非天夜翔 相見歓 第156章ー第160章
第156章 暫しの別れ
「本当に効くのか?」昌流君が言った。
「この薬は気に作用し、真気を攪乱させる。解毒薬を飲まない限りまともに戦えなくなる。」武独はそう説明すると、丸薬を一つ郎俊侠の前に出して見せた。「自分で飲み込め。俺の手を煩わせるな。」
抵抗しても無駄だと分かっている郎俊侠は、素直に薬を飲み込んだ。段岭は不安げに口を開いたが、何も言わなかった。薬についての武独の能力には微塵も疑いを抱いていない。
だが、ここにいる刺客たちは皆、普段は自堕落だったり不真面目だったり好き勝手にふるまってはいても、真に敵に対する時は、全く容赦ということをしない。
武独は郎俊侠が薬を飲み込むところを見届けると、小瓶を取り出して、襟のあたりで振った。すると匂いを嗅ぎつけた金烏が襟の中から出て来て体を丸めたので、武独はそれをつかんで、段岭の懐の中に元の通りに押し込んだ。
「この次は?」段岭が尋ねた。
「この次か。お前と二人で相談だな。」
少しずつ日が暮れかけていた。雪はやんで、夕暮れ時の斜めの日の光が長廊に差し込んでいる。背が高くまっすぐな武独の歩く姿の後ろに段岭がついて行き、長廊を通り抜けて後院のの花園の真ん中で立ち止まった。ここなら視界が開けた広い場所なので、盗み聞きされることもなく、一目で辺りを見渡すこともできる。
段岭は足を停め、武独と向かい合って、その表情を伺った。夕べ言い争った後で、武独はまだ少し怒っているように見え、段岭は少し不安になった。
武独は真剣な表情で段岭の顔を、その双眸をじっと見つめた。武独の眼差しには彼の心の動きが表れていた。
「お前が太子じゃなければどんなによかったことか。」武独は小声でつぶやきながら、段岭の耳に手を当て、優しい仕草で耳たぶを揉んだ。
心がじんとなり、互いの心からあふれる思いを感じて、段岭は思わず身を乗り出して武独をぎゅっと抱きしめ、彼の胸の中から離れられなくなった。
二人はそのまま何も言わずに抱き合った。長い沈黙の後、段岭は「鼓動がすごく早いね。」と言った。「怖いんだ。」武独が言った。「鄭彦も知った。牧曠達も知った。事態はもう収拾できなくなるかもしれない。」
「何とかなるよ。」段岭は武独の体に身をもたれた。自分が本当の太子であることを牧曠達に気づかれたら、彼は何とかして自分を排除しようとするはずだ。蔡閏がその地位にいても牧曠達にとっては脅威ともならないが、段岭がその地位につけば、牧曠達にとっては懸念材料となるからだ。
「あなたは郎俊侠が証言すると思う?」段岭は顔を上げて武独を見た。
「証人だけではどうにもならない。物証も必要だ。さもなくば、事態は歯止めが利かなくなる一方だし、一度動き出せばもう後戻りもできなくなる。」
段岭はため息をついて、武独を放したが、武独は彼の手を握りしめた。二人ともよくわかっていた。鄭彦が皇宮に帰って李衍秋に話せば、李衍秋とて動かざるを得なくなる。そして昌流君が戻れば、牧曠達にそのことを告げるはずだ。蔡閏が知るかどうかはわからないが、今後、三方に対し同時に手を打つことが必要になるだろう。それなのに段岭は鄴城にいて、まだ皇宮に戻ることはできない。
「ひょっとしたら、ここに来たのは、よかったことなのかもしれない。こっちはずっと鄴城にいて、牧相と蔡閏が問題を終わらせるまで待ってから帰れば、色々とうまくいくのかも。」
武独は、うん、と声は出したものの、何か言うのはためらった。その時段岭はふと思い出したことがあり、武独に言った。「宗真が約束してくれたんだ。今回中京に帰れたら、私のために証拠を探してくれるって。ひょっとしたら、役に立つ書類が見つかるかもしれない。」
武独は段岭を見下ろしたが、その眼差しは複雑だった。
「でも、あなたが戦いたくないなら、このまま帰ったっていいんだよ。」
段岭は、最後の選択権は武独に与えることにした。武独は悲し気に微笑んだ。怒りは既に消えていたが、やるせなさを感じているようだ。
「この地の半分は俺のものなんだろう?」武独は段岭をじっとみた。まるで彼がこの世界の全てであるかのように。
段岭は答えず、笑みを浮かべた。武独は口づけしようと頭を下げたが、こんな場所では不適当かと考えなおして、じっと見つめることにした。
「黒山谷で待っていて。ここには鄭彦も昌流君もいる。きっと何も起きないよ。」
「全部終わったら、俺にご褒美をくれないとだめだぞ。」武独が言った。
「どんなご褒美だって全てあなたにあげる。私の全てはあなたのものなんだから。」
「絶対に絶対だぞ。」
「あなたに対して決してうそはつかない。」段岭は真剣な表情で答えた。「だってあなたはすごく騙されやすいんだもの。ちょっとでも喜ばせようと何か言えば、天にも昇る心地になって、後で知らないと言ったところで、私をどうすることもできないでしょう。でもね、信じて。私が言ったことは、全部本気なんだから。」
「俺だってお前を喜ばせられるのは知ってるはずだぞ。」武独は侵略的な気配をその目にこめて、腕を段岭の腰に回した。「旦那様がお前から離れられないのを知っていて、俺に不本意なことをさせようとするとはな。」
「それはつまり、その不本意なことをやってくれるということなの?」段岭は小声で尋ねると、武独の横顔を手で撫でながら、かかとを上げて、自分から唇を当てた。
夕闇が濃くなる中、夕日の最後の一縷が彼らの体に当たって、長い長い影を落とした。
―――
木々の影が横向きに落ち、枝の上の白雪が暗紅色の光をはじいている。
「時々思うんだが、あんたも大変だよな。烏洛候殿下。」鄭彦が言った。
郎俊侠は両手を縛られたまま、相変わらず部屋の隅にもたれていた。
鄭彦は部屋の端で遼人が持って来た酒を飲んでいた。昌流君はと言えば、小さな紙切れ束を取り出していた。表には字が書いてあり、裏には色付きの絵が描かれている。車、馬、灯、など、家で字を習う時に使う物で、色鮮やかに塗られている。
「昌流君、何してるんだ?」鄭彦が不思議そうに尋ねた。
「余計なお世話だ。酒でも飲んで、そっちの話を続けていろ。」昌流君が言った。
少し酔った鄭彦は、しゃっくりをしながら、郎俊侠を眺めた。「あんたはいったい何を企んでいるんだ?酒も飲まず、楽しみも求めず、金銀財宝を愛さず、権力も欲しがらない。」
(上京では涼南大曲を何杯も飲んで丁芝と寝てたけど。)
「全くだ。いったい何を企んでいるんだ?お前が余計なことをしなければ、みんなしてこんな遠くまではるばる苦労しに来ることもなかっただろうに。」昌流君が言った。
郎俊侠は一貫して何も言わずに、横を向いて、扉の上の小さく切り取られた空がゆっくりと暗くなっていく様子を眺めていた。
「あのあれは本当なのか?」再び鄭彦が郎俊侠に尋ねた。「心配しなくていい、ここだけの話だ。帰ってから撤回しても俺たちは何も言わない。それに勿論あんたを朝廷に引きずり出して証言させたりもしないから、はっきり言っちゃってくれないか。」
昌流君は警戒したように鄭彦を睨みつけた。郎俊侠は鄭彦をちらっと見ただけで答えはしない。もともと無口なたちだ。眉を少しひそめただけで、外の走廊に視線を戻した。誰かを待っているようだ。
段岭が戻ってきたが、一人きりだった。
「各位、私達はおそらくあと五日は落雁城にいることになりそうだ。」
鄭彦にも昌流君にも意見はなかったが、昌流君は、「武独はどうした?」と尋ねた。
「鄴城に帰った。」段岭は靴を外で脱いで部屋に入り、扉を閉めて郎俊侠を見た。——両手を縛られたままだ。
「兵を連れに帰って、何とかして耶律宗真を中京に帰らせる。」段岭が言った。
