非天夜翔 相見歓 第201章 

第201章 帝陵

 

空気を震わすような雷鳴が轟いた。

その音が耳に衝撃を与えるのと同時に河の中に飛び込んだ段岭は、そのまま水底の暗流の中に引きこまれそうにそうになっていた。武独は彼を胸に抱え込んで、背中を河の中の岩にぶつけたが、そこで留まることはなく、両足を精一杯蹴り込んで、段岭と共に岸辺に向かって泳いで行った。

泳ぎのうまい武独は、敵が元々近くにいない限り、彼らから遠のくことができる。川底は真っ暗闇だったが、暗流が錯綜する中に、再び稲光が一本差し込んできた。

 

段岭は稲光をたよりに目を凝らし、黒衣の刺客が五人、彼らに向かって水の奥から迫りくるのを視界にとらえた。だが武独はまるで恐れることなく、段岭をひっぱって、水底の乱流から、岸辺に向かって泳ぎ続けた。

再び雷鳴が響いた。武独は段岭を水から引き上げ、彼を岸辺の岩の上に押し出して、振り返り、再び河の中に飛び込んで行った。

辺り一面真っ暗闇の中、段岭は敢えて口を開こうとせず、緊張した面持ちで川面を見つめた。

時々稲光が起こると見えた。まず水の中から突然真っ赤な血が沸き上がり、次にそれがどんどん増えていき、最後には川面一帯が血に染まった。

すると武独が再び川から出て来て、烈光剣を鞘に収め、言葉を発する間もなく段岭を抱え上げて、森の中に逃げ込んで行った。

 

「まだ来るかな?!」段岭が尋ねた。

「わからん!」武独が応えた。「水の中にいたのは全部殺した!まずは逃げてから、後で話そう!」

「下ろしてよ!」段岭が言うと、「お前は裸足だろう!」と武独が応えた。「何も言うな!刺客に気づかれる!」

武独は時々立ち止まりながら、山道を進んで行き、雨音の中に足音が紛れていないかと耳を澄ました。「少しやんできたか……。」武独の声は震えていた。

確かに雨は少し弱まって来たが、雷の方はまだ時々鳴っている。武独の足取りが落ち着いてきたのを感じて、段岭は再び、「下ろしてよ。自分で歩けるから。」と言った。

そこで武独は石坂の途中で段岭を下ろし、辺りを見回した。

「足元に気を付けろ。」武独が言った。「さっき聞えたが、まだ誰かいる。やつらは哨笛でやり取りしているようだ。」

その言葉が言い終わる前に、雨の中、遠い山林の暗がりから小さな哨の音がしたのに段岭も気づいた。

「どのくらいいる?」

「何とも言えないが、絶対に十人程度ではない。」

「ここはどんな所だろう?」段岭が再び尋ねると、「玉衡山中だ。」と武独が応えた。「もう少し登ると飛矢松だ。できるだけ早く山を下りなければ。河の中に彼らが現われたということは、きっと岸に上がって追って来る。」

段岭と武独は更に歩を早め、道を下り続けた。雨がだんだんとやんでくると、辺りは一片の静謐と化し、まるでこの世から完全に音が消えてしまったようだった。

段岭は空を見上げたが、黒雲はまだ去っておらず、真っ暗な夜空の下にはわずかな光さえも見いだせない。静寂の中、聞こえてくるのは武独が水たまりを踏みつけて起こすパシャッという小さな音だけだった。

それを聞くと、段岭はどうしても上京でのあの夜、世の中の音が消え、全てが静まり返った時のことを思い出さずにいられなかった。

 

だがその時、段岭はビュンと弓を引く音を聞いた。武独の反応は更に早く、段岭をサッと抱え上げ、彼の顔と首を守って二人一緒に石段をゴロゴロと転がり落ちた。

四方から竹笛の音が響き、山道の両側から瞬く間に数十名の刺客が次々に現れ、強弩を手に持ち二人に射向けて来た!

