非天夜翔 相見歓 第116章ー第120章

第116章 天の計らい

 

蔡閏がいとまを告げた後で、牧曠達もすぐに退席を告げた。書房は静まり返り、残っているのは、李衍秋、武独、鄭彦の三人だけだった。

 

一辺の静謐の中、李衍秋が静かに口を開いた。「東宮に入りたがらないのは、その者ではなく、我が皇児のせいだろう。」

蔡閏が『児臣』を自称するように、李衍秋も蔡閏を『皇児』と呼んでいた。父親代わりの叔父であるという自負だ。李衍秋には実子がおらず、父として蔡閏に愛情を注いでいた。大臣たちはそれは規則に合わないと何度も忠告してきたが、李衍秋は聞く耳を持たない。叔父と甥は親子であるかのような呼称を改めようとはしなかった。

 

武独は喉元まで出てきた言いたい言葉を何とか飲み込んだ。

宮中のどこに敵がいるかわからないというのが、段岭と二人で分析した結論だ。李衍秋も例外ではない。本人だって信じているわけではないが、その言葉は武独ではなく段岭自身の口から出たものだ。

「そんなことはございません。臣は未だかつて仕官したことがなく、殿下のお気に沿わないのではと危惧しているだけです。この世には廟堂で生きることを良しとする者もあれば、江湖に生きることを良しとする者もおります。人それぞれということでお許し下さい。」

 

「お気に沿わないのは殿下ではなくてお前の方だろう。」李衍秋が眉を上げて答えた。

「皇児は一度ならず言っているのだぞ。お前を牢に入れたのは、文武百官の怒りを抑えるためだったと。恩赦の日を待って、お前に罪を償う機会を与えようとしたのはそのためだ。

白虎堂の後継者なら、お前はこの山河と栄光も屈辱も共にし、共存共亡すべきだろう。なぜそうも一国の後継太子に怒りを抱き続けるのだ?」

武独は沈黙を保ち、李衍秋の責めるような口調も全く意に介さず、ただ小さく息を吐いただけだった。

「山を下りて来て最初の年から、お前はずっと朝廷など眼中になかった。成長しないたちなのか、白虎堂の教えがそうだったのかは知らないが。」

武独は沈黙を貫いた。

再び長い時間が過ぎてから、李衍秋が口を開いた。「朕は聞いたことがある。伝説では二百年前にもお前そっくりの性格の者がいたそうだ。」

武独は表情を変えなかったが、それを聞いた鄭彦の方は意味が分かって笑い出した。

「私はこの山河と栄光も屈辱も共にし、共存共亡する所存です。」武独は答えた。

「そうだ。わかったか?」李衍秋が言った。

 

多くを語らずとも互いに了解していることがある。それを口にすれば、皇帝の威厳にかかわることだ。武独の身分は他の三人の刺客とは全く違う。彼は天下の刺客たちの総帥であり、彼が臣下となることは、江湖が李家に忠誠であることの象徴となる。

李衍秋にはよくわかっていた。先の皇帝——自分と兄の父であり、すでに他界している武烈帝も自分も甥も、誰も武独に与えるべき礼節を与えてきていない。かつて万里伏は鎮山河剣を手に、大陳開国太祖を助けて、乱世を平定し、異民族たちを駆逐して山河を修復した。

それは、表面上は忠誠だが、実際は共存だったのだ。

 

だが、自分は武独に同じような身分を与えることはできない。その理由の一つは、武独が若い時に山を下りた後で、正業に就かず、趙奎に身を投じたことが許せなかったためだ。

あれが原因で、皇族と白虎堂の間には密かに溝が生じた。

武独には何の力もなく、今や江湖とは、百年の治世を経て、既に名ばかりの存在になっている。この世の遊侠たちを集結したところで、波風の一つも起こせないだろう。

それでも彼の立ち位置はいつもそこにあるのだ。

彼の責任は大陳王朝を守ることだ。それは責任であって義務ではない。責任を果たさせようとすれば、礼を以て遇せねばならない。李衍秋は常に頭が痛む思いだった。長兄が生きていれば、武独はきっと臣服しただろうが、今の彼は自分にも太子にも、誰にも仕えず、ただ一つの失われた英霊にのみ服している。そのままにしておけば、面子を失うし、引き入れようとすれば嫌がられる。全くの八方ふさがりだった。

 

外から内閣官員の声が聞えた。「陛下、答案を見に行ったのですが、しかしながら……。」

「申せ。」李衍秋が言った。

鄭彦が扉を開けた。採点官自ら箱に入った巻紙を持って入って来た。中には水に浸かって溶けかけた薄紙があった。墨汁はにじみ出ており、紙はすっかりくっついてしまっていた。

李衍秋:「……。」

武独:「……。」

鄭彦はニヤニヤしながら摘まみ上げてみて、すぐに元に戻した。

採点官は水浸しになった木箱を地面に置いて、地面に身を伏せ、震える声で言った。

「連日の豪雨で、蔵巻閣が浸水し、四十一部の答案が入っていたこの箱が水に浸かってしまいました。王山の答案は見つかりませんでしたが、おそらくこの箱の中かと……属下は万死に値します。」

武独は苦笑しつつ李衍秋を見た。

李衍秋は一時途方に暮れた。天災なのだ、仕方ない。当然誰かが責めを負うだろうが、文官たちを責める気にはならなかった。

「謝宥に伝えよ。答案が水に浸かった受験生たちを全員宮に連れて来いと。今晩中にだ。」

(地方の受験生も合格発表までは近くにいるんだろうな。)

 

―――

外ではまだ雨が降り続いている。段岭は寝台に座って物思いに耽っているところを、一足先に戻って来た牧曠達に呼び出された。

「私はてっきりお前は武独に東宮入りを勧めてくれるものと思っていた。」牧曠達は侍女が持って来た茶を受け取り、段岭にちらっとだけ視線を移した後、蓋をとって、何口か飲んだ後、話を続けた。「太子少保という位は誰もが得られるものではないのだぞ。」

「私は……知りませんでした。そんなことがあったのですか。」段岭が答えると、牧曠達は茶杯から視線を一瞬段岭に移した。

「知らなかったとかいう問題ではない。今や陛下は直々に彼を召喚し、お前の答案までご覧になろうとされている。おそらく武独との交換条件をお考えなのだ。後でお前に宮廷入りの話が来るかもしれない。その時はどうするかわかっているな?」

段岭は動揺しつつも何も言わなかった。

牧曠達は言った。「みな、下がりなさい。」

 

牧曠達は他の者たちを下がらせ、部屋にはふたりだけとなった。段岭は口に出しては何も言わず、頭の中では快速で思考を巡らせた。『偽太子』の件については、段岭もその場で耳にした者の一人だ。あの夜以降、牧曠達はそのことについて何もいわなかったが、何か計画はあるはずだ。だがどういう手に出て、誰の手を借りて蔡閏を引きずり下ろすつもりなのだろうか。

 

武独を東宮常駐にさせれば、有利な駒として使える。武独は太子に接近して、証拠を集め、牧曠達に渡すことができるのだから。

思った通り、牧曠達が言った。「徒弟よ、こんな一挙両得なことを、なぜ断らねばならないと思う?」

段岭はこれはもう避けられないだろうと思った。再び拒否すれば、牧曠達はきっと疑心を持つだろう。そこで、「はい。武独が戻って来たら、必ずよく勧めてみます。」と言った。

牧曠達はようやく満足げに頷いたが、段岭の表情を観察し始めたため、段岭は少し不安に感じた。

「私はこの一生で、立った二人しか徒弟を持っていない。シャナル、お前は私と縁があるのだ。」

段岭は頭を下げ、地面に身を伏せた。

牧曠達が言った。「更に得難いことにはお前は我が意を酌むことができる。他の者では誰も、潼関でのような先に手を下し、後で奏上する、ということはできぬものだ。」

段岭は答えた。「全ては師父の教えのおかげです。」

牧曠達はそこで、話の矛先を変えた。「我が意を酌めるお前なら、これから何をすべきか、言う必要もないだろうな。」

段岭ははっとした。牧曠達がそんな話をしたのは、きっと自分と武独を東宮に送り込んで、証拠を集め、布石を置かせるためなのだ。

「はい。」段岭は答えた。

知らない間に、自分は牧曠達と同じ船に乗っていた。だが、いつの日か自分こそ本当の太子だとわかったら、牧曠達はどう思うだろうか。

 

