。岷江支流の岸辺に上がったのなら、西川上流から流れてきたのかもしれない。父親は花匠か稲作農家か。それならまあいい。厄介ごとが少なくて済む。

 

 

―――

第44章 衝撃的な真実:

 

武独は新しい碗を段岭に渡した。一日二食を、碗を持って庭の門の中に座って食べさせた。段岭は自分が食べた碗と箸は自分で洗った。武独は犬を飼っているような気持ちで楽しかった。ある日薪小屋に入ってみてみると、中がすっかり片付けられていて、碗と箸がそこにおいてあるのに気づいた。

それでも段岭はいつも食べたりなかった。十五歳の少年だ。成長期でもある。小さな碗に半分のご飯と青菜が少しでは、だいたいいつもお腹がすいている。だが物を盗んだりはしなかった。武独は気分が悪く、食欲がなかった時に、余ったおかずとご飯を犬の餌やり盆にのせて碗と箸をおいて段岭に渡した。次に見た時には段岭は既に食べ終えていた。

「よく食うな。」

武独緒はふと思いついて、一度段岭がどのくらい食べられるのか見てみたいと考えた。そこで多めに渡すと、段岭は全て食べた。更に足すと、更に食べた。次に焼餅を何枚か出すと、それも食べた。最後に武独は万頭を二個渡した。段岭はもう食べられず、中々飲み下せなかった。それを見て武独は面白がって笑った。しばらくすると段岭は万頭を薪小屋に持ち帰ってしまった。お腹がすいた時に食べるためだ。武独が笑い出すと、段岭も自嘲気味に笑った。

 

武独は笑い止めた。彼は突然この少年の身の上に、不思議な胸の痛みを感じた。口のきけないこの少年はまるで自分を見ているようだ。生きてはいるが、野良犬の様な生きざまだ。

(お前が犬扱いしているんじゃないか。)

 

武独は自分が着なくなった袍子を彼に向かって放った。段岭はそれを拾ったが、武独が洗っておけと言ったのかと思い、翌日洗って干したものをきれいにたたんで入り口に置いておいた。武独はそれを見ると戸惑ったように、「それはお前にやったんだ。」と言った。

段岭は素直にうなずくと、袍子をもらっておいた。

犬を飼うのはこんな気持ちなのだろうか。ただしこの犬は自分にくっついてきたりはしないが。だが、毎日家に帰り、段岭が花壇の世話にいそしんでいるのを見ると、不思議な気持ちになった。外では誰もが自分を冷たく嘲うが、家に帰るとなんだか少し心が安らぐのだ。

時々、外で用事をしていて、食事の時間を過ぎてしまうと、武独は考えるようになった。

家にいるあの犬っころに食事をさせていない。きっとお腹を空かせているだろう。

 

「お前はいくつだ?」ある日武独は段岭に尋ねた。

段岭は花壇の前で、武独が植えた珍しい薬草の世話をしていたが、振り返って、左手の人差し指と右手の五本指を開いて見せ、十五歳だと伝えた。彼は武独が遅かれ早かれ、自分の生い立ちに興味を持つだろうと思っていたので、仮の話を準備しておいた。何か疑問に思われては危険だからだ。武独は段岭を探るように見た。心の中には、同病相憐れむ的な気持ちが生まれ始めていた。そこで机を叩いて言った。「この薬を飲め。」

段岭は鏝を置いて、入り口まで来たが、入ろうとはしなかった。武独は一人、卓についており、一縷の日の光が彼の顔を照らしていた。「入ってこい。」

段岭が入って行って薬を飲むと、突然喉が痙攣をおこした。まるで針山でこすられているかのように、耐えられない痒みに、バタバタと駆け出して行くと、喉を押さえて叫び出した。

「叫べ。叫んでみろ。そうすれば喉がだんだんと開いてくるはずだ。」武独は冷ややかにそう言った。段岭はせき込み、ガラガラ声で叫び、地面を転げまわった。

「その調子だ」武独は苦笑しつつ、黙って薬経をめくり続けた。

 