「本当に遼人を助けるために戦うつもりか?」昌流君が信じられないといった顔で言った。
「何か問題でも?」段岭は机に着くと、髪と筆を取りだして、手紙を書き始めた。玉壁関にいる大将軍韓濵宛だ。
「陳遼二か国は、互いを盾としあう関係だ。宗真がこんな孤城に閉じ込められている時に、万が一遼国で政変が起きて、勢力図が変わってしまったら、大陳にも類が及ぶ。それに遼帝は両国の友好のために、私に二万石の食料を貸してくれた。その恩を返さなくては。」
「陛下が知ったら、どう説明するつもりだ?」鄭彦が尋ねた。
「地方においては、君命は絶対ではない。鄴城と江州は昼夜馬を走らせても、往復するのに
半月はかかる。朝廷の命令をそんなに待ってはいられない。太守に任命された時、陛下は手書きの書状を下さった。速やかに執行するために朝廷の大臣を気にしなくていいとね。」
そう言われてしまうと、鄭彦も昌流君も二の句が告げられなくなった。
「国事については君の方が我々武人より詳しい。君がいいと言うならそうなんだろう。」鄭彦が言った。別に誰も彼の意見を求めてはいないので、そんなことを言う必要もなかったのだが、段岭はその言葉を聞いて、鄭彦に笑いかけ、「ありがとう。」と言った。
鄭彦は酒を飲み、へらへらと笑った。
段岭には鄭彦の言葉の意味がわかった。いつかこの件で李衍秋に罪に問われた時は、自分の味方について証言してくれると言っているのだ。結局のところ、これは国境を跨いだ出兵なのだから、朝臣がけちをつけようとすれば、何とでもできるのだろう。
だが段岭にとってそんなことは全く気にならなかった。武独さえ承諾してくれれば、他のことなど別にどうでもいい。
「だけどまさか武独が本当に遼人を助けに行くとはなあ。」鄭彦が言った。
「国の仇で家の敵だから?」段岭が尋ねたが、鄭彦は何も言わなかった。段岭は手紙を書き終え、横に置いた。すると昌流君が読んでみようとした。
「理解できないでしょう?国家の大義や国民の安危について語ったところで、彼はやってくれないだろうけど、私のためにと言えば、やってくれるんだよ。」
段岭が言うと鄭彦が笑い出した。「言ってくれていれば、俺だって君のためにやってやったよ。夜は君と共に横になり、朝が来たら、オゴタイの首だって取りに行った。武独なんか全く必要なかったのに。」
「酒が飲めてうれしいでしょう。ここの主人は私の面子を第一に考えてくれるんだ。またそんなバカなことを言ったら、これからはもう酒は飲めなくなると思ってくれていいよ。」
「本気か鄭彦?だが人質にだけはなるなよ。お前を助けに行くのはごめんだ。」昌流君が言った。
「別に来なくていい。例え死すとも、一生の快慰のためなら無駄にはなるまい。シャナル、それとも君は昌流君みたいな大男の方がお好みか?」
昌流君は覆面をかぶっているので顔を赤らめたかどうかはわからないが、皮肉を返すことにしたようだ。「だったら、そっちは、そこの角に座っている兄さんに相手してもらえばいい。俺と王山で見ていてやる。春薬でもあれば何とかできるんじゃないか?」
「烏洛候殿下があと十歳若ければ、火の山水の山乗り越えてだって大喜びでお引き受けするんだけどな。三日三晩はいける。だけど残念ながら……。」
「そこまでだ!!!」段岭が言った。
段岭の心の声は叫んでいた。『あんたたち二人はしゃべりすぎだ。郎俊侠を見習って、部屋の隅で静かに座っていてくれないか?』
ようやく鄭彦は立ち上がって、千鳥足で出て行くと、扉の端にぶつかりそうになって、急いで酔拳の型を取った。それからしっかりと立ち止まって、武袍を叩き、ぶらりと走廊に出て行った。
「どこに行くの?」段岭が尋ねた。
「飯を作りに。」鄭彦の声が外から聞こえて来た。「もう何日もまともな食事をしていないんだ。」たちまち段岭の苛立ちは霧消した。やっぱり鄭彦がいてよかったかも。
彼は述律端を呼んで、宗真に伝言を頼んだ。これから何日か、自分の院におかしな客人が出入りするけど、気にしないで、客人の要求に答えてやってほしいと。
そしてその後、鄭彦が厨房で食事を作っていると述律端が報告してきたので、段岭も一安心した。四大刺客の内、最も危険な誰かは薬を盛られていて、他の二人は院内にいる。つまり世界中で一番安全な場所と言えるだろう。絶対にここから出ないようにしよう。
第157章 奇兵
「お前さんは遼国皇帝と知り合いなのか?」
食事時に、昌流君がふとそう尋ねた。
「以前は知らなかったけど、最近になって知り合いになった。」段岭はその時、どう武独と合流しようかなど、城外にいる五万の元軍のことを考えていて、上の空だった。
昌流君は最初の問いをあまり考えずに口に出したのだが、答えを聞いて、段岭はなぜ隠していたのだろうなどと考え始めた。一方の鄭彦の方は、「彼は君がずいぶん気に入っているみたいだな。」と言った。
「見た目のせいかな。」段岭は適当に答えた。「見た目がいいと、色々と都合がいいよね。美人の目から見たら、この世の誰もが優しくて親切だろうな。誰もがその人に良く思われたいだろうから。」
郎俊侠の手枷は一旦外され、一人席について食事をとっていた。段岭は部屋の中に五脚の小机を用意させた。左側一番前の空席は武独の場所だ。鄭彦はその隣、昌流君は右側一番前に座り、郎俊侠は末席についていた。
段岭は食べながらふと考えた。いつか自分が太子の地位についたら、こんな風になるのだろうか。四大刺客が輪番で任務に就き、夕飯はみんなで一緒に食べる。これで武独がいれば完璧だ。
「そうとも限らないな。」郎俊侠が突然言い出した。「人に愛される者が、天に大事にされないのはよくあることだ。」
昌流君は何かいやみの一つでも行ってやろうと郎俊侠に目を向けたが、食事時くらい彼らの言い合いを聞きたくなかった段岭は間髪入れずに相槌を打った。「うん、烏洛候大人の言う通りだ。」それで昌流君も何も言えなくなった。
段岭は鄭彦の作った料理を平らげた。昌流君と郎俊侠もご相伴に預かった。食事を終えた段岭は食盒を置いて、宗真に会いに行かなくてはと考えていた。すると昌流君が、「誰が片付ける?」と言い出し、鄭彦が、「お前が片付けろ。職位が最低なのはお前なんだからお前が片付けるべきだ。」と言い返した。「捕虜がやるべきだ。」昌流君が言った。
「府の僕役を呼べば済む話じゃないの?!」段岭はそう言うと立ち上がって耶律宗真のところに行こうとした。そして、ついて来ようとした鄭彦に向かって、「みんな休んでいて。私に構わなくていいから。」と言った。
昌流君や鄭彦に宗真との話を聞かれれば疑いを持たれるかもしれない。宗真とは遼語で話すつもりだが、態度から何か気づかれることもあり得るだろう。
もう郎俊侠は捉えられているのだから、自分には何の危険もない。びくびくしなくていいのだ。段岭は腰を伸ばし、走廊を進んで行った。すると暫くして郎俊侠がついて来るのに気づいた。郎俊侠は食後再び手枷をつけられていた。今度のは重く、銅鎖がついた鉄製の手枷だ。手首を斬り落とさないかぎり、外すことはできないだろう。
外に顔を出して様子を伺う昌流君に段岭は首を振り、大丈夫だと伝えた。
段岭は郎俊侠を従えて、花園内を歩きながら考えた。こんな時、もし武独なら、郎俊侠から絶対に目を放さなかっただろう。だが鄭彦と昌流君は自分と郎俊侠の関係を知らない。二人にとっての郎俊侠は口をふさぐ必要もないほどの役立たずだった。
武独が飲ませた薬は効いているのだろうか。今の郎俊侠は九割の力を制限されているのだから、危険はないということか?