外から昌流君の咳払いが聞えた。「相爺、鄭彦が来ています。」

 

「茶を飲み終えたら、色々まとめて、どうすべきかよく考えなさい。休暇は既に与えたし、渡すべき物も全て渡してある。何処に行って何をすべきかは自分で考えてみることだ。」

段岭は牧曠達の出した茶を飲み干し、彼に向かって一礼してから、出て行こうとしたところで鄭彦に廊下で出くわした。

「陛下が君をお召しだ。このまま行こう。」鄭彦が段岭に言った。

段岭には理由が分かったような気がしたが、わからないふりをして「どうして?」と尋ねた。

「食事に招待だな。」鄭彦が笑顔で言った。

 

段岭は鄭彦を見た。嘘か真か?だが、皇宮に入るとガヤガヤという人の声が聞えてきた。

既に日も暮れ、雨雲が垂れ込めて、廊下に雨が降り続く中、今夜の皇宮は何故か活気があるようだった。

「こっちにお出で。」鄭彦が言った。

段岭は遠めに人の群れを眺めた。ほとんどが若者のようだ。「彼らは何をしているの?」

「君には関係ないことだ。やたらと聞かず、きょろきょろもしない。」鄭彦が答えた。

鄭彦は段岭を殿内のある部屋に連れて行った。そこには机といすが一つずつあるだけだ。

「座って。」鄭彦が指示した。

段岭が座ると、鄭彦は出て行こうとした。段岭は本能的に危険を感じ、「え!どこに行くの?」と言った。

「すぐに戻って来る。」鄭彦の声が聞えた。

段岭が立ちあがって出て行こうとすると、鄭彦が「準備はできたか?」と聞く声がした。

「全て整いました。」侍衛が答えていた。

鄭彦は手に食盒を持って戻って来た。そして段岭の目の前に、四つの升に分かれた豪華な食事が置かれ、側には目に鮮やかな蓬の芽が入った白湯の碗が置かれた。升の一つは白米飯で、梨の花が一輪添えられていた。

段岭:「……。」

 

「まあ食べて。」鄭彦は椅子を持って行って扉の外に座ると、懐から酒瓶を取り出した。

「これは......何なの?」段岭はおっかなびっくり一口食べてみたが、何を食べたのかわからない。ただ信じられないくらいおいしかった。

「銭塘小炒肉、白菜の芯、新鮮なレンコンの九味詰めだ。ゆっくり食べて。喉を詰まらせないように。」鄭彦が答えた。

段岭は危うく喉を詰まらせそうになり、吸い物を飲んだ。鄭彦が再び言った。「それはフグの吸い物だ。俺が作った料理を食べたからにはもう俺のものだ。今夜を境に俺たちは房を共にする。武独は君を俺に譲るしかないな。」

段岭は汁を噴き出しそうになった。すぐに『お調子者め!』と思ったものの、次に思ったのは、『吸い物を噴き出さなくてよかった、もったいないことをするところだった。』だ。

 

今まで生きて来てこんなにおいしい物を食べたのは初めてだった。九つあるレンコンの穴には、それぞれ違う食材が詰め込まれていたが、何が入っているか分かったのは五つだけだった。豚肉、鶏肉、魚肉、腊肉と火腿(ベーコンとハム)。詰め込んでから紙のように薄く切られているにも関わらず、なぜか崩れたりしていない。白菜の芯はどうやったのか、花が咲いたような形になっていた。でも一番おいしいのは、小炒肉で、咬むと柔らかくもちもちして、いくらでも食べられそうだ。あっさりとした酸味が爽やかで食べやすい。

線香が半分燃えるまでの間に、段岭は食盒の中身をきれいさっぱり食べつくして、皿を舐めたいのを我慢したくらいだ。

鄭彦の作った料理を食べてしまったら、これまでの十六年間をなかったことにしたくなる。もし武独がこんな料理が作れたらどんなにいいだろう。

 

 

 

第117章 共に(与共)

(中中釈義によると、与共は、1. 何があっても別れない。2. 栄恥与共:116章で武独が皇帝に言っていた、栄光も屈辱も共にするの意味があるようだ。)

 

段岭は食べ終えると箸を横にきちんとそろえて置いて、食盒の蓋を閉めた。

「料理は論文と似ている。」扉の外にいる鄭彦がのんびりと言った。「食材の調和を考える。辛いだけ、しょっぱいだけではダメだ。時には食する人の背景を探る必要もある。その人の顔を観察し、好みを推測して良さそうなものを提供すると往々にしてうまくいくんだ。」

「覚えておく。あなたに嫁いだ人は他のどこにも行きたがらないだろうね。」段岭は笑顔で答えた。

鄭彦も笑って、からかうように言った。「食も色も同じだ。君がもし俺と付き合ってくれるなら、目覚めた時も、横たわっても、おいしく味わわせてやるし、座っている時も、寝台でも君を抱きしめて食べさせてやろう。人生で味わったことのない美味をね。」

一度鄭彦の話に耳を貸せば、こういうのがいつまでも続きそうだ。ただからかっているだけなのはわかっているけど。そこで話を変えることにした。「料理は国を治めるのにも似ているんだよね。大国を治めるのは小鮮を烹るが如しって言うし。」

鄭彦は食盒を片付け、代わりに文房具一式を段岭の前に置いて、問題用紙を開いた。

「さあ書いて。会試の答案巻紙が水に浸かった。陛下の命令で、今から新たにもう一度やり直すことになった。」

 

そんなこともあるんじゃないかと予想していた段岭はただ頷いて問題用紙を見た。そこには一言:甚雨に沐し 疾風に櫛りながらも 万国を置く

とあった。

段岭:「……。」

それは、《荘子雑篇天下》の一節だ。四書五経ではないので、読んだことがない人もいるかもしれないが、幸い自分は読んでいた。誰もが同じ内容の問題を与えられたのだろうか?これを問題とすることによって、どんなことを考えて書けばいいだろうか?

鄭彦も何も言ってはくれず、剣を胸に抱えて長椅子の背にもたれて仮眠を取り始めた。どうやら試験官として来ていたようだ。

 

これは今までの十年に学習した内容では役に立たない。段岭はふと再び父のことを思い出した。父さんは道家がすきだった。食事を作りながら、大国を治めるのは小鮮を烹るが如し、と言っていた。それに、武芸を教えながら、包丁(人の名)が牛を解くように、とか。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し、とか、足るを知る者は富むとかもよく言っていたっけ。

おかげで自分も道家が好きになって《荘子》を読んでいた。そこには、多岐にわたる逸話があった。九万里飛んだ鯤鵬、七竅のない混沌(中央を治める者)、泥に尾を引く烏亀、こぶだらけの木の話……。

 

『昔禹は洪水を煙め、河川を治めた。河は四夷九州にまで通じ、三百の主流、三千の支流の他、無数の小流となる。禹は自ら橐耜を操り、天下の九川を雑じえた。; 脚の肉は削げ落ち、水に浸かり続けた脛の毛は抜け落ちた。そして、甚雨を沐し、疾風に髪を櫛削られながらも、万国を置いたのであった。』

『櫛風沐雨(しっぷうもくう)』という言葉はここから来ている。(日本語にもあるらしい)

「これは陛下が出された問題なの?」段岭が尋ねた。

「いいから書き始めて。俺は粗野な人間だ。字なんか読めない。わかるわけがないだろう?」

「いや絶対読めるでしょう。」段岭は思わず苦笑いした。

鄭彦は笑みを浮かべた。「もし君が状元(一番)になったら、俺も君を師父として崇めるよ。」

 

段岭は黙って暫く考えた。李衍秋はなぜこれを課題としたのだろうか。今外で起こっている洪水被害を考えさせるためか、それとも他に意図があるのか?だが、出題した李衍秋の心をやみくもに探るのは止めることにして、『堵めるは疏す(分流)に如かず』の一文を書き、

大禹の治水から出典された課題に取り組み始めた。

今回は何の妨害もない。段岭はスラスラと筆を走らせ、千語近く書いたところで、婢女が灯をつけに入って来た。鄭彦の方はずっと微動だにせず、彫刻か何かのように座っていた。

 

段岭の心ははっきりしている。治水の道は治国の道に通じる。民意は水と同じで、水は船を戴くが、舟を転覆することもできる。船が順調に進んで行くか、洪水で転覆するか、うまく導くことで国を安定させることができるのだ。

書き終えると、ほっとして、武独はどこにいるのだろうと思い出した。鄭彦を自分につけてくれたのは彼なのだろうか?