日が暮れるころには、段岭は少し声が出るようになっていた。「あああ」と何度か叫んでから、ご飯を食べていると、武独が身に来て、「話してみろ。」と言った。

段岭が、あーと言うと、武独は、「我(ウォオ)と言え。」と言った。

「我......ウォオ。」段岭の喉は回復し始めていた。

「食事だ。」

段岭が下を向いてご飯を食べ始めると、武独はイライラと段岭を蹴った。「『食事』と言えと言ったんだ。」

段岭はご飯を口から噴き出してしまった。だが、何回か声を出してから、頭を上げて武独に向かって言った。「し......食事。」

武独は言った。「言ってみろ。『長天秤、広長椅子、広長椅子上の長天秤。』」

段岭:「……。」

「な……長天秤……。」段岭は声をひっくり返しながら何とか言ってみた。武独は段岭を指さして大笑いし、笑いすぎて涙ぐんだ。段岭の目にも涙があふれてきた。武独に頭を下げ、自分を治療してくれたことにへの感謝を示すために、叩頭した方がいいだろうか、と考えていたが、武独はもう段岭に構わず、さっさと部屋に入ってしまった。

 

「名前は何だ?家はどこだ?」今日の武独は機嫌がよく、部屋の中で食事をしながら、訪ねて来た。

『私は段岭。父の名は段晟……。』心の中にこの二文が浮かんだ。

『私は李若。父はこの国の皇帝李漸鴻。』次にこの二文が浮かんだ。

だが、段岭は言った。「王……山(ワンシャン)。」

段岭には李若と名乗ることも、段岭と名乗ることもできなかった。万が一、牧家が『段岭』『李若』という名前で何か気づいたら、危険な状況に自らを陥れることになるからだ。

「王小山か。何処の生まれだ?」

「潯北。」段岭は嗄れ声で答えた。

「潯北人だって?潯北人がここまで何をしに来た?」武独は不思議そうに尋ねた。

段岭:「父……父が薬屋で、盗みにあった。」

その話は武独にある種の憶測を促した。「どこで盗まれたんだ?」

段岭:「潼関。」

「危うかったな。」武独は呟いた。

 

段岭はひと月かけて、とても詳細な仮の身分を考え出していた。故郷を潯北としたのは潯陽の言葉と発音がほとんど同じだからだ。且つ自分が逃げた時、元人の攻撃にあっており、南に逃げた時に通った場所の一つだ。調べても何も出てこない。母親は戦乱で死に、父親とは潯北で生き別れた。西涼に商売に行き、薬材を売買している。商売のために西川に向かったが、天下が乱れて、父は賊に巻き上げられ、自分は連れ去られ、毒茶を飲まされて、岷江に捨てられ、こんな遠くに流されたが、最後には辛くも西川城外に打ち上げられたのだ。

これなら、全て辻褄が合う。武独は疑わなかった。ただ武独が納得いかなかったのは、段岭が飲まされた毒薬だ。

 

「お前なんかに、寂滅散を使うとはいったいどういう匪賊なんだ?」

段岭は答えた。「わ……かりません。ち……父は西涼で……秘薬を買いました。」

武独は疑いを抱いたままだったが、それ以上尋ねなかった。毒薬は多種多彩だ。彼をもってしても天下の毒全てを知っているわけではない。寂滅散はとても高価で、煎じかたも厄介、それにとても貴重なものだ。

武独はまたいくつか尋ね、段岭は想像力と持てる知識を駆使して、西涼の市場の話をでっち上げた。自分と父は市場で珍しい毒が入った箱を買い、それを持っていた結果、潼関外の市で山賊に襲われ、最後には自分が実験台になったのだと。その話を武独は信じた。何となく変だとは思いながらも受け付けられる範囲内だったようだ。

「西域の箱っていうのは、透かし彫りか?」武独が尋ねた。

段岭は戸の外から武独に、このくらいの大きさだったという仕草をした。

武独はそれ以上聞くのをやめ、「服を洗えよ。」と言った。

 

月が真上にある夏の夜、段岭は庭に座って服を洗っていた。西川は暑くなってきて、武独は肌脱ぎして、薄い膝丈の絹袴だけを身につけ、机に両足を投げ出している。その体は肉が削ぎ落されて逞しい。「お前のそのお上品な体つきを見るに、きっと両親に可愛がられてきたんだろうな。いつかお前のことを訪ねてきたら、一、二十両くらい吹っ掛けてもいけそうだ。」