段岭は歩き続けてから、ふと振り返って、彼を突き飛ばしてみた。郎俊侠は防ぎきれずに足をも滑らせ、あやうく走廊の植木鉢を倒しそうになった。確かに力を抑制されているようだ。
段岭はほっとした。
郎俊侠は深く考えずとも段岭の考えがわかったようだった。足を踏ん張って立ち止まり、「今の一手はちょっと早すぎた。」と言った。
「父さんは山河掌法を教えてくれたけど、そこまで本気じゃなかったんだ。」段岭が答えた。
「左肘を沈め、右手で推す。左手で構える。」郎俊侠が呟いたが、段岭は彼に構わず、背を向けて歩き続けた。
「私についてきてどうするつもり?」段岭は振り返りもせずに言った。
郎俊侠は腕に巻かれた鉄枷や銅鎖をジャラジャラと鳴らしただけで何も答えなかったが、
聞かれてもいないことを答えた。「私は元々鄴城に君を探しに行くつもりだったんだが、君は落雁城に行っていた。ここで一体何をしていたんだ?」
銭七のことを言うつもりはなかった段岭はそれらしい理由を考えて答えることにした。
「宗真がここにいたから、食料を貸してくれた礼をしに来たんだ。」
郎俊侠は頷いた。「そうだろうと思った。君に命を救われたからには彼は勿論全力で君を助けるだろうな。」
その言葉に段岭は体が震えた。あの時おかしいと思っていたことの説明が今ついた!自分が宗真を守ったことを郎俊侠が知っている理由は?あの時彼は上京にいなかったはずなのに!答えは一つ。——春の夜に突然現れたあの刺客、あれは郎俊侠だったのだ!
「宗真を暗殺しようとしたのはあなたなの?」段岭は信じられない思いで尋ねた。
「うん。」郎俊侠はさらりと答えた。(よく遼帝の府の庭でこんな会話)
「誰があなたにそんなことを?」
郎俊侠は眉を軽く上げて、「いつかきっとわかるだろう。」と言った。
段岭:「……。」
全く理解不能な男だ。以前からこういう性格だったが、こんなに月日がたってもやはり全く変わっていないとは。
彼はそのまま進んで行こうとして、やはりダメだと振り返り、震える声で尋ねた。「あなたは遼人に何の恨みもないのに、なぜあの時宗真を殺そうとしたんだ?」
郎俊侠は段岭を見下ろした後、視線を段岭の後ろに向けた。
「段岭、ちょうど君を呼ぼうと思っていた。」宗真の声が背後から聞こえて来た。
段岭は落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。だがその心の中には様々な考えが浮かんできていた。中でも一番強い思いは、『郎俊侠は遼人のことも恨んでいるのか?』だった。
これまでに聞いた話からはそれらしい恨みはないはずだが、郎俊侠が真実を告げる気も、遼との諍いについて付け加える気もない以上、誰にだって真相はつかめるはずがない。
段岭は頭を混乱させたまま、宗真の前まで歩いて行った。宗真はちらっと郎俊侠を一瞥した後、段岭の肩に手をかけて庁内に招き入れた。郎俊侠は庁の前までついて言ったが、護衛たちに行く手を遮られて、仕方なく庁の外に出て待つことにした。
「どうかしたのか?」宗真は段岭の表情が少しさえないことに気づいたが、段岭は首を振った。宗真は遼語を使って尋ねた。「今は正体を変えているんだったよな。君を何と呼んだらいい?」
段岭も遼語で答えた。「ワンシャンと呼んで。私は段岭という名の方が好きなんだけど。」
宗真は頷いて、段岭に椅子を勧めた。彼と同じ上座で、卓を挟んだ両側に相対して座る形式だ。それがとても礼節上、重きを置かれたことであるを段岭は知っていた。——王君と同じ高さの席につく。遼国でそんな待遇を受ける者はごくわずかだ。韓唯庸ですら許されていない。
「まずは君の話を聞かせてくれ。」宗真が真剣な様子で問いかけた。
段岭は暫く黙って考えた。そして、自分の計画を実行に移せるかわからなかったがまずは宗真に言ってみることにした。「武独が援軍を呼びに帰った。」
「どのくらいの人数だ?」宗真は少し希望を持ち始めたようだ。
「二千。それが私に出せる限界だ。」段岭は答えた。
二千対五万。蔡閏ならきっと鼻で嗤うだろう。だが使い方が大事なのだと段岭は知っていた。
これに落雁城から何とか千人を絞り出してもらえば、『奇をいだして勝を制す』ことができるかもしれない。元軍を追い払うことはできなくても、自分だけ逃げることならばできるだろう。宗真は立ち上がり庁内を歩き回りながら呟いた。「それは奇兵としては使える。」
段岭はほっとした。やはり馬上に見た宗真の鍛えられた体は伊達ではなかった。おそらく日ごろから兵を率いて来たのだろう。万が一宗真に「少なすぎる。」と言われたら、もう無理だろうと思っていた。父が生きていたとしてもどうにもならず、自分だけ逃げることにしたかもしれない。
「騎兵と歩兵の割合は?」宗真が尋ねた。
「古参兵なんだ。」段岭が答えた。「それぞれが弓矢を持って騎射もできれば、盾と刀を持って馬を下りての白兵戦もできる。鄴城、河間を十年来守ってきて、以前は……。」段岭は少し考えた末、最後にやはり言うことにした。「征北軍だった。父の古巣の。あなたたち遼人や、元人との戦いを専門にしていた。」
「それじゃあ、私を助けに行くと知ったら、心が受け付けないのでは?」耶律宗真が尋ねた。
「あり得ない。私は武独を信じている。」段岭はそう答えた。
武独の兵だ。彼が応じてくれたのだから、きっと方法はあるはずだ。彼でもダメなら、段岭の太守という立場では河北郡兵士に干渉することはできず、どうにもならない。
「わかった。」耶律宗真は、「少し考えさせてくれ。」と言おうとして、ふと考えを変えて腰を下ろした。そして段岭の手を自らの両手で包んで、「それで君の立てた計画は?」と尋ねた。(手を握らなくてもいいだろうに)
「特に何も。」段岭はネタを明かさずにいることにした。耶律宗真には自分の布陣を知らせておきたくなかった。「私は武独に手紙を送らせて、彼に手配させることにしてあるから。」
耶律宗真は頷いた。「ということは、どうやら君の陳国を通って、潼関から西凉に入り、そこから中京に行くことになりそうだな。」
段岭としては宗真を助けるからには、最後まで送り届けるつもりだった。包囲を突破したところを殺されてしまっては意味がない。それについてはよく考えたつもりだった。「私は玉壁関守将の韓濵に手紙を書いた。あなたが商人を装って直接関を通れるように。玉壁関からだったら少しは距離を縮められるでしょう。」
耶律宗真は段岭の持って来た手紙を受け取り目を通すと卓に置いて、「ありがとう。」と言った。段岭は彼に考える時間が必要なことはわかっていたが、言わずにはいられないことがあった。「宗真。」
以前ならこんなことは言えなかったが、今なら二人の立場は平等だ。つまり自分は太子だ。まだ定まらぬ身の上で、承認されてもいないとはいえ、礼節上は、国君と儲君は同等で、二人は対等にふるまえる。それだからこそ、耶律宗真は最初から儲君への礼節をもって段岭を扱っているのだ。耶律宗真は段岭の目を見つめた。
「あなたに言いたいことがある。今回は縁があって会うことができたけど、この後は助けたくても、あなたがどこにいるかも私にはわからない。」
「そうだな。」耶律宗真には段岭が言わんとしていることがはっきりとわかっていた。一刻も早く韓唯庸を何とかしないと、危険すぎると言いたいのだ。
「以前も君が私の近くにいてくれたおかげで逃げ切ることができた。だけど、私の心の中にはどうしても振り払えない思いがあるんだ。私はそんな風に手を......手を下したくないと。」
耶律宗真が言っているのは蕭太后のことだと段岭にはわかった。母子なのだから、宗真だって悩ましいところだが、それでも国に戻ったらすぐにでもなんとかしなくては、こうして段岭が必死でしてきたことが、全て水の泡となってしまう。彼を救うのはいい。だが彼を救ったことで、事態が思わぬ方向に発展してしまえば、段岭にはどうすることもできなくなる。
古来より帝王家は無情なものだ。父子が生き残りをかけて骨肉の争いをしたり、様々なことが起こりうる。自分の場合はどうなるのだろう?