「武独はどこ?」段岭が尋ねた。

「その辺で待っているよ。」鄭彦は答え、段岭が書き終えたのがわかると、答案を回収し、紙筒の中に入れて出て行った。

 

鄭彦が行ってしまうと、段岭はまた緊張してきた。どんな魔の手が自分のちっぽけな命を奪いに来るかわかったものじゃない。幸いすぐに武独がやって来た。どうやら二人は持ち場を交換したようだ。

「何があったの?」段岭が尋ねた。

武独は心中不安に感じながら、長い人差し指を唇の前に立てて、シッと言った。そして段岭と一緒に腰を下ろし、「まだ帰れない。陛下がお前の答案をご覧になってからだ。」と言った。

武独は声を押さえ、とても小さな声で経緯を話した。段岭は眉をぎゅっとひそめた。

「私はもう牧相に承知してしまった。どうしようもなくて、これ以上断り続けるのは無理だったんだ。どうしたらいいかな?」

「俺が何とかする。」武独は答えた。

 

「いっそ……今日やってしまおうか。」段岭はこのことでもうさんざんひどい目にあってきた。痛みは長引かせない方がいい。いっそのこと李衍秋の目の前で全てをぶちまけてしまいたいが、そんなことをしたら、その後の事態は予測できない。蔡閏と郎俊侠にどう対峙するかを考えなくてはならないのに、自分には頼れる物は何もない。あるのは元人から盗み出して来た二枚の答案用紙だけだった。

「巻紙はあなたが持っているの?」段岭が尋ねた。

武独は剣を段岭に見せた。剣鞘をずらすと紐が見え、その中から黄ばんだ紙の端が見えた。

段岭は深く息を吸いこんで頷き、紐を元に戻した。

 

「で、どうする?」武独が言った。

段岭は胸がどきどきしてきて、横から武独に抱きつき、その胸に顔を埋めた。武独は段岭を抱きしめて、「心配するな。誰にもお前に手出しはできない。分が悪くなったら、俺がお前を連れ出すから、二人で逃げればいいだけだ。」

段岭はまた深く息を吸いこんで首を振り、気持ちを落ち着けた。「状況次第だね。」

これは自分の人生における最大の挑戦なのだ。

 

「俺が皇宮勤務しなかったからといって、牧相に何ができる?急ぐことはない。誰もそこまで考えちゃいない。」武独はそう言ったが、段岭は暫く黙ったままで不安は募るばかりだった。「陛下とあいつが考えを変えてくれさえすれば、牧相も私たちに強いることはできなくなるはずなんだけど。」

段岭はだんだんと考えをまとめられるようになった。今日が絶好の機会かどうかはわからないが、少なくともまだ他に道は残されている。

 

「誰かが家に入った形跡があったんだよ。烏洛候穆は巻紙の存在を知っているから、きっと何か対策を考えている。あんな軽率な行いはしないはずだ。今日は思い切った行動に出ない方がいいかもしれない。彼らの罠に落ちるかもしれないから。」

武独は暫く考えてから、こくんと頷いた。

「鄭彦に何か言われたか?」武独が尋ねた。

段岭が首を振ると武独が続けた。「今日ふいに思い出したんだが、あの日戻ってから荷物を片付けているのを、鄭彦に見られたかもしれない。お前は気づいていたか?」

 

段岭はあの夜のことを思い出してみてから、ゆっくりと首を振った。確かにあの夜鄭彦はいたが、武独が箱に何をしまったのかわかっただろうか?そんなに気を付けていなかったのでは?その瞬間段岭は背中に冷や汗をかいた。——鄭彦は郎俊侠が鞘の隠し扉を開けたのは見ていた。あそこに——何かが隠されているかもと、いや、隠し扉なんだから、物を隠すに決まっている。『おやー、これはどういう手品だ?』確かそんなことも言っていた。

 

家での出来事と考え合わせて、鄭彦が武独に注意を向けていたなら、彼が箱に何かをしまっていたのを見ていたかもしれない。そして彼がとても賢ければ、その前の郎俊侠の表情、武独の反応、そうしたことから、推測できるかもしれない。武独が剣鞘から何かを取り出し、それを後で取り出したことも!

「鄭彦はいったい誰の味方なのかな?」段岭が尋ねた。

武独は答えた。「彼はあまりかかわらないようにしている。かつては姚復との関係から、姚候のためにだけ動いていた。聞いたところでは、先帝が以前一年間淮陰にいた時に、会ったことがあるそうだ。その後、皇宮で働くことになったんだが、どうした?」

武独は段岭を見つめた。段岭は鄭彦の立場を考えていた。もし彼の父がまだ生きていれば、

鄭彦は父と気が合う数少ない人の一人だっただろう。

だが、どうやら武独は少し妬けてきたようだ。「あいつに何もされなかっただろうな?」

「勿論何もされていないよ。」段岭は思わず苦笑した。それまでの重苦しい気分が一転しておかしなことになってきた。

「ちょっと調べさせろ。」武独は段岭を撫でまわした。段岭は小声で注意した。「ここは皇宮だよ!」武独があちこち撫でまわすので、段岭はちょっとおちつかない気分になってきた。そして武独は頭を下げて彼の唇に何度も口づけをすると、段岭の呼吸も早まって来た。

「もう家に帰りたいな。」段岭が言った。

「だったら、このまま出て行くか。」武独が言った。(だから渡り鳥とか言われるんだ)

 

他に誰もいなくて、何の悩みもない所に……。段岭の心は柔らかな暖かさを感じた。

何があっても退路はきっとある。そしてその退路には共に進んでくれる人がいる。

自分が誰であろうと、どんな身分であろうと。段岭でも、王山でも、李若でも……。

この人は決して自分から離れて行くことはない。

彼は武独を見上げ、伸びあがって自分から武独の唇に口づけをした。

武独はすぐに真っ赤になって、片手で鼻をつまんで横をむいた。照れて段岭を見られないようだ。段岭はおかしくなって、「何を真っ赤になっているのさ?」と言った。

武独は言い返す言葉が出て来なくなり、手を振った。その時足音が聞こえて、鄭彦がやって来た。「お~やぁ~?俺も混ぜてほしいなー。いい機会だから、君たちに色々と教えてあげられるよー。」

「失せろ!」武独が怒鳴った。

「話があるなら言って。」段岭は笑顔で言った。笑顔だが、心の中では鄭彦に探りを入れる準備ができていた。鄭彦も眼差しに笑みを浮かべて段岭を伺い見ながら、「陛下がお召しだ。」と言った。

来たか!段岭は気を引き締め、自分を見つめる武独に頷いて見せた。武独は「俺が送って行く。」と言った。鄭彦と武独は段岭を書房の外まで送り、鄭彦が腰をかがめて、「陛下、王山が参りました。」と告げた。

「入りなさい。」李衍秋の声がした。

 

頭の中では何度も演習していたはずの段岭だったが、書房に入った瞬間、頭が真っ白になってしまった。前回廊下で偶然出会った時も、自分は何も言い出せなかったが、今日にいたってもやはり何も言いだすことができないとは。

 

李衍秋の前に置かれた机の上には、段岭の答案が広げられていた。彼は答案の上から顔を上げて、段岭を見た。今回は段岭も李衍秋の容貌を子細に見ることができた。

彼は自分の父と瓜二つだった。眉も目も鼻も、会えなくなってから何度も夢に見たあの姿そのものだった。段岭は長い間我を失ってしまった。李衍秋を目にした瞬間から、夢の中に戻ったかのようだった。

段岭がずっと恐れていたことは、長い年月を経ていくうちに、知らず知らず父の姿を思い出せなくなってしまうことだった。それでは自分の中でともる命の灯を消してしまうことになる。かけがえのないあの光を。だが李衍秋の姿を見た時、心に愛着の様な感情が生まれた。