段岭は服を洗いながら、何も言わなかったが、顔には涙の痕があった。

 

深夜に訪問客があった。僕役が外から、「誰かお見えです。」と言った。

「誰だって?」武独が尋ねた。

「『鶴』だと言っています。」

「鶴先生か、入っていただけ。」

やって来たのは老人だった。武独は急いで袍子を着て、部屋にあふれた物を片付けた。段岭は手を拭くと、水をやかんに汲んで炉にかけ、茶を淹れた。

「師叔。」武独はさっと頭を下げた。白髭の老人は段岭に目をやった。

「山で拾ってきたのです。」武独は急いで説明した。「師叔、どうぞおかけ下さい。」

「この前お前が欲しがっていた薬材を持って来た。品書きは一番上に載っている。」鶴老人は品書きと包みを差し出した。武独は急いで礼を言った。「師叔のお手を煩わし、御足労までいただき申し訳ありません。」

「かまわんよ。」鶴老人が言った。「ちょうど山を下りてきたので、ちょっと寄って見ただけだ。最近作った薬をお前に見てもらいたかったしな。」

段岭は湯を沸かし終えたので、また外に出て洗濯を続けた。

「この毒は色も味も無くて、服用時には見抜けない。効果を出すには誘発剤が必要で、それを使った時、毒性を発揮して死に至る。

武独はその薬の包みを開けようとせず、言葉も発しなかった。

 

「武独や。」鶴老人が話を続けた。この世には、やらねばならないことと言うのがあるのだ。」責めるようでもあり、催促するようでもある言い方だ。

「私の心はまだその壁を乗り越えられないのです。」武独は落ち着いた様子で跪き、その薬を推し返した。「師父が言っておりました。毒を使うのは殺人のためではないと。」

鶴老人は卓袱台の前に胡坐をかいて座り、武独と向き合って茶を一口飲むと言った。

「あの病気持ちはどうせ長く生きられん。何を苦にすることがある?お前は間違った側に身を投じた。最初から太子につくべきだったのだ。」

武独の単衣を干していた段岭は、その言葉を聞いて、はっとして動きを止めた。

大きく目を見開いた彼の顔を、空に浮かんだ満月が銀の光で照らした。

 

武独は言った。「太子の傍には烏洛候穆がいます。私など必要ない。結局、あなたのおっしゃったことも、先帝がおっしゃったことも正しい。私は女々しくてことを成し遂げられない。

私は趙将軍の仇も打たず、先帝の仇も打っていない。」

鶴老人が言った。「お前は趙奎の元に三年、李漸鴻の元には十数日いたに過ぎない。どちらに重きをおくべきかわかっているはずだ。李漸鴻は死んだが、お前を恨んではいまい。」

その言葉を聞いて、段岭は体が震え、呼吸が止まった。

武独は何も言わずに、一口茶を飲んだ。

 

「先帝はいつも、私は何を求めているのかわかっていないのだと言っておられました。その通りです。私は浮草の様に、行き先を知らず、風に吹かれた方に行くだけ。以前は趙将軍に、趙将軍が死ねば、李漸鴻に、李漸鴻が死んだあとは、牧相についている……。」

段岭は、その「李漸鴻が死んだあと」という言葉を聞いた瞬間、全ての音が遠くに離れていったように、もう耳に何の言葉も聞こえなくなった。体全体が痺れたように、血の中に猛毒を注ぎ込まれたように、彼の全身が流されて、全ての知覚が遠くに離れて行ったようだった。

「まずこの薬を試してみます。」武独は薬包を開けた。中には粉薬一包と、小さな丸薬がいくつか入っていた。

鶴老人は説明した。「粉薬が毒で、丸薬が誘発剤だ。先に粉薬を飲ませて、後から丸薬を飲ませる。一時辰もしないうちに絶命する。」

鶴老人は立ち上がった。武独は木履を引っ掛けて大門の外まで鶴老人を送り出した。

 