武独にも近づくすべはなく、段岭を抱いたまま階段を転げ落ちながら、「俺の前を走って逃げろ!」と叫んだが、「前にもいる!」と段岭も叫び返した。

次の瞬間、前からも刺客が襲い掛かって来た。段岭は弓を引き、前から飛び込んできた刺客を射殺した。刺客は額を射抜かれて仰向けに倒れ、手に持っていた鉄弩が飛んで行った。

段岭は跳び上がって、その強弩をつかんだ。すると武独は再び宙返りして後ろから段岭を抱え込み、二人はそのまま山の斜面を滑り降りた。灌木や木の枝が当たって折れ、段岭の顔をすりむいて頬が痛み、最後には石ころまみれになって山の端の崖の先にひっかかった。

崖の下は岩だらけの灘だ。落ちたらぐっちゃりとした血肉の糊と化してしまう。段岭と武独は手を引っ張り合い、武独は烈光剣を崖に突き刺して何とか支えとした。

 

崖の上には刺客が続々と現れる。段岭が鉄弩の引き金を引いて、刺客を射殺すと、刺客は絶叫を上げて崖から落ち、くぐもった音を立てた。

その時、武独が怒号を上げた。「ウワア——!」

雷鳴のように耳をつんざくその咆哮は、山並みを震わせ、木霊を返した。一生の功力を尽くし、武独は段岭と共に弧を描いて、岩の上に跳躍すると、二人は茂みの向こう側の空き地に向かって飛んで行った。

「気を付けて!」段岭が叫んだ。

武独の背中には矢が当たって血が飛び散ったが、矢を抜くこともせず、段岭を守ってよろよろと滑り降りて行く。刺客の数は増える一方で、いまや百人近くいる。四方八方から襲い掛かってきて追い払いようもない。

「どこから来た刺客なの?」

「影の部隊だ!」武独は叫んだ。「新たに集められたに違いない!」

二人は真っ暗な廟殿の前に落ちた。段岭は大きな音を立てて頭から鉄門に当たった。武独はすぐに、段岭を鉄門の前に押し付け、自らの体で彼を護り、振り返って敵に向かい合った。

無数の足音が聞こえ、刺客たちが次々に近づいて来た。

武独は両手の指虎を腰帯に付けた装置に押し当て、毒の粉をはじき出した。一方で逆手に肩の上に刺さった矢を折り、血が噴き出した。「俺が奴らを引き付けている隙に、山を走り下りるんだ。」

「いやだ。」段岭は声を震わせた。「武独。命がけなんてやめて……。」

 

この時、空を覆っていた黒雲に隙間が開き、無数の星が瞬いて世の中を照らし始めた。ほのかな星明かりのお陰で、段岭には百を超える刺客が前方の平台を埋め尽くし、弓矢を構えて四方八方からゆっくりと近づいて来るのが見えた。

彼らは武独の毒霧を防ぐために二十歩近い距離を保っている。あの百の矢が一斉に放たれれば、二人は青銅門の前で射殺されることになる。

段岭は猛然と振り返り、わずかな星灯にたよって、大門の上に架かった古い鎖を見つけた。

「武独。」段岭は小声で言ったが、武独は何も答えない。彼は力強い背を段岭に押し当てた。

その場の刺客が歩を停めた。

「西北方向に向かって走れ。」武独は僅かに体を曲げた。力を放つ時の動作だ。刺客たちが同時に強弩の引き金を引いた。

 

だがその瞬間、段岭はさっと武独の腰から烈光剣を抜くと、鎖を斬り、大門を押し開けて、廟堂の中に飛び込んだ。

「閉めて!」段岭が叫んだ。武独はすぐさま反応し、ガツンと肩で門に体当たりした。

外では嵐のように弩矢の当たる音がバラバラとなり続き、鳴りやむことがない。

段岭は扉を押さえる物を求めてあちこち探し回ったが、廟堂の中はガランとしていて、座布団一つ見当たらない。外では敵が門を押し開けようとし始めた。武独は剣鞘を押し込んで開かないようにしながら、「中に逃げ込むんだ!」と叫んだ。

二人は通路を進んで、廟堂の奥深くに入り込んだ。目の前は真っ暗闇で、その暗闇の中に段岭と武独、二人の息遣いだけが聞える。何かがぶつかる音がして振り返り、武独と共に壁にぶつかった。「武独?」段岭は呼びかけた。段岭は指を伸ばして、武独の震える手を撫でると、そのまま腕を撫で上げ、武独の顔を探り当てて、彼の唇に口づけをした。