この人の前にいる限り、この人を通して、父の存在を感じられるのだという思いを。

その関係は互いの血の中にあるもので、決して失うことはないのだ。

 

「王山?」李衍秋が声をかけた。

段岭ははっと我に返り、床に身を伏せた。「草民王山、陛下に拝謁申し上げます。」

「今日以降、君はもう草民ではない。他の者の答案はまだ読んでいなくてもだ。朕にも意外だったが、最初に手に取ったのが君の巻紙だったのだ。座りなさい。君にいくつか聞きたいことがある。」

段岭は再び拝礼し、少し退いて、低台の後ろに腰を下ろし、李衍秋を見上げた。ちょうど李衍秋も視線を送って来たところだった。

 

 

 

 

第118章 水患

 

段岭にとって、今日は長い長い一日だ。早朝に城に戻り、夕方皇宮に来て、夜には試験を受け、いつの間にかもう時刻は四更だ。

李衍秋の方は更に疲労困憊だった。早朝から始まった群臣たちの舌戦は、退朝後も延々と一日中続いた。彼は疲労のあまり、背を靠れた。そうして、二人は互いに見つめ合ったまま、どちらも口を開こうとしなかった。

外では雨が降っていた。天の底を外したような大雨に、風の音が入り混じって、窓を打ち付た。

 

「あれは何の音だ?」ぼんやりとしていた李衍秋がゆっくりと口に出した。

「夜も更けて 臥して風雨の吹くを聴き 鉄馬冰川に入る 夢の来たるを。(陸游)」

段岭が吟じると李衍秋は思わず笑い出し、ゆっくりとため息をついた。

李衍秋はきっと武独から自分の来歴や、身の上、年齢、婚否などは聞いているのだろう。ということは聞きたいのは別のことのはずだ。

「あの文章は君が書いたのだね?」李衍秋が尋ねた。

「はい、陛下。」答えながら段岭は思った。勿論自分が書いたに決まっている。他に誰が回答を手助けできるというのか。

「君の文章は、ある人を思い出させる。」李衍秋が言った。

「それは陛下のお友達ですか?」段岭が尋ねた。

李衍秋が答えた。「その人は字を金の如く惜しむのか、あまり文章を書く方ではなかった。

だが、同じような話を彼も言っていたものだった。例えば、『大道を行くのは、唯だ畏怖を施す』のようなことだ。」

段岭にもよくわかっていた。江州に遷都してからも、暗流はいつも渦巻いている。少しでも注意を怠れば、大陳が長い時間をかけて築き上げてきた基盤さえ、いつ傾いてもおかしくない。李衍秋への圧力は甚大で、一国の重責が彼の体を押しつぶさんばかりだった。この点においては、牧曠達の存在が李家にとっては安心材料となっているはずだ。

 

内に良相はあれど、外に悍将は無し。目下の処、この王朝が抱える最大の憂慮は対外にある。段岭は信じていた。牧曠達は状況を落ち着かせる能力を持っている。長くても三年あれば、江州に集権させられるだろう。ただし、最後に権力を掌握するのが、牧家なのか、李家なのか、それはわからないが。(ま、後継ぎが牧磬なら、結局段岭を頼りにしそうだけど)

「今や世は平和で栄えております。陛下が賦役を軽減されたおかげで、人々は安らかな暮らし、家業に励めると期待しております。水害は一時的な患いでずっとは続きません。陛下はどうぞあまりご心配されすぎませぬように。」

「その通りだ。最大の憂慮はやはり北方にあるのだろう。」李衍秋が答えた。

 

李衍秋は段岭の答案を傍らに置いたまま、話を続けた。「『明珠の光は、決して蒙塵せず。』

君の答案を朕は読んだが、公平を期すため、まずは閲巻官に見せてから、世に知らしめることとする。質問は終わりだ。武独に入るようにと伝えなさい。」

そこで段岭は扉を開けて部屋を出て行った。ほんの短い対話だったのに、なぜか心が妙に落ち着いた。正式に顔を合わせたのはこれが初めてだったので、安心できたのかもしれない。

伯父と父、この兄弟は不思議な力を持っているようだった。例え天地がひっくり返ろうとも、それを平然と見られるかのような、つまり、彼らの傍にいれば、天が落ちてこようとも、何も怖くない、そんな気持ちにさせるのだった。

 

武独は段岭と視線をかわし、扉を押して部屋に入って行った。段岭は外に立って鄭彦に目をやったが、鄭彦は何か考えながら、廊下に落ちて来る水滴を眺めていた。段岭は御書房にいる武独の身を案じたが、李衍秋は大きな声を出したりはせず何かを説明しているようで、時折武独が小声で、「はい。」と答える声だけが聞えてきた。そして話は長くは続かず、李衍秋は「下がりなさい。」と言った。

 

武独は部屋から出てくると、鄭彦に軽く頷いて、段岭を連れてその場を離れた。

「何を聞かれたの?」段岭が尋ねると武独は、廊下に立って、蓑衣を段岭に帰させながら、「鎮山河の捜索はどうなっているのかと聞いておられたが……。」と言った所で、

急に話を止め、さっと振り返った。何かに気づいたようだ。「行くぞ。」

武独は段岭の手を牽いて、御花園をひとっ跳びに通り過ぎてから、数歩で皇宮の中に飛び込み、二つの建物の中の狭い隙間を通り過ぎた。時には段岭に横につかせ、時には後ろを歩かせ、更に何度も両側にある壁の高所に注意を向けた。

その時段岭にも見えた。壁の頂に人影がちらっと姿を現したのだ。

 

宮を出た時には豪雨による冠水で、水が奔霄の膝辺りまできていた。武独は先に段岭を乗せると、馬の向きを変え、宮壁の高所から、後宮の門壁を狙えないよう、背を挟んで防いだ。

「ハァッ!」武独は手綱を一振りした。奔霄は水中を縫って進んで行った。暗闇を破って対岸に向かって進む一艘の船のようだ。

 

相府にはまだ灯がともっていた。旅から帰った初日だと言うのにこんなにも色々なことが起こるとは。そしてずぶぬれになって戻った家は既に部屋まで水浸しにいなっていた。一日中まともに家にいられず、やっと寝られると思っていた段岭だったが、この光景を見たとたんにすっかり目が覚めてしまった。奔霄の方も、厩には横たわる場所がなくて、眠ることもできず、そのまま立っている他しようがなかった。

机の上に置いた荷物を片付けに行った武独に段岭は尋ねた。「さっきの追手は誰だったの?」

「影の部隊の奴だ。図々しい野郎め。もし雨が降ってなくてお前も一緒でなかったら、絶対に目にもの見せてやったのに。」

蔡閏が自分に対して手を打ち始めたのだろう。今日は尾行しただけで、様子伺いのためだったかもしれないが、ひょっとすると次は思い切った手段に出るつもりかもしれない。

 

「陛下はお前に何て言われた?」武独が尋ねた。

「特に何も。簡単に二言三言やりとりしただけで、よくわからないや。」そう答えた後で段岭は再び尋ねた。「そっちは、あの後、書房で何を話していたの?」

「考えを変えたとおっしゃった。」

「本当に?!」

 

武独が言った。「為すべきことをせよと、今まで通りでいいが、もう東宮に入れるつもりはないそうだ。今まで通りお前の傍にいるために、解決法を与えてくれるそうだ。それと、何日かして、水害の件にめどがついたら、俺に何か任務を与えてくれるらしい。おそらくは鎮山河の捜索のことだろう。」

「手掛かりはあるの?」段岭が尋ねると武独は首を振った。「だからお前に聞いたんだ。御書房内で、陛下とどんな話をしたのかと。」

「私は特に何も言ってないけど。」段岭は眉をひそめた。

「だったら変だな。」武独は寝台まで進んで行って両手で台を持ち上げた。「寝台の下に煉瓦を置いてくれ。夜ちゃんと寝られるように少し高くしておこう。」

段岭がかさ上げすると寝台はぐらぐら不安定になった。生まれて初めてこんな大洪水に直面して、どうしたらいいかもわからず、彼はただ武独と寝床に座っていた。下手に動いて寝台が水に埋もれてしまうのがこわかった。(奔霄は?)