(ああ、もうかわいそうで次の章は飛ばしたい。だけど、このパパコンを乗り越えないと、

大人の関係は作れないのだ。がんばれ。46章からは心が苦しいみたいな話はなくなるから)

 

 

 

第45章 死を求める:

 

武独が部屋に戻ってきた時、段岭は部屋の卓袱台の前に座り込んで、鶴老人の粉薬を一気に飲み込み、更に丸薬を口に入れ、卓に載っていた冷めた茶で飲み込もうとしているところだった。

「おい!」武独は大声を上げ、慌てて入って来た。段岭は毒薬をすっかり飲み終えたが、武独は急いで段岭の穴道を突き、片膝をついて、段岭の顔を下に向け、膝を胃に当て、背中を思い切り押さえつけた。段岭は、オエッっと声を上げて、飲み込んだばかりの薬を、夕飯と一緒に全て吐き出した。武独は何度も揺さぶり、段岭はその都度吐き出した。武独は段岭に平手打ちをくらわすと、怒鳴りつけた。「何するんだ!」

武独は段岭を放り出すと、胃を洗浄するための薬を探しに行ったが、段岭は吐瀉物の中から丸薬と思しきものを拾って口に持って行こうとした。

薬棚を探し回していた武独は、段岭がしていることに気づくと、一陣の風の様に飛んできて、段岭の襟を引っ張り上げると、十数回続けて平手打ちした。段岭は目から星が出て、気を失った。

段岭は卓袱台の横に丸くなっている。武独は胃の洗浄薬を一杯の茶に混ぜると、段岭を仰向けにして、芦管を使って鼻の穴から無理やり流し込んだ。

すぐに、段岭は胃がひっくり返ったようになり、再び勢いよく吐き出した。

武独は段岭を庭に引っ張り出し、段岭は庭の隅に転がって痙攣した。武独はあまりにも怒りすぎて、熱湯の入ったやかんを段岭に投げつけた。熱湯が体中にかかり、段岭は首や背を火傷したが、動きもせずに、大きく目を見開いて、扉の中に立っている武独を見つめた。

その目は絶望で満たされている。武独には訳が分からない。近づいて段岭を足蹴にし、「何を考えているんだ?」と言った。

武独は段岭の襟をつかんで少し引っ張り上げ、顔を叩く仕草をしたが、段岭は全く動かず、まっすぐ見つめるだけだ。武独はイライラとまた平手打ちにし、パンッという音が響いたが、段岭には何の反応もなかった。

 

彼の大きく見開いた目から、ゆっくりと涙が零れ落ちた。澄んだ瞳には武独の姿が映っている。武独は途方に暮れた。もう段岭を放し、構わないことにして、部屋に入って片づけをし、段岭の酸っぱ臭い吐しゃ物を掃除した。まだ消化していない肉がそのままの形で残っている。お腹がすいて夕飯をがつがつと急いで飲み込んだのだろう。

武独はまた段岭を見たが、段岭は庭の隅に横たわったまま、動きもしない。まるで死んだようだ。武独は眉をひそめ、掃除用具を放り投げると、横になった。横を向いて段岭の様子を見ると、地面が濡れている。段岭の目の端からは涙が絶え間なく落ちていて、それは地面に溜まり、とても小さな水たまりを作り、そこに夜空の星が映り、まるである種の小世界のようだ。

「いったいどうしたっていうんだ?おい!」武独が言った。

段岭はゆっくりと目を閉じた。武独にはどうしたら何かの反応をさせられるのかわからない。

また掃除をしに行き、掃いている間にふと思い立った。——この少年はひょっとしたら、もともと死にたかったが、その方法がわからなかったのかもしれない。この様子だと、父親は死んだのか。それで毒を飲んで川に飛び込んだが、自分が助け出してしまった。

最初は生きたいという気持ちを取り戻していたが、今夜毒薬の話を聞いて、よくわからないが何かの刺激を受けて、また死にたい気持ちを引き起こしたのかもしれない。

 

「おい。」

武独は掃除を終えると、外に出て来て、柵の上に座り、袖をまくり上げた腕で膝を抱え、庭の段岭を伺い見た。「お前に聞きたいんだが、俺にした話は事実ではなくて、本当は自分で毒を飲んで、川に飛び込んだんじゃないのか?」