「心配は無用だ。あの頃はまだ若すぎて朝政のこともよくわかっていなかったし、人材も育っていなかった。戻ってからは兵権をしっかりと握って離さない。韓唯庸にもわかっている。私を殺さなくては自分がやられることを。だからこそ最後の手段に出て来たのだ。私は君に保証する。中京に戻ったら半年以内に彼を必ず排除すると。」
段岭は頷いた。保証という言葉を聞いて、ようやく少しはほっとできた。
第158章 危機に瀕す
「上京で襲ってきた刺客の捜索はできたの?」段岭が再び尋ねて来た。郎俊侠だと言うことはわかってはいたが、何となくその件は単純ではない気がしていた。だが郎俊侠が何も言わないのだから、段岭としては宗真が何か知っているか聞くほかはない。
「君を呼びに行ったのは、それを話すためでもあった。あの刺客は君たち陳国に遣わされたのだ。」
知っている。段岭は心の中で呟いた。
「それで私は韓唯庸が陳国とやり取りしているのではないかと疑ったのだ。だがこれにはまだ調査が必要だ。待っていてくれ。韓唯庸を捉えたら拷問にかけて、半年内には真相を君に伝えよう。」
目の前が霧に包まれて真相がどこかに隠されているように段岭は感じた。解き明かしたいのに、最後まで開くための鍵となる何かが足りないのだ。
「私が言おうとしたのは、例の二本の剣の行方だ。上京陥落後に……。」
段岭は急いで耶律宗真の口をふさいだ。郎俊侠がまだ部屋の外にいるかもしれない。
耶律宗真と段岭は間近に視線を交わした。それから耶律宗真は一枚の紙を取り出し、遼の文字を使って書きつけた。【遼、元遼軍が戦って三日目の夜、ついに元軍を城から追い出した。その後戦場を片付けていると、芳文巷の外に、古剣が一本落ちていて、韓唯庸に渡された。】
その瞬間、段岭は心臓が止まった様な気持ちになった。
芳文巷、それは瓊花院外の路地のことだ。
彼は目を真っ赤にして悲しみを隠そうとしながら宗真を見つめた。宗真は不安になって、「段岭?」唇を動かした。
段岭はゆっくりと首を振った。目の前にあの年の七夕の夜の光景が浮かんできた。——李漸鴻は最後の力を振り絞って、あの路地にたどりつき、塀一枚隔てた外側で帰らぬ人となったのか。
段岭は、話を続けてと仕草で伝えた。宗真は暫く黙り込んだ後で、書きつけた。 【だが私は見たことがない。聞いた話だとその剣はまだ韓唯庸が持っている。信じてくれ。必ず君の元に取り戻すと。】
「もう一本の剣というのは、フビライの金剣のこと?」段岭が尋ねた。
耶律宗真にはなぜ段岭が山河剣のことは筆談するのに、金剣のことは普通に口に出すのかわからなかったが、特に問うこともなく、「ああ。もしかしてその剣は君が持っているのか?」とだけ尋ねた。
「以前は私が持っていた。だけど逃げている間に失ってしまったんだ。」段岭が答えた。
「最後に見たのがどこだったか覚えているか?」
段岭はややしばらく記憶をたどった後で、「上京からあまり遠くない村の中でだ。」と答えた。
「帰ったら人を遣って探させよう。」耶律宗真は頷いた。「誰も拾っていないなら、おそらく元の場所にあるだろう。もしその辺りの誰かが拾って持って行ったとしても売られてなければ探し出せるかもしれないが、売られてしまっていたら難しいだろうな。」
「それを探してどうするの?」段岭が尋ねた。
「あの剣を持つことが、フビライの継承者である第一の条件なんだ。見つけて壊してしまえば、少なくとも百年は元人は各部を統率する可汗を選び出せないことになる。」
それについては完全に同意できる。バドのことを思い出して段岭はため息をつき、頷いた。
「まあ、あなたがそれをブアルチジンに渡したら、両国で連合を組んで我が大陳を食い尽くせるね。」段岭が考えながらそう言うと、耶律宗真は笑い出した。「やきもちか?」
「以前元人を引き入れたのはあなたの国だったでしょう?」言いたくなかったがつい言ってしまった。
「君が嫁に来てくれたら、そんなことはもうしない。元人を駆逐して、中原を統一し、君が天下を治め、私は君といつも一緒にいて、この世は平和で隆盛を極める。」
段岭が何を言おうと宗真の冗談のネタにされる。どこまで嘘でどこまで本気なのか。だが以前聞いたことがあった。遼人は武を貴ぶ。だが国を治める段になるとなぜか知識人を偏愛する。少し病的なほどに。その最たるものが耶律家なのだと。
宗真は自分に対し本当は愛も情も持ってはいないのだろうが、特別に気に入っていることは確かだ。
他に何も聞くことが無くなったので、段岭は宗真にいとまを告げ、まずよく考えてもらってからまた話をすることにした。
「宗真を殺せと言ったのは誰?」部屋を出ると、段岭は小声で郎俊侠に尋ねた。
郎俊侠は逆に聞いてきた。「鎮山河はどこにあるって?」
「私があなたに言うと思う?」まさか郎俊侠がそれを自分に聞いて来るとは。
郎俊侠は小声で告げた。「昌流君にあれを渡してはならないよ。牧曠達が無敵になってしまうから。」
「彼が手に入れたら、そりゃあ引き渡すでしょう。」段岭は急に苛立ちを押さえられなくなり、「郎俊侠、一体何を考えているんだ?」と言い返した。
「鎮山河は他とは違う。白虎堂の後継者なら、誰でもあれを持つ資格がある。もし昌流君が渡すことを拒否すれば、君の四叔父上でも何もできない。」
本当だろうか?何となく段岭は今の郎俊侠の言葉には嘘がないような気がした。
夜になり、寒風が院内をひゅうひゅうと音を立てて吹き抜けて行った。すると郎俊侠が意外な行動に出た。——枷をはめられた両手を持ち上げて、段岭の襟を立ててやったのだ。
段岭は一歩下がった。なぜか動揺してしまい、目をそらしてしまった。郎俊侠と目を合わせたくなかったのだ。それから急いで走廊を歩いて行ったが、心はかき乱されたままだった。
郎俊侠は急いで後を追い、何も言わずに段岭について部屋の中に入って行った。
(めんどくさい奴だが、育てた子だから本当はかわいくて仕方ないんだろうな。)
鄭彦はまだ酒を飲んでいた。飲み止めることはないのだろう。昌流君はどこかに行ってしまったようだ。「昌流君は?」
「やることがあると言って出て行った。」鄭彦が答えた。
きっと銭七の様子を見に行ったのだろう。今夜は北風が強く、城中が凍りついている。万が一凍死でもされたら全てが無駄になってしまう。
段岭はため息をついた。
「どうかしたか?」鄭彦が尋ねた。
「もう寝る。なんだか眠くなってきた。」段岭が答えた。
「添い寝してやろうか?」
段岭は急いで手を振った。郎俊侠が立ちあがって部屋の外に行こうとしたが、段岭は少し考えて、「烏洛候穆、あなたも部屋で寝ればいい。」と言った。
彼は時々鄭彦がただの冗談なのか、本当に自分をどうこうしたいのかわからなくなる時があった。郎俊侠がいれば、鄭彦も他人を跨いでまでしてこちらに来ることはないだろう。
尤も鄭彦が本当に這ってきたら、郎俊侠にも何もできないだろうが。
「しっかり見張っておく。」どうやら郎俊侠には段岭の考えがわかったようだ。
段岭:「……。」
「何をだ?」鄭彦が不思議そうに言った。
「話はもうやめ。もう寝て。」段岭は疲れ果てていた。今日は色々起こり過ぎた。武独が奔霄を昼夜走らせれば、そろそろ黒山谷に着く頃だろう。翌日には鄴城につく。奔霄の脚は速い。もう二日で兵を連れて黒山谷に戻り、翌日には布陣して……。段岭は睡魔に襲われ意識が朦朧となり、夢の中に落ちて行った。
それからの数日、一同はそれまで通り、尋常ならざる忍耐力を発揮して過ごしていた。これが刺客の本領なのだろう。聞いてはいけないことは鄭彦も昌流君も何も聞かず、時々話し始めると、いつまでもいつまでも貶し合いが続くこと以外は、段岭にとっても何とか我慢の範囲内だった。そして、段岭の方も舌戦が始まりかけた時に、うまく遮る技を習得した。それにより、半時くらいは耳を休めることができた。
三日目、耶律宗真が自らやって来て、部屋にいた三人を見た。
「準備できた?」段岭は庭に向かって歩きながら尋ねた。
雪が解けて、どこもかしこもぬかるんでいた。また少し暖かさが戻ってきている。三寒四温、本当の冬が来るまでにはまだひと月ほどの時間があった。
「準備できた。君の兵たちは配置についたか?」耶律宗真が言った。
「ついたよ。」段岭が答えた。武独が自分に約束したのだから、何としてでもそこに行ったことはわかっていた。
「元軍の宿営地を記した地図を持って来た。目を通してくれ。」