 

「眠くなってきちゃった。」段岭が言った。

「寝ればいい。だが少し気をつけてあまり動くな。」武独に言われ、段岭は苦笑いしつつ、注意深く横たわった。

「明日はどうしよう。」段岭は武独を抱いて、肩にもたれながら呟いた。

 

自分の人生には予測のつかないことや、危険なことがあふれている。牧曠達、李衍秋、蔡閏……。たくさんの人や物が、複雑に錯綜した網を作って自分はそこから抜け出せず、糸を牽けば全身に絡まってくる。牧曠達にどう告げるか、蔡閏のたくらみをどうかわすか、李衍秋にどう自分の身分を証明するか。たくさんの難題に行く手を遮られ、壁に閉じ込められたかのように身動きがとれない。

「何も考えないで、もう寝るんだ。」武独が言った。

 

 

翌朝、太陽の光が差し込んできた。豪雨は過ぎ去ったが、江州は相変わらず水浸しだ。

江州だけではない。城外にある長江の水位はずいぶん高くなっていた。

「朝だぞ、起きろ!」武独が部屋の外から声をかけた。

起き上がった段岭の目に入ってきたのは煉瓦の上に置かれた木板の道だった。それは庭の照壁を越えて弯曲しつつ門を出るところまで続いていて、まるで小さな埠頭のようだ。

段岭は笑い出した。まだ朝だと言うのに、武独はいつの間に何の音もたてずにこんなことを成し遂げたのか。彼は外袍に袖を通し、腰帯をきちんと占めて、注意深く木板の上を歩いて行った。大門の外には小舟が一艘つけてあり、舟の上には炉が置かれて、お湯を沸かしているところだった。段岭が船に乗ると、武独は彼の髪を梳いて結ってやった。

「お前を遊びに連れて行ってやる。出航——!」

「ちょ、ちょっと待って!」

夕べの悩みは全てどこかに行ってしまい、段岭はふと閃いて、あることを思いついた。

 

 

百年に一度あるかどうかの大洪水が、遷都した最初の春に起きたのは絶対に不吉な兆しだ。城内では人々が不安な気持ちからそう囁き合っていた。だが高台に立てられた皇宮は水害とは無縁だった。

目覚めてすぐ、馮鐸からの報告を聞き、蔡閏は怒りに顔をゆがませた。

「あいつは御書房にどのくらいいたんだ?」蔡閏が問いただした。

「ほんのわずかな時間です。その後、部下たちに後を追わせましたが、武独に見つかりやむなく引き上げました。」馮鐸が答えた。

「答案は?」蔡閏が声を震わせた。

「まだ御書房内にありますが、陛下が既にご覧になっておりますので、これ以上何もできません。陛下は夕べ伝令され、国子監たちに夜のうちに答案を読んで、今朝には評録を始めるようにと命じられました。洪水を理由に、これ以上遅れさせないようにと。今日の午後には合格発表を行い、あさってには殿試の収集を行うそうです。」

「そんなに早くか?!」蔡閏は信じられないといった様子で言った。

「殿試が終わるのを待って手を下さねばなりませんが、そうなると……朝廷が任命した官の誅殺ということになりますが、殿下?」

蔡閏はまだ髪も下ろしたまま、殿内に立って、ハアハアと息をついた後、最後に言った。

「烏洛候穆を呼べ。お前は下がっていい。」

 

 

「ムーチーン(牧磬)!」

(伴読を卒業したせいか、会試に受かったせいか、急に呼び捨てになった。)

段岭は船に乗り、丞相府裏路地から屋敷中に向かって呼びかけた。武独は小船の船尾に立って船をこいでいた。

牧磬は二階の窓から身を乗り出し、段岭を見つけると、何だかおもしろそうだと喜びの声を上げて急いで階段を下りてきた。

「お金を持ってきてください!できるだけたくさん!」段岭が叫んだ。

「どのくらいいるんだ?!」牧磬が尋ねた。

「百両かな!お父上の書状を持って来ましたから、まずはそれだけ持ってきてください!」

昌流君が銀のつまった袋を持ってきて、ドン!と船の上に載せた。段岭と武独の蓄えの一部を合わせると、全部で二百二十両の白銀と、四十両の黄金だ。

 

三人は船に座り、武独が櫂を操って、小船は路地を出て、大通りに入り、城南へと進んで行った。江州の通りの両側では人々が苦しみの中に楽しみを見出そうとしており、皆、二階に棚を置いていつものように商売をしていた。船をこいでいる人も多く、子供たちは桶に乗ってあちらこちらへとこぎまわっていた。

江州が一夜にして竜宮城のようになるなんて。段岭はついおかしくなってしまったが、初めてこんな光景を見た牧磬の方は更に興味津々だった。

まず初めに武独は黒甲府に行った。ちょうど謝宥が船頭に立って、城の巡回に漕ぎ出すところだった。「謝将軍、承認印をお願いします。便宜のためです。」段岭は丞相府からの書状を手渡した。

朝起きてすぐ、段岭はまず牧曠達のところに行き、丞相名義で書状を出してもらうように頼んだ。城内の備蓄米を使って、食料の配給を行うことと、足りない時に使うために多額のお金を持ち出すこと。だがそれには謝宥の許可も必要だった。

 

ただし牧磬がいるので、彼が生きた令牌の様なものだ。(そんな時ばっかり呼ばれる牧磬)

謝宥は段岭を推し量るように見た。段岭の後ろには二大刺客がおり、丞相府の若君もいる。

そこで承認を出した上で、江州軍からも十艘の小船を出すことにした。

こうして段岭は十艘の黒甲軍船を率いることになり、自分たちの小船は一時留め置いた。

船隊はどうどうと出発し、米蔵に向かった。そして備蓄米を載せると、武独の指揮の元、あちこち曲がって、大通りや小さな路地を廻って食料を配給した。

ここは私の家であり、私の国なのだ。

段岭は被災者を船に乗せて高台に送ったり、自らの手で食料を配ったが、ふと顔を上げて、すでに大海と化した河辺を見た時、ため息をつかずにはいられなかった。

 

 

 

 

第119章 外患

 

城に入れずに高処で待機していた人々を見つけた武独が、櫂を伸ばして捕まらせ、船に乗せて城内に送り届けた。それから城門から暗い路地に入ると、段岭は路地の両側に向かって声をかけた。「誰かいますかー?聞こえますかー?」

路地の奥深くから老人の声が聞えた。段岭は二階の露台に一人の老婦人が座っているのを見つけた。ここは江州でも低地なため、水が二階にまで達していて、小さな板が上に出ているだけだった。老婦人は聞きなれない言葉で何か必死に叫んでいた。

「もう大丈夫ですよ!」段岭は老婦人に向かって言った。

 

武独はその老婦人を知っており、わずかに眉をひそめた。老婦人も武独のことがわかり、笑顔を見せた。武独はすぐに櫂を横に置いて、露台に上がり、彼女をおぶって船に連れて行った。老婦人は感激し、手を伸ばして段岭の頭を撫でようとした。段岭は頭を低くして、そのまま撫でてもらった。牧磬が彼女に笑いかけると、婦人は手を伸ばして牧磬の頭にも触れた。

 

ちょうど今さっき、黒甲軍が天下第一亭に小麦粉を渡した時、主人に糯米団子を一盒もらったところだったので、牧磬は食盒を開けて、老婦人に団子を食べさせてやった。

(あっさり書いてあるけど、この段階でまだ天下第一亭の主人のキャラ設定ができてないんだろうな。)

「彼女の家は水没した。すぐにでも黒甲軍に言って、高台に住居を見つけさせなければ。連れて行くわけにはいかないからな。」武独が言った。

「あなたは鮮卑人なんですか?」段岭は老婦人を観察し、どうやら鮮卑語を話しているらしいとはわかったが、鮮卑語で聞き取れるのは、ありがとう、や、おいで、くらいの簡単な言葉だけで、あまり話すことはできなかった。

昌流君は見知らぬ人を見るような眼で段岭を見つめ、「いったい何か国語が話せるんだ?」と言った。段岭は笑って、「以前、父にあちこち連れまわされて、みんな、ちょっとずつだけはわかるんだ。」と言った。

 