段岭は一声も上げなかった。彼は既に現実世界の何をも感じられず、頭の中は真っ白で、父と一緒にいた時の中に留まっていた。まるで周りを壁で囲んで、全てをその外側に置いたかのようだった。

『西川の町は賑わい、碧水は帯の如く,玉衡雲山には霧立ち上り、江州は灯紅酒緑の眠らぬ街だ。天を掛布に、地を寝台に。』

 

『春になると桃の花が咲き乱れる。それに海もある。海は天のように果て無く続く。」

 

『この世でお前が望む者は、わたしが全て与えてやろう。』

 

『誰にでもその一生の内に、やりぬかねばならないことがある。ある者は戦に行くために生

まれ、ある者は皇帝になるために生まれる。」

 

『父はお前に借りがある。生涯誰かをお前の場所に置くことはない。』

 

『人生は苦しく短い。この世に生きていれば、つらいことや残酷なことにあるのは避けられない。』

 

『大きくなったな。』

 

『お前がもう一言でも言ったら、父は行けなくなってしまう。もともと行きたくなどなかったのだから......。』

 

『息子よ。』

 

「お前の親父さんは死んだのか?」突然、武独の声が壁を壊して入り込んできて、段岭はほんの少しずつ意識を取り戻してきた。

武独が再び言った。「親父さんはきっとお前に生きていてほしいはずだと思うぞ。彼が死んだのをお前は見たのか?」

段岭の瞳孔が少しずつ焦点を合わせてきて、ぼんやりと、柵に座った武独を映した。背が高く猟犬のような体、辟雍館で笑いながら話しかけてきた父さんに少し似ている。

「お前はもう親父さんがいないと思ったのか?」

李漸鴻は優しく段岭を見て言っていた。『息子よ、父さんはいつもお前と一緒にいる。』

 

色々な思いが段岭の脳内に沸き上がった。これは偶然ではなく、天意なのかもしれない。父が逝世したことを今この時に知ったのは。その知らせはあまりにも突然だったために、一瞬のうちに彼を打ちのめした。だが、報せはちょうどいい時に来たともいえる。彼は鮮卑山の崖から落ちても死ななかった。落雁の吹雪の中でも、岷江の流れの中でも。そして、新たに出会った人の前で、こんな月夜に知ることになった。

彼は死ななかった。武独に救われたのだ。

 

これまでの、父と再会したいという思いはずっと彼を支え続け、この人の前に送り出した。

まるで李漸鴻の英魂が力を尽くして、最愛の息子をこの世に生かそうとしてきたかのようだ。挫折しても、裏切られても……父は段岭には何も知らせなかった。天の神様は李家の大陳を助けてくれて、彼はついに家に戻る道を歩み終え、この地に戻ることに成功したのだ。父のことを夢に見る度に、いつも誰かが天命のように現れて、自分を助けてくれた。

 

父の面影がまた消え失せ、目の前には不可解そうな武独の顔があった。段岭の心と思考はゆっくりと回復してきた。

 

「よく考えるんだ。」武独は最後に言った。「生きていれば、必ず死ぬ。死ぬよりは生きる方がまだましだ。」

武独は立ち上がって部屋に戻り、扉を閉め灯を消した。月夜の下、段岭は一人寂しく横たわった。鼻がツンとして、涙がとめどなくあふれ出てきた。今まで生きてきた中で、一番悲しい夜だった。彼はもがきながら小屋に這って行き、地面に敷いた袍子に突っ伏して、顔を膝の前に深く埋めて声を上げてむせび泣いた。

彼はまた父が辟雍館に送ってくれた時のことを思い出した。窓の傍に立って彼のことを見ていたが、仕方なく帰って行った。自分はと言えば、彼を残してさっさと立ち去った。同窓生に笑われたりからかわれたりしたくなかったからだ。

出征する前の晩、二人が最後に別れる時に、父が言った。「私を恨んでいないと言ってくれ。私を許すと。」あの時段岭は答えてあげずに撃掌の誓いをしたが、恨んでいるはずがないではないか?