段岭は耶律宗真が手渡した羊皮紙を広げてみた。「どこから手に入れたの?」
「述律端が記憶をもとに描いたものだ。今夜、兵たちに宿営地を攻撃させる。そして君と私は一緒に敵陣の防御圏を突破して東南方面に逃げる。」
「うちの援軍はここだ。」段岭は、宗真は肩を並べて、地図上の黒山谷を指さしながら言った。「ここに二千人潜伏している。」
「充分だ。敵はこちらの動きに気づいていない。宿営地への襲撃が成功して、追手もうまく振り払えたら、君の援軍の厄介にもならずにすむかもしれない。」
「いや、相手がバドなら、そう簡単にあなたを逃がしはしないだろう。」
段岭は足を停めて、耶律宗真と見つめあった。
「どうしても難しそうなら、君は陳の国境内に戻ってくれ。私はここに留まり、彼らを引き付けて置く。あいつは君が私と一緒にいることは知らないのだから、わざわざ巻き込まれることはない。」耶律宗真がそう言うと、段岭は突然笑い出した。耶律宗真は不思議そうに、「何がおかしい?」と言った。
段岭が思ったのは;『あなたって人は本当に肝が据わっている。私がバドと結託していて、あなたを騙して城を出させ、彼に売るとは思っていないのか?』だ。
だが何故か段岭は宗真のことは信じられると思っていた。——宗真がバドに自分を引き渡して、その間にこっそりいなくなるとは全く考えていないのと同じように、宗真も自分がバドと結託して彼を陥れることは全く恐れていないのだ。
結局のところ、遼と陳は今や一蓮托生の状況だ。時には利益のための連盟は感情によるものよりずっと頼りになる。そのために友と戦いを重ねなくてすむのだから。
「あと一つ、君に手配してもらいたいことがあるんだ。」段岭は小声で耶律宗真に自分の計画を説明した。彼の部下には誰かを城から脱出させるとだけ告げて、それが誰なのかは告げずにいてもらうのだ。
「東と言って西を撃つ。悪くない考えだ。」耶律宗真が言った。
「それじゃあ、今夜決行だね?」段岭は小声で確認した。
耶律宗真が頷いたので、段岭は準備をしに戻って行った。まずは郎俊侠を隔離して、昌流君と鄭彦に計画の詳細を告げた。
「今夜、元軍は全兵力を東城門に集中させる。」段岭は落雁城の地図上に出て行く線を描いた。「その気に乗じて、二人とも、それぞれ落雁城防衛軍二百人と共に強行突破してくれ。全部で十隊、二百が五隊と、四百が五隊でバラバラに城を出る。」
昌流君:「……。」
鄭彦は大爆笑した。「全く君はやるよな!」
段岭は全部で十隊手配させた。そして彼らには、分かれて落雁城から逃げ出してもらうのだ。そうすれば、元軍にはどこの隊に宗真がいるのか見分けがつかなくなる。必死でがんばっても、あちこち振り回されるのが関の山だ。
「もし俺がここで捕まったらどうする?」昌流君が尋ねた。
「まあ私にはどうもできないな。」段岭は両手を挙げて答えた。
銭七と宗真、どちらがより重要か?一国の儲君という立場にある自分の場合、両国の友好のために……どちらかに重きを置かねばならないし、どうすべきか、心は決まっている。
後は、人事を尽くして天命を待つのみだ。
昌流君は令牌を持って出て行った。子の刻に西門で衛隊と待ち合わせて、銭七を連れて城を出るつもりなのだ。それについては段岭もできることは何もない。
段岭は次に鄭彦に言った。「烏洛候穆をどうしようか?」
「俺が連れて行く。心配しなくていい。」鄭彦が答えた。
「その後は?」
「鄴城に留め置こう。東宮に戻らせてはならない。そんなことをすれば、太子が疑心暗鬼になって何かまたおかしな謀を始めるかもしれない。」
それでは自分と郎俊侠の二人を守り切る責任を負うことになるが、大丈夫?そう聞こうとして段岭は考え直した。耶律宗真もただ者ではない。この数の兵を十隊に分けて強行突破するとしたら、隊の中に凄腕をたくさん入れているはずだ。そこに鄭彦もいるのだ。きっと安全だろう。
「わかった。」実の所、段岭は郎俊侠のことはおいて行きたかったが、そんなことをしたら、彼はどうなるだろうか?武独の解毒薬無しでは彼はただの凡人だ。勝手に生きて勝手にくたばってくれと言うようなものだろう。
第159章 約束を交わす
段岭の葛藤を見抜いた鄭彦が、暫くしてから「あいつを殺したいか?」と尋ねてきた。
段岭はびっくりして「殺せないでしょう?朝廷で報告する時に彼がいなかったらどうするの?」と言った。
鄭彦は長椅子の上に座って、手袋を取りながら、隠す様子もなく言った。「昌流君がいないから、君に言ってもいいと思うが、今奴を殺すのが一番安全だ。禍の元を断ち切れる。」
段岭は警戒した様子で鄭彦を見た。彼を甘く見過ぎていた。この男もやはり恐ろしい人間なのだ。」
鄭彦が言った。「例え今君が情けをかけたところで、あいつは結局死ぬことになる。ここで殺せば、五体揃った死体にはなれる。」
「どうしてそんなに彼の命を奪いたいの?」
「陛下のためだ。」鄭彦が答えた。「もし本当に太子が偽物なら、やつは手負いの獣のように陛下を殺そうとするかもしれない。」
「拘束しておけばいいんじゃない?解毒薬は武独が持っている。飲まない限り、彼には何もできない。」
「朝廷で断罪された時にどう出るかわからないだろう。もし姚復や謝宥を巻き添えにしようとしたらどうする気だ?」
段岭は答えた。「いや、ダメだ。事は重大だ。武独の同意なしにそんなことはできない。」
鄭彦は笑いながら言った。「今は俺たち二人だけ。知っているのは天と俺たち二人だけだ。
城を出る時に元軍に射殺されたとでもいえば、死人に口無し。誰も気にしないさ、王大人。」
「いや。それはわかっているけど、私は彼を殺したくない。」最後にはそう言ってしまった。
「君は何でそんなにあいつの命を守ろうとするんだ?」鄭彦が尋ねた。
「なぜなら簡単に殺せない人というのもいるからだ。この話はこれで終わりだ、鄭彦。」
(育ての親とかな)
鄭彦が本当に郎俊侠を排除しようと思えば、そもそも自分に意見を求めたりしないはずだということが段岭にはわかっていた。本気で行動に出られたら、自分に止められるはずがないのだから。つまり鄭彦は自分のことを、かなりの程度に尊重してくれているということだ。
段岭は鄭彦の手袋をとって、彼の手を見た。手の甲には白虎銘文の刺青が彫られていた。
手袋をはめてやると、鄭彦は笑顔を見せ、もうその話題には触れなかった。
そこで段岭は郎俊侠を部屋に呼んだ。郎俊侠は今のほんの短い時間に、生死の境を通り抜けたとも知らずに、ただ静かに立ったまま段岭をじっと見つめた。
「今晩、私達は出発する。」段岭は青峰剣を持ちあげ、そっと鞘から抜き出した。
「だから今私を殺すのかい?」少し乱れ髪の郎俊侠は何日もよく眠れていないようだが、こんな言葉さえもさらりと、まるで夕飯を何にするか聞くようにあっさりと口にした。
段岭は青峰剣を、その重さを計るように手に持ちながら、郎俊侠の傍に向かい、互いに黙ったまま視線を交わした。
私にできるとでも思っているのだろうか。なぜか段岭は嵐の瓊花院に郎俊侠が現れた時に、自分が彼に剣を向けた時のことを思い出していた。
それから段岭は剣を振るった。
郎俊侠の鉄製の手枷がカチャンと割れた。
段岭は青鋒剣を彼に渡し、「夜になったらあなたは私たちについて来て。死にたくなかったらどこかに逃げようなんて考えないことだね。」と言った。郎俊侠は青鋒剣を受け取ると、扉の外に出て行った。
鄭彦は着替えを始め、鏡を見ながら武服を整えた。段岭は落ち着かない気持ちのまま少しずつ暗くなっていく部屋でその時を待った。しばらくすると、部屋の外から相見歓が聞えて来た。郎俊侠はいつも笛を持ち歩き、青鋒剣の鞘の中に嵌めこんでいる。段岭は科挙の日のことを思い出した。宮中でも彼は笛を吹くのだろうか。蔡閏も聞いたことがあるのだろうか。
鄭彦は荷物を包みに収め終えると、部屋の角に腰を下ろした。黒一色の夜行衣を身につけている。この姿なら出発する時、夜の闇に紛れてどこへでも移動でき便利だ。
「君は少し休むといい。」鄭彦が言った。
段岭は相見歓を聞くと、ずっと昔に戻った様な気持ちになり、長椅子にもたれ架けたまま、だんだんと眠りに落ちて行った。
どのぐらいたってからか、氷のように冷たい手がそっと彼の頬に触れた。
「起きろ。」武独の声がした。段岭はまだ夢を見ていると思っていたが、熱い唇が押し当てられると、はっと目を覚ました。——武独だ!