「行き止まりだ。」武独が小声で言った。「ここで待っていろ。俺が奴らを全員始末しに行く。」門の外では再び衝撃音が聞こえ、刺客たちは今にも入り込んできそうだ。

「いいえ、待って。」段岭が言った。「出口はきっとある。どんな廟だろうと、廟なら裏門が……。」

あちこち探り回った段岭は、突然石台の上に火打石と引火物を探り当て、すぐに火を打ち始めた。外では再び轟音が響き、烈光剣の精鋼の剣鞘は曲がりながらも、なんとか門を止めていた。

火がつくと、段岭は石台の傍らにあった小さな蝋燭に灯りを点した。するとその角に長明灯があるのに気づいて、それを点すと、その瞬間、室内がたちまち光に満たされた。

そこは陵寝だった。

陵寝には、龍を彫刻した白玉の石棺があり、その前には黒檀で彫られた牌があった。

【大陳武帝

 

「ここは父さんの陵なんだ。」段岭は声を震わせた。「父さん……。」

段岭と武独は肩を並べて、李漸鴻の石棺の前に立った。段岭は僅かに微笑み、「あなたが私たちをここに来させたの?」と話しかけた。そして彼は前に進み出て、石棺の前に跪き、横顔を棺の端に置いて、小声で言った。「帰って来たよ。ようやくこうして帰って来た。」

背後から再び轟音が聞えて来た。武独が猛然と振り返ると長廊の先の銅門は既にボコボコになっており、そこから一筋の光が差し込んできていた。

武独は息を切らし、目を閉じて言った。「今まで生きて来て、天意というものを信じたことはなかったが、今は信じずにはいられないな。」

 

「あそこを見て。」段岭は指さした。「父さんがあなたに与えてくれたんだよ。」

陵寝の奥には黒い甲冑が架かっていた。煌めく鎧はまるで本物の龍のうろこのようで、麒麟の兜は威厳に満ちている。護腕、戦靴も一揃い全てある。

それはかつて李漸鴻が上京に向かう時に身につけていた戦甲だった!

兜の傍らには、鎮山河を模して造られた重剣があった。あの時、鎮山河は失われてしまったため、李衍秋が鋳造させて、帝鎧と共に陵寝に収め、李漸鴻と共に殉葬させたのだ。

 

その時、再び轟音が響き、ついに大門が押し開けられて、強弩を手に持った刺客たちが陵寝に飛び込んできた。

武独はその身を戦鎧に包み、弩矢の嵐を迎え撃ち、流れに逆らって重剣を倒して、荒々しく刺客たちを斜めに斬り込んで行った!

その夜、星灯が万道に広がった。黒雲はついに去り、天の川が天際を横切った。

戦靴は陵寝の外地を踏みしめ、水を飛び散らせた。千万の水たまりに天際を埋め尽くす星々が映っていた。

段岭がゆっくりと出て行くと、目の前は既に死体で埋め尽くされていた。

 

万丈もの高台の上、玉衡山の麓にある帝陵の大門が開かれた。星明かりは帯の如く絡みつくように煌めき滔々と東に向かう長江に映っていた。

 

再び一年が廻って七夕となった。

武独は兜を取り去り地面に崩れ落ちて声を震わせた。

彼は疲れた様子で重剣を取ると、陵寝の前で待っている段岭に向かって行った。そして武独は段岭を抱きしめ、二人は同時に地面に跪いた。帝鎧の下の熱い血は未だ冷めることはない。

あの年の英魂は門を出た時のあの約束を忘れたことはなかったのだ。

麒麟兜は水たまりの中に転がり、鏡面のような水に天際の銀河が映っている。

 

七月七日、天孫が錦を織り、銀瓶を傾けて、人の世に幾千万もの煌めく珠露を注いだ。

天から地に落とされたものは、再び天へと向かう。

段岭は顔を上げて天際を望み、瞳の中に燦燦と煌めく星辰を映した。

七月七日、この世の夢の儚きこと、西風に隔てられるが如し。天上に算すれば、年華も一瞬成り。

七月七日、銀河は万古秋声 二人を別つ

 

 

——巻四《羽觴醉月》終わり——