小さな子供の頃から、いつか父が迎えに来てくれるのを待っていた。それは執着と言えるほどに信じていた。そして父はとうとう本当に来てくれ、二人は互いに命を預けるほどに必要としあった。父が山を越え谷を渡り、たくさんの苦労の末に自分の元に来たように、自分もずっとずっと中々現れない父を待っていたのだ。だが、共に居られた時間はとても短く、別れの言葉さえ言えずに、あっという間に行ってしまった。

人生は苦しく短い。——ようやくこの言葉の意味がわかった。

 

突然扉がバタンと開いて、武独が提灯で段岭の顔を照らした。段岭は涙にぬれた顔を上げた。

武独はどう対峙するかもわからず、煩わしそうな顔をして、段岭の口をこじ開けると、碗に入った薬を彼の喉に流し込んだ。段岭は薬を飲み終えると、急激な睡意に襲われ、倒れ込んだ。混とんとする意識の中で、彼は思った。安定剤のようだ。きっと武独は自分に悲しむ暇を与えないために、飲ませてくれたのだろう。

 

 

翌日早朝、段岭は目覚めた。武独は欠伸をしながら、朝食をすませ、しばらく段岭を観察した。彼はいつも通り、花の世話をしていて、もう死のうという考えは起こしていないようだったので、こう言ってやった。「是非は問わないし、言うべきことは言った。お前がまた死ぬつもりなら、もう構わない。だが、死ぬならよそで死んでくれ。俺に死体の処理をさせるな。わかったか?」

段岭は武独を見つめた。廊下に立っていた武独は、突然段岭を少しやっかいだと思った。心に言葉で言い表せない感情が湧いてきた。かわいそうだと同情する気持ちの他に、よくがんばったなとほめてやりたい気持ちもある。ここまでの道のり苦労は絶えなかっただろう。

「部屋を片付けろ。その後きちんとした服装に着替えてから出て行け。」

 

段岭は靴を脱いで家に入ると、武独の部屋を片付け、午後になっても食事をせず、廊下の前に座り込んで、ぬけるような青空を眺めていた。外では蝉が鳴きだした。

納得がいかなかったことの因果関係が分かり、過去も粉々に砕かれた。

『この世に生きていれば、例え煮えたぎる湯、燃え盛る火を踏み越えてでもやらなければならないことがある……。』

だが自分に何ができるだろうか。

初夏の風が吹いて来て、サラサラと音を立てながら、木々の葉が木漏れ日を彼の体の上で躍らせた。

今何をしたいかと問われたら、段岭はただ、李漸鴻が埋められた場所に行って、父にたくさん話がしたかった。

 

 

段岭はぼんやりと座って考えた。郎俊侠の毒で死にかけた時も、自分は生き延びた。二度、三度、いつも死ななかったのに、もう一度命を捨てようとすることができるだろうか?

それより西川を離れ、どこか遠くに行って、姓も名も捨て、誰にも知られることなく生きるべきだろうか?だが、そんな風に生きて何の意味がある?自分の身に起きたことを自分は決して忘れない。死ぬまでずっとそれら全てから解放されることはないのだ。

出て行かなかったとしたら、何ができるだろうか。ここに留まったら?

 

父はどんなふうに死んだのだろう?どこで命を落としたのだろう?

午後中座り込んで考えた挙句、ようやく少しずつわかってきた。こんな風に死のうとしたり、逃げたりしてはいけない。自分にはまだやるべきことがたくさんあるのだ。

たとえそれが、山を動かし海を埋めるほどに難しいことだったとしても。

だが、父はもう自分を守ってくれない。全て自分でしっかりやっていかなければ。頼れるのは自分一人だけなのだから。行けるところまで行ってみよう。段岭はもう耐えられないかと思ったが、逆に解き放たれた気持ちになった。

 

武独が戻ってきて、犬に餌をやるように、段岭に炙り牛肉を渡した。段岭はそれを見て、食べることにした。部屋の中から様子を見ていた武独はかなり満足そうだった。

彼は卓袱台の前に座って再び薬経を読み始めたが、ふと問いかけた。「字は読めるか?」

段岭が頷くと、武独はもう夕べの話はせずに、段岭に処方箋を一枚渡して、「書いてある通りに量ってみろ。」と言った。