段岭は目を見開いて信じられない思いで武独を見つめた。夜行服姿の武独が少し疲れたように微笑んでいる。「雪が降り始めた。もっと厚着しておけ。」
「どうして戻って来たの?」段岭はびっくりして尋ねた。
「黒山谷は秦瀧に護らせてきた。」武独は伸ばして来た段岭の手を避けて自分の手に触らせないようにした。「冷たいぞ、触るな。」
黒衣姿の武独は長椅子の端に座った。どこから城に忍び込んできたのか、武服は湿っていたが、その中の体は熱を帯びている。段岭は彼を抱きしめて何も話す間もなく、唇の中に舌を絡め入れた。
しばらくして息が早くなってきた武独だったが、段岭が一瞬唇を離したすきに言葉を挟んだ。「きっとお前たちはまだ城を出てないだろうと思っ、んん……。」
段岭が再び口を押し当てて来て、二人はそのまま口づけを続けた。
「さあさあ、ほらもう。」これ以上は制御不能になりそうだった武独は、「戻ったらまたゆっくり愛し合おう。さあ立って。行くぞ。」と言った。
「みんなはどうした?」段岭が尋ねると、武独は「外で待っている。俺はどうしても不安だったから、やはり来ることにしたんだ。」と答えた。
(“他们呢?”段岭问。
“在外头等着。”武独答道,“不来一趟,终究不放心。”
↑『彼ら』が『外』で待っているとは、落雁脱出部隊が門外で待っているのか、秦瀧たち、河間&鄴城兵が国境の外で待っているのか?『来ないと安心できない』のは武独のことだと思うけど、主語がないから違うかも。『彼らは?』『外で待っている。』宗真たちが門外で待っているのかな、と思うけど、『来ないと安心できなかった。』『どれだけ連れて来たの?』のやり取りの方は、国境外にいる鄴城兵のことを言ってるっぽいから、どっちだろう?)
「どのぐらい連れて来たの?」
「俺だけだ。」武独が答えた。「山の裏から入って来たんだが、危うく滑りそうになった。雪がまだとけきってなくて泥水だらけになってしまった。」
段岭は武独の肘の辺りが擦り切れているのに気づくと、薬をつけてやった。薬を塗り終えると武独は段岭の手を引いて、「行くぞ。」と言った。
二人は走廊を歩いて行った。武独はあちこち見渡して、「おそらく鄭彦は烏洛候穆を連れて東門で待っているはずだ。」と言った。
城守府にはもう誰もいなかった。何も気づかずに眠っていたとは。二人が府から出てくると、門の外で待っていた兵士が急いで告げた。「大人、陛下が東門でお待ちです。」
兜をつけていてわからなかったがそれは述律端だった。段岭はちょっと考えて、「甲冑を三人分用意してきて、東門で待っていて。」と言った。
耶律宗真の騎馬隊は既に東門に集まっていた。灯はつけていない。いたのは二隊で、一隊は元軍の注意を引く責を担い、もう一隊のほうに彼らが入る。
鄭彦は郎俊侠と一緒に一頭の馬に乗っていた。武独は段岭と共に奔霄に騎した。辺りは静まり返っている。数百名もいる兵士たちは何も言わずに、静かに馬上の二人を見ていた。
一般兵の皮甲を身にまとった耶律宗真が、こちらに来るようにと段岭に向かって手を挙げたが、武独は気にもせずに馬を横に向かせただけだ。奔霄がゆっくりと体を横に向けると、武独の体に片手を回した段岭が、逆に宗真を呼ぶ仕草をした。宗真は馬を御して段岭と武独の前までやって来た。「勇士よ、遼国の民に替わり、相救の恩に感謝する。」
(宗真おとなだ。)耶律宗真は遼語を使ってそう言った。(そこはちょっと意地悪)
武独は何か考えた後で、段岭の方を向いて眉を上げた。話せよ、と言っているようだ。
段岭は少し恐縮したようだったが、宗真は微笑みながら言った。「もしも無事に中京に戻れたなら、朕は皆に告げる所存だ。わが生涯尽きるまで上梓のようなことは決して起こらないと君にここで約束したことを。遼兵は今後潯水から一歩も出ず、河北の地を侵さない。そして、感謝の意を伝えるために、金三千両、銀一万両、小麦一万石、馬二千頭を奉じるものとする。」宗真が遼語で宣言した言葉を段岭が通訳すると、武独は少し表情を変えた。
「とりあえずは聞いておこう。」武独は呟いた。
耶律宗真の麾下兵が急ぎ足に近づいて来て、持って来た羊皮巻を宗真と武独に呈した。
段岭:「……。」
武独:「……。」
段岭も武独もまさか宗真が彼らと契約までするつもりだとは思わなかった!まだ墨の跡が乾ききっていない所を見ると、ついさっき、夜になってから書いてきたようだ。遼語、漢字両方で書かれた遼国による対河北不犯合意書だった!