広いところまで出て行くと、一艘の船に立つすらりとした姿が目に入った。背中に剣を負い風を受けて立っているその人は、郎俊侠だ。

思いがけず郎俊侠に出くわしてしまった段岭は、無意識に後退しようとしたが、武独が肩に手をおいて、彼をまっすぐに立たせた。

「烏洛候穆!」牧磬が叫んだ。

郎俊侠は遠くから彼らに拱手し、部下に何か命じた。船は彼らに近づき、郎俊侠は老婦人に何かを鮮卑語で話しかけ、老婦人はゆっくりと答えながら、嬉しそうに笑顔を見せた。

「奴は何て?」武独が段岭に尋ねた。

「『あなたを迎えに来た。場所を変えよう。大水に浸かってしまったから。』」段岭が小声で言った。

 

「あなた方に感謝する。」郎俊侠は表情は変えないまま、身を乗り出して手を伸ばした。

老婦人は段岭たちに向かって頭を下げてから、郎俊侠の手をとった。郎俊侠は彼女を背負って甲板に乗り、去る前に振り返って段岭を見た。

船は互いにすれ違って離れて行った。段岭は心に不思議なざわつきを感じたが、昌流君と牧磬がいるため、何も言葉にできなかった。しばらくすると、彼らは黒甲軍との待ち合わせ場所にたどりついた。全員食料は全て配り終えた。多くはなかったが、少なくとも急場はしのげるだろう。

「私たちもここでお別れしましょう。お金は使い果たしたし、もう一度あちこち見て、助けられる人がいれば助けることにしたいと思います。」段岭は牧磬に言った。

牧磬は段岭に酉の刻には府に食事をしに来るよう約束させ、昌流君と一緒に別の船に乗って別れて行った。

 

後には武独と段岭の二人だけが残された。武独は船をこぎ、静かな水面を進んで行った。

城門を出てきた時には、城壁の上まであふれ出て城内に黄色い泥水となって流れ込んでいた水も緑色になってきていた。

「さっきのおばあさんは誰だったの?」段岭はようやく武独に尋ねることができた。

「あいつの族人だ。鮮卑人の。見てみろ、あそこに犬がいる。助けてやるか?」

水の上に何か白い点が浮き沈みしている。驚いたことにそれは必死でもがいている白い犬だった。段岭が口笛を吹くと、犬は彼らの方に泳いできた。そして船に乗ると、ぶるっと体を震わせて段岭と武独に水をかけた。武独がコラッと言って水に蹴落とすふりをすると、犬は急いで段岭の後ろに隠れて、舌を伸ばして武独を見上げた。

段岭は犬の頭をポンポンと叩いてやり、犬は嬉しそうに段岭の傍にうずくまった。

その後、舟は途中で助け出した、鳥数羽、猫一匹と兎二匹を載せて、暮れかけた頃、丞相府に戻って来た。

 

武独は胡坐をかいて座り、考えた末、話し始めた。「彼女の名前は費達といって、彼女の娘はかつて烏洛候穆と婚約していたんだ。当時、趙奎将軍は烏洛候穆の故郷に人を遣って長い時間をかけて調べさせた結果、最後に彼女を連れて来た。」

「そんな話、初めて聞いたよ。」段岭が言った。

「趙将軍は費達氏を人質にして烏洛候穆を操り、お前の首を取りに上京に行くよう命じたんだ。」(お前だって仲間だったくせに!)

段岭は郎俊侠が突然上京に現れた時のことを思いだした。

「勿論うまくいかなかったんだが。」武独が付け足した。

段岭は頷き呟いた。「そういうことだったのか。」

 

だが、段岭が深く考え始める前に、誰かが遠くから船で近づいて来て叫んだ。「誰かいますか?!手を貸して下さい!医者はいますか?すぐに医者を連れてきてください!」

武独と段岭は同時に顔を上げ、段岭の指示を待たずして、武独は小舟を漕いで、そちらに近づいて行った。乗っていたのは江州近辺の民で、征北軍の甲冑をまとった兵士を載せていた。

甲冑は既にボロボロで、兵士は船の端にもたれ、弱りきっているように見えた。

「彼はどうしたんですか?」段岭が尋ねると、船に乗っていた人物は、「病気なんです。あなたは誰ですか?」と尋ねた。

段岭は急いで兵士の脈を診た。兵士は高熱を出して意識が朦朧としていた。連れて来た人の話によれば、彼は北方から来た信使で、鄴城からの報せを持ってきていた。重大な事態が起きてすぐに皇帝に報告しようとしていたが、あちこち回っている間に江南での連日の暴風雨に合い、風邪をひいて高熱を出し、最後には意識を失ったということだった。

 

 

雨が止み、江州に本格的な夏がやって来た。皇宮の門まで迫った洪水の上を日光が照らし、いつの間にか蝉も鳴き始めて、人の心をイラつかせた。東宮内はしけっぽい匂いがして消すこともできず、まるで内側から朽ちはじめ、かびてきているかのようだ。

 

「江州にいる限り、もう彼に手出しはできませんよ。」郎俊侠が言った。「武独にも昌流君にも気づかれずに手を下すことは不可能です。下手なことをすれば陛下の疑いを招くことになるでしょう。信じられないのなら、試しに影の部隊を動かしてみればいい。武独に死体の山を築かせ、それが朝野を脅かせば、彼の正体を世に知らしめることになるでしょうね。」

蔡閏が言った。「郎俊侠、私を騙したな。」

郎俊侠は何も言わず、勝手に茶を飲んだ。

「その気になれば、お前には人を殺す手段は山ほどあるはずだ。できないなんて信じられない。あの夜も、本当は殺す気などなかったんだろう、違うか?」

郎俊侠は相変わらず何も答えない。

「何とか言えよ!」蔡閏は怒りを爆発させ、気が狂ったように咆哮した。

「そうだ。」郎俊侠がようやく答えた。

蔡閏は瀕死の魚のように口をパクパクさせ、途切れ途切れに声を出した。「よく……わかった。私だって……わかっていたさ……お前に騙されて……いたことは。」

「一番の問題だけ解決させればいい。たった一つだけ方法があるが、馮鐸に考え出せるとは思えない。」

蔡閏は一縷の希望を見出したように、震える声で言った。「何をするんだ?教えてくれ。どうすればいい?」

 

郎俊侠は蔡閏に向かって眉を上げて答えた。「外に出てあなたの民を見に行くべきです、殿下。さっき私は大通りで、一国の皇子が丞相の世子と共にあちこち回って人を救い、民に食料を与えているところを見かけましたよ。」

怯んでその場に立ち尽くした蔡閏に向かって、郎俊侠は恭しく拝礼した。ちょうどそこへ鄭彦がやって来た。

「陛下より、偏殿で議事があると太子にお伝えするようにとのことです。鄴城から緊急の軍事情報が届いたからと。」

 

 

李衍秋が『王山』に会うのはこれで三度目だ。

太医が例の兵士に対応し、臣下たちはがやがやと話をしている。夕べ殆ど寝られなかった李衍秋にとっては、その声は頭痛を起こさせた。

 

陽光が外から入って、一本の光の道を形作った。その光の中、段岭は武独の後ろに立って、周りを見回した。こういう場に立つのは初めてだ。文武百官はまだ全員そろっておらず、

六部尚書も半分くらいしか来ていない。太医が兵士に針を打つ様子を武独は横目で眺めた。

先ほど兵士がうわ言のように言った言葉を聞いて、武独はすぐに人を遣わした。そして牧曠達に段岭が話を伝えると、牧曠達は兵士が目覚めなかった時に代弁させるために、段岭をその場に留め置いた。(牧府に行ったんなら、牧磬に夕食無理と言ったかな。)

 

蔡閏が現れると、朝臣たちは一瞬静まった。

「申せ。」李衍秋が命じた。

段岭は進み出て、兵士の額を触った。——焼けるように熱い。

「陛下、殿下。大人各位、彼は鄴城の守将です。北方より一路、緊急軍事情報を持って、朝廷に知らせに参りました。」

謝宥が尋ねた。「何と言ったのだ?」

段岭は顔を上げて、御座の傍らにいる蔡閏を見た。陽光が入ってきてちょうど蔡閏の顔をはっきりと照らしていた。

「先ほど彼は何度も同じ言葉を口にしておりました。それによると、一月前、元軍が鄴城外にやって来て、夜間に奇襲を行い、鄴側は大敗したとのことです。胡将軍は壮絶に殉国を遂げ、呂大人は敵陣に捉えられ生死不明です。」

 