武独の身分は河間校尉に過ぎない。理屈の上では遼帝と同等の立場に立つ資格はないのだが、宗真が感謝の意を示すために礼節を曲げたのなら、武独が辞退すれば逆に侮辱と見なされかねない。
段岭は武独と視線を交わした。武独は笑って「おもしろい。」と言った。
宗真の麾下兵が朱砂印を渡すと、武独はしばらく黙った末、親指を朱砂印に置いてから、羊皮契約書に拇印を押した。「御厚愛に感謝申し上げる。」
武独の身分では本来陳国を代表して約定を結ぶことはできない。だが陳国は武を以て建てた国だ。『在外における君命免除』の令という条文があり、郡守以上の武将は敵国と和平について会談した場合、天子に替わって君権を行使できる。例外は領地の割譲、賠償、政略結婚の三つだ。
宗真が手印を押し、兵士が二巻の羊皮紙を受け取って金帯でくるんで、一巻を武独に、もう一巻を宗真に呈した。武独はそれを段岭に渡した。
宗真は段岭に言った。「この者は述律端と言う。私の祖母の家の者で、述律家と我が耶律家は百年近く固い絆で結ばれた関係だ。私は彼を君に渡し、仕えさせようと思う。」
「それは……。」
段岭は一瞬断ろうとしたが、それは許されないと武独にはわかっていた。断れば両国の友好に亀裂を生じさせてしまう恐れがある。そこで顔を向けて目で合図した。
段岭は武独の言いたいことがわかり、頷いた。それはとても感動的なことだった。
「述律端。」耶律宗真は述律端を近くに呼び、双方は互いに馬から降りた。段岭が降り立つと、述律端は段岭に向かって片膝をついて忠誠を誓った。段岭は急いで彼を助け起こした。
「私に対するのと同じように彼に尽くす様に。」耶律宗真は述律端に言った。
述律端は大声で答えた。「はい!陛下!」
耶律宗真は視線を段岭に移して言った。「君は彼の命を救った。私がこの話をすると、彼本人も乗り気だったのだ。だが君も私に対するのと同じように彼を扱ってやってくれ。私は彼に何度も命を救われた。それに我らは共に育った一番の兄弟なのだ。」
そんな大事な人を耶律宗真はまるで「贈り物」のように自分に与えようとしている。段岭の習慣からは受け入れがたいことだった。だが断ることはできない。そこで前に進み出て耶律宗真を抱き、互いにしっかりと抱き合った。
「気をつけてね。」段岭は言った。
この夜を過ぎれば、そこからはずっとそれぞれの側に分かれることになる。こうしたことを耶律宗真は包囲を突破してからでも言うこともできたが、先にしたのは、不測の事態が起きた時のためだろう。
段岭は、兵士が持って来た三人分の甲冑の一つを武独に着せたが、鄭彦は、自分はいらないと手を振った。段岭は郎俊侠を指さして彼につけさせてと伝えた。流れ矢に当たるのを避けなければ。
守門軍が準備を始め、耶律宗真の衛隊と段岭は後方で待った。
「蛮公は自分の兄弟をお前に贈ったんだぞ。お前はお返しを渡さないのか?」武独は顔を横に向け、後ろにいる段岭に小声で話しかけた。
「一体何を。こっちは底なしの貧乏だよ。」段岭が答えた。
武独は更に後方に目をやり言った。「烏洛候穆を贈ってやったらどうだ。奴を返礼にして、仲良く暮らしてもらえばいい。もう返さなくていいと言ってな。」
武独が冗談を言っているだけなのはわかっていたが、段岭は思わず苦笑いした。
「包囲を突破する時になったら、忘れずにしっかりつかまるんだぞ。」武独の言葉に、段岭はすかさず武独の体をぎゅっと抱きしめた。横顔を彼の背中につけると、がっしりとした広い肩や背中の力強さが感じられた。
「今じゃない。」武独が小声で言った。
「以前みたいにコケないように気をつけてね。」
「あれはお前のせいだろう。」
第160章 包囲を突破する
遠くから戦いの叫び声が聞こえて来た。南門から出撃した部隊が元軍と正面切っての交戦を展開していた。そこへ伝令兵が城壁に沿ってやって来て火を掲げた。東門の番が来たのだ!
東門が開き、第一隊が突撃して行った。
段岭は心臓が喉まで上がってくるほどにドキドキしていた。あれは宗真のために命がけで敵軍を引き付ける任務を負った部隊だ。最後の一人になっても戦い、生きて戻れる可能性はほとんどない。
耶律宗真は頭に兜をつけて親衛兵の中に混ざり込んだ。冷静ながら、眼差しはとても複雑だ。彼は振り向いて段岭に視線を送った。
「あいつが死んだら、食料や金は返さなくても良さそうか?」武独が言った。
段岭はガチガチに緊張しているところに突然そんな言葉を聞いて、思わず笑い出した。
「彼は漢語がわかるからね。」
耶律宗真も笑い出した。
「それは失敬。」武独は気にすることもなく、耶律宗真に拱手してみせた。
耶律宗真が言った。「我ら遼人にはこういう言葉がある。『生と死は大河の両岸にあり、人の一生は渡河である。早く対岸につけば、それだけ楽だ。』」
段岭はずっと以前に父から習った歌を思い出した。
「天地を棺とし、日月を副葬品とす……。」
それは長城の麓にいた兵士たちがよく歌っていた歌だ。
「星辰を珠玉とし、万物を葬送品とす……。」
遼軍はこの漢曲を知っていて、その意味は分からずとも歌っていたのだ。曲は広野での死を謡っていて、天地が棺桶で、日や月は埋葬品の翡翠、星々は色鮮やかな宝石、つまり万物があなたを葬り出してくれると言っているのだ。
「吾に葬具はもういらぬ。何ぞこれにか加えよう……。」段岭は澄んだ若者の声で歌い上げ、静夜の如き穏やかな眼差しに笑みを浮かべて武独と見つめあった。
大門が再び開けられ、号令がかかった。
耶律宗真が笑いながら言った。「君たちのために先陣につこう。行け——!」
城外では元軍の掲げる火が夜空の下を昼間のように明るく照らしていた。
そこに大門が開かれ、鬨の声があちこちで上がり、大混乱となった。あちこちで激しい戦いが巻き起こる中、後発の奔霄が他を追い抜いて行く。武独は両足で馬を挟み込んで剣を抜き、段岭と共に、宗真の衛隊の後について、敵陣に突入していった!
段岭にとっては、これほど多くの元軍に立ち向かうのはこれが人生で二度目だった。
元軍は海の潮のように湧いて来る。だが耶律宗真の鉄甲馬は勇猛にも一瞬のうちに直接ぶつかって行く。包囲突破部隊は順番に城を出て行き、元軍にはまだ遼軍の意図が読み取れていなかった。宿営地襲撃が目的と読んでいたため、気づいた時には後陣のあちこちから火が立ち上っていた。
遼兵たちは、一隊、また一隊と突撃して行き、それぞれ元軍の防衛線に突っ込んでいくが、陣に穴が開きそうになる度に元軍が兵馬を補充して、対応してしまう。
段岭には目の前にどれくらいの兵がいるのか全くわからない。だが宗真は城壁の上に人を置いて観察させ、防御の一番薄弱な場所を見定めているはずだ。
鉄甲馬は拒馬冊を押し倒し、最初に迎撃してきた元兵たちをなぎ倒したが、すぐにまた新たな元兵たちに囲まれる。あちこちから叫び声が聞こえ、流れ矢も飛んで来る。落馬でもしようものなら一巻の終わりだ。
段岭は武独の腰にしっかり抱きついて、頭を背に埋め目を閉じた。惨叫が聞え続けるものとおもっていたが、彼の近くはとても静かだ。
理由は武独が手に持つ烈光剣だ。見る間に人を斬り、見る間に馬を斬る。武器を持って襲い掛かって来た者は武器ごと一気に真っ二つにされる。時には暗器を探り出してまき散らすが、その時には相手は声もなく落馬していった。
剣にも暗器にもウパスノキの猛毒が塗られていて、馬でさえも当たればその場で倒れて絶命する。暗闇に住む血に飢えた死神のように、ほんの少し触れただけで声もなくあの世へ葬り出されてしまうのだった。
攻撃の手を一瞬緩めて、武独が大声で叫んだ。「シャナル!」
段岭は手の力を強めて、まだ大丈夫だと伝えた。すると武独が叫んだ。「全員、息を止めろ!」
それから武独は鉄哨を内靭を込めて力強く吹いた。そしてその鋭い音とともに最後の防衛線を突破して行った。
耶律宗真と衛士たちは同時に息を止めた。轟くような足音を響かせて百数騎が包囲を突破すると、今度は千もの敵軍が猛然と彼らに襲い掛かって来た。
両軍が正にぶつかる瞬間、武独は両手を広げた。段岭を奔霄の背に伏せさせ、内力を込めて両手の薬粉を宙に撒くと、薬は音もなく空流に飛び散り広がって行った。
武独は逆手で段岭を引き寄せた。後方の兵士たちは同時に横を向き、体を戦闘馬の脇に隠し、体を固定して元軍突撃陣に備えた。(味方の馬も息を止めたのかな?)