一同は小声で話し合い始めた。牧曠達はしばらく黙って考えていたが、李衍秋に向かって言った。「これは先日の元国使者の一件と関係があります。あの時、元は玉壁関下百二十里を、鄴、河間、二城と交換することを提案してきました。こうして見ると、あの時何も得られず戻ったことで、却って強硬手段に出たようですな。」

老臣が一人、一歩前に出て言った。「陛下、征北軍の主力は玉壁関を守っており、鄴、河間に援軍を送る余裕はありません。今年の春に大規模な軍備削減を行ったばかりですが、江南の災害復興を待って、地方軍事力を強化するしかありません。」

 

蔡閏が言った。「河間、鄴は大陳北方の重鎮だ。西は遼国、北は元国と接している。絶対に失うことはできない。辺境でこんな大事が起きたことを、なぜ今になって知らせて来たのだ?!」

一同は沈黙した。段岭は老臣を見た。牧曠達が自ら話し始めた。「オゴタイにはこの二城を取る気はなかったはずです。鄴城は長城の外にあり、商業も盛んではなく、ずっと自給自足状態です。年初の裁支の際、鄴城太守呂質大人からの文書を受け取りましたが、特に何も動きはなかったはずです。おそらくは元が計画を変更し、一時的に軍を動かして、二城を

一気に取ろうとしたのでしょう。王山、信差は他に何か言っていたか?」

段岭は首を振った。「他には何も言っておりません。早く回復させて、意識を戻したらまた詳しく審問すべきかと存じます。」

 

朝臣たちはみな賢い。今の話だけで、状況が推測でき、その場面さえ思い浮かんだ。

——元軍が奇襲をかけた。速戦速決の力技で突然鄴城を攻撃した。鄴城太守と将軍は抵抗したが、最後には、一人は壮絶に殉国し、一人は行方不明だ。おそらくは捕虜になったのだろう。

「現在どれだけの兵がいる?」李衍秋が尋ねた。

蘇閥が前に進み出て腰をかがめて言った。「前年の七夕以降、辺境の軍事費は大規模縮小しており、今年の春以降は、三千の屯兵を想定した軍事費を渡しております。鄴に二千、河間に千。」

 

三千人分の軍事費はその後いろいろと削られる。太守や将軍府での使用人の賃金もここから捻出される。最後には二千人も難しいだろう。李衍秋は昨年秋に恩赦を行い、今年の春には、兵役を解いて農務に返しており、五万編成だった征北軍は僅か数か月の間に三万人に削減された。他に援軍を送る余力は残っていない。

「おそらく呂質はまだ生きているだろう。もし朕が彼らならすぐに殺さず、鄴城軍を動揺させたり、拷問して辺境の機密をしゃべらせる。」李衍秋はさらりと言ってのけた。

誰も何も言わない中、李衍秋は話を続けた。「この事態は起きてからすでに何日も立っている。あと一日たったからと言ってそのせいで辺境が落ちはしないだろう。まずはここまでとし、再び話し合うこととする。」

李衍秋は立ち上がり、群臣たちも出て言った。蔡閏に至っては段岭を見ようとさえしなかった。

 

文武官員たちが帰った後、牧曠達と謝宥はすぐに御書房に向かった。李衍秋と計画を立てるためだ。それぞれに悩みがある。正に内憂外患が一度に起こったと言える。高熱を出した兵士はそのまま殿内に残されて横たわって喘いでいた。段岭は武独に背負わせ、兵士を連れて皇宮を出るほかなかった。

本来なら兵部に引き渡すべきだが、城内の大水のせいで、どの部も余裕がなかった。それにこんな重病の兵士を兵部に残していけば、誰にも看護されずに死んでしまうかもしれない。

 

「彼を連れて帰って看病してもいいかな?」段岭が尋ねると、「当然そうすべきだ。」と武独は言って、兵士を背負って船に乗せた。水はだいぶ減ってきて、前ほどの恐怖は感じなかった。

 

 

 

第120章 はかりごと

 

家に帰ってみると、水は庭から引いていたが、どこもかしこもひどい有様だった。

段岭は武独がいつも座っている長椅子の上に兵士を横たえた。そして針灸を施し、薬を用意した。何とかして熱を下げてやらなくては。兵士の皮甲を脱がせてみると、太腿に矢傷があり、腹部にも刀傷があった。傷口がジュクジュクと炎症を起こしているので、おそらくは道中で傷薬をきらし、雨に打たれたせいもあって、内側から体を冷やし、外傷から感染してこんなに重症化してしまったのだろう。

 

「王殿!」小間使いが一人、水の中を歩いて来て、門の所から叫んだ。「合格発表が張り出されました!若様があなたにお知らせするようにと。」

薬の調合中だった段岭は「合格だった?」と尋ねた。

武独は動作を停めた。

「会試七位でした!」小間使いは笑顔で言った。

「そう、よかった。」段岭は兵士の病状を考えていた。兵士と言うのは一般に体が強いはずだ。一番強い薬を使ってもきっと大丈夫だろう。

小間使い:「……。」

武独が段岭を見て笑ったので、段岭ははっとした。「祝いの金一封を渡すべきだった?」

武独は懐から紅封を取り出し、段岭に渡した。段岭は受け取ると、小間使いに渡してありがとうと言った。そして夢から醒めたように言った。「先に結果を知っていたの?」

武独は真剣な表情で言った。「知らなかったが、きっと受かると思っていた。」

 

段岭だってやっぱりうれしかった。しばらく放心してしまう程度には。おそらく大陳開国以来、太子自らが科挙に参加して、それなりの順位になったのは初めてだろう。

「だけどこれって……私の論文がうまくできてたから、合格したということなのかな?」

段岭は考えてみた。今それほど興奮していないのは、きっと試験のやり直しのせいで李衍秋に会えたせいだ。あの時既に興奮しすぎてしまったせいなのだろう。

「しぃっ。」武独は長椅子に横たわる兵士を指さして、気をつけて話すようにと合図し、それから段岭の所まで歩いて来ると、隣に膝をついて座り、横から彼の目を見ながら顔を近づけた。

段岭は何か話があるのかと近づいたが、武独は段岭の唇に口づけをしてきた。段岭は顔を赤らめた。武独は彼の腰に手を回し、舌を絡ませ始め、段岭の心は彼の口づけに浸っていった。

武独は考えを巡らせ、難しそうにひそめた眉を上げて尋ねた。「確か前に、合格したら俺に頼みがあると言っていたはずだが、何だったんだ?」

段岭はその時考えたことを思い出して、たちまち恥ずかしくなった。そしてややしばらくもじもじした後で、「あれは……何でもないんだ。」と言った。

すると武独は段岭の耳元にささやいた。「殿試が終わったら、あることをお前に教える……。」

段岭は思わず唾を飲み込んで、武独を見た。その時兵士がひどくせき込み始め、目覚めた。

二人はぱっと離れた。兵士は目を開けると、「水......水を。」と言った。

 

 

黄昏時、雨上がりの空気は爽やかで、空は血に染まったかのように赤かった。

東宮廊下では風鈴がチリチリと音を立てていた。

「臣に一計がございます。ひょっとすると殿下が王山を排除できるかもしれません。」

「言ってみろ。」蔡閏が言った。

馮鐸はしばらく考え、殿内を歩き回りながら言った。「どうやら王山は会試に合格し、明日にはもう殿試を受けるでしょう。三甲に入るか否かにかかわらず、貢士という身分は確定します。」

馮鐸は意味深長な視線を蔡閏に送ったが、それ以上何も問わず、蔡閏は少し気まずげに目をそらした。「この者を排除するなら、事故が起きたようにした方がいいでしょう。そして、その事故は都では決して起こさず、その場所は遠ければ遠いほどいいでしょう。」馮鐸が言った。

「その通りだ。話を続けよ。」蔡閏が言った。

馮鐸が答えた。「絶好の機会を得るためには、彼の者を三甲として、進士に及第させます。」

「その後は?」蔡閏が考え込みつつ先を促した。

「そうすれば、彼には二つの選択肢が与えられます。翰林院に入るか、官となってよそに出て行くか。歴朝歴代、そうなっており、これは規則となっております。殿下は、彼の答案をお読みになってから、陛下に進言されるのです。この王山と言う人物は、国を安らかに治められる器だ、翰林院で書類仕事をさせるのは、宝の持ち腐れになる、と。そうすれば、我らは首尾よく彼を追い出すことができましょう。」