その時、武器を高く掲げた元兵たちが薬を浴びてたちまち全員崩れ落ち、防衛線に突破口が開いた。武独は烈光剣を振り上げて、毒に当たった元兵たちの中を斬り開いて行き、最初に包囲網を突破した!
「出たぞ!」武独が叫んだ。
段岭はすぐに背後に向けて長弓を引いた。身をよじって弯弓を振り絞り、二人の後方に向ける。(逃げ若のパルティアンショットみたい。)
遼軍も防衛線を突破したが、元軍は毒に当たった兵士以外にもまだ数百人はおり、すぐに陣の穴を埋めようと襲い掛かって来ていた!
「甲冑を取れ——!」暗闇の中に、遼軍の声が響いた。
馬を疾走させながら、遼兵たちは手綱を体に引っ掛けて、馬につけていた鉄甲を全て取り去り、捨て去って、それから自らの鎧兜も全て捨て去った。甲冑を全て失うことにはなるが、おかげでずっと身軽になった。
すると元軍は矢を放ち始めた。その内の一矢が耶律宗真の横顔を掠めた。二矢、三矢とビュンビュン風を切って矢が飛んで来る。段岭は弓兵に照準を合わせて果断に一矢放った。
だが射たのは相手の馬の方だ。その一頭が倒れると、後ろの兵もそれに躓くからだ。
段岭は連射し続け、その度必ず一人が倒れた。
武独は準備しておいた毒矢を彼に渡した。蛇毒が塗ってあって当たれば即死する。段岭は振り返って馬を射続け、すぐに数十名の騎兵が倒れた。
「逃げきれた?」段岭が尋ねた。
ついてくる遼兵の数はどんどん増えて来るが、誰も気を抜く気配はない。
武独は振り返って、「ジョンイエン!」と呼びかけた。
「ここだ!」鄭彦の顔は返り血だらけで筋となっている。「昌流君が城を出たのかどうかは
わからない!」
「烏洛候穆は?」段岭が尋ねた。
「後ろだ!」鄭彦が答えた。
「あいつを逃がすなよ!」武独が叫んだ。
耶律宗真の親衛隊が上がってきて、翼を開いたように左右に展開して段岭の後を追っている。武独は速度を緩めて「お前たちの親玉は?」と尋ねた。
「私はここだ!」宗真の声が叫び返した。
百人近くを失ったが、親衛兵たちはみな無事だった。段岭が振り返って見ると、三頭の戦闘馬が後ろについている。その内一頭は述律端だ。
「怪我した人は?」段岭が再び尋ねたが、誰も答えなかった。きっと怪我していたとしてもみんなに迷惑をかけたくないと思うのだろう。何もないことを祈ろう。段岭は少しだけ力を抜いた。
「後何矢ある?」武独が尋ねた。
「十二本。あなたはまだ持っている?」
「控えめに射ってくれ。この毒を作るのはすごく大変なんだ。」武独に言われ、段岭は、うん、と答えた。空は黒い雲に覆われ、月が隠れて真っ暗で何も見えない。元軍に気づかれないように馬の蹄には布を巻いてある。
その時、近くで、再び叫び声が聞こえて来た。元軍一隊と遼軍が戦っているようだ。
「転向しろ!」武独がすぐに命じた。
だが遅すぎた。彼らを見つけた元軍が戦っていた遼軍を捨ておいて、彼らに向かって官道を進み襲い掛かって来た。急ぎかき集められたようで、二千人ほどだ。
官道は全て元軍で埋め尽くされている。彼らに向かって同時に矢を向けてきており、強行突破すれば間違いなく死ぬだろう。
「高粱畑に入れ!待ち合わせ場所に集合するぞ!」耶律宗真が叫んだ。たちまち兵たちは官道の両側にある高粱畑に散って行った。すぐに矢が飛んでくる。元軍も二手に分かれて高黍畑の中に入って行った!
暗闇の中あちこちから叫び声が聞こえ、矢が飛び交う。段岭の背中にも当たったが、白虎明光鎧のおかげで無事だ。だが武独の代わりにたくさんの矢を受けて背中が死にそうに痛かった。(ここから高黍畑という記述と麦畑という記述があるけど、高黍畑に統一する)
その時、ザザザという音がして、高粱畑を何かが駆け抜けて来た。
武独は剣を抜いた。危険を察知して急いで体を曲げて剣を振るい、キンという音を立てて、短剣を斬り落とした。それから剣を突き出すと、血霧が飛び散った。
歩兵だ!段岭は体が震えた。だが歩兵がこんなに速いだろうか?!
縄が飛んできて奔霄が倒れた。だが危機一髪のところで武独が段岭を片手で抱えて二人同時に馬の背から飛び降りた!
「起き上がれ!」武独は横往する力を借りて肩を奔霄の横に入れて再び立たせた。だが馬の背に上がろうとした時、背後から追手が段岭の前に長刀を抜いて斬りかかって来た。
武独ははっと振り返った。同時に段岭はさっと身を引き、その瞬間目の前の刺客の姿をはっきりと目にした!
黒衣姿の刺客、絶対に元兵ではない!
段岭は恐れることなく背負っていた弓を手で探り、刺客に対峙した。瞬く間に刺客は長刀を振るって来て、彼の腹部を斬りつけ、外袍が破れて中につけていた白虎明光鎧が現れた。
段岭は矢を刺客の顔めがけて放ち、それは皮膚を貫き血の花を咲かせた。刺客は一歩前に踏み出して、その場に倒れた。
武独は段岭をかばって剣を振るい、近くに潜んでいて襲い掛かって来た別の刺客を斬った。手に持っていた剣が落ち、刺客は高粱畑に倒れた。
矢が音もなく飛んできた。矢を射た刺客は奔霄に向かって行き、奔霄に蹴とばされた。
(さすが奔霄!)
「奔霄!走れ!」段岭は姿の見えない戦闘馬に向かって叫んだ。
武独は段岭の手を取って、高黍畑の奥深くに走って行った。
再び剣が向かってくる。武独は長剣を払って刺客を斬り殺し、剣を収めた。
そして段岭を背後に匿って、両手で無数の飛鏢(手裏剣)を放った。あちこちからうめき声が聞こえて、刺客はその場に倒れた。
「影の部隊なの?」
「怖がるな!俺にしっかりついていろ!」
だが次の瞬間、今度は元軍が襲ってきた。二人は高黍畑を駆けまわったが、味方を見つけることはできなかった。再び刺客の剣が襲ってきた。武独は大声をあげ、横を向いて高粱畑に入って行った。だがその時、元軍の一隊が襲い掛かって来た!
「武独!」段岭は焦って叫んだ。
暗闇の中、辺りは一片の混乱と化していた。危うく馬にぶつかりそうになった段岭を武独が突き飛ばし、おかげで元兵に腕を斬り落とされずにすんだが、段岭は頭を抱えて高粱畑の中を転がることになった。再び起き上がった時には武独がどこにいるのかわからなくなった。
彼は急いで弓矢を構え、身をひそめられそうな場所を探した。今武独の名を呼べば、刺客に気づかれて殺されるだろう。弓はまだ十一本残っている。少しの間なら何とかなるかもしれない。
黒雲が流れていき、月明かりが周囲を照らした。誰かが近づく音がする。また刺客だ。
段岭は何も考えずに、刺客が襲ってくる瞬間を狙って弓矢を構えた。
すると思った通り、人影が来た。空中で刀を抜いて宙返りして彼の頭に向かって斬りつけて来た。段岭は果断に矢を放つと一歩前に近づいて背中で刀を受けた。
矢は刺客の喉にあたり、空中で体を痙攣させて段岭の前に落ちて来た。刀を持つ力ももうなかった。
その時段岭の背後に戦闘馬が一頭走ってきたかと思うと、宙を飛び、段岭の首を狙って斬りつけて来た刺客を斬り落とした。
段岭が驚いて振り返ると、戦闘馬から誰かが下りて来た。その人が佩剣を抜くと白銀色の月光が剣に反射した。郎俊侠だった。
「行け。」郎俊侠が言った。
「烏洛候穆大人?」刺客が言った。
「行くんだ!」郎俊侠は怒りを爆発させて叫んだ。
「行こう!」鄭彦が馬を走らせて段岭の所で立ち止まると彼を馬に引っ張り上げた。