 

蔡閏に笑みがこみあげて来た。霧が晴れて、糸筋の光が見え始めたかのように感じた。

「いい考えだ。あいつを県丞に据えれば、後は影の部隊に殺しに行かせればいい。そうだ、そうしよう!」

馮鐸が言った。「そのためには、じゃまになる武独をうまく都に留めておかねばなりません。

何としてでもついて行かせないようにしなければ。」

蔡閏はしばらく黙って考えてから、ゆっくりと首を振った。「武独は招きには応じない。彼はきっと王山と共に行くだろう。」蔡閏は考えていたところに、馮鐸の疑惑に満ちた視線を受け、言い直した。「武独は偏屈な一匹狼で管理されるのを嫌うたちだ。今までも官職を受けて来なかった。」

 

「それでしたら、牧相に命じて何か理由をつけて武独を留め置くようにさせてみては?」

蔡閏は眉をひそめて黙り込んだ。そしてしばらくしてから、「武独がいつも王山と行動を共にしていれば、奴を殺すことはできないと?」

 

馮鐸が答えた。「それには烏洛候穆の協力が必要でしょうな。ですが、地方に行けば勝手が違うので手を下しやすくはなりますし、牧曠達の視界の外に行けば、何度も襲った所で、疑問に思う者は誰もいません。胶州辺りに送れば、倭寇のせいにできるのでやりやすくもなりますし。」(おいこら)

 

蔡閏は肩の荷が下りた気分になった。段岭をどこかとんでもない僻地に送り込んでやろう。そして影の部隊に総攻撃させるのだ。一度ではうまくいかなくても、二度三度とやっていけば?いくら相手が用心深いと言っても、所詮はたった二人きりではないか。

「もし武独がついて行ったら、どのぐらいの確率でやれる?」蔡閏が尋ねた。

「十割です。ただしその場合は武独も一緒に殺さなくては、いつか事実を知って復讐しに来るかもしれませんので。」馮鐸が答えた。

「全てお前に任せた。」

蔡閏は日が落ちて薄暗くなった殿内に腰を下ろした。

(こいつ武独よりバドが国ごと攻撃しにくるのが怖くはないのかなあ)

 

 

日暮れ頃、武独は兵士を助け起こして長椅子の背にもたれさせ、段岭は彼に薬膳粥を少し食べさせた。幸いにも兵士は意識を取り戻し、自分は孫廷だと名のった。鄴城の生まれで、十六歳で軍に入り十数年兵役を続けている。かつて軍の再編成があった時に、李漸鴻についたが、李漸鴻が兵権を奪われて後は、征北軍の再編成に伴い、鄴城に戻されて、辺境の守備についた。鄴城、河間、昌州三城では長い間戦乱はなかった。それなのに、一月前、突然元が万の兵を連れて攻めて来た。大敵は止めたが、その代価は惨憺たるものだった。

 

「兵を率いていたのは?」段岭が尋ねると、孫廷は、「ファルツァ(花尔擦)という名の元人でした。」と答えた。

知らない名だ。段岭は再び、「どこの部の所属なの?」と尋ねた。

「オゴタイです。ですが、もう帰って行きました。一夜のうちに誰もいなくなったのです。」

孫廷が答えた。

元人はいつもそうだ。彼らは長城に沿ってあちこちの城を攻撃しては草も生えないような状態にして、村落などには火を放って焼き放ち、すっかり殺しつくすと、また他の場所に食料を奪いに行くのだ。

段岭は眉をひそめて言った。「彼らはきっとまた来るね。でも朝廷はあなたたちに兵を送る気はないみたいだ。」

「なら、どうしろと?万が一鄴城が落ちたら、河間もおしまいです。昌州だって無くなってしまう。河北郡は全て破れて、元人の手に落ちてしまいます!」

「太守は?」段岭が尋ねると、孫廷は首を振った。

段岭は励ますような言葉をいくつか言って、彼を横たわらせ、明日もう一度陛下の元に連れて行くと約束をした。

 

雲一つない夜、段岭は深く眉を顰め、眠ることもできずに、門外に座り、武独の体に身を靠れさせて、鄴城をどうすべきかについて考えた。

朝廷はやる気がないわけではなく、本当に兵に余裕がないのだ。玉壁関の防衛軍を引き抜けば、遼が虚を突いて入って来るだろう。そして大臣たちは後知恵を言い合うだけだ。『ほら見たことか。初めから元使の要求を呑んで、鄴城と河間を与えていれば、こんなことにはならなかったのに。』

「謝宥に会いに行くか?鄴城に兵を送って状況を落ち着かせろと。」武独が言った。

「ううん、彼じゃダメだ。頼るなら玉壁関にいる韓濵だ。」段岭が答えた。

「韓濵って誰だ?」武独が尋ねた。

段岭:「……。」

 

段岭は思わず苦笑いした。「忘れちゃったの?韓濵はかつて私の……私の……先帝の征北軍虎威将軍だった人だよ。」

それで武独も思い出した。牧曠達がたった一言言っただけなのに、段岭は覚えていたのだ。

韓濵と辺令白はかつて、征北軍の左腕と右腕だった。彼なら辺塞の状況に詳しい。趙奎の死後、辺境の防衛体制が変わっても、ずっと守り続けてきた人だ。彼なら敵との正面交戦も可能だろう。謝宥軍は五万とは言っても、みな南方出身の兵たちだ。短時間での決戦なら可能かもしれないが、長期間駐留しての防衛には不向きだろう。

 

河北郡には六城あったが、上梓の盟以降、上梓より北の、通城及び虎丘三地は遼のものとなり、南の昌州、鄴城、河間が陳に留まった。その後、遼は元に敗北した。チィチを救い出したあの年、河北三城は元のものとなった。

あの郡のことは、ずっと名前も忘れていたけど……それでも何があっても守り抜かねばならない。

 

彼は武独の体にもたれて眠りに落ち、翌日、孫廷に起こされて目を覚ました。

「ここな若様、今日は陛下に謁見できるのですか?もし陛下にお目に掛かれないのであれば、某はもうこれで失礼致します。」

孫廷の家は未だ鄴城にある。彼はまず西川に行ってしまい、そのまま都に向かった。成すすべもなく、兵部に行くべきか、戸部に行くべきかもわからなかったのに、陛下に謁見とは?

普通なら四五年都でねばったところで、そうそう謁見などできるはずもない。

段岭は欠伸をしながら、「今何時くらい?」と尋ねた。

庭で剣の修練をしていた武独が、「まだ早い。起きて来て朝飯を食べろ。」と言った。

 

段岭は孫廷に言った。「あなたは家で待っていて。今日私は殿試があって皇宮に行かなくてはならないんだ。帰って来たら絶対にあなたにはっきり答えるから、私が用意した書状を持って帰ればいいよ。」

孫廷はまさか段岭が貢士だったとは、しかも未来の三甲だとは思いもよらず、急いで腰を折って拝礼しようとしたが、段岭はそれを受け付けず、逆に彼に対して礼を返した。父の部下だったなら、自分より目上だし、父への恩義もあるのだから。

 

朝食を終えると、武独は段岭を英和殿の外まで送っていき、いつも通り、黒甲軍に止められた。「今日は殿試がある。関係ない者は一律に立ち入り禁止だ。」兵の一人が言った。

完全にぶちぎれた武独は怒りのあまり逆に笑い出した。「わかった。よーくわかったぞ。」

段岭は武独が本気になって江州軍全員を壊滅させないように、急いで言った。「大丈夫だよ。私はもう行くから。」

武独が手を上げると、二人の兵士は怖がってさっと身を引いた。どうやら警告を受けているようだ。だが、武独はその手を段岭の首の後ろに当て、顔を近づけて小声で言った。

「俺は先に宮中に行って、謁見を申し出ておくからな。」

「わかった。」段岭は肯頷した。

いくら蔡閏でも、さすがに殿試会場でおかしなことはできないだろう。段岭と武独は視線をかわし、武独は手を振ってから、自分の胸を指さした。気をつけろ、身を護る武器は持っているだろう、という意味だ。段岭はこくんと頷いて、兵士について入って行った。